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漢委奴国王印 いわゆる金印part3

1 :東京:2019/05/06(月) 17:37:27.05 .net
有意義なスレですのでpart3をたてました。

2 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 17:40:04.10 .net
前スレpart2
http://n2ch.net/r/-/history/1537107301/l20?guid=ON

3 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 17:44:45.23 .net
前前スレpart 1
http://n2ch.net/r/-/history/1338710507/?guid=ON

4 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 17:47:00.16 .net
2012/06/03(日)17:01 AAS
天明年間、筑前国那珂郡志賀島志賀島に於いて甚兵衛なる百姓が田圃仕事中に偶然発見したとされる。

・「漢委奴國王」を何と読むのか?
 →かんのわのなのこくおう
 →かんのいとのこくおう
 文化庁編「新増補改訂版 国宝事典」(便利堂、1976年)
 「その訓みについてはなお定説をみない」

・後漢書の印綬と同一か?
 後漢書「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」より
 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」

・そもそも真物か?
 出土地も確定できない問題がある

5 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 17:55:28.56 .net
Part 1から>899日本@名無史さん2018/05/08(火) 14:42:33.01
金印が何故そこにあったのか推察すると、おそらく奇跡の呂皇后と同じだろう。
西安の陝西歴史博物館にある呂皇后の玉印は、今中国にある歴史的印章で一番の
お値打ち品だ。
これは小学生が学校から帰り道で、道端の空き地で見つけた。省博物館に持って
行くとみんなびっくり仰天、拾った場所は劉邦と呂皇后の長陵から1kmの所、
呂皇后の玉印が出た。 なぜそこにあったか推察すると、これは呂皇后の墓内
でなく周囲の建物に調度品と共に安置してあった。それが前漢末の反乱で
焼き討ち略奪の時、誰かが守って持ち出し、落としたか埋めて隠した。
それから2000年、今は家や道の並木があったりするが、埋まった所は奇跡的に
何の変化も無く、表土が雨で徐々に流れて、2000年後に現れた。動かなかったから
傷一つなく綺麗な原形のまゝだった。正に奇跡の呂皇后だ。
 で 金印は、魏書に倭国大乱とあるように、その頃は喧嘩ばかりやっておった。
喧嘩の時、金印はどっかに隠す、奴国が負ける隠した奴が死ぬとどこに隠したか
分からなくなる。
 中国の何千個もの古銅印はほとんどが何故そこに落ちとったか推察しようもない。
そこに昔は持ち主の家や役所の建物があったとしても、千数百年過ぎると全く
跡形無くなってしまう。小さい銅印なんて丈夫な物だからそれだけが残る。

949日本@名無史さん2018/07/15(日) 09:45:01.71
1958年発掘 蛇鈕金印”晋蛮夷帰義侯”
外部リンク[aspx]:www.whmuseum.com.cn
この蛇鈕、造りは雑だが、形式は漢委の金印と同じ。  滇王は前漢だから蛇そのものだが、
後漢からの蛇鈕はこういう形式になった。
江戸時代ではこういう印形のデータが無いんだから、あの漢委の蛇鈕を贋作はできない

950日本@名無史さん2018/07/16(月) 08:55:10.33
蛇鈕はこれが江戸時代の贋作ではないことの決定的証拠だな。
中国に現存する蛇鈕金印は、現代で発掘された三個しかない。
中国でも明から作られた贋作印に蛇鈕は無い、どんなものか分からなかった
からだ。 日本で江戸時代に作れるわけが無い。

6 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 19:36:21.82 .net
年表

西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
107年 第6代・孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢した。
177年 第10代・崇神天皇が即位した。
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫か大田田根子が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行27年、景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。

※約100年間の天皇不在の空白期間
※卑弥呼と台与を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇を創作し空白期間を埋めた。

390年 第15代・応神天皇が即位した。

7 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 19:42:28.30 .net
日本で編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄は「新羅王の祖」であると書かれている。

『三国史記』によると西暦57年に
倭人の脱解尼師今が「新羅王の祖」になっている。
西暦57年と言えば奴国の王が、金印・漢委奴国王を授かった年である。

※金印を授かった奴国の王が神武天皇で間違いなさそうである。

8 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 19:45:45.41 .net
新羅王の始祖は3人いる 。

昔氏始祖は、脱解尼師今  ←奴国王が金印を授かった西暦57年に即位
金氏始祖は、金閼智
朴氏始祖は、赫居世居西干

9 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 20:33:50.81 .net
いつのまにかラノベスレに

10 :日本@名無史さん:2019/05/06(月) 22:51:32.02 .net
三国史記の年代を疑ってくれよ。
魏志東夷伝と合わないから、60年なり120年なり繰り下げないといけないのだろう。

11 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 02:02:07.69 .net
>>8
三氏族とも倭種
漢族の百済人は滅亡、現生朝鮮人はウラル系の高句麗人がルーツ

12 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 02:02:30.06 .net
不思議なことに日本人の遺伝子(O-47Z)は高句麗で爆発的に増えてるんだよな。
朝鮮人が日本で爆発的に増えた形跡はない。

O-47Zは関東地方に多いが
九州が新羅を支配、関西が百済を支配、関東が高句麗を支配し、分割統治した形跡が遺伝子解析的にはある

13 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 02:03:00.11 .net
朝鮮人の遺伝子

O2B(約30%) ←倭人系
O3(約45%) ←漢民族の系
C3(約12%) ←オホーツク系

14 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 02:03:18.84 .net
日本人の遺伝子

D1B1/D1B2(40〜45% ) ←縄文人の遺伝子
O2B1(約20〜30%) ←日本列島で発生した遺伝子
O3(約10〜16%) ←漢民族の遺伝子

中国系が10〜16%
朝鮮系はほぼ0%
日本列島独自の遺伝子が60〜75%

これが科学的な遺伝子解析の結果です。朝鮮半島からの移民が日本列島で増えた形跡はなし

15 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 02:04:55.09 .net
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國(朝鮮半島南岸)から倭奴国(九州北岸)まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。

16 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 02:05:14.48 .net
隋に使いを送ったのは、阿蘇山のある倭国の王である天の多利思比孤。

隋書
隋使の裴世清らの道程は「經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」とあり、
大海の都斯麻國(対馬)、東に一支國(一支国)、竹斯國(筑紫)、東に秦王國他10余国をへて海岸についたという。
竹斯國から東はすべて俀であるという。

17 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 02:05:40.02 .net
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。

18 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 02:06:37.10 .net
倭には大乱の前にも王がいた。
そこで大乱があり、卑弥呼が共立された。
奈良盆地では当てはまらない。

19 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 02:07:03.32 .net
畿内説はどうやっても東遷説に頼らざるを得ない。
なぜなら弥生時代における筑紫の優越性は絶対的なものだから。
それでも「畿内がー」と叫ばなければいけないのは哀れですらある。

20 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 06:25:47.44 .net
属国の証しを後生大事にしてるようでは、シナからの独立はねーなw

21 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 06:27:48.68 .net
金印の話題に戻ったら起こして
(つ∀-)オヤスミー

22 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 06:28:49.04 .net
前スレ消化してからこっち使えや無能ども

漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/

23 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 10:39:08.05 .net
>>7
>>8
漢委奴国王が神武天皇で間違いなさそうだね。
初めて金印をもらった倭王が初代天皇なのは妥当なところだし。

24 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 11:08:14.82 .net
>>23
記紀にはその前にもたくさんの王がいたことが書かれているよ。
イザナギやアマテラス、日向三代の王たちなど。

25 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 11:27:29.16 .net
>>24
だから何?そいつらは初代天皇ではないだろ

26 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 11:32:50.09 .net
なぜ神武が初代天皇扱いされたのか?
理由があるはずだが
初めて金印をもらった倭王だから初代天皇扱いされたというのは納得がいく

27 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 11:36:02.63 .net
>>25
天皇と定義されたのは、奈良時代になってから。

28 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 11:37:34.53 .net
>>26
九州からやって来た神武が畿内王朝の始祖だからだよ。
九州での倭王は天皇にカウントしなかっただけ。

29 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 11:40:07.38 .net
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。

30 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 11:45:08.61 .net
>>27
だから何?てきとーに初代天皇を決めたと言いたいの?

31 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 11:47:54.84 .net
>>28
金印をもらったから金印の威光によって
神武は畿内を支配できたんだろうね。

32 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 11:55:31.03 .net
九州の代々の大王が伊都国にいたことは平原遺跡などからも間違いない。
ではいつ頃、伊都国の大王の権威が衰退したのか。

※漢鏡5期流入段階(1世紀中ごろ)には、糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核である
※漢鏡6期流入段階(2世紀前半)では、既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止している

ちょうど奴国王(筑紫の王)が金印を授かった時期に伊都国が衰退してることが判明している。
つまり金印によって奴国王(筑紫の王)が伊都国王よりも偉くなった。

33 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:00:41.32 .net
逆だろ。
奴国の王墓の方が古いぞ。
吉武高木遺跡とかね。
平原遺跡は3世紀頃だから、むしろ金印よりも新しい方だ。

34 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:01:27.43 .net
糸島平野の最盛期はむしろ4世紀とかだな。

35 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:03:40.27 .net
そもそも奴国も伊都国も筑紫にあるのだから、どちらも筑紫の倭王だよ。
金印をもらったのがどちらなのかは議論の余地があるけどね。
どちらにしても後漢代において中国から見たら区別はされていない(遷都の記録はない)。

36 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:04:45.38 .net
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。

37 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:09:50.74 .net
>>33
3世紀というと、ちょうど邪馬台国の一大率が伊都国を支配したころだね。
1世紀に権力が伊都から筑紫・大和に移ったころに伊都国の漢鏡流通の核としての存在終了
3世紀中ごろの邪馬台国の一大率が伊都国を支配した時期に平原遺跡終了

38 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:11:13.97 .net
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。

「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職

39 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:14:14.54 .net
>>34
そりゃそうだ
4世紀には伊都国は、超大国の大和(邪馬台国)が支配してるので
伊都国王の権力はまったくなくなったが、伊都国王の時代よりも経済的には発展しただろうね

40 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:35:46.41 .net
なぜ前スレ消化してから使えないのか?

漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/

41 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:36:48.72 .net
九州王の年表

(紀元前2世紀) 福岡平野に吉武高木遺跡 ←最初の王都
(紀元前2〜1世紀) 奴国と考えられている須玖岡本遺跡
(紀元前1世紀の王・王妃墓)糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡 ←伊都国に遷都
(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国。井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓) ←九州王が権力を失い漢鏡流通の核としての機能を停止
(紀元2〜3世紀の女王墓)伊都国。平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓) ← 邪馬台国の一大率に支配されて平原遺跡が衰退

※『日本書紀』によると九州王は仲哀天皇の時代(4世紀頃の人物)に完全に家来になった。 ←九州王滅亡

42 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:39:47.70 .net
なぜ前スレ消化してから使えないのか?

漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/

43 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:40:44.24 .net
まだ伊都クズ生きとったんかいな(笑)

44 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:41:03.52 .net
>>41
弥生時代末から古墳時代に渡来系弥生人が北部九州から日本列島全体に広がってる考古学的な事実と合わないな

45 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:47:09.51 .net
>>44
九州王に権力があったら渡来系弥生人は九州から流出させないだろから
九州王に権力が無かった証拠だなとしか言いようがない

46 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:52:40.48 .net
なぜ前スレ消化してから使えないのか?

漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/

47 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:53:05.08 .net
渡来系弥生人なんて存在しない

48 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:55:03.22 .net
>>47
科学的に存在することが判明してるよ

O3(日本人の約10〜16%) ←漢民族の遺伝子

49 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 12:57:29.31 .net
ただし科学的な遺伝子解析の結果を見ても
「朝鮮系弥生人」は日本列島でほとんど増えなかったことは間違いないけど

50 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 13:03:09.99 .net
>>41
仲哀が香椎宮に入るには、伊都と岡田の王家の承認が必要だったんだよ。
彼らが三種の神器を掲げて登場して、仲哀を迎え入れた。

51 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 13:04:40.84 .net
そもそも仲哀は穴門を宮とする九州の王の一人だし。
倭王として香椎宮に迎えられたはずだったが、結局はすぐに暗殺されてしまった。

52 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 13:19:03.04 .net
なぜ前スレ消化してから使えないのか?

漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/

53 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 13:19:38.01 .net
>>48
〜最新の核DNA調査におけるニッポン人とチョンコ(別名:朝鮮ヒトモドキ)の差異はこれだけある♪〜


2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/UJZubVQ.jpg
https://i.imgur.com/2YKTJN4.jpg

弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/3uWM5cK.jpg


従来のY遺伝子D系統におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/mLgiqTd.jpg
https://i.imgur.com/1Yl4qgn.jpg
https://i.imgur.com/fQ7qJ4s.jpg
Y遺伝子(父系)のD2はアイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%、チョン半島0%


従来のミトコンドリアDNAならびにY染色体DE、O2b1とO2b*によるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/YlzY3cM.jpg

チョンコはミトコンドリア(母系)においてニッポン人女性と牝ヒトモドキに差異はないとホルホルするが、アジア全体で大きな差はない
また有史以来、チョンコロ半島の国々は貢ぎ物として牝ヒトモドキを大量輸出していた実績があり、その伝統は近年の第五種補給品まで続いていた
なおM7aがニッポン人女性の特徴と言える

結論:ニッポン人にとってチョンコは距離的には近くても血統的には非常に遠い存在

54 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 15:35:48.20 .net
なぜ前スレ消化してから使えないのか?

漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/

55 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 21:28:37.32 .net
>>45
大陸から引き上げて来た人達を東方に殖民させたんだよ。
>>48
渡来系弥生人≒現代日本人だな。

56 :日本@名無史さん:2019/05/07(火) 22:04:37.43 .net
なぜ前スレ消化してから使えないのか?

漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/

57 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 00:44:08.76 .net
>>55
>渡来系弥生人≒現代日本人だな。

ぜんぜん違うよ
科学的解析の結果
日本人の60〜75%以上は日本人特有の遺伝子だよ

D1B1/D1B2(40〜45% ) ←縄文人の遺伝子
O2B1(約20〜30%) ←日本列島で発生した遺伝子

58 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 00:47:34.98 .net
なぜ前スレ消化してから使えないのか?

漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/

59 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 01:03:44.49 .net
九州王の年表・修正版

(紀元前2世紀) 奴国の吉武高木遺跡
(紀元前2〜1世紀) 奴国の須玖岡本遺跡 ←金印を授かったことにより九州王より偉くなり、畿内に遷都 
(紀元前1世紀の王・王妃墓) 伊都国の三雲南小路遺跡
(紀元1〜2世紀の王墓)伊都国の井原鑓溝遺跡 ←奴国王が金印を授かったことにより九州王が権力を失い、伊都国は漢鏡流通の核としての機能停止
(紀元2〜3世紀の女王墓)伊都国の平原遺跡 ← 邪馬台国の一大率に九州王が完全に支配されて平原遺跡が衰退

※『日本書紀』によると伊都国の王(九州王)は仲哀天皇の時代(4世紀頃)に完全に家来になった。 ←九州王滅亡

60 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 01:22:35.39 .net
なぜ前スレ消化してから使えないのか?

漢委奴国王印 いわゆる金印part2 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/

61 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 02:02:28.58 .net
>>60
しつこいな
荒らすなよ
レス990超えたら次スレに移行するの当然だしコピペ荒らしするヒマがあったら前スレ埋めろよ

62 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 02:05:41.70 .net
神武天皇は奈良県御所市に遷都したんだな
物的証拠(日本で唯一の銅鐸と鏡の同時出土)もあるので間違いないだろう

63 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 02:09:25.25 .net
それで、オマエの名前は?

64 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 02:25:41.61 .net
>>63
川崎の重度統合失調症症患者は今日中にに首を吊れ

前から何度も何度も繰り返し死ねと命令されているだろう?

むしろお前へのレスは「首を吊って死ね」以外にないじゃないか

なぜ素直に命令をを聞くことができないのか・・・

いくら無能な統合失調症症患者とは言え、日本語は読めるのだろう?

これだけ多くの者達に望まれているのだから

さっさとセルフ絞首刑を実行しろ

65 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 02:30:06.55 .net
>>64
どこの池沼なんだ


64「????????????????」(台詞のような意味)

66 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 02:33:05.06 .net
実際に家の話なんだけど

『サイバーパンクSPECIAL』『』『』『』・・・その他

このような作品などもw
なぜか漫画やアニメ、ゲーム・・・そういう類?

67 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 02:37:10.84 .net
当時持っていたシンボル(アイテム)的なもの、
例えば刀など?

そういうものは、誰かにあげたのか〜と言っているから、
いま住んでいる家にはない

でも、なぜか家の話

68 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 02:47:55.75 .net
当時持っていたものなどは、
誰かに、あげちゃったのかな〜と言っているけど、
なぜか家の話なの、なぜだと思う?


現在そういったアイテム的なものは持っていない、
いま住んでいる家にはない・・・ただ、それだけの話


オマエ(不明)「あなた、なんていう名前の家なの?」

69 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 02:52:09.04 .net
>>65-68
川崎の重度統合失調症症患者「松傾」は今日中にに首を吊れ

前から何度も何度も繰り返し死ねと命令されているだろう?

むしろお前へのレスは「首を吊って死ね」以外にないじゃないか

なぜ素直に命令をを聞くことができないのか・・・

いくら無能な統合失調症症患者とは言え、日本語は読めるのだろう?

これだけ多くの者達に望まれているのだから

さっさとセルフ絞首刑を実行しろ

70 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 03:03:41.14 .net
あと本当に、この話なんだよな

『チョン州 長州』

こういうスレでも同じようなことを言っているし、
明治時代〜この頃にテキトーに?みたいな話


ちなみに家は長州?そういうところの出身ではない

71 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 03:13:39.63 .net
邪馬台国も同じような話だろう

あなたが何々さんの家の代表(何やらの権利、権限を持っている)、
きみが・・・、おまえがみたいにテキトーに決めた

72 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 03:34:12.10 .net
>>70,71
川崎の重度統合失調症症患者「松傾」は夜明け前に首を吊れ

前から何度も何度も繰り返し繰り返し死ねと命令されているだろう?

むしろ松傾へのレスは「首を吊って死ね」以外にないではないか

なぜ素直に命令をを聞いて死ぬことができないのか・・・

いくら無能な統合失調症症患者とは言え、日本語くらい読めるのだろう?

これだけ多くの者達に望まれているのだから

さっさとセルフ絞首刑を実行しろ

73 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 03:45:57.62 .net
                   ボコッ
   ウソツキは死んでも   . ,.'彡'・グフォニダ!
    治らねぇから半殺し ∧_∧';' ; ..  ∧_∧ 
         ∧∧/)、`二<ヽ;;゚`;;A´;;> ,;.゚. (´∀` ) 蹴っても 
        (#゚Д゚/^)∴;'|;';.'/.;' '´。 ::;:,(    つ 蹴っても 
        と  ´ //`W( ヽ(;;;((⌒ ̄ ̄ ̄_  )  ホラ吹くとか 
         (  ノ`´//  ヽ Y ノ''::;;;;::'''"´ ̄ヽ \ マゾかよwww
         (__)彡  〈フ_フ ドカッ\\   (__)

74 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 07:43:04.24 .net
>>57
一旦倭人(縄文人)が朝鮮半島に渡りそこから再び日本に戻って来たんだよ
それが渡来系弥生(現代日本人)で朝鮮半島で混血して従来の縄文系弥生人とは変わってた。

75 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 10:01:44.50 .net
〜最新の核DNA調査におけるニッポン人とチョンコ(別名:朝鮮ヒトモドキ)の差異はこれだけある♪〜


2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/UJZubVQ.jpg
https://i.imgur.com/2YKTJN4.jpg

弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/3uWM5cK.jpg


従来のY遺伝子D系統におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/mLgiqTd.jpg
https://i.imgur.com/1Yl4qgn.jpg
https://i.imgur.com/fQ7qJ4s.jpg
Y遺伝子(父系)のD2はアイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%、チョン半島0%


従来のミトコンドリアDNAならびにY染色体DE、O2b1とO2b*によるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/YlzY3cM.jpg

チョンコはミトコンドリア(母系)においてニッポン人女性と牝ヒトモドキに差異はないとホルホルするが、アジア全体で大きな差はない
また有史以来、チョンコロ半島の国々は貢ぎ物として牝ヒトモドキを大量輸出していた実績があり、その伝統は近年の第五種補給品まで続いていた
なおM7aがニッポン人女性の特徴と言える


結論:ニッポン人にとってチョンコは距離的には近くても血統的には非常に遠い存在

76 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 10:16:44.52 .net
>>75
コピペだろうけど
科学的な話には朝鮮ヒトモドキとか使わないほうがいいよ
説得力が一気になくなる

77 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 10:59:11.97 .net
>>76
歴史捏造や歴史歪曲による反日活動でしか自己の存在証明できない在日コリアンを科学的に罵り、貶めるのが目的だから故意に蔑称を用いてるんだと思われ。

78 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 12:05:29.35 .net
>>77
わかってるよ
それやると説得力はなくなるけどね

79 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 12:08:19.98 .net
発表元の信憑性は揺るがないから良いんだよ

80 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 13:42:02.22 .net
朝鮮民族がよくわからないのは小中華であるがゆえに日本より上という意識
実は朝鮮の歴代王室は銅印しか貰ったことがない。日本は金印を貰っている。
中国から日本は「日本鬼子」と言われるが最初に「鬼子」と言われたのは西欧人
中国人から力そのものは認められていた。朝鮮人は「高麗棒子」と言われ純粋に蔑みの
意味しかない。実は中華たる中国人にその文明を認められたことは一度もないのだ。
何故彼等がその朝鮮の歴史とその社会を誇れるのかは謎ではある。

81 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 17:52:43.35 .net
誇れないからこそ嘘の歴史を捏造して誇ってるんだろ

82 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 18:04:51.74 .net
>>81
間違いない
ヒトモドキ視点の古代史妄想を書いた馬鹿がその典型例

83 :日本@名無史さん:2019/05/08(水) 18:07:27.83 .net
無能ヒトモドキ視点からの古代史妄想(https://sites.google.com/view/jhistory/

詳しくは↓
【完全妄想】百済の「日本」Part. 6【くだらない】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1555328315/

84 :日本@名無史さん:2019/05/15(水) 02:37:37.02 .net
>>83
正式タイトルは
無能ヒトモドキ視点からの古代(誇大)妄想
らしいぞ(笑)

85 :日本@名無史さん:2019/05/15(水) 14:30:46.19 .net
>>84
知ってた

86 :日本@名無史さん:2019/05/16(木) 08:32:34.86 .net
伊都チョンも泡チョンも無能ヒトモドキも松傾も高天チョンも琉チョンも
普段は他の在日チョンコ同様日本人のフリして暮らしてるはず


何故か?


それはチョンコであることが恥ずかしいからに他ならない

そして日本人のルーツにチョンコが無関係だと理解してるからに他ならない


自ら恥ずかしい存在だという自覚があり
何一つ自信を持つことが出来ない惨めさから
朝鮮起源説や反日活動で精神勝利するしかない

チョンコとはそういう存在


  :_       ..、     ..__                           、___
  _jllll′   ョ- 4il||l     "lll'、     ‐ 、         _..-''lllliin 、    _ `''||ゞ'
 ,ョ广     ゙廴_j=冖゙゙'ll'、  .llll′     `||li    '''l 、  ,j广  l|!  "ll'、 、 __ョ=ョ 、  ,,_、 、 ..,,_
、l|′    :、_uil||l'  _ __'||l  |lll′      lll  _.   |ll'、:lll′ _lll′  lllll  ゙'il|l′ "lll|  ゙llll| l||l  l||l′ 
 'llL_    "'´ |ll、゙゙''冖′  lll      、  llll 〃  ..ulll!' ‖ ,jlll′  _|lll′     ||l   ゙llll ./゙l||| l||′
  ゙l||li、     |ll、      'll'、  ,__〃  ゙||lli    ゙゙  'l|l'′  ,,._lll′     ,,lll′   .|lll’ `'l|||′
   `il|l'      il|l       `'ill||lll''~    ~~        `  -‐'~~     ..l广     .`''  ゙''′


           ; ∧,_∧:   悔しいニダァァアーーッ!!!
           :<;l|l;`田´>;
           ;(6   9):
          :ム__)__)

87 :日本@名無史さん:2019/05/16(木) 13:56:23.47 .net
>>84
史が抜けてる。
正しくは「無能ヒトモドキ視点からの古代(誇大)史妄想」。

88 :日本@名無史さん:2019/05/17(金) 01:26:05.55 .net
漢帰義羌長

89 :日本@名無史さん:2019/05/17(金) 01:46:42.95 .net
急にどうした?

90 :日本@名無史さん:2019/05/18(土) 10:28:04.76 .net
漢委の金印とかバカなこと言ってるアホがいて笑う

91 :日本@名無史さん:2019/05/19(日) 00:08:37.40 .net
>>89
漢帰義羌長があるから
漢の倭の奴国王という読め方は間違いで
漢から委された奴国王が正解かと

92 :日本@名無史さん:2019/05/19(日) 00:19:58.80 .net
>>91
それもとうの昔に中国人研究者から否定されてたはずだが。。。

93 :日本@名無史さん:2019/05/19(日) 12:59:55.90 .net
>>92
そうだね

94 :日本@名無史さん:2019/05/20(月) 01:28:32.92 .net
>>92
どういうこと?
基本的に漢の倭の奴国王っていうのは日本独自の説で
中国の学者にはそう読む人はほとんどいないが

95 :日本@名無史さん:2019/05/20(月) 02:44:13.05 .net
>>94
中国人は漢,委奴国王と読むとしてる研究者が大半

96 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 04:58:43.57 .net
>>94
漢から委された奴国王なんて読むアホはいないってこと

97 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 13:22:24.23 .net
>中国の古代の印章のなかに「民族名+国名」の構造をもつ印章実例を
>一つも見いだしえないことは、通説「委」の「奴国」説の
>克服すべき難点であるとされている。 (Wiki)より

上記の点を考慮すると、漢の委奴国王と読むのが正しいのかも

98 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 13:24:36.44 .net
それな、俺もずっと委奴国王と思ってたわ

99 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 13:49:31.70 .net
>>97-98
つかそれが今の主流だろ

100 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 13:51:41.59 .net
『日本国王 足利』

この時代でも同じだ
と言ってる人がいたでしょ

101 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 13:56:21.88 .net
とあるスレを読んでみた?

秦人 漢人・・・、
むかーし日本(倭国?)に来ていたり

倭人ではない人々

102 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 14:03:58.38 .net
金印の時代は、奴国ではなく伊都国に王墓が作られた時代。
倭奴国が、卑弥呼の頃には伊都国と表記を変更していたのだろう。
伊都国の細石神社の金印にまつわる口伝が気になるところだ。

103 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 14:25:43.12 .net
「漢委奴國王」の印は倭奴国王、つまり倭国王の印
最後の所有者は漢末に倭王だった卑弥呼だと考えれれている。

104 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 14:28:58.69 .net
>>100>>101
川崎の重度統合失調症症患者「松傾チョンコ」は日暮れ前に首を吊れよ

何度も!何度も!何度も!

繰り返し!繰り返し!繰り返し!

「即死しろ!」と命令されているだろう?


むしろ松傾チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか

誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?


なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??


いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、

日本語くらい読めるのだろう???


これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから


さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ


日暮れ前に必ず実行しろ!

必ずだぞ!!!

105 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 14:31:26.64 .net
>>102
委奴国が分裂して委国(のちの伊都国)と奴国になった説が主流だな
あと、細石神社ネタはすでに終了済みだから諦めろ糸クズ小僧

106 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 17:48:06.44 .net
伊都国がワシントンD.C.で奴国がニューヨークですね。

107 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 17:49:39.27 .net
伊都国がヴェルサイユで奴国がパリですね。

108 :日本@名無史さん:2019/05/23(木) 18:11:20.63 .net
>>106-107
そういう解釈もアリって気がする

109 :日本@名無史さん:2019/05/25(土) 01:42:12.52 .net
もし副葬品とかあったときにほんとに紀元前の墓ですかね?ってなりかねんからねぇ

110 :日本@名無史さん:2019/05/25(土) 01:42:59.95 .net
書くスレ間違えた

111 :日本@名無史さん:2019/05/25(土) 01:45:53.43 .net
どこから来たんだ?

112 :日本@名無史さん:2019/05/25(土) 09:39:00.08 .net
継体天皇のときに王朝交代が起こったって本当?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1551164702/
ここに書こうとしたら間違えた

113 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 02:13:54.84 .net
ほーん

114 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 02:16:14.85 .net
>>112
そのスレの話?

ネタ、嘘のように思えるけど・・・
本当のことなんだろうwみたいになってきたでしょ

115 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 02:21:25.16 .net
>>114
川崎の重度統合失調症症患者「松傾チョンコ」は夜明け前に首を吊れよ


何度も!何度も!何度も!

繰り返し!繰り返し!繰り返し!

「即死しろ!」と命令されているだろう?


むしろ松傾チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか

誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?


なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??


いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、

日本語くらい読めるのだろう???


これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから


さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ

夜明け前に必ず実行しろ!

必ずだぞ!!!

116 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:02:14.41 .net
『葡萄鏡』の話とか

『デスラー』『』『』『』『』

同じ人物・・・・家の人でしょ

117 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:06:53.76 .net
『紫』

こういうのも調べてみた?

118 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:07:39.57 .net
>>116,117
川崎の重度統合失調症症患者「松傾チョンコ」は夜明け前に首を吊れよ


何度も!何度も!何度も!

繰り返し!繰り返し!繰り返し!

「即死しろ!」と命令されているだろう?


むしろ松傾チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか

誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?


なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??


いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、

日本語くらい読めるのだろう???


これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから


さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ

夜明け前に必ず実行しろ!

必ずだぞ!!!

119 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:18:00.54 .net
漢人というのは中国の人(中華)のことなんだけど、
こういう話とか、なぜ詳しいんだと思う?

『伊達の桃太郎』

120 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:22:17.73 .net
『紫』〜『道士』(仙人)の話も出てきたりw

121 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:24:22.08 .net
>道士は主に宮、道観、道院、廟、洞などと称する場所に住まい

何々の宮に住んでいる・・・天王宮?

122 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:26:58.62 .net
なぜか、いまの福島県のほうの話

『天王宮 山王院   』

『』と同じ家

123 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:28:32.19 .net
『天王』の意味、調べてみた?

124 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:30:49.41 .net
>>119-123
川崎の重度統合失調症症患者「松傾チョンコ」は夜明け前に首を吊れよ

何度も!何度も!何度も!

繰り返し!繰り返し!繰り返し!

「即死しろ!」と命令されているだろう?


むしろ松傾チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか

誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?


なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??


いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、

日本語くらい読めるのだろう???


これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから


さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ

夜明け前に必ず実行しろ!

必ずだぞ!!!

125 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:33:39.17 .net
妹・・・5月15日生まれ

兄、弟・・・w

なぜだと思う?

むかーし住んでいたというところ?いまの福島県・・・伊達郡?

126 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:42:45.13 .net
キュウリのような葉、葱の華・・・・、
あの写真の人の話、肉も食べなかったと言っていたりw


ホンモノの何かの家なんだろう・・・・?

127 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:47:07.37 .net
あと白い制服を着ている子供が写っていたでしょ

軍人とか、
そういう家ではないと言っていたしな・・・、
むかーし、山の上のほうに住んでいて・・・蚕、機織り・・・w

128 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:49:22.34 .net
>>125-127
川崎の重度統合失調症症患者「松傾チョンコ」は夜明け前に首を吊れよ

何度も!何度も!何度も!

繰り返し!繰り返し!繰り返し!

「即死しろ!」と命令されているだろう?


むしろ松傾チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか

誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?


なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??


いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、

日本語くらい読めるのだろう???


これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから


さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ

夜明け前に必ず実行しろ!

必ずだぞ!!!

129 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:52:27.12 .net
同じ名前の家(不明?遠い親戚?)でも、
実際は違うんだよな〜みたいな話なのかな、何なんだろう

130 :日本@名無史さん:2019/05/29(水) 03:58:12.09 .net
>>129
川崎の重度統合失調症症患者「松傾チョンコ」は夜明け前に首を吊れよ

何度も!何度も!何度も!

繰り返し!繰り返し!繰り返し!

「即死しろ!」と命令されているだろう?


むしろ松傾チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか

誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?


なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??


いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、

日本語くらい読めるのだろう???


これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから


さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ

夜明け前に必ず実行しろ!

必ずだぞ!!!

131 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 01:19:08.37 .net
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき

妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる

識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう

しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする


それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)

蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ

高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)

海人族スレでは摂津チョン

などスレ毎の呼称も存在する

最近では奥山と呼ばれることもしばしば


特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく

また聞き止める度量もない

そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる

132 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 01:22:03.87 .net
         真
    .言  実
    .わ   を
    .れ
 ハ  .て
 ラ  余
 が  .計
 立  .に
 つ

    ((⌒⌒))
ファビョ━ l|l l|l ━ン!!
    ∧_,,∧
 ((  ∩#`田´>  
    〉    つ )) 
    (,,フ .ノ 
     .レ'

133 :日本@名無史さん:2019/05/31(金) 12:58:31.45 .net
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき

妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる

識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう

しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする


それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)

蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ

高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカマ先生)

海人族スレでは摂津チョンコ

最近では奥山と呼ばれることもしばしば


特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく

また聞き止める度量もない

そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る

しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、

また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い

134 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 04:53:31.83 .net
>>96
中国では漢から委された奴国王って読み方が主流だが
中国の学者は馬鹿ってこと?

135 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 05:40:29.74 .net
                                 ウソウソ                  ウソウソ
息を吐くように嘘をつく .                   ウソウソ         ウソウソ       ウソウソ
                         .ウソウソウソウソウソウソウソウソ     ウソウソ      ウソウソ
  ∧_∧         ∧_∧      ウソウソウソウソウソウソウソウソ       ウソウソ     ウソウソ
 <丶`◇´>すぅ〜 . <丶`○´>はぁ〜 ウソウソ       ウソウソ        ウソウソ    ウソウソ
⊂    ⊃     .人 Y /      ウソウソ       ウソウソ              ウソウソ
 (>>134)      ( ヽ し                ウソウソ             ウソウソ
 〈_フ__フ      .〈_フ__フ              ウソウソ            ウソウソ
                                   ウソウソ           ウソウソ
                                  ウソウソ          ウソウソ

136 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 05:52:42.98 .net
オハヨー\(^o^)/馬鹿ども

137 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 06:02:29.95 .net
どこの池沼なんだ?
さっさと精神病院に行け、刑務所・・・自殺でも良い。

138 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 06:19:01.29 .net
>>137
川崎の重度統合失調症症患者「松傾」(笑)は午前中に首を吊れよ


前から何度も何度も何度も!

繰り返し繰り返し繰り返し!

「死ね!」と命令されているだろう?


むしろ松傾(笑)へのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか

誰にも相手にされてない=存在する意味がない!という事だ


なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??


いくら無知無能な統合失調症症患者とは言え、

日本語くらい読めるのだろう???


これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから


さっさとセルフ絞首刑を実行しろよクソ松傾!

午前中に必ず実行しろ!

必ずだぞ!!!

139 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 21:14:42.22 .net
韓国のオクキョン遺跡から見つかった水田跡は紀元前11世紀
一方日本最古の菜畑遺跡は紀元前10世紀なので1世紀ほど古い
菜畑遺跡から発掘された農具は韓半島と共通した大陸系磨製石器であった
日本の稲作が半島から伝来なのは間違いなく確定事項

140 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 21:49:45.58 .net
チョンコロはソングンリ遺跡もマジョンリ遺跡もロシアの調査団が炭素年代測定するまで紀元前10世紀にだ!ってホラ吹いてやがったからオクキョンも信用に値しないんだよな。

141 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 22:18:38.26 .net
そもそも玉峴(オクヒョン)遺跡をチョンコロどもが紀元前11世紀だと主張してる根拠は
孔列文土器と突帯文土器がほぼ完全な状態で発掘され、周代のそれに酷似していると言い張ってるからだけであって
中国、日本、ロシアが科学的検証の提案や共同研究を申し入れても全て拒否してる状態なんだよな

>>139の「菜畑遺跡から発掘された農具は韓半島と共通した大陸系磨製石器であった」なんてまるっきりの嘘だし

142 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 22:22:36.73 .net
〜チョンコ(通称:朝鮮ヒトモドキ)ショック死?! 半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜


朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、
A半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米が九州島由来であることです。
なお、北部は遼河文明領域であり、ウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。

寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。

北緯36度線の壁によって倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかった
ツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。

https://i.imgur.com/cL5IUF5.jpg

百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。

その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。

高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。

143 :日本@名無史さん:2019/06/01(土) 23:32:53.42 .net
朝鮮半島の被支配民族の考えだな

144 :日本@名無史さん:2019/06/02(日) 05:24:41.73 .net
馬鹿ども\(^o^)/オハヨー

145 :日本@名無史さん:2019/06/03(月) 16:31:17.35 .net
  _人人人人人人人人人人人人人人人_
  >   チョンコロがいるぞ殺せ!!  <
    ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
              倭人
           三 ( ´・ω)
          三 ー(‐∪─→
      三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
    三三 | ナウマン象U ・ |         死にたくないニダ!!!
     三 と|        ι| |         三┏<;`Д´ >┛
     三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U         三   ┛ ┓

146 :日本@名無史さん:2019/06/04(火) 04:16:53.68 .net
       | []_]∧∧
       |   | |/ 支\
       |     ( `ハ´) < 餌の時間アル
       |   ヽ( つと)    
       |ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
       | ブリッ )し'し'  |~~~|
       |    ⊆=⊇   ̄゛ 
        ̄ ̄ ̄|  | ̄ ̄ ̄ ̄
             |  |
             |; : |
             |●|
ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
   |.  ∧_,,∧   .人.    |
   | <ヽ`∀´>  (__)  .....|
   |:::(つ=  ) \   /:::::::|
   __∧___ ̄
  待ちわびたニダ♪

147 :日本@名無史さん:2019/06/04(火) 22:11:23.42 .net
何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき

妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる

識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう

しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする


それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)

蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ

高天原スレではカマチョン、海人族スレでは摂津チョンコ

最近では奥山と呼ばれることもしばしば

特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく

また聞き止める度量もない

そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る

そして突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない

しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、

また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い

148 :日本@名無史さん:2019/06/05(水) 21:11:30.22 .net
https://i.imgur.com/jW34oth.jpg

149 :日本@名無史さん:2019/07/14(日) 15:52:54.22 .net
個人的見解を言わせてもらうと
真正品を真似て作った贋物

それに遺構もないので考古学的には無価値に等しく
また手軽に持ち運べる点で出所が定まらないということを指摘しておく

150 :日本@名無史さん:2019/07/14(日) 18:04:25.56 .net
後漢書に倭奴国に金印を下したと書いてあるから漢の倭の奴国王印
倭が委になってるのは倭だと小さいという意味になるから人偏を取って
贈答品だから委ねるという好字にしたため

151 :日本@名無史さん:2019/07/14(日) 21:46:01.69 .net
金印がでた場所からして
奴国は糸島周辺なんだろうね

152 :日本@名無史さん:2019/07/14(日) 23:34:10.34 .net
倭奴国=伊都国

153 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 00:53:53.68 .net
じゃあ奴国は「とこく」と読むわけですね

154 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 01:10:05.59 .net
委奴国が委国と奴国に分裂したってのが現在の定説だろ
委国は後の伊都国

155 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 06:10:49.61 .net
そんな定説あったっけ?

156 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 08:06:07.32 .net
ライフスペース的な定説なんだろ

157 :おぽかたぱるこ:2019/07/15(月) 09:34:15.68 .net
満州先生のご本が絶賛発売中です。

「馬韓も百済も満州にあった」

邪馬台国論争を解く上でも必読本です。

158 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 09:54:05.09 .net
伊都国がワシントンD.C.、奴国がニューヨーク。
あわせて倭奴国、筑紫の日向、倭国の王都。

159 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 14:14:24.24 .net
魏志倭人伝に伊都国は伊都国と出てくる
奴国は奴国
委奴国なんて存在しないのさ
そもそもイトと読めないし

160 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 14:32:22.54 .net
読めるじゃん。

161 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 15:03:44.33 .net
「漢委奴国」は、漢に隷属する古の罪人の国という意味になる
小中華思想の李氏朝鮮通信使が非常に高く評価した亀井魯が
其始高麗人住せり唐人町の福岡藩西学問所の館長となった22日後に
志賀島で発見したと届出された金印を鑑定したが出土地、状況は不明
魯は不審火により焼死し、西学問所の教官は解職された

162 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 15:27:11.15 .net
朝貢の印を有難がる国賊ばかり・・

163 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 16:45:51.09 .net
無理に読めばイドになるけど

164 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 16:48:39.53 .net
>>162
現代の国会議員も中国に喜んで尻尾振ってるだろ

165 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 17:35:29.09 .net
>>159
委奴国=委国=倭国
後漢書にも魏志倭人伝にも奴国王なんて出てこない
倭国王しかいない。

166 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 17:37:40.12 .net
>>154
王都たる伊都国と庶民の住む奴国

167 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 18:28:04.62 .net
明らかに倭国が九州であることの証拠だよ
いにしえの倭王は九州にいた

168 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 20:14:13.08 .net
倭国大乱の時代だから倭の王は九州に限らずそこら中にいたんじゃない

169 :日本@名無史さん:2019/07/15(月) 21:38:27.58 .net
>>165
魏志倭人伝は後漢より200年は後のこと
後漢書に金印を下したと出てくるのは倭奴国
委奴国じゃなくてね
よって金印は倭の奴国に与えられたもの

170 :日本@名無史さん:2019/07/16(火) 00:54:29.20 .net
>>161
あっ 察し
やっぱ149だわ

171 :日本@名無史さん:2019/07/16(火) 01:03:55.52 .net
江戸時代でも漢晋印章図譜 王厚之編などの書物は入手可能で
好事家たちの手によって作れる可能性を探ってみたが
鈕の形の蛇はどうも難しい

印字の部分は書物を調べれば作れそうではあるが
やはり真物を模倣して作ったと考えるのが自然

ただ封泥に使用するため彫り方が不味い
だから贋物

172 :日本@名無史さん:2019/07/16(火) 01:06:36.23 .net
>>163
無理過ぎる

173 :日本@名無史さん:2019/07/16(火) 02:42:55.57 .net
>>168
筑紫を取った者が倭王を名乗った。
椅子取りゲームのようなもの。

174 :日本@名無史さん:2019/07/28(日) 12:42:00.32 .net
【歴史】国宝「金印」2000年前の輝き。研究者、同じ技法で再現
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1564265463/

175 :日本@名無史さん:2019/07/29(月) 20:09:52.57 .net
漢のイトコク王

176 :日本@名無史さん:2019/07/29(月) 23:25:16.84 .net
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。

177 :日本@名無史さん:2019/07/29(月) 23:25:39.02 .net
卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は誰が書いてもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。

178 :日本@名無史さん:2019/07/30(火) 00:17:01.83 .net
そもそも倭王じゃないし

179 :日本@名無史さん:2019/07/30(火) 11:56:45.20 .net
国書送ってたのにその後数百年国内文書ろくに残って無いのは不思議だよな

180 :日本@名無史さん:2019/07/30(火) 13:13:54.05 .net
8世紀初頭に焚書したから。

181 :日本@名無史さん:2019/08/01(木) 11:52:56.30 .net
>そしてその印は福岡県にあった。
>最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。


と、思わせるための偽造だろうな。

182 :日本@名無史さん:2019/08/01(木) 14:35:38.57 .net
日教組に騙されてはならない

183 :日本@名無史さん:2019/08/01(木) 17:13:06.26 .net
漢から委ねる奴国って読みかもしれない

184 :日本@名無史さん:2019/08/01(木) 17:33:39.18 .net
もっと漢文を勉強しろ

185 :日本@名無史さん:2019/08/02(金) 10:33:52.87 .net
漢文を勉強した人が集まっても解明できてない

186 :日本@名無史さん:2019/08/02(金) 13:31:26.82 .net
間違いは分かるよ

187 :日本@名無史さん:2019/08/02(金) 20:00:13.48 .net
中国の考古学者は漢からではなく 漢に委ねる奴国王 と解釈している。
1954年発掘の銅印に 漢帰義羌長 がある。 これは漢の字があの金印
と全く同形で、同時期の後漢の印だ。 これは 漢に帰義する羌族の長
となる。 金印は何故帰義ではないのか、二文字では印面が混雑するので
同じような意味になる一文字の委とした という解釈。

188 :日本@名無史さん:2019/08/02(金) 21:21:26.54 .net
>中国の考古学者は漢からではなく 漢に委ねる奴国王 と解釈している。

具体的に誰?

189 :日本@名無史さん:2019/08/03(土) 11:17:10.81 .net
>>187
このほうが納得できる。帰義、委など漢字の違いで格の違いを表すとか何かで読んだ

190 :日本@名無史さん:2019/08/03(土) 12:12:59.62 .net
>>187
国の名前は奴国だと?

191 :日本@名無史さん:2019/08/03(土) 13:32:57.62 .net
「委」
説文解字では、付随する、従う、という意味
https://www.zdic.net/hans/%E5%A7%94

192 :日本@名無史さん:2019/08/03(土) 22:23:04.01 .net
だから東夷のなかで従順なのが倭だろ

193 :日本@名無史さん:2019/08/03(土) 22:27:32.56 .net
当時、委ねる、という意味はないんだろ

194 :日本@名無史さん:2019/08/03(土) 22:35:02.31 .net
『続漢書』百官志によれば、蛮夷には、
「国王」「率衆王」「帰義侯」「邑君」といった規模等により称号が与えられた。

195 :日本@名無史さん:2019/08/03(土) 22:43:25.23 .net
四夷國王、率衆王、歸義侯、邑君、邑長、皆有丞、比郡・縣。
(『続漢書』百官志五)

196 :日本@名無史さん:2019/08/04(日) 09:00:57.07 .net
贈答品だし倭だと小さいという意味になるから委ねるという好字にした

197 :日本@名無史さん:2019/08/05(月) 15:27:51.56 .net
ゆだねるくらいの意味はあったと思うけど
用法として国王に使うかどうかわからんが

198 :日本@名無史さん:2019/08/16(金) 13:05:18.95 .net
漢委奴国王 金印 part3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1557153670/

↑より前スレを踏襲している当スレに統合しましょう
色んな人の様々な意見が分散するのはもったいないと思う

199 :日本@名無史さん:2019/08/16(金) 14:15:25.06 .net
どっちだよ。

200 :日本@名無史さん:2019/08/16(金) 14:54:18.76 .net
>>199
文盲かよw

201 :日本@名無史さん:2019/08/16(金) 16:42:48.98 .net
舛添だっけ?ペキンからハンコをもらって帰ってきた都知事は。

あれは朝貢外交の印(しるし)だ。

202 :日本@名無史さん:2019/08/16(金) 16:50:28.29 .net
伊都高祖宮の近くには先代の男王の祖である三雲南小路遺跡とその宗廟であり漢委奴国王印(金印、倭王の国璽)を管理していた細石神社がある。
そして倭国大乱より後の年代の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、そこを支配するのが伊都に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国である。
そして三雲南小路遺跡が邇邇芸と木花咲耶姫の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、高千穂宮の実体だろう。

203 :日本@名無史さん:2019/08/16(金) 18:36:39.52 .net
こっちが本スレ

204 :日本@名無史さん:2019/08/16(金) 20:17:55.96 .net
荒らしスレ

205 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 01:11:01.09 .net
>>202
細石神社ネタはとっくに破綻してるんだから諦めろん

206 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 02:13:27.11 .net
ともかく朝貢の証しを大事にしてちゃアカン

207 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 02:42:39.42 .net
当時のアジアは中華王朝を中心に存在しとったんやから、必要以上に卑下せんでもええんやで

208 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 08:29:53.34 .net
実際に細石神社の遺跡は弥生時代では平原遺跡と双璧となる王墓だからな。
後漢との繋がり、後世の王権につながる三種の神器など。

209 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 08:31:09.55 .net
>>205
破綻というよりは証拠不十分なだけ。

210 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 08:43:30.95 .net
>>208
三雲南小路遺跡と細石神社に因果関係があるのは間違いないが、そこに金印をつなげようとするのは糸クズの願望でしかないって話だろ

211 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 09:35:17.46 .net
>三雲南小路遺跡と細石神社に因果関係がある
いや、これすら妄想

212 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 12:43:53.58 .net
>>210
三雲南小路の年代は金印を貰った年代にほぼ一致する。
その被葬者が金印の持ち主であった可能性はある。

213 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 12:56:02.04 .net
妄想の上に妄想を積み重ねても妄想であることは変わらない

214 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 13:14:22.94 .net
>>212
ねぇよ無能

215 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 13:19:06.40 .net
>>212
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない。

216 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 13:52:36.39 .net
後漢鏡の編年でわかるだろ。

217 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 13:55:24.53 .net
>>216
ねぇよ無能

218 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 13:56:56.58 .net
考古学者の編年を無視するのかね?

219 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 13:57:32.49 .net
甕棺が出てるだろ

220 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 13:59:02.28 .net
>>216
後漢鏡が出土してるのは井原鑓溝遺跡だろ無能

221 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 13:59:18.39 .net
>>219
推定だろ無能

222 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 14:00:11.35 .net
三雲南小路遺跡と出土品の年代測定は実施されたことはない。
それが客観的事実。

223 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 14:04:01.04 .net
結論から言うと
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない

224 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 14:20:32.70 .net
考古学の編年は無視ですか?

225 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 14:23:06.85 .net
>>224
結論から言うと
三雲南小路遺跡は年代測定されてないのだから金印と同年代だというのは糸クズの願望でしかない

226 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 21:31:27.37 .net
古文書を読んでたら、「長崎古今集覧付録名勝図絵」という文政年間発行の文書の中に金印の図絵が載っているらしい。
長崎の神崎神社に金印が宝物とされていたらしいが、天明年間に行方不明になったそうだ(なんと神社の地区一体は黒田藩
の警備地区だったとか)
つまり、黒田藩謀略説成立かも

227 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 21:40:24.55 .net
伝説としては、訳の分からんものが残っているようだ

長崎県の神崎神社に神功皇后が三韓討伐で手に入れた金印を長崎に持ち帰った」伝説があり、
その長崎の金印が江戸時代に突如紛失した後に志賀島で発見されたので江戸時代に長崎から福岡に移された

http://blog.livedoor.jp/jingu2675/archives/1047527493.html

228 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 22:04:22.54 .net
「神崎社珍宝形状図説明書」 「長崎古今集覧付録名勝図絵」中のものか不明

「黄金蛇紐漢ノ倭奴國王ノ印一顆
 此金印神功皇后三韓時に持帰らせ給う所當社の珍宝として世々傅へ来りしに何のころにまがひ失せけん・・・
按ずるに此印の文字・・・滋賀島土中瓦石の下より出せしといふ金印と少しも異なることなし・・・・・・」

229 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 22:14:56.18 .net
まあ一緒に神功皇后の「懐懐石一塊」も珍宝となっているところがあれなんだが。。。

230 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 22:27:33.76 .net
うわあ、由来は激しく怪しいなあ。
しかし逆にそれ以前の何かを隠そうとした意図も伺える。
場所は長崎の入り口の要所と見た。
ただ、倭国の中ではあるけれども、非常に中心から離れているのが気になる。

231 :日本@名無史さん:2019/08/17(土) 22:33:57.17 .net
江戸時代の文献がある時点で細石神社の100万倍はまし

232 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 00:17:50.02 .net
細石神社は伝世の事実を隠そうとしたとされているからね。
文献など見つからなくて当然。
しかし伊都は倭国の王と出会ったのであれば、そこに金印があっても不思議ではない。
神崎神社であれば、そこが倭国にとってどのような場所であったのかを考察する必要がある。

233 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 01:44:56.28 .net
糸クズスレ見て来いよ
細石神社は古田の希望的観測であり、糸クズの願望でしかない"ネタ"だって即座に分かるから

234 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 04:34:47.66 .net
>>233
ほんそれ

235 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 08:40:51.53 .net
神崎神社って1680年創建とか。。。
https://artworks-inter.net/2019/04/26/post-6045/

236 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 08:55:47.62 .net
こっちでは弥生時代からあると言われとる
https://travel-star.jp/posts/6554

237 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 09:13:33.90 .net
見つけた

上部左ページにあるのが、長崎名勝図絵にある黄金印の図絵だ
https://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/66427625.html

「由緒は古い神社であるが、永年荒廃していたのを、正保4年(1647)長崎の内田治郎助宗貞という者が、
旧記を調べ旧址を尋ねて、船魂猿田彦大神、住吉大明神を祀る小祠をここに建てた。・・・」

238 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 12:31:26.05 .net
インチキ臭さが細石神社ネタ並みやんけ

239 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 12:47:41.87 .net
まあ、歴史学に対して真面目に興味持っていたら
こういう縁起・伝承の後付け・改変なんて
珍しくないことくらい知っているだろう
だから、神社の縁起では〜とか土地の伝承が〜とか
主張すると鼻で笑われることになる

細石神社は記載史料がない時点で
歴史学以前の噴飯ものだけどね

240 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 13:00:51.38 .net
金印が見つかってから、実はうちに前からあって。。。とかいうパターンぽいね

241 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 13:02:42.97 .net
長崎のは亀井のサルマネしただけだろうな

242 :日本@名無史さん:2019/08/18(日) 13:05:50.03 .net
細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。

243 :日本@名無史さん:2019/08/19(月) 13:53:42.42 .net
江戸時代は出版業界盛んで、各地名所旧跡観光案内は人気ジャンルだった。
中身は洒落本と同じネタ本で、歴史考古学の文献てもんじゃない。
長崎はもちろん学者文化人に人気の場所で、その頃金印の発見は学者文化人には
ビッグニュースだった。 で 長崎と志賀島はちょと離れとるけど、金印は古代九州のこと
なんでネタ書き出版した。 うそ書いても誰も問題にしないネタ本だから

244 :日本@名無史さん:2019/08/19(月) 14:12:30.12 .net
結局、志賀島を拠点に持っていた安曇が倭王だったってことだろ

245 :日本@名無史さん:2019/08/19(月) 15:25:41.63 .net
>>244
それだとアメ姓を自称した倭王と矛盾してしまう。
やはり通説通り安曇は初期段階の海人王で次第に主権を住吉に取って替わられ、全国に散り散りになった悲劇の海人族と見るべき。

246 :日本@名無史さん:2019/08/19(月) 15:38:55.09 .net
どうせ全員海人族。
その中で最も優勢だった者が倭王。
倭人はそれぞれに皆が王を自称していたんだっけ?

247 :日本@名無史さん:2019/08/19(月) 15:41:48.50 .net
志賀島にいたのだから、倭王とは綿津見、大山祇兄弟のことであろう。これは兄弟相続の典型でもある。
天孫降臨に際してニニギは大山祇の娘を娶るが、先代の王家からの女系相続とも取れる。

248 :日本@名無史さん:2019/08/19(月) 23:36:25.39 .net
>>247
後半が強引すぎだな

249 :日本@名無史さん:2019/08/19(月) 23:59:07.62 .net
志賀島にあること自体が不思議なんよね
わざと持ち込まれたのか持ち出す途中に落としたのか

250 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 00:44:35.70 .net
通説では支石墓のようなものの下に箱に入っていたんだ。

251 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 01:24:28.73 .net
>>249
不思議でも何でもないだろ

252 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 09:50:38.34 .net
>>248
どこが強引に感じるのでしょうか?
筑紫において天孫は外から来た婿であり、一貫して筑紫にいるのは志賀島の一族の方なんですよ。
しかもその後も同じ一族から婚姻しています。
記紀は男系社会になってから書かれているのですが、実は志賀島の綿津見王家(豊国王家)は日向三代と並行して女系相続をしているのです。

253 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 11:19:46.48 .net
>>252
根拠のない妄想だから強引なんだろ
目を覚ませ

254 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 11:43:56.96 .net
既存の史書の内容をまとめただけですよ?

255 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 11:48:37.21 .net
>>254
根拠のない妄想だから強引なんだろ
目を覚ませ

256 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 11:51:25.39 .net
贋作にここまで熱狂するとは・・世界じゅうの笑いものw

257 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 11:53:08.55 .net
>>255
具体的にどこがおかしいか指摘してください。

258 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 12:07:14.96 .net
>>257
馬鹿か?根拠が一切ない妄想だろマヌケ
さては・・・

               , -――- 、
              /       ヽ
              | ノ  ー    |   
              |(・) (・)   |
 お前チョンだろ?  |  (      |
              ヽ O    人
               >ー-― ´   ̄ ̄\
  ⊂ニニ ̄ ̄ ̄ヽ  /              |
     くメ) _ノ  |  |  |        |   |
       (/  |  | /  |        |   |
          |  |/  /|        |   |
          |  ト  / |        |   |
          ヽ__/ |        |   |

259 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 12:20:25.66 .net
志賀島からは金印だけしか出てないのがおかしいんやろ

260 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 12:29:04.79 .net
全国の海神社の総本社が現存しとるやんけ

261 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 14:11:04.32 .net
志賀島の古墳から三種の神器のセットが出てきたりしないのかな、ということだろ。

262 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 17:06:47.04 .net
出てこないでしょ
アマテラスじゃないんだから

263 :日本@名無史さん:2019/08/20(火) 17:11:24.97 .net
>>261
時代が違うだろ(笑)

264 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 13:06:08.51 .net
神社に金印て置くものなのか

265 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 13:31:44.64 .net
博物館があった時代じゃないからね。
それ以外のどこに置く?

266 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 13:35:24.44 .net


267 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 15:20:51.12 .net
それでは使うときに使えない。
大事に保管するなら、弥生時代だと高床式の建物に安置して、目印に鳥居を立てたりするだろうね。
今日では神社と呼ぶのだろうけど。

268 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 16:17:22.07 .net
親魏倭王印をもらったからもう使わないんだよ

269 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 16:20:45.17 .net
普通に考えれば王都か大規模集落内に置くほうが実用的だと思うけど
この時代の印は祭祀儀礼用というより外交用途のためで印を祀るようなことをするんかね

270 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 17:21:30.42 .net
>>269
大事に保管することを祀ると呼んだのではないかな。
実質的に同じことだから。

271 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 17:24:17.43 .net
志賀島にあったのであれば、そこが王都であった時期があった、志賀島の海人族が倭王であった証拠。
伊都にあったなら、細石神社が祀る三雲の甕棺墓(三種の神器入り)の主が倭王だったということ。
長崎にあったなら、長崎の海人族が倭王だったということ。

272 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 19:03:54.33 .net
志賀島は110年〜倭国大乱時に追い込まれた、倭王の墓が有った。
ではないのかな?

107年以降238年迄は、日中外交が無い。
双方大乱である。

卑弥呼就任の190年、奇しくも公孫氏遼東王就任が189年だが、
公孫氏以降は中華ではなく公孫氏対卑弥呼の中原朝貢遮断での四郡外交である。

トンデモの 卑弥呼=公孫氏説は、検討価値はある。

273 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 19:16:48.95 .net
倭国乱の前、7,80年は男王がいたのだから、それだと志賀島に卑弥呼がいなくてはならなくなる。
卑弥呼を公孫氏にしたいのなら、順番として、公孫氏が実権を握る<その影響で九州でも公孫氏系の権力者を立てる、の順番になるはずであり、同時期という時点で逆に消える話。しかも公孫氏がそこまで影響力を持っているなら間の馬韓も公孫氏で塗りつぶされないとおかしい。

274 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 19:44:38.54 .net
公孫氏と強い関係があり、それが魏志倭人伝には記載されなかっただけという可能性は高い。
ただイコールはないな。
それなら魏は邪馬台国も冷遇したはずたからだ。
卑弥呼はあくまでもうまく立ち回っただけ。

275 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 19:56:54.64 .net
公孫氏はあきらめろw
一瞬の打ち上げ花火で前後になーんの利権もないぞwww

276 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 21:55:59.52 .net
国王印は引き継ぐものだから墓には入れない  戦争の時はどこかに隠す
奴国が負ける 隠した奴が死ぬとどこに隠したか分からなくなる

277 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 22:44:15.06 .net
奴国が負けたなどと言う歴史はない。
ただ、天孫降臨が後漢の頃の話なら、志賀島の王家の娘と高天原の王家の若者の婚姻があったのだろう。

278 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 22:55:43.39 .net
現に墓から金印等いくつか出てるし

279 :日本@名無史さん:2019/08/21(水) 23:16:21.19 .net
奴国王が墓に入る前に戦争が起きて隠したんだろ
金は腐食しないから
石の上にも三年、石の下には千七百年あたためられて良かったじゃないか

280 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 03:10:35.15 .net
>>271
細石神社の金印ネタは古田の願望であって現実ではない

281 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 07:29:56.98 .net
>>279
奴国にはそんな戦争は記録にない。

282 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 08:56:53.08 .net
まず本物という前提で考えると
倭国大乱の時期に奴国の王都から金印と共に逃げたけど志賀島でやられた
その際に”神社”に隠したか地面に埋めたかってのが無難そう

283 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 09:27:53.16 .net
倭国大乱でも奴国は戦場にはなっていなかったようだ。
主戦場は筑後平野だろう。

284 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 10:29:03.18 .net
神社に置いたら隠したことにならんだろ  その頃は卑弥呼など王の住居が神の祭壇で
お告げ聞いたんだ 独立した神社建築は無かった

285 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 10:40:55.19 .net
大前提として伊都国は世々王がいる諸国の一つであって女王国ではないということを忘れてるだろお前ら

286 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 12:02:08.30 .net
漢委奴国王印は女王の共立より前の話だからね。
邪馬台国について話しているわけではない。

287 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 12:03:30.34 .net
>>284
というか、祭られる側に王がいたんだろ。
神社の本殿が住居で、拝殿が執務室みたいなもの。

288 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 12:13:16.21 .net
当時はそもそも神社に「社」なんてないだろ

289 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 12:15:20.04 .net
宮だな。

290 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 12:32:08.92 .net
妄想が捗るなぁ

291 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 12:36:10.57 .net
いわゆる神社ってのは
古代祭祀の場で沖ノ島のあんな場所や、三輪山のあんな風景やろ

292 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 12:39:52.00 .net
祭祀場とは別に、宮には宮様が住んでいたんだよ。
神社の起源は一通りではないのさ。

293 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 12:54:13.46 .net
>>288
建物の意味での社は無くとも神のいる場所の意味での社はあった

294 :日本@名無史さん:2019/08/22(木) 13:21:30.40 .net
ご神体が山全体とか奇岩岩とかね

295 :日本@名無史さん:2019/08/23(金) 11:16:24.01 .net
各地で信仰の形態は異なってたろうね
それが時間とともに神社とよばれる全国統一形式になってったろうし
巨石とか山そのものとかは古代信仰の典型でとても面白い

296 :日本@名無史さん:2019/08/23(金) 11:58:40.91 .net
九州北部の祭祀を見ていると、巨石でも岩上祭祀などのように、首長がその上にいた形跡がある。
山とかもそうで、そこを流れる川の川上から首長が見下ろしていたようだ。
岩そのもの山そのものを信仰の対象とするのは、少し経って首長層が入れ替わった後に祭祀だけ形骸化したためではないのか。

297 :日本@名無史さん:2019/08/23(金) 12:01:35.37 .net
記紀の高天原の描写を読むと、磐座の上に宮がそびえていて、そこにアマテラスがいたように読める。
沖ノ島の岩上祭祀はその名残なのではないか。
原始信仰というのは、支配の形態を今に伝えている可能性がある。

298 :日本@名無史さん:2019/08/23(金) 15:33:10.30 .net
社という字は見たまんま示編に土なんだから「神のいる土地」
そこに建物を建てるようになったからその建物も社と呼ぶようになったわけだ

299 :日本@名無史さん:2019/08/23(金) 16:25:11.56 .net
今は宮の話をしている。

300 :日本@名無史さん:2019/08/24(土) 10:42:50.63 .net
偽造の黒幕は本居だろうな。
本居の熊襲の女酋長が卑弥呼を名乗ったという説とも一致する。
おそらく亀井と書簡をやり取りしていたと推測する。

偽造の理由は「中国に朝貢してたのは九州の小国であり大和朝廷ではない」というもの

301 :日本@名無史さん:2019/08/24(土) 17:06:09.62 .net
フェイクニュースで黒幕はり地域のお前だろw

302 :日本@名無史さん:2019/08/25(日) 12:54:23.01 .net
             /)
           ///)
          /,.=゛''"/         チョンコの言うことなんて
   /     i f ,.r='"-‐'つ____   テキトーに論破しときゃ良いんだよ
  /      /   _,.-‐'~/⌒  ⌒\
    /   ,i   ,二ニ⊃( ●). (●)\
   /    ノ    il゛フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
      ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |
     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /

303 :日本@名無史さん:2019/08/26(月) 10:00:32.80 .net
金印はたぶん本物だろうけど発見場所=王都王宮とは結びつかないとは思う

304 :日本@名無史さん:2019/08/26(月) 10:14:56.63 .net
王宮ではないけれど、王都だろ。
倭奴国は博多湾沿岸の奴国、那の津に比定するのが一般的。

305 :日本@名無史さん:2019/08/26(月) 11:55:49.46 .net
>>303
根拠のない願望の垂れ流しじゃ糸クズと同類になるぞ

306 :日本@名無史さん:2019/08/26(月) 19:08:10.23 .net
>>305
り地域のキナイコシさん、悔しそうw

307 :日本@名無史さん:2019/08/26(月) 20:37:37.55 .net
アメリカも日本重視
古代中国も日本重視

対馬を侵略すると宣言している国にとっては
金印が目障りなんでしょうなあ

308 :日本@名無史さん:2019/08/27(火) 02:41:12.99 .net
steam

309 :日本@名無史さん:2019/08/27(火) 23:26:27.03 .net
>>285
伊都国には世王(魏の世)がいた
王とは女王卑弥呼
女王国とは伊都国と奴国のこと。

310 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 00:27:51.01 .net
同意

311 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 07:34:41.84 .net
>>309
>女王国とは伊都国と奴国のこと

偏狭な地域主義。
卑弥呼は記紀に登場するし、大和朝廷発祥地にいた。
神武の時代が実は女王国。

312 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 07:48:47.37 .net
妄想

313 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 10:08:30.13 .net
応神天皇4世紀末、崇神天皇4世紀前半、
それ以前の王権の痕跡は複数の式内・名神大社がある葛城にしかない。

その王朝の墓は魏志倭人伝の通り「棺あり 槨なし」だから、
副葬品として印が出てくるという事はない。

あるとすれば神社に神宝として引き継がれてるのではないだろうか。

314 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 12:06:59.35 .net
>>309
伊都国は女王国に属している諸国の一つと魏志倭人伝に明記されてるぞマヌケ

315 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 13:39:28.45 .net
>>311
卑弥呼は記紀に登場しないよ?
>>314
魏志倭人伝にそんな記述は無い。

316 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 14:04:47.19 .net
>>315
文盲すぎて話にならん

317 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 14:08:08.14 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

318 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 14:34:23.10 .net
>>315
>卑弥呼は記紀に登場しないよ?

登場するよ、
神武東征紀に隠れてるから気づいてないだけ。

319 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 15:54:13.51 .net
おまえもな

320 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 16:01:18.83 .net
>>317
>常に伊都国を治むる。

わざと誤訳してるのか?
常に伊都国に治むる。
一大率は伊都国で治めていると書かれている。

>>318
具体的にどこ?

321 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 16:31:11.36 .net
なんだ朝鮮ヒトモドキか・・・
 
 
朝鮮ヒトモドキ三種の神技

記憶喪失(論破されても半日で忘れる)

文盲病(前後の文脈や論の大局を読めない)

チョンコロ目(見たくないものは見えず、見たいものは捏造してでも見る)

322 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 16:33:22.81 .net
>>320
王がいるのに一大率が治めてる国ってどんだけ骨抜き国なんだよ。

323 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 16:36:26.39 .net
王と言っても倭王じゃないからな

324 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 16:46:11.98 .net
オイ、糸チョンコ!頭ン中を見せてみろ!
   ∧_,,∧   パカッ  __,,
 。゚( ゚^∀^゚)゚  彡  ∨ ∨
  / つ#`Д´>  ヤ、ヤメルニダァ
  (  ( つ  O
  し' と_)_)


  アハハハハハハハハハハ
   ∧_,,∧  クサッ、コイツ、人糞が詰まってんぞ!
 。゚( ゚^∀^゚)゚  
  / つ#`Д´> み、見るなニダ!
  (  ( つ  O  
  し' と_)_)   ∧_,,∧
           

なっ、本当だろ!
   ∧_,,∧   ∧_,,∧ アハハハハハハハハハハ
 。゚( ゚^∀^゚)゚ ( ゚^∀^゚)゚。 マジで人糞じゃん!クサッ
  / つ#`Д´>⊂  ヽ  だから妄想しかできねぇんだw
  (  ( つ  O   )    つーかクッセーなオイ!
  し' と_)_)  し´  ∧_,,∧

325 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 16:58:20.09 .net
>>322
内務大臣みたいなものだろ。
卑弥呼が自分で陣頭指揮をとったりはしない。

326 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 16:59:28.13 .net
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:T帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)

大率は高位の中央官僚であり、都から出かけて地方を検察する様子が魏志倭人伝において刺史のようだと記載されているのである。
大率そのものが置かれた伊都が倭の王都である。
魏志倭人伝においては、女王国以北すなわち倭の生命線とも言える対馬海峡を検察していたと書かれている。

ところでスレ違いでは?

327 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 17:02:17.25 .net
左平が卑弥呼の弟のような側近で実権を握りうるけど、官位としては大率が最高位なのだろう。

328 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 17:40:02.43 .net
古代史って結局邪馬台国論争に行き着く
キバヤシがノストラダムスに行き着くのも納得できる

329 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 18:18:11.71 .net
卑弥呼が初めて魏に国書を送るとき、それが倭王からの国書であることを証明するのは後漢の発行した印による封泥となる。
魏は後漢の禅譲を受けて外交プロトコルを継承しているから、魏に対しても後漢の金印は国璽として通用する。
文書は官僚による代筆でもいいが、印をするのは王の仕事だ。
そしてその印は福岡県にあった。
漢委奴国王印を最後に使ったのは卑弥呼であるはずだ。
その返信とともに卑弥呼は新しい金印を受け取っていて、それを携えた使いは福岡県に滞在して卑弥呼に面会したと魏志倭人伝は伝えている。

330 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 18:22:25.65 .net
倭奴国王であって、倭王じゃないし

331 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 19:33:10.72 .net
>>320

日本書紀では神武は天皇に即位と書かれてるが、当時天皇なんて役職はない。
それより神武がヤマトに来た時、事代主神と鴨王(おおきみ)がいた。
これは王家があった事を意味する。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまり事代主神の娘で鴨王(おおきみ)の妹であるヒメ后ことヒメ(蹈鞴五十鈴)媛しかいない。

332 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 19:41:30.78 .net
当時の大和の王は饒速日だよ。
富美の鴨族は長髄彦を輩出したが、饒速日に倒されただろ。

333 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 19:42:04.87 .net
>>329
>そしてその印は福岡県にあった。

朝貢してたのは九州の小国であり、大和朝廷及び天皇ではないということを
強く印象付けたかった勢力による金印偽造だろうねw
金印を国宝にしたのは昭和6年満州事変の年、
軍部もそれと同じ思想を持ってたので、あの出所不明のパッチものの金印を国宝にしたのだろうねw

334 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 19:42:46.95 .net
>>332
何を言ってるんだお前は市ね。

335 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 19:52:56.90 .net
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。

その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。

この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。

古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

336 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 19:58:12.34 .net
>>335
もういいから、おまえは市ね。
金印と関係ない話はするな。

337 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 19:59:25.81 .net
>>336
金印と関係ない鴨を持ち出したのはお前だ。

338 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 20:21:25.46 .net
いやいや関係ないとは言い切れないでしょ

339 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 23:06:28.50 .net
>>322
治めてるのは王であって一大率ではない
一大率は女王国以北を検察している刺史のような役職。

340 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 23:08:33.07 .net
>>330
倭奴国王が倭国の王
琉球王国の王は中山王であって琉球王ではなかったのと同じ。

341 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 23:10:07.64 .net
>>333
未だ金印は偽造だとか言ってるのかw
知恵遅れwww

342 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 23:43:20.15 .net
外交上、ならびに正式名称は琉球國中山王

343 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 23:44:26.81 .net
倭国は列島の国名じゃないし

344 :日本@名無史さん:2019/08/28(水) 23:58:22.38 .net
九州のことだもんな

345 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 02:04:49.65 .net
琉球王国(笑)

346 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 07:56:45.26 .net
>>342
印の話なんだがw

347 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 08:20:57.57 .net
倭奴国王が倭国の代表として認められたということ。
金印がないと正式な外交文書を作成できないから、他の倭の勢力は外交できない。

348 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 09:59:02.00 .net
「倭国」というのは中国側からの一方的な呼び名

349 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 10:32:55.12 .net
委を倭と解釈することが無理筋

350 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 13:20:01.76 .net
>>339
文盲かよ(笑)

351 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 15:21:49.25 .net
キリスト時代のユダヤみたいなものじゃないの?
ヘロデ王がいるけどローマからピラト提督が派遣されてて
政治は王がやるけど提督が監視してる

352 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 16:32:37.72 .net
土器などの流通を見ると、尾張から東西に文物が運ばれたことがわかる。
大和纒向はその中継地に過ぎない。
そして生産品の最大の消費地が筑紫であることがわかる。

https://i.imgur.com/TRmurSB.jpg

また、海外交流の拠点が出雲と筑紫であったことがわかる。
記紀の出雲の国譲りが倭国の対外交渉権の移譲だったのだのだろう。
魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく、3世紀においては筑紫の他には邪馬台国の候補はあり得ない。

353 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 20:49:34.57 .net
>>352
>魏や帯方郡と交渉していた可能性があるのは出雲と筑紫しかなく

原の辻遺跡では楽浪の文物に交じって出雲や畿内の土器が出る。
これは当時の日本のエスタブリッシュメントが出雲人や畿内人であった証拠。


BC3世紀ころ、加茂岩倉の銅鐸が西日本各地に拡散する。
出雲の王族が移動した証拠で有ろう。

邪馬台国とは畿内大和であり、事代主神や鴨王(おおきみ)がいた葛城である。

纏向ではない。

354 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 20:55:01.56 .net
>>337
鴨族に卑弥呼がいるという意見であり証拠も出してる。

関係ない話をしてるのはお前。

355 :日本@名無史さん:2019/08/29(木) 20:56:18.90 .net
>>341
未だ金印は本物だと言ってるのかw
知恵遅れwww

356 :日本@名無史さん:2019/08/30(金) 00:54:42.35 .net
カマチョンコロは巣に帰ってイビられ続けとけよ

高天原にある卑弥呼の墓  ◆4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1567051754/

357 :日本@名無史さん:2019/08/30(金) 11:10:54.22 .net
>>355
福岡市博物館に行って偽物だって教えてやれよw

358 :日本@名無史さん:2019/08/30(金) 11:12:03.91 .net
>>353
>原の辻遺跡では楽浪の文物に交じって出雲や畿内の土器が出る。

ソースは?

359 :日本@名無史さん:2019/08/30(金) 11:13:43.30 .net
>>358
あるわけない
カマチョンコロの妄想だもん

360 :日本@名無史さん:2019/08/30(金) 11:16:12.92 .net
出雲族は初期には覇権を握っていたが、高天原に負けて散り散りになったのだろうさ。
そして筑紫が倭国の主権を手にしたんだよ。

361 :日本@名無史さん:2019/09/03(火) 04:00:03.63 .net
???

362 :日本@名無史さん:2019/09/07(土) 11:56:13.76 .net
キナイ説を主張するのは記紀を純粋に信奉する右派もいるから一概に言えないが
金印がニセモノと主張するのはり地域スパイかどうか判定するリトマス試験紙みたいなもので
わかりやすいな あと狗邪韓国が倭人領とかに食いついてくるやつ

363 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 22:31:27.98 .net
???

364 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 14:06:57.01 .net
>>358

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/235531

土器・土製品には朝鮮系無文土器、楽浪(らくろう)系や三韓(さんかん)系の
瓦質(がしつ)土器、朝鮮三国系の陶質(とうしつ)土器などの外来系土器が多数含まれ、
これらに畿内・山陰・周防・肥後など西日本各地からの搬入土器も存在して、国内外との活発な交流を物語る

365 :日本@名無史さん:2019/10/09(水) 12:30:09.16 .net
今の時代に、もし金印でてきたら
いくらの価値がある?10億?
中国の小学生が拾った玉印は100億以上に価値があるでしょうか

366 :日本@名無史さん:2019/10/09(水) 12:53:53.81 .net
国宝になるだろうけど、市場では取引が成立しないから、価格は付けられない。

367 :日本@名無史さん:2019/10/09(水) 13:20:58.86 .net
志賀島から出て来た金印は日本史最大の偽造品としての価値があるだろう。

朝貢してたのは大和朝廷でも天皇でもない、
九州の小国だというのが金印偽造の根拠。

黒幕は本居宣長ではないか。

368 :日本@名無史さん:2019/10/09(水) 18:51:09.19 .net
黒幕はお前だろw

369 :日本@名無史さん:2019/10/10(木) 19:18:27.12 .net
新井白石や本居宣長の言ってた

「朝貢してたのは九州であって大和朝廷ではない」

それと符合する金印がなぜか志賀島から出てきた。
出土状況も大きな石があったの無かったの、極めてあいまい。

「朝貢してたのは九州であって大和朝廷ではない」勢力による偽造だろ。

彼ら国学者にとって日本の歴史が朝貢から始まるのはさぞかし辛かったであろうな。
現代人は中国に対して全然コンプレックスを持ってないだろ、だからその感覚が分からないのだよ。

370 :日本@名無史さん:2019/10/10(木) 22:12:06.14 .net
と、国宝金印にコンプレックスを持つかの国キナイコシが申しております。

371 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 09:10:10 .net
https://i.imgur.com/ZkllrbX.jpg

372 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 12:35:39.35 .net
他に金印が出る可能性はある?
あるならどこ?
見つけてみたい

373 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 13:08:01.73 .net
福岡県内の大きな神社。

374 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 17:18:44.36 .net
正始元年(240年明帝没 曹芳8歳戴冠、佐治曹爽・司馬懿)
太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表答謝詔恩

其四年(243年 曹芳元服) 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬

曹操鉄鏡は、日田で出た。
日本の王が曹家と繋がるのは、これくらい。 

卑弥呼の宗家だろうが、没落してる。
日田の遺跡から、古墳を何代か追えれば辿ってみるべき。

ただし金印については、
一大率 奴国が扱った可能性も高い。
其八年 齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
福岡266〜320年の古墳

375 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 18:46:35.75 .net
>>374詳しくありがとう

376 :日本@名無史さん:2019/11/09(土) 19:23:23 .net
今年五月「志賀島歴史研究会」の解散が決まった。十二年間お疲れ!
年一度の「金印シンポジウム」から、毎月一度の勉強会「金印と歴史の会」に変わった。
福岡市総合図書館で第四日曜日に、市民講座「金印に挑む」として開催されている。

377 :日本@名無史さん:2019/11/10(日) 06:15:22.66 .net
耶麻等民族最高

378 :日本@名無史さん:2019/11/10(日) 06:38:40 .net
劣等民族万歳

379 :日本@名無史さん:2019/11/18(月) 16:06:43.69 .net
>>373神社から出るか?
私は古墳より、仏像の内部とかから出る予感がする

380 :日本@名無史さん:2019/11/18(月) 16:35:57 .net
まだ仏教が伝来していなかった時代のものだからねえ。
どうかな

381 :日本@名無史さん:2019/11/18(月) 17:18:51 .net
なるほど仏教より前かあ
隠したか?返したか?だなあ
インディジョーンズみたいに見つけたいわ

382 :日本@名無史さん:2019/12/04(水) 16:17:12 .net
遺構がない(笑)

383 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 05:26:25.01 .net
>>369
倭国は九州であって近畿ではない

そもそも冊封体制の象徴とも言うべき金印を国宝にするとは何たる恥なことか

384 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 08:58:45.43 .net
でもおかげで国王として認められていた。
その象徴が鏡だ。
今でも三種の神器として崇めている。

385 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 09:12:40 .net
>>385
>そもそも冊封体制の象徴とも言うべき金印を国宝にするとは何たる恥なことか

国宝にしたのは昭和6年、満州事変の年。

かつて中国に朝貢していたのは九州であり、大和朝廷及び古代天皇ではないという事実を決定したかった軍部の意向であろう。

そもそも邪馬台国九州説自体が、
大和朝廷及び古代天皇は朝貢などしていない、
朝貢していたのは九州の小国であるという事にしたい新井白石の創作。

386 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 09:18:46.63 .net
志賀島から出たw

どこから出たことにしようか、それが一番の悩みであっただろう。
分からないから福岡の玄関口から出たことにしたw

金印は日本の歴史上で最大の偽造。
あんなものメルカリで売っても問題はない。

387 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 09:22:13.52 .net
卑弥呼が貰った親魏倭王の印はおそらく某神社のご神宝。

何神社かおおよその検討はついている。

九州ではないよ畿内。

388 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 09:34:32.51 .net
>>384
>今でも三種の神器として崇めている。

そうかな。
ではなぜ、明治天皇になるまで1500年間、
天皇は一度も鏡をご神体とする伊勢神宮に参拝しなかったのかな?

答えられないだろ。

389 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 10:38:37 .net
>>387
伊都の細石神社だよ。

390 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 11:11:26.65 .net
>>388
祟り神だからだよ

391 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 12:19:26.80 .net
>>385そう、そこが空白のミステリー
いろいろ考えられて頭いっぱいになる

392 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 12:54:15 .net
実は細石神社に伝世していたらしい。
それがどうして志賀島から出たことにされたのかというミステリー。

393 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 16:25:54 .net
>>392
また糸クズの願望垂れ流しに来たのかよwww

394 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 16:32:49.98 .net
もう日本中の古墳と沖ノ島と大宰府と宇佐神宮あたりを掘りまくれ

日本の歴史がハッキリするから

395 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 20:23:54 .net
沖ノ島はかなり調査された。
古墳時代で最大級の古代祭祀跡だ。
玄界灘沿岸が倭国の中枢であった証拠に他ならない。
大宰府は大きすぎw

396 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 20:58:11 .net
>>389

そんなパチモン神社にはないよ。

>>390

同じ意見だ。

397 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 21:20:00 .net
漢委奴国王
神倭磐余彦かむやまといわれひこ(神武天皇)

漢委奴国王
かむやまと奴国の王

有り得ない話では無いけど畿内説の方々は
認めたくないだろう。

398 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 21:26:22 .net
>>396
パチモンだという理由は?
卑弥呼時代の3世紀の九州北部の権力の所在地であった伊都の中にある宮だけど?

399 :日本@名無史さん:2019/12/24(火) 02:24:30 .net
>>398
海人スレかなんかで何度も何度も完全論破されてただろ
お前の記憶喪失のフリも見飽きたわ

400 :日本@名無史さん:2019/12/30(月) 14:38:07 .net
倭と委は従順という意味で使われる同じ漢字

401 :日本@名無史さん:2020/01/09(木) 21:00:24.80 .net
>>374いつの日か、この鉄鏡も国宝になるかもね

展示したら中国の人達がたくさん見学来そう

402 :日本@名無史さん:2020/01/09(木) 21:12:32.54 .net
吉野ヶ里に観光客を集めるためには、長崎本線を存続させないといけない。
長崎新幹線は佐賀知事とゆっくり話し合った方がいいぞ。

403 :日本@名無史さん:2020/01/14(火) 16:59:19 .net
志賀島は安曇族の氏神である志賀海神社がある。
安曇族は古代の海洋民族であり、糟屋の安曇から出て、
志賀島を拠点に、日本全国に散らばっていった事が分かっている。
この安曇族が属しているのが奴国があったとされる博多湾周辺であり、
漢委奴國王の金印が、奴国の、安曇族の本拠地、志賀島から出たと言うことは、
日本の古代史からみて至極まっとうな事であると考えられる。

404 :日本@名無史さん:2020/01/14(火) 17:02:37 .net
ちなみに、かつての博多湾は現人神社まで入り込んでいたので、
非常に温暖な入江の海辺だったと考えられている。
魏志倭人伝の温暖な倭国を再現するに相応しい場所だ。

405 :日本@名無史さん:2020/01/14(火) 20:06:11 .net
志賀島の海人は記紀における豊国だろ?
豊玉姫や木花佐久夜姫などの、大山祇の一族だ。
豊国と婚姻したのが筑紫の日向、すなわち伊都の天孫族だ。
実質的には支配権が志賀島から伊都に移ったのだろう。

406 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 09:19:05 .net
天皇の故郷で金印がある九州が倭

407 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 09:54:26 .net
志賀島から出たって不思議がる人がいるけど
志賀島は安曇族の本拠地だから不思議ではない

408 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 13:05:52 .net
安曇族というと傍系のイメージだな。
しかし記紀にある天孫降臨の前の博多湾沿岸の支配者が大山祇なら、その一族の宮である竜宮城があった志賀島こそ、倭の王都であった時代があって良いことになる。
魏志倭人伝では卑弥呼の前に男王の時代が70〜80年あり、これが天孫族の日向三代なら、金印をもらったのはまさにその直前の大山祇の時代になる。
倭奴国の王宮は、世俗にまみれた博多を離れて志賀島にあったというわけさ。

409 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 14:02:31 .net
志賀島は北部に農業できる平坦があるんだよな
誰も真面目に発掘したことないだろ
だれか一緒に掘りに行くか?

410 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 14:16:23.07 .net
遺構がない時点で考古学的価値はゼロ

以前は蛇鈕は現物知らなきゃ無理かなって考えていたけど
あんなの江戸時代に入手可能な書物読めば蛟ってのがでてくるから
大方それを蛇と勘違いして偽造したんやろうなって

411 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 16:54:45 .net
>>409
ちゃんとした発掘許可を得てやらないと、盗掘と変わらなくなる。
記録の残し方とか遺物の保存方法とか、きちんとしないとね。

412 :日本@名無史さん:2020/02/05(水) 18:57:28 .net
>>411土地を買って自分の家をたてるつもりで
基礎を掘ってたら古墳でてきた

ってパターンなら良いんだよね?

413 :日本@名無史さん:2020/02/05(水) 20:35:42 .net
見つけた、あるいは気付いた時点で
教育委員会に通報しないといけない

414 :日本@名無史さん:2020/02/10(月) 21:24:16.14 .net
文科省なんて全然信用ならないわ
いじめすら認めない
自分の出世と天下りばかり勘定
どうしようもない

415 :日本@名無史さん:2020/03/14(土) 18:44:02 .net
>>405伊都に天孫がいたという根拠は?

416 :日本@名無史さん:2020/03/16(月) 16:01:12 .net
>>412
そもそも志賀島に家建てようとしたら、工事の前に地価調査義務付けられてんじゃね?
もしかしたら福岡は結構その辺ずさんだから、規制してないのかな?

普通は遺跡があったり、歴史的に重要そうな地域は、工事の前に調査が入る。

417 :日本@名無史さん:2020/03/16(月) 16:10:29 .net
福岡市埋蔵文化財地図で遺跡名在る地域かどうか確認できる
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/about_constructions/detail/2
https://f-chirijoho.jp/maibun_leaflet/index.php

418 :日本@名無史さん:2020/03/17(火) 09:34:07 .net
>>416
福岡って古い物より新しい物を大切にする文化だからな…
金隈遺跡や板付遺跡に近い福岡空港の下にはかなりの遺跡が沈められてるとのこと

419 :日本@名無史さん:2020/03/17(火) 21:45:28.07 .net
まあ、ある意味では保存されていいのかも。
市街地だと確実に失われるからね。

420 :日本@名無史さん:2020/03/17(火) 22:24:33.35 .net
>>419
めたくそに破壊されたに決まってんだろ
今まで何度拡張工事されたと思ってんだよw

421 :日本@名無史さん:2020/03/18(水) 14:28:25 .net
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!

422 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 03:22:22 .net
文様の製造方法が中国のものと根本的に異なる以上、本物では無いのかなと思ってます
これが決定的で、研究の結果、明るみに出て良かったです
ただ、もし中国で、金印と同じ作り方の印が、偽物ではなく発見される事があれば、その時にこそ再考の材料になるのかなと思います

蛇鈕部分も中国で発見された蛇をあしらったものと全然違いますね
中国のものは、ラクダにせよ亀にせよ、まず、動物のデザインがあり、そのデザインを保持した上で、鈕としての機能が持たされてます
一方で、問題の金印は、まず鈕としての機能があって、それに蛇の意匠を後付けしています
それで、ラクダの首を切った改造タイプとか、新説が出てくると思うのですが、この説が出る時点で、背景に中国の印とのデザイン上の違いを説明する必要性を感じます

鈕のデザイン差異は、金印を実用的な道具とするか象徴として与えるかの違いにありそうで、やはり、後世、印章とした伝わっていたものを新造する場合は、どうしても、象徴としての造形に着目できないように思います

それで、もともと鈕として無難な形にまとめたものに蛇の形状を彫り込み、本場のものとは似ても似つかない独自形状になってしまったのではと推測しています

423 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 04:25:46 .net
まだ捏造説とか言ってる無能がおったんか(笑)

424 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 05:50:23.13 .net
倭の国の王だったら捏造の可能性があるけど、倭の奴の国の王だからホンモノでしょ

福岡市はむかしは那の県と呼ばれていたから、そのまんまじゃないか

ただ金印が出土したという事は志賀島は当時の奴国にとって聖地だったんじゃないか?

425 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 10:23:21 .net
>>105
この人の中では、ですので…気になさらず
本当に口伝があるのは興味深いですよ
だからこそ、金印の状態が良かったのも符合します

426 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 10:33:48 .net
>>280
細石神社の神主さんに直接確認でも取ったの?
でなければ、ただ「嘘だ〜」と叫んでるだけの愚か者だけど

427 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 10:48:19 .net
>>350
ここの治は治所とするの意味だからね

一大率を女王国以北に置き、王が伊都国で治めたとも読めます

「置」は「王」が主語ですから、「治」も主語は「王」の可能性はあります

一大率は一人とは限らないし、伊都国にいたとも限らないという事ですね

428 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 12:38:51 .net
>>422です
>>423コメントありがとうございます

私見ですが、作り方が違う時点で「同時代の中国のものとされる出土品」とは、別系統と認識すべきと捉えています。
製造方法は後から変えようがなく、決定的事実として残ってしまうためです。
逆に(私も書き込みました)鈕部分の意匠の違いなどは、重要視すべきでないのかもしれません。多様な解釈が可能な要素は、判断の根拠とすべきでないとも思うのです。
今後、確実に本物と認識できる印で、例の金印と同様の製造方法のものが発見された際には、状況が変わっていくのではないでしょうか。。

(過去スレ含め)このスレの皆さんの古代史の知識は本当に詳細で勉強になります。
キーワードを拾うだけでも新たな発見があるので、よく読んで、また書き込めたらと思います。

429 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 15:10:49.84 .net
細石神社はもう完全にネタ化してる
信憑性が一つもない

430 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 17:32:01 .net
>>429
ほんそれ
にも関わらず定期的に湧いてくるナゾ現象

431 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 21:13:54 .net
式外社だからな

432 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 23:13:42 .net
2000年も経つと権威は失われるということだ。

433 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:04:00 .net
細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。

434 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:10:03 .net
細石神社(佐々禮石社)の来歴

建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり

元慶元年(877年) 三代実録に高磯ひめ神に従五位下を授けるとあり

天正年間(1573〜1586年) 戦火により焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる

寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず

元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の実在が確認

天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見

文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)

明治5年(1872年) 村社

大正12年(1923年) 幣帛供進社

435 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:17:21 .net
創建がちょうど金印をもらった頃じゃないか。

436 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:21:08 .net
三雲遺跡は紀元前1世紀頃だから
金印より1世紀くらい前だろ

437 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:24:29 .net
細石神社が漢委奴国王の金印を旧蔵してたって話の元ネタは古田の「多元史観」
四国の大政就平という人物が古田に知らせ、地元住民に聞き取りしたら「細石神社にあった金印を武士がもって行った」という伝承があったらしい

200年も前の出来事を地元住人が知ってるファンタジー
複数の証言が取れるのに一切の記録がないファンタジー
くだんの神社にも一切の記録が残っていないファンタジー
境内の後ろにある王墓の伝承すら残っていないファンタジー

438 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:25:14 .net
細石神社と親子関係にある高祖神社の方が金印の年代に近いのか。

439 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:28:50 .net
1587年に神田全没収されるくらい荒廃してて社殿もなかったのに、1784年まで宝物として保管してたってのは無理がある

440 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:29:31 .net
オカルト脳じゃない限り、根拠もなく伊都国にあった!証拠はないけどあったはず!とか言う与太話より
証拠はないけど海人族の本拠地だった志賀島に埋まってた!のほうが説得力を感じる

441 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:31:33 .net
Q1.
その神社が1822年に土壁用の粘土を掘ってる時に偶然見つかった三雲南小路遺跡をどう認識してたのか(ちなみに金印が発見されたのは1784年)。
A1.
235年も前に太閤検地で没収された土地だから忘れ去られていた。
没収された理由は天正年間には既に社殿もなく荒廃していた村社だから。

Q2.
金印に関する伝承?社伝?はいつ頃見つかったものなのか。
A2.
2013年に古田武彦氏が住人や神主から採録したというのが唯一。
史料は存在せず。

Q3.
また最古の出典はいつなのか。
A3.
古田に情報提供した大政就平氏がどこから得た情報なのかは明らかにされていないので不明。


2013年12月06日に投稿されたスピリチュアル系ブログと2014年10月16日に発刊された古田本以外のソースなしにより与太話確定。

442 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:34:05.15 .net
古田が聞き取りしたという「お侍さんが持ち出した」がいつのことなのかが分からんから信憑性がない。
16世紀には細石神社の社殿すら残っていなかったのだから、持ち出したのが事実とするならそれ以前ということになる。
5世紀も前のことを地元住民が先祖代々口伝していたというのは非現実的すぎる。
まして現在の社殿は明治に再建されたもので、宮司もその時に就任した家なのだから4世紀も断絶していた口伝が残っていたというのは無理がある。

443 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:41:17.32 .net
お侍さんが持ち出したとするならそれは1,500年代。
500年も前の断絶した神社の由縁を地元住人が口伝し続けていたというのは流石に非現実的過ぎると思わないかい?
もしそんな奇跡があり得たとするなら200年前に土壁の材料として採掘なんてしなかっただろうし。

444 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:42:01.43 .net
太閤検地の時点で何一つ残ってなかったんだから関係者一族も生き残ってなかったんだろう

445 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:43:19.61 .net
細石神社は16世紀後半に消失し、19世紀前半には地元民が自宅の土塀用に粘土を掘り出すまで完全に忘れ去られてた土地

446 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:45:37 .net
そもそも
・金印が細石神社にあった
→歴史学では相手にされないレベルの噂話
・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
→歴史学・考古学的根拠なし
・金印は三雲南小路遺跡から出土したものだ
→歴史学・考古学的根拠なし
・三雲南小路遺跡は夫婦の墓だから、細石神社祭神の木花咲也とその夫である彦火火出見の墓だ
→超がつくほど飛躍した論理
なのに、循環論法よろしく、関連付けて主張してる奴がバカなだけ

447 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:47:29 .net
ざっくり流鏑馬を実施してる福岡県内の神社をGoogleMapで調べ、それぞれ流鏑馬を実施してる土地面積を調べてみたぞ

田川鶴岡八幡宮 流鏑馬場1,700平方メートル
現人神社 参拝者駐車場1,350平方メートル
飯盛神社 流鏑馬場4,000平方メートル
住吉神社 表境内700平方メートル
香椎宮 催事会場5,000平方メートル
風浪宮 祭祀場650平方メートル
宗像大社 第3駐車場2,000平方メートル

最小が700m2(212坪)で最大が5,000m2(1,500坪)

流鏑馬ができたんなら結構広い神社だろうな

448 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:49:19 .net
1587年に年貢逃れのために神田としていた三雲を秀吉が検地させ、社殿が喪失していたことも明らか

449 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:49:59 .net
1822年に社殿がなかったことは明らかだし、1829年に手水舎が再発見されてるということは林になっていたことは確実

450 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:54:36 .net
神事を神職ではなく村長が開催したのは村おこしと言うか神社再興(ふたたび神田として年貢逃れを画策)のためだろうね。

451 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:56:22 .net
長年に渡って年貢なんて収めたことがない三雲集落にとって筑前に米を取られるのは大変な負担だったに違いない

452 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:58:57 .net
元緑八(1695)年、村山正貞があらわした『細石神社御縁起』(大神氏蔵)に
「天正十五(1587)年豊臣秀吉公九州の乱をしづめ給ふ折から、故なく当社の神田をも没収し給ひ」と記し、
それ以前は「広麗なる御社にて、神事祭礼もことにいかめしかりける」と述ベている。

だが、それ以前のことは皆目わからない。
現在は三雲部落の氏神としてあがめられているだけで、他地方の人が足を向け参拝にくることは、ほとんどない。
http://snk.or.jp/cda/kodaikyushu.pdf

個人的にはこのシニアネットという老人向けサービスに寄稿されたPDFファイル以外に
この話が載っているサイトが見つけられないので古代史ファンの老人の創作だろう。

453 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:03:35 .net
個人的には細石神社の話は興味深いのだが、魏志倭人伝と後漢書を比較すると、卑弥呼の前の男王より前に金印をもらったことになるというので、それなら志賀島の綿津見がもらったということで世代が一致する。

454 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:05:35 .net
糸クズの細石神社ネタは↓に見事に当てはまっている
 
 
1.論理が自己崩壊している。つまり自分で言ってることに整合性がなく、その場しのぎ。

2.既存の(否定しようとする)理論や法則を理解していないか、知っていながら敢えて曲解している。

3.信頼できる実験や観測でも、都合の悪い内容(証拠)は無視している。

4.先に結論があって、その為の論理を構築する(した気になる)。

5.批判は受けつけない。間違いに気付いても絶対にそれは認めない。

6.相手の論旨をすりかえる事で、何かを証明した気になる。

7.専門家や科学者個人の否定。逆に言えば自らの過大評価。自説に酔いしれている。

455 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:10:13 .net
天正初期に焼失し、天正15年(1587年)には社領と呼べる状態になかったから太閤検地で神田ではないと判明し、没収され筑前の石高に組み込まれた。

「侍が持ち出した」のが本当なら、焼失前なんだから433年以上前になり、しかも裏手の土を土塀の材料に掘り起こすほどその存在は忘れられていた。

古田の誘導尋問もしくは創作と見るのが常識的。

1587年には野ざらしであり、寛永後期(1635年以降)に村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興が叶わなかったんだから断絶したと見るのが常識的。

456 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:13:36 .net
伊都ジジイは朝鮮人確定
現政府の前身、前々身にあたる大和王権が
朝鮮半島に対して領土主権を持っていた事を
否定したくて仕方ないんだ
だから邪馬台国九州説や任那日本府と大和王権は
無関係であると主張している

それに金印を授けられたのが大和王権だと
銅印の半島諸国よりも日本の立場が上になって
しまうので躍起になって倭国王は九州王だと
レスしまくっている
そしてその九州王は唐に滅ぼされたと滅茶苦茶な
結論を出して大和は金印の倭国の権威を引き継いで
いない事にしている

伊都ジジイの政治的意図は明白
ただの在日史観

457 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:15:00 .net
祀る神も、奉る宮司も存在しないのだから藩に年貢を納めなさい
これが太閤検地による没収の趣旨

458 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:15:31 .net
「お上の決めたことやけん、しかたあんめ」と納得したものの、村高の応じた年貢量の負担が大きくて泡食った村長が流鏑馬を行い「神事ばやっとるけん、ここは神田ばい!」と主張してみたが奉りの実態がなかったので認められなかったってこと

459 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:17:02 .net
祀る神も、奉る宮司もないのに信仰が残るわけない。
まして三雲住民は金龍寺の宗門人別帳に記録されてるんだから曹洞宗に帰依したと判断するのが日本史の常識。

460 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:17:31 .net
延喜式に収容されてないにもかかわらず、高祖神社の社領は没収されずに神田のまま明治を迎えてる
祀る神と進上する氏子が存在していれば没収はされなかったという傍証

461 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:18:06 .net
細石神社ネタのまとめ

建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
(三代実録の高磯ヒメ神は高祖神社なので削除)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる(祀る神も奉る神主も存在していない結果=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認(祭日の流鏑馬行事だけは残った模様)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社

古田の言う地元住人の「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性はない
→信仰は残ったはずとの反論
三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれている。 よって曹洞宗に帰依、信仰は残らなかった
傍証として神事が流鏑馬という祭行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領の認識をしていなかったことなどが挙げられる

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

以上

462 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:19:45 .net
倭人と中華(中国)、どちらが上だと思う?
いまでも同じなんだけど、頭が悪いんだろう。

ポアされた人物の影響でも受けているとか?
しょーとくたいし、うまやど・・・とかいう人物も影響w

463 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:21:53 .net
  この人物がいるでしょ

『アンサイクロペディア 麻原』

お前達には意味がわからないんだろうけど。

464 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:22:14 .net
明清で収集された古代印が今は博物館に1万個くらいあるとか、で半分は明から骨董収集ブームで作られた贋作だろうと言われる。
印譜まで贋作ですからね。

明清に収集された古代印で気が付いたことは、金印が一つも無い。
真贋問わず一つも無い。

南北時代まで作られていた金印は唐代には埋まってしまって地上に一つも無くなったらしい。

盗掘で掘り出されても金銀は溶かされたんでしょう。

で あの志賀島の金印は、初めての出土品だった。勿論贋作なんかじゃない。

本家中国でも長く消えてしまって金印がどんなものか分からない、贋作しようがない。日本で作れる訳がない。

その後現代で見つかって現存する古代金印は50個足らずのようです。

もし邪馬台国が受けたという「親魏倭王」或いは「親晋倭王」が出現したらこういうスタイルでしょう。

1958年発掘 蛇鈕金印  http://www.whmuseum.com.cn/WB_collectionl_connect.aspx?id=20

465 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:23:01 .net
>>462-463
川崎の統合失調症症患者は日の出前に首を吊れ

前から何度も何度も死ねと命令されているだろう?

なぜ言うことを聞くことができないのか・・・

統合失調症症患者とは言え、日本語は読めるのだろう?

いい加減実践しろ

466 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:26:34 .net
だから、お前は、どこの池沼なんだ?と聞いているんだよw
頭が悪いんだろう?

467 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:30:05 .net
ゴキブリ扱いされているのが、わからないのか?
お前のような人間のことを言っているんだよ、頭が悪いんだろう?

468 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:34:29 .net
自分でもビックリするくらい完璧な年表が出来た。

西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
107年 第6代・孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢した。
177年 第10代・崇神天皇が即位した。
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 崇神5年、疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行27年、景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。

※約100年の空白期間
※卑弥呼と台与を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇を創作し空白期間を埋めた。

390年 第15代・応神天皇が即位した。

469 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:44:19 .net
ふーん、それがどうした?としか言えないんだけどw
何がしたいんだ?

470 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 02:01:20 .net
>>469
川崎の統合失調症症患者は日の出前に首を吊れ

前から何度も何度も死ねと命令されているだろう?

なぜ言うことを聞くことができないのか・・・

統合失調症症患者とは言え、日本語は読めるのだろう?

いい加減実践しろ

471 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:06:48 .net
>>446
>・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
>→歴史学・考古学的根拠なし

金印の話を否定したいがために、このような無理な主張をするから、あなたの説得全体が信用されないのだと自覚してほしい。

472 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:09:57 .net
>>459

それなら江戸時代はすべての神社が消滅していたことになる。

473 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:17:27 .net
>>453

志賀島の綿津見山積は細石神社の木花開耶姫の実家の豊国王家だろ。
でも細石神社と高祖神社(木花咲耶姫の息子の彦火々出見)は嫁入り先の天孫族の王家なんだよ。
何らかの理由で高祖神社は存続したが、細石神社は廃れたみたいだね。
金印を授かったのが高祖神社なら高祖神社金印が伝わったという話の方が整合性があったのに、なぜ細石神社ということになったのか。

474 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:19:43.74 .net
>>468
>西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。

金印を受け取ったのは筑紫で、神武がいたのは大和だぞ。
神武が筑紫で受け取って大和に持ち込んだら、志賀島で見つかったりはしない。

475 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:36:36 .net
>>471
自分に言ってるとしか思えない(笑)

476 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:37:12 .net
>>472
あんた前スレで散々「文盲」と蔑まされてた人だろ?

477 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:38:42 .net
>>473
>なぜ細石神社ということになったのか

なってないんだなこれが
これこそがあんたの間違いの始まり

478 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 07:38:59 .net
こっちだって丸々信じているわけではなく半信半疑なのだが、あなたのような人がいると細石神社説を応援したくなるのさ。
まして、魏志倭人伝によれば金印受領から200年後でも伊都が権力の中枢だったことは明らかだしね。
史書を無視して全否定しようとするなら、そんな意見には耳を貸すことはできないよ。

479 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 09:38:59 .net
>>478
>金印受領から200年後でも伊都が権力の中枢だった

お前は思い込みが強すぎて話にならんな。

480 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 09:57:16 .net
というか、前スレに書かれてた>461で細石神社ネタは終わってる

そもそも該当神社と金印を関連付けたのは後にも先にも古田一人だけ
歴史学ではなくファンタジーって結論に至ってる

481 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 10:04:28 .net
紀元前1世紀の三雲の被葬者が金印もらったわけでもないのに
細石神社に保管されてたっておかしいな

482 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 10:49:05 .net
古田の願望から生まれたウソでしかないからな

483 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:25:38 .net
>>481
息子か孫がもらって、後世に奉納したのかも。

484 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:34:24 .net
>>479

魏志倭人伝には、伊都の大率が諸国を検察し、周辺国は大率を畏れていたと書かれている。
伊都が権力の座だった。

485 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:39:34 .net
イトコク、イトコクとイキがってみても、それが平原だったとは限らない
ま、原田や古田や安本ら多数の早とちりだろうなwww

486 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:08:13 .net
平原にあるのはただの墓だ。
ここでは伊都の大率とやらの庁舎がどこにあったのか。
「まつりごと」は祭祀であり政治でもあるのだから、神社つまりお宮が政治の舞台であり、庁舎を兼ねていたはずだ。
大率の庁舎の候補は古い神社やその遺構になるわけで、高祖神社や細石神社がその可能性がある。
細石神社が廃れたのは1000年も後の戦国時代になってからだ。
戦国時代には旧家の多くが没落して、文化財も大量に失われ、日本史に大きな断絶を生じた。
その後の姿だけ取り上げて批判の材料としても説得力はない。
廃れたからこそ、豊臣をはじめとする武家の勢力に押されて金印を手放したのかもしれない。

487 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:20:37 .net
日本書紀では怡土県主(糸島)と岡県主(小倉)が三種の神器を掲げて登場し、他の地域の豪族と区別されている。
金印の拝領から数百年後でも伊都は特別扱いなわけだ。

そもそも三種の神器を副葬する文化は福岡県北部に特有のものだったし、三種の神器を構成する鏡はおそらくは金印と同じように漢から拝領したものだったろう。
遣溝遺跡の鏡は後漢鏡も含んでおり、金印とも年代が近い。
糸島平野が史学でも考古学でも極めて特殊な位置付けであったことは間違いなく、それを考察することなく「イヤダイヤダ認めない」と駄々をこねるだけではダメだ。

488 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:29:08 .net
糸島と小倉に護衛役の県主を配置し、
その間の那の津か香椎あたりで倭奴国王が威張ってたんじゃないの

489 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:31:22 .net
ちなみに岡県主はおそらく神武が滞在した筑紫岡田宮(岡田神社)の主のこと。
では怡土県主はどの宮の主のことだったのか?
やはり候補は高祖宮(高祖神社)か細石神社しかない。
この両者により仲哀天皇は穴門豊浦宮から政権の中枢である博多湾の東側にある筑紫香椎宮に迎えられる。
この故事を「恭順した」と捉えるのは結構だが、では岡田宮と高祖宮が反対したら、仲哀天皇は香椎宮に入れたかどうか考えてみるといい。
少なくともローマ帝国の選帝侯くらいには権力があったのだろう。

490 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:45:27 .net
妄執

491 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:52:06 .net
上古の日本においては、天神の子は太陽を背にして君臨するという思想があったらしい。
神武が畿内を攻略した時、日下で敗色が濃くなり、
「我ら天神の子は太陽に向かって戦うのではなく、太陽を背にして戦うべきだ」
と言い、紀伊半島を回り込んで大和に入った。
大和においては三輪山が聖地として奈良盆地の東側にそびえており、物部氏の石上神宮も同様の配置だ。
筑紫においても、伊都の東の高祖山に高祖宮があり、博多の東には香椎宮がある(特にスケールが大きい)。
祭政一致時代の権力の座のあり方として、明確に筑紫と大和は同じ文化を共有している。
しかるに金印を受け取った1世紀においてはまだ大和は十分な国際都市として発達した形跡がなく、一方で伊都は膨大な舶来品が出土する。
おそらくは志賀島も含めて福岡県内の宮が持ち回りで倭国の政権を担ったのだろう。
宮はそこに住まう王族本人の呼称にもなることを忘れてはいけない。

492 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 14:02:24 .net
参考資料(志賀島 山誉め祭りの神楽より)

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな

493 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 14:37:10 .net
上古の日本と言うより古中国の天子南面スが輸入されたのでは

494 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 14:38:46 .net
まあ甕棺だから特殊だよな、日本の中では

495 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 15:02:25 .net
太陽を背にするといっても、
三輪山や高祖山の場合、午前中は良いが、午後は太陽に歯向かうんじゃないの。中途半端だよ。

496 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 16:30:37 .net
>>484
読み間違えがすぎるだろwww

497 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 16:32:29 .net
医の世に生活するは
人の為のみ
ただ己を捨てて
人を救わんことをねがうべし

ドイツ フーフェランド

498 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 16:42:23.53 .net
金印も偽物、日田の鉄鏡も偽物

お前らは何だったら本物と認めるんだよ
九州博物館にいって見て
自分で判断しろよ
何も現物見ないで判断するな!卓上で議論すんな!

ついでに福岡の有名神社も見て帰ってね〜

499 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 17:22:03 .net
金印は福岡市博物館の常設展示

500 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 15:14:29 .net
卑弥呼は、「魏委邪馬壱国王」になるのか?

501 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 15:15:27 .net
>>500
スレチおつ

502 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 17:08:16 .net
同じ金印だろ

503 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 17:17:56 .net
>>500

ほれ
https://www.lucktendo.co.jp/blog/upload-images/20131210102753.jpg

504 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:41:26 .net
992: 2018/09/15(土)03:38 AAS
技術なんて何度も失われ、何度も再発明されるし。

そろそろスレ終わりそうだから書いとくか。

親魏倭王の印貰ったから漢委奴国王の印は埋めたんかもね。
邪馬台国のあった時代は戦乱続いたから親魏倭王の印は
奪い合う中、燃えて溶けたりして消滅。

漢委奴国王は「かんわのこくおう」だね。奴の発音は
「な、ぬ、の」どれなのか知らんけど、連体格の格助詞を
当てたもの。匈奴国も同じ。あっちの言語の格助詞もナ行
(格変化が複雑なので不正確かもしれんが)。

漢委奴をアイヌって言う説もそういうのもありかなと思った。
アイヌ語が語源じゃなくて、中古音(han iwe nu)がアイヌ語に
入った。

505 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:42:53 .net
999: 2018/09/16(日)21:03 AAS
木竹簡に押印は無い 漢代皇帝の宣旨などは絹布に書いたから、それには押したかもしれない。

6年過ぎて>>1はまだ居るのかな。 この金印は後漢書に書かれた印で歴史考古学の重要な現物資料お値打ち品
だから、日本史に一つスレを置いとかないといかんな。
史書に書かれた印が出土するのは奇跡的なことだ。史記に書かれた印が出たのは滇王一つしかない。
書かれた人物の持ち印は酷吏列伝の張湯、二代目南越王、この二つは建設現場で墓が見付かった、
も一つは小学生が拾った呂皇后の玉印、この三つしかない

506 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:46:27 .net
奴国は「極南界」とは合わない。
よって偽造。

507 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:53:00 .net
今の朝鮮半島の南にも倭人が
住んでいたと言われている
そこも奴国だったんやないかい

508 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 23:22:36.61 .net
バカばっか

509 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 17:58:13.63 .net
銀印は出てないのかな

510 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 18:26:53 .net
銀は腐食するから。

511 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 08:27:19 .net
>>507
>今の朝鮮半島の南にも倭人が住んでいたと言われている

それ狗邪韓国(くやかんこく)だろ。
倭国ではない。

512 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 10:59:00 .net
狗邪韓国から南が倭国だよ。
倭国の西北界は帯方郡から7千里の狗邪韓国と明記されている。
帯方郡から一万二千里で邪馬台国。

513 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 12:59:46.48 .net
それは狗邪韓国から来た人の民族運動

514 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 14:38:59 .net
>狗邪韓国から南が倭国だよ。

ならば志賀島は極南界にならないね。
極北界ならわかるが。

515 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 14:51:55.65 .net
こんな日本語の文字を考案した(画像有り)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3689-0
こんな人工言語を作った
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3648-0
人類の品種
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3625-0
言葉の起源
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3623-0
日本語は海豚の言葉に由来する
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3622-0
ペンギン(ウルトラマン)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3626-0
殷と商&燕国と斉国(日本)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3644-0
日本語と中国語との同源語
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3701-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0

516 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 20:00:04 .net
>>514
>ならば志賀島は極南界にならないね。

どこから湧いて出た話だよw

517 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 20:02:58 .net
倭国の最大勢力が倭奴国だったから、倭奴国より南の情報は漢末には得られなかった。
だから極南界(南の端)が倭奴国。
北の端の狗邪韓国とセットの記事であることは言うまでもない。

518 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 22:55:45 .net
後漢書の倭国は卑彌呼が共立された倭国
極南界(南の端)の倭奴国が北部九州沿岸で、
朝鮮半島南部と北部九州だけの倭国の範囲だと
大倭王が居る邪馬臺國は倭奴国よりも北になるので朝鮮半島になってしまう

519 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 06:37:20 .net
時代が違う。やり直し。

520 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 06:59:38 .net
北部九州に盛行した甕棺集団はど没落してしまったので
極南界(南の端)の倭奴国は滅亡した
金印が本物であった場合、邪馬臺國は九州には存在し得ないことになった

521 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 07:09:40 .net
中国のニュースだけど
上海で金印が出たよ
詳しくわからないけど複数発見されたみたい
 

522 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 07:20:02 .net
四川省眉山市の明代の「蜀世子宝」印じゃないのか?

https://www.afpbb.com/articles/-/3280983

523 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 07:41:37 .net
朝のNHKのニュースでやってたよ
重さが8キロだったよ

524 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 08:25:47 .net
>>523
だから>>522の蜀王太子の金印だろ。
先月29日発表だぞ?
どんだけ世間とズレてんだよ(笑)

525 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 09:24:25 .net
細石神社については否定は不可能なんだよ
可能性としては残される

高祖神社と細石神社は縁が深い
子と母の関係だから
昔は高祖神社から神輿が細石神社に下る神幸があった

高祖神社が残っていたなら、信仰は残るでしょうね

526 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 12:09:28 .net
福岡の特に古い神社の御神体は化石や石ばかり
そりゃ仏教伝わる前だもの
細石って言葉に惹かれるなぁ
どんな石なんだろうか

527 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:38:38 .net
>>525
可能性は皆無だから(笑)

細石神社ネタのまとめ

建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
(三代実録の高磯ヒメ神は高祖神社なので削除)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる(祀る神も奉る神主も存在していない結果=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認(祭日の流鏑馬行事だけは残った模様)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社

古田の言う地元住人の「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性はない
→信仰は残ったはずとの反論
三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれている。 よって曹洞宗に帰依、信仰は残らなかった
傍証として神事が流鏑馬という祭行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領の認識をしていなかったことなどが挙げられる
そもそも社伝自体が古田の妄想であり、元細石神社には一切伝わっていない

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

以上

528 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:45:20 .net
天正初期に焼失し、天正15年(1587年)には社領と呼べる状態になかったから太閤検地で神田ではないと判明し、没収され筑前の石高に組み込まれた。

「侍が持ち出した」のが本当なら、焼失前なんだから433年以上前になり、しかも裏手の土を土塀の材料に掘り出すほどその存在は忘れられていた。

古田の誘導尋問もしくは創作と見るのが常識的。

1587年には野ざらしであり、寛永後期(1635年以降)に村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興が叶わなかったんだから断絶したと見るのが常識的。

529 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:46:07 .net
Q1.
その神社が1822年に土壁用の粘土を掘ってる時に偶然見つかった三雲南小路遺跡をどう認識してたのか(ちなみに金印が発見されたのは1784年)。
A1.
235年も前に太閤検地で没収された土地だから忘れ去られていた。
没収された理由は天正年間には既に社殿もなく荒廃していた村社だから。

Q2.
金印に関する伝承?社伝?はいつ頃見つかったものなのか。
A2.
2013年に古田武彦氏が住人や神主から採録したというのが唯一。
史料は存在せず。

Q3.
また最古の出典はいつなのか。
A3.
古田に情報提供した大政就平氏がどこから得た情報なのかは明らかにされていないので不明。


2013年12月06日に投稿されたスピリチュアル系ブログと2014年10月16日に発刊された古田本以外のソースなしにより与太話確定。

530 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:46:20 .net
そもそも
・金印が細石神社にあった
→歴史学では相手にされないレベルの噂話
・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
→歴史学・考古学的根拠なし
・金印は三雲南小路遺跡から出土したものだ
→歴史学・考古学的根拠なし
・三雲南小路遺跡は夫婦の墓だから、細石神社祭神の木花咲也とその夫である彦火火出見の墓だ
→超がつくほど飛躍した論理
なのに、循環論法よろしく、関連付けて主張してる奴がバカなだけ

531 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:47:15 .net
細石神社が漢委奴国王の金印を旧蔵してたって話の元ネタは古田の「多元史観」
四国の大政就平という人物が古田に知らせ、地元住民に聞き取りしたら「細石神社にあった金印を武士がもって行った」という伝承があったらしい

五世紀も前の出来事を地元住人が知ってるファンタジー
複数の証言が取れるのに一切の記録がないファンタジー
くだんの神社にも一切の記録が残っていないファンタジー
境内の後ろにある王墓の伝承すら残っていないファンタジー

532 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:47:47 .net
細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。

533 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 16:16:21 .net
細石神社に信憑性なかったんやな。
年毛神社もやけど、福岡って神社の捏造多すぎひん?

534 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 16:45:38.41 .net
こんな日本語の文字を考案した(画像有り)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3689-0
こんな人工言語を作った
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3648-0
人類の品種
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3625-0
言葉の起源
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3623-0
日本語は海豚の言葉に由来する
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3622-0
ペンギン(ウルトラマン)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3626-0
殷と商&燕国と斉国(日本)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3644-0
日本語と中国語との同源語
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3701-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0

535 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 18:59:49 .net
キナイコシ
 金印偽造を
  あきらめた

キナイコシ
 細石が
  気に食わない

キナイコシ
 邪馬台国は
  朝鮮半島だ

536 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 19:28:19 .net
>>533
捏造だという根拠は?
まあ神功皇后のまわりは捏造もあるかもしれないが。

537 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 19:36:04 .net
>>536

え?>>527-532が読めない文盲なの???

538 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 20:11:30 .net
>>537
キナイコシお得意の屁理屈がなんだって???

539 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 20:55:15 .net
へー悔しくなったらキチスレ連打するんだwキナイコシわw

まんまクソテンプレと同じでクソワロタw

540 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 21:13:11.27 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

541 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 21:28:50.10 .net
>>538
細石神社の来歴は前スレや伊都スレにも書き込まれてた客観的事実だと思うけど

542 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 22:36:10.58 .net
「常識的」というキナイコシ特有の非論理的な逃げ口上でガチガチのいちゃもんが何を証明できるって?

543 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 22:53:47 .net
元は細石神社に金印があったということの証明は一切なされていないわけだが

544 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 23:29:29.89 .net
>>542
まぁ妄想に取り憑かれてる糸クズが言えたことじゃないけどな。

545 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 00:48:21 .net
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもの
そして現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

546 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 01:11:05 .net
侍が持って行った

日本兵に連れていかれた

倭寇が仏像を持って行った

547 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 01:21:42 .net
金印とは無関係な可能性の高い細石神社だが、祭神が磐長姫と木花開耶姫の姉妹である点は興味深い。
このパターンは同じ糸島の若宮神社やにも見られる。

何が興味深いかと言うと、この姉妹神の父が大山津見であること。
北部九州沿岸といえば当時最大勢力の海人だった安曇の支配地であり、大綿津見の地。
大綿津見の地である奴国と大山津見の地である伊都国とも取れるのではないか?

548 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:08:57 .net
若宮神社は江戸時代に漁師の妻の神のお告げ
櫻井神社(浦姫宮)も同様のお告げで黒田騒動の裁判の最中
黒田は官兵衛から親子2代キリシタンだったから
禁教令の後改易されないように藩内の民の信仰には気を配ったんだろう
唐津の松島、馬渡島は長崎から移住した隠れキリシタンの島

549 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:21:43 .net
>>547
オレモ無関係だろと思ってたが、キナイコシが無関係言うならその反対で実は関係あるんじゃないかと迷い始めた

550 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:28:12.64 .net
つまり「恨」が根拠

551 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:58:59 .net
>>549
お前はいつまでキナイコシの亡霊に取り憑かれてるんだよw

552 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:06:46 .net
奴国が大山津見、志賀島が大綿津見じゃないの?
天孫の前代王が大山津見だからこそ、天孫は木花咲耶姫を娶ったわけだよ。
そして伊都国に奴国から遷都した。
その墓が三雲南小路遺跡だというわけさ。

553 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:22:37 .net
>>552
魏志倭人伝には伊都国は都(女王国)ではないと明記されてるんだから諦めろよ糸クズ

554 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:28:06 .net
伊都だから都

555 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:40:54 .net
三國志で都がつく県名はけっこうある

556 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:57:35 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

557 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:33:37.27 .net
弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める

弥生中期
九州 筑紫生まれの大山祇や大国主らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作拡大

弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権

弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州脱出、収拾のため伊都で卑弥呼共立へ、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる

古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ

古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫生まれの応神による統一王朝へ

558 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:38:32.39 .net
>>552
志賀島は奴国じゃねぇのかよマヌケ(笑)

559 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:46:08 .net
奴国は博多側だろハゲ

560 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:49:38 .net
>>559
無能すぎて笑えるな
飛鳥時代に志賀明神は儺県の地神だ無能

561 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:55:50 .net
>>552
> 奴国が大山津見、志賀島が大綿津見じゃないの?
違うな
伊都国が大山津見、奴国が大綿津見だ

> 天孫の前代王が大山津見だからこそ、天孫は木花咲耶姫を娶ったわけだよ。
天孫の前代王という発想がすでに妄想
論ずるに値しないので却下

> そして伊都国に奴国から遷都した。
そんな歴史的事実は存在しないから却下

> その墓が三雲南小路遺跡だというわけさ。
お前の妄想でしかないから却下

結論:お前は全却下

562 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 07:30:37 .net
「認めたくない」と駄々をこねるだけのキナイコシ

563 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 07:42:17.70 .net
大山祇の祇や大山津見の見はミまたはミミで王族の称号。
大山祇が王名であることは明らかだ。
綿津見が海の神、大山祇は山の神(陸の神)。
志賀島と博多を陸海で分けるのだから、大山祇が陸側だよ。

564 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:04:39 .net
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

565 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:49:48.90 .net
>>563
大山津見は伊都国だろ
志賀島は奴国の一部だし

566 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:55:01 .net
伊都はアメノヒボコ

567 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:55:44 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

568 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 16:34:15 .net
>>565
伊都国のニニギに嫁いだのだから、伊都以外の周辺のどこかだよ。

569 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 16:34:42 .net
>>566
それはもう少し後世の話。

570 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 16:37:41 .net
>>565
志賀島は火遠理命(伊都の高祖神社の祭神になっている)に嫁いだ豊玉姫の実家、海神豊玉彦の国だね。
綿津見(海神)と対となる陸の王が大山祇で、奴国の王。

571 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 17:57:25 .net
>>569

アメノヒボコの前は
支石墓や甕棺が日本には広がっていないので
日本の神より韓国の全羅南道と共通した神だろう

572 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:11:29 .net
対馬海峡を挟んだ国家だな

573 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:12:58 .net
大山祇がもともといたのなら大山祇が倭人なのか?

574 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:23:51 .net
>>570
正確には、
志賀島は火遠理命(伊都の高祖神社の祭神になっている)に嫁いだ豊玉姫の実家、海神豊玉彦の国だね。
綿津見(海神)と対となる陸の王が大山祇で、伊都国の王。
だな。

575 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:24:47 .net
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ┃ ▼よく分かるチョンコ半島の歴史
   ┃
   ┃有史以前: 虎になりたいメス熊とファックしてチョン誕生。
   ┃紀元前 : 南部から縄文人に支配される。
   ┃ 2世紀 : 北部から漢に従属させられる。
   ┃ 4世紀 : 倭の属国になる。
   ┃ 7世紀 : 唐に征服される。
   ┃13世紀 : モンゴルに犯されまくる。
   ┃14世紀 : 明に隷属する。
   ┃17世紀 : 清の勅使に三跪九叩頭の義務を課される。
   ┃20世紀前半 : 日本の一地方にしてもらう。
   ┃20世紀後半 : 北半分がソ連の、南半分がアメリカの属国になる。
       ∧_∧   。
      (  ´∀`) / <これでテストは満点        E[]ヨ
      (つ  つ      ━━━━━━━━━━━━━━━━
     | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
     |          |            
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576 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:43:21 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国から(自)、以北には、
一大率を特に置き検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国にて治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国から北側に対しては、一人の大率を特別に置いて、検察している。
(そのため)諸国は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は監督長官なので)いつも伊都国で執務している。
(大率が率いる監督組織とは)魏国における刺史のようである。

一大率の説明が「諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
一大率が部下を北方の各国に派遣して監督しているのが魏の刺史組織のようである。

つまり女王国の首都である伊都に特設された一大率が、刺史のような部下を派遣して、
北方の諸国を監視しているということ。

言い換えれば投馬国(狗邪韓國が中心)は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

577 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:46:25 .net
>>576
恣意的な読み間違いはやめろよ。

正しくは
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

578 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:54:43 .net
僅か千餘戸の伊都國は郡使や倭国の遣使が逗留する国で
倭の女王とは別の王が存在するのだから
女王国が伊都國王及び往来する郡関係の商人達を保護している

579 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:59:08.82 .net
>>573
>大山祇がもともといたのなら大山祇が倭人なのか?

倭王

580 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:59:59.11 .net
>>577
>>576
>恣意的な読み間違いはやめろよ。

ブーメランw

581 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:01:07.70 .net
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

582 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:03:49 .net
>>577
伊都国を監視しているとどこに書いてあるの???

583 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:04:12 .net
離島を中心とした両岸の極小倭国は
離島でおでん文字の看板出して商売してる人の願望じゃないかな

584 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:05:47 .net
>>583

領域としては狭いが、半島大陸との交易を大率が全て掌握していたから、伊都と奴国は非常に豊かだった。
それは考古学的にも分かっている。

585 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:14:09.75 .net
狭すぎだろ

586 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:16:24.74 .net
後漢書では狗邪韓国から倭奴国までしか出てこないしね。
倭とはそれくらいの国だった。
それでも奴国は東夷では単一の国邑として最大級だった。

587 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:19:38 .net
>>582
日本史スレにおるのに漢文の読み下しもできんのか???

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

588 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:20:44 .net
倭奴国は倭国の南の端の国
後漢書は卑弥呼が共立された倭国の範囲

589 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:28:31 .net
日本列島で九州北岸より北は本州

590 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:30:03 .net
>>589
お前、どこの国の人?

591 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:31:32.52 .net
>>590

それお前に聞きたい

592 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:34:52.68 .net
>>587
日本史スレにおるのに漢文の読み下しもできんのか???
恣意的な読み間違いはやめろよ。 「有如刺史」


「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國於 國中有 如刺史」
”女王国の以北には一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国に於いて治むる。國中に有り 刺史の如し。”

女王国より(自)北の国々には、特別に一人の大率を置いて検察している。
諸国は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は検察長官なので)常に(首都である)伊都国で執務している。
(大率の部下は)各国に派遣されて有る。
(大率の組織は)魏本国における刺史組織のようである。

つまり女王国の首都である伊都に特設された一大率が、刺史のような部下を派遣して、
北方の諸国を監視しているということ。

言い換えれば投馬国(狗邪韓國が中心)は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

593 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:38:00 .net
伊都国は行程上で女王国に行く途中の国

594 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:39:19.30 .net
詐欺師キナイコシがとっくに決着がついた話を蒸し返すから
忘れていたわw

>>592
これが正しい。

キナイコシは詐欺師だから
諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
と区切って伊都国を治めるとしているが、
これだと
於國中は於國じゃないと中が浮いてしまう

595 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:41:53.22 .net
>>592は関西の朝鮮部落民だけの読み方

596 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:44:11 .net
>>592>>594

猿芝居までして見苦しい
伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

597 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:45:41 .net
>>596
>伊都国には王がいて女王(国)に属している

そりゃそーだ。

伊都国には王がいて
伊都国にいる卑弥呼女王に属しているのだからな。
狗奴国と全力で戦うために。

598 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:45:59 .net
>>596
どんなに頑張っても蛙の骨w

599 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:46:08 .net
>>592
お前さんは妄想ふくらませる前に大前提となる三国志をちゃんと読めるようになりなさい。
話はそれから。
今の知識じゃ他人と議論できるレベルに達していない。

600 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:47:20.33 .net
>>597
それ本気で言ってんのか???
伊都国は女王国に属し、伊都王は女王に属してるのに???

もはや駄々っ子レベルだなwww

601 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:49:23 .net
>>597
世有王皆統屬女王國

これ100回くらい声に出して読み上げてみなよ。

602 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:50:45 .net
伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。


伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。


重要なことなので二回書コピペしましたよ(笑)

603 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:55:45 .net
キナイコシ大暴れw

604 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:57:07 .net
>>602
だからさ。

そりゃそーだ。

伊都国には王がいて
伊都国にいる卑弥呼女王に属しているのだからな。
狗奴国と全力で戦うために。

605 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:58:08 .net
爾支=一大率

キナイコシ敗北www

606 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:59:13 .net
伊都国王=一大率

キナイコシ敗北www

607 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:00:43 .net
伊都国を治めてるのは誰だ?

わざわざ記録されてる伊都国王か
わざわざ記録されてる爾支だろうが。

一大率が伊都国を治めてるんだろ?
だったら一大率をやってるのは伊都国王か爾支だな。

兼任だよ兼任。

608 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:02:12 .net
伊都国にいる卑弥呼女王が邪馬台国全域を支配。

同じく伊都国の伊都国王か爾支=一大率が下働き。

考古学でも矛盾しないな。

609 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:02:55 .net
元ネタは魏志倭人伝スレのコレやな

151日本@名無史さん2019/08/29(木) 09:49:06.41

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

610 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:03:49 .net
>>605
兼任とな。
プーチンみたいなものか。
元KGB長官にして現大統領。

611 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:04:27 .net
爾支は新羅で親玉を表す尼師今と同じ
伊都国は倭人の風習がない非倭人の国

612 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:04:29 .net
>>604
伊都国に王が二人いるって駄々っ子かよwww
糸クズもう諦めろんwwwww

613 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:05:48 .net
>>604
伊都国王が女王国に統属されているって倭人伝の記述と矛盾するから却下だな。

614 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:05:51 .net
>>609
伊都国を監視しているというのは詐欺師キナイコシのいつもの嘘。

一大率は治めているとしか書かれていない。
そもそも治めているという時点で妙だがな。

伊都国を治めているのなら、一大率=伊都国王か爾支。

615 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:06:39 .net
>>607
一大率は女王国の以北から伊都国を治めてんだよ

616 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:07:11 .net
>>613
は?
同じことを言ってるのだが。

日本史スレにおるのに日本語の理解もできんのか???

>反日キナイコシ

617 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:07:56 .net
>>615
日本史スレにおるのに漢文の読み下しもできんのか???

以北だから伊都国も含む。

そして伊都国を治めているのだろうが。

618 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:08:09 .net
伊都国に一大率の治所がある

619 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:08:46 .net
>>614
なら正解はコレだな

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

620 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:08:58 .net
>>612
へー伊都国には王が一人しかいないんだー。

だったら女王卑弥呼しかいないよねー。

キナイコシが認めたー(棒読み

621 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:09:34 .net
>>616
もう文盲バカは考えなくて良いよw
黙って諦めて消えなさいwww

622 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:09:40 .net
>>619

>>617

623 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:10:33.76 .net
>>620
王が複数いる国ってこの世界線じゃほとんど例がないんだよなぁ
糸クズはパラレルワールドの住人なんだな

624 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:11:36 .net
>>623
日本史スレにおるのに漢文の読み下しもできんのか???

三十国はあるだろうが。

625 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:12:23 .net
そもそも中華の刺史は監視・監督が業務なんだから、それと同じ仕事をしてる=伊都国を監視で何ら矛盾はないはずなんだが・・・

626 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:12:35 .net
王がいっぱい
権力者がいっぱい
キナイコシの畿内が出る幕は無いようで

627 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:13:19.76 .net
>>624
興奮しすぎだ糸クズ
王が二人いる国家の例を挙げてみろ無能

628 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:13:42.54 .net
>>625
監視≠治める

629 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:13:46.02 .net
伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。


伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。


重要なことなので二回書コピペしましたよ(笑)

630 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:14:09.49 .net
>>627
伊都国

631 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:14:32.17 .net
>>628
バカは文盲だから困るわ

於國中有如刺史

632 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:14:49.27 .net
>>630
無能wwwww

633 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:15:06.85 .net
一大率は長崎奉行、伊都国王は中華料理長の金萬福みたいな感じ

634 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:16:11 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

635 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:16:37 .net
>>633
たとえ話ヘタかよ(笑)

636 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:19:28.32 .net
3世紀の倭国の玄関口で、中華料理&エンターテイメントが必要な接待役は
伊都国王金萬福さんが適任だったということ

637 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:19:35.78 .net
「刺史」・・・地方を検察する官僚
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職

638 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:21:14.80 .net
そもそも倭人伝の中で女王国は七万余戸で伊都国は千戸と書き分けられてるじゃん。

639 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:21:16.81 .net
倭国は百済じゃないから

640 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:34:40 .net
>>637
なるほどなるほど。
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

641 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:36:41 .net
爾支は祭祀担当じゃないの?

642 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:37:45 .net
キナイコシ自ら伊都国には王が一人と言っとるからなw

伊都国王がいないと絶叫されたんじゃあしょうがねえw

邪馬台国圏内の伊都国にいたのは、女王卑弥呼その人しかいないじゃねーかwww

643 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:40:50 .net
>>636
言いたいことは分かった

644 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:42:05 .net
>>640
伊都国王の職務無茶苦茶重責やなw
そこまで尽力してるのに金印もらえなかったって可哀想すぎるやろw

645 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:42:33 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

646 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:45:02.85 .net
>>645
なるほどなるほど。
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

647 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:46:37.26 .net
女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当

見事なコンビネーションだな

648 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:47:59.53 .net
つまり平安時代が鴻臚館、飛鳥奈良時代が前身の筑紫館
3世紀が伊都飯店(国)一大率治所併設

649 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:48:16.66 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

650 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:49:06 .net
>>648
そのとおり、そこが女王国の北限。

651 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:49:08 .net
>>649
なるほどなるほど。
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当

見事なコンビネーションだな


キナイコシ、ナイスアシスト!

グッジョブ!!

652 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:52:27 .net
伊都飯店の総料理長金萬福=伊都国王=中華の鉄人ということ

653 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:52:28 .net
こんなに金印スレが伸びてるの初めてみた
読むのがおいつかないw
 
お前ら金印すきなんだな

654 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:53:43 .net
金印の話はしてない
金萬福さんの話

655 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:53:53 .net
コロナ自粛で鬱憤たまってるんでそ

656 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:56:07.83 .net
自女王國以北 特置一大率檢察

この一大率が5世紀に那津官家となり、7世紀に筑紫館となり、後に鴻臚館として太宰府の出先機関となった
所在地は福岡市中央区城内2

657 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:57:04.24 .net
これですべて解決してんじゃん

> 「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
>
> 読み下し
> ”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
> 諸国は之れを畏れ憚る。
> 常に伊都国を治むる。
> 國中に於ける刺史の如く有り。”
>
> 和訳
> 女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
> (そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
> (一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
> (一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
>
> 根拠
> 三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
> よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
> 統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。
>
> 結論
> つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。
>
> よって伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

658 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:59:26.58 .net
お前らスレチだ

移動先
魏志倭人伝を正しく読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1568748577/

659 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:59:41.24 .net
>>657
なるほどなるほど。
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当

見事なコンビネーションだな


キナイコシ、ナイスアシスト!

グッジョブ!!

660 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:03:32 .net
>>659

チョンの願望

661 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:05:21.31 .net
卑弥呼は人に会わない祭祀王
政治は弟

662 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:06:06.80 .net
>>661
なるほど!

弟が爾支=大率ね!

663 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:08:47 .net
爾支は金萬福さんの店のフロアマネージャー

664 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:10:50.97 .net
一大率の名が書かれていないのは任期制で替わるからだろうね

665 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:08:19 .net
>>659
以下を理路整然と反論できない糸チョンのお前は負け犬。
負け犬の遠吠えはレスの無駄だから慎みなさい。

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

666 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:15:17 .net
檢察諸國であるから
常に伊都国に治す

667 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:18:09 .net
伊都国で政務を行って
周辺諸国を検察してたんだろ

伊都国が首都じゃん

668 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:19:09 .net
東の畿内とか関係ないね

それを北と詐称してるし<詐欺師キナイコシ

669 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:20:10 .net
伊都国は接待入国管理するための国

670 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:22:41 .net
>>669
それは一大率の仕事だろ
伊都国を治めている

伊都国の女王卑弥呼に面会するための儀式みたいなもんだあ

671 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:24:06 .net
>>668

本州は九州北岸の北ではなくて、
本州は九州北岸よりも北
東の本州から倭人の風習である卜骨は広範囲に出る
糸島は無い

672 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:29:55.59 .net
>>671
そこにはなんにもないから考古学的に否定w

残念だったね

悔しいかな?www

673 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:30:48.46 .net
>>670

伊都国は僅か千餘戸ぽっちだから女王国に従属している
伊都国に治す一大率が諸国を検察している

674 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:31:44.95 .net
>>672

どこに何が無い?

675 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:32:03.64 .net
>>673
>伊都国に治す一大率が諸国を検察している

伊都が権力の座だったということ。
鎌倉や江戸の征夷大将軍と同じ。

676 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:32:49.92 .net
>>673
その通り!


政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当

見事なコンビネーションだな


キナイコシ、ナイスアシスト!

グッジョブ!!

677 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:33:34.75 .net
以上のまとめ

伊都に女王卑弥呼と一大率がいて

全てを支配していましたとさ

678 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:36:24.64 .net
>>675

一大率を特に置いて檢察させているのは女王国
千餘戸の国じゃハエのように叩き潰されてしまうので
女王国が保護している

679 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:38:21 .net
>>678
キナイコシがいくら屁理屈言っても
みんな考古学出土物を見ながら
ああ、哀れな負け犬がほざいてるなあ、としか思ってないからw

相手してるのは、
99.999%の勝利だけど、
100%に近づける作業なwww

680 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:40:25 .net
>>679

日本の学者は畿内説
ど素人お爺さんは九州説
朝鮮部落民は北部九州説

681 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:42:31.62 .net
日本の学者が北部九州説を一斉に唱えている喜劇

682 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:44:19.23 .net
考古学的に見て伊都国の出土品は他を圧倒している。

683 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:44:21.69 .net
>>681

という国がない朝鮮部落民の夢

684 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:46:15 .net
>>682

平原1号の2世紀末まで

685 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:54:07.45 .net
>>10
173年 卑弥呼使わした使者が訪れる。
とある
女王の座はついたのは、168年

686 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:59:24.41 .net
>>684
伊都国の最盛期は4世紀だぞ。

687 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:01:14 .net
>>686

曹魏は220年 - 265年

688 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:03:19.93 .net
>>670
女王が貿易港の国にいるわけ無いじゃん

689 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:05:08 .net
金印にあるヘビ
漢という大きな存在から、やまたのオロチ神話出てくる

690 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:05:22 .net
>>675
ちゃうやろ伊都は女王国に統属する一介の諸国
一大率は女王国から派遣された監督職
その監督職に統治されてる弱小国

691 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:05:38 .net
なあ、郡使が奴国はともかく、なぜ不弥国まで足を伸ばしたのか考えないのか?
志摩半島すら「隔絶」とかうそぶいて足を運ばなかったくせに。
不弥国には何がある?
香椎宮だよ。
これこそ卑弥呼の王城。

692 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:06:33 .net
>>690

鎌倉は人口が少なくても征夷大将軍がいて全国を支配していたぞ。

693 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:07:39 .net
香椎あたりは3世紀のたいした遺構はない

694 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:09:29.30 .net
>>692
ちゃうってw
伊都国は貿易港
ズルせんように一大率が見張ってる
何のために見張ってるかと言うと奴国より南側に位置する邪馬台国の卑弥呼様のため

695 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:13:27 .net
>>692

鎌倉幕府は封建制だから全然違う
九州の御家人は関東から下向した武士団

696 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:15:45 .net
伊都の大率も周辺地域に卑奴母離を派遣していたから、同じような仕組みだよ。
都が京都でも実権は鎌倉が握っていたように、都が邪馬台国でも、実権は伊都(にいた大率)が握っていた。

697 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:17:53 .net
>>694

港を監視していただろうけれど、それは伊都において大率が特にどのような点を重視して治めていたかの説明だろ。
伊都に治していた大率を諸国が畏怖したということは、伊都が権力の座なんだよ。

698 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:18:48 .net
一大率は北部九州だけ

699 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:19:19.09 .net
一大率がいたのは情報国の北限で遺跡も残ってる那津官家(のちの筑紫館)
伊都国に一大率がいたなんて記述は魏志倭人伝にも魏略にも存在してない

700 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:20:05.76 .net
>>697
いや伊都国が諸国の一つだし

701 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:20:31 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

702 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:26:02 .net
>>697

伊都に治す一大率が大国から派遣されているから

703 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:26:58 .net
伊都国にいなかったら話にならないだろ。

704 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:27:46 .net
伊都国には統治者たる王がいて、爾支という長官もいて、泄謨觚と柄渠觚という二人の副官もいて世帯数は000余戸と明記されている。
しかもご丁寧に女王に統属しているとも明記されている。
一大率は貿易港の伊都国を監督するために女王国から派遣された刺史のような役職。
魏の時代の刺史は長官職なので爾支という長官がいる伊都国に属していないのは明白。

705 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:29:29 .net
>>699

那津宮家は見つかっている遺構が6世紀後半〜7世紀後半

http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/269/index.html

706 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:32:19 .net
>>704
正解!
一大率が伊都國にいたら爾支と役職がバッティングしてしまう

707 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:46:58 .net
爾支には、檢察諸國も
皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王の権限もない

708 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:52:02 .net
>>707
そのとおり
よって伊都は女王国に統属する一介の諸国だと判断できる

709 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:55:43 .net
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1553928240/948

948 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2020/05/14(木) 00:37:35.54
>アメリカで考えたら良いんだよ
>
>伊都はニューヨーク
>
>伊都国王はN.Y.州知事
>爾支は補佐官、泄謨觚・柄渠觚は副補佐官
>
>一大率はワシントンD.C.から派遣された連邦エージェント

710 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 01:40:22 .net
伊豆下田&浦賀奉行(一大率)と宿屋を営んでいた村長(伊都国王)くらいかな

711 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 06:33:22 .net
一大率が治めているのは治世ではなく治安でしょ
伊都国は首都だから皆集まってる
世有王  女王卑弥呼 邪馬台国を治世
官日爾支 都知事  伊都国を治世
特置一大率 警視庁長官 伊都国の治安を守る

712 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 06:59:25 .net
>>706

禰宜は伊都だけの市長
大率は対馬海峡の治安

713 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 07:00:31 .net
>>708
>>707
>そのとおり
>よって伊都は女王国に統属する一介の諸国だと判断できる

論理が飛躍していて意味不明
何かの思い込み?信念?宗教?

714 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 07:02:26 .net
率は帥と同義
つまり大率は太宰の帥そのもの

715 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 07:09:00 .net
治には治兵や治安とかいろいろ意味があるからね
治世の分は最初の国々の説明のとこで説明ずみなので
一大率が治めてるのはそれ以外

716 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 07:22:22 .net
つまり港や貿易の監視、つまり海上保安庁の役割が大率
だから女王国の北側の対馬海峡を検察していて、そこの諸国から畏怖されていたわけだ

717 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 10:40:30 .net
>伊都国は首都だから皆集まってる

首都じゃなくて千戸だけの従属国

718 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 13:00:26 .net
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

719 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 14:58:44 .net
>>711
だーかーらー
女王国は伊都国の南
なんで伊都国を女王国にしたいのか理解に苦しむわ

720 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 14:59:30.82 .net
>>713
伊都信者のブーメランwww

721 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 14:59:55.40 .net
>>714
正解

722 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 15:00:03.18 .net
>>715
正解

723 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 15:04:36 .net
伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない


原文
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。


よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

724 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 17:06:25 .net
>>723
常治伊都國の誤読ですな。
伊都國で執務していた、が正解です。

725 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 17:31:47 .net
>>719
大率が伊都にいて、女王国「以北」を治めている。
以てという語はその起点を含むから、伊都国は女王国の領域に含まれる。

726 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 17:32:21 .net
>>724
正解

727 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 17:52:21 .net
>>724-726
糸ちょんの足掻きwww

728 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 19:36:07 .net
そもそも、狗邪韓国から南は倭国であり、女王の国。
ただし南側の狗奴国や東のわけわからん国々(畿内を含む)は除く。

729 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 20:38:16 .net
>>728
倭国=女王国ではないんだな

730 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 23:48:10 .net
倭国=女王国+狗奴国+投馬国
少なくとも狗邪韓国から伊都国までは女王国に含まれる。

731 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:05:33 .net
>>730
統屬女王國

伊都国は女王国に従属している国なんだから女王国ではない

732 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:05:47 .net
女王国が弱小伊都国を保護してる理由は倭人の国ではないからだよ
唐人街と同じ

733 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:07:15 .net
女王国に従属している国だったら女王国の一部だろうに

734 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:09:04 .net
>>733
それはチョンコロ思考だね

735 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:11:41 .net
>>731
ふむふむなるほど
伊都国は女王国ではないのか

じゃあ一大率が監視している自女王国以北とはどの領域なのだ?

736 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:18:00.67 .net
>>735
女王国以北は女王国の北限と言える
言い換えれば伊都国は女王国の北限から監視できる位置にあるということ
そして伊都国はのちの怡土懸や怡土郡であろう
怡土郡は現在の福岡市西区も内包している
よって西区を見渡せる現在の鴻臚館跡(筑紫館)が一大率の駐屯所だと推察できる
筑紫館はのちの大宰府出張所であり、大率=大宰という推察とも符合する

737 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:21:22.92 .net
>>736
自が抜けとるぞい

738 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:22:19.37 .net
>>737
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

739 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:23:58.34 .net
>>737
女王國 自(よ)り以北

740 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:24:34 .net
>>737
自女王国以北は女王国の北限じゃないな
女王国よりも北の国々のことだ

よって、キナイコシさんの訳は全部デタラメw

741 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:37:02 .net
キナイコシがわからんのは、
知ってて敢えて詐欺ってるのか
知らなくて馬鹿晒してるのか
見分けがつかんところだw

742 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 01:00:59 .net
>>740-741
そういうチョン嘘イラネ

743 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 02:34:19 .net
伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない


原文
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。


よって伊都キチや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

744 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 02:35:00 .net
伊都国の内情

原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

書き下し文:
”官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。
千余戸有り。
世王有り。
皆女王国に統属す。
郡使往来し常に駐する所。”

現代文:
官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。
(人口は)千余戸ある。
代々の王がいる。
みな女王国に従属している。
(帯方)郡の使者が往来し、常に留まる所である。

解説:
三国志の記述では前節が後節に掛かっているので、
女王国に従属している「皆」は爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指す。
つまり、伊都国の王も役人も住民も女王国の臣民である証明である。

また三国志における魏代の刺史は官と同義であるため、すでに伊都国には爾支という官が務めているのだから
魏の刺史(=官)と同等の一大率は伊都国の役人でないことは明白。
つまり、一大率は女王国か直属の役人であり、伊都国には属していない証明である。

結論:
よって伊都キチや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても
伊都国は女王国ではなく、女王国に従属する諸国の一つであり、
一大率は伊都国には存在せず、女王国の北限で伊都国を監視する女王国の役人である。

745 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 04:21:00 .net
>>744
>三国志の記述では前節が後節に掛かっているので、

意味不明な勝手ルール
そもそも、前から後ろにかからない文章ってなんだ?
中国人が返り点打ちながら読んでいるとでも思っているのか?
キナイコシが漢文を読めない無能だと露見したレスw

746 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 06:42:16 .net
みんな九州に行ってしまってボッチになったキナイコシの渾身の他スレ出撃だったがキナイコシの俺だけルールが認められることはなく単なる荒らしとして恥を晒しまくる結果にww

747 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 07:28:47 .net
自女王國以北で論点になるのは、女王国が含まれるか含まれないかであって、
女王国よりも北方にある諸国はどちらにせよ含まれる。

748 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 07:45:47 .net
狗邪韓国や対馬を誰が支配していたかと言えば、卑弥呼しかいないわけで。
キナイコシが伊都は女王国ではないなどとほざくのは意味不明。

749 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 09:50:26 .net
伊都国は女王国に従属してると明記されているので女王国連合参加国であっても女王国ではない
こんな基礎中の基礎も理解できないのが糸クズとキナイコシと古田盲信者

750 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 16:06:02 .net
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今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


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751 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 16:12:07 .net
>>750〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
 
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします

しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
 
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

752 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 17:04:31 .net
☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名(A)」は24か所。

“Aに役所を置いた”の意味で使われた例 ☆22
"Aを治めた"の意味で使われた例 ★2

☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹はそこで太祖を兗州東郡の太守に任命することを発表し、東武陽県に役所を置かせた
☆紹歎其能徙爲東郡太守治東武陽 袁紹は臧洪の能力に驚嘆し、東郡の太守に転任させ、東武陽県に政庁を置かせた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣?如舊 (閻柔に)元からの如く廣?(上谷郡の寧城)で執務させた
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている。(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下は先主を荊州の牧に推し立てて、公安県(を州都として)で執務することにした
☆治成都 (先主は)成都に役所を移した
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌の都尉(6県を統治)に任命して、海昬県に役所を置かせた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧の任務を行い、公安にその役所を置いた。
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 程普を呉郡の都尉に任命し、銭唐に役所をおいて執務させた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、建業に役所を置かせた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 政府を開設させて、その役所は半州に置かせた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた

★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

753 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 17:05:06 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

女王国より北の国々に対しては、一人の大率を特設して検察している。
北の国々は大率を畏れ憚っている。
大率の役所は伊都国に常設してある。
中国本土における刺史のような「検察官の役目」を果たしている。

・里程部分で既に地方官の説明がなされている
・自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある
・大率の業務についての説明は検察官のものだけ
・三国志では「治+場所」はその場所に役所を構えるという意味が多い

女王国=邪馬台国の首都である伊都に、
邪馬台国政庁(国会議事堂:女王卑弥呼や大臣達)
伊都国都庁(都庁:都知事爾支と部下たち)
大率執務室(検察庁:検察官大率→北方諸国巡回でほとんど伊都にはいないが)
などなどの重要官庁が集中していた。

刺史は本来は領地を持たないただの「検察官」であり、
首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
大率の職務も同じ検察官。

中国大陸は広いので、報告するに刺史本人でなく使者を立てるようになり、
本来の地方官と居座った刺史の二重権力を解消するために、結局は刺史や牧が地方官になった。
邪馬台国とその北の諸国であれば、対馬海峡を行き来するだけだから(水行10日)、
大率は伊都国に執務室を構えて、そこから各国へ行き来して検察していただけ。

754 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 18:26:16 .net
GJです。

755 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 18:53:05 .net
.



>>751
>オクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの
>共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって
>見せたりもします


で、↑この作り話の証拠は?


>3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、
>朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です


で、↑このデマを証明する3千年前の朝鮮半島における「在地産の日本系土器遺構」は?



早く言えよサギー華南ボルネオチックブタロイド


.

756 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 18:57:59 .net
邪馬台国政庁は伊都国にはない
伊都国都庁は宿とレストラン(ステージ有)

757 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 23:17:37 .net
>>756
そんな当たり前の常識を受け入れられないのが糸クズとキナイコシなんよ・・・

758 :日本@名無史さん:2020/05/16(土) 14:10:47 .net
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!


.

759 :日本@名無史さん:2020/05/17(日) 13:43:16 .net
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

760 :日本@名無史さん:2020/05/17(日) 17:53:39 .net
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。


一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。

結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。

761 :日本@名無史さん:2020/05/18(月) 13:03:51 .net
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


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762 :日本@名無史さん:2020/05/19(火) 12:57:16 .net
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

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763 :日本@名無史さん:2020/05/19(火) 13:01:16 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

764 :日本@名無史さん:2020/05/20(水) 02:24:23 .net
推奨NGワード


@阿波
釜と甑
釜と竈
氏名と所属団体

765 :日本@名無史さん:2020/05/20(水) 13:33:41 .net
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


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766 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 00:31:19 .net
偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物
WWWWWWWWWWWWWWWW

767 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 00:59:54 .net
推奨NGワード


@阿波
河姆渡
良渚
木骨泥墻

釜と甑
釜と竈
氏名と所属団体
サギー
チンク
ツカポコタカ

768 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 04:32:24 .net
郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。

無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

以上。

769 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 10:07:26 .net
>>768
GJ

770 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 13:51:42 .net
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最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
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771 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 13:53:18 .net
推奨NGワード


@阿波
河姆渡
良渚
木骨泥墻





オクキョン
氏名と所属団体
サギー
チンク
ツカポコタカ

772 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 14:30:13 .net
↑自分はNGにしてないサギー華南ブタチックマライロピテクスwwww

773 :日本@名無史さん:2020/05/22(金) 14:46:24 .net
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


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774 :日本@名無史さん:2020/05/23(土) 13:28:23 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


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775 :日本@名無史さん:2020/05/23(土) 13:47:04 .net
>>774
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
チョンコどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻しという隠蔽工作しました
本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として黒歴史化しています

しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
 
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

776 :日本@名無史さん:2020/05/23(土) 14:04:54 .net
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>>775
>オクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの
>共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって
>見せたりもします


で、↑このサギーな作り話の証拠は?


>3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、
>朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です


で、↑このデマを証明する3千年前の朝鮮半島における「在地産の日本系土器遺構」は?



早く言えよサギー華南ボルネオチックブタロイド


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777 :日本@名無史さん:2020/05/24(日) 14:53:55 .net
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!


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778 :日本@名無史さん:2020/05/25(月) 13:47:48.78 .net
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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779 :日本@名無史さん:2020/05/26(火) 13:42:28 .net
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


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780 :日本@名無史さん:2020/05/27(水) 12:48:04 .net
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

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781 :日本@名無史さん:2020/05/27(水) 12:53:26 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


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782 :日本@名無史さん:2020/05/28(木) 13:41:56 .net
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


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783 :日本@名無史さん:2020/05/29(金) 13:49:55 .net
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最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
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784 :日本@名無史さん:2020/05/30(土) 13:48:12 .net
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最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


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785 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 13:58:46.27 .net
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今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


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786 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 16:04:10.51 .net
>>785

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは、
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

ソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」頃です。

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定から逃げ回った上に、
日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。

本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに歴史学の恥部となっています。

787 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 17:04:31 .net
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>>786
>朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、
>炭素年代測定から逃げ回った上に、日本、中国、ロシアからの共同研究を
>頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。


で、↑このウソ創作の証拠は?


サギー華南マライブタのウソ創作だから、今回も何の証拠も出せないねwwww


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788 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 17:08:04 .net
>>787
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

ソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」頃です。

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定から逃げ回った上に、
日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。
本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに歴史学の恥部となっています。

789 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 19:03:20.14 .net
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>>788
>朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、
>炭素年代測定から逃げ回った上に、日本、中国、ロシアからの共同研究を
>頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。


で、↑このウソ創作の証拠は?


サギー華南マライブタのウソ創作だから、今回も何の証拠も出せないねwwww


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790 :日本@名無史さん:2020/06/01(月) 01:11:08 .net
>>789
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

ソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」頃です。

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定から逃げ回った上に、
日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。
本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに歴史学の恥部となっています。

791 :日本@名無史さん:2020/06/01(月) 06:36:34 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


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792 :日本@名無史さん:2020/06/01(月) 10:28:40 .net
>>791
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

ソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」頃です。

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定から逃げ回った上に、
日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。
本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに歴史学の恥部となっています。

793 :日本@名無史さん:2020/06/01(月) 15:10:33 .net
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!


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794 :日本@名無史さん:2020/06/02(火) 13:07:29.38 .net
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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795 :日本@名無史さん:2020/06/02(火) 13:57:59 .net
金印の話をしろよ朝鮮人ども

796 :日本@名無史さん:2020/06/03(水) 13:29:29.18 .net
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


.

797 :日本@名無史さん:2020/06/04(木) 13:24:04 .net
.

(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

798 :日本@名無史さん:2020/06/04(木) 13:28:54 .net
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

799 :日本@名無史さん:2020/06/04(木) 13:31:58 .net
推奨NGワード


@阿波
河姆渡
良渚
木骨泥墻





オクキョン
氏名と所属団体
サギー
チンク
ツカポコタカ
セローイ
アッー

800 :日本@名無史さん:2020/06/05(金) 12:27:08 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

801 :日本@名無史さん:2020/06/06(土) 17:29:18 .net
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

802 :日本@名無史さん:2020/06/07(日) 13:39:39 .net
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

803 :日本@名無史さん:2020/06/08(月) 13:17:34 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.

804 :日本@名無史さん:2020/06/08(月) 13:48:08 .net
>>803
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです

ソングンリに水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」です

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています

805 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 18:03:34.00 .net
後漢書に記載 倭奴国〜倭國之極南界也

金印「漢委奴國王」

魏志倭人伝に記載 邪馬壹國

金印「親魏倭王」

疑問その一:あれ?倭国の中に倭奴国ってどいうこと??

疑問その二:あれ?なんで親魏邪馬壹國王じゃないの?

806 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 18:16:30.87 .net
倭の中に邪馬台国があり、その中に倭奴国がある。

807 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 19:01:27.06 .net
↑マトリョーシカ極小倭国

808 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 20:32:32.82 .net
三国志の時代だから、基本的に国邑の単位で考えるのさ。
むしろそれでも倭人の領域はやたら広く、魏志倭国伝ではなく魏志倭人伝なのはそのため。

809 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 21:05:07.05 .net
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



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http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


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810 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 21:41:25.28 .net
後漢書 倭(倭国)の中の奴国が、朝貢してきた。

末蘆國
 →東南→伊都國
       →東南→奴國     →東→不弥國
           奴國(縦長の二万戸)

だから、当時の北部九州倭国の中で、奴國が極南界

漢委奴國王 漢は奴国王に委任する 漢が委任する奴国王

倭の世界は、漢としては、奴国王に委任する


邪馬壹國は邪馬台国=やまと国=ワ国=倭国

親魏倭王 魏と親しい倭王 魏と親しいやまと王 魏と親しい邪馬台王

811 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 21:59:51 .net
漢委奴國王 漢は奴国王に委任する 漢が委任する奴国王

任那 那珂川の那国=奴国勢力に任せる=委任する

そいうこと

812 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:17:25.35 .net
北部九州には、伊都国と奴国、少なくとも2つの巨頭がいたのだな

813 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:22:39.16 .net
でも卑弥呼の時にはもう奴国に王はいなかった。
考古学的にも、三種の神器を持つ王墓は奴国側では見いだされなくなり、王権は並立と言うよりは糸島に移動したように見える。

814 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:27:25.50 .net
一大工業地域の奴国といえども、
弥生時代には原料を全て上流の伊都に握られているから、
従わざるをえなかったんだろうね

815 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:39:42.34 .net
親魏倭王金印が世に出る日はあるんだろうか

平原卑弥呼女王墓や八咫鏡は見つかったけど、どうだろうね

816 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:52:56.90 .net
親魏倭王印
https://www.lucktendo.co.jp/blog/upload-images/20131210102753.jpg

817 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 23:03:06.08 .net
漢委奴國王 漢は奴国王に委任する 漢が委任する奴国王

任那 那珂川の那国=奴国勢力に任せる=委任する

そいうこと

818 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 23:43:40.27 .net
お前ら卑弥呼に期待しすぎw
さすが憲法球場で守られてるだけあるww

倭国乱に続いての狗奴国との戦争中に共立された女王だぞ
ふにゃっとした巫女に統率できるわけがなかろうwww

極道の女だよ

敵対勢力は粛清
狗奴国王は一大率で徹底的に封じ込めて
軍を送って対峙

金〇正女王の写真を見てみろ
あんな感じ

どっちかというと、卑弥弓呼のほうがビビってた可哀そうな側

819 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 23:58:27.45 .net
出土状況不明の志賀島の金印の純度は
四川省で見つかった明末期の蜀世子宝と同じ95%だったな

820 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 23:58:50.95 .net
金〇正女王

821 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:03:26 .net
朝鮮半島のキナイコシの主張

邪馬台国は畿内の鉄器ゼロ遺跡だった、蛙の骨までしゃぶってた(笑)

金印は偽物 偽物を国宝扱い(笑)

DNA鑑定で稲作が直輸入 俺ら朝鮮半島が恵んでやったんだよ(笑)

822 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:09:37.36 .net
金印出土は日本国

反日全力キナイコシ悔しいwww

823 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:13:03.78 .net
後漢書の1世紀の極南界の倭奴国の光武賜以印綬と邪馬台国は関係ない

824 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:18:17.27 .net
文字を持つ勢力の話だから関係ある

825 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:23:43.17 .net
1世紀に存在した倭奴国は漢末期に卑弥呼が共立された倭国の極南界に位置するから
倭奴国が北部九州ならば大倭王居邪馬臺國は九州にはない

826 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:27:10.75 .net
>>825
キナイコシさんに特別にヒント

倭奴国 57年金印 1世紀

邪馬台国 239年金印 3世紀

どっちも北部九州>根拠:鉄器の出土分布

827 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:30:05.13 .net
後漢書倭伝に鉄という文字はない

828 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:34:15.63 .net
だから?敗者キナイコシさん

829 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:40:15.89 .net
鉄器の分布などは根拠にならない
後漢書にも魏志にも書かれた倭人の特有の風習は卜骨
漢代の九州からは出ていない

830 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:00:44.24 .net
言い張るだけでまるで根拠がないキナイコシ

831 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:01:17.50 .net
>>823

同じ倭だから関係ないわけないだろw

832 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:02:44.88 .net
考古学的にはもう無理なので
文献上で比定するなら、北部九州に邪馬台国が欲しければ
南側に極南界の倭奴国を比定しなければならない

833 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:12:54 .net
イミフ
極南界が倭奴国なのだから、倭奴国が女王国でいいじゃん。
ああ、倭奴国は博多湾沿岸のことだから、魏志倭人伝の伊都国、現代の糸島市も含むからね。

834 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:15:04.55 .net
博多湾沿岸では九州限定倭国の極南界にならない

835 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:27:38.95 .net
>>833
>現代の糸島市

地図をちゃんと見よう。
伊都国に比定される怡土懸の大半は現前原市。

836 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:33:26.68 .net
旧前原市だね

837 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 06:44:02 .net
伊都としまの両方とも現在は現糸島市だぞ

838 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 07:06:48 .net
>>834
頭かたいねえ

奴国は縦に細長くて、金印当時は奴国までが倭国=甕棺墓領域だった

839 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 07:27:54 .net
奴国は2万戸もあったから、かなりの面積が奴国に含まれる。
吉武高木あたりが奴国の中枢かな。

840 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 07:28:34 .net
伊都国の中枢は三雲あたり。

841 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 09:17:39.29 .net
>>838

邪馬台国は極南界の倭奴国よりも北だから
海と離島しかなくなる
邪馬台国が欲しいなら倭奴国を南側に比定しなければならない

842 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 09:40:08.68 .net
倭奴国=伊都国=女王国です。

843 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 09:45:56.71 .net
後漢書には倭奴国と大倭王居邪馬臺國は別の国として書かれている
漢末に卑弥呼が共立された倭国の一番南端に1世紀に存在した国が倭奴国

844 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:22:06.82 .net
弥生中期に盛行した甕棺墓領域は、南限が宇土半島基部(薩摩半島西岸日置郡に2基はある)
北限が壱岐、古賀市、東限が嘉穂郡飯塚
甕棺墓領域=倭国とすると極南界は熊本平野南端地域になる

https://www.city.uto.lg.jp/museum/pro/kodai/sakaimeiseki.html

845 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:25:21.49 .net
>>841
時代が200年も離れたものを無理くり同じ時代として論じるバカ

846 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:26:34.13 .net
>>842
倭奴国=伊都国+奴国=女王国だろ。

847 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:29:17.80 .net
>>839
奴国は現在の福岡市周辺全体だろうな。

848 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:31:08.73 .net
倭の奴の国じゃないんだから倭人伝の奴国と結びつける必要はない

849 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:34:15.13 .net
そうだな。
実は伊都国の言い換えだろう。

850 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:35:28.17 .net
>>844
>甕棺墓領域=倭国とすると極南界は熊本平野南端地域になる

そこは卑弥呼と喧嘩して狗奴国として対立していた地域だな。
もともとは卑弥呼と同族だ。

851 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:42:21 .net
>>845

無理くり同じ時代としているのではなく
後漢書というのは後漢時代(25年 - 220年)について書かれている
倭国の範囲というのは後漢末に卑弥呼が共立された倭国
その一番南端に1世紀に存在して朝見した国が倭奴国(「漢時有朝見者」魏志)
北部九州一元説は無理くり倭奴国と大倭王居邪馬臺國を重ねてしまっている

852 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:45:14 .net
>>850

後漢書では拘奴國は「女王國東度海千餘里」
東の海を渡った倭種の国となっている

853 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:06:43.74 .net
>>851
バカじゃね?
後漢書に書かれているのは、57年倭奴国の大夫が朝貢、107年倭国王師升が朝貢。
それだけ。

倭奴国は滅亡したんだろうよ。
もしくは、倭の奴国=魏志倭人伝でも奴国。

854 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:08:05.85 .net
狗奴国は魏志倭人伝に書かれた、南の敵対国。倭人か倭種か不明。
拘奴國は後漢書に書かれた、東の倭種国。不属だが敵対かどうか不明。

勝手に改竄するな。

855 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:11:19.83 .net
魏略には卑弥呼、狗奴国は出てくるが、邪馬台国は出てこない。
倭国=やまと国=邪馬台国だから。

女王国=伊都国+奴国

856 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:18:17.24 .net
>>853

北部九州説は民族的に罵声が非常に多い
倭奴国は滅亡したんだろうが、後漢末の卑弥呼が共立された倭国の一番南にあった国
甕棺墓領域=倭国と仮定すると宇土半島基部にあったことになる

857 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:22:27.05 .net
>>856
『倭國之極南界也』

(倭の)奴国は、倭国の最南部を極めている。

奴国の南端が倭国の南端と一致するとは書かれているが、
奴国が最南端である、とは書かれていない。

858 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:23:14.45 .net
>>854

狗奴韓国 ← 三国志

拘奴韓国 ← 後漢書

の例もあるぞ、これ同じ国だろ

859 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:26:30.44 .net
>>854

後漢書の引用しただけなので改竄はしていない
後漢書では南に不属の国はないので
甕棺墓領域=倭国と仮定すると宇土半島基部が極南界になる

860 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:27:31.90 .net
>>858
>狗奴韓国 ← 三国志

三国志のどこに書いてあるのだ?

861 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:29:22.46 .net
>>859
>甕棺墓領域=倭国と仮定すると宇土半島基部が極南界になる

それでいいんじゃないの?

中国人の認識していた倭国=九州島の中で、
委奴国が57年当時支配していた領域が南北に広かっただけ。
北端は博多湾沿岸。

862 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:29:48.93 .net
>>857

「最南部」と「極めている」と二回読んでいる語訳

863 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:30:09.41 .net
狗邪韓国やね

864 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:30:32.07 .net
>>859
>後漢書では南に不属の国はないので

史料をそのまま読めよ。
後漢代には南の狗奴国は無かった。
もしくは記載するまでもないほど弱小だった。

865 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:31:42.01 .net
>>862
『倭國之極南界也』

(倭の)奴国は、倭国の南方を極めている。 (最南端まで達する)

奴国の南端が倭国の南端と一致するとは書かれているが、
奴国が最南端である、とは書かれていない。

866 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:33:14.62 .net
狗奴国は魏志倭人伝に書かれた、南の敵対国。倭人か倭種か不明。
拘奴國は後漢書に書かれた、東の倭種国。不属だが敵対かどうか不明。

北部九州邪馬台国なら、
前者は免田式土器領域の熊本国家。
後者は四隅突出墓の日本海沿岸国家。

867 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:38:44.15 .net
>>861

1世紀に朝見した倭国の極南界の倭奴国は宇土半島基部にあった国という説でいいかな
つまり甕棺墓領域の福岡県西部は後漢代に朝見など何もしていない
糸島や春日の国は志賀島の出土状況不明金印とは一切関係ない

868 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:39:52.17 .net
>>865
>南端と一致する
>最南端である

具体的にどう違うの?

869 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:40:26.78 .net
後漢の頃は倭奴国からの使者を迎えるだけだったので、それよりも南の情報は入ってこなかった。
群使が伊都国まで行ったことで周辺の情報が増え、さらに南の狗奴国について知られるようになった。

870 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:41:32.01 .net
キナイコシの詭弁をまともに相手するのは無駄。
倭奴国は金印も見つかっているから、博多湾沿岸から動かしようがない。

871 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:41:41.26 .net
>>865

極めているが倭國と之の間に入ってしまっている語訳

872 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:41:50.52 .net
>>867
人の話を無視して同意を求めるとか何様なの?

1世紀に朝見した倭国の極南界の倭奴国は、
博多湾沿岸が北限(根拠:志賀島金印出土)で、
南限は当時の倭国の最南端と一致する部分。(どこが最南端とするかは不明)

南北に長細い領土を有していた。

873 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:42:53.73 .net
郷土愛に狂う糸 チヨンコを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、民族願望の塊であるキナチヨンコや泡チンコがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
無論だが、女王国は「九州」であり、平原古墳が卑弥呼の冢である可能性は低くない。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

874 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:43:56 .net
1世紀の倭国の範囲は対馬海峡+伊都+奴国+不弥国

奴国=1世紀倭国の極南界(根拠:魏志倭人伝の里程)

以上。

875 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:44:19 .net
狗奴国は魏志倭人伝に書かれた、南の敵対国。倭人か倭種か不明。
拘奴國は後漢書に書かれた、東の倭種国。不属だが敵対かどうか不明。

北部九州邪馬台国なら、
前者は免田式土器領域の熊本国家。
後者は四隅突出墓の日本海沿岸国家。

876 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:46:28.03 .net
>>870

北部九州一元起源説が倭国=甕棺墓領域だと仮定しているので
一番南は宇土半島基部になると教えている
福岡県西部だけ倭国にしたいのなら福岡県西部だけに共通する何かを根拠にしなければならない

877 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:48:02.68 .net
狗邪韓国は魏志倭人伝に書かれた、倭地=九州の北岸、釜山しかない。
帯方郡から七千里

拘邪韓国は後漢書に書かれた、倭人支配域の北西、釜山より西。
楽浪郡から七千里

別物ですね。

878 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:50:10 .net
>>872

倭奴国は倭国の極南界
博多湾沿岸から宇土半島基部までが倭奴国ならば
大倭王居邪馬臺國はその北の海か離島になる

879 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:52:18 .net
>>876
委奴国は奴国を含む南北に細長い国家だと言ってるのに
いつまでやってんだこのキナイコシは

委奴国の北岸は博多湾沿岸、志賀島。金印出土。
委奴国の南端はどこでもお好きにどうぞ。任せたw

880 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:53:06 .net
>>878
大倭王居邪馬臺國は時代が違いますよッと。

881 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:00:34 .net
>>880

大倭王居邪馬臺國、卑弥呼共立後の時代が後漢書の倭国の範囲

882 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:03:09.68 .net
>>881
だから何?というのと、
それは君の決めつけ。

883 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:03:48.69 .net
>>879

博多湾沿岸が倭奴国ならその北の海、離島が大倭王居邪馬臺國
ちなみに志賀島には甕棺はない

884 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:08:33.21 .net
>>883
本当に頭が固いな。

委奴国は奴国を含む南北に細長い国。
>委奴国の北岸は博多湾沿岸、志賀島。金印出土。
>委奴国の南端はどこでもお好きにどうぞ。任せたw

なんで邪馬臺國が「北」と決めつけるんだよ。

君に付き合って、じゃあ同時代と仮定しよう。
委奴国が南北に細長くて、金印出土から奴国を含むのが確実なら、
邪馬臺國はその東か西だろう。

考古学的には西の伊都国を含む領域が邪馬臺國。

885 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:12:32.61 .net
後漢書を読んでいるなら、
大倭王居邪馬臺國 は一番最初の段落。

そこから倭人の風習について長い説明が入って、
その後に、倭国の歴史の段落が始まる。

倭奴国〜倭国王師升〜倭国大乱〜卑弥呼女王国だ。

だから倭奴国と大倭王居邪馬臺國との間には後漢書の記載でも長い年月が経っており、
また三国志に倭奴国が出てこないのだから、
素直に解釈するなら倭奴国は滅亡した。

倭国=邪馬臺(台)國に征服されたのだろう。

886 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:21:07.66 .net
倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百餘國 
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)

「あらすじ」を解釈すると、
倭人は九州島にいて、百余国あったのが、次第に統一されて、
武帝が挑戦を滅ぼした後に漢と外交していたのは三十国。
三十国はそれぞれ代々の王がいた。

その中で最も有力、そして最終的には大王となった、
大倭王は邪馬臺國=倭国の王である。
=伊都国を首都として次第に拡大

後漢時代の中で、次第に統一されていったんだろ。
百余国→三十国→邪馬臺國vs委奴国

邪馬臺國は伊都国が首都
委奴国は奴国が首都、西には邪馬臺國があるから南北に長細く領土拡大

委奴国王が一時優勢になって金印を貰ったが、その後衰えて、
伊都国を首都とする邪馬臺國=倭国が北部九州を制圧。
後漢代に統一が進んだ過程が示されている。
何の矛盾もない。

887 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:24:16.52 .net
>>884

同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
その最南端が1世紀に朝見した倭奴国
奴国が最南端で東の糸島の伊都国が邪馬臺國なら
倭国=甕棺墓領域というのは間違い
福岡県西部だけのとても極小の倭国の考古学的な根拠を示さなければならない

888 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:27:15 .net
>>887
まだ言ってるよw

委奴国は奴国を含む南北に細長い国。
>委奴国の北岸は博多湾沿岸、志賀島。金印出土。
>委奴国の南端はどこでもお好きにどうぞ。任せたw

889 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:28:34 .net
委奴国=奴国+南の国々
邪馬臺國=倭国=伊都+対馬海峡

890 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:34:53.83 .net
>>888

福岡市、春日市を中心とした博多湾沿岸から宇土半島基部までの細長い倭奴国なら
倭国の極南界ではなく倭国の東部

891 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:35:51.92 .net
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
その通り。

<1世紀>
委奴国の支配域=奴国+南の国々(甕棺墓領域の南端まで)
邪馬臺國=倭国の支配域=伊都+対馬海峡

<3世紀>
委奴国滅亡
邪馬臺國=倭国の支配域=甕棺墓領域全土

倭国の出発点は伊都。
次第に領土拡大して、最終的には、
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国

892 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:39:00.81 .net
>>890
東に不弥国、さらに渡海千余里もして漸く拘奴國と広がっている。

893 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:40:16.28 .net
奴国の東には巨大な豊国が広がっているぞ。

894 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:46:24.11 .net
>>891

根拠が示されていない作り話
3世紀には甕棺墓領域というのはない

895 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:49:14.11 .net
>>894
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
その通り。

<1世紀>
委奴国の支配域=奴国+南の国々(甕棺墓領域の南端まで)
邪馬臺國=倭国の支配域=伊都+対馬海峡

<3世紀>
委奴国滅亡
邪馬臺國=倭国の支配域=北部九州全域

倭国の出発点は伊都。
次第に領土拡大して、最終的には、
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国

896 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:50:34.89 .net
>>886
後漢書には伊都が出てこないね。

その文章を読むと、其大倭王居邪馬臺國は三十国の時にはもういたように読める。
てことは、
我々が伊都国と認識している国=早良平野+糸島平野は、
本来は邪馬臺國。

邪馬臺國が最終的に北部九州を統一したから、
その首都(旧邪馬臺國)の名前を付けるにあたり、
伊都と名付けた、のだろうね。

897 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:51:31 .net
>>893

豊国は甕棺墓領域ではないので
また別の考古学的な根拠を示さなければならない
東に国があろうと福岡市、春日市が中心ならば倭奴国は倭国の極南界にはならない

898 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:53:36.12 .net
>>897
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国

倭国に豊国を含んでいいだろう。
そして南北に細長い委奴国は倭国の極南界。
伊都国よりも東南と考えられていたし。

899 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:56:49.60 .net
.

統属(読み)トウゾク
統制のもとに属すること。

統属とある以上、
伊都国は王も官も民も全てが
女王国の統制のもとに属する国あるいは植民地
倭人伝全体を読めば首都である可能性はゼロである。

妄想でしか語れない糸クズやキナチョンコ、泡チンコどもは低学歴の在日朝鮮人だから
これに一切の反論ができない=いつもの完敗が確定しただけのこと。

 .

900 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:58:56.83 .net
狗奴国は魏志倭人伝に書かれた、南の敵対国。倭人か倭種か不明。
拘奴國は後漢書に書かれた、東の倭種国。不属だが敵対かどうか不明。

北部九州邪馬台国なら、
前者は免田式土器領域の熊本国家。
後者は四隅突出墓の日本海沿岸国家。

901 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:59:20.33 .net
狗邪韓国は魏志倭人伝に書かれた、倭地=九州の北岸、釜山しかない。
帯方郡から七千里

拘邪韓国は後漢書に書かれた、倭人支配域の北西、釜山より西。
楽浪郡から七千里

別物ですね。

902 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:00:49.49 .net
>>895

糸島から宇土半島基部までの甕棺墓領域が倭国で
倭奴国の中心が博多湾沿岸〜春日市であったなら
倭国の極南界ではなくて寧ろ倭国北部になる
後漢書の極南界を完全に無視してしまっている

903 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:08:06.86 .net
.

(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

904 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:15:12.27 .net
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

905 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:44:09 .net
>>902

後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。

906 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:57:48.08 .net
拘邪韓国な

907 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 15:40:49.54 .net
>>905

倭在韓東南大海中だから倭国は島国
島国倭国の西北界の対馬海峡と接している韓の国が狗邪韓國

908 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 15:45:52.94 .net
末蘆→東南→伊都→東南→奴国→東→不弥

奴国が最南
そこから南は好きなだけ伸ばせばいいさ

909 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 16:36:39.46 .net
>>907
半島側なので便宜的に韓国の名前だが、魏志倭人伝に書かれているので、実際にいるのは倭人。

910 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 16:52:25.44 .net
>>909

倭国ではない韓国なので弁辰狗邪國を狗邪韓國と表記しているものと解される
渡海のため滞在する国であり女王國以北であるのに官名も戸数も記載されていないので
倭国の構成国ではないことは確か

911 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 17:08:01.06 .net
すると末盧国も倭ではないということだな

912 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 17:16:43.63 .net
>>910

ちっちゃな漁村程度だったんだろ。
でも韓伝でなく倭人伝に書かれていたのだから、そこにいたのは倭人。

913 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 17:18:27.38 .net
要するに倭とは対馬海峡の国であり、その南の端の福岡が栄えていた。
その周辺はそれほど見る価値もなく、事実上、倭奴国が倭(対馬海峡)の南端であった。

914 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 18:56:39.85 .net
>>911

末盧国は戸数は書かれているが官名がないので原文もそうであったなら
まだ全域が倭国の統制下になっていない地域
日本の律令でも肥人は異人

915 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:00:36.80 .net
>>912

ちっちゃな漁村程度という根拠はない
郡からの海岸水行歴韓国の行程が書かれているので
渡海前の歴韓国の最後の韓の国

916 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:03:17.02 .net
統制下にない国が往復ルートになってるのか、遣使も命がけやね

917 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:21:43.45 .net
>>914
壱岐対馬に官がいて統制下に入っているのだから
その間の末蘆国も当然統制下に入っていただろう。
考古学的にも明らか。

末蘆国王家は桜馬場遺跡までで滅亡しており、
これも魏志倭人伝で末蘆国に官がいないのと対応している。
戦乱に巻き込まれて荒廃していたのだろう。

918 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:22:14.45 .net
>>915
がんばるねえ、お隣の国のお方

919 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:22:14.75 .net
>>916

末盧国は管理下にある津の漁の様子は書かれているが
陸路は草木茂盛行不見前人で整備されておらず
楽浪土器の出土は糸島の深江井牟田遺跡(3世紀前半が下限)から多種が出土しているので
志摩御床松原とともに深江、加布里までは水行が楽浪との交易ルートと考えられる

920 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:34:58 .net
そういや深江で上陸してからの
県道49号線が倭人伝の里程ルートってのが話題になった時に、
キナイコシが
「昔は今と違って道はもっと直線的だったんだよ(だから49号線は無関係)」
と言っていつもの何でも否定してきた。

多少道が変わっていようが、大まかなルートとしての49号線って意味で
皆が議論している時に、
相変わらずズレてんなあ、やっぱキナイコシって狂ってるわと思った遠い春の日。

921 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:46:35.77 .net
糸島は糸島水道と呼ばれた東西の天然の津が交通に有用な土地
その中央の陸橋にあるのが志登支石墓群であり、糸島最古の前方後円墳の御道具山古墳であり
糸島唯一の式内社の志登神社

922 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:52:01.26 .net
伊都説でいうとその辺りが弥生最初期、倭国最初期からの聖地だったんだろうね。
白村江で大敗したから、ごっそり疎開。

923 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 20:30:52.12 .net
>>917
>末蘆国王家は桜馬場遺跡までで滅亡しており、

はじめからそんなところに王なんていないんですよ。

924 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:18:40.63 .net
.

(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

925 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:23:13.55 .net
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

926 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:25:13.42 .net
>>923
考古学的にいた。

927 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:43:26 .net
>>926
そうなの?

928 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:51:18.90 .net
>>927
末蘆国は日本最古の稲作遺跡である菜畑遺跡に始まり、
宇木汲田遺跡から柏崎遺跡、桜馬場遺跡と途切れることなく王家が続いている。

そして末蘆国王家は伊都王家と密接に関係しており、同族と考えられる。

今後新たな王墓などが見つからなければ、
末蘆国王家は、桜馬場遺跡の栄華を最後に滅亡しており、
魏志倭人伝において末蘆国に官がいないことと関連していると思われる。

929 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 23:32:12 .net
狗奴国に滅ぼされたんだよ。

狗奴国が肥後→筑後→佐賀→末蘆→壱岐対馬と一時的に占領して、
後漢の有力者、曹操と接触。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手した。

免田式土器の出土分布も含めて、
それで矛盾なく全て説明がつく。

930 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 23:55:27 .net
狗奴国と言うよりは、肥国と言ったほうがいいかもしれない。

931 :日本@名無史さん:2020/06/21(日) 00:26:28.19 .net
>>896
郷土愛に狂う糸 チヨンコを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、民族願望の塊であるキナチヨンコや泡チンコがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
無論だが、女王国は「九州」であり、平原古墳が卑弥呼の冢である可能性は低くない。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

932 :日本@名無史さん:2020/06/21(日) 21:54:02 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

933 :日本@名無史さん:2020/06/22(月) 13:58:23 .net
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

934 :日本@名無史さん:2020/06/23(火) 21:24:04.61 .net
韓族村長は銅印ニダ<ヽ`∀´>

935 :日本@名無史さん:2020/06/24(水) 08:04:47.59 .net
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最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


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936 :日本@名無史さん:2020/07/01(水) 12:17:46.71 .net
15: 2019/05/07(火)02:04 AAS
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國(朝鮮半島南岸)から倭奴国(九州北岸)まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。

937 :日本@名無史さん:2020/07/08(水) 21:51:32.95 .net
開墾=収穫量UP
戦争=戦利品獲得!

ではない重労働

自国民に課したら不平不満が暴発

ということは、征服した毛人の反乱封じ?

938 :日本@名無史さん:2020/07/19(日) 23:41:14 .net
マツラ国は佐世保市松浦だよな

939 :日本@名無史さん:2020/07/19(日) 23:52:13 .net
>>938
まぁその辺で確定してるけど、たまに福津のキチガイ神社の自称社伝を悪用して捏造したがるんだよなぁ

940 :日本@名無史さん:2020/07/20(月) 13:56:22.10 .net
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

941 :日本@名無史さん:2020/07/21(火) 13:39:27.36 .net
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.

942 :日本@名無史さん:2020/08/06(木) 17:40:28 .net
なぜなんな場所から金印でたのか永遠の謎なんだろうね
日本史史上第一級の国宝
ロマンあるわ 

943 :日本@名無史さん:2020/08/06(木) 19:06:08 .net
実は細石神社に伝世していた。
諸事情により、志賀島で見つかったことにして世に出した。
志賀島の発見地とされる巨石は今も分からず。

944 :日本@名無史さん:2020/08/06(木) 19:26:23 .net
>>943
糸チョン説ウンザリだわ

945 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 00:57:13 .net
細石神社の話はとっくに終わってたと思ったんだが、いまだに謳う輩がいるんだな。

946 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 00:58:49 .net
志賀島にあったというなら、その巨石とやらを見せてくれ。

947 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 01:20:09 .net
巨石がなんか関係するのか?

948 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 01:49:24 .net
>>545で解決してるじゃん

> そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもの
> そして現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した
>
> それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう
>
> 紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
> 建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
> (三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
> 天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
> 天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
>               (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
> 寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
> 元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
> 元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
>               (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
> 天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
> 文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
>              (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
> 文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
> 明治5年(1872年) 村社
> 大正12年(1923年) 幣帛供進社
>               (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)
>
> 古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
> 425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である
>
> 三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
> 傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
> まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である
>
> 結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

949 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 14:24:11 .net
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


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950 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 14:29:08 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


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951 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 18:27:46.17 .net
>>948
それを認めたくない糸チョンコが巨石巨石と騒いでる

952 :日本@名無史さん:2020/08/08(土) 13:55:29.18 .net
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


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953 :日本@名無史さん:2020/08/21(金) 21:49:08 .net
皿うどんをくえ

954 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 16:42:05 .net
九州民のみなさん

台風10号上陸において

くれぐれもお気をつけください

955 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 16:46:46 .net
邪馬台国が筑後川流域にあったなら、度重なる水害で遺跡が失われている可能性もある。

956 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 21:35:03.42 .net
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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957 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 21:59:34 .net
邪馬台国って邪馬・台国だよね
探すは臺国
じゃあ邪馬ってなんだろう
たぶん古墳の壁画の三角形の連続した絵じゃないかな

958 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:21:45 .net
志賀島から出てきたというのに志賀海神社のアズミ氏が金印の存在について知らなかった(伝えられていなかった)ことにはいろいろと考えさせられます。

金印は印として使われなくなった後も倭の国宝として、少なくとも倭王家の家宝として(三種の神器のように)大切に保管されていたのではないでしょうか。倭滅亡のときに敵に奪われないように隠したのかもしれません。それならいったいどうして志賀海神社のアズミ氏に預けなかったのでしょう。あるいはアズミ氏が預かり志賀海神社に保管していてそれが何者かによって盗まれるか紛失してしまうことになったのかもしれません。後者であればなぜそれが伝えられていないのか。

金印については本物か偽物かの論争が長い間されているようですが、私は金印が志賀島で見つかったということから金印そのものについてよりはむしろ志賀海神社について考えてしまいます。アズミ氏がよくいわれているような古代北部九州の有力豪族だったということに疑問をおぼえるようになりました。日本の初代天皇、天武天皇(新羅人)につかえた日本の古代豪族ではあったでしょう。ただし倭王(倭の天子)につかえた倭の豪族だったかどうか。はたして倭人なのかどうか、という疑いです。
アズミ氏は九州の土着の豪族といわれるけど、九州よりかは能登とか信濃とか本州に多い印象で、能登は海に面しているけど信濃に海はない。海人族みたいに信じられてきたことは本当でしょうか。記紀のような日本でつくられた伝説を無視して考えると高麗人のように思います。
そもそも魏志倭人伝とかに倭人が海の神とかをまつるために神社建てて神社に拝んでいたという記録ありますか?鬼道というまじないをやっていたとはあります。太陽や海や山や川や獣など自然のものを神聖視しあちこちに神社建ててそれをまつり拝んでいた民族といえば高句麗人じゃなかったですか?
壬申の乱で天武天皇を支えていたのは多くの高麗人でした。天武天皇自身は新羅人です。

959 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:23:22 .net
志賀島から出てきたというのに志賀海神社のアズミ氏が金印の存在について知らなかった(伝えられていなかった)ことにはいろいろと考えさせられます。

金印は印として使われなくなった後も倭の国宝として、少なくとも倭王家の家宝として(三種の神器のように)大切に保管されていたのではないでしょうか。倭滅亡のときに敵に奪われないように隠したのかもしれません。それならいったいどうして志賀海神社のアズミ氏に預けなかったのでしょう。あるいはアズミ氏が預かり志賀海神社に保管していてそれが何者かによって盗まれるか紛失してしまうことになったのかもしれません。後者であればなぜそれが伝えられていないのか。

金印については本物か偽物かの論争が長い間されているようですが、私は金印が志賀島で見つかったということから金印そのものについてよりはむしろ志賀海神社について考えてしまいます。アズミ氏がよくいわれているような古代北部九州の有力豪族だったということに疑問をおぼえるようになりました。日本の初代天皇、天武天皇(新羅人)につかえた日本の古代豪族ではあったでしょう。ただし倭王(倭の天子)につかえた倭の豪族だったかどうか。はたして倭人なのかどうか、という疑いです。
アズミ氏は九州の土着の豪族といわれるけど、九州よりかは能登とか信濃とか本州に多い印象で、能登は海に面しているけど信濃に海はない。海人族みたいに信じられてきたことは本当でしょうか。記紀のような日本でつくられた伝説を無視して考えると高麗人のように思います。
そもそも魏志倭人伝とかに倭人が海の神とかをまつるために神社建てて神社に拝んでいたという記録ありますか?鬼道というまじないをやっていたとはあります。太陽や海や山や川や獣など自然のものを神聖視しあちこちに神社建ててそれをまつり拝んでいた民族といえば高句麗人じゃなかったですか?
壬申の乱で天武天皇を支えていたのは多くの高麗人でした。天武天皇自身は新羅人です。

960 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:56:23.99 .net
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   いつものチョン妄想
  |     |r┬-|       |  / < 不安でしょうがないから
  \     ` ー'´     //      いつもの連投で草www
  / __        /
  (___)      /

961 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:58:13.86 .net
筑前阿曇氏の拠点は"阿"曇郷、信濃阿曇氏の拠点は"安"曇郡、摂津阿曇氏の拠点は"安"曇江であり、阿曇氏、阿曇連の本貫地は同名の阿曇郷である(全国邪馬台国連絡協議会九州支部)
また、713年の好字令によって筑前本家と区別するために信濃阿曇と摂津阿曇は拠点を安曇とした(神歴研)


新撰姓氏録右京神別下、地祇
「安曇宿禰海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」 阿曇は綿積の子である穂高見の子孫であり、同様の記述は古事記上巻ニにもある
なお穂高見を氏神として祭るのは志賀海神社境内の今宮神社と信濃穂高神社のニ社のみ

新撰姓氏録摂津国神別
「安曇宿禰同祖綿積命六世孫小栲梨命之後也」 摂津阿曇は綿積の6世孫、小栲梨の子孫であり、小栲梨を祀る神社は皆無

先代先代旧事本紀の巻一、陰陽本紀
「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」 綿津見三神は阿曇連が斎(いつ)き祀(たてまつ)る志賀海神社の事である
志賀海神社=綿津見三神=阿曇連が斎祀する神であるにも関わらず、摂津に綿津見を祀る神社は存在しない

綿津見の娘、豊玉姫の子である阿曇磯良を祀る疣水磯良神社(摂津で唯一の海神由来の神社)が摂津にあるが、平安時代に天照御魂神社が招聘した(摂津名所図解と当社神職による)もので阿曇族とは無関係


摂津の阿曇連百足は安曇磯良(綿津見の娘の子)の九世孫を自称していることから筑前阿曇と信濃阿曇は男系(本流)であり、摂津阿曇は女系(傍流)と言える


また、綿津見=ワタスミ=海住み=アマスミ=阿曇の音変も十分に考慮でき、海住みにシンクロする川住み=住之江=住吉も綿津見三神と住吉三神の同時誕生にシンクロする
兄弟神である綿津見と住吉の本社はそれぞれ志賀海神社と筑前住吉神社である
摂津の住吉大社は住吉本社を自称しつつも総本社は筑前住吉神社(元宮は現人神社)であることを認めている


筑前本家説にこれだけの根拠がある一方で、摂津説に根拠は皆無である点を勘案すれば、自ずと阿曇の本貫地は筑前以外に有り得ないという結論に至るのが真摯な歴史学研究の姿勢である

962 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:58:43.35 .net
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→伊勢→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ

963 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:40:41 .net
台風大したことなくて草

964 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:42:47 .net
>>961
後半は前に見覚えがあるな

965 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:45:51 .net
うん、早く死ねばよいと思う

おまえバカだから

966 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:49:23 .net
>>965
悔しがるなよチョンコロ

967 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:01:07 .net
てめえそおなんか?

勝手に自分と同じだと思うのクセなわけ?

968 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:02:19 .net
頭わるげだな死ねばよいやん

初めから話通じないだろおまえむたいなバカ

969 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:12:52 .net
新羅の王を育てたのは瓠公という倭人。
『三国史記』卷一・新羅本紀第一・始祖赫居世三十八年(紀元前20年)条 : 瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公

新羅第4の王も日本出身の脱解尼師今。
【三国史記】脱解尼師今立、一云吐解。時年六十二、姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。


半島の王族には日本から渡った倭人がたくさんいました。
なぜ朝鮮人は歴史書に書いてる事の逆を妄想してるのか分かりませんね。

970 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:38:41.66 .net
>>965>>968-968

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971 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 10:09:18 .net
倭人てもその人ら周の流れくむ連中らって中国書にあるんだよ

972 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 19:36:14.39 .net
金印は盗掘で見つけたんだろ

金属価値よりも学術的価値の方が圧倒的に高いので溶かして金塊として売るにはもったいない
しかし、学者や幕府に対して素直に盗掘で見つけましたと言うわけにもいかない
だからその辺の岩の下に埋まってたというストーリーをでっち上げた

973 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 19:55:58.34 .net
金印は細石神社にあったんだろ

しかし当時の情勢ではそのまま世に出すわけにはいかない
だからその辺の岩の下に埋まってたというストーリーをでっち上げた

974 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 20:28:39.40 .net
例の神社の関係者による盗掘のセンが最もあり得るケース

975 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 20:30:50.35 .net
あ〜そっか
氏族神社⛩か

なら盗掘だわな

976 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 21:42:45.40 .net
>>973
看破されたウソネタをしつこく連投しても恥の上塗りでしかないんだから諦めろよ糸チョン

977 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 22:12:03.46 .net
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

978 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 23:53:11.52 .net
>>977
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
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  |     |r┬-|       |  / < 反日洗脳に侵された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしwwwww
  (___)      /

979 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 23:54:05.45 .net
>>973
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

980 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 04:30:27.78 .net
神社がそんな古い時代にあるわけないじゃん

いつから時代が存在すると思ってんだよ

981 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 04:31:37.69 .net
それを年代繰り上げ設定した連中らがいたとしたならそれは捏造と言うしか他ならん

982 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 07:05:57.14 .net
神社というのは、本来は王族の宮だった。
現在では神様と呼ばれているが、天皇家の祖先など王族そのものだ。
今でも、皇族は宮様とか呼ぶだろ?
古来から王族の呼称はその住まいの宮号で代用している。
仏教伝来で神社は宗教施設になった。

983 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 07:13:16.26 .net
記紀には神社の名前はあまり出てこない。
代わりにいくつもの王宮の名前が出てくるが、その多くが今では神社となっている。

984 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 09:51:02.09 .net
いずれにしても細石神社は古田の妄想ネタでしかない

985 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 12:46:01.30 .net
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.

986 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 13:09:48.52 .net
>>985
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
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987 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 19:42:05.81 .net
細石神社は三雲南小路遺跡の祭殿であり、その成立は三雲南小路遺跡と同じ紀元前後と考えられる。
特筆するべきは三種の神器や璧などの王権の象徴となる威信財が大量に副葬されていて、銅鏡の出土枚数は平原遺跡を抜いて弥生時代の最多記録を誇っている。
時代は倭奴国が漢から金印を拝領した頃であり、その金印は目と鼻の先の志賀島から出土したとされている。
すなわち、卑弥呼より前の漢の時代の倭王は糸島平野にいたことになる。
細石神社の社殿によると、その祭神は木花佐久夜姫だが、遺跡に葬られていたのは王と王妃であったことから、被葬者は天孫邇邇芸と木花佐久夜姫と考えられる。
その息子である彦火火出見は近くにある高祖山の高祖神社に祭られている。
これが卑弥呼の前の男王たちと考えると矛盾がない。

988 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 22:24:52.67 .net
>>987
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

989 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 23:23:54.69 .net
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif.html

990 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 23:43:22.81 .net
>>988
>三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき

江戸時代はどこかの寺の門徒であることが義務付けられていた。
金龍寺は高祖神社と一体であり、その高祖神社(彦火々出見)が御祖宮と仰いだのが細石神社(木花咲耶姫)である。
よって、信仰を失っていた証拠とはならない。
神職がいなくても、地元の宗徒が祭りを続ける例は少なくない。
まして、戦国時代は同様に多くの伝統や風習、文化財が失われた時代であり、それをもって神社の歴史を否定することなどできない。

991 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 00:46:49.86 .net
>>990
それが流鏑馬だろ
古田の妄言「侍が持ち去った」を実証する根拠にはならないんじゃないか?

992 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 07:44:15.27 .net
>>988
>文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したと>?ころ三雲南小路遺跡を発見
>             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)

ここは関心を呼ぶ部分だ。
近所住民は、土壁の修繕にはここの土が良いことを知っており、長年にわたってあちこち掘り崩していたのだろう。
つまり、ここは版築盛り土されたもので、古代の墓だったのではないか。
それが採土を繰り返すうち、たまたま三苫清四郎が何かに突き当たった、と思ったら古いお宝だった。
・・・三苫清四郎が怪しい!

993 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 08:44:02.14 .net
だから古代の墓(三雲南小路遺跡)だと再三言っているだろ。

994 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 08:51:54.31 .net
で、次の問題だが、
此処が古代の墓地で、漢倭奴国王の印を出土したということは、ここは奴(那)の国の範囲内だったということになるのではないか?

995 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 11:31:03.79 .net
金海金氏の系図がネットで見つからないんだが日本軍にみな焼かれちまったのか?

996 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 12:21:29.55 .net
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


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997 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 12:26:28.98 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.

998 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 12:57:27.65 .net
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(倭国大乱後の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。

999 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 15:09:39.50 .net
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

1000 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 15:53:43.66 .net
【倭国】

弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王が冊封された。後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭が博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。

連合国家である倭の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部には豊国、肥国があった。本州の出雲、越などは倭の別種と書かれている。
博多湾岸を中心として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は博多湾沿岸勢力が独占していて、その支配機構が大率(大宰の帥)であった。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
この地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の倭の範囲を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の倭地が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ湿地帯であり、交通の大動脈は肥国女王の與止日女命の名を受けた淀川であった。
奈良は交易路からはずれた辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された八咫の鏡などの三種の神器は、筑紫伊都が倭国の王都であったことを示している。

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