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秦氏はどこから来たか 4

1 :アッシー:2020/02/27(木) 01:58:54 .net
秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。

688 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 14:32:18.85 .net
太宰府は筑州で秦王国とは別物

689 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 16:51:36.66 .net
この時期には、まだ大宰府はなく、那津官家に置かれた筑紫太宰が外交ほかの仕事をしていた。
その那津官家や筑紫太宰の役人らの風俗は都と同じ大陸様式だったと考えられる。
この筑紫太宰の風俗をもって裴世清は中国の秦王国にたとえ、隋皇帝の諸侯国がこんなところにもあるのかとし、また呉の孫権が将軍を派遣したという夷州がここなのか、と異郷感をかもす著述を表した可能性が高い。
そうした異郷を通って、突然目の前にぱっと広がる海の海岸に行き着く。
そして、そこへ忽然と倭国の歓迎団が現れるのだ。

こうした描写は明らかに山海経的な異郷譚の描写様式であり、倭国の都はそのような異郷の中にあるのだと幻想的に物語っているものだ。
なので、裴世清らの一行は、陸路でもってその異郷の海の海岸まで行ったことになる。
もし、日本書紀の記述も正しいのだと仮定すれば、裴世清一行は迎えの準構造船で須磨から難波津へ渡ったとするのがよいだろう。

690 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 17:03:05.82 .net
水掛け論のループになるのでもういいかな

691 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 20:49:08.17 .net
ここらで、打ち止めにしよう。^^

692 :日本@名無史さん:2023/04/02(日) 20:52:29.05 .net
お疲れ様でした、楽しかったよ。

693 :日本@名無史さん:2023/04/03(月) 20:25:49.37 .net
ところで、秦氏新羅出身説はほぼ崩れたようだ。
秦氏が新羅出身であるなら、新撰姓氏録で百済出身氏族がちゃんと記載されているように、秦氏が新羅出身であることは誰もが知る事実となっていたはず。
しかし、実際には、半島ではなく中国の秦始皇帝にルーツを擬しているわけだし、このことからして半島出身でないことはまず動かないだろう。
そして、秦氏始皇帝末裔説は、ちょっと信じにくいとすれば、残るのはホータン出身説だけ。

そのホータンの語頭のホタが訛ってハタになったとするのが、最も信じやすいと言える。
弓月君の弓月は、中国西域のタリム盆地付近の名であることからしても、秦氏ホータン出身説は確率が高い。
とにかく、秦氏はトルコ語を話していたようだから、ホータンが4世紀頃まではトルコ語が話されていたことと秦氏のトルコ語は完全に一致するのよ。
まあ、そんなとこだな。

694 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 07:09:07.00 .net
秦氏はレビ族だったでしょが!

695 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 07:27:04.40 .net
弓月君のルーツはカザフスタン

696 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 14:32:26.55 .net
レビ族は、神に仕える司祭の家系で、そのために土地を持たない。
一方、秦氏は、大地主。
秦氏=レビ族は、あり得んな。

697 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 14:33:56.27 .net
>>695
弓月君の先祖がカザフ平原を通って来た商人だった可能性は高い。

698 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 16:21:55.11 .net
肉を好む民族はカザフスタンへ、魚を好む民族は日本へ渡ったと言われているらしいね

699 :日本@名無史さん:2023/04/04(火) 21:53:57.61 .net
宇佐の由来は『う・梅』と『さ・桜』だよ。
後付だが『平野大社』と『北野天満宮』だ。

700 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 00:45:08.35 .net
>>698
5世紀頃には、地中海産のガラス小玉が大量に輸入されている。
カザフ平原から内モンゴル、半島を経て日本にもたらされたと考えられている。
こうした関係から、カザフやキルギスには、日本についての知識が古くからあったのだろう。
日本は魚好きの住むところということも知らていたのではないか。
寿司のことも知っていたはずだ。^^

701 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 01:43:48.32 .net
>>699
沖縄北端の国頭村に宇佐浜(ウザハマ)がある。
岬と岬の間にできた内浜だ。

また、四国には土佐(トサ)がある。
この土佐は外砂・狭(トサ=外洋に面した浜)の意味。

宇佐は、蒐狭とも書かれている。
狭(サ)の字は、日本書紀では「浜」を意味する。

そうすると、宇佐は、外洋に面した直線型の浜である外砂・狭(トサ=土佐)の対立概念である深い湾になった内浜である内砂・狭(ウサ=宇佐)であることが分かる。
駅館川と寄藻川などの間は、昔は湾になっていたのだろう。
宇佐の語源は、「湾になった浜=内砂・狭」だろうね。

なお、蒐狭と書かれている蒐の音はシュ、シュウで、「集める」の意。
蒐狭の字は「(川の土砂が)集まってできた浜」の意味だが、ウサ(宇佐)の音の意味は「深い湾になった浜」の意味だ。
元々の地名はウサで、「内浜」の意味だろうね。

702 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 03:17:17.05 .net
宇佐は因幡の白ウサギの菟だそうだ

703 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 03:59:23.12 .net
>>695
弓月国は、今の中国ウイグル新疆自治区の北西端にある伊寧市にあたりにあった国だとされている。
この弓月国の弓月の名は西突厥の一部族である弓月部にちなむもので、その弓月部の拠点である弓月城が伊寧の地にあったことから、そのあたりが弓月国と呼ばれるようになったものとされている。
研究によると、この西突厥の弓月部は元々は突厥の一部族で、その突厥が東西に分裂したときに西に移動したとされる。

では、突厥はそもそもどこにいたかというと、柔然に隷属してアルタイ山脈の南麓に移住させられて、そこで鉄生産に従事していたようだ。
このアルタイ山脈の南麓は、今のウルムチ、トルファン、ハミなどのあるあたり。
ということは、弓月部は、元々はその付近にいたことになる。

そして、突厥が柔然から独立するのは552年とされるので、弓月君が渡来する4世紀末頃には弓月部はアルタイ山脈の南麓にいたことになる。
そうすると、イリ川上流の伊寧あたりにあったとされる弓月国は、4世紀末頃にはまだ存在していなかったことになってくる。
むしろ、弓月の地名は、ウルムチやトルファンなどのあるジュンガル盆地東端あたりにあった可能性すら出てくる。
また、ウルムチはジュンガル盆地の南に広がるタリム盆地にもつながっていて、ホータンなどと円弧をなすオアシス都市でもあるので、弓月の名はタリム盆地にかかることも考えられる。

こういうわけなので、秦氏の始祖の弓月君の故郷はイリ川上流の伊寧にあった弓月城あたりだとする説は、再考の余地があるのではないか。

704 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 04:33:50.91 .net
>>702
高知市を流れる仁淀川の河口の西側が長い直線状の浜になっていて、その浜が西側に尽きるところに萩岬がある。
この間の直線の浜が土佐(外狭)だ。
そして、この萩岬の西側すぐのところの湾にあるのが宇佐(内狭)だ。
土佐と宇佐が、ちゃんと対になってるのよ。
大分県の宇佐も、この高知の湾の宇佐と同じということだな。

白菟は、この鵜宇佐の浜に住んでるのだろう。

705 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 13:23:04.68 .net
宇佐神宮と出雲大社が4拍手なのはなぜだろう

706 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 15:17:03.08 .net
出雲大社の5月の例大祭は八柏手だ。
四柏手は、単に丁寧にしているだけ。
そして、ニ拍手は簡略しただけ。
拍手の回数は、オカルトじゃないからな。

そんなことより、七五三のお参りは奇数なのに、柏手はなんで偶数回なんや?

707 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 15:27:39.38 .net
伊勢神宮でも柏手八回。
ただし、これは神職が祭礼のときに行う。
一般は二回だ。

しかし、伊勢神宮に限らず、二回の柏手は明治からだそうだ。
それ以前は三回の柏手だったというぞ。
七五三も考えると、神社は奇数が基本なのかもな。
しかし、柏手の回数なんかは、コロコロ変わるということだな。

708 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 15:37:11.46 .net
>>703
突厥の弓月部の部族名にちなむ地方名は、4世紀末頃には敦煌からウルムチあたりの西域を指していた可能性がある。
ホータンなどもその弓月地方のオアシス都市だったのかもな。
弓月君がホータン出身なのとぴったりだ。^^

709 :日本@名無史さん:2023/04/05(水) 16:50:20.06 .net
>>707
柏手の回数なんて、ええかげんやな。
ニ拍手は明治に内務省が定めたものとされとる。
それ以前は、いろいろあったそうや。
確実なのは、柏手を打って神さんにお出まし願うことくらいや。
その回数なんて、各社まちまちなのが実態。

710 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 03:25:56.17 .net
秦氏の先祖はアナトリアに入ったギリシャ系の商人で、ここでユダヤ教徒に改宗してカザフ方面の行商に旅立ち、カザフ平原を通るときにトルコ語話者に変わり、そしてそのまま東へ進んでホータンに定着した。
ここがインド・ペルシャ方面と中国・モンゴル・半島・日本・ツングース方面とギリシャ方面との交易の交差点だったからだ。
ホータンでは、トルコ語が主流だった。
その後、4世紀後半になると、ペルシャ系の勢力が浸出してきて、ホータンの言葉もペルシャ語系に置き換わった。
このとき、ホータンに居た秦氏の先祖はタリム盆地のオアシス都市に住む交易関係者らとともにその地を脱出して、商人としての知識やユダヤ教徒の知識として持っていた「海の国」と目される島国の倭国へ行くことに決めた。
内モンゴルから遼河を通り、半島を経て、そして倭国へ到着したのが弓月君とされるトルコ語を話すユダヤ教徒だったのだ。
5世紀後半には彼らはウズマサの地に本拠地を構えたが、そのウズマサの名はトルコ語で「三つの机(祭壇)」の意味し、これはユダヤ教の神を讃えるための幕屋を示す言葉だった。
つまり、秦氏は、ウズマサの地を日本でユダヤ教の神を讃えるために幕屋を置くところと決めたのだ。
これが、秦氏の家系の全貌なのだ。

711 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 17:41:49.41 .net
伏見の深草に根拠地を置いた秦氏は5世紀中頃には太秦に進出して、ここを博多からの交易路の終着点として開発した。
そして、この太秦から埼玉の行田の入植地までの路程をユダヤ教の出エジプト記の旅程と重ね合わせる地図を描いた。
そこで、この日本における出エジプト記の出発地に当たる太秦の秦氏の神体山を松尾山(まつおやま)と名付けた。

出エジプト記ではエジプト脱出の前夜にユダヤ教徒たちは簡易的な食事として種無しパンを作って食べたが、その種無しパンの名はマッツオだ。
マッツオは出エジプト記の最初のエピソードであり、ユダヤ教徒はこのマッツオを極めて大切にする。
この種無しパンの名であるマッツオの音写が、松尾山(マツオヤマ)の松尾(マツオ)なのだと考えることができる。

つまり、埼玉の行田までの日本版出エジプト記の旅程の出発点として位置づけたのが、秦氏の神体山とされる松尾山(マツオヤマ)=(種無しパン・マッツオ)というわけなのだ。
そして、次の重要地は伏見の深草で、ここの秦氏の神体山は稲荷山(イナリヤマ)と名付けられている。
この稲荷山(イナリヤマ)の元々の山名は、稲生(イニイ、イナイ)のようだ。
イニイ、イナイ(稲生)は、秦氏のトルコ語によるinis(イニシ=着陸、降下)が訛ったものと考えることができる。

何が着陸するのかと言うと、出エジプト記では、山上のモーゼの前に天から降りてきたのはユダヤ教の神なのであり、その神が天から降りてきて十の諌めを授けたわけだ。
この神が降りてきた山に擬せられたのが深草のイナイ、イニイ(稲生)山であり、出エジプト記ではその山はシナイ山と呼ばれている。
なので、深草のイニイ、イナイ(稲生)山は、シナイ山になぞらえた神体山ということになる。

マッツオを食べて出エジプトし、そのあとシナイ山で十戒を神から授けられて、いよいよ本格的な荒地の旅が始まるという出エジプト記の旅程を、太秦から埼玉の行田までの旅程に被せて、そうしたユダヤ教徒の旅路としてこの行程を描いたということが浮かび上がってくるのだ。
秦氏がトルコ語を話すユダヤ教徒だったというのは、まず間違いないことだ。^^

712 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 22:54:11.04 .net
シャチハタ






シヤチハタ

713 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 23:02:30.03 .net
言わずと知れた『宇佐』は『U・S・A』🇺🇸

ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ🗽

「入浴へ行きたいかぁ〜〜〜!」

714 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 23:06:18.95 .net
666レス
不吉な予感

(;・∀・)

715 :日本@名無史さん:2023/04/06(木) 23:12:35.62 .net
ユダヤ人
トルコ語 yahudi(ヤフデ)=ユダヤ人

yahudi(ヤフデ)⇒八幡(ヤハダ) ^^

716 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 04:14:02.76 .net
八幡→ヤパン→ヤポン

717 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 07:24:03.61 .net
>>716
→ジャポン→ジャパン→ニッポン→ニホン

718 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 20:23:57.70 .net
フランス帰りか。

719 :日本@名無史さん:2023/04/07(金) 21:01:08.51 .net
秦氏広隆寺の東に蚕の社があり、この社の元糺の池には珍しい三柱鳥居が設けられている。
水源に積んだ石塚を守るように建てられていて、その三つの鳥居の向く方角が下鴨神社、伏見稲荷大社、松尾大社の方角であることから、この三柱鳥居は秦氏と関係があるのではないかとされる。
確かに、そのように方向になるように設置したのかも知れないが、三柱鳥居自体は結界を示す鳥居が池の軟弱地盤のせいで倒れるのを防ぐために強い組み方である三角形のものとしたのだろう。
対馬の和多都美神社の三柱鳥居も、同じように池の中の水源に積んだ石塚を守るように設けられ居ている。
池の水源の地盤が軟弱なために結界をなす鳥居が倒れやすくなるのを防ぐ目的で、鳥居を三つ組みにしたものだろう。
なので、三柱鳥居自体はオカルトチックなものではないといえる。

ただ、蚕の社の三柱鳥居の方角を秦氏と関係の深い下鴨神社、伏見稲荷、松尾大社に向けたのには、秦氏が自己の縁起のためにそのようにした可能性はあるのかも知れないがな。

720 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 12:37:30.90 .net
フランスに渡米してましたでつ

721 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 12:42:46.75 .net
>>704
土佐清水には竜串海岸があり、まるで蛇(龍、比喩的に鰐)が並列しているような景勝だ。
兎と鰐・・・そう、皆様方もお分かりですよね。

722 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 12:47:47.23 .net
>>664
古墳を造ったのは野見宿禰の後裔・土師氏
当氏は大江氏、菅原氏、秋篠氏の祖にあたる

723 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 13:14:44.41 .net
因幡と八幡は、親戚?

724 :日本@名無史さん:2023/04/09(日) 13:20:09.47 .net
土師氏は、古墳の粘土槨づくりが専門だった。
その粘土槨が造られなくなったころに、形象埴輪が現れてくる。
形象埴輪は、土師氏の多角経営の産物かもな。

725 :日本@名無史さん:2023/04/10(月) 09:57:35.04 .net
皇室や豪族に近付き寄添うハニワトラップ

726 :日本@名無史さん:2023/04/10(月) 18:22:34.04 .net
土師氏は、古墳の割竹木棺の下に敷く粘土や、その上に被せる粘土の専業者だった。
粘土を敷くときに、職人が四股を踏んで粘土を締めた。
この技術は、元々は水田の漏水を防ぐために敷いた粘土を作業員が四股を踏んで締めたことに由来する。
土師氏の祖の野見宿禰が相撲に結び付けられるのは、その四股踏みのためだ。
野見宿禰が出雲の出身とされるのは、出雲の粘土と関連するのかもな。

727 :日本@名無史さん:2023/04/10(月) 21:08:18.86 .net
>>698
はじめ人間ギャートルズ = カザフスタン
サザエさん一家 = 日本人

728 :日本@名無史さん:2023/04/10(月) 23:03:22.15 .net
稲荷山古墳の武人埴輪の姿は、ユダヤ教の超正統派の姿と同じだ。
とんがりハットかぶって、垂れ目で、鬢の毛を伸ばして巻いている。
顎髭もたっぷりたくわえている。
しかし、日本は湿潤なので、本来は帽子を被らない。
とんがりハットは、カザフ平原などに特有のものだ。
稲荷山古墳のユダヤ教徒のような武人埴輪は、そのような乾燥地帯から来たことを思わせるな。

729 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 01:40:28.79 .net
どこから来たって秦人の国、辰韓しかないだろ

730 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 03:29:00.71 .net
辰韓は、砂漠じゃないだろう。

731 :日本@名無史さん:2023/04/11(火) 21:01:38.46 .net
『秦』の字は、前代の『春秋』を想像させうる。

732 :日本@名無史さん:2023/04/12(水) 01:32:56.64 .net
秦春秋かよ。

733 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 01:12:54.26 ?2BP(1000).net
sssp://img.5ch.net/ico/tona1.gif
辰韓に決まってんだろ
東漢氏だって漢じゃなくて加羅出身さ

734 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 01:16:10.24 .net
秦氏が新羅に乗っ取られた元辰韓人なのは正解

でも東漢氏は百済の元楽浪帯方郡人だと思われ

735 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 02:00:13.12 .net
北部九州にオンドル遺跡が多く出土していて秦氏の勢力圏がわかる

736 :日本@名無史さん:2023/04/13(木) 02:12:07.59 .net
朝鮮半島の古代の衣服の記録って全然ないんだよね

朝鮮半島には埴輪という文物もないし

列島は4C頃まで袈裟衣か貫頭衣で衣服にズボンというものがなく、
ズボンのある衣服というのは秦氏と東漢氏が半島から最初に伝えたものだと
考えられるから、稲荷山古墳の武人埴輪の衣服は朝鮮半島の古代の服装だったと
考えられる訳なんだよ

737 :日本@名無史さん:2023/04/14(金) 01:57:14.78 .net
男の場合、ズボンや股引きが普通。
裸の脚ではすぐけがをして、傷だらけになる。
梁職貢図では、倭人は股引きをはいている。
これが伝統的な正装だった。

芝山古墳など出土の刀を持つ人物埴輪のズボンは、裾が大きく開いている。
寒い朝鮮半島では、このようなズボンはありえない。
後代の袴と同じで、裾が広いのが日本風。
人物埴輪の服装は、純日本風といえるな。

738 :日本@名無史さん:2023/04/15(土) 18:23:51.10 .net
奈良高市郡のオンドル跡は、百済系のものらしいな。
時期も三、四世紀などと古いものではないようだ。
しかも、半島ほど寒くない日本なので、すぐに廃れたらしい。
秦氏の拠点の伏見深草でも、オンドル跡は見つかっていないし。
秦氏辰韓説は、無理だろう。

739 :日本@名無史さん:2023/04/17(月) 20:20:48.16 .net
>>738
高市郡!
葛城豪族か?今木大神か?
天火明命か?一言主神か?

740 :日本@名無史さん:2023/04/20(木) 15:21:48.18 .net
オンドルとか言ってるけど元々は極寒い中国東北部だかで始まったもの。

楽浪郡、帯方郡を滅ぼした騎馬民族系に押された漢人系が行き場なくして南下、一部が渡来してきた。秦氏、漢氏が自分らを漢人と申告していたのは何もおかしくない。

741 :日本@名無史さん:2023/04/28(金) 01:03:27.30 .net
伝説の羊太夫は渡来人、キリスト教徒?…世界記憶遺産の上野三碑
https://www.yomiuri.co.jp/hobby/travel/20230420-OYT1T50090/

742 :日本@名無史さん:2023/04/29(土) 00:08:54.88 .net
最初の日本人に感謝
自分の御先祖様に感謝
そして自分の両親に感謝

743 :日本@名無史さん:2023/05/04(木) 11:00:10.87 .net
【歴史】伝説の羊太夫は渡来人、キリスト教徒?…世界記憶遺産の上野三碑(山上碑、多胡碑、金井沢碑)
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1682856456/

744 :日本@名無史さん:2023/05/06(土) 20:21:41.01 .net
大分県の秦姓はほとんどが被差別民だよね?どうしてそうなったんだろ?

745 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 00:04:53.58 .net
大分市南大分の史跡巡り(11)~京都の宮大工が建てた古民家~
https://onsenkenoita.net/post/173319237162/

大分市畑中地区には京都の宮大工が建てた大きな古民家が3軒ある。
3軒とも姓は秦家で江戸時代から広い土地持ちで真ん中の本家は大庄屋だったという。

746 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 00:23:31.73 .net
南大分っていうか、畑中とか荏隈あたり大分刑務所付近だわな
京都の御所で小坊主役を勤めた豊後府内藩の穢多頭の秦家はとなりの永興だったかな?

747 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 00:47:15.92 .net
まず秦姓はほとんどが被差別民という根拠が全くない

748 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 10:37:42.19 .net
最古の戸籍のほとんどが秦氏なのだが

749 :日本@名無史さん:2023/05/07(日) 10:57:48.41 .net
秦は春秋から文字った氏
大陸から渡来してきた民

日本列島を改造してきた
先ず手初めに平安京条理

秦は通称・役職名なのか!?
源平藤橘秦鴨賀茂加茂かも!

750 :日本@名無史さん:2023/05/29(月) 21:54:48.54 .net
北方漢民族
遼寧省人、黒竜江省人、吉林省、河北省、山西省、山東省、河南省

中央アジア人
内モンゴル、陝西省、寧夏回族自治区、甘粛省、青海省、新疆ウイグル自治区、チベット自治区、

南方漢民族
湖北省、湖南省、江西省、江蘇省、安徽省、浙江省、福建省、貴州省、雲南省、福建省、広東省、広西チワン自治区、海南省、四川省

751 :日本@名無史さん:2023/06/03(土) 14:57:57.09 .net
薩摩の大名家、島津は秦氏の頭領集団の一つ 秦氏の連れてきた機織りの職人や農民など技術者集団の部民とは区別が必要ではある

752 :ネトウヨ撲滅隊:2023/06/09(金) 16:21:33.54 .net
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ

753 :日本@名無史さん:2023/06/09(金) 19:54:20.91 .net
>>752
宮本一夫の日琉語説なんかとっくに破綻してるよピピンミョンくん(嘲笑

まず縄文人の祖先の旧石器人の大半は朝鮮半島から入った集団だよ

残りの旧石器人は樺太から入って来ている

両旧石器人の融合人種が縄文人だよ

残念ながら縄文末から弥生開始時にかけて朝鮮半島から入植した考古痕跡はないよ

沿海州南部から入植した考古痕跡ならあるが

沿海州南部と同じ刻目突帯文土器土器を作る集団が縄文末に出雲地方に現れるが、
土器を同じくするその子孫たちによって稲作は朝鮮半島から取り入れられている

そこに朝鮮半島から入植した考古痕跡はない

弥生土器は沿海州南部の刻目突帯文土器が元になっていて松菊里文化の土器が
元ではないよ

それが事実なら、その当時の朝鮮土器である欣岩里式か先松菊里式土器を
もっぱら作っている生活痕遺構があるはずだろ

ない



よろしいですかな?よろしいですかな?

短絡的な思考回路のピピンミョンくん(嘲笑

754 :日本@名無史さん:2023/06/10(土) 01:24:15.64 .net
秦河勝は、景教ネストリウス派ですよね。稲荷山。
そこで教えを受けたのが、空海。密教。
稲荷神社になんで狐霊が入ってきたのかは、不明とのこと。

755 :日本@名無史さん:2023/06/10(土) 01:24:53.07 .net
ちょっと間違ったかな
是非訂正してくださいね

756 :日本@名無史さん:2023/06/16(金) 22:52:44.46 .net
秦大津父は狼を神と呼んで助けた話があったな
その話が欽明天皇に気に入られて出世した
秦氏のトーテムは本当は狼なのかも
しかし藤原氏の春日大社では神使が鹿なので天敵の狼は都合が悪くなった
それで同じイヌ科の狐になった説

757 :日本@名無史さん:2023/07/15(土) 21:11:43.06 .net
>>752
日本人のルーツが西遼河人なら、日本でY-Nは相当数の頻度になるはずだけど、Nはごく少数派。
西遼河人は無理。

758 :日本@名無史さん:2023/07/15(土) 21:16:16.47 .net
それに、西遼河人の言葉の語順はSVOのようだ。
日本語のSOVとは逆構造なので、西遼河人⇒日本人は無理無理だな。

759 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 02:18:12.79 .net
秦氏の「トーテム」は、ヤハウェだよ。

760 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 02:30:12.15 .net
景教(ネストリウス派)が中国に入って来たのは、唐の時代だそうじゃないか。
秦氏が日本に来たのは4世紀後半とされるから、秦氏が景教だったということはまずないよね。
やっぱ、ユダヤ教だろう。

761 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 07:25:46.64 .net
はたと困ったユダヤ人種
いつの時代も迫害される

762 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 13:17:02.21 .net
ユダヤ教徒というのは、世界で最も人種混交が進んだ宗教集団だろうな。
その宗教集団の中で、元々の種族であったヘブライ人のDNAの割合は極限的に少ないのではあるまいか。
人種を超えた宗教だとは言えるな。

763 :日本@名無史さん:2023/07/19(水) 17:25:20.91 .net
秦氏の先祖の弓月君はそうした人種の坩堝であるユダヤ教徒の中でもギリシャ系商人の改宗ユダヤ教徒の子孫で、応神天皇の頃には西域のホータンで交易商をしていた人物だと思うよ。

764 :日本@名無史さん:2023/07/19(水) 18:50:30.03 .net
ホータンのあたりは、4世紀末頃までトルコ語が主流だったから、そのホータンを脱出して日本に渡った弓月君もトルコ語話者だったとするのがよい。
なので、トルコ語で合理的に秦氏ゆかりの日本の地名が解ける。
例えば、筑紫(チクシ)を挙げることができる。
トルコ語では、cikis(チクシ)は「出口」。
太秦から半島などへ渡る位置にある筑紫は、秦氏からすれば「出口」に当たる立地だったということだろうね。
その秦氏のトルコ語が、朝廷の公用語として取り入れられ、そのチクシに漢字の筑紫を当てたというのが実際の歴史だよ。

765 :日本@名無史さん:2023/07/20(木) 00:49:54.46 .net
>>764
訂正
10行目のトルコ語は、トルコ語の語彙が正しく、朝廷の公用語は朝廷の公用語彙が正しい。

766 :日本@名無史さん:2023/07/20(木) 22:16:33.54 .net
>>17
アヂスキタカヒコネだろうか?

767 :日本@名無史さん:2023/07/22(土) 14:08:51.91 .net
残念です、秦氏自身が自分たちを漢人であると大和朝廷に申告しております。
朝鮮半島にユダヤ人がいた記録も形跡もありませんよね。

768 :日本@名無史さん:2023/07/22(土) 15:06:45.16 .net
天皇自身が火葬にしろと言いだしたりしてる
ユダヤなら火葬しないよな

769 :日本@名無史さん:2023/08/07(月) 18:16:16.05 .net
秦氏が始皇帝の血脈だとする系譜を作ったのは、後漢霊帝の血脈だとする東漢氏に張り合ったためだろう。
始皇帝を選んだのは漢王朝よりも古い初めての統一王朝だったことと、始皇帝の家系が西域系にルーツがあると見られたことも関係したのではないか。
秦氏は、始祖の弓月君が西域のホータンから来たことを暗にほのめかしたのかも知れんし。

770 :日本@名無史さん:2023/08/07(月) 18:31:44.00 .net
秦氏のトルコ語からすると、筑紫(チクシ)はcikis(チクシ=出口)由来。
壱岐(イキ)は、トルコ語のiki(イキ=数詞の2)由来。
壱岐は半島から見ると2番目の島だからね。

秦氏がトルコ語話者だった可能性は、極めて高いんよ。

771 :日本@名無史さん:2023/08/09(水) 20:56:47.76 .net
秦酒君は実在した可能性が高い。
ユダヤ教徒集団が入植したとみられる埼玉の行田にある稲荷山古墳出土の鉄剣銘に、オワケの祖父の名がハテヒと刻まれていて、これをトルコ語で見ると、トルコ語のhatir(ハテシ=酒)と発音がよく似ている。
そうすると、オワケの祖父が「酒」の名であった可能性が高く、そして酒の名を持つのは太秦の秦氏の酒君なのだから、オワケは秦酒君の孫ということになってくる。
このことからすると、太秦の秦氏の当主の酒君の子が埼玉の行田に入植して地盤を築き、その子のオワケが雄略に仕えて杖刀人のリーダーを務めたということになる。
つまり、その杖刀人を率いたオワケのバックには、太秦の秦氏がいたということだろう。
そして、この杖刀人は継体天皇にも仕えていたことが継体陵の埴輪から分かる。
秦氏の仕事は、殖産だけではなかったということだな。

772 :日本@名無史さん:2023/08/18(金) 07:42:14.92 .net
ウイグル・アルタイ系の氏族豪族が渡来してきても日本の言語に影響与えたのは秦氏じゃないだろ
遅すぎる

773 :日本@名無史さん:2023/08/18(金) 07:43:38.10 .net
筑紫・壱岐と秦氏が関係ない そこらへんで支配階級は別にいた
ホータン野郎は無茶苦茶な理屈を振り回すな

774 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 02:17:02.16 .net
>>773
そこらへんの地域支配者がいくらがんばっても、お上が「そこはチクシ(筑紫)や」と言えば公的にはチクシ(筑紫)になる。
そして、そのチクシ(筑紫=出口)の名を最初に言い出したのが秦氏で、その大豪族の秦氏の命名が公的呼称となったわけ。
この真実に反論するのなら、キミのチクシ(筑紫)の語源説を述べてみたまえ。
噴飯ものの語源説を開陳するんじゃないぞ。

775 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 08:05:59.30 .net
5~7世紀ごろの価値観だと新羅は倭にとって後進地域なんだよ
倭の五王時代は倭王は新羅の管理も中国皇帝から正式に任されてたし、倭国の下という認識が強かった

だから新羅出身の渡来人は見下されることを恐れて「新羅出身だ」とは言わなかった

今でいうフィリピン人が聞いてもないのに「私はスペイン系」とか言うようなもの

秦氏や東漢氏なんかがそれよ
両氏とも間違いなく新羅渡来だけど
本人たちは「うちは秦の始皇帝の由来で」とか「漢帝国の由来で」とか自称して出自を粉飾しただけ

776 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 08:09:22.30 .net
高句麗が仏教受容するのは374年
百済の仏教受容は387年とか言われてる

新羅の仏教受容は527年で倭国が538年

つまりこれって、倭国がいつのまにか最後進国になってたってことよ

777 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 08:14:16.19 .net
百済と新羅の仏教受容にも150年の差がある

むしろ倭国が新羅の仏教受容を邪魔してたんじゃないかな

新羅が仏教受容した割とすぐに倭国も仏教受容してるのを見るに

「ついに拒絶しきれなくなった」という面が強い

倭国は仏教の存在自体はずっと知ってて、それを150年拒絶してたってことよ普通に考えるとね

百済と国際交流しながら仏教の存在を知らないはずがない

778 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:23:24.17 .net
>むしろ倭国が新羅の仏教受容を邪魔してたんじゃないかな

元々、秦韓とも呼ばれて秦人、韓人が多く大陸系の血が濃厚な新羅に島国からそんな縛りができたのだろうか?

779 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:26:00.63 .net
>>774

秦氏がいつ渡ってきたと思ってんだ?

筑紫国造は阿部氏で四道将軍の子孫 後発の秦氏など一ミリも関係ない

780 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:28:02.44 .net
>>778
倭の五王時代長く倭王は新羅の諸軍事に任官されてる

781 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:36:01.13 .net
>3世紀に編纂された魏志倭人伝によれば、筑紫島の玄界灘側には、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)などの国があり、伊都国には一大率などの検問機関がおかれ、邪馬台国の国と帯方郡のあいだの貿易港として栄えていた。
伊都国、奴国の支配者層はともに数百年後に渡ってくる秦氏とは一ミリも関係がない

782 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:50:28.72 .net
倭王珍から倭王武まで60年くらいにわたって新羅は倭国に服属してる

527年に磐井の乱があり、同年に新羅は仏教を受容してる

磐井の乱は間違いなく新羅の倭国からの独立戦争だろう

783 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:53:00.87 .net
その後倭国は任那にも離反を許してる

そして同時期に蘇我氏や秦氏という渡来系氏族が倭国で勢力を振るうようになる

任那からの引き上げ倭人か、あるいは亡命新羅人、逃亡した任那旧王族などだろう

784 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 17:54:31.87 .net
それら氏族は「逃亡新羅人」とは名乗らず「三韓征伐の武内宿禰の子孫」や「新羅には一時的に滞在していただけで出自は秦の始皇帝だ」などあることないこと言って家系を箔付けしたんだろう

785 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 18:00:03.59 .net
あるいは「三韓征伐の応神天皇の子孫」を名乗った継体天皇もそうだったかもしれない

「越前から迎えた」「近江から迎えた」というのは叙述トリックであって
本来は近江、越前から船を出して任那に迎えに行ったのだろう

786 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 18:00:55.48 .net
「越前から船を出して任那に迎えに行った」を「越前から迎えた」と書いてもギリギリ嘘ではない

787 :日本@名無史さん:2023/08/19(土) 20:13:17.38 .net
最近YouTubeにドップリだという親父が秦氏はユダヤか中央アジアから来たとか言い出したんだが
お前らの仕業か?

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