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漢委奴国王印 いわゆる金印part3

533 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 16:16:21 .net
細石神社に信憑性なかったんやな。
年毛神社もやけど、福岡って神社の捏造多すぎひん?

534 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 16:45:38.41 .net
こんな日本語の文字を考案した(画像有り)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3689-0
こんな人工言語を作った
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3648-0
人類の品種
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3625-0
言葉の起源
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3623-0
日本語は海豚の言葉に由来する
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3622-0
ペンギン(ウルトラマン)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3626-0
殷と商&燕国と斉国(日本)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3644-0
日本語と中国語との同源語
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3701-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0

535 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 18:59:49 .net
キナイコシ
 金印偽造を
  あきらめた

キナイコシ
 細石が
  気に食わない

キナイコシ
 邪馬台国は
  朝鮮半島だ

536 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 19:28:19 .net
>>533
捏造だという根拠は?
まあ神功皇后のまわりは捏造もあるかもしれないが。

537 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 19:36:04 .net
>>536

え?>>527-532が読めない文盲なの???

538 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 20:11:30 .net
>>537
キナイコシお得意の屁理屈がなんだって???

539 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 20:55:15 .net
へー悔しくなったらキチスレ連打するんだwキナイコシわw

まんまクソテンプレと同じでクソワロタw

540 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 21:13:11.27 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

541 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 21:28:50.10 .net
>>538
細石神社の来歴は前スレや伊都スレにも書き込まれてた客観的事実だと思うけど

542 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 22:36:10.58 .net
「常識的」というキナイコシ特有の非論理的な逃げ口上でガチガチのいちゃもんが何を証明できるって?

543 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 22:53:47 .net
元は細石神社に金印があったということの証明は一切なされていないわけだが

544 :日本@名無史さん:2020/05/12(火) 23:29:29.89 .net
>>542
まぁ妄想に取り憑かれてる糸クズが言えたことじゃないけどな。

545 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 00:48:21 .net
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもの
そして現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

546 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 01:11:05 .net
侍が持って行った

日本兵に連れていかれた

倭寇が仏像を持って行った

547 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 01:21:42 .net
金印とは無関係な可能性の高い細石神社だが、祭神が磐長姫と木花開耶姫の姉妹である点は興味深い。
このパターンは同じ糸島の若宮神社やにも見られる。

何が興味深いかと言うと、この姉妹神の父が大山津見であること。
北部九州沿岸といえば当時最大勢力の海人だった安曇の支配地であり、大綿津見の地。
大綿津見の地である奴国と大山津見の地である伊都国とも取れるのではないか?

548 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:08:57 .net
若宮神社は江戸時代に漁師の妻の神のお告げ
櫻井神社(浦姫宮)も同様のお告げで黒田騒動の裁判の最中
黒田は官兵衛から親子2代キリシタンだったから
禁教令の後改易されないように藩内の民の信仰には気を配ったんだろう
唐津の松島、馬渡島は長崎から移住した隠れキリシタンの島

549 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:21:43 .net
>>547
オレモ無関係だろと思ってたが、キナイコシが無関係言うならその反対で実は関係あるんじゃないかと迷い始めた

550 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:28:12.64 .net
つまり「恨」が根拠

551 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 02:58:59 .net
>>549
お前はいつまでキナイコシの亡霊に取り憑かれてるんだよw

552 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:06:46 .net
奴国が大山津見、志賀島が大綿津見じゃないの?
天孫の前代王が大山津見だからこそ、天孫は木花咲耶姫を娶ったわけだよ。
そして伊都国に奴国から遷都した。
その墓が三雲南小路遺跡だというわけさ。

553 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:22:37 .net
>>552
魏志倭人伝には伊都国は都(女王国)ではないと明記されてるんだから諦めろよ糸クズ

554 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:28:06 .net
伊都だから都

555 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:40:54 .net
三國志で都がつく県名はけっこうある

556 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 03:57:35 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

557 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:33:37.27 .net
弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める

弥生中期
九州 筑紫生まれの大山祇や大国主らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作拡大

弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権

弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州脱出、収拾のため伊都で卑弥呼共立へ、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる

古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ

古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫生まれの応神による統一王朝へ

558 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:38:32.39 .net
>>552
志賀島は奴国じゃねぇのかよマヌケ(笑)

559 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:46:08 .net
奴国は博多側だろハゲ

560 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:49:38 .net
>>559
無能すぎて笑えるな
飛鳥時代に志賀明神は儺県の地神だ無能

561 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 04:55:50 .net
>>552
> 奴国が大山津見、志賀島が大綿津見じゃないの?
違うな
伊都国が大山津見、奴国が大綿津見だ

> 天孫の前代王が大山津見だからこそ、天孫は木花咲耶姫を娶ったわけだよ。
天孫の前代王という発想がすでに妄想
論ずるに値しないので却下

> そして伊都国に奴国から遷都した。
そんな歴史的事実は存在しないから却下

> その墓が三雲南小路遺跡だというわけさ。
お前の妄想でしかないから却下

結論:お前は全却下

562 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 07:30:37 .net
「認めたくない」と駄々をこねるだけのキナイコシ

563 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 07:42:17.70 .net
大山祇の祇や大山津見の見はミまたはミミで王族の称号。
大山祇が王名であることは明らかだ。
綿津見が海の神、大山祇は山の神(陸の神)。
志賀島と博多を陸海で分けるのだから、大山祇が陸側だよ。

564 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:04:39 .net
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

565 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:49:48.90 .net
>>563
大山津見は伊都国だろ
志賀島は奴国の一部だし

566 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:55:01 .net
伊都はアメノヒボコ

567 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 14:55:44 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

568 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 16:34:15 .net
>>565
伊都国のニニギに嫁いだのだから、伊都以外の周辺のどこかだよ。

569 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 16:34:42 .net
>>566
それはもう少し後世の話。

570 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 16:37:41 .net
>>565
志賀島は火遠理命(伊都の高祖神社の祭神になっている)に嫁いだ豊玉姫の実家、海神豊玉彦の国だね。
綿津見(海神)と対となる陸の王が大山祇で、奴国の王。

571 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 17:57:25 .net
>>569

アメノヒボコの前は
支石墓や甕棺が日本には広がっていないので
日本の神より韓国の全羅南道と共通した神だろう

572 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:11:29 .net
対馬海峡を挟んだ国家だな

573 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:12:58 .net
大山祇がもともといたのなら大山祇が倭人なのか?

574 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:23:51 .net
>>570
正確には、
志賀島は火遠理命(伊都の高祖神社の祭神になっている)に嫁いだ豊玉姫の実家、海神豊玉彦の国だね。
綿津見(海神)と対となる陸の王が大山祇で、伊都国の王。
だな。

575 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:24:47 .net
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ┃ ▼よく分かるチョンコ半島の歴史
   ┃
   ┃有史以前: 虎になりたいメス熊とファックしてチョン誕生。
   ┃紀元前 : 南部から縄文人に支配される。
   ┃ 2世紀 : 北部から漢に従属させられる。
   ┃ 4世紀 : 倭の属国になる。
   ┃ 7世紀 : 唐に征服される。
   ┃13世紀 : モンゴルに犯されまくる。
   ┃14世紀 : 明に隷属する。
   ┃17世紀 : 清の勅使に三跪九叩頭の義務を課される。
   ┃20世紀前半 : 日本の一地方にしてもらう。
   ┃20世紀後半 : 北半分がソ連の、南半分がアメリカの属国になる。
       ∧_∧   。
      (  ´∀`) / <これでテストは満点        E[]ヨ
      (つ  つ      ━━━━━━━━━━━━━━━━
     | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
     |          |            
     |          |             
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576 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:43:21 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国から(自)、以北には、
一大率を特に置き検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国にて治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国から北側に対しては、一人の大率を特別に置いて、検察している。
(そのため)諸国は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は監督長官なので)いつも伊都国で執務している。
(大率が率いる監督組織とは)魏国における刺史のようである。

一大率の説明が「諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
一大率が部下を北方の各国に派遣して監督しているのが魏の刺史組織のようである。

つまり女王国の首都である伊都に特設された一大率が、刺史のような部下を派遣して、
北方の諸国を監視しているということ。

言い換えれば投馬国(狗邪韓國が中心)は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

577 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:46:25 .net
>>576
恣意的な読み間違いはやめろよ。

正しくは
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

578 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:54:43 .net
僅か千餘戸の伊都國は郡使や倭国の遣使が逗留する国で
倭の女王とは別の王が存在するのだから
女王国が伊都國王及び往来する郡関係の商人達を保護している

579 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:59:08.82 .net
>>573
>大山祇がもともといたのなら大山祇が倭人なのか?

倭王

580 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 18:59:59.11 .net
>>577
>>576
>恣意的な読み間違いはやめろよ。

ブーメランw

581 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:01:07.70 .net
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。

582 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:03:49 .net
>>577
伊都国を監視しているとどこに書いてあるの???

583 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:04:12 .net
離島を中心とした両岸の極小倭国は
離島でおでん文字の看板出して商売してる人の願望じゃないかな

584 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:05:47 .net
>>583

領域としては狭いが、半島大陸との交易を大率が全て掌握していたから、伊都と奴国は非常に豊かだった。
それは考古学的にも分かっている。

585 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:14:09.75 .net
狭すぎだろ

586 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:16:24.74 .net
後漢書では狗邪韓国から倭奴国までしか出てこないしね。
倭とはそれくらいの国だった。
それでも奴国は東夷では単一の国邑として最大級だった。

587 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:19:38 .net
>>582
日本史スレにおるのに漢文の読み下しもできんのか???

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

588 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:20:44 .net
倭奴国は倭国の南の端の国
後漢書は卑弥呼が共立された倭国の範囲

589 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:28:31 .net
日本列島で九州北岸より北は本州

590 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:30:03 .net
>>589
お前、どこの国の人?

591 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:31:32.52 .net
>>590

それお前に聞きたい

592 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:34:52.68 .net
>>587
日本史スレにおるのに漢文の読み下しもできんのか???
恣意的な読み間違いはやめろよ。 「有如刺史」


「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國於 國中有 如刺史」
”女王国の以北には一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国に於いて治むる。國中に有り 刺史の如し。”

女王国より(自)北の国々には、特別に一人の大率を置いて検察している。
諸国は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は検察長官なので)常に(首都である)伊都国で執務している。
(大率の部下は)各国に派遣されて有る。
(大率の組織は)魏本国における刺史組織のようである。

つまり女王国の首都である伊都に特設された一大率が、刺史のような部下を派遣して、
北方の諸国を監視しているということ。

言い換えれば投馬国(狗邪韓國が中心)は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。

593 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:38:00 .net
伊都国は行程上で女王国に行く途中の国

594 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:39:19.30 .net
詐欺師キナイコシがとっくに決着がついた話を蒸し返すから
忘れていたわw

>>592
これが正しい。

キナイコシは詐欺師だから
諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
と区切って伊都国を治めるとしているが、
これだと
於國中は於國じゃないと中が浮いてしまう

595 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:41:53.22 .net
>>592は関西の朝鮮部落民だけの読み方

596 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:44:11 .net
>>592>>594

猿芝居までして見苦しい
伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

597 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:45:41 .net
>>596
>伊都国には王がいて女王(国)に属している

そりゃそーだ。

伊都国には王がいて
伊都国にいる卑弥呼女王に属しているのだからな。
狗奴国と全力で戦うために。

598 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:45:59 .net
>>596
どんなに頑張っても蛙の骨w

599 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:46:08 .net
>>592
お前さんは妄想ふくらませる前に大前提となる三国志をちゃんと読めるようになりなさい。
話はそれから。
今の知識じゃ他人と議論できるレベルに達していない。

600 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:47:20.33 .net
>>597
それ本気で言ってんのか???
伊都国は女王国に属し、伊都王は女王に属してるのに???

もはや駄々っ子レベルだなwww

601 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:49:23 .net
>>597
世有王皆統屬女王國

これ100回くらい声に出して読み上げてみなよ。

602 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:50:45 .net
伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。


伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。


重要なことなので二回書コピペしましたよ(笑)

603 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:55:45 .net
キナイコシ大暴れw

604 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:57:07 .net
>>602
だからさ。

そりゃそーだ。

伊都国には王がいて
伊都国にいる卑弥呼女王に属しているのだからな。
狗奴国と全力で戦うために。

605 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:58:08 .net
爾支=一大率

キナイコシ敗北www

606 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 19:59:13 .net
伊都国王=一大率

キナイコシ敗北www

607 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:00:43 .net
伊都国を治めてるのは誰だ?

わざわざ記録されてる伊都国王か
わざわざ記録されてる爾支だろうが。

一大率が伊都国を治めてるんだろ?
だったら一大率をやってるのは伊都国王か爾支だな。

兼任だよ兼任。

608 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:02:12 .net
伊都国にいる卑弥呼女王が邪馬台国全域を支配。

同じく伊都国の伊都国王か爾支=一大率が下働き。

考古学でも矛盾しないな。

609 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:02:55 .net
元ネタは魏志倭人伝スレのコレやな

151日本@名無史さん2019/08/29(木) 09:49:06.41

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。

610 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:03:49 .net
>>605
兼任とな。
プーチンみたいなものか。
元KGB長官にして現大統領。

611 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:04:27 .net
爾支は新羅で親玉を表す尼師今と同じ
伊都国は倭人の風習がない非倭人の国

612 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:04:29 .net
>>604
伊都国に王が二人いるって駄々っ子かよwww
糸クズもう諦めろんwwwww

613 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:05:48 .net
>>604
伊都国王が女王国に統属されているって倭人伝の記述と矛盾するから却下だな。

614 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:05:51 .net
>>609
伊都国を監視しているというのは詐欺師キナイコシのいつもの嘘。

一大率は治めているとしか書かれていない。
そもそも治めているという時点で妙だがな。

伊都国を治めているのなら、一大率=伊都国王か爾支。

615 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:06:39 .net
>>607
一大率は女王国の以北から伊都国を治めてんだよ

616 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:07:11 .net
>>613
は?
同じことを言ってるのだが。

日本史スレにおるのに日本語の理解もできんのか???

>反日キナイコシ

617 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:07:56 .net
>>615
日本史スレにおるのに漢文の読み下しもできんのか???

以北だから伊都国も含む。

そして伊都国を治めているのだろうが。

618 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:08:09 .net
伊都国に一大率の治所がある

619 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:08:46 .net
>>614
なら正解はコレだな

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

620 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:08:58 .net
>>612
へー伊都国には王が一人しかいないんだー。

だったら女王卑弥呼しかいないよねー。

キナイコシが認めたー(棒読み

621 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:09:34 .net
>>616
もう文盲バカは考えなくて良いよw
黙って諦めて消えなさいwww

622 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:09:40 .net
>>619

>>617

623 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:10:33.76 .net
>>620
王が複数いる国ってこの世界線じゃほとんど例がないんだよなぁ
糸クズはパラレルワールドの住人なんだな

624 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:11:36 .net
>>623
日本史スレにおるのに漢文の読み下しもできんのか???

三十国はあるだろうが。

625 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:12:23 .net
そもそも中華の刺史は監視・監督が業務なんだから、それと同じ仕事をしてる=伊都国を監視で何ら矛盾はないはずなんだが・・・

626 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:12:35 .net
王がいっぱい
権力者がいっぱい
キナイコシの畿内が出る幕は無いようで

627 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:13:19.76 .net
>>624
興奮しすぎだ糸クズ
王が二人いる国家の例を挙げてみろ無能

628 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:13:42.54 .net
>>625
監視≠治める

629 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:13:46.02 .net
伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。


伊都国について書かれた中国史書において共通しているのは、伊都国には王がいて女王(国)に属しているという点

魏志倭人伝
「世有王皆統屬女王國」

翰苑(魏略)
「其国王皆属女王也」

どんなに伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。


重要なことなので二回書コピペしましたよ(笑)

630 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:14:09.49 .net
>>627
伊都国

631 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:14:32.17 .net
>>628
バカは文盲だから困るわ

於國中有如刺史

632 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:14:49.27 .net
>>630
無能wwwww

633 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:15:06.85 .net
一大率は長崎奉行、伊都国王は中華料理長の金萬福みたいな感じ

634 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:16:11 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

635 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:16:37 .net
>>633
たとえ話ヘタかよ(笑)

636 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:19:28.32 .net
3世紀の倭国の玄関口で、中華料理&エンターテイメントが必要な接待役は
伊都国王金萬福さんが適任だったということ

637 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:19:35.78 .net
「刺史」・・・地方を検察する官僚
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職

638 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:21:14.80 .net
そもそも倭人伝の中で女王国は七万余戸で伊都国は千戸と書き分けられてるじゃん。

639 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:21:16.81 .net
倭国は百済じゃないから

640 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:34:40 .net
>>637
なるほどなるほど。
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

641 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:36:41 .net
爾支は祭祀担当じゃないの?

642 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:37:45 .net
キナイコシ自ら伊都国には王が一人と言っとるからなw

伊都国王がいないと絶叫されたんじゃあしょうがねえw

邪馬台国圏内の伊都国にいたのは、女王卑弥呼その人しかいないじゃねーかwww

643 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:40:50 .net
>>636
言いたいことは分かった

644 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:42:05 .net
>>640
伊都国王の職務無茶苦茶重責やなw
そこまで尽力してるのに金印もらえなかったって可哀想すぎるやろw

645 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:42:33 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

646 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:45:02.85 .net
>>645
なるほどなるほど。
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

647 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:46:37.26 .net
女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当

見事なコンビネーションだな

648 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:47:59.53 .net
つまり平安時代が鴻臚館、飛鳥奈良時代が前身の筑紫館
3世紀が伊都飯店(国)一大率治所併設

649 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:48:16.66 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

650 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:49:06 .net
>>648
そのとおり、そこが女王国の北限。

651 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:49:08 .net
>>649
なるほどなるほど。
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当

見事なコンビネーションだな


キナイコシ、ナイスアシスト!

グッジョブ!!

652 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:52:27 .net
伊都飯店の総料理長金萬福=伊都国王=中華の鉄人ということ

653 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:52:28 .net
こんなに金印スレが伸びてるの初めてみた
読むのがおいつかないw
 
お前ら金印すきなんだな

654 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:53:43 .net
金印の話はしてない
金萬福さんの話

655 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:53:53 .net
コロナ自粛で鬱憤たまってるんでそ

656 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:56:07.83 .net
自女王國以北 特置一大率檢察

この一大率が5世紀に那津官家となり、7世紀に筑紫館となり、後に鴻臚館として太宰府の出先機関となった
所在地は福岡市中央区城内2

657 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:57:04.24 .net
これですべて解決してんじゃん

> 「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
>
> 読み下し
> ”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
> 諸国は之れを畏れ憚る。
> 常に伊都国を治むる。
> 國中に於ける刺史の如く有り。”
>
> 和訳
> 女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
> (そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
> (一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
> (一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
>
> 根拠
> 三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
> よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
> 統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。
>
> 結論
> つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。
>
> よって伊都ファンや糸クズ、キナイコシが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

658 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:59:26.58 .net
お前らスレチだ

移動先
魏志倭人伝を正しく読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1568748577/

659 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 20:59:41.24 .net
>>657
なるほどなるほど。
政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当

見事なコンビネーションだな


キナイコシ、ナイスアシスト!

グッジョブ!!

660 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:03:32 .net
>>659

チョンの願望

661 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:05:21.31 .net
卑弥呼は人に会わない祭祀王
政治は弟

662 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:06:06.80 .net
>>661
なるほど!

弟が爾支=大率ね!

663 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:08:47 .net
爾支は金萬福さんの店のフロアマネージャー

664 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 21:10:50.97 .net
一大率の名が書かれていないのは任期制で替わるからだろうね

665 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:08:19 .net
>>659
以下を理路整然と反論できない糸チョンのお前は負け犬。
負け犬の遠吠えはレスの無駄だから慎みなさい。

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

666 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:15:17 .net
檢察諸國であるから
常に伊都国に治す

667 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:18:09 .net
伊都国で政務を行って
周辺諸国を検察してたんだろ

伊都国が首都じゃん

668 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:19:09 .net
東の畿内とか関係ないね

それを北と詐称してるし<詐欺師キナイコシ

669 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:20:10 .net
伊都国は接待入国管理するための国

670 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:22:41 .net
>>669
それは一大率の仕事だろ
伊都国を治めている

伊都国の女王卑弥呼に面会するための儀式みたいなもんだあ

671 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:24:06 .net
>>668

本州は九州北岸の北ではなくて、
本州は九州北岸よりも北
東の本州から倭人の風習である卜骨は広範囲に出る
糸島は無い

672 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:29:55.59 .net
>>671
そこにはなんにもないから考古学的に否定w

残念だったね

悔しいかな?www

673 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:30:48.46 .net
>>670

伊都国は僅か千餘戸ぽっちだから女王国に従属している
伊都国に治す一大率が諸国を検察している

674 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:31:44.95 .net
>>672

どこに何が無い?

675 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:32:03.64 .net
>>673
>伊都国に治す一大率が諸国を検察している

伊都が権力の座だったということ。
鎌倉や江戸の征夷大将軍と同じ。

676 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:32:49.92 .net
>>673
その通り!


政治は女王卑弥呼。
伊都国王は官の爾支となり、大率として諸国を監視する業務に就いたのだな。

女王卑弥呼は伊都国にいた、邪馬台国全土を治めて外交も担当
爾支=大率も伊都国にいた、伊都国を治めて警察も担当

見事なコンビネーションだな


キナイコシ、ナイスアシスト!

グッジョブ!!

677 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:33:34.75 .net
以上のまとめ

伊都に女王卑弥呼と一大率がいて

全てを支配していましたとさ

678 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:36:24.64 .net
>>675

一大率を特に置いて檢察させているのは女王国
千餘戸の国じゃハエのように叩き潰されてしまうので
女王国が保護している

679 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:38:21 .net
>>678
キナイコシがいくら屁理屈言っても
みんな考古学出土物を見ながら
ああ、哀れな負け犬がほざいてるなあ、としか思ってないからw

相手してるのは、
99.999%の勝利だけど、
100%に近づける作業なwww

680 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:40:25 .net
>>679

日本の学者は畿内説
ど素人お爺さんは九州説
朝鮮部落民は北部九州説

681 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:42:31.62 .net
日本の学者が北部九州説を一斉に唱えている喜劇

682 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:44:19.23 .net
考古学的に見て伊都国の出土品は他を圧倒している。

683 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:44:21.69 .net
>>681

という国がない朝鮮部落民の夢

684 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:46:15 .net
>>682

平原1号の2世紀末まで

685 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:54:07.45 .net
>>10
173年 卑弥呼使わした使者が訪れる。
とある
女王の座はついたのは、168年

686 :日本@名無史さん:2020/05/13(水) 23:59:24.41 .net
>>684
伊都国の最盛期は4世紀だぞ。

687 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:01:14 .net
>>686

曹魏は220年 - 265年

688 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:03:19.93 .net
>>670
女王が貿易港の国にいるわけ無いじゃん

689 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:05:08 .net
金印にあるヘビ
漢という大きな存在から、やまたのオロチ神話出てくる

690 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:05:22 .net
>>675
ちゃうやろ伊都は女王国に統属する一介の諸国
一大率は女王国から派遣された監督職
その監督職に統治されてる弱小国

691 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:05:38 .net
なあ、郡使が奴国はともかく、なぜ不弥国まで足を伸ばしたのか考えないのか?
志摩半島すら「隔絶」とかうそぶいて足を運ばなかったくせに。
不弥国には何がある?
香椎宮だよ。
これこそ卑弥呼の王城。

692 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:06:33 .net
>>690

鎌倉は人口が少なくても征夷大将軍がいて全国を支配していたぞ。

693 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:07:39 .net
香椎あたりは3世紀のたいした遺構はない

694 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:09:29.30 .net
>>692
ちゃうってw
伊都国は貿易港
ズルせんように一大率が見張ってる
何のために見張ってるかと言うと奴国より南側に位置する邪馬台国の卑弥呼様のため

695 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:13:27 .net
>>692

鎌倉幕府は封建制だから全然違う
九州の御家人は関東から下向した武士団

696 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:15:45 .net
伊都の大率も周辺地域に卑奴母離を派遣していたから、同じような仕組みだよ。
都が京都でも実権は鎌倉が握っていたように、都が邪馬台国でも、実権は伊都(にいた大率)が握っていた。

697 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:17:53 .net
>>694

港を監視していただろうけれど、それは伊都において大率が特にどのような点を重視して治めていたかの説明だろ。
伊都に治していた大率を諸国が畏怖したということは、伊都が権力の座なんだよ。

698 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:18:48 .net
一大率は北部九州だけ

699 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:19:19.09 .net
一大率がいたのは情報国の北限で遺跡も残ってる那津官家(のちの筑紫館)
伊都国に一大率がいたなんて記述は魏志倭人伝にも魏略にも存在してない

700 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:20:05.76 .net
>>697
いや伊都国が諸国の一つだし

701 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:20:31 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。

よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

702 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:26:02 .net
>>697

伊都に治す一大率が大国から派遣されているから

703 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:26:58 .net
伊都国にいなかったら話にならないだろ。

704 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:27:46 .net
伊都国には統治者たる王がいて、爾支という長官もいて、泄謨觚と柄渠觚という二人の副官もいて世帯数は000余戸と明記されている。
しかもご丁寧に女王に統属しているとも明記されている。
一大率は貿易港の伊都国を監督するために女王国から派遣された刺史のような役職。
魏の時代の刺史は長官職なので爾支という長官がいる伊都国に属していないのは明白。

705 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:29:29 .net
>>699

那津宮家は見つかっている遺構が6世紀後半〜7世紀後半

http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/269/index.html

706 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:32:19 .net
>>704
正解!
一大率が伊都國にいたら爾支と役職がバッティングしてしまう

707 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:46:58 .net
爾支には、檢察諸國も
皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王の権限もない

708 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:52:02 .net
>>707
そのとおり
よって伊都は女王国に統属する一介の諸国だと判断できる

709 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 00:55:43 .net
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1553928240/948

948 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2020/05/14(木) 00:37:35.54
>アメリカで考えたら良いんだよ
>
>伊都はニューヨーク
>
>伊都国王はN.Y.州知事
>爾支は補佐官、泄謨觚・柄渠觚は副補佐官
>
>一大率はワシントンD.C.から派遣された連邦エージェント

710 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 01:40:22 .net
伊豆下田&浦賀奉行(一大率)と宿屋を営んでいた村長(伊都国王)くらいかな

711 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 06:33:22 .net
一大率が治めているのは治世ではなく治安でしょ
伊都国は首都だから皆集まってる
世有王  女王卑弥呼 邪馬台国を治世
官日爾支 都知事  伊都国を治世
特置一大率 警視庁長官 伊都国の治安を守る

712 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 06:59:25 .net
>>706

禰宜は伊都だけの市長
大率は対馬海峡の治安

713 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 07:00:31 .net
>>708
>>707
>そのとおり
>よって伊都は女王国に統属する一介の諸国だと判断できる

論理が飛躍していて意味不明
何かの思い込み?信念?宗教?

714 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 07:02:26 .net
率は帥と同義
つまり大率は太宰の帥そのもの

715 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 07:09:00 .net
治には治兵や治安とかいろいろ意味があるからね
治世の分は最初の国々の説明のとこで説明ずみなので
一大率が治めてるのはそれ以外

716 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 07:22:22 .net
つまり港や貿易の監視、つまり海上保安庁の役割が大率
だから女王国の北側の対馬海峡を検察していて、そこの諸国から畏怖されていたわけだ

717 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 10:40:30 .net
>伊都国は首都だから皆集まってる

首都じゃなくて千戸だけの従属国

718 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 13:00:26 .net
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

719 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 14:58:44 .net
>>711
だーかーらー
女王国は伊都国の南
なんで伊都国を女王国にしたいのか理解に苦しむわ

720 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 14:59:30.82 .net
>>713
伊都信者のブーメランwww

721 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 14:59:55.40 .net
>>714
正解

722 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 15:00:03.18 .net
>>715
正解

723 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 15:04:36 .net
伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない


原文
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。


よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

724 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 17:06:25 .net
>>723
常治伊都國の誤読ですな。
伊都國で執務していた、が正解です。

725 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 17:31:47 .net
>>719
大率が伊都にいて、女王国「以北」を治めている。
以てという語はその起点を含むから、伊都国は女王国の領域に含まれる。

726 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 17:32:21 .net
>>724
正解

727 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 17:52:21 .net
>>724-726
糸ちょんの足掻きwww

728 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 19:36:07 .net
そもそも、狗邪韓国から南は倭国であり、女王の国。
ただし南側の狗奴国や東のわけわからん国々(畿内を含む)は除く。

729 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 20:38:16 .net
>>728
倭国=女王国ではないんだな

730 :日本@名無史さん:2020/05/14(木) 23:48:10 .net
倭国=女王国+狗奴国+投馬国
少なくとも狗邪韓国から伊都国までは女王国に含まれる。

731 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:05:33 .net
>>730
統屬女王國

伊都国は女王国に従属している国なんだから女王国ではない

732 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:05:47 .net
女王国が弱小伊都国を保護してる理由は倭人の国ではないからだよ
唐人街と同じ

733 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:07:15 .net
女王国に従属している国だったら女王国の一部だろうに

734 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:09:04 .net
>>733
それはチョンコロ思考だね

735 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:11:41 .net
>>731
ふむふむなるほど
伊都国は女王国ではないのか

じゃあ一大率が監視している自女王国以北とはどの領域なのだ?

736 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:18:00.67 .net
>>735
女王国以北は女王国の北限と言える
言い換えれば伊都国は女王国の北限から監視できる位置にあるということ
そして伊都国はのちの怡土懸や怡土郡であろう
怡土郡は現在の福岡市西区も内包している
よって西区を見渡せる現在の鴻臚館跡(筑紫館)が一大率の駐屯所だと推察できる
筑紫館はのちの大宰府出張所であり、大率=大宰という推察とも符合する

737 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:21:22.92 .net
>>736
自が抜けとるぞい

738 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:22:19.37 .net
>>737
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

739 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:23:58.34 .net
>>737
女王國 自(よ)り以北

740 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:24:34 .net
>>737
自女王国以北は女王国の北限じゃないな
女王国よりも北の国々のことだ

よって、キナイコシさんの訳は全部デタラメw

741 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:37:02 .net
キナイコシがわからんのは、
知ってて敢えて詐欺ってるのか
知らなくて馬鹿晒してるのか
見分けがつかんところだw

742 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 01:00:59 .net
>>740-741
そういうチョン嘘イラネ

743 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 02:34:19 .net
伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない


原文
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。


よって伊都キチや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。

744 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 02:35:00 .net
伊都国の内情

原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

書き下し文:
”官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。
千余戸有り。
世王有り。
皆女王国に統属す。
郡使往来し常に駐する所。”

現代文:
官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。
(人口は)千余戸ある。
代々の王がいる。
みな女王国に従属している。
(帯方)郡の使者が往来し、常に留まる所である。

解説:
三国志の記述では前節が後節に掛かっているので、
女王国に従属している「皆」は爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指す。
つまり、伊都国の王も役人も住民も女王国の臣民である証明である。

また三国志における魏代の刺史は官と同義であるため、すでに伊都国には爾支という官が務めているのだから
魏の刺史(=官)と同等の一大率は伊都国の役人でないことは明白。
つまり、一大率は女王国か直属の役人であり、伊都国には属していない証明である。

結論:
よって伊都キチや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても
伊都国は女王国ではなく、女王国に従属する諸国の一つであり、
一大率は伊都国には存在せず、女王国の北限で伊都国を監視する女王国の役人である。

745 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 04:21:00 .net
>>744
>三国志の記述では前節が後節に掛かっているので、

意味不明な勝手ルール
そもそも、前から後ろにかからない文章ってなんだ?
中国人が返り点打ちながら読んでいるとでも思っているのか?
キナイコシが漢文を読めない無能だと露見したレスw

746 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 06:42:16 .net
みんな九州に行ってしまってボッチになったキナイコシの渾身の他スレ出撃だったがキナイコシの俺だけルールが認められることはなく単なる荒らしとして恥を晒しまくる結果にww

747 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 07:28:47 .net
自女王國以北で論点になるのは、女王国が含まれるか含まれないかであって、
女王国よりも北方にある諸国はどちらにせよ含まれる。

748 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 07:45:47 .net
狗邪韓国や対馬を誰が支配していたかと言えば、卑弥呼しかいないわけで。
キナイコシが伊都は女王国ではないなどとほざくのは意味不明。

749 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 09:50:26 .net
伊都国は女王国に従属してると明記されているので女王国連合参加国であっても女王国ではない
こんな基礎中の基礎も理解できないのが糸クズとキナイコシと古田盲信者

750 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 16:06:02 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.

751 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 16:12:07 .net
>>750〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
 
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします

しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
 
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

752 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 17:04:31 .net
☆★☆生データ☆★☆
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名(A)」は24か所。

“Aに役所を置いた”の意味で使われた例 ☆22
"Aを治めた"の意味で使われた例 ★2

☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹はそこで太祖を兗州東郡の太守に任命することを発表し、東武陽県に役所を置かせた
☆紹歎其能徙爲東郡太守治東武陽 袁紹は臧洪の能力に驚嘆し、東郡の太守に転任させ、東武陽県に政庁を置かせた
☆郡所治廣武 郡の庁舎が所在する廣武
☆治廣?如舊 (閻柔に)元からの如く廣?(上谷郡の寧城)で執務させた
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている。(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 劉焉は綿竹県に役所を移した
☆焉徙治成都 劉焉は成都に役所を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 臣下は先主を荊州の牧に推し立てて、公安県(を州都として)で執務することにした
☆治成都 (先主は)成都に役所を移した
☆先主爲漢中王遷治成都 先主は漢中王になると、成都に役所を移した
☆移治味縣 (馬忠は)役所を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の役所は古くから壽春に置かれていた
☆繇乃渡江治曲阿 劉繇は長江を渡って曲阿に役所を定めた
☆權徙治秣陵 孫権は役所を秣陵に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌の都尉(6県を統治)に任命して、海昬県に役所を置かせた
☆劉備以左將軍領荊州牧治公安 劉備は左将軍となって荊州牧の任務を行い、公安にその役所を置いた。
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 程普を呉郡の都尉に任命し、銭唐に役所をおいて執務させた
☆領江夏太守治沙羨 江夏の太守になって、沙羨に役所を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊の太守にして、建業に役所を置かせた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安の軍事担当となり、樂鄉に役所を置いた
☆假節開府治半州 政府を開設させて、その役所は半州に置かせた
☆爲吳興郡治烏程 呉興郡を新設して、烏程に役所を置いた

★使司隸校尉留治関中 司隸校尉に関中を留守統治させる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

753 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 17:05:06 .net
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

女王国より北の国々に対しては、一人の大率を特設して検察している。
北の国々は大率を畏れ憚っている。
大率の役所は伊都国に常設してある。
中国本土における刺史のような「検察官の役目」を果たしている。

・里程部分で既に地方官の説明がなされている
・自女王國以北とあるので、女王国よりはもっと北の諸国に焦点がある
・大率の業務についての説明は検察官のものだけ
・三国志では「治+場所」はその場所に役所を構えるという意味が多い

女王国=邪馬台国の首都である伊都に、
邪馬台国政庁(国会議事堂:女王卑弥呼や大臣達)
伊都国都庁(都庁:都知事爾支と部下たち)
大率執務室(検察庁:検察官大率→北方諸国巡回でほとんど伊都にはいないが)
などなどの重要官庁が集中していた。

刺史は本来は領地を持たないただの「検察官」であり、
首都から派遣されて各国を巡回し、年に1回首都に戻って報告していた。
大率の職務も同じ検察官。

中国大陸は広いので、報告するに刺史本人でなく使者を立てるようになり、
本来の地方官と居座った刺史の二重権力を解消するために、結局は刺史や牧が地方官になった。
邪馬台国とその北の諸国であれば、対馬海峡を行き来するだけだから(水行10日)、
大率は伊都国に執務室を構えて、そこから各国へ行き来して検察していただけ。

754 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 18:26:16 .net
GJです。

755 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 18:53:05 .net
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>>751
>オクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの
>共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって
>見せたりもします


で、↑この作り話の証拠は?


>3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、
>朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です


で、↑このデマを証明する3千年前の朝鮮半島における「在地産の日本系土器遺構」は?



早く言えよサギー華南ボルネオチックブタロイド


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756 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 18:57:59 .net
邪馬台国政庁は伊都国にはない
伊都国都庁は宿とレストラン(ステージ有)

757 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 23:17:37 .net
>>756
そんな当たり前の常識を受け入れられないのが糸クズとキナイコシなんよ・・・

758 :日本@名無史さん:2020/05/16(土) 14:10:47 .net
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!


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759 :日本@名無史さん:2020/05/17(日) 13:43:16 .net
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

760 :日本@名無史さん:2020/05/17(日) 17:53:39 .net
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。


一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は漢代では監督職であったが、魏代には長官職であり、
伊都国には爾支という長官が存在している=長官と同職の一大率は伊都国の長官ではなく、女王国の長官である。
加えて刺史は魏国内の刺史「部」に務め、魏の植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。

結論:
郷土愛に狂う岡上を筆頭に思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の長官であることに疑念の余地はない。

761 :日本@名無史さん:2020/05/18(月) 13:03:51 .net
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


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762 :日本@名無史さん:2020/05/19(火) 12:57:16 .net
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

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763 :日本@名無史さん:2020/05/19(火) 13:01:16 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

764 :日本@名無史さん:2020/05/20(水) 02:24:23 .net
推奨NGワード


@阿波
釜と甑
釜と竈
氏名と所属団体

765 :日本@名無史さん:2020/05/20(水) 13:33:41 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


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766 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 00:31:19 .net
偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物偽物
WWWWWWWWWWWWWWWW

767 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 00:59:54 .net
推奨NGワード


@阿波
河姆渡
良渚
木骨泥墻

釜と甑
釜と竈
氏名と所属団体
サギー
チンク
ツカポコタカ

768 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 04:32:24 .net
郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。

無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

以上。

769 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 10:07:26 .net
>>768
GJ

770 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 13:51:42 .net
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

771 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 13:53:18 .net
推奨NGワード


@阿波
河姆渡
良渚
木骨泥墻





オクキョン
氏名と所属団体
サギー
チンク
ツカポコタカ

772 :日本@名無史さん:2020/05/21(木) 14:30:13 .net
↑自分はNGにしてないサギー華南ブタチックマライロピテクスwwww

773 :日本@名無史さん:2020/05/22(金) 14:46:24 .net
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

774 :日本@名無史さん:2020/05/23(土) 13:28:23 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


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775 :日本@名無史さん:2020/05/23(土) 13:47:04 .net
>>774
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
チョンコどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻しという隠蔽工作しました
本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として黒歴史化しています

しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
 
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます

776 :日本@名無史さん:2020/05/23(土) 14:04:54 .net
.



>>775
>オクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの
>共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって
>見せたりもします


で、↑このサギーな作り話の証拠は?


>3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、
>朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です


で、↑このデマを証明する3千年前の朝鮮半島における「在地産の日本系土器遺構」は?



早く言えよサギー華南ボルネオチックブタロイド


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777 :日本@名無史さん:2020/05/24(日) 14:53:55 .net
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!


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778 :日本@名無史さん:2020/05/25(月) 13:47:48.78 .net
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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779 :日本@名無史さん:2020/05/26(火) 13:42:28 .net
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


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780 :日本@名無史さん:2020/05/27(水) 12:48:04 .net
.

(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

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781 :日本@名無史さん:2020/05/27(水) 12:53:26 .net
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

782 :日本@名無史さん:2020/05/28(木) 13:41:56 .net
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


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783 :日本@名無史さん:2020/05/29(金) 13:49:55 .net
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

784 :日本@名無史さん:2020/05/30(土) 13:48:12 .net
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最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


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785 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 13:58:46.27 .net
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今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


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786 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 16:04:10.51 .net
>>785

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは、
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

ソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」頃です。

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定から逃げ回った上に、
日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。

本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに歴史学の恥部となっています。

787 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 17:04:31 .net
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>>786
>朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、
>炭素年代測定から逃げ回った上に、日本、中国、ロシアからの共同研究を
>頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。


で、↑このウソ創作の証拠は?


サギー華南マライブタのウソ創作だから、今回も何の証拠も出せないねwwww


.

788 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 17:08:04 .net
>>787
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

ソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」頃です。

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定から逃げ回った上に、
日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。
本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに歴史学の恥部となっています。

789 :日本@名無史さん:2020/05/31(日) 19:03:20.14 .net
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>>788
>朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、
>炭素年代測定から逃げ回った上に、日本、中国、ロシアからの共同研究を
>頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。


で、↑このウソ創作の証拠は?


サギー華南マライブタのウソ創作だから、今回も何の証拠も出せないねwwww


.

790 :日本@名無史さん:2020/06/01(月) 01:11:08 .net
>>789
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

ソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」頃です。

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定から逃げ回った上に、
日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。
本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに歴史学の恥部となっています。

791 :日本@名無史さん:2020/06/01(月) 06:36:34 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.

792 :日本@名無史さん:2020/06/01(月) 10:28:40 .net
>>791
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

ソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」頃です。

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定から逃げ回った上に、
日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ末に、理由もなく埋め戻すという隠蔽工作しました。
本国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに歴史学の恥部となっています。

793 :日本@名無史さん:2020/06/01(月) 15:10:33 .net
.



◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!


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794 :日本@名無史さん:2020/06/02(火) 13:07:29.38 .net
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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795 :日本@名無史さん:2020/06/02(火) 13:57:59 .net
金印の話をしろよ朝鮮人ども

796 :日本@名無史さん:2020/06/03(水) 13:29:29.18 .net
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


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797 :日本@名無史さん:2020/06/04(木) 13:24:04 .net
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

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798 :日本@名無史さん:2020/06/04(木) 13:28:54 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


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799 :日本@名無史さん:2020/06/04(木) 13:31:58 .net
推奨NGワード


@阿波
河姆渡
良渚
木骨泥墻





オクキョン
氏名と所属団体
サギー
チンク
ツカポコタカ
セローイ
アッー

800 :日本@名無史さん:2020/06/05(金) 12:27:08 .net
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

801 :日本@名無史さん:2020/06/06(土) 17:29:18 .net
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最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

802 :日本@名無史さん:2020/06/07(日) 13:39:39 .net
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最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


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803 :日本@名無史さん:2020/06/08(月) 13:17:34 .net
.



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません


.

804 :日本@名無史さん:2020/06/08(月) 13:48:08 .net
>>803
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです

ソングンリに水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ遺跡の「紀元前300年」です

朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています

805 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 18:03:34.00 .net
後漢書に記載 倭奴国〜倭國之極南界也

金印「漢委奴國王」

魏志倭人伝に記載 邪馬壹國

金印「親魏倭王」

疑問その一:あれ?倭国の中に倭奴国ってどいうこと??

疑問その二:あれ?なんで親魏邪馬壹國王じゃないの?

806 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 18:16:30.87 .net
倭の中に邪馬台国があり、その中に倭奴国がある。

807 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 19:01:27.06 .net
↑マトリョーシカ極小倭国

808 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 20:32:32.82 .net
三国志の時代だから、基本的に国邑の単位で考えるのさ。
むしろそれでも倭人の領域はやたら広く、魏志倭国伝ではなく魏志倭人伝なのはそのため。

809 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 21:05:07.05 .net
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◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8


.

810 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 21:41:25.28 .net
後漢書 倭(倭国)の中の奴国が、朝貢してきた。

末蘆國
 →東南→伊都國
       →東南→奴國     →東→不弥國
           奴國(縦長の二万戸)

だから、当時の北部九州倭国の中で、奴國が極南界

漢委奴國王 漢は奴国王に委任する 漢が委任する奴国王

倭の世界は、漢としては、奴国王に委任する


邪馬壹國は邪馬台国=やまと国=ワ国=倭国

親魏倭王 魏と親しい倭王 魏と親しいやまと王 魏と親しい邪馬台王

811 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 21:59:51 .net
漢委奴國王 漢は奴国王に委任する 漢が委任する奴国王

任那 那珂川の那国=奴国勢力に任せる=委任する

そいうこと

812 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:17:25.35 .net
北部九州には、伊都国と奴国、少なくとも2つの巨頭がいたのだな

813 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:22:39.16 .net
でも卑弥呼の時にはもう奴国に王はいなかった。
考古学的にも、三種の神器を持つ王墓は奴国側では見いだされなくなり、王権は並立と言うよりは糸島に移動したように見える。

814 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:27:25.50 .net
一大工業地域の奴国といえども、
弥生時代には原料を全て上流の伊都に握られているから、
従わざるをえなかったんだろうね

815 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:39:42.34 .net
親魏倭王金印が世に出る日はあるんだろうか

平原卑弥呼女王墓や八咫鏡は見つかったけど、どうだろうね

816 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 22:52:56.90 .net
親魏倭王印
https://www.lucktendo.co.jp/blog/upload-images/20131210102753.jpg

817 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 23:03:06.08 .net
漢委奴國王 漢は奴国王に委任する 漢が委任する奴国王

任那 那珂川の那国=奴国勢力に任せる=委任する

そいうこと

818 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 23:43:40.27 .net
お前ら卑弥呼に期待しすぎw
さすが憲法球場で守られてるだけあるww

倭国乱に続いての狗奴国との戦争中に共立された女王だぞ
ふにゃっとした巫女に統率できるわけがなかろうwww

極道の女だよ

敵対勢力は粛清
狗奴国王は一大率で徹底的に封じ込めて
軍を送って対峙

金〇正女王の写真を見てみろ
あんな感じ

どっちかというと、卑弥弓呼のほうがビビってた可哀そうな側

819 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 23:58:27.45 .net
出土状況不明の志賀島の金印の純度は
四川省で見つかった明末期の蜀世子宝と同じ95%だったな

820 :日本@名無史さん:2020/06/19(金) 23:58:50.95 .net
金〇正女王

821 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:03:26 .net
朝鮮半島のキナイコシの主張

邪馬台国は畿内の鉄器ゼロ遺跡だった、蛙の骨までしゃぶってた(笑)

金印は偽物 偽物を国宝扱い(笑)

DNA鑑定で稲作が直輸入 俺ら朝鮮半島が恵んでやったんだよ(笑)

822 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:09:37.36 .net
金印出土は日本国

反日全力キナイコシ悔しいwww

823 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:13:03.78 .net
後漢書の1世紀の極南界の倭奴国の光武賜以印綬と邪馬台国は関係ない

824 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:18:17.27 .net
文字を持つ勢力の話だから関係ある

825 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:23:43.17 .net
1世紀に存在した倭奴国は漢末期に卑弥呼が共立された倭国の極南界に位置するから
倭奴国が北部九州ならば大倭王居邪馬臺國は九州にはない

826 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:27:10.75 .net
>>825
キナイコシさんに特別にヒント

倭奴国 57年金印 1世紀

邪馬台国 239年金印 3世紀

どっちも北部九州>根拠:鉄器の出土分布

827 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:30:05.13 .net
後漢書倭伝に鉄という文字はない

828 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:34:15.63 .net
だから?敗者キナイコシさん

829 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 00:40:15.89 .net
鉄器の分布などは根拠にならない
後漢書にも魏志にも書かれた倭人の特有の風習は卜骨
漢代の九州からは出ていない

830 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:00:44.24 .net
言い張るだけでまるで根拠がないキナイコシ

831 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:01:17.50 .net
>>823

同じ倭だから関係ないわけないだろw

832 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:02:44.88 .net
考古学的にはもう無理なので
文献上で比定するなら、北部九州に邪馬台国が欲しければ
南側に極南界の倭奴国を比定しなければならない

833 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:12:54 .net
イミフ
極南界が倭奴国なのだから、倭奴国が女王国でいいじゃん。
ああ、倭奴国は博多湾沿岸のことだから、魏志倭人伝の伊都国、現代の糸島市も含むからね。

834 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:15:04.55 .net
博多湾沿岸では九州限定倭国の極南界にならない

835 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:27:38.95 .net
>>833
>現代の糸島市

地図をちゃんと見よう。
伊都国に比定される怡土懸の大半は現前原市。

836 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 01:33:26.68 .net
旧前原市だね

837 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 06:44:02 .net
伊都としまの両方とも現在は現糸島市だぞ

838 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 07:06:48 .net
>>834
頭かたいねえ

奴国は縦に細長くて、金印当時は奴国までが倭国=甕棺墓領域だった

839 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 07:27:54 .net
奴国は2万戸もあったから、かなりの面積が奴国に含まれる。
吉武高木あたりが奴国の中枢かな。

840 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 07:28:34 .net
伊都国の中枢は三雲あたり。

841 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 09:17:39.29 .net
>>838

邪馬台国は極南界の倭奴国よりも北だから
海と離島しかなくなる
邪馬台国が欲しいなら倭奴国を南側に比定しなければならない

842 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 09:40:08.68 .net
倭奴国=伊都国=女王国です。

843 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 09:45:56.71 .net
後漢書には倭奴国と大倭王居邪馬臺國は別の国として書かれている
漢末に卑弥呼が共立された倭国の一番南端に1世紀に存在した国が倭奴国

844 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:22:06.82 .net
弥生中期に盛行した甕棺墓領域は、南限が宇土半島基部(薩摩半島西岸日置郡に2基はある)
北限が壱岐、古賀市、東限が嘉穂郡飯塚
甕棺墓領域=倭国とすると極南界は熊本平野南端地域になる

https://www.city.uto.lg.jp/museum/pro/kodai/sakaimeiseki.html

845 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:25:21.49 .net
>>841
時代が200年も離れたものを無理くり同じ時代として論じるバカ

846 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:26:34.13 .net
>>842
倭奴国=伊都国+奴国=女王国だろ。

847 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:29:17.80 .net
>>839
奴国は現在の福岡市周辺全体だろうな。

848 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:31:08.73 .net
倭の奴の国じゃないんだから倭人伝の奴国と結びつける必要はない

849 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:34:15.13 .net
そうだな。
実は伊都国の言い換えだろう。

850 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:35:28.17 .net
>>844
>甕棺墓領域=倭国とすると極南界は熊本平野南端地域になる

そこは卑弥呼と喧嘩して狗奴国として対立していた地域だな。
もともとは卑弥呼と同族だ。

851 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:42:21 .net
>>845

無理くり同じ時代としているのではなく
後漢書というのは後漢時代(25年 - 220年)について書かれている
倭国の範囲というのは後漢末に卑弥呼が共立された倭国
その一番南端に1世紀に存在して朝見した国が倭奴国(「漢時有朝見者」魏志)
北部九州一元説は無理くり倭奴国と大倭王居邪馬臺國を重ねてしまっている

852 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 10:45:14 .net
>>850

後漢書では拘奴國は「女王國東度海千餘里」
東の海を渡った倭種の国となっている

853 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:06:43.74 .net
>>851
バカじゃね?
後漢書に書かれているのは、57年倭奴国の大夫が朝貢、107年倭国王師升が朝貢。
それだけ。

倭奴国は滅亡したんだろうよ。
もしくは、倭の奴国=魏志倭人伝でも奴国。

854 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:08:05.85 .net
狗奴国は魏志倭人伝に書かれた、南の敵対国。倭人か倭種か不明。
拘奴國は後漢書に書かれた、東の倭種国。不属だが敵対かどうか不明。

勝手に改竄するな。

855 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:11:19.83 .net
魏略には卑弥呼、狗奴国は出てくるが、邪馬台国は出てこない。
倭国=やまと国=邪馬台国だから。

女王国=伊都国+奴国

856 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:18:17.24 .net
>>853

北部九州説は民族的に罵声が非常に多い
倭奴国は滅亡したんだろうが、後漢末の卑弥呼が共立された倭国の一番南にあった国
甕棺墓領域=倭国と仮定すると宇土半島基部にあったことになる

857 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:22:27.05 .net
>>856
『倭國之極南界也』

(倭の)奴国は、倭国の最南部を極めている。

奴国の南端が倭国の南端と一致するとは書かれているが、
奴国が最南端である、とは書かれていない。

858 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:23:14.45 .net
>>854

狗奴韓国 ← 三国志

拘奴韓国 ← 後漢書

の例もあるぞ、これ同じ国だろ

859 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:26:30.44 .net
>>854

後漢書の引用しただけなので改竄はしていない
後漢書では南に不属の国はないので
甕棺墓領域=倭国と仮定すると宇土半島基部が極南界になる

860 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:27:31.90 .net
>>858
>狗奴韓国 ← 三国志

三国志のどこに書いてあるのだ?

861 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:29:22.46 .net
>>859
>甕棺墓領域=倭国と仮定すると宇土半島基部が極南界になる

それでいいんじゃないの?

中国人の認識していた倭国=九州島の中で、
委奴国が57年当時支配していた領域が南北に広かっただけ。
北端は博多湾沿岸。

862 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:29:48.93 .net
>>857

「最南部」と「極めている」と二回読んでいる語訳

863 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:30:09.41 .net
狗邪韓国やね

864 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:30:32.07 .net
>>859
>後漢書では南に不属の国はないので

史料をそのまま読めよ。
後漢代には南の狗奴国は無かった。
もしくは記載するまでもないほど弱小だった。

865 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:31:42.01 .net
>>862
『倭國之極南界也』

(倭の)奴国は、倭国の南方を極めている。 (最南端まで達する)

奴国の南端が倭国の南端と一致するとは書かれているが、
奴国が最南端である、とは書かれていない。

866 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:33:14.62 .net
狗奴国は魏志倭人伝に書かれた、南の敵対国。倭人か倭種か不明。
拘奴國は後漢書に書かれた、東の倭種国。不属だが敵対かどうか不明。

北部九州邪馬台国なら、
前者は免田式土器領域の熊本国家。
後者は四隅突出墓の日本海沿岸国家。

867 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:38:44.15 .net
>>861

1世紀に朝見した倭国の極南界の倭奴国は宇土半島基部にあった国という説でいいかな
つまり甕棺墓領域の福岡県西部は後漢代に朝見など何もしていない
糸島や春日の国は志賀島の出土状況不明金印とは一切関係ない

868 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:39:52.17 .net
>>865
>南端と一致する
>最南端である

具体的にどう違うの?

869 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:40:26.78 .net
後漢の頃は倭奴国からの使者を迎えるだけだったので、それよりも南の情報は入ってこなかった。
群使が伊都国まで行ったことで周辺の情報が増え、さらに南の狗奴国について知られるようになった。

870 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:41:32.01 .net
キナイコシの詭弁をまともに相手するのは無駄。
倭奴国は金印も見つかっているから、博多湾沿岸から動かしようがない。

871 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:41:41.26 .net
>>865

極めているが倭國と之の間に入ってしまっている語訳

872 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:41:50.52 .net
>>867
人の話を無視して同意を求めるとか何様なの?

1世紀に朝見した倭国の極南界の倭奴国は、
博多湾沿岸が北限(根拠:志賀島金印出土)で、
南限は当時の倭国の最南端と一致する部分。(どこが最南端とするかは不明)

南北に長細い領土を有していた。

873 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:42:53.73 .net
郷土愛に狂う糸 チヨンコを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、民族願望の塊であるキナチヨンコや泡チンコがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
無論だが、女王国は「九州」であり、平原古墳が卑弥呼の冢である可能性は低くない。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

874 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:43:56 .net
1世紀の倭国の範囲は対馬海峡+伊都+奴国+不弥国

奴国=1世紀倭国の極南界(根拠:魏志倭人伝の里程)

以上。

875 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:44:19 .net
狗奴国は魏志倭人伝に書かれた、南の敵対国。倭人か倭種か不明。
拘奴國は後漢書に書かれた、東の倭種国。不属だが敵対かどうか不明。

北部九州邪馬台国なら、
前者は免田式土器領域の熊本国家。
後者は四隅突出墓の日本海沿岸国家。

876 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:46:28.03 .net
>>870

北部九州一元起源説が倭国=甕棺墓領域だと仮定しているので
一番南は宇土半島基部になると教えている
福岡県西部だけ倭国にしたいのなら福岡県西部だけに共通する何かを根拠にしなければならない

877 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:48:02.68 .net
狗邪韓国は魏志倭人伝に書かれた、倭地=九州の北岸、釜山しかない。
帯方郡から七千里

拘邪韓国は後漢書に書かれた、倭人支配域の北西、釜山より西。
楽浪郡から七千里

別物ですね。

878 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:50:10 .net
>>872

倭奴国は倭国の極南界
博多湾沿岸から宇土半島基部までが倭奴国ならば
大倭王居邪馬臺國はその北の海か離島になる

879 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:52:18 .net
>>876
委奴国は奴国を含む南北に細長い国家だと言ってるのに
いつまでやってんだこのキナイコシは

委奴国の北岸は博多湾沿岸、志賀島。金印出土。
委奴国の南端はどこでもお好きにどうぞ。任せたw

880 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:53:06 .net
>>878
大倭王居邪馬臺國は時代が違いますよッと。

881 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:00:34 .net
>>880

大倭王居邪馬臺國、卑弥呼共立後の時代が後漢書の倭国の範囲

882 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:03:09.68 .net
>>881
だから何?というのと、
それは君の決めつけ。

883 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:03:48.69 .net
>>879

博多湾沿岸が倭奴国ならその北の海、離島が大倭王居邪馬臺國
ちなみに志賀島には甕棺はない

884 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:08:33.21 .net
>>883
本当に頭が固いな。

委奴国は奴国を含む南北に細長い国。
>委奴国の北岸は博多湾沿岸、志賀島。金印出土。
>委奴国の南端はどこでもお好きにどうぞ。任せたw

なんで邪馬臺國が「北」と決めつけるんだよ。

君に付き合って、じゃあ同時代と仮定しよう。
委奴国が南北に細長くて、金印出土から奴国を含むのが確実なら、
邪馬臺國はその東か西だろう。

考古学的には西の伊都国を含む領域が邪馬臺國。

885 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:12:32.61 .net
後漢書を読んでいるなら、
大倭王居邪馬臺國 は一番最初の段落。

そこから倭人の風習について長い説明が入って、
その後に、倭国の歴史の段落が始まる。

倭奴国〜倭国王師升〜倭国大乱〜卑弥呼女王国だ。

だから倭奴国と大倭王居邪馬臺國との間には後漢書の記載でも長い年月が経っており、
また三国志に倭奴国が出てこないのだから、
素直に解釈するなら倭奴国は滅亡した。

倭国=邪馬臺(台)國に征服されたのだろう。

886 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:21:07.66 .net
倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百餘國 
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)

「あらすじ」を解釈すると、
倭人は九州島にいて、百余国あったのが、次第に統一されて、
武帝が挑戦を滅ぼした後に漢と外交していたのは三十国。
三十国はそれぞれ代々の王がいた。

その中で最も有力、そして最終的には大王となった、
大倭王は邪馬臺國=倭国の王である。
=伊都国を首都として次第に拡大

後漢時代の中で、次第に統一されていったんだろ。
百余国→三十国→邪馬臺國vs委奴国

邪馬臺國は伊都国が首都
委奴国は奴国が首都、西には邪馬臺國があるから南北に長細く領土拡大

委奴国王が一時優勢になって金印を貰ったが、その後衰えて、
伊都国を首都とする邪馬臺國=倭国が北部九州を制圧。
後漢代に統一が進んだ過程が示されている。
何の矛盾もない。

887 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:24:16.52 .net
>>884

同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
その最南端が1世紀に朝見した倭奴国
奴国が最南端で東の糸島の伊都国が邪馬臺國なら
倭国=甕棺墓領域というのは間違い
福岡県西部だけのとても極小の倭国の考古学的な根拠を示さなければならない

888 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:27:15 .net
>>887
まだ言ってるよw

委奴国は奴国を含む南北に細長い国。
>委奴国の北岸は博多湾沿岸、志賀島。金印出土。
>委奴国の南端はどこでもお好きにどうぞ。任せたw

889 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:28:34 .net
委奴国=奴国+南の国々
邪馬臺國=倭国=伊都+対馬海峡

890 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:34:53.83 .net
>>888

福岡市、春日市を中心とした博多湾沿岸から宇土半島基部までの細長い倭奴国なら
倭国の極南界ではなく倭国の東部

891 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:35:51.92 .net
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
その通り。

<1世紀>
委奴国の支配域=奴国+南の国々(甕棺墓領域の南端まで)
邪馬臺國=倭国の支配域=伊都+対馬海峡

<3世紀>
委奴国滅亡
邪馬臺國=倭国の支配域=甕棺墓領域全土

倭国の出発点は伊都。
次第に領土拡大して、最終的には、
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国

892 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:39:00.81 .net
>>890
東に不弥国、さらに渡海千余里もして漸く拘奴國と広がっている。

893 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:40:16.28 .net
奴国の東には巨大な豊国が広がっているぞ。

894 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:46:24.11 .net
>>891

根拠が示されていない作り話
3世紀には甕棺墓領域というのはない

895 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:49:14.11 .net
>>894
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
その通り。

<1世紀>
委奴国の支配域=奴国+南の国々(甕棺墓領域の南端まで)
邪馬臺國=倭国の支配域=伊都+対馬海峡

<3世紀>
委奴国滅亡
邪馬臺國=倭国の支配域=北部九州全域

倭国の出発点は伊都。
次第に領土拡大して、最終的には、
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国

896 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:50:34.89 .net
>>886
後漢書には伊都が出てこないね。

その文章を読むと、其大倭王居邪馬臺國は三十国の時にはもういたように読める。
てことは、
我々が伊都国と認識している国=早良平野+糸島平野は、
本来は邪馬臺國。

邪馬臺國が最終的に北部九州を統一したから、
その首都(旧邪馬臺國)の名前を付けるにあたり、
伊都と名付けた、のだろうね。

897 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:51:31 .net
>>893

豊国は甕棺墓領域ではないので
また別の考古学的な根拠を示さなければならない
東に国があろうと福岡市、春日市が中心ならば倭奴国は倭国の極南界にはならない

898 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:53:36.12 .net
>>897
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国

倭国に豊国を含んでいいだろう。
そして南北に細長い委奴国は倭国の極南界。
伊都国よりも東南と考えられていたし。

899 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:56:49.60 .net
.

統属(読み)トウゾク
統制のもとに属すること。

統属とある以上、
伊都国は王も官も民も全てが
女王国の統制のもとに属する国あるいは植民地
倭人伝全体を読めば首都である可能性はゼロである。

妄想でしか語れない糸クズやキナチョンコ、泡チンコどもは低学歴の在日朝鮮人だから
これに一切の反論ができない=いつもの完敗が確定しただけのこと。

 .

900 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:58:56.83 .net
狗奴国は魏志倭人伝に書かれた、南の敵対国。倭人か倭種か不明。
拘奴國は後漢書に書かれた、東の倭種国。不属だが敵対かどうか不明。

北部九州邪馬台国なら、
前者は免田式土器領域の熊本国家。
後者は四隅突出墓の日本海沿岸国家。

901 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:59:20.33 .net
狗邪韓国は魏志倭人伝に書かれた、倭地=九州の北岸、釜山しかない。
帯方郡から七千里

拘邪韓国は後漢書に書かれた、倭人支配域の北西、釜山より西。
楽浪郡から七千里

別物ですね。

902 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:00:49.49 .net
>>895

糸島から宇土半島基部までの甕棺墓領域が倭国で
倭奴国の中心が博多湾沿岸〜春日市であったなら
倭国の極南界ではなくて寧ろ倭国北部になる
後漢書の極南界を完全に無視してしまっている

903 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:08:06.86 .net
.

(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

904 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:15:12.27 .net
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

905 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:44:09 .net
>>902

後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。

906 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:57:48.08 .net
拘邪韓国な

907 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 15:40:49.54 .net
>>905

倭在韓東南大海中だから倭国は島国
島国倭国の西北界の対馬海峡と接している韓の国が狗邪韓國

908 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 15:45:52.94 .net
末蘆→東南→伊都→東南→奴国→東→不弥

奴国が最南
そこから南は好きなだけ伸ばせばいいさ

909 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 16:36:39.46 .net
>>907
半島側なので便宜的に韓国の名前だが、魏志倭人伝に書かれているので、実際にいるのは倭人。

910 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 16:52:25.44 .net
>>909

倭国ではない韓国なので弁辰狗邪國を狗邪韓國と表記しているものと解される
渡海のため滞在する国であり女王國以北であるのに官名も戸数も記載されていないので
倭国の構成国ではないことは確か

911 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 17:08:01.06 .net
すると末盧国も倭ではないということだな

912 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 17:16:43.63 .net
>>910

ちっちゃな漁村程度だったんだろ。
でも韓伝でなく倭人伝に書かれていたのだから、そこにいたのは倭人。

913 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 17:18:27.38 .net
要するに倭とは対馬海峡の国であり、その南の端の福岡が栄えていた。
その周辺はそれほど見る価値もなく、事実上、倭奴国が倭(対馬海峡)の南端であった。

914 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 18:56:39.85 .net
>>911

末盧国は戸数は書かれているが官名がないので原文もそうであったなら
まだ全域が倭国の統制下になっていない地域
日本の律令でも肥人は異人

915 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:00:36.80 .net
>>912

ちっちゃな漁村程度という根拠はない
郡からの海岸水行歴韓国の行程が書かれているので
渡海前の歴韓国の最後の韓の国

916 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:03:17.02 .net
統制下にない国が往復ルートになってるのか、遣使も命がけやね

917 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:21:43.45 .net
>>914
壱岐対馬に官がいて統制下に入っているのだから
その間の末蘆国も当然統制下に入っていただろう。
考古学的にも明らか。

末蘆国王家は桜馬場遺跡までで滅亡しており、
これも魏志倭人伝で末蘆国に官がいないのと対応している。
戦乱に巻き込まれて荒廃していたのだろう。

918 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:22:14.45 .net
>>915
がんばるねえ、お隣の国のお方

919 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:22:14.75 .net
>>916

末盧国は管理下にある津の漁の様子は書かれているが
陸路は草木茂盛行不見前人で整備されておらず
楽浪土器の出土は糸島の深江井牟田遺跡(3世紀前半が下限)から多種が出土しているので
志摩御床松原とともに深江、加布里までは水行が楽浪との交易ルートと考えられる

920 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:34:58 .net
そういや深江で上陸してからの
県道49号線が倭人伝の里程ルートってのが話題になった時に、
キナイコシが
「昔は今と違って道はもっと直線的だったんだよ(だから49号線は無関係)」
と言っていつもの何でも否定してきた。

多少道が変わっていようが、大まかなルートとしての49号線って意味で
皆が議論している時に、
相変わらずズレてんなあ、やっぱキナイコシって狂ってるわと思った遠い春の日。

921 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:46:35.77 .net
糸島は糸島水道と呼ばれた東西の天然の津が交通に有用な土地
その中央の陸橋にあるのが志登支石墓群であり、糸島最古の前方後円墳の御道具山古墳であり
糸島唯一の式内社の志登神社

922 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:52:01.26 .net
伊都説でいうとその辺りが弥生最初期、倭国最初期からの聖地だったんだろうね。
白村江で大敗したから、ごっそり疎開。

923 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 20:30:52.12 .net
>>917
>末蘆国王家は桜馬場遺跡までで滅亡しており、

はじめからそんなところに王なんていないんですよ。

924 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:18:40.63 .net
.

(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.

925 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:23:13.55 .net
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


.

926 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:25:13.42 .net
>>923
考古学的にいた。

927 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:43:26 .net
>>926
そうなの?

928 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:51:18.90 .net
>>927
末蘆国は日本最古の稲作遺跡である菜畑遺跡に始まり、
宇木汲田遺跡から柏崎遺跡、桜馬場遺跡と途切れることなく王家が続いている。

そして末蘆国王家は伊都王家と密接に関係しており、同族と考えられる。

今後新たな王墓などが見つからなければ、
末蘆国王家は、桜馬場遺跡の栄華を最後に滅亡しており、
魏志倭人伝において末蘆国に官がいないことと関連していると思われる。

929 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 23:32:12 .net
狗奴国に滅ぼされたんだよ。

狗奴国が肥後→筑後→佐賀→末蘆→壱岐対馬と一時的に占領して、
後漢の有力者、曹操と接触。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手した。

免田式土器の出土分布も含めて、
それで矛盾なく全て説明がつく。

930 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 23:55:27 .net
狗奴国と言うよりは、肥国と言ったほうがいいかもしれない。

931 :日本@名無史さん:2020/06/21(日) 00:26:28.19 .net
>>896
郷土愛に狂う糸 チヨンコを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、民族願望の塊であるキナチヨンコや泡チンコがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
無論だが、女王国は「九州」であり、平原古墳が卑弥呼の冢である可能性は低くない。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」

伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”

伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”

一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。

【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。

また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。

932 :日本@名無史さん:2020/06/21(日) 21:54:02 .net
.



中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


.

933 :日本@名無史さん:2020/06/22(月) 13:58:23 .net
.
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.

934 :日本@名無史さん:2020/06/23(火) 21:24:04.61 .net
韓族村長は銅印ニダ<ヽ`∀´>

935 :日本@名無史さん:2020/06/24(水) 08:04:47.59 .net
.



最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。

釜が伝わったのは古墳期の5C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!


.

936 :日本@名無史さん:2020/07/01(水) 12:17:46.71 .net
15: 2019/05/07(火)02:04 AAS
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國(朝鮮半島南岸)から倭奴国(九州北岸)まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。

937 :日本@名無史さん:2020/07/08(水) 21:51:32.95 .net
開墾=収穫量UP
戦争=戦利品獲得!

ではない重労働

自国民に課したら不平不満が暴発

ということは、征服した毛人の反乱封じ?

938 :日本@名無史さん:2020/07/19(日) 23:41:14 .net
マツラ国は佐世保市松浦だよな

939 :日本@名無史さん:2020/07/19(日) 23:52:13 .net
>>938
まぁその辺で確定してるけど、たまに福津のキチガイ神社の自称社伝を悪用して捏造したがるんだよなぁ

940 :日本@名無史さん:2020/07/20(月) 13:56:22.10 .net
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

941 :日本@名無史さん:2020/07/21(火) 13:39:27.36 .net
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


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942 :日本@名無史さん:2020/08/06(木) 17:40:28 .net
なぜなんな場所から金印でたのか永遠の謎なんだろうね
日本史史上第一級の国宝
ロマンあるわ 

943 :日本@名無史さん:2020/08/06(木) 19:06:08 .net
実は細石神社に伝世していた。
諸事情により、志賀島で見つかったことにして世に出した。
志賀島の発見地とされる巨石は今も分からず。

944 :日本@名無史さん:2020/08/06(木) 19:26:23 .net
>>943
糸チョン説ウンザリだわ

945 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 00:57:13 .net
細石神社の話はとっくに終わってたと思ったんだが、いまだに謳う輩がいるんだな。

946 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 00:58:49 .net
志賀島にあったというなら、その巨石とやらを見せてくれ。

947 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 01:20:09 .net
巨石がなんか関係するのか?

948 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 01:49:24 .net
>>545で解決してるじゃん

> そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもの
> そして現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した
>
> それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう
>
> 紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
> 建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
> (三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
> 天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
> 天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
>               (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
> 寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
> 元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
> 元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
>               (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
> 天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
> 文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
>              (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
> 文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
> 明治5年(1872年) 村社
> 大正12年(1923年) 幣帛供進社
>               (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)
>
> 古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
> 425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である
>
> 三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
> 傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
> まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である
>
> 結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

949 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 14:24:11 .net
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


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950 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 14:29:08 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


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951 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 18:27:46.17 .net
>>948
それを認めたくない糸チョンコが巨石巨石と騒いでる

952 :日本@名無史さん:2020/08/08(土) 13:55:29.18 .net
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!


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953 :日本@名無史さん:2020/08/21(金) 21:49:08 .net
皿うどんをくえ

954 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 16:42:05 .net
九州民のみなさん

台風10号上陸において

くれぐれもお気をつけください

955 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 16:46:46 .net
邪馬台国が筑後川流域にあったなら、度重なる水害で遺跡が失われている可能性もある。

956 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 21:35:03.42 .net
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


.

957 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 21:59:34 .net
邪馬台国って邪馬・台国だよね
探すは臺国
じゃあ邪馬ってなんだろう
たぶん古墳の壁画の三角形の連続した絵じゃないかな

958 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:21:45 .net
志賀島から出てきたというのに志賀海神社のアズミ氏が金印の存在について知らなかった(伝えられていなかった)ことにはいろいろと考えさせられます。

金印は印として使われなくなった後も倭の国宝として、少なくとも倭王家の家宝として(三種の神器のように)大切に保管されていたのではないでしょうか。倭滅亡のときに敵に奪われないように隠したのかもしれません。それならいったいどうして志賀海神社のアズミ氏に預けなかったのでしょう。あるいはアズミ氏が預かり志賀海神社に保管していてそれが何者かによって盗まれるか紛失してしまうことになったのかもしれません。後者であればなぜそれが伝えられていないのか。

金印については本物か偽物かの論争が長い間されているようですが、私は金印が志賀島で見つかったということから金印そのものについてよりはむしろ志賀海神社について考えてしまいます。アズミ氏がよくいわれているような古代北部九州の有力豪族だったということに疑問をおぼえるようになりました。日本の初代天皇、天武天皇(新羅人)につかえた日本の古代豪族ではあったでしょう。ただし倭王(倭の天子)につかえた倭の豪族だったかどうか。はたして倭人なのかどうか、という疑いです。
アズミ氏は九州の土着の豪族といわれるけど、九州よりかは能登とか信濃とか本州に多い印象で、能登は海に面しているけど信濃に海はない。海人族みたいに信じられてきたことは本当でしょうか。記紀のような日本でつくられた伝説を無視して考えると高麗人のように思います。
そもそも魏志倭人伝とかに倭人が海の神とかをまつるために神社建てて神社に拝んでいたという記録ありますか?鬼道というまじないをやっていたとはあります。太陽や海や山や川や獣など自然のものを神聖視しあちこちに神社建ててそれをまつり拝んでいた民族といえば高句麗人じゃなかったですか?
壬申の乱で天武天皇を支えていたのは多くの高麗人でした。天武天皇自身は新羅人です。

959 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:23:22 .net
志賀島から出てきたというのに志賀海神社のアズミ氏が金印の存在について知らなかった(伝えられていなかった)ことにはいろいろと考えさせられます。

金印は印として使われなくなった後も倭の国宝として、少なくとも倭王家の家宝として(三種の神器のように)大切に保管されていたのではないでしょうか。倭滅亡のときに敵に奪われないように隠したのかもしれません。それならいったいどうして志賀海神社のアズミ氏に預けなかったのでしょう。あるいはアズミ氏が預かり志賀海神社に保管していてそれが何者かによって盗まれるか紛失してしまうことになったのかもしれません。後者であればなぜそれが伝えられていないのか。

金印については本物か偽物かの論争が長い間されているようですが、私は金印が志賀島で見つかったということから金印そのものについてよりはむしろ志賀海神社について考えてしまいます。アズミ氏がよくいわれているような古代北部九州の有力豪族だったということに疑問をおぼえるようになりました。日本の初代天皇、天武天皇(新羅人)につかえた日本の古代豪族ではあったでしょう。ただし倭王(倭の天子)につかえた倭の豪族だったかどうか。はたして倭人なのかどうか、という疑いです。
アズミ氏は九州の土着の豪族といわれるけど、九州よりかは能登とか信濃とか本州に多い印象で、能登は海に面しているけど信濃に海はない。海人族みたいに信じられてきたことは本当でしょうか。記紀のような日本でつくられた伝説を無視して考えると高麗人のように思います。
そもそも魏志倭人伝とかに倭人が海の神とかをまつるために神社建てて神社に拝んでいたという記録ありますか?鬼道というまじないをやっていたとはあります。太陽や海や山や川や獣など自然のものを神聖視しあちこちに神社建ててそれをまつり拝んでいた民族といえば高句麗人じゃなかったですか?
壬申の乱で天武天皇を支えていたのは多くの高麗人でした。天武天皇自身は新羅人です。

960 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:56:23.99 .net
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   いつものチョン妄想
  |     |r┬-|       |  / < 不安でしょうがないから
  \     ` ー'´     //      いつもの連投で草www
  / __        /
  (___)      /

961 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:58:13.86 .net
筑前阿曇氏の拠点は"阿"曇郷、信濃阿曇氏の拠点は"安"曇郡、摂津阿曇氏の拠点は"安"曇江であり、阿曇氏、阿曇連の本貫地は同名の阿曇郷である(全国邪馬台国連絡協議会九州支部)
また、713年の好字令によって筑前本家と区別するために信濃阿曇と摂津阿曇は拠点を安曇とした(神歴研)


新撰姓氏録右京神別下、地祇
「安曇宿禰海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」 阿曇は綿積の子である穂高見の子孫であり、同様の記述は古事記上巻ニにもある
なお穂高見を氏神として祭るのは志賀海神社境内の今宮神社と信濃穂高神社のニ社のみ

新撰姓氏録摂津国神別
「安曇宿禰同祖綿積命六世孫小栲梨命之後也」 摂津阿曇は綿積の6世孫、小栲梨の子孫であり、小栲梨を祀る神社は皆無

先代先代旧事本紀の巻一、陰陽本紀
「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」 綿津見三神は阿曇連が斎(いつ)き祀(たてまつ)る志賀海神社の事である
志賀海神社=綿津見三神=阿曇連が斎祀する神であるにも関わらず、摂津に綿津見を祀る神社は存在しない

綿津見の娘、豊玉姫の子である阿曇磯良を祀る疣水磯良神社(摂津で唯一の海神由来の神社)が摂津にあるが、平安時代に天照御魂神社が招聘した(摂津名所図解と当社神職による)もので阿曇族とは無関係


摂津の阿曇連百足は安曇磯良(綿津見の娘の子)の九世孫を自称していることから筑前阿曇と信濃阿曇は男系(本流)であり、摂津阿曇は女系(傍流)と言える


また、綿津見=ワタスミ=海住み=アマスミ=阿曇の音変も十分に考慮でき、海住みにシンクロする川住み=住之江=住吉も綿津見三神と住吉三神の同時誕生にシンクロする
兄弟神である綿津見と住吉の本社はそれぞれ志賀海神社と筑前住吉神社である
摂津の住吉大社は住吉本社を自称しつつも総本社は筑前住吉神社(元宮は現人神社)であることを認めている


筑前本家説にこれだけの根拠がある一方で、摂津説に根拠は皆無である点を勘案すれば、自ずと阿曇の本貫地は筑前以外に有り得ないという結論に至るのが真摯な歴史学研究の姿勢である

962 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:58:43.35 .net
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→伊勢→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ

963 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:40:41 .net
台風大したことなくて草

964 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:42:47 .net
>>961
後半は前に見覚えがあるな

965 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:45:51 .net
うん、早く死ねばよいと思う

おまえバカだから

966 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:49:23 .net
>>965
悔しがるなよチョンコロ

967 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:01:07 .net
てめえそおなんか?

勝手に自分と同じだと思うのクセなわけ?

968 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:02:19 .net
頭わるげだな死ねばよいやん

初めから話通じないだろおまえむたいなバカ

969 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:12:52 .net
新羅の王を育てたのは瓠公という倭人。
『三国史記』卷一・新羅本紀第一・始祖赫居世三十八年(紀元前20年)条 : 瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公

新羅第4の王も日本出身の脱解尼師今。
【三国史記】脱解尼師今立、一云吐解。時年六十二、姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。


半島の王族には日本から渡った倭人がたくさんいました。
なぜ朝鮮人は歴史書に書いてる事の逆を妄想してるのか分かりませんね。

970 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:38:41.66 .net
>>965>>968-968

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971 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 10:09:18 .net
倭人てもその人ら周の流れくむ連中らって中国書にあるんだよ

972 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 19:36:14.39 .net
金印は盗掘で見つけたんだろ

金属価値よりも学術的価値の方が圧倒的に高いので溶かして金塊として売るにはもったいない
しかし、学者や幕府に対して素直に盗掘で見つけましたと言うわけにもいかない
だからその辺の岩の下に埋まってたというストーリーをでっち上げた

973 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 19:55:58.34 .net
金印は細石神社にあったんだろ

しかし当時の情勢ではそのまま世に出すわけにはいかない
だからその辺の岩の下に埋まってたというストーリーをでっち上げた

974 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 20:28:39.40 .net
例の神社の関係者による盗掘のセンが最もあり得るケース

975 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 20:30:50.35 .net
あ〜そっか
氏族神社⛩か

なら盗掘だわな

976 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 21:42:45.40 .net
>>973
看破されたウソネタをしつこく連投しても恥の上塗りでしかないんだから諦めろよ糸チョン

977 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 22:12:03.46 .net
.



日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約5500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。


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978 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 23:53:11.52 .net
>>977
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
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  |     |r┬-|       |  / < 反日洗脳に侵された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしwwwww
  (___)      /

979 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 23:54:05.45 .net
>>973
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

980 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 04:30:27.78 .net
神社がそんな古い時代にあるわけないじゃん

いつから時代が存在すると思ってんだよ

981 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 04:31:37.69 .net
それを年代繰り上げ設定した連中らがいたとしたならそれは捏造と言うしか他ならん

982 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 07:05:57.14 .net
神社というのは、本来は王族の宮だった。
現在では神様と呼ばれているが、天皇家の祖先など王族そのものだ。
今でも、皇族は宮様とか呼ぶだろ?
古来から王族の呼称はその住まいの宮号で代用している。
仏教伝来で神社は宗教施設になった。

983 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 07:13:16.26 .net
記紀には神社の名前はあまり出てこない。
代わりにいくつもの王宮の名前が出てくるが、その多くが今では神社となっている。

984 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 09:51:02.09 .net
いずれにしても細石神社は古田の妄想ネタでしかない

985 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 12:46:01.30 .net
.


◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa

アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww

http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww

http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.

986 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 13:09:48.52 .net
>>985
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
   /( ●)  (●)\  !   !
  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   
  |     |r┬-|       |  / < 反日洗脳に侵された
  \     ` ー'´     //      哀れな在日ヒトモドキ
  / __        /          まるだしwwwww
  (___)      /

987 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 19:42:05.81 .net
細石神社は三雲南小路遺跡の祭殿であり、その成立は三雲南小路遺跡と同じ紀元前後と考えられる。
特筆するべきは三種の神器や璧などの王権の象徴となる威信財が大量に副葬されていて、銅鏡の出土枚数は平原遺跡を抜いて弥生時代の最多記録を誇っている。
時代は倭奴国が漢から金印を拝領した頃であり、その金印は目と鼻の先の志賀島から出土したとされている。
すなわち、卑弥呼より前の漢の時代の倭王は糸島平野にいたことになる。
細石神社の社殿によると、その祭神は木花佐久夜姫だが、遺跡に葬られていたのは王と王妃であったことから、被葬者は天孫邇邇芸と木花佐久夜姫と考えられる。
その息子である彦火火出見は近くにある高祖山の高祖神社に祭られている。
これが卑弥呼の前の男王たちと考えると矛盾がない。

988 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 22:24:52.67 .net
>>987
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

989 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 23:23:54.69 .net
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif.html

990 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 23:43:22.81 .net
>>988
>三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき

江戸時代はどこかの寺の門徒であることが義務付けられていた。
金龍寺は高祖神社と一体であり、その高祖神社(彦火々出見)が御祖宮と仰いだのが細石神社(木花咲耶姫)である。
よって、信仰を失っていた証拠とはならない。
神職がいなくても、地元の宗徒が祭りを続ける例は少なくない。
まして、戦国時代は同様に多くの伝統や風習、文化財が失われた時代であり、それをもって神社の歴史を否定することなどできない。

991 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 00:46:49.86 .net
>>990
それが流鏑馬だろ
古田の妄言「侍が持ち去った」を実証する根拠にはならないんじゃないか?

992 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 07:44:15.27 .net
>>988
>文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したと>?ころ三雲南小路遺跡を発見
>             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)

ここは関心を呼ぶ部分だ。
近所住民は、土壁の修繕にはここの土が良いことを知っており、長年にわたってあちこち掘り崩していたのだろう。
つまり、ここは版築盛り土されたもので、古代の墓だったのではないか。
それが採土を繰り返すうち、たまたま三苫清四郎が何かに突き当たった、と思ったら古いお宝だった。
・・・三苫清四郎が怪しい!

993 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 08:44:02.14 .net
だから古代の墓(三雲南小路遺跡)だと再三言っているだろ。

994 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 08:51:54.31 .net
で、次の問題だが、
此処が古代の墓地で、漢倭奴国王の印を出土したということは、ここは奴(那)の国の範囲内だったということになるのではないか?

995 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 11:31:03.79 .net
金海金氏の系図がネットで見つからないんだが日本軍にみな焼かれちまったのか?

996 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 12:21:29.55 .net
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


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997 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 12:26:28.98 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


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998 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 12:57:27.65 .net
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(倭国大乱後の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。

999 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 15:09:39.50 .net
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

1000 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 15:53:43.66 .net
【倭国】

弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王が冊封された。後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭が博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。

連合国家である倭の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部には豊国、肥国があった。本州の出雲、越などは倭の別種と書かれている。
博多湾岸を中心として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は博多湾沿岸勢力が独占していて、その支配機構が大率(大宰の帥)であった。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
この地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の倭の範囲を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の倭地が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ湿地帯であり、交通の大動脈は肥国女王の與止日女命の名を受けた淀川であった。
奈良は交易路からはずれた辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された八咫の鏡などの三種の神器は、筑紫伊都が倭国の王都であったことを示している。

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