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アイヌの歴史 Part2

1 :世界@名無史さん:2020/05/22(金) 20:45:50 ID:0.net
アイヌの歴史について語りましょう

前スレ

アイヌの歴史
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1572632425/

257 :世界@名無史さん:2020/06/24(水) 07:26:52.11 0.net
7.津軽のイヨマンテ

青森,秋田,岩手,には,今日でも和井内わ い な い,生保内お ぼ な い,今別いまべつなどおびただしいアイヌ語地名がある.中には奥戸(オコッペ=興部)やシレトコ,シラヌカなどよく知られた北海道の地名と同じものもある.我々は,東北の地にアイヌが住んでいたのは遠い昔のことと思い込んではいないだろうか.

弘前藩の記録には,おびただしい「狄」が登場する.その「正保国絵図」には狄村が五箇所描かれていて,「ヘキリハ,ニヱヘテ,ルテリキと名乗る各村の長老が,藩主に謁見して串貝・塩引鮭を献上した」というように松前藩と同様な「ウィマム=御目見え」と呼ばれる,アイヌからの献上と藩主からの下賜による一種の朝貢がおこなわれていたことが知られる.

豊臣政権の天下統一への最後の戦いである「奥羽仕置」.その最終段階で起こった「九戸政実の乱」,ここで,アイヌ兵は,その優れた狩猟技術を活かした「毒矢」部隊として双方に動員されたことが記録されている.

このように,戦国期においてもなお津軽海峡を挟んで道南地方と津軽・下北の間を自由に行き来して,この地域に一つの生活圏・文化圏を築いていたアイヌは,徳川時代になって松前・南部・津軽の三藩に分かれて支配されるようになった.

蝦夷地に位置する松前藩とは異なり,和人に対してアイヌが数的にはマイノリティであった津軽・南部においても,藩はその独自の文化を認め,士農工商の枠外の存在として漁撈や狩猟に関わる特権を与え,「異族」としてその風俗を尊重し,独自の統治を行ってきた.

原則として自ら農業を行わないアイヌは狩猟のプロであった.津軽の人々は,オオカミ狩りや熊狩りといった高度な技量を要求される場面では,しばしば毒矢や仕掛け弓といった特有の武器を操るアイヌの力を借りた.こうして東北の山の民=マタギの世界にアイヌ式の狩猟術が受け継がれていったと考えられている.

東北アイヌの境遇は,18世紀になると徐々に変化する.藩財政の窮乏化に伴って,アイヌの内地人化,つまり農民化の施策がとられるようになったのである.租税負担者を少しでも増やし,財政の足しにしようというわけだが,もともと自給分程度の畑作を行う者もあった東北アイヌは,以後急速に和人化し,民族的特徴を失っていった.

258 :世界@名無史さん:2020/06/24(水) 07:27:05.58 0.net
寛政年間(1790年代).北海道松前藩領のアイヌの状況を語った探検家最上もがみ徳内とくないの「蝦夷草子」に次の一節がある.

松前より西の方に,日本道風三十里ばかりにして,見市といふ村あり.此処に代々岩之助〔右は蝦夷にしてその名をイワンノシケと言ふ.〕といふ百姓あり.平日は日本の野郎鬢なれども,冬になれば月代を剃り,蝦夷の体にかへて,正月七日に領主へ吉例に出る.領主は書院の前庭に荒菰を敷てこれに居らせ,領主より濁酒を給はる也.これ蝦夷の遺風なり.

つまり百姓「岩之助」は,実はアイヌ人「イワンノシケ」であり,春から秋までは普通の和人の百姓として暮らしているが,冬場はアイヌの姿に戻って様々な「蝦夷の遺風」を行っていた,というのである.

東北のアイヌはもっと早い時期にこのような和夷両俗とでも言うべき状態を経験したのだろう.この「イワンノシケ」と同時代に三厩宇鉄村を旅した京都の医師橘南谿たちばななんけいは,当時の風俗を「東遊記」に遺しているが(この箇所は太宰治の「津軽」にも引用されている),そこで「当地は6,70年前まではエゾ村であったが,今は風俗が変わって日本人の通りになっている.しかし近所の村とは縁組をせず,顔立ちも異なって眉が一文字につながっている女子などもいる.毎年近くの今別村の寺に集まり「蝦夷踊り」を行っている」と述べられており,18世紀末にはアイヌの名残を留めながらも和人世界に同化してしまった様子が描かれている.

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