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漢委奴国王印 いわゆる金印part3
- 1 :東京:2019/05/06(月) 17:37:27.05 .net
- 有意義なスレですのでpart3をたてました。
- 888 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:27:15 .net
- >>887
まだ言ってるよw
委奴国は奴国を含む南北に細長い国。
>委奴国の北岸は博多湾沿岸、志賀島。金印出土。
>委奴国の南端はどこでもお好きにどうぞ。任せたw
- 889 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:28:34 .net
- 委奴国=奴国+南の国々
邪馬臺國=倭国=伊都+対馬海峡
- 890 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:34:53.83 .net
- >>888
福岡市、春日市を中心とした博多湾沿岸から宇土半島基部までの細長い倭奴国なら
倭国の極南界ではなく倭国の東部
- 891 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:35:51.92 .net
- >同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
その通り。
<1世紀>
委奴国の支配域=奴国+南の国々(甕棺墓領域の南端まで)
邪馬臺國=倭国の支配域=伊都+対馬海峡
<3世紀>
委奴国滅亡
邪馬臺國=倭国の支配域=甕棺墓領域全土
倭国の出発点は伊都。
次第に領土拡大して、最終的には、
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
- 892 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:39:00.81 .net
- >>890
東に不弥国、さらに渡海千余里もして漸く拘奴國と広がっている。
- 893 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:40:16.28 .net
- 奴国の東には巨大な豊国が広がっているぞ。
- 894 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:46:24.11 .net
- >>891
根拠が示されていない作り話
3世紀には甕棺墓領域というのはない
- 895 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:49:14.11 .net
- >>894
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
その通り。
<1世紀>
委奴国の支配域=奴国+南の国々(甕棺墓領域の南端まで)
邪馬臺國=倭国の支配域=伊都+対馬海峡
<3世紀>
委奴国滅亡
邪馬臺國=倭国の支配域=北部九州全域
倭国の出発点は伊都。
次第に領土拡大して、最終的には、
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
- 896 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:50:34.89 .net
- >>886
後漢書には伊都が出てこないね。
その文章を読むと、其大倭王居邪馬臺國は三十国の時にはもういたように読める。
てことは、
我々が伊都国と認識している国=早良平野+糸島平野は、
本来は邪馬臺國。
邪馬臺國が最終的に北部九州を統一したから、
その首都(旧邪馬臺國)の名前を付けるにあたり、
伊都と名付けた、のだろうね。
- 897 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:51:31 .net
- >>893
豊国は甕棺墓領域ではないので
また別の考古学的な根拠を示さなければならない
東に国があろうと福岡市、春日市が中心ならば倭奴国は倭国の極南界にはならない
- 898 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:53:36.12 .net
- >>897
>同時代ではなくて卑弥呼が共立された倭国の領域が後漢書の倭国
倭国に豊国を含んでいいだろう。
そして南北に細長い委奴国は倭国の極南界。
伊都国よりも東南と考えられていたし。
- 899 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:56:49.60 .net
- .
統属(読み)トウゾク
統制のもとに属すること。
統属とある以上、
伊都国は王も官も民も全てが
女王国の統制のもとに属する国あるいは植民地
倭人伝全体を読めば首都である可能性はゼロである。
妄想でしか語れない糸クズやキナチョンコ、泡チンコどもは低学歴の在日朝鮮人だから
これに一切の反論ができない=いつもの完敗が確定しただけのこと。
.
- 900 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:58:56.83 .net
- 狗奴国は魏志倭人伝に書かれた、南の敵対国。倭人か倭種か不明。
拘奴國は後漢書に書かれた、東の倭種国。不属だが敵対かどうか不明。
北部九州邪馬台国なら、
前者は免田式土器領域の熊本国家。
後者は四隅突出墓の日本海沿岸国家。
- 901 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 13:59:20.33 .net
- 狗邪韓国は魏志倭人伝に書かれた、倭地=九州の北岸、釜山しかない。
帯方郡から七千里
拘邪韓国は後漢書に書かれた、倭人支配域の北西、釜山より西。
楽浪郡から七千里
別物ですね。
- 902 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:00:49.49 .net
- >>895
糸島から宇土半島基部までの甕棺墓領域が倭国で
倭奴国の中心が博多湾沿岸〜春日市であったなら
倭国の極南界ではなくて寧ろ倭国北部になる
後漢書の極南界を完全に無視してしまっている
- 903 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:08:06.86 .net
- .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
- 904 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:15:12.27 .net
- .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
.
- 905 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:44:09 .net
- >>902
後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
- 906 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 14:57:48.08 .net
- 拘邪韓国な
- 907 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 15:40:49.54 .net
- >>905
倭在韓東南大海中だから倭国は島国
島国倭国の西北界の対馬海峡と接している韓の国が狗邪韓國
- 908 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 15:45:52.94 .net
- 末蘆→東南→伊都→東南→奴国→東→不弥
奴国が最南
そこから南は好きなだけ伸ばせばいいさ
- 909 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 16:36:39.46 .net
- >>907
半島側なので便宜的に韓国の名前だが、魏志倭人伝に書かれているので、実際にいるのは倭人。
- 910 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 16:52:25.44 .net
- >>909
倭国ではない韓国なので弁辰狗邪國を狗邪韓國と表記しているものと解される
渡海のため滞在する国であり女王國以北であるのに官名も戸数も記載されていないので
倭国の構成国ではないことは確か
- 911 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 17:08:01.06 .net
- すると末盧国も倭ではないということだな
- 912 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 17:16:43.63 .net
- >>910
ちっちゃな漁村程度だったんだろ。
でも韓伝でなく倭人伝に書かれていたのだから、そこにいたのは倭人。
- 913 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 17:18:27.38 .net
- 要するに倭とは対馬海峡の国であり、その南の端の福岡が栄えていた。
その周辺はそれほど見る価値もなく、事実上、倭奴国が倭(対馬海峡)の南端であった。
- 914 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 18:56:39.85 .net
- >>911
末盧国は戸数は書かれているが官名がないので原文もそうであったなら
まだ全域が倭国の統制下になっていない地域
日本の律令でも肥人は異人
- 915 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:00:36.80 .net
- >>912
ちっちゃな漁村程度という根拠はない
郡からの海岸水行歴韓国の行程が書かれているので
渡海前の歴韓国の最後の韓の国
- 916 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:03:17.02 .net
- 統制下にない国が往復ルートになってるのか、遣使も命がけやね
- 917 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:21:43.45 .net
- >>914
壱岐対馬に官がいて統制下に入っているのだから
その間の末蘆国も当然統制下に入っていただろう。
考古学的にも明らか。
末蘆国王家は桜馬場遺跡までで滅亡しており、
これも魏志倭人伝で末蘆国に官がいないのと対応している。
戦乱に巻き込まれて荒廃していたのだろう。
- 918 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:22:14.45 .net
- >>915
がんばるねえ、お隣の国のお方
- 919 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:22:14.75 .net
- >>916
末盧国は管理下にある津の漁の様子は書かれているが
陸路は草木茂盛行不見前人で整備されておらず
楽浪土器の出土は糸島の深江井牟田遺跡(3世紀前半が下限)から多種が出土しているので
志摩御床松原とともに深江、加布里までは水行が楽浪との交易ルートと考えられる
- 920 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:34:58 .net
- そういや深江で上陸してからの
県道49号線が倭人伝の里程ルートってのが話題になった時に、
キナイコシが
「昔は今と違って道はもっと直線的だったんだよ(だから49号線は無関係)」
と言っていつもの何でも否定してきた。
多少道が変わっていようが、大まかなルートとしての49号線って意味で
皆が議論している時に、
相変わらずズレてんなあ、やっぱキナイコシって狂ってるわと思った遠い春の日。
- 921 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:46:35.77 .net
- 糸島は糸島水道と呼ばれた東西の天然の津が交通に有用な土地
その中央の陸橋にあるのが志登支石墓群であり、糸島最古の前方後円墳の御道具山古墳であり
糸島唯一の式内社の志登神社
- 922 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 19:52:01.26 .net
- 伊都説でいうとその辺りが弥生最初期、倭国最初期からの聖地だったんだろうね。
白村江で大敗したから、ごっそり疎開。
- 923 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 20:30:52.12 .net
- >>917
>末蘆国王家は桜馬場遺跡までで滅亡しており、
はじめからそんなところに王なんていないんですよ。
- 924 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:18:40.63 .net
- .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
- 925 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:23:13.55 .net
- .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
.
- 926 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:25:13.42 .net
- >>923
考古学的にいた。
- 927 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:43:26 .net
- >>926
そうなの?
- 928 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 21:51:18.90 .net
- >>927
末蘆国は日本最古の稲作遺跡である菜畑遺跡に始まり、
宇木汲田遺跡から柏崎遺跡、桜馬場遺跡と途切れることなく王家が続いている。
そして末蘆国王家は伊都王家と密接に関係しており、同族と考えられる。
今後新たな王墓などが見つからなければ、
末蘆国王家は、桜馬場遺跡の栄華を最後に滅亡しており、
魏志倭人伝において末蘆国に官がいないことと関連していると思われる。
- 929 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 23:32:12 .net
- 狗奴国に滅ぼされたんだよ。
狗奴国が肥後→筑後→佐賀→末蘆→壱岐対馬と一時的に占領して、
後漢の有力者、曹操と接触。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手した。
免田式土器の出土分布も含めて、
それで矛盾なく全て説明がつく。
- 930 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 23:55:27 .net
- 狗奴国と言うよりは、肥国と言ったほうがいいかもしれない。
- 931 :日本@名無史さん:2020/06/21(日) 00:26:28.19 .net
- >>896
郷土愛に狂う糸 チヨンコを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、民族願望の塊であるキナチヨンコや泡チンコがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
無論だが、女王国は「九州」であり、平原古墳が卑弥呼の冢である可能性は低くない。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。
- 932 :日本@名無史さん:2020/06/21(日) 21:54:02 .net
- .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
.
- 933 :日本@名無史さん:2020/06/22(月) 13:58:23 .net
- .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
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- 934 :日本@名無史さん:2020/06/23(火) 21:24:04.61 .net
- 韓族村長は銅印ニダ<ヽ`∀´>
- 935 :日本@名無史さん:2020/06/24(水) 08:04:47.59 .net
- .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
.
- 936 :日本@名無史さん:2020/07/01(水) 12:17:46.71 .net
- 15: 2019/05/07(火)02:04 AAS
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國(朝鮮半島南岸)から倭奴国(九州北岸)まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
- 937 :日本@名無史さん:2020/07/08(水) 21:51:32.95 .net
- 開墾=収穫量UP
戦争=戦利品獲得!
ではない重労働
自国民に課したら不平不満が暴発
ということは、征服した毛人の反乱封じ?
- 938 :日本@名無史さん:2020/07/19(日) 23:41:14 .net
- マツラ国は佐世保市松浦だよな
- 939 :日本@名無史さん:2020/07/19(日) 23:52:13 .net
- >>938
まぁその辺で確定してるけど、たまに福津のキチガイ神社の自称社伝を悪用して捏造したがるんだよなぁ
- 940 :日本@名無史さん:2020/07/20(月) 13:56:22.10 .net
- .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
.
- 941 :日本@名無史さん:2020/07/21(火) 13:39:27.36 .net
- .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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- 942 :日本@名無史さん:2020/08/06(木) 17:40:28 .net
- なぜなんな場所から金印でたのか永遠の謎なんだろうね
日本史史上第一級の国宝
ロマンあるわ
- 943 :日本@名無史さん:2020/08/06(木) 19:06:08 .net
- 実は細石神社に伝世していた。
諸事情により、志賀島で見つかったことにして世に出した。
志賀島の発見地とされる巨石は今も分からず。
- 944 :日本@名無史さん:2020/08/06(木) 19:26:23 .net
- >>943
糸チョン説ウンザリだわ
- 945 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 00:57:13 .net
- 細石神社の話はとっくに終わってたと思ったんだが、いまだに謳う輩がいるんだな。
- 946 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 00:58:49 .net
- 志賀島にあったというなら、その巨石とやらを見せてくれ。
- 947 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 01:20:09 .net
- 巨石がなんか関係するのか?
- 948 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 01:49:24 .net
- >>545で解決してるじゃん
> そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもの
> そして現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した
>
> それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう
>
> 紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
> 建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
> (三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
> 天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
> 天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
> (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
> 寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
> 元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
> 元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
> (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
> 天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
> 文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
> (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
> 文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
> 明治5年(1872年) 村社
> 大正12年(1923年) 幣帛供進社
> (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)
>
> 古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
> 425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である
>
> 三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
> 傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
> まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である
>
> 結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない
- 949 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 14:24:11 .net
- .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
.
- 950 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 14:29:08 .net
- .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
- 951 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 18:27:46.17 .net
- >>948
それを認めたくない糸チョンコが巨石巨石と騒いでる
- 952 :日本@名無史さん:2020/08/08(土) 13:55:29.18 .net
- .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
.
- 953 :日本@名無史さん:2020/08/21(金) 21:49:08 .net
- 皿うどんをくえ
- 954 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 16:42:05 .net
- 九州民のみなさん
台風10号上陸において
くれぐれもお気をつけください
- 955 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 16:46:46 .net
- 邪馬台国が筑後川流域にあったなら、度重なる水害で遺跡が失われている可能性もある。
- 956 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 21:35:03.42 .net
- .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
.
- 957 :日本@名無史さん:2020/09/06(日) 21:59:34 .net
- 邪馬台国って邪馬・台国だよね
探すは臺国
じゃあ邪馬ってなんだろう
たぶん古墳の壁画の三角形の連続した絵じゃないかな
- 958 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:21:45 .net
- 志賀島から出てきたというのに志賀海神社のアズミ氏が金印の存在について知らなかった(伝えられていなかった)ことにはいろいろと考えさせられます。
金印は印として使われなくなった後も倭の国宝として、少なくとも倭王家の家宝として(三種の神器のように)大切に保管されていたのではないでしょうか。倭滅亡のときに敵に奪われないように隠したのかもしれません。それならいったいどうして志賀海神社のアズミ氏に預けなかったのでしょう。あるいはアズミ氏が預かり志賀海神社に保管していてそれが何者かによって盗まれるか紛失してしまうことになったのかもしれません。後者であればなぜそれが伝えられていないのか。
金印については本物か偽物かの論争が長い間されているようですが、私は金印が志賀島で見つかったということから金印そのものについてよりはむしろ志賀海神社について考えてしまいます。アズミ氏がよくいわれているような古代北部九州の有力豪族だったということに疑問をおぼえるようになりました。日本の初代天皇、天武天皇(新羅人)につかえた日本の古代豪族ではあったでしょう。ただし倭王(倭の天子)につかえた倭の豪族だったかどうか。はたして倭人なのかどうか、という疑いです。
アズミ氏は九州の土着の豪族といわれるけど、九州よりかは能登とか信濃とか本州に多い印象で、能登は海に面しているけど信濃に海はない。海人族みたいに信じられてきたことは本当でしょうか。記紀のような日本でつくられた伝説を無視して考えると高麗人のように思います。
そもそも魏志倭人伝とかに倭人が海の神とかをまつるために神社建てて神社に拝んでいたという記録ありますか?鬼道というまじないをやっていたとはあります。太陽や海や山や川や獣など自然のものを神聖視しあちこちに神社建ててそれをまつり拝んでいた民族といえば高句麗人じゃなかったですか?
壬申の乱で天武天皇を支えていたのは多くの高麗人でした。天武天皇自身は新羅人です。
- 959 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:23:22 .net
- 志賀島から出てきたというのに志賀海神社のアズミ氏が金印の存在について知らなかった(伝えられていなかった)ことにはいろいろと考えさせられます。
金印は印として使われなくなった後も倭の国宝として、少なくとも倭王家の家宝として(三種の神器のように)大切に保管されていたのではないでしょうか。倭滅亡のときに敵に奪われないように隠したのかもしれません。それならいったいどうして志賀海神社のアズミ氏に預けなかったのでしょう。あるいはアズミ氏が預かり志賀海神社に保管していてそれが何者かによって盗まれるか紛失してしまうことになったのかもしれません。後者であればなぜそれが伝えられていないのか。
金印については本物か偽物かの論争が長い間されているようですが、私は金印が志賀島で見つかったということから金印そのものについてよりはむしろ志賀海神社について考えてしまいます。アズミ氏がよくいわれているような古代北部九州の有力豪族だったということに疑問をおぼえるようになりました。日本の初代天皇、天武天皇(新羅人)につかえた日本の古代豪族ではあったでしょう。ただし倭王(倭の天子)につかえた倭の豪族だったかどうか。はたして倭人なのかどうか、という疑いです。
アズミ氏は九州の土着の豪族といわれるけど、九州よりかは能登とか信濃とか本州に多い印象で、能登は海に面しているけど信濃に海はない。海人族みたいに信じられてきたことは本当でしょうか。記紀のような日本でつくられた伝説を無視して考えると高麗人のように思います。
そもそも魏志倭人伝とかに倭人が海の神とかをまつるために神社建てて神社に拝んでいたという記録ありますか?鬼道というまじないをやっていたとはあります。太陽や海や山や川や獣など自然のものを神聖視しあちこちに神社建ててそれをまつり拝んでいた民族といえば高句麗人じゃなかったですか?
壬申の乱で天武天皇を支えていたのは多くの高麗人でした。天武天皇自身は新羅人です。
- 960 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:56:23.99 .net
- ∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l いつものチョン妄想
| |r┬-| | / < 不安でしょうがないから
\ ` ー'´ // いつもの連投で草www
/ __ /
(___) /
- 961 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:58:13.86 .net
- 筑前阿曇氏の拠点は"阿"曇郷、信濃阿曇氏の拠点は"安"曇郡、摂津阿曇氏の拠点は"安"曇江であり、阿曇氏、阿曇連の本貫地は同名の阿曇郷である(全国邪馬台国連絡協議会九州支部)
また、713年の好字令によって筑前本家と区別するために信濃阿曇と摂津阿曇は拠点を安曇とした(神歴研)
新撰姓氏録右京神別下、地祇
「安曇宿禰海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」 阿曇は綿積の子である穂高見の子孫であり、同様の記述は古事記上巻ニにもある
なお穂高見を氏神として祭るのは志賀海神社境内の今宮神社と信濃穂高神社のニ社のみ
新撰姓氏録摂津国神別
「安曇宿禰同祖綿積命六世孫小栲梨命之後也」 摂津阿曇は綿積の6世孫、小栲梨の子孫であり、小栲梨を祀る神社は皆無
先代先代旧事本紀の巻一、陰陽本紀
「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」 綿津見三神は阿曇連が斎(いつ)き祀(たてまつ)る志賀海神社の事である
志賀海神社=綿津見三神=阿曇連が斎祀する神であるにも関わらず、摂津に綿津見を祀る神社は存在しない
綿津見の娘、豊玉姫の子である阿曇磯良を祀る疣水磯良神社(摂津で唯一の海神由来の神社)が摂津にあるが、平安時代に天照御魂神社が招聘した(摂津名所図解と当社神職による)もので阿曇族とは無関係
摂津の阿曇連百足は安曇磯良(綿津見の娘の子)の九世孫を自称していることから筑前阿曇と信濃阿曇は男系(本流)であり、摂津阿曇は女系(傍流)と言える
また、綿津見=ワタスミ=海住み=アマスミ=阿曇の音変も十分に考慮でき、海住みにシンクロする川住み=住之江=住吉も綿津見三神と住吉三神の同時誕生にシンクロする
兄弟神である綿津見と住吉の本社はそれぞれ志賀海神社と筑前住吉神社である
摂津の住吉大社は住吉本社を自称しつつも総本社は筑前住吉神社(元宮は現人神社)であることを認めている
筑前本家説にこれだけの根拠がある一方で、摂津説に根拠は皆無である点を勘案すれば、自ずと阿曇の本貫地は筑前以外に有り得ないという結論に至るのが真摯な歴史学研究の姿勢である
- 962 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 01:58:43.35 .net
- 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江→尾張→伊勢→纏向
↓
宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
- 963 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:40:41 .net
- 台風大したことなくて草
- 964 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:42:47 .net
- >>961
後半は前に見覚えがあるな
- 965 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:45:51 .net
- うん、早く死ねばよいと思う
おまえバカだから
- 966 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 02:49:23 .net
- >>965
悔しがるなよチョンコロ
- 967 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:01:07 .net
- てめえそおなんか?
勝手に自分と同じだと思うのクセなわけ?
- 968 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:02:19 .net
- 頭わるげだな死ねばよいやん
初めから話通じないだろおまえむたいなバカ
- 969 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:12:52 .net
- 新羅の王を育てたのは瓠公という倭人。
『三国史記』卷一・新羅本紀第一・始祖赫居世三十八年(紀元前20年)条 : 瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公
新羅第4の王も日本出身の脱解尼師今。
【三国史記】脱解尼師今立、一云吐解。時年六十二、姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。
半島の王族には日本から渡った倭人がたくさんいました。
なぜ朝鮮人は歴史書に書いてる事の逆を妄想してるのか分かりませんね。
- 970 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 03:38:41.66 .net
- >>965>>968-968
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- 971 :日本@名無史さん:2020/09/07(月) 10:09:18 .net
- 倭人てもその人ら周の流れくむ連中らって中国書にあるんだよ
- 972 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 19:36:14.39 .net
- 金印は盗掘で見つけたんだろ
金属価値よりも学術的価値の方が圧倒的に高いので溶かして金塊として売るにはもったいない
しかし、学者や幕府に対して素直に盗掘で見つけましたと言うわけにもいかない
だからその辺の岩の下に埋まってたというストーリーをでっち上げた
- 973 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 19:55:58.34 .net
- 金印は細石神社にあったんだろ
しかし当時の情勢ではそのまま世に出すわけにはいかない
だからその辺の岩の下に埋まってたというストーリーをでっち上げた
- 974 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 20:28:39.40 .net
- 例の神社の関係者による盗掘のセンが最もあり得るケース
- 975 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 20:30:50.35 .net
- あ〜そっか
氏族神社⛩か
なら盗掘だわな
- 976 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 21:42:45.40 .net
- >>973
看破されたウソネタをしつこく連投しても恥の上塗りでしかないんだから諦めろよ糸チョン
- 977 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 22:12:03.46 .net
- .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
.
- 978 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 23:53:11.52 .net
- >>977
∩_
〈〈〈 ヽ
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| |r┬-| | / < 反日洗脳に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしwwwww
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- 979 :日本@名無史さん:2020/09/14(月) 23:54:05.45 .net
- >>973
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した
それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう
紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
(祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
(祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
(何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
(現宮司はこの時に神社庁から派遣された)
古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である
三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である
結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない
- 980 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 04:30:27.78 .net
- 神社がそんな古い時代にあるわけないじゃん
いつから時代が存在すると思ってんだよ
- 981 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 04:31:37.69 .net
- それを年代繰り上げ設定した連中らがいたとしたならそれは捏造と言うしか他ならん
- 982 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 07:05:57.14 .net
- 神社というのは、本来は王族の宮だった。
現在では神様と呼ばれているが、天皇家の祖先など王族そのものだ。
今でも、皇族は宮様とか呼ぶだろ?
古来から王族の呼称はその住まいの宮号で代用している。
仏教伝来で神社は宗教施設になった。
- 983 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 07:13:16.26 .net
- 記紀には神社の名前はあまり出てこない。
代わりにいくつもの王宮の名前が出てくるが、その多くが今では神社となっている。
- 984 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 09:51:02.09 .net
- いずれにしても細石神社は古田の妄想ネタでしかない
- 985 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 12:46:01.30 .net
- .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
.
- 986 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 13:09:48.52 .net
- >>985
∩_
〈〈〈 ヽ
____ 〈⊃ }
/⌒ ⌒\ | |
/( ●) (●)\ ! !
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\| l
| |r┬-| | / < 反日洗脳に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしwwwww
(___) /
- 987 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 19:42:05.81 .net
- 細石神社は三雲南小路遺跡の祭殿であり、その成立は三雲南小路遺跡と同じ紀元前後と考えられる。
特筆するべきは三種の神器や璧などの王権の象徴となる威信財が大量に副葬されていて、銅鏡の出土枚数は平原遺跡を抜いて弥生時代の最多記録を誇っている。
時代は倭奴国が漢から金印を拝領した頃であり、その金印は目と鼻の先の志賀島から出土したとされている。
すなわち、卑弥呼より前の漢の時代の倭王は糸島平野にいたことになる。
細石神社の社殿によると、その祭神は木花佐久夜姫だが、遺跡に葬られていたのは王と王妃であったことから、被葬者は天孫邇邇芸と木花佐久夜姫と考えられる。
その息子である彦火火出見は近くにある高祖山の高祖神社に祭られている。
これが卑弥呼の前の男王たちと考えると矛盾がない。
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