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アイヌの歴史 Part2

1 :世界@名無史さん:2020/05/22(金) 20:45:50 ID:0.net
アイヌの歴史について語りましょう

前スレ

アイヌの歴史
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1572632425/

1110 :正常な国際感覚に基づいた揺るぎようのない歴史的真実:2020/07/20(月) 17:51:52 ID:0.net
朝鮮ヒトモドキ心の支え松菊里(ソングンニ)遺跡の真実

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です

松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです

松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です

朝鮮ヒトモドキどもは玉?(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています

しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます

これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です

支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます

魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

1111 :正常な国際感覚に基づいた揺るぎようのない歴史的真:2020/07/20(月) 17:54:01 ID:0.net
〜半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜

朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。

根拠として挙げられるのが、
?半島最古の住居遺構である松菊里(ソングリ or ソングンニ)住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること
?半島最古の水田遺構である麻田里(マジョンリ or マジョンニ)遺跡の温帯ジャポニカ米が九州島由来であること

なお北部は遼河文明領域でありウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。

寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。

北緯36度線の壁によって
倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかったツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。

https://i.imgur.com/i2xumuW.jpg

百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、
唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。

高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、
白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。

その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。

高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。

1112 :正常な国際感覚に基づいた揺るぎようのない歴史的真実:2020/07/20(月) 18:00:05 ID:0.net
〜銅鐸は朝鮮半島出土の無紋小銅鐸がルーツだと言い出した朝鮮ヒトモドキ得意の起源説を叩き潰そう♪〜

朝鮮半島から出土した小銅鐸はサイズや製法、その構造などから殷の馬鈴がルーツと断定されています。

馬鈴とは多数の騎馬を統率するために用いられた馬具ですが、遊牧民族が牧畜の際に家畜の統率用に転用するようになり、
それが朝鮮半島に伝わったと考えられています。

傍証として挙げられるのが外側が無鰭(むき)で鈕(ちゅう)と共に摩耗が激しい、また家畜と共に出土している点です。
つまり家畜の頸に結わえ付けていた証拠であり、小銅鐸ではなく畜産用の首鈴と名称を変えるべきという意見が
国際学会では大半を締めていますが、朝鮮ヒトモドキどもがチョンコ起源を主張したいがために頑なに拒否し続けています。
ソングンリ式住居と同じ発想です。

なにより朝鮮半島では3世紀以前の遺跡からは出土していないという点も重要です。

一方、紀元前3世紀の遺跡から出土している日本の銅鐸は越の祭祀鐸がその起源と考えるのが一般的です。

傍証としては同時期に銅と鉄の鋳造技術が越から同時に伝播しており、
実用品は鉄、装飾・祭祀用が青銅と使い分けが明確である点です。

また、越の祭祀鐸はその使用目的から有鰭(ゆうき)装飾があり、
司祭が手に持って振っていたために持ちやすいよう鈕は平たく、共に磨耗は少ないのです。
これは日本国内で発見されている銅鐸もまったく同じで、鈴ではなく鐸という共通点もあります。

2世紀前半から巨大化と装飾が増えていきますが、これも当初から祭祀鐸であればこその正常進化と言えるでしょう。

さらには朝鮮半島で出土する銅矛と銅戈は九州の鋳造技術で作られており、
半島北部で出土する銅剣は小銅鐸と同じく曲げ加工で作られています。
つまり鋳造と曲げ加工という製作手法自体が大きく違うのです。

上記の検証により、日本の銅鐸が朝鮮の小銅鐸とは何ら関連がないのは明白です。
なお、朝鮮半島で小銅鐸が出現する3世紀に、忽然として日本から銅鐸が消えている点の因果関係は皆無である点にも留意しなければなりません。

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