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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
- 394 :日本@名無史さん:2022/12/03(土) 20:10:57.34 ID:kqhId1SG9
- 弥生時代中期になりますと、集落が広域に連携するク二が形成されるようになるそうです。
背景としては、気温の温暖化で農産物の収穫が増加するようになり、さらに増産を計るための可耕地の争奪が始まり、
この過程で集落の広域連合が進み、ク二が形成されるようになったとみられているようです。
こうした流れの典型とされます吉野ヶ里遺跡は、佐賀平野の中部地域の広域連合の盟主であったようです。
この弥生中期の吉野ヶ里の甕棺では、少女の人骨に9個のゴホウラ貝などの腕輪が付けられているものがみつかっています。
ゴホウラ貝腕輪は前期のうちに北部九州で用いられるようになりますが、
中期になりますと多数のゴホウラ貝腕輪の装着がみられるようになるようです。
広域のク二の成立により、広域連合の元首としてのシャーマンの威信財としてのゴホウラ貝腕輪の需要が高まったた結果だと思われます。
こうしたことをみますと、吉武高木遺跡は前期末から中期初頭の集落ですので、
広域連合のク二が成立する前の時代の個別的な集落だったということになります。
この時期の吉武高木集落のシャーマンには、まだ多数のゴホウラ貝腕は求められていなかったということでしょうね。
吉武遺跡群の調査報告書では腕輪の出土があったとされていますが、それがゴホウラ貝腕輪だったのかどうかはっきりしません。
ゴホウラ貝腕輪の出土に関する一覧表では、吉武遺跡は記載されていません。
こうしたことからしますと、吉武高木遺跡は広域連合のク二の盟主ではなく、他の近隣の集落に影響力は持っていたとしても単体としての集落であり、
その単体集落の元首である高木のシャーマンはゴホウラ貝腕輪を威信財としていなかったということなのかも知れませんね。
その後、北部九州で集落の広域連合化が始まり、吉武高木遺跡の集落は消滅していくのだと思います。
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