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アイヌの歴史 Part2

257 :世界@名無史さん:2020/06/24(水) 07:26:52.11 0.net
7.津軽のイヨマンテ

青森,秋田,岩手,には,今日でも和井内わ い な い,生保内お ぼ な い,今別いまべつなどおびただしいアイヌ語地名がある.中には奥戸(オコッペ=興部)やシレトコ,シラヌカなどよく知られた北海道の地名と同じものもある.我々は,東北の地にアイヌが住んでいたのは遠い昔のことと思い込んではいないだろうか.

弘前藩の記録には,おびただしい「狄」が登場する.その「正保国絵図」には狄村が五箇所描かれていて,「ヘキリハ,ニヱヘテ,ルテリキと名乗る各村の長老が,藩主に謁見して串貝・塩引鮭を献上した」というように松前藩と同様な「ウィマム=御目見え」と呼ばれる,アイヌからの献上と藩主からの下賜による一種の朝貢がおこなわれていたことが知られる.

豊臣政権の天下統一への最後の戦いである「奥羽仕置」.その最終段階で起こった「九戸政実の乱」,ここで,アイヌ兵は,その優れた狩猟技術を活かした「毒矢」部隊として双方に動員されたことが記録されている.

このように,戦国期においてもなお津軽海峡を挟んで道南地方と津軽・下北の間を自由に行き来して,この地域に一つの生活圏・文化圏を築いていたアイヌは,徳川時代になって松前・南部・津軽の三藩に分かれて支配されるようになった.

蝦夷地に位置する松前藩とは異なり,和人に対してアイヌが数的にはマイノリティであった津軽・南部においても,藩はその独自の文化を認め,士農工商の枠外の存在として漁撈や狩猟に関わる特権を与え,「異族」としてその風俗を尊重し,独自の統治を行ってきた.

原則として自ら農業を行わないアイヌは狩猟のプロであった.津軽の人々は,オオカミ狩りや熊狩りといった高度な技量を要求される場面では,しばしば毒矢や仕掛け弓といった特有の武器を操るアイヌの力を借りた.こうして東北の山の民=マタギの世界にアイヌ式の狩猟術が受け継がれていったと考えられている.

東北アイヌの境遇は,18世紀になると徐々に変化する.藩財政の窮乏化に伴って,アイヌの内地人化,つまり農民化の施策がとられるようになったのである.租税負担者を少しでも増やし,財政の足しにしようというわけだが,もともと自給分程度の畑作を行う者もあった東北アイヌは,以後急速に和人化し,民族的特徴を失っていった.

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