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漢委奴国王印 いわゆる金印part3
- 1 :東京:2019/05/06(月) 17:37:27.05 .net
- 有意義なスレですのでpart3をたてました。
- 388 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 09:34:32.51 .net
- >>384
>今でも三種の神器として崇めている。
そうかな。
ではなぜ、明治天皇になるまで1500年間、
天皇は一度も鏡をご神体とする伊勢神宮に参拝しなかったのかな?
答えられないだろ。
- 389 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 10:38:37 .net
- >>387
伊都の細石神社だよ。
- 390 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 11:11:26.65 .net
- >>388
祟り神だからだよ
- 391 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 12:19:26.80 .net
- >>385そう、そこが空白のミステリー
いろいろ考えられて頭いっぱいになる
- 392 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 12:54:15 .net
- 実は細石神社に伝世していたらしい。
それがどうして志賀島から出たことにされたのかというミステリー。
- 393 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 16:25:54 .net
- >>392
また糸クズの願望垂れ流しに来たのかよwww
- 394 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 16:32:49.98 .net
- もう日本中の古墳と沖ノ島と大宰府と宇佐神宮あたりを掘りまくれ
日本の歴史がハッキリするから
- 395 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 20:23:54 .net
- 沖ノ島はかなり調査された。
古墳時代で最大級の古代祭祀跡だ。
玄界灘沿岸が倭国の中枢であった証拠に他ならない。
大宰府は大きすぎw
- 396 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 20:58:11 .net
- >>389
そんなパチモン神社にはないよ。
>>390
同じ意見だ。
- 397 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 21:20:00 .net
- 漢委奴国王
神倭磐余彦かむやまといわれひこ(神武天皇)
漢委奴国王
かむやまと奴国の王
有り得ない話では無いけど畿内説の方々は
認めたくないだろう。
- 398 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 21:26:22 .net
- >>396
パチモンだという理由は?
卑弥呼時代の3世紀の九州北部の権力の所在地であった伊都の中にある宮だけど?
- 399 :日本@名無史さん:2019/12/24(火) 02:24:30 .net
- >>398
海人スレかなんかで何度も何度も完全論破されてただろ
お前の記憶喪失のフリも見飽きたわ
- 400 :日本@名無史さん:2019/12/30(月) 14:38:07 .net
- 倭と委は従順という意味で使われる同じ漢字
- 401 :日本@名無史さん:2020/01/09(木) 21:00:24.80 .net
- >>374いつの日か、この鉄鏡も国宝になるかもね
展示したら中国の人達がたくさん見学来そう
- 402 :日本@名無史さん:2020/01/09(木) 21:12:32.54 .net
- 吉野ヶ里に観光客を集めるためには、長崎本線を存続させないといけない。
長崎新幹線は佐賀知事とゆっくり話し合った方がいいぞ。
- 403 :日本@名無史さん:2020/01/14(火) 16:59:19 .net
- 志賀島は安曇族の氏神である志賀海神社がある。
安曇族は古代の海洋民族であり、糟屋の安曇から出て、
志賀島を拠点に、日本全国に散らばっていった事が分かっている。
この安曇族が属しているのが奴国があったとされる博多湾周辺であり、
漢委奴國王の金印が、奴国の、安曇族の本拠地、志賀島から出たと言うことは、
日本の古代史からみて至極まっとうな事であると考えられる。
- 404 :日本@名無史さん:2020/01/14(火) 17:02:37 .net
- ちなみに、かつての博多湾は現人神社まで入り込んでいたので、
非常に温暖な入江の海辺だったと考えられている。
魏志倭人伝の温暖な倭国を再現するに相応しい場所だ。
- 405 :日本@名無史さん:2020/01/14(火) 20:06:11 .net
- 志賀島の海人は記紀における豊国だろ?
豊玉姫や木花佐久夜姫などの、大山祇の一族だ。
豊国と婚姻したのが筑紫の日向、すなわち伊都の天孫族だ。
実質的には支配権が志賀島から伊都に移ったのだろう。
- 406 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 09:19:05 .net
- 天皇の故郷で金印がある九州が倭
- 407 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 09:54:26 .net
- 志賀島から出たって不思議がる人がいるけど
志賀島は安曇族の本拠地だから不思議ではない
- 408 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 13:05:52 .net
- 安曇族というと傍系のイメージだな。
しかし記紀にある天孫降臨の前の博多湾沿岸の支配者が大山祇なら、その一族の宮である竜宮城があった志賀島こそ、倭の王都であった時代があって良いことになる。
魏志倭人伝では卑弥呼の前に男王の時代が70〜80年あり、これが天孫族の日向三代なら、金印をもらったのはまさにその直前の大山祇の時代になる。
倭奴国の王宮は、世俗にまみれた博多を離れて志賀島にあったというわけさ。
- 409 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 14:02:31 .net
- 志賀島は北部に農業できる平坦があるんだよな
誰も真面目に発掘したことないだろ
だれか一緒に掘りに行くか?
- 410 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 14:16:23.07 .net
- 遺構がない時点で考古学的価値はゼロ
以前は蛇鈕は現物知らなきゃ無理かなって考えていたけど
あんなの江戸時代に入手可能な書物読めば蛟ってのがでてくるから
大方それを蛇と勘違いして偽造したんやろうなって
- 411 :日本@名無史さん:2020/02/04(火) 16:54:45 .net
- >>409
ちゃんとした発掘許可を得てやらないと、盗掘と変わらなくなる。
記録の残し方とか遺物の保存方法とか、きちんとしないとね。
- 412 :日本@名無史さん:2020/02/05(水) 18:57:28 .net
- >>411土地を買って自分の家をたてるつもりで
基礎を掘ってたら古墳でてきた
ってパターンなら良いんだよね?
- 413 :日本@名無史さん:2020/02/05(水) 20:35:42 .net
- 見つけた、あるいは気付いた時点で
教育委員会に通報しないといけない
- 414 :日本@名無史さん:2020/02/10(月) 21:24:16.14 .net
- 文科省なんて全然信用ならないわ
いじめすら認めない
自分の出世と天下りばかり勘定
どうしようもない
- 415 :日本@名無史さん:2020/03/14(土) 18:44:02 .net
- >>405伊都に天孫がいたという根拠は?
- 416 :日本@名無史さん:2020/03/16(月) 16:01:12 .net
- >>412
そもそも志賀島に家建てようとしたら、工事の前に地価調査義務付けられてんじゃね?
もしかしたら福岡は結構その辺ずさんだから、規制してないのかな?
普通は遺跡があったり、歴史的に重要そうな地域は、工事の前に調査が入る。
- 417 :日本@名無史さん:2020/03/16(月) 16:10:29 .net
- 福岡市埋蔵文化財地図で遺跡名在る地域かどうか確認できる
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/about_constructions/detail/2
https://f-chirijoho.jp/maibun_leaflet/index.php
- 418 :日本@名無史さん:2020/03/17(火) 09:34:07 .net
- >>416
福岡って古い物より新しい物を大切にする文化だからな…
金隈遺跡や板付遺跡に近い福岡空港の下にはかなりの遺跡が沈められてるとのこと
- 419 :日本@名無史さん:2020/03/17(火) 21:45:28.07 .net
- まあ、ある意味では保存されていいのかも。
市街地だと確実に失われるからね。
- 420 :日本@名無史さん:2020/03/17(火) 22:24:33.35 .net
- >>419
めたくそに破壊されたに決まってんだろ
今まで何度拡張工事されたと思ってんだよw
- 421 :日本@名無史さん:2020/03/18(水) 14:28:25 .net
- 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
- 422 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 03:22:22 .net
- 文様の製造方法が中国のものと根本的に異なる以上、本物では無いのかなと思ってます
これが決定的で、研究の結果、明るみに出て良かったです
ただ、もし中国で、金印と同じ作り方の印が、偽物ではなく発見される事があれば、その時にこそ再考の材料になるのかなと思います
蛇鈕部分も中国で発見された蛇をあしらったものと全然違いますね
中国のものは、ラクダにせよ亀にせよ、まず、動物のデザインがあり、そのデザインを保持した上で、鈕としての機能が持たされてます
一方で、問題の金印は、まず鈕としての機能があって、それに蛇の意匠を後付けしています
それで、ラクダの首を切った改造タイプとか、新説が出てくると思うのですが、この説が出る時点で、背景に中国の印とのデザイン上の違いを説明する必要性を感じます
鈕のデザイン差異は、金印を実用的な道具とするか象徴として与えるかの違いにありそうで、やはり、後世、印章とした伝わっていたものを新造する場合は、どうしても、象徴としての造形に着目できないように思います
それで、もともと鈕として無難な形にまとめたものに蛇の形状を彫り込み、本場のものとは似ても似つかない独自形状になってしまったのではと推測しています
- 423 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 04:25:46 .net
- まだ捏造説とか言ってる無能がおったんか(笑)
- 424 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 05:50:23.13 .net
- 倭の国の王だったら捏造の可能性があるけど、倭の奴の国の王だからホンモノでしょ
福岡市はむかしは那の県と呼ばれていたから、そのまんまじゃないか
ただ金印が出土したという事は志賀島は当時の奴国にとって聖地だったんじゃないか?
- 425 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 10:23:21 .net
- >>105
この人の中では、ですので…気になさらず
本当に口伝があるのは興味深いですよ
だからこそ、金印の状態が良かったのも符合します
- 426 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 10:33:48 .net
- >>280
細石神社の神主さんに直接確認でも取ったの?
でなければ、ただ「嘘だ〜」と叫んでるだけの愚か者だけど
- 427 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 10:48:19 .net
- >>350
ここの治は治所とするの意味だからね
一大率を女王国以北に置き、王が伊都国で治めたとも読めます
「置」は「王」が主語ですから、「治」も主語は「王」の可能性はあります
一大率は一人とは限らないし、伊都国にいたとも限らないという事ですね
- 428 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 12:38:51 .net
- >>422です
>>423コメントありがとうございます
私見ですが、作り方が違う時点で「同時代の中国のものとされる出土品」とは、別系統と認識すべきと捉えています。
製造方法は後から変えようがなく、決定的事実として残ってしまうためです。
逆に(私も書き込みました)鈕部分の意匠の違いなどは、重要視すべきでないのかもしれません。多様な解釈が可能な要素は、判断の根拠とすべきでないとも思うのです。
今後、確実に本物と認識できる印で、例の金印と同様の製造方法のものが発見された際には、状況が変わっていくのではないでしょうか。。
(過去スレ含め)このスレの皆さんの古代史の知識は本当に詳細で勉強になります。
キーワードを拾うだけでも新たな発見があるので、よく読んで、また書き込めたらと思います。
- 429 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 15:10:49.84 .net
- 細石神社はもう完全にネタ化してる
信憑性が一つもない
- 430 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 17:32:01 .net
- >>429
ほんそれ
にも関わらず定期的に湧いてくるナゾ現象
- 431 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 21:13:54 .net
- 式外社だからな
- 432 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 23:13:42 .net
- 2000年も経つと権威は失われるということだ。
- 433 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:04:00 .net
- 細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。
- 434 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:10:03 .net
- 細石神社(佐々禮石社)の来歴
建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜
紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
元慶元年(877年) 三代実録に高磯ひめ神に従五位下を授けるとあり
天正年間(1573〜1586年) 戦火により焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の実在が確認
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
- 435 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:17:21 .net
- 創建がちょうど金印をもらった頃じゃないか。
- 436 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:21:08 .net
- 三雲遺跡は紀元前1世紀頃だから
金印より1世紀くらい前だろ
- 437 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:24:29 .net
- 細石神社が漢委奴国王の金印を旧蔵してたって話の元ネタは古田の「多元史観」
四国の大政就平という人物が古田に知らせ、地元住民に聞き取りしたら「細石神社にあった金印を武士がもって行った」という伝承があったらしい
200年も前の出来事を地元住人が知ってるファンタジー
複数の証言が取れるのに一切の記録がないファンタジー
くだんの神社にも一切の記録が残っていないファンタジー
境内の後ろにある王墓の伝承すら残っていないファンタジー
- 438 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:25:14 .net
- 細石神社と親子関係にある高祖神社の方が金印の年代に近いのか。
- 439 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:28:50 .net
- 1587年に神田全没収されるくらい荒廃してて社殿もなかったのに、1784年まで宝物として保管してたってのは無理がある
- 440 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:29:31 .net
- オカルト脳じゃない限り、根拠もなく伊都国にあった!証拠はないけどあったはず!とか言う与太話より
証拠はないけど海人族の本拠地だった志賀島に埋まってた!のほうが説得力を感じる
- 441 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:31:33 .net
- Q1.
その神社が1822年に土壁用の粘土を掘ってる時に偶然見つかった三雲南小路遺跡をどう認識してたのか(ちなみに金印が発見されたのは1784年)。
A1.
235年も前に太閤検地で没収された土地だから忘れ去られていた。
没収された理由は天正年間には既に社殿もなく荒廃していた村社だから。
Q2.
金印に関する伝承?社伝?はいつ頃見つかったものなのか。
A2.
2013年に古田武彦氏が住人や神主から採録したというのが唯一。
史料は存在せず。
Q3.
また最古の出典はいつなのか。
A3.
古田に情報提供した大政就平氏がどこから得た情報なのかは明らかにされていないので不明。
2013年12月06日に投稿されたスピリチュアル系ブログと2014年10月16日に発刊された古田本以外のソースなしにより与太話確定。
- 442 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:34:05.15 .net
- 古田が聞き取りしたという「お侍さんが持ち出した」がいつのことなのかが分からんから信憑性がない。
16世紀には細石神社の社殿すら残っていなかったのだから、持ち出したのが事実とするならそれ以前ということになる。
5世紀も前のことを地元住民が先祖代々口伝していたというのは非現実的すぎる。
まして現在の社殿は明治に再建されたもので、宮司もその時に就任した家なのだから4世紀も断絶していた口伝が残っていたというのは無理がある。
- 443 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:41:17.32 .net
- お侍さんが持ち出したとするならそれは1,500年代。
500年も前の断絶した神社の由縁を地元住人が口伝し続けていたというのは流石に非現実的過ぎると思わないかい?
もしそんな奇跡があり得たとするなら200年前に土壁の材料として採掘なんてしなかっただろうし。
- 444 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:42:01.43 .net
- 太閤検地の時点で何一つ残ってなかったんだから関係者一族も生き残ってなかったんだろう
- 445 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:43:19.61 .net
- 細石神社は16世紀後半に消失し、19世紀前半には地元民が自宅の土塀用に粘土を掘り出すまで完全に忘れ去られてた土地
- 446 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:45:37 .net
- そもそも
・金印が細石神社にあった
→歴史学では相手にされないレベルの噂話
・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
→歴史学・考古学的根拠なし
・金印は三雲南小路遺跡から出土したものだ
→歴史学・考古学的根拠なし
・三雲南小路遺跡は夫婦の墓だから、細石神社祭神の木花咲也とその夫である彦火火出見の墓だ
→超がつくほど飛躍した論理
なのに、循環論法よろしく、関連付けて主張してる奴がバカなだけ
- 447 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:47:29 .net
- ざっくり流鏑馬を実施してる福岡県内の神社をGoogleMapで調べ、それぞれ流鏑馬を実施してる土地面積を調べてみたぞ
田川鶴岡八幡宮 流鏑馬場1,700平方メートル
現人神社 参拝者駐車場1,350平方メートル
飯盛神社 流鏑馬場4,000平方メートル
住吉神社 表境内700平方メートル
香椎宮 催事会場5,000平方メートル
風浪宮 祭祀場650平方メートル
宗像大社 第3駐車場2,000平方メートル
最小が700m2(212坪)で最大が5,000m2(1,500坪)
流鏑馬ができたんなら結構広い神社だろうな
- 448 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:49:19 .net
- 1587年に年貢逃れのために神田としていた三雲を秀吉が検地させ、社殿が喪失していたことも明らか
- 449 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:49:59 .net
- 1822年に社殿がなかったことは明らかだし、1829年に手水舎が再発見されてるということは林になっていたことは確実
- 450 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:54:36 .net
- 神事を神職ではなく村長が開催したのは村おこしと言うか神社再興(ふたたび神田として年貢逃れを画策)のためだろうね。
- 451 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:56:22 .net
- 長年に渡って年貢なんて収めたことがない三雲集落にとって筑前に米を取られるのは大変な負担だったに違いない
- 452 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:58:57 .net
- 元緑八(1695)年、村山正貞があらわした『細石神社御縁起』(大神氏蔵)に
「天正十五(1587)年豊臣秀吉公九州の乱をしづめ給ふ折から、故なく当社の神田をも没収し給ひ」と記し、
それ以前は「広麗なる御社にて、神事祭礼もことにいかめしかりける」と述ベている。
だが、それ以前のことは皆目わからない。
現在は三雲部落の氏神としてあがめられているだけで、他地方の人が足を向け参拝にくることは、ほとんどない。
http://snk.or.jp/cda/kodaikyushu.pdf
個人的にはこのシニアネットという老人向けサービスに寄稿されたPDFファイル以外に
この話が載っているサイトが見つけられないので古代史ファンの老人の創作だろう。
- 453 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:03:35 .net
- 個人的には細石神社の話は興味深いのだが、魏志倭人伝と後漢書を比較すると、卑弥呼の前の男王より前に金印をもらったことになるというので、それなら志賀島の綿津見がもらったということで世代が一致する。
- 454 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:05:35 .net
- 糸クズの細石神社ネタは↓に見事に当てはまっている
1.論理が自己崩壊している。つまり自分で言ってることに整合性がなく、その場しのぎ。
2.既存の(否定しようとする)理論や法則を理解していないか、知っていながら敢えて曲解している。
3.信頼できる実験や観測でも、都合の悪い内容(証拠)は無視している。
4.先に結論があって、その為の論理を構築する(した気になる)。
5.批判は受けつけない。間違いに気付いても絶対にそれは認めない。
6.相手の論旨をすりかえる事で、何かを証明した気になる。
7.専門家や科学者個人の否定。逆に言えば自らの過大評価。自説に酔いしれている。
- 455 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:10:13 .net
- 天正初期に焼失し、天正15年(1587年)には社領と呼べる状態になかったから太閤検地で神田ではないと判明し、没収され筑前の石高に組み込まれた。
「侍が持ち出した」のが本当なら、焼失前なんだから433年以上前になり、しかも裏手の土を土塀の材料に掘り起こすほどその存在は忘れられていた。
古田の誘導尋問もしくは創作と見るのが常識的。
1587年には野ざらしであり、寛永後期(1635年以降)に村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興が叶わなかったんだから断絶したと見るのが常識的。
- 456 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:13:36 .net
- 伊都ジジイは朝鮮人確定
現政府の前身、前々身にあたる大和王権が
朝鮮半島に対して領土主権を持っていた事を
否定したくて仕方ないんだ
だから邪馬台国九州説や任那日本府と大和王権は
無関係であると主張している
それに金印を授けられたのが大和王権だと
銅印の半島諸国よりも日本の立場が上になって
しまうので躍起になって倭国王は九州王だと
レスしまくっている
そしてその九州王は唐に滅ぼされたと滅茶苦茶な
結論を出して大和は金印の倭国の権威を引き継いで
いない事にしている
伊都ジジイの政治的意図は明白
ただの在日史観
- 457 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:15:00 .net
- 祀る神も、奉る宮司も存在しないのだから藩に年貢を納めなさい
これが太閤検地による没収の趣旨
- 458 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:15:31 .net
- 「お上の決めたことやけん、しかたあんめ」と納得したものの、村高の応じた年貢量の負担が大きくて泡食った村長が流鏑馬を行い「神事ばやっとるけん、ここは神田ばい!」と主張してみたが奉りの実態がなかったので認められなかったってこと
- 459 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:17:02 .net
- 祀る神も、奉る宮司もないのに信仰が残るわけない。
まして三雲住民は金龍寺の宗門人別帳に記録されてるんだから曹洞宗に帰依したと判断するのが日本史の常識。
- 460 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:17:31 .net
- 延喜式に収容されてないにもかかわらず、高祖神社の社領は没収されずに神田のまま明治を迎えてる
祀る神と進上する氏子が存在していれば没収はされなかったという傍証
- 461 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:18:06 .net
- 細石神社ネタのまとめ
建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜
紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
(三代実録の高磯ヒメ神は高祖神社なので削除)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる(祀る神も奉る神主も存在していない結果=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認(祭日の流鏑馬行事だけは残った模様)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
古田の言う地元住人の「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性はない
→信仰は残ったはずとの反論
三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれている。 よって曹洞宗に帰依、信仰は残らなかった
傍証として神事が流鏑馬という祭行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領の認識をしていなかったことなどが挙げられる
結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない
以上
- 462 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:19:45 .net
- 倭人と中華(中国)、どちらが上だと思う?
いまでも同じなんだけど、頭が悪いんだろう。
ポアされた人物の影響でも受けているとか?
しょーとくたいし、うまやど・・・とかいう人物も影響w
- 463 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:21:53 .net
- この人物がいるでしょ
『アンサイクロペディア 麻原』
お前達には意味がわからないんだろうけど。
- 464 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:22:14 .net
- 明清で収集された古代印が今は博物館に1万個くらいあるとか、で半分は明から骨董収集ブームで作られた贋作だろうと言われる。
印譜まで贋作ですからね。
明清に収集された古代印で気が付いたことは、金印が一つも無い。
真贋問わず一つも無い。
南北時代まで作られていた金印は唐代には埋まってしまって地上に一つも無くなったらしい。
盗掘で掘り出されても金銀は溶かされたんでしょう。
で あの志賀島の金印は、初めての出土品だった。勿論贋作なんかじゃない。
本家中国でも長く消えてしまって金印がどんなものか分からない、贋作しようがない。日本で作れる訳がない。
その後現代で見つかって現存する古代金印は50個足らずのようです。
もし邪馬台国が受けたという「親魏倭王」或いは「親晋倭王」が出現したらこういうスタイルでしょう。
1958年発掘 蛇鈕金印 http://www.whmuseum.com.cn/WB_collectionl_connect.aspx?id=20
- 465 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:23:01 .net
- >>462-463
川崎の統合失調症症患者は日の出前に首を吊れ
前から何度も何度も死ねと命令されているだろう?
なぜ言うことを聞くことができないのか・・・
統合失調症症患者とは言え、日本語は読めるのだろう?
いい加減実践しろ
- 466 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:26:34 .net
- だから、お前は、どこの池沼なんだ?と聞いているんだよw
頭が悪いんだろう?
- 467 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:30:05 .net
- ゴキブリ扱いされているのが、わからないのか?
お前のような人間のことを言っているんだよ、頭が悪いんだろう?
- 468 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:34:29 .net
- 自分でもビックリするくらい完璧な年表が出来た。
西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
107年 第6代・孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢した。
177年 第10代・崇神天皇が即位した。
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 崇神5年、疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行27年、景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。
※約100年の空白期間
※卑弥呼と台与を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇を創作し空白期間を埋めた。
390年 第15代・応神天皇が即位した。
- 469 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:44:19 .net
- ふーん、それがどうした?としか言えないんだけどw
何がしたいんだ?
- 470 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 02:01:20 .net
- >>469
川崎の統合失調症症患者は日の出前に首を吊れ
前から何度も何度も死ねと命令されているだろう?
なぜ言うことを聞くことができないのか・・・
統合失調症症患者とは言え、日本語は読めるのだろう?
いい加減実践しろ
- 471 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:06:48 .net
- >>446
>・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
>→歴史学・考古学的根拠なし
金印の話を否定したいがために、このような無理な主張をするから、あなたの説得全体が信用されないのだと自覚してほしい。
- 472 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:09:57 .net
- >>459
それなら江戸時代はすべての神社が消滅していたことになる。
- 473 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:17:27 .net
- >>453
志賀島の綿津見山積は細石神社の木花開耶姫の実家の豊国王家だろ。
でも細石神社と高祖神社(木花咲耶姫の息子の彦火々出見)は嫁入り先の天孫族の王家なんだよ。
何らかの理由で高祖神社は存続したが、細石神社は廃れたみたいだね。
金印を授かったのが高祖神社なら高祖神社金印が伝わったという話の方が整合性があったのに、なぜ細石神社ということになったのか。
- 474 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:19:43.74 .net
- >>468
>西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
金印を受け取ったのは筑紫で、神武がいたのは大和だぞ。
神武が筑紫で受け取って大和に持ち込んだら、志賀島で見つかったりはしない。
- 475 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:36:36 .net
- >>471
自分に言ってるとしか思えない(笑)
- 476 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:37:12 .net
- >>472
あんた前スレで散々「文盲」と蔑まされてた人だろ?
- 477 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:38:42 .net
- >>473
>なぜ細石神社ということになったのか
なってないんだなこれが
これこそがあんたの間違いの始まり
- 478 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 07:38:59 .net
- こっちだって丸々信じているわけではなく半信半疑なのだが、あなたのような人がいると細石神社説を応援したくなるのさ。
まして、魏志倭人伝によれば金印受領から200年後でも伊都が権力の中枢だったことは明らかだしね。
史書を無視して全否定しようとするなら、そんな意見には耳を貸すことはできないよ。
- 479 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 09:38:59 .net
- >>478
>金印受領から200年後でも伊都が権力の中枢だった
お前は思い込みが強すぎて話にならんな。
- 480 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 09:57:16 .net
- というか、前スレに書かれてた>461で細石神社ネタは終わってる
そもそも該当神社と金印を関連付けたのは後にも先にも古田一人だけ
歴史学ではなくファンタジーって結論に至ってる
- 481 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 10:04:28 .net
- 紀元前1世紀の三雲の被葬者が金印もらったわけでもないのに
細石神社に保管されてたっておかしいな
- 482 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 10:49:05 .net
- 古田の願望から生まれたウソでしかないからな
- 483 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:25:38 .net
- >>481
息子か孫がもらって、後世に奉納したのかも。
- 484 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:34:24 .net
- >>479
魏志倭人伝には、伊都の大率が諸国を検察し、周辺国は大率を畏れていたと書かれている。
伊都が権力の座だった。
- 485 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:39:34 .net
- イトコク、イトコクとイキがってみても、それが平原だったとは限らない
ま、原田や古田や安本ら多数の早とちりだろうなwww
- 486 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:08:13 .net
- 平原にあるのはただの墓だ。
ここでは伊都の大率とやらの庁舎がどこにあったのか。
「まつりごと」は祭祀であり政治でもあるのだから、神社つまりお宮が政治の舞台であり、庁舎を兼ねていたはずだ。
大率の庁舎の候補は古い神社やその遺構になるわけで、高祖神社や細石神社がその可能性がある。
細石神社が廃れたのは1000年も後の戦国時代になってからだ。
戦国時代には旧家の多くが没落して、文化財も大量に失われ、日本史に大きな断絶を生じた。
その後の姿だけ取り上げて批判の材料としても説得力はない。
廃れたからこそ、豊臣をはじめとする武家の勢力に押されて金印を手放したのかもしれない。
- 487 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:20:37 .net
- 日本書紀では怡土県主(糸島)と岡県主(小倉)が三種の神器を掲げて登場し、他の地域の豪族と区別されている。
金印の拝領から数百年後でも伊都は特別扱いなわけだ。
そもそも三種の神器を副葬する文化は福岡県北部に特有のものだったし、三種の神器を構成する鏡はおそらくは金印と同じように漢から拝領したものだったろう。
遣溝遺跡の鏡は後漢鏡も含んでおり、金印とも年代が近い。
糸島平野が史学でも考古学でも極めて特殊な位置付けであったことは間違いなく、それを考察することなく「イヤダイヤダ認めない」と駄々をこねるだけではダメだ。
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