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秦氏はどこから来たか 4

1 :アッシー:2020/02/27(木) 01:58:54 .net
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。

538 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 18:59:55.16 .net
>>537
労役から逃げてきた遼東秦人が入植した可能性もあるというだけの話だけどね

遼東は遼河文明のエリアだから燕の併合以前はウラルアルタイ語族である事は明白

BC6C頃まで遼西は夏家店上層文化時代だから、それよりも東にある遼東は
間違いなくウラルアルタイ語族ですよ

539 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:32:36.00 .net
>>538
秦の頃では、遼河あたりにいた種族は烏丸と鮮卑ですね。
鮮卑はチュルク系かモンゴル系とされているようです。
ウラルアルタイ語族です。
遼東で徴発されたとすれば、遼東秦人はこの鮮卑かもしれません。

540 :日本@名無史さん:2023/02/17(金) 22:41:18.84 .net
東胡というのもその辺にいたみたいだけどね

541 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 02:00:42.36 .net
>>540
東胡が匈奴に滅ぼされたあと、その残党が移動して居付いたのが遼河流域で、烏桓・鮮卑がその残党とされているようですね。
東胡は、烏桓・鮮卑がいた元の集団ということのようです。
ですので、東胡も烏桓・鮮卑も同族ですね。
彼らは遊牧民だそうですので、この鮮卑たちが秦に徴発されて長城建設に駆り出されたとしても、長く土木作業に従事できないでしょうね。
そして、彼らは逃亡して朝鮮半島南部へ行き、東南隅の辰韓の地に定着したとして、これをどう秦氏につなぐかですね。

542 :日本@名無史さん:2023/02/18(土) 22:53:17.63 .net
>>1
秦氏「消防署のほうから来ました…」

543 :日本@名無史さん:2023/02/20(月) 01:33:18.81 .net
蔚珍鳳坪里新羅石碑の「波旦」は、どうですか。

544 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 16:16:39.26 .net
>>521
渡来者が元いたところの土器を復元する場合は、その必要があったからそうしたわけ。
菜畑の場合は、古代中国の土器の復元は行われていない。
ということは、菜畑にやってきた水田稲作民は、復元の必要性を持たなかったということになる。

その理由としては、渡って来た水田稲作民は男性であり、菜畑の縄文社会に溶け込んだために、
元居たところの土器を復元する必要がなかったことが考えられる。
菜畑で出土する土器には、縄文の模様が描かれているので、その土器を造ったのは縄文系の者であったことが推測できる。
やはり、やってきたのは男性の水田稲作民だった可能性が高い。

545 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 18:27:54.63 .net
新羅だろ

546 :日本@名無史さん:2023/02/24(金) 21:58:58.96 .net
>>544
都合の良い馬鹿げた小学生レベルの曲解

菜畑の人々は朝鮮土器から壺と高坏という器種をパクった

菜畑の人々が中国大陸からの入植者なら朝鮮土器からパクる必要がないじゃないの

単に自分たちの中国土器を記憶から再現すればイイだけの話じゃないの

壺や高坏だけじゃなく鬲も鼎も甑も釜も竈も平皿もあったんだから

つまり菜畑の人々は中国大陸とは何の関係もない人々だったという事に他ならない

547 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 15:32:48.07 .net
>>545
この波旦が、唯一の具体的な秦氏新羅説ですね。
波旦は蔚珍の中の地名であり、渡来した弓月君秦氏はその出身地の波旦(ハタン)の名を取って自らの氏名(うじな)としたというものです。
有名な歴史学者が唱えたものです。
しかしながら、石碑に刻まれた文章はところどころ読み取れないほどにすり減っていて、
この波旦の下に続く一字もかすかにしか読み取れなくなっています。
その字はいろいろな説が挙げられていますが、まだ確定できていないようです。
そして、その説の中に、この字は「緹(テイ)=赤色」ではないかとするものがあります。
この説を当ててみますと、「宜しく波旦の緹を智るべし」と読めることになります。
どうも、何かの諺のように見えます。
そうしますと、この波旦は必ずしも新羅の地名を表しているとは限らなくなります。
この「波旦の緹」が何を言っているものなのか考えてみますと、次のようなことが考えられます。
「波旦」はホータンの漢音表記としますと、「緹」は赤色ですので、「波旦の緹」は「ホータンの赤」という意味がまず考えられます。
そこで、ホータンはどのようなところかと見てみますと、ホータンは白色の軟玉の原石が採れるところで、高価で取引されていたようです。
そして、この白色の原石には、鉄分が染み込んで赤や黄などの膜が被さっている場合があるのだそうです。
高価で売るには、この赤や黄の薄膜を取り除く必要があります。
この薄膜は、日本で言うところの「鼈甲の皮」に当たる邪魔者ということになります。
本来なら高い価値がつくのに、この赤い薄膜のせいで原石は価値が下がるというわけです。
これが「波旦の緹」の意味だとすれば、この蔚珍の石碑に書かれているように、
罰を受ける罪人を取り除かれるべき邪魔者だとみなし、その邪魔な者を表すために「波旦の緹」の諺が挙げられているのだと理解できます。
摩耗して読み取れなくなっている字が「緹」であれば、このように解釈できることになります。
そして、「波旦」は蔚珍の地名ではなく、中国西域の宝石の産地であったホータンを指す地名とすることが可能になります。

548 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 15:38:52.34 .net
>>547
上のように考えますと、蔚珍石碑の「波旦」は必ずしも新羅の地名を表していると言い切れなくなります。
むしろ、弓月君秦氏のハタの名は、中国西域のホータンのホタを取ってそれが訛ったものだとする説が強化されることになります。
ですので、この「波旦」を新羅の地名とする有名な学者の説は、かなり揺らいでくるように見えますね。

549 :日本@名無史さん:2023/02/25(土) 15:51:50.65 .net
>>546
しかし、水田稲作は、その時期、中国の淮河以南でしか行われていなかった。
水田稲作の技術を持った農民は、そのあたり以外からは来ようがなかった。
どこから来たというのよ。

狭い丸木舟には土器などは積んでくれなかった、と考えるのが合理的。
まして、その水田稲作民が男性だけであったなら、菜畑に来てからわざわざ三足鍋を復元する必要性は極めて少ない。
彼らが溶け込んだ菜畑の集落の縄文人らが造った煮物甕で飯を食べて、それで十分だったのよ。

550 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 07:53:39.94 .net
>>549
記憶からの再現の話をしてるのに何で搬入の話にすり替えて誤魔化してるの?

そんな子ども染みた幼稚な欺罔や詭弁が考古学者やセミプロに通用すると思うか?

アジアから何千qも丸木舟で航海して土器を遺したポリネシア人もマダガスカル人も
全て記憶からの再現だぞ

そんな航海に邪魔なもの、搬入する訳がないだろ 

土器も住居も全て現地で記憶から再現しただけの話だ

それに何で「来た」と決め付けてるの?

日本最古稲作遺構には外来人が入植した痕跡がない

単にこちらから行って取り入れただけだからだ

取り入れたものの中に中国大陸の農具や土器の器種やイネの粒種などが一切ない    

あるのは朝鮮南部と一致するものだけ

ただ単純に最寄りの朝鮮南部から取り入れただけの話なのである

551 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 15:47:05.65 .net
秦氏「警察署の方から来ました…」

552 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 16:57:10.46 .net
>>551
遼東から百済を経て洛東江を下り、新羅と加羅の境界付近を通って伽耶にたどり着き、そのあと対馬の海人の舟で倭国へ渡ったとするルートが最適。
加羅のあたりにやって来た時に、新羅が邪魔して、伽耶まで行かせなかったのが弓月君の事情だったとみられます。
遊牧民の烏桓・鮮卑と秦氏は、つながりにくいですね。
秦の長城建設に徴発された部族で、辰韓まで逃げたと考えられる者は、ほかにいないでしょうか。

553 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 17:39:16.11 .net
>>550
ポリネシアやマダガスカルまで航海した者たちが、男だけで舟に乗ったとは考えにくい。
たどりつく島で野垂れ死ぬのがせいぜい。
しかし、彼らは行きつく島で子孫を残しているのだから、男女が舟に乗って渡ったはず。
また、長い航海が予想されるので、舟には飲料水を入れる甕が積まれた。
雨水が飲料水となった。
彼らは土器を携えた者たちだったと考えるのがよい。

このオーストロネシア語族の航海と、一日二日で島を渡り継ぐ対馬の海人の人渡しとは、事情がまったく異なる。
このような対馬の海人の丸木舟による人渡しの実態が理解してもらえたのは、慶賀の至り。

対馬や壱岐の海人の舟で唐津へ渡ったこうした男性の水田稲作農民が、菜畑あたりの縄文人に溶け込んで、
水田を復元し、稲籾を撒いて水稲栽培を始めた彼が、三足鍋を復元したいと思ったかどうかが問題。
毎日の食事は、縄文人の煮炊き甕で造られる食べ物で十分だったとしたら、わざわざ三足鍋を復元する必要性は感じなかっただろう。
後には、無文土器系の煮炊具が造られたし、新たにやってきた男性水稲農民もことさらに三足鍋にこだわる必要はなかったと思われる。
農具も半島系の畑作のものがすでに伝わっていて、それを改良した木製の農具が製作されていたから、それを水田に転用すれば事足りた。
菜畑などの狭く小さい畑地の土は湿り気があり柔らかかったので、広い畑用の重い石鋤を復元する必要はなかっただろう。

まあ、そういう事情だったのじゃないの。
無文土器ですら半島から搬入されたものはごく少ないとされているので、それらは半島の縄文人による交易で持ち込まれたものではないか。
九州の縄文人がそれを見習って、和製の無文土器を製作したのだろう。

こうしたことから導き出せることは、対馬海峡の海運は対馬や壱岐の海人が牛耳っていたということだね。
対馬海峡は、ポリネシアなどの事情とはまったく異なる環境にあったということになるよ。

554 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 21:16:44.48 .net
秦氏はどこから来たか、がスレタイなのに
・水田稲作はどこから来たか
・縄文式土器はどこから来たか
・弥生式土器はどこから来たか
になってきている…興味深いね

555 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 23:21:18.42 .net
>>553
伝えてもいないのに何で必要がないと分かったの?どうして分かったの?

ふつうは伝えてから必要がなければ徐々にフェードアウトして消えていくというのが
文物の流れだろ

だいたい弥生社会はもちろん、同期する中国社会の庶民層だって土器も住居も衣類も
農具も全部自分たちで作るんだぞ

それができないなら、すなわち死だ

年がら年中、土器も住居も衣類も農具も、作ったり、直さなきゃならない場面が
やって来るのに故郷で作っていたものを一切作らないというのは不自然すぎるだろが

伝えてもいないのに何で必要がないと分かったの?どうして分かったの?

何で?どうして?どうして?何で?

556 :日本@名無史さん:2023/02/26(日) 23:46:35.20 .net
水田は復元したのに土器は復元しなかったのだから、その理由はおめーが考えろよ。

557 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 00:16:48.57 .net
>>556
おまえの論理だと稲作自体も伝える必要がないじゃないか

縄文社会は様々な種実を煮炊いて食べていて、それで事足りていたんだから
稲作の必要性もないじゃないか

それに農具の出現は水田が出現して50年くらい経ってからだぞ

水田の出現期に農具はなかった

だから朝鮮農具がすでにあったから中国大陸のメイン農具である石スキは
必要がないから伝えなかったのだというおまえの単なる願望創作は最初から
破たんしている

558 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 01:10:40.74 .net
縄文晩期前葉の貫川遺跡出土の石包丁が最古のもの。
ちゅうことは、菜畑のまえに雑穀が栽培されていたのよ。
陸稲も作られていたはず。
つまりやな、半島の縄文人に稲籾見せたら、それが何なのかすぐわかったということやな。
要するに、菜畑の前には、すでに農耕は行われていたちゅうことや。

それで、あれこれ説明したら、よつしや、渡したるということになったのやろ。

559 :日本@名無史さん:2023/02/27(月) 01:19:21.81 .net
>>554
彼に、秦氏の話しろよ、と言ってやってください。😄

560 :日本@名無史さん:2023/02/28(火) 15:10:09.44 .net
秦氏に関連するデータは出尽くしていますね。
そこで思いますに、秦氏はトルコ語話者だったようですので、トルコ語から迫るのが効果的でしょう。
例えば、秦氏は半島を経由して大陸から技術者を招いてようですので、秦氏にとって対馬海峡は重要な交易路でした。
壱岐は、半島から見ますと対馬の次の二番目の島です。
この壱岐の発音のイキをトルコ語で見てみますと、iki(イキ)は「2」を表す言葉です。
秦氏はトルコ語話者だったとしますと、壱岐の島名は秦氏のトルコ語に由来するものである可能性が出てきます。
これは、秦氏に関連する新しいデータになるかもしれませんね。

561 :日本@名無史さん:2023/03/01(水) 14:26:41.61 .net
交易路の地名を秦氏のトルコ語で見ますと、北部九州は次のようになります。

チクシ(筑紫)
トルコ語 tikis(チクシ)=出口

これを見ますと、筑紫(チクシ)の名は秦氏のトルコ語に由来している可能性がでてきます。
大変興味あることではないでしょうか。

562 :日本@名無史さん:2023/03/03(金) 17:24:38.14 .net
もう一つ秦氏のトルコ語を見て見みましょう。
深草の秦氏の神体山は稲荷山(イナリヤマ)ですが、山城国風土記の記述からすると、どうもイネイ(稲生)が元々の発音のように見えます。
秦氏トルコ語話者ユダヤ教徒説からこのイネイ(稲生)を見てみると

イネイ(稲生)
トルコ語 inis(イニシ)=降下、着陸

が考えられます。
このイニがイネ(稲)に、シがイに訛ったとした場合、トルコ語のinis(イニシ=降下、着陸)が何を意味しているかが問題になります。
秦氏ユダヤ教徒説からすると、山に降りて来くるのはユダヤ教の神ですね。
そして、その山は、シナイ山です。
つまり、イネイ(inis=降下、着陸→稲生)山とは、神がモーゼに十戒を授けたシナイ山に見立てた山と言うことが考えられることになります。

秦氏のトルコ語は、相当有力だといえるのではないでしょうか。

563 :日本@名無史さん:2023/03/04(土) 22:05:35.26 .net
モーゼ→百瀬
長野県中部に百瀬という苗字が多い
ということは、諏訪はユダヤの神域?

564 :日本@名無史さん:2023/03/05(日) 00:30:52.00 .net
ヘブライ語でモーゼは、モーシェ。
百瀬は、モモセ。
似てるな。

565 :日本@名無史さん:2023/03/10(金) 17:34:02.65 .net
でも、この頃には口語のヘブライ語は死滅していて、誰も知らない言葉になってたようだ。
司祭とか学者たちが細々と使っていただけの言葉になっていたそうだ。
だから、ヘブライ語は日本の古墳時代には、どうもね。

566 :日本@名無史さん:2023/03/10(金) 17:42:44.75 .net
だから、秦氏がユダヤ教徒だったとしたら、彼らはどんな言葉を話していたのかが問題になってくるのよ。
ヘブライ語は無理だから、別の言葉を話していたとすると、最も可能性のあるのがトルコ語ということになるわけ。
弓月君の弓月が中国の西域を指しているなら、そのあたりは4世紀後半にはトルコ語が主流だったし。
まあ、そんなとこじゃないの。^^

567 :日本@名無史さん:2023/03/11(土) 17:52:59.90 .net
それに、ウズマサ(太秦)の発音はトルコ語では「ウヅ=3」+「マサ=机」の構成で、ウズマサ(太秦)は「三つの机」の意になる。
秦氏がユダヤ教徒であったとすれば、「三つの机」とはユダヤ教の神を祭る幕屋の「3基の祭壇」を表す言葉の可能性が出てくる。
このような観点から見ると、秦氏は太秦を「日本におけるユダヤ教の幕屋(神を祭る所)を置く地」とみなした可能性が高い。

568 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 15:12:39.72 .net
秦氏がトルコ語を話したユダヤ教徒だったのは、おそらく間違いない。
その秦氏のハタの由来は、中国西域のオアシス都市のホータンのホタが訛ったものだろう。
出身地の都市の名を氏名(うじな)にした、ということだね。

569 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 23:52:52.30 .net
秦氏の系図では、弓月君の子は浦東君と書かれている。
中国語の隋唐音では「浦=puo、東=tong」だから、浦東はポトンの発音となる。
これは、中国西域のオアシス都市のホータンとほぼ同じ発音。
弓月道は西域回廊に当たるから、弓月君は西域タリム盆地、浦東君はホータンとなり、秦氏の系図の弓月と浦東はタリム盆地のホータンを表していることになる。
そして、その次の子が秦酒君だから、「弓月君・浦東君・秦酒君」は「西域タリム盆地のホータンから来た秦酒」ということになり、日本における秦氏の始祖は「秦の酒」であるとしていることが分かる。

この「酒(サケ)」は、出エジプト記における神の荒業であるエジプト人の子の排除の力をユダヤ人たちが「避けた」ことを表す言葉だと思われるので、秦氏の祖先が難を避けてホータンを脱出したことを表しているのだとすることが可能だ。
ユダヤ教徒秦氏ホータン出身説からすると、このような絵を描くことができそうだ。

570 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 05:00:17.55 .net
日本の神輿のルーツは宇佐神宮です
https://i.imgur.com/wewwboJ.jpg
https://i.imgur.com/jxFlJIg.jpg

571 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 21:31:42.58 .net
上賀茂の御阿礼の神輿のほうが先だろ。

572 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 22:39:09.96 .net
>>571
宇佐の神輿は720年の記録はあるけど上賀茂の記録はある?

573 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 23:26:45.82 .net
上賀茂神社の社殿は天武6年(677年)に建立されている。
御阿礼はこのときに行われた。

574 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 23:56:15.00 .net
>>573
創建の古さだと宇佐神宮は6世紀だね

575 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 00:52:02.24 .net
宇佐神宮の一之殿が造営されたのは神亀2年(725年)とされるので、御許山の磐坐から神を御阿礼したのはこのときではないか。

576 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 01:25:20.44 .net
>>575

https://i.imgur.com/7iTQjkd.jpg
宇佐神宮には元宮と言われる、池が内宮の薦神社があってそこで採れた薦が神輿の御神体になっている。さらに薦神社の奥宮は八面山で、日本初の神仏習合の象徴の場所でもある。

577 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 02:17:23.46 .net
小椋山に遷る前の鷹居社は568年に建てられていますね
https://i.imgur.com/GMWOorM.jpg

578 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 03:00:26.65 .net
鷹居社の建立は、宇佐縁起の記述に和銅五年(712年)と書かれているそうだ。
「玄松子の記憶」のサイトの「鷹居神社」にその資料が出ている。
磐座に宿った応神天皇神を依り代に遷して、これを神輿に乗せて、鷹居社まで運んだということだと思うけど。

579 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 03:46:59.90 .net
宇佐神宮の奥宮は御許山ですがもう一つ三女神が降臨したとする神社が安心院の三女神社です ここを祀ったのが宇佐氏一族と言われる筑紫の君の水沼氏です。ここも宇佐神宮の元宮の一つと言えます
https://i.imgur.com/4cHx6u8.jpg

580 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 04:55:20.48 .net
日本書紀 神代上 第六段一書第三
即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。
今、海の北の道の中に存す。号けて道主貴と日す。此筑紫の水沼君等が祭る神、是也。

581 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 18:19:22.40 .net
資料の比較という点で、この三女神と水沼君の問題は面白そうだね。

書紀本文と一書を見ると、本文を含む天照系は、三女神は宗像氏が祀っていることが分かる書き方をしていて、水沼氏は登場しない。
一方、日神系は、三女神を元は水沼氏ら複数の氏族が宇佐で祀っていて、今は響灘の宗像氏が祀っているとするか、三女神が降りた「道の中」の場所を特定しない立場をとっている。
沖ノ島の国家祭祀が4世紀後半から始まっているのは確定事項で、宗像氏も関与しているのは明白。
しかし、宗像の沖、中、陸が連携する三女神型祭祀は7世紀になってから始まっているとされている。
なので、三女神に関する書紀の話は、7世紀以降の伝承とするのがよいようだ。

そうすると、日神系の伝承の中に水沼氏らの地方氏族が登場する一書と「道の中」の場所が特定されていない一書については、三女神に関係しない別の伝承が付け加えられたものと解釈できる。
書紀の雄略天皇紀では呉が贈った貢物を水沼氏の飼い犬が食ってしまったという話が見られるところをみると、中国の呉地方から大和に行く交易路は東シナ海から九州有明海の筑後川河口を経て水運で日田あたりまで進み、そこから陸路と水運で宇佐方面に行く経路が想定されていたことを示している。
この経路は、遣唐使の南ルートとほぼ合致するように見える。
筑後川河口の水沼氏が宇佐に関わっている一書の記述は、この九州筑後河口から宇佐にいたる内陸水運の交易ルートを管掌する氏族の連携が織り込まれもので、三女神の話はその現実の勢力関係を物語るためのストーリーに過ぎないと思われる。
この九州北部の内陸水運の大動脈の管掌を示すためになぜ海運の宗像三女神が用いられたのかということについては、半島との交易の実際の業者である宗像氏と深いつながりのある大氏族の秦氏の関与があるのではないか。
秦氏は有明海の筑後川河口から宇佐に至る内陸水運系を半島への対馬海峡の海運系とリンクし、より広域の海運水運の交易路を確保しようとした、とするモデルが考えられる。

そういう観点からすると、書記のこの日神系の一書は、秦氏と朝廷の勢力が組んで筑後川水運の取り込みを図るための企画書のような臭いがするのだが。

582 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 19:17:04.13 .net
隋書倭国伝に出てくる秦王国とは宇佐八幡王国の事だったと考えます。八幡はやはたとも読みますね、平安時代における宇佐八幡の荘園は九州の三分の一に及んでいたそうです。

583 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 01:54:46.67 .net
秦王国宇佐説は、確かに有力な説のようだ。

中国におけるこの「秦王国」の意味は、皇帝が臣下に対して領地を与えて国王に列する扱いをしたことから生まれた言葉で、「秦王の国」の意味になるもの。
漢の皇帝が臣下の諸侯に秦の領地だった土地を与えて王としたことから「秦の土地を領地として与えられた王」が「秦王」と呼ばれ、その「秦王」の国を「秦王国」と呼んだのが始まりだそうだ。
これは、皇帝の親族が国を与えられて国王となることとは異なり、臣下に対する特別な扱いだったそうだ。

この秦王国が倭国にもあったのか、倭国はあの呉の孫権が探索した夷州だったというのだろうかという驚きを隋の使節団にもたらしたのは、その土地の人が中国と同じような服装などをしていたためだろう。
しかし、実際には、随伴する倭国の役人にそのことを一言尋ねたら、その人々の服装などの理由はすぐ分かったはずだ。
しかし、文章は、孫権の夷州を持ち出してきて、山海経のような異郷の神仙郷的な雰囲気を醸すものとなっている。
要するに、これから異文化の倭国に入っていくのだという幻想的な旅行記のような体裁を取っているのが分かる。

では、この秦王国とされた場所は、実際にはどこだったのかということになるが、それを割り出すには、秦王国の手前にある「竹斯国」の場所を知る必要がある。
この竹斯国は、筑紫国の音を写したものであるのはほぼ確実だろう。
そして、筑紫国は、博多あたりだと考えるのはなんの不思議もない。
そこで、博多から東へ進んで、次にある大きな国といえば宇佐地方か対岸の安芸地方かという見積もりが立つことになる。

しかし、問題は、この竹斯国(筑紫国)が博多あたりだとする常識が果たして正しいのかということだ。
魏志倭人伝の記述からして、唐津に着いた使節団がまず一時的に逗留して骨休めするのは伊都国だった。
倭人伝の頃からそれ以降も伊都国が使節団のまず最初の一時的な逗留地だったことは間違いないだろう。
そこに滞在して、これからの長旅の打ち合わせや倭国の役人との折衝などを行っただろうことは、想像に難くない。  …次へ続きます

584 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 02:10:22.79 .net
>>583
このように考えると、隋書の「竹斯国」は「筑紫=博多」ではなく、「竹斯=伊都」であったあった可能性が出てくる。
そうであれば、伊都を出て東へ行ったときの次の大きな国は、これは間違いなく博多であり、そこには「筑紫太宰」が置かれていて、そこの役人たちは皆、大陸風の制服を身に着けていただろうから、それまでの唐津や伊都の住民の服装などと大きく異なっていたはずだ。
そして、この筑紫太宰では、使節団一行は間違いなく大歓迎されたはずだ。

なので、この「筑紫太宰」を「秦王国」と文飾し、異文化の倭国の神仙郷へいよいよ入ったぞと山海経的異郷感を醸し、使節団はそのような倭国滞在記の報告書を書いたのだろう。
なお、使節団は九州から海を渡ったことは記していず、ずっと陸続きで十数か国を通過し、やがて海岸(須磨)について、倭国の歓迎使の饗応を受けたことになっているので、関門海峡の渡海で舟に乗ったにしても、それは河を渡るような感覚で物の数に入れなかったのだろう。
この渡海の記事がないことは、秦王国宇佐説の泣き所となっている。
宇佐からだとどうしても瀬戸内海を渡らなければならないから、渡海の記事はなければならないことになるからだ。

このように見てくると、「秦王国==筑紫大宰」説は、相当に信憑性が出てくると思うのだが、どうか。

585 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 03:11:15.20 .net
遣新羅使の航路では宇佐の近くから沿岸沿いに関門海峡に向かっていますね、あと福岡は筑州と豊前に分けられるので伊都も太宰府も築州に含まれると思います。つまり筑州の東の豊前が秦王国だと思います。
https://i.imgur.com/xkXnD5a.jpg

586 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 21:27:24.83 .net
新羅使の渡航を詠んだとする大伴家持の歌には、まったくの大阪湾や瀬戸内海の船旅の情景が詠まれている。
確かに、新羅への渡航は瀬戸内海の渡航を経たのは明白ちゃんだ。
一方、隋の使節団の様子には、そのような潮の香りのする記述はまったくなく、海岸(須磨)についてやっと海辺の香りのする文章になっている。
隋の使節団が陸上の山陽道を利用したことは、明白ちゃんのように思うけどね。

587 :日本@名無史さん:2023/03/20(月) 22:03:04.73 .net
>>586
裴世清は遣隋使船の復路に同乗していただけですよね

588 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 04:52:44.01 .net
>>587
遣唐使が乗った船は、安芸で造ったようだ。
どうして安芸だったのかの理由はいろいろあったと思うけど、安芸から東の岡山までの海域は潮流が速く、また航路も複雑で大型船の航行が難しかったからというのも一つの理由だと思われる。
遣新羅使の場合は大阪から乗ったようなので、これはごく沿岸を進む小型の船に乗ったのだと考えるのが筋。
日本の遣隋使の復船に隋の使節団も同乗したけれど、この遣隋使の船はやはり安芸から東の岡山までは航行は無理だったと考えるのがよいと思う。
また、遣隋使たちは書物や貴重材のほか多くの資材を持ち帰ったはずで、隋の使節団も貴重な貢物を持ってきていたはず。
これらの物資を船の難破によって失う危険は、必ず避けたいことだったと思われる。

そうすると、対馬海峡を渡ったあとは、できるだけ早く船を降りて、運んできた資材も降ろして、それらを安全確実に都まで運ぶのが優先事項だったのではないか。
加えて、隋の使節団自身も安全確実に日本の都まで行く着くことが優先されたと思われる。
わざわざ瀬戸内海の難所を小さな手漕ぎの舟に乗って越える危険を冒す必要はなかったのではないか。
これらの状況は皆、想像の産物でしかないけれど、遣隋使の船で厳しい航路の瀬戸内海を超えたとは考えにくい。

安全第一をモットーとに考えれば、唐津で船を降りて、あとは資材と一緒に陸路を行くのがあるべき姿でしょう。

589 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 06:33:08.21 .net
>>588
もし仮に遣隋使船が瀬戸内海を通れないのなら、住吉津から別の船に乗っていき、博多で遣隋使船に乗換えれば良いだけでは?
それが合理的だと考えます。あとは遣隋使が旧山陽道を歩いたという記載も無いですね。
瀬戸内では縄文時代には、国東半島近く姫島の黒曜石を求める航路が確立されていたと思われます。

590 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 21:44:59.69 .net
皇帝の書簡や貢物、使節団の各種用品などを積みこんで、その他に多数の人員を乗せた小型の手漕ぎ舟が何十隻も連なって、難所の瀬戸内海を安芸から吉備まで通り抜けるというのは、どう考えても無理ではないか。
そのような危険を冒すより、山陽道の陸上を確実に都の手前の饗応所のある海岸(須磨)まで進むのが自然だと思われる。
また、使節団の行程は「経十余国達於海岸」と書かれていて、この文の「経」は「へて(経て)」と訓読みするが、漢字のこの「経」の字は「まっすぐ通過する」意であり、山陽道はおおむね東西に真っすぐに進む経路となっているので、使節団は陸上を通ったとする見方を支持する。
さらに、瀬戸内海を東へ航行する場合は、安芸から吉備の間はかなり曲折する航路となり、「経」の字が当てはまらなくなる。
こうしたことから、使節団一行は陸上を通って海岸(須磨)まで行ったと考えるのが合理的と思われる。

591 :日本@名無史さん:2023/03/21(火) 23:37:57.42 .net
>>590
白村江の戦いの時に難波津から船出した額田王は「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 」と詠んでいます。この句が奈良時代には船で瀬戸内海から朝鮮半島に渡っていた証拠になるのではないでしょうか。
ちなみに熟田津は松山辺りだという説があります。

592 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 03:28:58.72 .net
日本の古代には、竜骨を持つ舟はまだなく、刳り貫き式の丸木舟の上に舷側板を張った準構造船と呼ばれるものが普通で、遣唐使船などの外洋船とは異なるものだったようだ。
埴輪などでその構造が推測されている。
この準構造船の場合、中央付近には漕ぎ手が座り、乗客は船首か船尾部分に乗ったようだ。
この準構造船からすると、倭人伝に見える災難除けの「持衰」は、船の船首あたりの狭い部分に乗ったのではないか。
こうした準構造船では船内は漕ぎ手でいっぱいになり、乗客は船首あたりに一人、二人乗ればいいところではなかったか。

斉明天皇は筑紫へ行くために駿河に舟を造らせ、その舟は三重県から川を上って山越えで難波まで運ばれた。
そのあと天皇は筑紫へ船で幸行し、皇女もお供して子供を出産している。
天皇や皇女ほかが山越えできるくらいの構造船に乗ったとして、果たして何名が一艘の船に乗れたか定かでない。
一艘にはごく少数が乗れただけではないか。
岡山や松山などをジグザグ航行しつつ、それでも、筑紫には着いているのだから、準構造船で瀬戸内海を通り抜けたのは事実。
そして、そのあと、天皇が崩御して、喪船は同じく準構造船で難波へ帰る。

こういうことなので、隋の使節団も準構造船で瀬戸内海を渡ることができるのは間違いない。
しかし、その準構造船で使節団が瀬戸内海を通り抜けたとする証拠がない。
斉明天皇の場合は、書紀に船に乗ったと書いてあるのでそれが分かるものの、裴世清ら使節団が「海岸」に着くまで船を用いたとはまったく書かれていないのであるから、まず陸上を輿に乗って貢物とともに移動したと考えるのがよいと思われる。




そうすると、

593 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 05:02:38.36 .net
問題なのは、使節団が着いた「海岸」の解釈だ。
普通、船で航行して着くところは港、津であり、その港の名や港のある街名を挙げるのが常道。
それを「海岸」に着いたとするのは、非常に不自然。
この「海岸」の字句が書かれている文は、「達于海岸(海岸に達す)」となっている。
「海岸」が港名であることは、まずあり得ない。

そこで、「達」の字を見てみると、「達」は「さしさわりなく進む、途中でつかえずにいきつく」とされている。
この「達」の用法では、「浮于済凍、達于河」がみられる。
これは、河を水路として船で行くケースで、「済水から漯水に船を浮かべて、(途中でつかえずにそのまま)黄河に達した」という内容。
「達于河」の前に「浮」の字を置くことで、船による水行であることが分かるようにしてあるもの。
これと同じ用法は、他にもみられる。

そこで、隋書の文章を見ると、「竹斯国、秦王国…経十余国、達於海岸」となっていて、船による水行でもって「海岸」に着いたと分かるような字句が見えない。
中国の史書では壱岐のあとは末盧に着いて、その次は伊都、奴国へと陸行する行程になるのが常なので、隋書の竹斯国から秦王国へも陸行した前提となっていると思う。
そして陸行を続けて十数国を経て、そのまま「海岸」に着くことになる。
秦王国のあと船に乗り十数国を通過して「海岸」に着くということが分かる字句はないので、竹斯国から「海岸」に着くまではずっと陸行だったとするのがよいと思われる。

594 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 05:44:39.24 .net
その論理ならば対馬海峡を渡って竹斯に着いた時に達於海岸と記すのではないかと思いますが。
達於海岸というのは航路の終点と考えるのが自然だと思いますし古代山陽道で向かった場合海岸というのは明石の事となり、
いささか目的地と考えるのは都からは遠いのではないでしょうか。

595 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 07:54:41.92 .net
秦氏は、応神14年(283)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、
百済より百二十県の人を率いて帰化したと 『日本書紀』 に記されている。
秦の人々は、養蚕や機織りの技術を伝え、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着いた。

>>516
>秦氏という姓氏をあたえられ

倭国(阿波)王権からな。
「衣手」は、衣服を織る「手」(職業集団)。
「紙本墨書阿波国板野郡田上郷延喜二年戸籍残巻」の中には、帰化人系の氏である
「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。   @阿波

596 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 10:03:36.13 .net
>>595
応神14年(283年)でしたら、
卑弥呼の時代とカブりますか?

597 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 10:08:40.68 .net
>>596
私は阿波さんじゃないんですけど、
魏志倭人伝があるから、正確に被っているでしょう。

598 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 21:22:20.49 .net
>>594
確かに明石あたりは、都には遠い。
しかし、隋書の記事ではそれに続く文で「既至彼都(すでにかの都に至る)」と書いている。
「そのあとに倭国の都に至った」という意味なので、明石あたりの「海岸」は都に入る前にしばし逗留する管制の宿泊所がある場所だったことが分かる。

面白いのは、日本書紀の推古天皇紀の文章で、この文章では隋の使節団一行は船で難波津に着岸して、用意されていた宿舎に逗留したことになっている。
そして、そのあと奈良盆地東南部にある朝廷に詣でて、天皇に拝謁して隋皇帝の言葉を伝え皇帝からの書面を差し出したと記されている。
しかし、日本書紀のこのときの天皇は女性の推古天皇であるが、隋書の文章ではタリシホコというの名の男性の王としている。
非常な食い違いがあり、隋書のほうは王の名を挙げているくらいなので信憑性が高い。
そうすると、日本書紀の記述のほうが怪しくなってくる。
使節団は本当に奈良盆地東南部の朝廷で推古天皇に拝謁したのか、ということになる。
そして、その疑義を引っ張って見てみてば、日本書紀が記している使節団一行の難波津着岸よりも、隋書の「海岸」到着のほうが信用しやすくなってくるし、使節団一行がそのあと都に行ったというのもそれは実は奈良盆地東南部の朝廷ではなかった可能性も出てくるわけ。
使節団が会ったとするそのタリシホコ王の都が聖徳太子の四天王寺あたりだったとすれば、明石あたりは使節団の逗留所としてはちょうどよい距離に当たるのではないか。

599 :日本@名無史さん:2023/03/22(水) 23:18:16.49 .net
>>598

万葉集には「難波津に 御船泊てぬと 聞こえ来ば 紐解き放けて 立ち走りせむ」と遣唐使の船出を詠んだ歌がありますがこれが答えだと考えます。
https://i.imgur.com/cVDjgRw.jpg

600 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 00:53:51.74 .net
斉明天皇の一行ですら準構造船で難波から九州博多の間を往復しているのだから、遣唐使が準構造船で難波津から博多まで行き、また帰ってくることは、普通のことだったということになる。
しかし、だからといって、隋の使節団も同じように瀬戸内海を準構造船で渡ったとする根拠にはできない。
あくまで、推測の範囲に留まるものだ。

一方、陸上を明石まで行ったとすれば、宇佐には立ち寄っていないことになる。

601 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 04:16:37.23 .net
小野妹子は隋に向かう途中で病気になりに宇佐に立ち寄っています。これが遣隋使が陸路ではなく航路を使っていた証拠になると思います。

602 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 09:35:28.25 .net
佐田岬ルート
佐田岬の先端まで徒歩
伊予灘は航路を利用

603 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 10:49:42.26 .net
596年に聖徳太子が四国の道後温泉に行った記録があるので、遣隋使の時には少なくとも難波からの瀬戸内航路はあったと考えられる

604 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 15:37:51.49 .net
雄略天皇のときに、新羅征討のための将軍に任命された吉備臣尾代は山陽道を通って博多へ向かっている。
雄略が崩御したことを聞いて、軍勢に加わっていた蝦夷が逃亡したので、これを追いかけて倒した。
山陽道の陸路が使われていたということ。
安全第一の隋使節団は、陸路で都へ向かったとすれば、宇佐には行っていないと考えるのがよい。

605 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 16:19:37.13 .net
>>604

三宅八幡宮の社伝によれば、
「推古天皇の時代に遣隋使として隋に赴こうとしていた小野妹子が、筑紫で病気になった。しかし、近くにあった宇佐八幡宮に祈願するとたちまち病気が治って隋に渡り、無事帰国することができた。その後、聖徳太子の没後に報恩の意味を込めて自らの所領である山城国愛宕郡小野郷と呼ばれるこの地に、宇佐八幡宮を勧請して建立したのが当社であるとされている」
とあるので宇佐神宮には立ち寄っている事は明確である。
もし陸路を使ったならば宇佐神宮と最短距離になる門司からは向かう博多方面とは逆方向に80キロあり病気の小野妹子が気軽に立ち寄るには遠方過ぎると思います。海路を使っていたからこそ宇佐八幡の近くにあったと記されているのでしょう。
https://i.imgur.com/bbQwzND.jpg

606 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 17:28:20.50 .net
博多に係留されていた遣隋使船に乗るために、準構造船で瀬戸内海を西進し、途中病気になった小野妹子が病気回復の祈願を宇佐神宮で行ったあと、そのまま博多へ航行したというのはあり得ること。
遣唐使も同じように準構造船に乗って博多まで航行しているようだから、問題ない。
そうなら、帰りも同じく準構造船を利用しただろう。

しかし、隋使節団の裴世清らが準構造船で博多から難波津まで航行したとする記述は隋書のどこにもなく、日本書紀で裴世清らが難波津に入港したと書いてあるだけ。
この書紀の記述にしても、一行が博多から船で出発したという記述はどこにもない。
そういう記述がない以上、裴世清らが陸路で「海岸」まで行ったとするのがOK。
帰りもまだ皇帝に復命する義務を負っているので、安全第一だったことが推測できるため、帰りも陸路で博多まで行ったとするのがよい。

607 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 17:59:27.08 .net
小野妹子は病気の回復と無事に隋から戻って来れた事へのお礼参りとして、裴世清を乗せた遣隋使船は難波に向かう途中宇佐に立ち寄ったと考えられる。そしてその時の様子を裴世清は秦王国と記したのでしょう。
さらに豊前が秦王国であった証拠として当時の戸籍が秦氏で占められている事が挙げられる。
https://i.imgur.com/18F2As6.jpg

608 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 19:05:46.22 .net
最澄も宇佐神宮に唐から無事に戻れたことのお礼参りをしていますね。
https://i.imgur.com/OchrFbh.jpg

609 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 21:38:54.76 .net
遣唐使船は安芸で造られている。
その理由の一つは、遣唐使船のような大型の帆船は航路が複雑で、おまけに潮流まで超複雑な瀬戸内海を通過することが難しかったことがあったと思う。
一方、船体が小さい準構造船の場合はそうした障害が少なく、熟練した漕ぎ手の操船で普通に瀬戸内海を通過できた。
斉明天皇の記事や万葉集の歌でそれが証明されている。
こうしたことから、裴世清らの乗った遣隋使船が筑紫に着いたあとも、そのまま瀬戸内海を進んで難波津まで航行したとは考えにくい。
裴世清らが瀬戸内海を船で通ったとすれば、それは準構造船だったはずだ。
最澄も同じだっただろう。

610 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 23:48:19.38 .net
安芸で作った大型船は周防灘から関門海峡を経て中国に行ったわけなので、
裴世清も最低でも安芸までは船に乗っていたと考えられます。
そして日本書紀には、『客等泊于難波津 是日 以飾船三十艘』とありますね、
これは航路の終着点での出迎えですよね、陸路の客を船で出迎えるのは不自然と考えます。
そして斉明天皇は駿河の国に百済行の船を造らせていることも、瀬戸内航路に問題が無かったことの証拠であると考えます。

611 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 03:37:58.62 .net
この日本書紀の難波津の記述が史実そのものだったとして、その裴世清らが乗った船の出発点はどこにも記されていない。
裴らが陸路を来て明石に逗留していたとした場合、大和側がその明石の逗留所へ準構造船を差し向けて、裴らはその船に乗って明石から難波津へ着いたということになる。
日本書紀の記述を信じれば、そうなる。

そして、日本書紀では、裴らが奈良の都で拝謁したのは女性の推古天皇ということになっているが、しかしながら、隋書では裴らが拝謁したのはタリシホコ王であって、推古天皇ではなかった。
そうすれば、日本書紀のこの一連の記述は、かなり怪しくなってくる。
本当に裴らは難波津へ着いたのかということになる。

また、斉明天皇は筑紫へ行くための船を駿河国で造らせているが、この船は伊勢まで海上を送られたあとは、多気郡(今の明和町あたり)から川を遡って奈良の大和川の川上まで引っ張り上げられ、そこからその大和川を下って大阪湾に届けられた。
遣唐使船のような大型船でないことは明らか。
準構造船だったとみて間違いない。
斉明天皇が大阪湾から瀬戸内海を航行して博多まで行ったのは、この山越えした準構造船だったということになる。
伊勢から奈良への山越えができるくらいの準構造船だったとすれば、これは漕ぎ手以外に乗れるのは斉明天皇ほかせいぜい3、4人ではなかったか。
そうなると、斉明天皇といえど、普通よりやや大きめの準構造船に乗って瀬戸内海を通ったということになる。
このケースについては、なんの問題もない。

612 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 04:14:59.62 .net
斉明天皇が駿河で作らせたのは新羅征伐のための軍船です、3~4人の乗組員ではいくさになりませぬ。
遣隋使を送ったのは聖徳太子なのでタリシヒコは推古天皇の甥の聖徳太子の事と考えられます。

613 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 04:53:06.59 .net
どうやら裴世清が乗った遣隋使船は乗員が14名なので、120人の乗組員の遣唐使船と比べればさほど大きくは無かったようですね

614 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 15:55:36.38 .net
>>612
この駿河国で造った船は、天皇が乗る船。
駿河一国で何百隻もの船は造れない。
また、そんな多数の船を全て伊勢から大和への山越えで運ぶことは不可能。
船を伊勢から大和へ運ぶときに、夜中のうちに船の舳先と船尾が入れ替わったと怪事が起こったことが書かれている。
船が多数であったなら、表現として「悉く」などの字句がつけられていたはず。
しかし、書紀の表現は「その船」であり、複数の船であったことを示す字句は見られない。
駿河国で造った船は、斉明天皇が乗るための準構造船だったとするのがよい。

隋書では、日本の王を「アハケミ」としており、これは「オオキミ」の音訳で、オオキミ(大君)は天皇のこと。
そのオオキミ(天皇)の名をタリシホコとして、後宮には多数の女性がいるとしている。
推古天皇のことではなく、聖徳太子が隋が理解していた日本の天皇ということになる。
そして、裴世清はその聖徳太子に天皇として拝謁したことになる。
拝謁した場所は、難波宮だったと思われる。
そうすると、日本書紀が記す難波津の近くに設けられた裴世清らの宿所はその難波宮に非常に近いところにあり、不自然。
このことからすると、日本書紀の一連の記述は、非常に疑わしいと言わざるを得ない。

裴世清らの宿所が「海岸」にあったとする隋書の記述の場所を明石とすれば、明石から難波宮までの距離はそれ相応のものとすることができる。
そういうわけなので、裴世清らは陸路を進み、宿所のある明石の「海岸」に着いたとするのが合理的。
そうなれば、裴らは宇佐には行っていないという結論になる。

615 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 16:10:51.22 .net
>>613
日本書紀は、隋の使節団は裴世清と下客12人としているが、裴世清と随員が12人の意味だろう。
問題なのは、裴世清ら13人だけがやってきたのではなく、この13名の世話をする人員もその他にいたということ。
彼ら13人の世話を倭人がしたということはあり得ず、中国を出発する時点で裴らの世話人も随行していて、一人に最低5、6人はいたと考えられるから、13人に付随する世話人は総数で70〜80人はいたのではないか。
これらの人員が遣隋使船に同乗してきて、その後多数の準構造船に分散して乗って瀬戸内海の難所を通過するというのは、明らかに無理がある。

このように考えると、これら多数の隋使一行は、陸路を「海岸」まで進んだとするのが合理的だ。

616 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 16:18:52.29 .net
>>614
小野妹子が隋に向かう行程の近くに宇佐神宮があったのですから、当然難波に向かう行程でも宇佐神宮の近くを通るはずです。後に宇佐神宮を勧請するくらいですから、当然訪れたと考えるのが普通です。そしてこの先の航路の安全を祈願した事でしょう。

617 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 16:37:58.44 .net
>>615
120人乗ったと記録のある遣唐使船が難波から出航しているのに、遣隋使船が出航出来ないと考えるのは理にかなっていないと思いますが。

618 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 21:10:25.56 .net
>>617
確かに、遣唐使船には120人くらいが乗ったとかかれているサイトがみられる。
また、その遣唐使船は、難波から出たと書いているものもみられる。
しかし、そのことを記した元にな典籍については、なかなか見つからなかった。
その元になる典籍を示してもらえたら、即座に遣唐使船難波出航を認めるよ。

619 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 21:34:32.58 .net
>>602
四国の佐田も金次第 w

620 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 22:43:12.15 .net
>>617
この遣唐使船の出発港については「平戸史再考NO.007 遣唐使船とその航海」のサイトが詳しい。
それによると、遣唐使船が難波から出発したのは延暦22年(803年)が初めてで、しかも瀬戸内海の複雑潮流や風で難破して、使い物にならなくなり取りやめになったとしている。
つまり、このサイトでも述べているように、瀬戸内海の難所を通って難波から博多に行けたのは準構造船だったということ。
なので、大陸から戻った遣隋使船も博多の母港で留まっていたのだろう。

このような事情であるものの、では、裴世清ら使節団は準構造船で瀬戸内海を難波まで行ったのかというと、その記述がないことはいうまでもないこと。
陸路だよ、陸路。
「海岸」が待っているよ。^^

621 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 22:45:43.10 .net
>>602
佐田の渡しは、椎根津彦の稼業だったのか。

622 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 23:32:03.21 .net
>>620
続日本紀 巻第十一
《天平五年(七三三)四月己亥【丁酉朔三】》夏四月己亥。遣唐四船、自難波津進発。
https://atelier-akagi.jp/misasagi/hakuhounara/45syoumu_html/45syoumu2_text.html

これが難波津から遣唐使船が出航した記録です。

623 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 01:00:53.85 .net
>>620
> 陸路だよ、陸路。
> 「海岸」が待っているよ。^^

当時の山陽道から陸路で直接難波津に行く道は無いようです
https://i.imgur.com/bEmsf96.jpg

624 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 02:08:10.88 .net
日本書紀には、
「客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口」
と記されていますが江口に裴世清が歩いて行くのは無理だと思います、なので遣唐使は難波津から出航したと考えますし通説だと思います
https://i.imgur.com/2B0pFjH.jpg

625 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 03:46:09.11 .net
>>622
天平五年(733年)に難波津から遣唐使船四隻が出発したと続日本紀に書かれていることは、その通り。
一方、650年には安芸で百済船が作られて、これが653年の遣唐使船として用いられたと推定されている。
そして、この百済船が日本で最初の遣唐使船だったと考えられている。
ということは、650年以前には大型外洋船は、日本にはなかったということになる。
そこで、裴世清が来日したのは608年であることを考えれば、裴世清が同乗してきた日本船は準構造船であったことになる。
このように見ると、大型外洋船の遣唐使船は、裴世清のケースでは考えなくてもよいことになる。
また、準構造船であればごく普通に瀬戸内海を行き来できたことは、これまでにも認めてきたところだ。

そうなると、裴世清は日本についてから、準構造船でそのまま瀬戸内海を通って難波津に着いたのかどうかということになる。
日本書紀では、裴世清がどこから出発したのか何も書いていないが、難波津に着いたとは書いている。
しかし、隋書では船で行ったとはどこにも書いていず、ただ「海岸」に着いたとだけ書いている。
そして、日本書紀のこの件についての記述はいささか怪しいとなってくると、本当に裴世清は難波津に着いたのかということも考えなければならなくなる。
隋書の「海岸」とは、いったいどこよ、ということになるわけ。
陸路で着いた「海岸」を明石として、日本書紀の裴世清が難波津に着いたとする記述を信用すれば、明石から準構造船で難波津に渡ったということになるし、信用しなければ裴世清は陸路で難波の宮に行き、そこで聖徳太子を日本の王として拝謁したという可能性も出てくる。

626 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 03:54:58.35 .net
>>623
この大阪湾の地図は、4世紀までの図。
5世紀に入って仁徳天皇が堀江の川を開削してから草加江の水位が低下し、これに土砂が溜まって陸地化して行く。
それから百年ほどたったころには、草加江は相当縮小してる図になるようだ。
明石から東回りに難波の宮に行くのは、ごく普通の行程と言える。

627 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 04:14:28.76 .net
>>624
日本書紀の記述を信用した場合、江口は今の中之島あたりとされているので、そこに造った新館へ難波津から船三十隻でもって渡したということだね。
この記述自体については、問題ない。
また、この頃には、草香江は相当陸地化していて、明石から東回りに陸地づたいでも歩いて行けるしね。

628 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 06:25:28.18 .net
>>625
卑弥呼は238年に生口を含む12名(漕ぎ手は不明)で魏に朝貢しています。
この規模は遣隋使とあまり変わらないと考えられますが、
この船が瀬戸内海を航行出来なかったとすれば、
邪馬台国畿内説は成り立たないという問題提起として興味深いものになりますね。

629 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 06:30:16.12 .net
>>626
日下雅義氏による6~7世紀の地図だそうですよ

630 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 15:09:21.41 .net
>>628
卑弥呼の使節団は、弥生の準構造船で魏に朝貢したはず。
一方、魏の答礼使は自前の船で倭国に渡ったのか、伽耶からは倭人の準構造船に乗り換えたのか、そのあたりは不明。
魏は山東半島から朝鮮半島へ船で兵を送り込んでいるから、渡航用の大型船を持っていたことが考えられる。
この大型船でもって、伽耶からは倭人の水先案内で倭国へ渡り、そのまま大和の邪馬台国へ瀬戸内海を通って行くとしたら、これは確かに無理で、日本の遣唐使の百済船が瀬戸内海の難所に阻まれたのと同じことになる。
この場合は、邪馬台国大和説は無理めいてくるね。
ただ、博多あたりから準構造船に乗り換えて大阪湾まで進むというケースは考えられるから、使節団が大和の卑弥呼に拝謁することはOkになるね。

しかし、まあ、卑弥呼の邪馬台国は北部九州にあったけどね。

631 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 15:15:18.42 .net
>>629
堀江の川の開削で草香江の水位が下がり、草香江の陸地化が始まったとされているので、百年、二百年後には草香江は相当縮小していたとする図のほうが合理的ではないか。
この日下氏の図では、その草香江が4世紀頃までの草香江と変わらないように見えるけどね。

632 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 17:40:01.36 .net
日本書紀に、応神天皇31年に武庫水門に停泊していた新羅の使者の船の記載があることや、
応神天皇が兄媛の吉備里帰りのために御原の海人80人の水夫を呼び難波から船を出していること、
弓月君の数万人の渡来などを考えても、遣隋使船が難波津から出航することは不可能ではなかったと考えます。

633 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 18:15:38.69 .net
>>631
762年に安芸国から回航された遣唐使船が難波津で動けなくなる事件が発生する
(『続日本紀』天平宝字6年4月丙寅条)とあるのでそれまでは問題無かったという事でしょう

634 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 19:55:49.33 .net
>>587
日本書紀は、兄媛が乗る船の漕ぎ手として、応神天皇が御原の海人を当てたとしている。
この御原は今の南あわじ市あたりなので、御原の海人とは鳴門海峡の難所を漕ぎ渡る熟練の漕ぎ手なのが分かる。
ということは、彼らが熟練しているのは準構造船の操船であり、そのために大津から出発する兄媛の準構造船の漕ぎ手に当てられたのだろう。
漕ぎ手80人については、埴輪などから準構造船の漕ぎ手は片側5人のものがみられるので、両側で10人とすると、兄媛と兄媛のお供たちを乗せる準構造船は全部で8艘程度だったことが推測される。
天皇の妃なので、それくらいの船団になるではないか。
まったく問題ない。

弓月君が倭国に渡ったときの総勢が数万人に達すると日本書紀は書いているようだけど、これは実際の渡来人数とはかけ離れた数字だと思う。
この多数の人数については、のちに秦氏があちこちで囲い込んだ渡来系の民を元々からいた同族人だとして合理化するのが目的の文章だと思われる。
なので、この多数の人数から、彼らを運んだ船が外洋航行の大船だったと導くのは危険だ。

635 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 20:10:59.88 .net
>>634
先に挙げた「遣唐使船とその航海」のサイトでは、瀬戸内海の難所は何艘もの準構造船が遣唐使船を曳航して通り抜けたのではないかと推測している。
それでも難破したりしているのだから、元々無理があったのだと思う。
そういう事情のため、難波津からは準構造船で進んで瀬戸内海を越えて博多まで行き、博多で遣唐使船に乗り込むのが普通だったのではないか。
ということは、その復路も、瀬戸内海は準構造船が用いられたと考えるのがOK。

ただし、裴世清の場合は、海路だったことが分かる記述は見られないので、「海岸」までは陸路だったと思われる。

636 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 22:07:54.55 .net
>>635
船を降りて陸路を使ったという記述はないので海路だと考える

637 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 23:29:09.34 .net
中国からの長旅でやっと倭国についたのだから、一応末盧で船を降りて伊都で骨休めするのが正常な旅程。
その間に末盧の役人が博多の筑紫太宰に到着を知らせ、太宰では役人を末盧に派遣する一方で歓迎の準備を進め、都へも知らせのために役人を送り出す。
日本書紀では、都の朝廷はこの筑紫太宰の知らせを受けて、難波津の近くの江口に使節団滞在のための新館の建築を始めたとしている。
これが正しい外交の手順。

こうした順序を踏まずに都へ直行するのは、あり得ないこと。
そして、難波の江口に使節団の逗留のための新館が建築されたと日本書紀が書いているが、この記述は難波には迎賓施設がなかったことを示している。
なので、このことは、隋書に書かれている「海岸」にその迎賓施設があったことを示していることになるわけであり、そのためにこそ使節団は明石の「海岸」に行ったのだと解釈するのがよい。

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