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古代の倭国による朝鮮半島支配

1 :世界@名無史さん:2018/04/14(土) 03:44:25.26 0.net
日本が朝鮮を支配していた時期は、歴史上に2度ある。

古代と近代だ。

2 :世界@名無史さん:2018/04/14(土) 03:57:31.64 0.net
古代は一部を属国化してた話やぞ

でなんやねん

3 :世界@名無史さん:2018/04/14(土) 08:10:32.51 0.net
新羅と百済は、倭に朝貢していた

4 :世界@名無史さん:2018/04/14(土) 17:38:54.63 0.net
朝鮮を倭が支配してたんじゃなくて
朝鮮の一部が倭の国土だったんだぞ

5 :世界@名無史さん:2018/04/14(土) 17:52:52.70 0.net
狗邪韓国は名前からして韓人の国の筈だが三韓ではなく倭に属していた

6 :世界@名無史さん:2018/04/15(日) 19:14:44.45 0.net
渡来系氏族の高向玄理、旻らの百済の評制をモデルにした改革が行われるまで
酋長の寄り合い世帯どまりで大陸的な「国」はまだなかった
当然「国土」という概念もなく緩やかな人的関係でつながっていたというのが通説

7 :世界@名無史さん:2018/04/15(日) 22:59:48.50 0.net
「4世紀、日本は朝鮮半島に進出し、これを勢力下にした」と、アメリカの歴史教科書にも書いてある

8 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 02:18:01.21 0.net
渡来人は渡ってこなかった

9 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 18:26:11.42 0.net
朝貢していたから勢力下に置いていた理論だと
琉球どころか日本本土も中国の歴史的領土になってしまう
これは非常にまずい
そこで出たのが臣従の礼は形式的なもので本質は貿易であったという朝貢貿易論である

10 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 18:53:06.37 0.net
>>9
べつに、非常にまずくはないだろ

11 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 18:54:36.58 0.net
まづいでしょ
日本は中国に併合されるべきと考えてるのなら知らないが
日本を「未回収の中国」にされてしまうのはやばい

12 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 18:57:20.07 0.net
だったら、中国を「未回収の日本」と主張し返してやればいいじゃないか。

どうせ無理筋だが、言ったもん勝ちだ(笑)

13 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 19:02:03.45 0.net
現在のシナ人は、後から移民してきた連中だ。

古代の黄河文明の民の子孫は、日本にいる。

14 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 19:03:08.93 0.net
日本を「未回収の中国」には歴史的根拠がある
倭王武の上表文「我が国は陛下の藩屏です」

が逆に日本が中国に朝貢させたことは一度もない

李氏朝鮮にも宗氏、大内氏、松浦氏など諸大名が貿易目当てに官職を授けられて冊封されている
まずいまずいまずい

15 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 19:03:09.05 0.net
古代日本の皇太子が中国の人質だったことはない
百済と新羅の王子は古代日本の人質だった

16 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 19:04:16.35 0.net
桓武天皇の出自は百済系ですけど

17 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 19:09:50.26 0.net
支那を「未回収の日本」には歴史的根拠がある
皇軍は紫禁城を制圧したことがあるが
支那王朝の官軍が日本の皇居を制圧したことは一度もない

18 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 19:17:00.28 0.net
みなぶちのしょうあん 南淵請安 ?−? 飛鳥(あすか)時代の僧。
朝鮮渡来系の漢人(あやひと)の一族で,大和(奈良県)高市郡南淵にすむ。推古天皇16年(608)小野妹子にしたがって
隋(ずい)(中国)に留学し,32年後帰国。
「日本書紀」に中大兄皇子と中臣鎌足が南淵先生(せんじょう)に儒教をまなび,その通学の途中に大化の改新の策を
ねったとあるのは,請安のこととされる。

講談社デジタル版 日本人名大辞典

たかむくのくろまろ【高向玄理】?‐654(白雉5)
大化改新期の国博士。漢人(あやひと)を称する百済帰化人の子孫。〈たかむこ〉ともよみ,姓(かばね)は史,
黒麻呂とも書く。
608年(推古16)遣隋使小野妹子に従って,学生として渡海。640年(舒明12),新羅を経て南淵請安らと帰国するまでの
長期間にわたって滞在し,隋唐王朝の興亡を目のあたりに見聞した。
645年(大化1)蘇我本宗家が滅亡し,新政権が成立すると,僧旻(みん)(新漢人(いまきのあやひと)旻)とともに
国博士に登用され,改新政策の立案にあたった。

株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

いまきのあやひとみん 新漢人旻?‐653(白雉4)
百済系の学僧で大化改新期の国博士。608年(推古16)隋使裴世清の帰国のさい派遣された小野妹子に同行し,高向玄理
(たかむくのくろまろ)・南淵請安(みなぶちのしようあん)らとともに渡隋。
《日本書紀》で新漢人日文(にちもん)とあるが,帰国した632年(舒明4)以降はすべて僧旻と記す。仏教,天文に通じ,
中臣鎌子,蘇我入鹿など貴族の子弟を集めて周易を講じたことが《大織冠伝》にみえる。蘇我氏滅亡後の改新政治の
実施にあたって高向玄理とともに国博士として参画し,中央官制の改革をはじめとする基本政策の立案につくした。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

19 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 19:20:19.96 0.net
>>17
宣戦布告なしに相手側の領土を切り取るのは戦争犯罪なので領有権は認められません(大日本帝国憲法第13条)

20 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 19:22:32.92 0.net
>>19
支那王朝が宣戦布告した

21 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 19:39:08.35 0.net
国中公麻呂 くになかの-きみまろ

?−774 奈良時代の官吏,仏師。
百済(くだら)(朝鮮)から亡命した国骨富(こく-こつふ)の孫。はじめ国(くにの)君麻呂といい,居住地の大和国中村(奈良県大和高田市)にちなんで改姓。
金光明(こんこうみょう)寺(のちの東大寺)造仏所の造仏長官となり,盧舎那(るしゃな)大仏の鋳造に成功して昇進,造東大寺司次官をつとめた。
宝亀(ほうき)5年10月3日死去。名は公万呂ともかく。

講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus


ぎょうき〔ギヤウキ〕【行基】[668〜749]
奈良時代の僧。百済(くだら)系の渡来人、高志(こし)氏の出身。和泉(いずみ)の人。

小学館デジタル大辞泉


かんろく〔クワンロク〕【観勒】
7世紀の百済(くだら)の僧。602年に来日し、暦法・天文地理・方術の書を伝えた。日本最初の僧正に任ぜられたという。生没年未詳。

小学館デジタル大辞泉


高取町出身である最初の「征夷大将軍」坂上田村麻呂の活躍
http://www4.kcn.ne.jp/~yukiharu/sakanouenotamuramaro.htm
 4世紀後半に百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)を祖とする渡来系の氏族「東漢氏」の一族で檜隅から高取町域に定着し、
その後多くの氏に分裂し、それらの氏は住みついた所の地名を氏として、それぞれ発展していきました。
  坂上氏は、高取町大字観覚寺(かがくじ)小字坂ノ上(坂ノ山ともいわれています)一帯に居住し、坂上氏と称して飛鳥時代から
平安時代にかけて武門の氏族として発展していきました。姓は始め直(あたい)、682年に連(むらじ)、685年に忌寸(いみき)、
764年に大忌寸、785年に大宿禰(おおすくね)と改姓しています。大字観覚寺には、小字坂ノ上に坂上田村麻呂の邸宅があったとの
伝承が今日にも伝わっています。]

22 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 20:05:15.83 0.net
べ 部
大化改新以前,朝廷や豪族が所有した人民の集団。「とも」,部民 (べみん,べのたみ) ともいう。4〜5世紀頃朝鮮に進出した大和朝廷が,百済の部制にならって組織したもの。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

すえつくりべ 陶作部
大化前代の職業部で須恵(陶)器の製作に従事。須恵器の源流は朝鮮半島南部に求められている。また陶部ともつくる。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

ふびとべ【史部】
応神天皇の時、百済から渡来したといわれる王仁と阿知使主の一族で、文書・記録をつかさどった部民。
大辞林 第三版

かぬちべ【鍛冶部】
大化前代、豪族に隷属し鉄製武具などの製作にあたった部民。先進技術をもった渡来人系の韓鍛冶部と在来技術による倭鍛冶部とがあった。
出典 三省堂大辞林 第三版

きぬぬいべ 衣縫部
古代宮廷の裁縫に従事した部。漢衣縫部(あやのきぬぬいべ),飛鳥衣縫部,伊勢衣縫部などがあり,その多くは,5世紀前後に百済や呉から渡来した渡来人。日本古来の衣縫部も存在した。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

くらつくりべ【鞍作部】
古代、鞍を作るのを職業とした部。多くは百済くだらからの渡来人。
小学館 日本大百科全書

23 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 20:27:03.32 0.net
大東亜共栄圏を実現させて日本と中国(と朝鮮と越南)の統合を実現させれば万事解決!

24 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 20:39:05.26 0.net
 
これはいいスレw ってハングル板あたりでもう通りすぎた話題なんだろうけど

朝鮮半島の歴史を、高句麗・百済・新羅の三国時代から、巷では語っているけど、
本当はそれ以前の歴史があった、檀君w朝鮮、箕氏朝鮮、衛氏朝鮮だ
檀君は神話だから置くとしても、歴史地図を見るに
箕氏朝鮮、漢四郡のころからすでに半島南部は朝鮮領ではなかった
統一されていたのではなくても、倭人=日本人がすでに住み着いていたということだろう
つまり、日本も朝鮮もその歴史を紀元前1000年あたりにまで
さかのぼることができるということだろう
ただ、いまの新羅末裔の朝鮮人がそのときにいたかどうかは怪しいと思う
やはり、新羅が日本系から新羅系に奪われたころあたりを
いまの朝鮮人の起源とするのが歴史的事実に近いんだと思う

25 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 21:10:21.86 0.net
>>9
朝貢でなく朝鮮が日本の属国だぞ
王子を人質にしている。
たんなる朝貢ではないので倭王武の例とは違う

26 :世界@名無史さん:2018/04/16(月) 22:35:50.35 0.net
半島南部に倭人がいた可能性は限りなく低い
何故かというと環濠集落や高床倉庫、水稲、青銅器の普及は半島南部のほうがずっと早いから
厳密に言うと日本には青銅器時代はないけどな
半島から青銅器と鉄器がほぼ同時に伝わったため

27 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 00:39:34.01 0.net
その様な事は証拠にはならんだろ

28 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 01:47:40.16 0.net
半島の方が一時期農業が盛んだった話に倭人の有無なんて関係ないだろう
半島支配は弥生でなく古墳じだいとかなんで時代が違う

29 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 05:41:34.49 0.net
隋書  

「新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來」

「新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している」

30 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 10:30:43.75 0.net
>>29
この珍品が気になる
あわびとかは豊富だけど韓国にもあるが

31 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 12:04:43.09 0.net
チョン半島は太平洋に面してないから、カツオとか獲れなかったんじゃね?

32 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 12:16:52.48 0.net
やはり、翡翠か

33 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 12:29:25.06 0.net
 
旧石器時代なら、黒曜石とか翡翠とかだったんだろうけど
おカイコさんから作る<絹>とか?ああ、琥珀もあるみたいだな
扇子が隋唐の頃かな

34 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 13:02:02.05 0.net
>>32
硬玉がそれと認識されたのはもっと後だから当時珍品だったのかねぇ
>>33
黒曜石かどうかは別にして火山性の石や、その組成物は珍品かな

35 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 13:51:41.45 0.net
随書

「有如意寶珠其色大如?卵 夜則有光云魚眼精」

「如意宝珠というものがある。その色は青で、大きさはニワトリの卵くらい。夜になると光る。魚のひとみだと言っている。新羅と百済は、どちらも、倭は大国で珍しい物が多いと考え、敬い見上げている。常に使者を通わせて往来している。」


この青い宝石が珍品か
光る青い石で日本産を探せばベニトアイトというのが見つかったw

36 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 17:52:33.89 0.net
>>28
朝貢したぐらいで統治していたとなるなら倭国は中国に統治されていたことになるが
人質を出したとかそんなレベルではなくあちらの将軍に任官までされている
まぁこれは朝鮮三国にしてもそうなんだが

37 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 18:35:27.10 0.net
4世紀末の朝鮮半島南部では、百済、新羅、と小国の連合から成る任那伽耶が勃興していた。
このうち百済が最も精強を誇り、371年には高句麗の平壌を落し、故国原王を敗死させている。
しかし、高句麗最大の名君とされる広開土王による攻勢が始まってからは漢江以北の地を奪われるなど勢力に陰りが見え始め、
新羅と共に臣下の礼を取るまでになった。(百済が高句麗と同源という説は、この時に出来たものかもしれない。)

そこで時の百済王は、太子・腆支を以前から通好のあった倭に人質に出すことを、引き換えに援軍を得るも
404年に帯方地方で倭軍は、全滅してしまい(広開土王碑文)、漢江以北奪還の試みは破綻する。
また高句麗は従順であり続けた新羅に対しても、国内に高句麗兵に常駐させ、国王の尼師今(新羅王)の任命や
兵の徴発、また監視用の拠点として国原城を築くなど、圧迫を加えた。(中原高句麗碑)

一方、新羅ほどの被害を免れた百済は北朝、南朝、倭と通行可能な大国すべてに臣下の礼を取る土下座外交で、高句麗に徹底抗戦する
姿勢を見せつつ、とくに倭に対しては任那伽耶と共にテクラノート集団「才伎」の派遣を約束し、倭の文明化を支援するなど、親密な関係を維持した。

38 :世界@名無史さん:2018/04/17(火) 20:35:59.97 0.net
>>11
中国は「未回収のモンゴル」にされてしまうね

39 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 18:27:51.25 0.net
まあこれは日本の史学界だけじゃなくて欧米でも普通に認められてる事実だからな。
これはあるソウル大名誉教授による百済がヤマトを建国したというファンタジー論文からの引用だが
当の筆者も日本と欧米の歴史家の間で常識だというこの認識に怒り心頭だし。

>Jonathan W. Best may be regarded as representing the great majority of Japanese and Western historians when he states,
as recently as 2006 CE (through the publication by the Harvard University Asia Center), that “it is clear that neither Paekche
nor Silla ceased to function as independent states,” but “it is evident that the Yamato exercised significant influence in southern
Korea from late in the fourth century to the end of the fifth” [26].
(ハーバード大アジアセンターの出版物を通じてなされた)2006年のジョナサン・ベスト教授の言は大多数の日本・欧米の歴史家の認識の
代表といえるかもしれない。曰く、「百済と新羅が独立国としての機能を失ったわけではないのは明らか」だが「ヤマトが4世紀後半から
5世紀末まで朝鮮半島南部に相当の影響力を行使したのは明白である。」

40 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 18:30:09.83 0.net
あと欧米の著名な言語学者の多くが、プロト朝鮮語族が満州から南下してくる前の朝鮮半島にはプロト日本語族の話者がいたという認識のようだから
南岸の倭系部族or国はその残党と考えると、ヤマトの半島「進出」も合点がいくってわけだろう。向こうの史学界はより学際的傾向があるし。

"When Was Korean First Spoken in Southeastern Korea?" by James Marshall Unger (2005):
"A form of [Japanese] was no doubt spoken on the peninsula. For the time being, I prefer to think of Koguryoan, Paekchean, and
Sillan as three early varieties of Korean that displaced residual Chinese and para-Japonic speech in a north-to-south advance ...
Thinking of Korean as a successful intruder rather than as a survivor in situ from neolithic times should make it easier to
investigate that question and to understand how Japanese got to its present range."

"Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan" John Whitman (2011):
"From the standpoint of this paper, the important takeaway lesson from the Koguryo toponymic data is that a language cognate to
Japonic was spoekn on the Korean peninsula. This is a point of consensus for all major scholars who have worked on this material."

41 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 18:31:01.49 0.net
"Why Manchu and Jurchen Look So Non-Tungusic?" Alexander Vovin (2006):
"The existence of a Japonic language spoken in the past on the Korean peninsula is an undeniable fact, [though] in all probability
the existence of this language predates the state of Koguryo."

"Koguryo As A Missing Link" Martine Robbeets (2007)
"During the Three Kingdoms period at least two different language families were simultaneously present on the Korean peninsula:
Koreanic and Japanic. Koreanic consists at least of Shilla, whether or not the immediate ancestor of MK, and Han-Paekche. ...
Japanic consists at least of Japanese-Ryukyu and of Koguryo, that is more closely connected to Japanese than to any other language."

"How many independent rice vocabularies in Asia?" Laurent Sagart (2011):
"There is growing agreement among Japanologists that the settlement of Japan by Japonic speakers was effected in the second half
of the first millennium BCE by a people ('Yayoi') from the Koreanpeninsula ..."

42 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 18:31:50.83 0.net
>「百済と新羅が独立国としての機能を失ったわけではないのは明らか」

ってのはネトウヨにとってかなり「不都合な真実」じゃあねえの

43 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 18:34:54.75 0.net
>>42
いや、いくらネトウヨでも神功皇后の三韓征伐を字義通りに信じてる奴は稀だろ。

44 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 18:39:56.99 0.net
少なくともこのスレの>>1はそうは考えてないみたいだぞ

45 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 18:45:24.92 0.net
Martine Robbeets (2007) の韓国語は新羅語と百済語で構成されているというのも
都合が悪いんじゃないかね
ネトウヨの歴史観だと新羅人と百済人は日本人ってことになってるようだし

46 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 19:02:22.41 0.net
>>45
百済はともかく新羅は朝鮮人認定されて嫌われてなかったっけ?
俺的には百済より新羅のほうが意外と日本と似た感じの部分があって面白いんだが。
開発が遅れてた部分とかも。
まあいいや。
俺はネトウヨじゃないけど、半島南部に倭人・ヤマトの勢力圏というかエンクレーブが
あったのは間違いないと思うよ。
それで朝鮮語族の部族達がそれを駆逐したというか完全に同化した統一新羅後に今の朝鮮民族というものが定まった。

47 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 20:22:08.63 0.net
新羅が倭人によって作られたことは三国史記を作った高麗人たち自らが認めていたことである

>>40
朝鮮語族がもともと満州にいたとは思えんな
むしろ韓人の祖先が7000年位前に日本列島から追い出されたんだろ?
Y染色体ハプログループO2b2も縄文系の濃い南琉球で最大の比率となっていることから考えると、実際は琉球諸島で発生し九州を経て朝鮮半島を北上したのだろう

48 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 20:42:53.31 0.net
>>46
>>45みたいに「三国史記」の金閼智の家来の瓢公が倭人だったとか
王族の昔氏が倭国の多婆那(丹波とされる)の王が女人国(伝説上の国)の王女に産ませた卵から出てきたという伝説を拡大解釈して
新羅が日本人の国だと言ってるネトウヨをよく見かける

逆に古事記では神功皇后が新羅の王子、アメノヒボコの子孫ということになっている
かつて、それほど両国の関係が悪くなかった時代に造作された伝承であろう

49 :世界@名無史さん:2018/04/18(水) 23:57:21.96 0.net
日本と唐が同盟国を使って朝鮮の覇権を握ろうとした結果
日本が負けて朝鮮から手を引き唐の文化や制度を受容したのは
どこか20世紀の日米関係を想起させる

50 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 00:14:59.12 0.net
>>48
最近韓国で左翼を罵倒するトンでもウヨを捕まえたら左翼の自演だった話があるが
そういうネトウヨは想像上のものだったり、誰かの自演だったりしないかね

51 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 00:17:18.64 0.net
>>49
アメの文化は昔から受け入れてたようなw
第二次は中国市場の争いから生まれたが古代の日本にとって朝鮮はナンだったのかね
貴重な鉄などの資源調達先かな

52 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 01:00:59.46 0.net
鉄もあったし何よりも唐に隣に来られて欲しくなかった
そもそもあまり倭は半島の覇権争いに加わろうなんて気はまるで皆無で
512年に任那の四県を百済が併呑したときも532年に金官伽耶が新羅に滅ぼされたときも
ほとんど何ら行動を移していない

53 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 01:26:43.19 0.net
朝鮮三国の中でも最も特異なのが新羅
その時代の遺跡からは遠く離れたローマのガラス製品やガリア地方で作られたケルト剣の柄、ギリシャの装身具など
百済、高句麗ではほとんど見られない品物が見つかっている
これらの品々は恐らく中央アジアとの交易で入って来たものと見られ7世紀末8世紀初頭のサマルカンドのアフラシアブ遺跡の壁画には新羅人の姿が描かれている
中国を重視した高句麗、倭、百済とは違い、西域諸国との交流を持っていたようだ

軍事面でも550年に竹嶺に進出(丹陽赤城碑文)その18年後には咸鏡南道利原郡にまで進出して高句麗の首都平壌を脅かすまでになる(磨雲嶺碑)
不思議なことにこれらの事績は三国史記では触れられておらず謎が多い

54 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 01:39:10.03 0.net
法興王は如何にして新羅の大躍進せしめたのか?
もしかすれば倭人側に新羅を積極的に支援する勢力がいた可能性はないだろうか

55 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 07:09:23.66 0.net
まあ、「倭からやってきた瓢公が、金閼智を発見して、新羅の王位につけた」という三国史記の記述を見れば、
新羅王朝の発足に当たって、倭がなんらかの大きな役割を果たしたという暗示をそこに見いだすのが不自然な解釈とは思えないが。

56 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 07:25:04.27 0.net
従属部族の神の集合体であろう、どこにでも現れるスサノオさんが新羅にも行ってるので
普通に新羅系の有力者が大和政権にいたであろう。
そいつが新羅王家と関係あるかは不明だが、状況的に新羅王家の人質の子とかでもおかしくない

57 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 16:40:15.73 0.net
>>56
いちいち脳内変換するのも大変だな

58 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 18:50:01.24 0.net
「姓氏録」では新羅系氏族として橘守、三宅連、豊原連、海原造、真城史、糸井造、 三宅連、伏丸、日根造が挙げられている
ほか秦氏もおそらくは新羅系だと考えられる

59 :世界@名無史さん:2018/04/19(木) 19:17:28.83 0.net
秦氏は中国系だろ

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