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食物と酒、嗜好品の歴史@日本史板 2皿目
- 1 :日本@名無史さん:2014/07/02(水) 21:37:11.30 .net
- 前スレが1000レス間近で落ちましたが、引続き
日本の食文化の歴史全般について語りましょう。
前スレ
食物と酒、嗜好品の歴史@日本史板
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1322991797/
- 525 :日本@名無史さん:2015/11/16(月) 13:18:01.44 .net
- 頭にネクタイ巻いて折詰持ってってのが正しい酔っ払いだな
アレは詫びのつもりなんだろうか
- 526 :日本@名無史さん:2015/11/16(月) 13:27:49.60 .net
- >>525
奥さんに詫びてるんだとしても折り寿司食うのは子供だよな
子供に食わせず自分で食ってたカーチャンも居たのかね
子無しの夫や実家住み独身でも妻や母に買ってたんだろうか
- 527 :日本@名無史さん:2015/11/16(月) 15:00:19.47 .net
- 熟睡しているところを叩き起こされて食うと味もなんも判らんのな
後から結構な高級店の寿司と聞いて残念に思う
- 528 :日本@名無史さん:2015/11/16(月) 17:08:06.32 .net
- 朝飯が寿司だったり、いつも遅刻ギリギリまで寝てるから、学校に寿司持って行って
朝飯代わりに食ってたりしたよ、俺は (^^;)
- 529 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 01:17:06.96 .net
- 恒例になっている駅のながら歩き防止キャンペーンで、
数年前のポスターにあった「よっぱらいながら〜」の
人は片手に四角い折をぶら下げてふらふら歩く絵だったな。
- 530 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 12:19:51.61 .net
- 木曽義仲の大好物で、中納言義高公にも振る舞った、平茸の汁って、どんなものだったんだろう?
- 531 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 12:48:09.19 .net
- そんなに想像しにくいものだろうか
- 532 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 13:17:12.23 .net
- 水に塩とヒラタケぶち込んで煮たような粗末なものでは
- 533 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 13:50:29.10 .net
- >>526
アメリカだと奥さんへの贈り物を渡すもんだって聞いたことがある
旦那へは、その贈り物を受け取って喜んでる奥さんの笑顔がプレゼントなんだって
- 534 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 15:28:00.54 .net
- >>530
平茸の汁、気になるね
味噌味なのかな?塩?
獣肉も入ってたらいいな、兎とか猪とか鹿とか、あるいは雉とか
- 535 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 15:50:13.43 .net
- 平家物語『猫間』の段ですな。猫間中納言が何かの使いで
訪れた時、義仲は器に飯をうずたかく盛り、新鮮な平茸の
汁を添えて歓待したが、食器が不潔で、中納言は箸を付ける
こともできなかったと。
- 536 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 16:00:46.96 .net
- 食器が不潔ってどういうことだろ
まさか洗ってないものなんかじゃないだろうし
漆塗りなどの華美な器じゃなく
白木をくりぬいただけの塗装も無いものだった、とか?
- 537 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 16:33:52.53 .net
- >>534
きのこ汁は出汁がうまいんやで。
肉入れるとか分かってへんなあ。
- 538 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 17:54:43.57 .net
- >>536
器は『田舎合子』とあるから白木の椀だったのだろう。
使い込んで色の変わったようなのを出したのか?
昔は水の乏しい村里では器は洗わず拭う程度のところも
あったというが、源氏の御曹司の義仲がまさかな…
- 539 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 18:48:25.48 .net
- >>538
桂川に鴨川に井戸も掘ればどこでも清水湧き放題で京都は水が沢山使い放題だからというのも都を遷す決め手だったのに。
- 540 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 18:54:08.14 .net
- 途中の戦陣はともかく木曽も水多そうだけど
- 541 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 18:56:17.57 .net
- >>538
合子だから、蓋の付いてる器だろうよ。
くりぬいて漆をかけた椀ではなく、曲物の塗ってないものだったんだろう。
- 542 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 19:15:42.01 .net
- 都会の合子と田舎合子はどう違うの?
- 543 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 20:25:31.53 .net
- 本式のきりたんぽは、比内地鶏と舞茸を入れる贅沢な味だけどねw
- 544 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 21:05:52.05 .net
- >>542
漆塗ってるのが都会
渋塗りなのが田舎かな
- 545 :日本@名無史さん:2015/11/18(水) 22:57:56.09 .net
- >>542
都会の合子 → 蓋の付いる吸物椀
田舎合子 → わっぱ
- 546 :日本@名無史さん:2015/11/19(木) 00:22:00.64 .net
- >>536
「それは義仲が仏事に使う椀じゃ」
とか言われて、仏さん用の椀だと聞いて食欲無くしたと聞いたことが。
本人はこれは仏さん用の大事なお椀だという、善意のつもりで言ってる。
あと無塩の平茸は都の人には珍しかろうと言われて、びっくり仰天したそう。
義仲は生ものならなんでも無塩だと思い込んでいた。
- 547 :日本@名無史さん:2015/11/19(木) 07:13:17.42 .net
- >>546
「無塩の平茸」という言葉の何が間違っていたんだろう
無塩ということばはふつう平茸には使わない表現だったのだろうか
- 548 :日本@名無史さん:2015/11/19(木) 11:57:26.92 .net
- 本当なら田舎仕立てで塩っ気たっぷり辛い汁にしたかったけれど
中納言さんみたいな高位のお公家さんなので超うす味に仕立ててみました
- 549 :日本@名無史さん:2015/11/19(木) 23:34:32.83 .net
- >>547
鮮魚に用いる言葉だから
- 550 :日本@名無史さん:2015/11/20(金) 05:58:46.34 .net
- >>549
無塩の鯛、とか 無塩のひらめ
とか言うわけか
川魚以外、京都じゃ「無塩の」魚はなかなか手に入らなかったんだろうなー
- 551 :日本@名無史さん:2015/11/20(金) 15:10:23.91 .net
- 一方、東北・北陸・中央高地では、茸類の塩蔵保存が割と一般的
- 552 :日本@名無史さん:2015/11/21(土) 20:56:49.12 .net
- >>544
気の張る客に供する食器としては、白木の方が格上だね。
- 553 :日本@名無史さん:2015/11/22(日) 14:07:13.93 .net
- 案外日頃食べてる田舎料理のほうが上手に出来てて喜ばれたりして。
- 554 :日本@名無史さん:2015/11/22(日) 16:08:56.38 .net
- 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
- 555 :日本@名無史さん:2015/11/22(日) 16:09:25.42 .net
- 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
- 556 :日本@名無史さん:2015/11/22(日) 19:46:07.42 .net
- >>553
あるある
- 557 :日本@名無史さん:2015/11/22(日) 21:41:07.81 .net
- どうだろ。京都人は京都至上主義、京都原理主義だからなあ。
- 558 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 00:30:56.34 .net
- >>550
新聞に載っていたが、平安貴族の食事は平坦な
味付けだっただろうということ。
調味料は塩のみで、醤油も味噌もまだない。
甘味は甘葛の汁くらいで砂糖はない。
また京都では鮮魚が入手困難で、たまに鮮魚をもらえると
「無塩だ!無塩をもらった!」
貴族がたいそうはしゃいで日記に書いてたそうだ。
なんでこんな場所を都にしたんだろう?
夏暑くて冬寒いし。
奈良からの遷都のとき、大阪の水辺にすればよかったのに。
- 559 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 05:55:26.78 .net
- 当時の大阪は見渡す限りの湿原でねえ。
本格的な開発が始まるのは秀吉以降。
大阪に限らず、古代日本の海岸や川岸は湿原が多くて
居住は困難だった。だから都城は内陸部が多い。
- 560 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 17:19:34.02 .net
- >>559
石山本願寺があったじゃん
- 561 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 17:34:37.81 .net
- 石山ってくらいだし岡だったんでしょ
周囲は湿地だろうな
- 562 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 17:40:56.92 .net
- 石山本願寺は周囲に川が多くて、
包囲しても水路を使って
入り込まれるので、
兵糧攻めができなかったんだっけ?
- 563 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 18:01:42.85 .net
- 確かに本願寺はあり門前町もあったが、その頃の経済の中心地は
堺だった。秀吉が本願寺跡地に大阪城を建て城下町を整備すると、
中心地は大阪の町に移り堺は衰退した。本格的な市街地の開発・
整備はやはり秀吉以降。
- 564 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 19:56:49.86 .net
- >>559
大王は神なんだから水鳥のすだく水沼くらい都にできるでしょ(すっとぼけ)
- 565 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 20:34:16.00 .net
- 関東でも、古代の武蔵国の国府は内陸部の府中だったし、
鎌倉〜室町期の経済の中心地はやはり内陸部の川越だった。
江戸の湿原を埋め立てて開発したのは家康で、近世の
技術力と資本力がないと、大阪や江戸のような港湾都市の
開発は難しかったのだろう。
- 566 :日本@名無史さん:2015/11/23(月) 22:14:37.74 .net
- 長島や吉崎なんかも考えたら一向パワーすごいな
- 567 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 00:22:11.98 .net
- >>559
じゃあ福原を都にしようとした清盛って慧眼じゃ?
福原首都なら無塩も食べ放題だったのに。
- 568 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 09:40:22.78 .net
- >>557
少なくとも食い物に関しては、京都人は進取の気風に富んでいるよ。
明治の早いうちから洋食や中華の美味を理解して旦那衆が舞妓さんと食べに行っていたくらいで。
- 569 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 13:02:48.35 .net
- 今もパン食が多いんだっけ
- 570 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 14:23:03.26 .net
- >>568
舶来の洋食や中華は取り入れても、日本の田舎の食い物は
馬鹿にして無視のヨカソ。
- 571 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 14:27:56.60 .net
- 古典的京料理ってのは、ある意味、究極の田舎料理と思わなくもない。
漬物とか煮物とか豊富で美味いよね。
- 572 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 15:29:17.41 .net
- >>570
どうだろうね。
同じく美食の都として名高い金沢では、田舎料理もまたバラエティーの一つとして受容されていると丸谷才一が「食通知ったかぶり」で指摘しているよ。
- 573 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 16:17:29.71 .net
- >>565
府中や川越のようなド田舎が関東の中心だったとは
変われば変わるもんだな
ところでそれは根拠というか出典はなに?
- 574 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 16:25:28.51 .net
- 国分寺に本当に国分寺があったのにはちょっとびっくりしたな
新田義貞の失火で消失ってのもちょっとびっくり
国分寺と立川の間だから国立にはもっと驚いた
- 575 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 16:32:54.42 .net
- >>573
「武蔵国の国府は府中」に根拠?
- 576 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 17:23:45.55 .net
- >>573
川越だが、家康が関東に転封させられたとき、拠点を小田原か鎌倉、
もしくは川越にしようかと最初は思ってたそうだ。
それくらい栄えてたんだろう。
- 577 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 19:00:19.52 .net
- 荒川を川舟で遡るのは川越あたりが限度で、そこから荷駄を馬に
積み替えて運ぶ。川越は物資の集散地として栄え、江戸時代には
「小江戸川越」と呼ばれた。戦国時代には北条氏の関東制覇の
ターニングポイントとなったのは川越城の攻防。「川越夜戦」での
北条氏の勝利が決定打となった。
- 578 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 19:13:03.16 .net
- 山内上杉家の地盤が上野にあったのが大きいんだろうね
- 579 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 20:12:43.49 .net
- まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
- 580 :日本@名無史さん:2015/11/24(火) 20:13:10.03 .net
- まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
- 581 :日本@名無史さん:2015/11/25(水) 01:07:53.21 .net
- >>559
奈良や京都みたく山の中に引っ込まなくても、
海に程近く河川の氾濫からも逃れられる
安全な平地がありそうだがどうだろう?
- 582 :日本@名無史さん:2015/11/25(水) 03:32:47.30 .net
- >>577
>>576
今はサツマイモしかねーようなクソ田舎川越が、昔は都会だったとは
胸熱
- 583 :日本@名無史さん:2015/11/25(水) 10:11:39.50 .net
- >>581
海の近くは塩害が起きやすいんだよ
- 584 :日本@名無史さん:2015/11/25(水) 23:51:43.33 .net
- >>571
内陸部だから基本的に塩ッ辛い
料亭や出汁文化は船場文化が輸入されたようなもんだからね
- 585 :日本@名無史さん:2015/11/26(木) 00:22:08.78 .net
- 大阪の料理人からすると、鮮度は京都より上って思ってるんだろうな、刺身の事を
「割鮮」などと、鮮度を強調して呼ぶ人もいるしな
- 586 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 00:39:20.19 .net
- >>577
川越は東京から約50km。江戸時代には既に水運を活用して鮮魚を持ち込むことが可能になっていて、実際に川越の割烹では刺身が供されていたとか。
「ならば京都も大阪から約50kmなのに、何故食文化がモロに内陸のものなのか」と世界史板で質問したら、標高が全く違うからと解説があった。
確かに大阪から京都まで水運はあったが標高差がかなりのもので、鮮魚の輸送コストは大変なものだったらしい。ほぼ水平で船が容易に上れる川越とはそこが違うとか。
- 587 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 00:53:57.62 .net
- >>586
嘘くせーw
と思ったが、京都は五条大橋あたりで30m、桂離宮あたりで20m、川越は、新河岸が10mくらい、
確かに標高差はあるけど、天下の皇都と一地方都市とでは、需給の程度差が大きすぎるように思うけどなあ。
琵琶湖も近いし、川魚とかの消費も多かったとかではないんか。
- 588 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 01:52:35.30 .net
- 金持ちは食えても街に文化として根ずくほどの量は入ってこなかったって事でしょ
- 589 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 02:24:48.24 .net
- そもそも>>586はなぜ世界史板で質問したんだか、完全に板違いじゃんか。
>>588
京都より川越の方が金持ち多かったの?
- 590 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 02:37:29.47 .net
- >>587-588
勾配がきつい川を遡行するというのは、つまり所要時間もかかるわけで、海産物を新鮮な状態で運ぶ(船に積んだ水槽を使う)にせよ歩留まりが悪くなる(あらかた死んでしまう)。
だから海からの距離は川越と同じでも、京都では鮮魚は入手不可能ではないにせよ、貴重品ではあったんだろう。
因みに生命力の強い鱧は時間を掛けて運んできても生きているので、京都でも容易に入手できる鮮魚として人気を集めたんじゃないかな。
余談ながら「海水掛けた藁苞に鱧を入れて運ぶ」というのは流石に無理があるらしいです。京都まで生きている場合も確かにあるけど、大概は死んでしまうので商売にならないとか。
- 591 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 02:40:27.81 .net
- >>589
世界史板の食物スレには結構日本の事例が登場します。外国との比較をする場合もあるし、やはり書き込んでいる人たちの殆どは日本人ですし。
逆はあまり無いけどね。
- 592 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 05:21:02.66 .net
- >>586
加茂川は浅いし狭いもんなぁ
そういうこともあったかもしれん
- 593 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 05:29:39.03 .net
- 京都は日本海側から魚を調達してた
鯖街道とか名前そのまんまの輸送ルートがある
- 594 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 10:07:13.36 .net
- 鱧なんかは海水はった桶に入れて生きたまま運んでいたはず
- 595 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 10:44:11.09 .net
- >>594
そうそう。生命力の強い鱧はそれで生きたまま京都まで運ぶことが出来た。
野菜が美味しくて質の良い川魚が手に入っても、やはり新鮮な海の魚は別格だったんだろうね。
- 596 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 11:24:36.83 .net
- 鱧の生命力とやらは単に皮膚呼吸が出来るからだけナンだけどね
- 597 :日本@名無史さん:2015/11/27(金) 12:06:51.61 .net
- >>589
川越は金をそんなにかけなくても運べたんだろ
自転車で多摩川〜入間〜荒川って回ると、
多摩川から入間川に移動するときにかなり下ることになってびっくりする
- 598 :日本@名無史さん:2015/11/28(土) 00:57:24.32 .net
- >>597
淀川水系の水運はそれなりに盛んだったわけで、
川越が一定の集積地で繁華だったのは分かるにしても、
海産の鮮魚を持ち運ぶことができないほどだったとは思えないんだけど、
>>587>>593の指摘にもあるよに、大阪湾からの海魚の運搬に
それほどの意義がなかったという見方の方が説得力ある気がするのだが。
- 599 :日本@名無史さん:2015/11/28(土) 12:57:21.24 .net
- 昔は鯉の刺身があったんだな。
中世人はよほど丈夫だったのか。
- 600 :日本@名無史さん:2015/11/28(土) 13:09:14.67 .net
- 洗いは刺身に入らないのだらうか
- 601 :日本@名無史さん:2015/11/28(土) 18:12:25.49 .net
- >>598
北岸は高槻、南岸は枚方を境にして同じ海魚の料理の名前が変わったそうな。
川下では造り、川上は刺身だったそうです。
- 602 :日本@名無史さん:2015/11/28(土) 20:54:23.47 .net
- 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
- 603 :日本@名無史さん:2015/11/28(土) 20:54:38.97 .net
- 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
- 604 :日本@名無史さん:2015/11/29(日) 16:08:35.38 .net
- >>599
細川勝元は相当な鯉グルメで
これは淀川の鯉だとか産地まで当てていたとか
- 605 :日本@名無史さん:2015/11/30(月) 10:57:14.41 .net
- >>595
難波・大坂は昔から食べ物の美味しいところといわれてたし、口実を設けては大阪湾方面に出向いていたしな
- 606 :日本@名無史さん:2015/11/30(月) 11:07:10.03 .net
- >605
難波宮なんてのもあったし、そこを都でよかったんじゃ?
- 607 :日本@名無史さん:2015/11/30(月) 12:53:37.85 .net
- >>604
ちゃんと泥抜きしないと臭いらしい、鼻が良かったのかもな
- 608 :日本@名無史さん:2015/11/30(月) 17:14:59.61 .net
- 港湾施設も海運業も未発達の時代には、海辺に都を構える
メリットはあまりないんだよ。むしろ畿内なら琵琶湖の
水運の方が発達してた。
- 609 :日本@名無史さん:2015/11/30(月) 23:29:17.48 .net
- >>608
海運が栄えてきた室町から江戸時代だと、朝廷の力が
衰えて、遷都どころじゃなかったんだろうな。
- 610 :日本@名無史さん:2015/12/01(火) 04:00:26.03 .net
- 廻船問屋があったり北前船で船場商人が大儲けしてたこと見ても海運は発達してたでしょ
川の方は、天井川になったり河川の水位が低くなったことで大型船の行き来ができなくなってたことが大きい
明治になって淀川を深くするためにフランス人技師呼んで巨大鉄球で深くしてたりしてる
ポイントは幕府ができて京都の商業的重要性が低下したってことでしょう
- 611 :日本@名無史さん:2015/12/01(火) 06:06:02.47 .net
- >>609
その時代になると実権者は武士になっていたからね。
それでも、秀吉や家康みたいな天下人クラスでないと、
大阪や江戸のような大規模な港湾都市の建設は難しかった。
- 612 :日本@名無史さん:2015/12/01(火) 15:03:07.31 .net
- >>568
>少なくとも食い物に関しては、京都人は進取の・・・・・・・・・・・・・・・・
明治以前の京都・大阪人は、生野菜も平気で食べていたのか?
52 :名無しさんは見た!@放送中は実況板で:2015/10/30(金) 15:11:16.38 ID:7vO1nTbSO
この時代の人って野菜に火を通さないで食べる習慣あったのかな?
漬け物とか薬味にする以外(キャベツきゅうり・・・・・・・・・・・・・・・
NHK連続テレビ小説「あさが来た」part44 [転載禁止]c2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/tvd/1446180146/52
- 613 :日本@名無史さん:2015/12/01(火) 15:06:17.66 .net
- 冷やした胡瓜スイカ瓜は食ってたんじゃない?
- 614 :日本@名無史さん:2015/12/01(火) 21:08:22.22 .net
- >>613
洛北大原三千院参道露店夏場の胡瓜バーが、明治以前からの古参名物だと?
- 615 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 13:33:35.60 .net
- >>613
中国経由渡来で中央アジア以西原産食物には、胡瓜、胡麻、胡椒、胡菜、
胡蒜と胡○という名称が多いが、縄文時代遺跡から出土するクルミまで
胡桃と表記されるのは何故なのか?
- 616 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 14:40:20.16 .net
- 転載
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1442073441/537
537 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 13:28:48.85
日本では従来、獣肉は食べられなくて
キジや鴨、鶴など野鳥のみを食べてたと言われますが
野鳥を安定して弓矢で捉えるのは難しかったと予想されます。
また、鉄砲が伝来して以降も硝石は高価で今と違い狙いもつけにくい銃では
狩りに使えるようになったのはかなり時代が下ってからでしょう。
と考えるとキジ、鴨等、食べても良い肉類は
一般人はなかなか手が出ない超高級品だったのでしょうか?
- 617 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 15:48:39.04 .net
- 洋の東西を問わず、昔は先っぽにトリモチを塗った棒を使って小鳥を粘着させて取った
大型の鳥は鉄砲で撃つ
鴨などは‥水面に網を打つ
小鳥を絡め取る細い絹糸で編んだ鳥に見えにくい霞網も使う
一番手軽なのは庭先で飼っているニワトリを絞める
ま、今夜は鳥にしようと肉屋でちょいと買って帰るような便利な現代のようには行かない
- 618 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 15:59:16.84 .net
- >>558
奈良から遷都ったって、奈良時代、平城京は京として機能していなくて、難波京が首都だったんだよね
東日本・北陸の開発が進んで、瀬戸内海方面にも北陸・山陰にも東海道にも連絡の良いところとして平安京に遷された。
- 619 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 16:04:36.95 .net
- >>565
仁徳天皇の時代に、難波京を造営してるけど・・・・・・
三年の免租をやりながら、茨田堤やら難波堀江やら百舌鳥の巨大墳墓とか作らせてるから、技術と動員力は有ったんだろうけど
- 620 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 16:16:58.11 .net
- 香ばしい子が来たな
- 621 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 17:50:54.33 .net
- >>606
実際に奈良時代まで難波京が首都だった。
宮と京とがあって、普段は天皇の生母とか大臣とかの氏族の所領の宮(屋敷)に天皇が住んでいる。統治は各地の有力氏族に殆ど放り投げ。
恒久的な都市としての京は長らく難波だけ。火急時には天皇も京に出向いてきて各地の氏族にも召集をかける。
藤原不比等が大臣の時分に氏族間のパワーバランスが崩れてしまう。
自分の領地に宮も京も持ってこようとして強引なことをしたけれど、奈良は交通の便がよくなくて京には向いていない。
陪都という名目で残した難波京の方が本物の首都で、奈良は離宮のようなもの、という状態が80年くらい続いた。
- 622 :日本@名無史さん:2015/12/02(水) 19:01:15.64 .net
- >>616
>一般人はなかなか手が出ない超高級品・・・・・・・・・・・
質問文出だしから察して、殺生禁令が浸透していた鎌倉期から江戸期までの
一般人?=被支配階層の野鳥の入手難易質疑なのだろうが、居住地によるだろう。
稲作に付き物の雀は、百姓なら入手容易だったろう。中世以降の伏見稲荷参道
名物が、焼き鳥だったし。
弓矢に長じた或いは鷹狩りのおこぼれにありつける民衆もいただろう。
近世の加賀国では、「坂網」という団扇のお化けのような投網で鴨を
捕獲していたらしい。
坂網猟法と用具(一組)
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/minzoku/k1-1.html
- 623 :日本@名無史さん:2015/12/03(木) 03:01:06.25 .net
- >>622
雀は農民が獲っても怒られなかった
弓矢や鉄砲は使えないから、網で捕まえてた
こっそり鶉とか鴫とか鶫とかも捕まえていたようだけれど
- 624 :日本@名無史さん:2015/12/03(木) 13:12:31.23 .net
- >>617
鶏は食べないよ
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