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漢委奴国王印 いわゆる金印part3

1 :東京:2019/05/06(月) 17:37:27.05 .net
有意義なスレですのでpart3をたてました。

432 :日本@名無史さん:2020/05/02(土) 23:13:42 .net
2000年も経つと権威は失われるということだ。

433 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:04:00 .net
細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。

434 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:10:03 .net
細石神社(佐々禮石社)の来歴

建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり

元慶元年(877年) 三代実録に高磯ひめ神に従五位下を授けるとあり

天正年間(1573〜1586年) 戦火により焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる

寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず

元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の実在が確認

天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見

文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)

明治5年(1872年) 村社

大正12年(1923年) 幣帛供進社

435 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:17:21 .net
創建がちょうど金印をもらった頃じゃないか。

436 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:21:08 .net
三雲遺跡は紀元前1世紀頃だから
金印より1世紀くらい前だろ

437 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:24:29 .net
細石神社が漢委奴国王の金印を旧蔵してたって話の元ネタは古田の「多元史観」
四国の大政就平という人物が古田に知らせ、地元住民に聞き取りしたら「細石神社にあった金印を武士がもって行った」という伝承があったらしい

200年も前の出来事を地元住人が知ってるファンタジー
複数の証言が取れるのに一切の記録がないファンタジー
くだんの神社にも一切の記録が残っていないファンタジー
境内の後ろにある王墓の伝承すら残っていないファンタジー

438 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:25:14 .net
細石神社と親子関係にある高祖神社の方が金印の年代に近いのか。

439 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:28:50 .net
1587年に神田全没収されるくらい荒廃してて社殿もなかったのに、1784年まで宝物として保管してたってのは無理がある

440 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:29:31 .net
オカルト脳じゃない限り、根拠もなく伊都国にあった!証拠はないけどあったはず!とか言う与太話より
証拠はないけど海人族の本拠地だった志賀島に埋まってた!のほうが説得力を感じる

441 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:31:33 .net
Q1.
その神社が1822年に土壁用の粘土を掘ってる時に偶然見つかった三雲南小路遺跡をどう認識してたのか(ちなみに金印が発見されたのは1784年)。
A1.
235年も前に太閤検地で没収された土地だから忘れ去られていた。
没収された理由は天正年間には既に社殿もなく荒廃していた村社だから。

Q2.
金印に関する伝承?社伝?はいつ頃見つかったものなのか。
A2.
2013年に古田武彦氏が住人や神主から採録したというのが唯一。
史料は存在せず。

Q3.
また最古の出典はいつなのか。
A3.
古田に情報提供した大政就平氏がどこから得た情報なのかは明らかにされていないので不明。


2013年12月06日に投稿されたスピリチュアル系ブログと2014年10月16日に発刊された古田本以外のソースなしにより与太話確定。

442 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:34:05.15 .net
古田が聞き取りしたという「お侍さんが持ち出した」がいつのことなのかが分からんから信憑性がない。
16世紀には細石神社の社殿すら残っていなかったのだから、持ち出したのが事実とするならそれ以前ということになる。
5世紀も前のことを地元住民が先祖代々口伝していたというのは非現実的すぎる。
まして現在の社殿は明治に再建されたもので、宮司もその時に就任した家なのだから4世紀も断絶していた口伝が残っていたというのは無理がある。

443 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:41:17.32 .net
お侍さんが持ち出したとするならそれは1,500年代。
500年も前の断絶した神社の由縁を地元住人が口伝し続けていたというのは流石に非現実的過ぎると思わないかい?
もしそんな奇跡があり得たとするなら200年前に土壁の材料として採掘なんてしなかっただろうし。

444 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:42:01.43 .net
太閤検地の時点で何一つ残ってなかったんだから関係者一族も生き残ってなかったんだろう

445 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:43:19.61 .net
細石神社は16世紀後半に消失し、19世紀前半には地元民が自宅の土塀用に粘土を掘り出すまで完全に忘れ去られてた土地

446 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:45:37 .net
そもそも
・金印が細石神社にあった
→歴史学では相手にされないレベルの噂話
・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
→歴史学・考古学的根拠なし
・金印は三雲南小路遺跡から出土したものだ
→歴史学・考古学的根拠なし
・三雲南小路遺跡は夫婦の墓だから、細石神社祭神の木花咲也とその夫である彦火火出見の墓だ
→超がつくほど飛躍した論理
なのに、循環論法よろしく、関連付けて主張してる奴がバカなだけ

447 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:47:29 .net
ざっくり流鏑馬を実施してる福岡県内の神社をGoogleMapで調べ、それぞれ流鏑馬を実施してる土地面積を調べてみたぞ

田川鶴岡八幡宮 流鏑馬場1,700平方メートル
現人神社 参拝者駐車場1,350平方メートル
飯盛神社 流鏑馬場4,000平方メートル
住吉神社 表境内700平方メートル
香椎宮 催事会場5,000平方メートル
風浪宮 祭祀場650平方メートル
宗像大社 第3駐車場2,000平方メートル

最小が700m2(212坪)で最大が5,000m2(1,500坪)

流鏑馬ができたんなら結構広い神社だろうな

448 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:49:19 .net
1587年に年貢逃れのために神田としていた三雲を秀吉が検地させ、社殿が喪失していたことも明らか

449 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:49:59 .net
1822年に社殿がなかったことは明らかだし、1829年に手水舎が再発見されてるということは林になっていたことは確実

450 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:54:36 .net
神事を神職ではなく村長が開催したのは村おこしと言うか神社再興(ふたたび神田として年貢逃れを画策)のためだろうね。

451 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:56:22 .net
長年に渡って年貢なんて収めたことがない三雲集落にとって筑前に米を取られるのは大変な負担だったに違いない

452 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 00:58:57 .net
元緑八(1695)年、村山正貞があらわした『細石神社御縁起』(大神氏蔵)に
「天正十五(1587)年豊臣秀吉公九州の乱をしづめ給ふ折から、故なく当社の神田をも没収し給ひ」と記し、
それ以前は「広麗なる御社にて、神事祭礼もことにいかめしかりける」と述ベている。

だが、それ以前のことは皆目わからない。
現在は三雲部落の氏神としてあがめられているだけで、他地方の人が足を向け参拝にくることは、ほとんどない。
http://snk.or.jp/cda/kodaikyushu.pdf

個人的にはこのシニアネットという老人向けサービスに寄稿されたPDFファイル以外に
この話が載っているサイトが見つけられないので古代史ファンの老人の創作だろう。

453 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:03:35 .net
個人的には細石神社の話は興味深いのだが、魏志倭人伝と後漢書を比較すると、卑弥呼の前の男王より前に金印をもらったことになるというので、それなら志賀島の綿津見がもらったということで世代が一致する。

454 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:05:35 .net
糸クズの細石神社ネタは↓に見事に当てはまっている
 
 
1.論理が自己崩壊している。つまり自分で言ってることに整合性がなく、その場しのぎ。

2.既存の(否定しようとする)理論や法則を理解していないか、知っていながら敢えて曲解している。

3.信頼できる実験や観測でも、都合の悪い内容(証拠)は無視している。

4.先に結論があって、その為の論理を構築する(した気になる)。

5.批判は受けつけない。間違いに気付いても絶対にそれは認めない。

6.相手の論旨をすりかえる事で、何かを証明した気になる。

7.専門家や科学者個人の否定。逆に言えば自らの過大評価。自説に酔いしれている。

455 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:10:13 .net
天正初期に焼失し、天正15年(1587年)には社領と呼べる状態になかったから太閤検地で神田ではないと判明し、没収され筑前の石高に組み込まれた。

「侍が持ち出した」のが本当なら、焼失前なんだから433年以上前になり、しかも裏手の土を土塀の材料に掘り起こすほどその存在は忘れられていた。

古田の誘導尋問もしくは創作と見るのが常識的。

1587年には野ざらしであり、寛永後期(1635年以降)に村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興が叶わなかったんだから断絶したと見るのが常識的。

456 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:13:36 .net
伊都ジジイは朝鮮人確定
現政府の前身、前々身にあたる大和王権が
朝鮮半島に対して領土主権を持っていた事を
否定したくて仕方ないんだ
だから邪馬台国九州説や任那日本府と大和王権は
無関係であると主張している

それに金印を授けられたのが大和王権だと
銅印の半島諸国よりも日本の立場が上になって
しまうので躍起になって倭国王は九州王だと
レスしまくっている
そしてその九州王は唐に滅ぼされたと滅茶苦茶な
結論を出して大和は金印の倭国の権威を引き継いで
いない事にしている

伊都ジジイの政治的意図は明白
ただの在日史観

457 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:15:00 .net
祀る神も、奉る宮司も存在しないのだから藩に年貢を納めなさい
これが太閤検地による没収の趣旨

458 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:15:31 .net
「お上の決めたことやけん、しかたあんめ」と納得したものの、村高の応じた年貢量の負担が大きくて泡食った村長が流鏑馬を行い「神事ばやっとるけん、ここは神田ばい!」と主張してみたが奉りの実態がなかったので認められなかったってこと

459 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:17:02 .net
祀る神も、奉る宮司もないのに信仰が残るわけない。
まして三雲住民は金龍寺の宗門人別帳に記録されてるんだから曹洞宗に帰依したと判断するのが日本史の常識。

460 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:17:31 .net
延喜式に収容されてないにもかかわらず、高祖神社の社領は没収されずに神田のまま明治を迎えてる
祀る神と進上する氏子が存在していれば没収はされなかったという傍証

461 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:18:06 .net
細石神社ネタのまとめ

建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
(三代実録の高磯ヒメ神は高祖神社なので削除)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる(祀る神も奉る神主も存在していない結果=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認(祭日の流鏑馬行事だけは残った模様)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社

古田の言う地元住人の「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性はない
→信仰は残ったはずとの反論
三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれている。 よって曹洞宗に帰依、信仰は残らなかった
傍証として神事が流鏑馬という祭行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領の認識をしていなかったことなどが挙げられる

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

以上

462 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:19:45 .net
倭人と中華(中国)、どちらが上だと思う?
いまでも同じなんだけど、頭が悪いんだろう。

ポアされた人物の影響でも受けているとか?
しょーとくたいし、うまやど・・・とかいう人物も影響w

463 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:21:53 .net
  この人物がいるでしょ

『アンサイクロペディア 麻原』

お前達には意味がわからないんだろうけど。

464 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:22:14 .net
明清で収集された古代印が今は博物館に1万個くらいあるとか、で半分は明から骨董収集ブームで作られた贋作だろうと言われる。
印譜まで贋作ですからね。

明清に収集された古代印で気が付いたことは、金印が一つも無い。
真贋問わず一つも無い。

南北時代まで作られていた金印は唐代には埋まってしまって地上に一つも無くなったらしい。

盗掘で掘り出されても金銀は溶かされたんでしょう。

で あの志賀島の金印は、初めての出土品だった。勿論贋作なんかじゃない。

本家中国でも長く消えてしまって金印がどんなものか分からない、贋作しようがない。日本で作れる訳がない。

その後現代で見つかって現存する古代金印は50個足らずのようです。

もし邪馬台国が受けたという「親魏倭王」或いは「親晋倭王」が出現したらこういうスタイルでしょう。

1958年発掘 蛇鈕金印  http://www.whmuseum.com.cn/WB_collectionl_connect.aspx?id=20

465 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:23:01 .net
>>462-463
川崎の統合失調症症患者は日の出前に首を吊れ

前から何度も何度も死ねと命令されているだろう?

なぜ言うことを聞くことができないのか・・・

統合失調症症患者とは言え、日本語は読めるのだろう?

いい加減実践しろ

466 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:26:34 .net
だから、お前は、どこの池沼なんだ?と聞いているんだよw
頭が悪いんだろう?

467 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:30:05 .net
ゴキブリ扱いされているのが、わからないのか?
お前のような人間のことを言っているんだよ、頭が悪いんだろう?

468 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:34:29 .net
自分でもビックリするくらい完璧な年表が出来た。

西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。
107年 第6代・孝安天皇(倭国王帥升等)が後漢に朝貢した。
177年 第10代・崇神天皇が即位した。
179年 奈良県の三輪山西麓の瑞籬宮に都を移した。
181年 ニュージーランドのタウポ大噴火
181年 崇神5年、疾病の流行。『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」
181年  『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く
181〜184年 倭国大乱
183年 モモソ姫の助言で大田田根子に大物主神を祀らせたら五穀豊穣となり疾病が治まった。
184年 疾病などの影響で崇神天皇が権威を失った。倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になった。
184年 黄巾の乱が勃発し、漢が衰退した。漢から授かった金印の権威消失。
198年(戊寅年) 崇神天皇が崩御した。
199年 第12代・垂仁天皇が即位した(女王・卑弥呼を補佐する役割)
202年 纒向珠城宮(纒向遺跡)に都を移した。
※『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(垂仁天皇の本名は伊久米),次席は弥馬升(垂仁天皇后の本名は日葉酢)
237年 垂仁天皇が崩御した。
238年 第12代・景行天皇が即位した。(女王・卑弥呼を補佐する役割)
238年 難升米と都市牛利が魏に朝貢した。卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授かった。
248年 『三国志』によると女王・卑弥呼がついに亡くなった。
264年 景行27年、景行天皇の息子ヤマトタケルが熊襲討伐に成功。
266年 台与が晋に朝貢した。

※約100年の空白期間
※卑弥呼と台与を日本の歴史から消す代わりに架空の天皇である第13代天皇と第14代天皇を創作し空白期間を埋めた。

390年 第15代・応神天皇が即位した。

469 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 01:44:19 .net
ふーん、それがどうした?としか言えないんだけどw
何がしたいんだ?

470 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 02:01:20 .net
>>469
川崎の統合失調症症患者は日の出前に首を吊れ

前から何度も何度も死ねと命令されているだろう?

なぜ言うことを聞くことができないのか・・・

統合失調症症患者とは言え、日本語は読めるのだろう?

いい加減実践しろ

471 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:06:48 .net
>>446
>・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
>→歴史学・考古学的根拠なし

金印の話を否定したいがために、このような無理な主張をするから、あなたの説得全体が信用されないのだと自覚してほしい。

472 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:09:57 .net
>>459

それなら江戸時代はすべての神社が消滅していたことになる。

473 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:17:27 .net
>>453

志賀島の綿津見山積は細石神社の木花開耶姫の実家の豊国王家だろ。
でも細石神社と高祖神社(木花咲耶姫の息子の彦火々出見)は嫁入り先の天孫族の王家なんだよ。
何らかの理由で高祖神社は存続したが、細石神社は廃れたみたいだね。
金印を授かったのが高祖神社なら高祖神社金印が伝わったという話の方が整合性があったのに、なぜ細石神社ということになったのか。

474 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:19:43.74 .net
>>468
>西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。

金印を受け取ったのは筑紫で、神武がいたのは大和だぞ。
神武が筑紫で受け取って大和に持ち込んだら、志賀島で見つかったりはしない。

475 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:36:36 .net
>>471
自分に言ってるとしか思えない(笑)

476 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:37:12 .net
>>472
あんた前スレで散々「文盲」と蔑まされてた人だろ?

477 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:38:42 .net
>>473
>なぜ細石神社ということになったのか

なってないんだなこれが
これこそがあんたの間違いの始まり

478 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 07:38:59 .net
こっちだって丸々信じているわけではなく半信半疑なのだが、あなたのような人がいると細石神社説を応援したくなるのさ。
まして、魏志倭人伝によれば金印受領から200年後でも伊都が権力の中枢だったことは明らかだしね。
史書を無視して全否定しようとするなら、そんな意見には耳を貸すことはできないよ。

479 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 09:38:59 .net
>>478
>金印受領から200年後でも伊都が権力の中枢だった

お前は思い込みが強すぎて話にならんな。

480 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 09:57:16 .net
というか、前スレに書かれてた>461で細石神社ネタは終わってる

そもそも該当神社と金印を関連付けたのは後にも先にも古田一人だけ
歴史学ではなくファンタジーって結論に至ってる

481 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 10:04:28 .net
紀元前1世紀の三雲の被葬者が金印もらったわけでもないのに
細石神社に保管されてたっておかしいな

482 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 10:49:05 .net
古田の願望から生まれたウソでしかないからな

483 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:25:38 .net
>>481
息子か孫がもらって、後世に奉納したのかも。

484 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:34:24 .net
>>479

魏志倭人伝には、伊都の大率が諸国を検察し、周辺国は大率を畏れていたと書かれている。
伊都が権力の座だった。

485 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:39:34 .net
イトコク、イトコクとイキがってみても、それが平原だったとは限らない
ま、原田や古田や安本ら多数の早とちりだろうなwww

486 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:08:13 .net
平原にあるのはただの墓だ。
ここでは伊都の大率とやらの庁舎がどこにあったのか。
「まつりごと」は祭祀であり政治でもあるのだから、神社つまりお宮が政治の舞台であり、庁舎を兼ねていたはずだ。
大率の庁舎の候補は古い神社やその遺構になるわけで、高祖神社や細石神社がその可能性がある。
細石神社が廃れたのは1000年も後の戦国時代になってからだ。
戦国時代には旧家の多くが没落して、文化財も大量に失われ、日本史に大きな断絶を生じた。
その後の姿だけ取り上げて批判の材料としても説得力はない。
廃れたからこそ、豊臣をはじめとする武家の勢力に押されて金印を手放したのかもしれない。

487 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:20:37 .net
日本書紀では怡土県主(糸島)と岡県主(小倉)が三種の神器を掲げて登場し、他の地域の豪族と区別されている。
金印の拝領から数百年後でも伊都は特別扱いなわけだ。

そもそも三種の神器を副葬する文化は福岡県北部に特有のものだったし、三種の神器を構成する鏡はおそらくは金印と同じように漢から拝領したものだったろう。
遣溝遺跡の鏡は後漢鏡も含んでおり、金印とも年代が近い。
糸島平野が史学でも考古学でも極めて特殊な位置付けであったことは間違いなく、それを考察することなく「イヤダイヤダ認めない」と駄々をこねるだけではダメだ。

488 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:29:08 .net
糸島と小倉に護衛役の県主を配置し、
その間の那の津か香椎あたりで倭奴国王が威張ってたんじゃないの

489 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:31:22 .net
ちなみに岡県主はおそらく神武が滞在した筑紫岡田宮(岡田神社)の主のこと。
では怡土県主はどの宮の主のことだったのか?
やはり候補は高祖宮(高祖神社)か細石神社しかない。
この両者により仲哀天皇は穴門豊浦宮から政権の中枢である博多湾の東側にある筑紫香椎宮に迎えられる。
この故事を「恭順した」と捉えるのは結構だが、では岡田宮と高祖宮が反対したら、仲哀天皇は香椎宮に入れたかどうか考えてみるといい。
少なくともローマ帝国の選帝侯くらいには権力があったのだろう。

490 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:45:27 .net
妄執

491 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:52:06 .net
上古の日本においては、天神の子は太陽を背にして君臨するという思想があったらしい。
神武が畿内を攻略した時、日下で敗色が濃くなり、
「我ら天神の子は太陽に向かって戦うのではなく、太陽を背にして戦うべきだ」
と言い、紀伊半島を回り込んで大和に入った。
大和においては三輪山が聖地として奈良盆地の東側にそびえており、物部氏の石上神宮も同様の配置だ。
筑紫においても、伊都の東の高祖山に高祖宮があり、博多の東には香椎宮がある(特にスケールが大きい)。
祭政一致時代の権力の座のあり方として、明確に筑紫と大和は同じ文化を共有している。
しかるに金印を受け取った1世紀においてはまだ大和は十分な国際都市として発達した形跡がなく、一方で伊都は膨大な舶来品が出土する。
おそらくは志賀島も含めて福岡県内の宮が持ち回りで倭国の政権を担ったのだろう。
宮はそこに住まう王族本人の呼称にもなることを忘れてはいけない。

492 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 14:02:24 .net
参考資料(志賀島 山誉め祭りの神楽より)

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな

493 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 14:37:10 .net
上古の日本と言うより古中国の天子南面スが輸入されたのでは

494 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 14:38:46 .net
まあ甕棺だから特殊だよな、日本の中では

495 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 15:02:25 .net
太陽を背にするといっても、
三輪山や高祖山の場合、午前中は良いが、午後は太陽に歯向かうんじゃないの。中途半端だよ。

496 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 16:30:37 .net
>>484
読み間違えがすぎるだろwww

497 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 16:32:29 .net
医の世に生活するは
人の為のみ
ただ己を捨てて
人を救わんことをねがうべし

ドイツ フーフェランド

498 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 16:42:23.53 .net
金印も偽物、日田の鉄鏡も偽物

お前らは何だったら本物と認めるんだよ
九州博物館にいって見て
自分で判断しろよ
何も現物見ないで判断するな!卓上で議論すんな!

ついでに福岡の有名神社も見て帰ってね〜

499 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 17:22:03 .net
金印は福岡市博物館の常設展示

500 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 15:14:29 .net
卑弥呼は、「魏委邪馬壱国王」になるのか?

501 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 15:15:27 .net
>>500
スレチおつ

502 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 17:08:16 .net
同じ金印だろ

503 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 17:17:56 .net
>>500

ほれ
https://www.lucktendo.co.jp/blog/upload-images/20131210102753.jpg

504 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:41:26 .net
992: 2018/09/15(土)03:38 AAS
技術なんて何度も失われ、何度も再発明されるし。

そろそろスレ終わりそうだから書いとくか。

親魏倭王の印貰ったから漢委奴国王の印は埋めたんかもね。
邪馬台国のあった時代は戦乱続いたから親魏倭王の印は
奪い合う中、燃えて溶けたりして消滅。

漢委奴国王は「かんわのこくおう」だね。奴の発音は
「な、ぬ、の」どれなのか知らんけど、連体格の格助詞を
当てたもの。匈奴国も同じ。あっちの言語の格助詞もナ行
(格変化が複雑なので不正確かもしれんが)。

漢委奴をアイヌって言う説もそういうのもありかなと思った。
アイヌ語が語源じゃなくて、中古音(han iwe nu)がアイヌ語に
入った。

505 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:42:53 .net
999: 2018/09/16(日)21:03 AAS
木竹簡に押印は無い 漢代皇帝の宣旨などは絹布に書いたから、それには押したかもしれない。

6年過ぎて>>1はまだ居るのかな。 この金印は後漢書に書かれた印で歴史考古学の重要な現物資料お値打ち品
だから、日本史に一つスレを置いとかないといかんな。
史書に書かれた印が出土するのは奇跡的なことだ。史記に書かれた印が出たのは滇王一つしかない。
書かれた人物の持ち印は酷吏列伝の張湯、二代目南越王、この二つは建設現場で墓が見付かった、
も一つは小学生が拾った呂皇后の玉印、この三つしかない

506 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:46:27 .net
奴国は「極南界」とは合わない。
よって偽造。

507 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:53:00 .net
今の朝鮮半島の南にも倭人が
住んでいたと言われている
そこも奴国だったんやないかい

508 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 23:22:36.61 .net
バカばっか

509 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 17:58:13.63 .net
銀印は出てないのかな

510 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 18:26:53 .net
銀は腐食するから。

511 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 08:27:19 .net
>>507
>今の朝鮮半島の南にも倭人が住んでいたと言われている

それ狗邪韓国(くやかんこく)だろ。
倭国ではない。

512 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 10:59:00 .net
狗邪韓国から南が倭国だよ。
倭国の西北界は帯方郡から7千里の狗邪韓国と明記されている。
帯方郡から一万二千里で邪馬台国。

513 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 12:59:46.48 .net
それは狗邪韓国から来た人の民族運動

514 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 14:38:59 .net
>狗邪韓国から南が倭国だよ。

ならば志賀島は極南界にならないね。
極北界ならわかるが。

515 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 14:51:55.65 .net
こんな日本語の文字を考案した(画像有り)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3689-0
こんな人工言語を作った
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3648-0
人類の品種
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3625-0
言葉の起源
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3623-0
日本語は海豚の言葉に由来する
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3622-0
ペンギン(ウルトラマン)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3626-0
殷と商&燕国と斉国(日本)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3644-0
日本語と中国語との同源語
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3701-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0

516 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 20:00:04 .net
>>514
>ならば志賀島は極南界にならないね。

どこから湧いて出た話だよw

517 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 20:02:58 .net
倭国の最大勢力が倭奴国だったから、倭奴国より南の情報は漢末には得られなかった。
だから極南界(南の端)が倭奴国。
北の端の狗邪韓国とセットの記事であることは言うまでもない。

518 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 22:55:45 .net
後漢書の倭国は卑彌呼が共立された倭国
極南界(南の端)の倭奴国が北部九州沿岸で、
朝鮮半島南部と北部九州だけの倭国の範囲だと
大倭王が居る邪馬臺國は倭奴国よりも北になるので朝鮮半島になってしまう

519 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 06:37:20 .net
時代が違う。やり直し。

520 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 06:59:38 .net
北部九州に盛行した甕棺集団はど没落してしまったので
極南界(南の端)の倭奴国は滅亡した
金印が本物であった場合、邪馬臺國は九州には存在し得ないことになった

521 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 07:09:40 .net
中国のニュースだけど
上海で金印が出たよ
詳しくわからないけど複数発見されたみたい
 

522 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 07:20:02 .net
四川省眉山市の明代の「蜀世子宝」印じゃないのか?

https://www.afpbb.com/articles/-/3280983

523 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 07:41:37 .net
朝のNHKのニュースでやってたよ
重さが8キロだったよ

524 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 08:25:47 .net
>>523
だから>>522の蜀王太子の金印だろ。
先月29日発表だぞ?
どんだけ世間とズレてんだよ(笑)

525 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 09:24:25 .net
細石神社については否定は不可能なんだよ
可能性としては残される

高祖神社と細石神社は縁が深い
子と母の関係だから
昔は高祖神社から神輿が細石神社に下る神幸があった

高祖神社が残っていたなら、信仰は残るでしょうね

526 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 12:09:28 .net
福岡の特に古い神社の御神体は化石や石ばかり
そりゃ仏教伝わる前だもの
細石って言葉に惹かれるなぁ
どんな石なんだろうか

527 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:38:38 .net
>>525
可能性は皆無だから(笑)

細石神社ネタのまとめ

建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
(三代実録の高磯ヒメ神は高祖神社なので削除)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる(祀る神も奉る神主も存在していない結果=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認(祭日の流鏑馬行事だけは残った模様)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社

古田の言う地元住人の「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性はない
→信仰は残ったはずとの反論
三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれている。 よって曹洞宗に帰依、信仰は残らなかった
傍証として神事が流鏑馬という祭行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領の認識をしていなかったことなどが挙げられる
そもそも社伝自体が古田の妄想であり、元細石神社には一切伝わっていない

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

以上

528 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:45:20 .net
天正初期に焼失し、天正15年(1587年)には社領と呼べる状態になかったから太閤検地で神田ではないと判明し、没収され筑前の石高に組み込まれた。

「侍が持ち出した」のが本当なら、焼失前なんだから433年以上前になり、しかも裏手の土を土塀の材料に掘り出すほどその存在は忘れられていた。

古田の誘導尋問もしくは創作と見るのが常識的。

1587年には野ざらしであり、寛永後期(1635年以降)に村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興が叶わなかったんだから断絶したと見るのが常識的。

529 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:46:07 .net
Q1.
その神社が1822年に土壁用の粘土を掘ってる時に偶然見つかった三雲南小路遺跡をどう認識してたのか(ちなみに金印が発見されたのは1784年)。
A1.
235年も前に太閤検地で没収された土地だから忘れ去られていた。
没収された理由は天正年間には既に社殿もなく荒廃していた村社だから。

Q2.
金印に関する伝承?社伝?はいつ頃見つかったものなのか。
A2.
2013年に古田武彦氏が住人や神主から採録したというのが唯一。
史料は存在せず。

Q3.
また最古の出典はいつなのか。
A3.
古田に情報提供した大政就平氏がどこから得た情報なのかは明らかにされていないので不明。


2013年12月06日に投稿されたスピリチュアル系ブログと2014年10月16日に発刊された古田本以外のソースなしにより与太話確定。

530 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:46:20 .net
そもそも
・金印が細石神社にあった
→歴史学では相手にされないレベルの噂話
・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
→歴史学・考古学的根拠なし
・金印は三雲南小路遺跡から出土したものだ
→歴史学・考古学的根拠なし
・三雲南小路遺跡は夫婦の墓だから、細石神社祭神の木花咲也とその夫である彦火火出見の墓だ
→超がつくほど飛躍した論理
なのに、循環論法よろしく、関連付けて主張してる奴がバカなだけ

531 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:47:15 .net
細石神社が漢委奴国王の金印を旧蔵してたって話の元ネタは古田の「多元史観」
四国の大政就平という人物が古田に知らせ、地元住民に聞き取りしたら「細石神社にあった金印を武士がもって行った」という伝承があったらしい

五世紀も前の出来事を地元住人が知ってるファンタジー
複数の証言が取れるのに一切の記録がないファンタジー
くだんの神社にも一切の記録が残っていないファンタジー
境内の後ろにある王墓の伝承すら残っていないファンタジー

532 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:47:47 .net
細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。

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