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漢委奴国王印 いわゆる金印part3

1 :東京:2019/05/06(月) 17:37:27.05 .net
有意義なスレですのでpart3をたてました。

472 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:09:57 .net
>>459

それなら江戸時代はすべての神社が消滅していたことになる。

473 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:17:27 .net
>>453

志賀島の綿津見山積は細石神社の木花開耶姫の実家の豊国王家だろ。
でも細石神社と高祖神社(木花咲耶姫の息子の彦火々出見)は嫁入り先の天孫族の王家なんだよ。
何らかの理由で高祖神社は存続したが、細石神社は廃れたみたいだね。
金印を授かったのが高祖神社なら高祖神社金印が伝わったという話の方が整合性があったのに、なぜ細石神社ということになったのか。

474 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 03:19:43.74 .net
>>468
>西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇が誕生した。

金印を受け取ったのは筑紫で、神武がいたのは大和だぞ。
神武が筑紫で受け取って大和に持ち込んだら、志賀島で見つかったりはしない。

475 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:36:36 .net
>>471
自分に言ってるとしか思えない(笑)

476 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:37:12 .net
>>472
あんた前スレで散々「文盲」と蔑まされてた人だろ?

477 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 04:38:42 .net
>>473
>なぜ細石神社ということになったのか

なってないんだなこれが
これこそがあんたの間違いの始まり

478 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 07:38:59 .net
こっちだって丸々信じているわけではなく半信半疑なのだが、あなたのような人がいると細石神社説を応援したくなるのさ。
まして、魏志倭人伝によれば金印受領から200年後でも伊都が権力の中枢だったことは明らかだしね。
史書を無視して全否定しようとするなら、そんな意見には耳を貸すことはできないよ。

479 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 09:38:59 .net
>>478
>金印受領から200年後でも伊都が権力の中枢だった

お前は思い込みが強すぎて話にならんな。

480 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 09:57:16 .net
というか、前スレに書かれてた>461で細石神社ネタは終わってる

そもそも該当神社と金印を関連付けたのは後にも先にも古田一人だけ
歴史学ではなくファンタジーって結論に至ってる

481 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 10:04:28 .net
紀元前1世紀の三雲の被葬者が金印もらったわけでもないのに
細石神社に保管されてたっておかしいな

482 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 10:49:05 .net
古田の願望から生まれたウソでしかないからな

483 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:25:38 .net
>>481
息子か孫がもらって、後世に奉納したのかも。

484 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:34:24 .net
>>479

魏志倭人伝には、伊都の大率が諸国を検察し、周辺国は大率を畏れていたと書かれている。
伊都が権力の座だった。

485 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 12:39:34 .net
イトコク、イトコクとイキがってみても、それが平原だったとは限らない
ま、原田や古田や安本ら多数の早とちりだろうなwww

486 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:08:13 .net
平原にあるのはただの墓だ。
ここでは伊都の大率とやらの庁舎がどこにあったのか。
「まつりごと」は祭祀であり政治でもあるのだから、神社つまりお宮が政治の舞台であり、庁舎を兼ねていたはずだ。
大率の庁舎の候補は古い神社やその遺構になるわけで、高祖神社や細石神社がその可能性がある。
細石神社が廃れたのは1000年も後の戦国時代になってからだ。
戦国時代には旧家の多くが没落して、文化財も大量に失われ、日本史に大きな断絶を生じた。
その後の姿だけ取り上げて批判の材料としても説得力はない。
廃れたからこそ、豊臣をはじめとする武家の勢力に押されて金印を手放したのかもしれない。

487 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:20:37 .net
日本書紀では怡土県主(糸島)と岡県主(小倉)が三種の神器を掲げて登場し、他の地域の豪族と区別されている。
金印の拝領から数百年後でも伊都は特別扱いなわけだ。

そもそも三種の神器を副葬する文化は福岡県北部に特有のものだったし、三種の神器を構成する鏡はおそらくは金印と同じように漢から拝領したものだったろう。
遣溝遺跡の鏡は後漢鏡も含んでおり、金印とも年代が近い。
糸島平野が史学でも考古学でも極めて特殊な位置付けであったことは間違いなく、それを考察することなく「イヤダイヤダ認めない」と駄々をこねるだけではダメだ。

488 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:29:08 .net
糸島と小倉に護衛役の県主を配置し、
その間の那の津か香椎あたりで倭奴国王が威張ってたんじゃないの

489 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:31:22 .net
ちなみに岡県主はおそらく神武が滞在した筑紫岡田宮(岡田神社)の主のこと。
では怡土県主はどの宮の主のことだったのか?
やはり候補は高祖宮(高祖神社)か細石神社しかない。
この両者により仲哀天皇は穴門豊浦宮から政権の中枢である博多湾の東側にある筑紫香椎宮に迎えられる。
この故事を「恭順した」と捉えるのは結構だが、では岡田宮と高祖宮が反対したら、仲哀天皇は香椎宮に入れたかどうか考えてみるといい。
少なくともローマ帝国の選帝侯くらいには権力があったのだろう。

490 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:45:27 .net
妄執

491 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 13:52:06 .net
上古の日本においては、天神の子は太陽を背にして君臨するという思想があったらしい。
神武が畿内を攻略した時、日下で敗色が濃くなり、
「我ら天神の子は太陽に向かって戦うのではなく、太陽を背にして戦うべきだ」
と言い、紀伊半島を回り込んで大和に入った。
大和においては三輪山が聖地として奈良盆地の東側にそびえており、物部氏の石上神宮も同様の配置だ。
筑紫においても、伊都の東の高祖山に高祖宮があり、博多の東には香椎宮がある(特にスケールが大きい)。
祭政一致時代の権力の座のあり方として、明確に筑紫と大和は同じ文化を共有している。
しかるに金印を受け取った1世紀においてはまだ大和は十分な国際都市として発達した形跡がなく、一方で伊都は膨大な舶来品が出土する。
おそらくは志賀島も含めて福岡県内の宮が持ち回りで倭国の政権を担ったのだろう。
宮はそこに住まう王族本人の呼称にもなることを忘れてはいけない。

492 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 14:02:24 .net
参考資料(志賀島 山誉め祭りの神楽より)

禰宜二良(櫓を執る)
   君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
   あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや
   うつつらがせ身骸に命千歳とゆう花こそ咲いたり
   沖の御津の汐早にはえたらん釣尾にくわざらん
   鯛は沖のむれんだいほや
別当一良
   志賀の浜長きを見れば幾世経ぬらん
   香椎路に向いたるあの吹上の浜千代に八千代まで
   今宵夜半につき給う御船こそ、たが御船なりけるよ
   あれはやあれこそは安曇の君のめしたまう御船になりけるよ
   ゆるかよゆるか 汐早のゆるか 磯良が崎に鯛つるおきな

493 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 14:37:10 .net
上古の日本と言うより古中国の天子南面スが輸入されたのでは

494 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 14:38:46 .net
まあ甕棺だから特殊だよな、日本の中では

495 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 15:02:25 .net
太陽を背にするといっても、
三輪山や高祖山の場合、午前中は良いが、午後は太陽に歯向かうんじゃないの。中途半端だよ。

496 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 16:30:37 .net
>>484
読み間違えがすぎるだろwww

497 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 16:32:29 .net
医の世に生活するは
人の為のみ
ただ己を捨てて
人を救わんことをねがうべし

ドイツ フーフェランド

498 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 16:42:23.53 .net
金印も偽物、日田の鉄鏡も偽物

お前らは何だったら本物と認めるんだよ
九州博物館にいって見て
自分で判断しろよ
何も現物見ないで判断するな!卓上で議論すんな!

ついでに福岡の有名神社も見て帰ってね〜

499 :日本@名無史さん:2020/05/03(日) 17:22:03 .net
金印は福岡市博物館の常設展示

500 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 15:14:29 .net
卑弥呼は、「魏委邪馬壱国王」になるのか?

501 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 15:15:27 .net
>>500
スレチおつ

502 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 17:08:16 .net
同じ金印だろ

503 :日本@名無史さん:2020/05/05(火) 17:17:56 .net
>>500

ほれ
https://www.lucktendo.co.jp/blog/upload-images/20131210102753.jpg

504 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:41:26 .net
992: 2018/09/15(土)03:38 AAS
技術なんて何度も失われ、何度も再発明されるし。

そろそろスレ終わりそうだから書いとくか。

親魏倭王の印貰ったから漢委奴国王の印は埋めたんかもね。
邪馬台国のあった時代は戦乱続いたから親魏倭王の印は
奪い合う中、燃えて溶けたりして消滅。

漢委奴国王は「かんわのこくおう」だね。奴の発音は
「な、ぬ、の」どれなのか知らんけど、連体格の格助詞を
当てたもの。匈奴国も同じ。あっちの言語の格助詞もナ行
(格変化が複雑なので不正確かもしれんが)。

漢委奴をアイヌって言う説もそういうのもありかなと思った。
アイヌ語が語源じゃなくて、中古音(han iwe nu)がアイヌ語に
入った。

505 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:42:53 .net
999: 2018/09/16(日)21:03 AAS
木竹簡に押印は無い 漢代皇帝の宣旨などは絹布に書いたから、それには押したかもしれない。

6年過ぎて>>1はまだ居るのかな。 この金印は後漢書に書かれた印で歴史考古学の重要な現物資料お値打ち品
だから、日本史に一つスレを置いとかないといかんな。
史書に書かれた印が出土するのは奇跡的なことだ。史記に書かれた印が出たのは滇王一つしかない。
書かれた人物の持ち印は酷吏列伝の張湯、二代目南越王、この二つは建設現場で墓が見付かった、
も一つは小学生が拾った呂皇后の玉印、この三つしかない

506 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:46:27 .net
奴国は「極南界」とは合わない。
よって偽造。

507 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 14:53:00 .net
今の朝鮮半島の南にも倭人が
住んでいたと言われている
そこも奴国だったんやないかい

508 :日本@名無史さん:2020/05/06(水) 23:22:36.61 .net
バカばっか

509 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 17:58:13.63 .net
銀印は出てないのかな

510 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 18:26:53 .net
銀は腐食するから。

511 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 08:27:19 .net
>>507
>今の朝鮮半島の南にも倭人が住んでいたと言われている

それ狗邪韓国(くやかんこく)だろ。
倭国ではない。

512 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 10:59:00 .net
狗邪韓国から南が倭国だよ。
倭国の西北界は帯方郡から7千里の狗邪韓国と明記されている。
帯方郡から一万二千里で邪馬台国。

513 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 12:59:46.48 .net
それは狗邪韓国から来た人の民族運動

514 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 14:38:59 .net
>狗邪韓国から南が倭国だよ。

ならば志賀島は極南界にならないね。
極北界ならわかるが。

515 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 14:51:55.65 .net
こんな日本語の文字を考案した(画像有り)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3689-0
こんな人工言語を作った
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3648-0
人類の品種
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3625-0
言葉の起源
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3623-0
日本語は海豚の言葉に由来する
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3622-0
ペンギン(ウルトラマン)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3626-0
殷と商&燕国と斉国(日本)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3644-0
日本語と中国語との同源語
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3701-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0

516 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 20:00:04 .net
>>514
>ならば志賀島は極南界にならないね。

どこから湧いて出た話だよw

517 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 20:02:58 .net
倭国の最大勢力が倭奴国だったから、倭奴国より南の情報は漢末には得られなかった。
だから極南界(南の端)が倭奴国。
北の端の狗邪韓国とセットの記事であることは言うまでもない。

518 :日本@名無史さん:2020/05/11(月) 22:55:45 .net
後漢書の倭国は卑彌呼が共立された倭国
極南界(南の端)の倭奴国が北部九州沿岸で、
朝鮮半島南部と北部九州だけの倭国の範囲だと
大倭王が居る邪馬臺國は倭奴国よりも北になるので朝鮮半島になってしまう

519 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 06:37:20 .net
時代が違う。やり直し。

520 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 06:59:38 .net
北部九州に盛行した甕棺集団はど没落してしまったので
極南界(南の端)の倭奴国は滅亡した
金印が本物であった場合、邪馬臺國は九州には存在し得ないことになった

521 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 07:09:40 .net
中国のニュースだけど
上海で金印が出たよ
詳しくわからないけど複数発見されたみたい
 

522 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 07:20:02 .net
四川省眉山市の明代の「蜀世子宝」印じゃないのか?

https://www.afpbb.com/articles/-/3280983

523 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 07:41:37 .net
朝のNHKのニュースでやってたよ
重さが8キロだったよ

524 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 08:25:47 .net
>>523
だから>>522の蜀王太子の金印だろ。
先月29日発表だぞ?
どんだけ世間とズレてんだよ(笑)

525 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 09:24:25 .net
細石神社については否定は不可能なんだよ
可能性としては残される

高祖神社と細石神社は縁が深い
子と母の関係だから
昔は高祖神社から神輿が細石神社に下る神幸があった

高祖神社が残っていたなら、信仰は残るでしょうね

526 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 12:09:28 .net
福岡の特に古い神社の御神体は化石や石ばかり
そりゃ仏教伝わる前だもの
細石って言葉に惹かれるなぁ
どんな石なんだろうか

527 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:38:38 .net
>>525
可能性は皆無だから(笑)

細石神社ネタのまとめ

建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
(三代実録の高磯ヒメ神は高祖神社なので削除)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる(祀る神も奉る神主も存在していない結果=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認(祭日の流鏑馬行事だけは残った模様)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社

古田の言う地元住人の「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性はない
→信仰は残ったはずとの反論
三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれている。 よって曹洞宗に帰依、信仰は残らなかった
傍証として神事が流鏑馬という祭行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領の認識をしていなかったことなどが挙げられる
そもそも社伝自体が古田の妄想であり、元細石神社には一切伝わっていない

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

以上

528 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:45:20 .net
天正初期に焼失し、天正15年(1587年)には社領と呼べる状態になかったから太閤検地で神田ではないと判明し、没収され筑前の石高に組み込まれた。

「侍が持ち出した」のが本当なら、焼失前なんだから433年以上前になり、しかも裏手の土を土塀の材料に掘り出すほどその存在は忘れられていた。

古田の誘導尋問もしくは創作と見るのが常識的。

1587年には野ざらしであり、寛永後期(1635年以降)に村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興が叶わなかったんだから断絶したと見るのが常識的。

529 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:46:07 .net
Q1.
その神社が1822年に土壁用の粘土を掘ってる時に偶然見つかった三雲南小路遺跡をどう認識してたのか(ちなみに金印が発見されたのは1784年)。
A1.
235年も前に太閤検地で没収された土地だから忘れ去られていた。
没収された理由は天正年間には既に社殿もなく荒廃していた村社だから。

Q2.
金印に関する伝承?社伝?はいつ頃見つかったものなのか。
A2.
2013年に古田武彦氏が住人や神主から採録したというのが唯一。
史料は存在せず。

Q3.
また最古の出典はいつなのか。
A3.
古田に情報提供した大政就平氏がどこから得た情報なのかは明らかにされていないので不明。


2013年12月06日に投稿されたスピリチュアル系ブログと2014年10月16日に発刊された古田本以外のソースなしにより与太話確定。

530 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:46:20 .net
そもそも
・金印が細石神社にあった
→歴史学では相手にされないレベルの噂話
・細石神社は三雲南小路遺跡の拝殿だ
→歴史学・考古学的根拠なし
・金印は三雲南小路遺跡から出土したものだ
→歴史学・考古学的根拠なし
・三雲南小路遺跡は夫婦の墓だから、細石神社祭神の木花咲也とその夫である彦火火出見の墓だ
→超がつくほど飛躍した論理
なのに、循環論法よろしく、関連付けて主張してる奴がバカなだけ

531 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:47:15 .net
細石神社が漢委奴国王の金印を旧蔵してたって話の元ネタは古田の「多元史観」
四国の大政就平という人物が古田に知らせ、地元住民に聞き取りしたら「細石神社にあった金印を武士がもって行った」という伝承があったらしい

五世紀も前の出来事を地元住人が知ってるファンタジー
複数の証言が取れるのに一切の記録がないファンタジー
くだんの神社にも一切の記録が残っていないファンタジー
境内の後ろにある王墓の伝承すら残っていないファンタジー

532 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 14:47:47 .net
細石神社に金印が保管されてたってネタは自説の信憑性を高めるために「地元民への聞き込み」というナゾ行動までした古田や、それを盲信しようと必死な糸クズが悪いんであって、細石神社自体に罪はない。

533 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 16:16:21 .net
細石神社に信憑性なかったんやな。
年毛神社もやけど、福岡って神社の捏造多すぎひん?

534 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 16:45:38.41 .net
こんな日本語の文字を考案した(画像有り)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3689-0
こんな人工言語を作った
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3648-0
人類の品種
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3625-0
言葉の起源
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3623-0
日本語は海豚の言葉に由来する
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3622-0
ペンギン(ウルトラマン)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3626-0
殷と商&燕国と斉国(日本)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3644-0
日本語と中国語との同源語
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3701-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0

535 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 18:59:49 .net
キナイコシ
 金印偽造を
  あきらめた

キナイコシ
 細石が
  気に食わない

キナイコシ
 邪馬台国は
  朝鮮半島だ

536 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 19:28:19 .net
>>533
捏造だという根拠は?
まあ神功皇后のまわりは捏造もあるかもしれないが。

537 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 19:36:04 .net
>>536

え?>>527-532が読めない文盲なの???

538 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 20:11:30 .net
>>537
キナイコシお得意の屁理屈がなんだって???

539 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 20:55:15 .net
へー悔しくなったらキチスレ連打するんだwキナイコシわw

まんまクソテンプレと同じでクソワロタw

540 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 21:13:11.27 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

541 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 21:28:50.10 .net
>>538
細石神社の来歴は前スレや伊都スレにも書き込まれてた客観的事実だと思うけど

542 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 22:36:10.58 .net
「常識的」というキナイコシ特有の非論理的な逃げ口上でガチガチのいちゃもんが何を証明できるって?

543 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 22:53:47 .net
元は細石神社に金印があったということの証明は一切なされていないわけだが

544 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 23:29:29.89 .net
>>542
まぁ妄想に取り憑かれてる糸クズが言えたことじゃないけどな。

545 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 00:48:21 .net
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもの
そして現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

546 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 01:11:05 .net
侍が持って行った

日本兵に連れていかれた

倭寇が仏像を持って行った

547 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 01:21:42 .net
金印とは無関係な可能性の高い細石神社だが、祭神が磐長姫と木花開耶姫の姉妹である点は興味深い。
このパターンは同じ糸島の若宮神社やにも見られる。

何が興味深いかと言うと、この姉妹神の父が大山津見であること。
北部九州沿岸といえば当時最大勢力の海人だった安曇の支配地であり、大綿津見の地。
大綿津見の地である奴国と大山津見の地である伊都国とも取れるのではないか?

548 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:08:57 .net
若宮神社は江戸時代に漁師の妻の神のお告げ
櫻井神社(浦姫宮)も同様のお告げで黒田騒動の裁判の最中
黒田は官兵衛から親子2代キリシタンだったから
禁教令の後改易されないように藩内の民の信仰には気を配ったんだろう
唐津の松島、馬渡島は長崎から移住した隠れキリシタンの島

549 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:21:43 .net
>>547
オレモ無関係だろと思ってたが、キナイコシが無関係言うならその反対で実は関係あるんじゃないかと迷い始めた

550 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:28:12.64 .net
つまり「恨」が根拠

551 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:58:59 .net
>>549
お前はいつまでキナイコシの亡霊に取り憑かれてるんだよw

552 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:06:46 .net
奴国が大山津見、志賀島が大綿津見じゃないの?
天孫の前代王が大山津見だからこそ、天孫は木花咲耶姫を娶ったわけだよ。
そして伊都国に奴国から遷都した。
その墓が三雲南小路遺跡だというわけさ。

553 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:22:37 .net
>>552
魏志倭人伝には伊都国は都(女王国)ではないと明記されてるんだから諦めろよ糸クズ

554 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:28:06 .net
伊都だから都

555 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:40:54 .net
三國志で都がつく県名はけっこうある

556 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:57:35 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

557 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:33:37.27 .net
弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める

弥生中期
九州 筑紫生まれの大山祇や大国主らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作拡大

弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権

弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州脱出、収拾のため伊都で卑弥呼共立へ、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる

古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ

古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫生まれの応神による統一王朝へ

558 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:38:32.39 .net
>>552
志賀島は奴国じゃねぇのかよマヌケ(笑)

559 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:46:08 .net
奴国は博多側だろハゲ

560 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:49:38 .net
>>559
無能すぎて笑えるな
飛鳥時代に志賀明神は儺県の地神だ無能

561 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:55:50 .net
>>552
> 奴国が大山津見、志賀島が大綿津見じゃないの?
違うな
伊都国が大山津見、奴国が大綿津見だ

> 天孫の前代王が大山津見だからこそ、天孫は木花咲耶姫を娶ったわけだよ。
天孫の前代王という発想がすでに妄想
論ずるに値しないので却下

> そして伊都国に奴国から遷都した。
そんな歴史的事実は存在しないから却下

> その墓が三雲南小路遺跡だというわけさ。
お前の妄想でしかないから却下

結論:お前は全却下

562 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 07:30:37 .net
「認めたくない」と駄々をこねるだけのキナイコシ

563 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 07:42:17.70 .net
大山祇の祇や大山津見の見はミまたはミミで王族の称号。
大山祇が王名であることは明らかだ。
綿津見が海の神、大山祇は山の神(陸の神)。
志賀島と博多を陸海で分けるのだから、大山祇が陸側だよ。

564 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:04:39 .net
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

565 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:49:48.90 .net
>>563
大山津見は伊都国だろ
志賀島は奴国の一部だし

566 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:55:01 .net
伊都はアメノヒボコ

567 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:55:44 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

568 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 16:34:15 .net
>>565
伊都国のニニギに嫁いだのだから、伊都以外の周辺のどこかだよ。

569 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 16:34:42 .net
>>566
それはもう少し後世の話。

570 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 16:37:41 .net
>>565
志賀島は火遠理命(伊都の高祖神社の祭神になっている)に嫁いだ豊玉姫の実家、海神豊玉彦の国だね。
綿津見(海神)と対となる陸の王が大山祇で、奴国の王。

571 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 17:57:25 .net
>>569

アメノヒボコの前は
支石墓や甕棺が日本には広がっていないので
日本の神より韓国の全羅南道と共通した神だろう

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