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坂東武者の祖、毛野氏族について語ろう

1 :日本@名無史さん:2012/02/12(日) 13:53:51.69 .net
古の昔、関東から東北にかけて毛人(縄文人)の巨大な日本王国があった

この日本王国は大和朝廷が興るより早く衰退期を迎える
この文明が衰退した原因は急激な気候変動によるものと考えられている

日本王国は衰退の過程で複数の部族に分かれたが、その中で大和朝廷と婚姻関係を結ぶことで
有力豪族となった一族がいた、毛野氏(けぬうじ)族である

毛野氏族は、崇神天皇皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫を自称している
が、実際の祖は景行天皇の孫である御諸別命(みもろわけのみこと)のようだ

毛野氏の勢力範囲は、両毛を中心として、常陸西部・武蔵北部に及んだ
この一族は武門に優れ、朝廷の命により東北の蝦夷を討伐し経営、朝鮮半島にも出兵している
勇敢な縄文の血を引く毛野氏族は、後に新田氏や足利氏といった坂東武士の誕生に大きな役割を果たすことになる

このスレはいまだ謎の多い毛野氏族を研究することにより、
「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになった
坂東武者の強さの秘密と幻の日本王国の全貌に迫ろうという壮大なスレである
ふるってご参加ください


2 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 17:24:51.57 .net
邪馬台国を脅かしていた強大な狗奴(くぬ)国とは毛野(けぬ)国のことだと言われているね。

3 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 20:24:39.95 .net
狗奴国は、許乃国(コノ国)

4 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 21:59:28.04 .net
良スレの悪寒

5 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 22:30:25.40 .net
吉美侯部

6 :日本@名無史さん:2012/02/13(月) 23:41:48.02 .net
ヤマトは、関東辺りを日本(ひのもと)と呼んでたよね
そして、この地を勢力下に置いた時期に国号を日本にしてる
なんで大和国にしなかったんだろう?
日本王国に敬意を払った?

7 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 01:41:57.94 .net
>>6
邪馬台と大和が似てるから、嫌だったんだろ

8 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 01:48:09.63 .net
>>2
狗奴は熊野で間違いない

9 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 02:21:10.32 .net
>>6
日本と書いてやまとと訓んでた。

10 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 06:27:18.60 .net
アジアは東に移動する。

日ノ本も、太陽の昇る東のほうと言う意味で、
最初は河内湾岸から見た生駒山「日下」のあたりだったとは
谷川健一説。
それがだいだん東へ移動し、
朝廷から見て最辺境を「日ノ本」と呼んだらしい。
さいごには東北がそう呼ばれた。

「ひのもとヤマト」とき「ヤマト日高見」とか言うのは
美称。

11 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 08:32:13.15 .net
>>6
大和朝廷の関東への東征が、ことのほか上手くいったというのも、理由のひとつじゃない
ほとんど抵抗された形跡が見られない

12 :日本@名無史さん:2012/02/14(火) 21:27:41.04 .net
>>11
たしかに関東には毛野氏のように豊城入彦の子孫や
大彦の子孫の豪族が多いな

13 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 02:24:40.43 .net
>>12
大和だけでなく、出雲とのつながりも感じる
栃木は出雲と並んで前方後方墳が多い地域だよ
大田原にある日本で一番美しい古墳といわれる下侍塚古墳も前方後方墳


14 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 20:30:24.45 .net
東国六腹朝臣の本貫地ってどこなんだろ
上毛野氏 下毛野氏は それぞれ その国だろうけど

15 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 21:40:24.22 .net
666年 百済人2000人を東国に移す
684年 百済人23人を武蔵に移す
687年 高句麗人56人を常陸に移す。
687年 新羅人を下野・武蔵に数十人の単位で随時移す。
716年 甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など7国の高麗人1799人を武蔵国に移し高麗郡を置く。
<続日本紀より>

関東人が、朝鮮(高句麗、新羅、百済)系であることを示す証拠はいくらでもあるが、
縄文系であることを示す証拠は何も無い。
由比ガ浜の鎌倉人骨(長頭、低顔(上下に短い)、扁平な顔、出っ歯)も遺伝子解析の結果、
渡来系と判明した。坂東武者は気持の悪いチョンなんだよ、平和的な日本人らしくない。
チョンの末裔の関東人どもは、捏造をやめて事実を直視しろよ。

16 :日本@名無史さん:2012/02/15(水) 22:27:54.49 .net
260 本当にあった怖い名無し sage 2012/02/14(火) 08:27:21.20 ID:MvXGidh+0
酒豪マップから見える日本人のルーツと歴史
http://blogos.com/article/4003/

下戸の比率は近畿東海北陸などが高い。
関東では群馬だけ下戸の比率が高い。
それは古来から群馬は渡来人の集積地だったからだろう↓


古代朝鮮文化訪ねる旅 15周年企画 上野・下野路(群馬、栃木)、随所に古代朝鮮の足跡
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/06/0506j1105-00001.htm

>群馬県は全国でも有数の「古墳県」で、その数は1万基を上回るといわれる。
>栃木県にも100メートルを超える大型古墳や群集墳が少なくない。

>これらの古墳文化は6〜7世紀頃、古代朝鮮から渡来した新羅、百済、高句麗、伽耶などの
>移住民勢力がもたらしたもので、朝鮮系統の様式と色彩が濃く、武具、馬具、須恵器などの
>副葬品にも朝鮮渡来系のものが数多く見受けられる。

↑なんで今の韓国人は下戸が少ないのか?
今の韓国人はどこから半島に辿りついたのか?

17 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 02:27:52.52 .net
>>14
東国六腹朝臣がみな毛野氏を祖としていることから北関東だな

大野朝臣は下野国那須郡
佐味朝臣は上野国緑野郡佐味郷
車持朝臣は常陸国真壁郡

池田朝臣はよくわからん


18 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 02:50:36.68 .net
それにしても東国六腹の朝臣は不思議だよな

畿内以外のしかも辺境の北関東から
貴族の最高の位置である朝臣を賜る氏族がこんなにまとめて出るとは
他の地方では例がない

何か特別な理由があったんだろうな

19 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 05:06:36.52 .net
>>10
日下も元は「ひのもと」と読んだはず、と唱えてるのが谷川説だよね。

20 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 17:03:58.11 .net
>>15
武蔵七党などにはネイティブがそれでも多いのではないか?
児玉党の児玉氏の始祖はニギハヤヒであるし、
小野姓横山党の小野氏の先祖は小野妹子であって祭神はアラハバキである。

鎌倉時代以降、このような人々が日本中に広まっていったのだ。

以下wikipedia 児玉惟行の一項目↓
(前略)上記の様に児玉氏の初姓が藤原姓だったと言うのは後世の創作と考えられる。有道(在道)氏は始め、大部氏を称していた。
大部氏が有道氏を賜った事は、『続日本後紀』に見える。従って、

大部氏→有道(在道)氏→遠峰(コダマ・コタマ)氏→児玉氏→庄氏→本庄氏と言うのが本来の流れであり、大部氏から本庄氏に至る。

大部氏の祖神はイキシニキホの命とされる(ニギハヤヒの別名とも伝えられる)。

21 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 18:50:30.47 .net
>>1
中世の藤姓足利氏も、源姓足利氏も、新田氏も、宇都宮氏も母系氏族はみな毛野氏だよ、多分。

22 :日本@名無史さん:2012/02/16(木) 22:37:34.52 .net
>>15
よく言われるのは
関東は縄文3:7弥生 高句麗 馬文化
近畿は縄文1:9弥生 百済 牛文化
>>20
児玉党の有道氏は常陸の豪族
有道の前身は丈部氏だよ

23 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 00:38:54.02 .net
>>21
それどころか、あの「大魔神」も毛野氏だw
群馬で出土した国宝の武人埴輪がモデルだからね
さらに言えば武人埴輪は現代のガンプラ
つまり、ガンダムも毛野氏を祖としているのだw

24 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 08:33:18.34 .net
まず、北関東の地に国譲りで国を追われた出雲の人々がやって来て平地を開拓。
山地に住む縄文人と交流、混血した。
やがて、大和の人々が毛野川(現利根川)伝いにこの地に進出し、毛野氏を興す。

この地でも国譲りが行われたということなのか?

25 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 12:22:00.99 .net
アメリカから見た鎌倉:ブレイスのアイヌ−サムライ説

1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。

この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、
鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。

今回、ブレイスの頭蓋骨計測データを新しい統計処理法を使って再分析した。
また、歯の計測データに関しては、ブレイスらは歯の合計面積の平均値のみを使って集団間の血縁関係を議論したが、
今回は、個々の歯のサイズのデータを用いて多変量解析を行い、それらの結果を報告する。

26 :日本@名無史さん:2012/02/17(金) 12:28:39.19 .net
手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離
(山口敏『日本人の顔と身体』より)
0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島

各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い
+2.12…畿内
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州

27 :有道氏・後裔:2012/02/19(日) 02:29:48.30 .net
有道氏の前身は大部氏ではなく丈部(はせつかべ)であって、丈部氏と氏を付けてはいけない。
この丈部は平安期には駆使丁とされてきたが、古王朝においてかなり枢要な役を任じていた
族の後裔であることが、近年分かってきた。そして、その丈部の後裔から"有道"を賜姓され
た族が北条氏や室町幕府を事実上支配した伊勢氏、江戸幕府の主要幕閣を任ずる氏族が派生
していることが論証できるのである! http://kamakuragokenin.blog.fc2.com/

28 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 03:28:57.86 .net
元の意味が何であろうが、それが氏(うじ)になったってことだろ。
それが駄目なら同様の理由から、物部や大伴や中臣や忌部だって「氏」をつけちゃいけないことになる。
ちなみに、武蔵国造も出雲氏族・丈部氏(のちには武蔵宿禰氏)の出だ。


29 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 11:22:22.43 .net
毛野氏って平氏じゃん?
DNA鑑定してみ、Qとか出るかも。
http://www.familytreedna.com/default.aspx
(英語だし高いし、自分はできないけどさ。。)
いわゆる「縄文人」とはちょと違う。
韓国にも、たまーに濃い顔のイケメンいるでしょ。
あれも毛野の遺伝子ね。
あっちには「縄文人」のDNA出てないし。

邪馬台国のライバルだった狗奴国も毛野の国だけど、
北関東の毛野組とは別の一派。
桐生(群馬)と西陣(京都)は日本有数の織物(特に帯)の産地だった。
毛野の女子は織物が得意なんだよ。

30 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 11:44:06.73 .net
田辺史は毛野氏族を称していますが、
どう見ても帰化系です。本当にありがとうございました

31 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 11:51:34.24 .net
だって毛野系の人、韓国(新羅)にもいたから。
だいたい同系の人がいる所に住まわせてるみたいよ。
百済人を東国にってのはよく分からんけど。

32 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 12:28:40.47 .net
>>30
藤原不比等は、幼少期に田辺氏に育てられているね

33 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 12:57:02.37 .net
古代の氏族辞典『新撰姓氏録』によれば、上毛野氏と同祖とする貴族集団は三十六氏ほどあり大きく三つのグループに分けられる。

第一グループは東国六腹朝臣を中心とする東国に関係する氏族群。
第二グループは百済系を中心とする渡来系氏族群。
第三グループは紀伊、和泉、大阪湾周辺に住み続けたとみられる氏族群である。
http://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/2359d9c73999a21dc0453d3c0b2469a7


34 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 13:15:43.14 .net
新撰姓氏録ってうさんくさくねえ?
この板ではバイブルみたいに持ち出すやついるけれども

35 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 13:21:34.16 .net
>>34
それを言うなら、古事記や日本書紀はもっと胡散臭くね?

36 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 13:35:13.02 .net
>>35
特に物部氏のうさんくささは半端ないね

神武天皇が来ました〜ニギハヤヒは服従しました〜
あっ、これ物部氏の祖先だから!

ヤマトトイモモソ姫がレイプされて亡くなりました〜
レイプ犯を奉れば国は安泰でしょう〜
大物主さまバンザイ

な ん だ そ れ は

37 :日本@名無史さん:2012/02/19(日) 13:45:34.71 .net
だいたい大物主って名前からして大国主のパクリなのがみえみえ

38 :日本@名無史さん:2012/02/20(月) 22:13:44.93 .net
伊達政宗も毛野氏なんでしょ?

39 :日本@名無史さん:2012/02/20(月) 22:17:06.61 .net
あと奥州藤原氏も

40 :日本@名無史さん:2012/02/20(月) 22:21:09.54 .net
あー、徳川氏もそうか...

41 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:19:34.61 .net
神戦「赤城と日光二荒山神戦」
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=1302

上毛野は長野に近い分、出雲勢力側
下毛野に見方して猿麻呂を呼んだ白鹿は鹿島の神だから
下毛野は大和勢力側だね


42 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:23:12.95 .net
>>41
誤字修正
×見方○味方

43 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 07:01:42.63 .net
>>41
顔が猿に似ている
広く厚い胸と丈夫な息づかい
弓が得意
奥州の厚樫山出身

猿麻呂は間違いなく俘囚だろうな
下毛野氏はその猿麻呂と親戚筋

実際、下戸遺伝子やアクセントの違いを見ても、同じ毛野氏でも群馬は弥生が強く、栃木は縄文が強い

なかなか面白いな

44 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 08:25:35.11 .net
なにが「間違いなく俘囚」だ

バカが

45 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 09:06:37.28 .net
>>44
何、昔話にムキになっとーと?

46 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 09:43:57.39 .net
昔話板じゃなくて日本史板なんでね、一応

47 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 20:11:24.51 .net
たしかに同じ毛野国なのに上野と下野は方言だいぶ違うんだよな

48 :日本@名無史さん:2012/02/22(水) 20:14:13.42 .net
ほうほうそうなのか。
どんな感じ?広島弁に似てたりしない?
わしは〜じゃのう。とか言わない?

49 :日本@名無史さん:2012/02/23(木) 03:44:04.93 .net
>>41
群馬には羊太夫伝説というのがあるよ。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/7211/Japanese/hitujij.html

多胡羊太夫は中臣羽鳥連の末裔。

ちなみに、中臣羽鳥連の子、中臣菊連の娘が上野国の地方豪族車持国子に嫁ぎ、
その娘・与志古が藤原鎌足の妻となって藤原不比等が生まれたという説がある。

何かにつけ藤原不比等が毛野氏を重用するのは血縁関係があったからなんだろうね。



50 :日本@名無史さん:2012/03/07(水) 19:35:25.80 .net
群馬県、玉村町ってひょっとしてかなり重要な地点なのかな
古墳が多くあり、竜神を崇めていた伝説や
朝廷から魔物討伐に派遣された武士に倒された魔物が
神として畏れ崇められているし

51 :日本@名無史さん:2012/03/07(水) 22:16:42.81 .net
>>50
ほう、どんなお話?

52 :日本@名無史さん:2012/03/08(木) 00:04:26.82 .net
http://ameblo.jp/toojoon/entry-10899301886.html
角折神社の魔物伝承

そしてこの玉村町というのも
将門伝説と係わり合いがある悲劇の伝承
http://yukiskan.3.pro.tok2.com/manholl-frame/gunma/tamamura.html

53 :日本@名無史さん:2012/03/08(木) 06:53:46.50 .net
小野姓横山党との関係は?

54 :日本@名無史さん:2012/03/08(木) 23:58:12.77 .net
■ 関東古代の海岸線

http://www.city.ebina.kanagawa.jp/www/contents/1188432232495/simple/071022194142_4.jpg
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/k3_mgw2.htm

南関東は人の住む場所ではなかった。
人々は北関東に集まっていて、縄文人は特に1,000m以上の高地を好んで生活圏としていた。


55 :日本@名無史さん:2012/03/09(金) 01:16:44.96 .net
>>54
武蔵国のむさしは、人の住めない、むさ苦しい土地という意味があるらしいね

56 :日本@名無史さん:2012/03/09(金) 12:15:33.40 .net
>>55
他にもアイヌ語で草原を意味する「ムンザシ」など様々な説があるね(※万葉集に「牟射志」=ムンザシとの表記あり)。

>>53
小野横山党は興味深いね。
加えて、小野氏が入り込む前の小野県のあたりの土着豪族にも。
武蔵国一宮と位置付けられる小野神社や、総社になる以前の大國魂神社などを調べているとその思いを強くする。
初代武蔵国造・兄多毛比命は天穂日命後裔で出雲氏族なんだけど、この命は大國魂神社界隈を中心とした多摩川流域で多く祀られている。この大國魂神社が先に述べた小野神社を一宮と位置付けていることから、
武蔵総社である大國魂神社は、延喜式名神大社である氷川神社よりも、延喜式小社である小野神社の方を明らかに大切にしている感が伺える。
国が定めた格式(延喜式)と、現地武蔵国の総社が定める順位に「ねじれ」生じているわけだからね。
そうなると、“原大國魂神社”と小野神社とは元々一体のものであったという推論も成り立ってくるだろう。
そして、総社になる以前の大國魂神社は代々出雲氏族である武蔵国造一族が奉祭を司っていたことから、
やはり小野党も(小野氏が入ってくる前の)さらに前身氏族を辿れば、それは同じ出雲氏だったとするのが妥当ではないか。


57 :55つけ足し:2012/03/09(金) 12:50:03.11 .net
加えて、律令時代に名神大社とまで位置付けられる氷川神社を奉祭していた北武蔵勢力は実は武蔵においては後発氏族で、
多摩川(〜鶴見川)流域を支配する南武蔵勢力の方がより先行開発氏族だった。

6世紀前半に起こった「武蔵国造の乱」においてこの多摩川流域勢力は、氷川神社を奉祭する元荒川流域の新興勢力に破れ、国造の地位も元荒川勢力にとって替わられる。

この戦いで、南武蔵の多摩川流域勢力が同盟を結んだのが上毛野氏だった。
一方新興勢力の元荒川流域勢力が結んだのが大和朝廷。
関東における基層覇者勢力である毛野氏と、武蔵国内での先行開発勢力である南武蔵・多摩川流域勢力とが結び、
新興勢力である北武蔵・荒川流域勢力とこれまた出雲に代わる新興勢力であった大和朝廷が結んだというのが面白い。

最も、古参の南武蔵・多摩川流域勢力も、新興の北武蔵・元荒川流域勢力もともに姓は「笠原」で、姓のうえでは両者は同族の出雲系氏族ということになる。
これは多摩川流域と元荒川流域では元々支配勢力は違っていたが、ともに出雲氏から婿を迎えた招婿婚によって「同族化」したものなのだろう。


58 :日本@名無史さん:2012/03/09(金) 12:51:42.50 .net
↑の「名前欄」は
「56つけ足し」
の間違い。

59 :埼玉古墳群 ◆AAq5ZafcCQ :2012/03/12(月) 16:10:23.11 .net
>>57
古墳の年代観としては、多摩川流域とかよりも埼玉古墳群の方が古くないか?
それを多摩川流域の勢力のほうが先行とするのはなんで??

このことを踏まえれば、埼玉古墳群の被葬者層を旧勢力として、多摩川流域
の勢力を新興勢力って位置づけるほうが自然。
それに武蔵国の国府が置かれた場所は大国魂神社付近だから(府中)、律令の時代まで自然に
結びつけることができるよ。

60 :日本@名無史さん:2012/03/12(月) 19:22:35.30 .net
多摩川なんて毛野国から見れば辺境の地だからな

61 :日本@名無史さん:2012/03/12(月) 19:39:47.80 .net
>>52
そこの川よりがBなのと因果関係あるのかね?

62 :日本@名無史さん:2012/03/12(月) 21:26:24.68 .net
>>59
☆埼玉古墳群(北武蔵=元荒川勢力)
・稲荷山古墳:5世紀末〜6世紀初頭
・丸墓山古墳:6世紀前半
・二子山古墳:6世紀前半
・将軍山古墳:6世紀末〜7世紀初頭
etc

☆荏原台古墳群(南武蔵=多摩川勢力)
・宝来山古墳:4世紀後半
・亀甲山古墳:4世紀末〜5世紀初頭
・野毛大塚古墳:5世紀前半
etc

ちょうど入れ替わるように武蔵の古墳の築造年代は南武蔵=多摩川エリアから北武蔵=元荒川エリアに移動してるんだよ。

それから武蔵国府が南武蔵=多摩川エリアに置かれたのは、6世紀前半に起こった「武蔵国造の乱」の結果、
勝利者となった北武蔵勢力により、破れた南武蔵勢力の領域が北武蔵の後ろ楯となった大和朝廷に屯倉として献上されたから。つまりは律令制施行時には朝廷の直轄地となって久しくなってたからだよ。
「武蔵国造の乱」の経緯は、『日本書紀』安閑天皇御代元年閏十二月条に載ってるよ。

このテーマに対してレスしてくれるのは嬉しいが、もうちょっと勉強してくれ。

63 :日本@名無史さん:2012/03/12(月) 21:27:11.19 .net
>>60
>>57

64 :埼玉古墳群 ◆AAq5ZafcCQ :2012/03/12(月) 21:29:03.69 .net
>>62
終末期古墳は??

65 :日本@名無史さん:2012/03/12(月) 21:35:16.22 .net
>>64
は?

66 :埼玉古墳群 ◆AAq5ZafcCQ :2012/03/12(月) 21:43:51.98 .net
>>62
これって甘粕健とかの古い説じゃないの。古墳の年代観は何に拠ってるの?
今までの諸説の経緯とか示して頂けると助かります。

67 :埼玉古墳群 ◆AAq5ZafcCQ :2012/03/12(月) 21:59:19.25 .net
>>65
古墳の規模からそれを造ることができる有力な首長がいたってことは
いえても、本当に国造職ってのはその在地社会の一番の有力者を
任命していたのか、そこまでいえるのかって所に疑問をもってる。

古墳を扱う研究者はみんなそこを自明のものとして扱ってるけど、
現に有力な古墳は武蔵国内の他の地域に色々ある。
例えば埼玉古墳群内の最大級の古墳である稲荷山とか双子山に匹敵する
古墳として、築造年代が同時期にあたる野本将軍塚古墳とかあったり、
単純に古墳の最大規模=国造の墓といえるのかってこと。
これは国造職そのものの任用の問題ともかかわるんだろうけど。

もちろん、示してくれた古墳の築造年代が接続するから国造職の勢力間の
移り変わりがあったんだという考え方は、わかりやすい見解だと思うけど。

68 :日本@名無史さん:2012/03/12(月) 22:00:17.70 .net
>>66
古いのかどうかは知らんが築造年代は古墳の埋蔵品などからの比定だよ。
逆に、より「新しい」築造年代比定がなされたんだとして、それで南武蔵→北武蔵の権力の移動の順位が逆転するものなのかどうか?そんなソースがあるなら是非示して下さい。

69 :日本@名無史さん:2012/03/12(月) 22:09:32.77 .net
>>67
武蔵国は律令制期に知々夫(秩父)国を加える前からかなりの広域エリアを有していたから、
当然国造に匹敵する、或いはそれに準ずる規模の豪族はいくつか存在したと思いますよ。

因みに、
隣の相模国だと、相武国造、師長国造と並んで「鎌倉別」という勢力が有って、少なくともこの3つの勢力が鼎立していたとされる。
まあ相武と師長は令制前は別の国ではあるが、相模国が成立した後も同国は相模国造が任じられているから(いわゆる「律令国造」)。

70 :埼玉古墳群 ◆AAq5ZafcCQ :2012/03/12(月) 23:23:32.61 .net
>>69
武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味
がある。もちろん、国造云々の時代は、各豪族の縄張りみたいなもので
ある程度線引きしたものであったんだろうけどね。今自分たちが思い描く
国境っていう概念ができたのは天武朝の国境画定事業であって。

>武蔵国は律令制期に知々夫(秩父)国を加える前からかなりの広域エリアを有していたから、
 当然国造に匹敵する、或いはそれに準ずる規模の豪族はいくつか存在したと思いますよ。
→これは面白い。となると、どういう選定理由で国造職をヤマト王権は決めていたのかとか、
 そもそも国造職は一人だけだったのか、とか色んな疑問がわいてくる。
 これ以前だと「県」との関係とかどうなんだろ。

71 :日本@名無史さん:2012/03/13(火) 02:51:39.06 .net
『遊牧騎馬民族と東国武士 』
著者:保坂俊三
出版社:中央公論事業出版
item.rakuten.co.jp/book/1076854/

593 名前: 天之御名無主 投稿日: 01/10/01 19:52

以前図書館で「遊牧騎馬民族と東国武士」という本で興味深い内容を読
んだ。遼東半島に居た倭人が拓跋氏に捕らえられ、海で獲った魚を拓跋
に供給していた。これが禿髪氏。その後拓跋氏は魏を開いたが、禿髪氏
は同じ鮮卑であり、源が同じということで皇帝から「源」の姓を賜り、
将軍職を与えられるなどたいそう出世した。禿髪とはちょんまげの事。
つまり、日本の東国に入植した、出土品から見て異民族に思える騎馬集団、
のちの武士は禿髪氏の事である、というような内容だった。参考までに。

http://mimizun.com/log/2ch/min/989770047/

72 :日本@名無史さん:2012/03/13(火) 07:44:33.37 .net
>>70
> 武蔵っていう国境みたいなのがいつ決まってきたのかっていうのは興味がある

氏姓制度時代の北武蔵エリアは本当に元から武蔵国だったのかっていう疑問もあるね。
後発開発地域で5世紀末になるまで大型古墳が存在しなかったっていうことは、当然より強大な先進地域である毛野国のテリトリーであったからということであるのかもしれない。

それから、国造封建については1人が任命される場合もあれば、一国に2人(以上)任命される例などもあったみたいだし、
上で挙げた「武蔵国造の乱」のような覇権戦争その他理由で交代する例もあったみたいだ。
国造封建は成務朝期に多い。やはり日本武尊絡みかな。
国造の任命については元からの在地豪族が任命される場合もあれば、中央朝廷から派遣されて(封をうけて)任命される場合もあったようだ。
つまり、のちの鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府の守護地頭や大名の任命の仕方とおんなじ。

73 :日本@名無史さん:2012/06/19(火) 05:11:33.82 .net
ああ、わかりやすく歴史で書くとな。日本史の史実はホントはこうだ。

そして坂東武士そのものは
承久の段階でもう坂東の軍団の合計3割 10万以上は占めてた坂東武士一計そのものだろ



74 :日本@名無史さん:2012/08/13(月) 23:18:36.09 .net
>>62
ならば、5世紀後坂東武士がとりかえすんですな。

75 :日本@名無史さん:2012/09/02(日) 16:09:44.18 .net
>>2
前スレ
【毛野】関東に大王あり【武蔵】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1105834872/

76 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:5) 【東電 52.7 %】 :2012/09/13(木) 05:50:00.94 .net
>>3
コノハナサクヤ姫と関係ありますか?

77 :日本@名無史さん:2012/09/15(土) 10:08:44.18 .net
>>15
>関東人が、朝鮮(高句麗、新羅、百済)系であることを示す
>証拠はいくらでもあるが、縄文系であることを示す証拠は何も無い。

大嘘。
関東ではD2の比率が高いが、朝鮮にはD2はまずない。
むしろ中国・朝鮮に多いO3の比率は西日本で高い。

78 :日本@名無史さん:2012/09/15(土) 19:57:51.72 .net
畿内古墳人は
渡来系古墳人の中でも渡来形質が特に際立っている集団である

畿内古墳人は
韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し
縄文人から最も離れている

関東・東北南部古墳人は
渡来系古墳人の中で縄文人グループに最も近い

『日本人のきた道』 (池田次郎・京都大学名誉教授 自然人類学)

79 :日本@名無史さん:2012/09/17(月) 20:13:06.64 .net
三毛野命
若三毛野命

80 :日本@名無史さん:2012/10/12(金) 21:18:16.84 .net
>>79
神武天皇のことか
けぬってどういう意味なんだろうな

81 :日本@名無史さん:2012/12/01(土) 18:07:21.65 .net
http://seiji.yahoo.co.jp/vote/result/201211270001/

82 :日本@名無史さん:2013/01/14(月) 00:24:35.20 .net
百姓上毛野貞並

83 :日本@名無史さん:2013/02/06(水) 14:19:45.67 .net
>>80
だから神武天皇の乳母氏族が毛野國の人だったんじゃね?
昔の皇族の名前って母親の氏族名か乳母の氏族名つけるじゃん

84 :日本@名無史さん:2013/02/09(土) 02:41:45.64 .net
中臣=藤原氏も元は軍事貴族で畿内から関東に遠征し通婚して常陸や房総に地盤を得たのかな
だから鹿島神宮=春日大社のつながりがある

あるいは元々地方の勢力だったのが連合政権を作り、首都周辺に集住し豪族層を形成する
後の室町時代、江戸時代を考えても官僚層は地方に地盤があるね

85 :日本@名無史さん:2013/02/22(金) 13:49:37.69 .net
>>84
中臣氏は神官の家系で元々軍事貴族ではないだろう
中臣氏の中でも、毛野氏の後ろだてを得た藤原氏が、後々政治的軍事的に突出した力をつける事ができたが

86 :日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:09:41.94 .net
>>85
藤原はむしろ大伴に近いんじゃね?
中臣鎌足の父中臣御食子辺りまでは神官やってたらしいんだが
中臣鎌足の実母が軍事氏族の大伴氏出身
鎌足が母方の縁で軍事力を身につけてもおかしくない

87 :日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:38:26.87 .net
>>86
鎌足は生前には藤原姓を名乗っていない
実質的な藤原氏の祖は不比等だろう
不比等の母親は上野国の地方豪族車持氏の出、つまり毛野氏だ

88 :日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:57:40.39 .net
中臣氏も尊卑分脈からだけでは推し測ることの出来ない難しい氏族ですよね。

九州・宇佐津臣(宇佐国造)の一族に仲津臣(なかつのおみ)という氏族がおり、この氏族が常陸に移動して鹿島神宮宮司の多臣(おおののおみ)氏と、
常陸・那賀国造(なかくにのみやつこ)氏とに分かれます。
那賀国造氏は同時に那賀臣(なかのおみ)氏、仲臣(なかのおみ)氏、そして中臣氏とも称しました。

また、那賀国造の「那賀」は、宇佐国造一族である仲津彦の「仲」に由来するものと思われます。

そしてこの宇佐津彦(宇佐国造)、仲津臣氏、多臣氏、那賀国造(=那賀臣、仲臣、中臣)氏の共通先祖に天種子(アマノタネ)命という神がいます。

89 :日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:59:13.01 .net
>>87
天智天皇から大職冠と藤原姓を与えられたのは鎌足
通例で中臣と呼んでいるだけで藤原鎌足でもあるんだよ

だいたい、藤原が朝廷で重んじられるようになったのは鎌足の軍事行動によってだ
それでは鎌足の軍事力はどこから来ていたと思うのか?
車持氏は名の通り、天皇の輿を担いだ一族だが傑出した大和朝廷の軍事氏族ではない。

90 :日本@名無史さん:2013/02/22(金) 23:20:22.92 .net
>>89
軍事行動って何を言ってる?

中臣氏は「壬申の乱」でボロ負けしてたろ
近江方の中心人物だった中臣氏族長の連金は乱後に処刑されてる
頼みの大伴氏も大海人皇子側に付いたしな

91 :日本@名無史さん:2013/02/23(土) 14:57:26.06 .net
中臣鎌足は弓削大連・物部守屋の曾孫か玄孫くらいだと思います。

92 :日本@名無史さん:2013/02/23(土) 15:46:41.79 .net
>>88
へぇ、面白いね。
ところで、中つながりで、天智天皇(中大兄皇子)には、何か氏族的なつながりがないのかな。

93 :日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:56:28.92 .net
>>89
確かに壬申の乱後の中臣氏・藤原氏の立場はかなり微妙なものになったし
両氏はこのまま歴史の舞台から消えてしまう可能性もあった
大伴氏が天武側についた事がこの乱の勝敗を決めたともいえるから
父を裏切った大伴氏に対する不比等の恨みは相当のものだったろうね

94 :日本@名無史さん:2013/02/24(日) 14:03:31.82 .net
すまん>>93>>90に対するレスね

95 :日本@名無史さん:2013/02/26(火) 01:12:52.96 .net
天武十三年(684年)の「八種の姓」で毛野一族である「東国六腹」は
そろって朝臣の姓を与えられているね
当時、朝臣を与えられた面々を見ると畿内の大豪族ばかりなので、
地方豪族にすぎなかった毛野氏に朝臣が与えられたのはかなり異例な事だね
なんでなんだろ?壬申の功臣だった?そんな話は聞いたことないけど

96 :日本@名無史さん:2013/02/26(火) 01:29:46.43 .net
さらに不思議なのは
毛野氏に朝臣の姓が与えられた時、中臣氏にも同じ朝臣の姓が与えられたが
壬申の功臣であるはずの大伴氏に与えられた姓はワンランク下の宿禰だったという事だ

97 :日本@名無史さん:2013/02/26(火) 01:49:30.57 .net
神別系で優遇されたのは中臣藤原氏と石上朴井の物部氏だけだから。
同じく神別系の大伴は除外された。

98 :日本@名無史さん:2013/02/26(火) 09:40:30.81 .net
久米、大伴は同族な気がします。
また大伴、物部、中臣は緩やかな同族かと。

99 :日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:02:29.59 .net
>>95-96
おまえはなにをいってるんだ?
不思議でもなんでもないだろ。
上毛野氏も下毛野氏も、北関東と畿内の両方に繁茂してる立派な大豪族だぞ

100 :日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:00:05.89 .net
>>99
上野、下野、車持だけならまだ分かる
大野、池田、佐味なんてそんなに立派か?
畿内やその周辺にももっと有名豪族がいただろ
大伴とか忌部とか尾張とか吉備とかさ

101 :日本@名無史さん:2013/02/27(水) 00:51:14.73 .net
>>100
毛野氏は一族の結束が強かったから
六氏族すべてに同等の姓を与える必要があったってことだろうね
まあ、それだけ一族の力が強かったってこと

武力については蝦夷と接する土地柄だから言わずもがなだけど
財力についても他の豪族をはるかに凌いでいたようだ

例えば、下野国では持統天皇の病気回復を願って
平城京内の七大寺に比肩されるほどの壮麗な大伽藍を持った
官寺「下野薬師寺」を建立しているし

「公地公民」では率先して奴婢六百人を解放している
普通、奴婢は畿内の大豪族でも十数人程度だったといわれているから
いかに下野一族の勢力が大きいものだったかわかるよね

102 :日本@名無史さん:2013/02/28(木) 14:39:00.67 .net
カバネってのは個人に与えるんじゃなくて
一族全体に与えるんだから何もおかしくないだろ

出世頭が一人いれば一族全体が余沢にあずかるって仕組みじゃん

103 :日本@名無史さん:2013/02/28(木) 21:50:39.19 .net
>>102
そう、その出世頭が下毛野古麻呂だね

104 :日本@名無史さん:2013/03/01(金) 18:13:27.18 .net
オビ=ワン・毛野氏

105 :日本@名無史さん:2013/03/02(土) 10:21:00.10 .net
下野古麻呂って何者なんだろう?

最終的な冠位と役職は「式部卿大将軍、参議、正四位下」

・式部卿 ・・・ 文官の人事を担当した式部の長官
・大将軍 ・・・ 最大で三万人の兵士を統率する指揮官
・参 議 ・・・ 国の最高決定機関である「朝政の議」に参加できたのは大臣、納言、参議のみ

出世競争で差別されていた地方豪族出身者が、これほどの高位にのぼるのはきわめて異例だ
古麻呂以前には例がないし、古麻呂後でも古麻呂の上を行ったのは吉備真備以外にはいない

106 :日本@名無史さん:2013/03/04(月) 01:30:08.29 .net
持統天皇即位以前の古麻呂は無名の下級官僚にすぎなかった
それが持統朝になると一転めざましい活躍をみせるようになる

既に持統天皇や草壁皇子と親密な関係のあった藤原不比等からの
推挙があったかもしれない
古麻呂は生涯、不比等と行動を共にしている

107 :日本@名無史さん:2013/03/04(月) 22:41:22.90 .net
大野東人は?

108 :日本@名無史さん:2013/03/05(火) 00:42:32.11 .net
>>107
おっと、同族の大野東人を忘れてた
ご指摘感謝

109 :日本@名無史さん:2013/03/05(火) 23:57:55.69 .net
斉明六年(660年)唐・新羅連合軍の侵攻により百済が滅亡。
中大兄皇子は百済の遺臣「鬼室福信(きしつふくしん)」の要請により
人質「余豊璋(よほうしょう)」に織冠を与え、護衛兵5千余人を付けて送り返す。
さらに天智元年(662年)日本より送られた救援軍は余豊璋を国王とし百済を復興。
翌年、二万七千の主力軍が新羅に向けて出撃。
前軍の将軍は「上野稚子(かみつけぬわくご)」。
稚子らは新羅の二城を奪うなど緒戦は優勢であった。

このとき青年となっていた古麻呂はすでに出仕していただろうか、
同族の上野稚子の活躍を誇らしく思いながら見守っていたに違いない。

110 :日本@名無史さん:2013/03/08(金) 09:53:47.98 .net
>>105
だから地方豪族じゃないと何度いえば…

111 :日本@名無史さん:2013/03/10(日) 10:45:19.32 .net
ところが、何を血迷ったのか余豊璋が鬼室福信を謀反の罪で殺害。
この内輪もめにより百済軍は空中分解する。
日本軍は指揮系統が不明瞭なまま唐・新羅連合軍に単独で対峙しなくてはならなくなった。

結局、日本史上初の対外戦争であった「白村江の戦い」は惨敗という結果に終わった。

敗戦の原因は、余豊璋の度重なる軽率な行動もあったが、
日本の救援軍が豪族の私兵の寄せ集めに過ぎず、
国家による軍団制が完成していなかったことが大きい。

毛野一族にとっても多くの私兵、そして将軍上野稚子を失うという
大きな痛手を被る戦であった。

112 :日本@名無史さん:2013/03/10(日) 11:09:02.97 .net
余豊璋は無能

113 :日本@名無史さん:2013/03/11(月) 07:16:38.64 .net
崇神の皇子、トヨスキイリヒコは東国を収めるように命じられる。
トヨスキイリヒコの孫の御諸別の代に、
崇神の孫である景行が、
御諸別に「汝の父彦狭島王、任する所に向かい得ず、早く葬る。故に汝が東国を領めよ」
と命じたとある。
時系列的には不自然ではなく、
毛野がヨスキイリヒコ並びにその子孫を始祖とするのもまた不自然ではない。

ご都合主義的に書紀を利用してきた、従来の逆皇国史観はおいといて、
日本書紀の記述は案外正確。

114 :日本@名無史さん:2013/03/13(水) 01:02:36.53 .net
>>111の続き

「白村江の戦い」の敗戦処理で国内が混乱する中
唐からの使節団と共に、満を持してあの男が帰ってくる。
学問僧として渡唐していた不比等の兄「定慧(じょうえ)」である。

孝徳天皇の後胤だといわれる定慧を父・鎌足は彼の安全のため唐に留学させていた。
しかし、定慧の外交能力を必要した鎌足が呼び寄せたのだ。
また、年老いた父を持つ若い不比等のためでもあった。

もちろん、定慧の母親は不比等と同じ車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)。
毛野氏である。

115 :日本@名無史さん:2013/03/16(土) 17:50:25.13 .net
定慧の出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」という。
還俗して名を真人に戻したが、今もなお、その命を狙われる身。
そのまま中臣氏でいるわけにはいかなかった。

定慧帰国前のある晩、鎌足は粟田百済(あわたのくだら)を自分の屋敷に招いた。

百済「ところで内臣殿、私に内々の頼みとは何でございましょう?」

鎌足「実は近々、長男の真人が唐から戻ってくる。
  その真人を百済殿の子息として迎えてはくださらぬか?
  無論、貴殿及び粟田一族の悪いようにはせぬ。
  このような事を頼めるのは身内である貴殿しかおらぬのだ。」

粟田氏は中臣氏と関わりの深い春日氏の後裔氏族である。
個人としても粟田百済は大事を共することができる人物であった。

116 :日本@名無史さん:2013/03/17(日) 05:06:58.74 .net
>>115
面白い話だが、
>粟田氏は中臣氏と関わりの深い
ことを論証できないとただの思いつき、妄説に終わってしまう。

117 :日本@名無史さん:2013/03/17(日) 05:31:31.34 .net
>>111
お前の妄想には興味ない。

118 :日本@名無史さん:2013/03/17(日) 10:23:18.32 .net
粟田氏限定というよりも、同氏を含めた和邇・久米氏族と中臣・藤原氏族との結び付きについては確かに注目すべきものがあると思われます。
鹿島神宮宮司家の多氏・仲臣(中臣)氏のルーツである宇佐氏(宇佐国造氏)と神功皇后の出身氏族である息長氏との関係や、
春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。

119 :日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:20:32.38 .net
>>118
>春日氏の本拠地がのちに藤原氏の氏神である春日四神を勧請してその鎮座地になっていく過程には大変興味深いものがあります。

考えられるのは、藤原史と粟田真人との関係。
それ以外の結びつきには首をひねってしまうが。

120 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 18:48:55.91 .net
「特に関東地方は朝鮮人の非常に多い所ですからね。
奈良朝以前の大和朝廷の時代から、平安朝初期にかけて何度も大量に集団移住しています。
とりわけ、この武蔵国、今の東京都、埼玉県は朝鮮人の拓いた土地ですから、朝鮮の服装をしていてもいいんじゃないですかね。今のような白い衣装の─」
「僕はいわゆる坂東武士というのは、朝鮮人の血が非常に濃厚に入っていた、ということを最近考え始めたんですけれどね。
従来の日本人と違って坂東武士は、荒々しくて勇敢で強情っ張りでね、そういうところは、やはり朝鮮的性格だと思ってるんです。」
海音寺潮五郎『覇者の條件』より

121 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 19:23:38.63 .net
名の謎は解けたぞ

122 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 19:36:14.24 .net
江戸時代あたりそんなもんを持ち出してロシア辺りと取り引きしてたんだろ

ば〜か^_^

123 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 19:40:58.61 .net
北方漁港関連ばれてるぞ

124 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 20:30:53.49 .net
上毛野氏→赤城神社
下毛野氏→二荒山神社

共に豊城入彦命と大己貴命を祀っている不思議

125 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 20:37:35.96 .net
豊城入彦が大物主信仰を関東に持ち込んだんじゃないかな
神話扱いされがちな豊城入彦だけど、普通に関東に来てたと思うんだが

126 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 21:03:00.78 .net
毛野氏の子孫かどうかは、話をすればすぐわがっペ?
茨城:だっぺ
栃木:だべ
群馬:だんべ
東京に長く住んで標準語で話しているつもりでも、
興奮すると尻上がりのイントネーションになるのが毛野氏の子孫。
すぐ、わかんべ?

127 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 21:53:20.37 .net
>>125
茨城の丸山古墳が陵墓って説もあるしな

128 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 22:44:52.81 .net
豊城入彦前後は関東統治のために結構皇族将軍派遣してたと思うんだよな
ヤマトタケルもその一人
大きな視点で見ると畿内と関東の分割統治のような形態

129 :日本@名無史さん:2014/03/26(水) 23:25:46.67 .net
縄文人成りすまし工作スレ

130 :日本@名無史さん:2014/03/27(木) 01:46:04.08 .net
>>120
山口県というのは日本では朝鮮の血液的影響を
もっとも多く受けたものの一つですから、
それももう古代じゃなくて、ごく近代にいたるまで
受けつづけてきたところですから。
そういうことがあって、長州的思考法というのは
ぼくなんかは朝鮮人的なタイプだと思うんです。

司馬遼太郎

131 :日本@名無史さん:2014/03/27(木) 01:50:06.56 .net
なんか必死だけど今の朝鮮半島民とは
DNAレベルでなんの繋がりもないから

132 :日本@名無史さん:2014/03/27(木) 02:07:38.54 .net
縄文vs弥生
http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/special/2005/jomonvsyayoi/img/imagetop1.jpg
http://www.kahaku.go.jp/special/past/kao-ten/kao/jomon/img/02.jpg
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_02.jpg
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_03.jpg

133 :日本@名無史さん:2014/03/27(木) 09:41:52.36 .net
131
朝鮮半島と関係あったかも疑問
どうみてもいつからかきた朝鮮?系とやらがやたら主張してるのか?

134 :日本@名無史さん:2014/03/27(木) 09:43:31.32 .net
130
それで影響あるなら倭寇関連だぞ

海賊の話

135 :日本@名無史さん:2014/03/27(木) 21:24:49.80 .net
>>128
ちなみに下野足利の地名の由来のに日本武尊の御子の足鏡別王がこの地方を治めた縁か、
豊城入彦命の子孫である鹿我別命が治めたので命名されたらしい

136 :日本@名無史さん:2014/03/27(木) 21:44:43.17 .net
白村江の戦い迄は半島との繋がりは強かった。

大和朝廷の海外領地の任那も有った。
百済や新羅には頻繁に倭軍が進攻し、高句麗とは半島中部で合戦をした。
百済は王子を人質として大和へ送るなど明らかに服属していた。

半島で一生を終えた倭人の有力者も多く、彼らは前方後円墳を築き、今も眠っている。
そんな中では、「韓子」と呼ばれる日鮮混血児も多く誕生した訳だ。

137 :日本@名無史さん:2014/03/29(土) 12:28:19.38 .net
>>135
「日本書紀」によると継体天皇6年(512年)に大伴金村は任那4県(上多利、下多利、娑陀、牟婁)(多利には口篇がつく)を百済に譲渡してしまいます。
任那4県に住んでいた倭人の多くは日本に移住することになりました。
任那3県の一つ多利から日本に帰国した倭人は、東国の足利に代わりの領地を与えられました。
隋書俀国伝には、600年と607年に倭王の阿毎多利思北孤が使者を遣わせて朝貢したと記述されており、
隋の事情にも明るい多利思北孤が隋に派遣されたのです。
この方が、聖徳太子ではないかと思われるわけで、足利将軍の血筋の良さが伺える逸話です。

138 :日本@名無史さん:2014/03/30(日) 20:58:44.92 .net
足利には毛野町と言う名前の地域が残っているらしいね

139 :日本@名無史さん:2014/03/30(日) 21:03:33.14 .net
> 韓子

なにこれ酷いw

140 :日本@名無史さん:2014/03/30(日) 21:35:25.20 .net
蘇我韓子
蘇我高麗
蘇我蝦夷

141 :日本@名無史さん:2014/03/30(日) 21:41:07.70 .net
なんだ変なのみつけてうれしそうだなw
まあどっちにしろルーツは半島にないからよ

142 :日本@名無史さん:2014/03/30(日) 21:46:27.30 .net
新田の地ってか上野は浅間の、火山噴火で壊滅してそのあとに開墾しなおしているんだよな
ならその前はどんな勢力があったかといえば信濃全域から上野西部にかけては貞保親王の伝承
なんだね

143 :日本@名無史さん:2014/03/30(日) 21:51:50.48 .net
菅原道真の話なんかも絡んでくるんだよな

144 :日本@名無史さん:2014/03/31(月) 19:37:51.22 .net
毛野氏は上野守の中にその名前が見えるな
その上に太守というのがいてこれが親王が太守になっている
平将門が親皇を名乗ったときに常陸、上総は介にしたが上野
守を任じてるんだよな
なんらかの敵対関係でもあったか?

145 :日本@名無史さん:2014/03/31(月) 20:30:33.17 .net
桓武天皇以降だが14人が太守になってるな
葛井親王
明日香親王
阿呆親王
葛原親王
秀良親王
仲野親王
本康親王
忠良親王
時康親王
賀陽親王
惟桓親王
惟彦親王
貞保親王
貞元親王

146 :日本@名無史さん:2014/04/03(木) 20:15:05.09 .net
>>128
ヤマトタケルって架空人物じゃなかったけ?

147 :日本@名無史さん:2014/04/03(木) 20:24:39.16 .net
>>146
え!?まじで!?

148 :日本@名無史さん:2014/04/03(木) 21:07:11.86 .net
なにを魂消てるんだ?

149 :日本@名無史さん:2014/04/05(土) 09:21:35.58 .net
『西遊草』
著者:清河八郎(山形県=出羽国東田川郡清川村出身の幕末尊攘派志士。剣は北辰一刀流)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/Kiyokawahatiro.jpg
▽庄内人
他国の者は胸の中がらりとしていて、我が庄内人のような決断のつかぬのと比べものにならない。
▽名古屋
瓦屋根の並んでいる様は京にも大坂にも劣らないが、人々の口のきき方は軽薄である。
▽岡山
東西に開け村々も多く、山にも海にも産物が豊かであるから、よろしい土地である。
▽関東
剛強な気質で心正しく、人を憐れむ。関東に遊ぶものはあっさりとした心で楽しみ、ものを疑う必要がない。
▽江戸
関東の中でも最も清潔な所だから安心してよい。
▽関西
柔弱で事に堪えず、人を欺く。上方に至るものは万事につけて注意に注意を重ね、手落ちのないように心懸けなければならない。
▽播磨
人情が極めて軽薄で、実意のない通り一遍のあしらいで人を欺くことが夥しい。
▽京都・大坂
京都は四方に山を負い綺麗な水が多い。中でも鴨川の水の清らかさは人の知るところである。
京師は口先はうまいが心がねじけているので、買い物は大坂がよい。
大坂は江戸に比べると客が少ないので食物は万事よろしくない。中でも鰻は最もまずい。食わない方がよい。
京・大坂は人にへつらうばかりで意気が上がらず、東方男子の風と異なる。
▽宇都宮
下野の中でも格別気風の荒々しい所だから、万事につけて人に後れを取ることを嫌うという片意地な悪習慣がある。
▽陸奥国
関東とは人の気持ちも違い、かつ言語も思いのほか鈍重である。
▽福島
町家は特に見事だという事もないが、近辺から人の集まる所で、何事につけても上品である。
▽米沢
近辺の国々よりも優れて政治が行き届いているから、人は皆穏やかな気立てで、人情に厚い。

150 :日本@名無史さん:2014/04/05(土) 23:26:18.94 .net
つうかさ宇都宮氏や小山家はあからさまに毛野氏族の末裔でしょ
どう考えても藤原家は自称

151 :日本@名無史さん:2014/04/06(日) 01:15:38.24 .net
宇都宮は。うそ臭いけど
小山は秀郷流でしょ

152 :日本@名無史さん:2014/04/06(日) 07:11:15.46 .net
寧ろ秀郷流は下向して土着した連中
毛野末裔なら宇都宮じゃね?

153 :日本@名無史さん:2014/04/06(日) 23:02:55.22 .net
大伴や藤原姓の人は、かなりの人数が残っているのに、
毛野姓の氏族は壊滅。
これは何を意味するか、説明できる人はいないだろうな。

154 :日本@名無史さん:2014/04/07(月) 15:57:45.67 .net
現代に残っている毛野の名門は奈良原とかかね。
足利あたりから熊谷あたりにけっこういる。

155 :日本@名無史さん:2014/04/07(月) 20:57:59.65 .net
>>153
むしろ超簡単だろ
毛野氏族は関東に無数に存在したが、こぞって藤原や板東平氏や大江や源氏を自称 して生き残ったのが関東武士団というたけだろ

156 :日本@名無史さん:2014/04/09(水) 20:42:38.13 .net
岩宿遺跡から遡るべきだと思う

157 :日本@名無史さん:2014/04/17(木) 21:25:05.03 .net
153
火山噴火

158 :日本@名無史さん:2014/04/17(木) 21:28:06.32 .net
日本書記が書かれた年代に火山噴火起こしてる
じゃなきゃあれだけの勢力をもってたのが消える
わけがない

159 :日本@名無史さん:2014/04/17(木) 21:31:58.35 .net
ちゃんと信濃あたりの草木全滅とかの言い伝えあるけど
誰も注目しないのなんでだ?
新田にしろ火山噴火後のとこを開墾してるんだが

160 :日本@名無史さん:2014/04/17(木) 21:39:36.36 .net
157
おいおい
その藤原氏自体が車持氏の娘を嫁をもらって成立してるんだが?

161 :日本@名無史さん:2014/04/20(日) 18:52:51.03 .net
>>157
毛野一族の藤原秀郷の末裔が藤性足利氏なんだよな
藤性足利氏は秀郷家系の嫡流・とことん毛野一族
南家は言わばハイブリットで朝廷に毛野の娘を献上していた

162 :日本@名無史さん:2014/04/22(火) 21:07:35.53 .net
>>160それでは毛野一族とは言わんだろ

163 :日本@名無史さん:2014/04/29(火) 10:15:50.20 .net
おれが思うに、
例えば、藤原の分家や家臣は、
阿藤、伊藤、江藤、尾藤、
加藤、木藤、工藤
佐藤、志藤、須藤、瀬藤、
武藤
他に安藤、遠藤、近藤、進藤、
武藤、兵藤、斎藤・・など、「藤」を名乗ったものが多い。

一方、毛野の分家、家臣は、
阿野、井野、宇野、江野、小野、
狩野、紀野、久野、毛野、
佐野、志野、巣の、瀬野、曽野、
田野、茅野、津野、手野、
真野、三野、
矢野、与野、
他に、浅野、上野、大野・・


日本では、「藤」系より、むしろ、「野」系の方が多いかもしれない。

wikiによれば、

大野氏は毛野氏の支族。一説では下毛野尼古太の子で、下野国那須郡大野邑に居住した若古を祖とする。
小野氏は近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とした。なお、山城国愛宕郡小野郷(現在の京都市左京区内)も支配下にあったと考えられており、京都市左京区上高野西明寺山の崇導神社内には小野毛人の墓碑がある。とある。

この説は、どうでしょう?

164 :日本@名無史さん:2014/04/29(火) 11:14:13.23 .net
>>25
その人は歴史的に知識もなしに、組み立てた節

165 :日本@名無史さん:2014/04/29(火) 16:55:25.83 .net
武士は縄文ルーツが多いだろうからそう間違いでもないだろう。

166 :日本@名無史さん:2014/05/01(木) 22:02:24.27 .net
>>126
言われる茨城・栃木・群馬の北関東に限らず、南関東も三河国からの
江戸移住者を除き、西日本と異なるだべ・づら文化圏でしょう。

167 :日本@名無史さん:2014/05/02(金) 03:12:51.83 .net
>>163
おまえアホだろ

168 :日本@名無史さん:2014/05/02(金) 03:12:53.99 .net
武芸、馬術は縄文ルーツだろう

169 :日本@名無史さん:2014/05/02(金) 06:31:38.81 .net
へえ

170 :日本@名無史さん:2014/05/03(土) 06:40:53.13 .net
>>166
おまえバカだろ
群馬・栃木の南部はそんな言葉は使わない
埼玉の中北部の言葉の方が近い

171 :日本@名無史さん:2014/05/03(土) 09:38:14.22 .net
>>170
お前は祖国へ変えれよ
知ったかこいてんじゃねーよ

172 :日本@名無史さん:2014/05/03(土) 15:30:05.15 .net
>>170
>群馬・栃木の南部はそんな言葉は使わない・・・・・・・・・・・・・
ほほう、栃木:だべ>>126 群馬:だんべ>>126でないと?
南部地域は、「だっぺ」圏でしたか?

173 :日本@名無史さん:2014/05/03(土) 18:01:56.34 .net
▽幕末の剣聖
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
▽幕末三剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
島田虎之助(大分県中津市出身、直心影流)
※比留間与八(埼玉県日高市出身、甲源一刀流)
※大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
※伊庭秀業(東京都台東区出身、心形刀流)
▽中西道場三羽烏
寺田宗有(東京都文京区出身、天真一刀流)
白井亨(東京都千代田区出身、天真白井流)
高柳又四郎(東京都出身、戸田流高柳派)
▽天保の六剣士
男谷信友(東京都墨田区、直心影流)
長沼恂郷(東京都港区出身、直心影流)
杉浦源次兵衛(茨城県笠間市出身、香取神道流)
千葉周作(宮城県古川市出身、北辰一刀流)
加藤田平八郎(福岡県久留米市出身、加藤田神蔭流)
大石進(福岡県大牟田市出身、大石神影流)
▽幕末著名流派別最強剣士
男谷信友(東京都墨田区出身、直心影流)
中西子正(東京都千代田区出身、中西派一刀流)
千葉栄次郎(東京都中央区出身、北辰一刀流)
岡田十松(埼玉県羽生市出身、神道無念流)
桃井直正(静岡県沼津市出身、鏡新明智流)
岡田惣右衛門(埼玉県幸手市出身、柳剛流)
▽明治の剣聖
榊原鍵吉(東京都港区出身、直心影流)
山岡鉄舟(東京都墨田区出身、一刀正伝無刀流)
下江秀太郎(栃木県鹿沼市出身、北辰一刀流)

174 :日本@名無史さん:2014/05/03(土) 21:28:41.21 .net
>>171
朝鮮人が自爆して火病っているんじゃねーぞ
消えろw

175 :日本@名無史さん:2014/05/04(日) 11:14:01.92 .net
>167
>南関東もだべ・づら文化圏でしょう。

バカ丸出しだな
無知の間違った知ったか程
恥ずかしい事はねーぞ
ってか
お前の国には
恥の文化なんてねーだろ

176 :日本@名無史さん:2014/05/04(日) 13:33:14.84 .net
自己紹介乙
息を吐くように見栄をはる民族だなw
はやくお前の国で官僚攻撃してこいよwなんでも人のせいw

177 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 13:22:26.03 .net
関東には、新羅人や高句麗人がたくさん入植しているからね。

178 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 15:11:46.90 .net
チョンそのものの奇形関西人

179 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 15:12:18.39 .net
チビ・出っ歯・絶壁・一重まぶた

関西人の特徴

180 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 16:44:03.63 .net
>>177
現在朝鮮半島に住んでる生き物とは違うよ

181 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 19:22:16.80 .net
発音や語彙的など言語的にも朝鮮半島・朝鮮民族と非常に近いのが
大阪と中心とした関西地域
おまけに生活形態や感情表現など朝鮮人にそっくり
大阪人DNAと最も離れているのはアイヌや沖縄、そして関東・東北地域

182 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 19:25:49.17 .net
歴史捏造民族による妄想はもういいよ
国に帰れ

183 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 20:14:19.19 .net
今日朝鮮半島からの大規模な人の移動を示す遺物として朝鮮系の土器に注目されるが、
それらの故地や、流入時期、分布状況に際立った特徴のあることが指摘されている。
それによれば、土器の故地は加耶諸国を中心とし、
それらの流入は五世紀中葉から六世紀初頭に限られる時期に最も多いとされる。
また列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多く、吉備、筑紫地方がこれに次ぎ、
半島からの地理的な距離にかかわらない偏在性が強く認められる。
(『アジアからみた古代日本』、『橿原考古学研究所論集』九)

大阪府の韓式土器分布図
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_04/kannsikidokibunnpuzu.jpg

184 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 20:29:41.49 .net
現代朝鮮人て本当に頭がおかしい

185 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 21:05:22.91 .net
と思ってるのは日猿だけ
世界中は日本がおかしいとおもってる

186 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 21:33:22.75 .net
てか頭が腐っているのは
>>182 みたいな大阪に生息する在日だな

187 :日本@名無史さん:2014/05/05(月) 23:53:25.66 .net
>>186
先祖代々関東だが

在日は関東と関西の分断狙ってるらしいな
おまえみたいに

188 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 07:57:56.73 .net
朝鮮人みたいなパンスト被って引っ張りあげたみたいな顔した日本人なんていないだろ。

そういうことだよ。

189 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 08:34:54.83 .net
朝鮮人は良く日本人のフリをして嘘をつき犯罪を犯し
在日は日本人のフリをして嘘をつき犯罪を犯す
この連中は聞きもしないのに自らの出目や国籍を最初に名乗る
普通の日本人ならこんな事は言わない

俺は先祖代々日本人だがとか先祖代々関東だとか
そういうことだ

190 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 13:39:07.00 .net
古代や中世を語る以前だわw
現代において在日や朝鮮人の巣窟は京都・大阪など関西地域なのは確か
戦前・戦後にかけて大量に不法入国して寄生している連中は関東の比じゃない
ってことは事実

191 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 13:43:57.37 .net
毛野氏が蟠踞していたのは毛野国である。那須国は別である。
坂東武者の鏡は、射てにかけては天下無双の那須与一である。
私は、そう思う。

192 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 14:56:33.88 .net
だからよ、北関東なんて皆毛野だっつーの
なんでナスだけなんだよ既違い

193 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 15:59:42.12 .net
(旧湯津上村)大田原市には、国宝である那須国造碑がある。
那須国は、西暦700年頃まであった。那須国の東部にある境明神峠は、陸奥国との境である。
茨城県の大子町が常陸国となったのは太閤検地の時である。

194 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 16:05:36.94 .net
うほ

195 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 16:19:59.58 .net
分国令無視しまくりやね

196 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 16:23:14.51 .net
まず東国は毛野国がありそのあとに武蔵の国とか作られてるんだよな

197 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 16:41:43.60 .net
>>189
今日も在日必死だな

198 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 17:16:46.78 .net
手元の古事記もどきの本の倭建の命の東征のところでは、相模、甲斐、常陸、吾妻、
信濃、尾張の国名が載っているよ。
関八州は、一時期に十数か国となり七世紀末ごろまでには八か国に落ち着いたらしいよ。
この場所に毛深いのが多いのは気温が低いからでしょう。寒くてかなわん。

199 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 17:19:48.01 .net
分国令は7〜8世紀
そんな地名が現実にあったわけないだろ

200 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 17:31:22.17 .net
国が村ならあるかもしれんがな

そもそも高志の国ってのは福井から秋田までの旧北陸道全てを言った
日向ってのも薩摩大隅日向すべて一つで日向の国

201 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 17:37:40.24 .net
信濃だって古代には信濃なんて字は使ってないぞw

202 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 17:42:55.40 .net
国が何時できたかは国分寺や役所などの創建日でだいたい分かる。
人のあまり住んでいかった武蔵国は遅いような気がする。

坂東武士の利根越えでも武蔵国は素通りするだけである。かつて利根川は東京湾に注いでいた。
上総・下総のものは、今はどうすればいいんだよ

203 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 17:52:18.11 .net
毛野は高句麗の拠点だろ

204 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 17:55:23.87 .net
それと新羅

205 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 18:13:51.50 .net
高句麗は長野
新羅は京都
百済は大阪

206 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 18:18:49.77 .net
どっかいけ じゃま

207 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 18:49:04.27 .net
>>187 >>197
>先祖代々関東だが

先祖代々って
それも日本史板で
お前恥ずかしくねーか?
関西在日モロだしだぞw

208 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 19:06:05.88 .net
>>207
おまえが勝手に関西在住認定するからそう書いたのがわからないのか
狂ってるのか?

209 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 19:51:03.15 .net
現在、
両毛(毛野)地区=群馬県+栃木県−(那須郡+その他一部)
である。 異論は?

少なくとも日光の人は、自分は両毛地区に住んでいるとは思っていない。

210 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 20:08:52.63 .net
日光ってくらいだから仏教由来なのは分かるわなw

大権現、神の武威を仏教を通して表したもの

211 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 20:10:42.88 .net
天料ってのも仏教由来

212 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 20:23:54.26 .net
毛野氏と関係ないけれど社会科の教科書や県史で古代から中世の茨城県の大子町が
常陸国になってるよ。
誰か、今すぐ東白川郡保内郷に訂正してよ。
太閤検地の関係者は違法なことをしでかしたのかな。
関八州でないのに関八州に入っているのは歴史の冒とくにならないでしょうか。

213 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 21:48:05.36 .net
坂東武者を代表する歌

  武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原    実朝

214 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 22:04:48.73 .net
>>209
日光と宇都宮の二荒山神社の関係が謎

宇都宮は古墳時代は鬼怒川の水運で関東各地への移動がそれなりに便利だったとは思うんだが
日光はよく分からん

215 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 22:21:03.12 .net
実朝は坂東武者らしからぬ軟弱な男だったけどな。

216 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 22:40:22.41 .net
日光は観光地、宇都宮は県都。かつて外国の小さい地図には宇都宮、日光、烏山と栃木県では三つの記載があった。日光は標高が高く軽井沢町と同じ。
日本初の本格的リゾートホテルは日光の金谷ホテルである。那智勝浦の滝、大子町の袋田の滝と合わせて日本三大名瀑と呼ばれる華厳の滝、中禅寺湖、男体山をミックスさせた景観は息をのむ美しさである。
水運で栄えたのは両毛地区の足利と栃木である。宇都宮はもっぱら奥州街道や日光街道の陸路で栄えた。
日光と二荒山神社は密接な関係がある。内容は忘れたけれど。  

217 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 22:44:07.93 .net
【考古学】機織り埴輪2体出土、栃木・下野 全国初、甲塚古墳
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1394941920/

218 :日本@名無史さん:2014/05/06(火) 22:54:03.79 .net
>>216
古墳時代の話をしているんですが…

219 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 09:24:27.30 .net
その前の前の縄文時代、那須は遺跡の宝庫である。伝統を重んじる那須では縄文時代は永かった。
弥生時代は短い。
         <そして古墳時代は、いよいよ坂東武者時代の到来である。>
証拠は、上下の侍塚古墳を見よ。埋葬品は全て埋め戻してある。監視カメラも塀も扉もさえぎる物は何もない。
坂東武者のお宝を盗掘するなら早い者勝ちだよ。!!

220 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 09:45:41.81 .net
埋め戻してってお前が盗んだのか〜
はやく自首しろよ?

221 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 10:29:01.39 .net
上侍塚古墳の発掘調査は、水戸黄門によって行われている。坂東武者のお宝が全て埋め戻されたことも事実だ。従って今、目にすることが出来るのはスケッチのみである。これは世界の考古学史上高く評価されている。
那須国造碑の再建のついでに行われた事業だけれども。
国宝の碑文は、永昌元年(689・持統天皇三年)と中国の年号で始まる。この事実を信じて良いのだろうか。

222 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 11:19:19.29 .net
高校球界における両毛(毛野)旋風
昭和37年の作新学院による史上初の春夏連続優勝。それも夏には八木沢投手を初め何人かが赤痢にかかり強制隔離された中での連続優勝である。坂東武者の心意気を今に見るようで感動的ではないか。私は記憶に無いけれども。
昨年夏に優勝したのは前橋育英高校ではなかったか。今年の春は、佐野日大高校が話題をさらった。白鴎大足利高校も奮戦した。100走の中学王者は、いずれかの高校に入学したようである。
今後が楽しみだ。

223 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 11:28:43.23 .net
チョイ前に、群馬の高校球児がレイプ事件おこしたことあったよね。

224 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 11:47:07.78 .net
細かいこと気にすると疲れるよ。

225 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 12:18:55.11 .net
毛野氏について語る方へのお知らせ
水戸から前橋の方に走っているJR東日本の両毛線に乗ったことはありますか。
一度でも乗ってみれば風土というものが身を以て体得できます。
水戸駅  ===========JR東日本広報課より============  前橋駅

226 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 14:15:06.68 .net
坂東武士の名台詞(藤姓足利)
「坂東武者の習いとして、敵を目に懸け、河を隔つる戦に、淵瀬嫌ふ様やある。此の河の深さ速さ、利根河に幾ほどの劣り優りはよもあらじ。つづけや殿原」

227 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 16:15:40.80 .net
坂東武者全国に散る。
1、源平合戦    戦いすんで日は暮れて、このときは家路についた。
2、奥州征伐    平定後に何人かは土着した。人呼んで東遷御家人という。
3、承久の乱    北条政子一世一代の名演説に坂東武者は奮い立った。この時も西遷御家人が生まれた。毛利氏や吉川氏等である。

 毛利氏は分かるけれど吉川氏ってどんな人 ?

228 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 20:11:27.02 .net
毛野氏の嫡流は藤原秀郷

秀郷の嫡流は藤姓足利氏

藤姓足利氏の嫡流は

分からん

229 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 20:20:11.12 .net
藤性足利氏は、源平合戦のあと直ぐに滅亡しているよ。

230 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 20:26:46.39 .net
幕末は長州のあとにイギリスあり
大江氏=土師氏で古墳を造営したとかほんとかよ?
フリメだのいってるが安倍氏のルートもこれだろ
長州閥

231 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 20:28:44.36 .net
あ〜安倍首相の話な
イギリス訪問とか随分、日本書紀を利用してるな

232 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 20:47:32.88 .net
>>229
頼朝と源姓足利氏に滅ぼされたらしいが
一族郎党・女子供根こそぎ滅亡したのかな?
庶流が確か小山氏や佐野氏だよね

233 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 20:54:15.72 .net
どうにもこうにもみていくと戦国時代が起源の話ばっかりじゃん

234 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 21:38:57.47 .net
おいおい戦国時代が起源ってwww

235 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 21:41:09.51 .net
分からなきゃそれまでw

236 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 21:55:54.62 .net
>>227 >>228 戦国時代の話してんなよw

237 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 21:56:06.47 .net
頼朝や取り巻きの性格から察すべき。遠い庶流の二家は残ったらしいよ。
那須与一と梶原は戦ったらしいけれど反旗を翻しての無罪放免は、空前絶後、那須家だけかな。

小山氏は藤姓足利氏とはかなり遠い。小山氏に近いのは結城氏。結城氏のうち北へ行ったのが白河結城氏。
こここから有名な東北の侍大将結城宗宏が出ている。

238 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 22:04:04.58 .net
戦国時代とは、主に16世紀のこと。関八州は一番遅い。
源平合戦は、12世紀の出来事。
時代感覚が400年近くずれていますよ。

239 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 22:09:53.59 .net
>>233
>>236
ここは日本史板だぞ
いい加減にしろよ
いわゆる戦国時代は室町時代(足利将軍家滅亡あたり)後だぞ

240 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 22:13:49.75 .net
秀郷流系図(抜粋)

毛野氏

藤原秀郷

千常

兼光(足利佐野小山等祖)

頼行(足利太郎)→行政(太田氏)→政光(小山氏)→朝政(小山氏・長沼氏) 
↓                   ↓
↓                    →結城氏→
藤姓足利氏

   

241 :日本@名無史さん:2014/05/07(水) 22:33:58.24 .net
「坂東武士の習いとして--------- つづけや殿原」と叫んだ人の自殺なのか他殺なのかを以て藤姓足利氏は滅亡したと考えるのが一般的。
当時は個人よりも家を重視したので似たようなむDNAは存在しても、家がない以上は滅亡となる。

242 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 09:36:22.79 .net
     《藤姓足利又太郎忠綱を慕う方へのお知らせ》

桐生市の皆川という場所に忠綱神社が現存します。
本当かなあ。? 私は訪ねたことがありませんがお詳しい方ご一報ください。

243 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 09:46:27.87 .net
藤原秀郷は、藤原氏の子孫で正解だと思うけどね。
毛野氏説には、そんなに根拠はないと思う。

244 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 09:56:24.09 .net
241

藤原不比等 の 妻 が車持氏(毛野氏)

245 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 10:00:26.06 .net
あ、まちがえた

不比等の母が車持与志古だ

246 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 10:17:12.22 .net
藤原不比等の天智天皇の後胤説って
どこまで信憑性あるんだ??

247 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 11:56:35.88 .net
関係者の言動や雰囲気から大方は察しがつくのではないか。

遺骨が残っているのであればDNA鑑定をすれば良い。

248 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 13:03:00.32 .net
藤原氏には和歌の素養がある。

249 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 14:21:38.32 .net
毛野氏には掴みどころのないムー大陸のようなロマンがある。

250 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 15:49:45.24 .net
毛野魂を感じさせる男 
            拳聖 ピストン堀口  

理由1 日本バンタム級のほかにミドル級王座も獲得している。
理由2  KO負けは一度もない。
理由3  不滅の47連勝。  

251 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 18:07:57.47 .net
浅間山噴火とみられる過去の記録

685年、白鳳地震(天武天皇期)
信濃の草木が枯れる

1108年、天仁噴火
上野一帯に噴出物が落ちて田畑壊滅
このあと開墾し豪族の荘園私有地化が進む

1783年、天明噴火
火砕流が流れたのはこのときの噴火
浅間の鬼押出し

252 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 18:11:22.57 .net
多胡碑設置、711年
高麗神社などが作られるのもこの後

253 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 18:19:58.11 .net
江戸辺りに流れてた利根川が千葉茨城に向き変えたのもこれ関係してないか?
埼玉や栃木あたりも火山灰土の降り積もった痕跡がでてきてる

254 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 18:49:02.48 .net
隅田川かに流こんていた利根川を常陸と下総の間にもっていったのは江戸を重視した
17世紀中ごろの大規模工事による。従って、日本橋あたり生まれのちゃきちゃきの江戸っ子は、
「茨城とか千葉は湿気が多くてジメジメして絶対に住みたくないなあ」
とかけっして言ってはいけないのである。何度か聞いたことがあるけれども。
原発と同じ構図である。

255 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 19:08:53.28 .net
テスト

256 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 20:53:31.79 .net
あ〜、古墳時代の4世紀にも火山噴火してんだね、、、
300〜800年周期で噴火してるらしい
過去1万年間で13回なんだってさ

257 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 20:55:42.18 .net
最短の300年なら次は2083年か〜

258 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 21:59:40.42 .net
まるで上野は、全国一の危険地帯みたいではないか。
地震・台風・火事・親父・噴火・隕石・航空機落下・流行性疾患等すべて合わせて、
いったい上野は何位だというのか。そんなに悪くはないのではないか。?

259 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 23:13:23.71 .net
つべのどっかのコメントで、将門は関東王国(といわれる存在)を
復活させようとしていたとも言われてるよね、ってコメがあったんだがそんな説あんの?

260 :日本@名無史さん:2014/05/08(木) 23:28:23.22 .net
うんこ長州土人

大阪の司馬遼太→長州人は朝鮮人w

261 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 01:07:58.65 .net
>>260
司馬遼太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
本名、福田 定一

262 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 02:19:01.92 .net
兄多毛比命
国造
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%80%A0%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
筑波山神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
建許呂命
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E8%A8%B1%E5%91%82%E5%91%BD
上毛野氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E9%87%8E%E6%B0%8F
壬生氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%9F%E6%B0%8F
筑紫氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tikusi_k.html
大私部氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%9B%BD%E9%80%A0
无邪志国造
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A0%E9%82%AA%E5%BF%97%E5%9B%BD%E9%80%A0
大國魂神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9C%8B%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
※景行天皇41年5月5日に大國魂大神がこの地に降臨し、それを郷民が祀った社が起源という。その後出雲臣の祖神天穂日命の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている[1]。このときの社号は「大國魂神社」。
埼玉苗字辞典
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-6si.html

263 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 02:21:26.67 .net
「武刺国造の祖神・伊勢都彦命」と見ゆ。

264 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 10:32:51.96 .net
ピストン堀口の階級を訂正する。  日本バンタム級→日本フェザー級

265 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 11:09:49.75 .net
都々一坊扇歌の謎かけ
「江戸っ子の喧嘩」とかけて何と解く
「十艘の屋形船に灯りが一つ」と解くわいな。その心は、
「糞食らえ(九艘暗い)」じゃないかいな。
「糞食らえ」と叫ぶのは、坂東武者ではなく町人か ?

266 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 14:56:38.48 .net
源氏本家は、朝。 足利氏は、氏。 佐竹氏は、義。 宇都宮氏は、綱。那須氏は、資。

綱という文字は宇都宮氏の専売特許かと思いきや藤姓足利氏も用いている。何か関係があるのでしょうか。 ?

267 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 17:06:00.57 .net
古代の那須国があった頃に伊王野の先にある陸奥国内の白河関付近や当時は陸奥国であった保内郷(大子町)の堺明神峠付近は誰が管理をしていたのだろう。
那須氏ではない。ましてや毛野国の毛野氏でもない。
古代には、ロマンがある。

268 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:28:16.43 .net
だから蘇我氏だろ

269 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 18:51:16.78 .net
蘇の字も聞かない。滅亡しているのでは。お飾り役人と地元有力者数名の集団指導体制ではないかと考える。

270 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:09:37.03 .net
要するに、国譲りで敗走して伊勢志摩にやって来たのが、伊勢津彦=出雲健子で
武蔵へは、その親族や同じ出雲族の敗残兵。

271 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:10:44.15 .net
>>268
蘇我氏の次代は、石川氏

272 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:15:01.16 .net
各地豪族の中臣氏や蘇我氏が元出雲族。
蘇我氏は百済渡来出雲族で、秦の惟宗氏は、百済・新羅経由渡来の出雲族。

273 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:18:45.03 .net
諏訪の健御名方命や千家の祖、天穂日命の一族が出雲宗家や国造家。

274 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:23:39.95 .net
伊勢や関東の各地豪族の出雲族の祖は、伊勢津彦=出雲健子=櫛玉命の末代。
伊勢津彦=出雲健子=櫛玉命の本筋は、天穂日命だが
伊勢津彦=出雲健子=櫛玉命の母方が、大国主命の末娘で母系で出雲大国主命の末代。

275 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:38:10.76 .net
秦なんて言葉を信じるやつはいねえよ
秦の始皇帝なんてのは仮冒ってのが一般的認識
経典とりにいってますし

276 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 19:48:42.06 .net
要するに、お伊勢参りは、伊勢健子の合祀した姿の櫛玉命=ニギハヤヒ命(伊勢外宮)としてのご先祖供養でした。
伊勢志摩の志摩国造家の島直氏直系が島谷氏のようで、京丹後の元伊勢 比沼麻奈爲神社や天橋立 籠神社別宮 和貴宮神社に、大宮売神社の三社のそれぞれの祠掌・神主・宮司
が皆、島谷さんです。
元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 祠掌社家について
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1395470649/
出雲健子とは、・・天照大神−天若日子命=天津彦根命−・・神皇産霊神・・天日鷲翔矢=少彦名神−大麻比古−由布津主=阿八別彦−・・忌部系譜の
天若日子命=天津彦根命〜由布津主=阿八別彦の間の人物。
小笠原諸島巡検士隊隊長の島谷市左衛門の渡海の航海術の基礎が天日鷲翔矢=少彦名神に由来と観る。
■「阿波忌部・安房忌部・度会・斎部」推定系図
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/keifu/keizu00.htm
・・━天日鷲翔矢━大麻比古━由布津主━訶多々主━伊那左可雄━沙喜久和別━天由良和気━比比多━止美々大人━伊波毘古━志麻名布・・(伊勢志摩国造家?)━武良比(武蔵国造家?)

277 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:01:56.07 .net
次のお飾り役人をご存知ですか。
          那須直韋提
          那須意志麻呂(上の子)

278 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 20:18:45.63 .net
>>277
那須直韋提

那須国造家
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%9B%BD%E9%80%A0
【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏】
《孝元帝裔氏族綱要》
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm
《那須国造》
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208b.htm

279 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 23:46:07.38 .net
毛野氏の嫡流は宇都宮氏でしょ
藤原秀郷は毛野氏の庶流
ついでに秀郷は藤原氏さかな派とも全く関係ない

毛野氏・・・・・・・宇都宮氏
    ・
    ・・・・・・藤原秀郷・・・足利・小山・佐野
    ・
    ・・・・・・車持氏など(女子を藤原氏に売り飛ばす専科)
          ・
          ・
          藤原氏

280 :日本@名無史さん:2014/05/09(金) 23:59:05.23 .net
松浦厨のキ○ガイ振りといったら・・・

281 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 00:51:35.69 .net
>>279
毛野氏は、出雲国譲りの出雲側の連合の氏族で、同族とは言ってないよ。
俺がいってる>>262は、武蔵国造家が天照大神−天若日子命=天津彦根命・天穂日命筋の出雲健子=伊勢津彦で上毛野国が出てくるから、関係列してるだけなのだがね。
下毛野国の事は、一切触れてないけど・・?
因縁吹っかけないでねっ

282 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 00:53:22.13 .net
出雲健子=伊勢津彦と上毛野国が連合関係だったかなと言いたかっただけです。

283 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 00:55:31.11 .net
下毛野国は、上毛野国を敵視しているのなら、そっちで争ってくれっ

284 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 01:00:13.32 .net
藤原事態が中臣氏の庶流だと認識しているが・・
こっちは、伊勢の中臣氏の親氏族が伊勢志摩国造と言ってる方だが?
藤原氏は、庶流の庶流・・

285 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 01:03:31.68 .net
伊勢志摩国造家、島直氏の参考系譜は、忌部氏系譜と千家系譜・・

286 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 02:40:40.00 .net
これがマジ基地

287 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 06:28:51.42 .net
>>281
は?おまえにレスも異論もしてないぞw頭大丈夫か?
それに日本史板でwikiを大量に晒すのはみっともないぞw

288 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 11:24:22.31 .net
>>279
分岐考察例
古代豪族27)毛野氏考(上毛野氏/下毛野氏)附:宇都宮氏 
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-27.html

289 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 16:52:44.04 .net
次には、あまり異論はないと思われる。
@(八田)宗円(1033-1111) A宇都宮(八田) 宗綱(1086-1162) B宇都宮朝綱(1122-1204)  C宇都宮業綱(1156-1192)

朝綱は所要で京都や鎌倉など方々に行っている。今とは違い当時、宗円は何者なのかであるかは多くのものが知っている。そこで、
「下毛野改め、八田宗円の孫の宇都宮朝綱と申します」
と自己紹介したとは、とても思えないのである。

290 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 17:24:47.81 .net
戦勝祈願について  下野の武茂郷と山田郷について考える

与一が屋島で弓を弾く際に宇都宮の二荒山神社に誓ったのは、見事に命中したならば那珂川東岸の武茂郷を二荒山神社に寄進するというものである。
また、頼朝が奥州征伐で北上する際に二荒山神社に立ち寄り、同様に武茂郷の北側にある大久保村を含む山田郷等の寄進を約束した。堅田郷の南側にあたる。
征伐が済んで武茂郷と山田郷他は、宇都宮氏領になったのである。  これらの三分の一は、私の個人的見解だが間違いないと思われる。

291 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 17:40:09.87 .net
>>126
>群馬:だんべ・・・・・・・・・・・・・・・
一色ではないようですね。
149 :子宮 ◆YDS4DwPGxY :2006/03/14(火) 18:13:32 ID:znHuGYPM
「だがん」はおそらく旧新治村、今の水上町で使ってんべぇ?
「そうだがん」→そうだろう、そうですよね、みてえな感じだんべぇ。
桐生方面はがーがー語。
話題の「だんべ」だけどさあ、吾妻方面ではべえべえ語が強え印象みてえ・・・・・・・・・・・・・・・・
【焼き饅頭は標準語だんべ?2群馬県】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/jfoods/1138322897/149-

292 :日本@名無史さん:2014/05/10(土) 17:59:41.35 .net
一色ではないとは、
足利氏系の一色氏ではないというシャレのつもりか。 ?

293 :日本@名無史さん:2014/05/11(日) 19:58:47.41 .net
古代の那須国が成立したのは景行天皇年間(71-130)みたいです。
これは早いのでしょうか。遅い方なのでしょうか。

294 :日本@名無史さん:2014/05/12(月) 13:15:26.07 .net
古代那須国の管轄区域につて
少し前に那須国の他に白河関付近と述べましたが、那須国時代から陸奥国白河郡(国)を管轄区域としており那須国が
下毛野国那須郡になってからも陸奥国白河郡を見ていたようです。こちらの担当者は最終的に芦野氏と思われます。
白河結城氏が跋扈する前までの話です。陸奥国南部には八田氏(宇都宮氏)系の高野氏も入っていますが、その辺は微妙です。
hi

295 :日本@名無史さん:2014/05/12(月) 17:04:11.46 .net
日本で一番美しいと言われる下侍塚古墳は、我が故郷にある。立ション厳禁。

貴方の街には、どんな古墳がありますか。 ?

296 :日本@名無史さん:2014/05/13(火) 15:47:34.79 .net
芦野は、那珂川支流の奈良川東岸にある静かな集落である。

   道のべに清水流るる蛯ゥげしばしとてこそ立ちどまりつれ   西行

西行は芦野の里に実際には来ていないらしい。私もその見解には賛成します。

297 :日本@名無史さん:2014/05/13(火) 16:00:35.12 .net
古来、訪人が訪れ歌碑を残していくのは実際にきたときだが?
今の環境と昔を比べてる?

298 :日本@名無史さん:2014/05/13(火) 16:16:59.15 .net
私の賛成とは、「西行物語」という本の内容に全幅の信頼を置きますということ。

299 :日本@名無史さん:2014/05/14(水) 11:27:16.78 .net
古代那須国が治めていた古代白河国とは、どこからどこまでか。
陸奥国第94 (白河郡) 大村 丹波 松田 入野 鹿田 石川 長田 白川 小野 駅家 松戸 小田 藤田 屋代 常世 高野 依上
概ね上記は全て入ると思われる。依上とは、今の茨城県大子町のことである。これ等を治めるために白河関付近に白河郡衙という役所が設けられた。
嘉祥元年(847)には、奈(那)須直赤龍が白河郡大領として任ぜられた記録がある。これらの変則的な事例は那須国だけに見られる特徴なのである。
私が、5月6日に「那須国は別である」と述べたのは、これらを指します。つまり古代那須国が出来たころに何もなかった地域とは、明らかに
違うものに思えてしまうのです。   幻の関東王国とは、古代那須国のことかもしれない。

300 :日本@名無史さん:2014/05/14(水) 11:51:28.96 .net
多賀城跡から奈(那)須直廣成と記された木簡が発見されていました。

301 :日本@名無史さん:2014/05/14(水) 18:20:43.98 .net
境明神峠の那須国側には、どんな人が住んでいたのか。  ?
残念なことに千年以上前のことは、何もわかりません。ただし峠の西側には、多部田村という古式ゆかしい村がありました。峠から西に一里半程の所には健武山神社があります。水戸藩の名医と呼ばれた原南陽という方の門人となり筆頭扱いれた方は、この多部田村出身です。
その方の次男坊が有名な都々一坊扇歌になります。昭和になってから、旧同村からは東京弁護士会会長も輩出されています。とにかく辺境でありながら、それを感じさせない自由闊達な人物が多く見受けられます。

302 :日本@名無史さん:2014/05/16(金) 14:31:56.57 .net
那須騎馬軍団の馬蹄音は奥州路に轟く
遅くとも西暦766年までには北方の王者としての地位を那須氏は確立していた。今の西郷村、白河市、棚倉町、塙町、茨城県大子町を疾風迅雷の勢いで疾走していた那須騎馬軍団は、やがて北に向かい縦横無尽に陸奥国府を目指した。間もなく新たに多賀城は竣工した。
ここに那須氏は、那須官衙と白河官衙および多賀城と三か所の覇権を確立して北方の王者としての地位は不動となった。平成24年頃に宮城県多賀城跡調査研究所によって多賀城跡で発見された那須直広成と記された木簡がその証左である。ただしその後朝廷からは、
征夷大将軍坂上田村麻呂や八幡太郎義家が派遣されるなど奥州の政情は決して平和が訪れたと言えるものではなかった。紆余曲折を経て、やがて北方の王者としての地位は藤原清衡に取って代わることになった。そして桓武平氏、清和源氏、奥州藤原氏らの雌雄を決する
三つ巴戦は、佳境をむかえる時代へと突入してゆくのであった。この時すでに那須騎馬軍団の影響を受けた坂東武者達は、その姿を変えていた。

303 :日本@名無史さん:2014/05/16(金) 14:55:58.93 .net
軍記物好きだねえ、、、

304 :日本@名無史さん:2014/05/16(金) 15:50:36.83 .net
通信技術の変遷
今日では多くのものが携帯電話を所持している。ところが古代には、そんなものはありもしない。明治十年の西南戦争においては打電という通信技術によって戦争は情報戦ともいえる様相を呈してきたことは皆が知るところである。
それでは奈良朝期には何が変わったのか。のろしを上げたり法螺貝を吹いたりすることに加えて伝書鳩を利用した通信手法が新たに導入されたのである。確証はないけれど奈良時代に伝書鳩を取り入れたのは間違いないようである。
ならば、白河官衙と多賀城間で活用されたと考えるのが自然である。私の生家は境明神峠と同緯度にある。北海道で放たれた鳩が生家の鳩舎に戻って来たのを確認しているで飛行距離は問題ないと思われる。朝廷と多賀城間の飛行も
伝書鳩はできる。ただしこの場合には、朝廷で生まれ育った伝書鳩を事前に多賀城に運ぶ必要があるので現実的ではないかもしれない。しかし少なくとも奈良時代に白河官衙と多賀城間で使用されたであろうことを、私は信じて疑わない。
鳩の足つける紙縒りと小さい文字用の細い筆は既にあったと思われる。この頃から坂東武者たるもの難しい漢字の読み書きは朝飯前の時代になったと思われる。どうしても無理なものは淘汰されていったのかもしれない。抜群の戦術家は
別として。文武両道という考えは、伝書鳩を導入した頃に育まれたのかもしれない。  

305 :日本@名無史さん:2014/05/16(金) 16:13:19.11 .net
私は軍記物は嫌いである。役所で発行された真面目な史書を読んでいる。

306 :日本@名無史さん:2014/05/18(日) 11:06:46.48 .net
北方の王者について
那須氏の北方の王者と奥州藤原氏の北方の王者とでは、内容が少々異なる。那須氏のそれは朝廷からの命を受けて職務を全うしたものである。一方、奥州藤原氏のものは自らの野心を実現するために独立政権を打ち立てたのではないかと強く感じるのである。
また、両者の地域は殆ど重複しない。那須氏が北方の王者として君臨したのは今の茨城県大子町、福島、山形、宮城であり奥州藤原氏が蟠踞したのは今の岩手、秋田、青森に毛が生えた程度であると思われる。奥州藤原氏の勢力が白河郷まで南下してきた痕跡は全くない。
もしも実際に南下してきたのであれば、あの那須騎馬軍団が黙って見過ごしていることなどありえないと思えるのである。  これは吾妻鑑トリックではないか。奥州全域に広がる藤原氏の勢力を一蹴したという頼朝の功績を美化するための秘策であったと思えるのである。
ただ、そんなことはどうでも良いのかもしれない。いずれにしても武士による確固たる鎌倉政権が樹立されたことは紛れもない事実である。

307 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 15:35:30.16 .net
縄文人成りすまし工作スレ

308 :日本@名無史さん:2014/05/20(火) 17:19:42.63 .net
那須騎馬軍団の陸奥国内における活動期間について
古墳時代末期の西暦550年頃から平安時代初頭の1050年頃の約五百年とみる。

理由1 白河国の国造は、那須国の国造が兼務することになった。
理由2 「左経記」長元七年(1035)12月15日の条に白河団
      (那須騎馬軍団とは、ほぼ一心同体)の記載がある。
理由3 那須氏側から見れば北からの脅威はなく、陸奥国府側から見れば
    南からの脅威は那須氏と岩城氏くらいになったこと。

309 :日本@名無史さん:2014/05/21(水) 13:59:40.41 .net
陸奥国風土記白河郡   郡家 泉崎村

郡家の南を逢隈川が流れ舟の往来甚だし又南に通る唐山道は下野国と国府多賀城を結ぶ
古より白河大領那須臣の治める地なり川の南に大領の始祖たる白河国造の墓ありて近くに寺あり

310 :日本@名無史さん:2014/05/22(木) 09:30:34.79 .net
大野東人と白河大領那須臣との共通項

1、 日本三大古碑に縁がある。
2、 多賀城の建設に向けた情熱は波はずていた。
3、 同時期に二人は共に奥州にいて、しかも会っている。
4、 先祖は共に那須国と思われる。
5、 家柄は那須臣の方が遥かに良いと思われるが熱き友情で結ばれていた。
6、 その他数知れず。

311 :日本@名無史さん:2014/05/22(木) 11:06:56.47 .net
歴代陸奥国士(任期制)

上毛野小足・上毛野安麻呂・上毛野広人・大野東人・百済王敬福・佐伯全成・藤原朝狩・田中多太麻呂・石川名足・石川名足・佐伯美濃・大伴駿河麻呂・紀広純・大伴益立・紀古佐美・内蔵全成
大伴家持・多治比宇美・多治比浜成・坂上田村麻呂・佐伯清岑・佐伯耳麻呂・小野岑守・坂上当道・良岑経世・小野春枝・安倍貞行・平維扶・平貞盛・藤原実方・源満政・源忠重・藤原登任・源頼義
藤原良経・源頼俊・源(八幡太郎)義家−−−−−−

このうちの上毛野広人は、養老四年(720)9月28日に蝦夷によって殺害されたという。当時の国府にあった建物は跡形もなく焼け落ちていた。

312 :日本@名無史さん:2014/05/24(土) 11:48:36.72 .net
陸奥国の発展拡大に非協力的だったと思われる石城国(常陸国菊田郡を含む)浜通りの人々

理由1   養老二年(712)に陸奥国は三分割されて陸奥国・石城国・石背国になっている。
理由2  それは数年で元に戻っている。
理由3  陸奥国に七番目の軍団として、やっと最後に配置されたのが磐城軍団である。
理由4  古に陸奥にいた正式な国造は、白河、安積、石城の三か所である。
理由5  岩城氏は、常陸国北部の国造も兼務していた。
理由6  よって軍団の配備は、もう少し早いことが求められた。  

313 :日本@名無史さん:2014/05/24(土) 14:07:56.63 .net
坂東武者の精神統一

各地から馳せ参じた坂東武者達が一つの目標を定めて奮い立ったことはいく度もあることであろう。
北条政子一世一代の名演説に坂東武者達が奮い立ったのが何度目になるかなど知る由もない。
けだし、上毛野広人の零を弔う際に集まったと思われる坂東武者達が定めた誓いにも奮い立ったに違いない。
それは史上初めて坂東武者達の精神が一致した時てはなかったのかと思えるのである。

そのころの夜空に浮かぶ星々は神々しく三ツ星も北斗七星も鮮やかに輝いていた。赤、青、黄、白、橙と星々の色分けも肉眼で判別できる程であった。

314 :日本@名無史さん:2014/05/25(日) 16:59:24.24 .net
毛野氏が当初は絶大な力量を発揮したと思われる古代陸奥国とは

北は津軽海峡の方に徐々に伸びていったと思われる。南の白河関跡は固定している。境ノ明神峠については、「特徴のない峠だなあ。標高は低いし、どうしてここが日本名峠100選なのか」と疑問を呈する方が多いようだ。
およそ95%の方は、ここが陸奥国であったことを知らないようだ。今の茨城県大子町である。元の名称は保内郷と言った。それ以前は、依上(保)である。それでは依上(保)の南端部はどこになるのか。
つまりそれは、陸奥国と常陸国の国境になる。ここ最近では有望な見解は出ていない。従って今の茨城県久慈郡大子町頃藤6503番地にある関戸神社の近くにあった焼山(たきやま)関が国境ということで落ち着きそうだ。
東海道の勿来関跡は今の場所で良いのだろうか。どう見ても後から取って付けたようである。 菊田郡とは常陸国にあったはずである。私は国境は鮫川(実際の川)ではなかったかと見る。国境の川である。
それに並び常陸国多珂郡の一部にも不明な点が多い。いずれにしても今の勿来関跡は、観光地として賑わうようにと新しく設けられたと考えた方が良さそうだ。
今の茨城県民はまとまりが悪いとよく言われる。こんなところにも原因があるのだろうか。゜

315 :日本@名無史さん:2014/05/26(月) 17:19:51.13 .net
かつては、お勤めご苦労様でした。(順不同)

1、 白河軍団
2、 安積軍団
3、 名取軍団
4、 行方軍団
5、 玉作(丹取)軍団
6、 小田軍団
7、 磐城軍団
飛び入り参加 那須騎馬軍団

316 :日本@名無史さん:2014/05/27(火) 06:46:36.22 .net
毛野氏と奥州藤原氏をごっちゃにしてるのが多い。
毛野氏は古墳時代から勢力を拡げ分派活動がさかんになる。
律令時代にも個々の氏族は勢力を維持する。
藤原氏は、詳しい時代は不明だが、平安京に都が移ってから、
下級の藤原氏の分派が奥州に土着した。
源平氏族の分派が関東、そして東北へ移住したのと同じ。
で、奥州藤原氏は財力(金)をもとにして、
急速に中央貴族(主に同族の藤原上流貴族)と繋がって(取り入って)
一種の治外法権みたいな強大な権力を築いた。
平氏を滅ぼした源頼朝にとっては、
目の上の瘤みたいな奥州藤原氏を滅ぼさなければならなかった。
そのために、「征夷大将軍」の位はどうしても必要だった。

317 :日本@名無史さん:2014/05/27(火) 12:40:27.12 .net
陸奥国白河領の推移
平安時代中期頃まで          那須氏  白河軍団を置く。
平安時代中期以降           後白河院御領 それを別当である藤原信頼が知行する。
平治の乱(首魁は藤原信頼)の後   平重盛(清盛長男)の領有する荘園となる。(小松内府)
源平合戦を経て奥州征伐後      結城朝光の所領となる。朝光の孫裕広が実際に居住して初代白河結城氏となる。

よって奥州藤原氏の権勢が東北全域に及んだというのは、吾妻鑑トリックであると思われる。
白河領が那須国造家の手から離れたのは、藤原氏系の方が那須国造家に婿入りしたからでしょうか。
あるいは、白河だから後白河院の御領にすべきであるという単純明快な話でもあったのでしょうか。?
 

318 :日本@名無史さん:2014/05/27(火) 17:22:26.27 .net
那須家の家紋は、菊一か一菊かの論争にについて

那須家の家紋については、三十二菊に一文字であることを私は信じて疑わない。
まず家紋から那須氏は大臣命を祖とする国造系武将であることを自他ともに認めていた事が分かる。
那須氏は皇室の家紋を知っていたことが分かる。南北朝期に南朝では十六弁菊を採用した。ところが、
その時に那須氏は北朝方についたのである。北朝の紋は三十二弁菊(十六弁八重菊八重菊)である。
従って、江戸時代に作成された那須家系図の見返し部分に描かれている紋は正しいということになる。
三十二菊に一文字で決着がつきそうだ。
なお、那須与一が生まれ育ったのは、今の那珂川町にあった神田城である。那須与一や那須氏をPRするのは、
那珂川町や那須烏山市の仕事であると思われる。大田原市は、大田原氏や大関氏のPRに専念すべきである。

319 :日本@名無史さん:2014/05/27(火) 23:20:45.85 .net
任那と那須氏の関係と論じた人は少ないが、
任那4県が百済に譲渡された後、任那の民は日本に帰国している。
かれらは、渡来人や帰化人ではなく、満州開拓団がロシアの満州侵攻で帰国したのに近い。
そして、任那の代わりに与えられた地が毛野の支配地の北の不毛の大地だ。
彼らは、儒教の教えに従い、那須国造り碑を建て、開拓者たる祖先を称えたのだ。

320 :日本@名無史さん:2014/05/28(水) 00:05:12.20 .net
相変わらず変なこと言ってんなあ

321 :日本@名無史さん:2014/05/28(水) 18:57:00.12 .net
那須がゴビ砂漠のような不毛の大地だったとは思えない。また、里帰りについても対馬を含む九州であるならば考えられる。しかし那須は九州ではない。飛鳥時代の那須には、すでに豊かな水田地帯が広がっていたと思われる。
北から黒川、大野、那須、石上、方田、三和、山田、武茂、大筍、熊田、全倉、大井の12郷である。さらに塩谷郡ほかも那須国であったと思われる。那須12郷の北から二番目の大野郷は大野朝臣の何代か前の故郷であろう。
確かに今の那須塩原市や大田原市の一部は農耕に適さなかったかもしれない。しかし代わりに狸、狐、猪、雉、山菜などの山の幸に恵まれていたのである。自然と弓の取り扱いにも長けていったと思われる。
しかし何よりも当時は川の恵みが想像以上であった。天然岩魚、虹鱒、山女、鮎、蟹、川エビ、今では殆んどいなくなった天然ウナギなど食べきれないほどいたのである。昭和の初めごろまでは竹で編んだ罠を仕掛けておくと、
翌日には丸々と太った天然ウナギが二三匹入っていたようである。栃乙女はなくても野イチゴはあったであろう。私はかなり食べている。このような銀シャリに丸々と太った天然ウナギや岩魚を腹いっぱい食べられる場所を、
不毛の大地とは呼ばないであろう。大地が豊かであることは那須地方に住む人々の体格の良さに表れている。体格が良いから警察官になる人が多いらしい。少し前に朝青竜と優勝争いをしたのは黒羽出身の方だったと記憶して
いる。十年ぐらい前に那珂川町で縄文時代の食卓を再現したところあまりにも豪勢で驚いたそうである。飛鳥時代は、さらに豊かであったに違いない。

322 :日本@名無史さん:2014/05/29(木) 10:05:16.30 .net
仮に任那の民が里帰りしたのであれば、彼らに与えられた任務は那須国のことではなく、北に位置する白河のことであったろう。彼らの何代か後のものは、神亀五年(728年)に配置された白河軍団の要員として派遣されたであろう。
その頃の那須氏は、殆ど北の方を見ていたように思える。元任那の民達の子孫は、陸奥国の発展拡大に貢献したことになるのだろうか。

323 :日本@名無史さん:2014/05/31(土) 12:57:18.37 .net
斬首秘話

平治元年(1159)に藤原信頼の精神構造は奥州藤原氏に近いものになってしまった。結果として12月27日に斬首となった。これは藤原仲成の射殺依頼の死罪で貴族としては349年ぶりの出来事であった。
明治の初頭ごろに初代司法卿(今の法務大臣)の江藤新平は、「晒首は欧米から野蛮であるとの指摘かあるから止めようではなないか。また極悪人の逮捕に有効だから指名手配写真を活用しようではないか」
と提案していたところ佐賀の乱の首魁とされてしまった江藤新平は全国指名手配写真適用第一号になってしまった。そればかりか野蛮な晒首となったのである。その少し前の慶応から明治に年号が切り替わろうと
する頃に元新選組の近藤勇も三条河原あたりで晒首になっている。その首級を運んだのは水戸藩士の北島秀朝とされているが、これは誤りである。
下野国那須郡大山田下郷で生まれた北島秀朝は神官である。戊辰戦争の際は東山道軍大監察として板橋宿に入った。その後に北島は江戸鎮台府の判事になるわけですがその前に今後の新政府の方針やら
東京遷都の打ち合わせで上京しなければならない事情があったのである。上京するに際して、たまたま焼酎(火酒)漬けになった近藤の首級があるということから管理をしていた岡田藩士らは北島と同道することになった。
このために岡田藩士らの件が省略されて水戸藩士の北島秀朝が近藤勇の首級を運んだと信じている輩がいるのである。北島は、下野国那須郡大山田下郷の篠尾神社の長子である。藩士でもありません。
もっとも北島は、江戸勘定奉行や評定所の引継ぎを率先垂範して行っているので中々の人物であったと思われる。和歌山県令、佐賀県令、長崎県令を歴任したことは周知の通りである。

324 :日本@名無史さん:2014/06/03(火) 09:35:00.20 .net
北島秀朝が命名した村名

初富 二和 三咲 豊四季 五香 六実 七栄 八街 九美上 十倉 十余一 十余二 十余三
那須高原を吹き抜ける清らかな風のようではないだろうか。県令時代には、
若き総理大臣候補として伊藤博文等よりも評価の高かったクリーンな北島秀朝にダーティーな仕事を押し付けないでくれ。
武士は幽霊にはなれない。爽やかに散るものである。名前を変えた新撰組を壊滅させるために先陣を切ったのは板垣退助率いる土佐軍であったであろう。
熱狂的新撰組ファンは、板垣退助や大軍艦の香川敬三および大監察の北島秀朝を殺したいと彼らの後裔を訪ねて直接告げればよい。
今現在に至っても、水戸天狗党や薩長土肥を誹謗中傷する人々は、仕切り直しをして今一度国内戦をしたいのだろうか。 ?

325 :日本@名無史さん:2014/06/03(火) 10:05:49.14 .net
よしやろう

326 :日本@名無史さん:2014/06/03(火) 13:51:16.82 .net
よしやろうという方へ
宮内庁か貴方につかなければ、貴方は逆賊ということになりますが。 ?

327 :日本@名無史さん:2014/06/03(火) 16:38:18.18 .net
毛野氏と三毛入野命って名前似てるけど、関連性あるのん?

328 :日本@名無史さん:2014/06/03(火) 17:05:34.11 .net
岡田藩関係者へ

近藤勇の太刀取りの際に賞金を受け取っているのであれば最後まで責任を持って頂きたい。
今のままですと、水戸藩士の北島秀朝が昼夜兼行で京まで運んだことになっています。中には岡田藩士の北島秀朝なるものも見受けられます。
思うに、焼酎(火酒)入りの樽は水分を含んでかなり重い。二人で運んだとしても交代要員を考えれば総勢少なくとも六人はいたであろう。
その後まもなく仇討禁止令も出来たわけですから、早急に岡田藩関係者は事実を告げるべきである。

329 :日本@名無史さん:2014/06/03(火) 17:17:03.67 .net
毛野氏のなかで三毛猫をペットにしていたものの愛称である。そんなわけないか。
皮を剥がされて三味線にされないよう気を付けてください。

330 :日本@名無史さん:2014/06/06(金) 17:21:20.03 .net
北島秀朝の奇行

北島秀朝は、花見客で賑わう桜並木の下に純白の浴衣を着て時々現れた。
そこで抜身の大槍をおっびろげて人々を驚かしたそうである。
何となく何処かにピストン堀口に似た毛野魂が感じられないでしょうか。 ?
廃刀令が出る前の北島が東京府大参事(副知事)で、和歌山県令に赴任する前の頃と思われます。

331 :日本@名無史さん:2014/06/09(月) 09:44:46.89 .net
近代人物側面観 有耶無耶山人著 131頁  北島秀朝

「難行苦行机に齧り付くばかりが、人間の目的ではあるまい、それには気の飢えないように、余裕と言うことガ必要だ、
  白い浴衣を着て花を見る、余り褒めた話ではないが、其の意気の爽快なるに至っては、好漢愛すべしだ」

332 :日本@名無史さん:2014/06/09(月) 23:29:46.96 .net
小山氏って政光の代まで武蔵に住んでいて、
政光が小山に来たってなってますが、
これって本当なんですか。
いきなり来て、そんな勢力もてるんですか。

333 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 00:46:24.19 .net
だから、地元の族がそうかたって自称したんだろ

334 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 01:21:11.34 .net
>>333
じゃあ秀郷の子孫ではないと

335 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 17:46:32.48 .net
源氏の棟梁が頼朝なら、藤原秀郷末裔諸氏の棟梁は小山氏。
頼朝の乳母は、宗円(宇都宮氏の祖)の孫娘(宗綱の娘)  彼女は小山政光の後妻となった。
そして小山三兄弟の末っ子となる朝光を生んだ。  初代結城氏である。
小山三兄弟の活躍もさることながら、根底には頼朝、宇都宮氏、小山氏の三者による固い絆があった。
朝光の名付け親は、朝という字から頼朝のような気がする。

336 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 18:31:18.27 .net
地元の英雄秀郷に憧れる無名氏族がでっち上げたのでは

337 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 19:53:49.37 .net
>>279
そう思う

338 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 20:02:15.31 .net
毛野氏も京都あたりには仮称が多いんだってね

339 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 20:19:38.98 .net
小山政光(太田政光)は、自分は藤原秀郷の末裔であると吹聴していた痕跡は全くない。
誇り高き鎌倉武士でも冗談を言うことはあったであろう。しかし真面目に嘘をついたのであれば即断頭をしてもよい時代である。
小山氏以外の鎌倉御家人の目が節穴だったとは思えない。
武蔵国の在庁官人であった太田氏は、すでにかなりの人望があったと思いますが。当然、先祖の墓ぐらいはあったことでしょう。
小山氏を批判したいようですが、身内で誰か問題児でもいたのでしょうか。

340 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 22:33:10.25 .net
藤原秀郷流太田氏については、久喜市史や鷺宮町史に詳しく乗っているらしいですよ。
私は全く関心がありませんが。

341 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 22:35:20.98 .net
>>339
やはり秀郷とは無関係でしたか

342 :日本@名無史さん:2014/06/10(火) 23:04:53.56 .net
小山氏は何代にもわたり、下野権大介職を相承している。

343 :日本@名無史さん:2014/06/11(水) 02:48:14.49 .net
太田氏は、朝鮮半島の大田から渡来した大胡。大月氏だ。
多胡碑を読めばわかる。

344 :日本@名無史さん:2014/06/11(水) 02:49:36.73 .net
くに(といっても朝鮮ではなく中央アジア)に帰れ。

345 :日本@名無史さん:2014/06/12(木) 16:12:07.82 .net
誰が何と言おうとも鎌倉時代に小山氏や宇都宮氏は下野の名門になっている。
但し、足利氏の方がワンランク上だったらしい。
その足利氏は、室町時代に終わっていると認識されている方が多いようだ。
ところが江戸時代に足利氏は、喜連川公と名前をかえて人望を集めるのであった。
特に弓道に長けていた方がいたらしい。

346 :日本@名無史さん:2014/06/12(木) 17:45:09.48 .net
小野猿丸大夫、藤原秀郷
昔から両毛の英雄は弓に長けていたんだな。
両毛の英傑は源姓足利氏も含めみんな元は毛野氏なんだろうが。

347 :日本@名無史さん:2014/06/12(木) 19:05:43.04 .net
毛野氏には都人の香りが漂う。方々の国司を勤めていても任期がくれば都に帰るのである。
庶流が増えるためには平安末期ごろからの地盤に密着した泥臭い田畑の開発が必要だったのである。
那須氏でさえ与一兄弟が分散するまでは600年以上で2氏族しか増えていない。猿田氏と芦野氏。
都人の中央官人である毛野人は、泥臭い開発領主にはなれなかったのではないだろうか。

348 :日本@名無史さん:2014/06/12(木) 21:16:40.36 .net
ところがその太田氏、日本で幅利かせている。
筋肉質のデブだから貫禄のあるやつが多いし、
ワカタケル(雄略)を補佐した大彦、
東日本最大の太田天神山古墳を造った太田氏、
江戸城を造った太田道灌など、関東の土豪として
今もそれなりに勢力を維持している。W

349 :日本@名無史さん:2014/06/12(木) 21:52:01.13 .net
太田胃散飲みたくなりそうだ。

350 :日本@名無史さん:2014/06/13(金) 06:28:43.88 .net
北関東に「酒に弱いタイプ」多いのも、
早くに朝廷が進出した結果かな。

351 :日本@名無史さん:2014/06/13(金) 06:39:10.02 .net
猿田彦とか猿女君とか小野氏が関係ありそうだね

352 :日本@名無史さん:2014/06/13(金) 07:46:10.93 .net
太田天神山古墳か?w
近くに女体山古墳があるが猿女君の墓か?

353 :日本@名無史さん:2014/06/13(金) 19:06:05.62 .net
水谷の家号を用いる一族に猿田御所なる名跡を持つ系統ありという。

この方こそ那須氏流猿田氏ではないかと思いませんか。 ?
結城氏とは白河領で結びつきます。
水谷(猿田)氏の家紋は、三頭左巴。芦野氏は、一文字に三頭左巴と思われます。

354 :日本@名無史さん:2014/06/13(金) 23:01:38.16 .net
168 名無しさん@お腹いっぱい。 X7idwJ7O 2014/06/13 18:44:14.73
--------------------
NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」が放送中のようじゃが、
黒田と言えば、栃木県民なら「鶴姫」の悲運を想わずにはいられないじゃろう。

下野国が本貫の宇都宮氏は鎌倉時代からの名門中の名門。
全国各地に所領を持っておっての。
九州豊前に土着した宇都宮氏が城井(きい)氏じゃ。

黒田官兵衛は豊臣秀吉に城井氏討伐を命じられた。
ときの当主、城井鎮房はめっぽう強くての。
城井谷城で官兵衛率いる黒田勢四千五百を手勢千五百で追い払ったのじゃ。

武力でかなわないとみるや黒田は停戦を申し入れる。
その際、城井氏と黒田氏の和睦の条件として
鎮房の娘「鶴姫」の黒田長政(幼名は松寿丸)への輿入れが決まったのじゃ。

だが黒田は縁戚になって油断した鎮房を謀殺し、城井氏は一族郎党滅ぼされたのじゃ。

「なかなかに きいて果てなん唐衣 わがために織る はたものの音」
これは鶴姫が処刑されるときに詠んだ辞世の句じゃ。

NHKはドラマの中で、この黒田の黒歴史をどうするつもりなのかの?

城井鎮房は眉目秀麗にして大力無双の好人物であったと伝えられておる。
その娘である鶴姫もさぞ美しかったことであろう。こんな感じかの?

城井(宇都宮)鶴
http://files.hangame.co.jp/blog/2013/61/c8408f68/10/31/41398775/c8408f68_1383172607215.jpg

355 :日本@名無史さん:2014/06/14(土) 10:31:07.42 .net
直ちに宇都宮連合軍を結成して悪者退治に栃乙女や干瓢を持って出かけましょう。

主な参加者  宇都宮氏全員、 八田 茂木 高野 氏家 上条 横田 松野 塩谷
笠間 武茂 芳賀 多功 上三川 狩野 大久保 大山田 鳥子 小田 伊志良 宍戸 
田中 今泉 西方 中原 中条 麻生 他。
総勢何名になるのか ?  兵糧米の準備が大変だ。 !!
ちょっと待ってください。最近発明された双眼鏡とやらで敵陣を見ましたところ、
戦わずしてほぼ全員が滅亡しています。

356 :日本@名無史さん:2014/06/14(土) 11:31:52.05 .net
千里眼の能力者がおるゆえ、双眼鏡、レーダーは不要じゃ。

357 :日本@名無史さん:2014/06/14(土) 11:47:16.57 .net
天国にいる宗円も前九年の役のときのように、
祈祷師に変身してもらえるのかな。 ?

358 :日本@名無史さん:2014/06/18(水) 19:00:18.30 .net
太田氏は出自部分の系譜に混乱がありすぎて怪しすぎるなあ

359 :日本@名無史さん:2014/06/20(金) 18:44:47.71 .net
たとえ太田氏が怪しくとも、後の小山氏、下河辺氏、大河戸氏を怪しいという人は少数である。

360 :日本@名無史さん:2014/06/22(日) 08:39:13.82 .net
太田氏は、韓国大田広域市付近からの渡来人。
でぶがおおいな。

361 :日本@名無史さん:2014/06/22(日) 13:10:00.14 .net
苗字に太いという字があるからと言って、でぶにはならないであろう。
ならば、細田とは、ガリガリの人物になのか。

362 :日本@名無史さん:2014/06/24(火) 21:02:57.56 .net
>>360
無知無能の知ったか程
恥ずかしいものはないぞw
てか妄想マスカキは他スレでやってくれw

363 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 00:07:26.37 .net
そもそも宇都宮氏自体藤原とは一切無関係のない毛野氏の末裔たしな

364 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 00:11:51.58 .net
>>362
釣りだろ…

365 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 02:05:29.29 .net
>>363
一概にそうとも言い切れないと思う。

366 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 09:18:47.34 .net
私は次の理由から宇都宮氏は藤原氏で間違いないと考えている。
1、宗円は、両親や弟との間に不自然な点は全くない。
2、宗円が、藤原氏だからこそ紀清両党は運命を共にしたと思われる。
3、頼朝は、那須氏と宇都宮氏を同族扱いしている。
4、京都宇都宮邸は、藤原定家邸の近くにあった。そこから歌会に出席した宇都宮氏に、ほかの参加者である、たとえば冷泉家あたりから、
  「宇都宮さんは、少し怪しいですね」という声が全く出ていない。
5、毛野氏邸が、藤原定家邸の近くにあったとすれば、それこそ不自然である。
6、私は、飯村氏を通して益子氏の流れが少しある。宇都宮氏が毛野氏とは、まったく思えない。

367 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 09:32:19.54 .net
那須氏って下野の土豪やんけ

368 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 10:03:26.33 .net
那須氏は、毛野国が無かった頃の古代那須国の国造家である。

369 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 11:17:51.08 .net
>>368
流れ者中央氏族毛野氏って、神武の兄、出雲の敵の三毛野命末代では・・

370 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 12:26:32.34 .net
毛野氏っても詐称が多いじゃん
調べてみれば

371 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 12:29:14.13 .net
370
出雲は瑪瑙の勾玉作りだな
八坂神獣鏡が畿内メインだとしても

372 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 12:33:06.83 .net
銅鐸が終わり銅鏡に移ったってことか?

373 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 12:48:19.80 .net
八坂勾玉と三角縁神獣鏡かw

間違えた

374 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 12:51:32.98 .net
その前の銅鐸時代はビリピンだの東南アジアの辺でも銅鐸でてるから
宗教的、商的取り引きがあったのは感じさせますね

375 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 15:06:09.16 .net
>>369
妄想で語るな
証拠を出せ

376 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 22:53:38.73 .net
>>370
妄想で語るな
証拠を出せ

377 :日本@名無史さん:2014/06/25(水) 23:09:31.01 .net
毛野が出雲と共に戦ったのなら、何故ね敵の名名乗ってんだぁ〜
因みに、三毛野の三は、神武が四男の末っ子で、直ぐ上の兄が三男の三毛野だからだぞ・・
要するに、毛野命って名なのだよ・・神武の兄の名がねっ

378 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 01:20:56.49 .net
松浦厨…

379 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 07:14:28.40 .net
神武に追撃された出雲建子は、伊勢に逃れて、追撃したのが毛野命。
度会氏もおかしい、この頃の度会氏の祖は神武に従った天日別命で、饒速日命は伊勢側で敵の筈。

出雲建子=饒速日命を倒して、後の伊勢を支配し、成り済ました天照を祀った神武側の支配層って話。

380 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 07:17:06.41 .net
毛野命と度会氏の天日別命は、出雲を討伐した天孫系支配層。

381 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 11:47:14.17 .net
饒速日が神武に討伐されたとか妄想じゃねーか
のちの物部氏はどう説明すんだよ

382 :日本@名無史さん:2014/06/26(木) 11:54:49.02 .net
神宮皇后なんて見るからに弥生系だしどうすっかね?

383 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 04:18:20.41 .net
>>377
上毛野三千ってのがいるが、
当時は漢数字じゃなくて「ミケ」って猫みたいな名前がつく文化だったんだろ

毛野氏は750以降は詐称だらけだが(金に困って系図を乱発したのか?)
天武期までの毛野氏はガチな純粋の毛野氏
琵琶湖周辺が上毛野氏の拠点だったらしい。オワケの系統?

>両毛の英傑は源姓足利氏も含めみんな元は毛野氏なんだろうが

東北の人間を遠征で殺しまくった人殺しの血統だから
(より多くの人間を殺せた系統のみが種を残せるサラブレッド地区)
サイヤ人みたいに培養実験されてたようなもんだな。
将門すら倒される修羅の国と

まさに未開のグンマーだったんだろうな。

384 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 10:28:07.49 .net
西暦750年頃には余り貨幣は流通していなかったと思います。
米や衣服に困ったということでしょうか。
漫画の読みすぎではありませんか。

385 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 16:43:48.42 .net
烈士と殺人者の違いについて
違いの分からない男がいるようだ。井伊直弼の首を取った烈士十八名は殺人者ではない。国のために働いたのだ。
彼らがいたからこそ今の私たちがいるのだ。私たちは彼らを尊敬しなければならない。
Aという暴力団がBという暴力団の組長を射殺したのであれば、これは犯罪行為として処罰しなければならない。
烈士や戦士活躍は、同じ殺人行為であっても、これには該当しないであろう。
織田信長のように敵の大将の頭蓋骨を盃にして酒を飲む所までいかなくとも、敵の大将等の首を手元に置いて祝杯を挙げる
ことは武者として正しい立派な行為であることを理解しなければいけない。

386 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 16:47:47.68 .net
毛野氏が経済的に困ったのは赤城の一宮譲りでもでてくる。
700以降に分家が多くなればなるほど、宗家の取り分が減るのも当然

上毛野氏は商業に特化もしてなかったので、新興勢力の金持ちの織物集団がでてきて相対的に衰退したのも史実通り
経済的に困ってないにしろ、時代を経て子供が多くなれば統率してなければ領地がばらばらになりやすく
(系図の強力な統一もできてなから、領地の乱発・割譲が増えた=上毛野氏を名乗る別集団に取られただけとも言える)

かつ新興の商業集団も出てきたので、地位が相対的に低下したかと
=中央の天皇家にしても、毎回織物を献上するかわいい商人の方を、歴史だけの氏族より優遇する場合もあるはず。

挙母市→豊田市の経緯と同じ。豊田氏は新興集団もいいとこだが、ついに市の名前すら乗っ取ってしまった。
「最初は土地所有者=武家が強いが、後は商業集団の方が強くなる」のは江戸時代を見ても言える

387 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 17:26:48.60 .net
士農工商の役割
トヨタ自動車は、商ではなくて工だと思いますよ。国家が発展するためには汗水たらす農工が上に来て、
食糧自給率をあげ素晴らしい製品を世に送ることが大切だと思いますよ。
商人が農耕の上に来て幅をきたすような社会になったとすれば、その国家は衰退していくでしょう。
幕末期に不労所得を上げる商人を晒首にした烈士がいたけれど、あながち的外れではなかったと思う。

388 :日本@名無史さん:2014/06/27(金) 20:52:03.90 .net
尾張氏(関西人)


国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる



ダサいダサ過ぎるw

389 :日本@名無史さん:2014/06/28(土) 09:10:25.56 .net
商人の街大阪にて
ヨッ、扇歌。天王寺の塔と掛けて何と解く ?
天王寺の塔と掛けてはワイナワイナ、ハエハエ。それでは申そう、
天王寺の塔と掛けて、虎屋の饅頭と解くわいな。その心は、
十(塔)で五十(五重)じゃないかいな。

大阪名物高麗橋虎屋の饅頭は、当時は十で五十文であった。

390 :日本@名無史さん:2014/06/29(日) 16:29:21.60 .net
もういっちょっ、都々一坊扇歌。楠木正成と掛けて何と解く ?
楠木正成と掛けては、ハエハエハエ。 それではは申そう、
楠木正成と掛けて、夏の夕涼みと解くわいな。その心は、
足蚊が(足利)攻めるじゃないかいな。

391 :日本@名無史さん:2014/06/29(日) 16:43:32.59 .net
ヨッ、扇歌天下無双。壇ノ浦の平家と掛けて何と解く ?
壇ノ浦の平家と掛けては、ハエハエカカカ。それでは申そう、
壇ノ浦の平家と掛けて、四文銭を天麩羅に揚げて三文で売ると説くわいな、その心は、
波を揚げて(上げて)一文(門)を損するじゃないかいな。

392 :日本@名無史さん:2014/06/29(日) 23:26:43.87 .net
尾張氏(関西人)


国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる



ダサいダサ過ぎるw

393 :日本@名無史さん:2014/06/30(月) 08:44:43.12 .net
関西がダサいのか、名古屋がダサいのか、どちらですか。 ?

394 :日本@名無史さん:2014/07/01(火) 21:02:12.55 .net
三河バカが言いたいのは愛知県全域がダサいってことだろw
特に岡崎は愛知県のバカの巣窟ってことが言いたいのだろうw
何せ尾張も関西も何も分からない耄碌ジジィだからなw

395 :日本@名無史さん:2014/07/01(火) 21:04:36.09 .net
ある意味正解だろ
尾張が人が住むようになったのも暴れ川の治水後だろうからな

396 :日本@名無史さん:2014/07/01(火) 21:17:37.11 .net
毛野氏は早くに関東進出した和人豪族だろうが、代々現地人と交わることで、平安以前に
脱和人化した戦闘集団と思う。

397 :日本@名無史さん:2014/07/01(火) 22:12:40.39 .net
>>396
平安以前?
奈良以前、いや大和政権成立以前だろう

398 :日本@名無史さん:2014/07/01(火) 22:41:19.66 .net
尾張氏(関西人)


国名が、他国の地名の他国人(関西人)由来は尾張だけ

大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる



尾張(笑)、ダサいダサ過ぎるw

399 :日本@名無史さん:2014/07/01(火) 23:54:01.85 .net
常陸の国風土記にある、常陸の国を攻めた八刀神って、
邪馬台国配下の毛野、あるいはその別名の物部だよね?

400 :日本@名無史さん:2014/07/03(木) 21:21:35.91 .net
荒河戸畔は倭王擁立に絶大な力を持っていたんだよ
その関係もあって崇神天皇の皇子の豊城入彦が始祖と繋がるんだよ

401 :日本@名無史さん:2014/07/03(木) 21:46:05.75 .net
豊城入彦は祟神と荒川戸畔の娘だからな
王妃ではなく、次妃の子というのは要するに厄介者。
東国に追いやられたのだろう。

荒川とは、新羅川。戸畔とは、網本、漁師のかしらといった意味だろう。

402 :日本@名無史さん:2014/07/04(金) 21:54:09.26 .net
主殿を束ねて三輪山信仰との関係を深めたのもすごいよね
その後だよね
百済に派遣されて多奇波世君が政治力を発揮したのはね

403 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 07:41:09.56 .net
>荒川とは、新羅川。
妄想乙

404 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 15:11:39.16 .net
和歌山から来たのか?

405 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 17:11:31.44 .net
荒川戸畔は、紀伊国造。
国造は世襲制。
とすれば後の紀氏は、荒川戸畔の後裔か。?
紀氏の後裔である益子氏が宇都宮氏の家臣(紀清両党)であるので気になります。

406 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 20:50:51.62 .net
>>405

ってことは

荒  川  戸  畔  (和歌山)

↓           ↓

娘 = 崇神天皇    紀氏?  
  |         ↓
 豊城入彦       ↓
  ↓
 毛野に下向      ↓
  ↓
毛 野 氏 始 祖 と な る 
      ↓
     益子氏  
      ↓
     宇都宮氏   


???????


う〜ん難しいすぎてニワカには良く分からんw
 

407 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 20:59:59.54 .net
ニワカは相手にならんよ

408 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 21:38:08.98 .net
紀氏は、70代以上続く超名門。直線道路は果てしなく続く。
その内の征夷大将軍が出た系統からの後裔が益子氏。
豊城入彦は別系統。
但し、荒川戸畔も紀氏も紀伊国造であったことは間違いない。
宇都宮氏と芳賀氏と武茂氏の関係ほど、益子氏は近くはなかったと思いますが。

409 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 21:49:20.02 .net
玉前神社の社伝にあるように、起点は東国。
三毛(上野、下総、常陸(常世))の国が歴史の主役。

410 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 22:01:51.49 .net
三国を選べと言われば、毛野、常陸、総では。

411 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 22:06:15.33 .net
んなこたあいいから左翼とやらの小細工どうなったんだよ

412 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 22:11:32.09 .net
歴史の主役というか坂東武者が飛び出す起点という気はしますが。

413 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 22:50:40.06 .net
紀氏は天道根命の祖先だよ
そして神武天皇と天道根命とは
繋がりは深かったんだよね

414 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 22:58:10.34 .net
筑波山周辺は元々は紀の国って呼ばれてたんだよね
関西の紀の国って東国の紀の国の出先機関なんだろうね

415 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 23:04:01.94 .net
あと和歌山の名草と下野足利の名草も何か繋がりがあるんかも?

416 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 23:58:44.75 .net
毛野氏は関西人。というか紀氏。 毛野は紀野が訛ったもの。
北関東弁で「きの」と言うと「けの」のと聞こえる。
鬼怒川も元は、紀の川と呼ばれていたのだろう。


粉河寺(こかわでら)は、かつて下野国河内郡宇都宮(現在の栃木県宇都宮市本町付近)にあった天台宗の寺院。
下野宇都宮氏第10代当主の宇都宮氏綱が遠征先の紀伊国粉河寺で客死したことから、第12代当主の宇都宮満綱が宇都宮城下に紀の粉河寺千手観音を勧請して当寺を建立したという。恐らく、里帰りだろう。
当寺は宇都宮氏の庇護の下で隆盛し、戦国時代には慈眼大師天海が青年期に当寺の住職であった皇舜僧正に師事し天台宗を学んだと伝えられる(天文19年頃)。

417 :日本@名無史さん:2014/07/05(土) 23:59:28.16 .net
毛野氏は関西人。というか紀氏。 毛野は紀野が訛ったもの。
北関東弁で「きの」と言うと「けの」のと聞こえる。
鬼怒川も元は、紀の川と呼ばれていたのだろう。


粉河寺(こかわでら)は、かつて下野国河内郡宇都宮(現在の栃木県宇都宮市本町付近)にあった天台宗の寺院。
下野宇都宮氏第10代当主の宇都宮氏綱が遠征先の紀伊国粉河寺で客死したことから、第12代当主の宇都宮満綱が宇都宮城下に紀の粉河寺千手観音を勧請して当寺を建立したという。恐らく、里帰りだろう。
当寺は宇都宮氏の庇護の下で隆盛し、戦国時代には慈眼大師天海が青年期に当寺の住職であった皇舜僧正に師事し天台宗を学んだと伝えられる(天文19年頃)。

418 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 00:00:13.73 .net
>>366
豪族として成立してから何代も経てば
誰も事実なんかわからないでしょう
詐称なんかし放題ですよ
奥州藤原氏だって都から来た藤原氏に
「どうせニセモノだろう」と言われている

419 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 00:00:36.77 .net
大事なことでもないのに、2度書いてしまった。すまぬ。

420 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 00:04:20.19 .net
毛野氏といえば群馬ですけどライオン系の女性が非常に多いです
気にいらなきゃ男相手でも殴ります、富岡製紙とか関係ないです

421 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 00:13:52.51 .net
鹿島信仰とか四方拝とか親王任国とか、天皇家の出自に東国が深く関わってるのは明らかなんだが

422 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 00:18:45.05 .net
>>418
都の貴族相手に「下野の土豪・秀郷の子孫」じゃ箔が付かんかw

423 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 07:31:07.35 .net
>>418
>奥州藤原氏だって都から来た藤原氏に
>「どうせニセモノだろう」と言われている

何年ぶりかで来てみれば、かつてと同じ文句が…

数年の時を経て同じセリフを。


「出典お願い」!

424 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 08:20:44.95 .net
史上初めて武士らしきものである平将門を成敗した藤原秀郷は別格でしょう。
スター誕生。

425 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 08:30:05.22 .net
どこかのやつら見てるとことごとくパクリに感じるの多いの何でだ?
425
だからその都の貴族とやらの代表の藤原氏からして不比等の母親から
して毛野氏なんだよ

426 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 08:35:16.62 .net
女の代表格多いぞ
新田義重の妻だった新田御前
岩松から由良に新田の宗家の移譲の決定打を
作った由良御前とかな

427 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 08:38:11.95 .net
歴史的重要事項が記録として残る場合
石碑としてあり碑文が読める場合
お寺の坊さんや神官が文書にしている場合  両者は暇なので書写わ残していることが多い。
前九年の際に、八幡太郎義家と藤原宗円が今の宇都宮の二荒山神社を参詣したのは事実でしょう。
頼朝は、それにならい二荒山神社に戦勝祈願したのである。記録は神社にある。
二荒山神社で否定しない限り宗円は、藤原氏で間違いないでしょう。

428 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 08:38:57.51 .net
左翼の妄想も酷いもんだな

429 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 08:43:17.19 .net
428
繋がってくるかい?
赤城神と日光神とかの戦争の話に
赤城神社は毛野氏や新田氏の信仰対象だ

430 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 08:54:29.00 .net
崇神天皇の祟りって名前からして真っ先に思ったのは女性相手にして祟りでも食らったのかな?

ってのが正直な感想

431 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 09:00:56.73 .net
那須国造碑から分かろこと
古代那須国は西暦700年近くまであったこと。
その直前に毛野国は上下に分かれて上毛野国と那須郡を含む下毛野国になったこと。
実は毛野国が出来る以前から毛野氏はいたのである。同様に上毛野国や下毛野国が出来る以前から、
上毛野氏や下毛野氏は、いたのである。
結論、場所と人物の関係は薄い。中央官人として国司となり、とんぼ返りしたことはあるようですが。

432 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 09:51:20.31 .net
かかあ天下と空っ風、女王国と言えば毛野国。

433 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 09:56:09.12 .net
今風の女王卑弥呼を探せ。

434 :日本@名無史さん:2014/07/06(日) 13:50:23.92 .net
私を左翼と呼ぶ方へ
私は自民党以外に投票したことはありませんが、何処かに左寄りの危険に香りがするのでしょうか。
親戚の飯村(益子流れ)というものも、戊辰戦争では旧幕府方で、横山大観の母方の祖父とは、信越、会津、
水戸城への途上まで共に新政府軍と戦っていましたが。

435 :日本@名無史さん:2014/07/07(月) 20:33:00.54 .net
>>416 418
説得力あるな

>>425
相変わらずワンパターンの無学無知の極みだなw

436 :日本@名無史さん:2014/07/08(火) 14:30:00.05 .net
宇都宮氏の始祖と二代目宗綱について
系図に混乱があると指摘する人が多いらしい。当時は、戦国時代ではないので二人は戦国大名では無いのかもしれない。
但し、それに近い境遇にあったともいえる。ならば今の一夫一婦制ではなく側室が何人かいて当たり前である。
系図の混乱とは、すべての側室が把握しきれていないだけのことである。
宗綱の宗は、初代を継ぐ証である。綱は、以後の宇都宮氏を象徴する文字である。宗綱は、二代目として相応しい名前である。
これは、後から取って付けたものではないであろう。

437 :日本@名無史さん:2014/07/08(火) 14:41:33.10 .net
436
下らない煽りだな
437
封建社会以降の話な
あるいは貴族社会

438 :日本@名無史さん:2014/07/08(火) 20:18:40.60 .net
東国六腹朝臣が毛野氏
初期の全盛時代
安閑天皇の時代に
蝦夷に出兵して
大敗後に一時
没落したんだよ

439 :日本@名無史さん:2014/07/08(火) 20:31:09.52 .net
>>434
スレチだが日本の左翼、何がダメだったんでしょうか?

440 :日本@名無史さん:2014/07/08(火) 20:36:19.68 .net
右翼的な私を左翼としたからです。さようなら。

441 :日本@名無史さん:2014/07/08(火) 20:46:32.77 .net
安閑天皇の時代の蝦夷とは、今の関東のことですか。それとも今の、
中部地方のことですか。?

442 :日本@名無史さん:2014/07/08(火) 21:23:24.90 .net
蝦夷に行ったのは武蔵国造の乱の後だったけ?

443 :日本@名無史さん:2014/07/08(火) 22:06:49.35 .net
蝦夷は今の北関東だよ

蝦夷に行ったのではなく蝦夷と戦ったんだよ
武蔵国造の乱後だよ

444 :日本@名無史さん:2014/07/09(水) 17:28:48.66 .net
具体的な場所は、戦場ヶ原ですか。  ?

445 :日本@名無史さん:2014/07/09(水) 17:42:25.94 .net
上毛野氏小熊の乱のことか?
武蔵の国造り関係の争いだよな

446 :日本@名無史さん:2014/07/12(土) 10:45:28.39 .net
いまのカンボジア・ビルマに住む人々(クメール族)、彼らこそ毛野氏の正体だ。

447 :日本@名無史さん:2014/07/12(土) 11:36:31.04 .net
毛深いのは納得しますが、天然パーマだそうじゃないですか。

448 :日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:15:07.98 .net
大宝律令の編纂など重要な任務を行った古磨呂など
政権の中枢まで上り詰めた上毛野氏と
下毛野氏の違いは荒河戸畔の時代まで遡る

449 :日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:50:40.09 .net
古麻呂は、下毛野氏では。

450 :日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:54:00.92 .net
○野と名付けられてる国は、三野(美濃)と科野と毛野だけ

451 :日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:56:15.67 .net
荒川湖畔は、紀伊国の卑弥呼か。  ?

452 :日本@名無史さん:2014/07/13(日) 09:04:30.17 .net
実は上毛野と下毛野は最初から分かれたってこと?

453 :日本@名無史さん:2014/07/13(日) 09:40:37.89 .net
氏族と国域は別でしょう。 さらに、
戦場ヶ原で雌雄を決したのであれば、日光勢と赤城勢は独立した集団。
但し、日光勢が那須国を指すのか、下毛野国なのかは明確ではありません。

454 :日本@名無史さん:2014/07/13(日) 10:03:50.75 .net
日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社は、どちらも下野国一宮を標榜しています。
下野国一宮が二つもあるのは不自然ですから、日光二荒山神社のある地は古代那須国ではないでしょうか。
私は、そのように考えます。

455 :日本@名無史さん:2014/07/14(月) 14:16:42.86 .net
日光の方はただ単に後世家康の崇敬もあって栄えたために僭称しただけのような気が…
それに、日光と那須では国の形がかなりいびつになってしまう。

毛野氏の出自はおそらく孝霊天皇の末裔で越智氏と同祖であると思われる。
孝霊天皇の皇子に彦狭島命という人物がいるが、この名は毛野氏で初めて東国に赴いたとされる御諸別命の父と同名であり、
この時代に同名の人物が現れることはきわめてまれであるので同一人物の可能性が高い。
彦狭島命の兄、吉備津彦命は崇神天皇の頃に四道将軍として活躍しているので、世代的にもこちらの方が近い。

456 :日本@名無史さん:2014/07/14(月) 15:38:15.98 .net
那須国の形状がいびつとのことですが、当時の那須国を考える場合は白河地方も考慮することになります。
今の福島県の西郷村、白河市、石川町、塙町、茨城県大子町を含む範囲が国造の那須直氏の管轄区域になります。
形は、想像を絶するいびつさになります。

仮に、那須国でないとすれば、中禅寺湖の領有権をめぐり上毛野氏と下毛野氏が争って下毛野氏に軍配が上がったことになります。
これは現実的とは思えません。
那須与一か屋島で矢を放つ前に胸中で戦勝祈願をした場所は、我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神(平家物語の記載順)
となっています。 平家物語からは那須与一と日光権現は身近な存在であったことが分かります。

457 :日本@名無史さん:2014/07/15(火) 13:36:50.29 .net
平家物語に一段をたてて、その活躍か一世を風靡した那須与一の様子から、
下野国一宮は、平安時代末期には日光権現であったことが偲ばれます。

458 :日本@名無史さん:2014/07/15(火) 18:32:14.86 .net
二荒(にこう)→日光(にっこう)

459 :日本@名無史さん:2014/07/15(火) 18:49:42.80 .net
男体山の旧名  補陀洛山(ふだらくさん)  →  二荒山
つまり、男体山 = 二荒山

460 :日本@名無史さん:2014/07/15(火) 19:09:43.26 .net
上毛野田道と田道間守って関係あるの?

461 :日本@名無史さん:2014/07/15(火) 19:44:49.67 .net
関係がある、とした資料はないはず
田道の父も対朝鮮外交にかかわったので、朝鮮からの渡来人氏族にあやかって田道と名付けたというのはあり得るかも

462 :日本@名無史さん:2014/07/15(火) 19:52:03.31 .net
非時香菓は筑波山のフクレミカンのことだと思ってるんで
どちらもこの地域に縁のある人物だと思ったんでね

463 :日本@名無史さん:2014/07/16(水) 15:51:07.60 .net
毛野氏族について語るのに毛野国の範囲が分からなくては話になりません。

大雑把にいって鬼怒川(毛野川)の西側ということは少なくとも分かります。
それでは上流の方はどうなるのでしょうか。
途中からいくつかの支流に分かれますが、私は、今の日光市に向かう大谷川を古代那須国と下毛野氏の国境であると考えます。
大谷川の上流には中禅寺湖がありますが、北半分を那須国が南半分を下毛野氏が領有したのではないでしょうか。
西側の峰の先は上毛野氏領となります。
これは、西暦700年近くまで続いたことになります。
それまでの坂東八国とは、北関東に限定すれば、毛野国、那須国、常陸国だったことになります。

464 :日本@名無史さん:2014/07/16(水) 16:31:51.36 .net
463
イチジクって知ってる?

465 :日本@名無史さん:2014/07/16(水) 16:34:10.73 .net
ほうずき、どどのめ、蛇イチゴ〜にグミ

どれも茶菓子に使えるな〜

466 :日本@名無史さん:2014/07/16(水) 17:25:44.92 .net
>>464
八世紀に中国に伝来して江戸時代に日本へ伝来したとされる無花果がどうした?
何を言いたいのかイミフ

467 :日本@名無史さん:2014/07/16(水) 17:46:57.70 .net
私は那須の山奥出身なんで、殆ど食べている。
ザクロは、人肉の味がするというので食べなかった。
体には、良いそうだけれども。

468 :日本@名無史さん:2014/07/20(日) 10:01:21.27 .net
毛野国は、上毛野国と那須郡を含む下毛野国の二国になった。
古代那須国は、那須国造碑が再興されるまで千年近い眠りについたのである。
また、三文字の国名は二文字にせよとの達しがあり、両毛は、上野国と下野国になる。

毛嫌いという言葉がある。  これは毛野氏嫌いという意味なのだろうか。 ? 

469 :日本@名無史さん:2014/07/20(日) 10:18:52.86 .net
毛野の大王、プリンスオブ毛野。ハゲと正反対である。

470 :日本@名無史さん:2014/07/20(日) 10:37:59.17 .net
都の禿集団の妬みが、やがて怨念に変わったのでしょうか。
毛野氏の時代は、奈良時代初頭には終わったようですが。

471 :日本@名無史さん:2014/07/20(日) 14:19:15.50 .net
猿飛佐助は漫画であるが、小野猿丸は実在の人物らしい。二荒山勢に助太刀して活躍した。
後に日光二荒山神社には、神官として小野氏がいた。苗字の件はこれで一件落着。
それでは、猿という文字から思いつく人は猿飛佐助以外に近隣では誰がいるのだろうか。
国造の那須直氏から初めて分かれた氏族である猿田氏が思い当たる。他にはいない。
陸奥国に住んでいた小野猿丸は、古代白河国の国造でもあった那須直氏の親戚筋のもので間違いないと思えるのである。

472 :日本@名無史さん:2014/07/21(月) 05:57:02.69 .net
下野・上野の壮大な国分寺や薬師寺は毛野氏の力

473 :日本@名無史さん:2014/07/21(月) 07:20:17.86 .net
那須郡武茂郷から算出された金を財源としたらしい。
武茂郷からの金の産出量を確認せよ。

474 :日本@名無史さん:2014/07/21(月) 08:43:43.04 .net
毛野氏が現地にいたのは毛野国時代まで。何故なら国造は世襲制だったから。
その制度は、大化の改新によって徐々になくなっている。
上毛野国・下毛野国時代になってからは、国司は都から派遣される任期制になったのである。
奈良時代になると毛野氏関係者は、殆んど派遣されていない。

475 :日本@名無史さん:2014/07/21(月) 23:08:33.21 .net
文字修正 小野猿丸 → 小野猿麻呂   理由 特になし 第六感

476 :日本@名無史さん:2014/07/22(火) 01:49:42.23 .net
>那須郡武茂郷
武茂郷の領地の変遷は面白いよな
なんと鎌倉時代まで那須氏の領地だったが
下野宇都宮氏の武茂氏に変わったからな

477 :日本@名無史さん:2014/07/22(火) 10:26:29.33 .net
健武山神社が中央に鎮座する武茂郷(元々は山田郷と武茂郷か)
   時期          領主    事由
古墳時代から平安末期 那須直氏  国造
平安末期から       宇都宮氏  与一と頼朝の戦勝祈願
室町中期から       白河結城氏 宇都宮氏の斜陽
室町末期から       宇都宮氏  白河結城氏の没落
室町末期から       佐竹氏   宇都宮氏との同盟関係(八幡太郎義家以前からか)
江戸初期から       水戸徳川家 佐竹氏秋田へ、御三家登場
明治時代から       水戸県   明治維新の廃藩置県
               宇都宮県
               栃木県

478 :日本@名無史さん:2014/07/22(火) 13:02:26.88 .net
武茂郷の領主を訂正する
いつの頃からか、武茂郷は那須氏領から皇室領になっている。
二荒山神社に寄進の際は、さすがに皇室の了承は得ていると思われる。

479 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 10:10:25.16 .net
               弓の名手           敵方                
赤城と二荒山神戦   小野猿麻呂(二荒山)    百足(赤城勢)   負傷退却
源平合戦屋島の戦い  那須与一(源氏方)      平家方      壇ノ浦へ 
縄釣台の合戦      鮎瀬源蔵(那須氏方)    志賀備中守(磐城・白河連合軍) 絶命・退却

      時ならぬ磐城の志賀が流れ来て那須野の原の露と消えけり    資房 
    
五月女坂の戦い     鮎瀬弥五郎(那須氏方) 宇都宮尚綱    絶命
大崖山・霞が澤の戦い 小森次郎(那須氏方)   佐竹義重     負傷退却

480 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 20:53:47.88 .net
>>477
鎌倉が抜けているぞ

481 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 21:08:54.46 .net
鎌倉とたまプラって似てるよね
いつも聞き間違えてしまう

482 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 22:16:46.36 .net
鎌倉時代に武茂郷の変動なし。宇都宮でも武茂でも松野でも、大久保でも中身は同じ。
下野の宇都宮氏の諸流は全国版では宇都宮氏になります。例 武茂(大久保)泰藤 → 宇都宮泰藤(太平記)

483 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 22:45:56.86 .net
そもそも武茂郷は下野宇都宮氏嫡流の
武茂郷出目の
武茂氏によって治まった

484 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 23:07:15.80 .net
武茂郷は、飛鳥時代からあったと思われる。    七世紀
宇都宮氏の始祖である宗円が登場する前九年の役は、十一世紀である。
役400年の開きがある。

485 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 23:11:14.99 .net
牛頭馬頭

486 :日本@名無史さん:2014/07/24(木) 23:16:46.38 .net
寺の名前を馬頭院としたのは、水戸黄門。それと武茂郷は関係ない。

487 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 00:41:28.07 .net
>>482
>鎌倉時代に武茂郷の変動なし。

嘘つくなよw

>>480
鎌倉時代には宇都宮氏(武茂氏)が武茂城を築き一帯を支配
その後南北朝時代には南朝方(新田義貞・後醍醐)に付く

488 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 07:18:57.48 .net
地元の人間の多くは、それは宇都宮氏の治績であると考えている。私も小学校の社会科の授業では、
「この辺は昔、宇都宮氏の領地だったんだ」としか聞いていない。中学では言及なし。
南朝方についたのは、宗家や弟との相談の上で。勝手に行動している分けではない。主体はあくまでも宇都宮氏。
従って鎌倉時代に武茂郷の変動はないと考えている。

489 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 07:25:26.93 .net
すでに武茂郷は、平安末期には宇都宮氏領になっているのである。

490 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 08:26:37.46 .net
(陸奥国との)境の明神峠の直ぐ西側には、那須氏の象徴である温泉神社か今でも鎮座している。
祭りの日、毎年、三月十九日。

491 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 11:13:06.60 .net
武茂郷の変動なしとは、不動産登記簿でいえば土地登記簿の乙区欄に変動は無いということ。
城ができるとか高層ビルが建ったとかは、建物登記の話。
土地登記と建物登記は別である。 付近で、私のところは城下町であるといえる場所は、
那須氏の拠点であった、烏山ぐらいと思われる。

そもそも那須郡武茂郷の件を私が指摘したのは、下野薬師寺や国分寺建立の財源問題である。
何故か論点がずれつつある。 武茂郷からの金の産出が信用できないのですか。

492 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 20:12:36.29 .net
>私も小学校の社会科の授業では、
>城ができるとか高層ビルが建ったとかは、建物登記の話。

ハッキリ言って
お前
バカだろう

493 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 20:46:26.80 .net
平安末期から室町と所有権は宇都宮氏にあった。武茂氏ではない。
白河結城氏への領有権委譲は、宇都宮氏と白河結城氏との約定である。
武茂氏は関与していない。  これは真面目な話である。 古文書は残っているようである。

494 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 21:34:20.28 .net
毛野川水系と那珂川水系が現さくら市の辺りでかち合うんだよな
異勢力がバッティングしたら争いが起きるわな
それは何時の時代だったんだろ?

495 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 21:53:57.32 .net
古代には那須国だったとは思える。新たにできた郡名は、塩谷では。
初めに源姓の塩谷氏が入り、後に藤姓の塩谷氏か婿養子となり、藤姓塩谷氏となった。
つまり宇都宮氏系。源姓の人が開発領主となり始めたのは、11世紀ごろでは。
平将門や藤原秀郷の時代の後でしょう。

496 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 22:25:46.94 .net
>平安末期から室町と所有権は宇都宮氏にあった。武茂氏ではない。
いい加減にしろよw

497 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 22:29:54.67 .net
また捏造か?w

498 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 22:35:59.89 .net
武茂って那珂川水系だな

499 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 22:51:40.82 .net
白河修理大夫殿あてに差し出した道景(宇都宮等綱)去状(譲渡証)の写真が、
馬頭町史の200頁に掲載されている。 武茂氏は、蚊帳の外になっている。
修理大夫とは、白河結城直朝。

500 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 22:52:42.38 .net
なんかこのスレ馬鹿しかいなくね?

501 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 23:01:13.93 .net
武茂郷は、茨城県の久慈川水系にも近い。
那珂川の簗で鮎を食べるなら、断然、高瀬の簗に限る。
吾輩の叔母宅の隣。 簗の人の先々代は、立派なやくざの親分だったと大変評判が良い。

502 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 23:19:14.20 .net
武茂川は那珂川水系だが?

503 :日本@名無史さん:2014/07/25(金) 23:24:22.63 .net
西は那珂川。峠を越えて東へ行くと直ぐに久慈川の支流がある。共に鮎釣りが人気。

504 :日本@名無史さん:2014/07/26(土) 06:38:49.63 .net
下野の名門の宇都宮氏宗家の等綱は、白河修理大夫の家人になっていた。

505 :日本@名無史さん:2014/07/26(土) 06:50:36.91 .net
>平安末期から室町と所有権は宇都宮氏にあった。武茂氏ではない。
そもそも宇都宮氏の庶流が武茂氏
築城すると言うことは領地にとって最も需要な事
それに、いきなり鎌倉・南北朝の長い期間をぶっ飛ばして
史実を捏造するなよ

烏山バカw

506 :日本@名無史さん:2014/07/26(土) 08:06:42.36 .net
足利氏・那須氏・佐竹氏 VS 新田氏・宇都宮氏・白河結城氏

武茂郷と塩谷郡の一部を勝手に譲渡するなよ  恥ずべき史実は自然と消滅するのでは。

507 :日本@名無史さん:2014/07/26(土) 08:36:46.07 .net
武茂さんちは、北関東に一軒もない。  千葉県には一軒はあった。
全部で何軒だ。  佐村河内さんより少ないのか。 ?

508 :日本@名無史さん:2014/07/26(土) 09:46:43.64 .net
武茂郷からは、天平19年から纏まった金が産出され始めた。これは日本初である。陸奥国からのそれよりも数年早い。文字通り日本の歴史は輝きだしたのである。
大陸との交流にも弾みがついたであろう。 金の産出は国有事業とされたようたが、その全貌は明らかではない。最高責任者は誰か。普通に考えれば、下野国司。
次が那須氏であろう。

509 :日本@名無史さん:2014/07/27(日) 17:24:12.17 .net
日本最古の石碑かつ平安遷都以前の石碑は
群馬県高崎市に集中しているんだよね
それも漢文ではなく和文で刻まれているんだよね

510 :日本@名無史さん:2014/07/27(日) 18:32:44.77 .net
510は、那須国造碑ファンに挑発的である。那須国造碑は国宝である。国宝と重文では、どちらに価値があるかは誰でも分かる。
また、碑堂の有無、堂守の人柄なども重要である。

511 :日本@名無史さん:2014/07/27(日) 18:41:15.98 .net
那須国造碑は、拝観料1000円(少し前まで)  有料です。

512 :日本@名無史さん:2014/07/27(日) 20:06:34.93 .net
武茂郷は、与一と頼朝が寄進したもの。
手放したいなら那須家と源氏の棟梁に返却するべきもの。
他家への譲渡は筋違い。
違うか。
腹を斬れ。

513 :日本@名無史さん:2014/07/30(水) 11:40:50.82 .net
磐城出身で湯津上村の右京の門に店借していた旅僧円順は、里人から、
「永いこと大きな石が湯津上村の草むらに横たわっていて、文字がびっしりと彫
 ってある。それに腰かけたりすると人畜に大きな祟りがある」
という話を耳にした。
 旅僧円順からの話を聞いて放置しておくことも儘ならないと考えた重貞は、
さっそく湯津上村の大きな石に出向いたが碑文は苔むしていて判読できなかっ
た。丁度そのころの重貞は「那須記」第二巻を執筆中であったので巻末に事の
次第を書き加えた。
 天和三年(1683)六月七日、旧那須七騎の居城跡などを展望したあとに
武茂郷馬頭村に宿をとった光圀に、重貞は「那須紀」をご覧にいれ古碑の件を
言上した。
 そこで光圀は、侍臣の佐々宗淳介三郎(通称は介さん)に古碑の調査をする
旨を指示した。新井白石の協力も得た介さんの調査の結果、当時としては日本
最古の碑であることが判明したので貞享四年(1678)九月二十四日に光圀
は、武茂郷巡村のおりに碑堂の建設を小口村の重貞に命じた。
 しかし古碑の所在地は、天領と旗本領の交錯した藩外地であること等から思
いの外手間取り古碑の周り二反歩を水戸藩で買い上げて碑堂の建設に着工出
来たのは、元禄四年三月であった。
 碑堂の建設は、着工してしまえば早いもので同年十二月十八日に碑堂は完成
した。その落成式は、少し遅れて翌元禄五年(1692)四月に挙げられた。
 同年六月二十三日の巡村のおりに光圀は、武茂郷馬頭村の修験者百助(泉蔵
院)宅に泊まり百助の人柄を見た上で那須国造碑の堂守にすることを決定して
翌二十四日に詣でた地蔵院十輪時本院の寺号を馬頭院と改名した。
 翌二十五日に光圀は、碑堂の完成した那須国造碑に参詣して夜は武茂郷小口
村の大金重貞宅に一泊している。
 横たわり苔むしていたからであろうか、上代帰化人の関与も明らかと思われ
る永昌元年(689・持統天皇三年)と唐の年号で始まる全文八行、十九字詰
・百五十二文字の八溝山系花崗岩前面に薬研彫で刻字された碑文は風雪に耐
えて、1000年の眠りから目覚めて那須国造碑は蘇ったのであった。

514 :日本@名無史さん:2014/07/30(水) 18:06:33.93 .net
西暦1017年に藤原道長の倉から砂金二千両が盗まれる事件有。
「日本鉱山史の研究」小葉田淳著・岩波書店発行
那須氏は、那須郡の他に白河郡の郡司でもあった。 一概に陸奥の砂金とはいっても今の福島県と宮城県を合わせたものではないだろうか。
とすれば那須氏は武茂郷の「那須のゆりがね」のほかに陸奥の金も関与していたことになる。
後年に那須家には藤原氏系の人が婿養子として入り、与一は藤原道長の七代目位の後裔になる。
はたして、那須家と藤原氏との密接な関係は、何時ごろから始まったのでしょうか。 ?

515 :日本@名無史さん:2014/07/30(水) 22:37:40.19 .net
>>509
山上碑が681年
多胡碑が711年
金井沢碑が726年

この時代以前
全国10碑しかない石碑の中で
3碑が残存しているって凄いよな

日本文ってことも貴重
日本語の研究でも重要だし
当時の上野毛の文化の高さが
分かる

>>510
どっちも貴重だろw
何バカを晒しているんだよw

516 :日本@名無史さん:2014/07/30(水) 23:36:33.36 .net
石碑を刻む文化を持ち込んだのは、新羅系渡来人だ。
大伴金村による任那4県の百済への譲渡、
そして、白村江の戦いで破れて、朝鮮半島の支配地を失った倭人の帰国。
高句麗、百済の滅亡と、唐による新羅の支配で、
行き場を失った王族、官僚、難民も大挙して日本に渡来した。
その受け入れ先が、毛野氏の支配地で未開の原野が広がっていた関東平野だった。
7世紀は、大化の改新と相まって、関東平野の大開拓時代の幕開けとなったのだ。

517 :日本@名無史さん:2014/07/30(水) 23:46:04.46 .net
未開っつうか例によって浅間山等の噴火で壊滅状態に関東地方のとりわけ利根川上流部が定期的に壊滅状態になった直後のでしょ?

518 :日本@名無史さん:2014/07/31(木) 09:05:16.25 .net
日本三戒壇
1、大和の東大寺    大仏様に塗布(金メッキ)されているものは、那須のゆりがねか。 ?
2、下野の薬師寺
3、筑紫の観世音寺

519 :日本@名無史さん:2014/07/31(木) 09:19:48.31 .net
防人の歌
万葉集巻二十 天平勝宝七年(757) 大伴家持編 防人の歌は、93首が掲載されている。
このうちで、下野出身者のものは、十一首である。
上野出身者のものは、いくつなのかな。  ?

520 :日本@名無史さん:2014/07/31(木) 14:04:08.31 .net
砂金採取と石材屋  陸奥国多賀城周辺は百済系  陸奥国白河地方と那須郡武茂郷は新羅系と思われる。

521 :日本@名無史さん:2014/08/01(金) 11:19:06.54 .net
延宝元年8月23日に光圀は、勿来跡を皮切りに三度目となる領内北部(武茂郷と保内郷)の巡村を行った。
この時が一番躍動的であった。村々の山を登り、久慈川を帆立船で遡上しながら鵜飼や投網を堪能された。
陸に上がり9月2日は保内郷町付村の飯村宗雪宅に宿泊。領内北部では、飯村家が一番にくつろげるようであった。
光圀が堪能した鵜飼とは如何なものであったか。勿論、食べきれないほど捕れたであろう。使用している鵜は、
本場鵜の岬のものである。現在、二世誕生で盛り上がっている京都府宇治市のウミウの故郷は鵜の岬である。
翌日以降に光圀は、八溝山や鷲子山に登攀している。

        鷲の山やまより山へ入ぬれハそらふく風の音はかりして     西山

巡村が終えると光圀一行は、黒羽河岸から水戸へと帰路についた。那珂川を上り下りした多くの船は、小鵜飼船という。
その大きさは、長さ八間、幅が中ほどで六尺と光圀の上背位あり船底から船縁まで三尺五寸ほどで、炭俵であれば二百俵は詰めたという。
風の弱い日の遡上は、大変であったろう。

522 :日本@名無史さん:2014/08/01(金) 11:33:44.11 .net
また朝鮮起源病がでたか

523 :日本@名無史さん:2014/08/01(金) 21:11:14.02 .net
朝鮮起源病はバカ丸出し
歴史を捏造する下朝鮮そのもの

524 :日本@名無史さん:2014/08/02(土) 17:51:00.42 .net
元禄十一年八月十日から十三日まで光圀は、武茂郷大山田下郷の石井長右衛門宅に四連泊という長逗留をして本格的な鮎狩りを行った。光圀は、
「長右衛門、そなたの言う通り旬の鮎は美味である、武茂川で自分で捕ったものを食して、いつ死んでもよい心境を会得したじゃあ。ワハハハハァ」
と哄笑された。
長右衛門宅を後にした光圀一行は、十四日に保内郷町付村の飯村宗興宅に到着。光圀は中秋の名月を清音楼からしばし眺めて「仲秋」という七言絶句をつくった。

光圀は食通で知られている。光圀が四連泊の長逗留をしたほどである。武茂川の鮎は格別なのだろうか。  ?                        鮎は今が旬

525 :日本@名無史さん:2014/08/02(土) 22:06:50.59 .net
ピチピチの若鮎、おれも食べたい。
黄門様もお若いですね。

526 :日本@名無史さん:2014/08/03(日) 13:06:53.64 .net
毛野氏に比べたら清和源氏やら桓武平氏なんて成り上がり

古代の日本各地で殺しまくってた毛野氏に対して
源氏も平氏も生まれてもないし、畑を耕してた集団

527 :日本@名無史さん:2014/08/03(日) 14:55:02.79 .net
元治元年十月二七日から二八日には、諸生派追討軍伊藤辰之助率いる軍勢に対して、天狗党は武田耕雲斎自ら指揮して袋田側の麓から攻撃を続けたが地の利を得た追討軍は、
ほぼ真上から銃砲を乱射し、あるいは丸太を含む古風な岩石落としなどで果敢に攻撃してきた。天狗側は、この戦闘で何人かの死傷者を出すなど戦況利なく大子に引き揚げた。

国内戦における岩石落としの採用は、この時が最後と思われる。それでは最初とは何時だろう。   遥か古に毛野氏が用いたのだろうか。  ?

528 :日本@名無史さん:2014/08/03(日) 15:05:10.13 .net
毛野氏こそ真のエンペラーだろ日本の

529 :日本@名無史さん:2014/08/03(日) 15:22:14.89 .net
第二次大戦でロングボウで敵兵を殺したやつがいてワロス
リアルでロングソードとロングボウしか持ってない・・

ジャックチャーチル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB

>1940年5月、彼の所属する部隊がドイツ軍と戦闘に及んだ際、
>ジャックは攻撃開始の合図としてロングボウで矢を放ち、敵の下士官を倒した。

>1943年7月、指揮官としてコマンド部隊を率いてイタリアのカターニアへの
>侵攻した際、ジャックの腰にはもはや代名詞となっていたクレイモアが下げられ、
>背中にはロングボウと矢が、手にはバグパイプがあった。

530 :日本@名無史さん:2014/08/03(日) 15:23:51.45 .net
熱中症にお気を付けください。

531 :日本@名無史さん:2014/08/03(日) 16:36:43.44 .net
>多胡碑が711年

特にこの碑は謎が多いんだよな

532 :日本@名無史さん:2014/08/04(月) 15:41:38.42 .net
幕府の上野追討総括の田沼意尊からの追討命令を受けていた高崎藩兵は、元治元年7月9日に天狗勢から受けた急襲による屈辱的な敗走という汚名挽回のために、虎視眈々と天狗勢への攻撃の機会を窺がっていた。
11月15日の夜に高崎藩兵二百余名は天狗の見張り番を打ち破り、ついに十六日未明に小坂峠の天狗を襲い戦闘は開始された。ところが明るくなってきた頃に伊勢山の山上から攻めるという山口兵衛の立てた作戦により、
形勢は逆転して天狗勢は高崎藩兵を三方から包囲した。およそ二時間にわたる激戦で高崎藩兵は、またもや敗走した。この「下仁田の戦い」で高崎藩は、戦死三十六名、生け捕り十名という犠牲者を出した。
天狗勢では、野村丑之助と久保田藤吉、斉藤仲次の三名が戦没、丑之助は数えで十三才であり今ならば小学校六年生であったが果敢に奮戦したと伝えられている。 今の小学校六年生を撲殺して勝ったような気になるなよな。
極めつけは、不動院全海の遺体から肉片をはぎ取って味噌漬けにして食うなよな。 アッ、あれはお隣信州の人食い人種か。

533 :日本@名無史さん:2014/08/04(月) 16:03:30.83 .net
天狗党に関連のある話か?

534 :日本@名無史さん:2014/08/04(月) 16:37:02.36 .net
532
なにが謎が多いんだ?
藤原尊ってやつが設置した碑文てwikiにもあるけど?

535 :日本@名無史さん:2014/08/05(火) 15:51:37.50 .net
那須国造碑や多賀城碑の建碑から砂金産出までには間がある。ところが秩父で銅塊を多胡羊太夫が発見した後になってから多胡碑が建碑されたことは、年号が和銅に改められていることから察しがつく。
建碑地は、新たに設けられた多胡郡である。従前には当然領主がいたことであろう。元の郡司は浅間山の噴火でお手上げ状態になってしまったのだろうか。元の郡司とは毛野氏系と思われる。
従って,多胡氏と争いを起こしそうな人は、毛野氏系とあらぬ讒言をしたという武蔵国高麗郡の高麗若光などに限定される。 しかし実際には雌雄を決するような争いは、無かったのではないだろうか。
現在、多胡という苗字の方は、高崎市を中心に大勢見受けられる。この事実から多胡氏は善政を施したように思えるのである。 碑文の最後の方にある藤原という苗字を見ると鳥肌が立つ人もいるのだろうか。 

536 :日本@名無史さん:2014/08/05(火) 19:46:24.16 .net
碑文を作る文化って現代でも朝鮮半島には色濃く残ってるけど、
日本には残ってないよな

537 :日本@名無史さん:2014/08/05(火) 20:36:38.14 .net
漢文が出来なくなったのでは。平仮名交じりでは格好悪い。

538 :日本@名無史さん:2014/08/05(火) 20:41:38.06 .net
537
日本の各地を見て回ったことないのか?
神社なをの整備をしたときには寄付した
人などは記念に名前を掘っていくんだぞ

539 :日本@名無史さん:2014/08/05(火) 20:46:21.82 .net
碑文ていうのは何らかで有名な人がその地を訪れたときに
記念に作成されるものが多いんだよ

540 :日本@名無史さん:2014/08/05(火) 20:58:42.26 .net
ハングル卑文w

541 :日本@名無史さん:2014/08/06(水) 07:02:39.31 .net
速記ではだめか。世界一速い執筆時間。

542 :日本@名無史さん:2014/08/06(水) 07:09:15.40 .net
烈公斉昭の専売特許である神発仮名という暗号文もあるぞ。

543 :日本@名無史さん:2014/08/06(水) 22:10:09.65 .net
句碑

     木啄も庵は破らず夏木立    芭蕉翁

544 :日本@名無史さん:2014/08/08(金) 00:57:44.09 .net
三碑には毛野氏がでてこない
毛野氏は前橋・高崎に天武期にはもういなかったのでは?
前橋総社の山王廃寺=放光寺が佐野氏?の寺院ってことになってる。
物部氏系統らしい。

前橋・高崎の古代の石碑からは毛野の毛の字も出てこない。
前橋の総社にある古代寺院は毛野氏関連ではないらしい。
物部は580まで絶頂期で、その後衰退。
前橋が物部関連=石上氏としたら、580以降はそのまま残ったか
別の新興豪族に取られたか、

何にしても前橋総社からは6世紀以降毛野氏の痕跡が見られない。
3つもあるんだから、毛野氏関連のことが1つくらい書いてあってもよさそうなのにな。

545 :日本@名無史さん:2014/08/08(金) 01:24:10.79 .net
>この中で、小杵の敗死とともに上毛野に緑野屯倉が設けられ、その勢力が大きく削がれたと推測されている。

「武蔵国造の乱で上毛野氏がヤマト王権に討たれた」とあるが
磐井の乱と同一の事件とすると、中央派遣の軍隊は物部氏だったと見られ
当然「領土が欲しいから侵略してくる」わけで

500年代に中央で権力を持った物部氏に上毛野の領地の西部=前橋・高崎がかなり分捕られたと思われ。

武蔵の豪族との抗争で上毛野氏が負けた
ヤマト王権派遣軍(物部氏?)に上毛野氏が負けた

どちらのパターンでも上毛野氏の領地がかなり取られたものと思われる。
(上毛野氏は勝者ではないので)
前橋総社に上野国府があった! と言っているが、
国府が前橋総社にあるにしろないにしろ、それが上毛野氏の支配権だったかどうかは別。

上毛野氏関連の文献は豊富だが、群馬での拠点地域の確定ができてない。
上野国府・上野国分寺に関連した豪族が毛野氏であったかどうかも未定。

4世紀(350〜500)には毛野氏だったか、初期ですら領地がなかったか。

ただし上毛野氏は下毛野氏(栃木)とも血縁なので、
前橋を取られたにしても、軍事力は関東随一だったらしい。
上毛野形名637 蝦夷討伐将軍

上毛野稚子663 白村江の戦いに参加

546 :日本@名無史さん:2014/08/08(金) 01:36:59.58 .net
下毛野氏はなぜか将軍とかも500〜600年代に出てこない。
ここは領地は実質毛野氏だったのか。
「蝦夷討伐」してるから栃木通ったはずで、
武蔵国造の乱のいちゃもんで分捕られた群馬西部を除く栃木までの広い範囲が

上毛野形名637 蝦夷討伐将軍

上毛野稚子663 白村江の戦いに参加

の領地だったのかな。

700以降は下毛野氏も自立の動きが見られてくる。

「確実に毛野氏の氏寺だった」のが確定してるのは群馬にはなく
栃木県下野市の下野薬師寺くらいか

というか、前橋に毛野氏がいたのかどうかが不明ですね。
534以降は栃木方面にかけてむしろ活動している。

534上毛野小熊までは前橋・高崎も勢力圏かと、

武蔵国造りの乱は、
なかよく東国で暮らしてた毛野氏と毛野と仲がよかった武蔵の首長の笠原氏だったが
笠原の兄弟争いを幸いにと介入してきた領地がほしかったヤマト王権の何かの豪族が=たぶん物部氏
領地を分捕ってこようとしたので、「よそ者が来るな!」と上毛野氏と武蔵の豪族とで連合で戦ったが
ヤマト王権の軍隊にやられちゃって、講和で、領地をかなり差し出したとみる。

磐井の乱とほとんど同じ構造だろ。乱というかどっちが乱なのかと。
侵略者はどうみてもヤマト王権の変な侵略豪族だな。

547 :日本@名無史さん:2014/08/08(金) 01:41:17.69 .net
528磐井の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E4%BA%95%E3%81%AE%E4%B9%B1
なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、
また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」と
だけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、

534 武蔵国造りの乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E9%80%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1

ほとんど同じ時期の磐井の乱=「官軍が急に攻めてきた」と同じだとすれば
乱を起こしたのは毛野氏小熊でもなんでもなく
ヤマト王権の物部氏だとおもわれる。

保険金殺人をしたのは保険金を受け取ったやつなように
「毛野の領地を分捕って得をしたのが犯人」=物部氏犯行説だな。

548 :日本@名無史さん:2014/08/08(金) 01:46:46.66 .net
198 上毛野西部と物部氏
http://blog.goo.ne.jp/sadalon/e/aa6a475493f41f4044c6fe9bdd5122c0
 上毛野西部の氏族が物部氏と結びついた、という仮説は『続日本紀』にある2つの
記事からうかがうことができるのです。

 『続日本紀』の天平神護元年十一月の記事に、
「上野国甘楽郡の人中衛物部蜷淵ら五人に物部公の姓を賜わる」

石碑からも物部氏の痕跡が・・

 高崎市山名町に金井沢碑と呼ばれる古碑があります。
 国定特別史跡に指定されており、山ノ上碑、多胡碑とともに上野三碑と呼ばれている
もののひとつです。
 これには、上野国群馬郡下賛郷高田里の三家氏(みやけ氏)の子孫らが七世の父母と
現在の父母の為に、仏に祈り、天地に請願し仕え奉る、という内容のことが刻まれて
いますが、この子孫の中に、物部君午足と磯部君身麻呂の名があるのです。
 ここでの物部氏と磯部氏は三家氏の一族ということになります。


「物部氏の関東侵略説」が有力だな、まあ保険金をもらったのが物部氏のようだしな。
まったくいいがかりもいいとこだ。
わけのわからん理由で関東を攻められれば上毛野氏が武蔵と連合組んで守るのは当然だろ。

「毛野氏領地の群馬西部は534にわけのわからん連中に分捕られた」が歴史の真相だな。

549 :日本@名無史さん:2014/08/08(金) 13:23:51.69 .net
武蔵国造の乱と磐井の乱は別事件のような気がする。朝廷から見れば陽が昇る方と沈む方になる。全く逆方向。

550 :日本@名無史さん:2014/08/08(金) 14:01:07.32 .net
上毛野形名の遠征経路について    勿論、今の青森県までは行ってないであろう。  それでは目指すべき東北の中心地は西暦637年当時はどこか。
おそらくは、今の福島県棚倉町であったろう。そこにはそこの蝦夷の酋長がいたはすである。 今であれば白河関を越えて東に向かえば良い。
しかし当時の移動手段は馬か徒歩であるのて那珂川町東部の境の明神峠を経由する方法と常陸国南部から北上していくパターンの三径路から一つの選択なる。
私は、上毛野形名の遠征経路は常陸国南部からの北上と考える。つまり久慈川沿いを北上して焼山関を越えるとそこは陸奥である。そこには昔、関戸神社があった。
形名の遠征は、今の茨城県大子町の焼山関から福島の棚倉の間であったろう。  従って、下野国を通らなかったことも考えられる。

551 :日本@名無史さん:2014/08/08(金) 14:06:44.22 .net
移動手段の訂正  帆立船による久慈川の遡上もある。

552 :日本@名無史さん:2014/08/08(金) 14:46:43.41 .net
西暦689年  那須国と毛野国がなくなり、上毛野国と下毛野国になる。坂東八国の数は変わっていない。
   713年(和銅六年)好字二字令     上野国 下野国

553 :日本@名無史さん:2014/08/09(土) 11:26:15.17 .net
>>552
那須国のままでいいじゃん。なんで変えたの?

毛野国を上下に分割して上毛野国・下毛野国としたとどこかで聞いたが?

554 :日本@名無史さん:2014/08/09(土) 15:02:24.72 .net
那須氏が国造であった古代白河国が、新たな陸奥国になったからでは。
細かいことは朝廷に聞いてくれ。
東北激動の時代
718年、陸奥国を三分割して、陸奥国、石城国、石背国とする。
720年、陸奥国国司の上毛野広人が蝦夷によって殺害される。
721年4月、征討軍出動。蝦夷1400人余りを斬首・捕虜。
721年、出羽国が置かれる。
724年3月、海道で蝦夷の反乱あり。佐伯三等官が殺される。
同年、時節代将軍に藤原宇合を任命。主に関東から三万人の兵を徴発して鎮圧した。
同年、大野東人によって多賀城が竣工する。
同年ごろまでに三分割された陸奥国は、元に戻っていた。
725年、俘囚を各地に配す。伊予国 144人。 筑紫 578人。 和泉監 15人。  以後も配流は続く。

555 :日本@名無史さん:2014/08/09(土) 16:43:15.62 .net
私の調査では、毛野氏の勢力範囲は、群馬県全域ではなかったようです。
毛野氏の支配地域は大ざっぱにいうと伊勢崎市−埼玉県大里郡より東側です。
前橋、倉賀野付近は、友好関係にある別の豪族が支配していたようです。

大里郡神社史によれば、景行天皇の御代に、豊城入彦命の曽孫の御諸別王が、東山道の十五か国を拝領したとき、陸奥で蝦夷の騒動があった。
王は即座にこれを平定し、以来東国に浪風は無い。
当時の武蔵国入間郡は、国民も少く田畑も荒廃し、これを歎いた御諸別王は、天皇に奏上して、大和、山城、河内、伊賀、伊勢の五国の多里人・八百九十七人を武蔵国入間郡に移住させ、多里郡(大里郡)を置いた。
御諸別王は、郡の鎮守として新宮を造って天照大御神をまつり、その末子を神官とした。
御神体は、天照大御神が高天原で機を織るのに使ってゐた御筬を、天穂日命が賜り、子の建比奈鳥命へ伝へ、これを東国守護の形見として、豊城入彦命、彦挟島ひこさしま王、御諸別王と受け継ぎ、ここにまつられたものである。

この景行天皇の御代の東山道の十五か国を(元祖)毛野国とすべきだと思います。

556 :日本@名無史さん:2014/08/09(土) 18:17:49.79 .net
神話の世界

557 :日本@名無史さん:2014/08/09(土) 19:24:57.96 .net
古来の方形周溝墓の倭国政権が、巨大古墳を売りにした渡来人勢力に簒奪されたのです。
それに抵抗した旧来の倭国は東国に逃れ、毛野を拠点にして簒奪政権に土蜘蛛あるいは蝦夷と呼ばれつつ抵抗したわけなんです

558 :日本@名無史さん:2014/08/09(土) 22:10:25.84 .net
売りにされてる巨大古墳は大陸にはないけどな

559 :日本@名無史さん:2014/08/09(土) 22:23:05.76 .net
玄武龍朱雀白虎

560 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 14:31:52.85 .net
毛野氏の時代は、陸奥国府で没した上毛野広人で終わった。後は、上毛野馬長(764年、上野国国司)がいるだけ。

561 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 15:57:33.67 .net
秀郷の頃だったか、上毛野氏は秀郷とともに反受領闘争を起こしてなかったっけ?
この流れは将門の乱にまで繋がって行くし、のちの兵(つわもの枢錘m)の台頭に及ぼした影響は大だと思う。

562 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 18:34:01.33 .net
句碑
           夏草やつわものどもが夢の址    芭蕉翁

久方ぶりに、つわものという文字を読んだ。場所を度忘れしていたので確認したら平泉だった。
人によって夢の址の場所はまちまちであろう。 京都の人は応仁の乱の起来た所、佐幕派にとっては会津なのだろうか。
私はいの一番に壇ノ浦である。


  

563 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 18:42:03.39 .net
荘園制度成立期の出来事だな

564 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 18:49:41.20 .net
勘違いしてるが荘園制の独立闘争が武士の勃興に関与しているし
所領とは荘園そのもののことを言う
地頭が支配したのは荘園そのものであるし守護はそういった荘園
領主たちからの領地闘争の仲裁役を買う代わりに軍事権や裁判権
を支配した

565 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 18:54:58.78 .net
南北朝の時などの皇族や御所とかいった連中がまず何をしたかというとその荘園の支配権のお墨付きを与えることだ

566 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 19:00:22.87 .net
さもなきゃ数人くらいで下向してくるんだからあっという間に殺されるわw
その代わりに支配権を正当化するお墨付きを与える存在だから貴人として
持て囃されかなりの待遇を得ている

567 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 19:07:48.73 .net
これが戦国時代にはいると領地闘争が激しくなり仲裁くらいではすまなくなる
これが守護大名の没落でありより強大な力を持った戦国大名の登場なくして所領
を守ることができなくなる
これが戦国時代

568 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 19:20:14.77 .net
これを視点をかえて幕府中心の見方や朝廷中心の見方に変えると真実は決して分からない

569 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 19:38:33.11 .net
元祖テロリスト     上毛野基宗、貞並(915年2月)

570 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 20:01:51.86 .net
頭に動物の角を飾って闘う集団がいた。
牛頭とかアラハバキとか鬼とかと呼ばれた。
その集団は政権抗争に敗れ東国に逃れ、坂東武者の起こりとなった。
頭に飾ってた角の名残が鎧兜の角付きとして残ってる。

571 :日本@名無史さん:2014/08/10(日) 22:28:26.14 .net
六世紀の榛名山一回目の大噴火で武具を身に着けたままの状態で火砕流にのみこまれた方が少し前に発掘されました。
こちらは明らかに500年前の坂東武者。

572 :日本@名無史さん:2014/08/11(月) 23:42:43.41 ID:uv+3x0CND
>>569
そんなの知らんかった。

東国940平将門の乱直前の事件だな。
おもしろいなそれ。
http://ameblo.jp/tokunagi-reiki/entry-11253159716.html
殺害に荷担した者の名は上毛野基宗の他に二人残されており、
一人は上毛野貞並、もう一人は藤原連江。ここまでは判明している。

上毛野氏はすでに上野に領地がほとんどなく、やさぐれてたのか
将門の乱も「クソ貴族ざまーみろ」といってむしろ加わってたのか?
将門は群馬国府を襲ったと言ってるし。

573 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 00:16:13.15 ID:MSK17rstT
毛野氏分布図
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou9.html


○『能登国造』
垂仁天皇皇子の大入来命の孫の彦狭島命とあるが、垂仁天皇の皇子に大入来命、
もしくは類似する名の皇子はいない。『古事記』には崇神天皇が尾張の連の祖先、
意富阿麻比売(オホアマヒメ)を娶り、能登臣の祖となる大入杵(オオイリキ)命を生んだとある。
彦狭島命が豊城入彦命の孫なら紀氏、大入杵命の孫なら尾張氏になり、
いずれも安倍氏族ではない。

○『加宜国造』
 能登国造と同祖とあるが、素都乃奈美留命は大彦命の孫であり、
安倍氏に間違いないが、能登国造と同祖だとする意味がわからない。
高志深江国造も素都乃奈美留命となっているが、こちらは道臣と同祖とあり、安部氏族である。

彦狭島命が能登国造で、
彦狭島命がどの氏族かは諸説あるが、上毛野氏の祖と関連する毛野氏族の可能性がある

彦狭嶋王は豊城の兄弟の垂仁天皇の子と書いてあるが
彦狭嶋王の子は3世孫の御諸別王は上毛野氏祖とある。<垂仁の子では?

これはどうしたことか? 孝霊皇子の彦狭嶋命というのもあり、混乱する。

574 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 00:33:13.28 ID:MSK17rstT
荒田別と一緒に朝鮮征伐した鹿我別ってのが上毛野氏らしい。

鹿我別
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E6%88%91%E5%88%A5

↑足利の祖の説があり


美作国を作ったのは上毛野氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E5%9B%BD
和銅6年(713年)4月3日、備前守 百済王南典と備前介
上毛野堅身の提案により[4]、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の
六郡を分けて設けられ、
初代美作守には分立提案者である上毛野堅身が就任した。

美作はこのまえ建国1300年だった。
http://www.mimasaka1300.org/hb/mimasakakokutoha.html
美作国の祖は上毛野氏でほぼ異論はない。

群馬・足利・能登・美作が上毛野氏(毛野氏)の確認できる領地


浮田国造 成務朝 賀我別王 崇神天皇の五世孫 福島県相馬市・相馬郡新地町(陸奥国宇多郡)
武門で名高い相馬市?も 賀我別王=鹿我別の領地

崇神の家臣の崇神朝の四道将軍の一人 建沼河命タケミナカタも毛野氏の隣の国とかにいるな。

参考
http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/kokuzou/tousen.html#ukita

崇神期の東山道遠征軍の実体が見えてくるな。

575 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 00:52:51.62 ID:MSK17rstT
上毛野氏の鉄剣でないかなー
大彦は実在確定したわけで
大彦と同時代の東山道を侵攻した毛野氏の業績を記した鉄剣がでるとおもしろいんだが。

最古代の軍事氏族は大彦系統か毛野氏系統と、その他諸氏族といったところか
古墳時代の古代の源氏と平氏みたいなものか。

576 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 19:11:31.23 .net
>>570
つい最近まで、朝、BSでやっていた韓国の歴史ドラマ「幻の女王チャミョンゴ」では、高句麗兵は、牛のような角の生えた兜をかぶっていた。
高句麗の王は、大武人王といって、楽浪国を滅ぼし南に勢力を広げる。日本名、神武天皇。
高句麗はさらに南に兵を送り日本にも上陸を果たす。それがアマノヒボコ集団だ。
騎馬民族は日本へ来ていたのだ。

577 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 19:51:21.34 .net
頭に鹿の角を飾るのはハブロタイプD2の文化。
支那朝鮮では虐殺されて絶滅させられてしまったけど。
現在の朝鮮人には関係ない話

578 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 20:51:41.00 .net
殺牛祭祀とかも関係ありそう。
あれは新羅のルーツ。

579 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 21:57:13.85 .net
小学校の帰り道、馬は何かを運んでいた。今は聞くことのない馬蹄音。
耕運機が普及するまでは、その役割は牛が担っていた。現在でも南の方では水牛が---。
牛と馬は違うぞ。勘違いするな。
相馬 野馬追
日本列島に野生の馬はいたのであろうか。今はいないけれど。

580 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 21:59:41.04 .net
相変わらず暴れてるな乞食

もうチョンと呼ぶのもやめるわ

581 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:00:46.36 .net
今は野生の馬はいるはずだが

582 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:04:30.96 .net
乞食だよな〜どうみても
輸入馬以外でいた痕跡があるんだっけ?

583 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:05:46.76 .net
九州にいる馬は、野生50パーセント。50パーセントは人間の保護による。

584 :日本@名無史さん:2014/08/12(火) 22:16:20.93 .net
都井岬の野生馬

585 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 01:43:59.81 .net
必死に書き込んでたとこがひろゆき.scだった。
氏ねといいたい。

586 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 01:44:50.80 .net
>>568
そんなの知らんかった。

東国940平将門の乱直前の事件だな。
おもしろいなそれ。
http://ameblo.jp/tokunagi-reiki/entry-11253159716.html
殺害に荷担した者の名は上毛野基宗の他に二人残されており、
一人は上毛野貞並、もう一人は藤原連江。ここまでは判明している。

上毛野氏はすでに900〜以降では上野に領地がほとんどなく、やさぐれてたのか
将門の乱も「クソ貴族ざまーみろ」といってむしろ加わってたのか?
将門は群馬国府を襲ったと言ってるし。

587 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 01:47:44.47 .net
毛野氏分布図
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou9.html


○『能登国造』
垂仁天皇皇子の大入来命の孫の彦狭島命とあるが、垂仁天皇の皇子に大入来命、
もしくは類似する名の皇子はいない。『古事記』には崇神天皇が尾張の連の祖先、
意富阿麻比売(オホアマヒメ)を娶り、能登臣の祖となる大入杵(オオイリキ)命を生んだとある。
彦狭島命が豊城入彦命の孫なら紀氏、大入杵命の孫なら尾張氏になり、
いずれも安倍氏族ではない。

○『加宜国造』
 能登国造と同祖とあるが、素都乃奈美留命は大彦命の孫であり、
安倍氏に間違いないが、能登国造と同祖だとする意味がわからない。
高志深江国造も素都乃奈美留命となっているが、こちらは道臣と同祖とあり、安部氏族である。

彦狭島命が能登国造で、
彦狭島命がどの氏族かは諸説あるが、上毛野氏の祖と関連する毛野氏族の可能性がある

彦狭嶋王は豊城の兄弟の垂仁天皇の子と書いてあるが
彦狭嶋王の子は3世孫の御諸別王は上毛野氏祖とある。<垂仁の子では?

これはどうしたことか? 孝霊皇子の彦狭嶋命というのもあり、混乱する。

588 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 01:51:53.79 .net
荒田別と一緒に朝鮮征伐した鹿我別ってのが上毛野氏らしい。

鹿我別
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E6%88%91%E5%88%A5

↑足利の祖の説があり

美作国を作ったのは上毛野氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E5%9B%BD
和銅6年(713年)4月3日、備前守 百済王南典と備前介
上毛野堅身の提案により[4]、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の
六郡を分けて設けられ、
初代美作守には分立提案者である上毛野堅身が就任した。

美作はこのまえ建国1300年だった。
http://www.mimasaka1300.org/hb/mimasakakokutoha.html
美作国の祖は上毛野氏でほぼ異論はない。

群馬・足利・能登・美作が上毛野氏(毛野氏)の確認できる領地


浮田国造 成務朝 賀我別王 崇神天皇の五世孫 福島県相馬市・相馬郡新地町(陸奥国宇多郡)
武門で名高い相馬市?も 賀我別王=鹿我別の領地

崇神の家臣の崇神朝の四道将軍の一人 建沼河命タケミナカタも毛野氏の隣の国とかにいるな。

参考
http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/kokuzou/tousen.html#ukita

589 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 02:06:39.28 .net
×建沼河命は例の出雲〜諏訪のタケミナカタじゃなくてタケヌナカワ
建沼河命は大彦の血族 が毛野氏の領土の隣=親戚かご近所さん。同じ軍事行動を取ったのかなとおもわれ。

上代の軍事氏族は大彦系統か毛野氏系統と、その他諸氏族といったところか
古墳時代の古代の源氏と平氏みたいなものか。

大彦も毛野氏も北陸がなんどか出てくるのがおもしろい。
関東で合流じゃなくて、すでにスタート地の北陸で血族として一体化してるような気もする。
四道将軍の大彦の業績なら北陸は大彦の直轄地になるはず→でも能登国の支配者がが毛野氏?になっている。
大彦と毛野氏(豊城入彦命)は「叔父さん」の関係 つまり最初から濃い血族集団か。

対立してる形跡もまったくなく、(諏訪神のタケミナカタは皇族と喧嘩してる)
血縁も近く、統一した軍事行動を取っているようにみえるので、
大彦=毛野は同一と言ってもいいくらいの関係。

埼玉鉄剣から大彦が出てきたのは納得できる。 北陸かららせんみたいに一緒に関東まで来たのかなと。
それからさらに北は大彦関連の氏族が突っ込んでる模様。
毛野氏は関東に降りてきてそこで勢力圏を広げると。〜南部方面軍担当。

天湯津彦
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou3.html
ってのもいる。13代関連で佐渡から渡ってきてる。

こいつも毛野氏と同じ戦友かなと。
現在の厳島神主の家系の祖先らしい。

590 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 06:39:16.09 .net
>>576
>韓国の歴史ドラマ「幻の女王チャミョンゴ」では、

捏造ファンタジーを盲信する在日は消えなさい

591 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 11:39:54.53 .net
同じ軍事行動をとったいう見解があるようですが、上毛野氏は、陸奥国の三分割前夜に那須氏や岩城氏等に対して、
「これからは助太刀無用である」
と大見得を切ったような気がする。
あれは短絡的であったという反省の上に立ち陸奥国士を引き継いだ大野東人は、慎重に着実に事を進めたのではないだろうか。

592 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 14:41:49.90 .net
>諏訪神のタケミナカタ

諏訪地方の民衆にとっては実際にはタケミナカタはよそ者であるとの見方も昔からかなり言われているんだよな。
タケミナカタ祭祀よりもより基層の祭祀になっているモレヤ神や、ミシャクチ神(両神は異名同神とも)を奉じる氏族こそが諏訪の元々の民であり、
タケミナカタはそれらモレヤ・ミシャクチ祭祀を行う氏族を上から抑えにきた存在であるという感じ方が諏訪の古くからの住民たちにとってはあるらしい。
同様のことは、出雲における古くからの住人たちにとっての素戔嗚尊への感じ方についても同じことがよく聞かれる。
毛野はどうなんだろうね。

593 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 16:34:50.59 .net
両毛地区についての回答は、地元に限る。
隣の那須の方では、祭祀と言えば少なくとも三つある。
1、自宅の裏にある、その家独自の氏神様。
2、明治の大合併以前の村々の一番高い山等にあるお宮。
3、村の神社。
以上に基づいて祭祀を執り行う。1と2は国家神道のようである。
3は、私の地元では温泉(ゆぜん)神社が鎮座する。
那須地方というか古代那須国には、多くの温泉神社が鎮座しています。

594 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 17:20:13.21 .net
那須氏は、最初から古代白河国の国造ではない。
だから、お隣の茨城県大子町ではよそ者扱い。
嫌われているようだ。あるいは関心が全くないのか。
試しに大子町のホームページ等を見れば分かります。

捕虜になった俘囚も大子町から出たのかも知れません。
但しこれは、上毛野形名に対する印象と同類と思われます。

595 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 17:34:48.06 .net
温泉神社ってその名の通り、温泉に関係した神社なのかな?
だとしたら思い当たる節がある。
隣国の南陸奥・信夫の豪族佐藤氏は代々那須氏や両毛の豪族と姻戚関係を重ねてきたと言われる。
この信夫佐藤氏が別名、「湯の荘司」とも呼ばれていた。
義経の与党になった継信、忠信の佐藤兄弟が治承寿永の乱で2人とも戦死してしまい、大きな穴が空いてしまった佐藤家のことを後見しに来たのも那須氏(与一の父?)だったと言われる。確か佐藤兄弟の母の実家か、岳父が那須氏だったと思う。

596 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 20:02:48.39 .net
山形県には遊佐(ゆざ)鳥海温泉というのがあり、
そこから、内陸に入った山形県肘折温泉、宮城県鳴子温泉にも遊佐氏がいる。
遊佐は湯沢、宇佐とも関係があり、日本海経由で進出したとみられる。

仙台の奥座敷秋保温温泉は、佐藤氏が泉源の利権を持っていたはずだ。

597 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 20:10:45.79 .net
遊佐氏って能登のイメージ

598 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 20:26:21.08 .net
栃木の秘境は三斗小屋温泉か。対照的なのは鬼怒川温泉。

599 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 22:13:25.75 .net
>>592
ミシャグジは御石神だから、意外に新しい神だろうな

600 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 22:38:39.31 .net
巨石は縄文文化じゃないの?

601 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 22:43:50.83 .net
冬には水を撒けば凍った時代だったからその上を滑らせて巨石を動かすことが出来た
エジプトのピラミッドもそう

602 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:17:26.48 .net
>>596
なるほど「遊佐は宇佐由来」というのは刮目した。
面白い視点を教えてくれてありがとう。
那須国造でいえば、その同族に美濃国席田郡司になった守部氏がいる。
同郡は、8世紀当時畿内に溢れ返っていた新羅系渡来人の東国への移民政策の一環として、美濃国本巣郡の一部を割いて建郡された。
守部氏は後に軍事貴族・佐藤公清の庶子資清を婿に入れ、それが山内首藤氏となって行く(山内首藤氏と那須氏の系図が殆ど重複しているのはそのため)。
那須氏も、その軍事貴族佐藤氏の一族である陸奥信夫郡司佐藤氏(信夫佐藤氏は佐藤公清の兄・公脩の系譜)と姻戚を結んでいるのと鑑みるに、秀郷流藤原氏との深い繋がりを感じて興味深い。

603 :日本@名無史さん:2014/08/13(水) 23:28:00.27 .net
ヤマタノオロチと呼ばれた八つの頭を持つ国があった。
その国は両面宿禰という、頭が二つだけの国になった。
そして歴史から消えた。
その後どうなったんだろ?

604 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 03:30:33.30 .net
関東武士団の変遷
板東毛野氏→板東平氏→板東源氏→出自がなんだか分からない氏族(家康その他)

このうち海外征伐までしてるのは毛野氏くらいだな。
天皇を助けてるのも毛野氏くらい
平氏や源氏は天皇を殺しすぎだろ。

毛野氏は平壌くらいまで攻めてるのでは? 公開土王の碑は北朝鮮より遙かに北にあるが
その近くまで攻めたのではないかと。

家康は金持ちのくせに毛野氏の神社の1つも建てなかったな。
ケチな野郎だ

605 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 04:31:20.60 .net
出自がなんだか分からない氏族(家康その他)
は伊勢神宮東国伊勢湾東海道関東荘園圏の地頭集団に比定できるんじゃないかと。
伊勢乞食伊勢商人の武士版。

606 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 08:45:01.30 .net
坂東武者の誕生
毛野氏の時代 | 藤原氏の時代 | 平氏・源氏の時代 | 源氏の時代=坂東武者の時代

坂東武者必須の武芸 弓・刀・馬 人馬一体が重要である。いざ鎌倉では利根越えもある。
従って後年の西郷隆盛などは、体重がありすぎて坂東武者にはなれない。

607 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 09:01:55.66 .net
毛野氏は負けすぎ  通算で負け越しか  他にもあるのか
神戦
武蔵国造の乱
磐井の反乱
上毛野広人

608 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 13:51:42.88 .net
実際に朝鮮半島を長期間支配した主力軍は毛野氏であって
朝鮮半島をほとんど支配できなかった秀吉=豊臣家と比べものにならんぞ。
家康もザコ

中国=高句麗とも戦って、互角で朝鮮半島をかなり支配したまま保持
はっきり中国に負けたのは白村江だけ。

日本史史上最強と言っていいのでは?
武蔵国造りの乱は、「官軍」と戦ったわけで、勝っちゃいけなかっただけ。
支配権の東北まで撤退して徹底的にやるものありだったが、引いただけです。

毛野氏=朝鮮半島を300年間支配(360〜660)
関東平野を500年間支配(340〜800)

250年程度の家康なんてこれに比べればザコだな。
家康は直轄地で言えばたいしたことないし。

旗本8万旗=関ヶ原では無能を露呈(活躍したのは実質豊臣方の離反者)
大阪の陣はただいただけ。

家康は伊達政宗を倒してないし、東北を攻めてもない。
毛野氏は名実共に関東最強武士団だな。

>毛野氏は負けすぎ  通算で負け越しか
「衰退した・最後は負けた」 に該当しない氏族はあるのか?

どうせどんな武士団も露と消えたわけで
なら勢力範囲の維持と規模を合計したら最強だろ。

609 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 14:03:42.32 .net
奥羽に扶植していた毛野氏を、安倍氏や清原氏が郎党化させていったのかな?
吉彦(吉弥侯)氏の「きみこ」は、「君子」だという。
「毛野君の子(部民、はらから)」という意味。

610 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 14:51:11.93 .net
900-940 ■平■将門の乱 板東八平氏最強
940〜1000 ■秀■秀郷系統が支配 藤姓足利氏〜関東平氏もまだ温存
1000〜1030 ■平■平氏がまた暴れて制御不能(平忠常の乱)
1030〜1200 ■源■平忠常が源頼信に降伏 関東で源氏>平氏の序列
<関東源氏台頭 源氏全盛期〜頼信〜義国〜義重〜頼朝へ> 中央は平氏台頭
1200〜1330 ■平■北条政子(平氏)が鎌倉幕府乗っ取り=源氏衰退期 三浦氏(平氏)も強い
1330〜1400 ■源■ぶち切れた源氏がまた反乱
南北朝時代 上杉氏(出自不明 公家?)・足利氏・宇都宮氏<どいつが強かったのか?
1500〜1590 ■平■平氏=伊勢氏の北条早雲+佐竹氏+江戸氏〜小田原征伐で終了
1590〜1868 ■家■あるときは藤原家康で、あるときは源家康だった方

<関東でトップだった期間>
毛野氏 350〜荒田別(太田天神古墳?)から上野守の上毛野馬長764まで 合計414年間
平氏 40+30+130+90 合計290年間
家康 合計287年間
源氏 170+60 合計230年間
秀郷 60 合計60年間

総合的にやはり毛野氏の関東占領期間が最長最強

毛野氏414>>>>平氏290=松平287>源氏230>秀郷60

611 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 14:53:54.70 .net
毛野氏の勢力終末期は難しいが、長くて坂上田村麻呂800までかなと=勢力交代
ある程度支配期間の誤差があるにしても、序列はほぼこの通りになるはず。
800〜900は不明だが、板東平氏の台頭は結局900くらいのはず。

↑坂東平氏
平高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、
子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。
国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、
上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。

800〜900は関東は災害だらけで、戦争どころじゃなかったか?
800 富士山が延暦大噴火
818 東国で大規模な地震が発生した.
869 M9貞観地震
878 関東南部でM7以上の直下型地震が発生
864 富士山噴火 貞観大噴火

こうやってみると平氏がかなり強かったな。
源氏はボコボコやられて分断しすぎかと。

源平は相互に戦争し続けたせいで統治期間が食われてしまい、
毛野氏の支配期間(400年間)には結局及ばなかった。

612 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 15:17:56.21 .net
新田氏は荒田別(新田の読みは、本来は「あらた」だったものがのちに「にった」に転じたもの)、足利氏は鹿我別氏から来ていると思うんだな。
源氏だ藤原氏だと言っても、それらは外から来て地元の有力豪族に婿入りしただけで、実体は名前が変わった在地豪族の継続。
これは平氏も変わらない(というか全国どこでも変わらない)。
国香や良将も、常陸の源氏(嵯峨・仁明系源氏でこれとて、ちょっと以前に常陸の在地豪族に婿入りして源氏姓になったもの)、や下総の犬養氏に婿入りしたもので、のちの平氏一族間の争いは実は、兄弟争いではなくて、それぞれの母系氏族の間での権益争い。
同じ姓を持つ兄弟とはいっても、生まれ育ったのはそれぞれの生母の家で、他人みたいなもんだから。

613 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 16:22:25.32 .net
足利地名七説

@アシキキ説 足利の地は、昔から東山道の重要な駅家であったため、足が丈夫でよく走れる使者や、駅夫などが置かれた。このように足のよく利く者が多くいたため、それが地名となったという説

Aアシカガミワケ(足鏡別)説 ヤマトタケルノミコトの御子、足鏡別王(アシカガミワケノキミ)がこの地方を治めた(『古事記』より)ことから、アシカガミのミをとって足利になったという説

Bカガワケ(鹿我別)説 豊城入彦命の五代目の孫である鹿我別命が治めたので、その名前から出たという説

Cアソカガ(麻利)説 昔は足利と安蘇(足利の東隣)を一つにまとめて麻利(アソカガ)といい、「ソ」が「シ」に訛り、なお、足利の漢字をあてはめたという説

Dカガ(芝草)説 足利の地方が山地で、ここから南方に向かって幾多の河川が流れ、その氾濫によって積もった土砂のために自然の平原を作り、
そこに芝草(昔カガといった)が一面に生えていた。さらに、現在の柳原あたり一帯は沼地で、そこに葦なども多く茂っていたためアシカガと呼ぶようになった。 
奈良時代はじめ、「諸国の地名には、よい字をつけるがよい」という命令が出たため、
アシには足、カガには利の字を入れたという説。

Eアナカガ説 はじめはカガ説と同じ理由でカガと呼ばれていたが、のちに日本が朝鮮半島へ出るための重要な地域であった阿那伽羅(アナカラ)というところがあり、
この地方から大勢進出し、鉄の確保と生産技術獲得のため多くの渡来人や奴婢を伴ってカガに帰ってきた。
そんなことから、以前のカガに阿那伽羅のアナをつけアナカガと呼ぶようになった。
それがさらに変わって、阿志鹿我(アシカガ)→阿志利→足利となったという説。

F金属説 「アシ」は中国東北部(旧満州)方面の言葉で、金属のこと。「カガ」は利息の利のこと。


とにかく凄い古からある地名であることは確か

614 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 17:23:17.89 .net
関東は結局平氏が強い。
有力氏族を辿るとだいたい桓武平氏になる。

もしくは源氏系統だが、やはり900くらいから平氏がいることもあって
家康以前までは平氏は常に勢力的に互角以上を保ってる。
で、その桓武平氏を辿ると在地豪族の毛野氏がでてくるわけだな。

615 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 17:30:11.80 .net
鹿我別でしょう。
鹿我別とすると荒田別もでてくるし、隣の新田の地名由来も成立して
太田天神古墳のでかさも説明がつく

武士団はいくら後で規模と権力が大きくなっても、
地名はなかなか乗り越えられないんだよな。
「江戸城」にしても江戸氏だし。最初が強いのが地名ーだから古代氏族が地名で残りやすい。

616 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 17:37:34.97 .net
いわき市にほど近い平潟漁港の風景が時空を越えて映し出される。それは主が漁に出ている最中の、或る一軒の漁師の家の、
食事の後に団欒する束の間の様子であった。
「最近、うちの親父どうしてハタハタ捕ってこないのかなあ」
と漁太が母親に訊ねると、
「みんな大勢して、秋田に行ってしまったからハタハタもみんなの後を追うように津軽海峡を渡って日本海の秋田沖という所に行ってしまったんだよ」
と一度告げたことがあるかのように母は告げた。すると漁太は力強く言った。
「秋田って遠いのかなあ。おいら明日は、うんと早起きして秋田に行ってハタハタ腹一杯食べるんだ」
そんな純真な漁太の決意が聞こえるようだ。

東北に佐竹氏は健在なり。少し前には、岩城氏もいわき市長になっている。
毛野氏と岩城氏の登場って、あまり変わらないのではないか。 ?    毛野氏と足利氏は無関係。これは美空ひばりは中国人であるという願望と同じか。?

617 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 17:48:16.17 .net
板東平氏が900以降に急速に支配権を拡大したのも
毛野氏と血族集団として一体化したせいかなと。=女を上野の毛野氏から取った=兵隊も吸収して乗っ取った。

毛野氏は800以降に急激に衰退したかに見えたが、「住んでた」ので消え去ったわけもないはずで
武家系統として残ったのなら、筆頭候補は平氏だな

まあ関東の平氏も源氏も、母方を辿るとどのみち毛野氏になるが。

618 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 18:02:24.39 .net
毛野氏は、飛鳥時代の越国の阿部比羅夫のお手柄を横取りすんなよな。
655年、蝦夷を朝廷に連れて行ったのは、阿部比羅夫では。  ?

619 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 18:03:25.12 .net
江戸時代にゴミみたいな連中が上野・足利をばらばらに分断統治したために
最強の人殺し集団だったのに、いまいちな地域になってしまった。
(江戸時代は大嫌いだ)

毛野氏は人殺し技術をソラマメの改良みたく
長期間かけて純粋培養したことに功績がある。

東北地方からも強いやつを部下にしたり、功績があるやつを血族に組み入れたり
コシヒカリの改良みたいなことを400年かけてチマチマしてたんだろうな。
そのせいで軍隊を排出する地域としてのブランドになったと。

関東の源平の強さはその流れにすぎない。
(ちなみにコシヒカリのコシは毛野氏と同時代の越国のこと)

まともにやってりゃ、幕末では関東一円は何かしてたはず。
何かしたのは百姓階級=つまり在地の人間で毛野氏ー平氏ー源氏につらなるが無名の連中。
でもDNA的には戦闘民族なんだな。

品種改良というのは絶大なんだよ。ウニとサルが分かれるくらいだしな。
江戸時代にやってきた連中がゴミなのはどうみても戦闘に向いてない遺伝子だったから。

620 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 18:04:55.10 .net
>>617
そういや平良文のカミさん方ってどこらが多いんだ?

621 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 18:05:00.69 .net
日本が半島を蹂躙してた頃を古代と定義すれば牛も成仏するんじゃない?

622 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 18:09:31.89 .net
なんか虚しいことやってるな

623 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 18:45:06.83 .net
やっぱ関東から兵員輸送するの陸路じゃなくてスカンジナビア半島一帯のバイキングが船で集結して略奪に出掛ける様にして
霞ヶ浦東京湾の船に乗り込んで東海道瀬戸内海延々曳航してその船と人員で倭寇のバハン行為さながらに朝鮮半島襲撃ツアーに出掛けたのかな?

624 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 18:47:18.92 .net
AアシカガミワケかDカガ(芝草)説 が有力だろ

625 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 19:38:48.19 .net
>>620
両総とか秩父とか鎌倉郡周域とか三浦半島とか余綾郡周域とかの在地豪族の家を行ったり来たり…
要するに良文ちゃんは種馬。

626 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 20:00:11.19 .net
普通に考えれば、筑紫あたりに徐々に集合した兵士を一挙に運んだと考える。
どのような船なのか、潮の流れと風向きから時期は限られていたのではないだろうか。

ちなみに近藤勇の首級の場合は、今の東京は浜松町から定期便で大阪港に行き、
淀川を帆立船で遡上、終点で陸に上がったと思われる。

627 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 20:15:39.99 .net
足利は、足柄と同じ。つまり、下毛野氏に属する下毛野公時という近衛兵(随身)が道長に仕えていた。この公時が脚色されていったものらしい。
要するに、足利は、源氏ではなく毛野氏だ。

毛野氏は、中央での基盤を失った後、随身として生き残った者が多いらしい。

628 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 20:21:50.85 .net
>>627
基礎から勉強しなさいネw

629 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 20:48:38.34 .net
>>628
藤姓足利氏は女系(土地、財産等基盤)においては毛野氏の血が入っている
蓋然性は高いよね。っても氏姓は藤姓(仮冒をも含め飽くまで)だけどw
源姓足利氏と毛野氏はほぼ無関係じゃないかなぁと。

630 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 20:57:56.06 .net
>>626
関東で伊豆大島に黒潮突っ切って渡るのと対馬海峡を対馬海流突っ切って渡るのとでは前者の方が実は大変なのでは?

631 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 21:02:40.74 .net
>>626
関東地方で南関東から伊豆大島へ黒潮突っ切って渡るのと
対馬海峡を九州から朝鮮半島へ対馬海流突っ切って渡るのとでは
前者の方が危険で困難なのでは?

632 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 21:26:48.61 .net
>>629
今日、学界で秀郷のことを仮冒で非藤原氏とみなす学者はもう殆ど見ないよ(というか全然見ない)。
現在、学界で秀郷研究の第一人者といえば野口実・京都女子大学教授だけど、野口氏は様々な傍証から秀郷は魚名流、藤成流で間違いないとし、学界でそれを否定している研究者がいるという話も聞かない。
それどころか野口氏の研究成果は、元木泰雄氏や高橋昌明氏など現在の武士発生論の主流学説である他の第一線級の学者たちからよく援用されるほどになっている。
一例を挙げると、秀郷の曾祖父・藤成は播磨介時代、奥羽から移封されてきた投降蝦夷(=俘囚)の「教化」を行う任務に就いている。
下向井龍彦氏も述べているが、これは典型的な軍事官僚の行う職掌で、9世紀において押領使などと並んでこのような職務に就いてきたものの子孫が後に「兵の家」となるための「準備段階」であると野口氏は述べている。
対蝦夷対策というのは武士階級の発生にとってはなくてはならない要素の一つだからね。
そしてこのような職掌を経た家の中から寛平・延喜東国の乱鎮圧勲功者や、承平・天慶の乱鎮圧勲功者、つまりは軍事貴族の職掌を負うことになる氏族が誕生してくることになる。

633 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 21:35:25.93 .net
>>632
自己レス

現在の武士発生論の主流学説である他の第一線級の学者たち

現在の武士発生論の主流学説である職能的武士論の他の第一線級の学者たち

634 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 21:35:26.29 .net
船乗りや商船大の学生は、このようなスレは見ていない。
あるいはさかなクンでも即答か。

635 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 21:46:52.07 .net
毛野氏が朝鮮攻めるのに古代当時の陸路でとぼとぼ関東大軍団を東海道山陽道連れてってたらシュールだと思いません?
船なら一緒に食料積んで大人員動員できるし。

636 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 22:05:47.32 .net
>>632
その辺りは一応押さえているんだ>秀郷流=藤姓でほぼ確定。
しかし敢えてカッコ書きで入れたんだ、仮冒の可能性云々。
偶に面白いのが釣れるしねw

637 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 22:08:25.93 .net
兵士は、九州の民を動員したような気がする。

638 :日本@名無史さん:2014/08/14(木) 22:22:30.18 .net
毛野氏の関東でトップだった期間に擬装あり
馬長が上野守として赴任したのは、なり手がいなかったのか線香花火のように、その時だけである。
それ以前には、長いこと下野守も毛野氏からは出ていない。
従って空白期間の算入は、少し前に流行った食品偽装もどきである。

639 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 03:51:05.05 .net
>>638
660の白村江までは上毛野は倭国軍主力なので700くらいまで余裕で東国トップだろ。
750までは延長できる= 750時点で東国で上毛野を上回った有力な軍事氏族があるというなら上げてください。
800は田村麻呂になるので、一応首位は譲るが田村麻呂が東国で1番かというと疑問。

で、まけて750までにしているんだが=410年間支配

340〜663で323年間 この時点のみ抽出でも関東の支配期間トップ氏族
+50〜100年間で完全独走態勢
750〜800までは上毛野が暫定1位体制

平氏は900からしか来てないので
桓武平氏の祖の平高望にしても889年
その子の平良文の東国下向は923年

甘めの観測でも毛野氏の支配期間が350年超えるのは揺るがない。
支配期間2位の平氏は850年には東国地域には陰も形もなかったので
やはり毛野氏独走は変わらない。

640 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 04:09:13.71 .net
上野守は名誉職で任官を受けたやつらではっきり東国軍事氏族はほとんどいない。
関東源氏の有名な源頼信にしてもそれより低い上野介になった程度

官位についていうなら、700〜1000まで源氏も平氏もろくにもらってない。
しかし源平は関東に勢力圏を持っていたわけで

そういった意味で ○○氏族に負けた とか○○氏族に勝った
とかがない限り 毛野氏暫定1位は揺るがない。

問題は毛野氏と平氏・源氏との接続だが、通常考えてなんらかの血縁関係や
毛野氏は源平武士団の形成に関与しているはず。

というか基本的な話として、将だけで戦える軍隊などいないし
兵隊がどれだけ練度が高くて好戦的かが重要。

平氏や源氏が強いというなら、その母体となった毛野氏が400年かけて形成した
武士団=群馬・栃木のならず者は外せないでしょ。

家康にとっての三河武士と同じ。

>家康が人質となっている間、徳川家(当時は松平家)の領地三河は、
>今川家に管理、運営されていた。その為、三河の武士達は、
>さんざんにこき使われ、戦があると最初に駆り出されたのだ。

さんざんこき使われ、東国戦争の度に狩り出されたのは毛野氏の武士団
強さの母体はそこにある。「戦争で強い武士団は戦争で培われた」はずで
源平の血縁関係だけで軍隊が強くなるわけじゃない。

641 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 05:22:52.06 .net
「一所懸命」の細分化された武士団と比べても条件が違うんで意味がないと思うんだ。
あと源姓足利氏は、藤姓足利氏の内の庶流にさらに源氏が入ったものだよ。

642 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 05:37:05.06 .net
>>640
群馬・栃木は火山で何度も壊滅してそうだな。
むしろ火山で壊滅直後のすさんだ関東だからならず者がいるぐらいに近い予感・・・

643 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 05:40:00.09 .net
関東って扇状地以外は広大な湿地だよ。内陸まで霞ヶ浦と利根川東京湾がみんなごっちゃで汽水域形成してたんだから江戸時代まで。

644 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 07:46:06.34 .net
毛野氏最強説に文句がある場合は
埼玉・神奈川あたりの連中だな。
ここら辺の連中は古代何をしてたのかなと。
源氏は南関東と北関東が壮絶な争いをしてたと分かるが、
両地域がガチで戦争したのは南北朝の南下時くらいだし、どっちが強かったのかと。

頼朝は南関東が基盤だが、北関東はスルーしてそれほど争ってない。
潜在兵力数で言えば北関東が勝ってるよな。
人口比が逆転するのは南部の開発が進んだ江戸時代くらいだが、
幕末も別に南北関東同士で戦争してないし分からない。

なんにしろ南関東は微妙だよな。あんまり強そうに見えない。
小田原北条氏のほとんど戦わず無条件降伏とか→江戸無血開城とかヘタレすぎ。

頼朝がガチで北関東と戦争したら敗北して鎌倉幕府なんてなかったのでは?

645 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 07:50:30.86 .net
なんで急にこんな流れになったの?

646 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 08:31:28.29 .net
多治比縣守
養老二年(718)に武蔵国守に就任。按察使の一人として相模国・上野国・下野国を管轄していた。
上野国は、再び武蔵国を仰ぐことになった。
縣守は、養老四年(720)九月二十九日に征夷将軍として広人の後始末をした。
翌年四月五日、乱を鎮圧して帰還する。

647 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 09:07:26.30 .net
貝塚あったところまで全部汽水域の海岸線で要するに縄文時代から変わらず漁労民漁師さんたちの集落があったってことだから農業以前から人口がさほど変わっていない。

648 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 09:40:03.78 .net
武蔵国府は、今の府中市付近。
かつて武蔵国一宮と呼ばれた小野神社もある。  甲斐・上野国の境までは武蔵国。意外と標高はあるなあ。

649 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 09:49:10.09 .net
頼朝「熊谷直実、熊谷直家は本朝無双の勇者だぎゃ」
小山「ハアふざけんな!俺の方がつええし」

650 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 09:56:41.52 .net
小山氏が言いたかったことは、自分自身が強いか弱いかではなく、
「私には忠実な猛者が大勢従えていますから、彼らは必ずや功をあげましょうぞ」
ということでは。

651 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 10:12:27.35 .net
頼朝は名古屋育ちなんて嘘っぱちだろう。
藤原南家の何たらが尾張家に婿入りしたとかいってもずっと京住まいだし。

652 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 10:24:07.40 .net
頼朝は、まもなく奥州征伐の白河関越えに備えて、喝を入れたもの。嘘八百でも何でもよいこと。
奥州の佐藤一族も最後の花を咲かせる時が来た。

653 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 11:16:32.64 .net
1
道路のないとこ移動すれば分かるが山に迷って死ぬぞ

654 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 11:43:33.21 .net
昼は太陽、夜は星で位置を自覚する。山林所有者は得意であろう。
曇りの日は困る。木でも切るか。
年輪の広い方が南である。 奥州征伐で道に迷った部隊ってあったかなあ。?

655 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 11:55:53.24 .net
船で航海でもしてるのか( ^ω^ )

656 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 12:03:18.30 .net
奥州征伐ではっきりとした坂東武者の忠義とは
主君と配下の関係である。配下の者が主君の首を差し出しても褒章にはありつけない。
差し出したものは、斬首となった。  かなり以前は違ったのかもしれない。

657 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 12:10:50.35 .net
栃木県と茨城県の県境付近は空気が綺麗なので、晴れていれば直ぐに北斗七星は見つけられる。
あるいはカシオペア座。

658 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 13:30:29.25 .net
奥州征伐は北関東に対する示威行動だったんだよ。
源義重は頼朝無視したし。
>北関東での主導的地位にあり頼朝を格下に見ていた

政子も義重と仲が悪かった。

>平氏討滅後の源頼朝にとって、鎌倉政権を安定させるためには、潜在的脅威である奥州藤原氏を打倒する必要があった

潜在的脅威はどうみても鎌倉から遙か彼方の奥州じゃなくて
目と鼻の先の北関東の反頼朝の源氏・平氏の軍勢。
どうみても伊豆・神奈川近辺で活動してた義朝・頼朝は北関東に基盤がない。

義経追討なんてただのハッタリ。奥州征伐の主な目的は鎌倉幕府にとっての潜在的脅威の北関東に対する示威行動。
まあその懸念が的中して、鎌倉幕府は北関東の毛野氏の末裔の軍勢にやられるわけだな。

659 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 13:57:47.18 .net
常陸国で佐竹冠者と呼ばれた昌義の正室は、藤原清衡女。
富士川の戦いなどに不出馬だったので頼朝から攻められていた佐竹氏は、渋々奥州征伐に参戦した。
アレ、那須氏が見当たらない。
しばらくすると、梶原景時の率いる軍勢が攻めてきたそうな。
どうして那須氏対梶原の記録はないのであろうか。  ?

660 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 14:39:52.37 .net
元弘三年(1333)五月八日に上野新田荘の品名明神で戦勝祈願を済ませて社頭において挙兵し鎌倉に向かった。いざ鎌倉ではない幕府を倒すために向かったのである。新田具は、小手指原、久米川、分倍河原における幕府軍との交戦で連戦連勝を続けた。

661 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 15:10:15.23 .net
いつの間にか動機は何であれ上野・下野・下総・常陸はおろか陸奥の結城宗宏等や出羽の軍勢までもが、
鎌倉攻めに加わっていた。
やがて新田軍は、市街地のところどころに放火して蜷局を巻く黒煙はこの世の終焉を思わせる様相に鎌倉を一気に変えた。
燃え盛る炎を見ながら北条高時ら一族二百八十余名は東勝寺において自刃して果てた。五月八日には足利高氏によって、
六波羅探題が、五月二十二日には、新田義貞によって鎌倉幕府が滅亡した。続いて五月二十五日には、大友・少弐
島津氏らの呼応した攻撃によって鎮西探題も滅び去った。重要拠点三か所が消失したのである。新田義貞一世一代の晴れ舞台であった。

662 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 18:00:20.36 .net
>>655
関東の海洋性強調してる俺は先祖は羊太夫とか多胡碑のあたり富岡製糸場のあたりの出身だわ。上野一の宮とかあそこの鏑川流域。

>>653
森林限界ギリギリの高原は道にも迷わず羊太夫やら役小角やらが近畿まで山岳縦走するのに向いてる。

663 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 21:37:24.65 .net
利根川水系と那珂川水系の観光簗を合わせると全国の半数近くになる。
川の恵みを独り占めするなよな。
 嗚呼、 山女を食い倒れるまで食った日々が懐かしい。

664 :日本@名無史さん:2014/08/15(金) 22:13:13.28 .net
今やってる戦争ドラマにて
米国最強軍(第1何とか)と日本最強軍(宇都宮の水戸連隊)の激突である 語り:黒木瞳

665 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 09:03:48.52 .net
源氏棟梁頼朝が打ち立てた鎌倉政権を倒したのは、源氏である義貞・高氏らである。
毛野氏の末裔らではない。
義貞の義という文字は、八幡太郎義家の義。    

666 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 09:09:47.65 .net
ペリリュー島 オレンジ・ビーチで展開された死闘
米軍最精鋭「第一海兵師団」4万8千人vs日本最精鋭「宇都宮14師団水戸2連隊高崎15連隊」1万5百人
戦後、この浜がオレンジ・ビーチと呼ばれるのは、米兵たちの流血で海がオレンジ色に染まったからだといわれる。
日本の守備隊は塹壕に潜み、耐えに耐え七十一日間戦い抜きました。
天皇陛下は、毎朝「ペリリューは大丈夫か」と御下問され、守備隊に十一回もの御嘉賞を下賜されたといいます。
ペリリューが「天皇の島」と呼ばれる所以です。
太平洋戦争で初めて予め非戦闘員である現地の島民を他の島に避難させて、一般人の死者を一人も出さなかった稀有な戦いでもあります。

667 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 11:21:04.91 .net
>>665
大将だけで勝てるわけないだろ。
弱い兵士だらけだと敵前逃亡とか戦ってるフリ=サボタージュするだけ<合戦で非常によくある例。

将も重要、足軽も重要。両方重要
片方だけで勝てない。

毛野氏の末裔の地域は戦争好きで勝率は高い。
源氏なんかいない第二次大戦でも米兵相手にがんばってる。

668 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 11:39:14.62 .net
そもそも、その源氏来る前の平氏だけの時点で北関東は十分強いだろ。
その平氏来る前もいろんなとこで戦争ばっかやってる。

群馬から水平のベルトの地域=北関東・茨城まで
は十分強い。
そんで茨城方面にまで豊城入彦命の神社がある。

あと源頼信が強かったかというと「こいつは戦ってもない」
東国が戦乱でつかれてたときに血縁で調略成功しただけ。
>それまで四年間、平直方と争っていた忠常が戦わずして降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係があったためと考えられている(元木 2011)。
河内源氏の祖の源頼信は群馬・栃木とろくに戦ってないw
源氏は口先だけでは? ベシャリ話術が源氏の伝統なのかな?

時代は違うが全盛期の平将門・平忠常を源氏が東国以外の軍勢で倒せたかというと非常に疑問。
家柄を誇る源氏の氏祖がそもそも武力がたいしたことがないという・・
源氏は全盛期の唐とガチで戦争してた全盛期の毛野氏と比べるとあまり強そうには思えない。

669 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 11:58:15.52 .net
その後に両毛地区からは、新田義貞と宇都宮(武茂)泰藤および紀勢両党らが南朝方として戦った。
彼らは源氏、藤原氏、紀氏ではないか。
どこに毛野氏の末裔がいる。毛野氏の末裔は全員名無しの権兵衛なのか。

670 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 12:44:31.19 .net
平直方は気の毒だったよな。
それまで忠常と死闘を演じて、忠常を虫の息にまで弱らせたのは直方なわけだし。
それなのに敗軍の将扱いにされてる。

671 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 13:24:04.07 .net
平直方を新田義貞に置き換えると忠常は足利尊氏となる。
ただし、尊氏を虫の息にして九州送りにしたのは楠木正成と結城宗宏では、
敗軍の将は新田義貞で正しい。敗軍の将兵を語らず。

武蔵国の人口について
武蔵国造の乱当時を100とすれば、養老二年(718)頃には武蔵国の人口は、かなり増えていたように思える。
理由として1、田畑の整備 2、高麗人等の帰化人の入植 3、羊太夫による秩父の鉱山等の稼働などが考えられる。
従って、朝廷は上野国を武蔵国よりも劣等な国であると考えたのではないだろうか。実態は別として。

672 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 13:48:51.72 .net
武蔵国造の乱の後、小杵の本拠地だった多摩郡は朝廷の直轄地になって久しかったからね。
律令制が開始されるまでに時間がたっぷりあったのでその間に整備されたんだろう。
面白いのは、武蔵国府のあった府中の大国魂神社から目と鼻の先に、熊野神社古墳というのがあって、ここはまだ全国でも4基しか発見されていないという上円下方墳なんだな。
築造が7世紀末なので律令制開始前夜。
被葬者は残念ながら不詳だが、この時期にかなりの規模の古墳を築くということは、多摩郡が朝廷直轄地となっていることからも、被葬者の一族は中央と厚いパイプで結ばれた豪族であったと推論されれている。
ちなみに、律令制開始により中央より初代武蔵守として派遣されてきたのは阿倍氏。
新制度開始という国家にとっての重大事に国守に任命された人物や一族というのは、派遣された国に深い関係があった人物や一族であると言われる。
よってこの熊野神社古墳の被葬者一族も、阿倍氏との深い繋がりで結ばれた一族なのではないか、と推論する向きが多い。

673 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 15:04:33.25 .net
上円下方墳の白河市のものは、被葬者は那須直氏であると確信する。

674 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 15:05:48.21 .net
お前らはいったい何を追いかけてんだ?www

675 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 15:33:07.98 .net
毛野氏が関東で衰退した時期をはっきりとさせたい。
実質的に国造でなくなった西暦689年から養老四年(720)に多治比縣守が征夷将軍になった間であると考える。
縣守の征夷将軍というものは本邦初であり画期的なものらしい。
従って関東でトップだった期間は大幅に見直す必要がある。

676 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 16:07:09.27 .net
のちの武蔵七党の丹党に繋がるのか?
丹党の内のある一族がのちに水戸藩士となり、その家の娘が水戸藩主の「お手つき」となり、生まれた男子が次代の水戸藩主となったため、この丹党の家は水戸徳川家の一門に列することとなる。
また、この家は丹党であるので本来の惣領家は紀州・伊都郡に鎮座する丹生都比売神社の祝家である。
この丹生都比売神社の祝家が江戸時代に断絶してしまったため、水戸藩一門のこの丹党の家から養子が入り、丹生都比売神社祝家を継ぐこととなり、徳川一門と丹生都比売神社祝家を兼ねることとなる。
ぶっちゃけ友達の家なんだけど、旧男爵家で徳川会の一員でもあり、神社関係でも尾張家や諏訪家など旧社家との付き合いがあってよくその手の話を聞かしてくれる。
もっとも、神社の祝職の方からは明治政府の神職世襲禁止令によって離されてしまったけれども。

677 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 16:21:07.68 .net
>>674
今は武蔵国における和邇氏・小野氏の事績を中心に>>648も述べている小野神社やそれと双子の関係にあたると思われる大國魂神社など色々と(まるで導かれるように)調べている。

678 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 20:15:42.37 .net
>>676
あの山沿いは確実に繋がる
よって秩父事件も毛野氏です。

だいたいさあ 明治政府に関東近辺の連中が鉄砲持って刃向かったのは
「キチ○イ」でしかないだろ。
だから「武装キチ○イ」氏族の毛野氏末裔なんだよ。
「キチ○イ」は「キチ○イ」を生むんだから繋がってます。

つうかDNAレベルだから源氏も平氏もない。
毛野氏がエボラウイルスみたいに400年間そういう「あれな」連中を子供増やして増殖して培養して育てたんだよ。
戦争で人殺しするには刑務所から出たような連中がいいんだよ
アメリカ海兵隊みたいにな。

679 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 20:31:01.60 .net
アメリカ海兵隊と毛野氏(下毛野氏)の仁義なき戦いがペリリューだな。
海兵隊の精鋭第一師団が全滅判定受けた唯一の戦線。

>1944年10月30日には第1海兵師団自体が全滅判定(損失60パーセント超)を受けるという前代未聞の事態となって、

そんで前橋歩兵第15連隊=上毛野氏が宇都宮師団=下毛野氏支援すべくペリリューに逆上陸すると。
ペリリューの山に籠もったのも戦争のセンスがあるなあと思う。

アメリカ兵の全体の死傷率30%は太平洋戦争最高記録で硫黄島よりすごい。
名実共に日本最優秀部隊だな。
さすが1500年前から倭国軍主力を担った毛野氏末裔の地域

680 :日本@名無史さん:2014/08/16(土) 21:40:49.46 .net
暑い夏の日に水鉄砲で遊んでいた。次に紙鉄砲、杉鉄砲、仕上げに空気銃。小学生の頃。
このような事と好戦的であるか否かは無関係。
毛野氏が滅亡してから秩父事件までは千年位経っている。あまりにも永すぎる。
野生のニホンザルも進化して上野原人になってしまう。

681 :日本@名無史さん:2014/08/17(日) 20:10:26.73 .net
「1000年はあまりに長い」とか言ってるが
DNAはハプロタイプとかが最近になって詳しく研究されてきて
どこの何そこの出自とか全部分かるんだが。
それこそ「1000年は短すぎる」くらい
1万年単位でも正確に分かる。

D2a1bが毛野氏のハプロタイプと言われてて
これが東国系の縄文人らしい。
徳川の血筋もはっきりD2a1bなのが確定している。
東国との接点があった上毛野氏の地域にまず入ってきて
そこから天皇家に移ったらしい。
皇族のDNAははっきりとは分からないが、幕末の頃の明治天皇は縄文系だったのが確定している
謁見した外人は「天皇は中東系だ」とか言ってるし。

61: 出土地不明 [] 2012/09/01(土) 16:03:11.17 ID:EQIUVdcv
D2の中でも多いとされるSTR配列を探索すると
2つの高頻度地域が見つかる。

一つは群馬県、そしてもう一つは、なんと兵庫県。

682 :日本@名無史さん:2014/08/17(日) 20:31:33.62 .net
血液型、昭和天皇はRH−AB型。

683 :日本@名無史さん:2014/08/17(日) 20:46:06.56 .net
「なんと」も何も自分は、「“日本”の始まりの地は播磨」と知っているからなあ

684 :日本@名無史さん:2014/08/17(日) 23:04:59.31 .net
>東国との接点があった上毛野氏の地域にまず入ってきて
三河ファンタジーを晒すなよwww

徳川じゃなくて得河な
ちなみに今更だが
三河土着山賊の徳川と
上毛野の新田得河は何も関係はない

685 :日本@名無史さん:2014/08/17(日) 23:30:15.40 .net
新田源氏説にもそれなりに根拠のある説って提示され始めてきてるんじゃなかったっけ?
いや詳しいわけじゃないけどさ。

686 :日本@名無史さん:2014/08/18(月) 06:50:11.63 .net
>新田源氏説

おまえは何を言っているのだw
新田はガチの源氏だろ

687 :日本@名無史さん:2014/08/18(月) 07:23:09.44 .net
新田郡は元々、下野国って本当ですか。   明治初期まで。

688 :日本@名無史さん:2014/08/18(月) 10:45:53.37 .net
>>686
松平源氏説って書いたつもりだったんじゃね?w

689 :日本@名無史さん:2014/08/18(月) 12:41:59.55 .net
>>686
新田源氏って「得川→徳川」で調べてるとふつうにネットとかで出てくる。

690 :日本@名無史さん:2014/08/18(月) 13:32:10.06 .net
徳川の血縁は解析されてて東国方面から来たのは間違いないらしい。
ただし、家康の祖先が源氏かどうかはさっぱり分からんが。

家康はM7a系統でY D2 東国縄文系
弥生系統ではない。
群馬にはD2が多い。 家康は関西から来た系統ではなく東国から来た確率は高い。

徳川氏ゆかりの血縁者の墓を掘り返して歯からDNA鑑定する
墓荒らし学問が最近の学会ブーム

でも女に間男がいたりとか、男子が絶えて、しょうがなく娘の婿を他から入れるとかで
父系遺伝子なんて10世代もありゃコロコロ変わるから氏族の遺伝子鑑定がどれだけ当たるのかどうかは分からない
ただしあと50年くらい研究すれば何かが分かりそうな気もする。まだはじまったばっかりだし。

691 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 00:02:17.43 .net
三河徳川は源氏を名乗る前は藤原氏が出目だと言っていたわけだから
何でもアリってことだろうw

692 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 00:22:54.58 .net
賀茂氏をベースに藤原、源氏と次々に時の有力氏族を婿に迎えてきた可能性もあんじゃね?

693 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 07:21:34.34 .net
征夷大将軍は源氏でなけばならないという思い入れがあったのでは。
初代の多治比縣守は、源氏ではないけれども。

694 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 11:08:14.90 .net
>>693
多治比縣守は征夷将軍
征夷大将軍の初見は大伴弟麻呂

695 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 15:21:12.82 .net
征夷将軍と征夷大将軍は、同じと解されている。

696 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 15:37:10.05 .net
司法卿と法務大臣は同じであろう。

697 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 17:50:37.68 .net
鎮東将軍とかその手の類はみな同じだろうな。

698 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 18:33:45.96 .net
征夷大将軍は、源氏オンリーではない。時々、藤原氏その他もいた。毛野氏は誰かなっているのか。

699 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 20:39:02.05 .net
宮将軍もおるで〜
毛野氏かぁ……紀氏ならおるんだけどなぁ(紀古佐美)

700 :日本@名無史さん:2014/08/19(火) 21:38:53.28 .net
支配層である上毛野、下毛野氏は豊城入彦に繋がる渡来系かもしれないけれど、
毛野国の原住民は、縄文系と言うより、旧石器時代からの現住民だろう。
その後入ってきた、新羅系や高句麗系の文化も藤原氏の支配もうまく吸収して、独自の文化に作り替えてきた。
武蔵六党に繋がる武士団の兵士も、元々毛野国人で、新しい文化を取り入れる適応力の高い種族なのだ。
ということくらい、みんな気がついているだろう?

701 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 06:59:48.66 .net
>武蔵六党

お前は何を言っているのだw
みんなに問いかけるより基礎から出直せwww

702 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 08:58:24.95 .net
アメリカの大統領選においては、勝敗が決すれば敗者は爽やかに敗北宣言をするものである。その後は勝者の意向で社会は動く。
毛野国(上野国)は少なくとも二度負けている。武蔵国造の乱と広人の対蝦夷戦である。戦後はいずれも朝廷が仲介役となり武蔵国主導で復興は進んだ。
したがって復興期において上野国は東国の盟主であろうはずもない。 夢多き旅人は遥か水平線の彼方に立ち昇る陽炎を見ているのかもしれない。
旅人の夢を壊してはいけないような気もする。しかし現実を直視することも重要だ。東国の盟主としての地位は、上毛野国や下毛野国の国造でなくなる以前に終焉していたのではないだろうか。

703 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 10:56:35.71 .net
>>698
奥州はおろか、朝鮮まで征伐した毛野氏が征夷大将軍じゃなければ
何が征夷大将軍というのか。

初代 征夷大将軍の田村麻呂は毛野氏の代役にすぎないだろ。
ということは豊城入彦命は初代征夷大将軍だな。
同時代の大彦もそうかもしれない。
源氏や平氏も影も形もなかった古代から弓矢で戦ってた軍事集団が毛野氏

ならずものの源氏は京都じゃ勇ましかったが、
辺り一面ならずものしかいない群馬栃木じゃ借りてきた猫みたいな存在でしたね。
東京でいきがってた不良が千葉や筑豊に行って学級委員として先生の言うことを連絡する連絡係で
大人しくしてたようなもんだな

もちろん衰退期は見る影もなく・源氏や平氏やその他氏族が強い時代も多々あるが
それらもすべて衰退したわけで
全盛期で比べれば毛野氏が最強過ぎる

704 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 11:11:52.45 .net
>>702
たしかに緑野屯倉は物部氏に取られたが
物部氏が群馬東部・栃木まで支配した形跡は無し
物部氏が東北征伐を命じられたこともない
ただ略奪しただけです。

所詮その程度の群馬・埼玉西部の勢力争いに過ぎない。

武蔵国造りの乱の後も毛野氏の支配面積は歴然として東国1位
はっきりと見える衰退期は750以降。

薬師寺造った正四位の大将軍下毛野古麻呂が死ぬのが709
大伴安麻呂も大将軍で、天武の側について大将軍を受けている
大将軍はそのランクの地位。東国では文句なしに1位だろ。

下毛野古麻呂が死ぬのが709で、750くらいまでは余裕で東国1位
700〜800に毛野氏以上の権勢をもった東国の氏族があるというなら教えて欲しいもんだわ。

紀古佐美は780くらいに征東将軍になってるが「東国に赴いた」とあるし
アテルイにやられてから即座に大将軍を解任されてるので

「紀氏は東国で1位の基盤を持っていた軍事氏族だった」といえるかどうかは非常に疑問
通り過ぎていっただけだな。

で800年代で坂上田村麻呂がまた「東国に来る」とか何度かある程度。
はっきり終わったのは平氏が荒れ狂った将門の乱940近辺だろ。
このときはさすがに毛野氏が1位とは言えない。
ただし板東平氏が毛野氏と血縁関係を結んでいるとすれば、「毛野氏子孫の乱が将門の乱」ともいえるので
負けた論にはならない。

705 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 11:15:19.54 .net
・旧日本軍=毛野氏
・自衛隊=板東平氏

旧日本軍→自衛隊で、毛野氏は別に負けてないので(東国ではアメリカ>>旧日本軍の戦乱はなかった)

「旧日本軍と自衛隊のどちらが強いか?」なんて世代が違うしそもそも戦えないし不毛な議論
海上自衛隊は日本海軍の子孫だしな。

板東兵士が一気に強くなってるのは、
板東兵士の戦闘集団が戦争を繰り返した毛野氏の地盤を継いだ毛野氏の末裔だからだろ。

706 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 11:17:18.22 .net
結局毛野氏は東国で勢力1位のまま
平氏・源氏がそのノウハウを受け継いだってことだな。

毛野氏と平氏はどちらが強いとか、どちらに負けたとかは不毛な議論。
将門系統の平氏は毛野氏の子供にすぎない。
「将門系統じゃない平氏」は毛野氏ではなく、これは平清盛の勢力

707 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 11:37:11.93 .net
>>703
あのな? 飽くまで律令制下における令外官としての「征夷大将軍」な?
他の人も言及しているが、征夷将軍、征東将軍、鎮東将軍もほぼ一緒な?
でよ、飽くまで「征夷大将軍」という名称の令外官について言えば、田村麻呂は
二代目なw 794年の大伴弟麻呂が最初だからw

708 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 11:43:30.60 .net
その794までに毛野氏がすべて下準備をして
ヤマト王権の領土を2倍に増やしたのに
後から来て反乱を何度か鎮圧しただけで
「定義上の征夷大将軍は毛野氏じゃない!」
って偉そうにドヤ顔されてもねー

天武にしても天智に使いっ走りにされた東国勢力がむかついて
天武側を武力支援したから天皇になれたんだろ。
東国にも九州にも嫌われた天智は畿内の兵力しか集められなかった。

709 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 11:57:05.81 .net
>>708
定義も何も、記録における事実がそうなんだから、ドヤ顔も何もw
まぁ下毛野古麻呂が正四位下式部卿大将軍が極位極官なのは
律令編纂への貢献と下野国河内郡を中心とする東国一地域の
安定へと資した結果であるんだろうけどね

東国関係なく大将軍って話なら、大野東人も大将軍に任じられてるね。

710 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 12:11:23.87 .net
大野東人は毛野氏ですけど? 新撰姓氏録』右京皇別

征夷は太平洋側の軍団
日本海側は征狄軍

毛野氏は東国・太平洋側の関東平野を平定したので
問答無用で初代征夷大将軍です。

「定義ガー」って何がいいたいの? ここは法律のスレじゃないんだが。

711 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 12:17:01.57 .net
百済末裔の坂上田村麻呂も、渡来系の毛野氏の縁者の可能性が高いし
(毛野氏が百済を平定してる 毛野氏遠祖の荒田別の百済派遣)

紀伊氏も毛野氏縁者だし、「要するに親戚が来ただけ」で、
完全に別系統の氏族に東国毛野氏がやられたことは1度もないな。
というかそんな血縁が一切無い無関係のやつが東国に来て毛野氏の兵士が従うかと

毛野氏以外への東国の軍事集団の支配域移転の議論がはっきりでてくるのは将門の乱940以降だな。

712 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 12:31:58.80 .net
「定義ガー」とか法律のスレじゃないんだが。とか
お話にならんわ^^;
『毛野氏は東国・太平洋側の関東平野を平定したので
問答無用で初代征夷大将軍です。』
って言うんだから、ソース=史料出さねーと単なる
妄想スレになっちまうぜ?w

713 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 13:23:03.13 .net
キチガイ相手に正論を主張しても徒労に終わるよ

714 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 14:54:22.81 .net
豊城入彦命が初代征夷大将軍とは全く思えない。あえていえば征毛人大将軍でしょう。また、東北には、かつてのドイツのように東西を隔てる壁があったわけではないので全て蝦夷と考えるのがベスト。
日本海側は越国の担当であったわけでもありません。すると初代征夷大将軍として名実共に誰が相応しいかが分かります。それは越国国司の阿部比羅夫です。比羅夫は649年に北方警護の責任者になりました。
斉明天皇四年(658)四月に第一回目の北征があり比良夫は、軍船108隻を率いて日本海を北上しました。以後、650年三月に第二回目の北征。660年に第三回目の北征伐があったとされています。
ここで注目したいのは比羅夫は、649年に国司(守)だったことです。毛野国や那須国では、689年まで国造でした。これは那須国造碑から分かります。つまり大化の改新制度の運用が北関東では、
越国よりも40年余り遅れていたことが分かります。また655年の朝廷における蝦夷の歓待は、比良夫なくしては語れません。本来であれば、初代征夷大将軍は懸守ではなく安倍比羅夫であったというべきでしょう。

715 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 15:17:43.25 .net
紀→毛野
紀国→毛野国
紀ノ川→毛野川(鬼怒川)

716 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 16:03:58.39 .net
かつてのドイツのように東西を隔てる壁=奥羽山脈

717 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 16:28:50.93 .net
毛野氏が憎たらしくてしょうがないキチガイが毛野氏をどんなにけなそうが
毛野氏の支配領域・軍事力・支配期間とも絶大だな。

718 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 16:41:02.87 .net
巨勢氏・安倍比羅夫について言うと思ったw

阿倍比羅夫がいくら北海道のヒグマよりは強いといって
日本の石高最大地域の上毛野・下毛野国を上回る軍勢は持ってないですよ。

畿内より美濃以東の方が軍団が強いのは天武が畿内天智に勝った通り。
そんで東国は「美濃より毛野国がでかい」
つまり毛野国が660当時、最大の軍団動員規模を誇る地域だと分かる。

上(下)毛野氏が兵力1万5000 美濃が7000 畿内の左大臣巨勢が5000ってとこだな。
北陸勢が1万だな。

越国守の阿倍比羅夫は軍船180隻とか言ってるので、1隻30人として兵力動員限界は5400。
上毛野は1万超え確実だからザコですね。

719 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 16:43:47.50 .net
>本来であれば、初代征夷大将軍は懸守ではなく安倍比羅夫であったというべきでしょう。
わかってねーw

だから日本海側の将軍は論理的に征夷大将軍になれないんだよ。
「北を指して北狄」
「東を指して東夷」

が「四夷」

北を攻める将軍は征夷大将軍にはなれません
北を攻める将軍は征夷大将軍にはなれません
北を攻める将軍は征夷大将軍にはなれません

アホかと。
東国を攻めた将軍だけが「征(東)夷大将軍」です。
だから初代征夷大将軍は豊城入彦命の系統だけを指します。

720 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 17:08:43.62 .net
このスレって文脈読み取れない類大杉だよな^^;

例えば
「東国関係なく大将軍って話なら、大野東人も大将軍に〜」
に対して
「大野東人は毛野氏ですけど? 新撰姓氏録』右京皇別」
ってアホかとヴぁかかとwww

大野東人が大将軍に任命されたのは藤原広嗣の乱、征討先も
東国関係なくって話だろうに^^;

知らずに出したのなら「東国関係なく」でなく「毛野氏」関係なくって
書いてるだろうに、(ノ∀`)アチャー

721 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 17:15:30.89 .net
出羽を集中的に攻めた将軍はいないのか。

722 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 17:33:24.22 .net
出羽はそれこそ阿部比羅夫が制圧したみたいな感じだけれど、
後の吉彦氏(吉彦秀武等)が毛野氏系統だから、早くから毛野氏が
入ってたんじゃないかな?
それと、太平洋側と異なって古くから海運で越等とも繋がっていたし。

723 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 17:34:12.63 .net
「毛野氏は大将軍だ」

>東国関係なく大将軍って話なら、大野東人も大将軍に任じられてるね。

他にも大将軍もいる 大野東人だ(キリッ)<毛野氏にいちゃもんつけたかった意図だな。

で、俺の反論が「大野も東国毛野氏です」。
----------------------------------
で、こいつは東国の毛野氏の支配領域と氏族の広さを理解せずに自爆というシナリオ
いまさら違うって弁解されてもなー。

東国毛野氏の一極集中説に文句言いたいために、毛野氏と一見違う「大野氏」を持ち出したんだろうが
「大野氏」についての調査が足りなかったね。
せめて毛野氏以外の東国の大将軍様をもちだすべきだったな。

まあ東国の将軍で毛野氏と無関係氏族なんてほとんど皆無だが。

724 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 17:40:25.25 .net
>>723ってキチガイでFA?

725 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 17:44:54.80 .net
田植え歌 
      那須の与一は 三国一の 男美男の旗頭   ♫ ♫

毛野氏の歌を聞かせてくれ
  

726 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 17:52:19.51 .net
毛野氏の伝承ってあるの?
700年代に滅びているはずだけど
那須氏は那須党として生き延びているからな

727 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 17:53:53.08 .net
こっちの伝承は武田信玄の部下の真田のせいでパッパラパー

728 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 17:54:56.35 .net
>>724
北方の方面の将軍を征夷将軍とか言い出してアホみたいだわ、大野を持ち出すわ。
そんで論理的に反論できなくなると「キチガイ」か?

俺もお前もキチガイでいいとして、お前は頭の悪いキチガイだな。

729 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 18:01:49.02 .net
>>728俺ロムってて>>724で初カキコなんだが・・・キチガイかは知らんけど
お前より頭悪いでいいよ別に
とりまちょっと前のカキコでキチガイ構うなってあったから確認したかっただけだし

730 :日本@名無史さん:2014/08/20(水) 23:14:15.46 .net
そもそも毛野国という統一国家は存在しなかった。
豊城入彦の孫?の御諸別が初めて東国に就いて支配したとされる15国は統一国家になったわけではない。
15国はそれぞれ独立した国(邑)であって、古代ローマのような共和制というか合議で決める部族連合だったのだ。
それを下野、上野、上総、下総、武蔵、相模と分けたのは、大和朝廷が唐風の国造を目指したからだ。

その中に、関東平野の交通を一体で支配していた交通氏族がいた。
それは、運輸省と逓信省の機能を併せ持ったような道の管理と情報通信の権限を持った有力氏族だ。
その子息は、舎人として都に出仕し、優秀なものは中央官人として登用された。それが毛野氏となったと見られる。
要するに、地域ごとではなく職能毎に権限を分散していたのだ。

現代とは、国のあり方そのものが異質で、素人には理解できないかもしれない。

731 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 00:37:05.52 .net
なるほど興味深いね。
網野さんも「領主」には、「道の領主」「駅の領主」といったものもあり、「土地の領主」的な視野のみでは、古代はおろか、中世以降においてさえその正確な実態を見誤ると力説してたな。
「イ就馬(しゅうば)の党」なんて完全にその手の交通・運輸面の特色が後代に受け継がれたものっぽいよな。

732 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 02:59:32.90 .net
運輸、逓信(通信)を得手とする職能集団っていうのは結構説得力あるかもね。
毛野氏が押さえていた域内圏内――毛野川水系から香取海の水運等を
掌握していた場合、大きな行政単位としての東山道筋も東海道筋も
押さえ易いだろうし。

733 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 07:05:17.43 .net
東山道沿いの沿線は美濃から東はすべて毛野氏だろ。
街道というのを全然理解してない。

「毛野氏が征服した功績」だから毛野氏の領地です。

734 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 07:20:02.23 .net
荷馬車・大八車・飛脚は、縁の下の力持ち。   武者は伝書鳩だ。

735 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 07:24:25.15 .net
伝書鳩は、奈良時代から。あ、そうか、もう毛野氏は、いなかったか。

736 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 07:38:45.04 .net
毛野氏の通信手段は、早馬、船、人が走るといったものだけではなく、
狼煙、鏡による光通信、太鼓や銅鑼、鷲や鷹、鳩、谷を越えて声で伝えるといったあらゆる手段を用いた。
毛野氏の営業区域なら、その日の内に伝達を終える能力があった。
しかも、在地の通信員が張めぐされており、忍び、日下と呼ばれていたものがそれに近い。

一部は、甲斐武田軍などに継承されたが、その情報伝達能力の高さを恐れた秀吉や徳川によって根こそぎ廃絶された。

737 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 07:42:04.05 .net
美濃〜〜群馬〜〜栃木 が10代崇神期
千葉〜〜茨城〜〜福島の手前まで13成務15応神期に出雲系や物部系やらいろいろ来てる。

地図で見れば分かる
宝亀2年(771)以前の東国の駅路 
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/T-route.html

複雑に見える古代の東日本の支配者の乱立も、ルート上の区分けとしてみればいいだけ。

信濃方面から常陸の前までが毛野氏で
千葉南端から北上した連中とか、東海道をきた連中とか、
東海道(東山道)から埼玉方面に北上(南下)した連中とかがいるだけ。

何代の天皇のときに来たとかいうのがすべて。
10崇神から15応神までで残らずほとんど占領されてる。
毛野以外は巨大豪族ではなく、いろんな氏族がごちゃごちゃ来ている。

海上ルートを使ったと見られる天津彦根命が三重から相模〜茨城まで来ていて
これも一大勢力といえる。

これと
天湯津彦系が福島〜千葉ルートの北部
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou3.html
天津日子根命系=茨城国造 が福島〜千葉ルートの南部
http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou2.html

をそれぞれ支配している

10崇神期までは太平洋側の東日本はほとんど来れてない。
13成務になって進出している。千葉とか茨城とか、古代は淡路島みたいなもんだし、これは海上ルートだろ。

738 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 08:48:03.74 .net
東海道五十三驛   作詞・作曲・唄 都々一坊扇歌

      御江戸日本橋サテ七つ立ち
      東雲烏か品川に
      川河崎と鳴き渡る
      ここは神奈川台の茶屋サテ
      泊まりには保土ヶ谷も
      戸塚まつたる旅人は
      大金玉の宿なれば
      泊まる座敷は八畳敷

今の茨城県大子町が常陸国になってる地図は使うなよな。依上保(大子町)は陸奥国である。扇歌の親父の出身地は、そのすぐ西側の那須郡武茂郷。
       

739 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 09:42:51.49 .net
今の茨城県大子町は、毛野氏か平定したかも知れないのに、そこに無頓着であるということは、大した仕事してねえんだろうな。
日本海側は安倍比羅夫、白河地方は那須氏、いわき方面は岩城氏が平定した。  毛野氏は、どこを平定したというのだろうか。

740 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 12:27:54.84 .net
>>733
この場合、街道としてのそれではなく、域内圏内(大まかな行政区分)。そこで重要なのが
香取海の水運等をどの程度掌握していたか、という話ね。
毛野川河口域を中心に北西沿岸は明らかに毛野氏の支配地域だし、運輸の一手段と
しての水運をも得手としていたなら、総国との交易はおろか、一定程度以上の影響力も
行使し得たはず。
実際、令制国として上総、下総(当初の上総は安房含む)が設置されている通り、総国は
域内圏内としては東海道になるけれども、その上総最初の国守(国司)は上毛野安麻呂。
(上総が親王任国になるのはそれよりずっと後ね)

741 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 13:05:01.80 .net
708年か。随分とのんびりしているなあ。その直前までは国造がいたわけでしょう。

742 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 13:05:47.26 .net
地形的に茨城方面は船で千葉から上陸して北上する必要があり
(関東平野は家康の時代より水浸し)

古代の茨城 巨大な汽水湖の香取海が広がる
http://www.town.shisui.chiba.jp/kanko/road_and_guidepost/innbanuma/innbanuma.html

崇神から数世代までの時代には進出できなかった。
その方面を攻略したのは数世代後になり、
毛野氏も入るだろうが、東海地方からも来て混合部隊みたいなもんな。

茨城県大子町?
ここは東山道から北回りで陸地で行けたかもしれないが
茨城南部とか千葉は完全に島状態で東山道からは遠すぎる。
地形が複雑すぎて茨城とひとくくりにできない地域。

群馬から利根川を南下して進軍したか
東海道から船で神奈川方面から北上したかは判断が難しいが
どちらにしても入り組んだ地形で難しい。

東海道からも東山道からも行ける、まあ南関東から千葉〜茨城にかけてはまだ研究が難しいな。
銘文鉄剣が2〜3本でないと分からないだろ。
毛野氏がほぼ確定してるのは例外に近い。

http://kenkokusi.web.fc2.com/kokuzou/5.html
系図を見ると毛野氏ではない畿内の豪族の建許呂命系統の氏族が神奈川から船?で茨城方面へと進んだのが推測できる。
神奈川・千葉・福島・茨城と同祖の氏族がならんでいる。

743 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 13:14:07.96 .net
埼玉の古代豪族との関係は深いはずだし
東山道を「共用」する関係上、喧嘩するとも思えない。
小競り合い程度のはず。

街道を占拠している毛野氏と本格的に抗争したら、埼玉の連中は陸上ルートから畿内にたどり着けなくなる。
埼玉方面に行くには東山道を毛野氏の「玄関」を通って南下する必要がある。

奈良時代の交通路
http://www.town.yoshimi.saitama.jp/guide_touzandou.html

茨城北部は東山道ルートでいけるが
茨城南部から千葉にかけては東海道ルートを使ってたはず。
毛野氏=東山道なので東海道の勢力とどれくらいの関係だったかは不明。
喧嘩もしないが仲がいいとも言えない地域。

北関東と南関東が断絶しているのは鎌倉時代・室町時代・江戸時代になってからも同じ。
江戸への物資搬入は東海道がメインだし、
東山道の役割は交代している

秀忠は東山道を通って関ヶ原に行こうとしたが、東山道が獣道みたいになってたために
東海道ルートを進んだ家康にまったく間に合わず、行軍が猛烈に遅れて関ヶ原に遅参して怒られた
(これを反省してあとで東山道を整備しているが)

744 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 13:22:38.45 .net
リニアの整備は東山道の復興にあたるな。
東海道全盛期から時代が移り、また東山道がメインになるか?
(リニアは今のところ東山道でもないし東海道でもないルートだが。
長野の変な迂回ルートは無視された)

関東から奈良に向かうルートがまた整備されるのはおもしろいな。
ルートによって地域が勃興するのは現代も同じ=だから京都・長野が発狂している

745 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 13:36:06.06 .net
遊びでやってんのか?w

746 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 14:28:19.67 .net
鳩は外来種。
ペルシャ人が持ち込んだもので、そのペルシャ人は秦氏の管轄下にあったものだろう。

747 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 14:29:35.87 .net
初代征夷大将軍選      投票所
立候補者名            備考
1、上毛野田道         朝鮮で勝利して凱旋するも陸奥で敗死。朝鮮土人は蝦夷よりはるかに弱いのか。
2、上毛野小熊         助太刀をして負け。
3、上毛野形名         恐妻家。
4、上毛野小足         争乱中に死亡。原因不明。
5、上毛野安麻呂        いつのまにか失踪。
6、上毛野広人         蝦夷に殺害される。
7、大野東人          征夷将軍多治比縣守の下で働く。 何代か前の出身地は那須国か。

748 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 17:49:23.93 .net
だからさー
「初代征夷大将軍」が別の征夷大将軍が武力平定した土地から安全に出発するのはおかしいだろ。
論理的に。

月旅行したアームストロングが降り立った目の前にどっかの国の旗が立ってたら
アームストロングは「初めて月に降り立ったやつ」=初代征夷大将軍じゃないだろ

だから初代征夷大将軍は「崇神期の毛野氏」以外にありえねーんだよ。

>『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)上毛野国造条には、
>「崇神天皇年間に豊城入彦命孫・彦狭島命が初めて東方十二国を平定したとき封ぜられた。」と記載されている。

実際は彦狭島命は上野に来る前に死んだので(彦狭島命は上野に葬られた)
はじめて東国平定したのは御諸別王だな。

四世孫
荒田別 - 朝鮮伝承
鹿我別(巫別、賀我別王) - 朝鮮伝承
は領地拡大した将軍

749 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 18:00:41.29 .net
あと征夷大将軍は東国に勢力圏を持ってるかだけじゃなくて
「天皇が東国支配を許可・認定する」ことも重要
豊臣秀吉は小田原征伐したが、征夷大将軍にはなれなかった。
「天皇の認定」が重要。

「おまえが東国12ヶ国を治めよ」と日本書紀に書いてある

崇神48年春正月己卯朔戊子、天皇勅豐城命・活目尊曰
「兄則一片向東、當治東國。弟是悉臨四方、宜繼朕位。」
四月戊申朔丙寅、立活目尊、爲皇太子。以豊城命令治東國、是上毛野君・下毛野君之始也。

実際に東国を平定して、かつ「天皇が認定」することが征夷大将軍に必要。
源氏も平氏もない時代だが、「天皇が東国支配を認定」したことにより

豊城入彦命=上毛野氏は初代征夷大将軍の条件に合致する。
実際に支配するまで時間がかかってるのもヤマト王権の支配権が及んでないことから
ごく自然な流れ。

これが確認できる最初は
豊城入彦命孫・彦狭島命・御諸別王の系統
「天皇の東国平定の任命」にあるとすれば領地はまだなくとも
初代征夷大将軍は豊城入彦命になる。

750 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 18:14:34.63 .net
@天皇の任命
A東国の実質的な広大な支配権
B必要に応じて東国の領域拡大の軍役を担う=治安維持・反乱鎮圧・領土拡大任務

この3条件が必要。
素通りする将軍はただの軍団指揮官であって、征夷大将軍とはいえない。
実際に征夷大将軍は「東国の支配権」がセットになってる
>征夷大将軍=幕府を東国で開く権利

豊城入彦命孫・彦狭島命・御諸別王

征夷将軍の多治比縣守は@とBはあるが東国支配権Aがない。
坂上田村麻呂も東国支配権Aがない

豊城入彦命@
彦狭島命@
御諸別王@A
荒田別・鹿我別@AB

@ABをすべて備えているのが荒田別・鹿我別が最初
「天皇による任命」を重視する場合でも豊城入彦命・彦狭島命が最初になる。

征夷将軍は何人いてもいいが、征夷大将軍はそれらのトップで1人(氏族)しかいない
征夷将軍は何人も出たが、征夷大将軍は上毛野氏以外は鎌倉時代以降でないと見あたらない。

751 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 18:21:02.57 .net
最初の征夷大将軍は大伴弟麻呂です。残念でした。

752 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 18:26:50.71 .net
てかさ、毛野氏の偉大さなんて痛いほど分かってんだよね。
でもその偉大さを強調したいがあまり他氏を貶めたり、全氏族中「偉大さナンバーワン決定戦」みたいにしちゃうのが嫌でたまらないのよ。
史板では昔からどこでも見られる傾向だが、スレがこの流れになるとほんとウンザリする。

753 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 18:31:49.94 .net
打ち込む前に毛野国・上毛野国・上野国・群馬県をマスターしてくれ。
東国12国とは蝦夷ではなく、毛人が住むところでは。
ならば征夷大将軍ではなく征毛人大将軍となる。ところが征毛人大将軍という者はいない。
したがって豊城入彦命の征夷大将軍もあり得ないこと。

754 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 19:40:47.31 .net
>>751
大伴弟麻呂は征夷将軍だろ。

「征夷大将軍」は「東国の支配権確立」を指すのが当たり前。
大伴弟麻呂がどれだけの国を支配したというんだか。

どうみても崇神に東国占領=「征服して占領して支配」を任命された豊城三代です。

風俗嬢(やりたいときに金払ってやるだけ、やったらポイ)と
正妻(結婚して家を守る長官)を一緒にするな。

大伴弟麻呂は風俗嬢だな。別にその後東国10ヶ国を支配してないし。

755 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 19:53:18.72 .net
毛野氏以降は家康くらいしかいないだろ。

頼朝は即座に血脈が消えてるし「継続的な占領」にはならない。
東国支配権を確立したのは北条氏で、北条氏は征夷大将軍じゃないし
単に強奪してるだけ。
戦国時代に勝手に占領したのと同じだろ=官位・命令が伴わない。

足利尊氏は征夷大将軍を天皇を脅迫して強奪してたやつだし。

>尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、
>8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。
>天皇はやむなく征東将軍の号を与えた

尊氏が征夷大将軍かというと・・

毛野氏以降は家康くらいだろ、名実ともなって同一氏族の東国支配が続いた
文句なくまともな征夷大将軍は

756 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 19:54:37.95 .net
大伴弟麻呂
延暦十年(788年)に征夷将軍
延暦十三年(794年)に征夷大将軍

757 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 19:58:02.70 .net
訂正
延暦十年(791年)

758 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 19:58:52.54 .net
毛野氏の「毛」は、やっぱり毛人の「毛」からきてるのか

759 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:06:52.78 .net
崇神朝期の東国とは、毛人の住んでいた常陸あたり迄。
征夷大将軍の征夷とは、「陸奥に蟠踞する蝦夷を平定する」というふうに多くの世人は考えているのではないか。

760 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:12:34.45 .net
官位だけならゴキブリみたいにじゃうじゃいるが

実質の東国支配した征夷大将軍は毛野氏と家康くらいだな。
ごちゃごちゃいる3年で交代したゴキブリを征夷大将軍といってたらキリがない。

761 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:14:56.57 .net
尊氏の時代は、天皇が二人いたのではないか。なお岡倉天心は、室町時代を足利時代という。

762 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:16:49.31 .net
家康は2年で辞してるけどなw
ま、その後すぐに秀忠が就任してるが。
つーか崇神天皇の世に既に令外の官があった事実に驚愕wwww

763 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:20:47.87 .net
最後に、家康は、間違いなく毛野氏だというつもりか。下心見え見えだぞ。

764 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:27:51.80 .net
征夷大将軍っていっぱいいすぎて
いちいち認定してたらキリがない。
そういうお手軽なものじゃないので。

奈良時代までならそれでいいが、江戸時代まで考えて
どの氏族が征夷大将軍だったかを考えたら毛野氏と徳川氏くらいだな。

頼朝3代は実質続いたのは実朝が死ぬまでの34年間くらいだし、
東国支配権を確立した=征夷大将軍じゃないな。
↑東国支配権を確立したのは北条氏

足利尊氏も東国無視して京都にいたわけで
征夷大将軍の地位も後醍醐に貰えなくて、天皇をすげかえてるしどうなのかな。
天皇からもらうものなのに、天皇すげかえてまで出させるのは強盗と同じで所有権はないだろ。
(まあその祟りか何かで室町幕府はすぐにグタグタになるが)
鎌倉幕府もグタグタ
室町幕府もグタグタ
まともなのは徳川くらいだな。

皇族の血統も東国支配権も十分な支配期間も、天皇への従属度からも
毛野氏がもっとも的確だな。家康は血統だけがないのがおしい。

765 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:30:18.04 .net
>>762
天皇と言えるのは崇神くらいだろ。
崇神が初代天皇
そいつに直接任命受けて、血統は直接の皇子なわけで
征夷大将軍としてこれ以上の格はない。

766 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:33:16.81 .net
毛野氏  ご指名で、征毛人大将軍
家康   関ヶ原後、征夷大将軍
違いは分かるでしょうか。

767 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:33:40.53 .net
794年 大伴弟麻呂に征夷大将軍
797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍になった。

>>756
「征夷大将軍」って3年で変わるようなもんだっけ?
3年で任命がころころ変わる官位を「征夷大将軍」と呼んでいいのかな?
この時代の征夷大将軍はただの臨時の遠征軍の司令官的な意味だろ。

徳川家康がもらって、秀吉がもらえずくやしがった征夷大将軍と全然違うわ。
OLが上司やらにばらまく義理チョコと1つだけの本命チョコくらい違う。<同じチョコだが違う

768 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:40:15.51 .net
>>766
「毛人」が「蛮族」の意味だとすると
小野毛人とか蘇我毛人とかが最高官位の太政官になってるのはどうみてもおかしい。
嬉しそうに自分の名前にして、周りもなんとも思わないのも変。

戦国時代の南蛮人と同じで、南蛮だからといって、「劣った野蛮人」という意味ではなく
技術が進んだ先進地区という意味合いがあって、それで東国のなんらかの由来があって名乗ってるだけ。

769 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:44:56.58 .net
毛野氏の関東入植は、市川市と船橋市の間の太日川(ふとひがわ)から始まった。
今では徳川幕府の河川付け替え工事によって流れが変わってしまったけれど、
太い日川は、海に繋がる良港があり、荒川水系に繋がり、利根川やその支流の鬼怒川、小貝川、田川、思川などに支配地域を広げていった。
つまり、香取の海にも繋がっていたのです。
毛野氏は、荒川戸畔の流れをくむ川の民でもあったのです。
そして、祟神の子孫 豊城入彦は陸の民、両勢力が合体して生まれたのが毛野氏ではないだろうか?

770 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:45:02.69 .net
家康のチョコには、毛が生えてないぞ。

771 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 20:56:34.85 .net
>>765
つーかキモは崇神天皇の時代に「令外の官」があったってことなんだろ?
ってことは崇神天皇の時代には「律令」が存在したワケだよな!
歴史的大発見じゃん!wwwwwwwwww

772 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 21:00:27.47 .net
>>768
動物や蛮族の名前を敢えて付けるのは古代における汎世界的な特徴。
その霊力にあやかろうとするんだよ。
祭祀、呪術などの視点無しに古代は語れない。

773 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 21:10:22.07 .net
毛人の毛とは蚕。絹の糸だ。
その呼称の持つイメージとは裏腹に、色鮮やかな錦の呉服を着た貴人、これが毛人なのだ。
やっと気がついたようだな。うむ。

774 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 21:19:30.32 .net
鬼怒川は、衣川とも表記される。
倭文神社(しとり)神社と毛野氏の支配地が重なる。
毛野氏はシルクロードを経由して渡来した最東端の民。
間違いない。

775 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 21:30:52.00 .net
織物は、どこかに武蔵国の羊太夫が流行らせたようなことあったけれど。

776 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 22:18:56.61 .net
奈良時代に3年ごとにあらゆる氏族に大量に乱発した征夷大将軍はパチモノです
日本人の感覚ではそういう気軽な官位は征夷大将軍じゃないなー
100年に1度でるかでないかのものだね。

パチモノを与えた時代があったというだけ。

777 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 22:29:05.49 .net
最強の天皇の崇神からいただいた支配権と命令だから
これを上回る格があるものは、もう1000年経っても出ないだろうな。

家康に与えた後陽成天皇ってのが何してたのか分からん。
よく分からない天皇がよく分からない氏族に与えただけ。
まあ強くはあったけど両方ともあまり格がない。

奈良時代に乱発されたのはパチモノだし。
鎌倉も室町も経緯と事後が微妙。

征夷大将軍は「皇族将軍」という意味もあるが
大伴氏は朝臣ですらない連の氏族で皇族種別ではない。
大伴氏は神別だし皇別じゃないから確定。
だから大伴弟麻呂が征夷大将軍とか、完全にパチモノだな。

まあ奈良時代はパチモノの名前だけの征夷大将軍の官位がばらまかれた時代ってだけです。

778 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 22:34:15.29 .net
征夷大将軍は日本史で特別な意味を持つ官位だから
3年ごとに乱発した時代の変なのまで含めろというのは日本人の心情として納得できないね。
そういう軽いものじゃないです。

征夷大将軍に該当するかどうかは厳しく精査されなければならない。

779 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 22:53:58.30 .net
源氏長者こそ、東国の真の支配者。

780 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 22:55:12.50 .net
パチモンとか意味不明な言葉を乱用するのは朝鮮人。

781 :日本@名無史さん:2014/08/21(木) 23:21:53.57 .net
他氏を陥れる発言をするから、アンチも沸く。
「〜氏が一番偉い」とかアホか。

782 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 05:10:56.58 .net
関東の水流が坂東武者を育てたって聞くけど、当時の関東平野を二分してた利根川水系が作った遠大な湿地帯が
坂東武者の足腰を鍛えたってことか?

783 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 07:20:27.05 .net
まあ関西よりは馬にまたがって走り回る面積も、川越も多そうだ。 日本では、西部劇ではなく東部劇と呼ぶべきだろうか。

784 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 07:27:06.25 .net
征夷大将軍の乱発は、陸奥の国の平定がそれだけ大変であったという証ではないのか。毛野氏は、殆んど貢献していないけれども。

785 :721:2014/08/22(金) 08:18:35.80 .net
誰がキチギか何となく分かった
んじゃ行ってきまーす

786 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 08:24:45.51 .net
まあ一般に畿内周辺は領域狭いわな。
それだけ人口密度が高かったということなのだと思うが。

787 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 08:41:13.78 .net
>>785
キチガイじゃなく荒らしと看做していいよw

788 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 12:00:58.98 .net
誰でもガキの頃にチャンバラごっこをしたことがあるであろう。この場合には誰しもが心の中に思い描くヒーローに成りきるものである。宮本武蔵から宿敵燕返しの佐々木小次郎、サスケ、伊賀の忍者影丸、無用の介、
眠狂四郎、牛若丸、日吉丸、暴れん坊将軍吉宗、木枯し紋次郎、源氏の棟梁、平氏の親方等々。  まかり間違っても毛野氏に憧れるものは皆無であろう。逆に毛野氏は、退治される方の見本か。 ?
それでは実際に坂東武者の子が少年期に差し掛かった頃に思い描く理想の武者像は誰なのであろうか。最も人気のあった方は、やはり八幡太郎義家ではなかったかと思う。平家の家でも、そう思ったのではないか。
少なくとも自らの名前に義という文字を背負っている者は、「八幡太郎義家様のように立派な武者になるのだぞ」と耳に胼胝ができるほど言い聞かされたと思えるのである。新田義貞も、そうであるに違いない。        

789 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 12:05:45.68 .net
毛野氏スレで
「毛野氏でもないなんとか氏族」を必死に持ち上げてるバカを叩いて何が悪いのかな?

「関東の毛野氏」について語るスレなので
”関東に基盤もないし毛野氏でもない”そのなんとか氏族が素晴らしいとかいう主張なら
スレ立てして好きなだけそっちでやれば?

790 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 12:06:50.28 .net
どうみても荒らしは
毛野氏スレなのになんとか氏族を必死に語り出すスレ違いの方ですねー

791 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 13:14:38.08 .net
毛野氏族について語ると叫びながらの時空を越えた侵害行為には、目をつぶることは出来ない。帰りなんいざ田園将に蕪あれなんとすの心境だ。

792 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 14:07:43.25 .net
野球スレ(板東毛野氏スレ)でサッカー(なんとかかんとか)のことを必死に語ってる
そいつは「野球(毛野氏)なんかどうでもいい」という
そいつは「野球(毛野氏)が好きなやつはキチガイだ! 野球(毛野氏)はゴミ、もっとサッカー(なんとか氏族)を敬え」と叫ぶ

はてさて、どちらがおかしいのやら・・

そんなに毛野氏が憎くてねたましくて存在が気にくわないのなら、
毛野氏アンチスレを立てるなり、なんとか氏族スレを立てるなりすればよいのでは?
何をしたいのか分からない。

キチガイも荒らしもどうみても(野球スレでサッカーがどうのと必死にわめく)そちらだと思いますけども

793 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 14:09:14.27 .net
「初代征夷大将軍の偉大な大将軍の大伴なんとか」の専門スレを立てて
そちらでがんばってくださいね。

どうみてもこれ以上毛野氏に関係ない話をするそちらは「スレ違いの荒らし」だと思います。

794 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 14:13:03.08 .net
脱線してもせいぜい関東平野の古代〜中世武士団の話だよなー

「関東以外で毛野氏でもない」話をメインにしたいなら古代奥州スレとかそっちでやるべきだろ。
なんとか氏族が悪いとかいう話じゃなくて単純にスレ違いだと思います。

795 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 15:08:02.11 .net
初代征夷大将軍が豊城入彦命とか毛野〇〇だとかやりすぎっから
荒れるんだろうに。それ分かっててやってるとしたら確信的荒らしだよ。
スレ違いの連中も大概だけどさ。

796 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 15:32:18.97 .net
>>795
同意。
このやり方はわざわざ荒らしを呼ぶやり方だってさんざん言ってんのにね…
しかも毛野氏が貶められてるから仕方なく持ち上げざるをえなかった、みたいに実際と順序を逆にしてるし。
正に確信犯だな。

797 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 18:12:39.73 .net
野球(毛野)スレで野球(毛野)のことを持ち上げてなんで叩かれるんだ?
発想が分からん・・
そんなに毛野氏の功績が憎たらしくて嫉ましいなら、アンチスレでも立てれば?

初代征夷大将軍が豊城入彦命は事実。
「皇族将軍」だし東国平定の認可を天皇から受けて
畿内から自立してる勢力
まさに幕府の原型だな。

征夷大将軍の条件をすべて完備している唯一の例
プロトタイプだな

798 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 18:20:16.87 .net
それだけ誇らしい業績・事績を有する毛野氏な訳なんだし、
所謂「支那」由来官制たる律令制に倣い、しかもその「令外官」=臨時職たる
「征夷大将軍」を以て「逆に」毛野氏を辱めているから、>>797等は余計に質が悪い。

799 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 18:31:57.85 .net
その偉大な律令制度が元来強力だった天皇制を腐敗させて
藤原氏の専横と畿内の没落を招いたわけで

はて、何を褒めろというのだろうか?
律令なんかじゃない、毛野氏の東国支配が正しかったってことだな。

800 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 18:37:38.99 .net
天皇の権力構造的には
奈良時代に褒めるべき点は何もないですね。
畿内の皇族以外のわけのわからない氏族に天皇制が怪我された時期にあたり
どうみても衰退期

まあでも結局東国に自立政権ができるわけで、
(畿内にとって)邪魔な毛野氏を滅ぼしても、結局安定してた状態(毛野国時代)に戻ったわけだな。

そのすばらしく偉大な律令制度とやらのせいで
結果的に武家政権が樹立して天皇制がお飾りになるわけで
頭のいいやつが考えた制度かしらんが、自業自得だな。

権力を分断しすぎたり外戚に乗っ取られて衰退するってのはよくある国家衰退期だな。

801 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 18:43:26.54 .net
東国の毛野氏が全軍事力を動員して
畿内の邪悪な専横集団の藤原氏を根こそぎ滅ぼしてれば
天皇制はあと400年は国家の軍事力を掌握し続けたわけで
鎌倉幕府なんかいらなかっただろうに・・・

奈良時代にできたんだよなこれ、歴史のifを見てみたかったわ。

あと坂上田村麻呂は天皇に対する逆賊です。

802 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 19:22:45.80 .net
畿内も初期は連合政権だし。
律令政の施行は白村江の敗戦によるシナの圧力という仕方のない部分もあった。
ちょうど幕末の欧米列強諸国からの圧力、
戦国の何でもアメリカ流のやり方を押し付けられているのと同じこと。
あとから非難するのは簡単だが。
それこそ東国の雄・毛野氏にもどうすることも出来ない事態だったわけだ。
そんな中で、東国物部の系譜・藤原不比等(車持氏)はよくやったよ。
本質的に日本の風土には合わない律令政を表面上取り入れる格好にして上手く換骨奪胎した。
苦しい中、日本の国体をよく守り、“中国ナイズ”化を最小限に抑えてくれた。

803 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 19:23:48.85 .net
>>802
戦国の

戦後の

804 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 21:42:48.49 .net
今、テレビで放送している「こんなところ日本人」という番組で毛野氏の祖、奈良別の子孫である奈良部の兄弟が出ている。
二人は、アフリカ ザンビアのインタナショナルスクールに通っていて、慣れない国で頑張って寮生活を送っている。
父親は、国際協力隊員で海外で農業の技術指導にあたっているらしい。

これは豊城入彦の子孫が未開の東国の民に先進の弥生式農業を指導した光景とダブル。
彼らは、古代からずっと、未開人に先進の農業を指導し、生活を向上させることに生き甲斐を感じていたのだろう。

やすな、毛野氏!と思いました。

805 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 21:52:07.26 .net
付け加えれば、この兄弟も、その父親も、少し肌が褐色のクメール人の血を引いているように見えた。
毛野は、ニニギと共に渡来した天津久米命(アマツクメノミコト)の子孫か?

806 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 21:53:56.20 .net
やるな、毛野氏!でした。orz

807 :日本@名無史さん:2014/08/22(金) 23:30:25.06 .net
>>805
日本の首長氏族というのは、天皇家も含め、久米族と播磨族との融合がスタート地点になってそこから始まっているのだよ。
あなた勘がいい。

808 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 02:54:05.57 .net
そもそも京都が風俗も秩序も乱れに乱れていたから東の鎌倉幕府に行き着いたんだろ
坂東武者って乱れた西の雅にあいそつかして都落ちした東の悪党ってイメージで間違いないんだろ?
北条早雲も京で借金に負われて関東に逃げてきたそうだし、坂東以北に根を下ろした無頼者なら百姓だろうが全員坂東武者と行っても言い過ぎではないような
実際、大昔の関東の農民てめっちゃ強かったそうだしw

809 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 03:43:55.71 .net
>>808
北条早雲こと伊勢新九郎貞氏は室町幕府政所伊勢氏の一族。
足利将軍の命で駿河今川氏の東国政策を補佐するために下向した。

810 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 03:48:44.18 .net
>>809
でも借金してたんでしょ?
本当に存在してたか知りませんが

811 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 07:37:25.19 .net
>>809
>>810
借金もしていない諱も違う。伊勢盛時な。
しかも彼の代までは幕府の以降を受けての行動。
好き勝手を始めかつ後北條を号したのは二代目氏綱から。
スレチなんでこの件はこの程度に

>>807
そうなんだねぇ。そこに磯城県辺りの血が入り初めて
皇統が徐々に拡大して遂に崇神天皇へって感じかなぁ?

812 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 07:38:31.96 .net
おっと、以降じゃないや意向ね

813 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 08:32:59.70 .net
>>775
>武蔵野国の羊太夫

てか上毛国

多胡碑「和銅4年に近隣3郡から300戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」

羊太夫の生涯はドラマチック

814 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 08:46:23.23 .net
今、演目「一人芝居」の練習をしているんだ。

815 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 09:40:54.55 .net
和銅四年(711)頃に毛野氏は、武蔵国の羊太夫の勢力に、あたかも昔の心太のように押し出されて形となり最早居場所がなくなり上総や陸奥の方に散っていった。
一部残ったものは帰農して元祖テロリストになった。藤原上野守を殺害したのである。 誰に何を要求したのであろうか。

816 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 16:56:22.33 .net
>多胡碑「和銅4年に

左中弁は多治比真人三宅麻呂
太政官は穂積親王(天武天皇の皇子)
左大臣は石上麻呂
右大臣は藤原不比等

三宅麻呂も不比等と同様に
和銅時代において重要人物。

817 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 17:55:30.20 .net
三宅麻呂か
三宅は新羅系帰化人の氏族名。
多治比(丹比)氏と姻戚結んで複姓になったんだな。
思った通りだ。

818 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 18:26:40.91 .net
多治比氏が頭角を現した時代なると上からの締め付けも厳しくなり、お国自慢の出来る時代ではなくなったのではないか。
それにも関わらずに、毛野国あるいは毛野氏が最強と叫ぶのは時代にマッチしていない。
最強か否かを叫ぶのは、坂東武者時代の到来を待たなければいけない。  到来する前に毛野氏は姿を消してしまった。

819 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 20:10:15.13 .net
多治比三宅麻呂は謀叛の疑いで三宅島に流されたけれど、
その類縁は宮城県柴田郡村田町に生き残る。
そして、東京オリンピック重量挙げで金、銅のメダリストとなった三宅兄弟の兄は、天皇陛下から紫綬褒章を賜り名誉回復。
よかったですね。

820 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 21:54:16.54 .net
毛野氏の「毛」は何のこと?
野蛮な毛人?

821 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 22:19:08.08 .net
毛人とは、唐人、蒙古、モンゴル人のこと。
髪は天頂だけ残して剃りあげた弁髪。
唐子模様の子供はかわいいが、一目で毛人とわかった。

822 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 22:26:56.28 .net
一方で「きのくに=紀国」の転訛としての「けぬくに」って話もあったり

823 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 22:33:11.44 .net
両方かけてんのかな

824 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 22:56:39.47 .net
新説  野原の特徴を表しているのではないか    那須野   武蔵野   毛野 

825 :日本@名無史さん:2014/08/23(土) 23:53:48.51 .net
野原なら「野」でいいじゃん
「野野」で二重意味

826 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 02:59:14.27 .net
降る雪は あはにな降りそ 吉隠の
猪養の岡の 寒からまくに
            
美しい歌だよね

827 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 07:03:47.83 .net
二重で良いではないか。野々村という人もいる。(元兵庫県議)

      時ならぬ磐城の志賀が流れ来て那須野の原の露と消えけり   資房

これは狂歌である。春になればしがこも溶けての、氷と志賀をかけている。
 

828 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 09:17:41.53 .net
研究不足だな。毛野氏の「毛」の謎も知らんとは・・

829 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 11:37:49.26 .net
人名ではなく地名としての毛野を考察する
これは簡単明瞭である。毛野は、砂漠のように不毛の大地ではなく荒野の用心棒の現れる地でもない。あるいは願望かもしれないけれど、ある程度は豊かな野が広がっていたのだろう。
対照的に武蔵国は荒地であった。 その武蔵国に負けてしまったけれど。

830 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 14:22:12.13 .net
室(茂呂)の八嶋についてなのですが、

いかでかは 思ひありとも 知らすべき 室の八嶋の 煙ならでは - 藤原実方(『詞花和歌集』)

木花咲耶姫命が一夜にして懐妊したためその貞操を証すべく、自ら火を放った室の中で三柱の神を産んだ、とされる神話の舞台。
また転じて、竈(かまど)の煙(八嶋は竈の古語であるとの説もある)。
室の八嶋と言えば煙と、思いに繋がる万葉集の時代から使われている枕詞なのです。

しかし、 木花咲耶姫命といえば、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚されている。
それなのに、富士山の浅間神社に祀られるなど関東とも深い関わりがあるのはなぜか?疑問が沸きます。
どうやら、木花咲耶姫命の子のうち 火遠理命(ほおり)がキーマンのようです。
ニニギの子、 火遠理命は、神武東征より早い時期に関東入植を果たしているのではないでしょうか?
そして、それが、 火遠理命と豊玉姫の子 鵜葺草葺不合命ウガヤフキアエズです。
毛野とは火野という意味ではないでしょうか?
焼き畑農業との関係もありそうな気がします。

831 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 14:41:41.93 .net
話は戻って、室の八嶋とはどこかと言う話ですが、佐野市茂呂から岩舟町瀞(とろ)の南に大きな低湿地帯と浮き島があったと見られます。
それが室の八嶋と呼ばれていて、湿地帯が陸に変わったあと、そこには、埴輪を焼く窯ができました。
さきたま古墳群などの大型埴輪の供給基地になります。
古墳時代が終わると、下野国分寺などに使われている屋根瓦の窯に変わります。
つまり、この付近は古墳時代から、奈良時代にかけて常に煙の絶えない古代の工業地帯だったのではないでしょうか?

832 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 16:27:53.48 .net
火野ではなく野火では。野火止用水ならば全国至る所にあります。焼き畑農業とは、殆んど関係はないでしょう。
室の屋島は芭蕉も訪れています。古事記にある場所と同じか不明ですが。姫が富士の方の浅間神社にも祭られていることは間違いないでしょう。
ただし国司としてやってきた某源氏が孕ませたというのは、出鱈目でしょう。古事記にあるわけですから。
最初の煙は、姫を火葬した際のもので、以後は水面から立ち昇る水蒸気が、それらしく見えるという内容を謳っているのではないでしょうか。
今は干しあがっているようで何も見えないようです。

833 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 16:34:59.54 .net
826
負けたのは毛野氏が武蔵国造の地位争いで負けた記述がでてきてるだけだが
事実、その後の1000年ほとんど変わらず相変わらずの一面の野原

834 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 18:46:39.20 .net
あんた、何もわかってないようですね。

835 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 18:49:05.02 .net
胡散臭い話はいいからw

836 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 19:50:41.36 .net
>>野火止用水

江戸中期〜からの話を持ち出してどうするWWW
中学からやり直せよwww
ここに来るよwww

837 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 20:26:05.58 .net
私が確認したかったのは、毛野と火野は無関係と言うことですが。

838 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 21:08:06.99 .net
>野火止用水ならば全国至る所にあります。

お前バカか?
武蔵野やら多摩川が全国至る処にあるわけないだろう?w
開き直るなよw
日本語の使い方から勉強しろw

839 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 21:19:35.69 .net
用水とは、自然流以外の人工的に造ったもので農地や野火止用に用いることが出来ます。
全国にあります。私の生家の前にもあります。

840 :日本@名無史さん:2014/08/24(日) 22:06:08.99 .net
関東地方では、都市部は除いて少なくとも三月ごろに一度は土手焼きがあります。
この時は、河川の水口を開けて用水路に流します。 

841 :日本@名無史さん:2014/08/25(月) 09:02:22.51 .net
山間部の土手焼は、害虫駆除と若草の芽吹きを早めるために行われれています。主に道路、河川、水田、畑の土手が対象になります。ただし、農業従事者の減少から耕作放棄地が増えて山林なども荒れています。
こうしたことから山火事防止の観点から棚田の上の方は土手焼きは省略されています。主に土手焼きが水田や畑がメインであれば農業用水を使用したということになりますが、農業従事者以外の一般の方でも、
ご利用される道路や河川も含まれることから使用するのは野火止用水とするのが適切と考えます。他に適切な用水名はないと思われます。従って水不足の際に問題となる取水制限の際には、農業用水、工業用水、
水道事業者用、野火止用水等と別枠で考慮すべきでしょう。 

地域にもよりますが土手焼を行っても天然蝮は一向に減りません。蝮は毒を持っていますが一時は天然ウナギの十倍位の値がついたこともあります。蝮は害虫なのか宝なのか判断に迷う生き物です。

842 :日本@名無史さん:2014/08/25(月) 22:16:53.79 .net
どうも、毛野氏を論じるのには、棚田を持ち出しのは時代的に違和感を感じます。
東国に人工的に農業用水を整備する技術を持ち込んだのは、いつの時代でどんな集団か?
調査されておられるのでしょうか?

843 :日本@名無史さん:2014/08/25(月) 22:26:08.17 .net
すごい常識なんで言いたくないです。
「群馬の歴史」で少しは調べれば?

844 :日本@名無史さん:2014/08/25(月) 22:46:16.13 .net
群馬に生息する原住民の特徴として、敵対する部落や異種族の首を狩る風習「首狩り」がある。
首狩りとはその名の通り、木の陰・草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。
狩った首は一体どうするか?自分達のテリトリー(生息地)にそれを持ち帰り、狩った首の数を部族内で自慢するのである。
首を狩った数が多ければ多いほどその者は偉くなるし、また部族内では首狩りを行うことが「一人前の成人男子」の通過儀礼となるのである。

かつて、山内上杉氏・後北条氏・武田氏・長尾上杉氏ら数多の武士たちが原住民の討伐を目論んだが、「首狩り」の脅威の前にいずれも失敗に終わり、またその戦禍により大和民族と群馬原住民の間の溝は深まるばかりとなっていった。

また江戸期に入っても、渡良瀬川の流域でわずかに農耕が行われるのみで、後の地域は、山間部だけでなく利根川流域の平野部でさえ全くの手つかずであった。
何分、群馬(当時は「上野国」)のその危険さは、既に近隣地域でも有名で、誰もが原住民の人狩りを恐れて近寄ろうともしなかったのだろうから。

調べてみたら、とありました。うーーん。

845 :日本@名無史さん:2014/08/25(月) 23:14:14.34 .net
>>844
すりゃ群馬でなくグンマーの歴史だろw

846 :日本@名無史さん:2014/08/26(火) 00:16:29.30 .net
車輪の再発明をするのが趣味?
群馬の歴史を調べたいなら群馬(栃木)県史を読めばいいだけ。
縄文時代の石器がうんたらから書いてある。

847 :日本@名無史さん:2014/08/26(火) 00:21:17.28 .net
最低限、本を30冊読んでから来てください。

そんで100〜300冊読むと学者といえどもある分野では議論が平行線になってくるから
(学者同士ばらばらなことを言ってる箇所がでてくる)

そこから自分の意見を(いろいろ調べたがこの学説が正しいと思う)と言えばいい。
右も左も分かってない段階で何言ってもしょうがないだろ

毛野氏の難易度は極めて高いぞ。誰も解明できてない

848 :日本@名無史さん:2014/08/26(火) 15:08:38.81 .net
ある古代の農業用水路について
現在ではコンクリートで覆われて現物は残っていない。調査研究をしている郷土史家や出来損ないの社会科教師もいない。よって代わりに私が説明する。私も調査などしていない。
記憶だけが頼りである。暇な方は憤慨しないで読んで下さい。 まず下準備として地理院の地図を開いてください。拡大して栃木県那須郡那珂川町の東部の方にもっていきますと、
入郷川があります。川の北端にある丸いものは農業用の入郷溜です。溜から約600メーター南に農業用水路の水口がありました。ここからは人工の工作物になります。並行して
赤道(道路)がありました。途中で沢水を取り込み(T字)、約100Mで小さな沢に交差します。ここに木製のU字溝があったと思われます、昭和の初め頃までは水車小屋もあり、
小麦やそばを挽いていたそうですが開始時期は不明です。溜池はヒシ(菱)で覆われていましたからヒシも挽いていたかもしれません。木製U字溝が沢を越えた先には再度手掘り
の水路となり少し先の水田に注がれていました。純粋な意味での用水路はここまでです。後は緩やかな棚田形式で水は下流に流れます。少し行きますと、また沢に交差します。二
つ目の最初のものよりも、やや長いU字溝があったと思われます。そしてまた棚田形式で水は流れて最後に入郷川に戻ります。総延長約1.2キロ、これでも一応は農業用水路では
ないでしょうか。溜池とセットになっいる所に由緒正しさを感じないでしょか。 溜池は、あくまで緊急時用で滅多にぶち抜くことはありません。十年か二十年に一度になります。
何時できたかですが那須十二郷の成立は奈良時代までということで確定していますから広く見て飛鳥・奈良・平安時代になるでしょう。
実際に造った人は、溜池については村人総出、農業用水路については初めの水利権者になるのではないでしょうか。これは現在の管理状況から類推できます。 指導者は那須氏と、
そのもとで働く日本人や新羅系渡来人の技術に明るい人になるでしょう。 木製のU字溝を造る大工か船大工はいたことに期待します。入郷川はその後に盛谷川→大内川→武茂川
そして那珂川となって太平洋に注がれます。

849 :日本@名無史さん:2014/08/26(火) 20:45:13.63 .net
>>848
やっぱりあなたは、毛野氏の時代感覚が間違っているようですね。
毛野氏は、古墳時代より前に関東を支配していた部族で、実際のところ、行田市や下野国府(栃木市)といった大和朝廷の支配地から排除された形跡があります。
毛野氏の勢力の強い地域は、古墳時代以降の遺跡より、弥生、縄文、石器時代の遺跡と重なります。
それに、東山道や中山道ともずれた道沿いに展開しており、大和朝廷の官制道路ができる以前から住んでいることは明白です。

関東平野には古墳時代に、すでに大和朝廷の支配が及んでいて、飛鳥・奈良・奈良時代の遺跡で毛野氏との関連性を語るのは時代が合わないのです。

850 :日本@名無史さん:2014/08/26(火) 20:55:37.65 .net
そりゃ古墳などの遺跡とは合わないだろ
和って文字を使うところからして後世の創作が混ざってるだろうからな

851 :日本@名無史さん:2014/08/26(火) 21:02:18.51 .net
例えば蘇我とか物部ってのは宗教からみか知らんが文化人気取りで
相手が卑族だと思えばこそ付ける名称
卑弥呼あたりともこの辺は繋がる

852 :日本@名無史さん:2014/08/26(火) 21:08:23.41 .net
次から次へと変なのが湧いてくるスレ

853 :日本@名無史さん:2014/08/26(火) 21:12:51.57 .net
蘇我はよく知らんが、物部は、毛野にとっては侵略者。

854 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 02:57:22.88 .net
>毛野氏は、古墳時代より前に関東を支配していた部族で

奈良時代から平安時代初期850〜1000まで
上毛野氏は朝廷のあらゆる部署であらゆる雑用をやってるんだが、
働き蜂みたいに活動してますけど、
関東だけじゃなくて日本のいろんなとこで長官してるし。

「古墳時代以前の豪族だった」と過去形にしないでくださいね。

ただ板東平氏の活躍以降、忽然と消えるのが不思議なんだなー。
ぽつぽつ中央の残存っぽいのは出るけど。豪族とか武士団として活動してる形跡は
1000以降ないのな。

855 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 06:13:47.94 .net
招婿婚によって中央から新たな婿を招き、氏族名が変わるからだよ。
中央と繋ぎをつけるためには絶えずその時々の中央の第一線にいる氏族と姻戚を持っている必要がある。
毛野氏に限らず古族ならみんな辿っている道。

856 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 07:03:23.42 .net
毛野の子孫は、 東国の六腹、つまり、上毛野、下毛野、 大野、佐味、池田、車持氏という「朝臣」を賜っている。
奈良時代の「 大宝律令」(701)に従い、上毛野の”毛”をはずし、上野国、下野国となったほか、和銅の好字令などにより、蝦夷に繋がる地名は和風の地名に表記を変えている。
本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(サシ)と呼ばれ、後に佐斯上(サシガミ)・下佐斯(シモザシ)に分かれたとされ、元の地名を連想することすら難しい場合もあるようだ。
古代の毛野は地域名であって、氏や姓という観念すらない頃の部族連合だったから、今はどんな氏族になり姓を名乗っているのか、調べることすら難しい。
候補としては、大野、池田、太田などになる。

857 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 08:56:59.88 .net
続 古代の農業用水路
水口よりやや上流に小さな水田があった。所有者は誰かなと思い登記簿謄本交付申請書を登記所に郵送したところペラ一枚の表示登記の写しが返送されてきた。最後の所有者欄に益子忠太とある。
元水戸藩郷士である。代々同じ名前を名乗り登記簿の名義変更をしていないらしい。Wikiなどを見てみると常陸益子氏は下野益子氏と同様に和歌山の紀氏に繋がるらしい。ただし、入郷川沿いの古代
用水路と益子忠太や毛野氏は、まったく関係ないと思われる。

858 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 15:25:33.38 .net
秀郷と源氏=新田義重・足利

850くらいから急激に衰退した?とすれば、
関東の天災(富士山噴火)・貞観地震が致命的だったのかなと。

源氏は頼信を起点に
上野国八幡荘(碓氷郡高崎市)と勢多郡山麓が最初で
新田郡<>足利荘を取られるわけだな。

桓武平氏への接続がよく分からん、
886年まで普通に上毛野氏が中央の記録にもばんばんでるのに<まだ衰退してないのが分かる
940年代の将門記に上毛野氏がほとんど出てこないのはなぜか?


890〜940までに何かあって平氏が台頭してきたらしい
まあ平氏といっても具体的には桓武平氏は
「平良将・良文」と「平国香」の系統で争いがある。

坂東平氏は「平良将・良文」が全盛期だったが、反乱したのと、平国香系統が「平家」になることもあって
衰退している?(衰退はしてないが主導権を関東の戦乱を平定した?源氏に取られた)

でも来てもない時代には上毛野・下毛野氏の領地だったはずで。
来てからは一気に平氏・源氏に変わってる
毛野氏と坂東平氏の接続点は890くらいだな。<そりゃそうだ。その頃に平氏が関東に来たんだから
将門以降は芋づる式にいろんなのが来るが、
886年から将門以前の関東の武士団がよく分からんな。

859 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 15:39:13.77 .net
880年まで毛野氏がいて、900年までに全滅したようにも見える。
毛野氏は何をしていたのか?

余所者が大挙して東国に来る890くらいに何か抵抗しなかったのか?
何かをしたけど、統領がたまたま平氏だったもので
それに従った足軽の毛野氏一派が出てこなかったのか。

千葉と前橋は戦争してるんだな。国香と平良文

嵯峨源氏は兄弟が正3位左大臣を独占するまで絶大な権力を持ってたが
源頼光は東国に来てない。その子の為義も来てない

強いけど来てないから東国には源氏はまだ無関係。

で、平氏は高望が東国に来て、陸奥守とかになって、
秋田とか岩手の反乱を鎮圧したりしてる、
で、ここが違うところだが、
桓武平氏は東国に来て、東北の反乱を鎮圧して
そんで「京都に帰らなかった」<<ここがでかい
他の将軍とかはみんな京都に帰ってるが、桓武平氏の一族は京都に帰ってない。
東国に居座った連中なのが特徴


平国香
889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し、
上総介に任じられ父の高望とともに昌泰元年(898年)に坂東に下向

国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、
在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、
自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、

860 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 17:06:07.10 .net
将門以前に「武士」なんていない。
将門ですら厳密には「武士」ではないのに。

861 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 18:16:09.30 .net
武士の定義なんてどうでもいい

武士の定義に完全に合致する旗本八万旗は
250年間吉原で女遊びしてただけ

862 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 18:25:49.74 .net
私領の開発=私領の公認化=荘園制の確立=武士団の形成の前には

空前の農業ブームがあったと。
だいたいまともな武士団は最初は田んぼを耕してる。
農地も何もなくて、クワだけ持って働いて農地を増やして
それで囲い込みして、それだけだと役人やら中央の変なのに分捕られるので
寺社や公家の持ち物にして、税金を払って8割を確保したと。

荘園制の拡大の後は侵略戦争が勃発するが
田んぼがまだ大したことない時代850〜930は田んぼ耕してたのが関東の平氏だよな。
空き地を開墾してたので、とくに毛野氏と諍いもなかったと。


「膝を守れ」、狭い機内のアイデア商品-乗客けんかで一躍注目
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NAYC9P6K50Y501.html
問題は航空会社が座席の間隔を狭くしていることにあると、同氏は指摘する。

十分に広い=空き地がある場合には乗客同士の戦争はないが
エコノミークラスが増えてきて、座席の余裕がなくなってくると
こうやって醜い争い=武士団同士の抗争が起きると。

単純な反乱・鎮圧でもなく、「座席の間隔が十分広かった」時代が毛野氏から平氏への移行期にあたるので
論争があまりなかったようだな。なぜ平氏と毛野氏が抗争しなかったかというと
これも説明できる。

863 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 20:53:39.05 .net
続々 古代の農業用水路
重要なことを忘れていた。堰についてである。水口のところに簡単な堰を設けて河川水をよび込まなくてはならない。何故か。渇水期に河川の水面が下がるからである。
何もしないでおくと用水路には殆んど入らなくなってしまう。簡単な堰は誰にもできる。用意するものは、短い杭、長い杭、ある程度の大きな石を数十個の三種類だけである。
まず、河川水をよび込む形で短いを小槌で何本か打つ、次に内側に長い杭を何本か渡す、最後にさらに内側を大きな石で固定する。これだけである。入郷川の水口の簡単な堰は、
この方式で約1500年前後に渡り造り続けられたと思える。簡単な造りなので大水が出ると流されたりします。その度に補修することになります。従って冬季には堰が必要ありません。
しかし私は年末年始の寒い時期に、せっせと堰の補修をしていた記憶があります。スケートが出来るように河川水を溜める必要があったのです。「川ってスケート出来るのですか」
と訊ねる人々がいる。入郷川は水量も少ないので氷点下5度の日が何日か続くとスケート可能になったのである。私は、ここで前に滑るだけではなく後ろに滑ることや、カーブで
足を交差することを覚えた。 朝起きると寒ければ寒いほど嬉しかった日々の少年期であった。

864 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 21:09:22.15 .net
農民だらけだなこうして見てみると

865 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 21:26:46.93 .net
他スレからの引用ですが、

「エミシ」という言葉が、はっきりと「エミシ」と訓むべき言葉として出るのは、
『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十月の条に載る久米歌の中においてである。

資料1.
  愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり) 毛々那比苔(ももなひと)比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず)

訓読
  えみしを 一人(ひだり) 百(もも)な人(ひと) 人(ひと)は云(い) へども 抵抗(たむかひ)もせず  (岩波古典文学大系本による)


この 「毛々那比苔(ももなひと)」こそ毛野のことで、毛野とは、たくさんの原住民が住む野という意味でしょう。
毛野以外に「百(もも)」、「諸(もろ)」などの字があてられていると思われます。

御諸別(豊城入彦の孫)、三諸(三輪山)、 三毳山(佐野市)・・などは毛野氏との関連がうかがえます。

866 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 22:32:55.29 .net
>>843 >>847 >>847
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

調べてみたら
ってこれをコピペするお前はバカ丸出しw

867 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 22:52:23.64 .net
>>866
>>844は当たらずしも遠からずだと思います。
実際、利根川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。
なぜこうなったかと言えば、首狩り族が住んでいたからです。
伊勢崎市の退魔寺には、石田三成の妖怪退治の伝説が残っているほどです。

868 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 22:57:14.46 .net
バクモンで日光東照宮をやっているけれど、
日光に敗れた赤城の大ムカデと言うのが、首狩り族の象徴です。

869 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 23:55:03.33 .net
>>867
そう思います。
那須国や下野北中部では首狩り族のみならず族達の人肉食いの習慣が
あったそうです。
北中部部の土地は荒地で干ばつも酷く首狩り・人肉食いが習慣化されいたそうです。
気候の変動などなどに伴い那須国の人肉食い人種が上野国に流れていったそうです。

870 :日本@名無史さん:2014/08/27(水) 23:55:39.69 .net
推奨NGワード=「那須」

871 :日本@名無史さん:2014/08/28(木) 07:52:23.72 .net
>実際、利根川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。

妄想オナニーばっかすんなよw

872 :日本@名無史さん:2014/08/28(木) 19:19:18.79 .net
しかも自演

873 :日本@名無史さん:2014/08/28(木) 20:40:08.77 .net
>>871間違えた。
>>867は、
X 実際、利根川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。
○ 実際、渡良瀬川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。
これで完璧。

874 :日本@名無史さん:2014/08/28(木) 21:21:27.86 .net
まあムカデとヘビしかいない地域だしな。

875 :日本@名無史さん:2014/08/28(木) 22:31:43.11 .net
毛野とは、沢山の一年草や多年草が繁茂している野であるということはないでしょうか。 ?
現在でも二毛作という言葉があります。 植物関連の言葉という気がするのです。

876 :日本@名無史さん:2014/08/28(木) 22:49:18.37 .net
871
なめんなよ
サル、シカ、クマ、イノシシ、タヌキ、キツネ、モモンガ、フクロウ、キジ、
いるぞ
江戸時代はイノシシ狩りもやってたしイノシシやクマの頭骨はでてきている

877 :日本@名無史さん:2014/08/28(木) 22:52:46.35 .net
山椒魚だって昔はいたわ
あの小さい手足が生えているやつ
これも時期によっちゃ食料だわ

878 :日本@名無史さん:2014/08/28(木) 22:54:29.17 .net
タヌキ鍋なんてのも普通にあったわ

879 :日本@名無史さん:2014/08/28(木) 23:08:26.54 .net
熊がいっぱいいっから熊谷って地名つけたんだべ?
おめら、群馬の首狩り族の様に、 原始「日本刀」,即ち「蕨手刀」1本だけで熊と戦えるの毛?

880 :日本@名無史さん:2014/08/29(金) 09:04:48.75 .net
>>873

利根川と渡良瀬川を知らない上に、

>実際、渡良瀬川より北側には古墳も埴輪窯もほとんどありません。
妄想加速してんなw

恥の上塗りバカ丸出しw

881 :日本@名無史さん:2014/08/29(金) 09:05:57.94 .net
「熊の胆」という薬を広めたのは熊谷の人々ではあるまい。周辺は能無しの集まりか。

882 :日本@名無史さん:2014/08/29(金) 22:48:39.43 .net
そういや、数年前の東国スレで、
毛野には多くの領民を養うに足るタンパク質供給源が存在しない。
せいぜい渡瀬遊水池があるくらいだがあんなものでは大勢の人間を養うには全然こと足りない。
その点が江戸湾や太平洋を要する南関東と違う、従って毛野が大国であった等有り得ない。
という論旨を展開するコテがいたな。
それなりに筋が通った論理展開だったと思う。

883 :日本@名無史さん:2014/08/29(金) 23:56:27.92 .net
>>880煽ってるおまえもバカっぽい。見てて恥ずかしい。
もう来ない方がいいよ。

884 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 00:37:21.57 .net
>>882
縄文時代は、関東は海の底。毛野国に海岸線があったんだよ。
その後、海岸線は遠くなったが、魚は塩漬けにして運べばいいだろ。

885 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 01:51:57.85 .net
つーか内陸民に塩製品を交易用途として加工して運ぶから沿海部で巨大な貝塚ができるほどの加工が行われたんだけどね。

886 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 02:09:46.27 .net
wikiより
渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)は、
足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に
渡良瀬川下流に作られた遊水池である。
着工年/竣工年 1905年/1989年

古代には存在しないな

887 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 02:42:18.91 .net
谷中遊水池

888 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 07:11:11.66 .net
上野は、武蔵や下野の銅(下野はかなり後)に負けた。

889 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 07:32:56.50 .net
縄文時代後期は寒冷化に伴う環境の変化により、木の実、動物などの食料が減少した時代である。
さらに東京、神奈川一帯では箱根山の噴火や富士山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、それに伴い急激な人口減少が起きている。
そのため東京、神奈川では縄文時代晩期の遺跡はほとんど見当たらない。
その際、寒冷化に伴う食料資源の減少が少ない海産物を中心に食料の確保をしたため、この貝塚ができたとされる。
その頃、海産物や塩、黒曜石のナイフ、鏃や釣り針などの道具を海岸に住む海人から調達し、山人の持つ穀物や毛皮等と物々交換し、濡れ手に泡の利益をあげていたののが、後に毛野と呼ばれることになる勢力。毛野は古代東国の総合商社だ。

890 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 07:41:04.45 .net
群馬県は熊谷県だったんだな。

熊谷県:
現在の埼玉県の大半、群馬県のほぼ全域にあたる

熊谷が空襲を受けたのはこのとばっちり=古い地図を見てでかい県の中心だとアメリカで勘違いされた。

891 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 08:05:32.94 .net
関東平野は弥生時代をすっ飛ばして古墳時代になったとはよく言われるな

892 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 08:13:27.96 .net
>>885
その交易相手の
>内陸民
とは海岸(荒川河口)からのルート及び距離からいって毛野ではなくて、北武蔵勢力のことではないのか?
北武蔵勢力は毛野を倒すにほどに力があったわけだし。

893 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 08:41:35.17 .net
海人になったつもりで一度、帆立船で荒川を遡上してみてくれ。

894 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 09:15:30.94 .net
自分は系譜上は紛れもなく海人族(和邇族)の血を引いているんだが海は苦手だw

895 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 09:42:23.20 .net
海賊のメッカは瀬戸内。 古代東国の総合商社とは、山賊の巣窟という意味か。 まあ伊勢商人の源とは、とても思えないわな。

896 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 09:45:57.17 .net
瀬戸内海はたいした難所もないド素人向けの海だよね。

897 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 09:47:00.03 .net
日本近海沿岸高校の最大の難所は鹿島灘だから。

898 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 09:48:12.15 .net
試しに鳴門の渦潮で泳いでみてくれ。

899 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 09:54:59.78 .net
じゃあ短頭絶壁のお前は黒潮に逆らって泳いでみろ。

900 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 09:57:03.16 .net
いや親潮と黒潮両方が合わさって東に流れてるのに逆らって霧の中犬吠埼から東に流されるのか。

901 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 10:01:43.13 .net
口を大きく開けて泳いでみせる。直ぐに小魚で腹一杯になるぞ。人間ウミウだ。魚は近くの海の家に売るんだ。

902 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 10:03:14.78 .net
島がいりくんだところは潮流はやいよ、瀬戸内海

903 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 10:13:09.35 .net
ウミウの採鳥地も茨城だし紅葉運河がうまく稼働してたら西回り航路要らなくなってたんだな。

904 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 10:28:22.82 .net
それは古代にはない。坂東武者の騎乗しての利根越えとは、あくまでも坂東太郎と呼ばれた暴れ川でしょう。

905 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 10:49:41.36 .net
日本最強の神様、天津甕星は茨城の海洋神だな。

906 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 11:41:38.08 .net
日本最強は、常陸国風土記にでてくる だいだらぼっちだべ?

907 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 13:26:25.29 .net
常陸平氏のうちの誰かが戦勝祈願でもしたというのかね。

908 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 13:35:22.66 .net
星辰信仰としては妙見信仰にバージョンアップしたと思われる。

909 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 13:48:49.51 .net
貴殿は、高島鑑定家の門人かね。

910 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 14:28:00.83 .net
以前、NHKで放送した「ラストニンジャ」という歴史ドキュメンタリーに甲賀に残る忍者の子孫、上野氏が出ていた。
忍者というのは、黒装束で刀を背負って敵陣に忍び込むのではなく、火薬や毒薬、当時のあらゆる先端技術に通じていたらしい。
全国に張り巡らされた情報網を駆使して、敵の大将の居場所を突き止め暗殺するなど、情報戦を得意とした。
甲賀は奈良御諸山まで続く毛野氏の情報網と重なる。

911 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 14:41:31.68 .net
誇大(古代)妄想

912 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 15:14:52.28 .net
腹が減っては戦は出来ぬというのは、戦国期のようで新しく感じる。青田刈り戦法もしかり。それでは古い食糧に関する文言は何か。
畦や堀を壊したものは死刑に処するという法律のようなものを見た記憶がある。これは飛鳥時代ごろであろうか。強く印象に残っている。
現在でも村の掟なるものが存在する。渇水期に河川から直接自分の水田にポンプアップして引き入れるのはご法度である。これを全員が、
行ったとすれば収拾がつかなくなるであろう。 幸いなことに入郷川沿いの水口の近くには、自然湧出の鉱泉ががある。毎分4リッター、
水温は13度で一年中変わらない。 毎分4リッターでも助かる。成分を分析したところ温泉法に該当するので平成2年頃に栃木県の、
薬務課に登録している。 源泉付近には、かつて湯小屋という建物があったらしい。

913 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 16:34:16.22 .net
大和朝廷から派兵された近江毛野(おうみのけぬ)は、6万人の兵を率いて出兵した。
磐井は新羅と内通しており、近江毛野が赴任した安羅の名を持つ安羅神社(滋賀県草津市)にはアメノヒボコが祭られている。
毛野氏は、中仙道を経由して毛野国と繋がっており、通信員を要所に配置していたと見られる。
近江は中山道と東海道が交わる交通の要衝で、毛野氏はここを抑えていた。その隠れ里が甲賀ということだ。

Wikiによれば、
前橋藩(まえばし はん)は、上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に置かれた藩。
はじめ厩橋藩(うまやばし/まやばし はん)といい、藩庁は厩橋城に置かれた。
---中略----
幕末の領地
---中略----
近江国
栗太郡のうち - 10村
野洲郡のうち - 2村
蒲生郡のうち - 1村

どうして、群馬県前橋市にある前橋藩が、近江に領地を持っていたか?
それは、古代近江毛野氏と東国の毛野氏の関わりを証明するもの。

914 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 18:08:21.19 .net
忍者といえば服部半蔵の伊賀こそが主流のような気がします。漫画でも伊賀の影丸です。
近江毛野氏に氏という文字はつかずに近江毛野のようです。どことなく現実感の乏しい名前ではないでしょうか。

記録上の初代征夷大将軍が大伴某かと思いきや、初代志能備(しのび)の者も大伴某という伝承があるのですね。

915 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 18:53:49.76 .net
伊賀には伊賀上野という地名があり、甲野というところもあります。
伊賀も甲賀も毛野と関係があるような気もします。
近江国彦根市に平田字下毛野という地名を発見しました。

Wikiによれば、下野国、今の佐野市付近に彦根藩領があったようです。

彦根藩領

下野国
安蘇郡のうち - 15村

916 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 19:13:39.96 .net
水戸藩と彦根藩の水上決戦および、それに続く桜田門外の変を否応なく思い出してしまいます。

917 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 20:41:49.66 .net
東国忍者の雄・風魔党は江戸時代、歌舞伎役者になりました。

918 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 21:49:59.60 .net
歌舞伎、能、人形芝居等々あらゆるものを全てひっくるめて毛野氏はモデルになったことはありますか。  何となく狂言には似合いそうですが。  ?

919 :日本@名無史さん:2014/08/30(土) 22:01:54.57 .net
能の鉢木
佐野源左衛門尉常世(実は毛野氏)の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。
常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする
前執権・北条時頼だったというお話
同様の話は、頼朝が東国に流されたときにもある

920 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 01:32:30.59 .net
>>918
毛野氏をモデルにすると左の方が発狂するんだよ
なにせ朝鮮半島を征服した軍団長の子孫の氏族だからなw

921 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 02:39:26.03 .net
毛人は「東国人」だろ

東国とは畿内や西国ではないという意味。
東国人には蛮族もいるし、都市に住むインテリもいる。
東国に来た畿内や西国の人間もいる。

役人の中心拠点は畿内だが、たまたま赴任先の東国に妻がいたときに生まれたのも毛人になる。

岩手人と東京人は全然違うが西国人でも畿内人でもない「東日本人」であるのは同じ。
毛人=蛮族ってすべて括るのは通用しないだろ。

でも「毛人を制す」も別に間違いじゃない。

毛人は99%畿内出自の赴任してきたインテリも、ナマハゲみたいなのもいたってだけ。

ではなぜ毛が東国を指すかというと、収穫の多い土地だからだろ。
二毛作は、「年に2回野蛮な反乱民が取れる」という意味ではない。
この毛は収穫という意味。

原初的な意味はそれで、「毛野氏」となるとまた限定されてて、これは氏族の出自も関係するから
毛野氏は毛野に住むが、「氏族としての毛野」の場合地域は限定されず

「近江毛野」はまた別の意味になる。出雲に毛野氏がいたかもしれないし、他にもいたかもしれない。
有名なのが近江と群馬栃木から茨城〜千葉にかけていたというだけ。

「田中さん」と同じだな 田中さんが多い地域はいろいろあるし、なんとか田中村もあるが
田中さんはどこにでもいるし、系図をみないとその田中がどこの氏族の田中なのか分からないのと同じ。

922 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 03:41:42.87 .net
ふつうに蝦夷の違う当て字でしょう。
富士の幾度にもわたる噴火で火山灰質の坂東が
>収穫の多い
土壌であるわけがない。
ましてや内陸の北関東なら魚も取れないし尚更のこと。

923 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 04:53:41.34 .net
中央の有力豪族が「蝦夷」=天皇に反乱する蛮族の名前をつけるなんてバカバカしいですw
どうみても「東国生まれ」という意味くらいしかないですね。
東日本人にはいろいろいて当然。岩手と東京も同じ東国人。

それとも蝦夷が朝廷を乗っ取ったとでもいうのかな?
天皇に女を出してるんだがw
ありえなすぎて天皇ユダヤ説と同じかと思うわ

924 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 04:55:58.46 .net
>ましてや内陸の北関東なら魚も取れないし尚更のこと。

この時代の南関東こそ不毛の土地だろ。
家康の時代まで湿地帯だらけだっての。
畿内はそもそも平地が不足している。

不毛の土地=収穫がない土地 の通りだな。
何げに使ってる言葉にそのまま毛野の意味が書いてあって説明するまでもない

925 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 04:59:16.01 .net
毛人

・東国生まれの意
・収穫が多い土地=縁起の良い言葉
・端の方にはいろいろ部族がいる。畿内からみれば毛人は毛人だろうが(畿内人じゃないから)

蝦夷=岩手の人間がヤマト王権を乗っ取った説を取り合うなら
「天皇はイスラエルから来た」を取るわ<<両方ばからしい

926 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 05:09:47.32 .net
奈良(京都)から10キロ離れれば「田舎」扱いだったから
京都から11キロ以上東ならすべて毛人の領域とも言えるね。

平安時代の本とかも洛外はすべてとんでもない場所扱いだし
ひとくくりにされてる=地球と火星の違いと同じ。

滋賀県すら毛人扱い、美濃から毛人扱い、 群馬からは毛人扱い
いろいろ許容範囲は違うが、毛人=東国人なので「南蛮人」と同じで区別しない人間もいる。

差別するやつもいるし、差別しないやつもいる。
これは今の時代も同じ。「東国の独立王朝が天皇に刃向かった それがすべて毛人」とかいうレベルじゃないな

要するに京都人のよくあるただの差別でしょ

「山手線以外は東京じゃない」 「埼玉は東京じゃなくただの地方だ」とか
「千葉は東京(圏内)じゃない」とかいうのと同じレベル

千葉が独立政府がある日本政府に反乱を企てる地域ではないけど
千葉は東京じゃない田舎だという人間はいるわけで。

毛人=毛人というアイヌ民族 っていう発想は
京都人の差別意識を舐めすぎてるな。洛外から1歩でればすべて蛮族扱いなんだよあいつらは。
平安時代の歌にも洛外に出た途端絶望して自殺しようとするやつが出てくるしな。

927 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 06:53:24.07 .net
農業という観点からしたら南関東だろうが北関東だろうが火山灰地で「不毛の地」だよ。
ただ南関東の方が海を擁している分はるかにまし。
てか、こんなのわざわざ言葉にするまでもないことだろうに。
それと、「毛」がそんなに好字ならば、何故「上野」「下野」と「毛」の字を省略したのかね?
「上毛」「下毛」とするはずだと思うんだがね(だいたいが「読み」からしたってそうするのが自然なはずだ)。
屁理屈じゃなしに納得いく答えを頼むわ。

928 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 09:34:42.87 .net
>農業という観点からしたら南関東だろうが北関東だろうが火山灰地で「不毛の地」だよ。
お前痛すぎw
しらっと嘘ばかりつくなよw
無知の知ったかの恥ずかしいヤツはいねーぞw

関東全域・浅間山だと思っているんだよなwww

929 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 10:49:54.93 .net
現代人と古代人の考える好字には差があるような、ないような微妙なところがある。
「上毛」だと全国に住んでいる若禿の人からすれば、上野の方が好いと考える。
「下毛」だと陰毛が連想される。 好字とは言い難い。
誰かが反対したのでしょう。 「毛」という文字自体は、両毛線、両毛地区、上毛高原駅、
毛利氏、三割三分三厘三毛、など多くのものに使用されています。
上や毛は、あくまで形容詞であって重要なのは野ではないでしょうか。

930 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 11:24:30.41 .net
関東ローム層
粘土質だから陶器を作るにま向いてるがな

931 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 11:26:30.85 .net
「さても上手や、空舞う鶴を落といた……見事や弓の姿」と鶴に結びつけて(坂東殿御の)弓上手を謡っている。
更に「武家奉公、なんぼう見ては良いもの」と坂東武士への憧憬につながって、「思ふ弓や、御前引かば……」と、
この憧憬が具体的なかたちに変わる。
田植歌謡圏(中国地方)に種々導入された話から、恰も映画やドラマの主人公に憧れるのと似たような形態で、
坂東武士(関東武士)に憧れたものであったろう。
「面影ばかり残して、あづまの方へ下りし人の名は、しらじらといふまじ」(『閑吟集』)とか、
「吾妻下りの殿は待たねど、嵐吹けとはさらに思はず」(狂言小歌・虎寛本・靱猿)などの気持ちである。
(『田植歌謡と儀礼の研究』、坂東憧憬と弓矢の章)

932 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 11:26:47.95 .net
埼玉あたりは土質改良をしなければ耕作に向かないから不毛の台地といえよう

933 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 11:28:03.86 .net
928
歌を残したのは禿げ坊主だが?

934 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 11:31:41.13 .net
武茂郷の小砂焼、少し南の益子焼、山を挟んで笠間焼。
上野の焼き物の里って、どこだっけ

935 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 11:33:39.26 .net
結局、近江の藤原秀郷も清和源氏新羅三郎義光もアメノヒボコ、 神功皇后( 息長足姫尊) 、応神天皇( 誉田別尊) の系譜に繋がるのです。
近江八幡市には、 誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊 、宇佐八幡、源氏の正統八幡太郎義家に繋がる日牟禮八幡宮もあり、
神武東征にあたり八咫烏に化身して神武天皇を導いた 賀茂建角身命を祭る 賀茂神社まである。
清和源氏の祖、清和天皇は、藤原不比等の子孫の藤原北家の藤原良房なのだから、近江は丸ごと新羅系であったことが良くわかる。
そして、常にその才覚で時の権力者に摺寄り、姻戚関係を結んでは家ごと乗っとる。
要するに 八咫烏をシンボルとする秦氏の得意とする生き残り策なのだ。
八咫烏といえば、高句麗の象徴、牛の角のある兜は高句麗の兵士のもの。高句麗が滅ぶと新羅に接近、よくやるな。
甲賀、甲斐、甲田は、兜であり亀の甲羅のことであり、高句麗出身の武装集団だった。というのが、今週の取り敢えずの結論。
来週はまた違うことを書いているかもしれないが。笑う。

936 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 11:53:23.76 .net
>>935
藤原秀郷は下野。常識だろ?
なぜ近江?
近江で暴れたという伝説は室町時代の創作だよ。

937 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 12:34:06.28 .net
便利だなあ

938 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 12:34:59.65 .net
藤原秀郷は下野国の鳥取氏というのが通説だけれど、
東国の豪族が、娘を中央の有力貴族の側室として差し出し、お手付きがあったとして実家で引き取り、藤原流を名乗る。
こういうことは頻繁にあったことで、本当に血の繋がった子かどうかは藤原氏もこだわらない。
お礼に佐野庄を荘園として藤原北家に寄進しましょうということになるわけです。

だから、秀郷は、何のお咎めもなく都でも藤原姓を名乗れたわけで、佐野市と彦根市が繋がったのです。
よくある話です。

939 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 13:36:56.95 .net
>>928相変わらずバカっぽく煽ってるな。見おまけに嘘ばかりだしてて恥ずかしい。
関東の利根川周辺なども火山灰地で農作には全く適していなっかた。
これが事実です。

とにかくもう来ない方がいいよ。

940 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 14:49:31.99 .net
家康は、あくまでも軍事上の力学的な観点から江戸城の北西あたる佐野付近、西にあたる多摩付近、南西部の荏原郡付近を彦根藩の飛び地にしたものと思われる。
従って、古代の秀郷がどうしたかとは全く無関係である。近江八幡宮とも無縁である。逆にここを排斥する方である。源氏を標榜しながら何故各地の八幡宮を排斥しなければいけないのか、
よく分かりませんが。 まあ近くは親藩で固めたわけです。 特筆すべきは、下野の大田原藩と黒羽藩です。関東でありながら外様として中世から地元に根付いています。  

941 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 15:18:48.45 .net
養子や仮冒を考慮に入れると
「父系系統では結局毛野氏じゃね?」
となる

そういや織田氏の宗家も父系で見たら織田氏じゃなくてすでに藤原氏なんだとか。

そうやって考えると、結局はその地域の多数派によって汚染されるのが血縁なので
源氏も平氏も大多数が毛野氏ではないかと。=系図上は繋がってても「父系」が繋がってるかどうかは分からん


徳川家慶のミトコンドリアDNAは、ハプログループM7aである

つまり徳川氏はM7aの父系遺伝子じゃないと家康の系統と名乗れないが・・

第8代将軍・徳川吉宗のミトコンドリアDNAは、ハプログループD4である

「あれ?」 父親の種がいつ変わったの?
系図は繋がってるはずだよねー?

942 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 15:47:52.72 .net
将軍が、将軍家、水戸徳川家、尾張徳川家、紀伊徳川家以外から出ていたということか。 ?

943 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 16:20:14.61 .net
嫡子でありながら争いが絶えない東国の統治を任された豊城入彦はいい迷惑だっただろうな。
崇神天皇に任命された理由が夢占いって可哀想すぎる。

944 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 16:54:47.95 .net
有能だから任されたと言える。

ただ親の基盤を継ぐのは公務員でもできるけど
「おい、日本の半分を今から征服してこい」は有能な子じゃないとムリ

無能の垂仁に兵団を任せたら天皇家は一瞬で終わってたはず
垂仁時代の反乱を武力鎮圧したのも毛野氏だし。結局垂仁は無能で子作りしてただけ。

嫁にすら殺されそうになるわ
畿内の反乱鎮圧すら八綱田に任せるわ。

どんだけ垂仁は無能なんだよ。

945 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 18:57:59.34 .net
天皇になっている。他の兄弟よりも優れていたのではないか。

946 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 19:56:50.18 .net
そして豊城入彦は火山灰地で草木も生えない土地や利根川を
徳川家康の祖先の首狩り族の恐怖に恐れながら開拓しましたとさw
(大嘘古事記より)

947 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 20:25:41.19 .net
赤リンゴ
http://ord.yahoo.co.jp/o/image/SIG=12ijuraur/EXP=1409570534;_ylc=X3IDMgRmc3QDMQRpZHgDMQRvaWQDYnV6emNkMmVnT284a0pNZWJjBHADNDRPdjQ0T0wEcG9zAzQEc2VjA2lzcgRzbGsDb3Jn/**http://www.sanspo.com/shakai/news/110123/sha1101230506001-n1.htm

青リンゴ
http://ord.yahoo.co.jp/o/image/SIG=121ms3g43/EXP=1409570534;_ylc=X3IDMgRmc3QDMARpZHgDMQRvaWQDYnV6emU5N2o3VFppeGpIYUUEcAM0NE92NDRPTARwb3MDOARzZWMDaXNyBHNsawNvcmc-/**http://www.flickr.com/photos/merec0/1311734498/

948 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 21:01:23.93 .net
>>941
少数民族による支配は、血の断絶で元の支配に戻る。
なんとかの法則とか言ってなかった?

949 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 21:29:44.95 .net
そんなに毛野国が年がら年中噴火してたとは初耳だな。
500年間隔くらいで、せいぜい前橋の近くくらいまでが耕作地として一時的に利用不能になる程度だったはずだが・・

そんなこというなら富士山がある南関東もすべて不毛の土地では?
九州も火山だらけで不毛の土地

はて? そうなると日本に耕作地はなかったのかな?
となると日本に人間がいなかったとなり
「おまえも存在してない」となりますねー

950 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 21:45:38.61 .net
毛野国はみんな弓矢と乗馬が当たり前のようにできた。
この時点で武士の基本要件はすべてマスターしてて
指揮についても村の不良どもと一緒にイノシシを追い回すのが日常風景だったので当然できた。

京都や奈良で偉そうにしてるやつ=源氏・平氏なんて
この基本的な武士の要件を満たしてないのが多い。
(そもそも集団で練兵する土地がないし、文化もなく、子供の頃から馬に乗って駆け回った家臣団もいない)

全米ライフル競技大会みたいなところが毛野国・毛野氏で
そこに迷い込んだ「さっき鉄砲買ったガキ」が桓武平氏・清和源氏

指揮官なんてアホでもできる=自分で刀を振り回すわけでもなし、バカでもできる。
明治維新でも官位だけの皇族が指揮を執った例が多い。
実際に前線に立てるのは3年5年訓練してないとムリ。

まあ熟練した指揮官+3年以上訓練した弓矢と乗馬ができる連中
の両方あって当たり前なんだが、片方だけでもそれなりに戦争にはなる。
置き石が指揮官でもいいってことだな。

よっぽどマヌケな指揮でもない限り、有能な兵士が多数いれば敵はかなり倒せる。

桓武兵士や源氏が何をしたかというと、何もしてないな。
全部毛野氏が教えてやった技術で、毛野氏の村がそのたびに参戦してただけ。

源氏の血統やら平氏の官位? そんなの役に立たない
置き石でも変わらん。
毛野氏が死にまくりながら必死に働いて、功績を桓武平氏や源氏が分捕っただけですね。
泥棒もいいとこだな。

951 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 21:57:24.18 .net
魚が生息出来るか否かの基準は鯉の数で推測する。一方地上では作物が栽培可能か否かは、蕎麦で決まる。
蕎麦が出来なかったら当分は苦しいであろう。毛野国には、蕎麦を挽くための水車小屋もなかったのかね。
利根川水系もあり、水量は十分ありそうだけれども。 ?

952 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 22:03:03.69 .net
自衛隊を見ても陸戦訓練は富士山みたいな広いとこしかできない。
(東京で戦車を動かせるわけもなし)

訓練しまくりの土地が毛野国周辺で、みんな弓矢と馬でイノシシを追い回すのが日常茶飯事だった。
「村のみんなが自家用の最新式戦車乗ってて戦車で集団訓練してた」みたいな土地

だから実際1度たりともまともに毛野国が外部から攻略されたことはないし、
逆に何度もそこら中を侵略してるのが毛野国

で、その訓練しまくった兵隊をつかってごちゃごちゃやって
偉そうにしてただけなのが関東の平氏や源氏

源氏や平氏の功績は過大評価過ぎだし
毛野氏の(村の)功績は過小評価されすぎだろう。

さんざん死にまくって働いて来たのに評価ゼロってのはひどすぎ。

で、その指揮官=「武士」の存在だけが素晴らしいという発想で
江戸時代以降に士農工商になって、武士が日本のいろんなとこに引っ越して(領地換え)
「さて合戦だ!」となったら惨敗しまくったのは

「指揮官なんて置き石同然」「(少数の支配層だけの)武士団なんて意味がない」の証明だったな。

武士団の本質は子供の頃から馬に乗ってイノシシを弓矢で追い回すならずものの同郷の集団でしょ。
これが分離された戦国時代以降はガラクタ同然になったのは当然といえる
→桓武平氏や源氏なんてゴミで、下働きしてた毛野氏の(村の村民)功績を過小評価しすぎ

指揮官じゃなくて下っ端だけど、ちゃんと功績が評価されてる例もある
スイス傭兵:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E5%82%AD%E5%85%B5

毛野氏はこういう評価も「兵力の出身母体としての評価」ちゃんとすべきだろ。

953 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 22:15:16.90 .net
毛野は縄文系の東国の原住民で、野山を駆け回って弓矢で猟をして生活をしていたから体は丈夫だが、武人であったわけではない。むしろ、戦いを好まなず、平和に暮らしていた。
そこに、豊城入彦や御諸別などの大和朝廷の軍団がやって来て支配しようとしたのだろう。
もちろん、祭ろわぬ荒蝦夷も居たけれど、大和朝廷は鉄製の武具を使っていたのでかなうはずもない。いいようにあしらわれたのだろう。
黒船が来たときの江戸の騒ぎと一緒だ。

954 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 22:17:31.54 .net
>>939間違えた。
X 関東の利根川周辺なども火山灰地で農作には全く適していなっかた。
○ 関東の渡良瀬周辺なども火山灰地で農作には全く適していなっかた。
これで完璧。

955 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 22:35:59.36 .net
毛野国では、犬追物や流鏑馬の跡地を大切に残しているのかな。 ?

956 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 22:54:33.28 .net
どこが完璧だよ、バカ。
そもそも毛野は農業なんかやってないよ。

957 :日本@名無史さん:2014/08/31(日) 23:41:09.30 .net
流鏑馬は一面的な技術にすぎない。
(でも道場剣道や日本刀がどうこうより1億倍マシ)

戦争になったときのその技術の有効度

合戦>>合戦訓練>>>集団騎乗でのイノシシ狩り>>>単騎の流鏑馬>>
学校の遠足・登山>>>弓道>>>竹槍訓練>>>薙刀訓練
遠足>>>おいしい味噌汁の作り方>日本刀訓練>>剣術>>>剣道

958 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 00:24:02.68 .net
毛野って言っても言葉は上下分割後に分かれたね。
栃木は茨城と一緒に東北弁文化圏に併呑されてしまった。
でも群馬はズーズー弁にはなっていないね。
これは何を意味するのか。

959 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 06:10:55.70 .net
北関東南関東よりも西関東東関東の方が文化的差異を説明してる。

960 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 07:27:20.05 .net
>>943
東に向かって槍を振った夢を自分で見たから仕方がない
一方の活目命は四方に縄を張って雀を追い払った夢を見たから天皇になった

961 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 07:30:23.26 .net
関東はドングリ食ってたんだよドングリ。
んでもってタンパク源はシジミなシジミ。
南関東でも海沿いや、河口部以外はシジミだよ。
目黒側なんてほんの数十年前までシジミがいっぱい取れたんだぞ。
それを大量に取って佃煮にして保存食にする。それで一年中保つ。

962 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 07:45:34.27 .net
何時の間にか東山道よりも東海道優位の時代になったからでしょう。毛野氏も忘れられるわけだ。
古代の東海道は磐城あたりをぐるっと回ったのに日本橋が終着駅だ。文化的に東西に差がでるのは、当たり前田のクラッカー(少し古いか)
ただし、「おらぁ、江戸っ子だぁい」 のベランベイ調は、茨城弁に近かったものと考える。定府制の水戸藩があったのが大きい。
多くの藩士は、江戸水戸間を行ったり来たりしていた。 水戸の商人も幅を利かすようになる。都々一坊扇歌のスポンサーは、水戸商人。
「江戸っ子の喧嘩と掛けて何と解く」
「十艘の屋形船に灯りが一つと解くワイナ」その心は、
「糞くらえ(九艘暗い)じゃないかいな」 よっ、お見事。

963 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 08:39:41.10 .net
日本橋ってぇより両国(隅田川〜旧利根川水系)だな元々は
下総と武蔵の境って事ではw

964 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 08:50:41.24 .net
水運としては第二の東京湾並みに霞ヶ浦は汽水の内海世界を形成していた。
陸路では上野の影響が強い。べらんめい調は上州弁が一番影響が強い。

ここのスレの栃木は霞ヶ浦の水系の鬼怒小貝川と茨城北部が河口の那珂川を接続してて阿武隈川とも流通路を成していた

965 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 09:03:09.65 .net
境は江戸川でしょう。
地上での喧噪をよそに漁業権は不変である。
詳しいことは江戸前の漁師に聞いてくれ。

966 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 09:09:47.67 .net
江戸川は放水路部分は勿論、ほぼ近世〜近代期の人工河川なんで在り得ないかな。
太日川というのであればまだ分かるんだが。

967 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 09:33:11.16 .net
おっしゃる通り。但し、渡良瀬川下流の太日川。
武蔵は広くなり、その分下総は狭くなった。
佃島の漁師も拍手喝采か。  徳川幕府のなせるワザ。

968 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 09:38:42.50 .net
その夢って崇神天皇が見たからじゃない?。

969 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 10:30:37.15 .net
上州の人にとって江戸前の握りずしや刺身定食を食べることは、夢物語なんだろうな。
一生その夢が叶わなかった人も大勢いるんだろうな。

970 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 10:53:32.20 .net
香取海が香取海のままなら首都圏の今日の蒸し暑さはどれだけ解消されていたことか…
あそこは親潮なので寒流の海風が吹き付ける。

971 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 11:36:58.36 .net
私は那珂川町(元武茂郷)から二輪車で道なりにほぼ真東に行ったことがある。すると高萩市に出る。海が見える直前にヒヤッとした。
体感温度で五度位下がった。すると海が見えた。親潮は冷たい。海水浴は八月上旬までだ。麹か醤油か独特の香りのする銚子も涼しそうだ。
気温というものは、寒暖差がないほうが健康には良いだろう。  たまには、良いことも言われるね。
葡萄酒づくりには適さないけれども。

972 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 12:37:24.82 .net
ドングリとシジミとは. ?  栗やクルミと鮭・鮎・山女・岩魚ではないのか。それと天然ウナギ。

973 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 12:55:29.05 .net
「緑の砂漠」の常緑樹林帯と違って落葉樹林帯は秋に季節性の採取漁労産物が豊富だから。

974 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 13:23:42.76 .net
鬼怒川か渡良瀬川を境にして三内丸山遺跡的な所と、そうでない所に別れるということですか。

975 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 13:28:17.46 .net
ちなみに柏餅を作る時の、葉のつく柏の木は、毛野国には豊富にあるのですか。

976 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 18:45:48.03 .net
>那珂川町(元武茂郷)から二輪車で道なりにほぼ真東に行ったことがある。すると高萩市に出る。
補足するとこの辺は首狩り・人肉喰い人種が栄えた地だったらしい。

977 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 19:08:36.54 .net
追い剥ぎという言葉を頻繁に使う年配者はいますが、どこかに首塚でもあるのでしょうか。
人肉は柘榴(ザクロ)の味がする。但しこれは、太平洋戦争帰還者の言葉です。
上州にも柘榴はあるのでしょうか。あればかつてを思い出して、とても食べられないのではないでしょうか。

978 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 22:16:07.65 .net
恐れ入谷の鬼子母神も、赤子を誘拐しては食っていた。
東京はおっかねえところだべ?

979 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 23:43:55.01 .net
関東は鬼子母神が多いよな。
元は渡来系の信仰か?

980 :日本@名無史さん:2014/09/01(月) 23:53:42.22 .net
関東平野は開発が進んで、湿原などなくなってしまったけれど、
利根川と鬼怒川が合流し、群馬と栃木と埼玉と茨城の交わる谷中湖遊水地辺りは見渡す限り葦原だし、遠く筑波山も男体山や赤城山も富士山も見えて壮大な景色です。

古代は関東平野全体がそいう豊葦原だったので、目印の山を結んだ結界、これが大事。

今週末辺りにまとめて書きます。

981 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 00:10:14.67 .net
元はナラやブナやカシの生い茂る白神山地状態だったんじゃないのかい?
それが度重なる焼き畑農耕とそれに続く馬の放牧で、森林は回復不能となり「武蔵野」の誕生と相成った、と聞いたが。

982 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 00:56:58.35 .net
畿内優先の観点からは垂仁が天皇と言えるが
征服先がヤマト王権の最前線だったわけで

九州説を取れば豊城が天皇ともいえなくもない。
「遠征してきた崇神」と「九州本国にいた何か」
の関係では崇神が序列1位なわけで

豊城入彦が(欠史8代)以外の”2代目天皇”でないとは言い切れない。

983 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 01:06:14.80 .net
「東征をしてきた先端が天皇の序列1位」であるから
崇神が1位なのはこのため
(崇神の前にも軍団長がいてそいつが1位だっただろう)

毛野氏が1位の可能性もある、畿内が天皇家とか言い出したのはすごい後であって
崇神とかは「天皇家の歴史」なんてものはないわけで

豊城が正当な天皇後継者である説はかなり有力。

「置いてけぼりのやつが1位」というなら、天皇は(神武・崇神ではなく)九州にいた居残り組のはずだが?
先端部分が1位なので、豊城こそが天皇家ですね。

群馬・栃木こそ帝国です。
応神にしたって、最前線のところの天皇だしな。
応神まではかなりあやふやだった。応神のときも参戦しているし、

「東国こそが天皇家の正しい末裔」、もしくは「畿内と同格」でしょうね。
三種の神器論争にもつながるが、毛野氏は初代天皇の崇神から能力を認定されてるのは揺るぎない=垂仁はどうみても劣った弟。

984 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 01:12:05.78 .net
八綱田w

毛野氏の八綱田は垂仁を殺せばよかったんだよ。
そしたら毛野氏が天皇家になれた。 他氏族の侵略じゃなくて「兄弟ゲンカ」だし問題ないです。

信長も兄を「合戦の技量で」降伏させたからな。

垂仁以降が天皇家をやれたのは毛野氏の温情です。
認定してやったのでは?

いつでもぶっ殺せるけどしょうがなく「認定」されたわけで
偉そうにいえる立場じゃない。

畿内が大韓民国皇帝で、東国が日本帝国天皇ってとこだな。
天皇が朝鮮の蛮族を「認定」してやって皇帝とかほざけたわけだな。

最初の天皇家の序列1位は豊城入彦です。血統と軍事力・能力とも備えてる。

985 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 01:14:57.88 .net
>>957
鹿狩り>猪狩り>剣術>道場剣術>流鏑馬

986 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 07:28:51.27 .net
>>983
豊城入彦第二東遷説に合意。
歴史は繰り返す。
九州の前は山東半島だし、その前はカンボジア?
元を辿れば人類発祥の地、西アフリカということになる。

このあと関東の神武の子孫はどこに向かえばよいのだろう?

987 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 08:08:46.50 .net
私は、一行も読んだことはありませんが、日本で最も多額の予算と人材と時間を投入して完成された、「大日本史」の中で崇神天皇やその皇子、氏族の評価は如何なものなのでしょうか。
何となく気になるところです。 

988 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 08:32:53.09 .net
征夷大将軍の次は帝かよ、やれやれ┐(´д`)┌

989 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 09:08:45.60 .net
何処に向かえばよいのかって、田子の浦にでも行って潮干狩りでもやってくれ。

990 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 09:33:10.05 .net
畿内が全軍でガチでやって倒せもしない東国毛野氏を
「家臣だった」というのはどうかなと。

冷戦期に朝鮮人がソ連を「ソ連は朝鮮半島の属国」とかいうのと同じだろ。
はぁ? って言われますね。

991 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 09:38:20.87 .net
そんな毛野氏も最終的には地下人(位階六位以下)だし
「ソ連は朝鮮半島の属国」とかいうのと同じとか、全然説得力ねー喩えだな

992 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 09:41:32.86 .net
出雲なんかもそうだけど、巧く懐柔されたんだろ
後の磐井とか蝦夷みたいに

993 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 09:50:05.02 .net
東国と畿内はどっちが強いかは壬申の乱の「東国勝利」で結着がついてるネタなので
こうして考えると名目上の首都だけが畿内であって

「初代天皇の崇神の意向」〜豊城が1位
「同列同士の争いの毛野氏の優位」〜垂仁は畿内の内乱鎮圧すらできなかった無能〜織田信長の兄と同じ。
「実際の保有武力」

のどれをとっても畿内天皇家と互角かそれ以上に見える。
単に強いだけではなく、血統と名目がすべて合わさってる

東国王朝というわけではないが、並列に近いし、また扱いも親王国とかで別格扱いだったのが事実。
ごちゃごちゃ入れ替わってて、物部や蘇我が途中で入れ替わったのではないかと出自も後々怪しくなる畿内天皇家と違って、
毛野氏は「汚染」されてないし純度も高い。

神武東征はたまたま東国で終わりだったのであって=端まで来てしまった。
関東の隣にもっとアメリカがあったら天皇の王位は完全に前線基地の東国のものだったはず。

最初はかなりあやふやだったはず。
崇神は豊城を実質的な後継者だと思ったのは間違いなさそう。
それでなくても「豊城と垂仁でこの国を治めよ」みたいなことを言ってたかもしれない。
で、あとで畿内がなぜか単独1位みたいなことを捏造しだしてそれが定説になっただけ。

軍事力の観点から言えば、相当地位があやふやと言える。
「最大の軍事力を持つ者が最大の権力者=天皇」な点から言えば・・・
軍団の指揮権すら垂仁にはないわけで、どっちが天皇かとw

東国の毛野氏はその都度任命される派遣将軍となんか違うんだよな。

994 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 10:00:35.52 .net
日本書紀は国史の中でも特に恣意的に編纂されているし、中央(畿内)に都合良く
記述されている蓋然性は少なくはないしね。
所謂「欠史八代」と暦年変換の絡みとか、支那史書の「五王」を誰に比定するか……
まぁ今後の考古学とか文献学(銘文等の)研究課題は多いと思うよ、実際のところ。
戦後は特に崇神天皇=神武天皇と比定する見方が根強いしね。

995 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 10:05:09.23 .net
壬申の乱で「強かった東国」ってのちの坂東のことか?
美濃とか近江あたりのことじゃないのか?

996 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 10:05:17.78 .net
私も人並みに国語辞典を持っている。小学館発行とある。後ろの方には年表も付いているので、見て見れば最初は応神天皇で次が仁徳天皇その次は欽明天皇とある。何代にもわたり省略されている。
社会・文化欄には倭奴国王、後漢に使いをやり、金印をうける。人名の登場である。以後、卑弥呼、曽我氏、物部氏、聖徳太子、小野妹子、犬上御田鍬、額田王、柿本人麻呂、山上憶良等登場する。
私の辞書の年表には、毛野氏の記載はない。これが現実であり世間の評価。誤魔化しやペテン師的言動は許されない。毛野氏の治績の99.99%は歴史の闇に消え去ろうとしている。一歩一歩着実に。
時々、断末魔のように風前の灯火となった縁者の声が赤城の方から轟き渡る。今年の冬には例年にはない厳しい赤城おろしが吹き荒れそうだ。冬支度は早めに済ませた方が良さそうだ。湯治は草津か。

997 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 20:12:46.66 .net
>>995
天智は九州勢の力を借りようとした。
天武は東国・美濃あたりだが、美濃の先の毛野国も参加している(はず)

天武期に上毛野は朝臣を賜ってるし、かなり重用されてる、
東国から兵を借りたのではないか。

毛野氏は天智勢力に加勢はしてない<もしそうなったら天武を挟み撃ちにできたわけで。

998 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 20:28:40.33 .net
天武は美濃に臨時に王朝を立てようとしたことからも
隣の上毛野氏との関係も良好だったのでは?
(九州にはぶられた天智と違って)

もしくは天智が九州を動員できなかったように
天武は東国を動員できないとすると
「畿内は他の国だからしらない」扱いかもしれない、指揮権がないのは別の国では?
これだとかなり日本地図が違ってくるな。

せいぜい朝貢関係・畿内の軍団の東山道の通過権限くらいか・・・

信長と家康の関係? 信長はいつでも家康を動員できる関係でもなかった
(軍事的には同盟関係であり、家臣ではないので、「お願いする」立場、たまに断られる)

鎌倉幕府だと動員できたんだが、断ったら大問題だったし。
680くらいまで、畿内と九州・東国の関係は鎌倉幕府くらいの関係ではなかったのかな?

おもしろいですね。

999 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 20:35:12.97 .net
壬申の乱を見ても 毛野氏がマジになったら小規模な戦闘だらけの畿内と違って
動員数が1桁違うような気がする。

尾張が2万参加で形勢逆転?
なら毛野国は5万くらい動員できるのでは?

兵力数を見たらどっちが天皇だか分からんな。
自主権があるってのが・・・「ヤダ」って言える立場なら家臣じゃなくて
せいぜい日米同盟くらいだろ。
同盟ってことは「他国」と同じ。

大和王権の構造が従来説とは違うのではと。

1000 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 20:54:25.33 .net
2万に対して5万?
その数値の根拠が不明すぐる

それと壬申の乱以降、毛野氏は六腹等「朝臣」と
破格の待遇を受けてはいても、その後がジリ貧の連続
白壁王(天智系)以降は結局大半は地下人まで落ちるし
なので「どっちが天皇だか」って表現はちょっと滑稽じゃね?

1001 :997:2014/09/02(火) 20:55:54.86 .net
白壁王=光仁天皇

1002 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 21:30:23.33 .net
684年(天武13)に制定された八色の姓(やくさのはばね)、その5番目、道師(みちのし)、こそ、道の管理、流通や情報伝達をつかさどる毛野に与えられるはずの姓(かばね)だった。

ところが、その直後、天武天皇13年(684年)に起きた南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震(白鳳大地震)、つまり、南海トラフ巨大地震と推定される地震が発生し、東国との連絡網が途絶えてしまった。

これが、八色の姓に5番目、道師(みちのし)野縫製されなかった本当の原因である。

いやー、歴史的な大発見ですね。自分でもビックり。

こんなところに書いていいのか?(笑う)

1003 :日本@名無史さん:2014/09/02(火) 21:32:56.89 .net
間違った。orz

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