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物流の歴史

1 :世界@名無史さん:2018/12/07(金) 11:00:14.74 0.net
元日本通運株式会社の従業員でした。
三井物産グローバルロジスティクス株式会社に入社したいです。

296 :ウムウル :2019/04/05(金) 11:42:54.40 0.net
>>41
単純にアユタヤかと思ったがどうなのだろうか、、、

チャオプラヤー川
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/35/Chaophrayarivermap.png/800px-Chaophrayarivermap.png

チャオプラヤー川は、ナーン川とピン川が交差する地点、ナコーンサワン県で始まる。ピン川の水量が多い。

チャオプラヤー川流域の県は、バンコクの外、
ウタイターニー県、チャイナート県、シンブリー県、アーントーン県とアユタヤ県である。

チャイナート県でターチン川とチャオプラヤー川に二分され、
ターチン川はチャオプラヤー川と平行に流れたのちサムットサーコーン県から、
チャオプラヤー川はサムットプラーカーン県からタイランド湾に至る。

297 :ウムウル :2019/04/05(金) 12:14:32.02 0.net
>>296

アユタヤはPa Sakと交差する地点の西
円形水路の内側に存在するみたいですね

水量的にはナーン川の合流点まで遡れそうな気はしますが、、、

298 :ウムウル :2019/04/05(金) 12:42:43.47 0.net
>>297

ナコーンサワン県
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AF%E3%83%B3%E7%9C%8C

「ナコーンサワン」=「天国の都市」をシンボライズし、雲の上に三つの頂上を持つ離宮がデザインされている。

歴史

ナコーンサワンはドヴァーラヴァティー王国時代からの歴史を有する町である。
スコータイ王朝時代は、スコータイの南の前衛都市として機能し、ムアン・プラバーンと呼ばれた。
アユタヤ王朝時代もピン川とナーン川が合流する地点にあることから物流の中心地として栄えた。

また、ビルマ軍のアユタヤ攻撃ルートの中にある軍事的要所であった。
タークシン王はプラバーンを基地として用いた。

ラーマ4世(モンクット)がボーリング条約にサインすると米やチーク材の取引の中心として機能しナコーンサワンの繁栄が始まった。
しかし、1922年のタイ国鉄の開通、1932年の立憲革命の前の世界恐慌、1950年のパホンヨーティン通りの開通に伴い、ナコーンサワンの重要性は低下した。

1895年、ラーマ5世(チュラーロンコーン)はモントン・ナコーンサワンを設置し、ナコーンサワンをその中心においた。

299 :ウムウル :2019/04/06(土) 07:16:45.05 0.net
>>270
ティルスさんの中の人に比べて
シドンさんの影の薄さは異常な気がします

とりあえず外交センスに関しては
あきらかにシドンさんに軍配が上がると思いますね

300 :世界@名無史さん:2019/04/06(土) 08:05:30.57 0.net
>>299
ティルスの始まりはシドンからの移民。
シドンの植民地の地位だった。
後に経済面でティルスに抜かれる。
子会社が親会社を上回るのはよくあること。

301 :世界@名無史さん:2019/04/06(土) 08:44:01.90 0.net
ティルスの特産品はレバノン杉と並んで
紫布。
シリアなんとか貝?から採れる染料をもとに染めるのだが、
その技法はティルス人の秘伝中の秘伝。
ギリシア人たちも真似しようとしたが失敗し、
現代でも再現不能と聞いた。

302 :世界@名無史さん:2019/04/06(土) 08:54:46.22 0.net
物流?大事だね。軍事力で物流を支配して貿易を支配し利益を支配する。

いまのグーグルとかアマゾンだって同じやり方。ずっと同じ。

303 :ウムウル :2019/04/06(土) 09:31:53.07 0.net
>>54

カパックニャン アンデスのみち【カパック・ニャン アンデスの道】
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%B3%20%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%81%93-1712235

2014年に登録された世界遺産(文化遺産)。広大な国土を誇ったインカ帝国が支配した海岸砂漠地帯とアンデス高山地帯を東西南北につなぎ、
コミュニケーションと交易、防衛のネットワークの要であった全長約3万kmに及ぶ道路網。

数世紀の期間をかけて造られた道路であり、一部はインカ帝国以前からの道路を活用している。
インカ帝国の支配エリアは、現在のアルゼンチン・ボリビア・チリ・コロンビア・エクアドル・ペルーの南米6ヵ国にまたがり、
その地形の多様性はすさまじく、15世紀に最盛期を迎えたインカ帝国は、
海抜0mの灼熱の砂漠から6000mを超し冠雪する極寒のアンデス山脈までに道路を建設した。

その主役であるカパック・ニャンの、273の構成資産を有する6000kmの道路には、橋や階段、石畳、側溝などが残っており、
砂漠やジャングルといった多彩な環境をつなぎ、
マチュピチュ遺跡やチャビン・デ・ワンタル遺跡など主要な観光スポットもつないでいる。

インカ帝国の首都クスコがあったペルーのビルカノタ川など60ヵ所を中心に多様な構成資産を擁し、
この交通網の社会的、政治的、建築学的、工学的な価値も高く評価される。
◇英名はQhapaq Nan, Andean Road System

304 :ウムウル :2019/04/06(土) 09:46:47.30 0.net
>>54


【世界遺産】カパック・ニャン:アンデスに広がる6カ国、3万kmにも及ぶ道路網の軌跡を見る
https://www.travelbook.co.jp/topic/12730
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/53/Inca_roads-en.svg/512px-Inca_roads-en.svg.png

目次

2000年前からの続くアンデスの道
ペルーのカパック・ニャン
エクアドルのカパック・ニャン
ボリビアのカパックニャン チチカカ湖からパリアへの道
アルゼンチンのカパック・ニャン
カパック・ニャン、どこの国からアクセスするか
観光のおすすめ記事

305 :ウムウル :2019/04/06(土) 10:02:45.25 0.net
トリポリ解放軍
めっちゃトヨタでした

306 :世界@名無史さん:2019/04/06(土) 10:24:52.67 0.net
世界の民族紛争の背後にはトヨタがいる
となっても、驚かないぐらいに見かけるな。
あれは全部本物のトヨタ車なんだろうか?

307 :ウムウル :2019/04/09(火) 02:06:59.67 0.net
>>306
おいらも違法改造なのか
それともマニュアル内なのか
気になりますね

308 :ウムウル :2019/04/09(火) 02:20:53.04 0.net
>>301
それがまぁ
けっこういろんな都市で
作ってたみたいですよ

ここに出てるシドンとか
他の複数で貝塚が見つかってたはずです

309 :世界@名無史さん:2019/04/09(火) 14:29:14.68 0.net
>>308
吉野ケ里遺跡からは、アカニシ貝由来の紫で染めた布が見つかってるそうな。

ティリアンパープル(ティルスの紫)はローマ皇帝や教皇の衣に使われる帝王色。
東アジアでは紫衣(しえ)が高貴な者、高官や高僧に許される。
天帝が住まうは紫宮で、北京の宮城は紫禁城。
キリストが処刑時に着せられた外套をヨハネ福音書は紫としている。
(マタイ福音書では緋色、
 ルカ福音書では色鮮やかな or きらびやかと表現。
 赤みが強い紫か?)

関連があるんかな?

310 :ウムウル :2019/04/14(日) 15:19:29.09 0.net
ルクソール西岸のコム・エル・ヘタン地区

かつて観光名所だったメムノンの巨像は
前一世紀の地震以後から鳴き始めたことで有名
ローマ時代の後二世紀に修復されて「神の叫び」は口封じされる。

ここの近くに5つの台座に地名のリストが
「城壁の楕円」で囲まれた中に残されており
アメンヘテプ3世時代に
エジプトとの交易を含む関係性を持っていた世界(都市)と推測される。

・北のヒッタイト
・ミナミのヌビア
・東のアッシリアとバビロン
・西の島国ケフティウ(クレタ)とタナヤ(ギリシャ本土)

西の部分に記載されているのがエーゲ海リストと呼ばれる15の地名

311 :世界@名無史さん:2019/04/15(月) 09:17:52.99 0.net
>>303
インカ帝国の物流は謎が多いのだろうな。
貨幣がないので、市場がない。
物々交換ぐらいあったかもしれないが。
基本的に国民は国家に労役を提供し、
国家の蔵から必要物を分配するらしい。
社会主義じゃん、それ?て気がしちゃう。
それだけ強大な権力を有していた。
一方で、中央が完全支配する統一国家ではなくて、
地域勢力との緩やかな連合でもあるらしい。
長大な道路は緩やかな連合を結びつける大事なもの。

それから高度差もあって、
一般に高地の平原部が雨が降りやすいとか。
当然、高低で産出する作物が異なる。
なので標高差の間で物資のやり取りが必要となるはず。

宗教面ではなんか古代エジプト文明を連想しちゃう。
雰囲気が。

312 :世界@名無史さん:2019/04/15(月) 09:42:18.62 0.net
そういえば既出だろうけど皇太子殿下も水上交通がご専門でしたな

313 :ウムウル :2019/04/16(火) 01:01:54.04 0.net
>>309
これは前に調べたことあって
またネット検索したけど
わからないですね


>>250

殷の戦車が中華様式でなく
中央アジア系の系統に属するという
説明はよく見かけてたのですが
その根拠は発見しますた

314 :ウムウル :2019/04/16(火) 22:05:43.97 0.net
>>310
そういえばアブラハムまでの系図が
交易都市のリストという説もありますね


マリとヌジ
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200000344

シリア南東部のアブ・ケマールの北北西約11`の所にある,
ユーフラテス川の近くの古代の王都マリ(テル・ハリーリ)の遺跡は,1933年以来,何度も発掘調査が行なわれてきました。
そして,面積がおよそ6f,300室を擁する巨大な宮殿が発見され,その公文書保管所から2万点余りの粘土板が出土しました。

この宮殿の建造物群には王族の居室だけでなく,行政当局者の事務所や書記のための学校もありました。
多くの建物の壁は壁画やフレスコ画で飾られており,浴室には浴槽も調っていましたし,厨房には菓子を作る型も見つかりました。
この都市は西暦前2千年紀の初期には最も際立った壮麗な都市の一つだったようです。

粘土板のテキストには,勅令,公報,会計,および運河・閘門・ダムその他かんがい設備を造るようにとの命令,
それに輸出,輸入,および外交問題に関する通信も含まれていました。
徴税や徴兵に関係した人口調査もしばしば行なわれました。

宗教,とりわけ豊饒の女神イシュタルの崇拝が顕著でした。その女神の神殿も見つかっています。
バビロンにおけると同様,肝臓を調べたり,天体を観察したりするなど,他の類似の方法で占いが行なわれました。
この都市の大部分はバビロニアの王ハンムラビにより滅ぼされました。

特に興味深いのは,ペレグ,セルグ,ナホル,テラ,およびハランという名前が出て来ることです。
それらは皆,メソポタミア北部の都市として列挙されており,アブラハムの親族の名前を反映しています。―創 11:17‐32。

315 :世界@名無史さん:2019/04/17(水) 04:17:55.91 0.net
中国・朝鮮王朝では穀物系の年貢は何に入れて運んだんだ?
やっぱり俵?

316 :ウムウル :2019/04/17(水) 22:07:32.91 0.net
>>315

穀倉の話はよく聞きますが
運ぶ方は確かにあんまり聞かないですね

あの穴のネズミ対策がどうなっていたのかが
めっちゃ気になりました

317 :ウムウル :2019/04/18(木) 02:39:01.06 0.net
アファール塩のキャラバン

・アフリカ最低のアッサル湖からエチオピア高地まで運搬
・採掘と運搬の分業制
・アファール族は塩板価格をコントロールする。ティグレ族はラクダの交易ルートを支配

(以下から抜粋)
「ラクダのキャラバン」が消滅の危機?1,000年以上続いてきた歴史に終止符が訪れる理由とは
https://tabippo.net/ethiopia-disappearance/

○塩のキャラバンの仕組み

村から湖畔までは10kmぐらい。日が昇ると、ラクダとロバの群れは、一斉に湖畔に向かいます。
岩塩の採掘工たちはトラックの荷台に乗り運ばれて行きます。

ラクダのキャラバン隊は、採掘工が掘り出した岩塩を、海抜マイナス100mのアサール湖から、
加工工場のある標高2,000mのメケレまで、片道2週間かけて運ぶそうです。


○塩のキャラバンの経済学

1)採掘工は、一人1日当たり約200枚の塩板を採掘し、
それを1枚当たり3-5ブル(1ブル=5円なので約20円)でラクダオーナーに売る。
つまり採掘工の日当は約800ブル(4000円) 。
これは、国民の25%が1日1ドル以下で生活するエチオピアにおいてはかなり良い待遇と言えます。

2)ラクダオーナーは、買い取った塩板を1枚50ブル(250円)で工場に売る。

往復1カ月の運搬の労、ラクダ所有・維持のコスト等があるにしても、同じ塩板が隣の州で一気に10倍になるという事実は驚きでした。
ラクダオーナーの月収は約2,500ドル(28万円)というのも理解できます。
そもそも、ロバ一頭100ドル(約1.1万円)、ラクダ一頭1000ドル(約11万円)するので、
それらを所有しているラクダオーナーはかなりの資産家なのかもしれません

318 :ウムウル :2019/04/18(木) 02:58:02.05 0.net
>>317

運搬量と維持費の関係でいくと
ラクダよりもロバの方が効率が高いらしい

おいらが見たのは
ラクダが20kgの塩インゴット6本を
背負って歩く姿でした

寒暖の差は100℃ぐらい
日中は50℃ぐらいになるんでやはり
日が昇りきると休んで、朝が来る前に出発するようです

319 :世界@名無史さん:2019/04/18(木) 08:53:35.43 0.net
>>318
ロバは粗食に耐えて丈夫なので、
古代中東ではどんな貧乏人でも飼えるものとされてたと聞く。
女性や子供でも手軽に扱える。
ただ、気に入らないことがあると、
大の男がどんなに叱りつけてもテコでも動かなくなる。

320 :ウムウル :2019/04/20(土) 14:09:56.00 0.net
>>247
ここに遺構写真がありました
有名碑文は三叉路にあったかと思っておりましたが記憶違いでした

ヨコハマ古道紀行さんからの抜粋です
【本邦初公開!?】アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が紀元前5世紀に築いた「王の道」

イラン中西部のハマダーンは古代の大国メディアの首都であり、イラン最古の都市の一つとして知られる歴史ある都市です。
その近郊の山岳地帯で近年、道路遺構が確認されました。

改めてご紹介すると「王の道」は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によって紀元前5世紀に敷設された幹線道で、
全長は首都スーサから小アジアのサルディスに至る2,400km。広大な版図を迅速な交通と通信で繋いでいました。

ハマダーンへ向かうルートは、「王の道」の支路と考えられてます。

「20〜30kmごとに、111の宿駅が設けられ、馬や食料が備えられていた。
宿ごとに待機した郵便夫が書状をリレー方式で中継し、スサからサルデスまで6日〜8日で伝えた(普通人は3ヶ月かかった)」(宮田律『物語イランの歴史』2002年)

アケメネス朝ペルシアにおいてハマダーンは、平均標高1,850mと高地にあることから、夏季の王都としての機能を持っていました。
このためスサ=サルデスのメーンルートから支路が伸びていました。

https://66.media.tumblr.com/b3bd33a66aa4cde5215068c5cefcead3/tumblr_inline_pepzat56iC1r4rrp5_500.jpg
https://66.media.tumblr.com/98f44b84ddf39fa6afb3acfe2595ed1f/tumblr_inline_peq0jkxdUU1r4rrp5_500.jpg
https://66.media.tumblr.com/7619f370ee3271638a15af4174547ae7/tumblr_inline_perddzSsHt1r4rrp5_500.jpg

典型的なソイルマークであり、これが日本国内であれば古代道路の痕跡と断言するところです。
Balmakiさんも存在自体はご存知だったそうですが、発掘調査をしてみないとなんともいえない、とのことでした。

問題はこのソイルマークの幅。なんと30mもあるのです。 後になって調べたところ、
他所での発掘調査の結果、「王の道」の幅は5-7mであったと考えられています。
後の時代のローマ街道が4mですから、実用上、必要十分なサイズであったと言えますね。

321 :ウムウル :2019/04/20(土) 14:42:17.56 0.net
ここのケチャップの話が好きです
おいらが知っている世界を一周した島と構造が似てますね


食物と酒、嗜好品の歴史@世界史板 107皿目
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1549950295/67

67 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2019/02/19(火) 23:42:47.31 0
「ケチャップ」ってもともとはインドネシア語起源だっけ。
たしか元祖「ケチャップ」は魚醤みたいなものだったはずだけど。


72 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2019/02/20(水) 08:47:17.72 0
ケチャップの語源は福建省南部の閩南語「鮭汁」koe-chiap
もとは魚醤のことだけど、これがマレー語に入ってソース類全般を表す言葉になった
でマレーを侵略したイギリスにもこの言葉が入って、そこからアメリカに伝わった
そしてアメリカでトマトケチャップが発明されて日本にも普及する
最後にトマトケチャップが日本領台湾に入り、台湾閩南語でke-chiap-puと呼ばれるようになった
ちょうど地球一周してる


73 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2019/02/20(水) 09:13:48.03 0
インドネシア語じゃなくて兄弟言語のマレー語だったんだ!
で、さらにそのルーツは福建系統の言葉と。

>>「鮭汁」koe-chiap
確か、「鮭」の字に「サケ」の意味を持たせるのは日本だけで、
本来の意味は「ケツギョ」っていうスズキに似た、
日本産だとオヤニラミに近縁な魚なんだよね。

それにしても、「ケチャップ」にしても「ウースターソース」にしても、
アングロサクソン系の食生活にアジア食が及ぼした影響って大きいもんだね。

322 :ウムウル :2019/04/22(月) 23:51:37.21 0.net
>>310
ちなみに台座はぶっこわされております

都市名称はここから引っ張ってるので正しいかは不明です
https://historum.com/threads/early-greek-history.18804/


クレタ系 5つ
amnisa, bajasta, kutunaja, kunusa ,and rikata.
→amnisos, phaistos,kydonia, knossos and lyktos

ミュケナイ系 7つ
mukanu, deqajis,misane,nuplija,kutira,weleja and amukla
→Mykene, Theben, Messene, Nauplia, Kythera, Elis and Amyklai

Argeioi
→Argos

これでたぶん13で最初の2つを合せて15のリストですね
掲載順番は違ってるかもしれません。

実際は初めは西から東の順に掲載されていて
つぎは西から東に並んでいることから、
エジプトからエーゲ海地域への往復の旅程表と推測されているそうです。

323 :世界@名無史さん:2019/04/23(火) 21:10:13.74 O.net
中国では
通常は,卸売り業者を通さずに
メーカー から直接
小売り店舗に,納品するのは,何故なんでしょうか ?

324 :ウムウル :2019/04/23(火) 22:50:27.62 0.net
ローマの郵便屋さんの中の人は
なんという名前だったのでしょうか、、、


クルスス・プブリクス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%B9

クルスス・プブリクス(ラテン語:Cursus publicus、「公道」の意。古代ギリシア語: δημ?σιο? δρ?μο?, d?mosios dromos)とは、
ローマ帝国の国営伝馬制度で、後に東ローマ帝国にも継承された。
皇帝アウグストゥスが、イタリアと属州間の役人、メッセージ、税金を移動させるために創設した。

高官の私用濫用や偽造許可証に加え、施設維持はその地域の責任で人民の負担は大きく、生活も圧迫されて、
4世紀には「ローマ世界の悪疫」とまで嘆かれるようになった[1]。

6世紀前半まで東ローマ帝国で完全に機能していたが、
東ローマ帝国の歴史家プロコピオスは皇帝ユスティニアヌス1世がペルシア国境への道以外を廃止したと非難している[2]。

クルスス・プブリクスの行程は、西暦400年ごろのローマ道路網の地図ポイティンガー図に示されている[3]。

325 :ウムウル :2019/04/24(水) 07:14:33.89 0.net
>>324
神聖ローマのポストマンは名前がありましたww

下記サイトはローマ帝国の道路が載ってますが
馬車事情と軌間については情報なしですね

道路幅は載ってましたが実際はもうちょっと広いかと思います
ローマは舗装が大変だったのか、車線は複線までの情報しかでてこないです
中国は片側3車線まであったような気がします


ローマの道路 (Roman roads)
http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/canal10/roman_roads.htm

法律と伝統

およそ BC 450 年頃の 十二表法が明示していることは、 道路は直線区間では幅が 8 フィート (2.45 m) で曲線区間では幅が 16 フィート (4.90 m) であった。
実際の実践はこの標準から変動した。

この表 (Table) はローマ人に道路を建設する命令を与え、 道路が荒れている時は、徒歩の旅行者が私有地を通過する権利を与えている。
しばしば修理する必要がない道路建設は理想的なこととなり、
更には道路をできる限り直線にして、細い道路の建設を可能とし、 資材の節約をした。

ローマの法律は道路を使用することをセルビートス (servitus、要求) として定義した。
ユーセンオンディ (ius eundi, 通行権) は私有地を越えて、イーテル (iter、歩行路) を使用する要求として制定した。
ユーサジェンディ (ius agendi, 車両の通行権) はアークトス (actus、車路) の場合に同様である。
ヴィア (via、道) は両方の形式のセルビートス (servitus, 要求) を併せ持った。
但し、これは道の幅が適当な場合であり、これを決定したのはアルビーテル (arbiter、調停者) であった。
無指定の場合の幅は合法的な幅である 8 フィート (2.45 m) であった。

ローマの法律と伝統は特別な場合を除き都市での車両の使用を禁止した。
既婚女性と公務における官吏は車に乗ることができた。 Lex Iulia Municipalis は商用荷車の夜間の進入を制限し、 市の壁の中と壁の外 1 マイル以内の進入を禁止した。

326 :ウムウル :2019/04/24(水) 19:59:27.82 0.net
>>247

後の時代になりますがパルティアの駅程と中継地のリストが
以下のサイトにありました

パ ルティアの駅程
http://zae06141.client.jp/iranhistory_parthian_station.html

カラクスのイシドルスにおるパルティアの駅程の訳*1
紀元前1世紀のレバント地方とインドの間の陸上貿易路の旅程

-メソポタミアとバビロニアの間 171  Schoeni*1
-Apolloniatis    33、
-Chalonitis     21
-メディア      22
-Cambadena    31
-上メディア     38
メディア ラガイアナ 58
-Choarena     19
-Comisena     58
-ヒルカニア     60
-Astauena     60
-Parthyena     25
-Apauarticena   27
-マルギアナ    30
-アリア       30
-Anaua       55
-Zarangiana(ドランギアナ) 21
-サカスターナ   63
-アラコシア     36
----- - -----------
合計 858 Schoeni

327 :ウムウル :2019/04/25(木) 00:35:03.27 0.net
>>42

ここに始皇帝さんの中の人が
中の人になる前につくらせた
「馳道」と「直道」についてです


ヨコハマ古道奇行さんのところですが
リンクは長くて貼れません


秦の始皇帝が築いた”中国最古の高速道路”「直道」

@道路網「馳道」
https://66.media.tumblr.com/ffb24ff890ffb2015231aeb3f4861896/tumblr_inline_pa5kaqS7h61r4rrp5_500.jpg

A北方の匈奴対策のための軍道で「直道」
https://66.media.tumblr.com/1920bc20ff9e687d17a43b394c4567b3/tumblr_inline_pam8bki7uv1r4rrp5_640.jpg

がありました。
そして現地画像とNHKスペシャル「アジア巨大遺跡」のコラムへのリンク先が記載されております

328 :世界@名無史さん:2019/04/26(金) 08:10:07.48 0.net
>>320
古代道路って必要以上の幅の立派なことが多い。
必要というより、権力を見せつける象徴なんじゃないかなぁ?
日本の律令時代の官道なんかは、
見栄っ張りそのもので、
国力からすれば身分不相応。
ほとんどが維持できずに消滅。
古代ローマの街道だけは必要に応じた幅と規模だったのかも?

329 :世界@名無史さん:2019/04/26(金) 08:21:08.37 0.net
>>320
岩波文庫のアナバシスを読んだことがあるけど、
あちこちにペルシア王に服さない部族がいたりして、
近代国家の領土のイメージとはだいぶ違う気がした。
王の道と言えども、武装隊列を組んで行かないと危ないぞ、きっと。
優雅な一人旅なんて、できるんか?

330 :ウムウル :2019/04/26(金) 18:38:34.70 0.net
>>328

古代ローマの道路は
舗装が他と比べて圧倒的ですね
そのぶんコストがかかってると思います

あと、おそらく幹線のみを発達させるんじゃなくて
ネットワークを重視したので
車線を増やす方針にしなかったのではないでしょうか

331 :ウムウル :2019/04/27(土) 14:02:57.39 0.net
>>329
記憶によれば
ローマ時代でも街道の行き来は
盗賊の危険があったかと思うので
ペルシャも推して知るべしというやつな気がしますね

公的な使者の方が実入りがよかったらしく
より危なかったそうなw

332 :世界@名無史さん:2019/04/27(土) 22:21:10.32 0.net
>>331
盗賊、馬賊、匪賊、山賊、海賊、、、。
賊には賊の歴史と伝統あり。
独自の物流、流通、情報ネットワークを形成してたりする。
地下経済を担う日陰の存在ゆえ、
記録や資料を残さず、実態は不明だが。

333 :ウムウル :2019/04/27(土) 22:47:57.26 0.net
>>315>>316

隋時代になりますが
中国王朝 英雄たちの伝説「巨大遺産の謎 大運河〜煬帝から永楽帝へ〜」
の中に倉庫の造り方が解説されてました

以下、記憶を元に再構成

@円錐上に巨大な穴を掘る
A底を付き固め、周囲は目の細かい土(たぶん粘土質)で覆う
B火で炙り内部の水分を飛ばす
C木板を並べ周囲を囲う
Dござで周囲を覆う

→ 穀物を投入(画は俵でした)

E上から蓋をして、ゴザの上から籾殻を置いて断熱性を高める
F周囲を建屋で覆い屋根をかぶせる

記憶が怪しいのでどなたか修正してくだせぇ

334 :世界@名無史さん:2019/04/29(月) 01:17:03.97 0.net
シナ海軍への防衛の為、海自、南極観測から撤退検討

民間船で物資輸送か?

335 :世界@名無史さん:2019/04/30(火) 13:39:45.53 0.net
>>334
南極観測の空白は我が国が引き継ぎますのでご安心を。by China.

336 :世界@名無史さん:2019/04/30(火) 15:25:31.54 0.net
シナ崩壊がついに始まった

337 :世界@名無史さん:2019/05/03(金) 19:11:10.50 0.net
明・清が海外貿易に自ら進出しなかったのは
国内に満足していたからというより、
国内の物流の確保が権力を左右することを痛感していて、
商人を海外へ進出させると力を持ちすぎ政府の統制を脅かすと
思っていたからなのだろうか?

338 :世界@名無史さん:2019/05/04(土) 10:04:05.24 0.net
>>337
商業蔑視と朝貢に拘る中華思想の暴走。
海商民を倭寇と称し、反体制とみなす。
物流軽視のくせに、図らずも交易から絶大な利益を得ていて、
世界中の銀を集めて、銀本位経済になっちゃうほど。

339 :世界@名無史さん:2019/05/04(土) 12:03:11.16 0.net
日本中に新幹線を張り巡らせるにはモータリゼーションの発達した今では2億人くらいの人口が必要だと思う
勿論首都圏、関西圏以外に人口が分散しているという条件で

中国は高速鉄道の距離はこのままでは日本の10倍を超えそう

340 :世界@名無史さん:2019/05/05(日) 03:34:35.01 0.net
今上陛下のオックスフォードでの博士論文のタイトルは
「テムズ川の水上交通」

341 :世界@名無史さん:2019/05/05(日) 19:14:25.30 0.net
>>337
洪武帝がその生まれ育ちから、重農主義に大きく傾いてレール敷いたのが後々まで響いてるね
後世の皇帝が軌道修正しなかったわけではないにせよ、廷臣含め根本を覆すほどの熱意はなかった
仮に朱元璋でなく張士誠みたいなのが帝位についていたなら、また違った展開になっていたと思うね

342 :世界@名無史さん:2019/05/06(月) 14:56:19.01 0.net
農本主義が商業を嫌うのは、蔑むと同時に商業を恐れているのだよね。
建前は格差を生むとかで商業活動が制約されたけど、
物流と情報により生み出され再投資される富とは
権威主義的な支配者から見ればとらえどころがなく、自分の権力を脅かす
恐ろしい存在だった。

江戸幕府は大坂を物資の集散地にして当地は商業活動が活発だったけど
商業や商人の影響力を大坂に隔離して全国に広まることを防いだようにも見える。
大阪の文化って関西の中でも結構特殊だよね。
特定の街や港で

343 :世界@名無史さん:2019/05/06(月) 20:06:56.05 0.net
人手不足ならカボタージュを廃止すればいい

344 :ウムウル :2019/05/10(金) 04:01:36.46 0.net
>>2>>25>>27
うんこ●が逆流したとのこと
工事の詳細がわかったら、またご連絡いたします


19世紀の土木工学の偉業ともいわれる「シカゴ還流」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%82%B4%E5%B7%9D#%E9%82%84%E6%B5%81
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/53/Diversion_of_Chicago_Waterways.png


シカゴ川は元来ミシガン湖へと流れ込んでいたため、シカゴが成長するにつれ、下水や汚染物が浄水源である湖に流れ込んでしまうようになった。
その結果、腸チフスなどを含む公衆衛生上の問題が生じた[5]。1850年代から、多くの水路は方向を変えられ、
シカゴ・ポーテジ(英語版)(デプレインズ川(英語版)とシカゴ川の間にあった陸地一帯)を横切りイリノイ・ミシガン運河に流れるようになる[6]。

1900年、シカゴ衛生区(当時の代表はルドルフ・ヘリング)は一連の閘門を用いてシカゴ川を完全に逆流させ、
新たに完成したシカゴ衛生・船舶運河(英語版)へ流れ込むようになった。
シカゴ川はこの時まで、急成長するシカゴの産業経済から流れ込む大量の下水や汚染物のために「臭い川」と地元住民から呼ばれていた。

その後も1980年代までシカゴ川は非常に汚く、時にはゴミで一杯になっていたが、
1990年代になり、シカゴ市長リチャード・デイリー(Richard M. Daley.)による美化運動の一環として、広域の清掃作業が実施された。

345 :ウムウル :2019/05/10(金) 23:55:00.70 0.net
ジャンボにクラゲ手とても短い寿命でした、、、


【航空】エアバスA380が失敗した理由、アメリカン航空の幹部が明かす
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/bizplus/1556539951/1

1 名前:田杉山脈 ★[] 投稿日:2019/04/29(月) 21:12:31.75 ID:CAP_USER
エアバスA380は、最大800人以上が搭乗可能な世界最大の旅客機。
価格は4億4560万ドル(約490億円)、世界で最も高価な旅客機でもある。

巨大な総2階建てのA380は、現代のエンジニアリングの粋を結集し、ボーイング747ジャンボジェットに挑むために作られた。

だがエアバスにとって残念なことに、20年以上前に考案された時に同社がA380に期待したような
ゲームチェンジャーにはなり得なかった。特に経済性が問題となった。

エアバスはここ数年、A380を購入してくれる航空会社を見つけることに苦戦してきた。
そしてついに2019年はじめ、同社はA380の生産を2021年に終了すると発表した。

(つづきはWebで)

346 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 07:50:32.05 0.net
>>345
絶版になってるけど
ヘンク・テネケス
「鳥と飛行機どこがちがうか―飛行の科学入門」
小さな虫から執筆当時最大の747機までの翼面荷重と速度の一覧がグラフになってて、
ものの見事に法則に合ってるとわかる。
ジャンボより大きくて重いと
翼面積を大きくするか巡航速度を上げるか。
どちらも燃費を悪化させそうだ。
離陸滑走距離も長くなるし。
もしかしてジャンボ機サイズと形状が大型機での最適解?

347 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 10:30:50.71 0.net
JAXA「ウリはマッハ1.6にだ」

348 :ウムウル :2019/05/11(土) 10:33:53.82 0.net
>>346

輸送力というのは、おいらの解釈では

輸送力 = @積載重量 × A速度 × B頻度

これで決まると思っております。
A380は致命的にB頻度が厳しいのが原因ではないでしょうか、、、
どうしても地上時間が長くなってしまします。


経済性に関しては、
頂点捕食者がより環境の制約を大きく受けるのに似ているかと思います。

滑走距離で空港の制限が厳しくなるのも、そのひとつかと思いますが
トッププレデターを維持させていた空港や旅客人口の動態が変化しちゃったのが大きいのでは
そのうちジャンボも淘汰されちゃうかもしれませんね、、、

349 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 12:51:07.87 O.net
ビルのエレベーターも大きすぎると出入りの度にロスが多いもんね…ビルのサイズ検討にも繋がる。
コレの研究データをどっかでみた気がする

350 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 13:22:21.94 0.net
>>348
旅客用747 8Iは、売れず。生産中止の可能生大。事実上、淘汰されてる。
貨物用747 8Fは、売れ行き好調。まだまだ需要あり。

351 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 14:10:19.48 0.net
鉄道路線の周りに住宅地がたくさん建ってるのは日本特有の事情らしい
福知山線のカーブ周辺はヨーロッパならマンションが建たなかった

352 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 15:02:21.78 0.net
>>351
ヨーロッパの鉄道のカーブ周辺
http://www.rig-bahn.jp/db-page/db-photo/travel/berlin8.jpg

353 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 15:29:39.08 0.net
架空の欧米持ち出してチョンモメン特有の日本sageお人形遊びしてくる奴っているよな
でも嘘100%だからすぐバレるでやんの

354 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 17:25:57.63 0.net
>>351
ヨーロッパの鉄道のカーブ周辺


https://farm8.static.flickr.com/7925/47495517402_f64a879aa1_b.jpg

355 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 18:19:28.29 0.net
落書きされた電車が走ってる時点で民度ウンコですわ

356 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 21:44:40.85 0.net
>>355
そもそも写真に写っているのは電車なのか
それとも客車なのか、という議論からよろしく

357 :世界@名無史さん:2019/05/11(土) 21:49:41.14 0.net
>>356
電車とか好きそう

358 :ウムウル :2019/05/12(日) 15:32:48.87 0.net
>>331>>332


これjは記憶の方がダメで
近世での公的郵便制度でも事件が多発していたらしく
19世紀までは強盗事件が余裕で記録されているそうな

359 :世界@名無史さん:2019/05/12(日) 19:11:24.53 0.net
郵便配達人が拳銃を所持するのはよくあること。
日本でも郵便制度初期の頃は拳銃を所持していた。

ただ、国鉄で現金輸送専用車ができたのは戦後になってからで
戦前は普通に荷物車を使っていたらしい。

360 :世界@名無史さん:2019/05/12(日) 20:35:48.99 O.net
国鉄の緊急連絡用砂袋…通信袋だっけ?いつ頃まで使われてたのかな…
通過駅ホームに放り投げる奴…何かのドラマでみた記憶が…

361 :ウムウル :2019/05/12(日) 21:45:06.52 0.net
>>359
英国の馬車郵便は
ラッパ銃もって乗る護衛役と
運転手も拳銃装備することになってたんでしたか

362 :359:2019/05/12(日) 23:19:29.15 0.net
修正だが戦前の現金輸送は荷物車ではなく貨車で貨物列車による輸送だった。
戦前はインフレがあまりなかったので東京の日銀本店から各地方へは年1回程度の輸送で済んだらしいが
日銀職員は貨車の中に同乗して数日がかりで現金輸送の警戒に当たった。
ちなみに当時の輸送は東京-大阪間で約3日かかったらしい
ソースは現金輸送車物語

正直、筋金入りの鉄オタでもこの仕事はやりたがらないと思う。

363 :世界@名無史さん:2019/05/13(月) 00:32:49.58 0.net
鉄オタっていつ頃生まれたんやろう
戦前にも乗り鉄撮り鉄がおったんかな

364 :世界@名無史さん:2019/05/13(月) 01:09:42.89 O.net
ビッグコミックオリジナルの『てつぼん』て鉄オタ漫画に…たまに主人公の祖父の昔話があるね。
冷凍みかん食べながら車窓の景色を楽しんだり…

365 :世界@名無史さん:2019/05/13(月) 06:38:02.55 0.net
大正生まれの祖母は時刻表を買ってきては、
赤鉛筆でビッシリと書き込み
ローカル線に乗るのが好きだった。
一種の鉄オタかもしれぬ。

366 :世界@名無史さん:2019/05/13(月) 23:41:03.58 0.net
>>363
映像の世紀で活動写真黎明期から撮り鉄がカメラに収められてたから
少なくとも20C初頭にはいた

367 :世界@名無史さん:2019/05/14(火) 00:29:50.48 0.net
>>363
19世紀後半の有名な鉄オタの一人
アントニン・ドヴォルザーク
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%AF

世界初の鉄道開業から1年たたないうちに、リバプールとマンチェスター間を鉄道に乗るという体験を繰り返す為だけに
鉄道に乗る人がいたそうだから、開業早々から鉄オタはいたようだ。

368 :世界@名無史さん:2019/05/14(火) 08:56:28.13 0.net
「高輪ゲートウェイ」は山手線に予定の新駅で、
名前に一部から不評を買った。
江戸時代に高輪大木戸が設置されていて、
東海道から江戸に入る玄関だった。
また芝浦の船着き場に近く、
陸海双方の江戸の玄関口だったと言える。
従って、本来は「高輪大木戸」の駅名がふさわしい。

忠臣蔵四十七士は本懐を遂げた後、
高輪大木戸を通過して泉岳寺に入った。
本来なら木戸は閉じられているはずの夜の時間帯に。
赤穂義士を幕府役人たちが応援していたのかもしれない。
高輪大木戸から東海道や芝浦に行こうとすると、
泉岳寺が見える。
そこに浅野内匠頭と四十七士が眠っており、
沿道に忠臣蔵にまつわるお土産屋が多数あったという。
陸海の旅人たちは忠義の物語を聞かされて、
全国に語り伝える役割を担う。

369 :ウムウル :2019/05/18(土) 22:00:28.51 0.net
>>291>>191

塩のさんの中の人の本に
スペイン船が地中海で
新大陸の獲得物を
ジブラルタルの内側を運ぶ際に
海賊に持っていかれると書いていたのだが
受け入れ側は実際のとこどうなっていたのだろうか、、、

370 :ウムウル :2019/05/21(火) 21:05:42.67 0.net
おいらあんまり印象ありません
石炭使うようになってからのイメージです


ライン川文明の歴史
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1526119947/1

1 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2018/05/12(土) 19:12:27.33 0
「エジプトはナイルの賜物」というが、アルプス以北の欧州も、ライン川の文明だ

暗黒の中世においても、ライン川の周辺だけは別格の先進地

そんなライン川の歴史を語る

371 :ウムウル :2019/05/21(火) 21:37:48.32 0.net
【考古学】紀元前450年ごろに歴史家ヘロドトスが見たナイル川の貨物船「Baris」は実在した[03/18]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1552892870/1

1 名前:しじみ ★[sage] 投稿日:2019/03/18(月) 16:07:50.64 ID:CAP_USER
古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの著作「歴史」第2巻にはナイル川についての記述があり、「Baris」と呼ばれる貨物船が描写されています。
長らく、学者たちはその文章の解釈に苦労していましたが、ナイル川河口近くで沈んでいた船の調査により、Barisがどういうものだったのかが明らかになっています。

Nile shipwreck discovery proves Herodotus right – after 2,469 years | Science | The Guardian
https://www.theguardian.com/science/2019/mar/17/nile-shipwreck-herodotus-archaeologists-thonis-heraclion
https://i.gzn.jp/img/2019/03/18/herodutus-egyptian-boat/03.jpg

This Nile Shipwreck Is First Evidence That Herodotus Wasn't Lying About Egyptian Boats
https://www.sciencealert.com/a-stunning-nile-shipwreck-provides-the-first-archaeological-evidence-of-a-boat-described-by-herodotus
https://i.gzn.jp/img/2019/03/18/herodutus-egyptian-boat/00.jpg

ヒルティ財団の支援を受けて、アレキサンドリア近海の調査を行っていたオックスフォード大学海洋考古学センターは、
水没した港湾都市「トロニス-ヘラクレイオン」の遺跡周辺で、船体の70%が残っているという極めて状態のよい難破船「Ship 17」を発見しました。

調査に携わったアレクサンダー・ベロフ氏の論文掲載の資料によると、見つかった時点の姿はこんな形だったとのこと。
https://i.gzn.jp/img/2019/03/18/herodutus-egyptian-boat/01.png

トロニス-ヘラクレイオンはこのあたり。アレキサンドリアの北東に位置します。
https://www.google.com/maps?ll=31.304167,30.100556&z=10&t=m&hl=ja&gl=JP&mapclient=embed&cid=4716057926406606565

372 :世界@名無史さん:2019/05/21(火) 21:38:06.42 O.net
プロイセンが列強への地歩を固める経済力を手にするのは…ナポレオン戦争の報奨にラインラントを手にしてから?
フランスへの矢面に立たせてやろうとするメッテルニヒの嫌がらせかもしれないけど…

373 :ウムウル :2019/05/21(火) 21:41:54.04 0.net
>>371

Ship 17は最も長い部分で28mある、大きな三日月型の船体と、厚板にほぞを組み合わせた構造が特徴的です。
これはまさに、ヘロドトスが「歴史」第2巻に記した、
長さ約1mにカットした厚板をレンガのように並べてほぞをかませて作る「Baris」と呼ばれる貨物船と共通しており、
ヘロドトスの書き記した内容がそのまま本当であったことがわかります。

ヘロドトスが「竜骨(キール)に穴が開いていて舵を通していた」という操舵システムは、このようなものであったと考えられています。


オックスフォード海洋考古学センターでは研究結果をまとめて出版しており、
Ship 17についての話は「Ship 17: a baris from Thonis-Heracleion」という書籍にまとめられているとのことです。


GIGAZINE

374 :ウムウル :2019/05/21(火) 21:43:17.51 0.net
書き込めない謎がなぞでした、、、
>>373

GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20190318-herodutus-egyptian-boat/

https://i.gzn.jp/img/2019/03/18/herodutus-egyptian-boat/02.png

375 :ウムウル :2019/05/21(火) 22:55:43.68 0.net
>>372
ロスチャイルドと結び付けたかったのですが
おいら失敗を認めざるをえませんでした

376 :世界@名無史さん:2019/05/23(木) 00:12:52.89 0.net
底辺産業というイメージはいつごろからだろう。

377 :世界@名無史さん:2019/05/23(木) 06:07:32.00 0.net
>>376
港の荷揚げ労働の場合はキツイ、危険、低賃金と世界中どこでも昔から相場が決まってる。
荷揚げ労働者たちを仕切るのはヤクザ者で荒っぽいし、船乗りたちに春を売る女たちを集めたり、酒場や歓楽興行も反社会的勢力が仕切る。
神戸港で発展した山口組は典型だが、
同様の様相はコンテナ輸送が広まる以前に世界の港で見られてた。
底辺視される由縁かも?

378 :世界@名無史さん:2019/05/23(木) 07:29:52.00 0.net
>>376
昔、荷役や道普請を夫役、労役で人民を強制使役して行なわせるもの。
社会インフラを支える重要な業務だが、
辛い苦役だもんな。
現代、長時間労働を厭わないトラック野郎。
運転手個人でトラックを購入する人もいるぐらいだから、収入はいいはず。

379 :ウムウル :2019/05/29(水) 00:16:49.74 0.net
ビルカ

ビルカ(Birka)は、現在のスウェーデンの首都ストックホルム西方約29kmのメーラレン湖のビェルケ島にあるヴァイキング時代の都市遺跡である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%AB


ビルカの記録

ビルカについての文字記録はフランク王国の宣教師アンスカル(en:Ansgar)の弟子リンベルト(en:Rimbert)が875年以前に著した『聖アンスカル伝』に登場する。

この中ではビルカはシンクと呼ばれる民会で自治が行われていること。遠くオランダのドーレスタットなどと交易していることを記録している。
またビルカは要塞を有しており外敵からの襲来にたいして備えていることも記されている。

ビルカがどこと交易しているかは遺跡に無数にある墓からの副葬品で窺い知ることができる。
ビルカ周辺の墓は少なくとも2000基程あることが判っており、そのうち1100基が発掘されている。
その副葬品は以下に分けられる。西ヨーロッパから渡来した品々。ラインラントの壷や盃、フランクの宝飾品、アイルランドの青銅製品などがそれである。
またそれを購入するためのビルカ独自のコイン「ビルカコイン」も多数出土している。

これらの発掘は9世紀の墓に集中しており、10世紀の墓からは副葬品自体が少なくなっているが、
東方のロシア、ヴォルガ川流域からの物産が見つかっている。
10世紀末にはイングランドのエセルレッド王のコインがゲルマンコインがスカンディナヴィアで広く流通しているが、ビルカからは発見されていない。
そのため980年以前にはビルカは消滅したものと考えられる。

380 :ウムウル :2019/05/29(水) 00:37:49.26 0.net
東方植民
ロカトール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E6%A4%8D%E6%B0%91

概要

民族移動後のゲルマン人の定住地域の東境は、
ほぼエルベ川とその支流ザーレ川、ボヘミアの森とバイエルン境を連ねる線であり、それ以東はスラブ人の居住地であった。
10世紀以降、この地域のキリスト教会が精力的に活動を行い、多数の司教座が建設された。

領邦諸侯や騎士団は、実際の植民事業の遂行をロカトール(Locator)とよばれる請負人にゆだねた。
ロカトールは、ドイツ本国において植民者を募集し、彼らを率いて植民村落の建設を行った。
ロカトールは村長として裁判権などの特権を賦与され、村民から地代を徴収して、領主である諸侯や騎士団に納めた。

植民地域の建設都市のうち、バルト海沿岸の海港都市や比較的大きな商業都市のように、
ハンザ都市その他本国の都市が母都市となり、母都市の商人団が娘都市(Tochterstaad)を建設したものもあるが、
内陸の中・小都市の多くは、植民村落の場合と類似の方法で、ロカトールの請負により建設された。

381 :ウムウル :2019/05/29(水) 01:44:02.30 0.net
>>28

ナイル川の瀑布
おいら何故か8つかと思ってましたが
六段階で大丈夫そうですね

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ea/Nubia_today.png


木村書店WEB文庫無料公開
『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第6章2

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-51-602.html

(第6章2) 母なるナイル
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-6-nairu.gif

382 :ウムウル :2019/05/29(水) 01:52:25.71 0.net
>>381

@エレファンティネ島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8D%E5%B3%B6

エレファンティネ島はナイル川の第1急流(英語版)を構成する無数の島や岩礁のひとつであり、当該第1急流の北端に位置する(#地理)。
古代エジプトの地理概念ではエレファンティネ島が上エジプトの南端であり、第一急流を越えてナイル川を遡るとそこは「ヌビア」と呼ばれる地域であった。
また、エレファンティネ島には第1行政区(ノモス)の主都が置かれた[1](#歴史)。

Abou, Yeb (アブー、イェブ)

島の名前 ?bw は古代エジプト語で「象」或いは「象牙」を意味する[3]。
「象牙の島」という名称から推測するに、エレファンティネ島は遥か南のサヘル地方で産出される象牙の取引所として重要な場所であったようである。
別の説では、島は象から身を守る場所であって、その意味のギリシア語の単語エレファス(ελ?φα?) が古代における島の名前であったとする。


スント「浮く町」

古王国時代エジプトにおいてエレファンティネ島は「南への扉」という別名で知られており[4]、
「エジプト」という国ないし地域の南限であると考えられていた(この島より南は「ヌビア」という別の国ないし地域)[4]。
島の南部には、紀元前4000年前からスント(Sount)という城が築かれていた。
スントには「浮く町」という意味がある。古代王国は、この街を税関として、また南の国との交易の場所として利用していた。

383 :ウムウル :2019/05/29(水) 02:11:15.71 0.net
>>381

一覧表がみつからないので
いまのところ、この日程表がよさそうです


スーダンからエジプトへ 大ヌビア紀行
ハルツームからアブシンベルへ、究極のナイル流域遺跡探訪の旅
https://www.saiyu.co.jp/itinerary/new/GASD12/index.html

384 :ウムウル :2019/05/29(水) 20:03:15.78 0.net
>>381

ハルツームが青と白がマーブルにナイルところなのですが
ここは瀑布ではないですね

https://www.internationalrivers.org/sites/default/files/styles/600-height/public/images/campaign/ian_elwood/nubian_dams_web.jpg?itok=ANZmEm7x

D第五瀑布はアトバラ川の合流点なのですが
そこはスーダン鉄道の結節点になっております

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5b/Railways_in_Sudan.svg/1024px-Railways_in_Sudan.svg.png

ここのサイトでは黒ナイルと記載してありますね
https://yascovicci.exblog.jp/16510014/

385 :ウムウル :2019/05/30(木) 22:53:10.60 0.net
どこかの衛星とリンクしているらしい、、、
そして運行速度が遅くて各地で顰蹙を買っているらしい、、、


朝鮮民主主義人民共和国最高指導者専用列車

朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者が利用する特別編成の列車。
太陽号とも1号列車とも呼ばれる。

通常、ディーゼル機関車2両と客車17-21両で運行されるが、指導者の乗車の有無をカモフラージュするために、外見が同じ編成の列車を複数運行することもある


産経ニュース
「地球10周分疾走」隠されたハイテク専用列車内 「3万4千キロ」空の旅の謎
https://www.sankei.com/premium/news/141219/prm1412190006-n1.html

長大な距離の視察や外遊で用いた専用列車は17両編成で、「太陽号」とも呼ばれる。
旧ソ連の指導者スターリンから金日成(イルソン)主席に贈られた。
外見は古く見えるが、実際は米国などの衛星からの追跡を逃れるため、
赤外線を吸収する特殊コーティングが施され、防弾鋼板で補強、窓は防弾ガラスとなっている。

 内装も絶えず最新式の装備で改良を重ねてきた。
金総書記がよく使う3車両は、大理石のような材質の床に世界最高級の家具を備えつけ、
電子地図モニターやテレビ、パソコン、電話といった機器は衛星回線とつながっているという。

386 :ウムウル :2019/05/30(木) 23:56:43.06 0.net
四ツ橋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%83%84%E6%A9%8B

四ツ橋(よつばし)は、大阪市内に唯一存在した「堀川の十字交差部」に架橋されていた4つの橋を一括して称した「四つ橋」[1]、およびその周辺の地域の通称である。
道路、水路、その後の市電にとっての重要な交通の要所であった。
その後、堀川は埋め立てられ、現在は交差点名や駅名としてその名を残している[2]。

「四つ橋」(橋)
現在、ともに埋め立てられている長堀川と西横堀川が十字に交差した地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋の総称である[3]。
これら4つの橋は、長堀川が開削された1622年(元和8年)より間もなく架けられたと考えられる[1]。

橋脚は3本の柱を横梁で補強されており、径間数は7-8で、橋脚間の幅は平均4-5メートルであったと推定される。
橋の幅は、江戸時代前期にはそれぞれ約3メートルであったが、1881年(明治14年)の記録においては約6メートルになっている。
本流の淀川より離れた位置にあるが、1845年(弘化2年)の淀川の洪水では、四つ橋のうち1つが流された記録がある[1]。

上繋橋(かみつなぎばし)
下繋橋(しもつなぎばし)
炭屋橋(すみやばし)
吉野屋橋(よしのやばし)


昭和初期に四つ橋は、第一次都市計画事業に基づき、それぞれ全長25-34メートル、幅が上繋橋で27.4メートルであるほかは約9メートルのアーチ橋に架け替えられた。
アーチ橋としたのは河川舟運を考慮したものと考えられる[1]。
しかし、太平洋戦争後の高度成長期になると自動車の交通量が急増し、道路拡張のため[4]、
1964年(昭和39年)、西横堀川の埋め立てにより上繋橋と下繋橋は撤去され、
1970年(昭和45年)には、長堀川の埋め立てにより炭屋橋と吉野屋橋も撤去された[1]。

387 :ウムウル :2019/06/02(日) 23:09:46.31 0.net
>>384

ちなみにメロエダムはメロエじゃないところに作られており
瀑布の近くにあるドンゴラは新ドンゴラです。

なかなかややこしいww

388 :ウムウル :2019/06/06(木) 01:43:08.62 0.net
≪前漢書≫地理誌には、

“日南の障塞しょうさい(今の越南の順化フエ:Hue)や
徐聞じょぶん(今の広東省海安 )・
合浦がっぽ(朝鮮半島南端の軍港)・
都元とげん国(今のスマトラの西北部)は、
船で行くと5ケ月で到達できる。

さらに船で行くこと4ケ月で盧没ろぼつ国(今のミャンマーのタンルウィン川の河口西)へ、
さらに航行20余日でェ離しんり国(今のイラワジ川沿岸)に至る。

そこから歩いて10日あまりで夫甘都廬ふかんとろ国(今のイマラジ川の俾謬ぴい:Prom付近)へと至る。
夫甘都廬国から航行2カ月あまりで、黄支おうし国(今のインドのチュンナイ付近)*12に至る”とある

389 :ウムウル :2019/06/06(木) 02:05:16.19 0.net
歴史マニアのための魏晋南北朝史〜歴史の真髄?
http://www.rekishinoshinzui.com/entry/2017/11/09/063000

刊溝
これは運河である。

●刊溝はどこにあるか。
●刊溝はいつ作られたか。
●刊溝を作った呉王夫差の目的
●越王勾践も?溝を活用する。
●呉楚七国の乱で前漢の呉王劉?が?溝を活用。
●後漢末から三国時代の刊溝 孫権も使う。
●西晋時代の刊溝は平和利用。
●東晋では?翼も桓温も北伐で使った。
●建康から洛陽までを繋ぐ刊溝 その道のり
●隋は刊溝を使って陳を滅ぼした後、大運河の一部とする。

江南の歴史を語る際に重要な運河である

●刊溝はどこにあるか。

長江から南北に淮水を繋いでいる。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kazutom925/20171027/20171027085358.jpg

390 :ウムウル :2019/06/06(木) 02:35:32.28 0.net
>>389

東北へ射陽湖を経由するルートから
途中の湖を数珠繋ぎに直線化するルートに変更されたらしい


《宋史》卷九十六?志第四十九?河渠六:
「春秋時,?穿?溝,東北通射陽湖,西北至末口。
漢?王?開?溝,通運海陵。隋開?溝,自山陽至揚子入江。」

とあるので、なんとなく前漢っぽい気がするのだが
賈逵 (魏)と同じ時代として紹介されておりました

391 :ウムウル :2019/06/06(木) 02:45:54.67 0.net
>>390
この「賈侯渠」はワードが腐ってて
ルート図を載せれませんでした


賈逵 (魏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%88%E9%80%B5_(%E9%AD%8F)

建国後

曹丕が魏王になると、賈逵は?県令となり、やがて魏郡太守に昇進した。
曹丕が遠征した際は、丞相主簿祭酒に任命され随行した。また厳しく軍律を履行し、沛国?県についたときには豫州刺史を任された。
賈逵は、豫州の治政が緩んでいたのを見て官吏の綱紀粛正に努め、他の州治の手本となるほどの治績を挙げた。この功で関内侯に封じられた。

豫州は呉と国境を接していたため、軍備の整備と充実に励んだ。
中でも特筆すべきが、二百里にも及ぶ大運河を築き上げたことであり、この大運河は『賈侯渠』と呼ばれた。

呉との軍役にも何度か参加し、呂範を破るなど功績を挙げ、建威将軍・陽里亭侯となった。
また、呉軍の東西に伸びた防備ラインを打ち破るため、長江までの直通の通路を整備することを主張した。曹丕(文帝)はこれを賞したという。

392 :ウムウル :2019/06/06(木) 21:15:34.47 0.net
>>388
尋常じゃなく時間かかってるけど
大丈夫なんだろうかww

地中海の移動と比べるとヤバイ感じがするっすね

393 :世界@名無史さん:2019/06/06(木) 21:19:32.34 0.net
何でウムウムとやらは自分で自分にレスしとるんや?

394 :ウムウル :2019/06/08(土) 07:55:58.09 0.net
おいら最近流行のひきこもりなので
じぶんと会話するの得意ですね

395 :世界@名無史さん:2019/06/13(木) 22:55:25.90 0.net
自衛隊のミサイル「81式短距離地対空誘導弾」が荷崩れ 積み替えでPA一時閉鎖


輸送は軽視、日本の伝統をかたくなに守っているとはホルホル

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