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徳川将軍家の後継争いについて語るスレ

1 :日本@名無史さん:2017/05/25(木) 23:01:28.42 .net
一見順当そうなで、実はいろいろあったよなぁ・・・

秀忠.家光.家綱.綱吉.家宣.家継.吉宗.家治.家慶.家茂・・・のあと「誰っ?」って



世継ぎ争いって、結構奥深いと思うのは俺だけか?

2 :日本@名無史さん:2017/05/27(土) 16:48:40.40 .net
家康の後継者だってだろ

3 :日本@名無史さん:2017/05/28(日) 17:13:43.62 .net
一見順当そうだった試しがない気が

4 :日本@名無史さん:2017/05/28(日) 21:29:56.58 .net
NHKBS『英雄たちの選択』
天英院ageひどすぎる
吉宗に決定したいきさつは、そんな単純じゃないだろう

5 :日本@名無史さん:2017/05/28(日) 22:22:49.49 .net
女を持ち上げりゃ数字が取れると勘違いしてるからな

6 :日本@名無史さん:2017/05/29(月) 22:40:52.23 .net
家宣の遺言が本当なら、彼は英君というべきでしょう。
将軍職は血のつながったわが子に継がせたいと思うのが人情。
なのに、幼い家継では心配だから、尾張吉通に跡を委ねるべきでは・・・と。
新井白石の反対で実現しなかったとはいえ、
家宣の思いは、吉通か家継しかなく、吉宗の出る幕はなかった。

家継にいったん継がせた後、万一家継に故障があったなら、・・・ってそうした事態を想定して、
尾張の五郎太か紀伊の長富丸が名が出てきて、ようやくその後見として紀伊吉宗の名が登場する。

だが、家継が危うくなった時、すべてひっくり返されたんだよ。
そこに天英院とか月光院の意向とか、水戸と紀伊の談合とか・・・そういう事情があったかどうかに関係なく、
最有力者の吉通の死がその後の歴史を変えたんだと思うな。

7 :日本@名無史さん:2017/05/30(火) 13:01:41.77 .net
>>6
徳川家康が3代家光以降は馬鹿でも幼児でも長男相続を徹底したから徳川は400年もった
直系長男がいてもそれを退けて家督相続を認めると
お家騒動が起こる可能性を新井白石は指摘したのであり
新井白石の手柄のような書き方をしているからすべて史実かは分からんがな
幼君は心配だからと我が子を退けようとしたなら家宣は必ずしも英邁ではない
血筋よりも能力重視で跡取りを選ぶとなるとお家騒動に発展する

8 :日本@名無史さん:2017/05/30(火) 23:30:34.08 .net
いい意見だと思う
家宣の遺言と称せらるのは白石の「折りたく柴の記」が唯一のソ一スだから
史実かどうか留保してるし
ただ俺はさらに穿って家宣が本当にそんな遺言を残したかどうかを疑うな
白石の書述が自分を斥けた吉宗が将軍になってからという時期から推測すると
その意趣返しで本来あんたは有資格者じゃなかったって主張したかった気がする

長子相続についていえば
家宣のあとより家継のあとが厄介になったんだろう
御両卿に比する家柄はないし【越智】松平清武は臣籍に【降ち】ているし
天英院が当初清武を推したという話だってソ一ス不明だよね

9 :日本@名無史さん:2017/05/30(火) 23:34:43.84 .net
悪い
御両卿×⇒御両典〇ね

10 :日本@名無史さん:2017/05/31(水) 00:28:30.54 .net
>>7
>血筋よりも能力重視で跡取りを選ぶとなるとお家騒動に発展する
英雄の選択でも言及されてたな

11 :日本@名無史さん:2017/05/31(水) 09:19:57.45 .net
>>8
>家宣のあとより家継のあとが厄介になったんだろう

家継は結果的に8歳で早世したからそうなるだけで
後継者に決まった時点では将来多くの男子に恵まれて
吉宗よろしく御三卿を立てて徳川の藩屏とする可能性もあったわけだし
「早世する予定の家継ではあとが大変」というのは家宣死亡時点で分かってるはずもない
ちなみに尾張吉通は家宣死亡の翌年、25歳で没している

家継は将軍になった後、霊元天皇皇女・八十宮吉子内親王と婚約している
家継早世により実際に吉子内親王が江戸へ下ることはなかったが
実現していれば和宮親子内親王より先に公武合体になるはずだった
早世する家継では将来不安なら内親王と婚約なんてしないだろう

12 :日本@名無史さん:2017/05/31(水) 22:24:31.29 .net
>>7
直系長男の相続をさせなかったのは家康なんだけどな。
秀吉への人質として養子に出されたとか、
鶴松誕生後に結城家に追い出されちゃったとかで、アウトになった経緯はわかるけど。
問題は、直系長男がいないか死んじゃった家綱・家継・家治・家定・家茂の跡継ぎだろう。
慶喜の例を除いて、結果的には将軍家のより近親者が選ばれていたようなんだけど、
家治の後の家斉が例外なんだよ。
本来なら甥の家斉より弟の清水重好でしょう。
病弱説、ゲイ説いろいろあるけど、甥が弟に勝ちゃったわけで、
幼い家斉を迎えたことが、人材で選んだなんて言う心算ないけど。

13 :日本@名無史さん:2017/05/31(水) 22:34:31.87 .net
おいおい「おい」じゃないぜ

14 :日本@名無史さん:2017/06/01(木) 14:58:29.33 .net
>>12
だから、戦国時代には徳川(松平)家を含め直系長男相続が徹底されていなかった
一族内紛、お家騒動も大名家では頻繁に起こっていた
家康は天下を執ったら考えを改めお家騒動を避けるために直系長男相続にした
次男の国松のほうが優れていようとも長男の竹千代(家光)が跡取りであると決めた

家斉は家治の従弟の子
清水重好は家治の実弟だがあまり年齢が違わない上に
中年になっても子が一人もおらず次代は養子になることが確定していたため候補から外れた

15 :日本@名無史さん:2017/06/01(木) 17:25:52.00 .net
田安家の定信の不運
治済が二人の兄が去った跡に一橋家を継いだ幸運

16 :日本@名無史さん:2017/06/02(金) 22:04:47.98 .net
本人が後継を争ったのは吉宗だけじゃないか?

17 :日本@名無史さん:2017/06/03(土) 23:24:22.47 .net
>>14
>清水重好は家治の実弟だがあまり年齢が違わない…

家治とその弟重好の年齢差は8年だが、
家綱とその弟綱吉の年齢差は5年とさらに短かった。

>中年になっても子が一人もおらず次代は養子になることが確定して
いたため候補から外れた。

綱吉には相続時、世子徳松がいたが、重好には実子がなかったのは事実だ。
だが、家治の世継ぎとして家斉が西ノ丸に入った時、重好は36歳だった。
しかし、家光に世子家綱が誕生したのは、家光が37歳の時だ。
壮年の重好に、その時点で子がないというだけで、
実弟を斥け、それこそ無事成人するかどうか不確かな、当時わずか8歳の従弟の子を
外から招き入れるのは、血統論からすると、どうかと思う。

重病説には、当時重好がふつうに登城していた記録が「徳川実紀」にある。
生母の素性の卑しさを理由に挙げる意見についても、
母は遊女だったという伝えが仮に事実としても、父は紛うことない将軍だ。
それを言えば、綱吉、吉宗の生母の素性だっていかがわしい。

18 :日本@名無史さん:2017/06/04(日) 01:53:29.16 .net
>>15
御三卿は養子の口があれば、外に出て行くのが習わしでしたけど、そうなると、たまたま偶然に御三卿の家督相続者に将軍継承権が発生しちゃうのよね。なんか歪よね。

19 :日本@名無史さん:2017/06/04(日) 12:57:37.00 .net
>>17
家光はホモだから子供に恵まれなかっただけで、生殖能力はあった
重好は違う

20 :日本@名無史さん:2017/06/04(日) 16:46:29.90 .net
生殖能力なしって、インポってことか?
だとしたら、重好17歳で結婚し、50歳で死ぬまで正室だった伏見宮貞子が可哀そうすぎだな。

21 :日本@名無史さん:2017/06/04(日) 19:40:40.38 .net
>>17
家光は家綱誕生の4年前に千代姫が誕生している
それに家光は将軍秀忠の長男であり20歳の若さで父秀忠から将軍位を譲られた直系
36歳で継嗣がないまま養子入りが検討された重好と同様ではない

>>20
無精子症や乏精子症なら子はできなくても性行為や射精はできる
正室側室がいてもあまり大奥には泊まらず
中奥で就寝していたという13代家定はインポっぽいが

22 :日本@名無史さん:2017/06/04(日) 21:33:40.08 .net
家光も正室鷹司孝子とは生活を共にしていない
墓のある場所まで別という冷たさ

23 :日本@名無史さん:2017/06/04(日) 23:58:44.21 .net
>>11
え?
東福門院和子は?

24 :日本@名無史さん:2017/06/05(月) 11:44:17.38 .net
>>23
家臣の側(武家側)が天皇に娘を差し出すパターンは昔からあるだろ
平清盛がそうだし源頼朝や足利尊氏もやろうとした(娘が早世したが)
天皇は一人で大勢の妻を持つから武家から娘が一人来ても
あまり体制が変わることはない(東福門院の入内も公武合体が歌われていない)
天皇の側が武家に娘を差し出すのが珍しい
しかも女の側は夫を一人しか持てないので内親王の唯一の夫が武家

25 :日本@名無史さん:2017/06/05(月) 11:46:49.94 .net
>23
将軍家が皇室に嫁に送るのと、皇室から嫁に貰うのでは
後者の方が格が上

26 :日本@名無史さん:2017/06/05(月) 12:18:23.35 .net
>>23
日本史板でこういうツッコミって釣りなん?

27 :日本@名無史さん:2017/06/05(月) 22:55:22.65 .net
幕府との間に、お与津御寮人事件などでいろいろと確執のあった後水尾上皇は、
今後も皇統に徳川の血が入ることを嫌って、緊急避難的に敢えて秀忠の娘中宮和子の女子を
独身のまま即位させた・・・明正天皇だ。
しきたりでは、未婚の女性天皇は、即位すると結婚も出産もできないことになっている。
つまり、明正で徳川の血を絶つことが狙いだった。
幕府も陰湿な対抗策に出た。
家光の正室鷹司孝子を大奥から追放し、中の丸に遠ざけた。
六条有純の娘で伊勢永光院の院主から還俗させられ家光の側室に迎えられた
お万の方も家光の寵愛を受けると、幕閣は公家が外戚になることを嫌い、
当時の大老酒井忠勝から受胎禁止を命じられたという。

28 :日本@名無史さん:2017/06/06(火) 00:56:34.76 .net
戦国時代なら 産声をあげた順序より能力を重視する
じゃないと 家臣に寝首をかかれて下剋上に遭うか ライバルに国を奪われるから
けど 天下泰平の江戸時代は 長幼の序がすべて
賢明な弟より バカだろうが障害があろうが兄貴が大切
評判の良い遠い親戚より とりあえず近親者を優先
果たして そんなことが当為というか法則というか暗黙の了解というか
当時ほんとうにあったんだろうか? なんか結果論みたく思える

29 :日本@名無史さん:2017/06/06(火) 11:37:34.80 .net
>>27
徳川和子は後水尾天皇の皇子を2人産んでいる
和子が生んだ高仁親王は儲君に位置付けられていて
育っていれば明正天皇の即位はなかった
しかし和子が産んだ皇子は2人とも幼児のうちに早世
徳川秀忠の命令で後水尾天皇の女官が孕むと嬰児を殺させていたので
復讐されて殺されたとも言われている
(和子が入内してから10年間は後水尾天皇の典侍たちは誰も出産をしていない)
和子が皇子を産むことを熱望していた徳川秀忠が死ぬと
和子自身がすでに大勢の子を出産していて一人に負担がかかるのが重すぎるのもあり
後水尾天皇の典侍たちが大勢の子を産みはじめる
後水尾天皇の女官たちが産んだ後光明、後西、霊元の各天皇は
すべて嫡母の徳川和子と養子縁組を行って即位した

30 :日本@名無史さん:2017/06/06(火) 11:44:51.31 .net
>>27
鷹司信子は家光がホモだった時代に遠ざけられたが
公家出身の姫でも普通に出産してるよ
一橋家からの養子だが徳川慶喜の母親が、有栖川宮家から嫁いだ
吉子女王なのは知ってるよね?
江以降は江戸城で出産した御台所が家斉正室だけだったというだけで
(こっちは公家より面倒臭そうな島津が外戚)
夫が将軍になる前に出産経験のある正室は近衛家から来た家宣室とか

31 :日本@名無史さん:2017/06/06(火) 19:54:49.11 .net
>>27
×永光院
◯慶光院

永光院は慶光院院主から家光側女に上がった六条有純の娘お万の方本人。

32 :日本@名無史さん:2017/06/06(火) 20:36:55.58 .net
お万の方は愛されたんだし子供を産んでもよかったと思うわ。
生まれる子供は清和源氏徳川(実態は怪しいけど)と村上源氏六条(途中から藤原の血だけど)のハイブリッドだもの。。。

33 :日本@名無史さん:2017/06/06(火) 22:00:47.76 .net
>>27
あなたは井沢先生ですか?

34 :日本@名無史さん:2017/06/06(火) 22:47:53.21 .net
後水尾から霊元までは朝幕関係は緊張状態にあって、
綱吉と鷹司信子も冷えていたし。
転機は、やっぱり家宣が入って以降の話だろう。
大奥も近衛熙子が入ってからは京風化したというから。

35 :日本@名無史さん:2017/06/06(火) 23:09:56.33 .net
水戸光圀は正室と睦まじかったらしいから、将軍家は独特だよな

36 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 09:21:49.76 .net
将軍のこどもが死に過ぎることについて
対策を取ろうとはしなかったのだろうか?

37 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 09:57:45.72 .net
当時の江戸って、5人生まれて成人するのは2人ってとこでしょう。
将軍家だけ死亡率が高いというわけではないのでは?
それより、一部の将軍を除いて、子供ができなさ過ぎる方が気になる。

38 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 13:29:54.14 .net
十五代のうち、子供ができなかったのって、夭折した家継以外は
家綱と家定だけじゃない?

39 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 13:39:56.52 .net
男子のみなら
家康 いっぱい
秀忠 2人、のち1人切腹
家光 3人
家綱 0
綱吉 1人、成人せず
家宣 何人かいるけど、家継含めて成人せず
家継 0
吉宗 3人
家重 2人
家治 1人、18歳で死去
家斉 いっぱい
家慶 何人かいるけど、家定以外成人せず
家定 0
家茂 0
慶喜 いっぱい

できないし、育たないなー。

40 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 18:44:04.78 .net
>>37
庶民よりはるかに数字が悪いからこういう話になってるんだよ

41 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 20:18:05.30 .net
清水重好は徳川斉朝と同じで、側室を持たなかったから子供がいないだけじゃない?
衆道や病弱なら記録があるはず

42 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 20:23:32.43 .net
>>41
清水重好は側室いないね。
兄の家治は世継ぎのために側室持っただけで、閑院宮女王と仲睦まじかったというし、身持ちが堅過ぎる兄弟ね。

43 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 20:29:12.34 .net
井沢先生って名古屋県民かぁ やっぱりなぁ。たいしたことないのに名前だけ有名

44 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 21:10:21.07 .net
>>39
秀忠には保科正之がいた
家慶も驚くほど子沢山だよ

45 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 21:27:54.04 .net
>>44
家慶のところは家定以外成人してないじゃん

46 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 21:46:49.40 .net
>>39
吉宗に成人しなかった源三という男子がもう1人。
一橋と母親が同じ。

47 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 22:11:14.59 .net
水戸綱條も可哀想なくらい子供死んでるね

48 :日本@名無史さん:2017/06/07(水) 22:20:01.77 .net
争い
甲府綱豊VS館林綱吉
尾張継友VS紀伊吉宗
紀伊慶福VS一橋慶喜

49 :日本@名無史さん:2017/06/08(木) 01:01:00.71 .net
>>41
妾が子供を産んだら側室に昇格だから順序が逆

50 :日本@名無史さん:2017/06/08(木) 10:51:02.58 .net
>>48
候補者が結果として二人とも将軍になったのは最後の例だけか

51 :日本@名無史さん:2017/06/08(木) 12:11:41.31 .net
>>48
>>50
甲府綱豊は六代家宣のこと。

52 :日本@名無史さん:2017/06/08(木) 13:33:18.52 .net
綱重は没してたからな

53 :日本@名無史さん:2017/06/08(木) 13:58:37.49 .net
>>42
お手付き侍女がいても子供がいなければ名前が残らないからねえ
江戸城大奥にだって常に500人もの女性が男子禁制
セックスしていいのは将軍とのみという決まりのもとに軟禁され
「御中臈」と呼ばれる適齢期の側室候補は複数常置されていたのだから
記録に残るよりも実際の側室の数は何倍もいたはず

54 :日本@名無史さん:2017/06/08(木) 14:35:46.59 .net
スレチ熱弁バカ

55 :日本@名無史さん:2017/06/08(木) 14:43:25.06 .net
側室ではないから名前が残らない
名前が残ってないお手付きは側室ではない

56 :日本@名無史さん:2017/06/08(木) 22:52:45.85 .net
>>41
尾張斉朝の男色説は、『江戸の性の不祥事』(学研新書)で紹介されている『井関隆子日記』の中でほのめかされている。
(隆子は姪が尾張家の簾中に仕えていたというから、信憑性は高い)
家光の小姓たちとの衆道も、『徳川実紀』の中に出てくる坂部五右衛門との逸話や酒井重澄、堀田正盛との関係から察すると、
本当なんだろう。
対して、重好については、そういう逸話が残っていないはず。
重病、男色、生母の卑賤といった理由が根拠薄弱なら、血統論からいえば、やはり実弟の重好を後継にすべきだと思う。
従妹の子家斉を迎えるのは、そのあとが順当だ。
ただし、こういう意見もある。
家治の子家基はすでに世嗣として公にされ、西の丸に入り、権大納言に任じられていたので、
その急死があって、後継者を選ぶとなると、重好は家基にとっては叔父にあたるので、世代の順逆から言うと、適当じゃないというわけだ。
非常にこじつけっぽい話だと思う。

57 :日本@名無史さん:2017/06/08(木) 22:56:41.89 .net
あっ…従妹×→従弟〇ね

58 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 14:10:03.87 .net
世継ぎ問題の中では家綱を後を巡る議論だけ異例
なんで宮家が出てくんだよって感じ
鎌倉幕府の先例はわかるが

59 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 15:15:43.24 .net
>>58
徳川実紀にも出てくるみたいですが、酒井大老はなんで宮様を引っ張りだそうとしたのかしら。

60 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 16:42:31.69 .net
>>59
酒井忠清は春日局との血縁で成り上がった稲葉・堀田一族と違って
徳川四天王の一つ、酒井家の宗家ともいうべき家柄だったから
家光の血統への執着なんてなかったんじゃないの?

61 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 17:19:53.85 .net
>>60
譜代筆頭格の酒井だからこそ、春日局の血縁として成り上がった稲葉や堀田といった新興勢力が許せなくて、宮将軍擁立により将軍権力を無力化して、以後の将軍側近の台頭を防ごうとしたとか。。。

62 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 18:29:22.20 .net
酒井はあきらかに尾張綱誠を担ごうとしていた。
家康→秀忠→家光→家綱と続いた直系が絶える初めての事態に、
家綱の弟たち、御両卿であった綱重の子綱豊か綱吉を迎えるべきか、
御三家から迎えるべきか…幕閣はうろたえたろう。
御三家は当時はまだ格式として確立していなかったというけど、
筆頭格である尾張家の藩主光友は家綱誕生前には、家光の後継者になる予定だっていうし、
長男綱誠は家光の姉千代姫との子だし…
忠清の立場としては、宮様を担ぎ出したのは、当時公然と知られていた、亡き家綱のお手付きの女中が
男子を出産するかどうか、見届けるまでの時間稼ぎにする気だったんだろうって、いう話がある。

63 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 18:32:18.97 .net
>>62
で、その女中とやらは女の子かなんかを生んだの?それとも死産?流産?

64 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 18:36:30.20 .net
>62
御両典ね

65 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 18:54:15.09 .net
>>63
その女中お丸は死産し 酒井大老は失脚
春日局の一族の堀田正俊は 尾張が義直以来 家光を脅かしつづけたと思い込んでいるから
綱誠なんて「とんでも」な話だったんだろう
だから正俊は 綱吉擁立に動き 将軍を継いでからは 
徳松死後 綱吉唯一の子となった鶴姫の夫に紀伊綱教を迎え入れようと運動したんだって

66 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 18:59:44.15 .net
有栖川宮幸仁親王の生母は実は松平忠直の女と言われてたらしい

67 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 19:11:37.76 .net
松平忠直の娘亀姫は高松宮好仁親王の妃となり、
この二人の間に生まれた明子女王は後西天皇の女御となって、
生まれたのが有栖川宮幸仁親王

68 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 21:32:54.84 .net
>>61
四天王の酒井は庄内藩
基本幕政には関与してない
忠清は別の系統

69 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 21:54:01.00 .net
>>68
ねえぇ、頭悪いって言われたことなーい???
うふふ。

70 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 22:00:07.08 .net
>>69
罵倒するしか能がないageバカくん、異臭がすごいよ

71 :日本@名無史さん:2017/06/11(日) 22:21:30.70 .net
>>68
>>61は四天王という言葉を使っていない。
使っているのは>>60なので、四天王の部分を訂正するためにリプライ飛ばしたいなら>>60に向けてじゃないか。
そして、酒井家について、庄内藩の左衛門尉酒井家が確かに筆頭であっても、酒井忠清の雅楽頭酒井家が譜代の名門中の名門であるなのは間違いない。
>>61が書いてるように厩橋の酒井雅楽頭から見れば稲葉や堀田は新興勢力。
もちろん、>>61の結論部分、というか推論部分が正しいかどうかは要議論。

72 :日本@名無史さん:2017/06/12(月) 01:07:23.40 .net
酒井忠清の父忠世は秀忠付の年寄だったが、家光が世子になるとその幕閣に加えられた。
後の大老にあたる地位にまで昇りながら、家光上洛の時に西の丸出火災の責任を留守居として負わされ
失脚した。尾張義直らのとりなしで名誉は回復されたが、家光からは以前から煙たがられていたそうだ。
そして忠清・・・
老中になった頃から、譜代名門の御曹司として、先輩の松平信綱や阿部忠秋さえ遠慮があったという。
その頃の尾州・紀州は、のちに将軍家の相続争いが起きた時分と違って、宗家同様権現様との血筋は濃かった。
特に尾張は、光友が家光の甥、綱誠はその嫡男だ。
徳川家累代の名門譜代の自負からすると、父を遠ざけた家光の弟たちより、
秀忠とお江与の血を引く千代姫の子をと、考えたとしてもうなづけるな。

73 :日本@名無史さん:2017/06/12(月) 01:22:04.73 .net
失礼>家光の弟たち、じゃなく家綱の弟たち。
嫡子家綱はともかく、その弟たちに継がせるぐらいなら・・・ってな意味。
酒井忠世は、秀忠にとっての本多正純のように遠ざけられたのかも。

74 :日本@名無史さん:2017/06/12(月) 21:54:48.96 .net
>>67
明子女王が産んだのは八条宮長仁親王
長仁親王は子がないまま21歳で夭折

有栖川宮幸仁親王の母親は清閑寺共子
長仁親王は明暦元年5月14日生
幸仁親王は明暦2年3月15日生
だから同じ母親が産むのは無理

75 :日本@名無史さん:2017/06/12(月) 22:03:03.44 .net
忠長に成人する男子がいたら、どう遇されたろう?
親父謹慎でも、子は駿河から外されてもそこそこの格式を保てたかな

76 :日本@名無史さん:2017/06/12(月) 23:26:57.35 .net
>>75
そういやぁ、ずいぶん前の話だけど、
新人物往来社が主催した座談会の中で、尾張家当主だった義宣氏が宗家徳川恒孝氏に
時代劇にも出てくる「松平長七郎」について、
「忠長の一子、松平長七郎の後は子供がいたはずなんですけど、うちの系図でも、長七郎でで消えちゃってるんです」
と言っていた。

77 :日本@名無史さん:2017/06/12(月) 23:31:31.56 .net
長七郎江戸日記

78 :日本@名無史さん:2017/06/12(月) 23:58:53.73 .net
>>74
ご指摘ありがとう
朝廷・公家はややこしいので勉強になります

79 :日本@名無史さん:2017/06/13(火) 05:24:18.19 .net
>>75
忠輝、忠直が先例だから、家光の忠長への憎悪を考えれば、それはないだろうね
忠輝-大名統制に強権を保つために厳しく処罰。長沢松平家宗家の再興にも時間がかかった
忠直-本人は厳しく処罰するも、秀忠孫・家光甥の光長に家督が継承され、江戸城中に居住させるなど優遇。

80 :日本@名無史さん:2017/06/13(火) 17:27:30.41 .net
忠長に男子がいたら
家継より年長だから
確実に殺されたろう

81 :日本@名無史さん:2017/06/13(火) 19:19:19.89 .net
>>80
家綱だろ

保科正之は家綱より年上でも家綱の後見人になり
正室側室大量に持って大勢の子持ちだったが
(ただし家庭内はボロクソでお家騒動起こしている)

82 :日本@名無史さん:2017/06/13(火) 20:58:28.01 .net
保科は正室腹ではないし、家光に対して非常に謙虚な姿勢を貫いたからな

83 :日本@名無史さん:2017/06/13(火) 22:21:56.04 .net
生まれながらの将軍のくせに
なかなか世継ぎをつくらなかった家光は阿呆だな

84 :日本@名無史さん:2017/06/13(火) 23:21:13.06 .net
>>76
尾張の家系図に長七郎の名があるのは驚きだが、
義宣さんは堀田家からの養子で、血の繋がりはない(女系では吉通にさかのぼる縁があるようだけど)
宗春公と同様サ‐ビス精神旺盛な人のようで、いろいろ物議をかもす話題を提供してくれている。
家康が家光を推した長子相続論の根拠として、しばしば取り上げられるお江への長〜ぃ「訓戒状」も、
この人が発掘しみたく本人は言っているけど、学者の間では偽書と言う説が有力だそうな。

85 :日本@名無史さん:2017/06/14(水) 00:59:03.11 .net
>>83
俺的には3大馬鹿将軍・・・家光、綱吉、家斉
番外と言うか、最大のバカは慶喜
家光・・・名君と言われる事績は優秀な人材がそろっていた当時の幕閣の輔弼のおかげ
綱吉・・・治世当初はたしかに名君、悪評高い生類憐みの令だって、動機は画期的だった
     家光と違い幕閣が二世ぞろいのバカばかり
家斉・・・ただのエロオヤジ、御三家御三卿の乗っ取りは一橋治済による子配り
そして、慶喜・・・頭は良かったんだろう けど近衛文麿にそっくり 優柔不断と保身の醜さが

86 :日本@名無史さん:2017/06/14(水) 10:08:57.18 .net
家光はケチなじいちゃんがため込んだ財産を散財しまくったからダメ。
慶喜は家臣に恵まれず、なんでも自分がやらなかればならなかった。
優秀なのは旗本レベルだけ。実父も迷惑だし、同情すべき面が多々ある。

87 :日本@名無史さん:2017/06/14(水) 13:11:34.76 .net
>>85
でも家康・秀忠を除けば徳川将軍で自分で政治に参加した将軍ってそれくらいじゃないかw
まともだったのは吉宗ぐらい?
・家綱…保科正之と酒井忠勝に丸投げ
・家宣…間部詮房と新井白石に丸投げ
・家継…5歳で将軍、8歳で死亡。新井白石に丸投げ
・家重…重度障害。田沼意次に丸投げ
・家治…田沼意次に丸投げ
・家慶…水野忠邦に丸投げ
・家定…安部正弘、堀田正睦に丸投げ
・家茂…政治総裁職ら三役主導

88 :日本@名無史さん:2017/06/15(木) 22:17:52.59 .net
>>87
家重の重度障害って?
そこは疑問だな
脳性麻痺や頻尿症と知能は関係ない
家重=暗愚<宗武=英明は印象操作
宗武は学問好きだったが現実にあてはまらない故事を重んじる観念論者で
為政者として的確かどうか疑う意見だってある
家重の治世では有名な郡上一揆の始末のつけ方なんか感心する
増上寺の発掘から彼が端正な骨相をしていたことはあきらかになっていて
肖像画の歪な表情は顔面神経の麻痺が原因

ただ名君だったとまでは言うつもりはないけどね

89 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 07:42:46.38 .net
将軍になれなかった宗武の印象操作が成功する理由がわからない

90 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 11:16:47.62 .net
>>88
家重が重度障碍者だったのは事実だろ
宗武は関係ない
そもそも顔面麻痺でうまく言葉を発することができない家重の意思を
唯一解読できたのが田沼意次だけだというのだから
田沼が「上様の御意である」ということにして善政を敷いたともいえるのだし

91 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 12:37:07.80 .net
>>90
唯一解読できたということで名前があがるのは、第一に大岡忠光な。

92 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 12:45:51.83 .net
>>91
ウィキしか読んでない奴w

93 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 13:51:37.15 .net
>>92
自己紹介乙

94 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 14:01:58.26 .net
>>92
中二病的な返しだな。

95 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 14:51:24.51 .net
この板に歴史の勉強してる人間なんていると思うの?

96 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 14:54:51.84 .net
>>93>>94
お前が91を書くに当たって根拠にした一次史料上げろw

どうせ上げられない癖になw

97 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 14:56:04.37 .net
>>93
図星を書かれて発狂w

98 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 15:31:18.95 .net
生まれながらの将軍は
家光 家綱 家治 家慶 家定くらいかな

みな特に無能ってわけでもないが
家臣任せの将軍ばかりだな
家光は多少親裁志向もあっただろうが

99 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 15:35:33.21 .net
>>90 >>91 >>92 >>93 >>94 >>96
おまえら発狂するな
醜い

100 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 15:50:38.70 .net
大岡ではなく田沼というの初めて見たな
田沼はもともと紀伊から吉宗について来た一橋家の家臣ではなかったか?

101 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 16:33:00.13 .net
>>100
いちおう田沼も大岡忠光同様に家重の小姓だったし、
側用人にもなってるから、
田沼が家重の言語を理解できなかった、
というのはないような気がするけどね。

102 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 18:29:36.88 .net
>>88
最高責任者の仕事は決断と人事だ

郡上八幡一揆の始末は家重が決断なくしてあり得なかった
そして田沼意次の起用も家重の決断なくていあり得なかった

為政者として有能と言う他ない

103 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 18:42:23.96 .net
忠光が死んで家重はすぐに隠居している
家重の言葉を高度に理解できたのは忠光ただ一人の可能性が高い
政治に関することだから微細まで理解できないとまずいわけでね
なんたって忠光は家重の側にいないときに使者の話を聞いて家重の意図を理解したってくらいだから
また、それをわざわざ遠くにいた忠光に知らせに行ったことからしても忠光以外に家重の言葉をきちんと理解できる側近はいなかったんだろ

104 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 20:30:42.97 .net
>>103
ウィキしか読んでない奴w
唯一解読できたのが田沼意次だけだ

105 :日本@名無史さん:2017/06/16(金) 21:14:02.19 .net
>>104
お前みたいな煽り、いらない

106 :日本@名無史さん:2017/06/17(土) 19:01:53.54 .net
宗武が文武にすぐれ、比べて家重が劣っていたのは史実だろうな。
印象操作云々は、家重が将軍になる以前の話なんだろう。
吉宗が信頼し、異例の出世を遂げて老中首座兼勝手掛となった松平乗邑が、
宗武擁立に動いていたのは公然の事実だし。
(但し、月光院がその動きに絡んでいたかどうかは、裏付けのない話)
家重は吉宗が将軍になる前からの嫡男でありながら、世継ぎ決定まで9年間もオアズケにされた経緯や、
西の丸に入ってからも、いっとき、小菅御殿への幽閉説(根拠になる史料はない)が噂されたほどだから、
吉宗はいわれているほど単純明解に家康の長子相続論に従って跡継ぎを決めたのではなく、
この間の事情は、父として将軍としての懊悩がうかがえるな。

107 :日本@名無史さん:2017/06/17(土) 19:32:27.17 .net
学問の出来不出来と政治家としての能力は全く別だからな
最近の日本でも学歴上申し分のない経歴の政治家が総理大臣として最低だって例があったろ
郡上八幡一揆のような始末は現代でもよほど有能な総理がトップダウンで仕切らないと闇に葬られる事案だよ
あの時代にあんなことができたのは奇跡的だよ
そしてあれを実務的に家重が満足できるように始末をつけた田沼意次がその後出世していったのも当然かと
田沼の郡上八幡の裁判記録を見た川路聖謨が激賞したのは有名な話だよね

108 :日本@名無史さん:2017/06/17(土) 19:42:55.91 .net
郡上八幡は老中、若年寄、勘定方が黒幕だった事案だからな
当時の幕府の組織だと将軍の能力が低い場合だと老中、若年寄、勘定方のラインが幕政の主導権を握る
家重が無能だったら老中、若年寄、勘定方が処分されるような始末にはなることはあり得なかった
これ覆せるのは事実上将軍ただ一人

109 :日本@名無史さん:2017/06/17(土) 21:28:12.64 .net
>>108
有名な郡上おどりの発端になった事件な。
百姓一揆で幕閣が粛清された稀有な事件だそうだが、
実態は、守旧派とういか重農主義派からの田沼意次らによる権力奪取だった。
事件で失脚した老中本多忠珍は、享保15年の政変で松平乗邑が幕閣のトップになってから
寺社奉行・奏者番から取り立てられた米依存派の一人。
同じく粛清された家治付の若年寄だった本多忠央も、
乗邑に代わって首座になった、意次に近い酒井忠恭が、やはり守旧派の松平武元へと政権交代した後に
のし上がっている。
事件で改易処分に遭ったこの本多忠央に代わって相良城主となったのが意次。

だが、郡上一揆では、この騒動で、これまで令外の官だった将軍の御側御用取次が、
評定所の正式な構成員に成り上がって、その後の意次らの出世の糸口になったといった解説とは別に、
実は、吉宗が「長い耳を持つ将軍」と言われたように、家重も吉宗が紀州から連れてきた根来薬込衆を
由来とする御庭番を活用して「長い耳」を持っていたことを明らかにする顛末だったと思う。

110 :日本@名無史さん:2017/06/17(土) 21:54:13.14 .net
>>88
宗武があまりリアリティのない中国の故事をよく引用する癖があることは、
「江戸人の老い」(氏家幹人 PHP新書)で一般に知られるようになった
「吉宗公御一代記」という史料の中で、
著者で大御所吉宗の再も信頼する側近だった小笠原石見守政登が
皮肉っぽく書き残しているね。

111 :日本@名無史さん:2017/06/17(土) 22:25:05.26 .net
>>109
郡上八幡一揆の始末は世界史的にもあまり類例がなさそう
現代ならともかく近代以前に政争ではなく行政の不正をきちんと処断して国政の最高幹部すら容赦しなかったというのは非常に珍しいと思う
政争ではないから処断された最高幹部も命は奪われていない

112 :日本@名無史さん:2017/06/18(日) 12:50:55.65 .net
なぜ同じような時間帯にageるの?
ひとりでやってるから?

113 :日本@名無史さん:2017/06/18(日) 13:07:55.61 .net
>>112
自演でしょうね。

114 :日本@名無史さん:2017/06/18(日) 16:30:02.76 .net
吉宗が悩んだという話はありえるでしょうね
まぁいろいろ議論があるみたく家重がアレで宗武がコレだからだけじゃなく
吉宗自身だって四男坊で和歌山の城に迎えられてからも
ずいぶんつらい思いをしたよう
さらに二十男だった通春時代の宗春を可愛がって引き立ててやったようだから

115 :日本@名無史さん:2017/06/18(日) 18:42:32.95 .net
江戸幕府が存続していたら、慶喜の子孫と家達の子孫で将軍継嗣問題が起きていたかも。

116 :日本@名無史さん:2017/06/18(日) 21:07:53.08 .net
田安亀之助が成人するまでの中継ぎというのが慶喜将軍就任の要件
やはり慶喜家が別家していただろうが、その際は御三卿が再編成されてたかもしれない

117 :日本@名無史さん:2017/06/18(日) 21:54:44.79 .net
>>103
家重は体調崩してたと思われる。
隠居後すぐに死去しているからね。

大岡忠光の隠居とはあまり関係ないだろう。

118 :日本@名無史さん:2017/06/19(月) 22:18:54.45 .net
>>116
そもそも論から言うと、家慶は世継ぎの家定が病弱で子がないことから、
慶喜をその後継者として考えていたらしい。
毎年冬に鷹狩りで獲られた鶴は天皇に献上されたというが、
本来、鷹匠と小姓に限られていたこの猟場へのお供に、
当時の一橋慶喜だけが特別に許されていたと『柳営行事』の記事にあるそうで、
家慶は「鷹をのせるときの拳はこのようにせよ。肘はこうするとよい」などと
ことのほか可愛がっていたという。

119 :日本@名無史さん:2017/06/19(月) 22:44:53.04 .net
もっとも血統論からすると、これはおかしな話で、
この時点では慶喜の血筋は宗家から遠く、田安慶頼が順当で、
紀伊慶福誕生後は、史実どおり家茂が継いだのが妥当だろうね。
あくまでも血統論>人材論にこだわった場合の話だけど。
一説には、この鶴は天皇に献上され、宮中で新年三が日朝のお吸い物に供されたという事から、
慶喜の「鶴御成供奉」は、有栖川宮吉子の男子で、天皇家とゆかりがある立場を、
家慶が後継云々とは関係なく、配慮しただけだと言う人もいる。

120 :日本@名無史さん:2017/06/19(月) 23:15:50.46 .net
>>119
水戸斉昭と家慶は相婿で、徳川慶喜はその正妻の子なので
甥的な存在だったから、とも考えられる。
斉昭と家慶は親しかったようで、
家慶の上臈を斉昭のところに使いにやったとき
斉昭が手籠め同然に側室にしてしまったが、
笑って許したとか。

121 :日本@名無史さん:2017/06/19(月) 23:32:09.06 .net
>>120
鳶魚の逸話に出てくる有名な話だね。
笑って許したっていうけど、当時でさえ相当なスキャンダルだったはずだよ。

122 :日本@名無史さん:2017/06/19(月) 23:38:28.97 .net
まア、前レスにあったように斉昭は迷惑なオヤジだったのかって感じ

123 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 08:52:03.58 .net
>>119
飾りみたいな将軍なら田安慶頼でいいはずなのに
このひとが外された理由を教えてください
亀之助が候補になるなら実父の慶頼のほうが順当ですよね

124 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 10:26:52.92 .net
「郡上一揆の研究」(名著出版)という本に、家重治世を「将軍独裁」と表現していた。
当時の資料からの引用というよりも、著者が考えた言葉だけど、一般的な「家重=暗愚な傀儡」
というイメージを持った人が読んだら驚く表現。

別の本に載っていたことだけど、田安家の家臣の妹が家重の将棋の相手をしていたけど、
家重と田安の関係を考えれば、仲良くなって情報を探る目的で近づいたと思われても
仕方ないような。

家重の棋譜は残っている?残っていたら、これを題材に時代小説ができるのに。

125 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 10:30:24.13 .net
>>124
その妹は、大奥に上がって大奥女中として将棋の相手をするのよね?
将棋の相手するためだけに登城が許されるって話ではないわよね?

126 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 14:13:14.90 .net
>>125
「徳川将軍家の真実」学研m文庫に載っている逸話。そこまで詳しく書いていないけど、
多分、多くの女中だと思う。将棋だけの理由で城まで呼ぶなんてなかなかできないから。

あと、家重が癇癪が激しかったと聞いたけど、本人の性格というよりも
弟たちが送った密偵への猜疑心の方が大きい?

127 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 20:39:32.08 .net
脳性麻痺って身体が痛むそうな。
だから機嫌悪くなることも多いだろうし、酒で紛らわしたくもなるそうよ。

128 :日本@名無史さん:2017/06/20(火) 20:40:32.76 .net
脳性麻痺って身体が痛むそうな。
だから機嫌悪くなることも多いだろうし、酒で紛らわしたくもなるそうよ。

129 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 08:54:10.29 .net
なぜ同じような時間帯にageるの?
ひとりでやってるから?

130 :日本@名無史さん:2017/06/21(水) 09:19:37.78 .net
>>124
「近習の臣といえども、常に見え奉るもの稀なりしかば、御言行の伝ふ事いと少なし」
「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ」

これは徳川家の正史「徳川実紀」に記される家重に関する記述
その筆者は何の一次史料に当たっているのだろう?

131 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 09:58:59.04 .net
>>130
言い伝え、じゃないかな?

132 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 10:57:40.65 .net
>>131
日本史板なのに一次史料に当たらずに「家重は名君!」と繰り返し書き込んでるのか

133 :日本@名無史さん:2017/06/22(木) 19:47:42.99 .net
>>132
つうかさ、「正史」の取材するためには
当時の日記に当たるのは当然としても、
上様の内々の事情聞くにはやっぱり側近の子孫に取材にいくんじゃないの?

家重の場合は岩槻藩大岡家で取材しただろうし
こういう成り上がり系の家では「御初代がいかに偉かったか」が
誇張されて伝わってただろうから、それがそのまま「正史」になった
可能性もある。

134 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 19:16:26.79 .net
>>109
いわゆる郡上藩宝暦騒動の再審は家重の意志だったこと
通常 評定所の五手掛といわれる寺社奉行 大目付 町奉行 勘定奉行 目付に
御側御用取次の田沼意次がこの時初めて加わり 筆頭老中堀田正亮から五手掛を
指揮する権限を委ねられていたこと 
などの事柄が 寺社奉行だった阿部正右の「僉議日記」に書かれているので 
たしかに家重・田沼ライン主導だったのだろう
>>119
家慶が慶喜を厚遇したのが事実なら
家慶正室の喬子女王と慶喜生母の吉子女王が姉妹だった関係が影響してるのだろう

135 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 19:17:41.06 .net
>>123
世継ぎの家祥の将来を不安に思って 家慶が後継者として考えたのは 
当初は田安慶頼だったかもね 暉姫を嫁がせようとしたぐらいだから
けど家祥が将軍になった後は 将軍家との血縁が家斉にさかのぼる慶頼に対して
紀伊家に生まれた慶福は家慶にさかのぼり 将軍家との血筋は最も近かった
家慶治世の後半を仕切った阿部正弘は幕閣への家柄にとらわれない人材登用や
外様雄藩の幕政参与を進めた改革派で 水戸斉昭や島津斉彬と近しかっかし
太平の世と違って内憂外患の時代だったから 将軍の叔父か従弟かという血統より
有為な人材を優先する考えがあって
家慶・正弘主従の構想では 家定の後継者に慶喜を思い描いていたとしても不思議ではない

136 :日本@名無史さん:2017/06/24(土) 20:51:44.91 .net
御三卿は、他家への養子優先とか言ってるけど、
御三卿に残れば、将軍継承権を持ち、官位も上なのに本当にそんな考えだったの?

定信は政治的にって話もあるけど、母の身分が低く、兄もいるから養子に出されるのは妥当な気がする。
一方、一橋治済は、同じ母を持つ兄が越前に養子に出されているが、
兄が治済にお願いに参上したり、気まずくなかったの?
そもそも血筋だけが頼りなのにこれを無視してて、正統性とかどう考えてたの?

137 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 11:31:21.46 .net
>>136
宗尹の子供が養子に出されてた頃は、家重に男子二人いたこともあって
田安一橋ともに一代限りの方針だったんじゃないかと

138 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 11:43:05.08 .net
>>118
『徳川慶喜公伝』によると

将軍家慶は葛西筋(亀有)や目黒筋(駒場野)での鷹狩に
慶喜を同行しているが
嘉永5年11月14日に行われた「鶴御成」には同行していない
「鶴御成」の際の「羽合」は本来世子が行うならわしなので 
阿部正弘の反対で実現していない
阿部は慶喜を高く買っていたが 時期尚早と考えていたようだ

139 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 14:31:43.67 .net
>>136
同じ板の過去スレでさんざん議論になったな この話
「有徳院様御議定」で示された吉宗の意向は
御三卿は将軍の庶子(本来の意味とは違い 世子以外の男子)
の受け皿づくりだったはず
独立した大名にはせず 食邑のみ与えて部屋住みの地位に据え
嫡子がない場合は その家を明け置き
新たに将軍庶子が出生した場合に限り その家を継がせるべきだ とされた

140 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 14:57:19.71 .net
慶喜が英明だと言っても藩政の経験は皆無だし、
紀伊から吉宗を迎えたときとは明らかに異質な感じ

141 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 16:40:05.28 .net
>>133
「正史」を完全に覆すにふさわしい一次史料に当たっているのかという話
なぜ家重の子孫がいるのにそこを無視して大岡家なのか
しかも大岡一家だけなのか
徳川実紀は後の時代に大岡家の子孫だけに聞いて編纂されたものではなく
家重の時代のリアルタイム記録だろう

142 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 18:04:53.40 .net
>>137
時系列を見ると そのとおりだ

1737年 家重嫡男 家治誕生
1741年 家治元服後 西ノ丸に入り 従二位権大納言昇任(世嗣決定)
1745年
2月 家重次男 重好誕生
 10月 田安宗武擁立派の老中首座 松平乗邑罷免
11月 家重 将軍就任
1746年 大御所吉宗 中風を患う
1747年 宗武 家重から登城停止を命じられる
  一橋宗尹嫡男 重昌 幕命により越前家 松平宗矩の養子となる
1751年 吉宗死去
1758年 宗尹三男 重富 兄重昌の死を受け 越前松平家を継ぐ
  重好 清水門内に屋敷地を賜わる

143 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 20:18:30.05 .net
>>141
徳川実紀は19世紀前半に編纂

144 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 20:28:04.24 .net
>>141
徳川の日記に「当代の公方様は阿呆でございます」
なんて書いたら首が飛ぶぞ

145 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 20:31:25.75 .net
>>139
だからその方針だと、治済が一橋家を継ぐこと自体がおかしいわけで、
そこをおかしいとは思わなかったのか?ってことだよ。
将軍が残り物から選びます、って。
運よく、一橋家を継承できたことが全て、ってこと?

宇多天皇・嵯峨天皇のように臣籍から復活した例もあるのだから、
臣籍にあったものがっていうのも本当の理由かね?

146 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 20:50:20.49 .net
>>144
逆だ。
「徳川実紀」に徳川家重は病弱なために自分で政治を取られず
近臣に任せていたと書かれてある。
それに対して124らが徳川家重は名君だ自分で政治を執っていたと繰り返し書いている
で、家重が自分で政治を執っていた一次史料は何かと聞くと出してこない。

147 :日本@名無史さん:2017/06/25(日) 22:40:25.61 .net
>>146
だから徳川実紀にも一次資料はあるはずで、
それは徳川家で公式に記録されたものではないだろう
ってのはわかるかな?

148 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 00:43:01.07 .net
政権の長さで言えば
綱吉 29年
家宣 3年
家継 4年
吉宗 35年(将軍在任期間は29年)

綱吉吉宗政権が自民政権なら
家宣家継政権は民主政権レベル

149 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 14:37:53.12 .net
>>147
はず?

150 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 17:46:05.82 .net
>>148
家綱-家治の間って在任期間が長い場合は、右大臣がデフォルトみたいだけど、
何か理由があるのかな?
太政大臣は名誉職ということで、どうせ武家官位なんだから、左大臣でよさそうな気がするのに、
遠慮のかたまりのつもりなの?

家綱公が右大臣なんだから、弟の綱吉が左大臣になるわけにはいなかい、
綱吉公が右大臣なんだから、綱吉公に名をいただいた吉宗が左大臣になるわけにはいかない、
中興の祖、吉宗公が右大臣なんだから・・・
で、KY家斉、おれは気にしない!ってか。
この場合、家綱がなんで右大臣となったのか?ってことが根本的理由ということか?

151 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 17:50:30.67 .net
>>146
側用人ってわざわざ家重が復活させた職な
これって将軍の政務に関する意思を実行する職責なんよ
わざわざこの職責を復活させたってことは家重には政務の判断をする意思があったとみるほかない
その意思がないなら老中以下に任せときゃいいんだから
そもそも老中以下の制度ってのは将軍が政務を常時執らなくてもいいようにできた制度なわけでね
家重は病弱(脳性麻痺)のため常時中奥で執務するのは確かにきつかったんだろ
だからといって政務判断権を放棄する気はさらさらなかったってことだよ

152 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 22:32:36.13 .net
>>149
はず、だよ
徳川実紀の編纂が始まったのが家斉の時代なんだからw

153 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 22:40:29.70 .net
>>150
家斉は将軍在任期間50年で、太政大臣就任は40年目だ。
つまりこの時点で吉宗の在任期間をこえてる。

154 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 22:50:08.47 .net
>>150
3代家光が左大臣になったのが天皇の二条城行幸の時だから、家綱以降では朝廷も幕府も左大臣は上洛時に貰うものって認識があったんじゃないかなと
朝廷が返せるお土産がそれくらいしかないからね

家斉が左大臣はおろか太政大臣にまでなってるのはよく分からんね

155 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 23:31:19.35 .net
>>154
>>153

156 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 23:36:47.86 .net
>>151
家重は意地でも実権を握っておかないと
野心家の田安に好き放題される、ってのもあっただろうな。

157 :日本@名無史さん:2017/06/26(月) 23:41:42.40 .net
>>145
そのとおりのようで そのとおりじゃないようで 
実は 肝心なところが あやふやなんだよね
第一に 金科玉条のように家重の幕閣や側近が振りかざした「有徳院様御議定」
これが文書として残っていない
重昌・重富兄弟や定信を一橋や田安から放り出す口実として 当時の老中や側衆が
一橋宗尹とその簾中一条顕子や田安宗武正室だった宝蓮院に強要するネタとして
使われた事実が史料として伝えられているだけ
ただし 第二に 「有徳院様御議定」が伝えられるとおり吉宗の意志として
その内容は 家重に世継ぎが誕生したら御両卿を根絶やしにせよ というのではなく
跡継ぎがいる場合の相続は認めている
つまり田安家の宗武→治察 一橋家の宗尹→治済・・・ここまではOK

158 :日本@名無史さん:2017/06/27(火) 00:05:14.32 .net
補足すると 一橋家の場合 さらに治済→(治国)→斉敦→斉礼まではOK
田安家の場合 定信が久松松平に養子に出された時点でOUTのようで
実は そのあとを継いだ治済五男の斉匡は将軍家斉の弟だから
御三卿当主は将軍の代替わりごとに 新将軍の庶子によって更新されるべきだ
という「御議定」の趣旨にかなうのでOK

とはいえ ここまでくると 吉宗の真意を当時わざとねじ曲げる力が働いていた
とと考えるべきだろうね

159 :日本@名無史さん:2017/06/27(火) 00:27:53.05 .net
ごめん
斉匡は将軍家斉の弟だから・・・田安家を継ぐのは違反だ
家慶の弟が継承するのが本来だろうね

160 :日本@名無史さん:2017/06/27(火) 02:39:30.12 .net
>>153
家斉は確かに30年近く勤めて、右大臣に上がり、
さらに年数を重ねて、左大臣・太政大臣に上がってるのでその通りかもしれないが、
就任期間でならば、家綱はわずか2年で右大臣に上がってる。
1651年 将軍・内大臣
1653年 右大臣
1680年 死去(就任期間:30年)

このあとの将軍が、なぜ右大臣に上がるのに多くの年数を要したのか?
そこに理由があるのか、官位なんて形だけだったので興味がなかったのか?

161 :日本@名無史さん:2017/06/27(火) 02:41:11.23 .net
>>159
それは当時かなり問題になったみたいね
御三家から待ったがかかったが、強引にのりきったようだ

162 :日本@名無史さん:2017/06/28(水) 02:14:15.37 .net
徳川将軍って15人にいるけど、有能だったのは家康・吉宗・慶喜くらいで、あとはバカ殿だったんだろ?
http://hitomi.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1498575177/

163 :日本@名無史さん:2017/06/28(水) 10:42:42.69 .net
スレタイも読めないバカがリンク貼ってる

164 :日本@名無史さん:2017/06/28(水) 13:17:46.72 .net
積極的に政治に関与するから有能とは限らない。
人事さえ上手くやればあとは遊んでても幕府はまわる。

165 :日本@名無史さん:2017/06/28(水) 13:23:15.44 .net
人事を上手くやる能力はどうやって磨くのか?

166 :日本@名無史さん:2017/06/28(水) 15:58:15.41 .net
人事は天賦の才能じゃないか?
信長も秀吉も人事は天才的だし、家康も上手い。

要は人事がうまけりゃ天下がとれる。

167 :日本@名無史さん:2017/06/28(水) 20:14:29.51 .net
組織のトップの仕事は人事だわな

168 :日本@名無史さん:2017/06/29(木) 14:34:51.91 .net
誰か家茂の欧米への御雇外国人関連で幕末に繋がりが深かったフランス第二帝政時代ファーブル博士(昆虫学博士)との逸話を軽くウィキに載せてくれや。
明らかに載せる価値があるファーブルと日本江戸幕府末期の日仏共同史学研究として、重要なのは間違いない蚕と馬の物々交換交流親善活動に関する記録を抜粋してWikipediaのフランスもしくはファーブル氏項目に、ひまな人は追加よろしく。

169 :日本@名無史さん:2017/06/29(木) 18:10:58.76 .net
>>168
お前は暇じゃないんかいw

170 :日本@名無史さん:2017/06/30(金) 23:29:24.20 .net
中野石翁は、向島に広大な屋敷を保有していたが、ここに、老中林肥後守と大目付田口加賀守を使って、家慶を暗殺し、前田慶寧を13代将軍に据えることを企画していたのである

171 :日本@名無史さん:2017/07/01(土) 16:16:36.33 .net
>>170
晩年の家斉から寵愛されたお美代の方やその養父中野碩翁の専横については、
「柳営婦女伝双」に記録があるけど、
天保の三佞人といわれる御側御用取次 水野忠篤、若年寄 林忠英、小納戸頭取 美濃部茂育
らと組んで家慶を隠居させ、一説には毒殺し、前田慶寧を後継に据えようと企んでいたなんて
話は、主に三田村鳶魚が当時の噂を記した随筆をもとに書いているだけだろう。
柳沢吉保に「百万石のお墨付」を与えようとした綱吉を正室鷹司信子が刺殺したのち自害した
なんていう「護国女太平記」と同じ類の俗説だろ。

172 :日本@名無史さん:2017/07/01(土) 16:19:56.28 .net
その三田村のえいきょうを受けて、中野は時代劇では毎度毎度悪役なんです。

173 :日本@名無史さん:2017/07/01(土) 18:22:56.61 .net
↑のようなスキャンダラスな話題
こんなのもあるな↓

家綱の後継者として、生きていれば最右翼になれたはずの、
甲府宰相綱重―――
大老酒井忠清と対立して抗議の切腹をしたらしい・・・

と、オランダ商館付の医師として長崎から江戸に出てきていたケンペルの
「江戸参府旅行日記」に書いてあるな。

174 :日本@名無史さん:2017/07/02(日) 14:20:26.89 .net
>>154
>>160
歴代将軍の多くが右大臣なのは、家康が将軍宣下を受けた時、右大臣に補任されている
ことが先例になっているのかな。
関ヶ原以前は、100万前後の大大名が多く官位も高かったうえ、後陽成・後水尾〜霊元に至る
朝幕関係の冷戦状態も手伝って、幕府の草創期は権威づけの必要があった。
ただ、清盛や秀吉と違って、天皇を頂点とする朝廷のヒエラルキーの中にビルトインされること
を嫌っていたから、家康は朝廷の太政大臣推任の内旨を一旦は辞退しているね。
結局は受けたけど、家康・秀忠とも大御所時代で、家康はほぼ死ぬ直前。

家光については、山本博文の「徳川将軍と天皇」によると、寛永11年7月17日に、翌日の参内
に先駆けて勅使・院使が遣わされ、太政大臣推任の叡慮が伝えられたが、固辞したそうな。
表向きは、太政大臣は「齢徳備えざる者の上がるべき官に非ず」という理由だけど、
家光は官職に恋々としていなくて、これ以降、大名の官位は低く抑えらる傾向にあったと書いて
ある。

在位の長さから言うと、綱吉、吉宗も太政大臣推任の話があって不思議はないけど、
綱吉の後半生は、おのれの昇進より、もっぱら桂昌院を「一位様」にすることが念願だったよう
だから。
吉宗も大御所になっているが、期間が短いうえに治世末期に年貢増徴に苦しむ民衆が朝廷に愁訴
するという失点があり、また、南朝正統論に立つ水戸家編纂の「大日本史」を朝廷の反対を押し
切って出版してしまったことで、朝幕関係が悪化していたことなどから、遠慮せざるを得なかっ
たのかもね。

そして家斉…この人は、家光のいう「齢徳備えざる者」のうち、「齢」だけは条件を備えていた
わけだが、「子づくりで余は満足じゃ」で、政治に関心がなく側近任せ、まったく逆の境涯だっ
たが、源実朝が北条執権に政治を牛耳られ、趣味の歌と官位の昇進に異常な執念を持ち、武家初
の右大臣に昇ったのと、相通じるところがあって、事績のない権力者にありがちな、栄誉欲しさ
に地位や名誉に恋着する、そんな感じを受けるな。

175 :日本@名無史さん:2017/07/02(日) 14:28:05.05 .net
注)武家初というより、武家将軍初の意味

176 :日本@名無史さん:2017/07/02(日) 17:32:42.52 .net
綱重はある種の精神異常だったといのは本当ですかい?

177 :日本@名無史さん:2017/07/02(日) 18:36:11.37 .net
>>174
徳川将軍は武家官位で公家とは別だから
(将軍が太政大臣になろうが右大臣になろうが
公家にも太政大臣や右大臣がいる)
あんまり意味はないけどね

178 :日本@名無史さん:2017/07/02(日) 19:53:07.03 .net
征夷大将軍は元々從五位クラスのポストであった

179 :日本@名無史さん:2017/07/03(月) 16:06:27.66 .net
>>174
家斉は政治に全く関心がないわけじゃないけどね。
ある人を役につけたら「後は裁量でやってね」的で
仕事のしやすさで幕臣の間では評判よくて、
隠れた名君とみてよい。

ミスって将軍の目にとまっても、腹を切らないように
目をつぶるところは目をつぶるという
寛大なところもあったようだ。

180 :日本@名無史さん:2017/07/03(月) 18:07:37.66 .net
>>179
家斉は異様に子作りだけは頑張って幕府財政を悪化させた
五十余名の子供の養育費(おつきの者の人件費含め)が
馬鹿にならなかったからに他ならない
将軍になれるのは一人だけなので
娘なら大名に嫁がせ息子なら大名の養子にねじ込まないといけないが
その配慮も側近任せだった

181 :日本@名無史さん:2017/07/03(月) 18:17:02.49 .net
関係者で御三家御三卿征服をはかった。
水野出羽は水戸藩家老中山備前、榊原淡路を通じて家斉の子 松平斉彊の養子入りを図ったが、失敗

182 :日本@名無史さん:2017/07/03(月) 18:41:22.76 .net
あれだけ子作ったのに子孫がほとんど残らなかった無駄な子作り
尾張綱誠と双璧だな

183 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 00:41:48.88 .net
>>179
「柳営婦女伝双」によると、家斉は第17子以降は諸大名の迷惑を慮って、一切ご披露、
ご祝儀を取り止めさせたそうな。
また、家慶の西の丸時代からの側近で、のちに御側御用取次になった新見正路は、
家斉の言行録「さし出の磯」の編著者でもあるけど、その日記には、
家臣を思いやるエピソ一ドがいくつも書き残されている。
家斉が政治に関心を失った原因は、多くは松平定信のせいだと思う。
だが、正路の日記によれば、その定信についてさえ、意訳すると、
若年の頃は、その諫言が一々癪に触ってならなかったが、
今この歳になると、当を得た忠言であったことがよくわかるので、
われの子らにも彼らのような人物を選んで付けよ、と言ったという。

184 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 02:37:32.99 .net
>>180
財政悪化とは言うが、政府の財政出動は産業や文化の育成に役立つのだぞ。

松平定信流にやってたら江戸文化の成熟がなくて、
日本はそりゃつまらない国だったろうな。

185 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 02:49:54.55 .net
子づくりは公共事業や!

186 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 08:34:03.23 .net
>>184
公共事業ばかりやって財政悪化させて国の借金増やした
バブル崩壊後の日本は正しかったと言いたいのか?

187 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 08:51:12.25 .net
>>186
国の借金wwwwwwwww

188 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 11:04:55.43 .net
>>186
まあそれも程度によるんだけど、明治維新で幕府が瓦解したとき
少なくとも借金まみれでにっちもさっちも行かない、
という状況ではなかった。
財政ならば諸藩の方が悲惨。

要は家斉の浪費で徳川潰した、というのは誤解。
ペリー来航後、軍艦を何隻も購入したり
陸軍を創設したりする金はあったわけで、
しかも家斉後に画期的な財政再建策が行われたわけではない。

189 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 11:56:10.80 .net
>>188
徳川は家康が天領を400万石用意していたからな
大名は一番石高の多い前田でも100万石なのだから
徳川が崩壊したら他の大名など皆餓死だ

江戸幕府はその後も改革やっただろ
幕末には石高80万石程度の薩摩や長州でも
軍艦買ってたし

190 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 13:46:44.60 .net
>>189
水野の改革のこと?
あれはあまり効果ない

191 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 13:49:04.97 .net
>>188
特別会計をつくって捻出しただけで
一班会計のほうでは赤字だったのでは?
どっかで読んだことがある希ガスたぶん

192 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 14:00:11.60 .net
>>189
軍艦は即金で買ったわけじゃないんじゃない?
グラバーに借りたかも

193 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 14:10:54.05 .net
>>192
一国の政府より外国人商人の方が金持ってたと?
そりゃないだろう。

194 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 14:37:47.82 .net
生麦事件の賠償がキツくて(T T)

195 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 14:55:28.68 .net
>>192
金儲けのために来ている商人・グレバーが
金の払えない奴に軍艦売るわけがないだろうw

196 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 15:14:40.69 .net
でもグラバーは倒産したやん。計画倒産なのか?

197 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 15:33:55.05 .net
スレタイ読めないバカばかり寄ってきて
連投するスレですか?

198 :日本@名無史さん:2017/07/04(火) 21:40:48.27 .net
外国商人から武器を買うための金は生糸や絹、漆器、蒔絵などの加工品の売却益だが、
これこそ家斉らが浪費したがために育った産業なわけで
もし売る加工物や鉱物がなければあとは
食料と土地くらいしかないのだよね
んで、その罠に陥ったアジア諸国は多い

もちろん家斉がそこまで計算して遊んでたとは思わないが
田沼と松平定信をリアルでみて、田沼の方がマシと気づいたのじゃないかな

199 :日本@名無史さん:2017/07/05(水) 19:16:56.96 .net
実際、開国した後それで物価がエライ事になって
徳川が民衆からの支持を失う原因になったもんな

200 :日本@名無史さん:2017/07/06(木) 22:20:05.90 .net
最後の将軍は水戸の血筋だが
水戸家に将軍家を継がせちゃいかんと戒めた 
天海の警告を蔑ろにした結果か・・・幕府滅亡

201 :日本@名無史さん:2017/07/06(木) 23:39:12.88 .net
今徳川を名乗ってるのは田安以外は水戸の血筋

202 :日本@名無史さん:2017/07/06(木) 23:43:00.63 .net
島津斉彬
西 沢 利 明
水戸斉昭
中 山 昭 二
━━━━━━
ナレーター
久 米 明

井伊直弼
成田 三樹夫

203 :日本@名無史さん:2017/07/07(金) 00:19:34.17 .net
水戸は幕府滅亡のA級戦犯
維新後に血筋が跋扈するのは当然で罪悪の証し
だいだい水戸は御三家とはいえ将軍を継げる家格じゃないのけ

204 :日本@名無史さん:2017/07/07(金) 15:42:14.03 .net
>>201
紀伊

205 :日本@名無史さん:2017/07/07(金) 15:48:47.70 .net
宗家も水戸→会津→宗家

206 :日本@名無史さん:2017/07/07(金) 19:48:31.22 .net
家康からすればある意味どうでもいい?だった末子の子孫がという話w

207 :日本@名無史さん:2017/07/08(土) 03:31:03.81 .net
>>205
今の宗家の当主は高須四兄弟の子孫で、
高須藩には水戸系の養子が入っている。

208 :日本@名無史さん:2017/07/08(土) 08:22:42.96 .net
会津松平こそ将軍を継げる家格じゃない
会津は徳川を名乗る資格がない
何が宗家だ

209 :日本@名無史さん:2017/07/08(土) 16:11:45.07 .net
時代錯誤バカ

210 :日本@名無史さん:2017/07/08(土) 17:35:07.38 .net
どういうわけだかしらんけど高須四兄弟の家系以外はほとんどどっかへ消えてしまったんだから仕方ねえだろw

211 :日本@名無史さん:2017/07/08(土) 20:29:15.42 .net
>>210
確か宗家と会津松平家が親しくて
往き来してる間に「うちの子になるか」ってなって
養子に入ったとか。

212 :日本@名無史さん:2017/07/09(日) 09:47:57.17 .net
>>211
会津松平出身の現在の宗家・徳川恒孝氏が宗家に養子入りした経緯なら
外孫に当たるからだよ
17代徳川家当主・徳川家正は一人息子が早世し娘3人しか成人しなかったが
そのうち長女の豊子が会津松平分家の松平一郎に嫁いで生まれたのが恒孝
外祖父の徳川家正が外孫を養子にした

213 :日本@名無史さん:2017/07/09(日) 13:59:47.35 .net
家廣さんに子供おらんようだからまた養子考えんとならん

214 :日本@名無史さん:2017/07/09(日) 14:49:30.08 .net
なんとなれば宗家分家もあるのだからw

215 :日本@名無史さん:2017/07/09(日) 15:27:31.66 .net
尾張徳川家の血筋も絶えて外から養子を迎えてるな

216 :日本@名無史さん:2017/07/09(日) 15:29:54.29 .net
尾張は江戸時代中期に途絶えただろが

217 :日本@名無史さん:2017/07/09(日) 15:31:39.81 .net
綱誠とかあんなに大量に子供を作ったのにな
大量に子供を作るとその家の家系は途絶えるフラグだなw

218 :日本@名無史さん:2017/07/09(日) 15:46:17.26 .net
紀州系の徳川家斉の子を養子にされた尾張藩の忸怩たる思いや推して知るべし

219 :日本@名無史さん:2017/07/09(日) 18:22:00.98 .net
>>214
紀伊家はすでに断絶したも同じみたいだけどな

220 :日本@名無史さん:2017/07/09(日) 20:03:33.12 .net
伊予西条があるじゃないか?と思いきや近年高松からの養子っぽいのでここも水戸系か?w

221 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 11:30:01.77 .net
>>216
正確に言うと尾張家では江戸中期に藩祖の男系がで絶えて、
紀州系水戸系養子と入り乱れたのち、
維新後堀田から婿養子が入ってその子孫が当代。
その堀田家も養子が入って、血筋ではあの鍋島閑叟にさかのぼる。

藩祖の男系子孫は養子先の竹腰家で幕末まで続き、
現代までなら竹腰→高岡藩井上→櫛羅藩永井家と
家名ロンダリングしつつ残っているようだ。

222 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 11:43:33.20 .net
>>217
一人か二人なら藩内に別家つくらせて、スペアにするけど
10人くらいなってしまうと家格の劣る他家や
家臣の養子に入れたりする。
普通の大名家なら実家に直系がいなくなれば
養子先から引っ張ってくればよいが、
尾張徳川は家格が高すぎて、
家臣の竹腰某を連れてくる訳にいかなくて
結局スペアにはならない。

223 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 12:26:39.09 .net
>>222
家斉のとこもそうだったな
あんなにたくさんガキがいたんだからひたすら御三卿には家斉の子孫を入れておけばよかったのに
そこに水戸系が紛れ込んで家斉の子孫は将軍継承権が失われるようなとこに散ってしまって結局姿を消してしまった

224 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 13:46:56.32 .net
尾張徳川も一橋系が途絶えたと思ったら次は水戸系とか
御三家筆頭のプライドずたずただったんじゃないか

225 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 16:50:34.38 .net
>>223
家斉も一橋と田安と清水の当主いないとこにいれて、
あとは500石くらいで城内に飼い殺ししとけばよかった。
蜂須賀だのに押し込んでも帰ってこないからね。

226 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 17:34:44.45 .net
水戸VS紀伊

227 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 18:59:56.90 .net
てか結果論だが家斉の子らで子孫出しているのなんていたっけ?な話

228 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 19:23:21.26 .net
>>227
津山松平と田安徳川、蜂須賀かな。
田安と蜂須賀は当代で男系断絶かも。
津山はよくわからん。

229 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 19:39:54.56 .net
田安は違ったわ
家斉の弟の子孫
こっちの家系の方が残ってるのが面白い

230 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 20:59:40.16 .net
>>228
津山松平は現在生きていれば90歳の当主のところは
娘2人のみで男系断絶
康民の弟が立てた分家の血筋のほうが
曽孫の代に現在40代の男子2人がいる
結婚しているか、子がいるかは不明

231 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 21:28:38.39 .net
現代ネタバカはしつこいね

232 :日本@名無史さん:2017/07/10(月) 22:19:11.58 .net
紀伊系で残ってるのは越前松平くらい?

233 :日本@名無史さん:2017/07/13(木) 23:18:33.44 .net
すでに話題になった中でおかしいと思う話5題
1尾張義直が家光を打倒し将軍家を乗っ取ろうという野心を持っていたから
 その後尾張が将軍家から警戒されていたみたいな話
2水戸が将軍家を継げない家柄だったみたいな話
3尾張宗春が紀伊出の将軍吉宗の失脚を狙っていたみたいな話
4家重と家定は暗愚だから父親の吉宗や家慶が廃嫡を考えていたみたいな話
5意次が一橋とつるんでいたみたいな話
ほかにもあるけどいちおう・・・・

234 :日本@名無史さん:2017/07/14(金) 09:03:36.74 .net
家重が田安の登城を差し止めたが、
大御所だった吉宗がそのことを知らなくて
「最近田安が来ないがどうしたのか?」と側近に聞いた。
側近は言いづらくて「麻疹で寝込んでおります」と答えたところ、
「しかし、使いの者に献上品持たせてもよかろう」と吉宗が言った。
側近はくるしまぎれに「使いの者も麻疹でございます」と答えた。
吉宗はそれで田安になにかあったのを察したが、「フッ」と笑ったあとなにも言わなくなった。

ちょっと面白いエピソードだが、主君にその場しのぎの嘘言う感覚がわからん。
江戸時代なら普通だったのかな。

235 :日本@名無史さん:2017/07/14(金) 10:38:54.91 .net
>主君にその場しのぎの嘘言う感覚がわからん
国会でその場しのぎの嘘答弁する大臣や官僚がいる現代の方がわからんけどな
とか、スレチなクソレスしてみる。

236 :日本@名無史さん:2017/07/14(金) 11:05:10.56 .net
田沼意次にとって大納言家基が死去したのは痛恨事で、一橋家の民部卿治済、子息豊千代、清水家の宮内卿重好、そして白河藩に出されることが決まっていた田安家の賢丸
幕府は田沼と、若年寄酒井飛騨守忠菊、留守居役依田豊前を後継者選定に当たらせたが、
田沼は民部卿治済に対し、豊千代が将軍になっても、大御所のように振る舞うことがないようにと釘を刺し、
子息の山城守意知を老中に、甥の能登守意致を側用人にして、豊千代の回りをがっちり固めて政治改革を続行するつもりだった

237 :日本@名無史さん:2017/07/14(金) 13:20:43.37 .net
>>234
つけ加えると、この時の吉宗は一度中風で倒れて復活した頃で
倒れてる間に権力の移行が起きて吉宗の知らぬ間に
田安と一橋が干されてた。

復活したものの、自分が無力になってるのを理解した瞬間だろう。

238 :日本@名無史さん:2017/07/14(金) 17:48:22.79 .net
家基も近年でいえば家英さんも惜しい人を亡くしたもんだってか
近年になっても大学まで(東北大だっけか)行く年齢でも死んでしまうとかね・・・

239 :日本@名無史さん:2017/07/14(金) 18:11:31.01 .net
>>238
敗血症か
今なら抗生物質投与すれば死なない病気だな
思えばここ5,60年くらいだよな、人が死ににくくなったの

240 :日本@名無史さん:2017/07/14(金) 18:23:12.93 .net
一方で、んじゃ〜なんで慶喜さん家は子沢山、繁栄しとるん?とかね

241 :日本@名無史さん:2017/07/14(金) 18:34:36.42 .net
>>240
病気に強い体質とか

242 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 08:11:26.79 .net
徳川家英は若死にだけど同じ両親から生まれた妹3人はちゃんと育っている
(一番上の妹の子・徳川恒孝が養子に迎えられた)
べつに病気の家系ってわけでもないだろう

243 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 11:41:31.76 .net
てか、慶喜の家系で厚のところが男爵で分家させられて
弟が公爵家継いでるけど、厚に継がせなかったのは
やっぱりDQN臭あったのかな。

本人は酔っぱらい運転でひき逃げやらかしてるし、
子供も詐偽がらみで問題起こしてる。

244 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 18:12:47.26 .net
>>243
厚は慶喜が爵位もらう前に徳川宗家の分家として独立しちゃってたから、慶喜自身が新たに別家興してもその跡取りになれなかったんやろうね

245 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 18:19:49.80 .net
>>107
この事件は家重の政治能力のみならず、年貢増徴政策から商業資本の実力を認めて、その上に幕府財政を確立しようとした転機としても評される一大ポイントだね

246 :日本@名無史さん:2017/07/15(土) 23:19:08.55 .net
>>244
なるほど
そういう事情か

247 :日本@名無史さん:2017/07/16(日) 20:48:39.58 .net
>>234
・1746年3月 昨年11月から中風(脳卒中)に病臥していた大御所吉宗が床上げし、
快気祝いが催されたが、右半身不随と言語障害の後遺症が残った。
・1746年6月 田安宗武が家重に取って替わる野心をほのめかす。
・1746年8月 本丸老中 堀田正亮から吉宗に付いていた西ノ丸付の老中 西尾忠尚
と側衆 小笠原政登に対し、将軍家重の上意により宗武が登城差し止めを沙汰された
旨が伝えられ、身体に障るとして吉宗には内緒にするよう命じられる。

小笠原政登は、加納久通と並ぶ吉宗の紀伊藩主だった頃からの側近中の側近で、
その著作「吉宗公御一代記」では、1746年1月1日から1750年12月15日までの間、
吉宗を献身的に介護した様子を克明に綴っている。
その中で二人の絆の強さを物語る逸話がある。
1750年6月日、小笠原が大御所の腕から指をさすった時のこと。
それまで医師の「御さすり」でも麻痺して動かなかった右腕が動いた。
小笠原は感涙にむせび、大御所も「是へ、是へ」と言って喜んだという。
また、こんなエピソードも残っている。
鷹狩りのある日、当時将軍の吉宗の御前に傷を負ったイノシシが
猛り狂って駆け込んで来たところを小姓の小笠原が槍で突こうとしたが、
乗っていた馬がイノシシの牙で跳ね返され横転してしまう。
とっさに吉宗は傍らの鉄砲を取り、猪の額を銃身で叩いて倒し、小笠原を救ったという。
このように「君、君たりて、臣、臣たり」の関係だっただけに、
たとえ将軍家重の下命とはいえ、宗武の登城差し止めを皮膚病で登城できないと偽り、
さらには宗武謹慎後の側衆の日記を、宗武の御機嫌伺いの使者が西ノ丸に参上して
いたかのように記述を改ざんするように中奥坊主肝煎に命じざるを得なったことは、
小笠原にとっては慚愧に耐えないことで、畏れ多さと罪悪感にひどく悩んでいたと、
氏家幹人は「江戸人の老い」の中で書いている。
しかも吉宗はそのウソに気づいていたとも。
吉宗が小笠原の言い訳を苦笑して許したのは、政権がすでに交代し政治の力場が移って
いたからという事情もあるだろうが、小笠原の葛藤や苦悩に対する吉宗の最大限の思い
やりであったのだろう。

248 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 04:33:21.93 .net
吉宗は声を荒げたりとかすることが一切ない人だったらしいね
ドラマとかの演出と全く真逆で
非常に家臣に対する配慮が行き届いた人物だったのだろう

249 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 13:46:23.59 .net
其の割には小笠原さん諸侯にはなれなかったよね?と、有馬とか加納とかは上がったのにw

250 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 17:27:58.37 .net
>>249
吉宗が新設した御側御用取次には、最初は家老の小笠原胤次(2500石)と、
用人の有馬氏倫(1300石)、加納久通(1000石)がなったわけだが、
このうち小笠原胤次は享保2年に隠居し、翌年には亡くなってしまい、
残った有馬・加納が1万石の大名に列したのは、
「援立の臣」である先代からの老中たちが退場したあとの享保11年で、
実に10年越しのことだ。
さらに有馬が享保20年に死去したので、後任として胤次の分家筋の
小笠原政登が登用されたんだが、有馬・加納とは家格が劣るうえ、
享保20年当時は、すでに松平乗邑が水野忠之に代わって老中首座になり、
吉宗の信頼を背景に権勢著しく、有馬・加納時代に比べ御側御用取次の権威が
相対的に下がっていたので、大名にする環境にはなかったのではないかな。

吉宗は大御所となった当初、加納久通を西の丸附若年寄に就け、
小笠原政登を西の丸附御側御用取次として引き続き側に置き、
両者を連携させて本丸政治に介入しようと考えていたようだが、
吉宗自身と久通の病気により果たせなかったようだ。

251 :日本@名無史さん:2017/07/17(月) 23:44:46.64 .net
田安宗武に野心があったとは驚きだ。その意気やよし。
その野望は松平定信にも受けつがれたが、結局親子二代の悲願は成就せずか。

252 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 08:53:41.23 .net
>>251
一橋の方が一枚上手の野心家だったようだな

253 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 09:26:15.87 .net
家重には既に家治、重好が産まれており、ここに至り田安宗武が将軍になるのは絶望的で、一日も早い将軍家との関係回復が急務だったが、しなかった
そこに、兄3人が次々と他家に養子に出され、お家存続の危機を感じていた民部卿治済に、漁夫の利をさらわれた

254 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 11:37:07.98 .net
>>253
宗武は有力な後継候補だったことで兄の家重に睨まれ
登城停止などを受けており積極的に動けば改易の恐れすらあった
家重自身、宗武の系統に将軍の座をやるくらいなら
別の弟の系統の一橋にやったほうがよかったのだろう

255 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 12:04:00.51 .net
民部卿治済の動きは狡猾この上なく、田沼、定信を操り、失脚させ、信明の退場を待って、言うことを聞く忠成を老中に挙げ、栄華を極めた

256 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 12:22:20.92 .net
御三卿は「家」の体をなしてない

257 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 12:24:03.68 .net
そういうわけのわかんないこと言ってても話にならないから

258 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 17:44:49.57 .net
吉宗も「素直w」に兄貴二人が生きていたら
それはそれで紀州の分家筋が増えて後々もしかして?状態になったであろうにねw

兎も角2番めの兄貴が江戸から紀州へ帰参ってだけで死んじゃうなんてねwww

259 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 17:54:20.71 .net
>>258
紀州は分家できないから跡取りのいない藩に養子に入るだけ
部屋住みのままでは妻子を持てない

260 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 18:48:36.02 .net
え?

高森もらってるやんw頼職さん

261 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 21:27:34.45 .net
>>259
ふふふ。とうとう馬脚を現したな。今日がテメエの命日だ!

葛野藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%87%8E%E8%97%A9

262 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 21:59:25.06 .net
三万石って話だけど実際には五千石しかなかったというあれか

263 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 22:08:36.76 .net
現地には代官を派遣しただけで自らはでむかなかった

264 :日本@名無史さん:2017/07/18(火) 22:21:47.85 .net
>>259
伊予西条藩とかあるじゃん

265 :日本@名無史さん:2017/07/19(水) 18:47:48.03 .net
どこぞの御三卿もおんなじやんwww

266 :日本@名無史さん:2017/07/19(水) 18:50:47.63 .net
御三卿空き屋形清水家は、収公されず、清水卿支配を置いて管理した
清水卿支配は跡部遠江守良弼である

267 :日本@名無史さん:2017/07/19(水) 19:38:14.13 .net
家斉子で唯一?な松平斉民と蜂須賀斉裕は同母で子孫も比較的続いたようだけど
近年になってネタ切れになったよねw

268 :日本@名無史さん:2017/07/19(水) 19:46:01.74 .net
田安慶頼と松平慶永は非常に仲が悪く、慶頼を推さず、一橋を推した

269 :日本@名無史さん:2017/07/19(水) 21:26:50.05 .net
家茂逝去時の将軍候補者は田安亀之助 一橋慶喜 松平斉民
田安慶頼は最初からランキング外

270 :日本@名無史さん:2017/07/19(水) 22:07:07.46 .net
>>268
年取りすぎてたってのもあるし、井伊との繋がりが嫌われてたってのもあるし

271 :日本@名無史さん:2017/07/19(水) 22:08:37.39 .net
>>269
斉民は家格的に無理だろう
血統はよいが

272 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 12:01:23.56 .net
>>271
史料は忘れたが当時の下馬評には上っていたようだ>斉民
本人もやる気満々のようだった。

273 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 12:13:44.97 .net
津山藩主なった三河守斉民が 将軍家として復帰できる可能性に言及したいと思います

274 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 12:23:43.12 .net
一度〇〇松平家の当主になってから将軍になったのは
吉宗だけ?

275 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 12:33:39.78 .net
館林と甲府が松平だった説があるらしい

276 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 13:20:25.16 .net
>>274
吉宗は途中紀州家の当主になってるからな。

津山は越前松平家の本家筋だけど、
結城秀康の家筋から将軍になるのは難しいかと。

277 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 21:35:26.35.net
それをやりきるのが、結城魂ってもんだろ。違うか? おい、何とか言えよ。

278 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 22:58:15.68.net
結城魂とはなにかをまず解説すべし

279 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 23:02:42.07.net
家宣の甥なのに完全に無視された松平清武という人がいたな。
人物に問題があったのだろうか?
障害持ちとか。

280 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 23:05:47.65.net
清武じゃなくて清方だった。
まあ、清武にも後継の資格はあるけど。

281 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 23:13:42.93.net
越智魂をこの板のカスどもに見せたれ>清武

282 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 23:18:08.93.net
越智清方は家臣に下ったうえ、年齢問題もあって除外された。

283 :日本@名無史さん:2017/07/20(木) 23:23:21.93.net
年齢は関係ないと思うね。家継逝去時は数えで二十歳だし>清方
まあ、親子ともどもこれが越智ズムってことで。

284 :日本@名無史さん:2017/07/21(金) 08:47:24.76.net
清武は甲府家を継げなかった段階でもうお察し

285 :日本@名無史さん:2017/07/21(金) 08:48:37.66.net
やっぱり阿呆だったのか?

286 :日本@名無史さん:2017/07/21(金) 12:05:28.64.net
>>279
清武は保科正之などと同じく長らく実父から認知されない隠し子で
越智を名乗っていた
父の死後、異母兄が将軍となると父の死後ではあるが認知され
44歳の時に松平姓を許されたが保科などにならったのだろう

287 :日本@名無史さん:2017/07/21(金) 17:33:16.53.net
>>286
清武は家宣の同母弟でしょ。

288 :日本@名無史さん:2017/07/21(金) 21:19:21.66.net
家宣の治世は短かったからねえ。 これが10数年と長かったら、20万石くらいの大名になったかもしれない。
なんちゃって親藩大名格の柳澤吉保が15万石+預領で計20万石だからね。
清武さんは英明かどうか知らんが凡庸や病弱ではないよ。

289 :日本@名無史さん:2017/07/21(金) 22:20:05.16.net
>>283
越智だけにウォッチするだけ、なんちて

290 :日本@名無史さん:2017/07/21(金) 23:20:04.31.net
てかなんでいい年で死ぬんだよ〜〜清方w

291 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 12:34:57.06.net
一橋治済が倅の豊千代を西の丸に押し込んだとき、
紀伊家はおとなしくしていたのですかい?

292 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 12:45:54.82.net
紀伊治貞と尾張宗睦は共に将軍職は嫌だと言ってました。一緒に全国を旅していました

293 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 13:02:25.22.net
三田村ドラマは板違い

294 :日本@名無史さん:2017/07/22(土) 14:37:45.12.net
世間では応仁の乱ブームで関連出版物が続々というのに、
このスレの越智松平ブームは一体何なんだ? 2020年の大河ドラマ『清方』のステマか?

295 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 00:31:07.12.net
松平清武は、「将軍を蹴った男」っていう小説にもなっていて、
ただの娯楽時代小説なんだけど、
天英院が当初清武を家継の後継者に考えていたという話が
出てくる
この逸話、よく聴く話なんだが、
残念ながら、裏付ける史料がないんだよね

296 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 00:39:02.45.net
鷹司信平が悪を退治する小説なみの創作ですね

297 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 12:16:39.74.net
松平長頼を実在の人物として扱った日本史人物事典もありました。

298 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 17:06:07.96.net
清武を候補に入れると越智を格上げしないといけない
そうするとその前の同パターンたる保科・会津家の面目がとかはあったのでは?

299 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 17:34:03.07.net
家宣がもっと長生きしてれば、越智家の家格ひきあげも加増も出来たろう

300 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 18:23:43.17.net
清武ってwikiでは綱吉の片諱もらったと書いてあるけど、なんで改名してんの?

301 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 18:53:01.93.net
代替わりでついた将軍は、まず、先代の治世の痕跡を、躍起になって否定するところから始まるのである

302 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 19:42:37.00.net
清武は、もちろんその子清方も、将軍候補になるなんてありえないだろうね。
越智家の家督を継いでしまっているから、ありえない。
この時、会津家も正容が秀忠から繋がる男系を守っていたが、
臣下たる他家の家督を一旦継いだ者が、徳川に復姓して将軍になることはないだろう。
それは越前家・津山家も同様。

ただし、松平姓を受けたからというわけじゃぁない。
綱重・綱吉の御両典は、当初、松平左馬頭・右馬頭だった。
例外は、吉宗のような御三家連枝と、
御両典のような将軍公子で、お控えとして別家を立てられた場合。
だから、斉民もありえない。
彼の場合は、正確には井伊直弼らが家定の意向として、
「家定の後継」ではなく、「家茂の後見」として、
田安慶頼とともに担ぎ出そうとして清水家入りを働きかけたが、
当の斉民は辞退した経緯が、「大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料」
に書き残されている。

303 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 19:46:25.80.net
津山藩の元藩主でも、もとは将軍の子、将軍の弟なるから、清水卿当主に転出ができれば、有資格者たりうるだろうな。

304 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 20:26:55.12.net
家茂の後見については、「自分は多病で隠居の身だから」と斉民の方から辞退したそうだが、
実は、この「井伊家史料」には、付録として「老中間部詮勝の筆に係る」上書があって 、
そこには・・・
調べたところ斉民は評判が悪い
家斉の頃、70万石になりたいと、いろいろ工作をしたようだ
しかし慶頼は評判がよい
とあるそうだ

305 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 20:55:39.21.net
藩主経験者で御三卿を継いだのは
尾張茂徳が一橋茂栄になった一例のみ
津山ごときに出番があるわけない

306 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 21:25:43.08.net
>>302
あり得ないもなにも、家光の男系子孫の生き残りは他にいないのだが。
清武は野心がなかったで済むとして、
清方は人物に問題があったと想像するしかないくらい不自然だ。

307 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 21:33:06.10.net
そもそも越智家なんてのは保科とか武田とは違って家名残す価値ない。
「越智松平」とは便宜上そうよばれただけで実際は別家なんじゃないの?

308 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 21:54:38.00.net
清武については……
家宣(当時虎丸)が甲府家を継ぐ際の騒動――
附家老新見正信がわが子を綱重世子と偽って主家を乗っ取ろうしていると、
家老島田時之と大田吉成が幕府に訴え出た件が、のちのち尾を引いて、
家宣と清武は不仲であったという説。

清武が大名に取り立てられ館林に封じられた裏話――
家宣は寵臣間部詮房のため、柳沢吉保と並ぶ綱吉気に入りの側用人で、
信綱につながる松平輝貞を越後村上藩に左遷してまで、その領地上野高崎藩5万石を
あてがったが、弟の清武には館林藩2万4千石しか与えなかった。
これが嫌がらせだという説。
綱吉によって廃棄された館林城の再建のため、清武は苛政を強いられ、領民の怨嗟を
買った。その後、増封されたが、下野1万石、越後2万石と治政に苦労する飛び地だった。

309 :日本@名無史さん:2017/07/23(日) 22:17:44.28.net
源家以来 将軍が実の弟を重用する例はない・・・ということか

310 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 00:14:44.04.net
「腹は借り物」っていうスタンスが上手いなあ
母の身分で古来すったもんだするもんだけどさ
三河武士の合理性か

311 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 13:06:57.42.net
越智も実子が続いていれば何れ越前のような家格にゃ〜なったかもねと

312 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 15:24:29.63.net
親藩大名なのに、何故か老中首座に収まる松平武元に萌え
そして幕末、四境戦争で長州藩にコテンパンにやられる浜田藩
越智松平家って、素敵やん

313 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 17:43:23.42.net
>>312
そういや松平武元が歴代老中の中では家格が最高かな。
出自なら松平定信が最高だが家は久松松平だし。

314 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 17:56:52.58.net
在任期間もかなり長かった

315 :日本@名無史さん:2017/07/25(火) 17:59:42.28.net
うあわぁ・・・浜田の龍弾さん、最後は生活保護かよ・・・・・

316 :日本@名無史さん:2017/07/26(水) 00:12:42.86.net
>>315
一応、徳川慶喜の弟の子孫なんだよな、、

317 :日本@名無史さん:2017/07/27(木) 03:07:45.03.net
驚くなw
次の当主の御台所がフィリピーナかベトナムなんだっけ
家康が泡ふいてぶっ倒れそう こくさいかだなー!

318 :日本@名無史さん:2017/07/27(木) 12:06:21.28.net
家康は別に驚かんだろ
血筋は重視せず名門の姫よりも
領内の娘で子持ち(特に男腹を好んだ、息子がいる女)
の後家が好みだったのだから
外国人でも全然問題ないだろう

319 :日本@名無史さん:2017/07/27(木) 12:16:26.32.net
家康が鎖国始めた外国嫌いって勘違い多いよなw

320 :日本@名無史さん:2017/07/27(木) 13:02:07.74.net
まぁ〜もし妹さんが結婚していればw孫を養子にって、おいおい、それまんま爺さんの経歴やんwwwと

321 :日本@名無史さん:2017/07/27(木) 13:16:28.03.net
現代ネタバカは、いまどきwを多用するんだな

322 :日本@名無史さん:2017/07/27(木) 15:04:28.86.net
「いまどきw」なんて誰も書いてないじゃん

323 :日本@名無史さん:2017/07/27(木) 16:21:08.99.net
>>322
横レスだが、 あんた、文節の切り方間違ってるよ

>>321
あんたも、「いまどき」くらい漢字で書いたれよ
ここでwを多用していいですか?

>>321>>322
ワロタwww

324 :日本@名無史さん:2017/07/27(木) 17:40:04.73.net
しきりに現代バカにするやつ湧くけど・・・・もしかして松平の末端の末端??www

325 :日本@名無史さん:2017/07/27(木) 21:04:46.36.net
「現代バカ」なんて誰も書いてないじゃん

326 :日本@名無史さん:2017/07/28(金) 11:32:55.06.net
ヒュンダイバカ

327 :日本@名無史さん:2017/07/29(土) 15:54:50.09.net
>>233
水戸家が将軍になれない家柄だったというのはあきらかに俗説で、
「おかしい」話でもなんでもないだろう。

ただ尾張家についての話題、
・義直が家光に代わって将軍になろうという野心を持っていた
・だから、それ以来、尾張は幕府から警戒されてきた
・宗春が吉宗の失脚を狙って策動していた
これらは、たしかに「あやしい」な、ていうか「うそくさい」

328 :日本@名無史さん:2017/07/30(日) 10:10:23.92.net
すげえ難癖だなあ
義直が家光存命中に将軍になれる可能性などカケラもない

329 :日本@名無史さん:2017/07/30(日) 19:01:28.58.net
家光は3歳の頃に大病を患って以来、25歳で脚気、26歳で天然痘、43歳でマラリア
など生涯多病だったようだが、30歳以降は抑うつ状態で、今でいう神経症の症状が
出ていたという。
義直が幕府に届出なく出府した(当時は参勤交代の制度はない)といわれるのが
寛永10年11月、家光30歳。
この出府は、家光が重病に陥ったとの噂を受け、義直が世継ぎの無い将軍家の万一に
備えたというのだが、時期が悪かった。
当時、忠長が上野高崎城に幽閉中だった。
以前から「生まれながらの将軍」という衒いのあった家光と
「権現の子」という自負を持つ義直。
お互い自我の強い3歳違いの叔父と甥二人はそりが合わなかった。
だから家光とその幕閣、土井利勝や酒井忠勝らは、義直の野心を疑ったらしい。
義直は品川で追い返され、忠長は翌12月に切腹させられた。

330 :日本@名無史さん:2017/07/30(日) 19:33:52.98.net
というか

本来であれば国のTOPでしかも下々よか余計にその場から動かぬであろう御仁が
色々病気にかかるという環境のが気になるwww

331 :日本@名無史さん:2017/07/30(日) 19:53:28.89.net
紀州頼宣は幕府の重臣に睨まれてるようなことをやっていたが、光貞の代になってから将軍家との結び付きを強め、子息綱教と綱吉息女鶴姫との婚姻に成功、将軍ポストを窺うとこまでこぎつけた

332 :日本@名無史さん:2017/07/30(日) 21:11:53.77.net
>>330
脚気は白米ばかり食い過ぎ、天然痘は廷臣の多すぎだから
むしろ高貴な身分だからこそかかるといっていいだろう。

マラリアはちょっとちがうが。

333 :日本@名無史さん:2017/07/30(日) 21:16:27.06.net
>>331
尾張二代光友の正室は家光の娘なんだがな

334 :日本@名無史さん:2017/07/31(月) 00:17:17.92.net
寛永10年の義直の無断出府は、翌年、幕府から痛恨の報復を受ける。
将軍上洛の帰途、名古屋城に立ち寄る予定を急きょキャンセルされた。
家光の発意か幕閣の入れ知恵か?ともかく家光危篤の噂
(土井利勝によって意図的に流された形跡がある)を信じた義直の出府を、
幕府は家光に万一の場合、自分が取って替わろうとする野心のあらわれと警戒した、
または尾張を牽制する口実に利用した、ようだ。
面目を失って怒った義直は、名古屋城籠城を紀伊頼宣にほのめかすが、
では兄弟そろって挙兵しましょう
と言う頼宣の機転の利いた諫言により思い止まったとの、
ちょっとマユツバの逸話まで残っている。
ただ、これ以後、尾張が常に幕府から敵視されたかというと、そう単純ではない。
>>333の言うとおり、
寛永16年には家光長女の千代姫を義直長男の光友に嫁がせ、
寛永18年の家綱誕生までの一時期、この光友が最有力の世継ぎ候補と
見なされていたことが、最近発見された家光側近の安倍正之より
長州藩主毛利秀就に宛てた書状であきらかになっている。

335 :日本@名無史さん:2017/07/31(月) 21:51:56.57 .net
名古屋城本丸御殿の増改築が全くの無駄になったんだから義直さんも怒るのは無理もない。
そのせいかどうか知らんが、義直は尊皇に舵を切って幕末に至る。

336 :日本@名無史さん:2017/08/03(木) 01:24:10.50 .net
まあ義直はプライドが高く、筋目を重んじる人だったらしいからね、
でもまさか自分の家を、鍋島直茂の子孫が詐称してのっとってることに比べれば、
これまでのことなんて、たいしたことないんじゃないww


将軍家も家康以外とはまったく関係のない一郎の子が、祭祀を引き継いでも、
お前だれだよ、ってなるわな。

337 :日本@名無史さん:2017/08/03(木) 11:05:54.26 .net
>>336
別に詐称はしてないわ
婿養子だろ

てか、水戸系に乗っ取られた時点で義直の系統は終わり

338 :日本@名無史さん:2017/08/03(木) 14:45:56.94 .net
>>336
家康の息子でプライドが低い奴ってだれかいたのかよ?

339 :日本@名無史さん:2017/08/03(木) 17:16:34.16 .net
鍋島も龍造寺の番頭からよくものし上がったものだと
近年で言えばヨーカドーを鈴木家がそうしようと目論でホールディング仕様にしたけど
こっちは果たして?なw

340 :日本@名無史さん:2017/08/04(金) 01:11:51.78 .net
>>339
鍋島と龍造寺は元々同族じゃなかったか?

341 :日本@名無史さん:2017/08/04(金) 01:15:32.09 .net
>>338
「天下が欲しい」と言って家康が「ここ(櫓)から飛び降りたら天下をやろう」と答えたら
本当に櫓から飛び降りようとして慌てて止めた、ってのは水戸頼房だっけ?

342 :日本@名無史さん:2017/08/04(金) 09:17:34.20 .net
>>340
もともとは龍造寺は藤原秀郷系、鍋島は宇多源氏だよ
龍造寺隆信と鍋島直茂は祖父の代で繋がるけどね

343 :日本@名無史さん:2017/08/04(金) 12:41:52.44 .net
スレチバカがドヤ顔ですか?

344 :日本@名無史さん:2017/08/04(金) 14:24:14.43 .net
>>343
スレチィぃぃぃ
スレチィぃぃぃ
イグぅぅぅ(早漏)

345 :日本@名無史さん:2017/08/04(金) 14:38:36.56 .net
すげえつまらねえ

346 :日本@名無史さん:2017/08/06(日) 19:57:57.20 .net
元禄時代、家光の血を享けた孫は尾張綱誠、甲府綱豊。
徳松を喪った綱吉の後継者は、本来この二人のどちらかだろう。
なのに…娘を溺愛する綱吉と、綱豊の父綱重の生母順性院とは犬猿の仲で、
甲府嫌いの桂昌院は、鶴姫の婿・紀伊綱教を世継ぎにする気でいた。
だが、これはどう見ても無理筋だと思うのだが、
綱豊擁立派の水戸光圀が元禄13年に死んだあとは、
綱吉の紀伊家御守殿御成りがあり、
宝永元年〜2年に鶴姫・綱教が疱瘡で相次いで死んでしまうまでの間、
紀伊綱教の6代将軍は決定的と思われていた。
筋違いの絵図を描いたのは、堀田正俊。
加賀前田家を御三家に準じる家格に上げたのも、
鶴姫を紀伊綱教に嫁がせたのも、すべて正俊が主導した。
この辺に、徳川累代の譜代酒井家と家光の代に取り立てられた堀田家の
立ち位置の違いがあからさまに出ている。

347 :日本@名無史さん:2017/08/06(日) 21:26:12.09 .net
酒井忠清が示した、
尾張綱誠、甲府宰相、松平摂津守おはしけるに、この君(綱吉)将軍にならば天下を治めさせ給ふ御器量なし、
は、その後の歴史が証明することになる

348 :日本@名無史さん:2017/08/06(日) 22:52:24.28 .net
>>173
>>347
酒井忠清が家光の弟たち、いわゆる御両典に失望していたことは、
「御当代記」などのいろんな史料からあきらかになっているよね。
けど、家光の六人衆から老中になった連中やその系列は、
神君家康より家光しか眼中になかったのかも。

349 :日本@名無史さん:2017/08/06(日) 22:56:57.59 .net
訂正ね
家光の弟× 家綱の弟〇
でした

350 :日本@名無史さん:2017/08/07(月) 11:46:35.77 .net
>加賀前田家を御三家に準じる家格に上げたのも
綱吉が館林藩主時代に頭上に御三家がおり、将軍家相続後も目の上のたんこぶであった。
前田家の昇格は懐柔策もあったろうが、綱吉の御三家不信もあったと思う。
周知の通り前田家は徳川家の血が入っており、「加賀徳川家」の創出は御三家へのいい牽制かもしれない。
綱吉時代といえば、保科 越智も松平姓と三つ葉葵が下賜されて名実ともに徳川一門となった。
縁戚である本庄資俊(従兄弟)  寵臣柳澤保明も松平姓を下賜されており、
綱吉って自分を中心とする「ニュー徳川一門」を周りに創出した感じがする。 従来の門閥譜代より側近を重用した独裁政治を志向したことも含め、
家光実子とはいえ傍系相続というハンデをこういう形で乗り越えようとしたのだろうか。

351 :日本@名無史さん:2017/08/07(月) 14:22:55.84 .net
「ニュー徳川一門」を模索しても
子供がいなければ話にならない

352 :日本@名無史さん:2017/08/07(月) 14:45:19.87 .net
幻の六代将軍 柳沢吉里 

353 :日本@名無史さん:2017/08/07(月) 14:50:03.20 .net
ホント。綱吉にたくさん子がいれば新しい一門を作れたけど。
吉宗や家斉は子をどしどしと御三卿を創設したり、有力大名の養子にした

354 :日本@名無史さん:2017/08/07(月) 20:08:48.16 .net
家基が長生きしたらどんな将軍になったんだろうねぇ

355 :日本@名無史さん:2017/08/07(月) 20:29:26.29 .net
田沼一族を重用、ロシア・オランダから西欧技術を導入し、「日本近代の父」と呼ばれた名君になった

356 :日本@名無史さん:2017/08/09(水) 18:02:14.29 .net
家英さんが生きていたら宗家はイケメン・すらっとしたスタイルな人たちになったであろうにw

357 :日本@名無史さん:2017/08/10(木) 09:26:58.11 .net
それはおまえの家族にも言えるなw

358 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 00:11:30.10 .net
>>350
>「加賀徳川家」の創出
言い得て妙ですね。
>御三家へのいい牽制
そういう意図も、もちろんあったでしょう。
ただ、それ以上に加賀前田家の家格向上は、本来、最大の外様雄藩への
抑えとして配置された越前家の存在価値を貶める狙いがあったと思う。
特に秀康直系の光長は母が秀忠の娘勝姫で、有栖川宮とも所縁があり、
しかも綱吉の将軍就任に反対していたといわれていることから、
傍系出身の綱吉に敵視されていたそうな。
1680年5月 綱吉将軍になる
1681年6月 越後騒動の再審、越後松平光長の改易
1681年7月 鶴姫の紀伊綱教との縁組み
1686年3月 越前松平綱昌の改易、福井藩の減封
1689年8月 加賀前田家を御三家に準じる
といった流れを振り返ると、あきらかだと思う。

359 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 00:48:47.80 .net
尾張藩主 徳川光友は、綱吉に面会して、次の理由を挙げて、高田藩の改易に反対した
@高田藩は結城秀康の嫡流であり、御三家に准する家格であること
A光長の父 松平忠直は大坂夏の陣で大坂城一番乗りを果たし、徳川幕府安定に大いなる貢献をしたこと
B高田藩家臣たちが騒いでいるのは藩上層部に対してであり、幕府に対してではないこと
C御三家で同様のことが起きて改易していたら、幕府を支える徳川一門の力が弱まること
Dこれらの主張には、紀伊藩主 徳川光貞も賛成していること

360 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 01:46:57.83 .net
>>359
この説は、>>350氏の指摘を裏付けすると言えるでしょうね。
忠吉・信吉の死を受け、将軍家に万一があった場合の備えとして
結果的に生き残った尾紀水が綱吉時代の初期に、御三家としての
格式を確立したとされる一方、
その三家を押しのける形で館林家から入った綱吉は、
尾紀水に次ぐ親藩の大藩を治世の劈頭に改易、減封することで、
将軍家の権威を誇示し、三家への牽制を意図したんだろうね。
光友自身がポスト家光、嫡男綱誠がポスト家綱の有力候補
だっただけに、光友の反対は意味深だなぁと思った。

361 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 03:12:40.40 .net
嫡流でない場合は縁戚を有力者で固めてないと
御三家に将軍職をさらわれる、と実感したんじゃないかな

実際、このあと有力縁戚のいない越智松平から将軍職がこぼれおちて
紀州家にいくわけで。

362 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 03:16:07.10 .net
まあ、結果的には綱吉には男子がいなくて無駄な努力に終わったわけだがね

363 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 08:20:16.63 .net
綱吉公御落胤の柳沢吉里公がいます( なんちゃって甲府松平家)

364 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 09:58:14.58 .net
>>363
綱吉死後に成り上がりの柳沢家が虐められてないのは
当時でも落胤説が信じられていたのな。
柳沢吉保がそれほど恨まれてなくて引き際もよかった、というのもあるだろうが
国替えはあったものの録を減らすことなく中規模の譜代大名で幕末まで続いている。

365 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 10:15:28.35 .net
ただ、甲府は朱印状では15万石だったが、中身は23万石だったのが、大和郡山は15万石まんまだったからやはり左遷といえよう

366 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 10:55:54.75 .net
>>358
書き間違いだと思うが、まず松平綱昌は改易ではなく蟄居・隠居ね。で光長は越前家ではなく越後松平(まあ秀康流の家元ではあるが)
で、その上で
>越前家の存在価値を貶める狙いがあったと思う。
うーん、どうだろうか。 俺も詳しくないので偉そうに言えんが、綱昌の隠居 領地半減って、綱昌の奇行乱行が直接理由だが
越前家の先々代からのゴタゴタが原因でしょ。(後継者問題) つまり自業自得。
本来なら改易もん(光長みたく)、領地半減 先代昌親の再相続で済んだのは軽い処置だと思いますね。
それに昌親は(再就封の10数年後だが) 綱吉から偏諱を受けて、一度下がった家格ageしているし、
綱吉はそんなに越前家嫌いとは思わないけどね。 越後家の改易は将軍の威信を世に示すためだとは思うが。
家光も御三家嫌いだったし、これはDNAかな。

367 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 11:44:24.08 .net
366補足
今 ちょいとググったら、 ウィキの「改易」の項目で松平綱昌が入っているな。
徳川宗春や徳川重倫が入っていない。 減封を「改易」に含めるという意味なら
>>359は書き間違いではないな。失礼しました。
まあ、忠直の時は領地召し上げ、事実上藩解体させてるし、このケースとは違う、ちゅうことで。

368 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 14:06:53.05 .net
>>364
別段、実際に吉里が将軍の実子か否か?という事よりも、寧ろ「そう思わせた」という時点で柳沢の勝ちなんだと

369 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 19:05:18.20 .net
>>367
私の書き方が悪かったかな。
「貞享の大法」とか「貞享の半知」とかいわれているこの事件では、
福井藩の処分は減封ではなく、一旦除封だった。
1686年3月5日 綱昌は改易され、47万5282石を収公されている。
対する昌親は、25万石を新封(新知)された形を取っている。
あくまでも「形式的に」ということですが。
再興された越前家は、城中の伺候席を大廊下下之間から大広間に落され、葵紋の使用も
禁止されて五三の桐を家紋とするようになり、家格の低下はひどいあり様だった。
ただし、>>366氏の言うとおり、1704年10月28日に昌親・昌邦が綱吉の偏諱を賜ったのは、
一つの転機にはなったが、本格的な家格上昇は一橋家から重昌・重富が入るまで
待たなきゃならなかった。
ところで、この1704年という年が転機になった経緯について、こんな見方ができるかも。
同じ年の4月13日に鶴姫が死去し、12月5日に綱豊が綱吉の嗣子となった。
綱吉はもはや自分の血統を将軍家に残す意志も気力も失い、ことさら御三家や越前家
を牽制、籠絡、恫喝etcする気なんかなくなっていたんだろう、と。

370 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 20:15:31.41 .net
越前家は初期にキティ藩主が多い感じがするが、
やっぱり遺伝的要因があるのかな

忠直の庶子の永見兄弟も明らかにキティだし

371 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 20:29:46.87 .net
>>364
>>368
二人の意見に賛成だな。
「護国女太平記」や「三王外記」みたく俗書にある吉保像とリアル吉保とは真逆で、
彼ほど「側用人」という役職に見事に徹しきった人物はいないだろうね。
美男で才気煥発で気配り上手、だから大奥の受けも良い・・・このあたりは田沼意次や
間部詮房にもあてはまるのだろうけど、意次は老中となり政治の執行責任者になってしまった。
しかも既得権益、特に領土の流動化という禁忌を犯して御三家以下を敵にしてしまった。
詮房は家宣の頃はともかく、家継時代になると、幼将軍を抱えて並居る幕閣の上座に立つなど、
側近の矩を超える行いが目立つようになってしまった。
吉保は親政を好む綱吉の忠実なスポークスマンだっただけ、失政があっても、その責任を負う
立場にない。
大久保忠朝や土屋政直といったベテラン老中ともちゃっかり姻戚関係を結び、後継者に
甲府綱豊有望と言う情勢変化にいち早く反応して、養子に迎えるよう綱吉に進言し
綱豊に側室を斡旋し・・・と、根回しに余念がなかった。
吉里についても、御落胤かも知れないという大奥を中心にして広がった噂を、否定も肯定も
した痕跡がなく、噂が噂を呼ぶ状況を巧みに利用した。
圧巻は、吉里の母 染子の死を受けて立てた碑に「施主 甲斐少将吉保」と君臣の礼を
取った書き方をしているという話だ。
「主君下賜の妻」であったことをあからさまに示すと同時に、吉里が綱吉の胤かも
知れないということをほのめかす効果をしっかり計算していたと思われる。

372 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 21:32:21.69 .net
>>369 ども。366です。
>1686年3月5日 綱昌は改易され、47万5282石を収公されている。
>対する昌親は、25万石を新封(新知)された形を取っている。
そうですか。それは知りませんでした。それは間違いなく「改易」であります。
ここに前言を撤回し関係者各位に深くお詫びします。
  閑話休題 (さあ、ここから開き直りと独自理論投下だ!)
過去スレの御三家・御連枝スレを今日読んでいたら、
「綱吉は越前家をことさら敵視し、それは足利将軍家と鎌倉公方家の関係である、
その理由は秀忠流将軍家が秀康流御家門の存在を疎ましく思っていた」と。
まあ、こういう自説を開陳される方がおりまして、ちょいと論争になってたのですな。
ちょいとこの解釈はどうかな、と私めはこの意見には賛同しかねるわけで、
これを>>358にも感じたわけですな。(続く)

373 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 21:35:24.74 .net
372続き
貞享の大法で福井藩は領地半減と家格下げは食らったが、そこに綱吉側の政治的な意図、
例えば秀康流に対する警戒心対抗心は感じられず、あくまで藩政混乱に対するペナルティの範囲である事と、そもそも綱吉が秀康流を敵視する根拠や動機が見当たらない。ということです。
松平光長については改易の6年後赦免され、官位(従三位・中将)も復位してますし、
10数年後養子をとって津山10万石を立藩しているのでむしろ綱吉の「越前家愛」を見て取れるわけですな。
というわけで「綱吉さん、越前家大嫌い」説に反論してみました。

374 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 21:55:00.95 .net
好き嫌いより、越前家が将軍位への野望を無くすまで貶めることができればそれでよかったんじゃないかな

それが秀忠流の家系に属するものの命題というか

375 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 22:26:20.09 .net
>>374
>越前家が将軍位への野望を無くすまで貶めることができればそれでよかったんじゃないかな
だから、 越前家(具体的に言うと光長と綱昌、あるいは昌親・吉邦父子)にそんな野望があったのか?
あったとしても、御三家の頭越えて、徳川宗家を嗣げるものかのか?(苗字からしてチャウがな)と。
まあ、そもそも論で疑問が沸くのですな。
秀忠流VS秀康流の対立は忠直の改易(1623年)で完全に決着してるし。 綱吉と越前家の関係を足利義教と鎌倉公方家になぞらえる見立ては
話としては面白きけどそれを裏付ける事実も見当たらない。 
 ついでに貞享の大法後の越前家と会津松平家の家格の比較はよくなされるが、結論から言うと同格と見るべき。
つまり、徳川一門の序列としては同率4位と言えるわけで。  それと吉邦の就封時に支藩領5万石が本藩(福井藩)に収公されて
25万石→30万石に“加増”している。確か 綱吉時代(間違ってたらすんません)
というわけで、「綱吉公 実は越前家ツンデレ」説を書いてみました。(反論は認める)

376 :日本@名無史さん:2017/08/11(金) 22:33:19.71 .net
おっと、またやっちまったぜww
福井藩の支藩収公は享保年間ぢゃあねえか。 おぼろげな記憶に頼らず書く前に調べろ>俺

377 :日本@名無史さん:2017/08/14(月) 22:28:52.82 .net
>>373
>>375
>綱吉は越前家をことさら敵視し、それは足利将軍家と鎌倉公方家の関係である
その理由は秀忠流将軍家が秀康流御家門の存在を疎ましく思っていた
たしかにこの意見は牽強付会だと思う。
ただ、林薫一氏の『御三家の格式とその成立』によると、
御三家格式の土台が整備されたのが忠輝改易の1616年から〜翌年、
形成されたのが秀忠〜家光、確立したのは家綱〜綱吉の初期とし、
その間の幕府の意図は、御三家懐柔のために格式を利用し、
同時に将軍の権威を誇示するために役立てたと分析している。
越後騒動は、まさにこの間に起きているが、
この騒動はそうしたうねりの中で起きたといえる半面、
越後松平光長は5代将軍にふさわしからずと綱吉就任に反対した当人で、
同じく綱吉反対派の酒井忠清が擁立を画策した有栖川宮とも所縁がある
ばかりか、光長は実の母が秀忠女子の勝姫であるので、秀康系どころか
秀忠の外孫でもあることから秀忠系といえなくもなく、そのことごとくが
綱吉にとって忠清同様の不倶戴天の敵みたく見えていたと思う。
越前・越後は幕府にとっては「ひとまき」。
越前騒動は、直接は忠直の場合も綱昌の時も、当人の乱心が原因という
見方に異論はないけど、大局的には幕府の越前家弱体化、矮小化すると、
綱吉個人の怨念めいた情動が強く働いていた気がする。
>>375氏の「ツンデレ説」・・・おもしろいですね。
光長の復位、越前家の偏諱頂戴も、酒井雅楽頭家が復興した経緯で証明されて
いるように、大名家の家名の再興・官位の上昇・優位な領地替えなどが、
その家中の柳沢吉保への働きかけによって成功している多くの事例の一つと
見ることもできるのでは?

378 :日本@名無史さん:2017/08/14(月) 23:36:25.11 .net
>>377
光長の母の勝姫は気が強い人で、姉の千姫と束になって幕閣にねじこんで
要求通そうとしたみたいね。
特に千姫は甲府宰相を手元で育ててたというのもある。

379 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 00:26:03.96 .net
松平光通と正室(勝姫の孫)のダブル自殺もこのBBAが原因だよね
そら綱昌(光通の甥)も発狂するわ

380 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 00:47:47.77 .net
>>378
>>379
お二人が勝姫に着眼したのは鋭いですね。
この女傑の権勢欲は凄まじかったから。
忠直失脚で越前家を屠ったなんて、幕府は楽観していなかったでしょ。
その血脈が親藩最大の家格を保っている以上は。

381 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 15:17:01.25 .net
>>377>>380  ども、366です。ついでに>>350>>379も俺
ふむふむ。 同意半分 異論半分アリマス。長文連投するであります。
まず>>377から。
津山立藩と昌親・吉邦の偏諱についてはその筋からの働きかけが主因で
必ずしも綱吉の温情だけでは無かったと思う。そこは同意。 津山立藩は越後家旧臣たちの再興運動がありそれを水戸光圀が後押しした経過がある。
それと越前家の偏諱問題。これは柳沢も絡んでいたと思うね。同意。
上の方で柳沢の話題で盛り上がっていたが、柳沢はバランス感覚のある人だったと思う。(「柳沢、実はいい奴」説)
江戸時代全般を通じて 大名の官位昇進・家格上昇運動は激しく当然これには要所要所への付け届けが要る。
柳沢の動機も越前筋からの袖の下だっただろうが、それはそれとして20年前の“ボスのやりすぎ”について、少し“微調整”かけた、という指摘はそうかもしれないね。
 で、本題。松平光長に対する綱吉の想いは、それはわからんね。 NHKの歴史番組ではないが、
『ここで綱吉の心の中に分け入ってみよー』とでもしない限り、越後騒動再審は綱吉の意趣返しかどうか、誰にもわからない。
言えることは、(以前にも書いたけど) 越後騒動再審は綱吉の権力・威信を示すためのパフォーマンスということだな。
それ以上踏み込むのは憶測に過ぎないし、井沢ワールドになるので要注意。(続く)

382 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 15:20:42.16 .net
次に>>380
>>380の結論部分は事実関係での論証が不足している。 前に>>366でも書いたように
綱昌の改易は先々代(光通)からのゴタゴタが原因で、例のBBAも関係している
一次史料ではなくて本からの受け売りだが、俺は綱昌改易を以下のように理解している。

光通と正室(光長娘・勝姫孫)は周囲 特に勝姫から男子誕生を催促されて悩んでいた。 光通には権蔵(のちの直堅)という庶子がいた。
勝姫はちょくちょく福井藩に介入しており、正室はプレッシャーに耐えかねで自殺した。時系列は失念したが同時期に、
庶子であるがゆえに家督を継げない権蔵は突然出奔し、大叔父の直良の下に駆け込んだ。
このダブルショックで光通は自殺する。  光通は死の直前 弟の昌親を次代藩主に指名。
で、 昌親が就封するが、光通には同い年の庶兄 昌勝がおり、この人はかねてから自分が家督を継げないことに不満を抱いていて
よくプー垂れていた。 このせいかどうか、昌親は2年で隠居をし、家督を昌勝の子 綱昌に譲る。
このとき福井藩内は昌勝支持派・綱昌支持派・直勝支持派に分裂しており、このことで綱昌は精神を病み、
家臣を斬殺するなどの奇行乱交に走るようになる。 こういうゴタゴタの遠因に勝姫がいる。
越後家以上に越前家は横溝正史状態ですよ。外様大名なら普通 お家お取り潰しですよ。
だから、「貞享の大法」は自業自得 軽い処分ですよ、と。 (続く)

383 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 15:24:31.02 .net
「越前松平家」と一口に言うが、ここは越後高田藩と福井藩を分けて考える視点を俺は持っている。「福井と津山はどっちが本家か?」は脇に置いといて、
二代忠直の改易で秀康流の本宗家は分割された。
ここで忠直の後に北之庄城(福井城)に入った「三代」忠昌について述べる。
松平忠昌は忠直のすぐ下の弟だが、幼少時より家康の側室英勝院の猶子になり、
将軍秀忠に近侍してどんどん出世した。松平忠輝改易後の越後高田藩主となり、
兄忠直の改易以前に25万石の大名となった。つまり、越前本家と別家がスタートである。
 兄貴の改易後はこの「松平忠昌家」が福井に転封・加増された、
とまあ、こういう理解をしている。
「松平光長家」に対する厳罰はある程度の理解は出来ても、「貞享の大法(半知)」が
松平忠昌家(福井藩)に対する警戒心・怨恨とまで見るのは、理由や動機が見当たらない。(これも前に書いたね)  続く

384 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 15:26:34.63 .net
>忠直失脚で越前家を屠ったなんて、幕府は楽観していなかったでしょ。
>その血脈が親藩最大の家格を保っている以上は。
 前述したよう「松平忠昌家」は秀忠の寵愛によって生まれた家であり、
「自分の血筋に福井藩を継がせたい」という勝姫の執念が福井藩受難の遠因であった(熱意が裏目に出た)ので、それはチャウなと。 
まあ、越後騒動では越前家の支藩2家もとばっちりで減封喰らってるし、
坊主憎けりゃナントカで、「松平忠昌家」のオウンゴールを奇貨としてこやつにも綱吉パンチ!・・・という見立ても、少しキティな綱吉さんなら有りうるか?
これも人の内心の問題だからわからんねえ。
親分の後始末をする柳沢も大変だw   (終わり)

385 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 15:44:07.93 .net
382訂正  すんませーーん

昌勝支持派・綱昌支持派・直勝支持派 <誤>

違うだろ、違うだろーー この××!

昌親支持派・綱昌支持派・直堅支持派 <正>

つまり、当代と先代と先々代の庶子の3派でカオス状態ざます。

386 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 19:56:07.63 .net
なんかお盆だから?もしくは夏休みだから??な感

387 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 20:09:55.80 .net
堅い事言わずにスレを楽しめよ

388 :日本@名無史さん:2017/08/15(火) 21:30:27.43 .net
>>384
長くてまとまりが悪い

389 :日本@名無史さん:2017/08/16(水) 23:38:46.74 .net
兄弟で唯一将軍になれなかった綱重って、身分の割に残されてる資料少ないよな。早死にだからかな?
肖像も無いんじゃない?

390 :日本@名無史さん:2017/08/17(木) 00:49:26.77 .net
肖像画は無いけど頭蓋骨写真はある。

391 :日本@名無史さん:2017/08/18(金) 21:27:58.47 .net
江戸東京博物館の徳川展、つまらなそうね

392 :日本@名無史さん:2017/08/18(金) 22:03:48.85 .net
何故に?

393 :日本@名無史さん:2017/08/20(日) 20:29:26.18 .net
>>389
前レスで、綱重が酒井大老と衝突し、抗議の自害をしたという話…
公儀への借金申し入れを忠清に蹴られた事実はあるけど、
ケンぺルの「江戸参府日記」に書かれているように、
自害したという話は、日本側の史料にないんだよね
帰国の途上、八王子の本陣で切腹したという逸話まで伝わっているけど…

同様に「平戸オランダ商館の日記」には、
1634年1月の記事では、
家光重態を機を利用して、諸侯の中に忠長の挙兵を促す動きがあり、
これを察知した家光とのその幕閣が忠長を密かに殺させたのだが、
その後、再び家光が重病に陥った機会に、忠長暗殺の経緯を知った
紀伊頼宣が挙兵の準備をしている
と書いてあるそうな…

ただ、これも、裏付ける日本側の史料がないようだ

394 :日本@名無史さん:2017/08/20(日) 21:57:34.61 .net
>>382
>>383
趣旨はわかるので、反論というのではなく、こういう見方もあるということで、
一部ループになりますが、
@ 綱吉治世の初頭は、まだ御三家の格式がようやく確立していく過程で、
後世から見るほど、越前・越後家から超絶した位置にはなかった。
A 越後騒動の異例の将軍親裁による再審は権力争闘で、酒井忠清の裁定を
全否定して、権力の移行を印象づける綱吉最大のパフォーマンスだった。
B 光長が綱吉の将軍就任に反対した経緯と、酒井忠清が5代将軍に
擁立しようとした有栖川宮幸仁親王こそ、光長の妹の養子であった事実
C 綱吉が越前・越後家を「ひとまき」と見たのは、まさに勝姫のせいで、
家光の血統を受け継ぐ家は、綱吉には目障りだった。
D その文脈でいえば、家光の姉千代姫の子である尾張綱誠も、
家光の孫の甲府綱豊も同様だから、両者は綱吉から疎んじられた。
尾張家に対しては、春日局の衣鉢を継ぐ堀田正俊の家祖義直が家光を
脅かした過去への反感があり、甲府家には、桂昌院の順性院への憎悪があり、
いずれの場合も、表にあらわれている理屈以外のエモーショナルな動機が
あった。

395 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 00:22:04.71 .net
>>394
ということは、綱吉はある意味では家康・秀忠・家光を“全否定”し、自らを始祖とする「ツナヨーシ朝」を創設する気だったのか。
本庄松平 会津松平 加賀前田 甲府柳沢がやっぱり 元禄の「御門葉」と言えるかも(無理かw)。

>>388
短くまとめてみましたw

396 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 00:48:18.12 .net
館林5万1000石の越智家は家門大藩であるが、家宣が

397 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 02:12:47.46 .net
>>395
いえいえ、神君はもとより秀忠・家光から続く血統は、おのれが将軍になる源泉だから、
正統な後継者は「我一人なり」という自我の強さから、
秀忠・家光の血統を享ける者たちをライバル視したんだじゃないか?・・・という程度の文意です。

ただ、話題がズレますが、光國の場合は、ちょっとラジカルで、
「土芥寇讎記」の中で、秀忠、家光、家綱、綱吉の四人について記述が欠落していることから、
研究者の中には、南朝正統論に立つ光圀が「大日本史」の中で、北朝五主を本紀から降格している
こととの関連を指摘し、
秀忠は世子を長男の竹千代か次男の国松かなどと思い惑うべき筋合いの話ではなく
兄の子・忠直を迎えるべきであったというのが、光國本来の考えではなかったかと解説しているそうな。

兄の子綱條に水戸家を継がせ、綱吉には兄綱重の子綱豊を後継者にすべきと主張した経緯からすると、
こうした幕府にとっての難癖は、光國にとっては正当な論理的・倫理的命題だったというのですが…
ジコチューがひどすぎる感ありありです。

398 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 14:46:08.46 .net
酒井忠清―有栖川宮―松平光長 VS 徳川綱吉  ふむふむ。
綱吉は忠清が大嫌いで、弟の酒井忠能を気まぐれで改易してるしねえ。
>正統な後継者は「我一人なり」という自我の強さから
>>394からふと連想したのが雄ライオンの話だった。
放浪雄ライオンが他のグループをのっとってボスに収まると前のボスの子供たちを皆殺しにする(自分の子孫以外は残さない)という習性。
家光の外孫(綱誠)、尾張家当主吉通(綱誠の子)、甲府綱豊を避けて、
鶴姫の懐妊〈男子出生ならば綱吉の外孫〉に懸ける、というのは
家光はもとより“家祖”家康の定めたルールを逸脱している感が拭えない。
祖法から外れた綱吉の継承理論を過去三代の否定と表現した(>>395)。
で、こういった「新思考」がどこから来るかと言うと、綱吉が傍系相続だった事に起因すると思うね。(続く)

399 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 14:48:50.53 .net
綱吉が創設した側用人に外様大名や下級旗本を登用したりと門閥譜代よりも側近(「新興譜代」とも言うべきか)を重視した政治手法と合わせ、
親藩や譜代大名の再編成を試みた点に興味が湧く。
近年、綱吉の再評価がなされている。 綱吉政治を江戸の三大改革や田沼政治と並べて、
改革政治とみる歴史解釈である(何故か正徳の治はスルーされている)。
酒井一派や御三家、その他門閥譜代に対抗して新勢力を築いた綱吉は少し足利義教に似ているかもしれない。

400 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 15:56:17.79 .net
ただ、酒井家も稲葉家も綱吉政権中期には復権を果たした

401 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 18:59:18.58 .net
綱吉さんはその時の気分でsageたりageたりするんよ。俺のレスと同じ。
今まで書いてきた「越前処分」が好例。

402 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 21:08:17.34 .net
すごい盛り上がってるなw

403 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 22:06:18.19 .net
すごい盛り上がってるな ×
すごく盛り上がってるな  〇

404 :日本@名無史さん:2017/08/21(月) 22:07:50.26 .net
それにつけても越後騒動の小栗美作は不憫でならない
この人って「三河以来」だった旗本の小栗上野介の同族?

405 :日本@名無史さん:2017/08/22(火) 01:53:29.07 .net
>>398
>綱吉が傍系相続だった事に起因すると思うね
全然同意。
「土芥寇讎記」にあらわれた光圀の秀忠以降を否定するような考え、
つまり家康『直系』を重じる志向が隠然とある脅威を綱吉は感じていたんだろうね。
ただし、
>家光はもとより“家祖”家康の定めたルール
そんなルールは、明文化されて残っていないんだよね。
家康の長子相続の理を諭したお江与への訓戒状といわれるものも、
偽書と見なされているし。
家光はもっと気紛ぐれで、一時期、姉の子々姫の子で甥にあたる前田光高を
後継者にしようとしたという。(光高の父利常を警戒する酒井忠勝が
酒宴の席で光高を謀殺したという説さえある)

406 :日本@名無史さん:2017/08/22(火) 13:27:59.18 .net
>>405
ちょっち順不同にレスしますだ。

>家光はもっと気紛ぐれで、一時期、姉の子々姫の子で甥にあたる前田光高を 後継者にしようとしたという
この話は俺も聞いたことがある。 ウィキにも紹介されているが出典は不明である。
もし、ご存じならお教え願いたい。


参考:ヤフー質問箱 『家光、 前田に将軍譲るってよ』は本当か?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10120981655

407 :日本@名無史さん:2017/08/22(火) 13:36:07.71 .net
義理ながらひ孫にあたる前田慶寧を13代将軍に擁立せんとした中野石翁は、老中林肥後守、大目付本多越中守、大塩残党久須美竜軒を使嗾して、家慶暗殺を企んだ

408 :日本@名無史さん:2017/08/24(木) 23:14:50.00 .net
>>406
前田利常が書き残したものによると、寛永17年、家光が利常に、子々姫の子である光高を養子にしたいと
伝えたと、三田村鳶魚が「鳶魚江戸文庫」の中に書いているけど、その文書が明らかにされていないんだよね。
家綱の誕生は翌18年8月だから、たしかにそれ以前の話で可能性はありそうだが、
寛永15年2月には、家光の娘千代姫と尾張義直の嫡男光友の婚約が発表されている。
千代姫が1歳、光友が12歳というこの早すぎる婚約は、
病気がちの家光の万一を危惧しての措置と言われ、
これは、光友に「天下を譲られる」との江戸城中の噂を伝える毛利家文書が
2010年11月に、公表されたことからも裏付けらているとされている。
光友の世継ぎは家光の真意じゃなく、幕閣の画策か?
あるいは前田利常が事実、そうした記述を遺していたとしても、
それは当時子々姫の死に関して幕府から嫌疑をかけられ江戸に留め置かれた利常が、
家光からは信頼されていたことを示したいとの強い思いから書いたのか?
そもそも尾張から世継ぎを迎えるのは家光の真意じゃなく、幕閣の画策で、
利常に伝えた意向が家光の本当の思いだったのか?
そこはわからない。

409 :日本@名無史さん:2017/08/25(金) 20:42:57.07 .net
家光はホモホモしてないで
早く子づくりすればよかったんだよ
種はあったんだから

410 :日本@名無史さん:2017/08/25(金) 20:47:00.34 .net
家光って相当のアホだろ
やっぱり忠長の方が賢かったんじゃないか?

411 :日本@名無史さん:2017/08/25(金) 21:01:49.60 .net
三田村鳶魚
「家光が阿呆すぎたから忠長がまともに見えただけ」

412 :日本@名無史さん:2017/08/25(金) 21:33:05.62 .net
家康以外で賢かったのってやっぱり家宣や家治?

413 :日本@名無史さん:2017/08/25(金) 22:01:50.35 .net
今日の歴史秘話ヒストリアでは綱吉は行財政改革と福祉政策をやった名君だった、と。>>412
個人的には家宣押しなんだがw

414 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 02:31:13.78 .net
吉宗は自分が賢いと勘違いした凡才

415 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 04:36:17.40 .net
↑はどちらかといえば綱吉とか家治だろ?

大穴として家重w

416 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 12:40:20.76 .net
>>408   ご教示どうもであります。
 >三田村鳶魚
良く知らんけど矢追純一みたいな人らしいねこの人。 光高の件了解、次。
 >光友に「天下を譲られる」との江戸城中の噂を伝える毛利家文書
またまた尾張光友来たねえ。貴兄ご指摘のように家光よりも幕閣の意向だろうねコレ。
ここで「やっぱり」と思うことは、宗家の継承順位で[なんとなく]尾張家が第一位として認識されてきた証左でもあろうかと。(「御三家」の定型化とは別の話)
尾張家が越前家を越えて徳川一門の筆頭格になってきた、ちゅうことだな。
 寛永年間は尾張家と紀伊家はほぼ同じ石高で官位も同格だが、まあ尾張家は紀伊家の兄筋だからポスト家光の第一位に尾張光友というのは順当だ。
幕閣連中としては常識的判断である。 んで、ここで>>398に話戻すと、
 >そんなルールは、明文化されて残っていない
かと言って、尾張や甲府を飛ばして娘婿に将軍職を、ちゅうのは「横紙破りと違うんかい!」と
綱吉公に物申したいわけですよ。 それで権現様に顔向け出来るか、と。 (続く)

417 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 12:47:00.68 .net
 他スレの書き込みで面白い指摘があった。
『伺候席で言うと、越前家は外様大名、会津家は譜代大名だ。』と。ふむふむ。
この両家は藩祖が一度徳川から他家へ養子に出たという共通点がある。特に会津家は藩祖の遺訓と言い
幕末での幕府への忠誠と言い、親藩と言うより譜代大名筆頭の感がある。
で、越前家である。家光の意向か幕閣の意向かわからんが、噂としてでもポスト家光に
従弟光友が従甥で秀忠流の松平綱賢(光長の嫡子)を抑えたということは、
たぶん越前家〈高田藩と福井藩〉は忠直の代から実は「隠れ外様大名」だったのかもしれない。
1689年8月9日、綱吉は「来年から元旦の拝賀の儀は加賀は御三家と同様な。」とか何とか、
鶴の一声で加賀前田はどーんと御三家と同列になった(図録などでは白書院で一緒に並んどるな)。
この3年前が貞享の大法(福井藩改易)であるが、綱吉は「表の外様筆頭」前田家を「御四家」に格上げし、
「裏の外様筆頭」越前家を本来の外様席へと並び替えを行ったんだろうねえ。こういうところに綱吉の「足利義教臭」を感じるんだな。

 ついでに豆知識。 松平綱賢の母親(光長正室)は毛利秀就の娘。
うん? 毛利? 毛利家文書。 ちょいとハナシ広げてみました。(おしまい)

418 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 12:52:27.19 .net
ツマンね

419 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 13:16:44.77 .net
別におまえさんに宛てたレスやないし、
読んでくれと頼んだわけでもない

420 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 13:19:37.42 .net
下手過ぎと、キモ過ぎで話にならないから

421 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 13:34:22.32 .net
じゃあ、おまえの上手い長文でスレ盛り上げてくれや
ピンポンダッシュ専門か?

422 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 13:45:40.48 .net
なん十年と成長しない曲がり屋にいつまで任せる気がないのである
お前の今後5年でさらに負のスパイラルが加速してるだろ

いい加減にしろよ

423 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 13:50:44.73 .net
そうじゃなくて スレのテーマに沿った長文書け>418(422)
ここで終わったら、ピンポン小僧のままで終わってしまうぞ

424 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 13:54:51.00 .net
膨満なのか?その「書け」って態度が スレ住人からうんざりされてるというのに。

425 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 13:59:44.91 .net
>>417
なんだかんだいって、幕府の始まりから終わりまで前田家は幕政に影響力が全くないのだが。
お客様としての格は高くても御三家や親藩とは同列にできんよ。

426 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 13:59:46.53 .net
今度は複数を自演?
それで逃亡する予定ですか?

427 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 14:02:24.60 .net
おっと、>>426はピンポン君宛て 
>.>427 失礼

428 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 14:08:20.67 .net
>>424
お前以外に「書け」と要ったこともないし、言ってから30分も経ってないのに
なんで その態度がスレ住人から云々となるのかね?

429 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 14:19:58.85 .net
こら、喧嘩でスレ消費するのやめれ

430 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 15:37:50.45 .net
幕末の加賀藩がグダグダだったのは、藩主前田慶寧が家斉の孫だったことも関係している

431 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 20:56:18.35 .net
将軍家のスレで他家の話題で必死になるヤツ

432 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 21:55:31.85 .net


433 :日本@名無史さん:2017/08/26(土) 23:24:24.71 .net
結局 >>418はピンポンのまま逃走でFAですか?

434 :日本@名無史さん:2017/08/27(日) 12:44:47.48 .net
自信過剰

435 :日本@名無史さん:2017/08/27(日) 16:16:13.56 .net
>>416
>>417
>尾張や甲府を飛ばして娘婿に将軍職を、ちゅうのは「横紙破りと違うんかい!」
だが、この「横紙破り」を先にやったのが酒井忠清。
尾紀水甲を全部飛ばして宮将軍を仕掛けたのだから(真意は、家綱遺児の誕生に
望みを託し、宮将軍は一時しのぎで、男児ならその後を継がせ、女児なら尾張を
引き込む算段だったとか)
そして、再度の「横紙破り」、これも当初、絵を描いたのは堀田正俊。
「紀ノ国の中将殿(綱教)を御婿(鶴姫との縁組) に仕り、御したしみをふかくし、
さて加賀を以て御三家の列にくはえ、尾張をたをし申すべき心なり・・・」
『御当代記』では、これが正俊の心底だったとされている。
たしかに鶴姫=綱教の婚約のプロデュースをしたのは正俊だったが、その横死後、
幼くして輿入れするお鶴が不憫だとか言い繕って、夫妻ごと西ノ丸へ迎え入れよう
としたのは、桂昌院と五ノ丸の方、そして綱吉だった。
しかし、これは「横紙破り」といえるのだろうか?
世子となるべき男子がいない以上、唯一血を分けた愛娘の婿に跡を継がせたいと
考えるのは、情であるばかりか理だろうね。
なぜか?というと・・・
家綱誕生前、家光か、その幕閣がいっとき娘婿の尾張光友を世継ぎにしようとした
その経緯からすると、
家光にとって、尾張光友は女婿、紀伊光貞と水戸光圀は家康まで遡らないと血縁はなく、秀忠から男系でつながる保科松平家は正之の時も正容の時も臣下の家督を継いでいる
ので埒外にあった。
ちなみに、後継者としてあまりリアル感のない越後光長と前田光高は甥にあたる。
秀忠・家光との血縁と言っても、しょせん尾張、越後、前田は女系なんだよね。
一方、綱吉にとって、紀伊綱教は娘の婿、尾張綱誠はおばさんの子。
水戸綱條は家康の曾孫。甲府綱豊は仲の悪かった兄貴の子。
こうして眺めると、同じ女系なら、疎遠の甥よりやはり実の娘の夫紀伊綱教を後継者
に選ぶのは、情理ともに「横紙破り」とは言い切れないんじゃないだろうか。

436 :日本@名無史さん:2017/08/27(日) 16:34:57.90 .net
訂正です
尾張綱誠はおばさんの子・・・×
姉さんの子・・・〇

437 :日本@名無史さん:2017/08/27(日) 20:20:34.17 .net
家格では尾張吉通
血筋では甲府綱豊
情実では紀伊綱教、   ということだと思うね

438 :日本@名無史さん:2017/08/27(日) 20:21:52.65 .net
酒井忠清や稲葉正則は、将軍家綱が病気がちで後継ぎが危うい危険性は承知していたが、延宝8年の段階で危篤に陥るとは予想外のことであった
酒井忠清は、飽くまで徳川家の家老として、徳川家存続を図り、家綱の子を宿した側室の出産に望みをかけたが、
横紙破り堀田正俊がクーデター的に綱吉の擁立を図ったのは酒井や稲葉を差し置いて一気に権力の階段をかけあがる目的だったが、
酒井が危惧した「天下を治めさせ給ふ御器量無し」はその後の歴史が証明することになり、自らの命すら喪うことになる。

439 :日本@名無史さん:2017/08/27(日) 20:51:47.27 .net
磯田道史は綱吉を評価してるけどな
豊臣秀次と同じ傾向

440 :日本@名無史さん:2017/08/28(月) 14:33:59.37 .net
>>439
まあ、白か黒かはっきり決めることもないだろう
やり方は強引だったが、そろそろ文治政治に移行してよい時期だったのは確かだし

441 :日本@名無史さん:2017/08/28(月) 15:16:51.49 .net
綱吉の政治で驚いたのは畿内の天領の地付きの代官を切腹等大量に処分していることだ

442 :日本@名無史さん:2017/08/28(月) 15:51:46.55 .net
>>441
やっぱり水戸黄門が諸国漫遊で悪代官見つけだしてたのか?

443 :日本@名無史さん:2017/08/28(月) 17:08:05.99 .net
それが逆で、余り搾り取らない代官がターゲットになったらしい。
世襲代官は住民とナアナアで幕庫にコメを余り運んで来なかったから、それが問題視され、江戸の勘定所から派遣された代官に切り替えられたと。
その著名な犠牲者が、荻原近江守に詰め腹を切らされた大和の代官・三好備前守であった

444 :日本@名無史さん:2017/08/28(月) 17:13:10.97 .net
水戸黄門最悪だな

445 :日本@名無史さん:2017/08/28(月) 20:39:39.18 .net
光国は、綱吉と不仲で従三位参議のまま隠居させられたもんな
父親は正三位権中納言だったのに、家格を下げられてやんの

446 :日本@名無史さん:2017/08/28(月) 20:46:19.74 .net
犬の毛皮を送ったとか、事実ならやりすぎだろ

447 :日本@名無史さん:2017/08/28(月) 23:47:09.45 .net
「徳川綱吉は何故近年劇的に評価が上がったのですか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11105851991

448 :日本@名無史さん:2017/08/29(火) 18:58:33.70 .net
>>443
荻原も後に・・・・ってな話で因果応報よねw

449 :日本@名無史さん:2017/08/29(火) 22:50:56.71 .net
>>447
ひどすぎる・・・吉宗と家宣の混同
そして赤穂事件への独断と偏見

450 :日本@名無史さん:2017/08/29(火) 23:35:56.10 .net
>>449
知恵袋って、間違った情報を長々と書く人いるけどなんなんだろうね?
全部自分の記憶に依存して書いてて、事実関係一度も調べることなく書き上げるのかね?

451 :日本@名無史さん:2017/08/29(火) 23:44:05.54 .net
間違った知識は2ちゃんねるのこの板も変わらんけどなw
ネットもテレビも信用しないことだ

452 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 00:06:17.58 .net
まあそうだけど、知恵袋の精度は特に酷い

453 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 00:08:29.57 .net
少なくとも2ちゃんねるには「新井白石の主君は徳川吉宗」と堂々とかいて抜ける輩はいないし

454 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 10:48:36.68 .net
ええっ?  違うの?

455 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 11:52:28.27 .net
代替わりとほぼ同時に致仕してるからな

456 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 12:31:46.60 .net
白石が幕臣として仕えたのは綱吉〜吉宗の時代だが、眼中にあったのは家宣と家継と見てよいでしょう
吉宗の時代になってから執筆活動に専念しているが、享保年代なのにわざわざ終わった年代の正徳十何年って日付書いているから主君の意識はなったのでしょう

457 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 14:08:28.66 .net
吉宗のパワハラで白石可哀相

458 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 16:14:25.30 .net
萩原重秀って代替わり後どうなったんだっけ?
白石に嫌われてたが

459 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 17:16:55.68 .net
>>458
家宣の死の直前くらいに罷免されてるよ

460 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 17:49:05.30 .net
じゃあ家宣にはある程度評価されてたのか

461 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 19:03:15.96 .net
死ぬ間際の家宣は、白石に対し、才ある者は徳なく、徳ある者は才なし、荻原の改鋳実績は評価してやんなさいと言っているから、
荻原罷免は、家宣危篤に乗じた白石の勘定所クーデターとも見受けされる。罷免後の荻原が変死しているからである
荻原家は3700石から700石に減封された

462 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 20:56:27.16 .net
家継・・・

463 :日本@名無史さん:2017/08/30(水) 21:43:30.47 .net
姉さん、事件です。

464 :日本@名無史さん:2017/08/31(木) 23:56:46.17 .net
吉宗は白石を失脚させたように言われている。
たしかに吉宗は自分を引き立てた綱吉を尊敬し、
白石が改めた武家諸法度や朝鮮通信使への日本国王の称号を旧に復したことなど、
いわゆる綱吉の「天和の制」に立ち返る政策を打ち出し、
松平輝貞や黒田直邦など綱吉の側近たちを復権させ、
白石のライバル林信篤を重用した。
しかし、室鳩巣に寄れば、白石との書状のやり取りの中で、
享保元年10月24日付の記述では、老中たちが吉宗を恐れ憚っている様子を
白石は喜ばしく思っていた、と記されているそうな。

荻原重秀は優秀な財務官僚だったのは事実で、
綱吉が将軍になるのに伴って館林候時代からの神田御殿家臣団が
幕臣になって勘定方を独占していく中で、生え抜きの家禄150俵の勘定役から、
勘定奉行に出世した。
柳沢吉保の引き立てによるとはいえ、組頭在職中の貞享4年6月に諸国代官の
会計監査を命じられ、天和2年に彼のために新設された勘定吟味役になって
代官の8割を更迭する辣腕をふるった。

こうした財務に長けた逸材はなかなかいないようで、
白石によって勘定吟味役に登用された萩原美雅は吉宗政権への交代時、
西之丸留守居に左遷されながら、享保5年5月勘定吟味に再任されている。

465 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 12:55:59.76 .net
長すぎ

466 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 12:57:11.64 .net
内容が濃いから、このくらいの長さでも興味深いよ

467 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 13:33:53.71 .net
自信過剰

468 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 13:33:58.33 .net
白石は次代将軍に吉宗推してたのに左遷されてカワイソって感じ

469 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 14:01:04.74 .net
たとえ次期将軍擁立に功績があっても、次期将軍が養君だと、高確率で切られるのが示されている

470 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 14:08:14.83 .net
「ようくん」で「養君」は変換出来ない。  誤字ではなさそうだな

471 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 14:11:33.77 .net
「切られるのが示されている 」
ここも日本語が怪しい

472 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 15:45:10.82 .net
>>469
養子の君主、って意味?

473 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 18:06:33.50 .net
まあ実際、どこの歴史でも長じて後見人が疎ましくなり退ける傾向はあるよね

474 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 18:29:17.37 .net
養子の将軍が登場したがために重臣の列から退けられた者は、酒井忠清、柳沢吉保、間部詮房、田沼意次など、多数いる。

475 :日本@名無史さん:2017/09/01(金) 20:16:04.38 .net
傍系相続
綱吉  家宣  吉宗  家斉  家茂  慶喜  (家達)

足利将軍家では
義教  義政  義稙  義澄  義栄  義昭

476 :日本@名無史さん:2017/09/02(土) 14:32:19.49 .net
半分近くが傍君だな

477 :日本@名無史さん:2017/09/02(土) 16:06:46.92 .net
>>474
この中で、最も出世し最も穏便に引退したのが吉保
最も実権を握り最も無惨に失脚したのが意次

478 :日本@名無史さん:2017/09/02(土) 16:17:50.12 .net
家茂から慶喜なんて、傍系どころかほぼ他人だしな

479 :日本@名無史さん:2017/09/02(土) 16:28:41.46 .net
吉宗の血統は人材がいなかったし、
慶喜が一橋家に迎えられたのは将軍になる含みがあってのものでしょ

480 :日本@名無史さん:2017/09/02(土) 17:19:10.31 .net
しかし、家斉以降の将軍にとっては、一橋家が里に当たるわけで、それを水戸系の慶喜に継がせるとは、思いきったことをするなぁと思ったの

481 :日本@名無史さん:2017/09/02(土) 17:41:40.58 .net
御三卿は、その時々の将軍の庶子によって継がれるべき家柄
慶喜が一橋家を継ぐのは、吉宗の意志を蔑ろにする掟破り、
ただ、この掟破りは当時常態化していて、
最初になし崩しにしたのは、御三家の反対を振り切って
五男斉匡を田安家に押し込んだ一橋治済

482 :日本@名無史さん:2017/09/02(土) 17:46:20.59 .net
家基に複数の弟がいればねえ

483 :日本@名無史さん:2017/09/03(日) 08:38:19.65 .net
老中の板倉勝清の方が慶喜より将軍家に血統が近かったというw

484 :日本@名無史さん:2017/09/03(日) 12:57:12.74 .net
血が「繋がらない」なんて誰も思わないからなーw

485 :日本@名無史さん:2017/09/03(日) 13:29:02.85 .net
徳川吉宗―田安宗武―松平定信―松平定永―板倉勝静

486 :日本@名無史さん:2017/09/03(日) 15:33:30.29 .net
つまり勝静の子孫=吉宗のという事か

487 :日本@名無史さん:2017/09/03(日) 18:12:16.33 .net
だから板倉勝静は、家慶が慶福召見の折、家定に後継の内意を伝えた、
と勝静が藩主だった備中松山藩に仕え、維新後大審院判事になった三島中洲が
伝えている
勝静は家茂の老中だった頃も、最後まで慶喜の後見職就任に反対した

488 :日本@名無史さん:2017/09/04(月) 11:50:39.32 .net


489 :日本@名無史さん:2017/09/09(土) 12:09:20.17 .net
いっそ家重を廃嫡して寛永寺門主輪王宮の附弟に棚上げし
田安宗武は宗春後の尾張へ追いやって
一橋に九代を継がせておけば
あとあと後継者を巡って面倒が起らんかったとちゃうかな
実際宗武を尾張へやる動きは水面下であったようだから

490 :日本@名無史さん:2017/09/09(土) 15:17:37.33 .net
弟が兄を超えて将軍になる理由が希薄すぎ

491 :日本@名無史さん:2017/09/09(土) 17:03:11.21 .net
家重は脳性麻卑で言語障害にして「小便公方」と嘲られる頻尿症
かといって知性が低いわけじゃなく側近には人材がそろっていた
しかし将軍として「らしくない」と当代随一に賢臣松平乗邑さえ廃嫡しようとたくらんだ
宗武は兄に変わろうとする野心が露骨で登城停止の処分を受けている
家重VS宗武・・・両成敗
吉宗は兄二人より宗尹を可愛がっていたというし

492 :日本@名無史さん:2017/09/09(土) 17:36:43.26 .net
コミュニケーションが旨く成り立たなかっただけで、意思を理解できる者が側についていれば、全うに意思を伝達することは可能であった。
また、吉宗は家治に期待していたともされる。
コミュニケーションの補佐をしたのが、大岡忠光と大岡忠光26人衆である。

493 :日本@名無史さん:2017/09/09(土) 22:29:14.20 .net
ぱっと見、大岡忠光とそのクローン26体っぽい

494 :日本@名無史さん:2017/09/09(土) 22:43:59.45 .net
大体 宝暦期なんて官僚制が完成していて幼児が将軍でも幕政は安泰だろ。 木でも金属でも将軍は勤まる。
コミュニケーションはさほど重要ではない。たとえ数年でも将軍やらせて早めに引退させるのが一番賢明な策。
相続に能力主義を持ってくるのは、蒙古や満州族の王朝ならともかく幕府や諸藩でそれやりだすと、
全国お家騒動だらけになる。

495 :日本@名無史さん:2017/09/09(土) 23:37:05.74 .net
そんなことはわかっている

496 :日本@名無史さん:2017/09/10(日) 00:25:38.78 .net
>>489宛てと書けばよかったかな そんなにカリカリせんといてえな

497 :日本@名無史さん:2017/09/10(日) 00:26:55.18 .net
甲陽軍鑑
・三河以東の東国武士はどこも強敵
・特に信濃勢は恐るべき相手
・武蔵武士は個人の戦闘能力が高い
・関東武士は騎馬戦を好む
・東海では三河が最強
・三河武士は戦慣れしている
・三河勢5千で関西勢2万に対抗できる
・家康軍の戦死者を見ると敵に背を向けている者は一人も居ない
・信長軍は数は多いが一兵、一兵は大したことない
・信長軍限定では美濃兵が最強
・尾張から都までの間では一戦ごとに我々と力の差が開いて行く
・尾張>伊勢>近江>山城(最弱)
・五畿内の侍は町人に似ている

・名将は元就、氏康、信玄、謙信、若手では信長、家康
・臆病な大将は大内義隆、上杉憲政、今川氏真
・今川家滅亡の元凶は上方浪人の武藤、のちの三浦右衛門

三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
その証拠は、むくろ此方へ転たるは、うつむきになり、浜松のかたへころびたるは、あふむきになり申候。

家康17,000 vs 秀吉100,000
三河出身の家康は秀吉軍を『上方の弱い軍勢』であると見下していた。
(磯田道史・岡山県出身の歴史学者)

498 :日本@名無史さん:2017/09/10(日) 01:56:01.03 .net
吉宗は、最初は宗尹自身を越前に遣わそうとしていたんだが。
年齢が越前の松平宗矩に近いことを理由に固辞し、
それで嫡男の重昌にお鉢が回った、そうだったんじゃないのけ

499 :日本@名無史さん:2017/09/10(日) 17:46:50.62 .net
>>494
ごめん、茶目っ気が過ぎたかなぁ。脱線ついでにお赦しあれ。
ちょっと遡る話なんだけど、綱吉治世の元禄末期〜宝永年間、
朝廷は、霊元上皇・敬法門院(東山天皇の母)・一条兼輝元関白と
東山天皇・新崇賢門院(中御門天皇の母)・近衛基熈前関白が
皇位継承を巡って争っていた。
やり手の近衛が幕府を懐柔して第5皇子の長宮(中御門)の対立候補だった
第3皇子の三宮(どうやら典侍の冷泉経子と皇弟京極宮との不倫の子らしい)
を早々に出家させ、円満院を経て寛永寺に飛ばした。
これがのちに寛永寺貫主・輪王寺門跡・天台座主となった公寛法親王。
そしてその附弟には東山天皇皇孫が就いている(公啓法親王)ので、
将軍の子弟が皇族の指定席に割り込む余地はなかったろうね。

長幼の序をひっくり返すと、お家騒動が起きる・・・当然でしょうけど、
ただ、綱吉と吉宗にはそれを諸侯・幕閣に有無を言わせず成就する権威と
権力が備わっていたと思うんですけどね。

500 :日本@名無史さん:2017/09/10(日) 23:00:52.12 .net
500げっと
>>499
OK牧場。  ちょっち今 BS朝日の「独裁者の妻」観ている途中なんで、またレスすますだ。

501 :日本@名無史さん:2017/09/16(土) 17:27:38.25 .net
>>499
>綱吉と吉宗にはそれを諸侯・幕閣に有無を言わせず成就する権威と
権力が
>備わっていたと思うんですけどね。

綱吉は別に長幼の序を飛び越えたとは思わんし、吉宗も家格を考えれば、これも一概にそうとも言えない。
まあ、ここは当時の価値観と現在の○親等の考え方の差もあるし、枝葉末節な部分なので脇に置いておく。
 それよりも傍系相続である綱吉・吉宗が強いリーダーシップを取れたのは、
彼ら個人の権威というよりも「徳川宗家家督」の絶対的権威がすでに確立していたからだろう。 
これこそ「個人の能力・資質」より「血筋・家柄」が重んじられる社会に到達した証左ではないか?
「戦国時代」は綱吉で完全に終焉したということか。

502 :日本@名無史さん:2017/09/26(火) 13:04:55.62 .net
慶朝さんがなくなったようだ
合掌

503 :日本@名無史さん:2017/09/27(水) 16:49:20.48 .net
私的にゃ〜だいぶ前に出た「華族の肖像」っていうシリーズものな画集での拝見だったな
最後に現当主の家族写真が乗っていて幸せそうだったんで
後に離婚していたって聞いたときは「?」とは感じた

本当にご愁傷様っす

504 :日本@名無史さん:2017/10/19(木) 23:53:56.23 .net
>>501
>「戦国時代」は綱吉で完全に終焉したということか
てか、家光で終焉なんじゃないのけ

505 :日本@名無史さん:2017/10/20(金) 14:31:53.74 .net
家光は出陣したことないからな
島原の乱は知恵伊豆が出陣しただけだし、相手は大名じゃない

506 :日本@名無史さん:2017/10/20(金) 17:43:14.71 .net
一橋民部卿、おことも謀りごとに加わっておったか

507 :日本@名無史さん:2017/10/21(土) 00:14:03.39 .net
元和偃武

508 :日本@名無史さん:2017/10/21(土) 15:45:49.08 .net
家綱、家継、家重〜家定は
江戸から出たことあるのかな?
日光だけは行ったことがあるくらいでしょ

509 :日本@名無史さん:2017/10/21(土) 17:56:19.77 .net
>>501
秀忠と江がホモ変態の家光ではなく
その弟で美形の忠長を将軍にしようとしたが
家康が出しゃばってきて
「孫の代からは本人の能力・資質ではなく家柄・長幼順」
の家光を将軍指名したはず

510 :日本@名無史さん:2017/10/21(土) 23:04:52.27 .net
>>509
その頃はまだ、家光が保毛尾田保毛男だとは判明してない。
むしろ最近は、家光は秀忠と春日局の子(シエが千姫婚儀で上洛中に秀忠が手を付けた)という説が有力。もうシエの出産は無理と思って家光を対外的にはシエの子として御披露目したら忠長がデキちゃったらしい。

511 :日本@名無史さん:2017/10/21(土) 23:42:45.84 .net
家康も井伊直政とアッー!の関係だというじゃないか
今回の大河ドラマでやるかどうかはわからんがw

512 :名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!:2017/10/22(日) 10:18:18.02 .net
家光がバカすぎたから忠長が多少はまともに見えただけで
忠長も相当なバカ

三田村鳶魚翁

513 :日本@名無史さん:2017/10/24(火) 11:51:06.31 .net
>>510
家光は子供の頃から化粧をして女ものの着物をかぶって走り回る
女装大好き変態少年だった

それに家光は江の実子だよw
春日局の子なんて全然有力ではない
千姫の婚礼は慶長8年7月28日。家光の誕生は慶長9年7月17日。
家光懐妊時に江は江戸城に戻ってきている。
また、江が千姫の婚礼に同行したとする史料は一部であり、
同行せずに江戸城にいた説もある。

動かぬ証拠としては家光は自分が将軍になる
と外祖父の浅井長政に中納言を追贈している
春日局の子なら斎藤利三が中納言だ

514 :日本@名無史さん:2017/10/24(火) 12:04:24.66 .net
家光の乳母は一般公募されたって真実なの?

515 :日本@名無史さん:2017/10/24(火) 12:38:05.64 .net
>>513
最後の件はあくまでも家光は正室腹という前提でないと
忠長に勝てないと思う

516 :日本@名無史さん:2017/10/24(火) 18:20:58.70 .net
>>508
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E7%A4%BE%E5%8F%82
日光社参した将軍は秀忠、家光、家綱、吉宗、家治、家慶のみ

517 :日本@名無史さん:2017/10/24(火) 18:43:22.89 .net
将軍本人が希望した場合もあるが、重臣が政治的功績にして改革の求心力を高めるために日光参詣を計画した場合もある。田沼や水野忠邦など

518 :日本@名無史さん:2017/10/24(火) 22:18:17.83 .net
春日局は乳母が権力を持ってた時代の最終ランナーという感じの人物だと思うが
振り返ると、乳母が権力を持たなくなる&母親の血筋が問われなくなるのと、長子相続が基本ルールになるのと、ほぼ同時だよね

519 :日本@名無史さん:2017/10/25(水) 10:00:20.37 .net
>>518
むしろ春日局が大奥を女性官僚制度にしたんだよ
それまでは御台所が奥のトップで取り仕切っていたのだが
春日局以降は女性官僚である御年寄が
今晩将軍の夜伽を勤める中臈の選定から後継ぎ問題まで
裁量を発揮することになった
春日局は乳母の出身ながら御年寄へシフトしたんだね
だから将軍家光の寝所に侍る側室を自在に選択して権力を持ち続けた

520 :日本@名無史さん:2017/10/25(水) 22:26:10.22 .net
同時代の政治のほうも知恵伊豆の頃からどこか官僚的な感覚になるね
秀忠時代は権力闘争で負けたほうが死んじゃうもんな
流石にこれが続くとヤバいと皆思ったんだろうか

521 :日本@名無史さん:2017/10/28(土) 13:00:41.01 .net
安定してくるとどこもかしこも
官僚的にはなるわなぁ。
前例とか規則とか。

522 :日本@名無史さん:2017/10/28(土) 13:19:12.81 .net
武士の仕事、戦が無いから

523 :日本@名無史さん:2017/10/29(日) 09:24:40.39 .net
>>522
逆に戦があったら徳川将軍家が滅ぼされてしまうからね
「俺の子孫が永久に将軍。上に立つ者が人格者でなくても従うのが
家臣の勤めである(儒教)。もうこれで永久固定」
ってことで戦は止めさせたんだよ

524 :日本@名無史さん:2017/10/29(日) 09:24:40.55 .net
>>522
逆に戦があったら徳川将軍家が滅ぼされてしまうからね
「俺の子孫が永久に将軍。上に立つ者が人格者でなくても従うのが
家臣の勤めである(儒教)。もうこれで永久固定」
ってことで戦は止めさせたんだよ

525 :日本@名無史さん:2017/10/31(火) 15:08:43.03 .net
徳川幕府の時代で大麻が流行ってた
1611年で検索

こちらは歴史 最近の総理大臣まで意外とみんなやっていた
https://blogs.yahoo.co.jp/worldrecordshow/14569823.html

526 :日本@名無史さん:2017/10/31(火) 15:18:09.22 .net
土屋政直、久世重之、阿部正喬、井上正路、小笠原長重、大久保忠増らは、万一戦が起きた場合、能役者の実質采配に従って諸大名が動くとは思えず、
速やかに紀伊吉宗の擁立を

527 :日本@名無史さん:2017/11/28(火) 09:56:11.74 ID:KvCbxDUUv
数年前、東京の寺で家重についての展示(徳川家重公と  上人)があった。
行った人います?その年だけの展示だったけど。

家重には不思議な魅力がある。最高権力者にもかかわらず、障碍者というアウトサイダー。
歴史上の人物なのに本人の証言がほとんどないアンバランスな所が。

528 :日本@名無史さん:2017/12/31(日) 19:05:38.24 .net
信康を2代将軍にさせてやりたかったな

529 :日本@名無史さん:2018/01/02(火) 21:24:15.84 .net
柳沢吉安が息子を将軍にしていたら結構面白かったかも

吉宗以降は実質紀州幕府だよね

530 :日本@名無史さん:2018/01/02(火) 21:32:16.85 .net
吉保の息子、伊勢守吉里は、家老を斬首にしたりするなど、常軌を逸している。

531 :日本@名無史さん:2018/01/03(水) 15:42:28.83 .net
柳沢吉保・吉里といえば、「護国女太平記」や「日光邯鄲枕」
吉里をわが子と信じ、吉保・吉里父子に百万石のお墨付を
与えようとした綱吉を御台所の鷹司信子が諌めるが、
訴えを一蹴されて綱吉を刺殺、前の大老井伊直該に後を託して自害

この結末が荒唐無稽すぎて、俗書の戯言と「とんでも」扱いされているが、
果たして、どうなんだろう?
その過程で出てくる、有力諸侯や大奥、幕閣の動向に関わる逸話には
「ほんまかいな」と疑いを触発され「う〜ん」とうなづいてしまう事柄だって
あるのだが・・・

532 :日本@名無史さん:2018/01/05(金) 07:12:09.76 .net
>>412
綱吉
家重
家治
慶喜

慶喜は賢すぎて周囲がついていけなかった

綱吉、家重、家治は側近に恵まれたから成果が出たな

533 :日本@名無史さん:2018/01/06(土) 00:41:43.99 .net
>>532
側近に恵まれた綱吉?
その側近って誰なんだろう???

534 :日本@名無史さん:2018/01/07(日) 18:07:57.41 .net
>>531

大奥「宇治の間」w

535 :日本@名無史さん:2018/01/07(日) 21:51:21.76 .net
>>533
牧野や柳沢とか有能無比じゃん

536 :日本@名無史さん:2018/01/07(日) 23:26:47.43 .net
>>393
>ケンぺルの「江戸参府日記」に書かれているように、
自害したという話は、日本側の史料にないんだよね 。
けど、火の無いところに煙りは発たない。

>>531
『護国女太平記』によれば、
十万両の借財申し入れは、実は甲府家の戸田長門守からだけじゃなく、
館林家の牧野備後守からもあったんだけど、
いずれも大老酒井雅楽頭から拒絶されて、
綱吉は憤りなく仕方なしと受け容れたが、
綱重は、
「我天下の連枝として僅の金子拝借を願うに其儀かなわず…
残念の至りなりと例の短慮を発せられ御無念に思され延宝二年九月十四日に
遂に御生害遊ばされける」と、いう記述がある。

537 :日本@名無史さん:2018/01/10(水) 23:25:23.59 .net
牧野成貞や柳沢吉保が有能とは・・・
側用人としては・・・
しかし、政治家としては・・・

538 :日本@名無史さん:2018/01/10(水) 23:32:22.31 .net
ついでに言えば、対比の念頭に意次がある
水野忠成と比べれば、まだ出来がいいかも ・・・なのか

539 :日本@名無史さん:2018/01/10(水) 23:38:00.84 .net
牧野、柳沢、間部、水野・・・意次には遠く及ばないだろう

540 :日本@名無史さん:2018/01/10(水) 23:43:05.81 .net
綱重・・・自害したかどうかは別にして、
酒乱粗暴は記録に残っているようで


将軍にならなくて良かった

541 :日本@名無史さん:2018/01/10(水) 23:44:32.96 .net
側用人ってのは将軍親政のための道具なんだから、綱吉の意思を忠実に実現した牧野、柳沢は有能だろ
意次は側用人と老中を兼任した人間だから側用人専任の柳沢らと違うのは職務上当然でしょ

542 :日本@名無史さん:2018/01/11(木) 14:04:18.19 .net
柳沢は文化的教養も深いし、気難しい綱吉に長年辛抱して徴用されたということは
これはもう抜群の官僚政治家だよ。まあ 能吏ってやつかな。

543 :日本@名無史さん:2018/01/11(木) 18:31:18.61 .net
柳澤は軍需工場で強制労働ニカ

544 :日本@名無史さん:2018/01/11(木) 18:53:54.57 .net
徳川綱吉は、傍系から宗家を嗣いだ将軍として、将軍とはこうあるべきだ、政治とはこうあるべきだ、という経倫を振りかざした者だったから、軋轢が大きかった。
大老酒井忠清は、例えば、御家騒動を起こした越後家や、同じく酒井忠清邸で藩重臣同士が殺しあいまでした伊達家も、取りつぶさなかった。
播磨守綱勝に嗣子がなく、本来であれば改易だった上杉家も、半知にはしたが、存続を許した。
このように、軋轢を起こさず、啼かず飛ばずが政治の極意と心得ていた酒井だったから、綱吉とは合わない。

545 :日本@名無史さん:2018/01/12(金) 13:54:06.45 .net
>>544
将軍家綱の時に起こった「由井正雪の乱」の反省から
江戸幕府は文治政治に舵をとり大名の改易をやめたんだろ
改易すると家来が失業して浪人となり江戸幕府に反逆するという理由から

他家から養子に入った6代家宣、8代吉宗の時にも改易なんか増やしていない

546 :日本@名無史さん:2018/01/12(金) 14:14:29.72 .net
そんなことは分かっている。問題は、綱吉が、初めから高田藩をとりつぶして新将軍の威厳を見せつけようとしたことだ

547 :日本@名無史さん:2018/01/12(金) 14:16:14.08 .net
本来ならフェートン号事件で佐賀藩36万石を改易にしてもおかしくはない

しかし外様の大身の大名を改易にするのことを1643年の会津藩加藤家改易以来、
150年以上してこなかったから、
幕閣もいつの間にか億劫になってしまい、佐賀藩主の閉門と家老らの切腹だけにとどまった

548 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 11:46:30.38 .net
佐賀藩潰したら、誰に長崎警備任せるの? 肥前一国天領にして幕府直轄でやるか?
そのころの幕府にはもう大身外様を潰すだけの力がなかったんだろうねえ。
というか、 >>501で少し書いたのだが、 家光の頃までは「戦国時代」であって、
大大名を改易するという発想がそもそも「戦国時代」的発想なんだろう。 文治政治以降、幕府と外様大名は
「刺すか刺されるか」の緊張関係から、「この国を平和に治める仲間」という意識になったんじゃないかな。
支配階級として同族・同門意識の共有ちゅうか。 家綱期もしくは綱吉期に「戦国」は終わったんだろう。

という意味で >>546
綱吉の高田藩改易は異例ではあるね。 秀康流の嫡系である松平光長は「影の徳川宗家」だから、
傍系相続の綱吉としては格好のスケープゴートだったんだろうねえ。 この話も前にさんざんやったね。

549 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 14:20:27.80 .net
綱吉が傍系いうが、先々代の息子、先代の弟だから珍しくもなんともない。吉宗や慶喜みたいに離れてれば別だが。

550 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 15:00:04.24 .net
傍系だろうが。なぜなら、一度館林25万石を与えられ、家臣の列に下がっている。将軍の子、将軍の弟かより、長子相続が続き、
将軍の子から、一旦は臣下の立場に下がったことを重んじるべきである。

551 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 15:48:40.15 .net
>>549
勿論、綱吉は宗家の出身であるし、宗家と何親等も離れている吉宗や慶喜と一緒くたに論じるのは
筆の走りすぎかもしれないが、まあ、綱ちゃんは家を出て 別家を構えた身であり宗家継いだのは30代半ばだから、
家綱政権の幕閣連中から見れば、「外の人」のカテゴリかな、と。

552 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 16:34:19.64 .net
宗家の出とはいえ初めての傍系相続だからな
そして結果的に酒井はクビになってるわけだし

553 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 18:47:23.79 .net
>>548
松平忠直(結城秀康の長男)と勝姫(将軍徳川秀忠の三女)の間に生まれた松平光長は
母親が八百屋の娘だの言われている綱吉よりも血筋が良い
個人的に将軍の座が望めないように排斥した意味もあるのかね

554 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 19:46:21.72 .net
>>553
松平光長に将軍職の野望はあったとは思わんけどねえ。
>母親が八百屋の娘だの言われている綱吉よりも血筋が良い
綱さんをdisるのはやめてくれえ〜。
と言いつつ、
光長の二人の同母妹は高松宮好仁親王妃と摂政九条道房室。 九条道房の母は豊臣完子(家光異父姉)
とか書いてみるテスト。

555 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 21:16:13.68 .net
将軍の臣下には違いないが
御三家、御両典、のちの御三卿は将軍家の親族扱い
城中席次、官位が別格
「臣下」というカテゴリ−で、越前・津山・会津等ほかの親藩と一括りにはできない

「徳川実紀」では将軍家とその世継ぎ
そしてこの八家には
徳川である姓を憚って、表記を遠慮している

556 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 21:39:02.48 .net
徳川を名乗る家は、皇族で言えば親王家。
親王も天皇の臣下かと問われれば臣下だが、臣籍ではない。

557 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 21:44:55.81 .net
>>554
松平忠直が改易となった際、正室の勝姫は実家の徳川家に帰ったが
松平光長の2人の同母妹(亀姫と鶴姫)も母親である勝姫についていった
亀姫は2代将軍徳川秀忠の養女として有栖川宮好仁親王に嫁ぎ
鶴姫は3代将軍徳川家光の養女として九条道房に嫁いだ
その待遇をみれば同母兄の光長も秀忠や家光の養子になってもおかしくなく
そうなれば綱吉的には面白くない存在

558 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 22:17:32.10 .net
>>557
>綱吉的には面白くない存在
先に「影の徳川宗家」と比喩したが、光長は将軍家の養子になろうがなるまいが、
母親 同母妹 その他で「八百屋の孫」より華麗なる一族の本当の御曹司なんだな。
彼奴をまず粛清することで「将軍デビュー」を果たした綱吉はさい先の良い良いスタートを切った。
これは大きかった。 ちょっと大げさに言うと足利義満における山名氏や大内氏の役目を
光長が担わされたんじゃないか。

559 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 23:11:41.38 .net
光圀のような偏屈が秀忠の跡継ぎは兄秀康の越前家に譲るべしと
考えていたようだが、

家康の秀康出生にかかわる疑念と秀忠を後継者にした経緯、
秀忠・家光の越前松平家への敵視と加賀前田家への懐柔、
前田家への備えとして大封を得た越前家の地政学的な価値低下、
前田家の親藩化、
この流れは、綱吉が将軍になる以前から続いている

560 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 23:18:18.80 .net
全部自演ぽっいw

561 :日本@名無史さん:2018/01/13(土) 23:38:02.21 .net
547 550 553 557は俺だよ。文体の癖も同じだろ。 あとは知らねえな。
前に越前論争してた片方も俺だよ。
>>560
これで得心したか?

562 :日本@名無史さん:2018/01/14(日) 00:08:22.56 .net
当時、女子は人格のない、閨閥づくりの「将棋の駒」だよね。
実の子には限りがあるから「養女」を活用したわけだ。
だが、野郎は別。
跡継ぎ…将軍家となればなおさらだけど、越前が臣籍に下っていること以前に、
秀忠血統の幕府が秀康血統の男子を西の丸に迎え入れられることは、
ありえないと思うよ。

563 :日本@名無史さん:2018/01/14(日) 15:21:35.98 .net
>>555
江戸城登城時、御三家は大手門から入ってるから臣下
御三卿は裏からこっそり、こっちは親族

564 :日本@名無史さん:2018/01/18(木) 00:30:16.24 .net
たしかに御三卿は「将軍の家族」扱い。
御三家の登城は、大手門⇒表玄関⇒大廊下で、将軍との対面は白書院。
御三卿は、平河門⇒御風呂屋玄関⇒御控座敷で、対面は御座の間。

但し、登城経路を詳しく見ると、
大手門⇒下乗橋⇒大手三之門⇒中之門⇒中雀門へ至る過程で、
御三家は中之門まで駕籠に乗ることができたが、他の大名は下乗橋の手前で
駕籠から降りなければならなかった。

565 :日本@名無史さん:2018/01/18(木) 00:41:10.17 .net
綱吉と将軍の座を争った 有栖川宮幸仁親王の忘れ形見である。

566 :日本@名無史さん:2018/01/18(木) 10:35:23.47 .net
外様でありながら、晩年の藤堂高虎だけは奥まで駕籠で入れた
御三家は親藩ではなく、御三家という家格である

567 :日本@名無史さん:2018/01/18(木) 12:25:19.20 .net
>>564
綱紀以降の加賀前田家はどこまで輿で行けたのですか?

>>566
それは確か、高虎が高齢で体が効かんのでお勤めご勘弁と申し出たところ、家光がそれを許さず、
「輿に乗ってヨシ」と取り計らった例外規定だったんじゃないけ?
まあ、破格の厚遇には違いないがね。
大体 高虎の出世自体が異例の厚遇だし。 相手が祖父ちゃん子の家光だし。

568 :日本@名無史さん:2018/01/18(木) 13:53:55.58 .net
田安卿の姻戚だから大丈夫だろうとたかを括って、本来籠を使うべきところ、禁止された上げ輿で登城して処罰を受けた大名もいる

569 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 12:49:34.34 .net
藤堂高虎は外様なのに譜代よりも厚遇されたからな
まあ子孫も鳥羽伏見で真っ先に裏切るということで、ご先祖高虎の教えをよく守ったよなww

570 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 15:58:48.14 ID:JU9qqk+Ji
この作品では家光、忠長兄弟の相続争いが描かれていいるね。


耀謎の門
https://www.amazon.co.jp/dp/B076LDBYD1
: 日光陽明門の彫刻大工 左甚五郎異聞

571 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 16:27:46.23 .net
高虎とくるとすぐに裏切りを連想する単細胞

572 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 18:20:19.25 .net
>>571
少なくとも幕末の連中はさすが高虎の子孫と納得したようだぞw

573 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 20:08:08.43 .net
うん?
藤堂高虎は誰を裏切ったのかね? 後学のために教えてくれんか>上の3人の誰か

574 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 22:47:27.99 .net
>>573
嫁さん

575 :日本@名無史さん:2018/01/20(土) 23:43:30.47 .net
表玄関まで乗輿できたのは勅使だけ。
中之門を駕籠に乗ったまま通り、中雀門の手前まで進めたのは、
御三家以外は、寛永寺貫主を兼ねる日光門跡輪王寺宮と増上寺法主のみ、と伝えられている。
ただ、これは原理原則で、大名の格付けがオーソライズされていく以前の政宗、高虎の扱いはともかく、
その時世、時世で例外はいろいろあったみたい。

だから加賀前田家の光高、綱紀、慶寧らがどうだったか?
自分も知りたいです。

増上寺については、

576 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 00:19:57.12 .net
>573
前田家について質問した566だけど、質問理由は綱吉の時代に前田家を御三家に準ずる待遇にした。 城中の控室とか謁見の席次とか。だから、それ以降(前田綱紀以降)の前田家の登城待遇は如何かと。

577 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 00:29:34.97 .net
増上寺については、貞享3年当時の31世法主、流譽故巌が幕府に願い出て、
本丸表玄関まで乗輿せずに、中雀門(で下輿して御玄関まで歩行し、
表向に入ることにしたという記録からすると、
日光門跡と増上寺法主は、表玄関まで乗り付けていたとも解釈される。

ただ、36世顕譽祐天の時、秀忠以後、家光〜綱吉までずっと寛永寺に葬られてきた
将軍の霊柩が家宣に至って増上寺に葬られるとなり、増上寺の役僧らは増長して、
幕府に以前のように寛永寺貫主同様、表玄関までの乗輿を許可しろと強訴した。
困惑する幕閣の中で、間部詮房一人泰然として、祐天大僧正の発意なら祐天を流罪にし、
役僧の企てなら彼らを処刑し、御代替の御威光になると言って寺を踏み潰すべし.と一蹴
したそうだ。
恐懼した増上寺は謝罪して、粛々と法会を行ったという。

578 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 00:52:30.65 .net
加賀前田家が御三家に準じる扱いを受けたというのは、
「徳川実紀」の元禄2年8月9日の記述で、「松平加賀守綱紀今まで五節には。
表にて拝賀すといへども。 この後白木書院にて拝賀すべしと命ぜらる」
と書かれていることが根拠になっている。

579 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 12:51:57.36 .net
いい加減スレ違い

580 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 13:08:35.30 .net
実は、将軍側近の新御番組頭格の中野播磨守清茂(隠居して石翁)が、義理ながら曾孫にあたる加賀の犬千代(前田慶寧)を13代将軍に据えようと画策し、
老中の林肥後守忠英や、大目付の本多越中守を指示し、大塩残党に家慶を襲撃させる計画があった

581 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 15:46:28.89 .net
光高や綱紀や慶寧
誰にしたって加賀から将軍はありえへんだろうな
もちろん吉里もそやけど
逆に水戸から将軍を出せへんというウソが信じられとんのが不思議だ

582 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 16:38:06.24 .net
今徳川名乗ってる連中の大半が水戸系なのが笑えるwww

家斉の子作りは全く役に立たなかったなw

似たケースが尾張綱誠

583 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 16:38:12.92 .net
前田慶寧とか将軍の外孫だけど
思いっきり尊王攘夷派で長州寄りだったじゃん

584 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 16:47:06.86 .net
徳川幕府の失敗は朱子学の採用だな
朱子学採用したら朝廷が正統と見なされるようになるとは想像すらできなかったんだろうな
それくらい室町期以降の朝廷には政治的求心力がなかった
室町期から江戸初期の朝廷って相撲の吉田司家程度の存在だったんだろうな
免状発行元として重宝はするが、別になくても困らない程度の

585 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 18:47:27.46 .net
>>584
朱子学否定して実力主義だったら
幼将軍だった4代家綱の頃に幕府が潰れてたかもしれん
幼児でも馬鹿でも障碍者でも家康の血筋が主君だと決まっているのだから
将軍として崇めろと言うのに最適だったのが朱子学

586 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 19:19:47.66 .net
>>584
家康は外孫の松姫(後の徳川和子)を後水尾天皇に入内させて
徳川家の家格上昇させようと躍起になって朝廷工作してたし
秀忠は後水尾天皇の寵女を追い出してまで和子を中宮に立て
後水尾天皇の二条城行幸のために新御殿まで建造したし
家光は和子の頼みで後水尾天皇の離宮造営費を全額負担したし
朝廷に求心力なかったらそこまでするわけがない

587 :日本@名無史さん:2018/01/21(日) 22:11:52.79 .net
求心力てか
ただ外戚となろうとしただけだ

588 :日本@名無史さん:2018/01/22(月) 11:19:27.69 .net
家格アゲではないわな。 あれは足利義満の皇位簒奪論者に対して批判者が
「いや、あれは義満の家格アゲを狙ったもの」と主張し、 一応 そういう流れが大勢になった。
別に義満は家格アゲを狙ったわけでもないし、秀忠もそうなんだろうと思うけどね。

589 :日本@名無史さん:2018/01/22(月) 17:26:09.41 .net
>>587
なくても困らないなら外戚になる必要もない

590 :日本@名無史さん:2018/01/22(月) 19:52:42.40 .net
http://www.youtube.com/watch?v=iti8fFe6H3M      

http://www.youtube.com/watch?v=2ERju1HL8W8       

http://www.youtube.com/watch?v=GYCZPT7lQjo         

591 :日本@名無史さん:2018/01/22(月) 22:42:11.87 .net
朝廷はある種「ハンコ」だった
但し、「めくらハン」
権威の源泉ではあったことは確かだが、
>>584の言うとおり「政治的」求心力はなかったというべき
家康も家光も過去レスにあるとおり、太政大臣への昇進を当初辞退し、
秀吉のように朝廷の伝統的、形式的というか、はっきり言って形骸化したな権威に
寄りかかるスタンスはなく、ただいいように利用しただけって感じ

592 :日本@名無史さん:2018/01/23(火) 14:25:25.28 .net
>>584
朝廷に他の武家と仲良くされちゃ困るから
徳川の娘を嫁がせて莫大な金を貢いだんだろ
求心力がないならそんなことをする必要なし
家光以降の将軍正室は皇族か摂家の息女(養女を含む)に限られたし

593 :日本@名無史さん:2018/01/23(火) 14:49:52.07 .net
皇族と摂家は朝廷に関係ないかのような妄言

594 :日本@名無史さん:2018/01/23(火) 14:56:09.66 .net
将軍家が大名家から正室もらうと面倒なことになるからな
実際島津が近衛の養女って形とって将軍家に輿入れさせてかなりバランスが崩れて
幕末期の島津家を強大化するきっかけにしてしまっている
その点恰好の嫁の実家が政治的に無力な皇族か摂家なわけでね

595 :日本@名無史さん:2018/01/23(火) 15:05:37.06 .net
皇女も皇族なんだがな
家継は成人せず破談、家茂は成婚

596 :日本@名無史さん:2018/01/23(火) 16:53:19.17 .net
>>593
文盲w

朝廷と仲良くしたいから朝廷の構成員である
皇族・摂家の姫と将軍の縁組をしたんだが?

597 :日本@名無史さん:2018/01/23(火) 16:55:21.74 .net
>>594
将軍家茂は皇女和宮と婚姻
義兄にあたる孝明天皇にお供して孝明天皇の賀茂詣・石清水詣の警護を担当し
将軍は天皇の家来であると印象付けた

598 :日本@名無史さん:2018/01/23(火) 16:57:31.22 .net
>>594
室町時代の将軍は公家の日野家から正室もらってたけど
公家は無力どころか完全に日野家に牛耳られてた時期も長かった

599 :日本@名無史さん:2018/01/23(火) 17:03:37.26 .net
>>594
島津は摂家の近衛家と
前田は摂家の二条家と

大名の中には特定の公家と何度も姻戚となり
幕府関係なく姻戚である公家と仲良くするところが多かった
それも外様の大藩がw

朝廷と外様大名の姻戚関係の強さが幕末に影響するんだけどね

600 :日本@名無史さん:2018/01/23(火) 20:24:12.66 .net
家茂が天皇の風下に立つことを頑なに拒めばよかったものを・・・
家斉家慶ならそこまで卑屈になることもなかっただろうな
家茂のせいで幕府崩壊が早まったとも言える

601 :日本@名無史さん:2018/01/24(水) 00:22:30.49 .net
>>600
時勢だよ時勢

将軍宣下なんてずっと将軍が上段にいて、勅使が下段にいたんだぞ
それが家茂の頃は逆になっちまうんだから

>>599
島津家と近衛家は実は付き合いが深いからねえ
そもそも島津家って近衛家の荘園である島津荘の荘官になったことで生まれた家だからねえ
元々は比企一族なんだよね
頼朝の子孫とか嘘言ってるけどwww

602 :日本@名無史さん:2018/01/24(水) 13:38:44.11 .net
4連投勘違いバカ

603 :日本@名無史さん:2018/01/25(木) 13:44:18.32 .net
589-592が勘違いバカの連投

604 :日本@名無史さん:2018/01/25(木) 23:51:44.99 .net
若干1名のアラシがいることだけははっきりわかった

605 :日本@名無史さん:2018/01/27(土) 00:09:06.31 .net
今夜のBS・TBS
お気楽な「徳川和子」描写

606 :日本@名無史さん:2018/01/28(日) 21:57:33.24 .net
BSと言えば昨夜の「諸説あり!」では綱吉をあげまくってたな。 近年 綱吉を改革者として再評価する論調をよくみる。
このスレでも綱吉ネタ多かったし。 将軍後継争いと言えば幕末か、尾張VS紀州が定番なのに、
このスレは家重ネタや清武ネタで盛り上がってユニークだね。

607 :日本@名無史さん:2018/01/29(月) 01:04:24.73 .net
家重が政治的才覚に優れていることを知った時は衝撃だった
郡上八幡一揆の処理は凡庸な君主では絶対無理だわ

608 :日本@名無史さん:2018/01/29(月) 12:24:03.60 .net
小便公方

609 :日本@名無史さん:2018/01/30(火) 13:38:29.73 .net
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

NVRL1

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