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唐宋変革期

1 :世界@名無史さん:2017/10/04(水) 19:46:47.62 0.net
中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。

その変化の一つは,支配階級の交代である。…

553 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 02:39:48.27 0.net
朝鮮韓半島は広さ十分だけど東亜の中でも可住地というか可耕地が狭過ぎて

554 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 03:01:57.85 0.net
>>540>>542>>544-546
小麦がそれ迄の粟黍稗等に代わり北方の主食に成ったのが前後漢の頃
水車の石臼は後漢代に始まり普及したのが西晋〜北魏の頃。饅頭とか麺類が主な食べ方

555 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 03:59:05.91 0.net
古代華北の主食は、アワ、キビ、オオムギなどの雑穀であった。
アワとキビが良質の穀物であり、粒状で食べられた。

小麦は漢時代(前3〜後3世紀)の126年に、張騫(ちょうけん)が西域から製粉用の石臼と共に伝えた。
だがこの時点には、小麦粉は効率的に作れなかった。
小麦の栽培は華北の土地に合い、三国時代(3〜5世紀)には小麦の粉食は中原に定着し、以後華北は小麦粉食圏となった。

唐時代(7〜10世紀)より少し前、水車を利用した「テンガイ」の発明により小麦粉が安価で大量に出回り、粉物文化が根付いていった。
しかし、中国では小麦粉をパンとして焼かず、生地を蒸すか茹でて調理した。最も代表的な食品は饅頭(マントウ)である。

556 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 04:03:23.49 0.net
まあ、「張騫が石臼とともに西域から伝えた」というのはマユツバな伝説で、もっと前からあった可能性が高い。

でも、唐より以前には、小麦粉はかなりの贅沢品だったんじゃないのかな?
水車がない時代に人力で製粉するのは効率が悪く、大量に作れたとは思えない。

557 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 04:12:47.81 0.net
「夏と秋の2回に分けて徴収する両税法」が唐で導入されたのも、
冬小麦と春小麦の二毛作がこの時期に普及したことの表れ

558 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 06:06:46.82 0.net
(コピペ)

>田地に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、免除して貰う税は庸と呼ばれ、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。
>780年に施行された新しい税制は、それまで資産に関らずに定額を課税していたものを、財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年2回徴収するので、両税法と呼ばれる。夏に納めるのは麦であり、秋に納めるのは粟と稲である。

559 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 06:10:02.18 0.net
租庸調制の時代には、粟で租税を納めていた。

このことからしても、唐の前期においては、粟が主要作物だったことが分かる。

それに対して、両税法では、夏は麦、秋は粟で納税することになった。
金銭での納税も始まった。

これを見れば、唐代に冬小麦の生産が広まったことが分かる。
でも、まだ粟の存在感は大きかった。
金納が当たり前になる宋に比べて、まだ貨幣経済も中途半端だった。

560 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 06:16:53.16 0.net
粟っていったら、小鳥の餌箱に入っている小さな粒の穀物だ。

小鳥にとっては大好物だけど、人間にとっては不味い。

唐の庶民は、黄土高原に穴を掘って地下で生活し、小鳥のエサみたいなものを食べていた。

561 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 06:20:08.45 0.net
しかし、かつては高価だった小麦粉が安くなり、次第にマントウや麺類が普及してきた。
宋代には、当たり前の存在になった。

昔、「アルプスの少女ハイジ」というアニメでは、金持ちが柔らかい白パンを食べ、貧乏人が固い黒パンを食べていた。
黒パンは、よほど歯が丈夫な人じゃないと食べられないようなシロモノだった。
近代ヨーロッパというのは、そういうところだった。

それに比べて、宋の小麦粉の質は高かった。
この点に関しては、近代ヨーロッパを上回っていたと言われている。

562 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 07:34:28.99 0.net
>>551
山東半島にあったのは異民族の莱って国だな

563 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 07:36:05.77 0.net
>>555-556
石臼は夏王朝の頃既に有り西域から導入されたのわ隴西で用いられて居た水車式の石臼
小麦の中国伝入は殷代の頃だけど>>545に在る通り灌漑が未発達で広まらず
水車に由る石臼は後漢代に一部で用いられ始め西晋北魏の頃に普及したが
黄河の水量はそれ程でも無いので広まったのわ主に米食の江南、華北は主に畜力

564 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 08:07:17.54 0.net
>>557-561
>>554は小麦じゃ無く大麦小麦蕎麦
南北朝→唐代で農具が改良されて大麦が減り小麦と蕎麦が増えた
小麦の加工は水車が普及しても畜力が主、小麦粉が高価なんて事実も無い

565 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 08:12:32.47 0.net
>>563-564

なるほど、そういうことだったか。

566 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 11:31:31.09 0.net
>1
領土的には唐
文化的には宋がクライマックスだったな

それ以降は差別されたり鎖国したり変な髪型にされたり混乱したり文化失ったり猿真似しかできなくなったり
まだ中華が滅びないのが不思議なくらい

567 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 12:34:15.96 0.net
中華式の髷や玉すだれの冠は威厳があるのに、
辮髪は滑稽にしか見えないからなぁ

568 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 12:51:19.06 0.net
辮髪民族に支配されたチャンコロが滑稽

569 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 13:03:30.44 0.net
明は行政制度と政治体制が色々酷いのがなあ
技術面でも途中でパタッと止まるし

570 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 13:13:34.23 0.net
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      r┤    ト::::: \___/     ||     
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      |   _)_ノヽ\  ハ // /    ヽ   
     ヽ____)ノ      ̄ ̄ ̄   /     ヽ、


呼んだ?

571 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:03:02.88 0.net
唐の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の遼(契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。
その中で五代最後の後周の2代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。
その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋太祖の趙匡胤である。

世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが顕徳6年(959年)に39歳の若さで急死。
あとを継いだのはわずか7歳の柴宗訓であった。
このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官[注釈 2])の地位にあったが、翌顕徳7年(960年)に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に黄袍を着せて強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。

体制固めと平行して、太祖は乾徳元年(963年)より十国の征服に乗り出す。
まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北の荊南であり、更に湖南の楚を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。
翌乾徳2年(964年)からは後蜀を攻撃して翌年にこれを降し、開宝3年(970年)には南漢を開宝7年(974年)には南唐を降した。
これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが太祖は開宝9年(976年)に唐突に崩御。

後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された(千載不決の議)。
真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、太平興国3年(978年)には呉越が自ら国を献じ、更に太平興国四年(979年)に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。
また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの10人前後から一気に200人超までに増やし制度の充実を図る。

五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。
宮崎市定はこの三者を日本の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康にそれぞれなぞらえている。

572 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:07:11.13 0.net
>>569
今の中国も、政府が民間の枷になっている

573 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:07:27.86 0.net
「歴史は繰り返す」とよく言われるけど、魏晋南北朝時代の終わりには北周の武帝、五代十国時代の終わりには後周の世宗と、英邁な君主が現れて、統一目前にして早死にした。

それぞれ後を継いだのは、隋の楊堅、宋の趙匡胤。どちらも、早死にした前皇帝の重臣だった。

宮崎市定によると、「後周の世宗が織田信長で、趙匡胤が豊臣秀吉で、趙匡義が徳川家康」なんだそうな。

574 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:12:03.50 0.net
宮崎市定先生の論旨を至極大ざっぱにまとめると、欧州史に比して、宋以前の唐は門下省で貴族が力を持っていた中世とし、
宋代以降の皇帝独裁を絶対王政に見立て、近世とする。
また宋代は民間でも欧州の郷紳に比定されるべき、貴族ではない在地勢力である形勢戸が生まれた。
欧州との違いは郷紳は国王の抵抗勢力となったが、中国では科挙を通じて体制の中に組み込まれたので、市民革命は起きなかった。

・・・って感じです。


補足について

論文なら、東洋的近世
概説なら、アジア史概説
共に宮崎市定先生の著作です。

575 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:15:28.14 0.net
唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代を五代十国時代といいます。

華北、黄河流域には開封を首都として5つの王朝が交代します。これを五代という。
後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つ。
それ以外の地域に合計10ほどの独立政権が成立。

この時代のほとんどの政権が、節度使の自立したものです。

各政権の皇帝や王はみな軍人出身です。戦乱の絶えない時代です。
均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期です。
その過渡期の混乱。

576 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:21:06.37 0.net
唐の後半は、統一王朝といっても事実上、節度使による軍閥割拠状態。
節度使というのは、スケールは違うけど、日本の室町時代の守護大名みたいな感じ。

日本でも、やがて室町幕府が崩壊して、そのまま戦国時代に突入していったように、
唐の節度使もやがて自立して皇帝となり、五代の混乱期に突入した。

戦国を統一した徳川家康が、必死で各地の大名の力を削ったように、五代十国を統一した
宋の趙匡胤・趙匡義の兄弟も、節度使の力を削り、皇帝独裁の官僚国家を実現した。
軍人の力を弱くしすぎたおかげで、宋は「史上最弱の統一王朝」になってしまった。

577 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:22:28.67 0.net
新しい時代の担い手は新興地主層です。これを形勢戸(けいせいこ)という。
後漢以来の豪族と何が違うかというと、豪族は南北朝から隋唐までずっとつづいて貴族階級になっていきますが、形勢戸は同じ家がずっと地主としてつづきません。
自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない。だから形勢戸は貴族階級にはなっていきません。
形勢戸という言葉には「成り上がり」という意味があるのです。

また、形勢戸の大土地所有は一円的所有ではない。一円的というのは一つの地域を丸ごと持っていることをいう。
豪族は一円的土地所有だから、そこで働く農民は豪族に隷属していきます。そして、豪族は貴族化していったのです。

しかし、形勢戸はたくさんの土地を持っているのですが、あちこちに分散している。
全体を合計すれば大きな土地になるのですが、一つひとつの土地は小さい。
小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りている。
だから、一人の形勢戸に隷属するような関係にはなりにくい。
したがって、形勢戸は身分的にも貴族化していきません。
 
黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場しないのです。
すべて人民は、同じ身分。

日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事です。
中国では10世紀にはすでに貴族が消滅している。
こういう面で中国はものすごく進んでいる社会です。

578 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:26:13.52 0.net
宮崎市定の研究姿勢は内藤湖南の提唱した唐宋変革論を受け継ぎ、社会経済史の立場に加え、
西アジアやヨーロッパとの交流の影響及び比較の上に立って、唐以前を中世・宋以後を近世と設定し、
さらにそれを裏付けるために宋代に於ける政治・制度・社会・経済などの研究から始まった。

579 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:26:45.67 0.net
宮崎市定 「中国史」

内藤湖南・桑原隲蔵以来の京都東洋史学の学風を継承、発展させた宮崎市定(1901‐1995)。
本書は唐と宋の間に明確な時代の変革を見る独自の理論に基づいた通史で、文章は平易で論旨は明確である。
上巻では歴史とは何かを問い、主な時代区分論を紹介し、古代から最近世までそれぞれの特徴を述べて、夏殷周から唐五代に至る歴史を概観する。(全2冊)

580 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:28:30.49 0.net
>>572

習近平と李克強が、先頭に立って経済発展をリードしている

581 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:38:29.96 0.net
一応実力登用の科挙+法に由る皇帝独裁と血統に因る世襲の封建貴族制って、油と水じゃね
日本じゃ国会議員に続いて国立大学や中央姦庁迄
極めて時代錯誤で反動的な身分枠復活させてるし

582 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 17:57:18.66 0.net
イギリスは今だに貴族がいるし日本だって明治期に華族がいたけど
別に遅れてない

583 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 18:14:49.00 0.net
古典丸暗記が実力なのか?

584 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 20:03:59.04 0.net
まあ、政治家の息子が政治家になるのは、日本だけでなく、アメリカも中国もみんなそうだけどな

なかなか、一般人がなるには難しい職業なので仕方ない

585 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 20:06:12.25 0.net
>古典丸暗記が実力なのか?

中国は地域によって言葉がバラバラなので、官僚には文書用言語としての古典漢文を母国語なみに扱える必要があった

内容よりも、本当に大事なのはそこ

586 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 20:08:58.62 0.net
宋では、形勢戸も科挙官僚も一定の家柄が続いたわけでなく、変動が早かったのは事実

そこが、地方の豪族が封建領主と化していた漢や、長安の貴族が全国支配してた唐との違い

587 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 20:44:58.76 0.net
>>582
英国も牢固な階級社会だけど日本国と違って貴族に政治行政の実権も社会上の特恵措置も無いしな

588 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 20:47:03.99 0.net
>>583
古典暗記が最低線、先ず最低線の足切りで文官として無能な輩が弾かれる

589 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 22:00:32.42 0.net
でも、論文より詩歌が優先される社会だからな・・・
科挙ですらそんな有様だ。

590 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 22:16:10.30 0.net
事務官は基礎教養のみで
技官に至っては採用基準自体無いしな

まあ役人としては抱えずに
戦争や建設・測量の度に民から徴発してたんだろうけど

591 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 22:30:28.68 0.net
技官は中国人の伝統なのか常に待遇悪いよね、宋でも扱い良くは無いし明清なんて何それ待遇だし

592 :世界@名無史さん:2017/10/22(日) 22:51:25.38 0.net
千葉大医学部生が昨年9月、集団レイプ事件を起こしたが、今度は現役医師主導の強姦事件が発覚した。

泥酔した10代少女を暴行した強姦の疑いで16日までに愛知県警に逮捕されたのは愛知県立城山病院医師 高木宏 だ。

昨年4月30日〜5月1日にかけ、愛知・名古屋市内の高木容疑者が賃貸契約していたヤリ部屋で、10代後半だった少女2人に酒を飲ませ、暴行した疑い。

事件を首謀した高木容疑者は、過去に4回も準強姦容疑での逮捕歴があった。その手口はいずれも自分の部屋で合コンなどの名目で飲み会を開き、参加した女性に酒を飲ませて暴行していた。

昨年7月は泥酔状態の20代女性に性的暴行を加えたとして準強姦容疑で逮捕(処分保留)。その後、9月にも別の20代女性を強姦した疑いで再逮捕されていた。

驚くのは短期間に何度も逮捕されているのに、病院側が何の処分もしていなかったことだ。

ある現役医師は「昔からレイプが発覚して病院をクビになる医師はいるが、数年たつとみな別のところに移って何事もなかったかのように勤務していますよ」と明かす。

高木容疑者は過去の事件では不起訴処分になっているとみられるが、医師免許さえあればお構いなしとはあきれる。どうやらロクに“身体検査”をしない病院が少なくないようだ。

高木容疑者が過去に逮捕された時には、女性を乱暴する動画が収められたケータイも押収されている。千葉大のレイプ事件でも被害女性を撮影し、仲間内でLINEで共有するという鬼畜行為に及んでいた。

こんな性犯罪者を野放しにして患者を診察させていた病院の罪は重い。

高木宏のご尊顔
http://dl1.getuploader.com/g/takagihiroshi/1/5bphn8f.jpg
http://i.imgur.com/epBzGFK.jpg

愛知県立城山病院 
電話:052-763-1511

593 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 01:10:39.68 0.net
文官優位で、武官・技官軽視か

594 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 01:15:31.14 0.net
武官軽視は、節度使の軍閥割拠を防ぐために力を削いだわけだが、技官軽視は儒教の伝統だな

595 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 01:21:38.16 0.net
洗衣院(せんいいん、またの名を浣衣院)は、金王朝における官設の妓院である。
『靖康稗史証』の記載によると、靖康の変(1126年)の後、
宋の皇太后、皇后、妃嬪、皇女(公主)、宗女、女官、宮女、
さらに官吏や平民に至るまでの多数の女性が、遠く金に連行された。
一部は現地で洗衣院に入れられて、性的奉仕を強要された。
複数の幼い皇女たちも洗衣院で育てられ、成長後に金国人の妻妾、あるいは洗衣院の娼婦となった。

596 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 07:17:10.84 0.net
金にやぶれた南宋の悲惨な運命は、中国史上でも屈指の悲劇。

時代劇でも「金と戦う武芸者」というのが非常に多くて、元を上回っている。

597 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 07:20:56.79 0.net
今の中華人民共和国は、遼・金・元からの流れをくむ後継国家だ。
中国に関する歴史談義で、金が語られる度合いは宋の一割もない。
ほんの数パーセントくらいの扱いだが、それはおかしい。
本当は、唐から金への王朝交代こそが最大の変革。

598 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 07:44:43.38 0.net
まあ、南宋の扱いも、そんなに大きいとは言えないが。

金と南宋を足しても、北宋の半分も関心を持たれてない気がする。

599 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 07:45:01.89 0.net
金王朝といえば、金の海陵王

600 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 07:58:03.60 0.net
>>597
短命だったり武力で滅ぼされたりで史料がとっ散らかってるからでしょ
日本だって史料に乏しい北条時代わ元寇位しか一般に語られ無いし

601 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 08:44:55.42 0.net
元の治世下、北宋・南宋の断代史が編纂されたのだが、これが無駄に長い。

唐(290年間) 旧唐書300巻、新唐書225巻
五代(54年間) 旧五代史150巻、新五代史74巻
北宋・南宋(320年間) 宋史496巻
遼(210年間) 遼史115巻
金(210年間) 金史135巻
大元(98年間) 元史210巻

また、北宋の途中までを書いた未完の編年史である続資治通鑑長編、それだけで520巻(!)

なお、
資治通鑑 294巻(三晋分立〜五代)
続資治通鑑 220巻(宋、遼、金、大元)
明通鑑 100巻(大明)

602 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 12:36:42.86 0.net
宋史・中華書局版 全40冊

603 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 18:55:32.79 0.net
>>600

史料が混乱してるのは事実かもしれないが、乏しいってことはないはず。

印刷術が発明されて紙の生産量も増え、儒教の復活で歴史意識も高まったため、記録が大幅に増えた。

604 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 18:59:11.18 0.net
開封はもともと洪水が多い上に、金に破壊されてしまった。
このため、宋の時代の開封は地下に埋もれてしまっている。
「世界の最先進国」と言われるほど文明が進んでいた割には、あまり痕跡が残っていない。

605 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:02:41.72 0.net
唐の長安も、大雁塔などの一部の建築を残すのみで、あまり往時の痕跡をとどめていない。
唐代は、絵もあまり多くは残さなかった。
このため、唐の王朝貴族がどういう屋敷に住んでいたかは、推測するしかない。

この点、京都の公家が、平安貴族の伝統を幕末まで継承していた日本とは大きく異なる。

敦煌の壁画が、唐を舞台にした時代劇のお手本になっている。
しかし、敦煌は「西域の玄関」だけに、どこまで当時の中華文明を忠実に描写しているかは分からない。

606 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:06:24.39 0.net
中国人や朝鮮人が、京都や奈良にきて、「ここには唐の文化が残ってるアル」とか、
「これは新羅と百済から伝わった文化ニダ」とやたら言いたがるのは、それによって
自分たちの優位性を主張したいからという面ももちろんあるのだが、それ以上に、
失われた自分たちの古いアイデンティティを、そこに求めているからだと思われる。

実際のところ、唐も、新羅や百済も、痕跡をとどめるのみ。
当時の文化はほとんど残っていない。

607 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:11:47.77 0.net
実際のところ、日本がほんとうに中国のコピーに徹していたのは飛鳥時代や奈良時代のことで、
平安時代になると、だいぶ変わってきている。

唐朝と平安朝の文化は、言うほど似ていない。

608 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:14:10.14 0.net
>>607
けど漢語や中国の古典の知識は後生になるほど広まっている

609 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:22:51.20 0.net
つうか今の京都の町屋は幕末から明治にかけてのもので奈良時代の物なんてないが
16世紀の洛中洛外図見ても大名の屋敷ですら掘っ建て小屋に毛が生えたレベルで到底当時の中国や朝鮮の帰属の豪邸とは比較できない
寝殿造りも中国でいえば宋代に描かれた絵巻物から推定したもので奈良時代の住居何て完全想像

610 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:25:02.15 0.net
>>540-546
>唐代における「胡食」の普及

唐時代にはインドから砂糖の製造技術をパクった

611 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:32:35.39 0.net
日本では宗教建築と世俗建築ではまったく建築様式が違うのだが中国では両者はほぼ一緒
というのも東アジアの宗教建築は魏晋南北朝時代、持ち主がいなくなった貴族の邸宅を、そのまま寺院に転用したものが始まりだから

612 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:36:44.96 0.net
日本最古の絵巻物は源氏物語絵巻なんだが成立年は1140年頃で中国で言うと南宋初期だな

613 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:46:22.55 0.net
>>609

そりゃ当たり前だろ。

平安時代と江戸時代では、書物の量が違いすぎる。

杉田玄白は、街の本屋でオランダの医学原書を購入した。

614 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:46:35.38 0.net
鮮卑王朝は、インド文化ペルシャ文化にかぶれ過ぎることもあれば排除しすぎることもあった

615 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:47:04.61 0.net
>>608だった

616 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:47:47.59 0.net
>>609

それは、ここで吠えるより、中国人観光客に言ってやれ。

日本の文化をありがたがってるのは、お前の同胞たちだ(笑)

617 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:49:33.75 0.net
>>611
そいやモンゴルやチベットや東南アジアって仏教寺院だけ現地らしくなく中国風に近い屋根瓦ゴテゴテ建築だよなあ

618 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:50:03.38 0.net
>>614

日本人は「大陸から文化が伝わった」という話を好むけど、中国人はインドやペルシャから受けた絶大な影響を語りたがらない。

ひとつには、それだけ昔のことが分からないから。

最も国際的で西域的だった唐の文化が、あまりにも残っていない。

619 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:58:16.70 0.net
寝殿作りは建物の配置は唐の貴族の邸宅の影響を受けてるだろうけど、こんなに目がチカチカするような装飾過多じゃない
http://upload.gansuci.com/2016/0420/1461154138866.jpg
https://fiordforest.weebly.com/uploads/1/9/7/2/19723793/9387760_orig.jpg
https://i.pinimg.com/736x/81/65/bc/8165bca435d01e735c3281f6a51fce12--chinese.jpg

「続日本紀」見ると貴族を対象に朱丹で家をきらびやかにするように詔が出ているので奈良貴族の家ははこんな感じだったかも
しかし少なくとも院政期の頃には落ち着いた白木作りになってる

620 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 19:58:21.51 0.net
明は鎖国してた

621 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 20:06:02.53 0.net
日本が中国のものを受容すると必ず日本ナイズされるというかスケールダウンする

622 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 20:11:55.00 0.net
「天地明察」の徳川光國は
自宅にまんま中華趣味広がってて違和感バリバリだった

信長の赤・黒・金の絢爛安土城は焼失するし
黄金趣味の豊臣政権は消滅するし
日本の風土が中華的ゴテゴテを拒否してる感じがする

623 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 20:21:55.33 0.net
長安は、周囲がほぼ砂漠だからな。

自然環境が貧弱だと、せめて人工物くらいはキンキラキンに飾りたくなるようだ。

624 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 20:36:24.48 0.net
建物を階段状に並べて実際より大きく見せる建築いわゆる台榭も日本では流行らなかった
http://yonseisinology.org/wp-content/uploads/2016/10/%ED%95%9C%EC%9E%A5%EC%95%88%EC%84%B1%EB%AF%B8%EC%95%99%EA%B6%81%EB%B3%B5%EC%9B%90%EB%8F%84.jpg

第三期鴻臚館ぐらい?
https://www.youtube.com/watch?v=-Rr-Wqh7oqc

625 :世界@名無史さん:2017/10/23(月) 23:54:46.23 0.net
>>603
金、南宋は公文書公記録があんま整理されて無い
>>607
江戸初期迄大掛かりな建築物建てる時わ中国人大工を顧問として呼んでたよね
>>610
砂糖の製造は東晋北魏の頃に始まった、水飴なら戦国時代から既に有る

626 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 00:04:23.26 0.net
>>618
そんな事実が無いからな
宋は唐より時代が近い事と建築技術が大きく発展したお陰か建築物が大分残ってる
>>619
簡単な話で未だ当時の日本じゃ技術的な問題から染料が高価だったので
煌びやかな装飾は貴族だろうと身の丈に合わ無かったというだけ

627 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 00:09:14.06 0.net
>>623
関中は結構降水量が有って砂漠から程遠いし
北方の河套地域も未だ今みたく乾燥化する前

628 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 05:26:02.54 0.net
>>627
たしかに砂漠ではないが、かなり荒涼とした地域

かろうじて農業生産が可能という程度

629 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 05:31:23.01 0.net
五代から北宋にかけて開封は運河の起点として栄えたが、モンゴル帝国が北京と江南を大運河で
結んだため、商業ネットワークの中心は北京に移った。

それ以来、開封は衰退し、明代の大洪水で土砂に埋もれた。

630 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 05:34:39.84 0.net
>>625
>江戸初期迄大掛かりな建築物建てる時わ中国人大工を顧問として呼んでたよね

呼んでねえよw

631 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 05:40:16.98 0.net
春に花粉症で困っていたところ、知り合いの上海人から「中国に行けば、花粉症はすぐ治ります。
木が生えてないから、花粉もありません」と言われた。

日本は木の文化なので、大陸とは建築に対する基本コンセプトが異なる。
日本人は、木目をそのまま残して彩色しないことが多い。

632 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 05:56:46.41 0.net
>>623 >>628
周から隋唐まで長安に都が置かれたのはこれを支えるだけの
農業生産があったからなわけだが。

>>629
汴州の繁栄は唐代からですよ。
朱全忠が天下を取れたのはここの節度使になって無限の財力を得たから。

633 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 06:02:11.26 0.net
>>631
杉花粉症は無いかもしらんが黄砂による塵肺が・・・

>日本人は、木目をそのまま残して彩色しない
新築の時は彩色し、その後色が落ちても再度の彩色をしないだけ

634 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 06:39:05.79 0.net
>周から隋唐まで長安に都が置かれたのはこれを支えるだけの
農業生産があったからなわけだが。

秦漢までは確かにそうだけど、隋唐の頃の長安は、江南から運河で運んだ食糧で成り立ってた。

635 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 06:40:33.93 0.net
>新築の時は彩色し、その後色が落ちても再度の彩色をしないだけ

それは、わざとそうしている。

庭も、苔が生えたときのことまで計算して作られている。

636 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 06:58:07.82 0.net
中国も、金ピカ趣味だったのは唐の王朝貴族の頃の話で、宋では典雅で上品な青磁・白磁や文人画が主流になったように思う。

ペルシャやアラビアでは中国の陶磁器を盛んに輸入していたが、彼らの金ピカ趣味からすると地味すぎたせいか、注ぎ口を金箔で覆ったりしていた。

637 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 07:37:37.89 0.net
実際のところ、江南は中国の中でも緑豊かというイメージがあるけど、日本の風景を見慣れた目からすると、上海の郊外あたりでもちょっと・・・。

638 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 07:42:15.19 0.net
韓国も、釜山からソウルまで電車で移動した人によると、「赤茶けた大地が広がっている」という話だった。

639 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 07:44:28.62 0.net
北京や上海から日本に来た人達の感想は、「緑が豊かで、空気がきれいで、静かで、古い建物が多くて、ノンビリしていていいね」という調子。

だんだん、「都会から田舎に来た人」の感想になってきているのは否めないが・・・(笑)

640 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 07:45:16.42 0.net
同じ温暖湿潤でも
大陸と島嶼には植生に差が出るのか
単に先人達の植生管理の差か

日本人が朝鮮のハゲ山を緑化してやったのは最近の史観見直しの中で知られてるけど

641 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 07:45:17.88 0.net
>>631>>635
中国は木と竹の文化、南部は特にそうだし北部も
まあ長年の人間活動で大分木材枯渇しちゃったからアレだけど

東国は公方や守護も日常は焼き魚とかおひたしとか常食してたし
素材を活かした物が好きと言えなくも無いわな、痩せ我慢とも言えるが

642 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 07:55:37.11 0.net
>>641
華北は竹の文化じゃない

643 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 08:06:16.72 0.net
>>640
降水量が大分違う
植生区分でも中国の大半は広葉樹林帯じゃ無いし

644 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 08:12:26.71 0.net
日本も明治までは全国の山ははげ山だった

645 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 08:22:51.12 0.net
>639
向こうは「オイあんた!」って自分の権利主張しなきゃ生活してけないけど
こっちは「すみません」で大概の事が通せる気楽さはあるかも

646 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 15:44:20.70 0.net
>>642
いや、竹の文化だよ
建築でも工芸品でも多用されてた

647 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 18:11:33.41 0.net
>>644
それは謬説
アレクサンダー・フォン・シーボルトは「日本ほど食性が豊かな国はない」と書いている
明治期には多くのお雇い外国人が招致されてるけどやはり異口同音

648 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 18:33:24.33 0.net
日本の風土じゃ、すぐに雑草が生い茂ってくるので、ハゲ山状態を維持するほうが難しい

鳥取砂丘だって、人間が努力して保存している

649 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 18:46:23.47 0.net
日本人には、木が生えてない状態が不自然に感じられるので、中国でも朝鮮でも、やたら熱心に植林しようとするのが特徴

650 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 18:47:28.74 0.net
>>642
秦漢までは紙がないか、あっても高価だったから、書くのは竹簡だったような

651 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 18:56:58.54 0.net
朝鮮の場合は、紙の原料となるコウゾ・ミツマタが育たない風土なので、慢性的な紙不足だった。

伝統文化が貧弱なのは、それも大きな原因のひとつ。

652 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 21:10:09.67 0.net
朝鮮では紙の原料はからむしだろう。
からむしは布の原料でもあるけど。

653 :世界@名無史さん:2017/10/24(火) 23:25:53.82 0.net
普通に宋代には高麗紙を輸出するほど国上げて製造してたが

三国時代、高麗の武臣政権、李朝の最初あたりとか適度に戦争してた方が
朝鮮の場合は繁栄してる

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