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漢委奴国王印 いわゆる金印part3

948 :日本@名無史さん:2020/08/07(金) 01:49:24 .net
>>545で解決してるじゃん

> そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもの
> そして現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した
>
> それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう
>
> 紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
> 建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
> (三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
> 天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
> 天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
>               (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
> 寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
> 元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
> 元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
>               (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
> 天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
> 文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
>              (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
> 文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
> 明治5年(1872年) 村社
> 大正12年(1923年) 幣帛供進社
>               (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)
>
> 古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
> 425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である
>
> 三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
> 傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
> まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である
>
> 結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

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