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因島・中庄在郷の陣貝(石名)松浦氏。

1 :24代目:2014/10/23(木) 17:10:26.28 .net
因島に名門・茶臼山城主松浦家あり。
光明寺の松浦観傳さんの資料を
紐解きながら、謎を解いていきます。

因島で確実に史実で明らかなのは1,500年の合戦。
松浦宗義の妻・妙泰夫人は、主人の
影武者として、男装して一族郎党と共に
奮戦するも土生村の赤牧でついに戦死。
「妙泰神社」に祭られています。

2 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 17:23:15.34 .net
以下、松浦厨隔離スレ

3 :日本@名無史さん:2014/10/23(木) 17:30:00.85 .net
現在の松浦家は3つに分かれています。
10代目の松浦太郎左衛門尉 盛光の時に
本家の陣貝(石名)と徳永松浦、釜田松浦に
分家。

「なんでも鑑定団 愛のエメラルド氏」は本家
17代目鶴本屋(たるまん)弥八の系統で24代目に当たります。
「万田発酵」オーナーの松浦新吾郎氏は釜田松浦家の田中屋初代
清助から11代目にあたります。

4 :茶臼山城主:2014/10/23(木) 17:50:37.27 .net
結論
馬鹿と煙と松浦は高い所が好き

薄っぺらいかどうかはわかりませんが
私の祖先のことがかなり分ってきました。
昨日まで広島県因島中庄で祖先のことを調査したんだが
私の祖先は山の上の茶臼山城主だったとの事。

歌手ボルノグラフィテイのボーカル岡野昭仁の祖先と
我が松浦家の祖先は約600年前南北朝の時代、
北朝側の大将・副将格として南朝側の村上師清の
水軍勢と戦い破れています。(鶴島・箱崎浦の戦い)

なお因島の松浦家で一番著名なのは万田発酵のオーナーさんです。
ビッグな大根で有名?な会社です。私の遠縁筋にあたります。

   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

5 :元祖:2014/10/23(木) 18:05:26.42 .net
松浦家の元祖は城戸(きど)太郎兵衛尉
従五位下 藤原盛義

石名(陣貝)松浦家に祀る位牌及び
過去帳の最古のもの。
石名松浦の元祖。

この当時は松浦の名前は名乗ってはいなかったようです。
建武元年(1,334年)5月1日寂
法名 天真院寶山義永大居士

6 :石名(陣貝)松浦家元祖:2014/10/23(木) 20:44:32.28 .net
ここで興味を引くのは九州の松浦党が出てこない事。
出て来たのはなんと土佐国(今の高知県)でした。

7 :石名(陣貝)松浦家元祖:2014/10/23(木) 21:09:41.34 .net
石名松浦元祖
城戸(きど)太郎兵衛尉
従五位下 藤原盛義

 元弘三年(一三三三年)五月、北条家滅亡の後、
後醍醐天皇は天下泰平の ご祈願のため、備後尾道の浄土寺に、
「因島」を寄進する論旨を下された。

 この時、土佐国但馬守の侍従藤原忠義の家臣であった盛義は、
忠義に属して、尾道浄土寺へ赴き、さらに浄土寺の領地になった
因島へ渡った。

 その後、盛義は、忠義に従属して、伊予近海において戦い、
その功績によって、
従五位下に叙せられた。

8 :茶臼山城落城と妙泰神社:2014/10/23(木) 22:41:14.74 .net
因島松浦家のクライマックスは
石名松浦7代目藤原義康の時代です。
1500年、釣島箱崎浦の戦いに敗れ、茶臼山城は落城。

岡野家の始祖、三津庄の皇室領地頭職・岡野(今岡)対馬守越智四郎通宗と
7代目義康の弟・宗義は田熊村龍ガ迫乗末に於いて、敵将と共に討死。

戦死した宗義の影武者となり男装して奮戦した妙泰夫人も
土生町郷区字赤放でついに戦死。
7代目の義康の娘も茶臼山城の近く、西浦峠で討ち死にを遂げています。

9 :妙泰神社と供養塔 1:2014/10/23(木) 23:23:12.48 .net
 1本松山の屋根を通って郷の妙泰神社に出る。
この辺は釣島箱崎浦合戦の古戦場で南朝方村上師清に攻められた
北朝方今岡(岡野)通任勢の中庄茶臼山城主
大鳥少輔(松浦)義康の弟大鳥九郎左衛門尉宗義の妻
妙泰夫人を祀る。

 宗義は田熊の龍ガ迫で戦死し、妙泰は郎党数名と
義康の影武者として奮戦したが、此所土生越で戦死した。
義康の二男盛久と女児一人が土生の三子松で切られて
相果てたと伝えている。

 三子松から宝池谷、空谷、長加谷と越え三庄千守にかけ
古戦場で、墓石や供養塔が数多く残っている。
郷の広畑で通称楠木にある笠塔婆は、
今岡(岡野)四郎通任の墓で
「青影落葉神」と伝えている。

10 :妙泰神社と供養塔 2:2014/10/23(木) 23:49:38.00 .net
 妙泰夫人の墓(供養塔)は田熊浄土寺にある
岡野對馬守藤原道宗公(歌手ポルノグラフィテイ ボーカル岡野昭仁の御先祖)
の墓地にある。 
  元禄9年
 妙泰菩提也
  三月二日
と刻銘されている。
戦死から三〇〇年余り後なので供養塔と思われる。

 また妙泰神社の分霊が島内に二〜三か所祀ってあると聞くが、
私の知る範囲では三庄三区の郵便局の奥に一か所ある。
妙泰さんは女性の願いこと一切に効くと云うことで、
かなりの信仰を集めている。

 戦前はお堂の格子に、大小さまざまな乳型や、髪の束が
所せましと願掛けのため奉納してあったのをおぼえている。
また若い人には縁結びの神さんとして人気があった。

 参考「因島史跡散歩」田中稔 村田市郎
  この本は村上水軍城で購買可能です。

11 :妙泰神社と供養塔 3:2014/10/24(金) 00:01:11.20 .net
私が腑に落ちないのは
なんで松浦妙泰夫人の供養塔が
岡野家の菩提寺浄土寺にあるのかと云う事です。

村上家の墓が金蓮寺にあるのと同様、
松浦家の供養塔は中庄・長福寺になければおかしい。

逆に言えば岡野家はそれだけ一族挙げて
岡野家に協力した松浦一族に感謝しているのかもしれませんね。

   
   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

12 :村上氏の因島進出 1:2014/10/24(金) 10:24:10.66 .net
 岡野(今岡)氏の因島進出に少し遅れて
南朝方の村上氏の勢力が伸びて来ます。
この辺の事情は水軍城で購入した「因島の歴史」森本繁著作に詳しいので
引用させて頂きます。

 海の武士団村上氏が因島へ勢力を伸ばしてくるのは十四世紀の終わり頃である。
因島本主の上原佑信が死に、それを継承した広沢五郎基実が因島から追放されると、
今度は今岡(岡野)四郎左衛門尉道任という武将が因島へ
進出してきた。

 (岡野)道任は伊予の守護河野氏の一族で
、大三島の甘崎城を根城に伯方島の枝越城を支配していた。(中略)
 道任は文中三年(1,374)頃伊予村上氏七代目村上義弘(越智郡大島)が
亡くなると、
伊予の能島を支配下に置き、小早川氏と対抗しながら北上して
因島に進出し、土生の島前城に本拠を置いた。目前の亀島には
竹島城がある。通任は中庄に本拠を構える小早川氏に備えて、
茶臼山に大島義康(松浦石名7代目)という
武将を配置した。

13 :村上氏の因島進出 2:2014/10/24(金) 10:45:07.07 .net
天授三年(1,377)11月15日、この因島島前城へ
海上から(伊予村上氏8代目)村上師清の軍勢が
押し寄せて合戦が行われた。
霜月合戦とも呼ばれる鶴島・箱崎浦の戦いである。

村上師清は(伊予村上7代目)村上義弘と祖先を
同じくする清和源氏の一族で、
信濃村山氏の末裔(八代目)である。

14 :村上氏の因島進出 3:2014/10/24(金) 11:16:21.59 .net
 清和源氏村上氏の始祖は源頼義の弟頼清であり、
頼清の養子仲宗が村上氏を名乗った。この仲宗の孫為国が
信濃村上氏の祖となり、為国の弟定国が瀬戸内に下向して
伊予村上氏の祖となったのである。
村上義弘はそこから数えて7代目の人物であった。

 村上師清は信濃国(長野県)埴科郡坂城の村上郷にいたが、
同族の村上義弘が死去したことを聞き、
手勢を率いて大和の吉野朝廷(南朝)へ参上して、
長慶天皇から義弘の名跡を継いで瀬戸内の南朝勢力を
盛り立てよと命じられた。

 そこで師清は、瀬戸内の海賊衆を心服させるために、
名門北畠顕家の猶子を名乗って天授三年三月、
兵船三十艘に分乗して紀州雑賀港から出港した。
南朝方熊野水軍や雑賀衆の支援を受けたのである。

15 :村上氏の因島進出 4:2014/10/24(金) 11:32:01.19 .net
 先ず讃岐の塩飽島へ渡り、塩飽三郎光盛を降した。
次いで備中神島を征服して稲住氏を味方に加えた。

 そのあと、伊予の越智郡大島に乗りこんで、
長慶天皇の思召しを伝えた。村上義弘の部下であった
侍大将や各奉行・船頭たちが能島に集まって
協議した結果、
師清を頭領に仰ぐことに決定し、
これを不服とする今岡(岡野)通任を因島の島前城に
攻めたのが、この天授三年の霜月合戦というわけだ。

16 :村上氏の因島進出 5:2014/10/24(金) 11:49:23.13 .net
 合戦の結果、今岡軍(歌手ポルノグラフィテイ岡野クンの先祖)
は残念無念にも敗北した。

 先ず、鶴島・箱崎浦の海戦で今岡(岡野)通任率いる
河野水軍が破れ、陸上の戦闘では通任の長子道宗(対馬守)と
茶臼山城主大鳥(松浦)義康の弟宗義が戦死した。
 
 また宗義の妻妙泰夫人も城主大鳥義康の影武者となって戦い、
土生越(妙泰越)というところで戦死した。
義康の次男盛久と女子も土生の三子松まで逃れて、
討手に斬られたと伝えられている。

17 :日本@名無史さん:2014/10/24(金) 15:11:51.54 .net
白石一郎と和田竜が読みたくなってくるな

18 :陣貝(石名)松浦二代目:2014/10/24(金) 15:18:31.67 .net
話が初代から七代目に飛んでしまったので
二代目に戻そう。二代目から大鳥の姓を使うようになります。
初代は城戸(きど)の姓を称しています。

石名松浦二代
 城戸賜大鳥二郎兵衛尉 藤原光景

 文和三年(1,354年)三月二日寂
 法名 瑞龍院徳岩永澤大居士

19 :陣貝(石名)松浦二代目:2014/10/24(金) 15:34:26.79 .net
  戦功により叙位され、「大鳥姓」を賜る。


 歴應元年(1,338年)足利尊氏(後に正二位征夷大将軍)と
新田義貞との合戦の時、光景は尊氏に従属し、のちに
備後玉の浦浄土寺へ逃げ込み、さらに観応元年に
尊氏の九州討伐に参加して功績を挙げた。

 この功績によって、従五位に叙せられ、
「大鳥姓」を賜る。
 即ち、これまでの城戸を
 大鳥姓に改めた。

20 :陣貝(石名)松浦三代目:2014/10/24(金) 16:21:21.57 .net
石名松浦三代目は割に地味な人だったのかなぁ。
病気がちだったのかな。
特記すべき項目がありません。

2代目よりも約4ヶ月半早く
亡くなっています。

21 :陣貝(石名)松浦三代目:2014/10/24(金) 16:31:13.96 .net
  大鳥式部民之尉 権大学
  修理権太夫   藤原盛長

文和二年(1,353年)十一月十六日寂
法名 長生院大真義孝大居士

 ○ 法名の長生と云う言葉が涙を誘いますね。
   親孝行を3代目、したかった筈です。

22 :陣貝(石名)松浦四代目:2014/10/24(金) 19:01:03.55 .net
馬鹿と煙と松浦は高いところが好きッテ
南北朝時代も言われていたかも知んない。

陣貝(石名)四代目は官位が松浦家としては
最高の従四位下にまで昇進します。

官位を貰うと言う事は並大抵な事ではありません。
徳川家康を例にあげれば、名実ともに三河の支配者として
従五位下に相当する「三河守」の受領名が
欲しくなった時点でどうしようもない壁にぶち当たっています。

官位が与えられるには源氏か平家か藤原氏か橘氏でなければならず、
苦慮した松平家康はそれまでの松平姓を捨て、
清和源氏新田流の世良田の系列だと名乗り始めます。

23 :日本@名無史さん:2014/10/24(金) 19:09:26.09 .net
欲しかったのは国司名としての官位な
なにしろ国司あがりの武家が多かったからな
官位自体には意味はあらん

24 :陣貝(石名)松浦四代目:2014/10/24(金) 19:14:01.27 .net
権威としての官位は決してないがしろに
出来るようなものではありませんでした。
従五位下の位の人物では清少納言が有名です。

神祇官では大副、太政官では少納言、中務官では侍従・大監物。
省では少輔の位が従五位下の官位です。
上国の「守」の官位を三河の徳川家康は姓を改名することによって
手に入れる事が出来ました。

25 :日本@名無史さん:2014/10/24(金) 22:22:10.04 .net
┃因島中庄町茶臼山城跡

┃ 標高126.2メートルの茶臼山にあり、
本丸の南西側に二の丸南に三の丸、北と東側に
段状地があり、山麓に屋敷跡がある。大鳥伊予守義直の居城という。


┃  頂上に茶臼山城主の碑がある。東側中腹に茶臼神社と
松浦家祖先之碑があつたが、
のち茶臼神社は室神の松浦家の敷地内に移された。

26 :陣貝(石名)松浦四代目:2014/10/25(土) 09:53:15.67 ID:oRGXuTg4O
石名松浦4代目
 豊後守修理大夫 藤原光貞

 画所預職という官職と
従四位下という官位を有し、
もと京都に居住していたが、後に備後因島へ渡り、
仮城居を築く。

 ただし、どこに
築いたのか、まだ不詳。

27 :陣貝(石名)松浦四代目:2014/10/25(土) 09:58:43.02 .net
   仮城居を築く

石名松浦4代目
 豊後守修理大夫 藤原光貞

 画所預職という官職と
従四位下という官位を有し、
もと京都に居住していたが、後に備後因島へ渡り、
仮城居を築く。

 ただし、どこに
築いたのか、まだ不詳。

28 :陣貝(石名)松浦四代目:2014/10/25(土) 10:10:48.40 .net
大鳥豊後守修理大夫画所預職 
従四位下 藤原光貞

※ その後、土佐官に任ぜられたという記録もあるが、
  仮城居を次の世代義直に譲り土佐国へ赴任したか、
  あるいは京都へ隠棲したか
  詳かではない。

29 :陣貝(石名)松浦四代目:2014/10/25(土) 10:18:56.35 .net
画(絵)所預職
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%94%BB%E6%89%80%E9%A0%90%E8%81%B7&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=slv1-snvaio&x=wrt

30 :陣貝(石名)松浦四代目:2014/10/25(土) 10:22:47.28 .net
土佐光起 ウイキぺデイア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%85%89%E8%B5%B7

31 :陣貝(石名)松浦四代目 画所預職:2014/10/25(土) 10:33:22.86 .net
土佐派 ウイキぺデイア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%B4%BE

巨勢派の巨勢公望の門人春日基光を遠祖とし、数々の名手を世に送り出した流派。
本画派は、純日本的ないわゆる大和絵の伝法を樹立し、
14世紀南北朝時代の藤原行光を祖とし、
室町時代のおよそ200年の長きにわたって朝廷の絵所を世襲し、
伝統と権勢を誇った。特に土佐光信の時代には、
宮廷や将軍家と密接な関係をもち、最盛期といえる。
しかし、室町時代末期、光信直系の孫土佐光元が但馬攻めで
戦死したことにより絵所領職を失ってしまう。

桃山時代に門人土佐光吉が堺に拠点を移し、
江戸時代光吉の後継者土佐光則がその子土佐光起と共に京都に戻る。
承応3年(1654年)光起が絵所領に就任し流派は再興され、
以後幕末までその地位を維持した。
また、光吉、光則の門人である住吉如慶は江戸に行き住吉派をたて、
子の住吉具慶の時に幕府の御用絵師となり、
土佐派と同様に幕末まで続いた。

しかし、光起や具慶以後は、新規の画題や表現に取り組むことはあまりなかった。

丁寧で繊細な作風が特徴である。
土佐派は朝廷の御用絵師という立場上、浮世絵に対し否定的だったが、
浮世絵師にとって土佐派が描く日本の伝統的なモチーフは
、画題や様式の基盤であり、浮世絵を正統たらしめる大義、
拠り所であった。岩佐又兵衛は土佐光信末流と記しており、
菱川師宣も他の流派にならんで土佐派を学んだことに言及している。

32 :松浦四代目 画(絵)所預職藤原光貞:2014/10/25(土) 11:01:16.94 .net
14世紀南北朝時代の藤原行光を祖とし、
室町時代のおよそ200年の長きにわたって朝廷の絵所を世襲し、
伝統と権勢を誇った。特に土佐光信の時代には、
宮廷や将軍家と密接な関係をもち、最盛期といえる。

☆14世紀南北朝時代の藤原行光を祖とし
 と云う部分は気になりますねぇ。行光と光貞は
 「光」と云う共通の名前を使っています。

 因の島松浦家に光が射してきたかな。。

33 :瀬戸内海:2014/10/25(土) 19:31:45.38 .net
因島辞典

因島と云えば はっさくん
村上家と云えば 金蓮寺
松浦家と云えば 長福寺
井川と云えば 熊固原神社
岡野と云えば 浄土寺

中庄と云えば 海抜1、1b
大根と云えば 万田発酵
女将軍と云えば 妙泰神社

34 :陣貝(石名)松浦五代目:2014/10/25(土) 19:43:10.43 .net
 五代目は茶臼山へ城を築きます。元祖城主の誕生です。
併せて社殿を建て、藤原の祖神を祀ります。

「馬鹿と煙と松浦は高いところが好き」と
この頃から揶揄されるようになります。?

35 :陣貝(石名)松浦5代目:2014/10/25(土) 22:53:37.89 .net
どうしても登んなきゃぁなんない。
そんな使命感(?)を抱いて
茶臼山に登ってきました。

とても雑草が茂ってて登れたもんじゃァないよと云う人もいましたが
松浦家の御先祖が精魂込めて造ったお城。登ってきましたよ。

嬉しかったですね。僕にも(先祖の造った)お城があったんだ。

36 :茶臼山城元祖 大鳥伊予守義直:2014/10/25(土) 23:13:37.74 .net
 お城を築いたのは
大鳥伊予守 茶臼山城主
従五位 藤原義直

 応永三年(1,396年)、義直は一族郎党を率いて、
土佐から領地である因島へ移り、
茶臼山へ城を築く。
 いわゆる茶臼山城主の元祖になった。

 同時に、茶臼山へ社殿を創立し、
祭神として、藤原の祖神である天津児屋根命を
勧請した。

37 :茶臼山城元祖 大鳥伊予守義直:2014/10/26(日) 09:18:26.88 .net
   (一説に、松浦家の元祖ともいう。)

 もと、土佐国左武太夫光忠の家臣として、土佐に居住していた。
この頃因島は「隠島」と呼び、土佐の国の配下に属していた。

 永徳二年(1,382年)伊予越智郡三津海浜において合戦があり、
この時、海屯陣(水軍)の一方の幡大将として、よく戦い、
遂に敵軍を鎮圧した。

 その功績により、従五位に叙せられ、因島の領主(代官の役)を
賜った。
応永三年(1,396年)、義直は一族郎党を率いて、
土佐から領地である因島へ移り、
茶臼山へ城を築く。
 いわゆる茶臼山城主の元祖になった。

○ これまでのお殿様は因島と土佐、京都を行ったり来たりする
  年月だったかもしれないですね。
  因島の土佐出張所から因島本店へ
  なったようなもんかな。
  自前のお城を持ったと言う事は大したもんです。

    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

38 :臼山自然大居士 大鳥伊予守義直:2014/10/26(日) 09:38:25.06 .net
 この頃、中国地方の沿岸の様衝には、すでに、
かなり堅固な要塞が各地に構築されていた。

 応永三年(1,396年)、義直は一族郎党を率いて、
土佐から領地である因島へ移り、
茶臼山へ堅固な城を築く。

永亨六年(1,434年)8月1日寂。
法名 藤原院臼山自然大居士

 ※ 西浦松屋の過去帳には「永亨六甲寅年八月朔日
   小田薬師に葬る云々」という記録があります。

   臼山自然大居士という法名に
   お殿様のお気持ちが
   よく
   滲み出ていますね。

   私、なんでも鑑定団 愛のエメラルドは
   お殿様の子孫です。
   今後ともなにとぞ、宜しくお願い致します。

39 :なんでも鑑定団 愛のエメラルド:2014/10/26(日) 17:35:44.02 .net
「臼山自然大居士」と云う言葉には惹かれますね。
私は茶臼山には岩本いんのしま養蜂場の所から
登り始めたんだが、ここで戴いた純粋蜂蜜の^美味い^事。
 ^やっぱ自然食品に限るわぁ〜

万田発酵さんにも惹かれますねぇ。
混ざりッ気なしの自然食品だもんねえ

 松浦新吾郎さんのお話にも感心したなぁ。
「種の良し悪しは遺伝が大きく作用します。
親の性格を60%ぐらい受け継ぎ、
残りの40パーセントは環境に左右されます。不思議な事に
良い環境を与えてやると、親のいい面が出る。

 祖先のいい所を受け継ぎ、因島の自然環境が
美味しい自然食品を育んでいると言えそうです。
蜂蜜の岩本さんも松浦家の血が入っているそうです。

「万田発酵採用サイト」
http://www.manda.co.jp/recruit/about/index.html

40 :陣貝(石名)松浦六代目:2014/10/26(日) 22:44:12.77 .net
  大鳥左京尉 藤原直盛  

 瀬戸内海銀座、海上交通のパイロット役

 中庄、茶臼山城に居城する傍ら、因島(重井)馬上山に
出張し、献貢船の監視役を務め、
また時々には長井浦において通船を検査する等、
海上交通の取り締まり役を務めた。

この当時、伊予と備後の間で、
しばしば、海峡の争いが起こっていた。

41 :陣貝(石名)松浦六代目:2014/10/26(日) 23:01:29.95 .net
文明元年(1,469年)9月30日寂
法名 瑞仙院南山徳崇居士

この6代目の後、大事件が勃発、
妙泰夫人の無念の戦死、茶臼山城の落城
などクライマックスが始まります。

今までは村上水軍に関する小説しか見当たりませんでしたが
これからは陣貝(石名)松浦七代目、今岡(岡野)水軍衆にも
大いに光が当たるんではないのかな。

42 :陣貝(石名)松浦七代目:2014/10/27(月) 10:34:44.62 .net
ついに松浦家の主役ともいえる七代目(茶臼山城三代目)が登場します。
 大鳥勝祐尉 義康

 茶臼山陥落後、光康へ跡を托す。
長男、孫を連れて長門(山口県)豊浦へ移る。

43 :茶臼山城三代目 大鳥義康:2014/10/27(月) 11:05:49.50 .net
  大鳥勝祐尉 藤原義康

 明応九年(1,500年)備中守興元によって戦端が開かれ、
茶臼山城主義康は、敵将と戦い、ついに敗戦。
茶臼山城は陥落した。

 義康は、養嗣子右衛門祐光康に、茶臼山の土地及び家財の
一切を譲って、子息太郎兵衛康盛、孫の安麻呂ら
家族と共に毛利氏所領の長門豊浦へ移った。

44 :日本@名無史さん:2014/10/27(月) 11:10:35.93 .net
チェキチェキチェキと

やっぱり名前がでてくるのは源平藤橘だけだな
つまりそういうこったな

45 :茶臼山城三代目 大鳥義康:2014/10/27(月) 11:18:39.98 .net
  大鳥勝祐尉 藤原義康

明応九年(1,500年)6月9日寂
法名 文照院本光善性居士

 ※墓碑は、長門にあるとの由 

46 :茶臼山城当主の弟 大鳥宗義:2014/10/27(月) 12:59:30.03 .net
 大鳥九郎左衛門 藤原宗義
  石名松浦七代義康の弟

 明応九年(1,500年)の合戦で、三津庄(因南全域)の地頭職であった、
今岡(岡野)対馬守通宗とともに戦い、田熊村龍ケ迫乗末において、
敵将と共に討ち死にした。

 

47 :茶臼山城当主の弟 大鳥宗義:2014/10/27(月) 13:33:37.37 .net
大鳥九郎左衛門 藤原宗義

 この合戦で、大鳥宗義の妻明体(妙体、妙泰)夫人は、
主人宗義の影武者となり、男装して、一族郎党と共に土生越(妙泰)で
奮戦の後、土生村の赤放において遂に戦死した。

 この明体夫人の霊を祀ったのが、現在、土生町郷区赤放に在る
「妙泰神社」である。

※妙泰夫人の墓は田熊の浄土寺にある岡野の元祖、岡野對馬守藤原道宗
 の墓前に在るのだが、これは妙泰夫人が大鳥宗義に嫁ぐ前は
 岡野對馬守道宗の娘(あるいは岡野一族の娘)だったことを
 表しているのではなかろうか。

48 :茶臼山城落城:2014/10/27(月) 14:43:07.83 .net
ここで疑問なのは
一五〇〇年、明応九年と云う年号です。
鶴島・箱崎浦の戦い(霜月合戦)は一三七七年、天授三年と云う
史実と一致しません。
一致しないから歴史なんだョと言われればそれまでですが。


歌手ボルノグラフィテイのボーカル岡野昭仁の祖先と
我が松浦家の祖先は637年前、南北朝の時代(1,377年)、
北朝側の大将・副将格として南朝側の村上師清の
水軍勢と戦い破れています。(鶴島・箱崎浦の戦い)

49 :日本@名無史さん:2014/10/28(火) 03:44:57.08 .net
単に後世にでっち上げた偽系図だからだろ

50 :調査のための資料:2014/10/28(火) 08:34:16.87 .net
因島市中庄町在郷の松浦氏
 本家と分家のつながりを求めて −調査のための資料ー

調査の趣旨及びお願い

 近年、松浦家一族に連なる若い世代の間では、しだいに、本家、分家の
かかわりが、わからなくなりつつあります。また、それ尋ね語ってもらうべき
古老の数も、だんだん淋しくなりました。

 今のうちに、私達、松浦家一族ゆかりの「系譜」を作成しておきたいと
念願し、極めて乏しい資料をもとに、目下、調査の途中ですが、
取り敢えずタテ系列の簡素な素稿を取りまとめました。

 この資料は、申すまでもなく、調査のための資料、いわゆるタタキ台で
あります。
 随分、多くの誤りや脱落などがあると思います。その点、どうぞ
お許しください。

 今後、松浦家ゆかりの皆さま方より、ご指摘およびご教示を頂戴して、
より正確な系譜に仕上げたいと存じます。

 なにとぞ、この趣旨をご賢察のうえ、積極的なご助言、情報の
ご提供等を賜りますよう、
ご協力をお願い申し上げます。

※この資料は私が一週間前、因島に滞在中、松浦観傳氏から
 戴いた資料の一ページ目に書かれていた文章です。
 観傳氏がいなければ因島松浦家の
 再脚光はありえません。

 

51 :陣貝(石名)松浦八代目:2014/10/28(火) 11:15:36.97 .net
  大鳥太郎兵衛尉 藤原康盛

父義康から一時、家督を相続したが、明応九年の合戦で
茶臼山城が落城したので、
跡地及び家財の一切を父の養嗣子、右衛門祐光康に譲り、
子息康麻呂を連れて、父義康と共に長門豊浦へ移る。

52 :陣貝(石名)松浦八代目:2014/10/28(火) 11:25:00.44 .net
    八代目大鳥康盛
  父と共に長門(山口県)豊浦に移る。

 亨禄元年(1,528年)3月14日寂
 法名 寿光院清山浄機居士
 ※ 墓碑は長門に在ります(健在)

53 :陣貝(石名)松浦七代目兄弟:2014/10/28(火) 12:21:15.50 .net
戦は厳しいですね。。この霜月合戦(鶴島・箱崎浦の戦い)において
4人兄弟の内、七代目当主大鳥義康のみが生き残り
次男、三男、末っ子が無念にも
戦死すると言う厳しさです。

平成の今の世に生きていくのも大変ですが
南北朝のこの時代で、生き抜く事は
とてつもなく厳しい。

54 :陣貝(石名)松浦七代目四兄弟:2014/10/28(火) 16:32:49.71 .net
大鳥佐武郎 藤原盛久
陣貝(石名)七代目義康三男

霜月合戦で、田熊金山の麓の海浜に
おいて戦死した。

55 :陣貝(石名)松浦七代目四兄弟:2014/10/28(火) 16:54:46.52 .net
陣貝(石名)七代目義康の娘
 太郎兵衛尉康盛、佐武郎盛久の妹。

霜月合戦で、茶臼山城(西浦峠)あたりで
討ち死した。

妙泰(みようたい)夫人と同様
この末っ子娘、鎧兜に身を固め
戦場で戦ったのです。

56 :地下女将軍:2014/10/28(火) 17:09:04.54 .net
私は現在、静岡在住ですが、寡黙にして今川義元家や北条早雲の
軍勢の中に女性兵士が加わっていたなんて聞いたことはありません。
桶狭間の戦いで女性が出て来たかなぁ。

因島松浦家だけが女性の戦闘を許したのかなぁ。それとも
瀬戸内海の戦では当たり前?

因島出身では「お嫁さんにしたい女性N01」に以前、
東ちづるさんが選ばれていると思ったけど
東サン似の美人武者が薙刀を振りまわしていたのかなぁ。


   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

57 :地下女将軍:2014/10/28(火) 17:50:14.17 .net
私は聞いたことが無いんだよなぁ。
今、私は静岡県在住なんだが、今川義元軍や
北条早雲の部隊に女性兵士がいたなんて聞いたことはありません。

桶狭間の戦いに女性はいたっけか。まぁ昨日見た織田信長が主役のテレビでは
桶狭間に花火が挙がって女性がウジャウジャいたけどね。

戦国時代でも、鳥羽伏見の戦いでも女性の戦闘シーンは
見たことないなぁ。
まぁ 巴御前は知ってます。

でもこの霜月の戦いでは女性が薙刀や刀を華麗に振りまわすんだなぁ。
瀬戸内海、因島松浦家恐るべし。

   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

58 :ジャンヌ・ダルク:2014/10/28(火) 18:01:02.24 .net
日本では女将軍と言える活躍だけど
フランスではオルレアンの少女
ジャンヌ・ダルクが有名だよね。

あの風光明媚な瀬戸内海にジャンヌダルクがいたんだね。
瀬戸内海、茶臼山城・因島松浦家恐るべし。

59 :7代目松浦4兄弟:2014/10/29(水) 09:13:00.13 .net
長男義康 茶臼山城落城の後、長門豊浦に退去

次男宗義 霜月合戦(鶴島・箱崎浦の戦い)において田熊龍ケ迫乗末にて戦死。
     宗義夫人妙泰も土生郷区字赤放にて戦死。

三男盛久 霜月合戦(鶴島・箱崎浦の戦い)で田熊金山の海浜において
     戦死。(一説に八代目 康盛の弟)

長女(末子) 
     日本のジャンヌ・ダルク 茶臼山城の傍(西浦峠)あたりで
     討ち死。名前残念ながら不詳。

60 :1377年11月15日:2014/10/30(木) 09:45:45.78 .net
天授三年十一月十五日(1,377年11月15日)

霜月合戦=釣島箱崎浦合戦=鶴島・箱崎浦の戦い

南朝方村上師清(信濃村上家八代目)

北朝方今岡(岡野)通任、大鳥(松浦)少輔義康

61 :康麻呂:2014/10/30(木) 11:12:42.03 .net
陣貝(石名)松浦八代目
大鳥太郎兵衛尉 藤原康盛 の子が
康麻呂。

茶臼山城が落城。康麻呂は父康盛に連れられ
、長門(山口県)豊浦へ移った。
その後の八代目康盛、康麻呂の消息は不明?
墓は現存している模様です。

※その後の消息は、山口県豊浦在所の歴史好きの古老に
 この掲示板に書き込んでくれるのを
 日夜、祈るほかにありません。

62 :日本@名無史さん:2014/10/30(木) 16:55:23.38 .net
南北朝時代、釣島箱崎浦合戦(1,377年)の後、
今岡家子孫は
岡野姓を名乗り始めたようです。

(因島市教育委員会によると岡野氏は
今岡氏の流れで今岡と河野の一字を取って岡野に改めたと言う)

※ 河野はもっと以前は、神と書いてこうのと読んでいたようです。
  河野(神)水軍は今岡軍にお味方したんですけどね
  負けちゃいました。

63 :陣貝(石名)松浦九代目:2014/10/30(木) 17:10:50.56 .net
  大鳥右衛門祐 藤原光康

父は、桓武天皇の皇子葛原親王の末裔、平姓、松浦氏、忠頼。
母は、石名五代、大鳥伊予守、茶臼山城主、藤原義直の曽孫娘。

  光康は石名(陣貝)7代目大鳥勝祐藤原義康の嗣子となる。

64 :陣貝(石名)松浦九代目:2014/10/30(木) 21:58:50.37 .net
7代目義康の養子となり、後を承け、
実の父松浦忠頼、母(5代目義直の曽孫)
と共に、
石名(陣貝)から茶臼山へ移る。

義康が霜月合戦に敗れ、茶臼山城の陥落により、子息康盛、孫の康麻呂等
郎党を連れて毛利家の所領長門豊浦へ移った後、
光康は、茶臼山城跡の土地及び藤原姓大鳥氏の
名跡を譲り受け、石名松浦家九代目を相続した。

65 :陣貝(石名)嗣子松浦光康:2014/10/30(木) 22:12:20.53 .net
大鳥光康は、実父松浦忠頼が老恙に罹っていたため、
義康らと一緒に長門に移ることが出来なかったので、
実父母と共に因島へ留らざるを得なかったという
記録がある。

66 :陣貝(石名)養子松浦光康:2014/10/30(木) 22:24:09.94 .net
 この当時、石名松浦家は、郷内西部にあたる茶臼山を
中心に、その西海岸に到るまでの山林、耕地の
殆どを所有し、これからの産物によって
家計を経営していたという記録もある。

 のちに、光康は、父母と共に、
それまで居住していた石名郷から茶臼山へ
移った。

 永禄九年(1,566年)12月10日寂
 法名 光厳院徹性日通居士

67 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 01:07:42.98 .net
明応9年に長門豊浦が毛利領だとか
史料がトンデモなのか書き込み者がアホなのか

68 :陣貝(石名)十代目 松浦姓誕生:2014/10/31(金) 17:15:37.07 .net
松浦と名乗ってからの世代 一代目
松浦太郎左衛門尉 盛光

これまでの大鳥姓を「松浦姓」に改める。
松浦姓の元祖。石名(陣貝に居住)
分家の徳永家、釜田家誕生。

69 :陣貝(石名)十代目 松浦姓誕生:2014/10/31(金) 17:21:24.07 .net
※ 66さん、この最初の原書(古文書)がいつ書かれたのか
  今となっては謎です。
  間違っているからと、直ぐ直したんでは
  史料にならないし。
  
  でもこれほど詳しい資料はそうは出てこない。
  年代等はあっていませんが
  松浦一族に関してはべらぼうに
  詳しい。一級資料です。

70 :日本@名無史さん:2014/10/31(金) 18:52:56.77 .net
自分の先祖をより良く見せるための偽物だな
信じるに足りないものを有り難がるのは頭が足りない輩

71 :陣貝(石名)二四代目 松浦家子孫:2014/10/31(金) 20:43:35.05 .net
マァ桶狭間の戦いより、ウンと古い
南北朝の時代のお話だからなぁ
何が本当か、何が嘘かさえ分からないのも事実。

桶狭間の戦いが永禄三年(一五六〇年。)。
霜月合戦(釣島箱崎浦)の戦いは天授三年(一三七七。)年。
なんと霜月合戦は桶狭間の戦いの183年も
前のお話だ。

桶狭間の戦いでさえ最近の研究で、織田信長軍の奇襲攻撃が
正攻法の戦いに訂正され
山の上からの攻撃が下からの攻撃だったに
訂正されるぐらいだからね。

私自身半信半疑なんだが、またいつの時代に書かれた物かさえ
判明しませんが、
後世に残して戴けただけでも
有難い。

    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

72 :いんのしまの種:2014/11/01(土) 09:41:27.09 .net
9月、10月と2回、父母の育った因島中庄(なかのしょう)に
帰って見て驚いたのは、昔と変わらぬ「丸池」辺りの自然風景ではなくて
「先祖祭り」と云う言葉。私の住む静岡県では
全然、聞かないお言葉です。

それも松浦家では陣貝、徳永、釜田と地区別に三ヵ所に分かれて
「先祖祭り」を行うと聞いてオッ魂消てしまった。
私は迂闊にも石名松浦家の24代目だとも知らなかったし
まさか先祖様がお城持ちだったなんてねぇ。
女武将・妙泰(みょうたい)サンの事も全然〜知りませんでした。

またなぜか気になって、大阪の柏原タイル屋さんに確認の電話を入れたら
白滝山の山頂にある五百羅漢の柏原伝六さんは私の御親戚であることも判明。

まぁ仰天の里帰りとなりました。
私は因の島の一粒の種から生まれたんだと言う事が
判明した旅でした。

    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

73 :陣貝(石名)一〇代目 松浦姓の誕生:2014/11/01(土) 11:51:45.07 .net
松浦と名乗ってからの世代 一代目
松浦太郎左衛門尉 盛光

この一〇代目盛光から今岡(岡野)殿を離れ
村上家殿に従属することになります。村上水軍配下に所属替え。

74 :陣貝(石名)一〇代目 松浦姓の誕生:2014/11/01(土) 12:05:03.00 .net
松浦と名乗ってからの世代 一代目
松浦太郎左衛門尉 盛光

盛光は、いままで、「藤原姓、大鳥氏」を名乗っていたが、
祖父(平姓、松浦忠頼)の姓氏に因んで、「大鳥」を
「松浦」に改称した。

しかし、長い間の高恩を謝して、姓は、これまで通り
「藤原」姓を名乗る。
すなわち盛光が、「藤原姓、松浦氏」を名乗った始祖である。

天正一九年(1,591年)5月23日寂
法名 自得院天髄道仙居士

75 :日本@名無史さん:2014/11/01(土) 12:49:01.14 .net
松浦党の話なら知ってるよ

76 :松浦党:2014/11/01(土) 17:53:08.19 .net
因島の松浦さんの中には
「我々は九州海賊で活躍した松浦党の血を
受け継いでいる」と
思われている人も
少なくないようです。

  松浦党  ウイキベデァ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A

77 :九州平戸 松浦(まつら)党:2014/11/01(土) 18:13:44.66 .net
 平戸松浦家の至宝 遥かなる千年の歴史
   松浦史料博物館
http://www.matsura.or.jp/mov02/index.html

78 :松浦(まつら)党 発祥の地:2014/11/01(土) 18:51:01.54 .net
松浦(まつら)党 発祥の地
  長崎県松浦市今福町
http://hamadayori.com/hass-col/history/MaturaSuigun.htm


※ 陣貝(石名)九代目を継いだ嗣子大鳥光康は実の父忠頼が
平姓、松浦氏を名乗っていました。
10代目が松浦姓を名乗り始めるのを見ると、
祖先は九州松浦党の出自である可能性が多分にあります。

大鳥姓を捨て松浦姓に変えたのは
松浦の名前に誇りを持っていたからだと思います。

79 :石名松浦10代目三兄弟 :2014/11/01(土) 21:34:04.53 .net
長男、松浦盛光   陣貝

次男、松浦藤二郎  徳永

三男、松浦平之進  釜田

80 :石名松浦10代目三兄弟 徳永 :2014/11/01(土) 21:40:59.05 .net
次男 松浦藤二郎 光敬

亨禄年間(1,528年ー1531年)
分家し、住居を日和谷(徳永)へ移す。
盛義の二男盛久を嗣子とする。

81 :石名松浦10代目三兄弟 釜田 :2014/11/01(土) 22:14:28.45 .net
三男、松浦平之進 盛行

天文年間(1,532年ー1554年)
分家し、住所を宮脇(釜田)に移す。

3兄弟には女子も一人いて
村上蔵人吉時の室になっています。


※分家と言ってもメッチャあ古い時代のお話です。
桶狭間の戦い(1,560年)より古いんです。
今川義元、武田信玄、上杉謙信らが「やぁやぁ我こそは」
と名乗っていたころのお話です。

柴田勝家、齊藤道三、明智光秀らが躍動した戦国時代に
石名松浦家は本家と分家に分かれました。

82 :石名松浦24代め :2014/11/01(土) 23:18:27.42 .net
 音楽紹介 ムード歌謡曲
岩本善行 愛のエメラルド
https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADRA_jaJP362JP366&q=%E5%B2%A9%E6%9C%AC%E5%96%84%E8%A1%8C%E3%80%80%E6%84%9B%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%89&gws_rd=ssl

83 :日本@名無史さん:2014/11/02(日) 02:05:21.63 .net
音楽の話がしたいなら相応の板へいけ
自分語りがしたいならブログを始めろ

84 :徳永松浦家の元祖:2014/11/02(日) 09:37:13.08 .net
正九郎 盛久

石名松浦十一代民部少輔 盛義の二男
松浦藤二郎光敬の嗣子となり、亨禄年間(1,528−1531年)頃に
、養父光敬と共に、住居を日和谷(徳永)へ移す。
浅野藩の山守役を勤める。

因島日和谷に耕地及び山林三十有余町歩を所有する。
寛永九年(1,633年)8月2日寂。
法名 徳寿院日和自照居士

85 :徳永松浦家の元祖 正九郎 盛久:2014/11/02(日) 09:44:43.74 .net
因みに、
養父藤二郎光敬は、
文禄四年(1,595年)4月5日寂
法名 松翠院盛敬自○居士

86 :徳永松浦家の元祖 正九郎 盛久:2014/11/02(日) 10:16:48.49 .net
徳永家の元祖は山守治部正九郎尉 盛久
二代目は平四郎 盛兼
三代目は清兵衛門 盛道
四代目は善十郎 興道
五代目は徳八郎 時道
六代目は清吉郎 吉時
七代目は徳八 吉輝
八代目は清吉 正直
以下略

87 :釜田松浦家  :2014/11/02(日) 10:52:08.81 .net
釜田松浦家は三男松浦平之進 盛行が分家し
住居を宮脇(釜田)へ移したことが始まり。

釜田家元祖 弥三兵衛
二代目は弥三兵衛(市三郎)
三代目は弥三兵衛(善造)
四代目は甚七
五代目は弥平
六代目は甚七
七代目は保平

※3代目の善造さんの時に分家します。
(徳永丸三家初代)釜田善兵衛
(山口勝一家初代)釜田甚六
(陣貝ソーメン屋家初代)天神源七 

88 :釜田松浦家  :2014/11/02(日) 11:04:59.26 .net
八代目は佐平
九代目は要次郎
10代目は要次郎(富三郎)
11代目は源松
12代目は要次郎(惣次郎)
13代目は査炳
14代目は繁夫
15代目は基之(神奈川県在住)

89 :釜田松浦家  :2014/11/02(日) 11:21:42.45 .net
デッカイ大根で有名な
万田発酵のオーナーの松浦新吾郎さんは
田中屋の初代清助から数えて11代目です。

田中屋初代  清助
田中屋2代目 清助
田中屋3代目 藤十郎
田中屋4代目 新五郎
田中屋5代目 林五郎
田中屋6代目 岩右衛門
田中屋7代目 友之助
田中屋8代目 林五郎
田中屋9代目 龍太郎
田中屋十代目 繁治
田中屋11代目 新吾郎
田中屋12代目 良紀(よしのり)

90 :石名松浦十一代目 厳島合戦 :2014/11/02(日) 17:22:43.13 .net
 松浦民部少輔 藤原盛義

 天文年間(1,532年ー1554年)青影城主、
村上三郎左衛門源義弘の後を継いだ
山城守村上義顕の子息に従事する。

※安芸厳島合戦は天文二四年(1,555年)。桶狭間の戦いの5年前。
因島村上水軍は村上家第六代当主、村上又三郎吉充が毛利軍に加わり、
提督に磯兼(末永)左近太夫がいて采配を振るった。

 ※因島水軍は、小早川隆景の指揮下にあって、前夜のうちに厳島神社大鳥居前に迂回し、
折からの暴風雨に乗じて敵船中に割り込み、厳島神社の社壇から陸戦隊を上陸させた。
その後海上にとどまって、十月1日卯の刻(午前六時)に陸上で
合戦が始まると、浦宗勝の率いる小早川水軍と一体となり、
陶晴賢(従五位下)の水軍に合戦を挑んだ。

91 :石名松浦十一代目 厳島合戦 :2014/11/02(日) 17:44:54.04 .net
 先ず敵船団の舳(みよし)の直ぐ前を横一文字に
押し切って敵船の碇綱をことごとく切り取って混乱させる。

 ついで火矢船をもって敵船に火矢を浴びせかけて
敵船に焼き討ちをかけ、さらに接近して焙烙(ほうろく)船から
手投げ爆弾(ほうろく)を投げ込む。
そのあと、残った敵船団に武者船を漕ぎ寄せて、
武者たちが白刃を振るって敵船中に乗りこみ、
敵兵を海に追い落とすのである。

 このとき末永(磯兼)左近太夫は陶水軍の提督
伊賀某を討ち取り、配下の
因島村上衆は大島衆を切り崩した。

かくして厳島合戦は因島衆の活躍もあり
毛利軍の大勝利に終わった。

 ※この記事は水軍城で購入した「因島の歴史」森本繁著を
引用しました。

92 :石名松浦十一代目  :2014/11/02(日) 17:57:46.07 .net
松浦民部少輔 藤原盛義

 永禄年間(1,558年ー1569年)に、
茶臼山北部山林を東氏正時に譲った。
ただし、茶臼山の東、南、西の三方の耕地及び
山林はそのまま所有した。

 慶長19年(1614年)3月12日寂。
 法名 天祐院功山道忠居士

※ 法名の「功山」に心を惹かれますね。
  合戦での功績が山の如しとも取れますね。

93 :水軍城八十八ヶ所巡り :2014/11/02(日) 22:44:41.95 .net
四国88ヶ所巡りならぬ因島八十八ヶ所札所巡りと云う
祈りの旅が人気なんだそうです。
それにしても因島の寺社、神社の多さには驚いてしまうな。

それ以上に驚いてしまったのはお城(跡)の多さ。
一体いくつあるのョ。それも南北朝の時代に遡る
歴史の恐るべし古さ。たまげてしまう。

茶臼山城主大鳥5代目の自然大居士の法名を生かさない手はないな。
全国で唯一の因島海賊城八十八ヶ所巡りを提唱したい。

※戦死した今岡(岡野)通宗さんの場合だと、岡野さんの本拠地土生の島前城、
目前にある亀島の竹島城跡、菩提寺の田熊浄土寺の岡野家墓所と通任の実の娘と思われる
妙泰夫人の供養塔。岡野明神それに郷の広畑にある岡野道任の供養塔の
「青葉落葉神」はぜひ見てみたい。

※戦死した松浦妙泰(みょうたい)夫人の場合だと旦那(宗義)の戦死した田熊龍ヶ迫乗末の
古戦場跡や土生越の妙泰神社に行ってみたい。中庄(なかのしょう)の茶臼山城跡や
松浦家の先祖の眠る長福寺にも行ってみたい。

※ 因島の人は良いな。自然から生まれた万田酵素、八朔ハチミツ、はっさくの風味を生かした
だいふく。なんにもしなくても自然を生かした因島水軍城八十八ヶ所お城巡りで
造船が縮小したって、イノシシと共に逞しく生きていけそう。

    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

94 :毛利元就に属す :2014/11/04(火) 22:32:17.72 .net
松浦蔵人治太夫 藤原義友
石名松浦十一代盛義の弟か

はじめに、天正年間(1,573年ー1592年)頃、安芸国の大守毛利元就卿に
属し、海軍に従事した。

後に、慶長五年(1,600年)毛利元就が長州に去ったあと、
これに変わって、安芸、備後両国の大守になった
福島正則卿に仕えた。
 ※福島正則はそれまで、尾張清州の城主であった。

 慶長十年(1,605年)正月八日寂
 法名 慶章院智山安徳居士

95 :城跡のある町 因島 :2014/11/05(水) 09:31:01.75 .net
因島の人口は平成12年の段階で2万5673人。
減ったよなぁ。聞くところでは中庄の平地部分は人口が増え、
坂道の多い造船業の衰退した土生は人口が激減したらしい。

それにしては寺社仏閣が多いなぁ。それ以上にお城(跡)が
異様に多い。後で数を数えてみよう。
因島はお城としまなみ海道、イノシシと八朔ゼリーが売りの町と云う事か。

96 :城跡のある町 因島 :2014/11/05(水) 10:12:12.85 .net
私の住む静岡県藤枝市は人口15万人なんだが
お城跡は5つしかないよ。南北朝の時代に造られたのが
葉梨花倉にある花倉城。今川義元が兄弟対決を制し
17歳で華麗にデビューしました。後、岡部氏の築いた朝日山城と潮城。朝比奈城。

有名なのは東海道筋にあり、堀が幾重にも張り巡らされた平城の田中城。
徳川家康が晩年、興津の鯛を天麩羅で揚げて、食中毒を
おこし倒れた城として知られています。

お隣の焼津市(人口15万人)はお城が3つ。
石脇の城(別名は片上城、北条早雲が初めて城持ちになったお城です)。
花沢城は今川氏真家臣・小原鎮実と武田信玄が戦をしたところです。

小川城は海と繋がった水に囲まれた平城です。
子孫に鬼平犯科帳に出てくる長谷川平蔵がいます。

※ こちらの城は戦国時代の初めに築かれた
  お城が多いかな。
  因島の様に南北朝の時代に築かれたお城は少ない。
  それだけ因島は海運交通の要所として
  早めに開発が進み、次々と
  お城が築かれました。

97 :石名松浦十二代目 :2014/11/05(水) 16:45:46.10 .net
松浦治良兵衛尉 藤原直義

元和五年(1,619年)福島正則に代って、芸備両国の
大守となった浅野但馬守長晟が、
紀州和歌山から広島城に入り、この時から
因島は、浅野長晟の所領となった。

 直義は、この新しい領主浅野家に仕え、
代領職として、因島一円を管理した。

98 :石名松浦十二代目 浅野家に仕える :2014/11/05(水) 16:58:20.90 .net
 この当時、松浦直義は、石名郷の
家に居住していた。
武士としての生活は、直義の代で終わりを迎える。

寛政十八年(1,641年)7月7日寂
法名 鶴松院智嶽安徳居士

99 :日本@名無史さん:2014/11/06(木) 00:42:26.89 .net
元和六年(1,620年)頃の自治体構成

 村政機関として
  大庄屋(割庄屋)、村役人、村寄り合い
  
 村役人としては、村方三役
  庄屋(関東では名主という)。
  組頭(年寄り)
  百姓代(長百姓)

100 :中興の祖 (庄屋) 石名松浦13代目:2014/11/06(木) 22:14:34.62 .net
 松浦治良太夫 義光
元和三年(1,617年)名主(庄屋)として、因島を管理した。
寛永二年(1,625年)八月一日茶臼山の城址に社殿を
再建して、祖神を祭祀した。

101 :中興の祖 (帰農) 松浦13代目義光:2014/11/06(木) 22:21:28.11 .net
  寛永三年(1,626年)因島が9ヶ村に分割された。
 これを機に、松浦義光は、名主職を辞退し、
 同時に民籍に帰し、以後、専ら
  農業に精励した。

102 :中興の祖 (長福寺を建立) 松浦13代目義光:2014/11/07(金) 08:33:54.97 .net
 この頃、義光は、郷内の小林又左衛門、
大上十良太夫らと共に、長福寺(因島中庄)を
建立して、ここに墓地を定め、村中に
散在する先祖の墳墓を集めて
合祀した。

 ※中庄(なかのしょう)の村上水軍城を
訪れた人にぜひ、これから注目してほしいのは
右手にある隣り合わせの長福寺。
広域な墓所を誇る由緒正しい
松浦家の菩提寺です。

※水軍城の右手に長福寺。左側には
 村上家の歴代を祀った
 村上家の菩提寺、金蓮寺(こんれんじ)があります。

 この辺り一帯は、
 瀬戸内海を自由自在に行き交った
 海の男たちの眠る
  パワースポットなのです、

103 :中興の祖 (赤雲神社建立) 松浦13代目義光:2014/11/07(金) 09:36:37.87 .net
 明暦元年(1,655年)権防山に社殿を建立し、同年6月28日
出雲国須佐之男神社から、須佐之男命の御分霊を迎え、これを
祭神として勧請して、「赤雲神社」と名ずけた。

 これが今日の「陣具の荒神さん」と呼ばれる、社殿である。

104 :中興の祖 (長福寺を中庄に建立) 13代目松浦義光:2014/11/07(金) 20:14:25.08 .net
 庄屋職を辞し、民籍に帰す。茶臼山に社殿を再建。
長福寺の建立に参与。村中に散在する先祖の位牌を
集め合祀。権防山へ赤雲神社を建立。

 十三代義光の世代の石名松浦家は歴代の中でも、
最も繁栄充実していたと言われる。
従って、一族挙げて、この当主義光を、
中興の祖すなわち「中祖」と呼んでいる。

 寛文八年(1,668年)5月27日寂。
 法名 松寿院太窓芳林居士

105 :日本@名無史さん:2014/11/07(金) 22:22:15.93 .net
>>95
城と言っても、狼煙台跡に毛が生えた程度だろう?
あの時代の瀬戸内海賊(水軍は)ヨーロッパのカリブの海賊や
バイキングみたいに
大海原を大船団で航海して、町や船を襲うのではなしに
ライン川沿岸の領主みたいに、城や砦を構えては
水先案内と称して通行料をせびる連中なのだから、

106 :日本@名無史さん:2014/11/11(火) 22:44:11.27 .net
水軍城の人気がイマイチだなぁ。
白く塗りたくった
時代考証無視?のお城だからなぁ

因島中庄、茶臼山城を
南北朝時代そのままで
再建してほしい。

107 :お別れの日 村上水軍:2014/11/12(水) 10:41:10.77 .net
因島から村上水軍が去っていく
お別れの日がやってくるんだなぁ。

1600年関ヶ原の戦いで茫然自失(?)か、余裕(?)か、日和見(?)か
なにもしないうちに,ボンクラ大名毛利輝元は敗軍の将になり、
120万石の大大名から36万9千石に領地が削封。
更にその前、1588年、豊臣秀吉の発した海賊禁止令で
因島村上家は海上で働くことが難しくなっちゃった。

108 :日本@名無史さん:2014/11/12(水) 10:52:28.65 .net
104
そっちのがスケール感があって良さそうだなw

109 :お別れの日 村上水軍:2014/11/12(水) 11:48:11.05 .net
で、思い出深い因島から村上水軍は毛利家臣団の一人として
因島を退去せざるを得なくなってしまったのだ。
毛利元就の戦嫌い(?)の為に、広島県分の領地は
全部取り上げられ、泣く泣く村上一族の多くは
長門(今の山口県)に流れて
行っちまった。
  さようなら因島。 さようなら村上水軍。

110 :さようなら因島。 さようなら村上水軍:2014/11/12(水) 12:08:48.89 .net
※ と云う事は江戸時代には
  因島に村上水軍は
  存在しません。

  と云う事は
  白壁造りの水軍城は
  虚構と
  いう事になります。

  出来ればボルノグラフィティの今岡(岡野)さんの御先祖や
  湊(松浦)かなえさんの御先祖の関わった
   妙泰夫人の活躍した
  中庄、茶臼山城を南北朝時代の
  自然のままで再現したい。

111 :中世の城としては国内で初めて正式に城門が復元される見通し :2014/11/13(木) 22:22:42.91 .net
家康普請の城門復元へ 島田・諏訪原城

貴重な礎石が残り、城門が復元されることになった二の曲輪北馬出=島田市の諏訪原城跡

 徳川、武田両軍の激しい攻防戦の舞台となった国指定史跡「諏訪原城跡」(島田市菊川)で、
中世の城としては国内で初めて正式に城門が復元される見通しになった。
文化庁の復元検討委員会が国内の中世城郭で唯一認めた城門の復元案を基に
市教委が2016年度の復元を目指す。
関係者は諏訪原城の再評価や観光資源化に期待を寄せる。

 復元されるのは、二の曲輪北馬出(にのくるわきたうまだし)城門(薬医門)。
二の曲輪北馬出は北側の最前線を守る曲輪で、狭く絞った土橋などの通路を通って
攻め込んでくる敵に一斉に矢を浴びせた場所とみられる。
家康の普請による高さ約3・5メートル、間口約2・2メートルの門を、
発掘調査で見つかった四つの礎石の上に建てる。
 
 全国的には城門が復元された中世城郭はあるものの、文化庁を通した正式な復元ではなく、
便益施設にとどまっている。諏訪原城では二の曲輪の別の場所や本曲輪でも
貴重な城門の礎石が見つかっていて、将来的には両城門も正式に復元できる可能性が高い。

112 :中世の城としては国内で初めて正式に城門が復元される見通し :2014/11/13(木) 22:31:48.79 .net
市教委文化課の担当者は
「文化庁の復元検討委員会の許可は長年の悲願だった」と意義を話す。

その上で「一見地味に思われがちな山城にとって、城門は往時の
合戦の様子を生き生きと想像させてくれる象徴的な建造物になる」と期待する。
 諏訪原城跡は現状でも年間1万人以上が訪れる。
静岡空港や新東名インターチェンジに近く、観光資源としても期待される。
市教委は2004年度から発掘調査を実施してきた。
結果を踏まえながら、27年度までの整備計画に基づいて、
土塁の復元、園路や案内看板の整備などを進めている。

 諏訪原城跡整備委員会副委員長の三浦正幸広島大大学院教授(城郭史)の話 
諏訪原城は天下を取る前の家康の城造りを伝える貴重な城。攻略当時、絢爛(けんらん)豪華な天守閣や
石垣を持った織豊城郭が現れていたにもかかわらず、
家康は城門などで確信犯的に時代遅れの改修を重ねた。

兄貴分の信長と秀吉が求めた豪華さではなく、
あくまで実戦的で質実剛健な城にこだわっていた。
現代にも通じる家康のそうした処世術や生き方を、
城門の復元がきっかけで多くの人々に知ってもらえるのではないか。

 諏訪原城 武田勝頼が1573年、高天神城(掛川市)攻略や遠江制圧の補給拠点として築いた山城。
丸馬出など典型的な武田氏築城術が見られる。
武田氏が1575年5月の長篠の戦いで織田・徳川両軍に敗れると同年8月に家康に攻略された。
家康は牧野城と名を変えて大規模改修を繰り返した。
諏訪原城の名は武田氏の守護神である諏訪大明神に由来する。
1975年に国指定史跡。

 ※ 戦国時代の城門でさえめったになさそうです。まして
   南北朝時代のお城はなおさら。自然大居士の茶臼山城の
   再現が待たれます。

113 :今岡通任(岡野):2014/11/14(金) 09:16:29.06 .net
村上水軍の因島デビュー戦(釣島箱崎浦合戦=霜月合戦)での
最大のライバル、
今岡通任(後の岡野)は猛然と敵に突っ込む戦上手の
武人だったようです。負けず嫌いの闘犬です。

今岡通任 いまおか・みちとう 生没年不明
親族 父:今岡通種 義兄(義父?義弟?):村上義弘  :官職 左衛門尉?
生 涯 ―南朝方で活躍した伊予水軍― (後、北朝)

 伊予国越智郡能島を拠点とする伊予水軍(海賊)の武将で、
通名「四郎左衛門尉」。今岡通種の子で村上義弘の妹婿あるいは姉婿との伝承がある。
 
 元弘の乱が起こると後醍醐天皇に呼応して挙兵、
元弘3年(正慶2、1333)2月に四国平定に出陣した長門探題・金沢時直の船団を鞆の浦沖でさえぎり、
これを撃退した。建武2年(1335)に北条残党の赤橋重時が伊予・立烏帽子城で挙兵すると、
他の水軍と共にこれを攻め滅ぼしている。
建武政権が足利尊氏の叛乱で崩壊したのちもほぼ一貫して南朝方で行動した。

  正平20年(貞治4、1365)7月、幕府方の細川頼之が伊予の河野通堯(通直)を攻めて追いつめると、
通任は村上義弘と共に通堯を救出して彼と父子のちぎりを結び、
翌月に大宰府の懐良親王のもとへ連れて行って南朝方に帰順させた。

 その後通堯と共に伊予に戻って籠屑城・花見山城を攻め落とし、
一時伊予奪回に成功する。その後も九州で懐良のもとで各地を転戦、
また伊予に戻って正平23年(応安元、1358)には伊予に侵攻してきた幕府方の仁木義尹と戦っている。
 
 天授3年(永和3、1377)ごろに因島の青陰(影)城に居住していたことが分かっているが、
このころ北朝方に鞍替えしたらしく(河野通堯の北朝鞍替えと連動するか)
、南朝方に残った村上師清と釣島箱崎浦で交戦、敗北している。
 その後の消息は不明であるが、戦国時代の河野氏家臣団に今岡氏がいることが確認できる。(参考・ビッグロブ)

  

114 :闘犬、今岡通任(岡野):2014/11/14(金) 09:30:45.26 .net
※ 釣島箱崎浦合戦は南北朝の戦いとも言えますが
  海賊行為で実入りの多い黄金の島、因島を巡っての、
  死去した伊予村上七代目村上義弘(越智郡大島)の
  跡目相続
  の争いと見た方が正確なのかも。

  一族同士の権力争いですョ。

  村上、今岡(岡野)、大鳥(松浦)
  みんな血で繋がっていますよ。

115 :日本@名無史さん:2014/11/14(金) 09:33:54.48 .net
ふんふんw
記録を書いたやつらの正体が分かりそうな記事だな

116 :しまなみ海道:2014/11/15(土) 22:27:38.00 .net
このウェブを見ちゃうとミンナ、
瀬戸内海の因島(いんのしま)の土生(はぶ)に
史址深訪の旅に
行きたくなるんじゃァ ないのかな

 平成24年1月16日土生公民館
http://0845.boo.jp/pdf/have/s03.pdf

117 :日本@名無史さん:2014/11/17(月) 20:12:16.24 .net
http://www.youtube.com/watch?v=ZfYKGrEf6tM

118 :637年前の合戦:2014/11/17(月) 23:18:06.13 .net
長らく押し入れに閉じ込めたままの本が役に立とうとわw。
大著の「防長風土記」野村春畝著作に
釣島箱崎浦の戦が載っていました。
合戦の時の兵力数は載っていませんでしたが、信州を出たときの
兵力が分るなど貴重です。

この本の中では村上師清は北畠顕成になっていました。北畠顕成はのち
村上師清と名乗り、親成は義顕と改めたとなっています。

119 :北畠顕成:2014/11/17(月) 23:36:48.22 .net
後期村上水軍の祖

『後太平記』・『予陽盛衰記』によると、
後期村上水軍の祖村上師清は北畠顕家の遺児であるとされ、
父戦死後は信濃に蟄居していたが、雑賀衆の協力を得て伊予大島に入り、
義弘の跡を継いだという。

能島村上氏の系図においてはこの師清を顕成と同一人とするが、
何れも名門志向意識に基づく仮冒であろう。

120 :釣島箱崎浦の戦 1:2014/11/18(火) 11:12:19.77 .net
さて天授3年、北畠顕成(今岡師清)は子息親茂と共に、
一族幕下の者三百余騎を率い、
錦旗を奉じて紀州雑賀荘に出て、
雑賀孫六等と計って兵船三十余艘に打乗り讃岐の塩飽島に渡って、
塩飽三郎夫盛を降し、
次いで備中神島の海賊稲住氏を靡かせて
五百余騎になった。

121 :釣島箱崎浦の戦 2:2014/11/18(火) 11:30:51.61 .net
顕成(村上師清)此の時の出立ちは緋縅の大鎧に、
金の鍬形の兜を頂き、錦の陣羽織を着けて、
虎の尻鞘かけた陣太刀を佩き、
日の丸の軍扇を颯と開いて
士卒を指揮したと言う。



 119訂正じゃァ 北畠顕成(村上師清)が正しい。
 

122 :釣島箱崎浦の戦 3:2014/11/18(火) 12:23:11.19 .net
かくて河野通直を再び南朝に靡かせ、
従わぬ因島青影城に拠る今岡通任、
因島城頭代中庄茶臼山城主大鳥義康等と、
霜月十五日に因島中庄、三庄釣島、箱崎浦で戦って
之を破り遂に内海諸島の宮方勢力を回復した。

顕成、功によって翌年権中納言に任じ叙二位に叙せられた。
西園寺秘本によれば弘和三年薙髪して行意と称すといい、
南朝補任には元中三年崩ずとあり。

123 :日本@名無史さん:2014/11/19(水) 00:26:41.04 .net
楠木正成も
今治周辺の越智氏と何らかのかかわりがあった節があるのだよな
まあひょっとしたら、奈良の越智氏かもしれないが
雑賀衆と言い
南朝は今で言ったら、農協勢力には相手にされずに
銭の経済に関わっている人たちを支持基盤にしていたと言うか

124 :ばさら 金ぴかの時代:2014/11/21(金) 21:07:08.31 .net
ばさら大名佐々木道誉は釣島箱崎浦合戦の4年前
亡くなったものの^日本国王^足利義満が金無垢の
金閣寺を造る時代。^花の御所^の名で知られた室町新邸の
完成が合戦の翌年、1378年。

北畠顕家の遺児、南朝方村上師清も派手だよネエ。

「緋縅の大鎧に、
金の鍬形の兜を頂き、錦の陣羽織を着けて、
虎の尻鞘かけた陣太刀を佩き、
日の丸の軍扇を颯と開いて 」だってさ。

♪金きらきんに さりげなく
 さりげなく生きるだけさ♪ッテ
近藤真彦は歌ったけど
 ♪金きらきんに、とめどなく
  とめどなく 生きるだけさ♪ッテ
方が相応しいと思うな。

ばさら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B0%E3%81%95%E3%82%89

125 :新田義貞の子孫:2014/11/21(金) 21:32:33.47 .net
村上家の御家老9人の内、
4人が新田義貞の子孫だと言う。

村上家の筆頭家老救井太郎左衛門義親が
新田義貞の子孫だと言う。

第二家老の稲井勘解由左衛門尉源家治は
新田義貞の弟、
脇屋義助の子孫だと言う。

新田義貞
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=slv1-snvaio&x=wrt

126 :石名松浦家「清十良の祖」:2014/11/24(月) 22:36:45.02 .net
  松浦三郎兵衛 盛敏
   十二代直義の子。十三代義光の弟

正保元年(1,644年)藩主浅野候の命により、
御調郡の郡務を勤め、御調郡徳永村(現在の御調郡御調町河内地区大字徳永)
へ移る。
「清十良の祖」といわれている。

127 :石名松浦家「伝三郎の祖」:2014/11/24(月) 22:45:34.57 .net
 松浦伝左衛門 盛質
  十二代直義の子。十三代義光の弟。

承応二年(1,653年)耕地及び山林若干町歩を譲り受けて、
「梶畑」へ分家する。
「伝三郎の祖」といわれている。

128 :石名松浦14代目:2014/11/27(木) 08:57:49.01 .net
 松浦治右衛門 光照

13代「中興の祖」と言われた義光の後を継ぎ
光照は農業に専念する。温厚な性格。

なぜか光照の代だけ資料が白紙、欠落しています。
書き忘れか?
私が付け加えました。

129 :石名松浦家「西浦松屋の元祖」:2014/11/27(木) 09:18:44.31 .net
 松浦興市兵衛 貞光 (西浦松屋の元祖)
  十三代義光の二男。一四代光照の弟。

 慶長年間(1,596−1,614年)頃に、耕地、宅地及び
山林を数十有町歩譲り受けて、
茶臼山の麓「陣具」へ分家した。

 貞光は、興市兵衛貞運に後を譲って相続させ、
次郎左衛門貞嗣と長兵衛をそれぞれ分家させた。

 延宝三年(1,675年)十二月十九日寂
 法名 本雪了源禅定門

130 :バサラの伝統 新居浜太鼓祭り:2014/11/30(日) 18:13:56.46 .net
村上水軍の発祥の地は愛媛県新居浜市の大島だと言われています。
河野水軍の後を受け継ぐ神の水軍だよね。

江戸時代には萎んちゃたけど、南北朝時代大活躍した、
瀬戸内海海賊衆の
金ぴかリン、男意気、キップの良さ、人情は
新居浜太鼓祭りに今も受け継がれています。

新居浜太鼓祭りに参加したことのない衆は日本人じゃァないな。
東京、神田の三社(赤ちゃん祭り?)にでも加わるほかにありません。

新居浜太鼓祭り
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%96%B0%E5%B1%85%E6%B5%9C%E5%A4%AA%E9%BC%93%E7%A5%AD%E3%82%8A&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=slv1-snvaio&x=wrt

131 :石名松浦15代目:2014/12/04(木) 23:07:20.96 .net
 松浦治兵衛 義照
  一四代光照の長男

嗣子に恵まれなかったので、分家光平の元祖、
徳左衛門義則の二男、想右衛門忠敬を嗣子(養子)として、
忠敬に後を継がせた。

また、義照は、村上則敬の子(先代光照の孫、当代義照の妹の子)
吉良兵衛と宮地七左衛門の子の二人を
養子として、それぞれ分家させた。

 元禄十六年(1,703年)6月9日寂
 法名 光厳良圓居士

132 :石名松浦家「光平元祖」:2014/12/05(金) 08:16:16.47 .net
 松浦徳左衛門 義則
  14代光照の二男。十五代義照の弟。

 寛文年間(1,661年―1672年)頃、耕地十有余町歩、
山林数ヶ所を譲り受けて、「光平」へ分家した。

 この義則が光平松浦の元祖となる。のちに義則の
長男長左衛門が2代目を継いだが、嗣子が
なかったので、弟(義則の4男)角十郎が、
その後を譲り受け、三代目を相続した。

133 :石名松浦家「金石元祖」:2014/12/05(金) 08:23:01.21 .net
 義則の二男想右衛門忠敬は、本家石名の
十六代を継ぎ、三男金右衛門が分家して、
「金石松浦」の元祖となる。

134 :日本@名無史さん:2014/12/05(金) 08:31:28.60 .net
はいはい、歌舞伎くさいスレになってきたな

135 :石名松浦家「室谷分家」「森屋元祖」:2014/12/05(金) 08:54:05.97 .net
 また、光平松浦の元祖から五代目の萬四郎甚松の世代に、
甚松の二男甚九郎が「室屋」へ分家し、
「森屋松浦」の元祖となる。

※ 因島中庄光明寺の御住職松浦観傳さんは森屋元祖甚九郎から分かれて
  五代目。順番にたどると
  元祖甚九郎、二代近三郎、三代四一郎、四代目が光明寺の観舜さん、
  五代目が観傳さんです。六代目は恵観さん。

 萬四郎甚松は、長男角二郎と共に、光平から土生町箱崎へ移住する。
 その子孫は現在も箱崎に在住している。

136 :石名松浦家「光平」の墓:2014/12/05(金) 09:08:12.79 .net
因みに、光平松浦の元祖から五代までの墓碑は、
いまも、中庄長福寺の墓地にある。

元祖松浦徳左衛門 義則
亨保十七年(1,732年)3月18日寂
法名 徳泉芳流信士
 
 
 ※訂正 134スレ 「室屋分家」に訂正。

137 :石名松浦家光照の娘「増屋」:2014/12/06(土) 09:10:15.38 .net
 石名松浦十四代治右衛門光照の娘
  十五代義照の妹

 はじめに、向島立花金刺の村上則敬へ嫁ぎ、長男
吉良兵衛を生む。主人則敬の死没後、吉良兵衛をつれて
生家石名へ戻る。

 後に、大浜村恵良の村上某へ再婚する。
 「増屋」の元祖吉良兵衛の実母である。

138 :日本@名無史さん:2014/12/06(土) 19:44:33.47 .net
http://www.youtube.com/watch?v=ZfYKGrEf6tM

139 :日本@名無史さん:2014/12/10(水) 16:24:17.77 .net
松浦家十五代目の死去が、今から三百十一年前のお話。
ホント気の遠くなるような昔のお話です。
三百年ぐらい前ぐらいから松浦家の家系は
やたら詳しくなります。
 
 一五代目松浦治兵衛 義照
 元禄十六年(1,703年)6月9日寂

140 :石名松浦十六代目「古池新開」を築調:2014/12/10(水) 16:41:45.49 .net
 松浦想右衛門 忠敬

 実父は、分家光平の元祖徳左衛門義則。
忠敬は、その二男。本家石名十五代治兵衛義照(伯父)に嗣子が
なかったので、義照の養子に成り、
本家石名十六代を相続した。

 宝永二年(1,705年)に、幕府の免許を受けて、同四年(一七〇七年)に、
西浦通谷掻上新開(通称「古池新開」という。)を築調する。
 この面積、九反五畝二十三歩。

141 :石名松浦十六代目「古池新開」を築調:2014/12/10(水) 17:14:20.96 .net
なお、忠敬には、別図四に掲げた子女のほか、次の
子息があった。

 海雲山長福寺四世和尚の徒弟となった「徳心鉄明上座」
 また、豊田郡瀬戸田町の神官、澤山氏の養子となり、
 のちに、神主となった「従五位下近江守澤山敬広」

亨保八年(一七二三年)三月十四日
法名 俊山浄機居士

※別図4には敬正、敬久、徳三郎の子息名があります。

※別図は陣貝松浦家系図は尾道屋等6枚。
 別冊で釜田松浦家系図は釜田屋元祖弥三兵衛から始まり八枚。
 これも別冊で徳永松浦家家系図は大谷屋など二枚です。

142 :光平松浦二代:2014/12/10(水) 22:06:54.15 .net
  長左衛門
 光平松浦の元祖徳左衛門義則の長男。

二代目を相続したが、嗣子が無いため、
弟角十良に後を譲る。

寛保二年(一七四二年)九月五日寂
法名 淳宅禅定門

143 :光平松浦三代目:2014/12/13(土) 11:02:03.31 .net
  角十良
 光平松浦の元祖 徳左衛門義則の四男。

長男の長左衛門が二代目を継いだが、嗣子が無かったので、
兄の後を受け継いで、光平松浦の三代目を相続した。

 宝暦六年(1,756年)11月5日寂
 法名 洞然明白信士

144 :増屋の元祖 吉良兵衛:2014/12/13(土) 11:16:35.80 .net
  吉良兵衛

実父は、向島立花金刺の村上則敬。
実母は、石名松浦十四代治右衛門光照の娘(15代義照の妹)。

実父村上則敬が死没した後、母に連れられて実家石名へ帰る。
石名松浦十五代治兵衛義照の養子となり、成長後、
耕地及び山林若干町歩を譲り受けて、
「光平」へ分家した。

145 :「小田」へ分家 兵右衛門:2014/12/13(土) 11:30:15.34 .net
  松浦兵右衛門
   宮地七左衛門の子。

 石名松浦15代、治兵衛義照の養子となり、石名の分家、
金石松浦金右衛門の娘と結婚し、養父義照から
耕地及び山林若干歩を譲り受けて
「小田」へ分家した。

146 :古い墓碑の一団 長福寺:2014/12/14(日) 19:59:15.61 .net
※ 長福寺の松浦辰夫氏の墓碑の背後の段に、
次のような古い墓碑の一団がある。
(墓碑の配列に拘わらず古い年代順に、判読できるものを掲げる)

宝暦十一巳(1,761年)三平(光平のこと)吉助(三人墓)
天明八申 (1,788年)光平幸助(夫婦墓)
寛政二  (1,790年)松浦雄平(夫婦墓)
享和二戊 (1,802年)不詳(雄平と夫婦)
文政二卯 (1,819年)不詳
文政二卯 (1,819年)不詳
天保六末 (1,835年)松浦吉良兵衛
天保九  (1,838年)00信女
安政二卯 (1,855年)00信女

このほか判読し難いもので、禅定門、禅定尼の夫婦墓二基、
その他数基。並んでいる。

※禅定門は光平松浦二代、長左衛門の可能性があります。
法名 淳宅禅定門 (寛保二年1,742年寂) 筆者注

147 :石名松浦一七代目:2014/12/24(水) 20:34:19.13 ID:o+KADwM/7
  松浦曽助 貞正

 中庄村の長百姓に仕え、組頭を勤めた。
この頃組頭は、終身役であった。

 なお、貞正は、嗣子曽十郎善貞のほか、六人の女子を育て、
それぞれ嫁がせた。そのうち、六女スエは、
分家松浦吟助の室となる。

  明和七年(一七七〇年)十二月十日寂
  法名 應相自喚居士

148 :日本@名無史さん:2014/12/24(水) 20:45:21.87 ID:o+KADwM/7
松浦治良三郎 敬正

 石名松浦16代 想右衛門 忠敬の二男。
 
元禄年間(1,688年ー1,703年)
田、宅地、山林、船舶等若干を譲り受けて
分家した。

149 :日本@名無史さん:2014/12/24(水) 20:58:20.49 ID:o+KADwM/7
東甚平 敬久

 石名松浦16代 想右衛門 忠敬の四男。
正徳年間(1,711年ー1,715年)
田、畑8反6畝歩を譲り受けて
東氏を継承する。

 天明7年(1,787年)十月四日寂
 法名 不峯了傳信士

150 :日本@名無史さん:2014/12/30(火) 22:58:42.96 .net
歴史の宝庫、因の島は
九洲玄界灘の海賊松浦党の血統と
瀬戸内海一円の村上水軍のミックスで
出来ています。

151 : :2015/01/01(木) 01:25:12.11 ID:VQpcnOhxj
安倍首相「国民の皆様がアベノミクスの恩恵を
実感できるのは来年です。
今年より来年はよくなると思う」
http://2log.sc/r/2ch.sc/news/1416624432/

152 :日本@名無史さん:2015/01/06(火) 21:23:06.49 ID:smym9ETyg
 松浦徳三郎

  石名松浦一六代想右衛門忠敬の六男。
 享和年間(1,716年ー1,735年)
 耕地及び山林若干を譲り受け、
 「権防」へ分家した。

153 :石名松浦18代「曽十星」:2015/01/06(火) 21:37:31.29 ID:smym9ETyg
 松浦曽十郎 善貞

  組頭第を勤めながら、専ら農務に励む。
 殊に、昼夜をわかたず、よく
 精励したので、村人から、
 「曽十星」と
 称賛され、嘉賞を賜った。

154 :石名松浦18代「曽十星」:2015/01/12(月) 18:46:42.09 ID:rCFScc6wV
 曽十郎善貞は、八男四女をもうけたが、このうち、
二男は、美濃国龍松庵住職「大?無著和尚」となる。
    享和元年≪一八〇一年≫示寂。

三男は、はじめ、大浜村見性寺へ普住し、後に転じて、
安芸国広島曹洞宗 海雲寺十五世住職
「大翁哲吾大和尚」となる。
    文政5年≪一八二二年≫正月八日示寂

155 :石名松浦18代「曽十星」:2015/01/12(月) 18:55:18.38 ID:rCFScc6wV
昼夜をわかたず、よく
 精励したので、村人から、
 「曽十星」と
 称賛され、嘉賞を賜った
曽十郎善貞は
文化九年(一八一二年)四月二十三日寂
法名 俊應玄英居士

156 :日本@名無史さん:2015/01/12(月) 20:00:29.73 ID:rCFScc6wV
 松浦吟助

 石名松浦十七代貞正の六女スエと結婚して、
ムコ養子となり、権防へ分家して、元祖となる。

 いまなお、吟助の末裔が権防の畑地を
所有しているとのこと。

 享和三年(一八〇三年)9月23日寂
 法名 禅覚良心居士

157 :石名松浦19代:2015/01/18(日) 19:58:08.11 ID:ALScp/5ZL
 松浦治兵衛 美敬

寛政五年(一七九三年)八月十六日に生まれる。
長百姓、年行事、社倉の頭取などを勤仕し、
荘(庄)屋の格式をもっていた。

 明治十四年(千八百八十一年)旧三月十二日寂
 享年八十九才
 法名 恭厳美敬居士

158 :日本@名無史さん:2015/01/18(日) 20:12:20.90 ID:ALScp/5ZL
松浦金右衛門

 村内の井川文三郎の子、石名松浦十八代曽十郎善貞の
 養子となり、善貞の四女ユウと結婚し、耕地若干町歩を
 譲り受けて分家した。

 嘉永五年(一八五二年)二月五日寂
 法名 金山寿剛信士

159 :日本@名無史さん:2015/01/18(日) 21:22:54.67 ID:ALScp/5ZL
この松浦家の資料も記述のあるのは
21代目までです。

光明寺御住職の松浦観傳さんの
お話では、松浦氏21代目の松浦儀三郎 忠義さんが
中庄村の中心部ともいえる村役場の「戸長」等を歴任したのが
この資料の基礎になっているのではと云う
お話でした。この人が過去を紐解き、色々調査されたらしい。

チョッと出来過ぎの感もある、石名松浦氏の資料ですが
最初の一歩を踏み出せたことは大きい。

人間はいつかは死ぬんですが、松浦市の資料が発掘されたことは大きい。
願わくば、数年前まではよく整備されていたという茶臼山城の
お掃除を地元の人や、松浦家に繋がる人たちによって
やっていただけたらと思います。

将来は茶臼山城公園として整備されると大変うれしい。


   なんでも鑑定団 愛のエメラルド

160 :日本@名無史さん:2015/01/18(日) 21:33:16.71 ID:ALScp/5ZL
因島中庄 茶臼山城

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%9B%A0%E5%B3%B6%E4%B8%AD%E5%BA%84+%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%9F%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

161 :石名(陣貝)20代目:2015/01/19(月) 10:49:31.23 ID:k6sn6NNqj
 松浦嘉平太 貞永

文化十一年(千八百十四年)12月13日に生まれる。
長百姓、増稼係、問屋世話役などを勤仕した。

 明治23年(1,890年)5月22日寂
 法名 天真永照居士

162 :日本@名無史さん:2015/01/19(月) 22:53:51.32 ID:PKoveyv7G
日本大学VS京都大学
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/joke/1283229089/l50

日本の将来を担う ライバル校

163 :石名(陣貝)松浦21代、「戸長」に就任:2015/01/26(月) 18:36:40.63 ID:sRfUZtZVu
 松浦儀三郎 忠義

弘化二年(一八四五年)正月21日に生まれる。
明治二年(1,869年)僅か二十四歳で、長百姓に就任した。

明治4年に廃藩置県、明治11年には郡区町村編成法が発布された。

 儀三郎 忠義は、明治12年(1879年)に石和の自宅に
「中庄村戸長役場」を設置し、「戸長」に就任した。
以来、明治19年までの7年間、戸長を勤めた。

164 :石名(陣貝)松浦21代、「戸長」に就任:2015/01/26(月) 18:53:24.80 ID:sRfUZtZVu
 松浦儀三郎 忠義は、明治12年(1879年)に石和の自宅に
「中庄村戸長役場」を設置し、「戸長」に就任した。
以来、7年間、戸長を勤めた。

 官選の村長制度以後は、選挙による村議会議員や
村役場の助役などを勤めた。

 大正5年(1916年)農事振興の功績顕著により、
広島県知事から、銀盃を賜った。

165 :石名松浦21代、「茶臼山城主碑」を建立:2015/01/27(火) 17:49:19.06 ID:n9kRH4xIz
 松浦儀三郎 忠義は、松浦総本家の当主として、
先祖ゆかりの茶臼山城址の山頂へ、
「茶臼山城主碑」を建設し、所有敷地へは、
祖神を祀る社殿を再建した。

166 :石名松浦21代、「茶臼山城主碑」を建立:2015/01/27(火) 18:01:51.24 ID:n9kRH4xIz
 また、社殿は、すでに、その姿は無いが、後年、
そこに先祖旧跡の石碑が建立され、今なお、末裔の
先祖祭祀の寄り処となっている。

 大正五年(一九一六年)八月十五日寂 享年七十二才。
 法名 鶴松斉忠翁良義居士

167 :22代目:2015/02/20(金) 23:24:08.31 ID:mI+ror1X4
陣貝(石名)松浦家の22代目は忠雅さんです。
22代目からは残念ながらお名前しか載っていません。

文良
 忠雅

168 :23代目:2015/02/22(日) 19:00:35.80 ID:ZFek0cS9U
陣貝(石名)松浦家の23代目は
松浦治良さんです。

169 :松浦家伝説 佐用姫:2015/03/16(月) 20:31:18.12 ID:mw6wbL1ft
因島の土生で1377年戦死した
松浦宗義の妻妙泰夫人は神社の祭神として
祀られています。

もう一人松浦家に伝わる伝説としては
松浦佐用姫も忘れるわけにはいきません。
九州は佐賀県唐津市に伝わる悲恋物語です。

537年、新羅に出征する恋人との別れを
悲しんで
佐用姫は石になってしまったという。

  松浦家伝説 佐用姫
http://search.yahoo.co.jp/search?aq=-1&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E8%AA%AC&rs=1

170 :松浦家伝説 佐用姫:2015/03/16(月) 20:41:37.02 ID:mw6wbL1ft
万葉の伝説歌 「松浦佐用姫」 領巾振伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/sirius0426jp/11283170.html
万葉集巻五 875 序

大伴佐提比古郎子  特被朝命奉使藩國  艤棹言歸  稍赴蒼波
 妾也松浦[佐用嬪面]  嗟此別易  歎彼會難  即登高山之嶺
 遥望離去之船  悵然断肝黯然銷魂  遂脱領巾麾之
 傍者莫不流涕  因号此山曰領巾麾之嶺也  乃作歌曰

〔875〕

得保都必等  麻通良佐用比米  都麻胡非尓  比例布利之用利  於返流夜麻能奈

遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名

とほつひと まつらさよひめ つまごひに ひれふりしより おへるやまのな

171 :安倍晋三氏とも繋がります:2015/03/23(月) 21:19:01.62 ID:ZaRBteoE3
ウイキペデイアで松浦氏の歴史を紐解くと
松浦市の祖先は、今を時めく日本の首相、
安倍晋三氏との血縁関係のあることがわかります。
驚かざるを得ないが事実なんでしょう。

172 :日本の首相安倍晋三氏とも繋がります:2015/03/23(月) 21:23:06.19 ID:ZaRBteoE3
安倍宗任の系譜[編集]

平家物語・百二十句本(国会本)剣の巻によれば、安倍宗任が
前九年の役で敗れたあと、治暦3年(1067年)に太宰府に流されるが、
子孫繁栄して、松浦党となった。
この伝えは、百練抄、前太平記、歴代鎮西要略でも記されている。

安倍宗任は、宗像氏の配下となり、筑前大島の統領となる。
宗任の三男・安倍季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり
松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫が九州水軍松浦党を構成したともされる。
なお松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で
平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、
現在の山口県長門市油谷に流罪となった。
その後、高俊の娘が平知貞に嫁ぎ、
源氏の迫害から逃れる為に
安倍姓を名乗ったとされ、その子孫に政治家の安倍晋太郎・
安倍晋三親子がいる。

173 :河野水軍 ^折敷縮三文字^:2015/04/08(水) 22:44:54.35 ID:locN/M7nY
 私は今は河野水軍を調べています。どうも岡野家(今岡)と松浦家(大鳥)
は、村上水軍より河野水軍の方が血が濃さそうです。

 河野氏と村上氏は共に”大山祗神社”を氏神とし、相互に姻戚を結び、ある時は反目し、影響を与え合った同族と云えそうです。
共に愛媛県から発祥したと伝わる、最強の瀬戸内海水軍衆ではあります。


 この中世期(平安時代末期)に伊予(愛媛県)では一番の豪族にのし上った”河野氏”が正史上に姿を現したのは、今から約830年前の治承5年(1181年)。
そこには「吾妻鏡」(あずまかがみ)に「治承5年2月、伊予国住人”河野四郎越智通清”(みちきよ)が反平氏の兵をあげ伊予国を押領したという聞こえがあった」と記されています。

174 :河野水軍 ^折敷縮三文字^:2015/04/08(水) 22:57:16.85 ID:locN/M7nY
じゅんのつぶやき
愛媛から愛媛の様々な情報を毎日、発信中
http://2103center.blog112.fc2.com/blog-entry-1313.html


「伊予国」の中世期を語る上で、見逃すことが出来ないのが”村上水軍”と
河野氏”、それと伊予古代以来の豪族”越智氏”で、それらの関係を語ることで5月と9月に書いた伊予国中世期の隙間が少しでも埋められるのではないか、というのが本稿の狙いです。

つまり、伊予古代以来の豪族”越智氏”−中世期に伊予国で一番の勢力を誇った”河野氏”−中世期に瀬戸内海の制海権を握って活躍した”村上水軍=村上氏”の関係を”家紋”をキーワードに見てみようということです。

それを考える上で外せない位置にいるのが大三島にある”大山祗神社”(おおやまずみじんじゃ)です。

何故なら、越智氏も河野氏も村上氏も共に”大山祗神社”を氏神とし、相互に影響を与え合い、更には自家の”家紋”に”大山祗神社の神紋”を用いているからです。

なお、大山祇神社の社家は”三島大祝家”と呼ばれ、伊予小市国造(いよ おちの くにのみやつこ)の越智氏の後裔であり、河野氏とは先祖を同じくする同族であるとも言われています。

ただし、村上水軍の村上氏の家紋は””を用いています

175 :河野水軍 ^折敷縮三文字^:2015/04/09(木) 09:08:50.36 ID:HMLiJOy1T
私は1377年の霜月の戦い(鶴島・箱崎沖の海戦)に関心があります。
軍旗や家紋にも関心があります。

村上水軍は丸の中に上・が有名です。村上水軍”の”船印”(ふなじるし)には”村上家”の家紋である””の文字が見えますが、その上部には四種の”三文字”の内の”角三文字”と呼ばれる文字が見られます。

一方の河野水軍の一族であり、河野水軍の主力の
今岡(岡野)四郎左衛門尉道任の軍旗は大三島大山祗神社の神紋である
^折敷縮三文字^が使われた可能性が
高いと思われます。

言ってみれば霜月の戦いは、大三島にある”大山祗神社”(おおやまずみじんじゃ)の正当性を訴えるための
戦であったのかもしれません。

176 :河野水軍 「折敷三文字」:2015/04/09(木) 09:29:01.28 ID:HMLiJOy1T
河野氏 ウイキペデイア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F


河野氏の家紋

家紋は「折敷三文字」。鎌倉幕府の開府の時に鎌倉で行われた
酒宴の席順が、
源頼朝、北条時政に次いで河野通信が3番目で、
「三」と書かれた紙が折敷に置いてあった。

このことから、それまで使用していた大山祇神社の社紋である
「折敷縮三文字」を改め、
席順の紙を上から見た「折敷三文字」の紋を頼朝から貰ったと伝えられる。

※この事例から、瀬戸内海の海賊衆が、
 その実力と同時に、
 いかに鎌倉幕府の足枷になっていたかが
 伺えます。この後も河野水軍衆は
 鎌倉幕府についたり、南朝方に附いたりで
 瀬戸内海海賊衆の取り込みの為に、
 時の権力者は
 シャカリキになります。

 でも、酒宴の場とは云え
 3番目の席順とは、その評価の高さに
  驚かざるを得ませんw

 河野水軍 ^恐るべし^

177 :瀬戸内海の覇者、河野水軍 恐るべし:2015/04/10(金) 22:32:01.04 ID:SqYxnWJp6
中世の開幕と伊予水軍の登場

   河野水軍の活躍
 歴史上、組織的な伊予水軍が登場するのは源平争乱の時である。
伊予国では治承5年(1181年)、河野通清(みちきよ)が高縄城で反平家の旗
をあげ、伊予国内の平家方を攻撃したが、備後の西寂(さいじゃく)ら平家軍
によって敗死した。

 河野通清の子、河野通信は、軍船の操縦に優れた一族の水軍を率いて
源氏に味方し、寿永4年(1185年)屋島・壇ノ浦の戦いで、
平氏滅亡に貢献した。

 平家物語は「伊予国の住人 河野四郎通信も百五十艘の大船に乗り連れて
漕ぎ来り、これも同じように源氏の方へ附きければ、平家いとど
興ざめてぞ思はれける。」と河野水軍の活躍ぶりを記している。
河野氏は水軍の弱体な源氏を助け、平氏を滅亡させた功績により、
幕府から守護と同等に伊予国東中予地方の御家人32人を統率下に
置くことが認められ、伊予国の御家人の中心となって武士団を組織し
、勢力を拡大した。

 島々の御家人では、大三島の大山祇神社の神官大祝(おおはふり・
おおほうり)氏や、忽那島の荘官忽那氏が地頭として成長し、
水軍を率いて各地域に支配を強めた。

178 :瀬戸内海の覇者、河野水軍 恐るべし:2015/04/10(金) 22:32:59.07 ID:SqYxnWJp6
次いで、伊予水軍が中世の檜舞台に登場し大きな足跡を残したのは、
元寇における河野通有(みちあり)の奮戦であった。

「予章記」によれば河野通有は文永の役(1274年)
(第1回蒙古軍襲来)の後、蒙古軍の上陸を阻止するために築いた石塁を
背後にして陣を布き、なぎさで蒙古軍を全滅せんとした。
この勇ましい陣立ては「河野の後築地(うしろついじ)」と後世まで
たたえられた。

 更に、「八幡愚童記(はちまんぐどうき)」によれば弘安の役(1281年)
では、来襲した博多湾の蒙古の軍船に対し、2艘の兵船でもって
奇襲攻撃を加え、撃破するという勇猛ぶりを発揮し、
伊予水軍の名を高めた。

 この戦功により、承久の変で一時衰退した河野氏の勢力を復活させ、
再び家名をあげる機会となった。

 その後、通有の子通盛は南北朝争乱の際、河野水軍を率いて足利尊氏を
助け、建武3年(1336年)兵庫和田崎の合戦で、新田義貞・楠本正成らを
撃破した。高名をあげた通盛は東中予にわたり河野氏の勢力を拡大し、
根拠地を高縄城から湯築城へと移して繁栄時代をつくった。

    参考「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書]

179 :河野水軍のブルドッグ、今岡四郎左衛門尉道任:2015/04/10(金) 23:24:37.35 ID:SqYxnWJp6
河野水軍支配下には忽那・今岡・得居・能島・来島・因島の六氏の水師が
いて軍議を開き、行動のすべてを決定していました。
この忽那の後に出て来る大将が、河野水軍の一族に連なる猛将・今岡四郎左衛門尉道任です。

180 :河野水軍のブルドッグ、今岡四郎左衛門尉道任:2015/04/10(金) 23:36:02.10 ID:SqYxnWJp6
今岡 通任(?〜1377?)伊予の人。南北朝の時代に活躍。

 今岡氏は、伊予の豪族、河野氏の傍流となります。

 貞治4年(1365)に、細川頼之(ほそかわよりゆき)が伊予に侵攻し
、河野通朝(こうのみちとも)が世田山城で戦死すると、
子の河野通堯(こうのみちたか)は、周防の屋代島に逃れます。

(今岡四郎左衛門尉)通任は、村上義広(むらかみよしひろ)と共に護衛して
、九州における宮方の主将であった征西大将軍、懐良親王
(かねよししんのう)の元に送り届けます。

通堯が伊予に帰国する際には、(今岡四郎道)任は軍船を提供し、
帰国後には大空城(おおうつろじょう)や、葛籠屑城(つづらくずじょう
)などを奪取して、通堯の伊予国内での復権に貢献します。

 その後の今岡氏は河野家臣団に入り、水軍の一翼を担い、戦国期の
今岡民部大輔が河野氏の御侍大将十八将の一人に数えられます。
甘崎城(あまさきじょう)はこの今岡氏の居城です。

  ※参考 今岡 通任(いまおか これとう)

181 :河野水軍のブルドッグ、今岡四郎左衛門尉道任登場:2015/04/10(金) 23:48:26.71 ID:SqYxnWJp6
  河野氏と村上水軍は伊予に戻ることが出来たのか?

 足利幕府の実権を掌握した細川頼之は、第3代将軍になった義満へのはなむけという名目で、応安元年(1368)の年明け早々に、再び伊予平定に乗り出した。河野通直は伊予から退却したが、なお伊予国内には河野一族の国人衆が多く残留していて北朝軍に抵抗していたからである。

 こうして国人衆の拠点が次々と細川方によって落とされていく報に接し、九州の征西府にいた河野通直は伊予奪回を決断した。
  6月の初め、河野通直は懐良親王から伊予奪回作戦を遂行することの許しを得て、6月4日に豊前根津ノ浦に出て、村上義弘、今岡(四郎左衛門尉)通任ら諸将に呼び掛けて軍船を調達させて、60数名で6月17日に伊予に向けて出港した。

 6月20日に周防屋代島に到着し、付近の島々から続々と味方が馳せ参じ、河野通直は参集した諸将と作戦会議を開き伊予上陸作戦を練った。軍船30余艚に分乗した約200騎が6月30日に伊予松崎浜に上陸した。
  この通直軍を迎撃しようと細川方が駆け付けたが、上陸軍はたちまちこれを撃破した。
  通直方の勝報が伝わると、国人衆が馳せ参じ軍容はたちまちふくれあがった。通直はその軍勢を海陸の二手に分けて、陸上部隊は今岡(四郎左衛門)通任が、海上部隊は村上義弘が主力となった。

 勢いに乗った通直と今岡通任の率いる陸上部隊は、閏6月11日に大空城を攻め落とし、同13日夜、細川方の6将を自刃させた。9月に入って屈辱の風早郡恵良城を攻め、9月16日に城兵を残らず城外に退去させた。
  翌年8月になると東予の新居・宇摩の両郡に軍勢を進め、高外木城を占拠した。
  こうして通直は念願の伊予奪回に成功したのであった。

   参考 しまなみ人 村上水軍99の謎

182 :今岡(岡野)道任、因島上陸:2015/04/10(金) 23:54:08.42 ID:SqYxnWJp6
村上水軍の因島デビュー戦(釣島箱崎浦合戦=霜月合戦)での
最大のライバル、
 今岡通任(後の岡野)は猛然と敵に突っ込む戦上手の
武人だったようです。負けず嫌いの闘犬です。

 今岡通任 いまおか・みちとう 生没年不明
 親族 父:今岡通種 義兄(義父?義弟?):村上義弘  :官職 左衛門尉?
 生 涯 ―南朝方で活躍した伊予水軍― (後、北朝)

  伊予国越智郡能島を拠点とする伊予水軍(海賊)の武将で、
 通名「四郎左衛門尉」。今岡通種の子で村上義弘の妹婿あるいは姉婿との伝承がある。

  元弘の乱が起こると後醍醐天皇に呼応して挙兵、
 元弘3年(正慶2、1333)2月に四国平定に出陣した長門探題・金沢時直の船団を鞆の浦沖でさえぎり、
これを撃退した。建武2年(1335)に北条残党の赤橋重時が伊予・立烏帽子城で挙兵すると、
 他の水軍と共にこれを攻め滅ぼしている。
 建武政権が足利尊氏の叛乱で崩壊したのちもほぼ一貫して南朝方で行動した。

   正平20年(貞治4、1365)7月、幕府方の細川頼之が伊予の河野通堯(通直)を攻めて追いつめると、
 通任は村上義弘と共に通堯を救出して彼と父子のちぎりを結び、
 翌月に大宰府の懐良親王のもとへ連れて行って南朝方に帰順させた。

  その後通堯と共に伊予に戻って籠屑城・花見山城を攻め落とし、
 一時伊予奪回に成功する。その後も九州で懐良のもとで各地を転戦、
また伊予に戻って正平23年(応安元、1358)には伊予に侵攻してきた幕府方の仁木義尹と戦っている。

  天授3年(永和3、1377)ごろに因島の青陰(影)城に居住していたことが分かっているが、
このころ北朝方に鞍替えしたらしく(河野通堯の北朝鞍替えと連動するか)
 、南朝方に残った村上師清と釣島箱崎浦で交戦、敗北している。
  その後の消息は不明であるが、戦国時代の河野氏家臣団に今岡氏がいることが確認できる。(参考・ビッグロブ)

183 :今岡(岡野)道任、因島上陸:2015/04/11(土) 00:15:21.33 ID:PzqyGJmDk
面白いのは河野水軍、今岡道任さんは、村上水軍よりも
3年早く黄金の島・因島に上陸します。1374年。

この3年間の差は重要です。この3年の間に今岡(岡野)さんは
自分の娘をお嫁に出すことによって中庄、茶臼山城主大鳥家(松浦)を
味方に加えることに成功するのです。

新婚の妙泰夫人も加えた今岡(岡野)、白鳥(松浦家)連合軍は1377年、
鶴島、箱崎浦に村上師清の軍勢との瀬戸内海の覇権をかけた
一大決戦を迎えることになります。

184 :今岡(岡野)道任、釣島箱崎浦の戦で無念の戦死。「青影落葉神」:2015/04/11(土) 08:37:41.76 ID:PzqyGJmDk
勝敗は時の運。今岡道任は武運拙く、村上師清の大軍の前に
無念の戦死。郷の広畑で通称楠木にある笠塔婆は、
今岡四郎通任の墓で
「青影落葉神」と伝えられています。

185 :日本@名無史さん:2015/05/28(木) 20:16:16.92 ID:NxXzPx8Jy
今岡(岡野)道任が、釣島箱崎浦の戦で戦死したのは
誠に残念なんだが、この人物、瀬戸内海の多くの島で伝説を残したよなぁ。
生まれながらの闘将だ。

でも驚くよなぁ。今岡氏の登場でわが松浦家は河野水軍にも
結びつくんだが、なんと伊藤博文や正岡子規、一遍、河野一郎らとも
血が繋がるんだなぁ。
昔も人間には足があるからなぁ。あっちこっち歩いて行ける。
瀬戸内海では船か。
あっちの島、こっちの島で男女の出会いがあったことになります。

河野氏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F

186 :なんでも鑑定団 愛のエメラルド:2015/05/28(木) 20:38:53.96 ID:NxXzPx8Jy
松浦家の祖先が瀬戸内海の多くの島々に
種をばらまいた結果、安倍晋三氏
とも伊藤博文さんとも
正岡子規さんとも御親戚という事になりました。

いい種なのかどうなのかはわかりませんが
松浦家の種は丈夫だったんだなぁと感服せざるを得ません。
なんか松浦家の祖先を調べていくうちに、
日本人のルーツ探しになって行った気がします。

パズルを一つ一つ嵌め込んでいくうちに調査も広がり、
玄界灘、九州、瀬戸内海へと拡がっていくうちに
松浦家のルーツは日本人のルーツへと変化していきました。
因島中庄茶臼山城主松浦家24代目の歴史は
日本史を紐解くルーツじゃんと思いました。


伊予鹿島城 (今岡(岡野)道任が活躍したお城です)
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.523950954341867.1073741898.265734740163491&type=3

187 :なんでも鑑定団 愛のエメラルド:2015/05/28(木) 21:03:29.47 ID:NxXzPx8Jy
松浦家を調べるには今岡(岡野)道任氏を調べるのが一番です。
この人の登場で因島はクライマックスを迎えます。
今も因島は岡野姓が一番多いと言われています。

この一族には歌手のポルノグラフィティの岡野くんや
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」の放浪記を書いた林芙美子さんの恋人、岡野軍一が有名です。
林芙美子さんは岡野軍一氏に嫁いで、因島の土になりたかったのではないのかなぁ。残念です。

河野水軍 今岡
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%B4%E8%BB%8D%E3%80%80%E4%BB%8A%E5%B2%A1&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

188 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/29(金) 17:54:04.77 ID:Zm5f6hC3c
小説家の林芙美子さんに対してはお気の毒ですとしか言えないなぁ。
岡野軍一も名前に「軍」と名付けたにしては男らしくないよなぁ。
芙美子さん、小説家になるよりも初恋を貫きたかったのではないのかなぁ。
因島の重井町で専業主婦で終わりたかったのではないのかなぁ。

因島で嫁いでいれば「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
ではなくて
「花の命は美しく、楽しきことのみ多かりき」で
今頃因島の岡野(河野+今岡から改名)家の菩提寺浄土寺に、妙泰夫人と共に
祀られていたに違いありません。


「放浪記」
〈ふたり〉へ林芙美子と緑敏、岡野軍一  ―広島・尾道/東京・中井
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200610140115.html

189 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/29(金) 18:00:43.36 ID:Zm5f6hC3c
 行商しながら九州を転々としていた芙美子一家が1916(大正5)年に尾道へたどりつく直前、約1年とどまった福岡県直方市の炭鉱街での生活は、まさに極貧である。木賃宿をねぐらにした芙美子は尋常小学校にも通えず、ひとつ1銭の辻占いやアンパンを売りに歩いていた。

 海運の要衝として栄えた尾道がようやく安住の地となり、2年遅れで学校にも通えるようになった芙美子が、6歳年上の岡野軍一と巡りあったのはまったく行きずりの偶然だったという。

 尾道在住の林芙美子の研究者、清水英子さん(64)によると、当時、旧制中学校生の岡野は、夕暮れの陸橋で木柵(もくさく)にもたれて一心に翻訳物らしき本に読みふける小柄な少女がいるのに惹(ひ)かれて、たまらず声をかけたのだという。

 物おじせず、むしろ饒舌(じょうぜつ)に本の読後感を語る娘の早熟で奔放な印象に、岡野は離れがたい愛着を感じた。

 芙美子にしても、岡野の旧制中学の制服、制帽に、貧困で屈折した知的プライドがざわめいた。岡野の出現は思春期の芙美子にとって「ひそかな待望の奇襲だった」と清水さんはいう。

 初恋は女を憧(あこが)れの高みへ昇らせ、やがて奈落へ突き落とした。芙美子は、なりふりかまわぬ文学の鬼と化した。

190 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/29(金) 18:08:36.56 ID:Zm5f6hC3c
2人の身分を分けたのは
身分の差なんだよなぁ。
素封家の岡野家にしてみれば
どこの馬の骨かも分からない小娘なんぞ
イランという事でした。

今岡(岡野)道任さんも私もその辺の事情を聞いていれば
何とかできたと思うんだがなぁ。
なんとも残念なことじゃった。

因島に主婦岡野芙美子さんの誕生はならんじゃった。
何とも残念です。

191 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/29(金) 18:55:07.52 ID:Zm5f6hC3c
まぁ男は誰でも
種を出すとそれっきりだからなぁ。
因島の海賊衆だと女とヤッタ後のことは考えていないら。
だから安倍晋三氏や伊藤博文、正岡子規も出て来る。
松浦岡野の繁殖力〈性力〉恐るべし。

林芙美子と岡野軍一
http://search.yahoo.co.jp/search?p=+%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90%E3%81%A8%E5%B2%A1%E9%87%8E%E8%BB%8D%E4%B8%80&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

192 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/29(金) 19:03:22.83 ID:Zm5f6hC3c
岡野軍一も東京で同棲はするんだが
結局、婚約を解消するんだよなぁ。
両親も姉夫婦も結婚に反対だったというんだがね。
軍一君、ヤルことはヤッタから熱が冷めたという事か?

岡野家に嫁いだ松浦妙泰さんと
岡野家に婚約解消された林芙美子さんでは
雲泥の差だよなぁ。

妙泰さんは神社で女神となり、お寺で祀られたのに比べると
同じ松浦家の縁者なのに林芙美子さんは
お気の毒としか言いようがありません。

    なんでも鑑定団 愛のエメラルド

193 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/30(土) 08:26:49.78 ID:iJXVHPv3L
松浦家悲恋伝説としては
南北朝時代に村上水軍と戦い戦死し
妙泰神社に祭られた岡野(今岡四郎通任)の娘・松浦妙泰夫人が有名だが
佐用姫を忘れることは出来ない。

でも一番お気の毒なのは林芙美子さんだなぁ。
小学校6年生の時に知り合い、兄とも、先輩とも、師匠とも
慕った初恋の相手だからなぁ。
恋を成就した佐用姫と妙泰夫人、そして因島の土塊に成れなかった無念の人、林芙美子。

岡野(林)芙美子さんは信じ切っていた恋人に
裏切られたんだからなぁ。突然梯子を外されたようなもんだ。


※537年、新羅に出征する恋人との別れを
悲しんで
佐用姫は石になってしまったという。
   松浦家伝説 佐用姫
http://search.yahoo.co.jp/search?aq=-1&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E8%AA%AC&rs=1

194 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/30(土) 08:44:50.67 ID:iJXVHPv3L
私は林芙美子さんが因島で無事(?)に岡野軍一に嫁いでいれば
放浪記も小説も生まれていなかったと思います。

梯子を突然外された結果、心の静謐を破られ
心の安定剤として日記が書かれ、後に
小説になったんだと思います。

林芙美子さんにとっては岡野軍一は
古里の様なもので、心の拠り所だったのだと思います。

因島に嫁いで入ればだなぁ。毎日、八朔の手入れとイノシシの相手で
忙しいンジャァないの。「丹精した野菜や、サツマイモが齧られちゃった」
ッテ泣いていると思います。。

195 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/30(土) 12:19:07.79 ID:iJXVHPv3L
林芙美子さん因島で嫁いでいれば、日暮し作物を食い荒す
イノシシッチを鍬を手に、捻り鉢巻きで
争っているかもしれないぞ。松浦さんや岡野さんの先祖祭りに加わっているかもしんない。松浦家の先祖祭りは陣貝家、釜田家、徳永家に分かれて
それぞれ別の場所で行われるんだが、岡野家は1カ所で開催されるらしい。

現実は厳しい。放浪記では島の男についてはこう書かれています。
「私を捨てた島の男へ、たよりにならない長い手紙を書いた」

手紙では埒が明かないと、いよいよ因島に殴り込みをかけます。

196 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/30(土) 12:38:07.36 ID:iJXVHPv3L
どんな事をしてでも島へ行って来なければならない。
島へ行って、あのひとと会って来よう。

島で母達と別れると、私は磯づたひに 男の村へ行く。
結局は、アメリカから帰った、姉さん夫婦が反対の事、
それに、本人も此頃造船所の庶務課に務めがきまったので、
あんまり幸福を乱さないでという事だった。

……縁側で涙をくくみくくみ呼ばれていると
荒れた水田の小道を、なつかしい顔が帰って来る。


※埒が明かないと、殴り込みをかけた因島ですがかなり苦しい。
本人に直談判し起死回生の逆転打なるか。がんばれ芙美子!!
初恋に賭けろ!

197 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/30(土) 14:54:33.38 ID:iJXVHPv3L
気の弱い男は、驚いて瞳をたじたじと
させていた。
「当分は、一人で働きたいと云っとるんじゃから
帰ってもおらんで、気長に待っておってください。
何しろあいつの姉の云うことには、一軒家もかまえておらん
者の娘なんかもらえんと云うのだから・・・・・・


※ この発言は軍一の家族の発言なのでしょうか。
  本音は語られていますが、人間のぬくもりのない発言にも取れます。

  当事者の軍一は口をパクパクさせていただけかなぁ。瞳を
  たじたじとさせていただけかぁ。
  林芙美子さんも「家の一軒もかまえておらん」と
  言われれば返す言葉がないよなぁ。

198 :岡野(林)芙美子さん:2015/05/30(土) 15:11:45.31 ID:iJXVHPv3L
私は白々と思いを感じた。男と女の、
あんなにも血と肉も焼くような約束が、
こんなにもたあいもなく
崩れて行くものだろうか。

町の入口で男と別れると、体中を
スイスイと冷たい風が
吹き荒れるような気がした。

※ 大変残念なことに、林芙美子氏の体当たりも当たって砕けた!に
  終わりました。でも1年前には他人事だと思っていた小説「放浪記」が
  身内の事だと思うとねぇ、何とかならなかったものかねえと
  思い残念です。

林 芙 美 子 (2) ー張 愛 玲 と の 関 連 に お い て 第一章 『放浪記』第二部(Adobe PDF)
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/5175/1/tetsugaku607671.pdf#search='%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90%E3%81%A8%E5%B2%A1%E9%87%8E%E8%BB%8D%E4%B8%80'

199 :なんでも鑑定団 愛のエメラルド:2015/06/10(水) 20:16:26.20 ID:CjwmuzRWC
現在、私は静岡県の藤枝市に在住しています。
父の転勤でこちらに来ました。
私の母と父は因島の中庄の出身です。母は結婚する前は村上姓です。

私が現在、居住している藤枝市の市長さんのお名前は、北村正平さんなんだが
信州の名門村上家の出です。
という事は、私の母も藤枝市長さんも、祖先は御親戚という事になります。
日本人の血統はみんな、どこかでつながるんじゃぁないですかね。

200 :松浦家伝説:2015/07/07(火) 08:44:47.42 ID:n+6QetW/K
私が嬉しいのは松浦家伝説でクイックすると
1ページ目にこのスレッド名が出て来ることです。

なんか全国の松浦さんに、因島中庄の茶臼山城主の
松浦さんのことを知ってもらえた気がしてうれしいです。
光明寺の松浦観傳さんの祖先に対する想いに
少しでも応えられて嬉しいです。


     松浦家伝説
http://search.yahoo.co.jp/search?aq=-1&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E8%AA%AC&rs=1

201 :日本@名無史さん:2015/08/17(月) 09:35:00.49 .net
天皇陛下のお味方は
日本国民と韓国国民なんです。

南北朝の時代にも我々愛媛県の守護河野水軍(村上水軍も含まれます)は、
後醍醐天皇、森永親王率いる南朝方にお味方しました。

瀬戸内海では足利尊氏に対抗し、征西将軍懐良親王の元、
伊予の守護河野通堯、今岡通任、村上義弘、村上師清らが北朝方足利尊氏らを
散々懲らしめました。

然るに安倍晋三首相の御先祖は幕末、長州藩において
天皇陛下に繋がる中山忠光卿を惨殺しています。

韓国国民が天皇陛下のお言葉に高い評価を与えたのは当然です。
日本国民も韓国国民も天皇陛下の子孫です。

202 :日本@名無史さん:2015/08/17(月) 09:45:21.34 ID:aVMgDtqJm
天皇陛下のお味方は
日本国民と韓国国民なんです。

 南北朝の時代にも我々愛媛県の守護河野水軍(村上水軍も含まれます)は、
 後醍醐天皇、森永親王率いる南朝方にお味方しました。

 瀬戸内海では足利尊氏に対抗し、征西将軍懐良親王の元、
 伊予の守護河野通堯、今岡通任、村上義弘、村上師清らが北朝方足利尊氏らを
散々懲らしめました。

 然るに安倍晋三首相の御先祖は幕末、長州藩において
天皇陛下に繋がる中山忠光卿を惨殺しています。

 韓国国民が天皇陛下のお言葉に高い評価を与えたのは当然です。
 日本国民も韓国国民も天皇陛下の子孫です。


※昔は国境なんかなかったのではないのですかね。
 あっちの島、こっちの島という感じでね。
 櫓一丁で島から島へと渡って行ったのでしょう。

 女性に運悪く?掴まった?のが定住したのでしょう。

203 :茶臼山城 24代目 自然大居士:2015/08/24(月) 10:01:01.65 ID:CtHBTSeb8
どうもリニアカー 建設費の暴騰もあり
中止に追い込まれそうね。人口の減少、自然破壊より
建築費の暴騰がJR東海柘植社長さんらの暴走を止めそうです。

リニア中央新幹線は必ず失敗する
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/trafficpolicy/1390280478/l50 [ソースチェック]

リニア中央新幹線とオリンピック空港駅を考える。 [転載禁止]©2ch.net
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/trafficpolicy/1415784650/l30 [ソースチェック]

自然破壊にウンザリ 86%トンネル内を走るリニアカー
http://shizu.0000.jp/read.php/news/1416534390/l50 [ソースチェック]

リニアカーより自然保護が大切です
http://shizu.0000.jp/read.php/inaka/1416704862/11- [ソースチェック]

JR東海   Central Japan Railway Company
http://shizu.0000.jp/read.php/company/1370103906/ [ソースチェック]

オリンピック空港新幹線駅 ついにオープン
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/airline/1411023279/l50 [ソースチェック]

人口が激減するのに10兆円以上もかけてリニアを作るなんて馬鹿だろ
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/news2/1379605668/l50 [ソースチェック]

204 :日本@名無史さん:2015/08/31(月) 11:53:41.18 .net
あんまり突込みがないのだけど、
太平記によれば、死んで化けてでてきたけど
なぜか伊予の国に出現しているのだよな。
絶対に楠木一族は瀬戸内の海賊集と何らかのつながりが
あったと思うぜ。

205 :「青影落葉神」は別人の墓だった:2015/09/04(金) 21:49:18.51 ID:+GjhgVrtM
♪ 死んだはずだよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん ♪

勝敗は時の運。今岡道任は武運拙く、村上師清の攻勢の前に
無念の戦死。郷の広畑で通称楠木にある笠塔婆は、
今岡四郎通任の墓で
「青影落葉神」と伝えられています。

※今までは笠塔婆は今岡四郎道任の墓だろうと因島の住人は
思ってきました。でもね調査の結果、「青影落葉神」の墓は今岡道任本人の墓ではありませんでした。今岡道任は生きていた。

206 :「青影落葉神」は別人の墓だった。今岡道任は生きていた。:2015/09/04(金) 21:59:56.82 ID:+GjhgVrtM
それゆえ村上師清はそれ以上今岡道任を追撃することはせず、
大三島甘崎古城(越智郡上浦町甘崎)や伯方島枝越城(同郡伯方町伊方)の
城主として、両島のあいだの鼻栗瀬戸を支配させた。

207 :「青影落葉神」は別人の墓だった。今岡道任は生きていた。:2015/09/05(土) 08:09:25.67 ID:Eg6Sp8nIK
今岡陽向軒道任は生きていたどころか村上師清は、瀬戸内海河野水軍の海軍大将ともいえるブランド品の今岡道任の取り込みにシャカリキになります。

村上義弘の跡を継いだ形とは言え余所者の村上師清にとっては、かつての南朝方の猛者今岡陽向軒道任を抱き込むことが重要課題だったのです。

今岡四郎左衛門尉道任はかって村上義弘と共に河野道堯(道直)を征西将軍懐良
親王に帰順させ、南朝に忠節を尽くした武将である。

この時期、村上山城守師清の任務は、吉野朝長慶天皇や征東将軍宮宗良親王の
意を体して、今岡陽向軒道任を南朝方に引きもどすか、あるいは北朝方の彼を
退けて芸予海域の制海権を南朝方に確保することにあった。

208 :「青影落葉神」は別人の墓だった。今岡道任は生きていた。:2015/09/05(土) 08:25:22.22 ID:Eg6Sp8nIK
今岡四郎左衛門尉道任にはまだまだ続きがあってね村上家とメッチャァ姻戚関係をむすぶことによって一族の血がさらに濃くなって行きます。村上家=今岡家

今岡四郎左衛門尉道任は娘を中庄茶臼山城主
 大鳥少輔(松浦)義康の弟大鳥九郎左衛門尉宗義に嫁がせますが、
、村上山城守師清は今岡四郎左衛門尉道任の娘を自分の養女にして
(村上)義弘の遺児
左近将監(島)信清に嫁がせています。

209 :「青影落葉神」は別人の墓だった。今岡道任は生きていた。:2015/09/05(土) 08:50:21.46 ID:Eg6Sp8nIK
また能島村上家の嫡家村上図書元敬の家系図によると、村上山城守義顯のところに「妻河野 前(さきの) 道直 女(おんな)、実は今岡土佐入道某女」と書かれているので、
師清は自分の長子義顯にも、今岡土佐入道の娘を河野道直の娘という
名義で嫁がせていることがわかる。

この今岡土佐入道が、道任とどういう関係の人物かわからないが、その一族の
誰かであることはたしかだ。
    参考 村上海軍興亡史 森本繁著

※今岡土佐入道は今岡道任のお兄さんかもしれないですね。
 河野水軍中興の祖、道任は次男坊です。

※この本(村上海軍興亡史 森本繁著)の行方が長い間不明でね。
 家中探してやっと見つけました。 なんでも鑑定団 愛のエメラルド

210 :レコード 紹介:2015/12/15(火) 23:59:17.36 ID:lBEiEmyTq
自主盤・GS・岩本善行「愛のエメラルド/霧の街角」グループ
http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w78622505

211 :日本@名無史さん:2015/12/26(土) 07:40:13.94 ID:V+iQTSL+d
今まで隣国に対して悪口の限りを言っていた安倍晋三首相が
 猫なで声で
 「すべての責任は私が取る」と言ってもなぁ^

 安倍氏は地元山口県下関市の選挙では大変在日の人にお世話になったみたいですし、
 「日韓は車の両輪!」と云う位の気持ちが欲しかったです。

 ネトウヨも安倍晋三首相の根底も
 基本は島国根性、要するにケチの精神から
 出ていると思うなぁ。

 私ら因島中庄の人間は河野水軍や村上水軍、松浦党の子孫が多いせいか
 あっちの島、こっちの島という認識かな。基本、国境というくくりは無いです。
 おなごのいるあちらこちらの島に上陸して子孫を残してきました。


     なんでも鑑定団 愛のエメラルド

212 :日本@名無史さん:2016/06/13(月) 20:54:02.27 ID:Qv5fozFJa
嬉しかったですね。小説家の湊かなえさんにお会いできて。
といってもテレビの中でですけどね。
何となくチャンネルを変えて「行列のできる法律相談所」を見ていたら
なんと因島中庄出身の松浦かなえさんが出ていました。「嫌いな相手?
湊かなえとvs芥川作家N」という企画の中で紹介されていました。

私、もちろんお会いしたことはありませんがどんな人かだろうかと大変、
気にはなっていました。同じ因島中庄の松浦家の血筋だと思うと嬉しかったですね。私は静岡県の藤枝市にいますが声援を送りたいと思います。
これからもがんばってください。

       なんでも鑑定団 愛のエメラルド

213 :日本@名無史さん:2016/06/16(木) 10:41:58.51 ID:tNhi2r0xX
因島松浦家の凄さは後醍醐天皇と足利尊氏が
争った南北朝の時代からご先祖さんが
わかることですね。今も万田発酵の社長さんや
湊かなえさんらが大活躍しているんだから
凄いです。

太平記 23話
https://www.youtube.com/watch?v=J7fHSF-9I4g

214 :日本@名無史さん:2016/06/21(火) 07:20:04.55 ID:M8p9FfxlX
直木賞の6人の候補の中に湊かなえさんが
入っています。同じ因島中庄の松浦家に繋がる
縁者としては、直木賞受賞を期待しちゃいますね。
プレゼントがもらえますように祈っています。
      なんでも鑑定団 愛のエメラルド


湊かなえー直木賞候補作家の群像
http://prizesworld.com/naoki/kogun/kogun149MK.htm

215 :直木賞候補 松浦(湊)かなえさん:2016/06/21(火) 11:14:09.62 .net
直木賞の6人の候補の中に湊かなえさんが
入っています。同じ因島中庄の松浦家に繋がる
縁者としては、直木賞受賞を大いに期待しちゃいますね。
プレゼントがもらえますように祈っています。
      なんでも鑑定団 愛のエメラルド


湊かなえー直木賞候補作家の群像
http://prizesworld.com/naoki/kogun/kogun149MK.htm

216 :日本@名無史さん:2016/09/01(木) 07:30:09.72 ID:aARTAWp59
因島と言えば海賊でしょう。河野水軍、今岡水軍。特に村上水軍は
 瀬戸内海の覇者として有名です。
 私は因島中庄の南北朝時代からの系譜の伝わる松浦家の子孫です。

 因島の私らから見れば四方八方見えるのは島ばかりです。
 私らの祖先も島から島へと海を伝って来たんじゃぁないですかね。
 人間には足があるからね。一か所に留まるのではなくて
 仕事とおなごを求めて移動したと思いますね。
 元は九州の松浦市の出身でその前は玄界灘を漕ぎ渡った朝鮮半島か
 中国大陸でしょう。ルーツは地球そのものでょう。
           なんでも鑑定団 愛のエメラルド


【話題】「日本人が縄文人と弥生系渡来人の混血という説が裏付けられた」 縄文人の核DNA初解読、東アジア人と大きく特徴異なる ★2 [無断転載禁止]©2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1472677887/l50

217 :験乗宗総本山光明寺:2017/10/02(月) 19:52:03.18 ID:gvxFeulQA
験乗宗総本山光明寺 火渡りで煩悩焼き尽くす
http://0845.boo.jp/times/archives/12672

因島中庄町の験乗宗総本山光明寺(松浦恵観座主)の大法会が3日、同境内であり、約600人の信者や住民が参詣した。
本尊・祖師・先徳報恩法要から始まった。つづいて採燈大護摩供の儀式に移り護摩木を焚き、無病息災を祈った。
クライマックスは火生三昧式(火渡り式)。火を渡ることで煩悩を焼き尽くし身を清める儀式。若い信者や家族連れなど大勢の人が立ちのぼる煙のなかを次々と渡って行った。

218 :日本@名無史さん:2017/10/19(木) 21:53:39.94 ID:Rcojc0DRX
2017新居浜山根グランド夜太鼓 寄せ太鼓
https://www.youtube.com/watch?v=1bjjbIa7HTM [ソースチェック]

瀬戸内海海族衆の心意気を今もなお伝えるのが
村上水軍の発祥地、新居浜市の
豪華絢爛たる新居浜太鼓祭りです。

     なんでも鑑定団 愛のエメラルド

219 :魏志倭人伝に出て来る末盧(まつら)が 我が松浦家のルーツ:2017/12/23(土) 09:47:53.97 ID:E93BXXnJ+
□ 私は数年前、自分のルーツを調べてみて分かったんだわ。
人間は足があっていろいろあッちらこっちら、オナゴと生活の場を求めて
移動しているんだなって。魏志倭人伝に出て来る末盧(まつら)が
我が松浦家のルーツかな。玄界灘から九州に上陸して
島から島へと移り住んだんだろうなって思いました。
最終的に落ち着いたのが瀬戸内海・因島の中庄でした。
絶世の美人に?まっちゃったのかもしんねいな。

220 :魏志倭人伝に出て来る末盧(まつら)が 我が松浦家のルーツ:2017/12/23(土) 09:56:54.93 ID:E93BXXnJ+
絶世の美人に?まっちゃったのかもしんねいな。
↓  ↓
おっと一字、飛んだぞ。
捕まったのかもしんねいなに訂正。

我が祖先は波の穏やかな瀬戸内海を
ぎっちらこっちら櫓を漕いで因島に上陸したんだな

そこで絶世の美女に捕まったに違いない?
出来た子供は1ダース12人。
松浦家が繁栄するわけです。。

221 :魏志倭人伝に出て来る末盧(まつら)が 我が松浦家のルーツ:2017/12/23(土) 13:29:46.03 ID:E93BXXnJ+
末ら国 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E3%82%89%E5%9B%BD

222 :魏志倭人伝に出て来る末盧(まつら)が 我が松浦家のルーツ:2017/12/23(土) 13:36:31.05 ID:E93BXXnJ+
末盧国(まつらこく)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AB%E7%9B%A7%E5%9B%BD-136793

223 :魏志倭人伝に出て来る末盧(まつら)が 我が松浦家のルーツ:2017/12/23(土) 13:52:31.99 ID:E93BXXnJ+
末盧国 魏志倭人伝の風景
http://www.eonet.ne.jp/~temb/10/matura/matura.htm

224 :魏志倭人伝に出て来る末盧(まつら)が 我が松浦家のルーツ:2017/12/23(土) 14:05:51.15 ID:E93BXXnJ+
《魏志倭人伝》には,一支国より海を1000余里渡ると末盧国に達し,
戸数は4000余戸,山海に沿って人々は暮らし,魚や鰒(あわび)を
海中に潜って捕らえているとある。また前を歩く人が見えないくらい
草木が繁茂しているとあります。

◎ 何が嬉しいと云っても、我が松浦家の御先祖様は魏志倭人伝の
時代に遡って判明することだなぁ。
人間には足があるからね。玄海灘を経由して手漕ぎの船で大陸に朝鮮半島に又、内地の様々な島々に渡っていったんだなぁ。松浦家は代々、海に親しむ一族です。

225 :日本@名無史さん:2018/04/12(木) 08:37:34.55 ID:Zw68m+peQ
広島県 尾道市 因島
平成27年 国勢調査人口 21,947人
世帯数 9,812人
https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/6637.pdf

□ 因島の平成22年の人口は23,953人。5年間で2,006人の減少。
□ 向島の平成27年度の人口は22,311人で因島より364人多い。。

226 :日本@名無史さん:2018/04/12(木) 08:53:24.92 ID:Zw68m+peQ
【逃走の受刑者】 夜間に盗み繰り返し移動か 1000軒以上の空き家を350人態勢で捜索範囲広げる 広島 向島
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1523429616/l50

□ 向島の空き家が1000軒以上というのには驚きますね。
因島の世帯数は9812軒で向島より約1千多いですから
空き家の数も多いと思います。
因島の名物は八朔と空き家と猪の数?です。

227 :日本@名無史さん:2018/04/29(日) 20:02:25.38 ID:kojeMW8ej
2012・6・3広島県 因島光明寺の石土蔵王大権現
https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-11268654045.html

さっきまで尾道の石鎚山
帰り道にずっと以前から気になっていた因島の光明寺へ
この光明寺の名は以前探検した子持権現山ホンガケ道で知った。
このホンガケ道にある2つの看板と石標には「因島光明寺石峰団」と
書かれてあり以前から子持権現山との関係に興味を持っていたのだ。
夕方光明寺に到着、駐車場には役小角・不動明王像があり石鎚山と
の関係を確信し、境内をうろうろしていると女性の方から「本堂でお参
りをどうぞ」と声をかけてくださった。

女性の方に石鎚山との関係を聞いてみると、何と聞いてびっくりこの
お寺の御本尊が「石土蔵王大権現」と言うのだ。
この場合の石土とは現在の瓶ヶ森の事なので瓶ヶ森の蔵王大権現と
言う事になる。

本堂に上がり石土蔵王大権現を拝ませていただくと、既に隠居された
御住職が、出てこられ、「ただ子持権現山の看板を見て来ました」と言う
と、まあまあと言う事で隣の部屋で接待を受けた。
身の上話に始まり子持権現山・瓶ヶ森・石鎚山・蔵王大権現様の昔話
と体験談を聞かせていただいた。
ぜひとも後世に伝えていただきたい貴重な内容のお話であった。

□ 私も既に引退された松浦御住職氏に、石土蔵王大権現のお話を
伺ったときは魂消てしまいました。石鎚山は神の宿る霊山でした。

228 :日本@名無史さん:2018/04/30(月) 20:52:37.96 ID:8IHb+fTvC
【受刑者逃走】平尾容疑者(27) 脱走「刑務所の人間関係が嫌で」 逃走
「24日に泳いで本州、電車で広島へ。逃げるのしんどかった」★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1525087455/l50

□ 因島に海を渡ってくる猪さんと同じでしたね。
  平尾容疑者も海を渡って本州に上陸しました。
  日本人の先祖も大昔、手漕ぎ船で海を渡ってやってきたと思います。

229 :日本@名無史さん:2018/07/26(木) 23:25:47.40 ID:ZLqSl3QJd
ポルノグラフィティ、故郷開催「ロマンスポルノ」収益を全額寄付へ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180726-00000095-natalien-musi

ポルノグラフィティが9月8、9日に地元広島県の広島県立
 びんご運動公園にて開催する野外ライブ「しまなみロマンスポルノ'18
〜Deep Breath〜」および同公演のオリジナルグッズの収益全額を、
平成30年7月豪雨による災害復興のための支援金として
寄付することを発表した。

ポルノグラフィティは災害発生以降、開催地である広島県の被害状況を
見ながら実施の可否について検討を続けてきたという。尾道市側とも
話し合いを重ね、広島県出身のポルノグラフィティとして
何ができるのかを熟考した結果、予定通りライブを開催することに。さ
らに収益を復興支援のために寄付することを決定した。災害により
来場できないファンに対してはチケットの払い戻しを行う。

230 :今岡+河野=岡野:2018/07/26(木) 23:28:01.45 ID:ZLqSl3QJd
今回の発表に際して岡野昭仁(Vo)は「やはり僕たちに出来ることは
音楽によって少しでも、わずかでもいいので心を元気
にすることだと思います。9月の2日間、愛するふるさとで目一杯
歌いたいと思います」とコメントし、新藤晴一(G)は「甚大な
被害があってから、わずか2カ月後に大規模なライヴを行うこと、
中止、延期を含め、スタッフ、メンバーで考えてきました。
どちらの選択をするにせよ、ポジティヴな要素、ネガティヴな要素が
同居していて、なかなか答えには辿りつけませんでした。それならばと、
よりポジティヴな要素が多い方、つまりミュージシャンとして
音を奏でるという選択をしました」とつづっている。

■ しまなみロマンスポルノ'18〜Deep Breath〜
2018年9月8日(土)広島県 広島県立 びんご運動公園
2018年9月9日(日)広島県 広島県立 びんご運動公園

231 :日本@名無史さん:2018/08/23(木) 23:17:28.63 ID:0wd1dK16R
「因島水軍まつり」サントリー地域文化賞に
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180823-00000005-tssv-l34

地域文化の発展に貢献した団体などが表彰されます。今年度の
サントリー地域文化賞に尾道市の村上水軍の歴史を継承する
「因島水軍まつり」が選ばれました。

この賞は地域文化に貢献した個人や団体などが毎年、
表彰されているものです。
今回、選ばれた「因島水軍まつり」は尾道市因島地区で
村上水軍の歴史文化を受け継ごうと住民参加で行われていて、
1991年からは水軍の甲冑や木造の伝令船である「小早」
を再現し、水軍さながらのレースも毎年行われています。

【サントリー文化財団・工藤高上席研究員】
「村上水軍という歴史を住民自ら掘り返し、住民総出で皆さん
やっている活動というところがかなり評価の対象になった」
受賞した関係者も甲冑姿で出陣です。
【因島水軍まつり実行委員会巻幡伸一実行委員長】
「この度の受賞を契機にして我々もさらに精進研さんして、この祭りを
大いに発展し皆さん方の期待に応えられるように頑張っていきたい」
授賞式は来月、東京で行われるほか、因島水軍まつりの小早レースが
今月26日に、火まつりが来月1日に行われる予定です。広島ニュースTSS

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