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漢委奴国王印 いわゆる金印part3

990 :日本@名無史さん:2020/09/15(火) 23:43:22.81 .net
>>988
>三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき

江戸時代はどこかの寺の門徒であることが義務付けられていた。
金龍寺は高祖神社と一体であり、その高祖神社(彦火々出見)が御祖宮と仰いだのが細石神社(木花咲耶姫)である。
よって、信仰を失っていた証拠とはならない。
神職がいなくても、地元の宗徒が祭りを続ける例は少なくない。
まして、戦国時代は同様に多くの伝統や風習、文化財が失われた時代であり、それをもって神社の歴史を否定することなどできない。

991 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 00:46:49.86 .net
>>990
それが流鏑馬だろ
古田の妄言「侍が持ち去った」を実証する根拠にはならないんじゃないか?

992 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 07:44:15.27 .net
>>988
>文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したと>?ころ三雲南小路遺跡を発見
>             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)

ここは関心を呼ぶ部分だ。
近所住民は、土壁の修繕にはここの土が良いことを知っており、長年にわたってあちこち掘り崩していたのだろう。
つまり、ここは版築盛り土されたもので、古代の墓だったのではないか。
それが採土を繰り返すうち、たまたま三苫清四郎が何かに突き当たった、と思ったら古いお宝だった。
・・・三苫清四郎が怪しい!

993 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 08:44:02.14 .net
だから古代の墓(三雲南小路遺跡)だと再三言っているだろ。

994 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 08:51:54.31 .net
で、次の問題だが、
此処が古代の墓地で、漢倭奴国王の印を出土したということは、ここは奴(那)の国の範囲内だったということになるのではないか?

995 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 11:31:03.79 .net
金海金氏の系図がネットで見つからないんだが日本軍にみな焼かれちまったのか?

996 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 12:21:29.55 .net
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(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


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997 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 12:26:28.98 .net
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


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998 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 12:57:27.65 .net
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(倭国大乱後の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおける三種の神器の一つである八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の中心は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘沿岸にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。

999 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 15:09:39.50 .net
そもそも細石神社に金印があったという情報は「古田史学の会」の四国会員である大政就平が古田に伝えたもので、現地調査した古田が地元民から「侍が持ち去った」という伝承を聞いたと『古田武彦が語る多元史観』に記載した

それでは細石神社(旧・佐々禮石社)について検証してみましょう

紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡が築造
建武中元2年(57年) 漢光武帝が倭国王に金印を下賜
(三雲南小路遺跡の祭祀施設が後に佐々禮石社になった可能性があり、高祖神社との由縁も確認できる)
天正年間(1573〜1586年) 戦火により社殿焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
              (祀る神も奉る神主も確認できなかったため神領とは認められなかった=断絶の証拠)
寛永年間(1624〜1645年)末 年貢逃れのために村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起が書かれる
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の記録を確認
              (祭日に流鏑馬行事が実施されていた様子)
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が自宅の土壁補修のために当地を掘り返したところ三雲南小路遺跡を発見
             (何の由縁も残らず藪と化していた証拠)
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社
              (現宮司はこの時に神社庁から派遣された)

古田が聞いたとする「侍が持ち去った」が事実ならば、神田没収前、おそらく社殿焼失の1586年前後と考えるのが妥当
425年も前の出来事を住人が記憶している可能性は皆無である

三雲の戸籍は金龍寺の元禄宗門人別帳に組み込まれており、信仰対象を失っているため曹洞宗に帰依していたと考えるべき
傍証として流鏑馬が神事ではなく祭日の行事としてしか残らなかったこと、三苫清四郎が社領であると認識していなかったことなどが挙げられる
まして現宮司は大正時代に神社庁から派遣された神職であるため、古田が宮司から伝承を聞いたということ自体が虚言である

結論: 細石神社の金印庇保管はネタであり、歴史学としての価値はない

1000 :日本@名無史さん:2020/09/16(水) 15:53:43.66 .net
【倭国】

弥生時代前期末に玄界灘沿岸に倭が成立して前漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王が冊封された。後漢書では、倭は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭が博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。

連合国家である倭の盟主は海神の故郷である筑紫であり、他に九州北部には豊国、肥国があった。本州の出雲、越などは倭の別種と書かれている。
博多湾岸を中心として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭の姿である。
その中で、大陸や半島との交易は博多湾沿岸勢力が独占していて、その支配機構が大率(大宰の帥)であった。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
この地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の倭の範囲を示している。
これに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の倭地が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ湿地帯であり、交通の大動脈は肥国女王の與止日女命の名を受けた淀川であった。
奈良は交易路からはずれた辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された八咫の鏡などの三種の神器は、筑紫伊都が倭国の王都であったことを示している。

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