2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

秦氏はどこから来たか 4

1 :アッシー:2020/02/27(木) 01:58:54 .net
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。

666 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 18:07:53.25 .net
>>664

隋書に、倭国は古の倭奴国なりと書かれています。そうであるなら瀬戸内に面する豊前も古くからの安曇氏のテリトリーだったのでは無いでしょうか、宇佐から駅館川を遡った盆地の安心院は安曇氏の根拠地だとも言われています。

667 :日本@名無史さん:2023/03/28(火) 18:19:18.83 .net
>>665
安曇族の王が金印を貰った那国王だったと思います、君が代は安曇族の王の歌と言われています。

668 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 02:18:03.72 .net
安曇(アズミ)の呼称を見てみると、漢字の安曇の音はアドン。
この安曇(アドン)の語尾のン音を切り捨てると、安曇(アド)になる。
そうすると、その安曇(アド)を安曇(アズミ)と読ませているのには、それなりの理由があるのだと推し量ることができる。

では、安曇(アズミ)のスミはどこから来たのかと考えると、博多の志賀海神社には綿津見(ワタツミ)の神が安曇氏によって祀られているというのが古事記、日本書紀の伝えるところなので、
この綿津見(ワタツミ)のツミが安曇(アド)のドと入れ替わったが安曇(アズミ)ではないかとすることが可能だ。
そうすると、博多に元々いた海人族が安曇(アド)氏であるのか、それとも安曇(アド)氏がどこかからやって来て綿津見(ワタツミ)のツミを取り込んで安曇(アズミ)氏になったのかということになってくる。

そこで、どうしても解明する必要が出てくるのが、安曇(アド)とは何を意味する言葉なのかということだ。
安曇氏が海人系であるのは、応神天皇紀を見るとすぐ察しがつくこと。
そうすると、安曇(アド)のドは「門(水門のト、水戸のト、浦戸のド)」の可能性がある。
では、安曇(アズミ)のアは、何か。
安曇は阿曇とも書かれるので、安の字が持っている安泰の意味の安は後付けとみなしていいだろう。

港に関連するア音の地名では、滋賀県大津市の古名の穴太(あのう、あなお)のア音がある。
山口県では、関門海峡を指す有名な穴門(アナト)がある。
この穴門(アナト)も、短縮すれば(アト)になる。
ともに、穴の字が当てられていて、港の窪んだ形の形容と考えることができる。
この港を意味する穴(ア)を当てはめれば、安曇(アド)や阿曇(アド)は穴門(アド)を賀字に置き換えたものと見ることもできそうだ。 …続きます

669 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 02:36:24.07 .net
>>667
では、博多の古名である港が穴門(アト、アド)と呼ばれたかというと、博多の古名は一貫して灘津であることや、関門海峡の穴門(アナト、アト)に近く穴の字が並ぶのは紛らわしいことなどから、灘津の別名としての穴門(アト、アド)は考えにくい。
一方、応神天皇紀などでは安曇氏の事績が記されていて、その安曇氏は淡路の野島海人とも関りがあり、また続日本紀には「安曇江」の地名が見え、この安曇江は難波の入り江にあって、そこは安曇氏の居住地(天満橋付近)だったとされている。
そうすると、博多よりもこの難波の安曇江が穴門(アナト、アド、アト)と呼ばれ、その穴門(アド)に安曇(アド)の字が当てられたとする可能性のほうが高いと考えることもできそうだ。

こうしたことから、安曇(アド)氏の一派が難波から博多に移って綿津見(ワタツミ)神を祀るようになり、そこで、安曇(アド)を安曇(アヅミ)と呼び変えるようになったとみなすのもOKではないか。

670 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 03:40:50.89 .net
安曇は始祖の綿津見神 WATAZUMI が転化して AZUMI になったと考えます。

671 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 04:06:30.30 .net
全国の綿津見神社、海神社の総本社である志賀海神社が志賀島にあることから安曇氏のルーツを志賀島と考えるのが自然だと考えます、
所説ありますがイザナギの禊の場所もこの地だとする説を支持します。

672 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 14:14:39.26 .net
>>670
watatumi(ワタツミ)からatumi(アツミ)に転化したとする場合、語幹であるwat(ワト=綿)が失われ、語尾のtumi(津見・ツミ=…の神)が強調される変化なので、atumi(アツミ)が何を意味している語なのか分からなくなる。
なので、少し考えにくい。

一方、安曇氏が大阪湾の上町台地の先端にある湊の海人勢力で、安曇(アド)の元々の語義は穴門(アド)だったとした場合、この穴門(アド)は関門海峡を指す穴門(アナト)と同じ表現であることが分かる。
この穴門(アド)は、上町台地の先端が対岸と海峡になっていて関門海峡の穴門(アナト)と同じ地形であり、そうした海峡の地形の表現語としての穴門(アド)であるとすることは合理的な解釈と言える。

これが安曇(アド)氏の名の由来であり、この安曇(アド)氏が博多の大海社の祭神綿津見神を祀ることを任されて一族の者が渡博して祭祀者となり、その博多の安曇(アド)氏が祭神綿津見(ワタツミ)のツミ(…の神)の語を取り込むことで綿津見神を安津見(アのカミ=安曇氏の神)とみなし、そのために氏名(うじな)の呼称を安曇(アド)から安曇(アズミ)と変えたと考えるのがOK。
博多の安曇(アズミ)氏の立場が強まるのに伴い、本家の安曇(アド)氏もその呼び名を安曇(アズミ)と変えていったとするのがよいだろう。

673 :日本@名無史さん:2023/03/29(水) 15:00:49.88 .net
>>671
イザナギが禊をした場所を博多の那珂川、御笠川、多々良川のいずれかとしていると思うけれど、その理由としては筒男神がその地で現れたからだと思うね。
しかし、記紀では、筒男神が生まれた場所については筑紫のあとに日向を挙げ、この場合の日向は南九州を指すので、南九州の今の南さつま市阿多の万之瀬川が禊の場だったとしているものと思う。
この阿多はニニギ尊から神武までが住んだ吾田と同音の地であり、イザナギ禊の地にその末裔も住んだとしていることには整合性があるね。
やはり、筒男神が生まれたのは、南九州でしょう。^^

674 :日本@名無史さん:2023/03/30(木) 17:52:09.00 .net
安量一族!山国に移り住んだ海人族の謎!
https://youtu.be/ec3jy3ZcCDw

安曇氏はある意味秦氏の先駆けのような存在だったのでしょう

675 :日本@名無史さん:2023/03/30(木) 22:06:59.33 .net
宇佐の南にある安心院

676 :日本@名無史さん:2023/03/30(木) 22:07:53.03 .net
>>675
書き込み操作ミスです。

677 :日本@名無史さん:2023/03/30(木) 23:13:58.08 .net
宇佐の南にある安心院(アジム)は、地元での呼び名はアズミだそうだ。
この安心院(アジム)は沖縄のアジマァ(四つ辻、十字路の空間)が語源で、沖縄の海人族が九州へ北上して定着したのがその安心院(アジム)の地だったとする説が見られる。
その沖縄系海人が定着した安心院(アジム)の地から出たのが安曇(アズミ)氏で、宇佐との関りは深いものがあるとするもののようだ。

そこで、沖縄のアジマァ(十字路の空間)の言葉の語源を探ってみると、次のような成り立ちが考えられる。
十字路、四つ角は、二つの道が直角に交わるところ。
なので、この直角に交わるところの空間を指す言葉であるアジマァは、本土和語のマジワル(交わる)のマジワが訛ったものである可能性が高い。

そうすると、アジマァ(四辻、十字路の空間)が訛ったとするアズミ(安曇)の名にも、「交わる」意が残存しているはずだということになる。
しかし、アズミ(安曇)の語が「交わる」、あるいは「四つ角、十字路」の意味を持っているかといろいろ見てみても、どうもそうした意味は出てこない。
また、綿津見(ワタツミ)や穴門(アド)の言葉からも、「四つ角、十字路」の意味はみつからない。
ただ、安心院(アジム)の立地は確かに交易路の要衝であり、「四つ角、十字路=交差点」であるのは確かだろう。
沖縄の言葉に由来するとする説が出るゆえんだ。

このように見ると、安心院(アジム)が訛ってアズミ(安曇)になったとする説は、その語義からして少し無理があるのではないだろうか。

678 :日本@名無史さん:2023/03/31(金) 04:50:12.50 .net
平家の落人が宇佐の駅館川から遡って安心院方面へ落ち延びた歴史がありますが、当時の宇佐神宮の大宮司公通の妻は平清盛の娘で宇佐氏は平家の外戚だったのです。なので平家の落人も宇佐神宮の荘園内に身を隠したのでしょう。宇佐家の伝承では、公通の子の公仲を安徳天皇とすり替えたとありますね。その宇佐氏も安心院出自の安曇氏だと言われています。
https://i.imgur.com/pkyTIyW.jpg

679 :日本@名無史さん:2023/03/31(金) 20:35:30.26 .net
院内の温見神社の社紋は州浜紋だとされているようだ。
そして、安曇氏が宮司を務めた大川市の風浪宮の紋も同じ州浜紋となっている。
州浜紋が安曇氏の紋所かどうかは分からないが、有明海に注ぐ筑後川の水運と院内の温見を結ぶ交易路が成立していた可能性を物語るのがこの二か所の神社に共通する社紋かも知れない。

そこで、安曇氏が宮司を務めた志賀海神社と宇佐八幡宮の社紋を見ると、これはともに巴紋となっている。
秦氏が関与したとされる宇佐八幡宮の社紋と博多の志賀海神社の社紋が同じなのは、何らかの交易上の連携を物語っているのかも知れない。

このように見ると、交易関係で社紋を同じくしている神社があるように見える。
しかし、州浜紋が安曇氏の紋所であるのかどうかは、はっきりしない。
安曇氏の本拠の氏社とする説のある志賀海神社の社紋が巴紋で、同じく安曇氏が宮司を務めた風浪宮の社紋は州浜紋であり、双方が異なっているところからすると、州浜紋が安曇氏の紋所とするのは果たして正しいのかということになってくる。
紋所の成立はかなり新しい時代になってからとされるので、社紋から同族を割り出すのはかなり難しいのではないだろうか。

680 :日本@名無史さん:2023/03/31(金) 21:20:35.16 .net
宇佐神宮の祖宮である薦神社の社紋が宇佐神宮と違う一つ巴なのは不思議です。勝手な解釈ですが薦神社の辛島氏と大神氏勢力が宇佐の地で宇佐氏勢力と合体した象徴の三つ巴なのではないかと考えています。

写真は薦神社の一つ巴
https://i.imgur.com/E4GLMnt.jpg

681 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 10:17:30.40 .net
但馬(タジマ)は?

682 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 15:04:15.99 .net
>>680
宇佐の勢力と博多の勢力とが連携して、その印として三つ巴の紋を社紋としたことは可能性が高いね。
その際に、その三つ巴紋に宇佐の土着勢力と辛島氏と大神氏の三勢力合体の意味を持たせ、元々は中津にいた辛島氏がその中津の薦神社の社紋を三つ巴の一翼を担う意味で一つ巴にしたとする想定は、かなり可能性のある想定かもね。

683 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 15:18:11.02 .net
>>681
出石神社の勢力も、博多の志賀海神社の勢力とフランチャイズしたということかも知れんな。

684 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 20:29:20.63 .net
>>682
香春岳を起点とし薦神社を経た八幡神の東行の完成形が宇佐神宮だったのでしょうね

685 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 21:23:02.49 .net
神社って気休めの無意味な飾り物ものみたいなもんだから
薬みたいに目に見えた具体的な効果などもないし
アインシュタインも大正11年日本を訪れた時、軍国化していく社会で
至る所の神社に武器や鎧が飾られているのには呆れてたと言うし
所詮神社なんて天照大神を頂点とした神話ヒエラルキー構造を
大和朝廷が民衆を誤魔化す為に全国津々浦々に散らばし始めたアイテムでしかない

686 :日本@名無史さん:2023/04/01(土) 21:50:40.29 .net
新田義貞に敗れ九州に逃れた足利尊氏は、宇佐神宮に参籠し武運の再興を祈願したのちに京へと登り、征夷大将軍となって室町幕府を開きました。豊前では宇佐神宮の祖宮薦神社の奥宮の八面山の権現石でも祈願したとされています
https://i.imgur.com/sxFxYYo.jpg

687 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 14:20:49.70 .net
まあ、秦王国は筑紫太宰だろう。
裴世清は神仙の異郷を旅して倭王に接見するという筋立ての旅行記を書き、隋書倭国伝はそれを資料にして書かれたのではないか。
実際には、筑紫太宰では大歓迎され、陸路で明石まで行った。
裴世清らが逗留する須磨海岸には、陸路で倭王の歓迎使が二度にわたってやって来た。
裴世清らは、そのあと陸路で難波宮まで赴いて、そこで男性の倭王に接見した。

688 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 14:32:18.85 .net
太宰府は筑州で秦王国とは別物

689 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 16:51:36.66 .net
この時期には、まだ大宰府はなく、那津官家に置かれた筑紫太宰が外交ほかの仕事をしていた。
その那津官家や筑紫太宰の役人らの風俗は都と同じ大陸様式だったと考えられる。
この筑紫太宰の風俗をもって裴世清は中国の秦王国にたとえ、隋皇帝の諸侯国がこんなところにもあるのかとし、また呉の孫権が将軍を派遣したという夷州がここなのか、と異郷感をかもす著述を表した可能性が高い。
そうした異郷を通って、突然目の前にぱっと広がる海の海岸に行き着く。
そして、そこへ忽然と倭国の歓迎団が現れるのだ。

こうした描写は明らかに山海経的な異郷譚の描写様式であり、倭国の都はそのような異郷の中にあるのだと幻想的に物語っているものだ。
なので、裴世清らの一行は、陸路でもってその異郷の海の海岸まで行ったことになる。
もし、日本書紀の記述も正しいのだと仮定すれば、裴世清一行は迎えの準構造船で須磨から難波津へ渡ったとするのがよいだろう。

690 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 17:03:05.82 .net
水掛け論のループになるのでもういいかな

691 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 20:49:08.17 .net
ここらで、打ち止めにしよう。^^

692 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 20:52:29.05 .net
お疲れ様でした、楽しかったよ。

693 :日本@名無史さん:2023/04/03(月) 20:25:49.37 .net
ところで、秦氏新羅出身説はほぼ崩れたようだ。
秦氏が新羅出身であるなら、新撰姓氏録で百済出身氏族がちゃんと記載されているように、秦氏が新羅出身であることは誰もが知る事実となっていたはず。
しかし、実際には、半島ではなく中国の秦始皇帝にルーツを擬しているわけだし、このことからして半島出身でないことはまず動かないだろう。
そして、秦氏始皇帝末裔説は、ちょっと信じにくいとすれば、残るのはホータン出身説だけ。

そのホータンの語頭のホタが訛ってハタになったとするのが、最も信じやすいと言える。
弓月君の弓月は、中国西域のタリム盆地付近の名であることからしても、秦氏ホータン出身説は確率が高い。
とにかく、秦氏はトルコ語を話していたようだから、ホータンが4世紀頃まではトルコ語が話されていたことと秦氏のトルコ語は完全に一致するのよ。
まあ、そんなとこだな。

694 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 07:09:07.00 .net
秦氏はレビ族だったでしょが!

695 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 07:27:04.40 .net
弓月君のルーツはカザフスタン

696 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 14:32:26.55 .net
レビ族は、神に仕える司祭の家系で、そのために土地を持たない。
一方、秦氏は、大地主。
秦氏=レビ族は、あり得んな。

697 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 14:33:56.27 .net
>>695
弓月君の先祖がカザフ平原を通って来た商人だった可能性は高い。

698 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 16:21:55.11 .net
肉を好む民族はカザフスタンへ、魚を好む民族は日本へ渡ったと言われているらしいね

699 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 21:53:57.61 .net
宇佐の由来は『う・梅』と『さ・桜』だよ。
後付だが『平野大社』と『北野天満宮』だ。

700 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 00:45:08.35 .net
>>698
5世紀頃には、地中海産のガラス小玉が大量に輸入されている。
カザフ平原から内モンゴル、半島を経て日本にもたらされたと考えられている。
こうした関係から、カザフやキルギスには、日本についての知識が古くからあったのだろう。
日本は魚好きの住むところということも知らていたのではないか。
寿司のことも知っていたはずだ。^^

701 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 01:43:48.32 .net
>>699
沖縄北端の国頭村に宇佐浜(ウザハマ)がある。
岬と岬の間にできた内浜だ。

また、四国には土佐(トサ)がある。
この土佐は外砂・狭(トサ=外洋に面した浜)の意味。

宇佐は、蒐狭とも書かれている。
狭(サ)の字は、日本書紀では「浜」を意味する。

そうすると、宇佐は、外洋に面した直線型の浜である外砂・狭(トサ=土佐)の対立概念である深い湾になった内浜である内砂・狭(ウサ=宇佐)であることが分かる。
駅館川と寄藻川などの間は、昔は湾になっていたのだろう。
宇佐の語源は、「湾になった浜=内砂・狭」だろうね。

なお、蒐狭と書かれている蒐の音はシュ、シュウで、「集める」の意。
蒐狭の字は「(川の土砂が)集まってできた浜」の意味だが、ウサ(宇佐)の音の意味は「深い湾になった浜」の意味だ。
元々の地名はウサで、「内浜」の意味だろうね。

702 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 03:17:17.05 .net
宇佐は因幡の白ウサギの菟だそうだ

703 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 03:59:23.12 .net
>>695
弓月国は、今の中国ウイグル新疆自治区の北西端にある伊寧市にあたりにあった国だとされている。
この弓月国の弓月の名は西突厥の一部族である弓月部にちなむもので、その弓月部の拠点である弓月城が伊寧の地にあったことから、そのあたりが弓月国と呼ばれるようになったものとされている。
研究によると、この西突厥の弓月部は元々は突厥の一部族で、その突厥が東西に分裂したときに西に移動したとされる。

では、突厥はそもそもどこにいたかというと、柔然に隷属してアルタイ山脈の南麓に移住させられて、そこで鉄生産に従事していたようだ。
このアルタイ山脈の南麓は、今のウルムチ、トルファン、ハミなどのあるあたり。
ということは、弓月部は、元々はその付近にいたことになる。

そして、突厥が柔然から独立するのは552年とされるので、弓月君が渡来する4世紀末頃には弓月部はアルタイ山脈の南麓にいたことになる。
そうすると、イリ川上流の伊寧あたりにあったとされる弓月国は、4世紀末頃にはまだ存在していなかったことになってくる。
むしろ、弓月の地名は、ウルムチやトルファンなどのあるジュンガル盆地東端あたりにあった可能性すら出てくる。
また、ウルムチはジュンガル盆地の南に広がるタリム盆地にもつながっていて、ホータンなどと円弧をなすオアシス都市でもあるので、弓月の名はタリム盆地にかかることも考えられる。

こういうわけなので、秦氏の始祖の弓月君の故郷はイリ川上流の伊寧にあった弓月城あたりだとする説は、再考の余地があるのではないか。

704 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 04:33:50.91 .net
>>702
高知市を流れる仁淀川の河口の西側が長い直線状の浜になっていて、その浜が西側に尽きるところに萩岬がある。
この間の直線の浜が土佐(外狭)だ。
そして、この萩岬の西側すぐのところの湾にあるのが宇佐(内狭)だ。
土佐と宇佐が、ちゃんと対になってるのよ。
大分県の宇佐も、この高知の湾の宇佐と同じということだな。

白菟は、この鵜宇佐の浜に住んでるのだろう。

705 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 13:23:04.68 .net
宇佐神宮と出雲大社が4拍手なのはなぜだろう

706 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 15:17:03.08 .net
出雲大社の5月の例大祭は八柏手だ。
四柏手は、単に丁寧にしているだけ。
そして、ニ拍手は簡略しただけ。
拍手の回数は、オカルトじゃないからな。

そんなことより、七五三のお参りは奇数なのに、柏手はなんで偶数回なんや?

707 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 15:27:39.38 .net
伊勢神宮でも柏手八回。
ただし、これは神職が祭礼のときに行う。
一般は二回だ。

しかし、伊勢神宮に限らず、二回の柏手は明治からだそうだ。
それ以前は三回の柏手だったというぞ。
七五三も考えると、神社は奇数が基本なのかもな。
しかし、柏手の回数なんかは、コロコロ変わるということだな。

708 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 15:37:11.46 .net
>>703
突厥の弓月部の部族名にちなむ地方名は、4世紀末頃には敦煌からウルムチあたりの西域を指していた可能性がある。
ホータンなどもその弓月地方のオアシス都市だったのかもな。
弓月君がホータン出身なのとぴったりだ。^^

709 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 16:50:20.06 .net
>>707
柏手の回数なんて、ええかげんやな。
ニ拍手は明治に内務省が定めたものとされとる。
それ以前は、いろいろあったそうや。
確実なのは、柏手を打って神さんにお出まし願うことくらいや。
その回数なんて、各社まちまちなのが実態。

710 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 03:25:56.17 .net
秦氏の先祖はアナトリアに入ったギリシャ系の商人で、ここでユダヤ教徒に改宗してカザフ方面の行商に旅立ち、カザフ平原を通るときにトルコ語話者に変わり、そしてそのまま東へ進んでホータンに定着した。
ここがインド・ペルシャ方面と中国・モンゴル・半島・日本・ツングース方面とギリシャ方面との交易の交差点だったからだ。
ホータンでは、トルコ語が主流だった。
その後、4世紀後半になると、ペルシャ系の勢力が浸出してきて、ホータンの言葉もペルシャ語系に置き換わった。
このとき、ホータンに居た秦氏の先祖はタリム盆地のオアシス都市に住む交易関係者らとともにその地を脱出して、商人としての知識やユダヤ教徒の知識として持っていた「海の国」と目される島国の倭国へ行くことに決めた。
内モンゴルから遼河を通り、半島を経て、そして倭国へ到着したのが弓月君とされるトルコ語を話すユダヤ教徒だったのだ。
5世紀後半には彼らはウズマサの地に本拠地を構えたが、そのウズマサの名はトルコ語で「三つの机(祭壇)」の意味し、これはユダヤ教の神を讃えるための幕屋を示す言葉だった。
つまり、秦氏は、ウズマサの地を日本でユダヤ教の神を讃えるために幕屋を置くところと決めたのだ。
これが、秦氏の家系の全貌なのだ。

711 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 17:41:49.41 .net
伏見の深草に根拠地を置いた秦氏は5世紀中頃には太秦に進出して、ここを博多からの交易路の終着点として開発した。
そして、この太秦から埼玉の行田の入植地までの路程をユダヤ教の出エジプト記の旅程と重ね合わせる地図を描いた。
そこで、この日本における出エジプト記の出発地に当たる太秦の秦氏の神体山を松尾山(まつおやま)と名付けた。

出エジプト記ではエジプト脱出の前夜にユダヤ教徒たちは簡易的な食事として種無しパンを作って食べたが、その種無しパンの名はマッツオだ。
マッツオは出エジプト記の最初のエピソードであり、ユダヤ教徒はこのマッツオを極めて大切にする。
この種無しパンの名であるマッツオの音写が、松尾山(マツオヤマ)の松尾(マツオ)なのだと考えることができる。

つまり、埼玉の行田までの日本版出エジプト記の旅程の出発点として位置づけたのが、秦氏の神体山とされる松尾山(マツオヤマ)=(種無しパン・マッツオ)というわけなのだ。
そして、次の重要地は伏見の深草で、ここの秦氏の神体山は稲荷山(イナリヤマ)と名付けられている。
この稲荷山(イナリヤマ)の元々の山名は、稲生(イニイ、イナイ)のようだ。
イニイ、イナイ(稲生)は、秦氏のトルコ語によるinis(イニシ=着陸、降下)が訛ったものと考えることができる。

何が着陸するのかと言うと、出エジプト記では、山上のモーゼの前に天から降りてきたのはユダヤ教の神なのであり、その神が天から降りてきて十の諌めを授けたわけだ。
この神が降りてきた山に擬せられたのが深草のイナイ、イニイ(稲生)山であり、出エジプト記ではその山はシナイ山と呼ばれている。
なので、深草のイニイ、イナイ(稲生)山は、シナイ山になぞらえた神体山ということになる。

マッツオを食べて出エジプトし、そのあとシナイ山で十戒を神から授けられて、いよいよ本格的な荒地の旅が始まるという出エジプト記の旅程を、太秦から埼玉の行田までの旅程に被せて、そうしたユダヤ教徒の旅路としてこの行程を描いたということが浮かび上がってくるのだ。
秦氏がトルコ語を話すユダヤ教徒だったというのは、まず間違いないことだ。^^

712 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 22:54:11.04 .net
シャチハタ






シヤチハタ

713 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 23:02:30.03 .net
言わずと知れた『宇佐』は『U・S・A』🇺🇸

ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ🗽

「入浴へ行きたいかぁ〜〜〜!」

714 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 23:06:18.95 .net
666レス
不吉な予感

(;・∀・)

715 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 23:12:35.62 .net
ユダヤ人
トルコ語 yahudi(ヤフデ)=ユダヤ人

yahudi(ヤフデ)⇒八幡(ヤハダ) ^^

716 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 04:14:02.76 .net
八幡→ヤパン→ヤポン

717 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 07:24:03.61 .net
>>716
→ジャポン→ジャパン→ニッポン→ニホン

718 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 20:23:57.70 .net
フランス帰りか。

719 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 21:01:08.51 .net
秦氏広隆寺の東に蚕の社があり、この社の元糺の池には珍しい三柱鳥居が設けられている。
水源に積んだ石塚を守るように建てられていて、その三つの鳥居の向く方角が下鴨神社、伏見稲荷大社、松尾大社の方角であることから、この三柱鳥居は秦氏と関係があるのではないかとされる。
確かに、そのように方向になるように設置したのかも知れないが、三柱鳥居自体は結界を示す鳥居が池の軟弱地盤のせいで倒れるのを防ぐために強い組み方である三角形のものとしたのだろう。
対馬の和多都美神社の三柱鳥居も、同じように池の中の水源に積んだ石塚を守るように設けられ居ている。
池の水源の地盤が軟弱なために結界をなす鳥居が倒れやすくなるのを防ぐ目的で、鳥居を三つ組みにしたものだろう。
なので、三柱鳥居自体はオカルトチックなものではないといえる。

ただ、蚕の社の三柱鳥居の方角を秦氏と関係の深い下鴨神社、伏見稲荷、松尾大社に向けたのには、秦氏が自己の縁起のためにそのようにした可能性はあるのかも知れないがな。

720 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 12:37:30.90 .net
フランスに渡米してましたでつ

721 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 12:42:46.75 .net
>>704
土佐清水には竜串海岸があり、まるで蛇(龍、比喩的に鰐)が並列しているような景勝だ。
兎と鰐・・・そう、皆様方もお分かりですよね。

722 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 12:47:47.23 .net
>>664
古墳を造ったのは野見宿禰の後裔・土師氏
当氏は大江氏、菅原氏、秋篠氏の祖にあたる

723 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 13:14:44.41 .net
因幡と八幡は、親戚?

724 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 13:20:09.47 .net
土師氏は、古墳の粘土槨づくりが専門だった。
その粘土槨が造られなくなったころに、形象埴輪が現れてくる。
形象埴輪は、土師氏の多角経営の産物かもな。

725 :日本@名無史さん:2023/04/10(月) 09:57:35.04 .net
皇室や豪族に近付き寄添うハニワトラップ

726 :日本@名無史さん:2023/04/10(月) 18:22:34.04 .net
土師氏は、古墳の割竹木棺の下に敷く粘土や、その上に被せる粘土の専業者だった。
粘土を敷くときに、職人が四股を踏んで粘土を締めた。
この技術は、元々は水田の漏水を防ぐために敷いた粘土を作業員が四股を踏んで締めたことに由来する。
土師氏の祖の野見宿禰が相撲に結び付けられるのは、その四股踏みのためだ。
野見宿禰が出雲の出身とされるのは、出雲の粘土と関連するのかもな。

727 :日本@名無史さん:2023/04/10(月) 21:08:18.86 .net
>>698
はじめ人間ギャートルズ = カザフスタン
サザエさん一家 = 日本人

728 :日本@名無史さん:2023/04/10(月) 23:03:22.15 .net
稲荷山古墳の武人埴輪の姿は、ユダヤ教の超正統派の姿と同じだ。
とんがりハットかぶって、垂れ目で、鬢の毛を伸ばして巻いている。
顎髭もたっぷりたくわえている。
しかし、日本は湿潤なので、本来は帽子を被らない。
とんがりハットは、カザフ平原などに特有のものだ。
稲荷山古墳のユダヤ教徒のような武人埴輪は、そのような乾燥地帯から来たことを思わせるな。

729 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 01:40:28.79 .net
どこから来たって秦人の国、辰韓しかないだろ

730 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 03:29:00.71 .net
辰韓は、砂漠じゃないだろう。

731 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 21:01:38.46 .net
『秦』の字は、前代の『春秋』を想像させうる。

732 :日本@名無史さん:2023/04/12(水) 01:32:56.64 .net
秦春秋かよ。

733 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 01:12:54.26 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
辰韓に決まってんだろ
東漢氏だって漢じゃなくて加羅出身さ

734 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 01:16:10.24 .net
秦氏が新羅に乗っ取られた元辰韓人なのは正解

でも東漢氏は百済の元楽浪帯方郡人だと思われ

735 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 02:00:13.12 .net
北部九州にオンドル遺跡が多く出土していて秦氏の勢力圏がわかる

736 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 02:12:07.59 .net
朝鮮半島の古代の衣服の記録って全然ないんだよね

朝鮮半島には埴輪という文物もないし

列島は4C頃まで袈裟衣か貫頭衣で衣服にズボンというものがなく、
ズボンのある衣服というのは秦氏と東漢氏が半島から最初に伝えたものだと
考えられるから、稲荷山古墳の武人埴輪の衣服は朝鮮半島の古代の服装だったと
考えられる訳なんだよ

737 :日本@名無史さん:2023/04/14(金) 01:57:14.78 .net
男の場合、ズボンや股引きが普通。
裸の脚ではすぐけがをして、傷だらけになる。
梁職貢図では、倭人は股引きをはいている。
これが伝統的な正装だった。

芝山古墳など出土の刀を持つ人物埴輪のズボンは、裾が大きく開いている。
寒い朝鮮半島では、このようなズボンはありえない。
後代の袴と同じで、裾が広いのが日本風。
人物埴輪の服装は、純日本風といえるな。

738 :日本@名無史さん:2023/04/15(土) 18:23:51.10 .net
奈良高市郡のオンドル跡は、百済系のものらしいな。
時期も三、四世紀などと古いものではないようだ。
しかも、半島ほど寒くない日本なので、すぐに廃れたらしい。
秦氏の拠点の伏見深草でも、オンドル跡は見つかっていないし。
秦氏辰韓説は、無理だろう。

739 :日本@名無史さん:2023/04/17(月) 20:20:48.16 .net
>>738
高市郡!
葛城豪族か?今木大神か?
天火明命か?一言主神か?

740 :日本@名無史さん:2023/04/20(木) 15:21:48.18 .net
オンドルとか言ってるけど元々は極寒い中国東北部だかで始まったもの。

楽浪郡、帯方郡を滅ぼした騎馬民族系に押された漢人系が行き場なくして南下、一部が渡来してきた。秦氏、漢氏が自分らを漢人と申告していたのは何もおかしくない。

741 :日本@名無史さん:2023/04/28(金) 01:03:27.30 .net
伝説の羊太夫は渡来人、キリスト教徒?…世界記憶遺産の上野三碑
https://www.yomiuri.co.jp/hobby/travel/20230420-OYT1T50090/

742 :日本@名無史さん:2023/04/29(土) 00:08:54.88 .net
最初の日本人に感謝
自分の御先祖様に感謝
そして自分の両親に感謝

743 :日本@名無史さん:2023/05/04(木) 11:00:10.87 .net
【歴史】伝説の羊太夫は渡来人、キリスト教徒?…世界記憶遺産の上野三碑(山上碑、多胡碑、金井沢碑)
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1682856456/

744 :日本@名無史さん:2023/05/06(土) 20:21:41.01 .net
大分県の秦姓はほとんどが被差別民だよね?どうしてそうなったんだろ?

745 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 00:04:53.58 .net
大分市南大分の史跡巡り(11)~京都の宮大工が建てた古民家~
https://onsenkenoita.net/post/173319237162/

大分市畑中地区には京都の宮大工が建てた大きな古民家が3軒ある。
3軒とも姓は秦家で江戸時代から広い土地持ちで真ん中の本家は大庄屋だったという。

746 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 00:23:31.73 .net
南大分っていうか、畑中とか荏隈あたり大分刑務所付近だわな
京都の御所で小坊主役を勤めた豊後府内藩の穢多頭の秦家はとなりの永興だったかな?

747 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 00:47:15.92 .net
まず秦姓はほとんどが被差別民という根拠が全くない

748 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 10:37:42.19 .net
最古の戸籍のほとんどが秦氏なのだが

749 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 10:57:48.41 .net
秦は春秋から文字った氏
大陸から渡来してきた民

日本列島を改造してきた
先ず手初めに平安京条理

秦は通称・役職名なのか!?
源平藤橘秦鴨賀茂加茂かも!

750 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 21:54:48.54 .net
北方漢民族
遼寧省人、黒竜江省人、吉林省、河北省、山西省、山東省、河南省

中央アジア人
内モンゴル、陝西省、寧夏回族自治区、甘粛省、青海省、新疆ウイグル自治区、チベット自治区、

南方漢民族
湖北省、湖南省、江西省、江蘇省、安徽省、浙江省、福建省、貴州省、雲南省、福建省、広東省、広西チワン自治区、海南省、四川省

751 :日本@名無史さん:2023/06/03(土) 14:57:57.09 .net
薩摩の大名家、島津は秦氏の頭領集団の一つ 秦氏の連れてきた機織りの職人や農民など技術者集団の部民とは区別が必要ではある

752 :ネトウヨ撲滅隊:2023/06/09(金) 16:21:33.54 .net
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ

753 :日本@名無史さん:2023/06/09(金) 19:54:20.91 .net
>>752
宮本一夫の日琉語説なんかとっくに破綻してるよピピンミョンくん(嘲笑

まず縄文人の祖先の旧石器人の大半は朝鮮半島から入った集団だよ

残りの旧石器人は樺太から入って来ている

両旧石器人の融合人種が縄文人だよ

残念ながら縄文末から弥生開始時にかけて朝鮮半島から入植した考古痕跡はないよ

沿海州南部から入植した考古痕跡ならあるが

沿海州南部と同じ刻目突帯文土器土器を作る集団が縄文末に出雲地方に現れるが、
土器を同じくするその子孫たちによって稲作は朝鮮半島から取り入れられている

そこに朝鮮半島から入植した考古痕跡はない

弥生土器は沿海州南部の刻目突帯文土器が元になっていて松菊里文化の土器が
元ではないよ

それが事実なら、その当時の朝鮮土器である欣岩里式か先松菊里式土器を
もっぱら作っている生活痕遺構があるはずだろ

ない



よろしいですかな?よろしいですかな?

短絡的な思考回路のピピンミョンくん(嘲笑

754 :日本@名無史さん:2023/06/10(土) 01:24:15.64 .net
秦河勝は、景教ネストリウス派ですよね。稲荷山。
そこで教えを受けたのが、空海。密教。
稲荷神社になんで狐霊が入ってきたのかは、不明とのこと。

755 :日本@名無史さん:2023/06/10(土) 01:24:53.07 .net
ちょっと間違ったかな
是非訂正してくださいね

756 :日本@名無史さん:2023/06/16(金) 22:52:44.46 .net
秦大津父は狼を神と呼んで助けた話があったな
その話が欽明天皇に気に入られて出世した
秦氏のトーテムは本当は狼なのかも
しかし藤原氏の春日大社では神使が鹿なので天敵の狼は都合が悪くなった
それで同じイヌ科の狐になった説

757 :日本@名無史さん:2023/07/15(土) 21:11:43.06 .net
>>752
日本人のルーツが西遼河人なら、日本でY-Nは相当数の頻度になるはずだけど、Nはごく少数派。
西遼河人は無理。

758 :日本@名無史さん:2023/07/15(土) 21:16:16.47 .net
それに、西遼河人の言葉の語順はSVOのようだ。
日本語のSOVとは逆構造なので、西遼河人⇒日本人は無理無理だな。

759 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 02:18:12.79 .net
秦氏の「トーテム」は、ヤハウェだよ。

760 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 02:30:12.15 .net
景教(ネストリウス派)が中国に入って来たのは、唐の時代だそうじゃないか。
秦氏が日本に来たのは4世紀後半とされるから、秦氏が景教だったということはまずないよね。
やっぱ、ユダヤ教だろう。

761 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 07:25:46.64 .net
はたと困ったユダヤ人種
いつの時代も迫害される

762 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 13:17:02.21 .net
ユダヤ教徒というのは、世界で最も人種混交が進んだ宗教集団だろうな。
その宗教集団の中で、元々の種族であったヘブライ人のDNAの割合は極限的に少ないのではあるまいか。
人種を超えた宗教だとは言えるな。

763 :日本@名無史さん:2023/07/19(水) 17:25:20.91 .net
秦氏の先祖の弓月君はそうした人種の坩堝であるユダヤ教徒の中でもギリシャ系商人の改宗ユダヤ教徒の子孫で、応神天皇の頃には西域のホータンで交易商をしていた人物だと思うよ。

764 :日本@名無史さん:2023/07/19(水) 18:50:30.03 .net
ホータンのあたりは、4世紀末頃までトルコ語が主流だったから、そのホータンを脱出して日本に渡った弓月君もトルコ語話者だったとするのがよい。
なので、トルコ語で合理的に秦氏ゆかりの日本の地名が解ける。
例えば、筑紫(チクシ)を挙げることができる。
トルコ語では、cikis(チクシ)は「出口」。
太秦から半島などへ渡る位置にある筑紫は、秦氏からすれば「出口」に当たる立地だったということだろうね。
その秦氏のトルコ語が、朝廷の公用語として取り入れられ、そのチクシに漢字の筑紫を当てたというのが実際の歴史だよ。

765 :日本@名無史さん:2023/07/20(木) 00:49:54.46 .net
>>764
訂正
10行目のトルコ語は、トルコ語の語彙が正しく、朝廷の公用語は朝廷の公用語彙が正しい。

総レス数 1054
397 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200