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秦氏はどこから来たか 4

1 :アッシー:2020/02/27(木) 01:58:54 .net
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。

602 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 09:35:28.25 .net
佐田岬ルート
佐田岬の先端まで徒歩
伊予灘は航路を利用

603 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 10:49:42.26 .net
596年に聖徳太子が四国の道後温泉に行った記録があるので、遣隋使の時には少なくとも難波からの瀬戸内航路はあったと考えられる

604 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 15:37:51.49 .net
雄略天皇のときに、新羅征討のための将軍に任命された吉備臣尾代は山陽道を通って博多へ向かっている。
雄略が崩御したことを聞いて、軍勢に加わっていた蝦夷が逃亡したので、これを追いかけて倒した。
山陽道の陸路が使われていたということ。
安全第一の隋使節団は、陸路で都へ向かったとすれば、宇佐には行っていないと考えるのがよい。

605 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 16:19:37.13 .net
>>604

三宅八幡宮の社伝によれば、
「推古天皇の時代に遣隋使として隋に赴こうとしていた小野妹子が、筑紫で病気になった。しかし、近くにあった宇佐八幡宮に祈願するとたちまち病気が治って隋に渡り、無事帰国することができた。その後、聖徳太子の没後に報恩の意味を込めて自らの所領である山城国愛宕郡小野郷と呼ばれるこの地に、宇佐八幡宮を勧請して建立したのが当社であるとされている」
とあるので宇佐神宮には立ち寄っている事は明確である。
もし陸路を使ったならば宇佐神宮と最短距離になる門司からは向かう博多方面とは逆方向に80キロあり病気の小野妹子が気軽に立ち寄るには遠方過ぎると思います。海路を使っていたからこそ宇佐八幡の近くにあったと記されているのでしょう。
https://i.imgur.com/bbQwzND.jpg

606 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 17:28:20.50 .net
博多に係留されていた遣隋使船に乗るために、準構造船で瀬戸内海を西進し、途中病気になった小野妹子が病気回復の祈願を宇佐神宮で行ったあと、そのまま博多へ航行したというのはあり得ること。
遣唐使も同じように準構造船に乗って博多まで航行しているようだから、問題ない。
そうなら、帰りも同じく準構造船を利用しただろう。

しかし、隋使節団の裴世清らが準構造船で博多から難波津まで航行したとする記述は隋書のどこにもなく、日本書紀で裴世清らが難波津に入港したと書いてあるだけ。
この書紀の記述にしても、一行が博多から船で出発したという記述はどこにもない。
そういう記述がない以上、裴世清らが陸路で「海岸」まで行ったとするのがOK。
帰りもまだ皇帝に復命する義務を負っているので、安全第一だったことが推測できるため、帰りも陸路で博多まで行ったとするのがよい。

607 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 17:59:27.08 .net
小野妹子は病気の回復と無事に隋から戻って来れた事へのお礼参りとして、裴世清を乗せた遣隋使船は難波に向かう途中宇佐に立ち寄ったと考えられる。そしてその時の様子を裴世清は秦王国と記したのでしょう。
さらに豊前が秦王国であった証拠として当時の戸籍が秦氏で占められている事が挙げられる。
https://i.imgur.com/18F2As6.jpg

608 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 19:05:46.22 .net
最澄も宇佐神宮に唐から無事に戻れたことのお礼参りをしていますね。
https://i.imgur.com/OchrFbh.jpg

609 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 21:38:54.76 .net
遣唐使船は安芸で造られている。
その理由の一つは、遣唐使船のような大型の帆船は航路が複雑で、おまけに潮流まで超複雑な瀬戸内海を通過することが難しかったことがあったと思う。
一方、船体が小さい準構造船の場合はそうした障害が少なく、熟練した漕ぎ手の操船で普通に瀬戸内海を通過できた。
斉明天皇の記事や万葉集の歌でそれが証明されている。
こうしたことから、裴世清らの乗った遣隋使船が筑紫に着いたあとも、そのまま瀬戸内海を進んで難波津まで航行したとは考えにくい。
裴世清らが瀬戸内海を船で通ったとすれば、それは準構造船だったはずだ。
最澄も同じだっただろう。

610 :日本@名無史さん:2023/03/23(木) 23:48:19.38 .net
安芸で作った大型船は周防灘から関門海峡を経て中国に行ったわけなので、
裴世清も最低でも安芸までは船に乗っていたと考えられます。
そして日本書紀には、『客等泊于難波津 是日 以飾船三十艘』とありますね、
これは航路の終着点での出迎えですよね、陸路の客を船で出迎えるのは不自然と考えます。
そして斉明天皇は駿河の国に百済行の船を造らせていることも、瀬戸内航路に問題が無かったことの証拠であると考えます。

611 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 03:37:58.62 .net
この日本書紀の難波津の記述が史実そのものだったとして、その裴世清らが乗った船の出発点はどこにも記されていない。
裴らが陸路を来て明石に逗留していたとした場合、大和側がその明石の逗留所へ準構造船を差し向けて、裴らはその船に乗って明石から難波津へ着いたということになる。
日本書紀の記述を信じれば、そうなる。

そして、日本書紀では、裴らが奈良の都で拝謁したのは女性の推古天皇ということになっているが、しかしながら、隋書では裴らが拝謁したのはタリシホコ王であって、推古天皇ではなかった。
そうすれば、日本書紀のこの一連の記述は、かなり怪しくなってくる。
本当に裴らは難波津へ着いたのかということになる。

また、斉明天皇は筑紫へ行くための船を駿河国で造らせているが、この船は伊勢まで海上を送られたあとは、多気郡(今の明和町あたり)から川を遡って奈良の大和川の川上まで引っ張り上げられ、そこからその大和川を下って大阪湾に届けられた。
遣唐使船のような大型船でないことは明らか。
準構造船だったとみて間違いない。
斉明天皇が大阪湾から瀬戸内海を航行して博多まで行ったのは、この山越えした準構造船だったということになる。
伊勢から奈良への山越えができるくらいの準構造船だったとすれば、これは漕ぎ手以外に乗れるのは斉明天皇ほかせいぜい3、4人ではなかったか。
そうなると、斉明天皇といえど、普通よりやや大きめの準構造船に乗って瀬戸内海を通ったということになる。
このケースについては、なんの問題もない。

612 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 04:14:59.62 .net
斉明天皇が駿河で作らせたのは新羅征伐のための軍船です、3~4人の乗組員ではいくさになりませぬ。
遣隋使を送ったのは聖徳太子なのでタリシヒコは推古天皇の甥の聖徳太子の事と考えられます。

613 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 04:53:06.59 .net
どうやら裴世清が乗った遣隋使船は乗員が14名なので、120人の乗組員の遣唐使船と比べればさほど大きくは無かったようですね

614 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 15:55:36.38 .net
>>612
この駿河国で造った船は、天皇が乗る船。
駿河一国で何百隻もの船は造れない。
また、そんな多数の船を全て伊勢から大和への山越えで運ぶことは不可能。
船を伊勢から大和へ運ぶときに、夜中のうちに船の舳先と船尾が入れ替わったと怪事が起こったことが書かれている。
船が多数であったなら、表現として「悉く」などの字句がつけられていたはず。
しかし、書紀の表現は「その船」であり、複数の船であったことを示す字句は見られない。
駿河国で造った船は、斉明天皇が乗るための準構造船だったとするのがよい。

隋書では、日本の王を「アハケミ」としており、これは「オオキミ」の音訳で、オオキミ(大君)は天皇のこと。
そのオオキミ(天皇)の名をタリシホコとして、後宮には多数の女性がいるとしている。
推古天皇のことではなく、聖徳太子が隋が理解していた日本の天皇ということになる。
そして、裴世清はその聖徳太子に天皇として拝謁したことになる。
拝謁した場所は、難波宮だったと思われる。
そうすると、日本書紀が記す難波津の近くに設けられた裴世清らの宿所はその難波宮に非常に近いところにあり、不自然。
このことからすると、日本書紀の一連の記述は、非常に疑わしいと言わざるを得ない。

裴世清らの宿所が「海岸」にあったとする隋書の記述の場所を明石とすれば、明石から難波宮までの距離はそれ相応のものとすることができる。
そういうわけなので、裴世清らは陸路を進み、宿所のある明石の「海岸」に着いたとするのが合理的。
そうなれば、裴らは宇佐には行っていないという結論になる。

615 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 16:10:51.22 .net
>>613
日本書紀は、隋の使節団は裴世清と下客12人としているが、裴世清と随員が12人の意味だろう。
問題なのは、裴世清ら13人だけがやってきたのではなく、この13名の世話をする人員もその他にいたということ。
彼ら13人の世話を倭人がしたということはあり得ず、中国を出発する時点で裴らの世話人も随行していて、一人に最低5、6人はいたと考えられるから、13人に付随する世話人は総数で70〜80人はいたのではないか。
これらの人員が遣隋使船に同乗してきて、その後多数の準構造船に分散して乗って瀬戸内海の難所を通過するというのは、明らかに無理がある。

このように考えると、これら多数の隋使一行は、陸路を「海岸」まで進んだとするのが合理的だ。

616 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 16:18:52.29 .net
>>614
小野妹子が隋に向かう行程の近くに宇佐神宮があったのですから、当然難波に向かう行程でも宇佐神宮の近くを通るはずです。後に宇佐神宮を勧請するくらいですから、当然訪れたと考えるのが普通です。そしてこの先の航路の安全を祈願した事でしょう。

617 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 16:37:58.44 .net
>>615
120人乗ったと記録のある遣唐使船が難波から出航しているのに、遣隋使船が出航出来ないと考えるのは理にかなっていないと思いますが。

618 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 21:10:25.56 .net
>>617
確かに、遣唐使船には120人くらいが乗ったとかかれているサイトがみられる。
また、その遣唐使船は、難波から出たと書いているものもみられる。
しかし、そのことを記した元にな典籍については、なかなか見つからなかった。
その元になる典籍を示してもらえたら、即座に遣唐使船難波出航を認めるよ。

619 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 21:34:32.58 .net
>>602
四国の佐田も金次第 w

620 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 22:43:12.15 .net
>>617
この遣唐使船の出発港については「平戸史再考NO.007 遣唐使船とその航海」のサイトが詳しい。
それによると、遣唐使船が難波から出発したのは延暦22年(803年)が初めてで、しかも瀬戸内海の複雑潮流や風で難破して、使い物にならなくなり取りやめになったとしている。
つまり、このサイトでも述べているように、瀬戸内海の難所を通って難波から博多に行けたのは準構造船だったということ。
なので、大陸から戻った遣隋使船も博多の母港で留まっていたのだろう。

このような事情であるものの、では、裴世清ら使節団は準構造船で瀬戸内海を難波まで行ったのかというと、その記述がないことはいうまでもないこと。
陸路だよ、陸路。
「海岸」が待っているよ。^^

621 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 22:45:43.10 .net
>>602
佐田の渡しは、椎根津彦の稼業だったのか。

622 :日本@名無史さん:2023/03/24(金) 23:32:03.21 .net
>>620
続日本紀 巻第十一
《天平五年(七三三)四月己亥【丁酉朔三】》夏四月己亥。遣唐四船、自難波津進発。
https://atelier-akagi.jp/misasagi/hakuhounara/45syoumu_html/45syoumu2_text.html

これが難波津から遣唐使船が出航した記録です。

623 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 01:00:53.85 .net
>>620
> 陸路だよ、陸路。
> 「海岸」が待っているよ。^^

当時の山陽道から陸路で直接難波津に行く道は無いようです
https://i.imgur.com/bEmsf96.jpg

624 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 02:08:10.88 .net
日本書紀には、
「客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口」
と記されていますが江口に裴世清が歩いて行くのは無理だと思います、なので遣唐使は難波津から出航したと考えますし通説だと思います
https://i.imgur.com/2B0pFjH.jpg

625 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 03:46:09.11 .net
>>622
天平五年(733年)に難波津から遣唐使船四隻が出発したと続日本紀に書かれていることは、その通り。
一方、650年には安芸で百済船が作られて、これが653年の遣唐使船として用いられたと推定されている。
そして、この百済船が日本で最初の遣唐使船だったと考えられている。
ということは、650年以前には大型外洋船は、日本にはなかったということになる。
そこで、裴世清が来日したのは608年であることを考えれば、裴世清が同乗してきた日本船は準構造船であったことになる。
このように見ると、大型外洋船の遣唐使船は、裴世清のケースでは考えなくてもよいことになる。
また、準構造船であればごく普通に瀬戸内海を行き来できたことは、これまでにも認めてきたところだ。

そうなると、裴世清は日本についてから、準構造船でそのまま瀬戸内海を通って難波津に着いたのかどうかということになる。
日本書紀では、裴世清がどこから出発したのか何も書いていないが、難波津に着いたとは書いている。
しかし、隋書では船で行ったとはどこにも書いていず、ただ「海岸」に着いたとだけ書いている。
そして、日本書紀のこの件についての記述はいささか怪しいとなってくると、本当に裴世清は難波津に着いたのかということも考えなければならなくなる。
隋書の「海岸」とは、いったいどこよ、ということになるわけ。
陸路で着いた「海岸」を明石として、日本書紀の裴世清が難波津に着いたとする記述を信用すれば、明石から準構造船で難波津に渡ったということになるし、信用しなければ裴世清は陸路で難波の宮に行き、そこで聖徳太子を日本の王として拝謁したという可能性も出てくる。

626 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 03:54:58.35 .net
>>623
この大阪湾の地図は、4世紀までの図。
5世紀に入って仁徳天皇が堀江の川を開削してから草加江の水位が低下し、これに土砂が溜まって陸地化して行く。
それから百年ほどたったころには、草加江は相当縮小してる図になるようだ。
明石から東回りに難波の宮に行くのは、ごく普通の行程と言える。

627 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 04:14:28.76 .net
>>624
日本書紀の記述を信用した場合、江口は今の中之島あたりとされているので、そこに造った新館へ難波津から船三十隻でもって渡したということだね。
この記述自体については、問題ない。
また、この頃には、草香江は相当陸地化していて、明石から東回りに陸地づたいでも歩いて行けるしね。

628 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 06:25:28.18 .net
>>625
卑弥呼は238年に生口を含む12名(漕ぎ手は不明)で魏に朝貢しています。
この規模は遣隋使とあまり変わらないと考えられますが、
この船が瀬戸内海を航行出来なかったとすれば、
邪馬台国畿内説は成り立たないという問題提起として興味深いものになりますね。

629 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 06:30:16.12 .net
>>626
日下雅義氏による6~7世紀の地図だそうですよ

630 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 15:09:21.41 .net
>>628
卑弥呼の使節団は、弥生の準構造船で魏に朝貢したはず。
一方、魏の答礼使は自前の船で倭国に渡ったのか、伽耶からは倭人の準構造船に乗り換えたのか、そのあたりは不明。
魏は山東半島から朝鮮半島へ船で兵を送り込んでいるから、渡航用の大型船を持っていたことが考えられる。
この大型船でもって、伽耶からは倭人の水先案内で倭国へ渡り、そのまま大和の邪馬台国へ瀬戸内海を通って行くとしたら、これは確かに無理で、日本の遣唐使の百済船が瀬戸内海の難所に阻まれたのと同じことになる。
この場合は、邪馬台国大和説は無理めいてくるね。
ただ、博多あたりから準構造船に乗り換えて大阪湾まで進むというケースは考えられるから、使節団が大和の卑弥呼に拝謁することはOkになるね。

しかし、まあ、卑弥呼の邪馬台国は北部九州にあったけどね。

631 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 15:15:18.42 .net
>>629
堀江の川の開削で草香江の水位が下がり、草香江の陸地化が始まったとされているので、百年、二百年後には草香江は相当縮小していたとする図のほうが合理的ではないか。
この日下氏の図では、その草香江が4世紀頃までの草香江と変わらないように見えるけどね。

632 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 17:40:01.36 .net
日本書紀に、応神天皇31年に武庫水門に停泊していた新羅の使者の船の記載があることや、
応神天皇が兄媛の吉備里帰りのために御原の海人80人の水夫を呼び難波から船を出していること、
弓月君の数万人の渡来などを考えても、遣隋使船が難波津から出航することは不可能ではなかったと考えます。

633 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 18:15:38.69 .net
>>631
762年に安芸国から回航された遣唐使船が難波津で動けなくなる事件が発生する
(『続日本紀』天平宝字6年4月丙寅条)とあるのでそれまでは問題無かったという事でしょう

634 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 19:55:49.33 .net
>>587
日本書紀は、兄媛が乗る船の漕ぎ手として、応神天皇が御原の海人を当てたとしている。
この御原は今の南あわじ市あたりなので、御原の海人とは鳴門海峡の難所を漕ぎ渡る熟練の漕ぎ手なのが分かる。
ということは、彼らが熟練しているのは準構造船の操船であり、そのために大津から出発する兄媛の準構造船の漕ぎ手に当てられたのだろう。
漕ぎ手80人については、埴輪などから準構造船の漕ぎ手は片側5人のものがみられるので、両側で10人とすると、兄媛と兄媛のお供たちを乗せる準構造船は全部で8艘程度だったことが推測される。
天皇の妃なので、それくらいの船団になるではないか。
まったく問題ない。

弓月君が倭国に渡ったときの総勢が数万人に達すると日本書紀は書いているようだけど、これは実際の渡来人数とはかけ離れた数字だと思う。
この多数の人数については、のちに秦氏があちこちで囲い込んだ渡来系の民を元々からいた同族人だとして合理化するのが目的の文章だと思われる。
なので、この多数の人数から、彼らを運んだ船が外洋航行の大船だったと導くのは危険だ。

635 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 20:10:59.88 .net
>>634
先に挙げた「遣唐使船とその航海」のサイトでは、瀬戸内海の難所は何艘もの準構造船が遣唐使船を曳航して通り抜けたのではないかと推測している。
それでも難破したりしているのだから、元々無理があったのだと思う。
そういう事情のため、難波津からは準構造船で進んで瀬戸内海を越えて博多まで行き、博多で遣唐使船に乗り込むのが普通だったのではないか。
ということは、その復路も、瀬戸内海は準構造船が用いられたと考えるのがOK。

ただし、裴世清の場合は、海路だったことが分かる記述は見られないので、「海岸」までは陸路だったと思われる。

636 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 22:07:54.55 .net
>>635
船を降りて陸路を使ったという記述はないので海路だと考える

637 :日本@名無史さん:2023/03/25(土) 23:29:09.34 .net
中国からの長旅でやっと倭国についたのだから、一応末盧で船を降りて伊都で骨休めするのが正常な旅程。
その間に末盧の役人が博多の筑紫太宰に到着を知らせ、太宰では役人を末盧に派遣する一方で歓迎の準備を進め、都へも知らせのために役人を送り出す。
日本書紀では、都の朝廷はこの筑紫太宰の知らせを受けて、難波津の近くの江口に使節団滞在のための新館の建築を始めたとしている。
これが正しい外交の手順。

こうした順序を踏まずに都へ直行するのは、あり得ないこと。
そして、難波の江口に使節団の逗留のための新館が建築されたと日本書紀が書いているが、この記述は難波には迎賓施設がなかったことを示している。
なので、このことは、隋書に書かれている「海岸」にその迎賓施設があったことを示していることになるわけであり、そのためにこそ使節団は明石の「海岸」に行ったのだと解釈するのがよい。

638 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 00:09:26.12 .net
平安絵巻をご覧よ

平安貴族たちの顔は縄文系か?

それとも朝鮮系か?

朝鮮人の目はあんな細い目じゃないよ

あれはもろ北方モンゴロイド、ツンギーデの顔だよ
  
つまり縄文末に沿海州から入植した弥生人の子孫たちが支配階級になったんだよ

639 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 01:00:03.48 .net
>>637

>日本書紀では、都の朝廷はこの筑紫太宰の知らせを受けて、難波津の近くの江口に使節団滞在のための新館の建築を始めたとしている。

遣隋使船が出航地の難波津に戻ってくる事がわかっていたからでしょう。
30艘の飾り船で盛大に出迎えたと書かれていますが、船で出迎えをしているのに客人が陸路でやってくるというのはなんとも間抜けな絵面だと思います
海路で難波津の海岸に到着したのです。

640 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 02:42:58.14 .net
継体天皇の時代には任那と淀川に航路があったという日本書紀の記録
https://i.imgur.com/0sDX5uS.jpg

641 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 02:49:09.10 .net
継体天皇の石棺も航路で有明海から淀川を遡って運搬されたようだ

https://www.city.uto.lg.jp/museum/category/list/11.html

642 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 03:18:18.64 .net
朝廷は、隋の使節団が妹子とともに日本にやって来ることは前もって分かっていなかった。
そこで、その知らせが筑紫太宰から送られてきたので、「難波吉士雄成を遣わし、大唐客裴世清等を(朝廷)に召す」という外交行事を始め、併せて「唐客の為に更に新館を難波の高麗館の上に造る」と迎賓所を新造した、書紀は書いている。
隋の使節団が小野妹子と一緒に来ることが前もって分かっていれば、あわてて迎賓所を新造するようなことにはならず、もっと前に建てていたはず。
つまり、裴世清らは末盧に着いて上陸して伊都で一時骨休めし、その間に筑紫太宰にその知らせが行き、太宰はあわてて朝廷へ裴世清らの来日を知らせたということになるね。

ただ、書紀の記述は怪しい。
筑紫太宰から朝廷に知らせが来たところまではよいとして、そのおよそ二か月あとに裴世清らの船が博多から難波津へ船でやってきたように書紀は書いているが、相当に変だ。
というのも、その頃には裴世清らは「海岸」に着いていて、そこへ朝廷からの多数の歓迎使たちが陸路で二度にわたってその「海岸」にやってきて歓迎攻めにした、というのが隋書の記述だからだ。
このことを、書紀は一言半句も書いていないわけだから、書紀の記述は非常に怪しいということにならざるを得ない。
仮に隋書のこの部分を史実とし、また書紀の難波津の記述も史実とした場合は、書紀が書かなかったその「海岸」へ朝廷は船を手配し、そこから難波津へ使節団を渡したということになってくる。
そうなると、どうして書紀は「海岸」に着いた裴世清らに歓迎使を派遣したことを一言も書かずになかったのかという謎が出てくるのよ。

こうした不可解さは、隋の皇帝とその朝廷は日本の王は男性だとずっと思っていたことの不可解さと、どこかでつながるはずだと思う。
このことは、非常に面白い謎だということができそうだ。

643 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 04:04:15.31 .net
>>642
当時の通信手段には狼煙があるので小野妹子に「の・ん・び・り・も・ど・れ」との指令があったのでしょう
小野妹子はこれ幸いと宇佐神宮に参拝したりして時を稼いだと思われる。

644 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 15:59:59.01 .net
>>640>>641
準構造船。
航路は丸木舟の時代からあった。

645 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 16:25:04.24 .net
まあ、推古朝としては、隋皇帝の家来として扱われることを避けたかったのだろう。
外交的に対等感を出す挨拶文を出しているくらいだからね。
家来としての立場が明確に記されている皇帝からの挨拶文を、小野妹子は「紛失した」くらいだし。

そういうわけで、推古天皇ではなく、聖徳太子が倭王としてずっと対隋外交の表に立ってきた。
そこへ裴世清が乗り込んできたのだけど、日本書紀は裴世清が飛鳥で天皇に拝謁したと描写しているが、実際は難波宮で聖徳太子が裴世清を上手にして対面し、隋皇帝の家来として会ったのだろう。
日本書紀はその事実を消して、隋の家来としての日本の姿を闇に葬った可能性が高い。

なので、難波津関連の書紀の記述は、非常に怪しい。
裴世清ら使節団は、陸路で「海岸(明石)」に着いた。
聖徳太子は、そこへ多数の歓迎使を二度にわたって送り、隋の使節団を上手に置いた対応をした。
そういうことだよ。

646 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 17:37:22.46 .net
遣隋使以前の継体天皇の時代に何トンもの重量の石棺を熊本から船で淀川まで運搬している実績がある事から、遣隋使船の母港は難波津だったと考えられる

https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/13/363.html

647 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 20:51:25.97 .net
5世紀前半の岡山の造山古墳の前方部から、阿蘇ピンク石の石棺が出ているけどね。
今城塚古墳よりも1世紀ほど早い。
5世紀前半には、まだ大型外洋船は日本で造られていない。
ピンク石は、準構造船で運ばれた。
瀬戸の難所は、大型外洋船は無理。
大型外洋船の母港は、博多。

648 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 22:58:12.48 .net
難波津・住吉津・渡辺津から堺まで~大阪の繁栄を支えた大阪湾の歴史
https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_00765/

649 :日本@名無史さん:2023/03/26(日) 23:27:12.09 .net
日本書紀に、応神天皇31年に武庫水門に停泊していた新羅の使者の船の記載があることから当時から朝鮮半島への出発地点になっていたのではないだろうか。

650 :日本@名無史さん:2023/03/27(月) 00:34:40.46 .net
>>648
遣唐使船を難波まで曳航してきたのは、限られた回数しかないみたいだ。
しかもトラブルが発生して、その年の遣唐使を中止したりしているくらい。
準構造船だったら、普通に航行していた。
博多の母港で遣唐使船に乗るために、難波津から準構造船に乗って出発することは、ごく当たり前に行われていたと思われる。
万葉集の歌にある情景は、ほとんどがこの準構造船による船出だろうね。

651 :日本@名無史さん:2023/03/27(月) 00:55:23.62 .net
>>649
武庫の港は、多数の船が停泊できる広さがあったみたいだ。
新羅の使節の船も停泊していて、この船から火が出て舷側を接して係留していた多数の船に燃え移って、皆焼けてしまったと書紀が書いている。
このときには、風が強く吹くを避けて、風待ちのために入港していたのではないか。
そうでなければ、船は舷側を接して係留しない。
各船は風波による被害を避けて密に接してつなぎあっていたから、一船から火がでると強風によって瞬く間に類焼して行く。
おそらく、そういう事情だったのだろう。

なので、武庫の港が朝鮮半島に行く船の出発地点となっていたのかどうかは、かなり微妙ではないか。

652 :日本@名無史さん:2023/03/27(月) 03:17:13.95 .net
このウェブを難波津でページ検索すると、難波津での出航や入港がいくつも引っかかって来るよ。
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1024/nenpyou.htm

653 :日本@名無史さん:2023/03/27(月) 03:25:14.95 .net
603年
『日本書紀』22 推古十一年七月癸卯条
秋七月辛丑朔癸卯。當麻皇子自難波發船。

632年
舒明天皇 四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。
是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。
冬十月辛亥朔甲寅、唐國使人高表仁等泊于難波津、
則遣大伴連馬養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾

642年
『日本書紀』24 皇極元年二月壬辰条
壬辰。高麗使人泊難波津。

642年
『日本書紀』24 皇極元年五月庚午条
庚午。百濟国國調使船與吉士船。倶泊于難波津。〈盖吉士前奉使於百濟乎。〉

733年
『續日本紀』11 天平五年四月己亥条
夏四月己亥。遣唐四船自難波津進発。

654 :日本@名無史さん:2023/03/27(月) 17:12:21.78 .net
>>653
733年の遣唐使船四隻以外は、みな小型の準構造船だろう。
遣唐使船四隻も安芸-吉備間の難所は準構造船によって曳航して通ったと推測されている。
相当無理したということだ。
これと同じ別のケースでは、遣唐使船は難波津から出て瀬戸内海の難所で難破し、遣唐使を延期しているくらいだ。

なお、632年の高表仁の場合も、推古天皇のときの遣隋使答礼の裴世清のときとまったく同じ記述となつている。
筑紫太宰に立ち寄っているはずだから、九州についたときに上陸した。
その後、準構造船で瀬戸内海を通って難波津まで行ったのか、陸路で明石まで行って準構造船で難波津まで行ったのか、その経路は不明。
しかし、日本書紀に見える高表仁と出迎えの者とのやり取りの内容は、どうも腑に落ちない。
高表仁は、裴世清のときの前例を踏んで、明石までは陸路だろう。
そして、その後も陸路で難波宮に行ったのではないか。

655 :日本@名無史さん:2023/03/27(月) 17:43:18.09 .net
まあ考え方はそれぞれですな

656 :日本@名無史さん:2023/03/27(月) 19:05:38.66 .net
日本書紀では、高表仁の場合も、難波津に着いてから、江口の迎賓所に飾り立てた準構造船で迎え入れられる。
この行程は、裴世清のときとまったく同じだ。
そうすると、高表仁は難波津に着く前はどこにいたのかということになる。

大船に乗ってきたのであれば船中泊は可能だけれど、外洋航行の大船が瀬戸内海の難所を超えるのは難しいとなれば、準構造船に乗って瀬戸内海を渡ってきたか、陸路で来て、難波津まで一日の船行の距離にある港に居たことが考えられる。
そうすると、準構造船の一日の船行の範囲は、やはり明石あたりになってくるので、これは、裴世清のときの「海岸(明石)」に相当することになる。
日本書紀の記述を信じれば、高表仁は明石から準構造船で難波津に着いた可能性が高いということになる。
そこで、裴世清も高表仁も陸路で明石に着いたとするか、準構造船で瀬戸内海を通って明石で逗留し、そのあと難波津に渡ったとするか、どちらかだろう。
まあ、筑紫太宰から明石までどのようにして行ったかについては証拠がない以上、それぞれの考え方に従うよりないというのはその通りだね。

いずれにしても、日本の朝廷は、隋や唐とその国同士の国際関係についての位置づけで対立していて、日本書紀の記述をそのままに受け止めるのは危険だ。
日本書紀の記述に造作がないとは言いにくい。
日本書紀のほうが分が悪いと見るのがよいだろう。^^

657 :日本@名無史さん:2023/03/27(月) 23:26:08.38 .net
遣唐使船の多くが呉で作られているという、少なくとも呉から唐に行く航路があったという事で、裴世清が呉迄は船に乗っていた事は確実だと考える。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000138311

658 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 00:07:29.33 .net
AIの答え
質問: 遣隋使船の出発地点はどこですか?

https://i.imgur.com/PKyEZVL.jpg

659 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 04:10:18.51 .net
>>657
このレファレンスでは、遣唐使船は滋賀でも造られたとする資料が挙げられているが、そのとき造られた遣唐使船とは準構造船だったのではないかとする説があるようだ。
検索欄に「遣唐使船は滋賀で造られた」と入力して検索し、画面の一番上の「遣唐使船-公益財団法人滋賀県文化財保護協会」のサイトを開くと、新聞記事が現れる。
その新聞記事に、滋賀で造られたのは準構造船だつたのではないかとする説がみられる。

まあ、造った造船所と配属された母港は別だけど。
ただ、その造船所までは航行することはできるよね。

660 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 04:26:19.63 .net
>>658
ヒャー、AI、頭良すぎ。
でも、その船はどんな船だったか、と質問しなかったのが惜しい。

日本最初の外洋型大型船(百済船)は、650年に安芸で造られたもの。
そして、裴世清が来日したのは、608年。
難波津から出発する遣隋使の乗った船は、準構造船だった。

もう一度、AIに質問してみたら答えはどう出るか、チョー面白そう。

661 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 05:56:00.94 .net
>>659
魏に朝貢した遣魏使船が瀬戸内を通ったとは考えてはいないが、
それはただ通る必要が無かったということで必要があれば難波津まで航行できたのではないでしょうか。
なぜなら瀬戸内だけでなく日本各地への航路を知り尽くした安曇氏が遣魏使船の運航を任されていたと考えるからです。

662 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 06:23:11.42 .net
661年、安曇氏の安曇比羅夫は難波の海から征西の途にのぼったとありますが、朝廷も安曇氏の海運力に頼っていたのでしょう
http://www.naranature.com/n.kaihou/n.kaihou-2013/13-8/nn201308-14.pdf

663 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 06:47:08.66 .net
>>662
朝鮮内戦が勃発した時、新羅や唐(中国)の連合軍に
親日本的で格下の百済が滅ぼされ、急いで親日的な百済再興のため
天皇が軍を率いて朝鮮に向うのに、征西って言葉使ってんだな

664 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 16:27:51.93 .net
>>661
弥生時代には、すでに吉備から大和、近江などへ交易品が流れていたし、またその吉備には南九州からも交易品が流れていた。
瀬戸内海には、吉備をハブとした交易路が確立されていた。
こうした弥生交易路の上に、古墳時代の瀬戸内海航路が成り立っていたと思われる。
準構造船による瀬戸内海交易は、非常に活発だったようだ。
ただ、弥生時代には、博多と難波津を直結する交易路はなかった。
その直結航路が初めて開発されたのは古墳時代のごく初期の250年過ぎ頃で、それ以来大和が急速に発展するようになった。

安曇が瀬戸内海航路で活躍するようになるのは、応神の頃からではないか。

665 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 17:56:24.22 .net
>>662
日本は、伝統的に、軍船は軽量な機動力を持った小型船が得意だった。
丸木舟から準構造線に発展した船が常時もちいられたのは、沿岸の海流が極めて複雑だったからだろう。
それに、大量の人員や物資を運ぶ必要性が生じなかったことも理由の一つと思われる。

なので、外洋をもっぱらとする大船による海運業者が生まれず、沿岸や水系の半漁の運輸業者が力を持った。
安曇もそうした大阪湾の半漁の運輸業者からのしあがった氏族だろう。
当然、運搬船には準構造船を用いた。

666 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 18:07:53.25 .net
>>664

隋書に、倭国は古の倭奴国なりと書かれています。そうであるなら瀬戸内に面する豊前も古くからの安曇氏のテリトリーだったのでは無いでしょうか、宇佐から駅館川を遡った盆地の安心院は安曇氏の根拠地だとも言われています。

667 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 18:19:18.83 .net
>>665
安曇族の王が金印を貰った那国王だったと思います、君が代は安曇族の王の歌と言われています。

668 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 02:18:03.72 .net
安曇(アズミ)の呼称を見てみると、漢字の安曇の音はアドン。
この安曇(アドン)の語尾のン音を切り捨てると、安曇(アド)になる。
そうすると、その安曇(アド)を安曇(アズミ)と読ませているのには、それなりの理由があるのだと推し量ることができる。

では、安曇(アズミ)のスミはどこから来たのかと考えると、博多の志賀海神社には綿津見(ワタツミ)の神が安曇氏によって祀られているというのが古事記、日本書紀の伝えるところなので、
この綿津見(ワタツミ)のツミが安曇(アド)のドと入れ替わったが安曇(アズミ)ではないかとすることが可能だ。
そうすると、博多に元々いた海人族が安曇(アド)氏であるのか、それとも安曇(アド)氏がどこかからやって来て綿津見(ワタツミ)のツミを取り込んで安曇(アズミ)氏になったのかということになってくる。

そこで、どうしても解明する必要が出てくるのが、安曇(アド)とは何を意味する言葉なのかということだ。
安曇氏が海人系であるのは、応神天皇紀を見るとすぐ察しがつくこと。
そうすると、安曇(アド)のドは「門(水門のト、水戸のト、浦戸のド)」の可能性がある。
では、安曇(アズミ)のアは、何か。
安曇は阿曇とも書かれるので、安の字が持っている安泰の意味の安は後付けとみなしていいだろう。

港に関連するア音の地名では、滋賀県大津市の古名の穴太(あのう、あなお)のア音がある。
山口県では、関門海峡を指す有名な穴門(アナト)がある。
この穴門(アナト)も、短縮すれば(アト)になる。
ともに、穴の字が当てられていて、港の窪んだ形の形容と考えることができる。
この港を意味する穴(ア)を当てはめれば、安曇(アド)や阿曇(アド)は穴門(アド)を賀字に置き換えたものと見ることもできそうだ。 …続きます

669 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 02:36:24.07 .net
>>667
では、博多の古名である港が穴門(アト、アド)と呼ばれたかというと、博多の古名は一貫して灘津であることや、関門海峡の穴門(アナト、アト)に近く穴の字が並ぶのは紛らわしいことなどから、灘津の別名としての穴門(アト、アド)は考えにくい。
一方、応神天皇紀などでは安曇氏の事績が記されていて、その安曇氏は淡路の野島海人とも関りがあり、また続日本紀には「安曇江」の地名が見え、この安曇江は難波の入り江にあって、そこは安曇氏の居住地(天満橋付近)だったとされている。
そうすると、博多よりもこの難波の安曇江が穴門(アナト、アド、アト)と呼ばれ、その穴門(アド)に安曇(アド)の字が当てられたとする可能性のほうが高いと考えることもできそうだ。

こうしたことから、安曇(アド)氏の一派が難波から博多に移って綿津見(ワタツミ)神を祀るようになり、そこで、安曇(アド)を安曇(アヅミ)と呼び変えるようになったとみなすのもOKではないか。

670 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 03:40:50.89 .net
安曇は始祖の綿津見神 WATAZUMI が転化して AZUMI になったと考えます。

671 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 04:06:30.30 .net
全国の綿津見神社、海神社の総本社である志賀海神社が志賀島にあることから安曇氏のルーツを志賀島と考えるのが自然だと考えます、
所説ありますがイザナギの禊の場所もこの地だとする説を支持します。

672 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 14:14:39.26 .net
>>670
watatumi(ワタツミ)からatumi(アツミ)に転化したとする場合、語幹であるwat(ワト=綿)が失われ、語尾のtumi(津見・ツミ=…の神)が強調される変化なので、atumi(アツミ)が何を意味している語なのか分からなくなる。
なので、少し考えにくい。

一方、安曇氏が大阪湾の上町台地の先端にある湊の海人勢力で、安曇(アド)の元々の語義は穴門(アド)だったとした場合、この穴門(アド)は関門海峡を指す穴門(アナト)と同じ表現であることが分かる。
この穴門(アド)は、上町台地の先端が対岸と海峡になっていて関門海峡の穴門(アナト)と同じ地形であり、そうした海峡の地形の表現語としての穴門(アド)であるとすることは合理的な解釈と言える。

これが安曇(アド)氏の名の由来であり、この安曇(アド)氏が博多の大海社の祭神綿津見神を祀ることを任されて一族の者が渡博して祭祀者となり、その博多の安曇(アド)氏が祭神綿津見(ワタツミ)のツミ(…の神)の語を取り込むことで綿津見神を安津見(アのカミ=安曇氏の神)とみなし、そのために氏名(うじな)の呼称を安曇(アド)から安曇(アズミ)と変えたと考えるのがOK。
博多の安曇(アズミ)氏の立場が強まるのに伴い、本家の安曇(アド)氏もその呼び名を安曇(アズミ)と変えていったとするのがよいだろう。

673 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 15:00:49.88 .net
>>671
イザナギが禊をした場所を博多の那珂川、御笠川、多々良川のいずれかとしていると思うけれど、その理由としては筒男神がその地で現れたからだと思うね。
しかし、記紀では、筒男神が生まれた場所については筑紫のあとに日向を挙げ、この場合の日向は南九州を指すので、南九州の今の南さつま市阿多の万之瀬川が禊の場だったとしているものと思う。
この阿多はニニギ尊から神武までが住んだ吾田と同音の地であり、イザナギ禊の地にその末裔も住んだとしていることには整合性があるね。
やはり、筒男神が生まれたのは、南九州でしょう。^^

674 :日本@名無史さん:2023/03/30(木) 17:52:09.00 .net
安量一族!山国に移り住んだ海人族の謎!
https://youtu.be/ec3jy3ZcCDw

安曇氏はある意味秦氏の先駆けのような存在だったのでしょう

675 :日本@名無史さん:2023/03/30(木) 22:06:59.33 .net
宇佐の南にある安心院

676 :日本@名無史さん:2023/03/30(木) 22:07:53.03 .net
>>675
書き込み操作ミスです。

677 :日本@名無史さん:2023/03/30(木) 23:13:58.08 .net
宇佐の南にある安心院(アジム)は、地元での呼び名はアズミだそうだ。
この安心院(アジム)は沖縄のアジマァ(四つ辻、十字路の空間)が語源で、沖縄の海人族が九州へ北上して定着したのがその安心院(アジム)の地だったとする説が見られる。
その沖縄系海人が定着した安心院(アジム)の地から出たのが安曇(アズミ)氏で、宇佐との関りは深いものがあるとするもののようだ。

そこで、沖縄のアジマァ(十字路の空間)の言葉の語源を探ってみると、次のような成り立ちが考えられる。
十字路、四つ角は、二つの道が直角に交わるところ。
なので、この直角に交わるところの空間を指す言葉であるアジマァは、本土和語のマジワル(交わる)のマジワが訛ったものである可能性が高い。

そうすると、アジマァ(四辻、十字路の空間)が訛ったとするアズミ(安曇)の名にも、「交わる」意が残存しているはずだということになる。
しかし、アズミ(安曇)の語が「交わる」、あるいは「四つ角、十字路」の意味を持っているかといろいろ見てみても、どうもそうした意味は出てこない。
また、綿津見(ワタツミ)や穴門(アド)の言葉からも、「四つ角、十字路」の意味はみつからない。
ただ、安心院(アジム)の立地は確かに交易路の要衝であり、「四つ角、十字路=交差点」であるのは確かだろう。
沖縄の言葉に由来するとする説が出るゆえんだ。

このように見ると、安心院(アジム)が訛ってアズミ(安曇)になったとする説は、その語義からして少し無理があるのではないだろうか。

678 :日本@名無史さん:2023/03/31(金) 04:50:12.50 .net
平家の落人が宇佐の駅館川から遡って安心院方面へ落ち延びた歴史がありますが、当時の宇佐神宮の大宮司公通の妻は平清盛の娘で宇佐氏は平家の外戚だったのです。なので平家の落人も宇佐神宮の荘園内に身を隠したのでしょう。宇佐家の伝承では、公通の子の公仲を安徳天皇とすり替えたとありますね。その宇佐氏も安心院出自の安曇氏だと言われています。
https://i.imgur.com/pkyTIyW.jpg

679 :日本@名無史さん:2023/03/31(金) 20:35:30.26 .net
院内の温見神社の社紋は州浜紋だとされているようだ。
そして、安曇氏が宮司を務めた大川市の風浪宮の紋も同じ州浜紋となっている。
州浜紋が安曇氏の紋所かどうかは分からないが、有明海に注ぐ筑後川の水運と院内の温見を結ぶ交易路が成立していた可能性を物語るのがこの二か所の神社に共通する社紋かも知れない。

そこで、安曇氏が宮司を務めた志賀海神社と宇佐八幡宮の社紋を見ると、これはともに巴紋となっている。
秦氏が関与したとされる宇佐八幡宮の社紋と博多の志賀海神社の社紋が同じなのは、何らかの交易上の連携を物語っているのかも知れない。

このように見ると、交易関係で社紋を同じくしている神社があるように見える。
しかし、州浜紋が安曇氏の紋所であるのかどうかは、はっきりしない。
安曇氏の本拠の氏社とする説のある志賀海神社の社紋が巴紋で、同じく安曇氏が宮司を務めた風浪宮の社紋は州浜紋であり、双方が異なっているところからすると、州浜紋が安曇氏の紋所とするのは果たして正しいのかということになってくる。
紋所の成立はかなり新しい時代になってからとされるので、社紋から同族を割り出すのはかなり難しいのではないだろうか。

680 :日本@名無史さん:2023/03/31(金) 21:20:35.16 .net
宇佐神宮の祖宮である薦神社の社紋が宇佐神宮と違う一つ巴なのは不思議です。勝手な解釈ですが薦神社の辛島氏と大神氏勢力が宇佐の地で宇佐氏勢力と合体した象徴の三つ巴なのではないかと考えています。

写真は薦神社の一つ巴
https://i.imgur.com/E4GLMnt.jpg

681 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 10:17:30.40 .net
但馬(タジマ)は?

682 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 15:04:15.99 .net
>>680
宇佐の勢力と博多の勢力とが連携して、その印として三つ巴の紋を社紋としたことは可能性が高いね。
その際に、その三つ巴紋に宇佐の土着勢力と辛島氏と大神氏の三勢力合体の意味を持たせ、元々は中津にいた辛島氏がその中津の薦神社の社紋を三つ巴の一翼を担う意味で一つ巴にしたとする想定は、かなり可能性のある想定かもね。

683 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 15:18:11.02 .net
>>681
出石神社の勢力も、博多の志賀海神社の勢力とフランチャイズしたということかも知れんな。

684 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 20:29:20.63 .net
>>682
香春岳を起点とし薦神社を経た八幡神の東行の完成形が宇佐神宮だったのでしょうね

685 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 21:23:02.49 .net
神社って気休めの無意味な飾り物ものみたいなもんだから
薬みたいに目に見えた具体的な効果などもないし
アインシュタインも大正11年日本を訪れた時、軍国化していく社会で
至る所の神社に武器や鎧が飾られているのには呆れてたと言うし
所詮神社なんて天照大神を頂点とした神話ヒエラルキー構造を
大和朝廷が民衆を誤魔化す為に全国津々浦々に散らばし始めたアイテムでしかない

686 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 21:50:40.29 .net
新田義貞に敗れ九州に逃れた足利尊氏は、宇佐神宮に参籠し武運の再興を祈願したのちに京へと登り、征夷大将軍となって室町幕府を開きました。豊前では宇佐神宮の祖宮薦神社の奥宮の八面山の権現石でも祈願したとされています
https://i.imgur.com/sxFxYYo.jpg

687 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 14:20:49.70 .net
まあ、秦王国は筑紫太宰だろう。
裴世清は神仙の異郷を旅して倭王に接見するという筋立ての旅行記を書き、隋書倭国伝はそれを資料にして書かれたのではないか。
実際には、筑紫太宰では大歓迎され、陸路で明石まで行った。
裴世清らが逗留する須磨海岸には、陸路で倭王の歓迎使が二度にわたってやって来た。
裴世清らは、そのあと陸路で難波宮まで赴いて、そこで男性の倭王に接見した。

688 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 14:32:18.85 .net
太宰府は筑州で秦王国とは別物

689 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 16:51:36.66 .net
この時期には、まだ大宰府はなく、那津官家に置かれた筑紫太宰が外交ほかの仕事をしていた。
その那津官家や筑紫太宰の役人らの風俗は都と同じ大陸様式だったと考えられる。
この筑紫太宰の風俗をもって裴世清は中国の秦王国にたとえ、隋皇帝の諸侯国がこんなところにもあるのかとし、また呉の孫権が将軍を派遣したという夷州がここなのか、と異郷感をかもす著述を表した可能性が高い。
そうした異郷を通って、突然目の前にぱっと広がる海の海岸に行き着く。
そして、そこへ忽然と倭国の歓迎団が現れるのだ。

こうした描写は明らかに山海経的な異郷譚の描写様式であり、倭国の都はそのような異郷の中にあるのだと幻想的に物語っているものだ。
なので、裴世清らの一行は、陸路でもってその異郷の海の海岸まで行ったことになる。
もし、日本書紀の記述も正しいのだと仮定すれば、裴世清一行は迎えの準構造船で須磨から難波津へ渡ったとするのがよいだろう。

690 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 17:03:05.82 .net
水掛け論のループになるのでもういいかな

691 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 20:49:08.17 .net
ここらで、打ち止めにしよう。^^

692 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 20:52:29.05 .net
お疲れ様でした、楽しかったよ。

693 :日本@名無史さん:2023/04/03(月) 20:25:49.37 .net
ところで、秦氏新羅出身説はほぼ崩れたようだ。
秦氏が新羅出身であるなら、新撰姓氏録で百済出身氏族がちゃんと記載されているように、秦氏が新羅出身であることは誰もが知る事実となっていたはず。
しかし、実際には、半島ではなく中国の秦始皇帝にルーツを擬しているわけだし、このことからして半島出身でないことはまず動かないだろう。
そして、秦氏始皇帝末裔説は、ちょっと信じにくいとすれば、残るのはホータン出身説だけ。

そのホータンの語頭のホタが訛ってハタになったとするのが、最も信じやすいと言える。
弓月君の弓月は、中国西域のタリム盆地付近の名であることからしても、秦氏ホータン出身説は確率が高い。
とにかく、秦氏はトルコ語を話していたようだから、ホータンが4世紀頃まではトルコ語が話されていたことと秦氏のトルコ語は完全に一致するのよ。
まあ、そんなとこだな。

694 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 07:09:07.00 .net
秦氏はレビ族だったでしょが!

695 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 07:27:04.40 .net
弓月君のルーツはカザフスタン

696 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 14:32:26.55 .net
レビ族は、神に仕える司祭の家系で、そのために土地を持たない。
一方、秦氏は、大地主。
秦氏=レビ族は、あり得んな。

697 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 14:33:56.27 .net
>>695
弓月君の先祖がカザフ平原を通って来た商人だった可能性は高い。

698 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 16:21:55.11 .net
肉を好む民族はカザフスタンへ、魚を好む民族は日本へ渡ったと言われているらしいね

699 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 21:53:57.61 .net
宇佐の由来は『う・梅』と『さ・桜』だよ。
後付だが『平野大社』と『北野天満宮』だ。

700 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 00:45:08.35 .net
>>698
5世紀頃には、地中海産のガラス小玉が大量に輸入されている。
カザフ平原から内モンゴル、半島を経て日本にもたらされたと考えられている。
こうした関係から、カザフやキルギスには、日本についての知識が古くからあったのだろう。
日本は魚好きの住むところということも知らていたのではないか。
寿司のことも知っていたはずだ。^^

701 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 01:43:48.32 .net
>>699
沖縄北端の国頭村に宇佐浜(ウザハマ)がある。
岬と岬の間にできた内浜だ。

また、四国には土佐(トサ)がある。
この土佐は外砂・狭(トサ=外洋に面した浜)の意味。

宇佐は、蒐狭とも書かれている。
狭(サ)の字は、日本書紀では「浜」を意味する。

そうすると、宇佐は、外洋に面した直線型の浜である外砂・狭(トサ=土佐)の対立概念である深い湾になった内浜である内砂・狭(ウサ=宇佐)であることが分かる。
駅館川と寄藻川などの間は、昔は湾になっていたのだろう。
宇佐の語源は、「湾になった浜=内砂・狭」だろうね。

なお、蒐狭と書かれている蒐の音はシュ、シュウで、「集める」の意。
蒐狭の字は「(川の土砂が)集まってできた浜」の意味だが、ウサ(宇佐)の音の意味は「深い湾になった浜」の意味だ。
元々の地名はウサで、「内浜」の意味だろうね。

702 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 03:17:17.05 .net
宇佐は因幡の白ウサギの菟だそうだ

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