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漢委奴国王印 いわゆる金印part3
- 1 :東京:2019/05/06(月) 17:37:27.05 .net
- 有意義なスレですのでpart3をたてました。
- 362 :日本@名無史さん:2019/09/07(土) 11:56:13.76 .net
- キナイ説を主張するのは記紀を純粋に信奉する右派もいるから一概に言えないが
金印がニセモノと主張するのはり地域スパイかどうか判定するリトマス試験紙みたいなもので
わかりやすいな あと狗邪韓国が倭人領とかに食いついてくるやつ
- 363 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 22:31:27.98 .net
- ???
- 364 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 14:06:57.01 .net
- >>358
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/235531
土器・土製品には朝鮮系無文土器、楽浪(らくろう)系や三韓(さんかん)系の
瓦質(がしつ)土器、朝鮮三国系の陶質(とうしつ)土器などの外来系土器が多数含まれ、
これらに畿内・山陰・周防・肥後など西日本各地からの搬入土器も存在して、国内外との活発な交流を物語る
- 365 :日本@名無史さん:2019/10/09(水) 12:30:09.16 .net
- 今の時代に、もし金印でてきたら
いくらの価値がある?10億?
中国の小学生が拾った玉印は100億以上に価値があるでしょうか
- 366 :日本@名無史さん:2019/10/09(水) 12:53:53.81 .net
- 国宝になるだろうけど、市場では取引が成立しないから、価格は付けられない。
- 367 :日本@名無史さん:2019/10/09(水) 13:20:58.86 .net
- 志賀島から出て来た金印は日本史最大の偽造品としての価値があるだろう。
朝貢してたのは大和朝廷でも天皇でもない、
九州の小国だというのが金印偽造の根拠。
黒幕は本居宣長ではないか。
- 368 :日本@名無史さん:2019/10/09(水) 18:51:09.19 .net
- 黒幕はお前だろw
- 369 :日本@名無史さん:2019/10/10(木) 19:18:27.12 .net
- 新井白石や本居宣長の言ってた
「朝貢してたのは九州であって大和朝廷ではない」
それと符合する金印がなぜか志賀島から出てきた。
出土状況も大きな石があったの無かったの、極めてあいまい。
「朝貢してたのは九州であって大和朝廷ではない」勢力による偽造だろ。
彼ら国学者にとって日本の歴史が朝貢から始まるのはさぞかし辛かったであろうな。
現代人は中国に対して全然コンプレックスを持ってないだろ、だからその感覚が分からないのだよ。
- 370 :日本@名無史さん:2019/10/10(木) 22:12:06.14 .net
- と、国宝金印にコンプレックスを持つかの国キナイコシが申しております。
- 371 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 09:10:10 .net
- https://i.imgur.com/ZkllrbX.jpg
- 372 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 12:35:39.35 .net
- 他に金印が出る可能性はある?
あるならどこ?
見つけてみたい
- 373 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 13:08:01.73 .net
- 福岡県内の大きな神社。
- 374 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 17:18:44.36 .net
- 正始元年(240年明帝没 曹芳8歳戴冠、佐治曹爽・司馬懿)
太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表答謝詔恩
其四年(243年 曹芳元服) 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬
曹操鉄鏡は、日田で出た。
日本の王が曹家と繋がるのは、これくらい。
卑弥呼の宗家だろうが、没落してる。
日田の遺跡から、古墳を何代か追えれば辿ってみるべき。
ただし金印については、
一大率 奴国が扱った可能性も高い。
其八年 齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
福岡266〜320年の古墳
- 375 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 18:46:35.75 .net
- >>374詳しくありがとう
- 376 :日本@名無史さん:2019/11/09(土) 19:23:23 .net
- 今年五月「志賀島歴史研究会」の解散が決まった。十二年間お疲れ!
年一度の「金印シンポジウム」から、毎月一度の勉強会「金印と歴史の会」に変わった。
福岡市総合図書館で第四日曜日に、市民講座「金印に挑む」として開催されている。
- 377 :日本@名無史さん:2019/11/10(日) 06:15:22.66 .net
- 耶麻等民族最高
- 378 :日本@名無史さん:2019/11/10(日) 06:38:40 .net
- 劣等民族万歳
- 379 :日本@名無史さん:2019/11/18(月) 16:06:43.69 .net
- >>373神社から出るか?
私は古墳より、仏像の内部とかから出る予感がする
- 380 :日本@名無史さん:2019/11/18(月) 16:35:57 .net
- まだ仏教が伝来していなかった時代のものだからねえ。
どうかな
- 381 :日本@名無史さん:2019/11/18(月) 17:18:51 .net
- なるほど仏教より前かあ
隠したか?返したか?だなあ
インディジョーンズみたいに見つけたいわ
- 382 :日本@名無史さん:2019/12/04(水) 16:17:12 .net
- 遺構がない(笑)
- 383 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 05:26:25.01 .net
- >>369
倭国は九州であって近畿ではない
そもそも冊封体制の象徴とも言うべき金印を国宝にするとは何たる恥なことか
- 384 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 08:58:45.43 .net
- でもおかげで国王として認められていた。
その象徴が鏡だ。
今でも三種の神器として崇めている。
- 385 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 09:12:40 .net
- >>385
>そもそも冊封体制の象徴とも言うべき金印を国宝にするとは何たる恥なことか
国宝にしたのは昭和6年、満州事変の年。
かつて中国に朝貢していたのは九州であり、大和朝廷及び古代天皇ではないという事実を決定したかった軍部の意向であろう。
そもそも邪馬台国九州説自体が、
大和朝廷及び古代天皇は朝貢などしていない、
朝貢していたのは九州の小国であるという事にしたい新井白石の創作。
- 386 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 09:18:46.63 .net
- 志賀島から出たw
どこから出たことにしようか、それが一番の悩みであっただろう。
分からないから福岡の玄関口から出たことにしたw
金印は日本の歴史上で最大の偽造。
あんなものメルカリで売っても問題はない。
- 387 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 09:22:13.52 .net
- 卑弥呼が貰った親魏倭王の印はおそらく某神社のご神宝。
何神社かおおよその検討はついている。
九州ではないよ畿内。
- 388 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 09:34:32.51 .net
- >>384
>今でも三種の神器として崇めている。
そうかな。
ではなぜ、明治天皇になるまで1500年間、
天皇は一度も鏡をご神体とする伊勢神宮に参拝しなかったのかな?
答えられないだろ。
- 389 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 10:38:37 .net
- >>387
伊都の細石神社だよ。
- 390 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 11:11:26.65 .net
- >>388
祟り神だからだよ
- 391 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 12:19:26.80 .net
- >>385そう、そこが空白のミステリー
いろいろ考えられて頭いっぱいになる
- 392 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 12:54:15 .net
- 実は細石神社に伝世していたらしい。
それがどうして志賀島から出たことにされたのかというミステリー。
- 393 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 16:25:54 .net
- >>392
また糸クズの願望垂れ流しに来たのかよwww
- 394 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 16:32:49.98 .net
- もう日本中の古墳と沖ノ島と大宰府と宇佐神宮あたりを掘りまくれ
日本の歴史がハッキリするから
- 395 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 20:23:54 .net
- 沖ノ島はかなり調査された。
古墳時代で最大級の古代祭祀跡だ。
玄界灘沿岸が倭国の中枢であった証拠に他ならない。
大宰府は大きすぎw
- 396 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 20:58:11 .net
- >>389
そんなパチモン神社にはないよ。
>>390
同じ意見だ。
- 397 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 21:20:00 .net
- 漢委奴国王
神倭磐余彦かむやまといわれひこ(神武天皇)
漢委奴国王
かむやまと奴国の王
有り得ない話では無いけど畿内説の方々は
認めたくないだろう。
- 398 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 21:26:22 .net
- >>396
パチモンだという理由は?
卑弥呼時代の3世紀の九州北部の権力の所在地であった伊都の中にある宮だけど?
- 399 :日本@名無史さん:2019/12/24(火) 02:24:30 .net
- >>398
海人スレかなんかで何度も何度も完全論破されてただろ
お前の記憶喪失のフリも見飽きたわ
- 400 :日本@名無史さん:2019/12/30(月) 14:38:07 .net
- 倭と委は従順という意味で使われる同じ漢字
- 401 :日本@名無史さん:2020/01/09(木) 21:00:24.80 .net
- >>374いつの日か、この鉄鏡も国宝になるかもね
展示したら中国の人達がたくさん見学来そう
- 402 :日本@名無史さん:2020/01/09(木) 21:12:32.54 .net
- 吉野ヶ里に観光客を集めるためには、長崎本線を存続させないといけない。
長崎新幹線は佐賀知事とゆっくり話し合った方がいいぞ。
- 403 :日本@名無史さん:2020/01/14(火) 16:59:19 .net
- 志賀島は安曇族の氏神である志賀海神社がある。
安曇族は古代の海洋民族であり、糟屋の安曇から出て、
志賀島を拠点に、日本全国に散らばっていった事が分かっている。
この安曇族が属しているのが奴国があったとされる博多湾周辺であり、
漢委奴國王の金印が、奴国の、安曇族の本拠地、志賀島から出たと言うことは、
日本の古代史からみて至極まっとうな事であると考えられる。
- 404 :日本@名無史さん:2020/01/14(火) 17:02:37 .net
- ちなみに、かつての博多湾は現人神社まで入り込んでいたので、
非常に温暖な入江の海辺だったと考えられている。
魏志倭人伝の温暖な倭国を再現するに相応しい場所だ。
- 405 :日本@名無史さん:2020/01/14(火) 20:06:11 .net
- 志賀島の海人は記紀における豊国だろ?
豊玉姫や木花佐久夜姫などの、大山祇の一族だ。
豊国と婚姻したのが筑紫の日向、すなわち伊都の天孫族だ。
実質的には支配権が志賀島から伊都に移ったのだろう。
- 406 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 09:19:05 .net
- 天皇の故郷で金印がある九州が倭
- 407 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 09:54:26 .net
- 志賀島から出たって不思議がる人がいるけど
志賀島は安曇族の本拠地だから不思議ではない
- 408 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 13:05:52 .net
- 安曇族というと傍系のイメージだな。
しかし記紀にある天孫降臨の前の博多湾沿岸の支配者が大山祇なら、その一族の宮である竜宮城があった志賀島こそ、倭の王都であった時代があって良いことになる。
魏志倭人伝では卑弥呼の前に男王の時代が70〜80年あり、これが天孫族の日向三代なら、金印をもらったのはまさにその直前の大山祇の時代になる。
倭奴国の王宮は、世俗にまみれた博多を離れて志賀島にあったというわけさ。
- 409 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 14:02:31 .net
- 志賀島は北部に農業できる平坦があるんだよな
誰も真面目に発掘したことないだろ
だれか一緒に掘りに行くか?
- 410 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 14:16:23.07 .net
- 遺構がない時点で考古学的価値はゼロ
以前は蛇鈕は現物知らなきゃ無理かなって考えていたけど
あんなの江戸時代に入手可能な書物読めば蛟ってのがでてくるから
大方それを蛇と勘違いして偽造したんやろうなって
- 411 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 16:54:45 .net
- >>409
ちゃんとした発掘許可を得てやらないと、盗掘と変わらなくなる。
記録の残し方とか遺物の保存方法とか、きちんとしないとね。
- 412 :日本@名無史さん:2020/02/05(水) 18:57:28 .net
- >>411土地を買って自分の家をたてるつもりで
基礎を掘ってたら古墳でてきた
ってパターンなら良いんだよね?
- 413 :日本@名無史さん:2020/02/05(水) 20:35:42 .net
- 見つけた、あるいは気付いた時点で
教育委員会に通報しないといけない
- 414 :日本@名無史さん:2020/02/10(月) 21:24:16.14 .net
- 文科省なんて全然信用ならないわ
いじめすら認めない
自分の出世と天下りばかり勘定
どうしようもない
- 415 :日本@名無史さん:2020/03/14(土) 18:44:02 .net
- >>405伊都に天孫がいたという根拠は?
- 416 :日本@名無史さん:2020/03/16(月) 16:01:12 .net
- >>412
そもそも志賀島に家建てようとしたら、工事の前に地価調査義務付けられてんじゃね?
もしかしたら福岡は結構その辺ずさんだから、規制してないのかな?
普通は遺跡があったり、歴史的に重要そうな地域は、工事の前に調査が入る。
- 417 :日本@名無史さん:2020/03/16(月) 16:10:29 .net
- 福岡市埋蔵文化財地図で遺跡名在る地域かどうか確認できる
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/about_constructions/detail/2
https://f-chirijoho.jp/maibun_leaflet/index.php
- 418 :日本@名無史さん:2020/03/17(火) 09:34:07 .net
- >>416
福岡って古い物より新しい物を大切にする文化だからな…
金隈遺跡や板付遺跡に近い福岡空港の下にはかなりの遺跡が沈められてるとのこと
- 419 :日本@名無史さん:2020/03/17(火) 21:45:28.07 .net
- まあ、ある意味では保存されていいのかも。
市街地だと確実に失われるからね。
- 420 :日本@名無史さん:2020/03/17(火) 22:24:33.35 .net
- >>419
めたくそに破壊されたに決まってんだろ
今まで何度拡張工事されたと思ってんだよw
- 421 :日本@名無史さん:2020/03/18(水) 14:28:25 .net
- 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
- 422 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 03:22:22 .net
- 文様の製造方法が中国のものと根本的に異なる以上、本物では無いのかなと思ってます
これが決定的で、研究の結果、明るみに出て良かったです
ただ、もし中国で、金印と同じ作り方の印が、偽物ではなく発見される事があれば、その時にこそ再考の材料になるのかなと思います
蛇鈕部分も中国で発見された蛇をあしらったものと全然違いますね
中国のものは、ラクダにせよ亀にせよ、まず、動物のデザインがあり、そのデザインを保持した上で、鈕としての機能が持たされてます
一方で、問題の金印は、まず鈕としての機能があって、それに蛇の意匠を後付けしています
それで、ラクダの首を切った改造タイプとか、新説が出てくると思うのですが、この説が出る時点で、背景に中国の印とのデザイン上の違いを説明する必要性を感じます
鈕のデザイン差異は、金印を実用的な道具とするか象徴として与えるかの違いにありそうで、やはり、後世、印章とした伝わっていたものを新造する場合は、どうしても、象徴としての造形に着目できないように思います
それで、もともと鈕として無難な形にまとめたものに蛇の形状を彫り込み、本場のものとは似ても似つかない独自形状になってしまったのではと推測しています
- 423 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 04:25:46 .net
- まだ捏造説とか言ってる無能がおったんか(笑)
- 424 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 05:50:23.13 .net
- 倭の国の王だったら捏造の可能性があるけど、倭の奴の国の王だからホンモノでしょ
福岡市はむかしは那の県と呼ばれていたから、そのまんまじゃないか
ただ金印が出土したという事は志賀島は当時の奴国にとって聖地だったんじゃないか?
- 425 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 10:23:21 .net
- >>105
この人の中では、ですので…気になさらず
本当に口伝があるのは興味深いですよ
だからこそ、金印の状態が良かったのも符合します
- 426 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 10:33:48 .net
- >>280
細石神社の神主さんに直接確認でも取ったの?
でなければ、ただ「嘘だ〜」と叫んでるだけの愚か者だけど
- 427 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 10:48:19 .net
- >>350
ここの治は治所とするの意味だからね
一大率を女王国以北に置き、王が伊都国で治めたとも読めます
「置」は「王」が主語ですから、「治」も主語は「王」の可能性はあります
一大率は一人とは限らないし、伊都国にいたとも限らないという事ですね
- 428 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 12:38:51 .net
- >>422です
>>423コメントありがとうございます
私見ですが、作り方が違う時点で「同時代の中国のものとされる出土品」とは、別系統と認識すべきと捉えています。
製造方法は後から変えようがなく、決定的事実として残ってしまうためです。
逆に(私も書き込みました)鈕部分の意匠の違いなどは、重要視すべきでないのかもしれません。多様な解釈が可能な要素は、判断の根拠とすべきでないとも思うのです。
今後、確実に本物と認識できる印で、例の金印と同様の製造方法のものが発見された際には、状況が変わっていくのではないでしょうか。。
(過去スレ含め)このスレの皆さんの古代史の知識は本当に詳細で勉強になります。
キーワードを拾うだけでも新たな発見があるので、よく読んで、また書き込めたらと思います。
- 429 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 15:10:49.84 .net
- 細石神社はもう完全にネタ化してる
信憑性が一つもない
- 430 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 17:32:01 .net
- >>429
ほんそれ
にも関わらず定期的に湧いてくるナゾ現象
- 431 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 21:13:54 .net
- 式外社だからな
- 432 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 23:13:42 .net
- 2000年も経つと権威は失われるということだ。
- 433 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:04:00 .net
- 細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。
- 434 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:10:03 .net
- 細石神社(佐々禮石社)の来歴
建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜
紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
元慶元年(877年) 三代実録に高磯ひめ神に従五位下を授けるとあり
天正年間(1573〜1586年) 戦火により焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の実在が確認
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
- 435 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:17:21 .net
- 創建がちょうど金印をもらった頃じゃないか。
- 436 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:21:08 .net
- 三雲遺跡は紀元前1世紀頃だから
金印より1世紀くらい前だろ
- 437 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:24:29 .net
- 細石神社が漢委奴国王の金印を旧蔵してたって話の元ネタは古田の「多元史観」
四国の大政就平という人物が古田に知らせ、地元住民に聞き取りしたら「細石神社にあった金印を武士がもって行った」という伝承があったらしい
200年も前の出来事を地元住人が知ってるファンタジー
複数の証言が取れるのに一切の記録がないファンタジー
くだんの神社にも一切の記録が残っていないファンタジー
境内の後ろにある王墓の伝承すら残っていないファンタジー
- 438 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:25:14 .net
- 細石神社と親子関係にある高祖神社の方が金印の年代に近いのか。
- 439 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:28:50 .net
- 1587年に神田全没収されるくらい荒廃してて社殿もなかったのに、1784年まで宝物として保管してたってのは無理がある
- 440 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:29:31 .net
- オカルト脳じゃない限り、根拠もなく伊都国にあった!証拠はないけどあったはず!とか言う与太話より
証拠はないけど海人族の本拠地だった志賀島に埋まってた!のほうが説得力を感じる
- 441 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:31:33 .net
- Q1.
その神社が1822年に土壁用の粘土を掘ってる時に偶然見つかった三雲南小路遺跡をどう認識してたのか(ちなみに金印が発見されたのは1784年)。
A1.
235年も前に太閤検地で没収された土地だから忘れ去られていた。
没収された理由は天正年間には既に社殿もなく荒廃していた村社だから。
Q2.
金印に関する伝承?社伝?はいつ頃見つかったものなのか。
A2.
2013年に古田武彦氏が住人や神主から採録したというのが唯一。
史料は存在せず。
Q3.
また最古の出典はいつなのか。
A3.
古田に情報提供した大政就平氏がどこから得た情報なのかは明らかにされていないので不明。
2013年12月06日に投稿されたスピリチュアル系ブログと2014年10月16日に発刊された古田本以外のソースなしにより与太話確定。
- 442 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:34:05.15 .net
- 古田が聞き取りしたという「お侍さんが持ち出した」がいつのことなのかが分からんから信憑性がない。
16世紀には細石神社の社殿すら残っていなかったのだから、持ち出したのが事実とするならそれ以前ということになる。
5世紀も前のことを地元住民が先祖代々口伝していたというのは非現実的すぎる。
まして現在の社殿は明治に再建されたもので、宮司もその時に就任した家なのだから4世紀も断絶していた口伝が残っていたというのは無理がある。
- 443 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:41:17.32 .net
- お侍さんが持ち出したとするならそれは1,500年代。
500年も前の断絶した神社の由縁を地元住人が口伝し続けていたというのは流石に非現実的過ぎると思わないかい?
もしそんな奇跡があり得たとするなら200年前に土壁の材料として採掘なんてしなかっただろうし。
- 444 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:42:01.43 .net
- 太閤検地の時点で何一つ残ってなかったんだから関係者一族も生き残ってなかったんだろう
- 445 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:43:19.61 .net
- 細石神社は16世紀後半に消失し、19世紀前半には地元民が自宅の土塀用に粘土を掘り出すまで完全に忘れ去られてた土地
- 446 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:45:37 .net
- そもそも
・金印が細石神社にあった
→歴史学では相手にされないレベルの噂話
・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
→歴史学・考古学的根拠なし
・金印は三雲南小路遺跡から出土したものだ
→歴史学・考古学的根拠なし
・三雲南小路遺跡は夫婦の墓だから、細石神社祭神の木花咲也とその夫である彦火火出見の墓だ
→超がつくほど飛躍した論理
なのに、循環論法よろしく、関連付けて主張してる奴がバカなだけ
- 447 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:47:29 .net
- ざっくり流鏑馬を実施してる福岡県内の神社をGoogleMapで調べ、それぞれ流鏑馬を実施してる土地面積を調べてみたぞ
田川鶴岡八幡宮 流鏑馬場1,700平方メートル
現人神社 参拝者駐車場1,350平方メートル
飯盛神社 流鏑馬場4,000平方メートル
住吉神社 表境内700平方メートル
香椎宮 催事会場5,000平方メートル
風浪宮 祭祀場650平方メートル
宗像大社 第3駐車場2,000平方メートル
最小が700m2(212坪)で最大が5,000m2(1,500坪)
流鏑馬ができたんなら結構広い神社だろうな
- 448 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:49:19 .net
- 1587年に年貢逃れのために神田としていた三雲を秀吉が検地させ、社殿が喪失していたことも明らか
- 449 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:49:59 .net
- 1822年に社殿がなかったことは明らかだし、1829年に手水舎が再発見されてるということは林になっていたことは確実
- 450 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:54:36 .net
- 神事を神職ではなく村長が開催したのは村おこしと言うか神社再興(ふたたび神田として年貢逃れを画策)のためだろうね。
- 451 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:56:22 .net
- 長年に渡って年貢なんて収めたことがない三雲集落にとって筑前に米を取られるのは大変な負担だったに違いない
- 452 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:58:57 .net
- 元緑八(1695)年、村山正貞があらわした『細石神社御縁起』(大神氏蔵)に
「天正十五(1587)年豊臣秀吉公九州の乱をしづめ給ふ折から、故なく当社の神田をも没収し給ひ」と記し、
それ以前は「広麗なる御社にて、神事祭礼もことにいかめしかりける」と述ベている。
だが、それ以前のことは皆目わからない。
現在は三雲部落の氏神としてあがめられているだけで、他地方の人が足を向け参拝にくることは、ほとんどない。
http://snk.or.jp/cda/kodaikyushu.pdf
個人的にはこのシニアネットという老人向けサービスに寄稿されたPDFファイル以外に
この話が載っているサイトが見つけられないので古代史ファンの老人の創作だろう。
- 453 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:03:35 .net
- 個人的には細石神社の話は興味深いのだが、魏志倭人伝と後漢書を比較すると、卑弥呼の前の男王より前に金印をもらったことになるというので、それなら志賀島の綿津見がもらったということで世代が一致する。
- 454 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:05:35 .net
- 糸クズの細石神社ネタは↓に見事に当てはまっている
1.論理が自己崩壊している。つまり自分で言ってることに整合性がなく、その場しのぎ。
2.既存の(否定しようとする)理論や法則を理解していないか、知っていながら敢えて曲解している。
3.信頼できる実験や観測でも、都合の悪い内容(証拠)は無視している。
4.先に結論があって、その為の論理を構築する(した気になる)。
5.批判は受けつけない。間違いに気付いても絶対にそれは認めない。
6.相手の論旨をすりかえる事で、何かを証明した気になる。
7.専門家や科学者個人の否定。逆に言えば自らの過大評価。自説に酔いしれている。
- 455 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:10:13 .net
- 天正初期に焼失し、天正15年(1587年)には社領と呼べる状態になかったから太閤検地で神田ではないと判明し、没収され筑前の石高に組み込まれた。
「侍が持ち出した」のが本当なら、焼失前なんだから433年以上前になり、しかも裏手の土を土塀の材料に掘り起こすほどその存在は忘れられていた。
古田の誘導尋問もしくは創作と見るのが常識的。
1587年には野ざらしであり、寛永後期(1635年以降)に村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興が叶わなかったんだから断絶したと見るのが常識的。
- 456 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:13:36 .net
- 伊都ジジイは朝鮮人確定
現政府の前身、前々身にあたる大和王権が
朝鮮半島に対して領土主権を持っていた事を
否定したくて仕方ないんだ
だから邪馬台国九州説や任那日本府と大和王権は
無関係であると主張している
それに金印を授けられたのが大和王権だと
銅印の半島諸国よりも日本の立場が上になって
しまうので躍起になって倭国王は九州王だと
レスしまくっている
そしてその九州王は唐に滅ぼされたと滅茶苦茶な
結論を出して大和は金印の倭国の権威を引き継いで
いない事にしている
伊都ジジイの政治的意図は明白
ただの在日史観
- 457 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:15:00 .net
- 祀る神も、奉る宮司も存在しないのだから藩に年貢を納めなさい
これが太閤検地による没収の趣旨
- 458 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:15:31 .net
- 「お上の決めたことやけん、しかたあんめ」と納得したものの、村高の応じた年貢量の負担が大きくて泡食った村長が流鏑馬を行い「神事ばやっとるけん、ここは神田ばい!」と主張してみたが奉りの実態がなかったので認められなかったってこと
- 459 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:17:02 .net
- 祀る神も、奉る宮司もないのに信仰が残るわけない。
まして三雲住民は金龍寺の宗門人別帳に記録されてるんだから曹洞宗に帰依したと判断するのが日本史の常識。
- 460 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:17:31 .net
- 延喜式に収容されてないにもかかわらず、高祖神社の社領は没収されずに神田のまま明治を迎えてる
祀る神と進上する氏子が存在していれば没収はされなかったという傍証
- 461 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:18:06 .net
- 細石神社ネタのまとめ
建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜
紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
(三代実録の高磯ヒメ神は高祖神社なので削除)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる(祀る神も奉る神主も存在していない結果=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認(祭日の流鏑馬行事だけは残った模様)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
古田の言う地元住人の「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性はない
→信仰は残ったはずとの反論
三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれている。 よって曹洞宗に帰依、信仰は残らなかった
傍証として神事が流鏑馬という祭行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領の認識をしていなかったことなどが挙げられる
結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない
以上
- 462 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:19:45 .net
- 倭人と中華(中国)、どちらが上だと思う?
いまでも同じなんだけど、頭が悪いんだろう。
ポアされた人物の影響でも受けているとか?
しょーとくたいし、うまやど・・・とかいう人物も影響w
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