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個人的日本史最大の謎 空白の4世紀 考察スレ

1 :さすらいのMount:2019/09/11(水) 17:23:03.07 .net
邪馬台国からどのようにヤマト朝廷になったか

邪馬台国の記述は女帝の台与が治めたところから消えていて、ヤマト朝廷の成り立ちも詳しく解っていない。

ここで俺が思っていることは

古事記に記載されている(飛鳥、奈良)以前の日本史は殆ど嘘なのでは?

中国の歴史書系統(魏志倭人伝など)のみが真実で日本が記載している歴史(特に古事記、日本書紀)は嘘八割だと思う。

つまり今の120ぐらい続く天皇も、それが本当の数なのかも不明だしヤマト朝廷(五人王、ヤマトタケル)も無かったのでは?

だからこそ四世紀は謎に包まれている。
おまいらの考察はどうだ?

2 :日本@名無史さん:2019/09/11(水) 18:35:00.88 .net
知らねーよ
2get

3 :日本@名無史さん:2019/09/11(水) 19:09:25.64 .net
ヤフー知恵袋で聞いた方が確実

4 :さすらいのMount:2019/09/11(水) 20:29:14.65 .net
>>3
一般人が知ってるわけないだろ😡

5 :日本@名無史さん:2019/09/11(水) 22:55:46.72 .net
マクロな話をしよう

4世紀は任那や半島を足掛かりとした鉄交易の主導権を握るため倭人(海人族)達が争い、統一王権を求めた時代だ。

弥生後期
日本列島の倭人は各地における稲作土地開発(国産み)を進める中で一種の限界点に達していた。
それらの要因は従来の開発技術の停滞による富の集積の不安定と災害や疫病に対する対応力の弱さなどである。

やがてこの状況を祭祀で納めようとした勢力と、中国からの技術(特に鉄)を持ち込む事で開発力軍事力の強化をもたらそうとする勢力が力を持ち始めた。

そうして元来海の民でありつつも弥生式稲作文化を踏襲した倭人勢力(海人族)は九州北部に集積し交易の利権確保に努めるようになる。
当時の伊都国と那国は交易品と文化が集積する当時の国際ターミナルであり各部族が交易拠点を設置した連合体の萌芽であった。
また九州北部中部ではその交易による富の蓄積において豪華な宝物を用いた祭祀が祀られ、女王による祭祀的権威を誇る文化が育った。

海人族たちは交易のために必要な宝物や資材を確保するため日本列島沿岸を拠点として各所の露天辰砂や黒曜石、瑪瑙、翡翠産地を確保し祭祀具や鉄と交換した。
それを各地の部族民に配布し開発技術と祭祀を伝えることでイニシアチブを握り各地を「祀ろわせ」る。
その中でも突出した祭祀的統率力をもつ天孫族が覇権を担ってゆく

こうした海人族の交易力開発力により、九州のみならず出雲、吉備、尾張、関東と拠点を広げることに成功したのが3世紀までの日本の状況だと考えられる。

発掘成果が見られにくいため大きく語られていないが、こういった海人時代とも言うべき大きな文化の変遷がアマテラスの伝説を生み、邪馬台国の伝説を生み、後のヤマト王権に繋がったのだろうと考えられるのである。

6 :日本@名無史さん:2019/09/12(木) 00:21:30.22 .net
終わり

7 :日本@名無史さん:2019/09/12(木) 03:08:28.09 .net
>>5
良い分析だな

↓はν速で見かけたものだが納得できた、3世紀の終わりか4世紀の初め頃に九州の海人族が鉄器とともにやってきて
畿内を制圧し西日本が大体まとまったんだな

> 193 :名無しさん@1周年 :2019/09/12(木) 01:57:50.69 ID:0YsjhZXt0
> >>191
> 三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
> この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
> http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
>
> そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
>
> このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
> そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
> ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
>
> 証明終わり

8 :日本@名無史さん:2019/09/13(金) 09:19:00.73 .net
>>1
奴国〜倭の五王、中国の属国だった歴史と
高天原の神の委任による天皇統治は矛盾する為
前者は消去されたんだよ

9 :日本@名無史さん:2019/09/13(金) 09:45:20.52 .net
すごいなスレ立て2日でFA出ちゃった

10 :日本@名無史さん:2019/09/13(金) 15:33:12.82 .net
いやむしろ基本だろ

11 :さすらいのMount:2019/09/13(金) 22:04:37.93 .net
>>5
文化とか日本の形態の流れは大雑把に言えばそう推測できるけど

権力いわゆる勢力の変化はやっぱり推測するのが難しい気がする

12 :さすらいのMount:2019/09/13(金) 22:06:36.71 .net
>>7
じゃなんてわざわざ山奥で住むにはあまりてきさない畿内に朝廷が移った?

はしはかには誰が埋まってるのか推測できる?

13 :さすらいのMount:2019/09/13(金) 22:08:53.97 .net
四世紀が謎なのは勢力の移り変わりが分からないとこじゃない?

なんでわざわざ奥地の大和が本拠地になったか、邪馬台国は何で消滅しているのか。

14 :日本@名無史さん:2019/09/13(金) 22:25:57.08 .net
>>12
津波対策じゃない?

15 :日本@名無史さん:2019/09/13(金) 22:55:39.11 .net
奈良は半島から見た場合に守勢的立地なんだよね

16 :さすらいのMount:2019/09/14(土) 10:04:45.13 .net
>>14
なら同じ九州の阿蘇とか由布でええやん。
それとも噴火が嫌だから移ったのかな

なら四国、中国も守りに適してるのたくさんあるよ 朝鮮式古城だってあるし。

畿内は城跡もないんやぞ?なら最初から畿内なのか?🤔

17 :さすらいのMount:2019/09/14(土) 10:05:52.02 .net
>>15
奈良だけじゃなくてもっといいとこあるでしょ

18 :日本@名無史さん:2019/09/14(土) 13:46:25.88 .net
>>16
噴火が嫌で九州から四国へ移動
白鳳地震の津波で四国壊滅して対岸の奈良へ遷都

吉野ケ里(佐賀)→吉野川(徳島)→吉野(奈良)
黒潮の流れに沿って名前も伝播

19 :日本@名無史さん:2019/09/14(土) 14:06:52.85 .net
>>13
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と

一枚目の地図の通り、三世紀の弥生終末期までには西日本の大部分は九州の海人族の手に落ちている
奈良盆地に鉄器が急速に普及する4世紀には盆地内まで海人族の支配が及んだ時代
そして西日本をほぼ統一した彼らはさらに東の東海、関東を支配するべく前線基地を奈良盆地に置いたのだろう

なぜ奈良盆地なのか?それは奈良盆地の土着勢力と戦った実感から
奈良盆地が西日本で一番最後まで頑強に抵抗した=防衛に最も適した場所
と考えたのではないかな
東を攻めるための基地なら中国四国より前線に近い奈良盆地のほうが適しているしね

20 :日本@名無史さん:2019/09/14(土) 15:54:56.09 .net
玄界灘を本拠地とする海人が東へどんどん勢力を伸ばしていったのが弥生後期〜古墳前期頃の出来事
そしてその勢力拡張は畿内に留まっていない
九州海人の権力の証である有鉤銅釧は畿内をはるかに飛び越して関東沿岸にまで分布している(下図の黒丸)
http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png

実はこの東方の有鉤銅釧出土地をよく見ると、ヤマトタケルの東征伝承の地と多く重なっている
草薙剣で火難を逃れた焼津、海上で波浪に遭って后が入水した横須賀、その后を思って過ごしたという木更津、
白い鹿を討ったという足柄峠付近など、これらがいずれも有鉤銅釧の出土地になっている
https://i.imgur.com/bdBE1QJ.jpg

つまり九州海人にとって畿内征服は最終目標ではなく、そのさらに東の地域を征服するための通過点に過ぎなかったわけだ
東海以東をも視野に入れていた彼らにとって、本拠地が九州のままでは遠すぎて指令を出すのに不都合だったため
四世紀初め頃に新たに手に入れた畿内に前線司令部を作ったのがヤマト政権の起こり
しかし東西に広い日本を広範囲に支配するには畿内のほうが地理的に好都合だったため、やがてそちらが中心となっていった

そして旧都の九州も古墳時代にはまだ旧狗奴国領域を含めて多量の財宝を所有しており豊かであった、完全に衰退するのは白村江の敗戦以降だろう
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif

21 :さすらいのMount:2019/09/14(土) 16:35:35.91 .net
>>18
何で100年で二度も本拠地移ったのかな?🤔
しかも徳島の吉野川周辺は遺跡発掘されてないし

剣山は怪しいけどやっぱり何回か大きい戦いとかあったんじゃないかな🤔

22 :さすらいのMount:2019/09/14(土) 16:39:06.63 .net
>>19
なるほど

だからヤマト朝廷ができたのか。

しかしその流れでいくと天皇の祖先が気になる

邪馬台国歴代の王は天皇であるか否か

23 :さすらいのMount:2019/09/14(土) 16:41:04.82 .net
>>20
大宰府設置から衰退したのかな

24 :日本@名無史さん:2019/09/14(土) 17:27:36.44 .net
>>20
ヤマトタケルが九州の海人族だったとは
驚きの発見じゃね?

25 :日本@名無史さん:2019/09/14(土) 18:58:40.76 .net
>>21
吉野川流域は遺跡だらけだよ、掘ってないだけで

26 :日本@名無史さん:2019/09/14(土) 19:07:59.58 .net
>>22
畿内へ移転する前に四国の期間があるんだよ
だから国生みは四国からはじまる

天皇の祖先も四国。イザナミ神社(式内社)があるのは四国だけ
倭(やまと)の冠ついた式内社も徳島の倭(やまと)大國魂神社のみ

27 :日本@名無史さん:2019/09/14(土) 19:18:19.51 .net
大嘗祭のあらたえは徳島の三木家が担当する
三種の御前も徳島が用意

大事な大嘗祭で奈良京都でなく徳島の服を着て徳島のものを食べる
徳島が天王の故郷だから

28 :日本@名無史さん:2019/09/15(日) 22:55:49.71 .net
伊勢神宮の天照が卑弥呼である可能性についてはどうだろう
豊受大神はトヨと符合し、3世紀から4世紀にかけて大和から伊勢に移動することの意味とか謎に満ちている

祭祀の象徴として大和に推戴されたがヤマト王権の確立で必要なくなったのか
大和の土地の原始信仰とは別の存在であることは言えると思うけど

29 :日本@名無史さん:2019/09/16(月) 12:07:53.17 .net
伊邪那美が四国なんだから天照も当然四国
阿波岐原の橘は、徳島の橘港のことだろう

豊受は別名オオゲツヒメ
オオゲツヒメは阿波の国神
豊受もまた阿波の人

伊勢神宮は徳島の伊勢神社が黒潮に乗って三重に遷移しただけ

30 :日本@名無史さん:2019/09/16(月) 15:05:17.83 .net
>>29
そう断定するなら根拠を解説して欲しい
新しい視点から根拠を提示するなら納得もできるかもしれない
僕の考えた四国王朝にはうんざりだ

31 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 02:03:25.93 .net
もともと九州発の覇権国家倭があり、近畿に起こった(もしくは四国から移動してきた)大和が同時期に存在していた。その後白村江の戦いでの倭の大敗というワンチャンスを活かし、大和が倭を併合した。

隋書にもこれにそう日本側の使者の発言がある。

32 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 02:11:29.01 .net
そしてその後、大和は倭の神話を簒奪し矛盾が生じない様近畿各地の地名を九州の神話の要所に合わせて改名した。
実際に7世紀末期には焚書が行われた記録がある。

33 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 02:34:50.67 .net


34 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 17:03:11.33 .net
>>24
初めから天津神(海人の王)を名乗っているし、移動はほぼ船だった。
陸に上がった途端に苦戦している。

35 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 17:04:12.60 .net
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

36 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 17:05:17.34 .net
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書)

37 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 18:59:37.96 .net
>>28
伊勢神宮は土着を滅ぼした後、土着の神が祟らないようにアマテラスで封じた神社だと思うよ
アマテラスの衣装が戦闘用だからね
祭られてるのは軍神アマテラスという事だ

38 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 20:10:04.46 .net
>>35
結構面白くて好き
なぜそこまで解る?というのも多いけど

39 :日本@名無史さん:2019/09/17(火) 20:22:26.95 .net
>>36
筑紫城と言われると想起するのは高良大社と神籠石
これらに関連性があればより具体的な説に進化しそう

40 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 08:07:01.31 .net
>>38
記紀に加えて、九州各地の神社の縁起に追加情報があるんだよ。
それらをまとめるとああなる。
るな氏のブログかがかなり参考になった。

41 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 08:20:21.47 .net
>>39
倭王の筑紫城がどこであったかは、倭王卑弥呼の邪馬台国がどこかとほぼ同義だろう。
古代史最大の謎だけど、本当に同じ城を使い続けたのかは疑問もある。
ただ、彦渚ウガヤフキアエズを含む日向三代の宮は、国内の史書では筑紫の日向の高千穂宮とある。
それはイザナギが禊をした筑紫の日向の小戸つまり福岡市西区の近くであるはず。
彦渚の父であるヒコホホデミ(山幸彦)が祭られているのが小戸のすぐ南側にある高祖山の高祖神社で、その西側の三雲南小路遺跡の細石神社はヒコホホデミの母である木花咲耶姫を祭る。
三雲南小路遺跡の被葬者は考古学的には三種の神器を持つ倭王で、その年代は金印をもらった頃になる。
ヒコホホデミの妃であった豊玉姫の実家は高祖山から見える志賀島の綿津見神社。
そして魏志倭人伝では玄界灘を支配していたのは高祖山の麓にある伊都国の大率。
全てが博多湾沿岸に収束する。

42 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 09:55:00.34 .net
倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 
在新羅東南大海中
依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通
其國 居無城郭 以木為柵 以草為屋
四面小島五十餘國 皆附屬焉
其王姓阿毎氏 置一大率 檢察諸國 皆畏附之

倭国は、古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、
新羅の東南、大海の中に在り。
山島に依りて居す。東西、五カ月の行、南北、三カ月の行なり



倭国は大海の中にある東西に長く南北に短い島
九州ではない

43 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 10:28:46.30 .net
時代によって違います

44 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 15:14:17.64 .net
190年から247年迄の筑紫女王国は独立国であり、
日本には九州を含む統一は無かった。

半島情勢として
BC100〜313年迄の半島の楽浪帯方郡時代を、記紀は知らない。
246年から313年迄の馬韓、辰韓は帯方郡が制圧し、王政を廃した直轄統治である。
本州における、BC200年からこの間の青銅器移入は釜山側、辰韓が主流だったかもしれない。

350年の百済新羅建国については、高句麗戦などで倭人がこれを後援しているのであって
三韓征伐と言うのは無く、どちらかと言えば、弁韓は倭人が植民地化していた。
倭人伝が、馬韓辰韓の南は倭とするのは、これを十分把握していなかったから。
400年迄には、日本への高句麗馬の移入、鉄の国内生産化は終わっている。

倭の五王時代400年〜500年については
中国史がリンクするが、漢名を名乗った王は、記紀とは一致しない。
この時代は中国語の文字が使えた訳で、王には古墳が残るのであり不明であれば
諸国の豪族による戦国時代的な国体で、世襲継続王朝ではなかった可能性が高い。

記紀の王統が直系の可能性が高まるのは、継体天皇からである。
隋書には、600年の王(聖徳太子)後宮有女六七百人 であるから
諸国の豪族は子女を送り、政争に利用したと思える。源氏物語の世界だ。
これは、ある程度の世襲王権だが、大化の改新となる。

45 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 15:32:13.57 .net
そのサイズの後宮なんて蘇我氏くらいしか持ってないんじゃない?

46 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 15:51:45.59 .net
サイズ的にそもそも奈良盆地にそんな大きな王宮は見つかっていない。

47 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 15:53:26.27 .net
聖徳太子が幼少時は馬子邸の五経博士や仏教僧を家庭教師にしていた。
これが、馬宿の皇子と揶揄された由縁だろうと思う。

その後、渡来人を使って寺院や宮を建設
600年の裴世清には、新造の斑鳩宮と法隆寺を見せた。
後宮もこの斑鳩の宮だと思う。

帰国後、裴世清は人も建築も中国の都と変わらないと証言した。

記紀についての話では、女帝の推古天皇と言うの迄が創作の疑惑がある。
もはや、全期間デタラメ説w
大化の改新の皇統の混乱を記紀で伏せるという理由も有ったかと思う。
この辺りは白村江海戦に向かう、開国派と攘夷派の争いも有ったはず。

48 :日本@名無史さん:2019/09/18(水) 17:29:19.29 .net
>>42
この当時の倭国は四国だな。
東西が5 南北が3の比率の島だろ?

49 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 09:50:50.92 .net
東西五月行 南北三月行 については
遣隋使の要請で来日した、裴世清が 大和を訪れた際の記録がソース

国の大きさについての記述だが、
東西五月行 南北三月行 各至於海 と記す書もあり
九州の南北が三月行 瀬戸内海が五月行 の意味と考えられる。
この時の日本の東の果ては、奈良の東の山までと見られている。

極めて出典の少ない、月行の単位だが
九州島南北3月行が、倭人伝の九州上陸後、陸行一月の2千里と一致する。

50 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 12:40:37.91 .net
当時瀬戸内海は未整備で使えないし
豊後水道を挟むならそのことも書くだろう
島内の移動だから海に至る、という表現になるわけだ

51 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 12:47:29.43 .net
そもそも関門海峡も通過できなかったらしいね。

52 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 15:09:24.60 .net
大和朝廷の成立期の推定だが
その瀬戸内海航路の安定が300年代であるという事と
倭人伝で筑紫の連立は247年以降という事なので、本州銅鐸が消えて古墳
250年〜300年で、瀬戸内海諸国の平定または連立は完了していたと推定できる。
もちろん筑紫が最後で247年筑紫平定でも良い。熊襲隼人はちょっと後。

黄海も渡った400年からの倭の五王時代の王が 
文字は有るのに記紀に比定困難なことから
世襲の確率はまだかもしれない。
地方豪族の中央進出と戦国武将の天下争いのような状態、
奈良平安の状況から武力より人質や姻戚関係の調略と思うが
この間の大王墓の集中する大阪湾周辺が中心地だった。

大倭王纏向説は公孫氏滅亡箕氏韓王朝滅亡を見て、
防衛上、首都機能が一時湾岸を離れたのではないか。
313年の楽浪帯方撤退以降、牛馬の移入の半島進出は進み、
350年百済、新羅建国で、400年代には甲斐、武蔵、上州方面にも
御牧の成立、前方後円墳に付随する高句麗墳墓も広がる。

記紀のデタラメっぷりに鑑みれば、古墳時代であって、
考古学が記紀に振り回されてる観は有るが
空白と言うほどのことは無い。

53 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 15:36:25.43 .net
>>52
>大倭王纏向説は公孫氏滅亡箕氏韓王朝滅亡を見て、

さっきまで247年と言っていたのに、辻褄が合わないのでは?

54 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 22:56:54.55 .net
>>53 ? 辻褄? が何か判らないが、
歴史は
238年が、楽浪帯方公孫氏陥落 公孫氏交流終了
246年が、箕氏韓王朝滅亡 馬韓辰韓の魏の直轄化

これを見てから、本州豪族勢から
筑紫の卑弥呼の魏外交が否定され
BC200年から本州側にもあった、青銅器輸入の道を再度開拓の必要、
及び九州防衛で、246年辺りで筑紫一大率設置に至った、が、歴史の必然だろ。
当然、公孫氏や韓王朝からこの対策に必要な軍師たり得る人材も来ている。

280年三国志統一の晋が 東夷では313年楽浪帯方撤退
高句麗が台頭で、倭を背景にした百済、新羅に押されてるだろ。
実際、高句麗は来歴は確認はできない高麗王まで、
楽浪候、幽州刺史であって、半島勢力じゃ無いし。

313年以降は、日本は急速な富国強兵、
古墳時代で半島利権外交の倭の五王で
文字も有り得るのに、大王墓なのに古墳の出自は闇。

記紀が嘘を創作している。
考古学の積み重ねは、しかしもう、今は判ってるだろ。

倭人伝卑弥呼は正しく読めば筑紫だし
日本海ルートや瀬戸内海出自豪族の排出した倭王は倭の五王で大阪湾だろ?
記紀を検証しても、世襲王朝は継体天皇以前は無理だね。

纏向は歴史上根拠のある一時的遷都であって 
畿内説って、何? 奈良は600年のちょっと前からだ。

55 :日本@名無史さん:2019/09/19(木) 23:16:02.93 .net
>>54
>246年が、箕氏韓王朝滅亡

魏志韓伝では、「將其左右宮人走入海,居韓地,自號韓王。其後?滅,」

とあるので、箕氏は起源前後には滅亡してるだろ

56 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 09:33:30.54 .net
>>54
>纏向は歴史上根拠のある一時的遷都であって 

都ですらなかったと思うよ。
宮はあっただろうけど、それは大和盆地内の政権であって、河内とすら絶縁状態だったんだろ?
尾張氏の出張所?

57 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 10:03:43.63 .net
宋書には倭王武が宋の天子に送った条章文が引用されている。
倭王武は第21代 雄略天皇(大泊瀬幼武尊)であるが、
東の55国、西の66国、北は、海を渡りて海北九十五國を
平定し国内統一を進めたことが述べられている。
魏志倭人伝と併せもつと東も西も北も海を隔てて国があることが分かる。
皆、倭種だと述べられている。唯一四国しか在り得ない

倭の五王は大阪湾でなく四国

58 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 10:34:36.07 .net
平安時代の和名抄によると
西海道(九州)の旧郡が96郡
筑紫国25郡、肥国25郡となっている。

三世紀からは相当時間が立っており
いくつかは合併したものとして
百余国は九州を指し、三十国は
筑紫か肥を指していると思われる。

59 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 10:38:09.93 .net
侯淮既僣號稱王 爲燕亡人衛満所攻奪 将其左右宮人走入海 居韓地自號韓王 其後絶滅

侯淮既僣號稱王 爲燕亡人衛満所攻奪 は、遼東で衛氏が箕氏を裏切って、追った。
将其左右宮人走入海 居韓地自號韓王 は、遼東の箕氏が韓に入り、王を称した。
其後絶滅 は 魏が制圧した 246年です。
これは、馬韓の歴史全部です。

そのうえで、韓伝は現在の 魏の直轄で、
王を廃し臣智以下を置いた現状を記述しています。

倭人伝、238年〜246年迄の韓は王政です。馬韓は10万戸。
238年に楽浪帯方を攻略した魏はこの間の韓を詳しく知りません。

倭人伝、240年の梯儁の行程
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
自郡至女王國 萬二千餘里

は、この状況下での記録です。
投馬國 可五萬餘戸 は 韓伝の246年以降の弁辰韓 5万戸の仮称です。

邪馬壹國 可七萬餘戸 も、
張政の行程、倭人船の寄港地名を里程で繋げた行程とは 直列し得ない国名であり
次有 ―列記21国― で構成する、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 
の小国、筑紫の女王国の仮称です。

正しく読めます。

60 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 10:54:35.44 .net
>>59
>其後絶滅 は 魏が制圧した 246年です。

韓伝では、さらに、「今韓人猶有奉其祭祀者。漢時〜」と続く
この「今」は魏代なので、箕氏絶滅はそれ以前なのは明白

景初中に滅ぼされた韓は別系統ということだね

61 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 11:15:09.70 .net
>>60
今韓人猶有奉其祭祀者 漢時屬楽浪郡四時朝謁

この今は、246年以降の魏の直轄で臣智以下を置いた今。
漢時屬楽浪郡四時朝謁 から 公孫氏の話

桓霊之末 韓濊彊盛 郡縣 不能制 民多流入 韓國 
建安中 公孫康 分屯 有縣以南 荒地爲 帯方郡 
遣公孫模 張敞等 収集遺民 興兵伐 韓濊 舊民稍出 是後 倭韓遂属帯方

で、魏が公孫氏を討った話に繋がっていきます。
景初中 明帝密遣帯方太守劉マ楽浪太守鮮于嗣 越海定二郡

それから、韓制圧戦245年勃発
部従事呉林 以楽浪本統韓國 分割辰韓八國 以與楽浪 吏譯轉有異同 
臣幘沾韓忿 攻帯方郡 崎離營 時太守弓遵 楽浪太守劉茂 興兵伐之 遵戦死 
二郡 遂滅韓
箕氏韓王は246年迄継続、絶滅は246年。

ちょっと、スレチだったかな?

62 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 11:27:38.42 .net
>>60
文章の内容をちゃんと考えましょうね

63 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 11:28:15.57 .net
間違えた

>>61
文章の内容をちゃんと考えましょうね

64 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 11:37:04.93 .net
宋書の倭王讃は仁徳天皇を指す

仁徳天皇は難波天皇と呼ばれるが、古代の香川には難波という地名があり
大阪よりもずっと古い
仁徳天皇は四国に居、讃から香川は讃岐という国名になった

讃と武が四国なんだから間の期間も当然四国

65 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 13:21:27.23 .net
本来の難波は九州周辺で最大の難所であった関門海峡

66 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 15:39:53.83 .net
愛媛にも難波

67 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 18:04:54.66 .net
稲荷山鉄剣が崇神の時代なら崇神が武だな

68 :日本@名無史さん:2019/09/20(金) 21:21:55.84 .net
崇神が祀らせた倭大國玉神
倭大國魂神社があるのは四国のみ
崇神が四国に居たのは明白
崇神の諡号はミマキイリヒコ
倭大國魂神社は徳島県美馬(ミマ)市に鎮座
こんな偶然ない

69 :日本@名無史さん:2019/09/21(土) 15:38:32.16 .net
>>57
>東の55国、西の66国、北は、海を渡りて海北九十五國

海北は朝鮮半島、 東55国は四国ということでこの視点は
東九州かな?

70 :日本@名無史さん:2019/09/21(土) 18:45:49.14 .net
九州ならば、なぜ当時四国に天皇の出入り業者である三木家が居るのかっていう

71 :日本@名無史さん:2019/09/22(日) 11:47:01.20 .net
あくまで倭王・武の父祖の時の話だよね?讃の時は四国を領土にしてたんだろ?
倭国は九州から領土を広げていったから不思議でも何でもない。

72 :日本@名無史さん:2019/09/23(月) 11:36:33.84 .net
>>69
東九州なら豊後水道のことも書くっしょ

73 :日本@名無史さん:2019/09/23(月) 11:39:16.09 .net
倭人伝によって250年以前は、諸豪族形成連携時代だったと考えられる。
本州には、銅鐸繋がりがかなり発達したが、軍事統一のような形ではなく
本州の記録は無いが、倭人伝筑紫地域に見るような領主連合で、
数万〜10万戸程度の国邑を形成した。
これは、馬が無い時代の連携可能性として、当然かと思う。

古墳時代には、軍事背景の統一化が見られる。
戦国時代とは違い戦争ではなく、姻戚関係形成などの戦国調略が主流と思う。
これは、倭の五御時代の巨大古墳は中央として
各地に似たような古墳が有ることからも信長的、軍事統一とは違う。
古墳にしても城のように、大きさで王が見分けらるものでもない。

この軍事統一形成の原因は、239年、倭人伝の魏の楽浪帯方攻略で
BC200年からの青銅器搬入地域に軍事介入が必要になったためと考えられる。
313年の楽浪帯方撤退以降馬の搬入は本格化し、広範な集権が可能になった。
豪族権力の固定化があり、世襲王権にはなっていないようだが
400年には、御牧が武蔵、上州、甲斐の及ぶ。中央王権の基礎は形成した。

記紀の皇統の世襲化は、古墳分布からも500年以降が絶対であって、
聖徳太子の600年付近と天智天武が一統であるならこの500年継体天皇からである。
古代史を皇統で語られる記紀に合わせれば、時系列である歴史が翻弄される。

出雲は神代として、九州からも安曇族の参入が想定可能だが
4世紀と言うより、瀬戸内海航路形成の200年前後の瀬戸内海諸国で
諸豪族の発生と連携辺りが記紀の都合で、空白になってるんじゃないのかな?
本スレみたいな、神話だか何だか? 状態www

74 :日本@名無史さん:2019/09/23(月) 12:09:40.66 .net
>>73
君の中ではな

75 :日本@名無史さん:2019/09/24(火) 11:32:37.41 .net
4世紀は景行天皇や仲哀天皇の時代だろ?
珍しく記紀が九州のことを沢山書いているから、空白でもなんでもない。
倭国とは筑紫のことという前提を認めないから空白になるだけ。
4世紀の筑紫倭国の中枢における出来事がこれ。

76 :日本@名無史さん:2019/09/24(火) 11:33:01.24 .net
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

77 :日本@名無史さん:2019/09/25(水) 16:50:05.00 .net
広開土王碑が有力な史料だな。朝鮮半島に出兵できるほど、大和政権が強大化していた。

78 :日本@名無史さん:2019/09/25(水) 16:55:35.92 .net
まだ同じ話をしているの?
本当に頭が悪いんだろうw

79 :日本@名無史さん:2019/09/25(水) 17:02:18.58 .net
浦島太郎、かっぱっぱーw

なぜか神武以前の話と同じだし、釣針が〜とか

80 :日本@名無史さん:2019/09/25(水) 17:42:43.26 .net
瀬戸内海諸国の連携と海軍の成立が無いと
大阪中心の古墳時代全盛になる4世紀〜5世紀が説明できない。

九州勢と考えられる安曇族の分散もこの250年以降からと見られるし
分散と言うのが、必ずしも反映ではなく信州開拓みたいのは配流で
大阪デビューは中央進出って形なのではないかな?

250年以降、九州が廃れるのも、つまりそういう事だ。
倭人伝一大卒が防人の先駆だったことは十分考えられる。

81 :日本@名無史さん:2019/09/25(水) 18:09:41.25 .net
半島進出の主体は筑紫だろ。

82 :日本@名無史さん:2019/09/25(水) 19:10:48.09 .net
300年以降、九州が最盛期を迎えるのだが

83 :日本@名無史さん:2019/10/01(火) 20:47:07.61 .net
>>80
筑紫にいた卑弥呼の死去により、各地が伸長したのだろう。
ただ、あくまでも王都は筑紫のまま。

84 :日本@名無史さん:2019/10/01(火) 22:31:28.85 .net
繁栄とか伸長とかの定義はなんなのよ?
まさか土盛りの大きさじゃなかろうな?

85 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 00:07:43.46 .net
うん?
筑紫の支配下に入り、その恩恵を預かれるようになったという意味だよ。

86 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 08:00:41.77 .net
中国の書く日本の歴史はいい加減なのになぜ魏志倭人伝の里数や方角を神典のように扱う人がいるんでしょうか?

明史 巻322 列伝第210 外国3 (1735年成立)

【原文】※一部の漢字は日本のものに置き換えた
日本故有王,其下稱關白者最尊,時以山城州渠信長為之。偶出獵,遇一人臥樹下,
驚起衝突,執而詰之。自言為平秀吉,薩摩州人之奴,雄健?捷,有口辯。
信長。之,令牧馬,名曰木下人。後漸用事,為信長畫策,奪並二十餘州,遂為攝津鎮守大將。
有參謀阿奇支者,得罪信長,命秀吉統兵討之。俄信長為其下明智所殺,秀吉方攻滅阿奇支,
聞變,與部將行長等乘勝還兵誅之,威名益振。尋廢信長三子,僭稱關白,盡有其衆,時為萬暦十四年

【日本語訳】
日本には昔から王がいて、その臣下では関白という者が最も偉い。
当時、山城州(京都)の頭である信長という者が関白だった。
ある日信長は猟に出かけた時、木の下で寝ている一人の男を見つけた。
男が驚いて跳び起きたので捕えて詰問すると、「平秀吉と申します。薩摩州の奴隷です」と答えた。
その男は雄健・敏捷でよく口が立ったため、信長はこれをおもしろがり、馬飼いにして「木下人」と名付けた。
秀吉はその後徐々に権力を握っていき、信長のために画策して二十州余りを征服し、遂に摂津鎮守大将となった。

信長の参謀に阿奇支(アケチ?)という者がいて、信長に対して罪を犯した。
信長は秀吉に阿奇支を討つように命じたが、突然部下の明智という者に殺された。
秀吉は阿奇支を攻め滅ぼした丁度その時、変のことを聞き、武将の行長らと共に兵を返して明智を誅した。
秀吉の威名は高まった。秀吉は信長の三子を廃し、関白を僭称し、信長の家来だったもの達を皆自分の部下とした。
万暦14年(1586年)のことである。


【まとめ】
・信長は関白だった
・秀吉は平氏で薩摩の奴隷だった
・明智光秀は二人いた

87 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 09:03:35.53 .net
崇神の時代には王都はもう四国に移っていたよ >>68

四国在住だったから景行天皇は道後温泉に行幸した

最も繁栄している都市と首都は一致すると限らない

88 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 10:14:20.29 .net
>>87
畿内にいても道後温泉ぐらい行くよ

89 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 16:15:36.07 .net
景行は九州にも宮を立てているけど?

90 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 17:32:12.64 .net
景行が神武の故郷に征伐行くわけない
九州と天皇は何の関係もない

91 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 17:36:01.89 .net
神武の故郷は筑紫。
筑紫の神夏磯姫とは共闘している。

92 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 17:45:38.84 .net
>>90
その通り。よく気づいた!

景行が征伐したのは筑紫以外の南九州だけ。
筑紫が母国だ。

93 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 18:29:24.37 .net
故地の日向にとどまりクマソを退治したのだ
褒美に日向から嫁をもらった

94 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 19:08:14.52 .net
景行は嫁だらけだろ。
女王だらけの国である九州で征服先の姫を全員嫁にした。
その結果が子女80人だ。

95 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 19:39:04.14 .net
そもそも天皇に九州出身の嫁が日向以外に何人いるのかね

4世紀前半とされる景行天皇。
熊襲が背いたので征伐に赴いたという建前だが、熊襲どころか九州は全く支配できていない。
ほうほうの体で日向にたどり着く。ただ日向入りはスムーズである。
ここ日向を拠点に熊襲を討った。
仕事が終わればとっとと帰れば良いのだが、日向で嫁をもらって6年過ごす。何をしていたかは書かれていない。

ここで問題の歌が詠まれる
倭(やまと)は国のまほろば、たたなづく青垣、山隠れる、倭しうるはし

A説 通説 望郷歌。帰りたいけど帰れない
B説 我が先祖の故地は何と素晴らしい所だという感慨・賛美の歌。南九州こそが倭(やまと)

当然B説なら倭国=九州、Aの通説もまるで天皇が防人のよう、日向の意向に抗えない畿内の
リーダーの姿にも見える。どちらにしても不思議な歌だが
熊襲が背いたからというのは建前で、実際は隣国と敵対した日向の派遣要請に辺境の友好国が
応じたと解釈することもできる。

96 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 19:52:59.76 .net
やっさんが地名が似てるってやってたじゃん
畿内と思ってる地名も実は九州だったかもしれん

97 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 20:59:45.42 .net
>>95
>熊襲が背いたからというのは建前で、実際は隣国と敵対した日向の派遣要請に辺境の友好国が

実際には筑紫の梟師とされた神夏磯姫の要請で筑紫周辺の敵を平らげたんだよ。
そして神夏磯姫は八咫の鏡などの三種の神器を持っていた。
彼女こそ、4世紀初頭の筑紫の倭王だよ。

98 :日本@名無史さん:2019/10/02(水) 21:44:11.46 .net
別に4世紀は空白でもないよ
神宮皇后の三韓征伐と倭の五王が宋に朝貢して
使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王に任ぜられたと
記紀や宋書や南斉書や好太王碑に見られる
朝鮮人が都合が悪いから空白空白と騒いでるだけに思えるよ

99 :日本@名無史さん:2019/10/12(土) 20:19:42.47 .net
ニニギと神武(イワレビコ)と崇神天皇は同一人物。

100 :日本@名無史さん:2019/10/12(土) 21:34:50.53 .net
そんなわけないだろ。

101 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 00:04:09.09 .net
>>100
イワレビコ(ニニギ)はニギハヤヒ(ニニギの兄)が大和に天降ったことを知り大和に向かう。

102 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 06:52:10.93 .net
兄弟ではなく、饒速日は大叔父

103 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 08:43:14.59 .net
>>102
記紀にはかなり嘘もある、その代表格が欠史八代

104 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 08:53:44.51 .net
話をすり替えるなよ。
欠史八代は、天皇家が大和におけるただの居候だったころの記録だから事績がないだけだろう。

105 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 10:37:02.22 .net
>>104
まさか皇暦2600年信じてないよね

106 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 13:16:02.55 .net
>>105
真っ当に逆算すると神武の年代は倭国大乱だろうねえ。

107 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 14:22:47.82 .net
倭国大乱は高良玉垂命とタカミムスビの争い、神武はずっと後

108 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 14:53:10.18 .net
少なくとも玉垂命の方が後だと思ったが?
倭国(九州北部)の王統は複雑だなあ。

109 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 20:58:04.15 .net
高良玉垂命は安曇磯良
倭国大乱までは伊都国の安曇が覇権を握っていた(だから安曇の祭祀の中心である志賀島から金印が出た)
大乱後は筑後山門の邪馬台国に覇権が移り伊都国は従属した

110 :日本@名無史さん:2019/10/13(日) 21:24:30.68 .net
金印は実は伊都国の細石神社が保管していたという噂ががが

111 :日本@名無史さん:2019/10/17(木) 00:29:41.85 .net
>>106
神武伝説の真偽は別として、
河内湾岸戦争の顛末は河内大湖の存在が前提となっていることから
古地理学の知見に照らすとこの条は遅くとも西暦二世紀までには成立した伝承であると云える。
また神武の武装船団の寄港地と弥生戦乱を示唆する高地性遺跡分布との不気味な重複もこの年代推定と矛盾しない。
様々な考古学成果の示す弥生戦乱が所謂「倭国大乱」と関連するのか否かは不明であるが、
前者は後者の時期(桓霊の間=二世紀後半)を包含しつつ遥かに長い年代に亘ったことは確かなようである。

従って神武伝説が二世紀辺りの時代背景の中に存在するという見方には十分な蓋然性があると認められる。

112 :日本@名無史さん:2019/10/17(木) 01:40:00.88 .net
河内湾のなれの果ての水域が完全消滅するのは江戸時代

113 :日本@名無史さん:2019/10/17(木) 03:40:10.52 .net
>>111
まーたそういう嘘を書く

593 :名無しさん@1周年 :2019/09/20(金) 21:28:49.57 ID:Sl67WudZ0
>>580
真っ赤なウソ
日本書紀の記述に合うのは、5世紀以降の地形だ

難波碕(大阪城のあたり)から河内湖に入れるのは、難波の堀江が掘削された5世紀以降に限られる
それ以前は、上町台地の大阪城あたりから砂州が現在の新大阪駅付近まで伸びていて、
難波碕からは河内湖に入れない

日本書紀の記述に合う地形が、5世紀以降いつまで続いていたかは不明だが、
奈良時代にも難波の堀江から大和川を遡上して奈良盆地まで行ってたこと、
平安時代になっても白肩津付近に大きな池があったことから
日本書紀が書かれた時点でも、同じような地形だったかもしれない
http://kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/intro/detail/rekishi/detail_p07.aspx

114 :日本@名無史さん:2019/10/17(木) 09:42:54.16 .net
>>113
>それ以前は、上町台地の大阪城あたりから砂州が現在の新大阪駅付近まで伸びていて、

砂州が伸びてくる前に神武がいたのでは?
2世紀頃の記録などないわけだから。
逆に、神武の記録は、年代は不明だとしても河内湾が大きく開けていた時代があったことを示すものなのかもしれない。
記紀の記録の一部は信用するが一部は採用しないというダブルスタンダードはいかがなものかと思う。

115 :日本@名無史さん:2019/10/18(金) 21:12:58.07 .net
>>114
>記紀の記録の一部は信用するが一部は採用しないというダブルスタンダードはいかがなものかと思う。
アホか
記紀には神武が紀元前660年に即位したとか明らかな嘘が混じっているのだから一部は採用しないのは当然
すべてを採用しているのはキチガイだけだぞw

116 :日本@名無史さん:2019/10/18(金) 21:12:58.41 .net
>>114
>記紀の記録の一部は信用するが一部は採用しないというダブルスタンダードはいかがなものかと思う。
アホか
記紀には神武が紀元前660年に即位したとか明らかな嘘が混じっているのだから一部は採用しないのは当然
すべてを採用しているのはキチガイだけだぞw

117 :日本@名無史さん:2019/10/18(金) 22:17:19.05 .net
>>116
神武の年代が前倒しされているだけだよ。
神武が2世紀になるように調整すればほぼ正しい。

118 :日本@名無史さん:2019/10/19(土) 20:50:16.43 .net
>>117
つまり一部は採用しないってことじゃん
ダブスタはお前じゃん

119 :日本@名無史さん:2019/10/22(火) 21:40:05.35 .net
神武=サメから生まれたサメ太郎

120 :日本@名無史さん:2019/11/05(火) 08:39:41.51 .net
https://i.imgur.com/hRNpZpI.jpg

121 :日本@名無史さん:2019/12/07(土) 13:23:07.69 .net
皇居でやってる大嘗宮の一般公開は明日12/8まで!
これ逃すと次の代替わりまで待たないといけない。
まだの人は早めに行って!

122 :日本@名無史さん:2019/12/11(水) 01:53:22.42 .net
日本の古代史の話になると
トンデモ話ばかりになって、うんざりする。

123 :日本@名無史さん:2019/12/11(水) 07:32:37.35 .net
どこがどうトンデモなの?
古代人から見た理解が現代人からは奇異に感じるだけでは?

124 :日本@名無史さん:2019/12/11(水) 12:28:36.42 .net
古史古伝はまぁ

125 :日本@名無史さん:2019/12/15(日) 01:10:08.54 .net
4世紀以前から空白だろ

ジャップ列島に歴史なんてないから もともとw

126 :日本@名無史さん:2019/12/15(日) 03:12:20.01 .net
属国大好きチョンコの歴史は外国文献>檀君神話で独立神話が負けちゃってるw

127 :日本@名無史さん:2019/12/15(日) 15:45:08.47 .net
中国の歴史書に出てくる倭って別に日本列島のことじゃないからな
ジャップが勘違いしてるだけの話だろw

128 :日本@名無史さん:2019/12/15(日) 16:37:24.53 .net
九州のことですね。

129 :日本@名無史さん:2019/12/15(日) 16:59:41.43 .net
倭の本拠が朝鮮半島から筑紫に遷都してきたのは6世紀初頭

「筑紫国那津に官家を造り、諸国の屯倉の穀を集積する。」

130 :日本@名無史さん:2019/12/15(日) 20:30:29.57 .net
三種の神器は紀元前から筑紫にある。

131 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 02:12:44.07 .net
邪馬台国(九州北部)→宮崎→神武東征→大和朝廷(近畿)

しかし九州に残った人間が邪馬台国の後継国家の倭国を作り
近畿の大和朝廷と二大政権で争った

倭国は磐井の乱で弱体化して白村江の戦いで倭国王サチヤマが唐に連行され
唐に従った大和朝廷が倭国を吸収し670年統一国家「日本」を始めた

132 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 08:25:28.39 .net
「倭」は卑弥呼以前から一貫して倭なんだよ。
そしてそれは九州北部のこと。
卑弥呼の前も卑弥呼の後も、倭は倭だ。

133 :日本@名無史さん:2019/12/23(月) 08:27:49.50 .net
宮崎は魏志倭人伝に投馬国として登場する。
宮崎県の妻または都万だ。
日向国一宮だ。
邪馬台国と狗奴国の対立の間で中立的だったように読めるね。

134 :日本@名無史さん:2019/12/24(火) 19:06:11.75 .net
ウソと断定しちゃうと次につながらないぞ。

まず、書かれた当時はそう信じられていた。あるいは政治的にそう主張したい意図がある。
これをウラ読みする必要がある。まして、すべてが記述されているわけではなく、
ごく一部を取り上げているだけ。

これから歴史を構築していかないと、チョンみたいになっちゃうぞ。

135 :日本@名無史さん:2019/12/24(火) 19:30:26.84 .net
まあ、記紀は嘘を書くというよりも、都合が悪いことを書かないというのが基本なんだろう。

136 :日本@名無史さん:2020/01/11(土) 03:21:32.49 .net
思いっきり嘘しか書いてない
アマテラスなんているわけねーじゃん

137 :日本@名無史さん:2020/01/11(土) 06:21:45.47 .net
日本書紀は元々中国史書のそれを真似て紀伝体になるはずの書だった

日本書紀の本紀部分は中華帝国人に執筆してもらった雄略記以降

雄略より「前」のそれは本紀の記述に入らなかった各氏族の伝承を列伝として
おまけにいれるはずだったもの

本来血筋はおろか時代もまったく脈絡の無い列伝部分を本紀の前に
持ってきて適当につなぎ合わせて時代順っぽくしたのが雄略より前の「紀」

138 :日本@名無史さん:2020/01/11(土) 07:03:50.24 .net
>>136
海洋王の和風(倭風)の表現

139 :日本@名無史さん:2020/01/11(土) 08:01:37.14 .net
日本の神話は天皇と豪族を家族にまとめるツール。

140 :日本@名無史さん:2020/01/11(土) 10:05:41.64 .net
ギリシャ神話と同じだな

141 :日本@名無史さん:2020/01/11(土) 14:37:47.08 .net
唐が列島を占領したときに「日本(百済)」に対し提出するように命じた資料が書紀
はじめに古事記をつくったがあまりにもラノベ調で話にならんということで作り直したもの

142 :日本@名無史さん:2020/01/11(土) 17:26:04.77 .net
天皇は後から他の豪族と区別されるようになった。

143 :日本@名無史さん:2020/01/13(月) 09:43:37.56 .net
天皇の支族源氏が鮮卑由来の故事なのも元々氏族制が鮮卑と共通するから。

144 :日本@名無史さん:2020/05/08(金) 20:16:40.76 .net
空白の起点としてる三世紀の邪馬台国が
既に日本列島のことじゃないわけで。

145 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 08:56:06.25 .net


3世紀は空白ではないということなのだが…

146 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 09:15:42.12 .net
>>141
唐が列島を占領したなんて朝鮮キチの思考やね(笑)

147 :日本@名無史さん:2020/05/10(日) 11:06:41.91 .net
敗戦国じゃん

148 :日本@名無史さん:2020/05/15(金) 00:57:25.63 .net
出雲は奴國
魏の後ろ盾の金印の蛇
で大蛇伝説の始まり。

149 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 11:48:30.71 .net
クヌは国主の意
狗奴国は出雲

150 :日本@名無史さん:2020/06/20(土) 12:30:16.51 .net
>>149
そんな日本語はない。

151 :日本@名無史さん:2020/06/22(月) 17:23:13.27 .net
日本人は禿げだからコロナになりにくい

152 :日本@名無史さん:2020/07/25(土) 17:21:11.84 .net
アベコロナ

153 :日本@名無史さん:2020/08/23(日) 17:51:10.85 .net
吉村いらっしゃい観戦で大阪民国の土人ヒーハー

154 :日本@名無史さん:2020/09/04(金) 16:48:11.35 .net
安倍ちょんキムチ食い過ぎで腹痛

155 :日本@名無史さん:2020/09/05(土) 11:44:13.43 .net
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
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  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   半日教育に侵された
  |     |r┬-|       |  / < 哀れな朝鮮ヒトモドキ
  \     ` ー'´     //       の卑しい醜態www
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  (___)      /

156 :日本@名無史さん:2020/10/30(金) 18:52:39.76 .net
非国民の安倍チョンが辞任

157 :日本@名無史さん:2020/11/14(土) 16:27:41.29 .net
               ∩_
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  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   反日教育に侵された
  |     |r┬-|       |  / < 哀れな朝鮮ヒトモドキ
  \     ` ー'´     //       の卑しい醜態www
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  (___)      /

158 :日本@名無史さん:2020/11/14(土) 17:07:44.00 .net
×空白の4世紀
○4世紀以前はまったく何もわからない

記紀執筆当時日本列島土着の豪族の共通の伝承としてあったのが
伝説の大王オオハツセ通称雄略

だから日本書紀はオオハツセ伝承がもともとの第一巻
それ「以前」の紀のはそもそもそのような系譜伝承などまったく存在しない
史書としてはまったくの紛い物

ただしオオハツセが何年前の人物なのか
当時の人間はわからない

氏族同士の融合・離散やらで伝承の改変があり
記紀の時代に残る各氏族の伝承からそれぞれむりやり逆算すると
オオハツセの生きた時代はてんでばらばら

このへんだろうとあたりを付けそのあとのよくわからない時代は
これも時代がわからない伝承で穴埋めして
文字として記録が残っていたアメクニヨシハル通称欽明以降の系譜に接続させた

159 :日本@名無史さん:2021/02/02(火) 22:30:55.01 .net
おてもやん「恵方巻きの馬鹿喰い祭りでアベコロナが拡散してきよったで
お・も・ち」

160 :日本@名無史さん:2021/02/03(水) 03:30:08.53 .net
               ∩_
              〈〈〈 ヽ
      ____   〈⊃  }
     /⌒  ⌒\   |   |
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  / :::::⌒(__人__)⌒:::::\|   l   反日教育に侵された
  |     |r┬-|       |  / < 哀れな朝鮮ヒトモドキ
  \     ` ー'´     //       の卑しい醜態www
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  (___)      /

161 :日本@名無史さん:2021/04/02(金) 00:00:52.40 .net
大阪でマンボウだよ全員集合

162 :日本@名無史さん:2022/05/06(金) 03:33:37.99 .net
>>1
「空白の4世紀」は九州の倭国が近畿の「日の本」国を滅ぼして乗っ取った時代

神武東征で大阪の盾津の戦いでナガスネヒコを破り背乗りしたのだよ

ずばり日本の国名の元になる「日下(くさか)」という地名が大阪にある

中国の歴史書にも「倭国が日本を乗っ取り日本と名乗った」とある

163 :日本@名無史さん:2023/06/06(火) 14:30:58.46 ID:z5HVr6dp1
クソ航空機に生活や仕事を妨害されたら‥アプリ「ADS-B Unfiltered Plane Tracker』で登録記號を確認、証拠としてスクショも残しつつ
https://jasearch.info/aircraft_hist.html
↑ここて゛検索して所有者(使用者)を特定したら.ク゛ク゛って電話番號を確認.この地球破壞私権侵害強盗殺人テ□リストにクレ━ムを入れよう!
例えば,登録記號『JA119G」は氣侯変動させて災害連発させて人を殺してるマッチポンプテ囗組織「東京消防庁.03-3212-2111」た゛と分かる
最近スマホのパケづまりか゛酷いが航空無線の広大なプラチナ帯域によってネット帯域か゛不足してるのが原因.クソ航空関係者に年1ΟΟ兆円
課税するとともに帯域を明け渡させよう!言うまでもなく四六時中猥褻がらみで逮捕されながら威力業務妨害へリ飛ばしまくって望遠カメラで
女風呂のそ゛き見しながらク゛ルク゛ル騒音まき散らして住民イラヰラ犯罪惹起してる税金泥棒クソポリ公へリ,特に他県にまて゛大騷音まき散らし
てる警視庁「JA1?MP」なと゛惡質だが,テ囗政府を徹底非難するとともに,傷害や威力業務妨害として告訴して.私権侵害テ口を止めさせよう!

創価学会員は,何百万人も殺傷して損害を与えて私腹を肥やし続けて逮捕者まで出てる世界最惡の殺人腐敗組織公明党を
池田センセ一か゛口をきけて容認するとか本氣で思ってるとしたら侮辱にもほどか゛あるぞ!
hтТρs://i.imgur.сom/hnli1ga.jpeg

164 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/06(火) 21:45:29.39 ID:LBh+DUO4G
のっ取った古文献などない。イカサマ・半島アマよ。デタラメいうな。

165 :太国という人間の過ち:2023/06/07(水) 07:48:02.94 ID:EBA6DwP3Q
古事記も日本書紀もインチキだよ。

166 :日本@名無史さん:2023/06/07(水) 13:47:42.62 ID:XKl1S5j+r
「空白の4世紀」は中国史書のこの時期に日本に関する記述がないことを言った表現だが、
最近ではこれを「日本の4世紀の謎」の意味で使うようになってきている。
この「日本の4世紀の謎」を解明するための核心は、4世紀後半に集中して造営された佐紀西側古墳群の精査にある。

この古墳群の存在は、纏向王権から別の王権に王権が移ったことを示すものだとする考えがみられる。
そうなると、応神の勢力がクーデターまがいに潰した王権はこの佐紀王権であり、王権は纏向→佐紀→河内へと3王権の変遷があったことになってくる。
さらに、これに継体政権を別王権の始まりとする考えもあることから、3世紀から6世紀までに4王権が次々と成立していたということになるのだ。

こうした王権の推移を考えるについては、これまでほとんど手が付けられていない4世紀後半の佐紀西側古墳群についての精査がとにかく必要になるわけだ。
「4世紀の空白」とは、まさに「佐紀西側古墳群の謎」を表す言葉だと言っても過言ではない。

167 :日本@名無史さん:2023/06/07(水) 16:30:46.46 ID:XKl1S5j+r
このように、4世紀後半の佐紀西側古墳群が一つの王権の古墳群だとすれば、
百済王から倭王に贈られた七支刀には「369年」に造られたと考えられる銘が刻まれているので、
百済王からその刀が倭王に贈られたのは、その369年の直後ということになり、ちょうど4世紀後半のこととなる。

そうすると、この刀が贈られた倭王は、佐紀西側古墳群のいずれかの古墳に葬られた人物だったことになるのだ。
そして、この古墳群が纏向古墳群の王権の次に成立した別王権であったとすれば、百済王はその佐紀王権の王に刀を贈ったことになってくる。
箸墓古墳から応神天皇陵古墳まで王墓級の墳墓はちょうど11基あり、1王当たり在位期間10年説に従えば、
箸墓から応神陵まで(3世紀後半前葉〜5世紀初頭)の約100年間の11古墳11王とぴったり重なるわけだ。
日本書紀は、この約100年間に在位した天皇は崇神、垂仁、景行、成務、仲哀の5
天皇しか挙げていない。
あとの6基の古墳に葬られた6王はどこに行ってしまったのかということになってくる。
真相は、書記編纂室がこの6王を完璧に消し去ったと考えるのが最も合理的だ。
なぜ消し去ったのかということについては、消し去るのが都合よかったからだろう。
消し去った理由は、まさに「4世紀の空白の謎」の中に秘められているのだ。

168 :日本@名無史さん:2023/06/07(水) 16:36:05.05 ID:XKl1S5j+r
>>167
訂正
9行目の「崇神、垂仁、景行、成務、仲哀の5天皇」は、「崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神の6天皇」が正しい。
11行目の「6基」「6王」は、「5基」「5王」が正しい。

169 :日本@名無史さん:2023/06/07(水) 18:24:48.21 ID:XKl1S5j+r
この佐紀王権の4基4王は辰韓(新羅)と強くつながっていた可能性もあり、佐紀王権が辰韓(新羅)と強くつながっていたとすれば、
辰韓(新羅)は高句麗とともに前秦に朝貢していたので、佐紀王権も前秦に朝貢した可能性は残る。
そうすれば、中国史書としては五胡十六国時代の華北のちゃんとした史書はないので、佐紀王権の前秦への朝貢はいずこにも記述されなかったということになる。
これが、倭国に関する中国史書の「空白」の真実かも知れない。

一方、河内王権は馬韓(百済)とともに南朝宋に朝貢したから、河内王権成立にはどうも辰韓(新羅)派の佐紀王権との確執が関わっていた可能性を想定することができそうだ。
そして、河内王権が樹立されると、中国史書には倭国の記述が現われてきて、中国史書における「倭国の空白」が解消されるのである。
こうした流れをみても、倭国の「4世紀の空白の謎」と佐紀西側古墳群の存在は密接に関連しているとすることができそうなのだ。

この佐紀西側古墳群を探ることが4世紀の倭国の謎の解明につながるのは、まず間違いないことだろう。

170 :日本@名無史さん:2023/06/07(水) 19:45:00.17 ID:XKl1S5j+r
高句麗と新羅が一緒に朝貢した前秦は394年に後秦によって滅ぶが、この時期と佐紀王権最後の王墓の築造が同じ頃であり、
また、応神政権が王権を握る時期とも一致している。
なので、東晋と百済のラインにつながる河内・大和などの勢力が前秦の後ろ盾を失った佐紀王権に対してクーデターを起こして王権を奪取し、
新たな王権のシャーマン王に応神を戴いて新王権を樹立したのが応神王権だったとするストーリーが可能になる。

171 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/07(水) 21:00:00.23 ID:WnBEdEF27
詐欺王権なんかねえ。イカサマだ。

172 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/07(水) 21:28:59.48 ID:WnBEdEF27
完全なんかできるはずがねえ。記紀から独立している古史古伝にもそんな記述はない。
消し去ったというのは、おめえーの論が成立しねえからだ。それで消去したという論を熱象するわけだ。
消去でなくて詐欺王権なんかねえんだよ。
そこでこの半島アマが出したのが、石上神宮の七支刀の「候王」だ。
こいつは半島に日本支配の屈辱を晴らすため。日本の皇統に詐欺王権とかいう朝鮮王がいて朝鮮人が日本を主導していて
日本が朝鮮に支配されていたという偽史を遠回しに作り言いたい考えかその動機だ。
候王は仲哀天皇だ。半島人王ではない。
神国日本は黄金の国ジパングたる金メダル国家であって、かたやこいつと朝鮮人は銅メダル国家であって、
だから世界中にあのブスの銅像を造る癖があるのだ。北朝鮮も銅像造りが得意で、よくアフリカあたりから工作を依頼される。
秘密を徹底して保持したとかいってたが、ならば七支刀の「候王」の文字なんか残さず熔解して
消し、残すはずがねえ。

173 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 04:29:16.83 ID:bxALIMGpI
算木ばら撒きトンデモ占い師の言うことは、信じてはいけない。
4世紀には、倭人はまだまともに漢字が読めない。
侯王という漢字を読めるのは、書紀の渡来人だけ。
その意味を倭王に伝えたら殺されるかも知れんのに、侯王の意味など翻訳するわけがねー。
ありがたい贈り物ですくらいの翻訳しかせんよ。
あほちゃう。

それに、仲哀なんか即位早々に熊襲反乱で九州へ行って、神の怒りに触れて九州で頓死してしまったくらいだから、
七支刀なんか貰う暇はなかった。
そもそも、仲哀は九州で急死した女帝斉明天皇をモデルにして、それを男に裏返して創出された天皇だから、七支刀なんかを手にすることなんぞ金輪際ねーのよ。
応神の直前に設定されたのが仲哀だから、設定された在位時期は4世紀末頃になる。
七支刀が百済王から贈られたのは369年の直後だから、仲哀在位よりも20年くらいも前のことだ。

369年直後頃に造られた大王墓は、佐紀西側古墳の成務天皇陵古墳か日酢葉姫陵古墳しかねーのよ。
この事実をどうすんだよ、ボケー!!!!!

174 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/08(木) 16:58:02.16 ID:cU+AAAytp
古文献に詐欺王権があったという証拠は無い。
これでは古代史竿裁判所が証拠がないとして朝廷に無罪判決が出る。
詐欺王権の証拠だ。
証拠がねえから、おめーの負けだ。
同裁判所で証拠を出してみいといわれてねえならおめーの負けだ。ww
古代史裁判所の弁論で詐欺王権のあった証拠(文証)はどこにもねえ。
唯一七支刀の「候王」がそれだというなら。徹底してあったという秘密を保持して隠し、どこにも
もれなかったという弁論をいうとなれば、そんな刀の候王の文字も徹底して隠し熔解し消し去ること
となる。ww 証拠がねえのに徹底して隠したという朝廷のどこのだれ兵衛が証拠隠滅したという捜査で
証拠を出さねばならねえが、それも架空の弁論だけでなんの証拠も出てこねえ。うははは・・・
おめーの無証拠でに負け判決。bbb
記紀にも証拠(文証)がねえし古史古伝にも証拠がねえ、全国津々浦々の史跡にも伝承(現証)がねえ。
証拠がねえから証拠無しでオメーの負け。候王は仲哀天皇そのお方だ。

175 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/08(木) 20:52:41.36 ID:8rQdcSgjr
証拠がねえのに信じてはいけねえ。
半島アマの熱象。
仁徳天皇陵を造った古代人が文字の読めねえわけがねえ。
おめー直線幾何学を使って古代史を論じていて、古代人が計算できねえとかもらしていたが、
数計測をするのに文字は確実に読めてる。インチキ朝鮮工作員がおめーの正体。

176 :日本@名無史さん:2023/06/09(金) 01:05:51.71 ID:xTlKJDWys
理系の事を算段するのと、文系の外交上の文字を読むことを、同列にするなよな。
この時期は、やっとさ漢字が入って来るかどうかの頃。
まじないと祭祀で暮らすシャーマン王が漢字を読めると思うほうがどうかしている。
渡来人の書記くらいだろう、漢字読めたのは。

177 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/11(日) 19:51:54.35 ID:6GrGBb7p4
朝鮮人アマ工作員よ

黄銅(半島人)と黄金(日本人)と銅劣にしたいのがおめのーのいかれた考えだ。

エジプトのピラミッドだって綿密な計算で構築したものだ。畿内の仁徳陵文字計算ができたのだよ。

おめーのいい分は九州の連中さ。畿内の天皇國とは額が違う。直線幾何学を出して無計算の字が読めねえとは
いかれた不合理だ。w

理系の化学は真鍮(女真人)と黄金(日本人)とが別の近族であると鑑定する。
天孫降臨以来日神誕生時まで、世界のご本家神国日本の天孫民族は純金民族であって、銅級の半島人らとは銅劣
ではない。だから真鍮(女真人)と純金(日本人)とは同じではなく別の近族であって、別だということが記の
国生みに教示されている。

筑紫国 白日別
豊国  豊日別
肥国  建日向日豊久士比泥別
熊曾国 建日別

として、各々「別」の字で別だと教示している。日ユ同祖論も成立せず別祖であることがこの国生みの
「別」字からわかるのだ。同様に日朝同祖論も成立しないのは「別」の字の重みが教えている。
砂金たるナガスネヒコが女真人(真鍮)でないことはこの重みから歴然としている。オメーの合金説は
デタラメであって成立しない。まずその根拠がない。資料証拠も出さず、おめーの脳内のイカレた思考を
いうだけであって、女真人が日本にいたことにはならない。合金は明治大正の時代ころからであって、
それまで天帝の鎖国神策によって女真人は神州に侵入できない。朝鮮オンナよ、おめーは銅だと思い知り、うんと泣け。

178 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/11(日) 19:54:49.81 ID:6GrGBb7p4
×額が違う
〇学が違う

179 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/11(日) 21:16:14.40 ID:6GrGBb7p4
それゆえに神国日本は黄金の国tる全世界の別格の国家であって、正に萬邦無比を誇るのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=MEYBMpk4ZUM

180 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/06/11(日) 21:41:13.78 ID:6GrGBb7p4
https://www.youtube.com/watch?v=DGw_50OnNJ8

181 :日本@名無史さん:2023/07/13(木) 08:12:48.04 .net
それ壬申の乱だろ

182 :日本@名無史さん:2023/07/13(木) 10:35:25.61 .net
宋書にある倭王武の上表文を読めば書いてあるだろ
なんであれを無視するんだ

183 :日本@名無史さん:2023/07/13(木) 12:01:05.92 .net
倭人伝の記述を歴史と認めるなら
記紀の時代背景で、九州は統一されていない。
また、漢四郡が有った313年以前には日本は半島進出していない。

ただし百済新羅が成立する370年七支刀迄の半島進出が無ければ
日本への牛馬の移入と、鉄の国内生産は成立しない。

広開土王碑の高句麗戦は歴史だし、
国内の400年辺りで、甲斐や武蔵上州に御牧が進出している。
これらに、前方後円墳に伴う高句麗墳墓が付随する事から
半島進出、牛馬の移入の主体は大和朝廷で、
渡来した高句麗人が活躍した事も間違いない。

倭の五王は、半島利権と350年代に
幽州刺史楽浪候になった対高句麗交戦権の交渉だが
高句麗戦で百済新羅を後援して建国してから
後に白村江で対馬国境を確定した際の成立が記紀だ。

日清日露戦争で、台湾、朝鮮を領有し、満州を建国し
敗戦を迎えた日本は、世界と海外進出の歴史の真実
を語るのが、単に嫌なんじゃないかな?

184 :日本@名無史さん:2023/07/13(木) 12:48:39.30 .net
マジレスすると
欠史8代の頃が空白の4世紀の時代

185 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 13:47:42.82 .net
書紀では、崇神から仲哀まで天皇は5人しかおらん。
一方、王級墳墓は箸墓から神功皇后陵古墳まで計10基ある。
普通に考えたら、書紀は天皇の人数を5人漏らしていることになる。
書紀の天皇数がオカシイとするのが、当たり前ということやな。

186 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 00:55:42.08 .net
天皇以外も王級墳墓を造ったということだろう。

187 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 06:01:14.56 .net
崇神から仲哀までの実年代は、3世紀後半から4世紀後半までのおよそ100年間だと思うけど、100年間で天皇5人だと1天皇当たりの在位期間は20年くらいになる。
天皇在位期間平均10年説からすると、在位期間20年は長すぎる。
在位期間10年説に合わせた場合、この期間に天皇は10人ほどいた計算になる。
そうすると、日本書紀の崇神から仲哀までの天皇5人のほかに、あと5人くらいの天皇がいたことになるけどね。

188 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 06:03:53.55 .net
>>0168
王でもないのに王と張り合うほどの墳墓つくったら、即、磔やろな。

189 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 07:10:58.92 .net
>>1
邪馬台国はどんな国ですか?

190 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 10:00:51.32 .net
>>188
国力浪費するために命令されてたかも試練

191 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 11:05:03.78 .net
天皇在位期間なんて親子相続と兄弟相続で違うだろ。
10年とか20年とか決めつけないほうがいいよ。

192 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 12:30:35.69 .net
一人が50年位やったらそれだけで残り4人で50年になるからな

193 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 13:33:44.26 .net
313年以降、半島進出は本格化する訳だけれど
卑弥呼の後250〜300年までに、船と海軍用意して
瀬戸内海から九州北部を統一していないといけない訳で
これ以降は、応神時代になるけれど、
その前の統一期の核心が神功皇后時代で、
どうしようもない、デタラメなんだよね。
応神で、大和朝廷が成立してるとは思うけど?

194 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 15:17:41.78 .net
>>191
兄弟相続でも、平均在位期間はにたようなもの。
それに、兄弟といつても、今みたいに2、3歳違いがほとんどということはないし。
母親が違えば、兄弟の年齢差は親子ほど違うケースも普通。

195 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 15:24:03.30 .net
実年代としては、崇神から仲哀まではおよそ100年間とするのが通説。
その100年間に天皇が5人しかいなかったとするのが日本書紀。
これは、あり得んな。
10人くらいの天皇がいたのが実際やろ。
この10人ほどの天皇と大王級の墳墓が10基あるのとは、完全にマッチする。
書紀の5人の天皇のほかにも5人程度の天皇がいたとするのが佐紀王権説やが、この佐紀王権の時期が七支刀が百済から贈られた時期に重なるわけ。
書紀は、この佐紀王権を完全に消去した記述になっている。

196 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 16:10:57.55 .net
>これは、あり得んな。

ワロタw

197 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 19:35:14.59 .net
七支刀が百済王から倭王に贈られたのが369年頃。
この頃に築造された大王級墳墓は、佐紀西側古墳群の中にある。
だから、佐紀西側古墳群がその当時の倭王権の墳墓だったことになる。
一方、箸墓、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山、崇神天皇陵、景行天皇陵の大和古墳群は3世紀後半から4世紀前半のものとされているので、七支刀を貰った倭王の墓はこの大和古墳群の中にはないことになる。
しかも、大和古墳群の6基の王級墓は書紀の崇神、垂仁、景行、成務にぴったり重なっているわけではないし、4世紀中頃からの佐紀西側古墳群の時期と重なる仲哀天皇とその4基の王級墳墓がぴったり重なるわけでもない。
こうしたことから、七支刀をもらった倭王らの存在は、書紀にはまったく挙げられていないことになるわけなのよ。

この説がおかしいと言うなら、書紀の崇神、垂仁、景行、成務の4天皇の陵墓がどれか比定を試みてみるとよい。

198 :日本@名無史さん:2023/07/17(月) 19:38:09.39 .net
まだ九州にいたんでしょ。
でかいのは全部東の倭種が西の大王達を称えて作らされたどでかいの。

199 :日本@名無史さん:2023/07/18(火) 03:54:41.12 .net
七支刀をもらった倭王が崇神、垂仁、景行、成務のいずれかだったら、書紀はどや顔でその記事を書いてるはず。
しかし、書紀が書いているのは神功皇后紀52年の「七枝刀、七子鏡…を献る」であり、古事記は応神天皇紀で「上横刀及大鏡を貢ぐ」と書いていて、これらの記事の実年代はいずれも4世紀末頃のことになる。
そして、実際に百済王から七支刀が贈られたのは369年頃であるから、それは神功皇后や応神天皇の時代よりも20年ほど以前のことになるのだ。
書紀や古事記は、実際に刀が贈られた時期である佐紀西側古墳群の時代を歴史から排除していたので、そのためにそれよりも20年ほど後の時代に贈られたと時期をずらして書述することにしたわけだ。
つまり、書紀や古事記は、刀を贈られたその倭王の時代は佐紀西側古墳群の時代だった、とは書けなかったということなのだ。
佐紀西側古墳群の王権を完璧に消去して存在しないものとしたために、七支刀の贈与がその時代にあったとは書けなかったということだ。

そういうわけで、崇神天皇から仲哀天皇までの期間に、歴史的に実在した天皇は10人ほどだったというのが真実なのだよ。

200 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2023/07/21(金) 21:21:48.83 ID:GGxz8psIn
>>195
詐欺王権なんかねえ。あったというなら証拠を出すんだな。
紀が消去、隠したという論は間違い。紀に載ってねえということは、おめーの話がおめーの創作だということよ。なんの証拠もねえんだろ?

201 :日本@名無史さん:2023/07/18(火) 08:27:50.95 .net
邪馬台国も倭も定義は人それぞれ。
ワケわからん

202 :日本@名無史さん:2023/07/18(火) 13:41:11.21 .net
まあ、空白の四世紀の実態は、実は佐紀王権の時代だったということだな。
そして、その佐紀王権の墳墓群は残ったが、実際の歴史は書紀が抹消したので、まったく伝わっていないということなのよ。
もちろん、その王たちも、書紀にはまったく記載されていない。

203 :日本@名無史さん:2023/07/18(火) 14:03:18.54 .net
空白の4世紀、それ以前もわかっていない

204 :日本@名無史さん:2023/07/19(水) 17:19:51.74 .net
書紀編纂室は、応神天皇の時代以前のことは「関係ねーし」と言ってるようなもんだし、しかも、その応神天皇の直前の時代についても、「見ない、聞かない、言わない、で行くからね」と無視を決め込んでいるしね。

205 :日本@名無史さん:2023/07/19(水) 17:39:27.19 .net
武力支配の世の中、権力者同士の殺す、殺されるの争いもあっただろう。
聖徳太子は血を断つため家族は殺されたようだし、人の繋がりがズタズタ。
伝承する事も無く、他人の事は知らないのだろう。
都合が悪いので記紀に書かないこともあるだろうが、知らないので書けない事も多かったのではと考える。

206 :日本@名無史さん:2023/08/07(月) 18:03:55.44 .net
日本の佐紀王権は4世紀中頃から始まっているが、半島でもやはり4世紀中頃が体制の変わり目のようだ。
そして、日本のこの4世紀中頃から4世紀末頃までが日本書紀ではまったくの空白となっているようだ。
日本書紀は、佐紀王権のこの時代を故意にすっぽり削除し、応神王権をその前の纏向王権につなぐように操作している。
佐紀王権潰しを表沙汰にしたくなかったと考えるのが合理的だな。

207 :日本@名無史さん:2023/08/11(金) 03:09:59.09 .net
なんでそういうことになったのかと考えると、日本書紀が編纂されたころは天照大神から稲穂を受けた天孫が地上に降りてその皇統が連綿と続いて公地公民制の国になったとする政治的神話が作られたように、王朝に断絶はないとすることが唐王朝に対する優位性の証明となっていた。
そのために、奈良時代の王権は応神天皇が始発であったものの、これをさらに神武まで王権を遡らさなければならなくなった。
別王権であった佐紀王権を潰したことを書くと、天照から奈良時代まで続く皇統はあっという間に瓦解してしまう。
そこで、この佐紀王権を歴史的に無き者にして、その前の纏向王権に応神の血をつないでしまったのが「仲哀天皇の子・応神天皇」なのである。
このように、そもそもが天照大神を頂点とする政治神話でもって、王土王民理念・公地公民制の正当性を確立しようとしたところに全ての原因がある。
まあ、そういうわけで、大和には王級墳墓が10基あるのに、その時期の天皇は5人しかいないという首を傾げる話になってくるのだな。
ただ、その代わり、古代史の謎はいよいよ深まって行くという大ロマンが、いよいよ盛り上がってくるのだね。

208 :日本@名無史さん:2023/08/13(日) 04:39:28.62 ID:/IxYG9Zp8
つまり、古代史の新しいフロンティアは、「王朝交代の動乱史」という歴史視点なのだ。
そして、この王朝交代史観は、九州の倭国の興亡にまで及ぶ。
もちろん、出雲の没落もそうした史観から見なければならない。
日本の古代史は、日本独特の王朝交代の動乱史なのである。

209 :日本@名無史さん:2023/08/14(月) 02:49:49.60 .net
4世紀の空白の大きな部分が、この佐紀王権の時期なのだと言える。
佐紀王権は4世紀中頃から始まるとされるが、この時期は半島南部でも中小の国の体制が劇的に変わった時期でもあるようだ。
半島南部と日本とは、同じ流れの中にあったと言えるのではないか。
佐紀王権の成立はその半島の政治状況と密接に関連していた、と見るのがよさそうだ。


210 :日本@名無史さん:2023/08/15(火) 21:30:54.28 ID:okimpOLno
佐紀王権は木津川などの内陸水系の勢力と日本海沿岸の勢力を背景として生まれたが、この水系の勢力は加羅の鉄を確保するために新羅の前身の勢力と結び、その新羅の前身の勢力は高句麗、前秦などと結んでいた。
交易路となった宗像の沖ノ島での祭祀が始まることになる。
一方、瀬戸内海から対馬海峡の水系の勢力や小伽耶の勢力と結んでいたのは、旧纏向王権の中の河内や葛城、摂津、吉備などの勢力で、彼らは百済、東晋と結んでいたのである。
このように、4世紀中頃に成立した佐紀王権は、内部に大きな緊張を抱えた王権だった。

そこに、高句麗に勝利した百済が勢力伸長を計って、高句麗に連なる新羅の前身の勢力と佐紀王権に友好(よしみ)を通じようとした。
新羅の前身の勢力に臣従を求め、佐紀王権には百済から七支刀などが贈られた。
新羅の前身の勢力と結ぶ佐紀王権は、その新羅の前身の勢力と百済との間で股裂き状態に陥り、河内や葛城などの反新羅勢力は王権に対していよいよ緊張を増すこととなった。

しかし、その後、百済は高句麗に敗退することとなり、勢いを大きく減じたことから、百済は河内や葛城などの勢力のバックアップを求めるようになる。
こうして、東晋→百済→河内・葛城などのラインと前秦→高句麗→新羅→佐紀王権のラインの緊張は、マックスへと高まって行くこととなった。
そして4世紀末頃、この緊張関係は爆発し、河内・葛城などの勢力による佐紀王権へのクーデターが勃発して、佐紀王権はあっけなく潰え、新しく成立した応神王権は百済支援に全力を注いで、新羅・高句麗に果敢に戦いを仕掛ける流れに突入して行くのである。
応神王権による加羅からの鉄素材などの輸入には、当然、瀬戸内海や北部九州、対馬海峡の水系の勢力が関与することとなり、宗像の沖ノ島祭祀は佐紀王権から応神王権の手に移り、宗像の勢力はやがて対馬海峡の海運を牛耳るようになる。

日本の4世紀後半の空白の真の姿は、基本的にこのような国際情勢にからんだ王権の交代劇だったのである。

211 :日本@名無史さん:2023/08/14(月) 10:46:42.82 .net
天照が追い出されて放浪していた時だろ

212 :日本@名無史さん:2023/08/17(木) 03:21:56.66 .net
よく分からんが、アマテラスは持統の頃に作られた神じゃなかったっけ。

213 :日本@名無史さん:2023/08/17(木) 17:27:25.12 .net
佐紀王権が成立した4世紀中頃には、まだアマテラスはいなかったのとちゃうか。
おったのは、日の神やと思うけどな。

214 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 19:52:55.17 ID:QyOlJ9pKF
そもそも、アマテラスの漂泊は、豊受神の伊勢遷座と関連がある。
豊受神は、同じ丹後地方のトヨウカノメ神と同一とする見方あり、丹後の籠神社で祀られている豊受神は本来は漂泊神の神性を持っていたと思われる。
この漂泊する神の神性を持つ豊受神が伊勢で祀られていた日神に依りついてたことで、日神にも漂泊譚が付加されることとなり、大和で祀られていた日神が伊勢に遷座されたことの理由としてその漂泊譚が語られるようになったということだろう。
日神に豊受神が依りついたのは、天皇の食事を担当する膳氏の企てであり、膳氏が若狭に領地を持っていたときに丹後の豊受神を知ったのだろう。
その後、志摩に天皇の御食地が設けられるようになると、膳氏はこの志摩にも関係を持つようになり、伊勢に祀られる日神に豊受神を依りつかせて、日神と豊受神が志摩の海産物の生育を見守るような仕組みを作り上げたのだと思われる。
なので、日神が大和から伊勢へ漂泊するという漂泊譚は、この豊受神が日神に依りついたころに付加されたものだよ。
その時期は書紀では雄略天皇のときだとされているが、志摩が天皇の御食地として関係ができるのはもっと後のことではないか。
まあ、要するに、日神が伊勢へと漂泊するのは、5世紀中頃〜6世紀の初め頃のことだろうね。

215 :日本@名無史さん:2023/08/20(日) 01:30:56.71 ID:iwI9QsKXb
膳氏の祖先は天村雲で天村雲の母が豊受神です。

216 :日本@名無史さん:2023/08/21(月) 00:47:26.09 ID:LDWUp+EK9
忌部氏や伊勢諸氏族が天村雲命を祖としているとする説は見られるが、膳氏の祖は天村雲命であるとするものは見られないようだ。
膳氏は安倍氏と同祖で、大彦命につながる氏族とされている。
ただ、安倍氏は物部氏と関連があるようなので、物部氏の祖の饒速日の孫が天村雲命とされることからすると、膳氏が祖先を天村雲命としているということはどこかで物部氏との関連が混じっているのかも知れない。

一方、海部氏系図では、饒速日の子の天香山命と天火明命の娘の穂屋姫命の間に天村雲命が生まれたことになっており、天村雲の母が豊受姫とする説はどうも見当たらない。
ただ、物部氏は饒速日と天火明命を祖神に取り込んでいることから、豊受姫命を祀っていた海部氏の祖神の天明命との関連で、天火明命の娘の穂屋姫命を豊受姫命と同一とみなしたということがあるのかも知れない。

いずれにしても、豊受神が伊勢で祀られるようになったことには、若狭に領地を持ったことがあって志摩の御食にも関係した膳氏がおおいに関係したと思うね。
そして、そのような神の遷座は膳氏だけで可能であったとは思われず、大族であった物部氏が関与していた可能性も高いと思われる。
あるいは、物部氏が天火明命を自族の祖に取り込んだことと豊受姫命の伊勢遷座は関連のあることだったのかも知れない。

217 :日本@名無史さん:2023/08/22(火) 14:11:02.10 ID:a+ubb00SK
天村雲の孫の笠水彦は若狭国造の祖と言われている。
若狭国造と膳氏は同祖であるから天村雲は膳氏の祖先である。
笠水彦の笠はウケと読み豊受大神のウケからきているといわれている。

天村雲の母は穂屋姫=玉依姫=豊受大神であるが根拠となる資料が
わからなくなり示せません。
豊受大神の出自はいろいろ言われているが、ホツマツタヱでは
豊受大神の4世孫が天村雲となっている。

218 :日本@名無史さん:2023/08/22(火) 21:25:35.59 ID:qNUCMTSu6
笠水彦の笠水はウケミズ(宇介美都)と読むことは、丹後風土記に出ているようだ。
この笠(ウケ)の発音のウケはトヨウカノメ命のウカと同じで、食物を指す言葉だとされている。
このウカ(食物)は遼河系のフィンランド語のukko(ウッコ)と同系の語彙で、ukko(ウッコ)は天空や天気、また穀物など農作物(収穫物)の神の名であるので、ウカ(食物)とukko(ウッコ=収穫物の神)は語義と発音ともにまったく同じ系統の語彙だといえる。
3万年前頃にアルタイ山脈南麓あたりで遼河祖語と縄文祖語の間でこの語彙の交換があったことが考えられる。

そして、フィンランド語のこのukko(ウッコ=収穫物)を基にしたukkonen(ウッコネン)は雷雨を意味する言葉であることからすると、ukko(天空、天気、収穫物)には元々雷に伴う雨水の意があるように見える。
そこで、笠水彦(カサミズヒコ)の漢字における語意を探って見ると、笠(カサ)の漢字の発音はリュウであり、和語のリュウの発音は龍(リュウ)と同じであるので、笠水(カサミズ=リュウスイ))とは龍水(リュウスイ)を表している可能性が高くなる。
龍は雷神であるので、笠水(カサミズ=リュウスイ=龍水)とは雷雨を表している言葉だと見るのがよいだろう。

ここで、もう一度、ウケ、ウカの言葉に戻ると、食物を表すこの言葉は、淵源としては食物を育てる水に関わる言葉だとする説が見られるので、豊受比売命の豊受(トヨウケ)とは豊かな水という語義が考えられる。
豊受命と関連するのが真名井であるので、豊受とはやはり食物を育てる豊かな水というのが原義だとすることができる。
この豊受の受(ウケ、ウカ)の原義が水を表すものであることは、フィンランド語のukko(ウッコ)がやはり語源的には雷雨の水を表すのと同じであり、非常に古い言葉だということが分かる。

このようにウケ、ウカの言葉が水につながる言葉であることを見ると、真名井→豊受比売命→天村雲→笠水彦の系譜は真名井に発する神水の権利保持者を表している系譜だみなすことが可能だ。
そして、その真名井の神水が流れ込む海の海産物はその権利保持者の領有するものであると示しているということだろう。
つまり、その海産物の権利保持者とは真名井を祀る海部氏だ、とこの系譜は言っていることになる。

膳氏は若狭に領地を持った頃に、この真名井の権利保持者の系譜に食い込んだのではないだろうか。

219 :日本@名無史さん:2023/08/26(土) 15:10:24.97 ID:TJMRv+6mH
豊受(トヨウケ)のウケは語源的には「水(雷雨)」を表す言葉で、それがその雷雨の水によって育まれた農作物、海産物の意へと変化し、やがて伊勢の日神に食物を供えるために遷座された豊受比売命の神性となるわけだ。
このことから、海部氏系譜の天村雲が表している語意は「龍神(雷)が発生させる大量の雨雲」であり、笠水彦は「龍神のその雨雲が地上に降らす雨(水)」の意ということが分かる。
したがって、海部氏の系図の豊受姫の原初的な語意は「雷雨による豊かな神水」ということになる。
そして、その神水が溜まるところが山上の真名井ということだ。

こうしたことから、豊受の神、トヨウカノメの神が食物の神とされるのは、その雷神の水から変性した第二段階の神性であることが分かる。
伊勢の日神の下に遷座されて日神に食事を供することになる豊受比売命とは、この第二段階の神性を備えた神だということだ。
そして、丹後で祀られ続けている豊受比売命は、第一段階の雷神の水の神である可能性が非常に高いと言えるのである。

220 :日本@名無史さん:2023/08/27(日) 15:53:55.90 ID:RrGJs16+7
この第二段階の食物の神としての豊受比売命の伊勢遷座を推進したのが、若狭に領地を持って海部氏に食い込んだ膳氏とその後援者である物部氏だったとするわけである。
物部氏が始祖神に天火明命を加上していることは海部氏と尾張氏を抱き込んだことを示しており、伊勢への豊受比売命の遷座によって膳氏とともに天皇を抱え込む政略だったことが推測される。
そして、伊勢-尾張-若狭・丹後へと連なる山系は西国と東国を扼する最重要ラインであり、ここを牛耳った物部氏は大和王権の生命線を左右できる強力な立場を手中にしたということが言える。
それを象徴するのが、伊勢の日神の下に遷座された丹後の豊受比売命なのである。

221 :日本@名無史さん:2023/08/29(火) 13:51:54.04 ID:i/tBkz3nw
膳氏が丹後に近い若狭に領地を持っていたときに知ったと考えるよりも、
先祖なんだから口伝でわかっていたと思いますよ。

222 :日本@名無史さん:2023/08/30(水) 21:17:19.41 ID:lQRrOyHTk
膳氏が若狭国造に任じられて赴任したところは、律令時代になって国府が置かれた今の小浜市遠敷だったと思われる。
この小浜の遠敷には若狭姫神社があり、豊玉姫命が祀られている。
東大寺の二月堂の祭事では、この若狭姫神社からお水が届けられる。
なので、豊玉姫は水の神様としての神性があったことが分かる。

この若狭姫神社を奉斎してきたのが笠氏で、この笠氏の笠と海部氏の系譜にみられる笠水彦命の笠が同じなのが注目される。
若狭湾の海域を領有したのは、海部氏と笠氏だったことが推測され、この両氏の祖先の天村雲と笠水彦で系譜上で同族とされたのだと思われる。
海部氏が祀る豊受比売命は水の神様であり、笠氏の祀る豊玉姫命も水の神性を持つとみられるので、この豊受比売と豊玉姫が同一に見られるようになったのではないか。

膳氏は若狭国造として小浜の遠敷に赴任して、在地の笠氏と関係が生じたことは容易に推測できる。
その結果、笠氏を介する関係性から膳氏と海部氏は同族であるとする関連が生じ、海部氏の祖の天村雲を膳氏も祖とするという伝承が生まれたのではないだろうか。
そして、笠氏の祭神の豊玉姫と海部氏の祭神の豊受比売が同一視されたことから、膳氏も豊受比売と関係があるとする通念が生まれた可能性がある。

このように、膳氏と海部氏の関係の間には、若狭の笠氏が介在したと思われるね。

223 :日本@名無史さん:2023/09/01(金) 12:12:54.51 ID:tlyVWht2A
膳氏の祖である笠水彦は笠氏の祖である当芸利彦に殺されている。
両者がそのような関係になるとは思われないね。

224 :日本@名無史さん:2023/09/01(金) 14:21:35.15 ID:WoR10wG+h
笠水彦を丹後国風土記にみえる陸耳御笠に同定しているようだ。
この御笠の根拠地は舞鶴市と宮津市の境界をなしている由良川下流域にあったとされている。
そして、この御笠を笠氏の祖の当芸利彦が撃ったとするが、当芸利彦の根拠地は豊岡市竹野町あたりとされているので、若狭の小浜市遠敷の笠氏とは相当距離がある。
小浜の笠氏は、その距離からすると、むしろ陸耳御笠と同族の氏族ではないか。

豊岡竹野の当芸利彦は小浜の笠氏の祖だとする理由が不明だね。

225 :日本@名無史さん:2023/09/01(金) 15:16:32.12 ID:tlyVWht2A
若日子建吉備津日子ー大佐古ー武波麻ー多芸志彦ー当芸利彦

陸耳御笠の乱は大きな戦争であり小浜と舞鶴・宮津に対峙してて当然。

226 :日本@名無史さん:2023/09/01(金) 18:07:35.25 ID:WoR10wG+h
若日子建吉備津日子の五世孫が、当芸利彦(竹野別の祖)であるとしているようだ。
一方、稚武彦(若日子建吉備日子)の孫に吉備鴨別がいて、この吉備鴨別は吉備の笠臣の祖だとしている。
そうすると、若日子建吉備日子の血脈で但馬の竹野に住んだ者の子孫が当芸利彦であり、吉備にそのまま住んだのが鴨別でその子孫が笠臣だということになる。
このようなことからすると、御笠と笠の名を持つ陸耳御笠の乱では、同族同士が戦ったことになる。

そして、このことからみると、竹野の当芸利彦は笠の名を持ってはいず、笠の名を持ったのは陸耳御笠や小浜遠敷の笠氏であり、この笠氏は吉備の鴨別の血脈の笠臣から出た氏族だとするのがよいことになってくる。
これに対して、膳氏は大彦命の孫の比古伊那許士別を祖としているようなので、膳氏は小浜遠敷の笠氏とは祖を同じくしていないことから、元々は別氏族とするのがよいだろう。
海部氏の系譜につながるのであれば、やはり、若狭に領地を持ってからのことだとみるのが妥当ではないか。

227 :日本@名無史さん:2023/09/01(金) 22:23:47.58 ID:tlyVWht2A
若日子建吉備津日子の五世孫が当芸利彦ではなく、
当芸利彦の五世孫が若日子建吉備津日子です。
(笠氏) 吉備鴨別ー吉備建彦ー若日子建吉備津日子ー大佐古ー武波麻ー多芸志彦ー当芸利彦ー天村雲
(膳氏) 比古伊那許士別ー大彦ー建田背ー笠津彦ー笠水彦ー倭宿禰ー天村雲
となり、どちらも天村雲から派生した氏であり、豊受神の子孫です。
そのためどちらも笠がついているのかもわかりません。

228 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 00:50:58.31 ID:bQ3gd0NwM
(海部勘注系譜) 天村雲→倭宿禰→笠水彦→笠津彦→建田背→建諸隅→日本得魂→意富那比…→海部直

上の系譜の「意富那比」が、(尾張氏系譜)では「弟彦」となっている。
また、(膳氏の系譜)では、比古伊那許士→大彦…→膳氏がみられる。

そこで、勘注系譜の意富那比(オホナヒ)の意富(オホ)と尾張氏系譜の弟彦(オトヒコ)の彦(ヒコ)を合わせると大彦(オホヒコ)となるので、この合成大彦を膳氏の祖の大彦と同一とすれば、確かに膳氏は天村雲の子孫ということになる。
しかし、勘注系譜の意富那比と尾張氏系譜の弟彦は系譜の順番の同じ位置にいるものの、人名としては別の名であるので、この意富那比(オホナヒ)と弟彦(オトヒコ)はともに大彦を表しているとするのは、少し無理があるように思う。
この二人の人物は大彦を表しているとする説があるのだろうか。

229 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 11:10:42.28 ID:dbE7RxMqK
建田背で尾張氏と膳氏が分岐したのです。

230 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 20:02:58.89 ID:bQ3gd0NwM
膳氏の系譜は、(古事記)孝元天皇→大彦→比古伊那許士(祖)…→膳氏。
(新撰姓氏録)は磐鹿六鴈(祖)…→膳氏としているようだ。

これらの系譜には、尾張氏の系譜の建田背に当たる人物は見えない。
膳氏は尾張氏の建田背から分かれた氏族だとする系譜が、別にあるのだろうか。

231 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 21:00:27.34 ID:dbE7RxMqK
失礼しました。>>229
誤)建田背で尾張氏と膳氏が分岐したのです。
正)建田背で海部氏と膳氏が分岐したのです。

膳氏の系図
磐鹿六鴈ー比古伊那許士別ー大彦ー建田背ー笠津彦ー笠水彦ー倭宿禰ー天村雲

海部氏の系図
大倉岐ー建諸隅ー建田背ー笠津彦ー笠水彦ー倭宿禰ー天村雲

232 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 21:21:10.85 ID:bQ3gd0NwM
(海部氏系図) 天火明…→建斗米→建田背→建諸隅…→海部氏
(尾張氏系図) 天火明…→建斗米→建宇那比(建田背)→建諸隅…→尾張氏

建田背の部分で尾張氏と膳氏が分かれたということであれば、建斗米の子の建田背と建宇那比のほかにも別に膳氏の祖に当たる子がもう一人いたということになる。
その子がだれであるのかが問題。
膳氏の系譜では、(書紀)は孝元天皇の子の大彦の孫が膳氏の祖の磐鹿六鴈とし、(古事記)では大彦の子の比古伊那許士を膳氏の祖としているそうで、建斗米のもう一人の子に当たる人物はみられない。
この建斗米のもう一人の子がどこかでみつかるだろうか。

233 :日本@名無史さん:2023/09/02(土) 22:01:46.82 ID:dbE7RxMqK
尾張氏の系図は
健多乎利ー建斗米ー天登目ー天忍人ー天村雲
です。
建田背ー建斗米の間は理由は言えませんが分けがあって血は繋がって
いません。

234 :日本@名無史さん:2023/09/04(月) 17:42:23.87 ID:FLv2sSsES
海部氏の系譜に、建田勢→建諸隅→日本得魂→意富那比→乎縫→小登与、が見られる。
この中の「乎縫」の発音は(オホ)で、意味は「大」だろう。
大海部直などと名の頭に付ける大(オホ)に当たる。

一方、膳氏の祖は大彦で、大彦は孝元天皇の子とされている。

そこで、乎縫(オホ)の時代を見ると、天皇の系譜ではちょうど孝元天皇の時代に当たっている。
そうすると、この乎縫(オホ)を大彦と同一とみなせば、膳氏の祖神は豊受比売とすることができる。
このように、膳氏の祖神は豊受比売とする系譜は、海部氏の系譜の乎縫を孝元天皇の子とされる大彦と同一とみなすことから生じたものではないか。

235 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 11:36:38.80 ID:syzT0Mnad
葛木坐火雷神社の伝承には、武埴安彦の討伐の際に天火明の末裔の笛吹連櫂子を率いたとするものがあるそうだ。
この伝承では、大彦と海部氏に関係が生じていることになり、大彦を祖とする膳氏が海部氏や豊受比売につながって行く線が現われてくる。

236 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 14:09:13.26 ID:dW8mlAfYQ
しようもない理由を捏ね繰り回すよりも
単に豊受大神が祖先だったからと認めたほうがいいですよ。
乎縫=乎登与は尾張氏が大和から尾張へ移動したときの人物であって
どう考えても尾張氏です。
乎縫はオホではなくてオヌイです。

237 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 15:12:20.66 ID:syzT0Mnad
ダメダメ。
ちゃんと系譜上のつながりがなければ、豊受比売につなげられないよ。

伊賀市の敢国神社の祭神の彦背立大稲越命は、阿部氏の祖とされている。
この大稲越(オホイナコシ)は膳氏の祖の伊那許士(イナコシ)と同じで、大彦の子とされている。
阿部氏と膳氏が同祖だとする系譜がこれだろう。

そうすると、阿部・膳氏の祖の大彦と稲越の親子が尾張氏の系譜につながるのかということになるが、尾張氏の系図の乎縫と小登与を親子ではなく兄弟とした場合、乎縫→建稲種の親子関係が膳氏の大彦→伊那許士(稲越)と重なってくる。
これを見ると、やはり尾張氏(海部氏)の乎縫が大彦と対応する関係になっていることが分かる。
乎縫はオホ(大)であり、縫をヌイと読むのは後代の変換だろう。
また、海部氏の乎縫と小登与は親子の関係となっているが、これを兄弟とすれば、小登与のときに海部氏から分かれたのが尾張氏だということになってくる。
この関係が、おそらく正解だろう。

結局、この乎縫は、物部氏や阿部氏、膳氏らによって海部氏の系譜に組み込まれた大彦の別名と見るのが大正解だ。
この海部氏の抱き込みによって、物部氏は天火明命を祖神として取り込み、また海部氏が祀る豊受比売を伊勢の日神のもとに遷座して、志摩の海産物の育成を見守るという御食国のシステムを構築したのだろう。
このシステムによって、膳氏は御食国の志摩の管理を長年にわたって司るようになった。

これが、伊勢に豊受比売が祀られるようになった経緯だよ。

238 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 15:34:01.41 ID:syzT0Mnad
いろいろググってみると、尾張氏は小登与から始まる氏族だとする説が見られる。
この説は、>>237の小登与は尾張氏の始祖とする考えとよく似た説である。
豊受比売と膳氏をつなぐとすれば、これはやはり尾張氏系譜ではなく、海部氏系譜に沿う必要があるということだ。
なんと言っても、豊受比売の真名井は海部氏だからね。

239 :日本@名無史さん:2023/09/05(火) 19:39:37.40 ID:syzT0Mnad
このことからすれば、物部氏、阿部氏、膳氏は海部氏と擬制的な同族関係を結んだのであって、血族としての同族ではないということになる。
この擬制的な同族関係は、なにも上の氏族だけの話ではなく、多くの氏族が他の氏族と擬制的な同族関係を結んでいることと軌を一にするもので、なんら異常な事ではないと言える。
そうした擬制的同族関係を系図の上に表したものが海部氏系図における乎縫と建稲種で、これは阿部氏や膳氏の系図の大彦と伊那許士に当たるものである。
研究者の説では、海部氏(尾張氏)系図のこの人名のあたりが後に挿入されたものであるとする指摘がなされている。

つまり、膳氏の祖が豊受比売だとする系譜は、そういう操作によった結果のつながりだということだよ。

240 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 14:41:19.82 ID:DlkGxMWP6
>乎縫は、物部氏や阿部氏、膳氏らによって海部氏の系譜に組み込まれた大彦の別名と見るのが大正解だ。

これは瞑想であり意見全体の説得力はありません。
はやく知識がなかったことを恥じて間違いを認めなさい

241 :日本@名無史さん:2023/09/06(水) 20:40:25.78 ID:fTCpy3rnE
説得力もなにも、この乎縫と建稲種の海部氏系図への組み込みこそが膳氏と豊受比売を結ぶ唯一の架け橋だよ。
膳氏の祖神は豊受姫とのたまうだけで、具体的な系図上のつながりを示せない論者よりは、相当ましだよ。

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