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邪馬台国畿内説 Part716

1 ::2021/08/16(月) 18:16:32.88 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1628973930/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2 ::2021/08/16(月) 18:17:34.53 .net
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 ::2021/08/16(月) 18:18:06.41 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 ::2021/08/16(月) 18:18:40.15 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 ::2021/08/16(月) 18:19:12.00 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 ::2021/08/16(月) 18:19:43.73 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 ::2021/08/16(月) 18:20:15.08 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 ::2021/08/16(月) 18:20:44.19 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 ::2021/08/16(月) 18:21:34.92 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 ::2021/08/16(月) 18:22:07.22 .net
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:22:40.47 .net
【畿内説パート709ハイライト】

359 日本@名無史さん 2021/07/30(金) 17:35:50.68
>>349
>水路の距離をどうやって図るのか、畿内説は考えたことがないの?

考えて、測れないと結論したよ

12 ::2021/08/16(月) 18:22:50.12 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

13 ::2021/08/16(月) 18:23:18.07 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

14 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:23:23.72 .net
【畿内説パート710ハイライト】

977 日本@名無史さん 2021/08/02(月) 18:21:35.00
>>972
>シナ大陸に限れば、この古地図は正確なのか?

シナ大陸という地名は無い

15 ::2021/08/16(月) 18:23:56.02 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

16 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:24:02.21 .net
【畿内説パート711ハイライト】

596 日本@名無史さん 2021/08/04(水) 17:22:39.41
>>595
いや、九州説に学者いないし

17 ::2021/08/16(月) 18:24:30.54 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

18 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:24:39.26 .net
【畿内説パート712ハイライト】その1
奥山スペシャル

422 日本@名無史さん 2021/08/09(月) 09:40:07.55
>>419
>ソースは?

調査報告書
築造に使われた鍬や飯を炊いた土器、壊された建材などいろんなものが捨てられてるのが現実だ

19 ::2021/08/16(月) 18:25:02.12 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

20 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:25:20.35 .net
【畿内説パート712ハイライト】その2
奥山スペシャル

500 日本@名無史さん 2021/08/09(月) 11:22:25.33
>>481
>報告者は廃棄の意図と言っている

つまり「馬具は捨てられたと報告された」という発言はない

21 ::2021/08/16(月) 18:25:33.95 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

22 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:25:46.59 .net
【畿内説パート712ハイライト】その3
百姓ボランティア説誕生

706 日本@名無史さん 2021/08/09(月) 16:38:42.45
だから乱の後に平和を長く続かせた女王の墓造りに専門職の指揮下で従事する身分が低い男たちも
自ら仕えるような(望んで作業するような)者たち

23 ::2021/08/16(月) 18:26:05.35 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

24 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:26:16.09 .net
【畿内説パート713ハイライト】その1

152 日本@名無史さん 2021/08/11(水) 12:17:02.73
>>150
>それに、奈良(現在40位)がまったく耕作に適さない事実は変わらない

そんな場所が、どうして最も早い時期に大型の水田が広がった地域の一つなの?

25 ::2021/08/16(月) 18:26:38.36 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

26 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:26:45.82 .net
【畿内説パート713ハイライト】その2

223 日本@名無史さん sage 2021/08/11(水) 16:58:25.55

お前の箸墓古墳が作られた当時あるいはそのすぐ後の時代の破砕供献の土器を
ゴミ捨て場と考えるのはバカしかいない

27 ::2021/08/16(月) 18:27:10.66 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

28 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:27:22.59 .net
【畿内説パート713ハイライト】その3

338 日本@名無史さん sage 2021/08/11(水) 21:10:11.01
いや、墓の敷地にどこかから風か何かでコンビニの袋が飛ばされてきて
それが墓の敷地内で拾われたら、そのコンビニの袋は供え物になるのか?

29 ::2021/08/16(月) 18:27:46.94 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。

30 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:27:53.83 .net
【畿内説パート713ハイライト】その4
PCから書き込む時代錯誤畿内説

285 日本@名無史さん 2021/08/11(水) 19:12:42.92
>>283
弥生時代後期には硯があるし文字もある。
お前のヨタ意見なんかどうでもいい。
一日中PCに張り付いてないで少しは見識をひろめろ、カッペ。

31 ::2021/08/16(月) 18:28:18.24 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

32 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:28:37.32 .net
【畿内説パート713ハイライト】その5
奥山スペシャル

647 日本@名無史さん 2021/08/12(木) 18:04:02.99
>>624
>調査報告書に土器に付着した炭化物は
>箸墓造営中に食べた物と、報告されてませんよ。

箸墓築造過程で廃棄された(炊飯用の)甕だと書いてあるんだよ
それに付着した炭化物が年代測定されたこともね
で、測定した者の書いた報告書には炊飯時の吹きこぼれを測定したと書いてある

33 ::2021/08/16(月) 18:28:51.29 .net
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

34 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:29:29.79 .net
畿内説パート714ハイライト】その1
奥山スペシャル

736 日本@名無史さん 2021/08/14(土) 20:42:34.23
>>726
>ふきこぼれでついた米粒か、他の理由でついた米粒か、千年以上たってから区別できるわけないだろ

わかってんだよ
それが調査だ

35 ::2021/08/16(月) 18:29:33.12 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

36 ::2021/08/16(月) 18:30:06.15 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

37 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:30:08.97 .net
畿内説パート714ハイライト】その2

773 日本@名無史さん 2021/08/14(土) 21:32:01.83
>>763
別に箸墓が卑弥呼の墓じゃなくても困らないよ?
西殿塚古墳でも構わないんだから
径百歩の墓の候補はいくらでもあるって言ってるだろ?
大王墓の系譜があるから年代の合うやつを当てればいいだけ

38 ::2021/08/16(月) 18:30:37.61 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

39 ::2021/08/16(月) 18:31:12.31 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

40 ::2021/08/16(月) 18:31:44.18 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

41 ::2021/08/16(月) 18:32:30.90 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

42 ::2021/08/16(月) 18:33:01.75 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

43 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:33:08.97 .net
畿内説パート715ハイライト】その1

95 日本@名無史さん 2021/08/15(日) 10:11:40.99
>>92
>左上の東松浦半島は見えないらしいし、空でも飛ぶのか道のない場所を直進してるし、畿内説の頭の悪さがにじみ出てるよな

一部の九州説者が言うように当時の技術で三角測量が出来たなら
その直線は出せるんだぜ

44 ::2021/08/16(月) 18:33:33.76 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

45 ::2021/08/16(月) 18:34:08.36 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

46 ::2021/08/16(月) 18:34:41.18 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

47 ::2021/08/16(月) 18:35:30.80 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

48 ::2021/08/16(月) 18:36:02.08 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

49 ::2021/08/16(月) 18:36:34.22 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

50 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:36:40.28 .net
畿内説パート715ハイライト】その2

746 日本@名無史さん 2021/08/16(月) 12:05:19.45
>>743

東夷伝冒頭の書経禹貢篇の方万里は観念的な里数
筑後チョンボは学習能力がない

51 ::2021/08/16(月) 18:37:05.74 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

52 ::2021/08/16(月) 18:37:36.34 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

53 ::2021/08/16(月) 18:38:08.53 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

54 ::2021/08/16(月) 18:38:39.61 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

55 ::2021/08/16(月) 18:39:12.16 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

56 ::2021/08/16(月) 18:39:46.97 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

57 ::2021/08/16(月) 18:40:25.29 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

58 ::2021/08/16(月) 18:40:58.15 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

59 ::2021/08/16(月) 18:41:41.89 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

60 ::2021/08/16(月) 18:42:13.13 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

61 ::2021/08/16(月) 18:42:45.49 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

62 ::2021/08/16(月) 18:43:17.12 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

63 ::2021/08/16(月) 18:43:53.87 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

64 ::2021/08/16(月) 18:44:21.67 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

65 ::2021/08/16(月) 18:44:53.17 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)

66 ::2021/08/16(月) 18:45:24.95 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

67 ::2021/08/16(月) 18:45:55.24 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

68 ::2021/08/16(月) 18:46:27.10 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

69 ::2021/08/16(月) 18:46:58.36 .net
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

70 ::2021/08/16(月) 18:47:29.73 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

71 ::2021/08/16(月) 18:48:03.01 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

72 ::2021/08/16(月) 18:48:32.31 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

73 ::2021/08/16(月) 18:49:05.65 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

74 ::2021/08/16(月) 18:49:32.99 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

75 ::2021/08/16(月) 18:50:04.19 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

76 ::2021/08/16(月) 18:50:35.87 .net
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

77 ::2021/08/16(月) 18:51:04.91 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

78 ::2021/08/16(月) 18:51:34.84 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

79 ::2021/08/16(月) 18:52:08.70 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

80 ::2021/08/16(月) 18:52:39.57 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

81 ::2021/08/16(月) 18:53:11.16 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

82 ::2021/08/16(月) 18:53:44.68 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

83 ::2021/08/16(月) 18:54:16.36 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

84 ::2021/08/16(月) 18:54:49.05 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

85 ::2021/08/16(月) 18:55:22.35 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

86 ::2021/08/16(月) 18:55:55.05 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

87 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:55:57.44 .net
頭の出来映えの悪い、朝鮮人のプロ固定が、またしても、完全に破綻した邪馬台国畿内説についての、ウンコのようなスレッドを、作成してしまった。

88 ::2021/08/16(月) 18:56:27.22 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有栫B崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

89 ::2021/08/16(月) 18:57:09.77 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

90 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:57:15.91 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*以下のような悪質な荒らし行為はご遠慮ください

また短里の長さが変わってるww

そんな伸び縮みするのは単位じゃないって前にも言われてただろ?w

で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ?

朝鮮系の人は九州説にしかいないんだよww
チョンって書くときに悔しさで指が震えてるんじゃないか?

自分は日本人ですとは意地でも言いたくないんだよな?
ミンジョクの誇り的に?ww

で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ?


★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

91 ::2021/08/16(月) 18:57:45.45 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

92 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:57:52.45 .net
>>87
貴方は、真実の意見を発表することに、久しぶりに、成功しましたね。

93 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 18:59:06.73 .net
>>1
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだね。

94 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 19:00:05.57 .net
頭の出来映えの悪い、朝鮮人のプロ固定が、またしても、完全に破綻した邪馬台国畿内説についての、ウンコのようなスレッドを、作成してしまった。

95 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 19:01:30.07 .net
新型コロナウイルスに対するワクチンを、若者達も撃ち始めたのでは、ないのかな。

96 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 19:03:09.12 .net
日本の若者達が、バスケットボールで、銀メダルというメダルを、獲得したな。

97 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 19:05:02.77 .net
テストします。

98 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:06:52.01 .net
>>986
>畝傍山は、天香久山、耳成山と並んで大和三山と呼ばれて万葉の歌に詠まれた地名

それらは、8世紀に倭国(阿波)から遷都した後に名付けられた「阿波」の山。

初代神武天皇陵=徳島市丈六町秋葉神社(畝傍山の北東)
畝傍山=徳島市南部(渋野町・勝浦町・丈六町・多家良町・八多町・飯谷町)一帯の山塊
耳成山=中津峰山 徳島市と勝浦町との境界地
天の香具山=日の峯山(籠山かごやま) 海が間近の小松島市
橿原の宮=徳島市丈六町辺り
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

99 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:08:05.47 .net
>>950
古墳時代の奈良畿内に王都集落遺跡がない。

よって、奈良畿内に大和朝廷に繋がる元となるものが存在しない。   @阿波

100 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:08:39.76 .net
>>980
>橿原は日本書紀、古事記に登場する地名

その橿原が、奈良だとどこにも書かれていない。  橿原も後付け地名である。   @阿波

101 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:09:46.78 .net
>>941
>点々と発掘が進むから最初はそれぞれに遺跡名がついていたのだけれど、それが「全部つながった1つの大きな遺跡」だと分かったから大騒ぎになったんだよ

それは纏向遺跡が幸いしただけのこと。
鮎喰川下流域だって、同じことだ。 纏向みたいに継続的に発掘されてないだけ。
ただし、桜井市纏向学センターによると、纏向遺跡には明確な住居跡がないらしいがな。   @阿波

102 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:12:42.98 .net
>>891
>その後は、オオキミの代替わりごとにヤマトとカワチの各所を移動する

そのヤマトとカワチの各所を移動した王都集落遺跡はなんという遺跡なんだ?
纏向遺跡の、後継王都集落遺跡はなんという集落遺跡なんだ?   @阿波

103 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:15:39.60 .net
こうですね
イエス・キリスト
=大天使ミカエル
=木星

ナザレのイエスと聖母マリアの子、
イエス・キリスト

イエス・キリストの墓は、
沖縄 宮古島

ミカエル大天使の本地は、
アフリカ キリマンジャロ山

イエス・キリスト
熊野本宮大社
凄ノ王大神

凄ノ王とミカエルは、
やっぱ別神か?

104 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:17:01.69 .net
洋の東西の別だけで、
同神異名か?

105 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:20:26.58 .net
金星が凄ノ王だから、
木星はミカエルとすると、
やっぱ別神か

106 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:21:08.99 .net
イエス・キリストの、
兄弟かな
イスキリという人もいるとか

107 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:32:37.20 .net
>>962
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・


「南≠東」などの史料事実や史料実態に拠ってバツね。

108 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:36:39.74 .net
木星は、
やはり、
牛窓のゼウスか

ファミリーマートの、
肉食べると、
蕁麻疹でるんだよな
多分、
店内のクーラーが、
効いて無いんじゃないの?

109 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:37:51.50 .net
ゼウスが、
ミカエルで、
イエス・キリスト
ということはないか

110 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 21:45:14.31 .net
>>962
>「渡海」は、最低も最大もなく
「一律で千里」なんだよ つまり測ってないし、

魏の役人らが「測って」おらず「千余里」と記録して報告したら、
当然、同行の魏の役人や後続の張政らにバレて、
首が危なくなるから、そんなアホな事をする筈がなく、
この大和説男がバツ男ね。

>短里ではもちろんない

つい本日に、5世紀の裴松之の呉志の注釈での「歩行は一日二百里」、
という短里の証拠を見せて上げた所だから、この大和説男がバツね。

111 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:01:38.16 .net
創作意欲(インスピレーション)が湧いてきただろ。

当時から(知っている)気づいていた、おまいは、そういう職だろうと。

112 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:05:41.92 .net
『インスピレーション  曲』

『日本昔話 石楠花』

『』内、調べてみた?なぜか同じ。

113 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:10:33.37 .net
『ジャックと豆の木』も同じ。

114 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:11:56.38 .net
もしかして、
堕天使長ルシフェル、
金毛九尾の狐は、
幽界の支配者だったんじゃないかな
この場合の幽界は、
人霊界か?それとも、
顕幽神三界という場合の、幽界か?
多分、後者。

おれは、
救済のイエスかな
ミカエルかな
凄ノ王かな
牛窓のゼウスかな

なんだろうな

イエス・キリスト
ミカエル
射手座(デルタ星)
ゼウス
かな

115 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:14:36.62 .net
『ドラゴンボール カリン塔』

神殺し〜〜( end)〜〜〜みたいな曲も同じ。

116 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:24:06.74 .net
ああ、
なるほど
射手座イプシロン星じゃないから、
また、木星でもなく、
俺は、簡単に理解して、
文字通り神使かあ

だめだ。
金星と木星の関係がわからん

117 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:27:40.73 .net
簡単か
陰陽五行で、
庚だから、
やっぱ、
金星か

それぞれの、


118 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:33:54.57 .net
老婆の言っていた、
泥棒のようなものに入られたという話・・・有名なのかな。

当時、家にあったものの?

119 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:42:44.66 .net
おかしな話ばかり。

なぜか、家の?老婆(旧姓わ  べw)が・・・みたいな話?

泥棒のようなものに入られたりしたのも、
家のほうの話だと言っていたり。

「」このような家。

120 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:46:57.82 .net
おかしな話ばかり。

実際は何かの?・・・系統も違うみたいだしな。
旧姓(わ   べ)鬼退治が〜〜〜〜みたいな話をしていたこともあるし。

121 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:49:29.77 .net
『天財若子』()
家は、このような家、
老婆談によると、泥棒のようなものに入られた。

122 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 22:58:40.33 .net
ついに(到達)倒したのか!みたいな、謎の書き込みをしている人もいた。

家の老婆の家が何かなのかな?旧姓〜。

123 :日本@名無史さん:2021/08/16(月) 23:04:26.48 .net
実際は、かなり、むかしの話なんだけど、その後、結婚した?

ついに・・・(到達)なのか!みたいな書き込みをしている人もいた。

124 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:04:27.79 .net
これも、ほんとーの話。
お前たち(日本のメディア)の言っているテンノウはコジキなんだけどな。

125 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:07:20.71 .net
猿田何やら、国家神道〜も同じ。

ほんとーの中国(渡来〜)のほうから来た人達の事を否定していたり、
コジキなんだろう。

126 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:10:13.40 .net
『中華思想』

日本のメディアとか、
お前たちの言っている日本のテンノウは?
下のほうの・・・何か(不明)だし。

127 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:12:48.16 .net
実際は天皇、皇帝・・・〜でもない、
よくわからない(不明)だという話ばかり。

128 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:22:22.48 .net
日本の神話
ジンムというのも、どこかの漁師?だという話みたいだしな。

天王、龍宮〜?
ほんとーの渡来人〜とは系統も違うとか。

129 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:26:29.73 .net
だから言っているだろう、
ほとんど逆事件(明治時代の頃)みたいな話も、

当時、あったとか、なかったとか?

130 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:32:21.00 .net
謎の日本昔話も・・・、
どう考えても日本の話ではないしな。

中国とか大陸のほうの話、
日本に渡ってきていた人達の話だろう。

131 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:33:34.13 .net
なぜかw泥棒(不明)みたいなものに入られた。

132 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:42:37.35 .net
四狂荒らしとともに松傾も復活かよ

133 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:44:41.02 .net
山口組関係の何者かが〜〜〜ジンム()?

134 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:48:47.41 .net
おかしな話ばかり・・・、日本列島の漁師?

135 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 00:59:00.44 .net
それにしても『ジャックと豆の木』『』とか。

『雲のジュウザ』『雲のかなたに』
なぜか同じような話ばかりだしな、弟子か何かなのかな。

136 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 01:02:02.11 .net
「ドンバ」〜仙人みたいな話も同じ。

どう考えても・・・日本の話ではないし。

137 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 01:16:49.43 .net
数年前のことになるんだけど、たしか、どこかで見た、

日本で報道しているテンノウとか?ほんとーは(実態?)コジキだと。

138 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 01:25:47.95 .net
日本のテンノウとかの話。
結婚した相手(嫁)の家のほうが〜〜何かの家だという説もある。

例『クレクレタコラ』

139 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 01:27:44.20 .net
ほんとーは?そうだという話。
どこだったかな〜、なぜか詳しい人もいる。

140 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 01:34:16.42 .net
次、次の代も・・・、
何かの家、そういう家の娘(婿)を探して結婚とか。

ほんとーは、
そうだと説いている人もいた。

141 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 05:28:51.05 .net
古墳時代の奈良畿内に王都集落遺跡がない。

つまり、奈良畿内に大和朝廷に繋がる元となるものが存在しない。   @阿波

142 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 06:39:16.60 .net
また畿内説が荒らしてるのか

143 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 06:56:46.11 .net
奈良の歴史は、8世紀の「阿波」からの遷都より始まる。   @阿波

144 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 07:01:27.73 .net
奈良の飛鳥遺跡は、倭国(阿波)王権庇護による、朝鮮半島避難渡来人によるものである。   @阿波

145 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 07:29:37.03 .net
>>141
>古墳時代の奈良畿内に王都集落遺跡がない。

遺跡というのは発掘許可が下りて初めて発掘できる。
発掘許可が下りるのは謂れのない場所。

だから今発掘できる場所に卑弥呼はいなかった。

卑弥呼のいた宮は今では神社としてある。
崇神天皇=4世紀前半以前の式内社の中に卑弥呼の宮がある。

146 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 07:31:52.44 .net
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。   

旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。   @阿波

147 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 07:35:30.52 .net
>>145
>卑弥呼のいた宮は今では神社としてある。

宮など関知しない。

古墳時代の奈良畿内に王都集落遺跡がない。

つまり、奈良畿内に大和朝廷に繋がる元となるものが存在しない。   @阿波

148 :あぼーん:あぼーん
あぼーん

149 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 07:43:53.64 .net
>>147
>宮など関知しない。

それは君の勝手であり、それこそこっちは関知しない。
かつての王宮が神社として残ってる事実は、
たとえば崇神天皇の磯城瑞籬宮が志貴御県坐神社としてあることでもわかる。

150 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 07:43:58.86 .net
>>148よ、奈良葛城もも後付け地名である。   @阿波

151 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 07:50:15.79 .net
>>149
>志貴御県坐神社

「大和坐大国魂神社」
「村屋坐弥冨都比売神社」 など
奈良の神社は、「坐」が付く神社だらけ。
「坐」が付く神社は、どこかから勧請された神社。  
当然、「阿波」からだろう。 
片や「阿波」には、一つもそんな「坐」が付く勧請された神社など存在しない。     
まあ、当たり前といえば当たり前なんだが。  わははははは   @阿波

152 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 07:52:07.29 .net
まぁ阿波は女子高生の胸が他県に比べ大きいというだけの土地。
おそらく鳴門金時の影響であろう。
それ以外には何の価値もない。

近畿の天気予報で徳島の天気が画面左隅に映るのだがボカシを入れて欲しい。
それか画面左下だけカットした液晶テレビを売って欲しい。

153 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 07:55:07.39 .net
>>152
>近畿の天気予報で徳島の天気が画面左隅に映るのだがボカシを入れて欲しい。

そりゃ無理というものだ。 なんせ近畿の本家なんだから。  わははははは   @阿波

154 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 08:31:01.85 .net
布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している事から、四世紀と見るのが妥当。
石野や寺澤は受付無いが、結構反論も多い。やはり纏向、箸墓は4世紀とらみるべきだと思う。

155 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 08:46:12.25 .net
思うに四国ってのは他所のいいものを欲しがって
自分のところにも形代を作りたがる土地柄なんだろうな

で、名前も同じのを付ける

88ヶ所のお遍路さんも、いろんなところから勧請したんでしょ?

156 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:01:58.40 .net
>>155
>思うに四国ってのは他所のいいものを欲しがって

欲しくてもいいものが「阿波」以外にないからどうしようもない。  わははははは   @阿波

157 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:03:22.38 .net
テストします。

158 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:04:36.01 .net
邪馬台国畿内説が、完全に論破されてしまった。

159 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:07:23.89 .net
>>158
それは同時に、邪馬台国九州説も、完全に論破されてしまったことを意味する。   @阿波

160 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:18:09.10 .net
>>154
>石野や寺澤は受付無いが、結構反論も多い。

どこの誰が、どこで反論してる?
w

161 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:34:21.88 .net
>>160
「古式土師器の年代学」の巻末の総括W w

162 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:35:39.07 .net
>>160
「古墳時代の考古学1」の「土師器の編年B近畿」

163 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:39:04.36 .net
>>160
関川尚功氏も^_^

164 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:42:54.71 .net
@阿波も^_^

165 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 09:59:37.02 .net
かちどき橋も両国橋も阿波のパクりだよな

166 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:07:00.13 .net
>>163
それは嘘だな
通説に否定されたのを、否定された本人がぶちぶち言ってるだけで誰からも相手にされていない

167 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:14:13.60 .net
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだな。

168 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:15:27.07 .net
>>167
やはり、貴方も、真実に気付かれましたか。

169 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:23:52.40 .net
>>167
邪馬台国九州説も同時に
完全に破綻してしまったのですね

170 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:26:15.17 .net
>>90は、トリップ無しで>>89の6秒後の投稿だから成りすましだな

171 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:26:31.89 .net
魏志倭人伝ガン無視の畿内説にとって、生命線は遺跡のこじつけしかないからな
こじつけを見破られたら、即破綻する

172 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:26:47.12 .net
富士山も天橋立も泡のパクリだよな?

173 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:28:07.56 .net
もちろん新幹線も泡のパクリだよな

174 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:30:08.22 .net
>>160
墓穴を掘ってしまいましたね。
私も貼り付けですが
本来は年代の幅がある布留0式土器を纏向3(新)式とするのは、マスコミなどがいうように確定した学説ではなく、寺澤薫やその支持者たちによる恣意的な判断の結果である危険性がある。

 そして、寺澤薫がいう「布留0式土器拡散論」や定型化した前方後円墳の波及に先立つ「纏向型前方後円墳」の波及ということも、その立論の基礎となる布留0式土器による相対的な年代設定が恣意的であるため、根本から見直される必要がある。

175 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:32:13.09 .net
>>166
何処の通説?
通説とされる文献は?

176 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:36:06.83 .net
>>171
魏志倭人伝ガン無視の北部九州説もだな。
結局、糸島市、福岡市と北上している。

177 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:42:41.22 .net
>>90は、Part714の↓と同じやつだな

83の6秒後の投稿
84日本@名無史さん2021/08/13(金) 15:31:53.52
以上テンプレと称した連投荒らしでした
いちいち自己満につきあわず、自由に畿内説について語りましょう
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

178 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:42:53.50 .net
>>175
>通説とされる文献は?

『纒向』

179 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:48:17.53 .net
つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったのだな。

180 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:49:01.23 .net
>>176
畿内説が好んで使う「陳寿の地理観」とやらで解決するぞ
https://i.imgur.com/Z7uwOGP.png

それに、呼子から東南方向に出発するのは事実だ
途中から東に進んでも、トータルで東南と考えても不思議じゃない

測量しながら進んでるわけじゃないし、南と北東を間違えたわけでもない

181 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:51:49.36 .net
荒らしの反日ザラゴキもそうだが
日本の学術研究の成果である畿内説は
関西の朝鮮人集団にとって非常に都合が悪いということだな

182 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:54:51.77 .net
>>180

トータルでは糸島の前原は呼子の真東

183 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 10:56:10.22 .net
>>180
ボツだな。ちゃんと里数もある。
畿内説と変わらない。

184 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:03:02.03 .net
>>180

江戸時代の日本製地図の傾いた赤いラインが倭人伝の南北線とすると
九州は帯方郡の真南
倭人在帶方東南大海之中は本州

185 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:05:42.13 .net
>>178
何処が出してるの、

186 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:07:55.38 .net
>>174
>墓穴を掘ってしまいましたね。
>私も貼り付けですが

どこからの?

187 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:08:56.89 .net
>>185
橿考研

188 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:10:28.76 .net
自分で調べたら、、
結構、ゼロ式の批判多いよ

189 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:16:07.05 .net
>>187
畿内説の巣窟だね
奈良県立ですね、、
関西の私立大学出身者が多いところですね!
石野も寺澤も橿考の出身だったね

190 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:16:28.34 .net
じゃあ、
阿波と、
紀国、
紀氏の関係はどうですか?
阿波さん

191 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:17:07.05 .net
邪馬台国畿内説が、完全に「阿波」に論破されてしまった。

それは同時に、邪馬台国九州説も、完全に論破されてしまったことを意味する。   @阿波

192 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:18:18.67 .net
>>190
紀伊忌部。   @阿波

193 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:21:25.07 .net
>>182
測量して地図を作ってればな

194 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:24:11.09 .net
>>143
文字がある時代 文献にないよー。
阿波爺、ワハハ どうした?

ところで XX説の皆さん、大雨大丈夫か?

195 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:24:30.80 .net
初心者ですが
はっきり言って畿内説には納得できる根拠がありません。年代が合うから纏向が邪馬台国だと言われても、にわかに納得できるものではないからです。
纏向の建物が卑弥呼の居館と言われても、発掘物からピンと来ません。
また、箸墓が卑弥呼の墓だといわれても、陵墓で調査もままならないのにどうしてそんなことが言えるのかというのが私の感想です。

196 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:27:43.01 .net
>>189
その通り
橿考の若手に期待したいが、大学時代から洗脳されているから無理かな??
学生の時、アンチ畿内説なら橿考に就職できないし、、

197 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:31:49.23 .net
>>188
>自分で調べたら、、
>結構、ゼロ式の批判多いよ

証拠が提出できないんじゃ、あんたの主張はボツだな

198 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:32:35.27 .net
>>148
同意する
同和地区の差別を生んだ地は奈良
ヤマト王権の悪行
今天皇には関係ないけど、、、

199 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:35:45.75 .net
>>189
>石野も寺澤も橿考の出身だったね

それ、墓穴
関川も同じで『纒向』に掲載された関川の説が『纒向』で否定されて公式に没った

200 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:37:05.18 .net
>>196
>学生の時、アンチ畿内説なら橿考に就職できないし、、

根拠なく空想するのが九州説だな

201 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:39:20.97 .net
>>197
私の意見でも良いよ
内容に同意してるから、
ところで、
「古式土師器の年代学」の巻末の総括や

「古墳時代の考古学1」の「土師器の編年?近畿」調べてみたのですか?

202 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:46:25.81 .net
>>199
関川氏がなぜ干されたか知ってる?

203 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:51:22.72 .net
>>193

つまり測量してない

204 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 11:53:58.96 .net
>>203
そう、測量してないから、南に言ってから東に進んだよなって記憶に頼れば、東南に進んだと認識する

205 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:02:40.40 .net
>>204

つまり方位が間違っている

206 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:05:57.60 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

207 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:07:07.26 .net
>>205
畿内説と同じ

ザラコク爺曰く

魏使や魏の役人らは、当然、周髀算経の一寸千里の法や簡易三角測量を知っており、
記里車や歩測も知っており、ある程度の目測も出来るから、
魏志倭人伝に記載された「里数」は、実測の「大体の1桁概数」であり、
「架空のもの」ではない。
このように、大和説学者らは、全員、
魏の役人らに拠る実地の見聞計測の史料事実や史料実態を否定する嘘つき騙しの詐欺師である。

北部九州も大和説学者と同類

208 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:09:10.38 .net
>>205
結果的に正確じゃなかっただけで、記録者の認識としては東南だった
南に2百里、東に3百里だ

209 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:10:25.27 .net
>>177
>>90は、Part714の↓と同じやつだな

こいつ、渡土提知らずの捏造君だよ

私からyes, noで煽られてるやつw
自分を棚に挙げてイエスノーチョンとか言い出してるけど
効いてる効いてるってやつだ

210 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:12:20.59 .net
>>208

郡から九州上陸までに南に7千里分、東に3千里分進んでるので
あと4千里分東に進むとちょうど郡から東南(大海)の認識ラインになる

211 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:12:23.41 .net
>>180
>それに、呼子から東南方向に出発するのは事実だ
>途中から東に進んでも、トータルで東南と考えても不思議じゃない

だとするとヤマシロから陸路で大和入りする場合
南陸行で到着するのが事実なので、途中東に進んでも
トータルで南と考えられて問題なしですね!

畿内説に対する数少ない批判がまた一つ無効になっちゃったね!キャピ!

212 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:12:30.99 .net
おやおや>>90の発狂二択チョンが、また荒らしてるのか

213 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:13:02.35 .net
私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)

畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)

大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)

熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長)

214 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:14:06.00 .net
>>193
>測量して地図を作ってればな
>>203
>つまり測量してない

お馬鹿さんww
何度も教えてるでしょ?
東松浦半島の真東に可也山が見えるんですよ?

方角を知るのに測量は必要ない
見通せればそれで事足りるww

で、お前は日本人なのか、違うのか?
yes, no で簡単に答えられるだろ?

なぜ答えないんだ?
答えたら、死ぬのか?w

215 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:15:33.72 .net
>>211
太陽見りゃ分かるだろ
合計30日船に乗ってるキチガイ設定なんだから

216 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:17:42.46 .net
>>208
測量していないのに
南に2百里、東に3百里だ?
頭、いかれているな。

217 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:19:09.73 .net
>>196
閉鎖的な機関
大人しくしてれば、出世もするし退職後の天下り先も用意されてるんでねーの
畿内説に有利に働く説は重宝がられる体質
いまはどうか知らないが、、

218 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:19:22.12 .net
>>214
また自爆か
真東に可成山があるなら、その南は東南だ
ご苦労だったな、二択チョン

真東に可成山、もうコロコロするなよ

219 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:20:05.81 .net
>>216
1日歩けば百里、おおよそ10km程度だな

220 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:20:24.70 .net
>>195
畿内説は、当時の人物で卑弥呼に比定できるのが
その陵墓の大きさからモモソ姫だと思ってるだけで

そう、大きさと年代測定だけで思ってるだけで

箸墓は本来オオモノヌシの陵墓で
奥さんのモモソ姫が一緒に埋葬されてると俺予想w

221 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:23:58.88 .net
>>219

つまり歩いていない

222 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:25:25.86 .net
>>195

初心者だから

223 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:25:43.84 .net
>>221
5日歩いたから五百里と記録した

224 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:26:04.03 .net
>>217
あの頃は、吉野ヶ里ブームで橿考ま焦ってたと思うよ。

225 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:26:51.37 .net
>>223

前原まで5日もかけて歩く馬鹿はおらん

226 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:27:39.26 .net
>>219
>1日歩けば百里、おおよそ10km程度だな

それ、誰が決めたの?
九州説さん、また俺様が一人で決めたの?

227 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:28:23.40 .net
>>219
やはり、いかれているな。
魏志には方向転換などの記はなし
なんら、畿内説と変わらない。
久留米〜八女だな。

228 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:29:41.86 .net
>>212
そいつは根拠つきで思いのいうことを否定してるぞ

反論できないから、関係ないことを短文で書き込んで逃げてるんだろ?

229 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:40:19.74 .net
>>225
視察の旅だ
早くつけばいいというもんじゃない
それに、佐賀と福岡の県境は難関だ

230 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:40:58.28 .net
>>226
違うという根拠は?
また畿内説得意の根拠なしか

231 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:42:18.58 .net
>>228
そいつは可成山が真東だと自爆したぞ
真東の南にイト国があるなら、まさしく東南じゃないか

232 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:42:25.27 .net
>>218
>真東に可也山があるなら、その南は東南だ

本当に実際の資料とか地図とか確認しないんだなw

可也山は伊都国のランドマークって何度も教えてるだろ?
普通は可也山まで伊都国の領域に入れることはないが、伊都国は可也山のすぐ南だ

事実上、可也山の方角が伊都国の方角になる
伊都国を訪問した人には自明のこと

https://i.imgur.com/cieiYbz.jpg

ちなみにこの写真で三雲南小路遺跡と平原遺跡、可也山が一直線に並ぶことが分かると思うが、このラインが冬至の日の入りの方角

当時の人が冬至を意識している、暦の概念がはっきりあることを示している

233 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:42:36.84 .net
郡から10日で呼子まで来て
呼子から5日もかけて前原って根本的におかしい

234 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:45:23.30 .net
>>229

倭国の官もいない土地なんぞ見て回っても何の役にも立たん

235 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:46:14.99 .net
トンデモ同士、延々とバカ議論できていい関係だな。  わははははは   @阿波

236 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:46:19.94 .net
>>230
>違うという根拠は?
>また畿内説得意の根拠なしか

九州説さん
今あなたがやらかしたのは
立証義務の前方転嫁という
典型的な詐欺行為です
あなたは一発で論破されました

237 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:47:01.80 .net
トンデモ同士、延々とバカ議論できていい関係だな。  わははははは   @阿波

238 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:50:50.45 .net
阿波作り話は丹山がないところが女王国という作り話

239 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:54:36.44 .net
>>232
無理過ぎる
なんで?一枚のみ?又 その角度から?
真東超えると北東になる。
使者が何回か訪問している。
唐津あたりで方向転換の記がないよ。

240 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:56:48.48 .net
>>232
久留米 八女だよ。

241 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 12:59:11.56 .net
>>238
丹山がなくて悔しいのか? 「阿波」にだけ有ってさぞ悔しかろう。  わははははは   

阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」    @阿波

242 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:01:23.72 .net
>>236
>典型的な詐欺行為です

あのさあ、新スレのお知らせに
「本スレの終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。」と
明記してあっても、わざわざテンプレ投下の邪魔をするのを誇る連中なんだぞ?

そんなの聞くと思うか?
善意の第三者なんかじゃなくて、悪意しかないの
正義感が通用する相手じゃないのに早く気づけよ

243 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:06:07.87 .net
>>239
>無理過ぎる
>なんで?一枚のみ?又 その角度から?

はい論破ww
https://i.imgur.com/POHiSA8.jpg
可也山より南でも真東ですね?ww

こんな距離感なんだよ
三雲は可也山のすぐそば

釣れまくりw
釣り堀のバカな魚でも、こんなに釣りやすくないぞ?ww

244 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:09:42.32 .net
>>232
コロコロするなよ
可成山が真東なんだろ?
だったらその南のイト国は東南じゃないか
理の当然だ

そんなことも分からんのか?畿内説は

245 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:13:38.19 .net
>>232

北寄りの日の入りなら夏至じゃね?

246 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:14:33.80 .net
>>243
論破になっていないよ。
なんで一カ所のみなんだよ?
陸行東南500里以外は書いていない。
可也山からさらに東南〜唐津近辺向かうと北東になる
使者、交易等もある。方向転換の記がないと
間違う。


247 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:21:29.61 .net
>>244

羽金山の中腹の白糸の滝よりも南に行かないと呼子から東南にはならんよw

248 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:23:04.12 .net
あとさあ、百里は一日の陸行距離だから、五百里は5日分の距離とか言ってる捏造君がいるけどさ、自分達が短里=76メートルを主張してるの忘れてないかな?w

伊都国と奴国の間、奴国と不彌国の間が共に百里しかない
短里=76メートルなら7.6キロ、最近ごまかしで百里で10キロとか言い出してるけど、それでも近い

福岡平野のどこに奴国を置いても、10キロ隣の国は福岡平野の中

平野部で自然国境になるような障壁もなく、10キロの近距離で別の国って、どうやったら実現するんだ?w

本当に考えなしw

249 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:27:30.93 .net
>>244
>可也山が真東なんだろ?

お前、せっかく貼ってもらった地図(航空写真)、見もせずに脊髄反射してるだろ?w

16方位で見ても真東だよ

せめて見てから文句言えw

>>245
訂正ありがとう
素で書き間違えてたわ

250 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:28:42.51 .net
>>247
どこまでアホなんだ?
可成山が真東なら、たとえその東南にイト国があろうと、観測点からみても東南じゃないか

251 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:29:51.50 .net
>>249
おいおい、おれが言ったわけじゃない
畿内説が、可成山は真東だと言ってる
文句があるなら自爆した二択チョンに言えよ

252 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:34:10.88 .net
>>250

お前糸島あたりをよく知らないんだろ

253 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:34:24.44 .net
>>246
>論破になっていないよ

どこが?
末盧国を九州説のご都合だけで東松浦半島にすれば、伊都国は東南で間違ってない、という九州説の戯れ言が、全て否定されてるだろ?

最初に出発した方角が東南ならいい
→最初の時点で真東にゴールの可也山が見えてる

可也山より伊都国は南だから可也山が真東なら伊都国は東南
→伊都国は可也山のすぐそばで言うほど南でもない

というのがきっちりこの写真で示されてるぞw

これが分からないのはバカだけw

254 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:36:35.38 .net
>>252
知らないのはお前だろ
畿内説いわく「真東の可成山」が、北側に見えるんだ
誰だって東南に進んだんだなと思う

255 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:41:26.58 .net
>>253
>>最初に出発した方角が東南ならいい
阿保過ぎ。可也山と思われる記もない。

魏志には東南陸行五百里しかない

256 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:42:19.61 .net
>>250
たから、写真見てから言えってw

お前は写真を確認した全員から嘲笑されてるぞ?

写真を見れば一目瞭然だが、可也山は東松浦半島の先より少し北(16方位でも東の範囲内)
そこから冬至の日の出方向に少し南に行くと、本当にちょうど真東になる

もう一度いうが、見てから言えw

恥の上塗りw
渡土堤も含めていつものことだかな

お前って実は、九州説のバカをさらすための畿内説の応援に草なのか?
そんな疑惑すら湧きそうw

257 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:46:10.69 .net
北部九州説も畿内も同じ
方向転換の記を書かないのか?

吉野ヶ里遺跡
久留米 八女だよ

258 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:47:05.45 .net
>>256の最後、修正

九州説のバカをさらすための畿内説の応援の草なのか?

草、市井に紛れ込む忍者

259 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:47:25.38 .net
>>256
また空飛ぶ設定か?

歩いてる人間が「真東の可成山」をみた
やがてその山は北に見えるようになった
誰でも東南に進んだと思う
まだ地図も方位磁石もないんだからな

260 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:54:11.92 .net
>>255
>可也山と思われる記もない

お前も現地人が同道してるのは認めてたよな?

その現地人に行き先の方角も確認せずに、魏使は間違った方角を記録した、と
お前はそう主張するんだな?

ちょっと回りを見回せば目に入る目印のことを、魏使は全く意識しなかった、とw

本当に面白いな、お前ww

261 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:56:39.07 .net
>>260
その、東に見えてた目印は、やがて北に見えるようになった
結論が出たじゃないか

262 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:57:03.64 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

263 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:57:40.32 .net
>>254

可也山 N33° 34.336"
三雲  N33°32'14.07"
呼子町呼子 N33°32'36.71​"

呼子の真東

264 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:58:00.94 .net
>>263
古代人はそんなこと知らんよ

265 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 13:59:01.60 .net
>>264

東がわからないといってるのと同じ

266 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:00:29.75 .net
>>260
逆だよ。
現糸島市近辺は伊都国ではないてこと。

267 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:00:35.20 .net
>>259
>やがてその山は北に見えるようになった

だから、写真を確認してから書き込めよ
伊都国三雲は、緯度で言えば可也山より南だが
方角としては東のだぞ?

最初の写真で夏至(冬至は間違い)の日の入りの方角って書いただろうが?

お前の地理観では、夕日は北に沈むのか?
伊都国から見た可也山は夕日の方角なんだから、西だろ?

東南と認識する余地はないよ

268 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:00:46.84 .net
>>231
>そいつは可成山が真東だと自爆したぞ
>真東の南にイト国があるなら、まさしく東南じゃないか

残念でした。東南陸行出来ません

269 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:01:34.35 .net
>>265
太陽の昇るほうだ
可成山をみて真東と認識しただろうな
畿内説と同じように

270 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:02:05.58 .net
>>267
古代人は空も飛べないし、航空写真を確認もしてない

271 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:02:55.82 .net
>>268
直線距離を測量してるほどヒマじゃない

272 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:05:06.28 .net
>>269

可成山をみて真東と認識したなら三雲も真東

273 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:07:32.78 .net
>>272
真東に見えてた山が、今度は北に見えるのにか?
空とんだとか航空写真みたとか、畿内説のメルヘンはいらんよ

274 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:07:53.14 .net
>>271
>直線距離を測量してるほどヒマじゃない

心配スンナ。  「忌部一族(阿波勢力)」がとっくに測量済みだ。  なんせ、たびたび朝鮮半島まで行ってるんだから。   @阿波

275 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:12:17.70 .net
>>269-271

捏造君、焦りの三連投ww
めっちゃ早口で言ってそうw

>太陽の昇るほうだ
>可成山をみて真東と認識しただろうな

そうだな、そして伊都国から見た可也山は夕日の方角だから西と認識されるw

東松浦半島から可也山が東
伊都国から可也山が西

だったら、「東松浦半島から伊都国は東」だなwww

空を飛ぶ必要はないし、測量も地図も必要ないw
可也山は現地から見えるんだからw

それから可也山(かややま)だぞ? 
可成山ってどんな入力してんだ?w

276 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:13:03.13 .net
>>273

北の可也山までの距離が、呼子ー可也山よりはるかに短いから

277 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:14:17.31 .net
トンデモ同士、延々とバカ議論できていい関係だな。  わははははは   @阿波

278 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:16:23.14 .net
>>275
太陽は西に沈むだろうな
可成山は北西だから結論は変わらない
てか、通る過程で山の真南地点を通るしな

二択チョン、みごとな自爆だ

可成山目印説なら、みごとにイト国を東南と考えた理由が説明できる

279 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:16:46.11 .net
>>270
それで反論のつもりか?

>>267には、夕日の方角って書いてあるだろ?

空を飛ぶとか、航空写真とか、まったく関係ないぞ?

航空写真で示しているのは、理解の助けのためだけ

これを示した後じゃないと、夕日の方角ってところに「根拠出せ」ってけちつけるのが見えてるからなw

280 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:17:25.43 .net
トンデモ同士、延々とバカ議論できていい関係だな。  わははははは   @阿波

281 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:17:34.32 .net
>>276
真東に見えてた山の南側にいるんだ
迷う余地がない

282 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:19:07.71 .net
>>279
太陽は西に沈むな
そして、山は北西に見えてる
ますます東南に進んだと確信しただろうな

283 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:22:49.34 .net
>>278
>太陽は西に沈むだろうな
>可成山は北西だから結論は変わらない

可也山バカを北西じゃないんだよ

渡海が可能な夏の季節、
伊都国から見た夕日は本当にまっすぐ可也山に沈むんだよ

それを見て、北西だと思うやつはいない

可也山のすぐ南を通って、そこからだいぶ東に行った
ところが伊都国三雲だ

自爆してるのお前だぞ?w

284 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:23:20.82 .net
>>281

遠くの東に見えてた目標物のすぐ南に来て東南と認識したなら
一月繰り返すと、ずいぶん南に来たと誤認してしまう

285 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:26:40.69 .net
>>282
>太陽は西に沈むな
>そして、山は北西に見えてる

バカ相手だから何度も同じことを書くが、
伊都国から見て、その太陽が沈むところに可也山があるんだよ

渡海が可能なのは夏の季節だから、渡海してきた魏使が
伊都国から見る沈む夕日は可也山に沈む

これを見て北西だと思う人はいないw

286 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:28:01.80 .net
南至は実際は南の方位ではなかったと九州作り話は主張している

287 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:30:13.22 .net
>>283
お前はアホか
シナ人だって季節に合わせて方位の微調整ぐらいするさ

山の方位は間違わんよ

288 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:31:28.87 .net
>>285
シナ人は、どんな季節も同じ方向から昇って沈むと思ってたのか?
アホすぎる

289 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:34:45.71 .net
トンデモ同士の馬鹿バトルは永遠に続くのであった。  わははははは   @阿波

290 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:37:45.54 .net
中国人は季節に合わせて方位の微調整はできたんだけれども
遠くの東の目標物のすぐ南に来た時に東南に来たと思ってしまった
そういう微調整はできなかったので
南に邪馬台国があると思ってしまったと九州作り話は主張している

291 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:38:14.85 .net
>>288
>シナ人は、どんな季節も同じ方向から昇って沈むと思ってたのか?
>アホすぎる

また逃げを打ち始めているが、季節調整をしたところで
「太陽が北西に沈む」ことはないぞww

多少北寄りと認識されたところで「日が沈む方角は西」だw
自分でも>>282で「太陽は西に沈むな」って書いてるじゃないかw

手のひらクルックルで、忙しいですねーw

292 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:40:30.65 .net
>>290
九州ひとくくり
でなく、現糸島を伊都国と想定する
北部九州説の主張だな。

293 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:41:06.82 .net
トンデモ同士の馬鹿バトルは永遠に続くのであった。  わははははは   @阿波

294 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:43:12.77 .net
>>281
>真東に見えてた山の南側にいるんだ

つーか、可也山って正確には呼子どころか加部島より北だから

295 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:49:29.15 .net
>>292

一人一九州作り話

296 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 14:50:01.70 .net
お前さあ、東松浦半島に上陸して南に行ってそれから東に行けば、南東になるっていう言い分なんだろ?

唐津からかなり北に行かないと、伊都国に着かないんだが?

シナ人は、歩いてるうちに北に向かっていることも気づかないほど、方向音痴なのか?

見知らぬ土地で太陽の沈む方角の季節調整はバッチリなのに?

九州説は、その場しのぎで話をコロコロさせるから、いつも全体の整合性が取れないw

297 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:02:45.04 .net
>>195
>初心者ですが

なら、まずきちんとテンプレを読みましょう
畿内説に対する批判には、ほぼ網羅的に答えられています

それでも納得できないなら、畿内説を支持するのをやめればよいのだと思いますよ

298 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:05:02.49 .net
>>296
>九州説は、その場しのぎで話をコロコロさせるから、いつも全体の整合性が取れないw

もっとも、一貫して整合性が取れているのは、「阿波」だけだがな。   @阿波

299 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:06:01.17 .net
>>291
そうだな
山は北西固定だし、東南に進んだという認識は揺るがんな

300 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:06:26.36 .net
>>294
真東と言ったのは畿内説だぞ

301 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:19:47.84 .net
>>296
真東の可成山を目印にすればいいじゃないか
畿内説のオススメだ

302 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:25:03.50 .net
>>297
阿保 

テンプレ読んだら余計に畿内説から離れる

303 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:27:45.78 .net
>>300
真東だよ?
1度たりともずれたらダメって訳じゃないだろ?
こちらも繰り返し16方位でも東の範囲内と言っている

真東だなw

304 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:28:38.90 .net
>>300
真東だよ?
1度たりともずれたらダメって訳じゃないだろ?
こちらも繰り返し16方位でも東の範囲内と言っている

真東だなw

305 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:29:09.62 .net
こういう図なら分かりやすいかね?
https://i.imgur.com/gUDGiVc.jpg

可也山の南を通ると言っても、可也山の南の山すそに立てば
伊都国中心地が真東で、東松山半島突端が真西だ

魏使は可也山に登るはずもないから、ここからの眺めが
推定には重要だよな

306 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:29:19.03 .net
きないせつのマツロ国の比定地は何処?
畿内説のイト国の比定地は何処?

307 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:30:23.18 .net
>>303
その真東に見えてた山が、イト国が近づくにつれ北に見えるようになった
答えが出たじゃないか

おっと、人は空を飛ばんし、地図もコンパスもないってことを忘れるなよ

308 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:33:26.62 .net
延々と同じ議論は続く飽きた
畿内説のスレで九州説の話題をするな 
畿内説は他説批判で成り立っているわけじゃ無い
迷惑な似非畿内説のお方へ

309 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:35:51.23 .net
>>306
テンプレ読め

でいいんだが、親切に書いてやるよ

末盧国は松浦川河口平野の唐津
時代が少し古いが宇木汲田遺跡等、王墓級卓越墓もあり、国の存在が想定できる

伊都国は糸島三雲
こちらも三雲南小路遺跡という卓越墓がある

310 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:38:07.55 .net
>>301が、バカすぎる件について

311 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:40:48.39 .net
>>310
畿内説に笑われるぞ

>ちょっと回りを見回せば目に入る目印のことを、魏使は全く意識しなかった、とw
本当に面白いな、お前ww

312 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:40:51.31 .net
>>306
各説差は無いと思うよ

313 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:42:03.37 .net
>>307
>その真東に見えてた山が、イト国が近づくにつれ北に見えるようになった

その、可也山が北に見える地点から振り返ると東松浦半島が真西で
先を見ると伊都国中心部が真東だ

結論が出たなw

314 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:48:52.85 .net
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!

315 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:49:35.01 .net
>>311
おいおい、笑われている>>301はお前の書き込みだぞ?

かなり錯乱してるな

316 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:49:45.30 .net
>>313
何を目印にするんだ?
半島の先っぽは、可成山の陰にしかならんぞ

317 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:51:23.98 .net
>>315
可成山を目印にしない奴が笑われてるぞ
オリジナルの書き込みをみてみろ
笑えるぞ

318 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 15:52:47.90 .net
>>255
末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。

319 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:01:17.49 .net
間違えた
ザラコクの言う通りでいいんでねーの
まずは東南に向かったで
末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。
詳しくは過去レスにザラコクが投稿してるよ
畿内説のスレで九州説と畿内説の一部が
どんちゃん騒ぎするなよ。投馬國と邪馬台国以外の国の比定地にそんなに差が無いんだろ。北部九州なんだろ
もう止めろよ

320 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:08:39.90 .net
>>317
捏造君程度の知的能力だと、何をバカにされてるのかも理解できないんだな

哀れなことだ

東松浦半島に上陸して南東に歩き始めても、唐津を過ぎて、北に向かうようになったら、「可也山という目印」があるから、魏使は必ず北に向かっていることが分かる

出発方向が南東でも、目的地が南東ではないことに魏使が気づく、と>>301が主張していることを、いつになったら捏造君は気づくのだろうか?

321 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:17:44.22 .net
>>309
お墓ばかりかよ。  ちっとは、こましな集落遺跡ぐらいだせよ。 ないものねだりだったか?  わははははは   @阿波

322 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:19:14.12 .net
>>318
至末盧國,有四千餘戶,濱山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。東南陸行五百里,到伊都國

現糸国なら北東になる。
東南否定するのか?

323 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:21:04.50 .net
>>300
>真東と言ったのは畿内説だぞ

だからなに?
フェリーで帰ってくると、馬渡島と加部島の間あたりで真東に可也山が見える

可也山の南東8kmくらいに細石神社がある
そこは呼子観光案内所の真東あたりに当たる

324 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:23:26.24 .net
>>320
北に方向変える記はないよ。

325 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:23:27.37 .net
>>320
気づかんだろ
なんせ魏の使いの認識も、畿内説の認識も、可成山はマツロ国の真東で一致してるんだからな

326 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:26:09.80 .net
>>323
その真東にあった可成山が、イト国につく頃には北に見えるようになる

地図もコンパスもなかった時代には、東南に移動したと受け止めるだろうな

いやぁこれはみごと過ぎる畿内説の自爆テロだ

327 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:28:34.81 .net
>>322
>東南否定するのか?

否定する持何も、最初から「あてにならない」って言ってるだろ

そもそも卑弥呼の時の魏使は、末盧国には寄ってないし

東南五百里は伊都国ではない佐賀平野方面の別の目的地への経路の混入(多数説にはなっていない)

328 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:33:07.13 .net
マツロ国と記述してるのに、根拠もなくガン無視する畿内説

329 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:38:34.27 .net
>>327
>否定する持何も、最初から「あてにならない」って言ってるだろ

便利な奥山の魔法の呪文だな。  わははははは   @阿波

330 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:39:02.04 .net
>>309
畿内説ってホントに墓地が好きだな

331 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:40:11.48 .net
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせるテクニック。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。

332 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:41:54.42 .net
>>330
>畿内説ってホントに墓地が好きだな

でも、九州説も一緒だがな。  わははははは   @阿波

333 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:42:07.91 .net
>>327
魏志の記が間違いてことでいいのだな?

334 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:42:58.67 .net
>>330
>畿内説ってホントに墓地が好きだな

まっ、集落遺跡を言えるのは、「阿波」だけだからな。   @阿波

335 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:43:05.89 .net
>>331の模式図だyo!【魏志倭人伝の「倭国≒南越(儋耳朱崖)」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」(出雲・吉備) 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏≒西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年」

336 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:45:52.22 .net
>>309
古代に唐津を港として使えた可能性は低い

江戸期に整備したってことは、浅瀬でなく、整備さえすれば大きな船も座礁せず着岸できるだけの深さがあるってことだし、
これは、裏を返せば、整備するまでは着岸できないってことだ

その点、呼子は古くから港として使われてきた歴史がある

337 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:47:23.21 .net
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径【円墳】百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@曹魏から禅譲を受け、呉を平定し中国を再統一。280年頃、再び天下に平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹魏の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
B「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形◎や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと無意味な論争が継続中!

もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩四神鏡そのもの。まさに倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)

338 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:47:57.51 .net
>>259
>歩いてる人間が「真東の可成山」をみた
>やがてその山は北に見えるようになった
>誰でも東南に進んだと思う
>まだ地図も方位磁石もないんだからな

あるところから真東30kmくらいに可也山が見えました
目的地に着いたら北西8kmくらいに可也山が見えました
これで、あるところから目的地は東南だと思う人は

確実に白痴

339 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:49:27.24 .net
>>335
>>337
倭王卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書用封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は【狗奴国の位置】であることに留意されたい!!
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種【〇九州説…「海A」関門海峡「国B」本州、✖畿内説…「海A」鈴鹿山脈「国B」北海道】
−其南有狗奴國 不属女王【〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海+河内彦(大阪)←支離滅裂】

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複する。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

340 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:49:42.62 .net
>>338
その30kmだの8kmだのは、一体誰が測量したんだ?
あり得ない前提を持ち出す畿内説

341 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:50:05.23 .net
>>325
>なんせ魏の使いの認識も,畿内説の認識も、可成山は、マツロ国の真東で一致してるんだからな

大サービスで大ヒント

つ「そんなところに末盧国はない」w

342 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:50:28.12 .net
>>154
>布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している事から、四世紀と見るのが妥当。
石野や寺澤は受付無いが、結構反論も多い。やはり纏向、箸墓は4世紀とらみるべきだと思う

成程。それなら布留0?も4世紀だな。

343 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:51:27.82 .net
>>326
その言い訳はすでに否定されてる

>>305

344 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:51:47.67 .net
>>339
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家=狗奴国・卑弥弓呼末裔。鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向に東征させ「奥津城」として(帯方郡の鉄の代価)隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)

345 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:53:37.75 .net
>>343
古代人は航空写真を見れない
ついでにいえば、地図もコンパスもない

346 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:53:39.50 .net
>>163
>「古式土師器の年代学」の巻末の総括W w
「古墳時代の考古学1」の「土師器の編年B近畿」
関川尚功氏も^_^

成程。

347 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:54:16.40 .net
>>341
唐津港には着岸できない可能性のほうが高いぞ

348 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:54:34.35 .net
>>333
>魏志の記が

前にもそんな書き方してたけど、
日本人はそんな表記しないよ?

あなたは、日本の正規教育を受けていない人ですね?

349 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:56:21.97 .net
日本の正史・記紀そのものが洗脳なんだがなw

350 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:57:03.49 .net
畿内説の研究者は吉野ヶ里から、気が狂ったように立て続けに、時期尚早の説を展開させた。
当時の橿考が中心であったと見て良いだろう。その産物が纏向と箸墓である。

351 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 16:58:33.50 .net
>>344
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が100年前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
伊都国崇神朝の景行/成務/仲哀、邪馬台国応神朝の応神(息子)/仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。用明の妹・推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治政府設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。

352 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:02:06.12 .net
>>350
その通り。O大F永の土器編年操作(50年繰り上げ)も、魏志倭人伝の記述(楼観・城柵厳設)に完全に一致する吉野ヶ里遺跡がきっかけw

353 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:02:46.67 .net
>>337
九州ひとくくりでなく。
福岡、糸島の北部九州もわけないと意味がない。

末盧国はどの辺?
伊都国はどの辺?

354 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:04:17.31 .net
>>351
ダイワ(オオワ)としか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書の古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による強引付会に過ぎず、国民の無知に付け込み、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。

355 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:04:38.27 .net
>>348
なんて書くのか?
お手本を?

356 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:05:56.66 .net
>>354
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子(以和為貴)」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html

357 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:06:19.91 .net
>>345
すでに否定済み

>>214
>>279

スレが進んで最新50で表示されなくなると嘘を繰り返す

頭の悪いやり方だ

358 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:08:03.41 .net
今城塚古墳に眠る治天下大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

359 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:08:47.72 .net
>>352
同意する
纏向遺跡の出土物は吉野ヶ里以前に調査された物が多い。
後付けの感がある。

360 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:10:08.73 .net
>>347
>唐津港には着岸出来ない可能性の方が高いぞ

これも何度も教えている

今はなくなっている松浦川河口の潟湖に漕ぎ入れて、砂浜に乗り上げて上陸するんだよ

喫水の深い構造船を考えているから、とんちんかんなことをいうことになる

361 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:10:09.55 .net
>>174
>本来は年代の幅がある布留0式土器を纏向3(新)式とするのは、
マスコミなどがいうように確定した学説ではなく、
寺澤薫やその支持者たちによる恣意的な判断の結果である危険性がある。
そして、寺澤薫がいう「布留0式土器拡散論」や、
定型化した前方後円墳の波及に先立つ「纏向型前方後円墳」の波及ということも、
その立論の基礎となる布留0式土器による相対的な年代設定が恣意的であるため、
根本から見直される必要がある。

成程。

362 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:10:42.73 .net
ザラコク爺曰く

魏使や魏の役人らは、当然、周髀算経の一寸千里の法や簡易三角測量を知っており、
記里車や歩測も知っており、ある程度の目測も出来るから、
魏志倭人伝に記載された「里数」は、実測の「大体の1桁概数」であり、
「架空のもの」ではない。
このように、大和説学者らは、全員、
魏の役人らに拠る実地の見聞計測の史料事実や史料実態を否定する嘘つき騙しの詐欺師である。

北部九州も大和説学者と同類

363 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:11:30.53 .net
>>357
全然否定してないだろ

マツロ国(呼子)の真東が可成山
可成山の真西がマツロ国

魏の使いの認識としては、そ の と お り だ

そして、可成山より南にイト国がある
結論が出たじゃないか

364 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:11:52.62 .net
日本社会が本音と建前が全然違うのと同様、九州説(史実)とヤマト説(天武のプロパガンダ)はまさにそれ。

365 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:13:16.30 .net
>>355
>なんて書くのか?
>お手本を?

マジで言ってるの?
日本人じゃないのは確定?

ここで学んで、他所で日本人のふりをするの?

366 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:13:35.62 .net
>>360
秀吉は、すぐ近くにいたのにも関わらず、呼子を使ってる

367 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:13:39.28 .net
ザラコク爺曰く
18ナナシズム2021/04/25(日) 06:00:57.95ID:7+WRdGc9
>>256
>不彌国から南水行二十日で投馬国は瀬戸内海を東行してるんだあああ

普通の成人人類は、東西南北をほぼ間違えないから、
「南→東」の嘘つき騙しをしているこの大和説男は、バツ人間だな。

368 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:15:26.56 .net
後付け地名による妄想大和説と史実の九州説。まさに医療崩壊は五輪のせいではないと誤魔化す菅内閣そのもの。

369 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:17:48.43 .net
>>365
ふり?それより、お手本を
なんで、人種の問題にすりかえる?

370 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:17:55.19 .net
何も議論することはないと思うのだが

魏使が東南だと思った方位は実際は真東だった

倭人伝の方位は間違っている

371 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:19:55.36 .net
焼け野原にされても開戦の詔に玉璽を押した天皇に戦争責任ではないと誤魔化す日本政府そのもの。
玉音放送(大和説)ばかり流し、開戦の詔(九州説)は封印w
本音(九州説=史実)と建て前(大和説=天武朝の虚構)の区別が出来ないと、日本では生きていけないww

372 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:20:16.61 .net
>>368
史実の九州説でひととくくり
するなよ。
九州説も熊本、宮崎、八女とかあるだろー

373 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:21:20.03 .net
>>356
なるほど

374 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:22:50.53 .net
>>370
だが、東南と誤認するのには理由がある
南を北東と誤認する理由は何もないがな

375 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:23:25.85 .net
吉野ヶ里は邪馬台国の王都とは思わんが、その功績は大きい。
その頃、後にわかる捏造も後を立たず考古学のピンチであった。

376 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:27:06.66 .net
>>374

南を北東というのは?

377 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:27:27.49 .net
>>363
航空写真云々の否定が
>>214>>279

>>363の戯れ言の否定も
>>305で済んでる

378 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:28:11.77 .net
>>363

私の書き込みじゃないけど、>>338が真実

距離は測量しないと分からないとか>340でわめいているけど、正確な距離なんて要らないだろ?

東の遠くに見えていた山のすぐそばの場所なのは簡単に分かるんだからw

379 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:28:15.15 .net
>>376
南は誤りで北東に船出したというのが畿内説のこじつけ

380 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:31:14.31 .net
>>377
航空写真なきゃ

(西)マツロ国←←→→可成山(東)

そして、

可成山
 ↓
イト国

どこか違ってるか?

381 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:32:15.83 .net
>>375
だよな。魏志に従うなら
現糸島市周辺は伊都国ではない。

382 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:33:24.03 .net
>>369
>ふり?それより、お手本を

今まで知らずに生きてきたんだろ?
お手本なんてなくても、これからも生きていけるさw

>なんで、人種の問題にすりかえる?

なんで人種の問題なんだ?
こちらは「日本の正規教育を受けていない人ですか?」と訊いている

そして、日本は義務教育だから、日本人なら日本の正規教育を
受けているのが前提

この二つから、日本人ではないのは確定?という疑問になる

で、日本人ではないのは確定?

383 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:33:46.59 .net
>>378
すぐ近くだろうが、可成山を真東と認識してる以上、そこより南だったら東南だよ

384 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:34:05.68 .net
>>379

北東に船出したとは何のこと?
奴國から東→南と書かれている倭人伝は
博多駅 33度35分24.68秒
巻向駅 34度32分49.215 秒
実際は東だった

385 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:34:50.45 .net
>>384
不弥国からの水行だ

386 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:36:48.49 .net
>>369
>ふり?それより、お手本を

今まで知らずに生きてきたんだろ?
お手本なんてなくても、これからも生きていけるさw

>なんで、人種の問題にすりかえる?

なんで人種の問題なんだ?
こちらは「日本の正規教育を受けていない人ですか?」と訊いている

そして、日本は義務教育だから、日本人なら日本の正規教育を
受けているのが前提

この二つから、日本人ではないのは確定?という疑問になる

で、日本人ではないのは確定?

387 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:37:09.67 .net
>>382
日本は義務教育だから、日本人なら日本の正規教育を
受けているのが前提

義務教育受けているよ。
試験で受かった公務員だけど?

388 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:38:35.41 .net
>>370
畿内説の南を東とするレベルじゃ無いよ。瀬戸内でも日本海でも良いが30日も誤認しないよ。
まつろ国には片道一回しか行って無いと思う。その後はイト国経由邪馬台国だと思う。魏の使いが邪馬台国まで二往復したとして、南を東には、誤認しないと考えるよ。二往復とも誤認するのは馬鹿だよ。魏の使者だからそれなりの常識はもっていたよ。南は南。

389 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:38:49.89 .net
>>379
その言い訳も自分でこれを>>180を書いているので無効になってる
>>211を参照

390 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:40:37.48 .net
>>385

出発方向は関係ない
倭人伝に書かれている方位
末盧から東南は実際は真東
奴國から東→南→南は実際は東
何も問題なく解決

391 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:42:30.69 .net
>>389
また同じこと言わせるのか
東南と誤認するのは理由があった

しかし、南を北東だなんて誤認する理由が何もない

392 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:43:37.66 .net
>>390
北東を南と誤認する理由は?

393 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:44:12.74 .net
畿内説=魏の使者は邪馬台国に行っていない。 

このような畿内説論者が現れたら畿内説を支持しても良い。犠牲にするものも多いけど。

394 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:44:28.36 .net
>>388

30kmで45度も間違えてるから
500kmも離れてたら完全に間違える

395 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:44:45.05 .net
>>184
>江戸時代の日本製地図の傾いた赤いラインが倭人伝の南北線とすると
九州は帯方郡の真南
倭人在帶方東南大海之中は本州

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、バツ。

396 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:45:22.76 .net
>>388
となると伊都国は現糸島市が間違い
あるい、末盧国を東松浦半島と
するのが違いなのか?

397 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:46:01.79 .net
>>391

北東ではなく東
博多駅 33度35分24.68秒
巻向駅 34度32分49.215 秒

398 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:46:32.37 .net
>>380
>どこか違ってるか?

大間違い

>(西)マツロ国←←→→可成山(東)

>可成山
> ↓
>イト国

ではなく
           可也山山頂 ちょっとだけ北
             ↑
(西)東松浦半島←←→→可也山の山すそ←←→→伊都国(東)

が正しい
https://i.imgur.com/gUDGiVc.jpg

可也山の山裾に立てば、航空写真なしで分かる
伊都国までは10キロないから普通に見えるし、東松浦半島は海の上を見通すだけだから方向が分かる

399 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:48:50.68 .net
>>394
45°もないだろ
しかも5日の行程

30日も日の出の方向を南と誤認し続けない

400 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:49:52.87 .net
>>398
それは航空写真みて言ってることだろ

401 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:51:10.36 .net
>>390
まだやってるの。畿内説と関係ある投稿しようよ。

402 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:51:13.57 .net
>>383
>すぐ近くだろうが、可成山を真東と認識してる以上、そこより南だったら東南だよ

じゃ、真東の3m東南でも、起点から見て東南?

403 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:51:41.59 .net
>>383
必死だなw

そこより南ってw

100キロ東に進んで南に5メートル行ったら
東南になるのか?

お前の言ってることはそういうことだぞ?

それも>>305の図で否定される

それから、いまだに可成山が直せないな
正しくは可也山だ

404 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:52:24.09 .net
>>397
呼子とイト国では、こだわっていたようだが
また畿内説のダブスタか

405 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:53:54.13 .net
>>206
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
岡山説もバツ。

406 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:55:25.76 .net
>>399

三雲  N33°32'14.07"
呼子町呼子 N33°32'36.71​"

東南の記載が実際は真東なので45度
5日間も毎日日の出の方向は確認できたのに30km離れたところまで来た時には45度間違ってしまった
5日で45度間違えたなら30日たつと間違いに間違いが重なってわからなくなってしまった

407 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:55:41.99 .net
>>404
どこがダブスタ?

畿内説は全部、方角はあてにならないって言ってるんだけど。

408 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:55:58.06 .net
>>402
測量しなければ、程度が測れない
山より南だな、としか思わんだろうな

409 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:57:10.70 .net
>>403
100kmとか5mとか誰が測ったんだ?
古代人には航空写真は見れないと何度いえば分かるんだよ

410 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 17:59:56.31 .net
>>400
航空写真は確認用

可也山(可成山じゃないよ)の南側山裾に行けば、東松浦半島先端と伊都国がちょうどまっすぐ東西にあることが見通せる

航空写真は現地では必要ない
現地にいないお前に説明するために航空写真を使っているだけ

411 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:00:48.45 .net
>>406
方位に関しては誤差は拡散しない
たとえば、真東目指してまっすぐ進めば、進ほど正解に近づく
北寄りに間違う確率と、南よりに間違う確率は同じなのだから

412 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:00:51.42 .net
なんだ なんだ

畿内説ロックダウンのスレかよ

頑張れ畿内説!

413 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:02:18.98 .net
まあ、お前がいくら踊っても、第三者がこのやり取りを見れば、お前の大敗けだってw

414 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:02:35.86 .net
>>407
方向を分単位秒単位で精密性求めれば求めるほど、90°以上違ってる畿内説は破綻する

415 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:05:54.04 .net
>>410
山裾まで行かなきゃならんのだろ
仮に山裾まで行ったとしても、そこから見える北端が呼子とは限らん

七ツ釜や神集島に隠れるだろうな

416 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:06:02.76 .net
キロメートルに直しても不毛な議論

帯方郡からの日程と答え出ましたw

362 日本@名無史さん sage 2021/07/28(水) 12:12:30.19
>水行十日 陸行一月 について

水行一日 = 1000里
※魏志倭人伝の里程より

↓なお、赤兎馬のwiki注釈より
「千里」という言葉はしばしば長い距離の例えとして用いられる

陸行一日 = 50里
※三国志に精通してる渡邉先生曰く

1000里 × 十日(10日) = 10000里
50里 × 一月(30日) = 1500里

合計11500里

およよ! 約12000里!!

また答え出ちゃったねw

417 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:06:10.34 .net
>>408
>山より南だな、としか思わんだろうな

それがお前の妄想
伊都国にいれば、山のそばにいる、と思うんだよ

日本は三角の山が大好きだからね

418 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:06:36.16 .net
邪馬台国、東海説とか南紀説って無いの?

419 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:06:57.81 .net
>>414
北部九州説も破綻する。
北東へ進んでいる

420 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:07:16.82 .net
>>411

末盧から真東目指してまっすぐ進めなかったので5日後には45度間違えてしまった
不彌國から真東目指してまっすぐ進めなかったので20日後には90度間違えてしまった
さらに、投馬國の時点で方位を間違ってしまっていた魏使は
水行十日陸行一月後には方位がわからなくなってしまったので方位は書かなかった
陳寿は會稽東冶之東だと考えたので行程では南至と書いた

問題なく解決

421 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:08:30.50 .net
>>417
南と思うことと関係あるのか?

422 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:09:47.03 .net
>>415
>七ツ釜や神集島に隠れるだろうな

現地の同道者がいる(お前も認めてる)んだから
七ツ釜や神集島が見えてれば、呼子がどの辺かは見通して分かるだろ?

本当に無意味なレスしかできないんだな
何も反論できてないw

423 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:09:57.46 .net
>>420
それ、常に同じ方向に間違い続ける設定だろ
太陽見てればそういうことは起こらない

424 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:10:44.78 .net
>>422
隠れてる箇所は同伴者にも見えない
バカなのか?

425 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:12:22.29 .net
>>211
>だとするとヤマシロから陸路で大和入りする場合
南陸行で到着するのが事実なので、途中東に進んでも
トータルで南と考えられて問題なしですね!
畿内説に対する数少ない批判がまた一つ無効になっちゃったね!キャピ!

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの史料事実や史料実態に拠って、
大和説は始めからバツ。

426 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:13:05.43 .net
>>366
秀吉の頃は喫水の深い構造船
その頃には松浦川河口の潟湖はなくなってる

違う時代、違う舟では何の論証にもならないと何度言えば?

427 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:13:07.90 .net
>>423

でも太陽見てたけど5日で45度も間違えた

428 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:13:49.29 .net
>>416
あんた去れ
松浦までは一日千里で良いけど、
水行30日は三万里か5チャンだから
嵐もいいけどさ

429 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:16:33.02 .net
>>387
義務教育を受けていてこれはひどいぞ?

魏志の記載
魏志の記録
魏志の記述
くらいが、日本語として普通の表現

なぜ、魏志の記、で止める?

430 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:17:43.73 .net
45度間違えたところから同じ距離東目指して進むとさらに45度間違えて90度間違える
しかし魏使は投馬國の時点で90度しか間違えていなかった

431 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:19:14.69 .net
>>427
一旦南下してからだからな
なんせ目印は畿内説のお墨付きの真東である可也山だ

432 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:21:08.30 .net
>>409
測らなくても
ずーっと何日も東へ行って、5歩南へ行ったら、
真東じゃないから東南って、そういう主張だぞ?

お前の言ってることは?

433 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:23:20.30 .net
>>214
>お馬鹿さんww何度も教えてるでしょ?
東松浦半島の真東に可也山が見えるんですよ?
方角を知るのに測量は必要ない見通せればそれで事足りるww

東松浦半島からは、伊都国は、可也山の東南の奥の方にあるから、見えないので、
方向など判らず、バツ。

434 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:23:51.06 .net
>>424
隠れていても、同伴者は地元民なんだから位置関係分かるだろう?

何度も書いたか分からんけど、
お前、バカだろう?

435 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:24:48.26 .net
>>329
阿波
奥山の区別はどうすればわかるの?

436 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:27:34.09 .net
>>426
そう、時代が違うよな

もともと荒れ川で氾濫を繰り返してた
治水工事をくり返して現在の状態になってる

河口の潟湖?いつの時代の話だよ

437 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:29:14.18 .net
>>432
ずーっと南下してて、少しずつ北東に進んだ
でも、目印の山より北には行かなかった
そういうことだろ

438 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:31:04.17 .net
>>435
教養の差で

439 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:32:42.53 .net
>>226
>>1日歩けば百里、おおよそ10km程度だな

>それ、誰が決めたの?九州説さん、また俺様が一人で決めたの?

5世紀の裴松之が、3世紀の呉志の「翻」は一日に二百里歩行出来る、と書いたの。

440 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:33:55.02 .net
>>434
そもそも、見通しのいいとこに出ないと、海さえ見えない
見えても島の陰だ

見たとして、どうやって魏の使いに伝えるんだよ

「あの島の右端よりほんのちょこっと左側の向こうが呼子の北端がありますだ」

なのことか分からんし、分かったところでどの程度の距離、方角か確認しようがない

441 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:34:35.78 .net
>>297
遅れてすいません。
テンプレ読むのと私事で時間を費やしてました。
テンプレですが、理系の私には理解できませんでした。
ありがとうございました。

442 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:41:52.15 .net
テンプレは確率的に低い論展開だと思います。

443 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:44:40.16 .net
>>439
馬鹿を相手にするな。
所詮畿内説だ

444 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:45:48.35 .net
>>263
>可也山 N33° 34.336"
三雲  N33°32'14.07"
呼子町呼子 N33°32'36.71​" 呼子の真東

関係ない。「東南」は末盧國からの出発時点でも出発方向説明文言。

445 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:46:34.15 .net
>>442
理由の説明できないやつは理系じゃないよ

446 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:47:34.04 .net
>>431

山地が多く、川は渡れるところまで遡上するので日本ではどこでも真っ直ぐには進めない
90度間違えてしまった後
最終的に方位がわからなくなってしまった

447 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:48:53.38 .net
>>444
意義無し

448 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 18:50:52.01 .net
>>446
だから、どこからでも見える太陽や山を目印にするんだろ

449 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:02:49.56 .net
>>445
テンプレの、遺物や具体例、引用部分から結論を出すのは確率的に低いです。
結論を出す、もっと多くの発掘物?事例が有れば確率は上がりますが、現段階では相当低いと言わざるをえません。
研究が進む事を望みます。

450 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:08:32.55 .net
>>449
>研究が進む事を望みます。

まあ、消滅遺跡が命の綱なんだから、後は推して知るべしだな。   @阿波

451 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:09:10.16 .net
確率とは理系らしい面白い着想だな
確かに畿内説は、確率はゼロじゃないを「だからあったんだ」と変換する一方で、
確率は百じゃないのに、「間違いない」と変換する

452 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:09:52.75 .net
>>448

どこからでも見える太陽を目印にしたんだけれども5日で45度も間違えてしまった
邪馬台国に着いた時には方位がわからなくなってしまった

453 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:11:14.69 .net
>>444
意義あり
なんで一カ所のみ。
唐津から糸島市は北東になる。
魏志には方向かえるなんて書いていない

454 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:13:16.29 .net
>>429
そんなことより
本題に入れよ。

455 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:13:57.80 .net
連投すいません。
炭素年代の幅があるのは承知してますが
何故、桃の種や土器の炭化物だけで結論を出すのかもわかりません。紅花の花粉、矢板(古木の炭素年代もわかる時代です)等々、炭素年代を測れる遺物はいっぱいあるように思います。

456 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:17:14.47 .net
>>455です
切り取った後の古木の炭素年代です。

457 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:17:36.96 .net
>>452
また根拠のないことを

方位を8分割した場合、東の範囲は45°あるから、真東から北に22.5°、南に22.5°までが東といえることになる

東南との差異は22.5°
この範疇に入るのかはみ出るのか、測量もコンパスもなしに判断できるわけがない

458 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:21:30.40 .net
邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった。

459 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:24:13.48 .net
>>458
当たり前です。
邪馬台国畿内説は、朝鮮民族のただの願望ですよ。

460 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:24:50.03 .net
>>387
何処の公務員、
詳しくはいらないから
国家公務員?
地方公務員なら、大雑把な地域は?

461 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:24:59.04 .net
>>439
短里の一里て何メートルだよ?
75mじゃないの?

462 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:25:49.53 .net
>>460
国家公務員

463 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:29:17.96 .net
>>458
>邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまった。

邪馬台国畿内説が、「阿波」のせいで完全に破綻してしまった。   @阿波

464 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:32:39.73 .net
>>455
>何故、桃の種や土器の炭化物だけで結論を出すのかもわかりません。

古木効果がない

>紅花の花粉、

測れない

>矢板(古木の炭素年代もわかる時代です)等々、炭素年代を測れる遺物はいっぱいあるように思います。

木取りがわからない

465 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:35:34.60 .net
>>461
短里なんて、絶対的距離表示の長里と、時間相対表示の互換用だろ

絶対的な長さで表記する文化の国があれば、所要時間で表記する文化の国もある
後者と互換性をもたせた単位が、いわゆる短里

だから単純に1里75mとは変換できない

466 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:40:33.53 .net
>>465
変動するてこと?
魏志で使う里は何メートル?

467 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:43:37.05 .net
>>466
100mぐらいかな
百里が10km

もちろん、交通事情によって変動する

468 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:50:21.08 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

469 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 19:50:54.92 .net
>>467
万二千余里て?

470 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 20:23:12.60 .net
470

471 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 20:26:01.98 .net
つまり、邪馬台国畿内説は、韓国国家の国家公務員が宣伝しているのだな。

472 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 20:32:42.72 .net
>>471
朝鮮社会主義国の可能性もあるのでは、ないのかな。

473 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 21:52:24.13 .net
>>457

8分割の場合は、書いてあるのは東南(112.5〜157.5°)なので
実際の真東(90°)との差異は22.5〜67.5°
どこからでも見える太陽を目印にしたんだけれども5日で22.5〜67.5度も間違えてしまったということになる

474 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:14:27.12 .net
夏至では真東よりもおよそ30度北から太陽が昇るので、
日の出を目印に出発した場合は
真東よりも30度北寄りに向かって進むことになる

475 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:14:57.54 .net
>>459
>邪馬台国畿内説は、朝鮮民族のただの願望ですよ。

これが朝鮮人のよくやるミラーリング

476 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:17:03.41 .net
>>440
呼子だとか地名で言わなくても
船を下りたのは真西のあの辺てのは伝わるだろ?

本当にお前、ご都合主義のバカだなw

477 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:19:31.72 .net
>>451
それやってるのは、捏造君だぞ?
東にどれだけ行っても五歩南に行ったらそれで東南とかw

よほどのバカでもそんなこと言わねーよ!ww

478 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:21:14.32 .net
>>460
嘘やごまかしが平気な人に訊くだけ無駄だよ?

479 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:27:06.77 .net
>>465
そんな単位はないww

本当にその場しのぎの思いつきで恥をかくばかり

大陸王朝は皇帝による公定尺の単位系
6尺=1歩、300歩=1里 と決まっている

その里と同じ文字を使って異なる長さを表現することはありえない

所要時間で表現するときはそのまま時間表記だ
実際、水行十日と時間(日数)で、道里が示されている

480 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:27:35.72 .net
>>338
>あるところから真東30kmくらいに可也山が見えました
目的地に着いたら北西8kmくらいに可也山が見えました
これで、あるところから目的地は東南だと思う人は確実に白痴

「東南陸行五百里到伊都国」の「東南」が「出発時点での出発方向」である、
と読めない人は確実に・・・。

481 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:29:35.19 .net
>>467
10キロだと可也山から伊都国集落の端までくらいだぞ?
そんな近くに奴国があるのか?ww

それに長さが変動するなら比定地の推定には使えないだろう?
本当に適当だなw

言うことがメチャクチャ

482 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:31:49.46 .net
>>468
コピペ野郎に訊いてもしょうがないが、ダウマコクってどこの発音だ?

大陸の上古音では投馬はdug-mag

483 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:42:42.90 .net
>>370
>何も議論することはないと思うのだが
魏使が東南だと思った方位は実際は真東だった
倭人伝の方位は間違っていた

周髀算経や礼記を知っている魏の役人は、「東西南北の決め方」を知っているから、
東西南北は間違えないし、
知らない地に来て、はるか離れた途中の山に過ぎない可也山なんて知っていた筈もないし、
教わっても覚えられる筈もなく、関心も無く、
「東南陸行五百里到伊都國」の東南は、
末盧國の出口からの、出発地点での出発方向説明。

484 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:51:27.06 .net
>>384
>北東に船出したとは何のこと?奴國から東→南と書かれている倭人伝は
博多駅 33度35分24.68秒
巻向駅 34度32分49.215 秒
実際は東だった

纏向説は、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭国は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツ。

485 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 22:57:44.58 .net
>>391
>出発方向は関係ない・・・

いや、人類の記録や旅程説明の原則は「出発の説明+途中の説明+到着の説明」の、
時系列的順次式の説明が、人類の常識。
だから「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、
末盧國の出発時点での出発方向の説明。

486 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 23:00:52.81 .net
>>464
花粉は測れるよ、ググッてみてみ
木は、切り取ったら成長が止まるから外輪がわかれば測定可能。これ常識だよ。

487 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 23:07:36.84 .net
>>474
四季を義の使いや案内人が知らない場合

488 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 23:10:14.69 .net
>>479
宿泊日数も入ると、わからないのでは?

489 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 23:12:27.18 .net
>>474
四季が分からない場合は、太陽が一番高く昇る方位が南

490 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 23:28:49.79 .net
>>486
訂正

外輪近くが、わかれば測定可能
何十年も前に切り取った物ならわからないが、、矢板で一番新しい数値をだしたものを年代比定に使う手もある。

491 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 23:29:41.76 .net
>>437
>でも、目印の山より北には行かなかった

目印の山のところまでバッチリ行っているので真東だなw
そこからさらに東に行く

492 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 23:35:23.82 .net
>>482
3C中頃はすでに上古音の時代じゃないぞシッタカ

493 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 23:35:43.68 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

494 :日本@名無史さん:2021/08/17(火) 23:38:07.13 .net
1 地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描く
2 午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくる
3 その2点を結べば、測定した場所のほぼ正確な真東西となる

これは四季に影響されない、その場所の方位
東西から南北さらにその中間の方位と求めることができる
周礼にも記されている方法
方位は吉凶など、人々の暮らしを律する基本的な情報

495 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 00:09:15.84 .net
プルタぺーテンがよくわかるな。

正解は、久留米、八女付近
祇園山古墳である

496 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 00:11:02.68 .net
>>486
花粉を単体で試料にできるなら原理的には測れるが、
花粉が小さい分、現代の炭素によるコンタミの影響が大きくなるし
あまり意味のある数値は出ないと考えた方がいい

木は辺縁部であることが確認できなければ、測定部位の外側に
何年分年輪があるのか分からないので、伐採年代、使用年代の
上限が分かるだけで、コストをかけただけの情報量が得られるか疑問

497 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 00:12:59.35 .net
>>488
行程の予定が立てられるので、日数の方が役にたつ情報
物資をどれくらい用意すればいいかの目安になるし

498 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 00:14:27.63 .net
>>490
一番新しい数値が出るって、測定をいくつ行うつもり?
予算は無限にある訳ではないんだ

499 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 00:18:28.65 .net
>>492
それで言ったら、奴国は「ナ」国とは読めなくなる
国名は一度音訳で表記されればそれが引き継がれるので
魏志倭人伝の年代の発音だけで考えるものではない

出雲は田和山遺跡から紀元前1世紀の硯が出ているので
上古音での推定が妥当

500 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 00:24:41.28 .net
なんか、
南海道って、
色んな意味ですごい特殊だね
やっぱ、要衝だから?
それとも、
ムーと関係してるから?
なんで?阿波さん

そうか、
エンゼルって、
天仙地仙がいる星から来たのかな?

501 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 01:05:18.72 .net
>>110
>つい本日に、5世紀の裴松之の呉志の注釈での「歩行は一日二百里」、

「答曰:“翻能步行,日可三百里,」(百衲本)
この記事は、建安二年か三年(二世紀末)の話だぞ

短里は、魏明帝が定めたという設定は辞めるのか?

502 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 03:53:32.50 .net
>>497
なるほど
すると、倭人伝の距離表記部分はほぼ正しい事になりませんか?
あなたの論法でいけば、日数表記しなくても、距離で予定が立てられると言う事では?

503 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 04:00:37.41 .net
>>495
>正解は、久留米、八女付近
>祇園山古墳である


何の根拠も示さず、ただ言い切るだけの楽なお仕事。
でもむなしいだろ?
宝賀っておっさん、ただの馬鹿だよ。

504 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 04:04:06.32 .net
また、方位もしかり
いくら日数があってても方位が間違っていたら予定通りの場所にはつきませんよね。

505 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 04:06:21.18 .net
>>497
レスを挟みましたので再度
また、方位もしかり
いくら日数があってても方位が間違っていたら予定通りの場所にはつきませんよね。

506 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 04:09:12.01 .net
>>498
桃の種はいくつ炭素年代を測ったと思いますか?

507 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 05:35:21.44 .net
>>506
12個

508 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 05:39:41.65 .net
>>498
炭素年代測定費用
1点につき12万円から15万円

509 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 05:42:59.77 .net
>>496
2021 2月

立命館大学古気候学研究センターを中心としたグループは、堆積物中の花粉を用いて高精度の年代測定を実現する革命的な技術を開発。

510 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 05:44:54.41 .net
>>496
一番新しい数値を採用すれば良い

511 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 05:46:58.63 .net
>>496
外輪から30個前のものであっても誤差は30年

512 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 05:48:14.74 .net
>>495
>正解は、久留米、八女付近
>祇園山古墳である

碌にそれに見合う集落遺跡もないくせに、よく主張できるもんだな。 レベル低すぎ。   @阿波

513 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 05:51:39.53 .net
>>500
>なんか、
>南海道って、
>色んな意味ですごい特殊だね
>やっぱ、要衝だから?

根源は、黒潮と中央構造線の存在じゃないのかな。   @阿波

514 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 05:53:06.33 .net
>>501
研究者はあなたのような考えはしません。前向きに考えるます。
発掘調査が良い例です、100パーセント確信を持って発掘調査はしません。
ある程度の予見はしますが、、
桃の種の時もそうでしょう。

515 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 05:54:55.09 .net
桃の種の時は調べないとわからないから
始まったのでしょう

516 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 06:00:52.80 .net
>>509
立命館大学も、巻向の紅花花粉なら
話題性も高く、喜んで調査、分析に協力するのでは?
奈良県教委関係の恣意が入るといけないので、第三者が入る必要があると思います。

517 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 06:11:07.12 .net
つぶやき
昨日すごかったな
レスを無駄に進めるな
レスを進めるなんか狙いがあるのだろうか

518 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 06:14:18.55 .net
畿内説が自爆をごまかすためだろ
ごまかせるわけないのに

519 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 06:24:25.08 .net

>>513
南海トラフって言いますしね。

名門南海ホークス。
佐々木誠
小川史
バナザード
門田
ライト
山本
若井
吉田博之
藤本博史

阪急ブレーブス打線
福本
福良
松永
ブーマー
石嶺
熊野
蓑田
藤田
弓岡

520 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 06:25:32.79 .net
黒潮と、リマン海流か。
攻めてくるなら、
黒潮かもしれませんね

521 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 06:26:12.20 .net
また畿内説が荒らしだした

522 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 06:54:26.83 .net
畿内説が、論破された腹いせじゃない

523 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 06:59:59.72 .net
>>522
論破したのは、決して九州説ではないので、変な勘違いしないように!   @阿波

524 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:27:48.42 .net
>>516
>奈良県教委関係の恣意が入るといけないので、第三者が入る必要があると思います。

奈良県教委関係者が測定しているとでも思ったの?

525 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:32:26.12 .net
>>502
ならないよ
短里という単位はないし、公定里で見ても距離が合わない

大陸王朝は海に出ないから海路、循海岸水行の距離を日数から里数に概算する基準がない

526 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:35:09.56 .net
>>465
>短里なんて、絶対的距離表示の長里と、時間相対表示の互換用だろ
絶対的な長さで表記する文化の国があれば、所要時間で表記する文化の国もある
後者と互換性をもたせた単位が、いわゆる短里
だから単純に1里75mとは変換できない

違うな。
「里」は、元々は、文字通り「田の土地」つまり、
「一つの田畑の長さを単位にして数えて、距離を表す単位」。
そして、周代には、その田畑を耕作する集落や里を単位にして、距離を表す事も始まった。

527 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:40:33.89 .net
>>503
宝賀氏は、古系図の研究では第一人者
そこから古代史に出てくるとおかしくなる

528 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:41:35.37 .net
>>505
それを行程パズルでここが正しいとかデタラメを言い募るのが九州説

529 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:43:30.65 .net
>>508
それが10個で120万から150万円
文学部の研究室にはなかなか工面の難しい金額だよ

530 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:43:38.96 .net
>>528
行程をねつ造するのが畿内説

531 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:46:07.68 .net
>>509
それもこれも試料調整次第なんだけどね

それに最初にそれを高精度で正しいとしたゴールデンスタンダードには何を使ったんだろう?
まあ、今のところは続報待ちかな

技術的には可能と、実際に運用可能との間の開きは大きいし

532 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:46:43.70 .net
>>526
通常の里はな
所要時間式距離表示と互換性を持たせるために流用してる

533 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:50:20.63 .net
>>511
その30個前後かどうかが、なんの保証もないし、
木材の場合は狂いを少なくするため乾燥させる必要もあるので
判断が難しくなる

当年固定炭素であることが確実な果実の14C測定の方が
考慮すべき変数が少ない分

534 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:52:59.79 .net
>>530
ではなぜ九州説では一人一人比定地が違うんでしょうね?
正しく読めば正しく行き着くと言ってるのに?

一人一人勝手な思い込みをしてるからじゃないんですかぁ(スットボケ)

535 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:55:00.18 .net
>>511
その30個前後かどうかが、なんの保証もないし、
木材の場合は狂いを少なくするため乾燥させる必要もあるので
判断が難しくなる

当年固定炭素であることが確実な果実の14C測定の方が
考慮すべき変数が少ない分、信頼性が高くなる

536 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 07:57:36.32 .net
>>466
>変動するてこと?魏志で使う里は何メートル?

魏朝では、初代文帝が即位の「受命改制」の詔書で、
秦の「1歩=6尺」の命令で漢代には混乱いていた度量衡の同一化を指示し、
明帝が暦法の変更に合わせて度量衡も、
景初元年から「1歩≒1足底長からの1里≒76.5m」の短里の採用を決め、
魏の役人らはそれを遵守したが、
漢代記録文書や里記載文書や、
漢代から生存して来た武将や役人らの上表文や学者らの文書や、蜀や呉の文書では、
始皇帝里と明帝里との混乱が残存していた。
そして、西晋代では同じ混乱が存続していたが、東晋では、また始皇帝里への復古を決めたようであり、
しかし、5世紀の裴松之は、短里の使用も継続しており、
また梁書も、列島の短里使用も知って記録していた事になる。

537 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:00:00.85 .net
集落遺跡があってもそこに王がいたかどうかは分からない
王が作った辺地のコロニーかもしれない

王という身分は無形のものであり、なかなか後代まで残る遺物では測りづらい

なので、副葬品からその他大勢とは明確に区別可能な卓越墓の存在が
王の存在を示唆する現状で最も蓋然性の高い指標となる

卓越墓に対する泡の嫉妬が、逆説的に泡ではないことを保証している

538 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:04:04.29 .net
>>524
調査してる機関が奈良県教委か桜井市だから

539 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:04:06.57 .net
>>534
マツロ国、イト国、奴国に違いはない
不弥国もそれほど差異はない
あとはこれより南というだけだから候補地がバラけるのは当たり前

畿内説のように決めつけで入れば、真っ先に「ここや!」がくるんだろうけどな

540 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:05:12.23 .net
クラファンに頼ってまで誘致したがってるところが調査とかww

541 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:08:27.87 .net
あと、九州説の比定地がばらけているのは、
どこを出してもすぐに否定されてしまうからw

で、一ヶ所否定されると別の場所を出してくるww

最近では否定されないために、北部九州のどこか、とかボカすことを
生き残り戦略にしているやつもいる

だから、比定地を具体的に出せ、といわれても逃げ回るし、伊都国の場所さえ
違うとか言い出すwwwww

短里の長さも同様で、伸び縮みするとか交通事情で異なるとか言い出すw
弥生〜古墳時代初期に交通渋滞があったら大笑い

雨の日と晴れの日で違うとか反論しそうだけれど、それなら晴れの日の数値でいいだろ
日本では降雨日数はそんなに多くないし、移動は普通晴れの日だしw

542 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:09:17.60 .net
>>533
やればいい
乾燥させるのにそんなに時間がかかるかな 花粉といい、矢板といい、炭酸年代測定を拒む理由は無い

543 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:09:45.72 .net
>>541
畿内説による比定のしかたの証言
こんなの考古学じゃない

773 日本@名無史さん 2021/08/14(土) 21:32:01.83
>>763
別に箸墓が卑弥呼の墓じゃなくても困らないよ?
西殿塚古墳でも構わないんだから
径百歩の墓の候補はいくらでもあるって言ってるだろ?
大王墓の系譜があるから年代の合うやつを当てればいいだけ

544 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:11:08.47 .net
>>532
まだ言ってるw

皇帝が決めた公定尺の単位系の里を、別の意味合いの数値単位に流用することはないよ?
それ、皇帝権力への挑戦になるからね
反逆罪だww

545 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:11:24.11 .net
>>537
卓越墓だと?  まだ、諦められんのか?  見苦しいぞ。   @阿波

546 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:13:11.46 .net
>>533
桃の種も湿ってたのでは?

547 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:13:35.47 .net
>>532
www

ペーテンザラコクと捏造君の「論争」ww


九州説は短里があるニダーって言いつつ、こんなところでも一人一説で言うことが違うww

548 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:13:43.87 .net
>>544
皇帝の決めた里が、通常の里で、いわゆる長里なんだろ?

それを、観念的な里なんていってねじ曲げたら反逆財だよな

時間式表示法から換算するならあり得るけどな

549 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:14:58.52 .net
>>547
そういえば、吹きこぼれだの観念的里だの孤立したこと言ってた畿内説もいたな

550 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:15:13.62 .net
>>679
>大陸王朝は皇帝による公定尺の単位系
6尺=1歩、300歩=1里 と決まっている

ダメだ。
周朝は、周髀算経であったように、「1歩≒1尺」であったのであり、
戦国の秦などが「1歩=数尺」で租税を上げようとし、
始皇帝が強権的に「1歩=6尺」を命令した。

551 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:21:07.38 .net
>>543
どうして?

巨大古墳についての編年は考古学の対象
で、相対編年では順番は紛れがない

そして、考古学だけでは絶対年代が出せないから、14C測定のような理化学的計測や
貨泉の年代のような文献史学の資料を参照して絶対年代を「推定」する

推定された絶対年代は推定である以上、今後新しい知見が得られれば、変動するし
卑弥呼の没年(前後)は文献史学で特定されているので、それに合わせて考察し直すだけ

それ以前に、倭王の存在を示すそれぞれの年代で最大の卓越墓が、古墳時代初期には
奈良盆地南東部にしかなくそれが累代的に造営されている、という考古学的事実が
どれが卑弥呼の墓かという問題より前に確定事項としてあるからねw

552 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:22:09.85 .net
>>551
年代だけで適当なの見つくろって、理由は後付けするんだろ

553 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:22:59.92 .net
>>545
卓越墓が1つも見つからない泡の嫉妬が痛ましい

永島文書なんていう偽書に頼らないといけないことも合わせて、
無知な説を無理押しするのは大変なんだろうなと、

554 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:27:34.92 .net
>>546
水は関係ないよ?
14C、炭素の測定だから

木材は木材として使うときに狂いが出ないように製材前に乾燥する(年単位)
そして太い木ほど乾燥期間が長くなるけれど、当時の技術が分からないから
どれくらいの期間か見積もれない

桃の種の使用目的なんてないでしょ?
そして果肉のついた物も出土しているので、桃核は祭祀が行われた年の
光合成固定炭素であることが確実なんだよ

桃の種に恨みでもあるの?

555 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:31:05.10 .net
>>551
古墳の研究ご苦労様
邪馬台国と関係無いから、

556 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:32:15.27 .net
>>552
年代を見繕うも何も、その前後ずっと、倭王墓として想定しうる各年代
最大の卓越墓がすべて纏向周辺にある

これが考古学的事実

箸墓の前の纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、東田大塚古墳もすべて
築造時点で倭国の歴史上最大の墳丘墓として築造されている

557 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:34:47.54 .net
>>501
>>つい本日に、5世紀の裴松之の呉志の注釈での「歩行は一日二百里」、

>「答曰:“翻能步行,日可三百里,」(百衲本)

5世紀の裴松之は、当然「百衲本」なんて知る由もない。
そして、その「百衲本」でも、「ほぼ短里」である事には変わらない

>この記事は、建安二年か三年(二世紀末)の話だぞ

5世紀の裴松之の「呉志の内容説明の紹介文」文だ。

>短里は、魏明帝が定めたという設定は辞めるのか?

漢代でも魏代でも、中国では「周里の短里と始皇帝の長里が混在使用」されていた。

558 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:37:09.65 .net
>>556
畿内ヤマト政権のものだろ?
邪馬台国ではない

そもそも、遺跡が残ってること自体が勝者、つまりヤマト政権の配下か従属した勢力の痕跡である証拠

敵対した勢力の都は破壊され、宝物は略奪されるだろう

559 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:38:45.30 .net
>>553
「忌部一族(阿波勢力)」のお墓を崇めてくれて感謝する。  せいぜい拝め。   @阿波

560 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:42:03.62 .net
>>556
>箸墓の前の纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、東田大塚古墳もすべて
>築造時点で倭国の歴史上最大の墳丘墓として築造されている

それらの、築造構造も水銀朱、勾玉、鉄器などの副葬品も、みんな「阿波」のもの。  せいぜい拝め。   @阿波
 

561 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:43:21.98 .net
>>555
残念ながら、現状の編年研究では卑弥呼の共立そのものが
古墳時代の始まりの画期になったっぽいんだよ

そして、九州説ががんばっているとおりに箸墓の年代が数十年新しかったところで、
その前から纒向に連続で造営された纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、
東田大塚古墳の存在が、纒向遺跡が当時の倭国の中心であることを示しており、
それは直接倭王の都、邪馬台国の所在地であることを示している

これらが考古学的に見て、という意味のないよう

九州説の人は魏志倭人伝以外のことに関して、本当に不勉強で知識がないから
箸墓の否定に躍起になっているけど、箸墓は現状最もそれらしい候補というだけで
年代が前にずれても後ろにずれても、纒向遺跡が3世紀後半の倭王の都であることは
動かせないだよね

562 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:48:27.14 .net
>>561
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無いから、
「忌部一族(阿波勢力)」のお墓に頼る術しかない哀れ畿内信者。   @阿波   

563 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:49:15.90 .net
>>561
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構が無いから、

「忌部一族(阿波勢力)」のお墓に頼る術しかない哀れ畿内信者。   @阿波

564 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:54:28.60 .net
>>557
>周里の短里と

周里の短里なんてないんだな、これがw

周朝においても
一歩=六尺、一里=三百歩の対応関係は変わりがない

周代には尺も歩も、身体尺で公定の値(長さ)は決められておらず、
魏代の尺よりも周代の尺の方が短かったのは事実だが、
魏尺24.3cmに対して周尺約20cm程度の差で、
魏代の里と周代の里もこの比率(約6:5)で短くなっているだけ

九州説の言うような魏里の6分の1というような長さ(短里)ではない

565 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:58:36.92 .net
>>558
>畿内ヤマト政権のものだろ?
>邪馬台国ではない

だが、那珂八幡古墳のような前方後円墳が箸墓前後に作られており
北部九州と畿内が同じ文化圏にあるのは考古学的事実

この文化圏が倭國ではないと考える理由がない

そして、纒向の古墳群がヤマト王権のものと認めるなら
邪馬台国がヤマト王権であるというだけで、
ヤマト王権のものだから邪馬台国ではないという論にはならない

566 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 08:59:21.27 .net
>>525
>ならないよ
短里という単位はないし、公定里で見ても距離が合わない

短里は、元々周朝や周髀算経里であり、魏の明帝里。
長里は、戦国期の秦などや始皇帝からの里であり、漢代や魏西晋朝代の混在期を経て、
東晋代からまた公定里。

>大陸王朝は海に出ないから海路、循海岸水行の距離を日数から里数に概算する基準がない

勿論「日数から里数に概算する」事はしない。
日数は、実際の体験の概算記録。里数は実際の計測概算記録。

567 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 09:00:09.14 .net
バカだなあ
考古学の土俵に乗ったら、九州説にできることなんて何もないのに

泡はずるいから、卓越墓の話から全力で逃げてるのが見れば分かるだろうに

568 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 09:02:04.00 .net
>>565
>北部九州と畿内が同じ文化圏にあるのは考古学的事実

そりゃ、両方とも「忌部一族(阿波勢力)」文化圏なんだから当たり前。  至極簡単な話。   @阿波

569 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 09:02:35.51 .net
>>528
それをわざと行程パズルにして、ここが正しいとかデタラメを言い募るのが、
「南→東」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しの、大和説者ら。

570 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 09:04:35.85 .net
>>567
>泡はずるいから、卓越墓の話から全力で逃げてるのが見れば分かるだろうに

お前こそ、古墳の築造構造や副葬品の話から逃げてるくせに、よく言うわ。  どカス。   @阿波

571 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 09:08:35.05 .net
>>565
土器や墳墓など、外形上の流行だろ

縄文的文化で連合国家の邪馬台国と、弥生的文化で世襲国家のヤマト政権では、国造りの根幹が異質

記紀に邪馬台国がでてこないことからも、両者は別勢力だ

以上のことから、ヤマト政権は邪馬台国の後継ではないので、畿内に邪馬台国の存在はあり得ない

572 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 09:24:42.11 .net
>>571
>以上のことから、ヤマト政権は邪馬台国の後継ではないので、畿内に邪馬台国の存在はあり得ない

かと言って、決して九州にも「邪馬臺国」の存在はあり得ない。   @阿波

573 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 09:49:25.93 .net
>>549
>そういえば、吹きこぼれだの観念的里だの孤立したこと言ってた畿内説もいたな

何を妄想してるか知らないが
「吹きこぼれ」と書いているのは公的機関の報告
「観念的里」というのも歴史学者の唱えてる学説

574 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 10:04:27.09 .net
>>571
>縄文的文化で連合国家の邪馬台国と、弥生的文化で世襲国家のヤマト政権では、国造りの根幹が異質
>記紀に邪馬台国がでてこないことからも、両者は別勢力だ

記紀の成立が時代的に新しいだけの話だ
畿内弥生文化は縄文と弥生双方の伝統の融合が特徴なのは常識
「邪馬台国」という中国人による音訳を記紀が使わないのも当たり前

575 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 10:08:21.77 .net
>>574
>畿内弥生文化

それは、「忌部一族(阿波勢力)」が畿内にもたらしたもの。

あたかも、畿内で弥生文化が発祥したかのような言い回し。   @阿波

576 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 10:09:19.70 .net
>>551
>・・・それ以前に、倭王の存在を示すそれぞれの年代で最大の卓越墓が、古墳時代初期には
奈良盆地南東部にしかなくそれが累代的に造営されている、という考古学的事実が
どれが卑弥呼の墓かという問題より前に確定事項としてあるからね

ダメだ。考古学では、
金石文とか記年鏡などの記年出土物しか絶対年代特定が殆ど出来ず、
年輪年代やAMS法では古い年代を特定してしまって、誤計測になってしまうだけであり、
土器編年では、順番が推定出来るだけで、絶対年代推定にはならない代物だ。
同時代の記録の文献の年代証言の方がはるかに正確だ。

577 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 10:16:52.55 .net
>>576
同時代の記録とか決めつけて絶対に学者のやらない奇妙な読み方で絶対に決めてしまうのが素人九州説

578 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 10:19:01.99 .net
>>561
女王の都であるが、女王国の都ではない。
開拓地だよ。水害でやられた地域の
避難地。開拓から出る土を巨大古墳にも使う
宗教地でもある。邪馬壹國は近畿全体をさす
そこから卑弥呼が共立されて争いがおさまらない九州へ
居處宮室樓觀,城柵嚴設,常有人持兵守衛は場所は、邪馬壹國ではない。

579 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 10:24:58.29 .net
>>561
>・・・そして、九州説ががんばっているとおりに箸墓の年代が数十年新しかったところで、
その前から纒向に連続で造営された纒向石塚古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、
東田大塚古墳の存在が、纒向遺跡が当時の倭国の中心であることを示しており、
それは直接倭王の都、邪馬台国の所在地であることを示している
これらが考古学的に見て、という意味のないよう

ダメだ。根本的に大和説は、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、始めから年代実態が50年位以上新しくなってしまうものであり、
卑弥呼の冢が3世紀前半末であり、
那珂八幡などは、壹與の遣使の266年の後の次の王らの墓である事になり、
庄内1の石塚など以後の大和の前方後円墳は、那珂八幡の進化型でありから、
3世紀末以後になり、結局卑弥呼の墓よりも半世紀以上後の3世紀末以後の、
九州倭國の東征毛人五十五國の将軍らの墓になる。

580 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 10:36:00.26 .net
全く・・九州説って
なんでそういう結論が出るのか全く説明できないんだよな
思い込みだからだよ

こう言うと、必ず(遠い過去に)「説明した」とか「何度も説明した」(もう二度と言わない)
みたいな返事が来る
笑える

581 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 10:59:29.71 .net
>>573
で、そのニセ調査報告書はどこにあるんだ?

そして、どうやって単なるデンプンを吹きこぼれだと判断したんだ?
そもそも、被膜状のデンプンを、どうやって採取したんだ?とっくに分解されるんじゃないのか?

稲や桃の実を鑑定したとする記録はあるが、デンプンを鑑定したとする記録はないのに、適当こくなよ畿内説

582 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:01:17.33 .net
>>574
記紀の成立が時代的に新しいからこそ、記録があるはずじゃないか
親魏倭王印も残ってるはずだ

畿内ヤマト政権が承継してればな

583 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:15:11.72 .net
>>539
>マツロ国、イト国、奴国に違いはない

では、この時点で魏志倭人伝の距離と方角は
正しくないことが確定ですねww

末盧國・伊都國と伊都国・奴国間で単位長さが
2〜4倍弱違ってくる
呼子が末盧国とかいうインチキしても二倍超w

方角は、どうやっても東南にはならない

九州説さん(複数形)お疲れさまでしたww

584 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:17:48.96 .net
>>583
>方角は、どうやっても東南にはならない

東南になるのは、「阿波」説だけ。   @阿波

585 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:18:04.23 .net
>>583
イト国の方角を誤解した理由は畿内説が自爆して証明済み
長さは所要時間法での換算だから、何も問題なく正しい

586 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:19:40.18 .net
>>542
やればいい、というならお金を出してあげて

限りある乏しい予算の中で遣り繰りしてるんだから、確度の高い試料を優先するのが当然

なぜ桃核が、確度が高いのかはすでに書いた

あなたの思い付きを優先するほど、文系の研究予算は潤沢ではないんだよ

587 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:19:48.63 .net
>>585
東南になるのは、「阿波」説だけ。   @阿波

588 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:21:43.06 .net
>>581
>で、そのニセ調査報告書はどこにあるんだ?

本物の報告は歴博が刊行してる
書名も公表済みだが?

>そして、どうやって単なるデンプンを

再三にわたり炭化物だと言ってきたはずだが、脳がないのか?

589 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:25:25.30 .net
>>585
>イト国の方角を誤解した理由は畿内説が自爆して証明済み

そんな事実があるという証拠は?

>長さは所要時間法での換算だから、

と断定する理由は?

590 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:25:39.95 .net
>>564
>・・・周朝においても
一歩=六尺、一里=三百歩の対応関係は変わりがない
周代には尺も歩も、身体尺で公定の値(長さ)は決められておらず・・・

ダメだ。
周髀算経に拠れば、周初の周公の頃から一寸千里の法の短里や短歩を使っていた、
という記述である。

591 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:30:03.37 .net
>>590
>周髀算経に拠れば、周初の周公の頃から一寸千里の法の短里や短歩を使っていた、
>という記述である。

そんな記述はない

592 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:31:54.91 .net
>>582
>記紀の成立が時代的に新しいからこそ、記録があるはずじゃないか

どのような理由で?

>親魏倭王印も残ってるはずだ

と言う理由は?

無意味な思い込みでなければ、理由が説明できるはずだが

593 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:34:47.95 .net
>>588
被膜のまま炭化するのか?
自然の法則によれば分解されるはずだが

そもそも、どうやって採取する設定なんだ?
土の中から出てきた土器についた被膜なんて、残ってても土と一緒に払い落とされるぞ

ホントにとことん往生際が悪いな、畿内説は

594 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:36:33.21 .net
>>589
ドヤ顔で航空写真出した畿内説には笑ったよ
そりゃ正確な地図さえあれば、小学生にだって東と分かる

畿内説の知的水準は小学生並み

595 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:38:22.60 .net
>>592
代々伝わった大切な宝物を、畿内説では捨てるのか?
現に、三種の神器は大切に承継してるじゃないか

596 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:38:49.78 .net
>>550
>周朝は、周髀算経であったように、「1歩≒1尺」であったのであり

周髀算経には、
即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正。
則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一、

直径21歩、円周63歩の範囲を水平に整地して
そこに直径121尺7寸五分、円周率の3をかけて円周365と4分の1尺の円を書く

ってばっちり書いてあるから、「1歩≒1尺」が嘘デマカセ大間違いの証拠

里が三百歩というのも書いてあるから周髀算経は、
短里を否定する根拠にしかならない

九州説は、ペーテンザラコクをどうにかした方がいいよ?ww

597 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:39:40.48 .net
>>571
>土器や墳墓など、外形上の流行だろ

同じ流行に従っている時点で、同じ文化圏=同じ国なんですが?ww

そして、土器と簡単に言っているけれど、前にも出た破壊祭祀用の
定型化された土器なんだよ

それが布留式土器の様式

で、祭政一致の時代に、祭祀用土器が共通化されているというのは、
同一の政体に参加しているという証明でしかない

とくに北部九州最大国の奴国は、布留式土器の時代になる前から
畿内様式土器の出土が多く、畿内と一体として土器様式の変遷を
受け入れていることが考古学的に示されている

先にも書いたけれど、考古学の土俵で九州説ができることは何もないよ

598 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:42:08.77 .net
千葉の安房も、
すごい秘密ありそう

ニュージーランド領、
サウスイースト島の本島、
チャタム島に、
すごい似てる
城のあるところは、
御宿が符合するかな?
それか、
勝浦温泉か。

599 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:42:42.47 .net
>>597
>それが布留式土器の様式

それが「東阿波型土器」の様式。   @阿波

600 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:45:18.90 .net
「東南陸行五百里到伊都國」の東南は、
末盧國の出口からの、出発地点での出発方向
で伊都國に行く方角がわからん
東南500里まで行きそう。
唐津 鏡山公園あたりで北東へ向かう記禄もない。
書き忘れ?想定地が違う?

那珂八幡とだいたい同時期に唐津で
久里双水古墳 ... 全長108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mの大きさ
前方後円墳があるけど。
箸墓と同時期、大きさの関係で先に久里双水古墳、那珂八幡 完成かな?

601 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:45:53.35 .net
>>597
逆に、それが畿内にあったのはヤマト政権勢力だったことの証拠だけどな
ヤマト政権の配下か従属勢力でなければ、都は破壊され宝物は略奪される
残ってるのはヤマト政権の遺跡だ

そして、邪馬台国とヤマト政権の異質性を示すものはいくらでもあるが、連続性を示すものは全くない

602 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:46:57.84 .net
>>565
>・・・だが、那珂八幡古墳のような前方後円墳が箸墓前後に作られており
北部九州と畿内が同じ文化圏にあるのは考古学的事実
この文化圏が倭國ではないと考える理由がない

ダメだ。
那珂八幡は、266年頃の西晋武帝への遣使の「壹與」の次代頃の墓であり、
その那珂八幡の「進化型」が庄内1の石塚などの大和の前方後円墳であるから、
箸墓は4世紀になり、
大和の前方後円墳群は、3世紀末の庄内1の石塚以後になり、
九州倭國の東征毛人五十五國の将軍や部将らの墓であり、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の国。

603 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:47:41.99 .net
>>582

親魏倭王印が出れば一発なんだけどね、とも言いがたいのは理解できるか?

例えば、もし仮に九州説の言う通り、
邪馬台国が九州でそれが後にヤマト王権に
臣従した場合、倭王の金印はヤマト王権に
献上されるだろ?

例え金印が出ても九州説の狂信者は、けして納得しないよ

そして、金印のような小さなものは、かなりの偶然がないと見つからないのが普通

古墳みたいな目立つものは盗掘されているのがほぼデフォだし

604 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:54:33.70 .net
>>603
邪馬台国をヤマト政権が承継したなら、国宝級の印を捨てないだろ

605 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:57:59.60 .net
>>579
>・・・邪馬壹國は近畿全体をさす・・・

ダメだ。
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
邪馬壹國や女王国(≒倭國)は、九州であり、
大和は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の、倭國の地方の市を監督する大倭職の、
旧小国だ。

606 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 11:59:55.05 .net
>>594
>ドヤ顔で航空写真出した畿内説には笑ったよ

まともな反論が一切出来なくて、自分の惨めさに笑うしかなかったんですね!

分かります

>そりゃ正確な地図さえあれば、小学生にだって東と分かる

あれれ?
先進国の魏の使いなんだから、方角を間違うはずがない
だから、魏人伝の方角に従って行けば、正しい比定地が分かるってのが、九州説の言い分だったはずだが

航空写真がないと、魏使は方角も分からなくなるのか?ww

それに100メートル真東に行って5歩南に行ったら東南(測量なし)っていうガバガバ理論が正しいと本気で考えているなら、義務教育以降はまともな教育を受けていないと言う告白でしかないぞww

アタマ、大丈夫か?

607 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:06:24.57 .net
>>606
真東が可成山だから目印にしろと言い出したのは畿内説だぞ?
ちゃんと魏の使いの視点で考えろよ

地図を与えられてはしゃいでる小学生の視点じゃなくてなw

608 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:12:44.41 .net
>>604

>国宝級の印を捨てないだろ

国宝級の漢委倭國王の金印は、どこかに承継されてましたっけ?スットボケ

はい、論破w

609 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:14:05.48 .net
>>595
>代々伝わった大切な宝物を、畿内説では捨てるのか?
>現に、三種の神器は大切に承継してるじゃないか

それは何に対する回答のつもりかな?
ちゃんと他人に通じる日本語を話してくれるか?

610 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:23:07.56 .net
>>608
そう、そのとおり
敵の攻撃にさらされると隠す
奴国王位印はたまたま見つかった

倭王印がないのは、敵から攻撃され、隠したからだ

邪馬台国を攻撃して滅ぼせるのはヤマト政権しかいない

611 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:23:52.65 .net
>>609
邪馬台国をヤマト政権が承継したという寝言さ

612 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:28:22.31 .net
>>593
>土の中から出てきた土器についた被膜なんて、残ってても土と一緒に払い落とされるぞ
>ホントにとことん往生際が悪いな、畿内説は

たくさん発見されてる出土品を頭の中だけで否定する九州説
現実から逃げすぎだよ

613 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:29:22.79 .net
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!

614 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:30:34.98 .net
>>612
ピンセットで被膜の跡を探したのか?
一つ一つ顕微鏡で確認しながらさ

今さらながら畿内説の妄想力には感心するな

615 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:38:33.60 .net
>>611
あなたが意味不明な寝言をつぶやいているとしか聞こえないんだが
論理性が何もなくて何を主張したいのか理解できない

616 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:39:22.36 .net
>>614
>ピンセットで被膜の跡を探したのか?

皮膜とか、何を言っているのかわからない

617 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:41:31.63 .net
>>584
>では、この時点で魏志倭人伝の距離と方角は
正しくないことが確定ですねww
末盧國・伊都國と伊都国・奴国間で単位長さが
2〜4倍弱違ってくる 呼子が末盧国とかいうインチキしても二倍超w
方角は、どうやっても東南にはならない・・・

ダメだ。魏の役人らは、「東西南北」の程度の方向はほぼ間違えない。
そして「東南陸行五百里到伊都國」の「東南」は、(人類の常識に拠って)、
出発時点での出発方向記載であり、何ら問題にもならず、間違っていない。

618 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:42:09.19 .net
>>615
それは畿内説に小学生並みの知能しかないからだ

ヤマト政権が邪馬台国を承継してれば倭王印も捨てないで引き継いでるはず

それがないのは、邪馬台国を引き継いでいない証拠、という簡単なお話

619 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:45:23.92 .net
>>616
吹きこぼれた煮汁は、乾けば被膜になる
こんなもん、あっという間に土中のバクテリアに分解される

供えられたらご飯なら、乾けば固まるし、まとまった量なら分解されずに炭化するだろうけどな

ちゃんと科学しろよ、畿内説

620 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:48:12.58 .net
>>618
>ヤマト政権が邪馬台国を承継してれば倭王印も捨てないで引き継いでるはず

捨てないで引き継いでるはずだという理由は?

621 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:49:40.11 .net
>>620
倭王である証拠品だからだ、奥山
お前の大好きな証拠品だぞ
政権の正当性を訴える絶好の品だ、奥山

622 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:49:42.73 .net
>>619
>吹きこぼれた煮汁は、乾けば被膜になる
>こんなもん、あっという間に土中のバクテリアに分解される

炭化物だと最初から言っているのに、知能がないのかな?

623 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 12:52:13.02 .net
>>622
硬くなったご飯のように、バクテリアに分解されずに残るから、炭化する時間ができるんだぞ、奥山

624 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 13:27:34.87 .net
>>596
>周髀算経には、
即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正。
則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一、
直径21歩、円周63歩の範囲を水平に整地して
そこに直径121尺7寸五分、円周率の3をかけて円周365と4分の1尺の円を書く
ってばっちり書いてあるから・・・

ダメだ。周髀算経が、
「徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一、
直径21歩、円周63歩」
の円を描くんなら、
「即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正」の円など、描く必要が全くない。
という事は、周髀算経の元記録は、
「即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正」だけの、文が残っであったのであり、
それでは全くさまにならないから、
前漢や後漢の「周髀算経の収集再編集注釈を入れた学者が、
自己解釈に拠る「「徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一、
直径21歩、円周63歩」の部分以下の書き足しをした、
という事にしかならないもの。
つまり、周髀算経の原文の根拠にならないもの。

625 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 13:36:20.19 .net
>>624
>の円を描くんなら、
>「即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正」の円など、描く必要が全くない。
>という事は、

必要あるよ
だってそれ、円を描いてんじゃなくて円形に整地して水平出してる土木工事だから
円を描くのに不可欠

626 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 13:37:32.02 .net
>>597
>同じ流行に従っている時点で、同じ文化圏=同じ国なんですが?ww

いや、大和は、九州倭國の東征毛人五十五國の、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の旧小国であった。

>そして、土器と簡単に言っているけれど、前にも出た破壊祭祀用の
定型化された土器なんだよ が布留式土器の様式

筑紫の布留は、3世紀後半であり、大和の布留は、筑紫の布留の伝搬模倣であり、
4世紀の土器だ。

>で、祭政一致の時代に、祭祀用土器が共通化されているというのは、
同一の政体に参加しているという証明でしかない

時期が数十年も新しい、という事は、大和は筑紫からの伝搬であり模倣だ、というしかない。

>とくに北部九州最大国の奴国は、

これもバツだ。北部九州最大国や邪馬壹國だ。

>布留式土器の時代になる前から
畿内様式土器の出土が多く、畿内と一体として土器様式の変遷を
受け入れていることが考古学的に示されている

大和の庄内は、筑紫からの伝搬であり、大和の布留も越や筑紫からの伝搬だな。

627 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 13:50:09.63 .net
>>625
>必要あるよ だってそれ、円を描いてんじゃなくて円形に整地して水平出してる土木工事だから
円を描くのに不可欠

地面に説明円を描く時に、それの周りの別の大きな円の整地をするなんて文書は、
見た記憶がない。

628 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 13:58:14.81 .net
>>627
「即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正」
そこに書いてあるんだけど、自分でコピペしてるのに読んでないの?

629 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:05:45.76 .net
>ヤマト政権の配下か従属勢力でなければ、都は破壊され宝物は略奪される

そして、九州の遺跡には破壊や略奪など痕跡すらないので、
奴国も伊都国も、ヤマト政権の配下か従属勢力であり、
同じ国の中ということを説明してくださったのですね!

ありがとうございます
私もそれで正しいと思いますよ

そして、伊都国、奴国が倭国の一員なのは魏志倭人伝から明らかですし、
当然その盟主であるヤマト王権も倭国の一員であり、一番の中心である以上
そこに邪馬台国を求めるのも当然ですね!

九州説の人が、邪馬台国畿内説の最終証明をしてくれた訳だ
親切だなぁww

630 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:08:21.79 .net
>>773
>別に箸墓が卑弥呼の墓じゃなくても困らないよ?
西殿塚古墳でも構わないんだから
径百歩の墓の候補はいくらでもあるって言ってるだろ?

卑弥呼が2世紀末に即位して、この女王の寿命がいつまでなのかは誰にも分からない。
卑弥呼の墓が単独墓ならば、普通、平均寿命の半分くらい、当時なら20歳くらいで墓を造り始める。
つまり2世紀末から3世紀ちょうどくらいに墓の建造を始めただろう。
そして248年に卑弥呼が死んで埋葬部分=ハカドコロ=冢(ちょう)が造られたのだろう。
ならば2世紀末から3世紀ちょうどくらいに造られた径百余歩の前方後円墳は纏向にはない。
したがって纏向には卑弥呼の墓はない。

>大王墓の系譜があるから年代の合うやつを当てればいいだけ

崇神は大王になった。
大王であったのではない、大王になったのだ。
その前にモモソヒメと結婚した大物主がいただろ。
その怨霊封じのために崇神は大神神社を建ててるだろ。
つまり大王とは大物主であり、纏向にはいない。

631 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:08:35.96 .net
>>629
ヤマト政権から燃やされたり、略奪されたら遺跡は残らんだろ
アホか、畿内説

クマソも同じだがな

632 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:12:10.44 .net
>>607
>真東が可成山だから目印にしろと言い出したのは畿内説だぞ?

そうだよ?
それであってる

で、真東の可也山(可成山じゃないよ)まで来ると、
伊都国がその真東にあるんだw

何も問題ない

山頂と南側の山すそだと、山裾の方が南だけどそれをもって
可也山より南なんだーっていう人はいないよ? お前以外は?

魏使だって、そんなことは思わないし言わないww

633 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:15:23.20 .net
>>630
>そして248年に卑弥呼が死んで埋葬部分=ハカドコロ=冢(ちょう)が造られたのだろう。

「冢」って高い墳丘のことだから
勉強してね

634 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:22:37.93 .net
>>631
>ヤマト政権から燃やされたり、略奪されたら遺跡は残らんだろ

破壊されたり燃やされたりしたら、破壊前の状態は残らないけど
破壊された跡は残るし発掘されるよ?

ヤマト王権は破壊した後、土器片一つ残さずきれいにかたずけて
自然地形に戻すまでしてくれるのか?ww

踊り狂ってるなww
どこまでもバカだなぁww

そして、お前さんの言い分を信じて、燃やされたり略奪されたら遺跡が
残らないのであれば、伊都国や奴国の遺跡が残っている以上、
燃やされも略奪もされていないということだよな?

論理的にそうなる

であるなら、>>601で親切な九州説の人が証明してくれたように
「ヤマト政権の配下か従属勢力でなければ、都は破壊され宝物は略奪される」
はずだから、伊都国、奴国はヤマト王権の配下か従属勢力ってことだよな?

論理的にそうなるww

つまり、畿内ヤマト王権は倭国の盟主であり、であるなら、
魏志倭人伝に書かれた邪馬台国そのものということになる

論理的にそうなるwww

証明してくれてありがとうw

635 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:23:56.09 .net
>吉野ケ里遺跡には楼観や城柵があるよ

楼観の根拠はない。 
庄・蔵本遺跡にも2重の濠と柵列をめぐらしている。 井の中の蛙大海を知らず。   @阿波

636 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:24:32.78 .net
>「冢」って高い墳丘のことだから

全然違うね。
墳のことならそもそも「冢」という単語は必要がない。
墳の上に「冢」があるから、墳自体を「冢」と呼んだこともあったという事。
野球場はグラウンドの事だけではない、観客席も含めて野球場だ。
ところがグラウンドは選手がプレーする場所であり、観客席をグラウンドと言わない。
それと同じ。

637 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:26:15.58 .net
>>632
また、小学生戻りか
現に東南と認識して、魏志倭人伝にそう書いてる

地図もコンパスも航空写真もないのだから、無理もない話だ
寝ぼけるな奥山

638 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:26:52.63 .net
渡土堤知らずの捏造君もそろそろおしまいかな?

会話をしたら、九州説はどうやっても矛盾だらけの泥沼に嵌まるしかないんだよ

それでも九州説を続けるためには、他人と一切会話せずに、意味不明な強弁を書き続けるペーテンザラコク方式か、とにかく同じ事を書き続ける泡方式か、くらいしかない

639 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:27:10.11 .net
>>603
そうとも言えないよ。
未盗掘、手つかずの古墳等ならいいけど?
移動できるもんの判断はむつかしい。

640 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:27:50.46 .net
>>634
配下の豪族に領地として与えれば、喜んで片付けるさ
倭王印は見つけられなくてもな、奥山

641 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:29:18.08 .net
>>638
まだ、吹きこぼれや観念的里とやらで言い張るつもりか?
可也山であれだけの墓穴を掘ったのに

642 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:37:36.99 .net
>>637
>現に東南と認識して、魏志倭人伝にそう書いてる

出たよ、魏志倭人伝原理主義w

お前の理論だと、伊都国から見て真東の日向峠を通って
そこから北東に向かう伊都国は、北東と魏志倭人伝に
記載されないとおかしいよな?

論理的にそうなるww

でも、魏志倭人伝の記載では東南だw

さあ、これはどうやって説明してくれるのかな?
素晴らしい「その場で考えただけの何の根拠もない思い付き」を
お待ちしていますww

643 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:40:50.33 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

644 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:42:29.15 .net
>>642
畿内説は、無理にこじつけようとするから、駄文が長くなるんだぞ
要点を簡潔に、これを心がけろ、奥山

日向峠は常に南側
その北側しか通らんし、奴国までほぼ平坦で見晴らしもいい
したがって、誤認はせんのだよ、奥山

645 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:43:33.68 .net
>>637
>現に東南と認識して、魏志倭人伝にそう書いてる

出たよ、魏志倭人伝原理主義w

お前の理論だと、伊都国から見て真東の日向峠を通って
そこから北東に向かう伊都国は、北東と魏志倭人伝に
記載されないとおかしいよな?

論理的にそうなるww

でも、魏志倭人伝の記載では東南だw

さあ、これはどうやって説明してくれるのかな?
素晴らしい「その場で考えただけの何の根拠もない思い付き」を
お待ちしていますww

646 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 14:48:04.68 .net
>>645
イト国に行くときの目印は可也山だぞ
畿内説が目印にしろといっておいて、また記憶障害が発生したのか?奥山

647 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:06:47.38 .net
九州説ってすごいよな!

現地で見て真東で、航空写真で見ても真東で、それでも魏志倭人田に書いてあるから東南だ、で済むと思ってるんだからw

しかも最初は、呼子を末盧国ということにすれば伊都国より北だから東南とか、出発方向が東南ならいいんだとか、その場しのぎの適当なことを乱発した後で、だ

それから、配下の豪族が滅ぼされた国の後を掃除して自然地形まで復元するっていうのは、これまでの九州説のトンデモの上限を軽く突破してるぞw

領地として与えられてるのにw
ここまでしないと破壊の跡が残るからなw

でも、九州の遺跡には破壊の跡は見られない

さあ、ここはどんな思い付きで反論した体にするんだ?w

648 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:07:17.51 .net
>>646
>イト国に行くときの目印は可也山だぞ

そうだよ、そしてその目印、真東の可也山から見た伊都国が、また真東なんだ

可也山の山頂で示すと、そこから伊都国が南に見えるとかいう言い訳が発生するが、可也山は一つの山であって真東に見える山の山すそも当然真東だ
実際、可也山の山頂はお前のいう「言い訳の末盧國」、呼子より北で、山裾部分がちょうど真東だ

そして航空写真も地図もないのだから、可也山の辺が真東と認識されるだけで可也山の山すそが真東より南と認識されることはない

なぜなら航空写真も地図もないんだからな
そして、可也山の山すそ、呼子の真東から見て真東に伊都国があるんだから、お前以外の人間は魏使を含めて全員呼子の真東に伊都国があるって思うぞ?ww

これが事実なんだよ
お前がバカで踊り続けてるだけww

そして、呼子が末盧国ってのも、あり得ないんだけどな
舟で半日で行けるところを、重い荷物を持って5日で行く
なぜなら魏使がそう要求したらさからえないから キリ
って、バカ以外の何物でもないだろ?

649 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:07:52.60 .net
>>636
>墳のことならそもそも「冢」という単語は必要がない。

ばかだなあ
無学だなあ
冢とは高墳のことなんだよ
にせの中国語なんて現代日本人が捏造しても
九州説が世界から馬鹿にされるだけだよ

650 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:11:58.47 .net
>>644
誰彼構わず奥山と呼ぶ病気には
病名がついてます
追跡妄想でしょ

651 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:12:59.78 .net
>>644
>日向峠は常に南側

意味不明

日向峠は伊都国の真東で、日向峠から奴国は北東なんだが?
https://i.imgur.com/RDXatVc.jpg

平野で見通せるそうだから、航空写真はいらないだろうけど親切でつけとくよ

652 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:18:13.56 .net
>>644
>日向峠は常に南側
>その北側しか通らんし、奴国までほぼ平坦で見晴らしもいい

また変な日本語を使ってる
峠ってのは通る道の最高地点だろ?
その右側も左側も道のない山だ
もしかして峠って言葉、知らない?

653 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:25:21.37 .net
>>648
可也山の周辺って、具体的に何キロ以内だ?
そして魏の使いはどうやって距離を確かめたんだ?測量もしないで

654 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:26:01.92 .net
>>650
ちゃんと奥山の特徴がある奴を呼んでる
区別してるだろ?畿内説

655 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:27:08.18 .net
>>652
糸島から西区方面目指すのに、なんで峠道通るんだよ

656 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:34:31.53 .net
>>654
>ちゃんと奥山の特徴がある奴を呼んでる

でも実際おれが呼ばれたり、ほかの人が呼ばれたり
めちゃくちゃだぞ

特徴って、なんだ?

657 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:37:58.24 .net
>>656
言ったら変えるだろ
お前は二択チョンだな

658 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:43:52.41 .net
>>655
>糸島から西区方面目指すのに、なんで峠道通るんだよ

あんた、どこからどこ行くのが
「東南至奴国百里」のつもり?

659 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:45:46.28 .net
>>657
>お前は二択チョンだな

違うが、なんで突然そんなこと言い出すんだ?
発狂したのか?

660 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:57:09.17 .net
.






◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!





.

661 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 15:57:34.85 .net
>>653
>そして魏の使いはどうやって距離を確かめたんだ?測量もしないで

距離なんか確かめないぞ?
お前自身が測量なんてしてないって言ってたじゃないか?ww

分かるのは方角
これは見通しがきけば分かる

呼子から可也山の辺りは真東に見えてる
呼子の真東の可也山から伊都国は真東にすぐ行ったところ

呼子を末盧国にするなんていう捏造までしたのに、
東南の方角が間違いなのを覆すことができないww

距離が短里で百里刻みというのもすでに否定されてる

直線距離(これが正しい)でも、道なりでも、呼子からというインチキをしても合わないw

あれ? 
魏志倭人伝に書いてある東南も五百里も正しくないんじゃないのかな?
おかしいなぁ? 九州説の人が正しいって言ってたのに?

662 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 16:00:23.48 .net
>654
>ちゃんと奥山の特徴がある奴を呼んでる

さっきからここに書いている畿内説のほとんどは私だけど
私は奥山じゃないよ?

お前、バカなんだから、いい加減に気づけよw
私は、テンプレの周尺のところに貢献した人だよ
昔の話だけどねw

663 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 16:01:04.13 .net
>>657
>>656
>言ったら変えるだろ
>お前は二択チョンだな

racistのお前が勘違いして二択チョンと呼んでいるのは私だが、
>>656は別の人だよ?

お前、全然分かってないじゃないかw

お前のいう二択チョンは奥山じゃないんだろ?ww

664 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 16:17:24.40 .net
>>629
そして、九州の遺跡には破壊や略奪など痕跡すらないので、
吉備も河内も大和東海も、九州倭國政権の東征毛人五十五國の征服下の配下か、
大倭職や従属勢力であり、
同じ国の中の従属地である、ということを説明してくださったのですね!

ありがとうございます
私もそれで正しいと思いますよ

665 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 16:34:41.75 .net
>>632
>>真東が可成山だから目印にしろと言い出したのは畿内説だぞ?

>そうだよ?それであってる・・・

合っていない。
そもそも、可也山は、途中の糸島地域や船乗りにとっては目印になる山であっても、
魏の役人らにとっては、
目的地の邪馬壹國女王之所都の、目的地でもその目印でもない無意味な山であり、
回りの山々に比べて、極端に高くなく、魏の役人らにも関心がある山でも目立つ山でもなく、
そんな山の事を倭人の案内人らが、魏使らに一々説明する必要もない。

それが、人類の常識。

666 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 16:42:38.81 .net
>>633
>「冢」って高い墳丘のことだから勉強してね

説文解字の「高い墳也」は、説文解字の舌足らずの失敗解釈であり、
実際は、始皇帝冢のように、
「(側面が直線状的斜面の)錐体状や錐体台状」の形態を示すのであり、
単なる「高い墳丘」では、半分詐術的犯罪者的な解釈になる。
気を付けてね。

667 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 16:50:59.04 .net
>>634
>「ヤマト政権の配下か従属勢力でなければ、都は破壊され宝物は略奪される」
はずだから、伊都国、奴国はヤマト王権の配下か従属勢力ってことだよな?

いや、糸島地域や、室見川流域を中心とした福岡平野の奴國地域は、
隋代の竹斯國や秦王國時代までも、九州倭國の中心として存続して栄えている。

668 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 16:55:23.91 .net
>>666
>説文解字の「高い墳也」は、説文解字の舌足らずの失敗解釈であり、
>実際は、始皇帝冢のように、
>「(側面が直線状的斜面の)錐体状や錐体台状」の形態を示すのであり、

それは現代日本の素人お爺さんが史料を無視して個人的に発明した思いつきでしょ

669 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 16:56:08.29 .net
>>628
爺だから、しかたがないよ。
プルタぺーテンの末期症状
手の施しようもない。

ザラコク爺曰く
大和は、九州倭國の「東征毛人五十五國」の、倭國の地方の市を監督する大倭職の、
旧小国だ。

すでに九州飛び出している。なんで九州限定なんだろうな?

670 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:01:41.95 .net
>>665
>そんな山の事を倭人の案内人らが、魏使らに一々説明する必要もない。

呼子近くまで来て
「伊都国ってどのあたり?」と聞かれれば
倭人は「あの山のあたり」と答えるだろう

671 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:18:42.83 .net
一切聞かずに
「東南陸行五百里,到伊都國」の文のみなら
どうなるのか?

672 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:19:45.42 .net
箸墓を卑弥呼の墓、纏向を王都と言うにはあまりにも根拠が少ない。
奈良県の小学生にこのような状況で
どのように教育しているのか知りたい。
多分、社会見学や遠足に行っているだろうが。

673 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:22:57.98 .net
>>672
>箸墓を卑弥呼の墓、纏向を王都と言うにはあまりにも根拠が少ない。

多い少ないの基準は?

674 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:32:14.85 .net
>>671
>一切聞かずに
>「東南陸行五百里,到伊都國」の文のみなら
>どうなるのか?

彼はどうやってそれを知るの?

675 :キウス:2021/08/18(水) 17:34:26.42 .net
>>662
読まさせていただきました。
思い込みが激しいと思います。
また、他説批判をするのはこのスレの
狙いではありません。
私見を披露するのも良いですが、、

676 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:39:09.94 .net
>>674
末盧國につきましたが
魏志倭人伝の情報しかもっていないていう
想定

677 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:39:51.56 .net
畿内説自体が、思い込みからスタートするからな

678 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:43:47.72 .net
>>677
根拠なし。

679 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:44:20.25 .net
>>673

倭人伝と一致する発掘物を
羅列してみたらわかるよ。

680 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:49:15.57 .net
>>679
また何も説明出来ないんだな、九州説はダメだね

681 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:51:34.51 .net
>>675
>思い込みが激しいと思います。

理由も言わずに
誰それが奥山だ奥山だと叫んでる人が?

682 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:51:39.20 .net
>>678
何度も同じレス貼らせるなよ

773 日本@名無史さん 2021/08/14(土) 21:32:01.83
>>763
別に箸墓が卑弥呼の墓じゃなくても困らないよ?
西殿塚古墳でも構わないんだから
径百歩の墓の候補はいくらでもあるって言ってるだろ?
大王墓の系譜があるから年代の合うやつを当てればいいだけ

683 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:53:07.79 .net
>>681
テストしてやろう
吹きこぼれで被膜のついたが土中に埋まったとして、そのまま炭化すると思うか?
答えてみろ

684 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:53:17.98 .net
>>664
>吉備も河内も大和東海も(中略)同じ国の中

すごいじゃないか!
ペーテンザラコク!

御大古田武彦氏と古田史学の縛りを越えて、
ヤマトと北部九州が同じ国だと認められるようになったのか!

すごいすごい!

これまで、九州倭国は畿内ヤマトとは白村江まで別の国の一点張りだったのにw

古田御大が、畿内と九州を別の国だと言い張ってたのは、比べたら
どっちが主なのか、一瞬で決着がつくので別の国にせざるを得なかったのに

その限界をやすやすと「オウム返しのためだけ」に超えてしまうww

さすがペーテンザラコクだわ

685 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:53:27.91 .net
>>676
>末盧國につきましたが
>魏志倭人伝の情報しかもっていないていう
>想定


魏志倭人伝の情報って、どうやって得たの?

686 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:54:13.65 .net
>>685
可也山を目印にして歩いた結果、得たんだろ

687 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:55:30.44 .net
>>682
それが何なの?
何かの主張?
それとも弁解?

688 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:55:36.55 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

689 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:56:31.14 .net
>>683
>吹きこぼれで被膜のついたが土中に埋まったとして、そのまま炭化すると思うか?

誰かが、そんな主張した?

690 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:57:03.84 .net
>>687
年代だけで適当に見つくろうと言ってるぞ

691 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:57:19.20 .net
>>689
奥山だ

692 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:57:31.84 .net
>>686
>可也山を目印にして歩いた結果、得たんだろ

誰が、いつ何処から?

693 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:57:48.81 .net
>>673
私の投稿ですが、奈良県の小学生に確定したように教育していないと思いますが、、、何故断定した教育をしていないか
考えてみればわかります。桜井市教委も、自分達が発信しているにも関わらず、
ひとごとのように、(と言われている)としか教えていないのでは?


694 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 17:59:20.31 .net
>>692
魏の使いがマツロ国からイト国を目指したとき、その九州の地でだ

695 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:00:47.43 .net
>>685
ブツブツ交換?購入、貰った
それはしらないけど
先人から得る

696 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:00:51.85 .net
>>690
>年代だけで適当に見つくろうと言ってるぞ

年代だけで適当に見つくろうと言った
という証拠は?

697 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:01:58.54 .net
>>695
>先人から得る

先人って、何処の誰?

698 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:03:07.46 .net
>>697
使者だよ。

699 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:03:13.50 .net
>>694
>魏の使いがマツロ国からイト国を目指したとき、その九州の地でだ

だとする根拠は?

700 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:04:07.42 .net
>>698
>使者だよ。

使者だという理由は?

701 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:08:52.85 .net
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!

702 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:09:50.71 .net
>>700
経験者だから、ガイドになるだろう

703 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:10:35.37 .net
>>642
>でも、魏志倭人伝の記載では東南だw
さあ、これはどうやって説明してくれるのかな?

「東南」は、末盧國からの出発時点での出発方向の記載だ。
また、魏使らにとっても案内の倭人にとっても、
目的地の邪馬壹國女王之所都の付近の目印の山が見えれば、それは意味があるのであり、
途中の低い山には関心もなく、一大國からの船上でも、
伊都国の東北の300m台?の低い山そんな山の方向には、
魏使らも案内倭人も関心がないもの。

704 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:12:07.13 .net
吉野ヶ里に対抗すべく
(私は吉野ヶ里を王都とは思ってませんが)
纏向、箸墓をぶち上げたのは良いが、
その後、邪馬台国と結びく調査結果もでず、焦ってるのが今の畿内説の現状では無いだろうか?

705 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:14:36.60 .net
>>696
そう書いてる
違うと言いたいなら、どういう意味で書いてるか解説しなさい

706 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:16:28.44 .net
>>704
>吉野ヶ里に対抗すべく
>纏向、箸墓をぶち上げたのは良いが、

そんなことがあったって証拠は?

707 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:18:36.42 .net
奥山じゃないと言いながら、奥山度テストをすると逃げるんだよな

708 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:19:49.51 .net
>>703
それ以前に伊都国の地形の情報すら
魏志には書いていない。

709 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:20:15.58 .net
>>703
>伊都国の東北の300m台?の低い山そんな山の方向には、
>魏使らも案内倭人も関心がないもの。

そのサボリのせいで伊都国のある方角がwsからないという失態を演じたのに、死刑にはならないの?

710 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:25:26.57 .net
>>705
>そう書いてる
>違うと言いたいなら、どういう意味で書いてるか解説しなさい

あなたはウソをつきました
径百歩という条件も書いてあるので
「年代だけで適当に見つくろうと言ってるぞ」
はウソでした

711 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:26:24.42 .net
>>705
所詮は渡土堤知らずの捏造君だわ

いつでも捏造
息をするように捏造

渡土堤だけではなく、恥も知識も知らない

ほらよ
>>551, >>556

これにまともな返答一つできずに、スレが進んでから捏造するいつものスタイル

本当に九州説には下劣な品性のやつしかいない

712 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:26:44.21 .net
>>691
>奥山だ

奥山がそんな主張したという証拠は?

713 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:26:58.09 .net
畿内説によれば平坦な道を避けて、なぜか日向峠を越える設定らしいぞ

714 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:28:30.49 .net
>>709
どうなんでしょう。地形の特徴や
目印となる詳しい記録があったけど
陳寿が書かなかっただけかも?

715 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:28:58.74 .net
>>707
>奥山じゃないと言いながら、奥山度テストをすると逃げるんだよな

それで奥山度テストができるという根拠は?

716 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:29:42.82 .net
>>711
言い訳がダラダラしすぎ
結局は、年代が合うのを真っ先に探して、理由を後付けするんだろ

どの部分が違うのか、端的に書いてみろよ、奥山

717 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:30:07.40 .net
>>713
九州説はどういう設定?

718 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:30:14.79 .net
九州説を支持する一個人
畿内説を支持する一個人

どちらもどちらだが、、

可也山はイト国や、に向かうのには指標になったと思うが、マツロ国からイト国へ行く指標ではないと思うよ

また、魏使はマツロ国には一回しか行って無いと思うよ。
魏使が、邪馬台国國まで二往復したとして、行きの4分の1の行程だよ東南が合ってるか間違ってるか議論はどうでも良い。用はイトから?経由邪馬台国への方位が南なのは二往復してるから間違い無いと言う事。
特にマツラ国は草木が茂っていて前も歩く人も見え辛いのだろ。この行程は一度だけだと思うよ。

719 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:30:21.35 .net
>>712
お前は奥山だろ
違うなら、奥山度テストしてやるぞ

720 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:31:11.07 .net
>>713
>畿内説によれば平坦な道を避けて、なぜか日向峠を越える設定らしいぞ

それは誰の主張で、平坦な道とは、どこ?

721 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:32:21.44 .net
>>717
前原までは、基本的に海岸線だな

722 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:34:22.65 .net
>>720
ほれ

651 日本@名無史さん sage 2021/08/18(水) 15:12:59.78
>>644
>日向峠は常に南側

意味不明
日向峠は伊都国の真東で、日向峠から奴国は北東なんだが?
https://i.imgur.com/RDXatVc.jpg
平野で見通せるそうだから、航空写真はいらないだろうけど親切でつけとくよ

723 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:35:11.05 .net
>>718です

テンプレでは瀬戸内航路で畿内邪馬台国でしょう。瀬戸内航路を二往復してると4度瀬戸内を航行したのでしょう。
4度も通って、南を東と誤認するのが畿内説かよ
メッ

724 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:35:11.10 .net
>>646
>お前の理論だと、伊都国から見て真東の日向峠を通って
そこから北東に向かう伊都国は、北東と魏志倭人伝に
記載されないとおかしいよな?

いや、変な解釈だな。
伊都国は前原〜糸島水道付近であり、
伊都国の出口から東南百里の奴國は、
日向峠西麓に入り口があって、そのから平良平野及びその周辺山地地域であり、
側副傍線行程國であるから、魏使らは通っておらず、
伊都國の次は、東へ百里で、福崎西新町付近の「不彌國の入り口」だ。

725 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:36:33.02 .net
>>713
>なぜか日向峠を越える

まずはお前は>>658
>あんた、どこからどこ行くのが
>「東南至奴国百里」のつもり?

に答えてみたらどうだ?

日向峠を超えないのなら、スタートから北西から北に向かって、高祖山塊を迂回して、広石峠を越えるルートになるが、それがどうやったら南東になるんだ?

何度目か分からんが、お前バカだろう?
というか、バカすぎw

726 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:38:20.19 .net
>>716
>結局は、年代が合うのを真っ先に探して、理由を後付けするんだろ

径百歩という条件が出ていることを何故無視してウソつくの?
なぜ理由もなく奥山と呼ぶの?

727 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:38:28.92 .net
>>719
奥山であたりです

728 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:39:02.16 .net
>>725
また記憶喪失か?病気だぞ

俺の主張は何度も書いたとおり、目印にした真東の可也山が北側にきたから、東南に進んだと誤認した、だぞ

729 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:40:34.09 .net
>>726
その条件をつけることによって、何がどう変わるんだ?
畿内説は全然根拠を書かない

730 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:41:10.03 .net
>>718
後に続く別の使者もいるから
避難地として書いたとか?
いろいろ仮説たてられる。

二往復とは当方は考えていない。
不彌國から帰ると推測。

731 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:41:17.71 .net
>>726
お前は奥山だろ?
違うというならテストしてやるぞ

732 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:41:21.29 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

733 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:41:44.80 .net
飽きた、畿内説に進歩なし

734 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:42:49.64 .net
>>649
ばかだなあ
無学だなあ
「冢、高墳也」は、「説文解字」の舌足らずなんだよ
実態は始皇帝冢のように「斜面が直線的な錐体や錐体台」的な形状を示す文言なのであり、
にせの中国語訳で現代日本人を騙そうとしても
大和説学者らが世界から馬鹿にされるだけだよ

735 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:44:52.26 .net
>>729
>その条件をつけることによって、何がどう変わるんだ?
>畿内説は全然根拠を書かない

書いてる
「年代だけで適当に見つくろうと言ってるぞ」
と言ったあなたはウソつきと証明された

736 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:46:58.85 .net
>>730
私はイト国経由、邪馬台国は二往復だと考えてます。他の国は毎度寄る必要性があったのでしょうか?対馬、壱岐は航路上立ち寄ったとは思いますが、、

737 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:47:00.81 .net
>>716
>言い訳がダラダラしすぎ

まーた、答えられない致命的な点から、無駄口で逃げてる

お前がバカすぎるから丁寧に説明してやってるんだろうが!w

箸墓がどうの以前に、卑弥呼の墓の候補はヤマトにしかないんだよ!

そして、ヤマトの候補は複数ある
その複数の候補の中のどれかとなると、結局は年代で決めるしかないってこと

で、北部九州のどこか説wの捏造君の推す卑弥呼の墓の候補はどれなんだい?

どれか、挙げてみ?
すぐに論破されるから、逃げるしかない無能の癖にw

738 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:47:35.28 .net
>>728
>俺の主張は何度も書いたとおり、目印にした真東の可也山が北側にきたから、東南に進んだと誤認した、だぞ

ありえない主張と却下されています

739 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:48:16.83 .net
>>735
適当に見つくろうリストが多少絞られるだけで、適当に見つくろうという部分は、まったく影響しないじゃないか
アホか

740 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:49:04.82 .net
>>738
反論できません、まで読んだ

741 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:50:16.63 .net
>>737
結局は年代で決める(他の要素は考慮しない)んだろ?
それが畿内説だと同意してるぞ

742 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:51:01.77 .net
>>728
>目印にした可也山が北側にきたから

そのできの悪い、いかにもアタマの悪そうな言い訳もすでに論破済み

>>658, >>661

743 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:51:39.12 .net
>>736
それで良し、倭人伝では邪馬台国には二度は行ってる。
一度だけなら、卑弥呼の墓が経百歩は伝聞で信用度が落ちる。

744 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:51:56.39 .net
>>742
呼子からだぞ?
何を寝ぼけてる?畿内説
目を覚ませ

745 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:52:51.86 .net
>>740
>反論できません、まで読んだ

存在しないものが見えたら病気

746 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:54:41.75 .net
>>745
まぁ空飛ぶメルヘン設定には皮肉は分からんだろうな
空飛ぶつもりでいるから、平坦な道を避けて日向峠に向かうなんて言い出すんだぞ、奥山

747 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:54:54.21 .net
>>741
>結局は年代で決める(他の要素は考慮しない)んだろ?
>それが畿内説だと同意してるぞ

それもウソ
年代が同じでも径百歩に満たないと非該当と主張しているから
九州説はウソつきすぎ

748 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:55:43.59 .net
>>744
>呼子からだぞ?

あのな、お前のバカをさらし挙げるために付き合ってるが、末盧国が呼子って時点で最初から間違ってるんだぞ?

本当にバカだなぁw

749 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:56:52.15 .net
>>747
条件をひとつ加えたところで、他の要素を考慮しないことに変わりはないだろ、奥山

750 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:57:30.47 .net
>>748
(奥山の口真似で)
根拠は?

751 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 18:57:52.54 .net
>>721
ありがとう
唐津通るルートて事?
魏志には、地形に関することは、書いていない。
東南陸行五百里のみでたどりつけるのか
疑問なんだ。

752 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:00:15.55 .net
>>744
反論になってない
可也山と三雲遺跡は加部島から真東プラマイ三度くらいの誤差
これを東南陸行だと言い張るなら九州説が詐欺師と呼ばれることは覚悟しておくこと

753 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:00:31.04 .net
>>741
>結局は年代で決める(他の要素は考慮しない)んだろ?

またまた、捏造してる
たぶん病気なんだな、かわいそうに

他の要素をすべて考慮して、奈良盆地南東部のかない古墳群のどれか、まで絞った後の話だ

精神科医で腕のいいのが、同級生にいるから、紹介して挙げようか?

754 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:02:05.55 .net
>>746
>空飛ぶつもりでいるから、平坦な道を避けて日向峠に向かうなんて言い出すんだぞ、奥山

日向峠とか言ってるのは九州説だけどね

755 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:02:17.72 .net
>>655
>糸島から西区方面目指すのに、なんで峠道通るんだよ

奴國は、
前原〜糸島水道付近の伊都国から東南の、
日向峠西麓平野部に入り口がある側副傍線国説明である早良平野及びその周辺山地の国であり、
魏使らは通っておらず、
伊都國の次は、東百里に「姪浜」を通って、藤崎西新町付近の海岸に不彌國の入り口があり、
その東〜東南の出口から南の50里以内に邪馬壹國の入り口(ほぼ弥生銀座の入り口付近)があり、
邪馬壹國は福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地であり、
邪馬壹國に入った所からすぐの所の「大野」付近に女王之所都があり、
おそらく、「安徳台」が女王之所都なんだよ。

756 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:02:36.63 .net
>>752
あのな、本当の方角なんて正確な地図さえあれば、小学生にでも分かる
そんな話はしてないんだ

地図もコンパスも航空写真もない魏の使いは、いったいどう受け止めたかっていう話だ
分かるか?奥山

757 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:03:04.15 .net
>>750
集落がない

758 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:03:26.30 .net
>>753
考慮した他の要素って、具体的になんだ?

759 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:04:04.75 .net
>>754
航空写真好きの畿内説が日向峠と言ってるのだが?

760 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:04:33.60 .net
倭国が30国の連合帯ならその大半が九州なら、当時の交通事情から畿内から統制が取れるのだろうか?
畿内説では、北部九州から纏向までは魏の使いは二月かかる。往復四か月。
急ぎの場合、別ルートの場合、その半分として、2ヶ月。
イトから伝令が一月、返礼が一月、計2ヶ月で統制が取れるだろうか?
九州内なら、距離的に魏の使いが使った行程以外で距離的に畿内説より短期間で統制ができる。

761 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:05:01.13 .net
>>757
失礼な奴だな
集落はあるぞ
規模が極めて小さいだけだ

762 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:06:03.69 .net
>>756
つまり倭人伝の里程は測量なんてせずに記載されていて、信頼する価値ナシ
おk?

763 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:06:35.30 .net
>>761
ない

764 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:06:49.52 .net
ああごめん、指が隣のキー触ってたわ

修正
>>728
>目印にした可也山が北側にきたから

そのできの悪い、いかにもアタマの悪そうな言い訳もすでに論破済み

>>648, >>661

765 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:08:55.14 .net
>>762
1日で1里という目安にはなるぞ
悪路だらけの古代人にとって、正確な距離より所要時間のほうが重要だろう

766 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:09:06.67 .net
行程論から言えば、九州か黒潮ルートの阿波が残る。畿内説は???

767 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:10:02.78 .net
>>763
呼子はイカが名物で、食わせる店もあるぞ

768 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:10:03.84 .net
>>759
>航空写真好きの畿内説が日向峠と言ってるのだが?

九州説をシミュレーションしてるだけ
正解は「東南」が間違いとわかる

769 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:11:37.43 .net
>>760
>倭国が30国の連合帯ならその大半が九州なら、当時の交通事情から畿内から統制が取れるのだろうか?

それ、小国だけだから

770 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:13:01.95 .net
>>762
邪馬台国論叢からあなたは、外れた方が良い。
もう少し知識を積んだ方がいい、
ここは5ちゃんだから、ご自由に^_^

771 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:14:44.54 .net
>>758
>考慮した他の要素って、具体的になんだ?

まず第一に王墓である以上庶民の墓とは比べられない卓越墓であること
また、卑弥呼が共立された最初の倭王であることから、
倭国史上初レベルの卓越性が要求される

倭国内の諸地域での首長墓の発展系譜に対する位置づけも考慮の対象
それと、魏志倭人伝に卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步と明記されて
いるので、倭国の中でも径百歩クラスの巨大墳丘墓が対象になる

この程度でもう、奈良盆地南東部の古墳群以外はすべて候補から外れる

772 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:15:05.09 .net
>>686
>可也山を目印にして歩いた結果、得たんだろ

まあ、魏使らや案内の倭人らは、
末盧國の出口から、ほぼ海岸沿いに陸行すればよかっただけであり、
可也山なんて目印にする必要がなかったんだろうなあ。

773 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:15:48.11 .net
>>764
面白そうだから畿内説の知能テストをしてやろう

第一問

呼子から見て可也山は真東にあって距離は30kmとします

方位は8分割で真東から22.5度南まで東として扱い、それを越えると東南とします

さて、魏の使者は、可也山の真南にきたとき、何キロ以内であれば、呼子の東の範囲内とできるでしょうか?

774 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:16:45.01 .net
>>768
その間違いって、航空写真をみてわかる間違いだろ?
小学生レベルの話で

775 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:17:20.86 .net
>>771
そんなこと、引用した原文には書いてないぞ
後付け設定だな

776 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:19:43.66 .net
>>765
>1日で1里という目安にはなるぞ

古代人ってミミズですか

777 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:21:18.38 .net
>>770
罵しるだけの人が外れるのがいい

778 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:23:08.43 .net
>>766
>行程論から言えば、九州か黒潮ルートの阿波が残る。畿内説は???

行程論も「阿波」一択。   @阿波

779 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:23:11.78 .net
>>776
視察だからな
休憩もたっぷり昼休みもたっぷりだ

780 :キウス:2021/08/18(水) 19:24:47.02 .net
>>735
ヨコからだけど
畿内説から箸墓、纏向をはずした方が良いと思います。
私は、吉野ヶ里に対抗するように纏向や
箸墓を出したとしか思ってません。
それ以前にも畿内では調査もしてましたが、突然巻向は王都だ、箸墓は卑弥呼の墓だと言い出しました。
畿内説支持でしたが、それから畿内説に距離を置くようになりました。

駄弁です。失礼しました。

781 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:33:54.38 .net
>>775
内容には一切反論できないんだなw
後付けも何も、基本的に全部テンプレに書いてあることなんだが?

お前がアタマ悪くて理解が追い付いてないだけだよww

782 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:35:56.30 .net
九州説が、
ペーテンザラコクと
捏造君と
キウスしかいねぇw

九州説、人材豊富すぎww

783 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:40:27.35 .net
>>780
>吉野ヶ里に対抗するように

吉野ケ里なんて邪馬台国と程遠いし、対抗するほど有力な説ではない。
九州説者でも平原は多いだろうが、吉野ケ里なんて少数だと思うが。

784 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:42:56.32 .net
>>737
>・・・箸墓がどうの以前に、卑弥呼の墓の候補はヤマトにしかないんだよ!・・・

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、バツね。

785 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:43:34.18 .net
>>780
>私は、吉野ヶ里に対抗するように纏向や
>箸墓を出したとしか思ってません。

妄想ですが

786 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:46:41.12 .net
>>781
言葉の意味分かるか?
原文に書いてない後付け設定だろ?
違うなら指摘してもいいんだぞ、畿内説

787 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:50:22.23 .net
>>783
吉野ヶ里はねえ、高島忠平先生が吉野ヶ里遺跡を調べることで邪馬台国の時代の様子を明らかにできるという意味で「吉野ヶ里から邪馬台国が見える」と言ったのが、一人歩きしてしまって、バカな九州説だと、吉野ヶ里の望楼から見える範囲に邪馬台国があるんだ、とか思い込んでるからなぁw

788 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:52:23.59 .net
>>752
>反論になってない
可也山と三雲遺跡は加部島から真東プラマイ三度くらいの誤差
これを東南陸行だと言い張るなら九州説が詐欺師と呼ばれることは覚悟しておくこと

反論になっていない。
魏使らや案内の倭人らは、
一大國の次には南方へ島伝いに渡海して末盧國の上陸すればいのであり、
目的地の邪馬壹國女王之所都自体の目印になる山ではなく、
はるか手前の低い山の可也山など関心もなく、目標にもしないもの。

789 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:55:23.49 .net
>>753
>・・・他の要素をすべて考慮して、
奈良盆地南東部のかない古墳群のどれか、まで絞った後の話だ・・・

「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、この大和説男も、バツ男ね。

790 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:59:24.83 .net
>>786
切り返すが内容に対する反論が一切ない

つまり、お前の>>690
>年代だけで適当に見つくろうと言ってるぞ

というのが、捏造で確定だ

渡土堤にあったから、も捏造だし、九州説がどうとかいう前に、人間として終わってるぞ

791 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 19:59:59.71 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

792 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:02:09.43 .net
>>790
原文に書いてないことについて、まさに一切の反論がないな
役目ご苦労だ、畿内説

793 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:02:55.12 .net
で、捏造君は、お前のいう二択チョンと奥山の区別はつくようになったのか?

794 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:03:00.82 .net
>>765
>1日で1里という目安にはなるぞ
悪路だらけの古代人にとって、正確な距離より所要時間のほうが重要だろう

これもまあ、ダメだね。
5世紀の裴松之が、
呉志の「翻」が「一日二百里の陸行をした」という説明を書いている。

795 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:04:49.69 .net
>>794
特筆すべきことだから、わざわざ書いたんだろ
当たり前のことなら、いちいち報告しない

796 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:06:23.47 .net
>>736
あります。
卑弥呼が共立され不彌國に定住と推測
邪馬壹國,女王之所都ですが
女王国の都でなく宗教地。
纏向遺跡が初の大規模な遺跡。

797 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:06:36.01 .net
>>768
>九州説をシミュレーションしてるだけ
正解は「東南」が間違いとわかる、

魏志倭人伝では、前原〜糸島水道付近の伊都国(の出口)から、
東南百里の位置に「奴國」の「入り口がある」という事になる説明をしている。

798 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:14:35.72 .net
知能テストからは逃げるんだな
魏の使いが知ってるはずのことを知らない畿内説
やはり小学生レベルだったようだ

奥山度テストに採用だな

せっかく用意した第二問、なぜそれが測量してないのに分かるのか?までたどり着けない

799 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:20:41.36 .net
>>798
捏造君、君は知能テストっていう言葉の意味が分かってないだろ?

バカすぎw

800 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:26:24.11 .net
>>799
せいぜい高校生レベルだぞ?
しかも文系でもやってる範囲
やはり航空写真でドヤる小学生レベルか

801 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:27:09.13 .net
>>792
>原文に書いてないことについて、まさに一切の反論がないな

ここでお前のいう原文って、魏志倭人伝のことか?

それ、お前が捏造したという事実とは無関係だぞ?

>>758
>考慮した他の要素って具体的になんだ?

には、具体的に過不足なく答えてる

老婆心からいうんだが、お前、実生活ではバカすぎて周りからあまりよい扱いを受けてないんじゃないか?

まず、捏造するのをやめた方がいいと思うぞ?

802 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:29:36.32 .net
>>801
ほらよ
証言の原文だ

773 日本@名無史さん 2021/08/14(土) 21:32:01.83
>>763
別に箸墓が卑弥呼の墓じゃなくても困らないよ?
西殿塚古墳でも構わないんだから
径百歩の墓の候補はいくらでもあるって言ってるだろ?
大王墓の系譜があるから年代の合うやつを当てればいいだけ

803 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:33:34.61 .net
>>771
>この程度でもう、奈良盆地南東部の古墳群以外はすべて候補から外れる

奈良盆地南東部の古墳群では一つも当てはまらない。
卑弥呼が死んでから慌てて完成まで10年近くかかる150mの墳丘墓を作るわけがないので、
おおよそ200年ごろに作られ始めたた墳丘墓なら纏向石塚かホケノ山か勝山しか候補はないが、
ことごとく大きさが違う。
奈良盆地南東部の古墳群では一つも当てはまらない。

804 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:33:38.13 .net
>>800
問題の内容や難易度以前に、これは知能テストの体を為していない

というか、知能テストが何なのか分かってないだろ?

バカに限って、知能とかIQとか言いたがるんだよなぁ

憧れがあるんだろうな、アタマのいい人にw

805 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:35:22.02 .net
>>804
でも、分からないんだろ?
高校生レベルの問題が
自由に検索してカンニングできるのにだ

806 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 20:37:37.24 .net
勝山は210年ごろに被葬者の埋葬があったようだ。
葬儀に使われたであろう板材の年輪年代で判明している。
したがって248年に死んだ卑弥呼の墓候補から外れる。
残るのは纏向石塚かホケノ山しかないが、大きさが全然違う。
したがって纏向古墳群に卑弥呼の墓などない。

807 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 21:16:44.67 .net
>>802
お前がこれを過小評価しているだけ
「径百歩の墓の候補はいくらでもあるって言ってるだろ?」

808 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 21:21:12.45 .net
>>805
それ以前だってのw

知的レベルが違いすぎると会話にならないってのはこういうことだな

実生活でもここでも、バカにされるばかりであまりよい扱いを受けてないんだろ?

809 :キウス :2021/08/18(水) 21:23:32.64 .net
>>767
呼子の河太郎のイカは美味しいでした。
30数年前ほど前に行きました。
九州勤務の時です。
博多店にも行きましたが、呼子の風景もあいまい、美味しくいただきました。
今日採れたのイカを生簀からイカをそのまま提供いただきました。ゲソは天ぷらにしていただきました。女房と一緒にいただきました。良い思い出です。
港は穏やかで、大型船は別にして唐津の港より船が付き安い港だと思います。
昔の話です。その九州勤務の時、吉野ヶ里がニュースとなり、吉野ヶ里にも行きました。当時は発見されてまもなくだったので、調査中で、広大な地域にロープを張り一般の私はロープで仕切られた道を歩き調査してる現場と、プレハブに展示された土器等を見ました。
邪馬台国に興味を持ったのはそれ以降でした。縁たは不思議で次の勤務地は大阪でしだ。奈良も管轄してました、当時奈良市で、ユニーの建設中に遺跡?らしき物が出て建設が遅れたとか、、

駄弁すいません。

纏向、箸墓から畿内説から距離を置きました。一部学者の愚業と今でも思ってます。

810 :キウス :2021/08/18(水) 21:23:33.04 .net
>>767
呼子の河太郎のイカは美味しいでした。
30数年前ほど前に行きました。
九州勤務の時です。
博多店にも行きましたが、呼子の風景もあいまい、美味しくいただきました。
今日採れたのイカを生簀からイカをそのまま提供いただきました。ゲソは天ぷらにしていただきました。女房と一緒にいただきました。良い思い出です。
港は穏やかで、大型船は別にして唐津の港より船が付き安い港だと思います。
昔の話です。その九州勤務の時、吉野ヶ里がニュースとなり、吉野ヶ里にも行きました。当時は発見されてまもなくだったので、調査中で、広大な地域にロープを張り一般の私はロープで仕切られた道を歩き調査してる現場と、プレハブに展示された土器等を見ました。
邪馬台国に興味を持ったのはそれ以降でした。縁たは不思議で次の勤務地は大阪でしだ。奈良も管轄してました、当時奈良市で、ユニーの建設中に遺跡?らしき物が出て建設が遅れたとか、、

駄弁すいません。

纏向、箸墓から畿内説から距離を置きました。一部学者の愚業と今でも思ってます。

811 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 21:26:49.35 .net
>>771
>まず第一に王墓である以上庶民の墓とは比べられない卓越墓であること
また、卑弥呼が共立された最初の倭王であることから、
倭国史上初レベルの卓越性が要求される
倭国内の諸地域での首長墓の発展系譜に対する位置づけも考慮の対象
それと、魏志倭人伝に卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步と明記されて
いるので、倭国の中でも径百歩クラスの巨大墳丘墓が対象になる
この程度でもう、奈良盆地南東部の古墳群以外はすべて候補から外れる

そんな事以前に、
「南≠東」や「卑弥呼の冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は北部九州」などの、
史料事実や史料実態に拠って、
奈良盆地南東部の古墳群は、全て候補から外れる。
勿論、「百余歩」は(短里で)25〜30mであるから、
大和の巨大前方後円墳は、全て候補から外れる。

812 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 21:29:23.79 .net
.






◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!





.

813 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 21:30:37.64 .net
捏造君に質問

知能テストって何ですか?

814 :キウス :2021/08/18(水) 21:36:03.53 .net
追記
九州勤務の時は、春日原に住んでました。
カスガバルと言います。原かバルと読みます。沖縄も管轄してましたが城はグスクと読みます。
古代?から続く文化圏の違いでしょう。

815 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 21:43:20.58 .net
>>813
反応するかどうかでしょう。
反応するかどうかのテスト

816 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 21:47:46.75 .net
>>796
前段は良いですが、そこから導いた
>纏向遺跡が初の大規模な遺跡
は???

817 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 22:02:53.76 .net
>>816
必要な水路、道路等のインフラ整備。
古墳が完成すれば、移動する。
箸墓は壹與時代に完成。
で不彌國にある塚から四国経由で
移動します。

818 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 22:07:02.74 .net
>>806
それは残念だね
だとすると、その時点でホケノ山クラス以上の大墳丘墓は
日本列島には他にも一つもないから、卑弥呼の墓はないってことだね

すごいね

恣意的な前提と編年でw

819 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 22:08:51.68 .net
>>815
そんな知能テストはない

やり直し

捏造君に質問

知能テストって何ですか?

820 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 22:10:28.73 .net
>>816
前段もデタラメだよ

王が王都以外(不彌國)に住むって、妄想にしてもおかしい

821 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 22:17:49.71 .net
>>818
>それは残念だね
>だとすると、その時点でホケノ山クラス以上の大墳丘墓は
>日本列島には他にも一つもないから、卑弥呼の墓はないってことだね
>すごいね
>恣意的な前提と編年でw

あるよ。
日本で唯一、大量の奴婢埋葬痕跡があるところ、高天原だ。
大量の奴婢埋葬痕跡がここしかないのだから卑弥呼の墓はここだ。
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg

822 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 22:20:08.81 .net
>恣意的な前提と編年でw

勝山出土の板材に紫外線による劣化がないということは、
葬儀のために新しく切り出されたという事。
つまり被葬者の没年とほぼ近い。
それが210年だ。
恣意的な前提と編年ではない。

823 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 22:30:01.17 .net
>>820
なんで邪馬壹國,女王之所都であり
女王国の都ではない。

824 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 22:41:11.05 .net
又、共立されたのは、卑弥呼であり邪馬壹國ではありません。
卑弥呼の死後、男王がたつが再び争います。邪馬壹國が支配する力がある
なら起こりません。壹與で又安定します。宗教的なもんかもしれません。

825 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 23:08:40.99 .net
>>794
>呉志の「翻」が「一日二百里の陸行をした」という説明を書いている。

説明ではなく、虞翻のセリフ
おおまかな訳だが
「私は日に三百里も歩け、吏卒は誰も私に及びません。孫策様が馬を速く走らせても、私はついていけます。」と答えている
つまり虞翻の足は、並ではなく相当なものということ

そして裴松之がここで引用しているのは韋曜の『吳書』
三國志吳書二十に韋曜傳がある

826 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 23:48:26.32 .net
>>822
なぜ、箸墓は寿墓でなければならないと言い、勝山は板材が葬儀のためと決めるのか?

恣意的な憶測でしょ?

827 :日本@名無史さん:2021/08/18(水) 23:58:26.85 .net
1日200里(偽書里80m✕200=16km)だったら時速2kmかそこらだから
高齢者の歩行速度だからな
虞翻も孫策に馬に乗ることを勧めないだろうw

828 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 00:53:35.63 .net
>>809 >>810
日本語が不自由過ぎる

829 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 01:44:04.41 .net
ベニバナの花粉の炭素年代は計測すべきだと思う。
ベニバナが日本に渡来したと言われる
五世紀?を覆す大発見になるかもしれない。
やれば良いのに、、、、

830 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 02:22:29.28 .net
>>829
お前が費用一切を負担すればできるかもよ

831 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 02:26:50.25 .net
>>829
泥の中に顕微鏡で検出したものを、どうやって抽出してタンデトロンにかけるんだ?

832 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 02:30:26.87 .net
>>826
>勝山は板材が葬儀のためと決めるのか?

現場をチェックした学者が、墳丘上で破砕祭祀が行われて一括投棄されたと状況判断したから

833 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 06:10:09.96 .net
>>830
一点につき15万円ぐらいだから10点で150万円で、炭素年代は測定できる。
予算化すれば良い。植物学会?も巻き込めば良い。募金なら協力してもいいよ

834 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 06:12:50.37 .net
ほとんど利用者のいない、纏向の建物の復元柱のトイレを比べれば安い物

835 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 06:17:20.05 .net
https://msp.c.yimg.jp/images/v2/FUTi93tXq405grZVGgDqG6XvCQslbo3cIEAXCjsazkWQACSwYqIuW-N3eY9zonbh-F_gHFTsEdU3spV6z6Suc49tKHtfp2_ypLXe2qmOiAB3RdGC9LV2RTOxOnXIMwAsXmKRalyqdqPcakmPjBwzXiN5b53OBMxB1fxDBN28XmfB76-ygl-KKR4GpIPp6cmHlUb4rq5KdTUg1YgMSfSYoH6x1u7PE3hFj1tQl9OenK0=/IMG_0006.jpg?errorImage=false

836 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 06:19:29.21 .net
https://msp.c.yimg.jp/images/v2/FUTi93tXq405grZVGgDqG17u70_2p2EJlvZsuDopx5Tm82-fy2xfuaKkpDpexn-_D_nsWftuFF_fAP17pbTI2DglE8yFuY5njeUMfg3LGEAeKzu8FG-PbPvvN3QElGp27M8wm2RDU82vmIFN1Pv4Rav6loq0IwlRsII83rP4YTonfiSoiN_NFznP_JMP0S5ckAAksGKiLlvjd3mPc6J24fhf4BxU7BHVN7KVes-krnOBcmY_NYddAWU7YIDeWLeNhCMMART10XB2GlT736NDkA==/IMG_0008.jpg?errorImage=false

837 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 06:28:21.86 .net
>>831
立命館大古気候学研究センター
や、民間でも花粉の炭素年代を測定できるので、そこで聞いてくれ

838 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 06:52:40.45 .net
畿内説の脳内では、デンプンの被膜が土中のバクテリアに分解されることなく炭化する謎世界の設定だからな

839 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 06:53:30.10 .net


布留ゼロ式土器の分布図まだか

840 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 07:00:26.13 .net
>>826
>なぜ、箸墓は寿墓でなければならないと言い、勝山は板材が葬儀のためと決めるのか?

卑弥呼が死んで慌てて完成まで10年の巨大古墳を作り始めるのは不自然。
その間、女王の御遺体を殯に服してたのかというアホな話になる。
後の大古墳が寿陵であるようし、卑弥呼墓が単独墓ならば、
墳丘はとっくに完成していて、埋葬部=墓ドコロ=冢(ちょう)を卑弥呼の死後に造ったしか考えられない。
殉葬もそうだが、魏志の記述を100%鵜呑みにするのではなく、
日本の習慣・文化を基本にで考えないと。

>恣意的な憶測でしょ?

勝山の板材は大量に破棄されているので葬儀の後に廃棄したというのが橿原考古学研究所の見解。

841 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 07:11:09.32 .net
>>817
>必要な水路、道路等のインフラ整備。
古墳が完成すれば、移動する。
箸墓は壹與時代に完成。
で不彌國にある塚から四国経由で移動します

「箸墓は壹與時代の完成」がバツです。
卑弥呼の冢の頃は勿論ですが、
3世紀第3四半世紀頃の壹與の墓である確率が非常に高い平原1号は、
前方後円墳の前駆状態であり、
前方後円墳の始まりは、那珂八幡などの3世紀後半半ば過ぎであり、
庄内1の石塚は3世紀末であり、庄内3のホケノは3世紀最末〜4世紀であり、
布留1の箸墓は、4世紀ですから。

842 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 07:26:21.89 .net
また百姓がボランティアで墓つくったという畿内説の与太話か

843 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 07:33:44.06 .net
>>822
>勝山出土の板材に紫外線による劣化がないということは、
葬儀のために新しく切り出されたという事。
つまり被葬者の没年とほぼ近い。それが210年だ。恣意的な前提と編年ではない

勝山は、通常では、石塚と箸墓の間位であり、だから3世紀末以後ですよ。
おそらく(年輪年代ではなく)AMS法を使ったんでしょうが、
AMS法では、プラズマ化の失敗により、50〜100年位新しい年次が出てしまいますから、
210年説はおそらくバツですよ。

844 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 07:51:11.65 .net
>>825
>>呉志の「翻」が「一日二百里の陸行をした」という説明を書いている。

>説明ではなく、虞翻のセリフ おおまかな訳だが
「私は日に三百里も歩け、吏卒は誰も私に及びません。孫策様が馬を速く走らせても、私はついていけます。」と答えている
つまり虞翻の足は、並ではなく相当なものということ

成程。しかし、「二百里」なら短里で15km余りであり、妥当だが、
「三百里」であれば22.5km余りであり、ぎりぎり。
長里では「二百里」で85km余りであり、1日では馬でもぎりぎりであり、
人間では無理。「三百里」では、全く無理。
つまり、短里例。

>そして裴松之がここで引用しているのは韋曜の『吳書』
三國志吳書二十に韋曜傳がある

成程。

845 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 08:08:16.82 .net
>>841
だよな
4世紀でかつ前方後円墳が箸墓
卑弥呼の墓と言ってる畿内説は末期的症状だな

846 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 08:29:07.42 .net
>>845
壹與の墓である確率が非常に高い平原1号
ザラコクの末期的症状

壹與が死んだ時期も定かではありません。

3世紀後半ですよ。

847 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 08:48:14.72 .net
布留1の出土場所はどこでしょうか?

848 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 09:03:11.06 .net
>>822
>勝山出土の板材に紫外線による劣化がないということは、
>葬儀のために新しく切り出されたという事。

紫外線による劣化がないことは、紫外線が当たっていないことしか意味しない
それを葬儀と結びつける理由がない

勝山古墳は既に削平状態で、周辺も含め強度の擾乱を受けており、出土物の
評価も単純には行かない

それらも含めて、恣意的な言い分でしかない

849 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 09:07:46.02 .net
>>840
>卑弥呼が死んで慌てて完成まで10年の巨大古墳を作り始めるのは不自然。

卑弥呼の死後も晋代に入るまで倭國からの遣使は続いている
卑弥呼の墓の様子が卑弥呼の死の直後にもたらされたとする理由はない
卑弥呼の径百歩の墓の造営にある程度時間がかかっても魏志倭人伝の記述と齟齬はない

>その間、女王の御遺体を殯に服してたのかというアホな話になる。

記紀にも長期間の殯は記録されている
アホとか言うやつは単にもの知らずだ

850 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 09:13:33.51 .net
>>840
>勝山の板材は大量に破棄されているので葬儀の後に廃棄したというのが橿原考古学研究所の見解。

それは初耳
葬儀に板材を使う場面が想定しがたいのだが?

板材ならむしろ巻向大溝との関係を見るべきでは?

851 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 09:18:10.98 .net
使者は、九州にある仮の塚を目たのであろう。
完成は三世紀後半 布留0式 、移動時期が400年前後 布留1式

852 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 09:19:19.11 .net
訂正、移動時期が300年前後 布留1式だな。

853 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 09:27:57.45 .net
>>850

今も昔も、大王の陵墓は山稜に造られる。  そもそも、奈良盆地など論外なのである。   @阿波

854 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 09:29:44.29 .net
>>846
>壹與の墓である確率が非常に高い平原1号

今も昔も、大王の陵墓は山稜に造られる。  そもそも、平原1号など論外なのである。   @阿波

855 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 09:54:46.98 .net
はい、トンデモはしばらく静かになるでしょう。  わははははは   @阿波

856 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:03:49.59 .net
>>838
>畿内説の脳内では、デンプンの被膜が土中のバクテリアに分解されることなく炭化する謎世界の設定だからな

自分が勝手に空想した「誰も言ってない話」を畿内説だとでっち上げては非難する
これ、マッチポンプの詐欺術だな

857 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:19:02.75 .net
>>850
>葬儀に板材を使う場面が想定しがたいのだが?

板材じゃなくて建材な
墓上に建物があった

858 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:24:20.05 .net
>>836

まあ普通だな

https://livejapan.com/ja/in-tokyo/in-pref-tokyo/in-shibuya/article-a0004674/
https://www.mirainoshitenclassic.com/2017/04/6arc.html
https://shibukichi.net/2021/07/16/sato_kashiwa_toilet/

859 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:27:36.43 .net
なんか微積思い出す 
箸墓     3世紀後半
那珂八幡   3世紀後半半
久里双水古墳 3世紀後半半半
X古墳    3世紀後半半半半
XX古墳    3世紀後半半半半半。
まあ、同時期だろう、大きさから、完成時期が違うのは認めますよ

860 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:28:36.55 .net
>>848
勝山古墳:築造時期は3世紀前半 卑弥呼の時代と一致 奈良[毎日新聞5月31日] (2001-05-31-00:04)
奈良県桜井市の勝山古墳から出土した木材の伐採時期が「紀元199年プラス12年以内」であることが、年輪の分析で分かった。
奈良文化財研究所と県立橿原考古学研究所が30日、発表した。3世紀後半とされてきた同古墳の築造年が、3世紀前半にさかのぼり、邪馬台国を都とした倭国女王、卑弥呼の時代に完全に重なるという。
同古墳を含む纒向古墳群を築造した勢力がヤマト政権の源流とされており卑弥呼時代との一致は邪馬台国大和説を支える第一級の資料といえる。
橿考研が今年1〜3月の発掘調査で、廃棄されたとみられる約200点の木材を同古墳の周濠跡で見つけた。古墳上での葬送儀礼の施設に使われた建築部材らしい。奈文研が、年輪から伐採年を調べる年輪年代法で、ヒノキ材5点を調べた結果、
うち外辺部が残っていた板材1点の伐採年を「199年プラス12年以内」と断定した。
木材に再利用の跡はない▽古墳祭祀に用いた木材は伐採後間もなく使用、廃棄されたと考えるのが常識的▽紫外線による劣化が切断面にない――ことなどから、橿考研は「古墳の築造時期は、伐採年に近い3世紀前半」とした

861 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:33:29.27 .net
>>860よ、そんなこといくら言い合っても、無駄。 

今も昔も、大王の陵墓は山稜に造られる。  そもそも、奈良盆地など論外なのである。   @阿波

862 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:37:19.14 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)




久 努 国 ( く の の く に )




久 努 国 ( く の の く に )




馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

863 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:38:52.01 .net
>>833

花粉の場合は50〜100 万粒で炭素年代測定にとっては微量みたいだな

http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=481970&f=.pdf

864 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:42:14.28 .net
>>849
>卑弥呼の死後も晋代に入るまで倭國からの遣使は続いている
>卑弥呼の墓の様子が卑弥呼の死の直後にもたらされたとする理由はない
>卑弥呼の径百歩の墓の造営にある程度時間がかかっても魏志倭人伝の記述と齟齬はない
>記紀にも長期間の殯は記録されている
>アホとか言うやつは単にもの知らずだ

造営に時間がかかるのは当たり前だが、通常の日本人の感覚として、
殯は早死にとか客死とか特殊な状況しかない。
朝敵の筑紫の君磐井の岩戸山や、武埴安彦の有力墓・椿井井大塚山も死後にあれほどの巨大墓を造り始めることは許されないであろうから、
寿陵であることを証明している。

ましてや卑弥呼の248年の死後直後から、また歴博の言う240年を採用しても70歳近くから造り始める動機はない。
さらに西殿塚も候補になるという君の意見にはあきれるしかない。
卑弥呼の死後、10年以上墓を造ることを忘れていて、突然「そういえば女王の墓を造ってないな」
「仕方がない、今から造ろうか」といったアホ集団がいたという事になるのか?

865 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:45:47.30 .net
>>861今も昔も、大王の陵墓は山稜に造られる。  

その通り。

>そもそも、奈良盆地など論外なのである。 

その通り、纏向古墳群など論外。
ただし高天原(=御所市高天 標高435

866 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:49:06.56 .net
>>864よ。 大王墓は山稜で質素。  平地の巨大墓は見栄っ張りの成り上がりもの。  勘違いすんな。   @阿波

867 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:50:00.81 .net
ただし高天原(=御所市高天 標高435m)は別

868 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:53:18.64 .net
>>866
>大王墓は山稜で質素。  平地の巨大墓は見栄っ張りの成り上がりもの。

>>864だがその通りだと思う。
墓の大きさより永眠場所が高地にある、それが王族墓の証拠。

869 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:53:38.34 .net
>>865
>ただし高天原(=御所市高天 標高435

御所市高天に、正一位 式内名神大社 「天石門別八倉比賣神社」が無い所は、的ハズレ。   @阿波

870 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 10:56:00.85 .net
平地の巨大墓は見栄っ張りの成り上がりものだから、大きさも向きも勝手バラバラ。 好き放題。   @阿波

871 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:06:51.03 .net
卑弥呼一族は、見栄っ張りの成り上がりもの。
 
其國本亦以男子爲王 57年、107年の王が正統(倭)
卑弥呼、壹與が正統から外れる(日本)

なので、旧唐書で、正統性が疑われる。

また併合にあたり統一と正統を照合させながら書き上げたのが記紀である。

872 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:09:46.77 .net
>>869
大量の奴婢埋葬痕跡はありません、残念w

873 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:12:18.58 .net
>>864
>卑弥呼の死後、10年以上墓を造ることを忘れていて、突然「そういえば女王の墓を造ってないな」
>「仕方がない、今から造ろうか」といったアホ集団がいたという事になるのか?

アホだと考えたい人にはアホという結論しか出せない
初期古墳の造営が権力継承のデモンストレーションだったという主流系の考えからは、何もおかしい点は無い

874 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:16:24.27 .net
>>873
だな。塚からバカでかい古墳の
移動も大イベントになる。

875 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:21:16.87 .net
>>870
>平地の巨大墓は見栄っ張りの成り上がりものだから、大きさも向きも勝手バラバラ。

巨大古墳のない泡には分からないだろうが、東田大塚古墳も箸墓も軸線が夏至の日の出の方角に一致してるよ

そして、その軸線上に東田大塚古墳だと竜王山、箸墓だと穴師山がある

876 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:22:37.37 .net
>>868

んなこたあない

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%A6%8F%E6%A8%A1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7

877 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:23:45.84 .net
>>873
>初期古墳の造営が権力継承のデモンストレーションだったという主流系の考えからは、何もおかしい点は無い

権力継承のデモンストレーションだったなら、西殿塚を卑弥呼墓だとして、
何で卑弥呼の死後10年近く経過して墓を造り始めるの?

878 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:26:30.29 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

879 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:29:39.35 .net
>>861
>・・・橿考研が今年1〜3月の発掘調査で、
廃棄されたとみられる約200点の木材を同古墳の周濠跡で見つけた。
古墳上での葬送儀礼の施設に使われた建築部材らしい。
奈文研が、年輪から伐採年を調べる年輪年代法で、ヒノキ材5点を調べた結果、
うち外辺部が残っていた板材1点の伐採年を「199年プラス12年以内」と断定した・・・

ふーん?、年輪年代か。
それじゃ、何度も説明したように、検体木と基準木との気候や地域的差異や日照時間や降水量の一致の保証がなく、
絶対的年代決定にはならないよ。

880 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:30:22.56 .net
>>876
前期古墳が山稜にあるという反論になっていない。

881 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:36:25.17 .net
>>876
タモさん風だな。

882 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:36:41.84 .net
>>879
ズリこき氏。
失礼、ズラ酷使。
失礼、ザラコク氏。

>絶対的年代決定にはならないよ

なるよ。
中塚武さんの樹木年輪セルロースの同位体比で光谷さんの年輪年代が正しいかどうか追試ができる。
ただし樹木の伐採から何年が経過してるとか、そんなことは分からない。

883 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:37:08.23 .net
>>880

山稜で質素な大王墓ってどれのこと?

884 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:39:20.19 .net
>>872
>大量の奴婢埋葬痕跡はありません、残念w

「殉葬奴婢百余人」は、気延山一帯が未掘古墳だらけであることから、気延山の卑弥呼円墳近くに、殉葬されたのであろう。   @阿波

885 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:39:47.24 .net
>>>860
精力的に書き込むのはいいが、結局はチェリーピッキングだな

プロの見解はこう
「纒向遺跡第122次(勝山古墳第4次)調査出土の加工材が年輪年代測定によって新しく見積もっても
西暦210年頃までには伐採されていたとの結果がでたことにより、勝山古墳の築造時期もこれに近いものと
する指摘も多いですが、理化学的分析では材の伐採年代は特定できても伐採から投棄までの時間の幅や、
これらの祭祀が築造段階のものなのか、あるいは後世の祭祀に伴うものかがはっきりしないという多くの
不安定材料を孕んだ資料での分析年代であり、木材の年代と築造年代は全く別に議論する必要があるでしょう。
出土土器からの年代については現状では纒向遺跡第102次(勝山古墳第1次)調査の落ち込み最下層の
土器をも含め、庄内式の古い段階から布留0式期までの幅の中で築造年代を考えるべきでしょう。」

『庄内式の古い段階から布留0式期までの幅の中で築造年代を考えるべき』

要は、そう簡単には決められないってこと

君の書き込みは、単なる想定からの断定が多い
椿井大塚山が埴安彦とか

纏向古墳群の被葬者推定に根拠が薄いと言いつつ、さらに薄い根拠しかない埴安彦を正しい前提で論立てする

恣意的だろ?

886 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:42:55.90 .net
>>883
天皇・皇子(名)          没年推定 陵墓名(記または紀)           陵墓の比定(阿波国内で本葬) 
10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)  365  山辺道勾岡の上              天河別神社3号墳(鳴門市大麻町)
11代垂仁天皇(イクメイリヒコ)  375  菅原の御立野の中             愛宕山古墳(板野町川端) 
12代景行天皇(オシロワケ)    385  山辺道の上                大代古墳(鳴門市大津町大代)
皇子・日本武尊(オウス)      380  白鳥御陵                 山ノ神古墳1号墳(石井町白鳥)
13代成務天皇(ワカタラシヒコ)  390  狭城盾列(池後)さきのたたなみいけじり  つきだめ池後方(大麻町姫田)
14代仲哀天皇(タラシナカツヒコ) 401  恵賀長江                 恵解山2号墳(徳島市八万町)
15代応神天皇(ホムタワケ)    425  恵賀の裳伏の岡              恵解山1号墳(徳島市八万町) 
16代仁徳天皇
17代履中天皇                                     渋野丸山古墳
18代反正天皇                                     観音山古墳

887 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:43:45.90 .net
初代神武天皇陵=徳島市丈六町秋葉神社(畝傍山の北東)
畝傍山=徳島市南部(渋野町・勝浦町・丈六町・多家良町・八多町・飯谷町)一帯の山塊
耳成山=中津峰山 徳島市と勝浦町との境界地
天の香具山=日の峯山(籠山かごやま) 海が間近の小松島市
橿原の宮=徳島市丈六町辺り
こういう地理的事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波

888 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:45:02.86 .net
土成町宮川内の奥に飛蔵山(ひそやま)という山がある。
飛蔵山は御祭神として第二十七代 安閑天皇を奉斎する吉野神社が古くから鎮座していたと伝わる。
吉野神社は神仏習合の時代に飛蔵宮(ひそみや)または蔵王権現と改称され、山伏をはじめとする修験道の一大霊場として栄えた。
近くに大別当、教連寺という字名が残されており、教連寺は蔵王権現の宮司であり大権別当は大宮司が居住していた場所であると考えられている。   @阿波

889 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:46:48.32 .net
亀山神社の付近一帯は古墳群となっていて、裏山には亀山天皇の御陵とも伝わる「阿王塚」があります。
阿王塚は円形の、盛り土ではなく石を積み上げた積石古墳。4世紀ごろの築造と推察されるこの古墳からは
画文帯神獣鏡が2面と、鉄刀や鉄鍬なども出土しています。   @阿波
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890 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:48:05.73 .net
古墳は灌漑・残土処理・祭祀を兼ね備えた施設で、当時は二毛作が無かったから、秋冬に暇な農民が作った。副葬品が少ないのはそのせい。

891 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:48:54.20 .net
>>885
だな。定期的な祭礼、儀式もあるから
新しい土器も出土する。

892 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:49:23.04 .net
少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には、
まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
初期の天皇陵は、山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。   @阿波

893 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:53:06.33 .net
>>883
https://userimg.teacup.com/userimg/9218.teacup.com/easiatoron/img/bbs/0000111.jpg

当時、皇族という呼び名はない。
王族(おうぞく)という呼び名もない。
王(きみ)大王(おおきみ)からもわかるように、
「きみ」の語源は「神」

卑弥呼や卑弥呼を生んだ一族は「神々」呼ばれていた。
神々はどこにいた?
高天原だろ。
だから卑弥呼の墓も高天原(御所市高天)にあるわけだ。

894 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 11:56:16.67 .net
>>893
御所市高天に、正一位 式内名神大社 「天石門別八倉比賣神社」が無い。  的ハズレ。   @阿波

895 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:01:14.18 .net
椿井大塚山は副葬品の破格の豪華さから考えても大王陵としか考えられんね

黒塚よりも1バージョン新しい三角縁があるから黒塚の次あたりの大王陵だよ

896 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:02:45.54 .net
>>885
>プロの見解はこう(以下略)

チェリーピッキングは君だが。

紫外線劣化がなく、木材の時代が判明したなら、210年以外に言いようがない。
しかも「庄内式の古い段階から布留0式期までの幅の中で」の
庄内式の古い段階なんだから、何で文句を言ってるのか分からない。

>椿井大塚山が埴安彦とか

これは有力だが。
地域的にもそうだし、崇神に対抗しうる人物としてふさわしい。

卑弥呼墓=箸墓、西殿塚の方がよほど根拠が薄いのだが。

897 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:05:45.26 .net
>>877
>権力継承のデモンストレーションだったなら、西殿塚を卑弥呼墓だとして、
>何で卑弥呼の死後10年近く経過して墓を造り始めるの?

そんなことを主張した事実はない

898 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:23:09.08 .net
上の方で西殿塚がヒミコ墓でも構わないと言ってなかったけ?
調べるのめんどくさいけど。

899 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:30:14.68 .net
>>895
>椿井大塚山は副葬品の破格の豪華さから考えても大王陵としか考えられんね

その豪華な水銀朱などの副葬品、「阿波」の専売特許品ばかりなんだけどw   @阿波

900 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:39:39.66 .net
>>877
>権利よく継承のデモンストレーションだったなら、西殿塚を卑弥呼墓だとして、
>何で卑弥呼の死後10年近くして墓を造り始めるの?

それ、捏造君の捏造に振り回された無意味な揚げ足取り

もともと、

901 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:43:45.58 .net
>>877
>権力継承のデモンストレーションだったなら、西殿塚を卑弥呼墓だとして、
>何で卑弥呼の死後10年近くして墓を造り始めるの?

それ、捏造君の捏造に振り回された無意味な揚げ足取り

もともと、現在の編年が九州説のいちゃもん通りに間違っていて、箸墓が卑弥呼の墓ではないとなっても、問題ない、というだけ

現在の編年より新しくなれば、箸墓より前の墓が卑弥呼の墓の候補になるだけで、古くなれば箸墓より後の西殿塚他が候補になるだけ

批判に意味がない

902 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:47:53.51 .net
>>899
奈良 宇陀
三重 丹生もよろしく

903 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:48:50.71 .net
>>901
>現在の編年より新しくなれば、箸墓より前の墓が卑弥呼の墓の候補になるだけで、古くなれば箸墓より後の西殿塚他が候補になるだけ

辛うじて円墳部分が魏志倭人伝の卑弥呼墓の大きさに一致するからこそ箸墓が候補なのに、
箸墓の前後の古墳なら大きさが全然違うのだから卑弥呼墓候補になるわけないだろ。

>批判に意味がない

というわけで、わしの批判に意味がある。

904 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:50:05.23 .net
まーだやってらっしゃるのか




卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)





ハイ終了

解散!

905 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:52:14.66 .net
>>896
これを君にも言わなきゃいけないのか

頭悪いんじゃないのか?

>紫外線劣化がなく、木材の時代が判明したなら、210年以外に言いようがない。

それはあくまで「木材の年代」であって、古墳造営や葬送儀礼の時期の特定には繋がらないってこと

>しかも「庄内式の古い段階から布留0式期までの幅の中で」の
>庄内式の古い段階なんだから、何で文句を言ってるのか分からない。

幅の中に入ってるじゃなくて、幅の中のピンポイントだと妄信して
ピンポイントの年代をもとに否定の論立てをしているから
チェリーピッカーなんだよ

理解できたか?

906 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 12:52:36.22 .net
>>902
でもなぁ、たとえ山に「丹」鉱脈が有っても、採取していなければ只の山だからなぁ。   @阿波

907 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 13:02:23.90 .net
>>905
>それはあくまで「木材の年代」であって、古墳造営や葬送儀礼の時期の特定には繋がらないってこと

大量の木材が勝山の葬送儀礼につかわれたのは間違いない、
その木材に紫外線劣化がないという事は、
切り出してすぐに葬送儀礼に使われたという事、
それは当たり前で、葬送儀礼にケチって古材を使うわけもなかろうし。

つまり勝山古墳被葬者は210年ごろで間違いはない。
物部のヒコユキあたりではないかと思うが。

908 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 13:34:08.50 .net
>>898
>上の方で西殿塚がヒミコ墓でも構わないと言ってなかったけ?

年代が合うなら構わないってだけだ
ニセの畿内説を捏造して罵っても、それって反論じゃないぞ

909 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 13:39:56.29 .net
本当の畿内説はもう消えたもんな

910 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 13:42:01.73 .net
>>907
>大量の木材が勝山の葬送儀礼につかわれたのは間違いない、

ここからしてまず想像の域を出ない
プロはそんなこと言っていない

前にも書いたが、勝山は墳丘が削平状態にある
そこで木材を使ったどんな葬送儀礼が行われたのか、
復元しようがないし、想定すらされていない

それに紫外線劣化がないのは割れ口で、板材全体に
紫外線劣化がなかったとは書いてないぞ

土蜘蛛の3文字から、殉葬を確定事項のようにいう
どこぞの爺の同類だなw

チェリーピッカーと言ったが、それ以前の問題だ

911 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 13:49:10.78 .net
>>890
古墳よりも灌漑された農地が時代の成果ということですね
そういう見方がいずれ拡がると思います

912 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 14:22:03.64 .net
>>890

>古墳は灌漑・残土処理・祭祀を兼ね備えた施設で



>>911

>古墳よりも灌漑された農地が時代の成果ということですね

>そういう見方がいずれ拡がると思います



その考えは間違っているので広がることもない



残土処理なんてある訳ないだろ?

土壌流亡soil erosionって聞いたことないか?

表土は植物(作物)が育つのに必要で、失われたらなかなか取り返しがつかない
わざわざその土を墳丘盛土に使って、新しい農地ができましたなんて話にはならない



古墳造営によって大規模土木技術が発展し、大きな溜池を作ったり大きい河川の流れをコントロールできるようになって、それで農地が拡大した、というのが正しい

913 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 14:26:04.15 .net
>>910
>プロはそんなこと言っていない

プロが言ってるんだ、ごまかすな。

>想定すらされていない

されてるんだ、ごまかすな。

>それに紫外線劣化がないのは割れ口で、板材全体に
紫外線劣化がなかったとは書いてないぞ

そのソースは?

こいつ、相変わらず最低だわ。

914 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 14:31:08.07 .net
>>912
どう意見だな。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejhsce/74/1/74_1/_pdf/-char/ja

915 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 14:53:55.31 .net
>>914
その論文の筆者の
「被葬者の富と権力を誇示する目的のために用地の地形条件が最優先された」
という考えは、あなたの主張と相容れないと思うよ

916 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 14:56:15.66 .net
.






日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに木骨泥墻が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出して
土壁の住居の時代に入っていた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では7000年前に高床式住居も登場するが、先行した木骨泥墻に
吸収されて5000年前までに消滅し、4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。





.

917 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:12:35.64 .net
>>907
210年と仮定すると
武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
鉄製甲冑1領が、工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出

九州説 お得意の毎度の鉄出土分布図データ
大きく書き換える必要が出てくるね

918 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:21:58.31 .net
>>917
続き
椿井大塚山古墳についてです。

919 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:27:09.73 .net
正統な九州邪馬台倭国説と比較して
ハッタリで成立している畿生虫内説は通用しなくなった昨今。

920 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:30:12.45 .net
>>914
>どう意見だな

どこが?

「土木史学的に見た古墳築造の合理性と変化」西村勝弘
「同じく坊の塚古墳の場合において、墳丘と周濠をモデル化して双方の度量計算を試みたところ土工量はがほぼ等しくなり、盛り土のすべてを周濠の規律地によって賄うという、合理的な土砂採取・運搬の工法が試算された」

お前が言っているのは、「開拓目的の残土で古墳を作った」
西村先生の言っているのは、「周濠が墳丘の土取り跡」

残土なんてどこからも出てないし持ってきていないし、
新しい農地もできてないぞ

921 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:31:41.99 .net
>>918
おいおい、大量の水銀朱わざと抜かしたな?  

椿井大塚山古墳も、古墳構造や水銀朱・鉄器などの副葬品から、「忌部一族(阿波勢力)」のお墓だと一発で分かる。   @阿波

922 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:37:46.01 .net
>>913
>そのソースは?

>>860 でお前が引用した毎日新聞の記事に
「▽紫外線による劣化が切断面にない――」って書いてあるぞ

>プロが言ってるんだ、ごまかすな。

どこのプロだ?
そのソースは?
まさか、新聞記事なのか?

923 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:39:03.53 .net
忌部氏と、
天皇家、
どっちが格上ですか?
阿波さん

924 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:39:54.36 .net
祭祀家と、
呪術家の
違いかな

925 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:40:25.31 .net
>>914
>どう意見だな

どこが?

「土木歯学的に見た古墳築造の合理性と変化」西村勝弘
「同じく坊の塚古墳の場合において、墳丘と周濠をモデル化して双方の土量計算を試みたところ土工量はがほぼ等しくなり、盛り土のすべてを周濠の切り土によって賄うという、合理的な土砂採取・運搬の工法が試算された」

お前が言っているのは、「開拓目的の残土で古墳を作った」
西村先生の言っているのは、「周濠が墳丘の土取り跡」

残土なんてどこからも出てないし持ってきていないし、
新しい農地もできてないぞ

926 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:43:59.65 .net
じゃあ泡と>>918で、埴安彦が泡かどうか議論してくれ

確認不能な記紀の人物名なんてどうしようもないぞ

927 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 15:52:32.57 .net
>>923
どちらも「忌部一族(阿波勢力)」。

「忌部一族(阿波勢力)」とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の衰退した忌部氏(斎部)ではない。
倭人とは「忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
みんな元を辿れば全部、「忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族(阿波勢力)」。   
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。   @阿波

928 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 16:38:37.98 .net
>>925
お前が言っているのは、「開拓目的の残土で古墳を作った」
そんなこと書いていないよ。

929 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 16:45:38.91 .net
890、911は別な人物
俺は
「被葬者の富と権力を誇示する目的のために用地の地形条件が最優先された」
だ。

930 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 17:17:24.68 .net
>>929
済まん、読み違えた

>>914は、>>912に同意なんだね

了解&お詫びします

931 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 17:17:46.15 .net
じゃあ、
なんで、忌、部なんですかね
己の心、すなわち、
神心をもってるという、
ことかな
阿波さんへ

932 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 17:19:43.64 .net
それと、
蘇我の
馬子、
入鹿、
蝦夷
は、何者ですか?
阿波さんへ

933 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 17:28:01.87 .net
>>932
「忌部一族(阿波勢力)」の蘇我一派。  本拠地は、徳島県石井町周辺。   @阿波

934 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 17:31:38.77 .net
「倭国(阿波)国内 「忌部一族(阿波勢力)」主要氏族の本貫地」   @阿波

物部氏(後の忌部氏か) :: 旧麻植地域
葛城氏 : 鳴門北灘地域  
中臣氏 : 板野地域  
蘇我氏 : 石井地域   

935 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 17:46:05.66 .net
キ印は相手にする価値ないよ

936 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 17:47:03.08 .net
>>930
いいえ、こちらこそ
書き方に不手際が当方にあったと
同時に感じました。

937 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:05:00.05 .net
>>935
でもなぁ、放置したら放置したで、図に乗るからなぁ

適宜叩くようにしてるんだがキリがない

938 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:05:00.13 .net
>>935
でもなぁ、放置したら放置したで、図に乗るからなぁ

適宜叩くようにしてるんだがキリがない

939 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:12:17.71 .net
>>890
季節により、副葬品が変わる?
そんな馬鹿な?

940 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:19:12.70 .net
>>909
纏向や箸墓を支持しない畿内説学者もいる事をお忘れ無く。
先輩を立てんが為、我慢してる学者もいる事をお忘れ無く

941 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:24:02.07 .net
学者と言われる人で、考古学者が底辺?
一番手早く学者になれそう。
だから、考古学者が言ったは信用しないで、自分なりに検証することが大事だな?

942 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:26:20.73 .net
>>940
そういう、一人でも反対してたら定説じゃない、みたいなの止めーや

バカに見えるぞ

943 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:29:25.43 .net
>>932
ヨコからその一族は渡来人、倭人と渡来が作ったのがヤマト王権
天皇制はもっと構成

944 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:34:59.35 .net
>>916
結論が今いち
渡来と定住との違いは?

945 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:35:56.73 .net
>>941
>一番手早く学者になれそう

考古学者はそもそも席(ポスト)が少ないからむしろ大変だと思うよ

946 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:37:17.49 .net
>>943
訂正
◎後世

947 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:42:57.13 .net
>>922
>「▽紫外線による劣化が切断面にない――」って書いてあるぞ

そりゃ年輪の話なんで切断面だろうが。
それがどうした。

>どこのプロだ?
>そのソースは?
>まさか、新聞記事なのか?

橿考研、奈文研の話として載ってるだろ。
橿考研、奈文研はプロじゃないのか。

948 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:47:49.50 .net
というわけで、元々、箸墓の円墳部が150mだから卑弥呼墓であろうという、
単純な浅知恵が根拠の纏向説。
時代がずれると箸墓以外は大きさが全く合わないので、箸墓前後の墳墓が卑弥呼墓なんてトンデモない。
西殿、勝山、ホケノヤマ、ことごとく大きさが合わない。

ボンクラの>>1は猛省しなさい。

949 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:49:37.07 .net
>>945
いや、ポストなんて関係無い、
学者は中身だから、、民間に勤めても学者はいる。
他の学問は相当長い年月の研究や知識の蓄積が必要があるが、

950 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:54:31.64 .net
>>949
手柄は調査団のボス(教授)のもんだよ
ポストが空いてないとなれない

951 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 18:54:41.17 .net
>>947
研究機関で、断定する機関では無い。
公表についても事実は公表するが、あとは感想。私見。逃げ道は作ってるよ。
マスコミ誘導的な発言もあるが、逃げ道は作っている。

952 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:02:34.65 .net
>>950
しかり、
だから学問にあってはいけない、
上位下達がはびこる。それで育つから同じ事の繰り返し。
上位の論に反論でもしようなら、そこでお終い。

953 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:03:55.90 .net
>>951
じゃ歴博の箸墓240〜260年も同じくだな。

954 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:05:58.57 .net
考古学をやるなら関西の大学が良いよ。
関学、同志社がお勧め、考古学に関する公的機関の就職枠を持ってるから

955 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:08:00.24 .net
>紫外線による劣化が切断面にない



>紫外線劣化がないのは割れ口で、板材全体に
>紫外線劣化がなかったとは書いてないぞ

と自分に都合よいように捏造。

>>1がいかに卑劣な男かわかるよね。

956 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:08:40.49 .net
>>954
>考古学をやるなら関西の大学が良いよ。

発掘をやるなら、「阿波」が良いよ。  ここ掘れわんわん状態の「阿波」だから。   @阿波

957 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:10:17.43 .net
>>954です

ただし、日本の考古学に限ります。

958 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:12:09.51 .net
>>951
証拠は

959 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:13:18.93 .net
考古学の話は考古学板でやれ。
ここは日本史板。

文献と考古のすり合わせをしたら、
纏向古墳群が物部の墓だと分かる。

>>1のような考古バカは文献と考古のすり合わせができない。
バカだからだ。

960 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:24:59.81 .net
>>958
纏向学研究センターのホームページや
橿考、桜井市教委の公表、調査報告書に
纏向は邪馬台国の王都とか箸墓は卑弥呼の、墓とか断定した文書はありません。
纏向学研究センターにいたっては、所長が寺澤氏だが、
注目されているぐらいの説明かな??卑弥呼すら出てこないのでは?

961 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:39:22.75 .net
>>884
>「殉葬奴婢百余人」は、気延山一帯が未掘古墳だらけであることから、気延山の卑弥呼円墳近くに、殉葬されたのであろう。

奴婢は古墳には埋葬されません、残念。
平民より地位が上の奴婢なんていませんからね。

962 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:49:53.83 .net
当然、
蘇我氏には、
何故、
そのような、反国のような一派が
あらわれたのかという、
疑問を持ちます。
蘇我氏全体、また、
現在の、蘇我氏全員が、
悪なのかという疑問を持ちます。
千葉県に、
蘇我市という地がありますが。

963 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:49:57.54 .net
>>947
>橿考研、奈文研

いや、お前の言葉じゃなくて、一次ソース
まさか、新聞記事だけなのか?

>年輪の話なんだから切断面だろうが

わざわざ「切断面」とあって、「表面」とはしていない

板材の表面には紫外線劣化があり、板材を折るなり切るなりした断面には劣化がないという書き方

つまり、板材に加工した後、折損まで時間がある表現になってる

>>907でのお前の決めつけと、一致しない
>切り出してすぐ葬送儀礼に使われた
というのとは様態が異なる

964 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:51:35.84 .net
>>948
>箸墓の円墳部が150mだから卑弥呼墓であろうという

そんなことは言っていない
倭王で径百歩(正確とは誰も言っていない)とされる他にはない巨大墓が候補になるだけ

墳丘サイズの点では西殿塚でも東田大塚でも構わない
あとは、編年次第というところもある

965 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:55:53.61 .net
>>962
そりゃ、神道をないがしろにして、仏教を推し進めたからだろ?   @阿波

966 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 19:58:23.23 .net
>>949
いやいや、民間になんて余計に考古学で食べていける席はないよ?

ただの素人の趣味は学者とは言わない

967 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:03:35.64 .net
神道無視、仏教礼讃は、
乱国にする目的ですか?
一応、蘇我氏は忌部氏なんですよね?

それと、源平藤橘紀など、
肌の色が、
はっきり違いがあると思います。
源氏はK、平氏は白、藤原はどうだろう?橘氏は、特に肌色、など。
ここまで明らかに違うと、
五色人、六色人の違いですかね。

968 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:06:52.12 .net
偽史倭人伝ねw

969 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:08:18.81 .net
>>967
>一応、蘇我氏は忌部氏なんですよね?

違う。 「忌部一族(阿波勢力)」の蘇我一派だ。 忌部氏は物部氏の生き残りだろう。   @阿波

970 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:16:09.57 .net
>>967
>一応、蘇我氏は忌部氏なんですよね?

違う。 「忌部一族(阿波勢力)」の蘇我一派だ。 忌部氏は物部氏の生き残りだろう。   

こういうことをサラッと言えるのは、「阿波」だけ。   @阿波

971 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:29:35.77 .net
>>883
>中塚武さんの樹木年輪セルロースの同位体比で光谷さんの年輪年代が正しいかどうか追試ができる。

中塚の「樹木年輪セルロースの同位体比」というものの内容はよく知らんが、
「樹木年輪セルロースの同位体比」と言うんなら、
年輪年代の、(基準木との比較ではなく)
検体樹木に関する「樹木年輪セルロースの同位体比」を計測しているんだろうから、
それでは、単なる「年輪年代」計測と同じ事をしているんであろうし、
やはり、基準木と検体木との、
生育環境や気温や降水量や日照時間などの同一性や近似性が保証出来ず、
欠陥「追試」にしかならんだろうなあ。

>ただし樹木の伐採から何年が経過してるとか、そんなことは分からない

それも、年輪年代の時にも発生していた事。

972 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:35:54.58 .net
>>885
>「纒向遺跡第122次(勝山古墳第4次)調査出土の加工材が年輪年代測定によって新しく見積もっても
西暦210年頃までには伐採されていたとの結果がでたことにより、勝山古墳の築造時期もこれに近いものと
する指摘も多いですが、理化学的分析では材の伐採年代は特定できても伐採から投棄までの時間の幅や、
これらの祭祀が築造段階のものなのか、あるいは後世の祭祀に伴うものかがはっきりしないという多くの
不安定材料を孕んだ資料での分析年代であり、木材の年代と築造年代は全く別に議論する必要があるでしょう。
出土土器からの年代については現状では纒向遺跡第102次(勝山古墳第1次)調査の落ち込み最下層の
土器をも含め、庄内式の古い段階から布留0式期までの幅の中で築造年代を考えるべきでしょう。」

成程。光谷の年輪年代法でも、殆ど同じ事が言えそうだな。

973 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:44:45.08 .net
次スレ
邪馬台国畿内説 Part717
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629372901/

974 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:46:51.59 .net
>>907
>大量の木材が勝山の葬送儀礼につかわれたのは間違いない、
その木材に紫外線劣化がないという事は、
切り出してすぐに葬送儀礼に使われたという事、
それは当たり前で、葬送儀礼にケチって古材を使うわけもなかろうし。
つまり勝山古墳被葬者は210年ごろで間違いはな

ダメだよ。
「冢≠前方後円墳」で、前方後円墳の方が冢の進化型であるから、
勝山は、卑弥呼の冢よりも、50年位後だな。

975 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:52:56.48 .net
>>917
>210年と仮定すると・・・

仮定じゃダメだな。

976 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 20:59:16.89 .net
なぜ、
忌部一族の中から、
蘇我氏の中の悪い一派が
出てきたんですかね?
阿波さんへ

977 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:00:46.46 .net
>庄内式の古い段階から布留0式期までの幅の中で築造年代を考えるべきでしょう。

それなら「2世紀末・3世紀初頭から4世紀です」という事になり、そんなざっくりした話をしても意味はないだろ。

978 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:05:30.06 .net
>>975
やっぱり変と思いながら
210年と仮定すると書いたけど

珍しいなザラコク爺
見解が同じだ(阿波爺は、毎度のお国自慢)
大丈夫か?

979 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:06:56.45 .net
>>964
それなら
>これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

という>>1はアホということでいいな。
>>1にアホーと言ってやれ。

980 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:12:53.99 .net
>>917
未調査の勝山古墳になんでそんなに出土物があるの?

ホケノ山と勘違いしてないか。
もっともホケノヤマの建造開始は纏向石塚の次だから、
勝山より古いが。

981 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:14:41.64 .net
佐藤洋一郎氏のDNA分析によると稲の源郷は長江下流の江南地方で、その伝達経路は中国から日本への直接ルートとされている
稲作が弥生時代に朝鮮半島から伝わったという従来の説は見直されることになる

982 ::2021/08/19(木) 21:17:49.88 .net
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1629372901/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

983 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:27:18.66 .net
>>976
>蘇我氏の中の悪い一派が

なんやそれ?   @阿波

984 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:35:53.73 .net
蘇我は葛城氏と同根だろう。
根拠は馬子が葛城県が蘇我の本貫だと述べている事、
葛城円(つぶら)の娘・韓媛と蘇我韓子が同じ雄略の時代を生きている事、
つまり韓媛・韓子(彦)という葛城地域のヒメヒコであった可能性が高いことなど。

985 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:37:15.22 .net
蘇我氏が忌部一族というから、
忌部一族には悪い一族が
いなかったんじゃないかなと思って。
元より、忌部阿波一族には、
蘇我氏っていう、
悪い一族がいたんですか?
阿波さんへ

986 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:52:09.11 .net
物部一派もいるよ。 中臣一派もな。 なかには悪いヤツもいるだろうさ。   @阿波

987 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:52:33.37 .net
「日本古代朱の研究」             市毛 勲
徳島県若杉山辰砂鉱山遺跡の発見で弥生時代後期から古墳時代初めにかけて、
本邦産辰砂は少なくとも西日本各地域に搬出されていた状況が推察できた。
これによって「魏志東夷伝」倭人の条記載の「其山有丹」が証明され、さらには
「卑彌呼」が献上した品物の「丹」が本邦産辰砂である点も明らかになった。   @阿波
Gaiyo-5395 (14).pdf

988 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 21:58:26.48 .net
>蘇我氏っていう、悪い一族

蘇我の何が悪いのだろ。
蘇我は葛城円が雄略に焼き殺された眉輪王の変以降、
その復讐が目的であるかのように台頭してきた。
そして日本の歴史上で唯一、天皇を暗殺する。

989 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:04:10.03 .net
>>988
>そして日本の歴史上で唯一、天皇を暗殺する。

それも、「阿波」での話だ。   @阿波

990 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:13:06.58 .net
>>963
>いや、お前の言葉じゃなくて、一次ソース
まさか、新聞記事だけなのか?

奈文研の光谷さんが発表してたわ、面倒くさいので自分で調べろ。

>わざわざ「切断面」とあって、「表面」とはしていない

あほか。
切断面も表面も年輪が数えられる部分という意味だろ。

>切り出してすぐ葬送儀礼に使われた
というのとは様態が異なる

以上、全然異なわない。

991 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:15:38.58 .net
阿波さんへ
菅義偉が、
蘇我義偉と、
睨んでます。

992 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:16:35.43 .net
このアホは「切断面」と「表面」は別だと思ってるんだ。

年輪が計測できる部分は当然、切断面でもあり表面でもある。

993 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:23:06.81 .net
阿波さんへ

忌部阿波一族は、
遡れば、
ユダヤ12,13部族に行き着くのですか?

994 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:23:09.80 .net
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/245/1/BA67898227_2002_016_017.pdf

はじめに 2001年に奈良県立橿原考古学研究所によって
おこなわれた勝山古墳第 4次調査の第 l調査区のくびれ
部付近周濠埋土内から多くの材tが出土した1)。これらは、
墳丘側から一括投棄された状況で出土したもので、おも
に柱材や板材の断片である。これらの中からヒノキ材で、
年輪が100層以上あると思われるものを 4点選定した。
これ以外に、第 2次調査(1998年度)で出土したヒノキ
の柱根 1点を加え、総数 5点について年代測定をおこな
った。以下にその概略を報告する。

995 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:26:00.29 .net
>>980
仮定つけてみたが
なんか変だな思いつつ
埴安彦がでてきたんで
椿井大塚山古墳となっている。

纒向勝山古墳 3世紀前期-後期

996 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:26:54.23 .net
阿波さんへ

多重人格障害は、
精神分裂症が原因ですか?

997 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:34:12.60 .net
曽我氏は百済人

998 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:45:28.47 .net
>椿井大塚山古墳

おもしろいものが出る。
日本で十数点しか出ない小札革綴冑。
武埴安彦の母方の祖父・河内の青玉繁の一族の墳墓・玉手山古墳群からも小札革綴冑が出る。
時期的に河内の青玉繁は266年のトヨの朝貢団の一人であった可能性が高い。
小札革綴冑はおじいちゃんから可愛い孫へのプレゼントであったのだろう。
その玉手山古墳群は崇神の時代に消滅する。
反乱者を出した一族が没落したという事であろう。

999 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:56:55.93 .net
>>998
天皇に討伐された者にしては
古墳の規模が大きく副葬品も超一級品

玉手山古墳群は崇神の時代に消滅なのに
武埴安彦の母方の祖父・河内の青玉繁の一族の墳墓・玉手山古墳群からも小札革綴冑が出る。
とわけがわからん。

椿井大塚山古墳は、埴安彦と関係ないよ

1000 :日本@名無史さん:2021/08/19(木) 22:58:14.88 .net
上げ

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