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南北朝時代を研究するスレ

1 :日本@名無史さん:2011/05/21(土) 20:46:57.73 .net
南朝北朝

2 :日本@名無史さん:2011/05/22(日) 10:58:25.99 .net
西朝東朝

3 :日本@名無史さん:2011/05/22(日) 12:11:16.25 .net
南朝鮮北朝鮮

4 :日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:25:34.92 .net
アンサイクロペディアで南北朝時代の項目に
足利尊氏と北畠親房が天竜寺で密会して脚本を練ってた茶番劇と書かれてて爆笑したw

5 :日本@名無史さん:2011/05/24(火) 22:20:41.62 .net
南朝の公家は誰も日記付けてなかったのか?

6 :日本@名無史さん:2011/05/24(火) 22:30:44.19 .net
湮滅

7 :日本@名無史さん:2011/05/25(水) 15:44:36.53 .net
>>5
阿野家以外室町朝廷で生き残れなかったんだから無理だ

関係ないが土岐頼員って密告後どうなったんだ?
後醍醐から見たら憎い裏切り者だし、幕府からしても前科持ちで信頼できない
元弘の乱で幕府、建武新政で後醍醐派に粛清されて当然の立場だと思うが

縁戚の斎藤一族は岳父利行が鎌倉で吐血死、その息子は直義派として師直残党による暗殺、従兄弟は 六波羅で大量自決のようだが

8 :日本@名無史さん:2011/06/01(水) 21:36:42.47 .net
義教の時に編まれた『新続古今集』には、
南朝の歌合で詠まれたものも「よみ人しらず」で入っているとか。
日記はともかく、和歌資料はちゃんとチェックしていたみたいだな。

9 :日本@名無史さん:2011/06/05(日) 01:52:40.74 .net
南朝の和歌は花山院長親あたりが持ち込んだんだろう

10 :日本@名無史さん:2011/06/14(火) 18:43:24.67 .net
10

11 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 01:04:28.78 .net
楠木正成

12 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 14:29:43.19 .net
新田義貞

13 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 17:21:13.77 .net
足利尊氏

14 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 17:22:17.97 .net
足利直義

15 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 17:24:05.62 .net
北畠顕家

16 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 17:26:02.36 .net
護良親王

17 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 17:58:08.59 .net
高師直

18 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 17:59:39.24 .net
高師泰

19 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 18:00:44.75 .net
赤松円心

20 :日本@名無史さん:2011/06/28(火) 18:03:10.34 .net
今川貞世

21 :日本@名無史さん:2011/07/02(土) 12:05:03.18 .net
u

22 :日本@名無史さん:2011/07/20(水) 21:12:40.73 .net
てy

23 :日本@名無史さん:2011/07/26(火) 21:14:09.94 .net
後醍醐天皇

24 :日本@名無史さん:2011/08/05(金) 06:00:33.97 .net
後醍醐天皇が兵庫の福厳寺に泊まられて置きながら、
わざわざ薬仙寺から水をとりよせたか?
ご利益とかの理由ではなく、
福厳寺で頭が痛くなったことを、
何かを盛られたと考えたようです。
そしてわざわざ薬仙寺より水を取り寄せたのが真実です。福厳寺は鎌倉幕府の菩提寺建長寺の関連で大覚という坊さんの流れで、後醍醐天皇は信用していなかった節があります。
鎌倉幕府は後鳥羽・後醍醐と二人の天皇を隠岐に
流していますが、
後鳥羽天皇が毎夜夢見て果たせないまま崩御された
「帰京」を後醍醐天皇は僅か一年余で実現されたのでしたね。
かって皇位にあった身で流人生活を送ったのはこの他、
淳仁天皇、崇徳上皇、土御門上皇、順徳上皇ですが、
配流地から脱出したのは後醍醐天皇だけですものね。
すざましいまでの執念の天皇です。
倒幕を掲げる後醍醐天皇が鎌倉方の密命を受けた使者
によって毒を盛られると考えられたとおもわれます。

臨済宗南禅寺派の福厳寺は後醍醐天皇の史跡
として有名です。また神戸の港の歴史におい
ても重要な地位をしめます。境内には塔頭二ヶ寺、
起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃
寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲
庵と言う事になりました。また和田〔和田岬〕
にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福
厳寺に合併されています。



25 :日本@名無史さん:2011/08/31(水) 15:06:43.56 .net
二条師基

26 :日本@名無史さん:2011/09/06(火) 20:03:19.65 .net
四条隆資

27 :日本@名無史さん:2011/09/14(水) 17:10:23.35 .net
北畠顕能

28 :日本@名無史さん:2011/10/17(月) 19:54:02.08 .net
南北朝研究って、ほとんど前期(建武〜観応)に偏ってるよな

29 :日本@名無史さん:2011/10/17(月) 22:49:16.96 .net
後南朝

30 :日本@名無史さん:2011/10/18(火) 00:33:42.33 .net
後亀山天皇(?〜1424)
いいかげん生年確定させろや!

31 :日本@名無史さん:2011/10/18(火) 01:03:52.76 .net
たぶん1350年でいいのでは
明治神宮で見た天皇表でもそうなってた

32 :日本@名無史さん:2011/10/18(火) 20:32:44.71 .net
>23 :おさかなくわえた名無しさん[sage]:2008/03/06(木) 12:21:49 ID:JuOKz+XA
> あの歌はだな、弟の後亀山天皇に譲位する兄・長慶天皇が詠まれた歌だ。
> (「わが君は〜」で始まる似たフレーズの歌は長慶天皇の時代以前からあったが、
> それをアレンジして「君が代は」のフレーズで詠んだのが長慶天皇)
> 天皇が天皇に、あるいは兄が弟に贈った歌だから「君が御代」と敬語にする必要は無いわけ。
> また、「君が世」でなく、「君が代」なのは、長慶天皇が興味あったのは、後亀山天皇の「治世」ではなく、
> 「在位期間」だったから。

国歌「君が代」について、この話の出典を知ってる人いる?
実は昔、似たような話をNHKの本で読んだ気がするんだな・・・

33 :日本@名無史さん:2011/11/07(月) 18:54:54.46 .net
>それをアレンジして「君が代は」のフレーズで詠んだ

長慶天皇は歌人だし、そんなセコイことしない

34 :日本@名無史さん:2011/11/15(火) 21:15:00.13 .net
>>30-31
系図纂要が1347年5月11日生としているのは、南朝編年記略が出典っぽい。
この手の俗書は扱いづらいし、後世に与えた影響を考えると本当に罪深いわ。

35 :日本@名無史さん:2011/11/16(水) 13:13:37.23 .net
そもそも長慶が1343年生というのは正しいのか?
後村上16歳の時に生まれた皇子ということになるが

36 :日本@名無史さん:2011/12/13(火) 18:50:17.70 .net
熊沢天皇がアップを始めました

37 :日本@名無史さん:2011/12/14(水) 20:21:14.08 .net
>>5
宗良親王が編纂した「新葉和歌集」みたいに
南朝の記録が残ってるものもあるな(日記ではないが)。
南北朝時代の一次史料、「園太暦」は北朝の公家、洞院公賢の手によるものだが、
何度も南朝との交渉役となり、かなり南朝のことが記されている。

38 :日本@名無史さん:2011/12/14(水) 23:22:35.59 .net
>>35 山階宮晃親王は伏見宮邦家親王が満13才の時の子だから、それ考えると十分あり得る。
北陸宮も以仁王14才の時の子だし

39 :日本@名無史さん:2011/12/21(水) 11:52:09.48 .net
>>38
生物学的に可能かどうかということは別にして
南朝の天皇・皇族たちの年齢ははっきりしないのが多いがな

長慶天皇の母親の出自も諸説あって系譜が定かでない

40 :日本@名無史さん:2011/12/22(木) 19:16:16.41 .net
長慶・後亀山の母と推定される嘉喜門院のことだね。
従来、嘉喜門院を阿野実為の女とする村田正志の説が有力だけど、
世代を考慮すると、この説がまず成立しないことは明らかなんだな。

阿野実廉(1288年生) ― 季継 ― 実為 ― 嘉喜門院 ― 長慶(1343年生)

1世代平均=13.75年になってしまう

41 :日本@名無史さん:2011/12/25(日) 23:49:36.92 .net
近所の工事現場で土の中から大きな甕が発見されて
中から南北朝時代に流通してた北宋銭が大量に発見されたらしい・・・

42 :日本@名無史さん:2011/12/26(月) 00:34:47.52 .net
13才、14才なら元服してるんだから子がいても不思議ないと思う。


43 :日本@名無史さん:2011/12/26(月) 19:15:52.59 .net
吉野山近傍が宮居と成った理由。
此処吉野山が天皇が坐す宮居に相応しい強力な神霊結界のカゴメカゴメの中心部(加護の中)のため。
吉野山(皇祖高祖神の坐す霊山)を中心にいわゆる「太陽の道」の東に天照大神の滝原宮と伊雑宮。西に淡路島の伊弉諾尊(夕日の神格)の先山。(古代よりの不文律のデフォルト)
始めセイマン、ドウマンのカゴメ結界の加護の中
天武天皇が吉野山に向かったのも同様な理由

44 :日本@名無史さん:2011/12/26(月) 21:59:53.77 .net
>>40
阿野実為は阿野廉子(後村上母)の甥で、後村上天皇の従兄弟。
後村上と同年代説があり、嘉喜門院の父とは言い難い説がある。


45 :日本@名無史さん:2011/12/28(水) 20:07:57.15 .net
阿野家は南朝一筋を貫いたイメージがあるだろうが、
実為の子の公為はさっさと北朝に行ってるんだよな。

46 :日本@名無史さん:2011/12/29(木) 03:34:55.33 .net
「藤氏一揆」

関白 近衛経忠

坂東管領 小山朝郷



なんかカコイイ!

47 :日本@名無史さん:2011/12/29(木) 21:44:37.25 .net
経忠は南朝では関白になってない

48 :日本@名無史さん:2011/12/30(金) 19:25:30.44 .net
構想段階で終わってしまったからね。
近衛を中心に、小山、白河ら北関東〜南奥州に多い藤原氏系武士を糾合して天下の実権を掌握しようとしたもの。
或いは、南朝とも北朝とも違う、第三の勢力を経忠は志向したとも言われる。


49 :日本@名無史さん:2011/12/31(土) 16:14:02.15 .net
天皇なしで第3勢力は難しいと思う。そもそもそんな構想が本当にあったのか疑わしいよ。
小山が白河結城同様一揆を組織して中立勢力になろうとしたことを親房が
被害妄想的に拡大解釈だけしたような気がするがな。
この件で疑われた興良親王や新田義興は気の毒としか言いようがないな。

50 :日本@名無史さん:2012/01/01(日) 20:57:24.50 .net
興良も後年何を血迷ったか、賀名生行宮焼いちゃってるけど

51 :日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:52:03.39 .net
>>49
北畠親房は興良に対しては冷淡な印象を受ける。
小山が北朝に応じて身柄を拘束されると、「軽率な振る舞いの結果だから、
いまさら惜しくもない」みたいなことを述べているとのこと。
宗良や懐良などは別としても、名前すら伝わらない皇子・孫たちのなかには
使い捨ての消耗品同然の扱いの者もいたようだし

52 :日本@名無史さん:2012/01/03(火) 23:43:02.79 .net
宇津峰宮が来たから、興良親王はポイしたんだろ

53 :日本@名無史さん:2012/01/04(水) 14:48:39.91 .net
新田四天王とか三木一草とかあるのに
足利四天王はない

無理やり想定するとしたら
やはり今川、斯波、仁木あたりになるんだろうか

54 :日本@名無史さん:2012/01/05(木) 00:57:59.77 .net
>>45
合一後、とっとと北朝に出仕したってこと?

55 :日本@名無史さん:2012/01/05(木) 03:49:27.77 .net
合一前のこと
補任によれば、公為は1382年に北朝で公卿に列している。
しかも元左中将とあるから、相当早くから京都にいたはず。

実為が家の存続を図って、子を京都に帰したのかも知れん

56 :日本@名無史さん:2012/01/05(木) 16:03:05.45 .net
>>55
公為は南朝での補任じゃなかったか。

57 :日本@名無史さん:2012/01/05(木) 17:24:15.16 .net
南朝一筋で分裂しなかったために南朝公家で唯一、合一後も生き残れた(厳密には経忠流近衛→花山院もいますが)と聞いてたんだがやっぱり分裂してたのか

58 :日本@名無史さん:2012/01/06(金) 07:06:19.24 .net
なんで菊池武重は処刑されなかった?

59 :日本@名無史さん:2012/01/06(金) 22:32:14.04 .net
>>56
公卿補任は北朝の補任しか載せていない(正平一統時を除く)

60 :日本@名無史さん:2012/01/12(木) 18:31:42.95 .net
ヴぃ

61 :日本@名無史さん:2012/01/12(木) 23:30:28.54 .net
ヴぁ

62 :日本@名無史さん:2012/01/14(土) 22:46:29.34 .net
後南朝のその後を研究するスレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1326459104/

63 :日本@名無史さん:2012/01/18(水) 21:38:22.80 .net
1365年の南朝左大臣って誰?

64 :日本@名無史さん:2012/01/20(金) 19:19:24.53 .net
南朝公卿補任だと二条冬実、
南朝編年記略だと西園寺公重だけど、
そんなはずはないわね

65 :日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:26:38.40 .net
皇后や関白の名前すら分からないのが南朝クオリティ

66 :日本@名無史さん:2012/01/25(水) 22:39:53.55 .net
後村上帝は実際に刀を振るったり弓を射ったりして戦ったの?

67 :日本@名無史さん:2012/01/25(水) 23:12:39.09 .net
>>65
名前すら判らない宮が何人もいるからなあ。

68 :日本@名無史さん:2012/01/26(木) 06:59:30.07 .net
>>67
室町時代には北朝であっても名前のわからない宮
(とうかそもそも親王・内親王宣下をうけず
諱が付けられなかった皇子・皇女)
は大勢いいる

69 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 21:49:30.26 .net


70 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 00:50:00.44 .net
>>68 それなんだけど、後小松の第二皇子や第一皇女、称光の第一、第二皇女が親王宣下されなかったのはなぜ?

71 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 20:17:59.07 .net
その前に称光天皇は第一皇女認知してないじゃん。
どうして?

72 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 21:41:43.95 .net
確か貞成親王との密通が疑われたんじゃなかったっけ?

73 :日本@名無史さん:2012/02/23(木) 13:01:05.72 .net
>>70
称光の第一皇女に関しては称光自身が自分の胤ではないと言い出して
認知を拒んだ
室町時代の天皇家は困窮して中宮も立てられない状態
かろうじて即位した皇子だけが即位と同時に親王宣下を受け
残りは皆寺行きという例も多かった

74 :日本@名無史さん:2012/02/23(木) 21:55:12.60 .net
>>73
鎌倉期から既に中宮は立てられ無くなってるな

75 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 00:45:34.31 .net
でも、北朝以上に困窮していた南朝でさえ、
中宮・親王がいたじゃない。実体はともかく

76 :日本@名無史さん:2012/02/24(金) 18:25:15.42 .net
中宮が立てられ無くなったのは、困窮と言うより、社会全体で女性の地位が低下したことが
大きいと思うぞ?
だいたい中宮が立てられ無くなった頃から、女性の輩行名が見られなくなり幼名で通されるようになる。
つまり女性の相続権が制限されるようになったということ。

77 :日本@名無史さん:2012/02/26(日) 18:48:16.53 .net
皇位に魅力が無くなったんだよ。複数の皇子がある時に、時期天皇を決定する要素は
長幼ではなく妃腹か否か。中宮所生の皇子であることが重要な意味を持つ。
時代が下って来ると天皇の権力が無になってしまい、長幼の順を飛び越えてまで
天皇になる利益が外戚に無かった。

平安時代の例として、村上帝の第一皇子広平親王と第二皇子憲平親王が挙げられる。
憲平親王の母は中宮藤原安子。憲平は即位して冷泉帝。

78 :日本@名無史さん:2012/04/23(月) 04:45:48.85 .net
神器の禅譲、、

79 :日本@名無史さん:2012/04/23(月) 08:41:40.75 .net
>>74
鎌倉時代には中宮は立っていた。
(大覚寺統は後醍醐天皇まで(即位したのは鎌倉時代)、持明院統は伏見天皇まで中宮が立っている。
後伏見天皇・光厳天皇は即位したとき若く上皇になってから正妃が入内、正妃は女院にしかなれなかった)
>>76
やはり貴族が困窮し、摂家など大貴族の姫が入内しなくなったためだよ。
天皇は手軽な近辺に仕える女官を妾にし、妾の子が天皇になった。
官位を受けるためにつけられるのが輩行名であるため、
室町時代以降にも叙位した女性には勿論輩行名を付けてるよ。
皇女の名が幼名しか残らないということなら天皇以外の皇子の名も幼名しか残ってない。



80 :日本@名無史さん:2012/04/25(水) 10:11:53.04 .net
なんで明治に南朝が正しいとされたのか
全く理解できない。
水戸黄門に従う必要ないだろうに。

81 :日本@名無史さん:2012/04/25(水) 22:43:20.37 .net
>>73 後小松には理永女王?だっけ、皇女いたよね?
皇女で結婚する場合と尼になる場合(理永たんは後者?)はどういう理由で分かれるの?

82 :日本@名無史さん:2012/04/25(水) 23:38:11.77 .net
>>80
討幕運動の主導者達が南朝正統論を信じ込んでたから。
ヤツらの信仰で事実をねじ曲げちゃったんだよ。

83 :日本@名無史さん:2012/04/26(木) 10:11:23.77 .net
>>82
子供でもわかる理屈なのに、
誰も突っ込まなかったのか。

84 :日本@名無史さん:2012/04/26(木) 11:13:10.53 .net
それは、大日本史を直に批判することになるんでね
成島筑山・鹿持雅澄は両朝並立を唱えていたけど。

85 :日本@名無史さん:2012/04/26(木) 12:40:19.32 .net
楠木正成は敵のはずだが、何故だか像がある。

86 :日本@名無史さん:2012/04/26(木) 16:59:48.91 .net
>>83
理屈よりも政策が優先されたからだろ。
天皇機関説論争とか、その直前に再燃したときの南北朝正閏論争と同じく。

87 :日本@名無史さん:2012/04/27(金) 00:19:27.70 .net
いくら南朝が正統だと主張しても、
年表は北朝の記事で埋めるという現実

88 :日本@名無史さん:2012/04/27(金) 00:59:18.32 .net
いっそ東京に「西陣南帝の末裔」でも立てて元首にしてれば良かったんだよ。
もとの天皇家(北朝の末裔)や公家衆は政府とは無関係に京都で存続するので、
少なくとも伝統はかなり守られる。

89 :日本@名無史さん:2012/04/27(金) 01:29:59.23 .net
>西陣南帝の末裔

誰だよ

90 :日本@名無史さん:2012/04/27(金) 12:12:14.61 .net
>>87
そのような実態がありながら、
なぜか即位順序・即位期間に限って南朝優先で書き記す異常事態。

実態に即して考えるなら、

96 後醍醐天皇→97 光厳天皇→98 後醍醐天皇(重祚)→99 光明天皇→100 崇光天皇

→101 後村上天皇(正平一統)→102 後光厳天皇→103 後円融天皇→104 後小松天皇

南1 後醍醐天皇→南2 後村上天皇→南3 長慶天皇→南4 後亀山天皇

と書かないとおかしいんだよな。
いまだ明治期の新興宗教の影響が払拭できてない。

91 :日本@名無史さん:2012/04/27(金) 15:06:30.97 .net
もしかしたら戦前の教科書や一般向けの歴史書の系図では
昭和天皇までの天皇は南朝の子孫になってたりして。

92 :日本@名無史さん:2012/04/27(金) 16:15:05.69 .net
>>91
それはない。
だからこそ熊沢天皇みたいなのが出てくるわけで・・・

93 :日本@名無史さん:2012/04/27(金) 16:32:18.73 .net
でも、後小松を後亀山の猶子としてつなげてる系図はあるよな

94 :日本@名無史さん:2012/04/27(金) 18:46:46.16 .net
南朝正統論というのは、
南朝から足利氏への易姓革命を考える説から発生したんじゃないか?

95 :日本@名無史さん:2012/04/27(金) 22:51:42.06 .net
>>94
それはないと思う。

可能性があるとしたら、徳川家の祖先が新田氏(新田氏支流得川氏)という看板(偽系図)との関連の方が
どちらかと言えば可能性は高いだろ。

それが逆転して、討幕運動の精神的支柱になってしまうのは皮肉と言うほかない。

96 :日本@名無史さん:2012/04/28(土) 00:54:26.95 .net
「南朝が正統だ」と言いつつ北朝系の天皇を崇めるのは
ユダヤ人であるイエスを崇めてユダヤ人の名を使いつつ(ジョンとか)
ユダヤ人を迫害するのに似ている。

97 :日本@名無史さん:2012/04/28(土) 00:58:53.83 .net
南朝→足利の易姓革命ってのは荒井白石の?

98 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 01:03:43.49 .net
太平記の現代語約本ってどこから出てますか?

99 :日本@名無史さん:2012/05/16(水) 21:03:07.75 .net
神戸の後醍醐天皇行在所
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。
境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、
明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。
また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。



100 :日本@名無史さん:2012/06/04(月) 22:53:23.75 .net
陸奥将軍府の機構がよく分からない。
親王が太守で北畠が陸奥守。
太守って要は陸奥守でしょ?太守がいるんだから北畠は介じゃないのか?
そもそも、多賀城で太守としているのになんで国府じゃなくて将軍府なのか?

101 :日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:06:43.17 .net
陸奥守 義良親王(神皇正統記)
鎮守府大将軍 北畠顕家(建武年間記)

102 :日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:10:17.92 .net
顕家は初め陸奥守、後に陸奥大介でしょ

103 :日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:43:49.44 .net
陸奥将軍府は陸奥国司と鎮守将軍の府(役多賀城から霊山城)
北畠顕家は陸奥守
陸奥は親王任国に変更(親王のみが国守になれる)
北畠顕家は陸奥権守(権守→国守空位時の代理)
義良親王、陸奥守に任官

104 :日本@名無史さん:2012/06/05(火) 01:59:48.73 .net
14世紀の多賀城ってやっぱり蝦夷征伐の頃のとは大分様変わりしてるんですかね

105 : 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 14:07:19.33 .net
いや、南北朝という表現はただしくないんだよね。

あれは純粋な北朝じだいだよね。しかも政治勢力として、

北朝 ただのおかざり
南朝 ←朝でわなくテロ

なため、すでに政治、政体として含むのが異常だよ。
そして
ごだいごクーデターがおきる。←天皇の新政だかを一度みんな期待するんだが守旧的な天皇独裁を開始←みんなマジギレ
←天皇につくものは悪党、悪僧、天皇は国家反逆者の魔王 と日本史最大級の反乱者として予備追討
←追放して、あっという間に北朝に戻る

106 : 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 14:18:46.09 .net
しかもそもそもごだいご

内乱←島流し←反乱 天皇の強奪(この時点で違法)前任の天皇いるんだぜ←
数年で追討←前任天皇の信託で新天皇が生まれる

という仮定を取る。そして政治は守旧独裁で一瞬で反乱がおきた。もう成功以前だった。
そのため違法。

そして南朝なんかは
1 天皇でわない
2 そもそも朝政府として機能しない。
ため存在が根底から違法。 リアルタイムで魔王とよぶんだぞ。

そしていわゆるもうこれカオスで
・主権国家でわない(政体上北元属国)
・酋長国家である。
・そもそも朝という制度、仕組みそのものがなく、実質機能していない。
明が(ここまでいえばわかるが、もう明そのものが王朝正当性以前でそんなものはなくめちゃくちゃな酋長国なんだけどね)
明らかに対日本反乱などを意識して、かってに独断専行で王朝認定をやってしまう。
などむちゃくちゃな事態になる。

107 : 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 14:22:48.67 .net
結果収集と最盛期であったのに、南朝はおとりつぶし、

そして制裁行為として、暫時天皇地位、権威を剥奪(北朝)して、今上天皇になる。

というGDGDっぷりと制裁行動からわかるように、
違法な反乱南をつぶすだけ。そして南は
・クーデター者の島流し
・天皇じゃないのに、天皇強奪
・守旧独裁やって政治的に失敗
・天皇でもないし、府でもないのに、成立しない南朝とかw(もはやあれは南朝でわなく、すでに南家としての行動でありもはや朝じゃない)
・勝手にシナ工作に利用され、シナ属国にしようとする。
・おとりつぶし
というおかしなやつ。

108 : 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 :2012/07/03(火) 14:26:33.45 .net
そして、
いわゆる南朝説ってのは、

・天皇はシナー
・中華事大説、中華思想説
というカルト儒者集団がつくった。カルト思想をもとにするものであり、

最初から
・時事などを知らぬにせ歴史、主義、つまり時事をしってるわけでもなんでもない。論理、証拠などもない(夢想)
・しなーカルト主義
・叛乱主義
にもとづいた、カルト主義で、もはや時事でもなんでもない。カルト。
よって南朝そのものが物理的に存在しなく、魔王 ないし南家叛乱があっただけである。

109 :日本@名無史さん:2012/07/03(火) 15:18:24.18 .net
>・主権国家でわない(政体上北元属国)

いつ元の属国に?
懐良親王なんかは明の使者を蒙古と間違えて斬ろうとしているが。

110 :日本@名無史さん:2012/07/03(火) 20:52:46.52 .net
「てにをは」の使えない日本人が増えたのだなぁ。
と、感慨深くネット時代に生きている。

111 :日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:51:31.83 .net
いや、後醍醐天皇だけは正式に即位して天皇として活動してるじゃん。

二回即位した、二回も廃位された天皇なだけだ。

吉野に落ち延びて以後は廃帝であって、正式に朝廷と呼べるような存在じゃないけど。


112 :日本@名無史さん:2012/07/07(土) 08:14:16.49 .net
かくも南北朝の議論には未だにキチガイが沸くのである

113 :日本@名無史さん:2012/07/07(土) 14:28:39.92 .net
後醍醐自身は、廃位されたこともないし重祚してなんかいないというウソ(というか、建前)をゴリ押ししたけど、
それをそのまま追認してたらおかしいじゃん。

廃位された上に遠島に処されたという事実を無視するのかよ。

114 :日本@名無史さん:2012/07/19(木) 22:03:53.96 .net
南朝、北朝の両方を認める両統並立論ってのも明治にあったらしいけど
その場合、天皇の代数はどうなるんだろ。
今上天皇が北朝の天皇も数に入れて130代目になっていたんだろうか

115 :日本@名無史さん:2012/07/20(金) 07:35:41.39 .net
質問です。
今、BSフジの「三国志three-kingdom」にはまってるんですが、「玉璽」が重要な役割を果たす物となってます。最近も漢の献帝が曹丕に上げました。
似たような物で日本では「御璽」があります。昭和天皇の仕事風景で大きなハンコをついてた写真を見たことがあるから多分それだと思う。
さて、南北朝時代。「皇室が2つある」時代と考えればだいたいあってると思うのですが、「御璽」はどっちが所有していたのでしょうか?

116 :日本@名無史さん:2012/07/20(金) 09:05:50.58 .net
>>114
南朝から数えた代数と北朝から数えた代数を併記
南朝125代・北朝128代みたいに

117 :日本@名無史さん:2012/07/20(金) 17:18:29.72 .net
>>115
中世には、ハンコをおす文化というものは廃れています。

本来の形式で言えば草案・下書きみたいな位置づけであるべき内々の文書を公文書代わりに使う感じでしょうか。

奈良時代には権力の象徴として、ときに争奪戦まで展開された「御璽」(のようなもの)は、中世にはおそらく利用されていません。

ところで、中国の玉璽は単一じゃないようですね。


118 :日本@名無史さん:2012/07/20(金) 17:40:59.01 .net
単一になるほうがおかしい

119 :日本@名無史さん:2012/07/21(土) 02:04:58.11 .net
>>118
いや、交替・変遷って意味じゃなくて、
用途によって使い分ける多種の皇帝印があったって意味で。
たしか10種類ぐらいを使い分けてたとか。

そして、それとは別に、伝国璽ってのがあったと。

120 :日本@名無史さん:2012/11/20(火) 19:47:13.21 .net
保守

121 :日本@名無史さん:2013/03/19(火) 18:33:59.56 .net
ほしゅ

122 :日本@名無史さん:2013/06/03(月) 19:24:48.14 .net


123 :日本@名無史さん:2013/06/05(水) 13:48:30.22 .net


124 :日本@名無史さん:2013/06/16(日) 14:51:25.14 .net
建武の新政で置かれた国司の一覧とかってわかりますか?

125 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 12:25:58.71 .net
このスレみてびっくりした
南朝だと宮様ですら名前すら分からないのか・・・

なら長慶天皇に付き従って一緒に全国行脚した
家臣とか公家か何かがいても、分かるわけないね

126 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 19:56:56.91 .net
長慶天皇ってたしか、退位以後は消息さえ不明なんだよね

後南朝ってって蜂起した際に担ぎ上げられる皇子にも長慶天皇の子孫はいなかったはず

>>5
日記つけた人はいたはずだよ、たぶん
ただ、後代の廷臣が誰もそれを後世に残そうとしなかったから残らなかっただけだろう。
よほど頑張って積極的な努力をしないと、たいていのものは消滅する

他家に養子入りして跡を継いだ人もいたけど、その人の子孫でさえ、南朝時代の日記を書写したりして残そうとはしなかっただろうしな。
って2年以上前のレスに返答とか、おかしいことしてるよな。

127 :日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:25:41.40 .net
>>126
森先生の皇子たちの南北朝によると、大乗院日記目録に
「大覚寺法皇崩ず 五十二。長慶院と号す」
という記事があるらしいね。
長慶院の院宣も残っているという話だから、退位後もなに
がしかの活動はしていたんでしょう。

128 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 10:39:24.01 .net
史料も伝来の物もないので与太話の域を出ないのだが
うちの先祖は南朝の高貴な人に付き従って京都の方から
ド田舎に逃れてきたという言い伝えがある
森嘉兵衛という学者によると、多分公家の末裔だろうと
代々の戒名や伝承等から推測されてた
ロマンはあるけど戒名と抜けのある系図と言い伝えくらい
しかなくて無念

129 :日本@名無史さん:2013/06/19(水) 14:43:46.33 .net
まあ、そういう伝承のある家は少なくないだろうがな

松平家の始祖伝承も、そのたぐいといっていいし。

130 :日本@名無史さん:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN .net
正虎

131 :日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN .net
松平はどうも実際に極初期から新田源氏を名乗っていたようだ。
本当に新田源氏かどうかはともかく、関東から流れてきた新田軍の残党の可能性は高そうだ。

132 :日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN .net
分かったんだが、この南北朝なんてのはなくて、実態がうやむやなのは

1 当時の通史は存在せず、間接的な風説の編纂しかない。
2 当時の有力者が多く倒れ、当時ですら、誰も情事をただしく把握してない。
3 その上風説編纂するから余計混乱するが

時系列的に
1 魔王の幽閉
2 足利の反乱
3 新田の鎌倉討ち入り
4 間違いなく、河越の大規模兵力の加担
5 第一次幕府崩壊
6 魔王足利の内ゲバ
7 残党北条と北朝の合併
8 武蔵野合戦、やはり河越の大規模加担、ほぼ南朝崩壊
9 河越対足利
まるで足利の騒乱拡大内戦

133 :日本@名無史さん:2013/10/07(月) 19:40:27.17 .net
>>124
吉井功兒『建武政権期の国司と守護』

134 :日本@名無史さん:2013/10/11(金) 12:39:48.00 .net
「太平記」読んでると
たまにそこそこの数の軍勢率いて参戦してくる国司がいたりして驚く

135 :日本@名無史さん:2013/10/24(木) 20:00:06.85 .net
南朝は、光明、光厳、崇光の三上皇(+萩原前坊)を虜にした時に有利な条件を突き付けて和睦するべきだった。

136 :日本@名無史さん:2013/11/22(金) 22:46:55.68 .net
先帝後醍醐の遺言が呪縛になってて和睦の余地がなかったからだろな
正平一統の和睦でさえ揉めまくったレベルだろ

137 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 14:18:31.46 .net
伊達氏が北朝方になったのっていつ頃だろう

138 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 14:57:26.20 .net
伊達行朝が死んで伊達宗遠が継いだあたり
表向きは北朝に帰順しつつ、周りの北朝勢力の国人たち戦って勢力拡大して
割と自由気ままに振る舞ってたけど

139 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 17:34:59.66 .net
>>138
ありがとう
周りと戦ってるのに将軍と縁戚になったりしててよく分かんなかったわ
上手いなあ

140 :日本@名無史さん:2014/09/03(水) 07:43:59.45 .net
NHKの太平記評判いいので全巻見たけど
最初の倒幕はわかる。けど入京後尊氏は将軍なのに政にノータッチ
次第に、弟と高野師直兄弟に権力やりすぎ

幕府開いたのにここまで、オセロのような動乱になったのは尊氏に責任あるわ

141 :日本@名無史さん:2014/09/03(水) 22:30:16.61 .net
尊氏は、御家人筆頭足利家のボンボンだからな。
流人、人質で苦労した頼朝、家康みたいな凄みやリアリズムはないんだよ。

142 :日本@名無史さん:2014/09/06(土) 00:08:06.18 .net
>>96
>ユダヤ人であるイエスを崇めてユダヤ人の名を使いつつ(ジョンとか)
>ユダヤ人を迫害するのに似ている。

イエスを刑死させた連中の末裔だから迫害されてるんだろ
全然おかしくない

143 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 18:45:43.83 .net
>>140
>>141
正直 後醍醐様抹殺しても 誰も文句は言わなかったのに しなかったあたりは甘いかな

ただ 頼朝も北条に 権力やりすぎだし

だから家康は 頼朝と尊氏の制度は踏襲して
変わりに 永年の部下を大粛清したんだし

144 :日本@名無史さん:2014/10/06(月) 23:46:58.78 .net
>>143
頼朝の場合はしかたない、最初から直属の部下ゼロで、挙兵当初は北条の部下ぐらいしか兵がいない状態からスタートしてるんだしな

それと比べたら尊氏は甘々だ
相手は尊氏を不倶戴天の敵あつかいして、妥協の余地なしと言ってるのに、それを武力討伐せず話し合おうとか、狂気の沙汰だ

145 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 09:12:48.62 .net
尊氏は新田の軍勢が迫ってるのに出家しようとしたり一騎打ちに応じようとしたりするあたりのアバウトさと
直義を追いつめて毒殺しちゃうまでの黒さが極端

146 :日本@名無史さん:2014/10/21(火) 12:31:50.38 .net
肉親を殺せない奴は天下人に非ず

147 :日本@名無史さん:2014/12/01(月) 23:52:52.87 .net
おまえら南朝の話したいやつらは後南朝スレに来るなよ

148 :日本@名無史さん:2015/05/21(木) 23:35:01.44 .net


149 :日本@名無史さん:2015/06/11(木) 16:52:44.96 .net
>>140
遅レスだが、将軍の仕事は軍事であって内政じゃない
武士たちの所領争いだって仲裁の責任は天皇で将軍じゃない、ように後醍醐天皇が制度設計したから、将軍は多少意見を言えるだけ、それも自分の口じゃなくて、担当部局に部下を参加させるだけしかできない

他に何をしろと?

150 :日本@名無史さん:2015/07/07(火) 18:18:15.96 .net
スレチかもしらんが太平記とか増鏡とかとはずがたりとか梅松論とか
南北朝戦乱を描いた古典のスレはないのか

古典から学ぶ歴史も大切にしたいものだ

151 :日本@名無史さん:2016/01/14(木) 17:03:58.59 .net
同意なんだけどすぐ落ちそうだな

ここで語ってもいいのでは

152 :日本@名無史さん:2016/02/18(木) 11:14:31.99 .net
尊氏もそうだが、逝っちゃてるキャラが多くて面白い時代だな

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