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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:26.08 .net
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は別々です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

『自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國』
女王国を含む、それより北の国々については、一人の大率を特設して検察していました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
大率は普段は伊都國で執務していました。

三国志における「治」は、管轄域の中の中心地、つまり首都や県庁所在地に中心役所を設置する、の意味で使われていますので、
大率が伊都國に治している=伊都國が邪馬台国の首都、であります。

2 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:13:54.58 .net
三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。

うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。

☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣ィ如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵〜公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた

★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた

3 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:14:17.56 .net
三国志に出てくる「統属」は6か所。

「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。

☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)

☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。

☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
 
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。

☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督〜前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。

4 :卑弥呼は伊都國で治す:2022/04/30(土) 08:16:05.72 .net
以上テンプレです。

ゴールデンウイークにて特別復活しました。
類似スレは現在ありません。

文献あるいは考古学的根拠をもとに、正々堂々と議論してください。


邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603107979/l50
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/l50

5 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:23:29.82 .net
三国志に出てくる「統属」は6か所。

「A統属B」は全て、
一)"元々別所属"のAとBが、
二)新たな所属変化に伴う"人事異動"によって、
三)AがBの「直接の部下」になる、の意味。

☆州幷属冀州更拜議郎西部都督従事 統屬冀州 <吸収合併>
梁習は幷州の刺史だったが、
幷州が冀州に「併合」されて幷州刺史の職も無くなったため、
議郎・西部都督従事の肩書を新たに拝命して、冀州に統属された。
(後年、文帝が幷州を復活すると、梁習は再び幷州の刺史となった)

☆仍就故任 統屬長沙守韓玄 <直接の部下><領土の一部>
黄忠は、荊州牧・劉表の配下で荊州長沙郡の攸県を守備していた。
曹操が荊州の新支配者となったが、黄忠にそのまま攸県守備を続けさせ、
長沙郡太守・韓玄の下に統属させた。

☆移屯江州留護軍陳到駐永安 皆統屬嚴 <直接の部下><領土の一部>
孔明が漢中へ出陣し、その留守中に
蜀を守る前将軍(職名)の李厳は、駐屯地を永安から江州に移した。
永安白帝城は護軍の陳到に担当させ、李厳配下に統属した。
李厳は護軍から出世を重ねて前将軍になっており、護軍陳到は前将軍李厳の直接配下に入った。
江州も永安も同じ益州巴郡内で、管轄地としても陳到は李厳の一部である。
 
☆王沖者廣漢人也爲牙門将 統屬江州督李嚴 <直接の部下>
王沖は牙門将となって、李嚴の配下になった。

☆士仁字君義廣陽人也爲將軍住公安 統屬関羽 <直接の部下><領土の一部>
士仁は将軍となって公安に駐屯し、関羽(荊州軍事総督〜前将軍)の配下となった。
管轄地としても関羽直接管轄域の一部。

6 :贅六征伐:2022/04/30(土) 08:25:09.16 .net
>>1
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贅六シナチョンwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
贅六死ねバーカ

7 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:34:26.50 .net
後漢書において、
「河內郡十八城 戶十五萬九千七百七十 口八十萬一千五百五十八
 朝歌 紂所都」
河內郡は十五萬戸で〜
(河內郡の)朝歌は(周の)紂王が都とする所である。

「京兆尹十城 戶五萬三千二百九十九,口二十八萬五千五百七十四
 長安 高帝所都」
京兆郡は五万戸で〜
長安は(漢の高祖)劉邦が都とする所である。

「潁川郡十七城戶二十六萬三千四百四十 口百四十三萬六千五百一十三
 陽翟 禹所都」
潁川郡は二十六萬戸で〜
(潁川郡の郡治である)陽翟は(夏の)禹帝が都とした所である。

自治体名+都市名+皇帝・王+所都は、
自治体の中で、都市は、皇帝や王が首都とした所である、という意味だな。

「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」は、
前の邪馬壹國は、南至邪馬壹國の目的語として活用されているから、
文法としては一度切れる。

南至邪馬壹國 (伊都國)女王之所都 水行十日陸行一月(日)
として、投馬國から南に進むと邪馬壹國に至る。

里程部分において、邪馬壹國の首都は伊都國であると「到」で明記されているから、
邪馬壹國の中で、女王の都とする所(である伊都國)は、投馬國から水行十日陸行一月である、だな。

邪馬壹國は七萬戸で〜
(邪馬壹國の首都である)伊都國は女王卑弥呼が都とした所である。

8 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:36:13.38 .net
<後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰 
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接 
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國

馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す

後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。

<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。

馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。

朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。


<三国志夫餘伝>「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>「南與辰韓北與高句麗沃沮接」

9 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:45:36.84 .net
金印ってのは外交文書の木簡巻物に封泥する時に使うもの。
北部九州からは硯も出土してるんだから、
倭人は文字を使っていた。
倭人が文字を使っていなかったなら、その旨を倭人伝に記録されていただろう。
里数を知らないとかは書いてあるからね。

魏皇帝の詔書にも卑彌呼と書いてあるから、卑彌呼は正式名称。
卑彌呼自身がそう名乗ったことは確実。

また祖神である伊邪那岐伊邪那美にも邪の字が使われているのだから、
これも蔑称や卑下して充てているのではなく、「ザ」という字に当てて使っていただけのこと。

あと、魏皇帝の詔書には倭王しか出てこないから、
卑彌呼の国の正式名称は倭國であり、
邪馬壹國というのは別の概念あるいは倭国の訓読みへの当て字ということもわかる。

10 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 08:46:57.04 .net
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/l50

11 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 09:30:44.94 .net
奈良時代までの女性天皇は6人8代だが、うち4人が結婚してるし子も産んでいる。
あるいは神功皇后。
豊国女王とも考えられる、宗像三女神の少なくとも二柱や、豊玉姫。
八咫鏡を保有していた神夏磯媛も、夏羽と田油津姫兄妹がその子孫と伝わる。

つまり、古代において女帝だからといって、結婚も出産もしていたわけであるから、
卑弥呼の無夫壻というのは特殊な状況であり、
卑弥呼は何らかの理由で、
「女王にはなれるけれども、結婚はできない状況」にあった、可能性が出てくる。

「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定」
王位継承で重要なのは前例、慣例であるから、
壹與を十三歳で王となしたということは、
卑弥呼もまたそれくらいの年齢で王となったという前例があった可能性が高くなる。

卑弥呼は13歳くらいで、まず奴國不彌國の地方女王となった。
女王國=奴國不彌國の運営がうまくいっていたので婚期がやや遅れた。
結婚しないまま女王業務に邁進していたら、20歳前後でHAMを発症した。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/709-710
女王業務は既に成果を上げていたので、そのまま周囲も認めてくれた。
古代女王としては結婚はしないこととなった。
ますます仕事に邁進して業績をあげて、倭国女王に共立されることとなった。

これならば「自爲王以來、少有見者」の説明もつく。

12 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 11:17:13.11 .net
13歳で女王=初潮が来たら大人

13 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 13:48:38.37 .net
日ユ同祖論は一見荒唐無稽に見えますが、完全にありえない話かというと、そうでもないですね。

一つは、オルドス式銅剣。触角式柄頭飾・双環柄頭の特殊な銅剣ですね。
現在のウクライナにいたスキタイが用いていたものですから、
まさに現在と同じように、戦乱などで追われた一群が東アジアへ落ちのびてきた可能性がありますね。
高島市上御殿遺跡からは鋳型も出土していますから、ただ交易で入手されたのではなく、実際に日本列島へ移住してきた人達もいたことになります。
ただしこの鋳型はやや稚拙なので、移住二世か三世のものでしょう。

弥生時代の文明度からは、末蘆國王=柏崎遺跡(伊都説だと笠沙の岬)の元で、
お抱え渡来系工人として召し抱えられていたものと思われます。
同じ高島市の熊野本遺跡で私立の鉄工房を与えられて運営していたのでしょう。

もう一つは、奴国王の居館があった可能性が高い雀居遺跡。
沿海州に特徴的な家畜飼育跡が見つかっており、これも渡来系だった可能性が高いですね。
四隅突出墳丘墓その他、石積み部族であり、夫餘高句麗なども同祖でしょう。
沿海州在地の集団だったのか、
それともオルドス式銅剣と同じように、はるか西方から沿海州にやってきた集団の一部が、日本にやってきたのか、
はわかりませんが、
後者であれば、ユ系である可能性を探るならこの集団が最も可能性が高いかと思われます。

大元の吉武高木大王も、国家形成の最初期から、
遠方の丹後半島に扇谷遺跡など鉄工房を建設して、遠方の木材を消費し、
北部九州倭国の森林を保全するという、
鉄工房を長期にわたって運営した経験のある国家建設を行っていますから、
鉄器を使用した集団が渡来して、大王となったか、
あるいはそのような渡来人が重用されていたか。
ということになりますね。

14 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 13:55:49.17 .net
>>11
卑弥呼の女系はHTLV-1保有の九州縄文系でしょうね。

対馬海峡渡海で漂流すると、沖ノ島で漁をしていた古代豊国人に救助される確率が高いですから、
命の恩人として手厚くお礼をすることになる。

HTLV-1保有者は九州の中では僻地へと押しやられる傾向がありますが、
豊国縄文人だけは命の恩人として厚遇され、
政治的にも生き残ることができたのでしょうね。

ただし宗像の田熊石畑遺跡は、将軍が代々派遣されていた多重環濠遺跡ですから、
吉武高木大王配下の将軍が常駐して、
日本海沿岸を支配する拠点として機能しつつ、
豊国を監視もしていたわけですね。
在日米軍基地のようなものですね。

15 :九州王:2022/04/30(土) 15:14:55.80 .net
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(日)」この意味は「南へ邪馬壹國に至る。女王の都する所(まで)は水行十日陸行一月(日)である。」
「女王所都」ではなく「女王之所都」と之が入っているので文章ではなく名詞句となっている「女王の都する所は」だな。
邪馬壹國の中の女王の首都までが行十日陸行一月(日)

16 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 16:16:52.51 .net
>>7
>>15
なるほど。後漢書のは之が入ってないから、直前の長安や朝歌にかかり、
倭人伝のは之が入ってるから、邪馬壹國にはかからず、邪馬壹國の中の女王が都とする所、となるわけですな。

17 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 18:18:15.25 .net
対馬海峡〜末蘆國〜伊都國(糸島平野+早良平野)は、
紀元前から倭人勢力が開発していたので、住みよい場所は既に倭人が暮らしていた。

ですから、渡来人は、まだ未開発の低湿地だった奴国(伊都説だと葦原那珂津国)や、
あるいは伊都國でも河川下流の海沿いの地域に集落を作ったわけですね。

渡来系のうち、
奴族は、前一世紀頃に渡来してきて、
青銅器作成技術によって商売繁盛して勢力拡大したわけですね。
大型の祭祀型銅剣や、銅鐸などは、彼らが受注製作したのでしょう。

財を蓄えた奴族が輩出したのが奴国王。0年頃生まれですね。
倭人ではありませんが、日本人ではある、ということになります。
中広型銅矛を製作して領地拡大し、金印を受領するに至ります。
ただ銅鏡に関しては、小形仿製鏡が彼らの作成したものと思われますので、
技術的には今一つですね。
鏡面加工や、裏面装飾などはさらに高度な技術が必要だったのでしょうか。

平原遺跡の方格規矩鏡は、
董卓によって壊滅した後に数十年ぶりに復興した洛陽にて、
一度技術継承が断たれた後に復興した、未熟な魏洛陽鏡師が作った舶載鏡であり、銅鏡百枚の一部ですね。

よって、小形仿製鏡の次世代の仿製鏡が、超大型内行花文鏡となって、
これを作成したのが、オルドス式銅剣の渡来工人だった、ということになりますね。

18 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 18:54:34.00 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数

<弥生時代早期>
福岡1
高知5

<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5

<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1

<弥生時代後期>
九州7  (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0

19 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 18:54:47.85 .net
情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
受傷成人人骨数の出土全成人人骨数に占める割合

<弥生時代中期>
九州 総1374出土中48 3.49%
 福岡904出土中36 3.98% 
 佐賀409出土中10 2.44%
山口 187出土中2 1.07%
関西 95出土中15 15.79%
 大阪 87出土中12 13.79%
 奈良 4出土中2 50.00%
 兵庫 4出土中1 25.00%

<弥生時代後期>
北部九州 187出土中7 3.21%
 福岡 166出土中5 3.01%
 佐賀 21出土中1 4.76%
鳥取 36出土中10 27.78%
関西0

弥生時代中期に関西でやばいことが起きた。
後期の関西は無風。

北部九州は甕棺墓制度の終了に伴って遺骨が溶けやすくなり、出土人骨総数が減った。
出土人骨総数に対する、殺傷人骨の割合は変わっていないから、
人口に対する戦乱自体は中期も後期も変わらず起きていたことがわかる。

20 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 19:07:08.99 .net
中広型銅矛の奴国王が失脚した後の倭国を席巻したのが、
カモ系銅戈勢力ですね。
銅戈は奴国領域を占領、ならびに伊都国でも製作され、領土拡大へと出兵していきます。

長野県に逃げ込んだ、奴国王水軍大将「軍神」の攻略と、大阪湾上陸など畿内毛人の攻略、とについてです。

長野県の柳沢遺跡から銅戈と銅鐸の一括埋納遺構が出土しています。
・柳沢遺跡の銅戈は樋分離式(近畿式)で、初期のもの
・柳沢遺跡より奥の関東には祭祀型銅戈型の石戈が出土
・東日本にS字甕や多孔銅鏃が一定期間分布
・近畿式銅鐸と東海式銅鐸が一定期間愛知で睨み合い

つまり、
軍神が金印を持っていると考え、銅戈軍は征伐軍を派遣したものの、
軍神はより奥地へと銅戈軍を引きずり込んで、
関東奥地で壊滅させたわけですね。

銅戈が柳沢遺跡止まりで、関東まで分布していないので、
銅戈軍が継続的に派遣されて、柳沢遺跡からさらに周囲へと占領拡大したのではなく、
柳沢遺跡に攻め込んだ銅戈軍が、さらに奥地へと深入りさせられて、全滅したことになります。

軍神はおそらく、主要根拠地の諏訪ではなく、柳沢遺跡の方に陣を張っておびき寄せ、
わざと敗走して占領させた。
合戦で射るのもわざと、鉄鏃銅鏃2:石鏃8、くらいの割合にして、
物資不足を強調してみせる。

銅戈軍は金印奪取が主目的なので、弱小軍神軍を関東へと追撃します。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/413
所々で分岐して、銅戈軍を分裂させてからの、
関東奥深くで反転攻勢して補給路や逃走路を絶ってからの、各個撃破、したのでしょうね。
全滅でしょう。

21 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 19:21:20.24 .net
諏訪派遣軍が全滅したことで、
銅戈軍は諏訪攻略をあきらめて、
畿内攻略、大阪湾上陸作戦にシフトしたわけですね。

次々に大阪湾上陸し、大阪湾に高地性集落を建設していきます。
銅戈軍が畿内制圧した結果が、107年の生口160人。

そのまま進軍して、名古屋の朝日遺跡まで進軍したところで、
軍神領域の西境界線に接触して、
お互いに銅鐸=Jアラートを配備して、にらみ合いが始まったわけですね。

軍神と、倭国銅戈勢力の実力者にのし上がった田村遺跡系大物主とは、腹違いの兄弟ですから、ほぼ同世代。

軍神が亡くなり、軍神領域が劣勢になった。
その少し後に、田村遺跡系大物主も倭国王と対立する羽目になり、失脚した。

平型銅矛の時代になったわけですが、平型銅矛は北方重視ですから、
まあ軍神領域はそれなりに生き永らえて、倭国乱時代へと突入していったわけですね。

22 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 19:22:05.57 .net
倭奴国が伊都国であるって説は、日本語の漢字読みからの連想に過ぎず、古代中国語発音を全く無視していて成り立たない奇説。

古代中国語発音(Middle Chinese他)

倭:ワまたはヲ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%80%AD

奴:ナまたはヌ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B4

伊:イ
https://en.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%8A

都:トゥォまたはトゥ、ト

https://en.wiktionary.org/wiki/%E9%83%BD

つまり倭奴はワナ、ヲヌと発音され、
伊都はイトゥォ、イト。全く違う発音になる。

奴をトまたはドと発音するのは漢字文化圏の国で日本だけ。奴婢のヌと言う発音だけが他国でも一般的な漢字音。

23 :日本@名無史さん:2022/04/30(土) 19:44:57.39 .net
>>22
その通りですね。

奴 ナ
倭 ワ(漢読み) やまと(倭読み)
伊都 いつ(倭読み)

後漢書
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」

金印を授与した以上、後漢にとっては特別な外交関係を結んだ国家、ということですから、
倭國王が金印授与者の後継者であれば、「願請見」というのは不要で、
金印封泥の文書を持って来訪してきたなら無条件に謁見可能のはずです。

倭の奴國が朝貢してきた
漢委奴國王 漢は奴国王に(倭地を)委ねる

親魏倭王 魏と親しい倭国の王

考古学的に、伊都(いつ)は吉武高木大王→三雲井原大王→平原女王卑弥呼、
と倭国王権は連続している。

それに対抗したのが、渡来系の奴国王であり、倭国王=伊都国王系になれないからこそ、
漢の権威を頼って、金印を取得したわけですね。

伊都説だと、奴国=葦原那珂津国、奴国王=大国主に比定されうるのですから、
国際的な歴史書である記紀において、金印奴国王の権利は、
正式に奴国王から倭国系の王へと「完全譲渡済み」、ということになります。

24 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 04:29:27.82 .net
高知でも硯が見つかったね。(古津賀遺跡、伏原遺跡、祈年遺跡)
北部九州のと同系統らしい。

25 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 07:07:23.94 .net
>>24
高地各地に面状に硯が普及していたのは驚きですね。
鐘崎式土器が出土した田村遺跡群にもありそうですね。
HTLV-1も移動していることから、北部九州から縄文系女性を伴って移住している。
つまり軍=男性のみが侵略したのではなく、カモ系の一群が女性と共に移住・開拓したわけですね。

同系統の場所で考えるなら、和歌山や滋賀なども硯が見つかる候補。
淡路島も候補。
銅鐸やアジスキタカヒコネ繋がりだと、岐阜も候補にあがってきますね。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/720-723

北部九州説からは、日本海沿岸に倭種。
瀬戸内沿岸に侏儒國。
高地は裸國で、ここに硯が沢山見つかった。

豊國領域からも硯が見つかり始めていますから、豊國でも文字を使っていた。
その開拓最前線が、各地の銅鐸+環濠集落。

硯が出土した筑前町の旧三輪町が、北部九州説における大倭本部であり、
中広型銅矛奴国王失脚後の、
銅戈時代に大倭〜裸国田村遺跡を本拠とし、ニニギ〜ウミサチに仕えたのが、
アジスキタカヒコネだったという考察になってきます。

26 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 07:27:36.70 .net
土佐の硯達が、紀元前から分布していたのなら、豊國勢力の開拓に伴う自然拡散でいいのですが、
紀元後に広まっているとしたら、
中広型銅矛奴国王によるものの可能性が出てきますね。

雀居遺跡の墓地からは縄文系女性の遺骨が複数出土しており、
奴国王は各地の指導的女性を集めて後宮を作っていた可能性があります。
案があって、長文の木簡外交文書を作成していたわけですので、
雀居遺跡で産まれた子は文字教育を受けてから、母の里へと巣立ち、
母系の故郷で指導的立場について文字を普及させた。

卑奴母離の語源は、雀居遺跡に居る母と離れて、母系故郷へ派遣された支配官、
とも読めます。
また、卑狗、卑奴母離、卑彌呼、卑彌弓呼、などの頭についていることから、
卑は我々の感じる卑語ではなく、
倭人自身が支配者の意味を含めて使っていた文字のようですね。

27 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 09:10:22 .net
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
弥生人にとって、阿波はまさに「常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、
一方、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、大河「四国三郎吉野川」を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。   @阿波

28 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 10:00:50 .net
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分になりますが?

http://yamadajiro15.wp.xdomain.jp/index.html

29 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 11:14:50 .net
魏の発音が現在の北京語って言ってる時点で素人丸出し。

現代で言えば、客家語や広東語の方がよほど中古音の特徴を色濃く残してる。北京地域の発音は、次から次へと遊牧民に蹂躙されて、宋の時代には漢人国家は南宋だけ、北は遊牧民国家、元の時代もモンゴル人と言う有様で、過去と全く異なる発音に変わってる。
https://youtu.be/OX047xj6HtQ

30 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 11:22:42 .net
29のリンクを見ればわかるが、中古音の中国語は、現代中国語よりも日本語の漢字音に近い。

1、2、3、4は、現代では

イー、アル、サン、スー だが

中古音では

イットゥ、ニー、サン、スー、ンゴォ、ルック、ツィ、パッ、クゥ、ジュッ。


https://i.imgur.com/AEse7sn.jpg

31 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 15:02:06 .net
東夷伝里(短里)みたく、古いものは辺縁に残るって意味かな?

日本語の語源にまで言及してるの?

32 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 15:33:03.50 .net
誰に対する返信かわからないけど、日本語の漢字音なら中国南北朝時代の中古音から唐の時代にかけて音を輸入したもの。

いち、にー、さん、は音読みでしょ。

日本古来の数え方は、ひとつ、ふたつ、みっつ。

最初は南朝、呉越地域から輸入されたとして、その後遣唐使に行った人たちは、おめえらの発音は訛ってる呉音だと長安人に言われて、唐の時代にまたその時の音を輸入した。

その時の漢字音と、中国南部の漢人支配が比較的途切れることなく続いた地域の発音は極めて近い。


https://i.imgur.com/JLjQYNA.jpg

33 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 15:36:38.05 .net
百済に漢字をもたらした中国人の博士高興。

百済は4世紀末まで漢字がなく、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わった。伝った漢字をすぐに倭国から博士を派遣しろと言われて、倭国にも伝えた。中国文化を取り入れてすぐ日本に渡したのが百済である。元から半島に偉大な文明があったりした訳ではない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%e9%ab%98%e8%88%88_(%e7%99%be%e6%b8%88)

34 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 15:36:52.73 .net
新羅も百済同様に当初は文字を持たない国であった。新羅が仏教をはじめとして中国文化を受け入れるのは4世紀末に漢字を輸入した百済よりもかなり後になる。

「斯羅國、本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅、宋時曰斯羅、其實一也。或屬韓或屬倭、國王不能自通使聘。普通二年、其王名募秦、始使隨百濟奉表献方物。其國有城、號曰健年。其俗與高麗相類。無文字、刻木為範、言語待百濟而後通焉」(『諸番職貢圖巻』)

"新羅 "という国は、もともと朝鮮半島の東にある小さな国で辰韓と呼ばれていた。魏の時代には新羅と呼ばれ、宋の時代には斯羅と呼ばれたが、実は同じ国である。ある時は韓に属し、ある時は倭に属したので国王は使節を送ることができなかった。普通2年、新羅王募秦が百済と共に来訪し、朝廷に贈り物を献上した。その王国には健年という都市があった。その風習は高麗と似ている。

『文字を持たず、木を彫って手本とし、言葉は百済を通して意思疎通ができた。』(『諸番職貢圖巻』)

35 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 17:09:38 .net
>>33
>百済は4世紀末まで漢字がなく、近肖古王の代になって博士の高興(こうこう、コフン)を得て、初めて文字(漢字)が伝わった。

ここは記録にある。


>伝った漢字をすぐに倭国から博士を派遣しろと言われて、倭国にも伝えた。中国文化を取り入れてすぐ日本に渡したのが百済である。

これはどこに記録されてる?

36 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 17:28:16.69 .net
古事記だとか日本書紀に書かれてるけど、百済のどの王の時代の話かは議論が分かれる模様。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%82%96%E5%8F%A4%E7%8E%8B#%e5%80%ad%ef%bc%88%e6%97%a5%e6%9c%ac%ef%bc%89%e3%81%a8%e3%81%ae%e9%96%a2%e4%bf%82

37 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 17:28:59.44 .net
百済や新羅の遺跡から硯は見つかってるのかな?
倭のほうは硯が見つかってるし金印も見つかってるし
先に文字を使っていたのは確定的だろうけど。

38 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 17:31:19.41 .net
男子爲王住七八十年=日向三代とするのなら、
自動的に、
倭国乱の開始=神武東征になる。

倭人伝だと「倭國亂 相攻伐歷年」、後漢書だと「桓靈陂`國大亂 更相攻伐 歷年無主」で倭国王が不在となってる。

あと不思議なのは、第二代の綏靖はなんで欠史扱いなのだろう。
普通に事績が記録されているのだが。

39 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 17:32:51.55 .net
>>37
>倭のほうは硯が見つかってるし

せいぜい、砥石。  碌な弥生集落遺跡の無いところに、硯など出る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   

40 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 17:36:53.24 .net
>>36
漢字を伝えたとかどこにも書いてないじゃないか。
まーた捏造かいな。

とっくに文字を使っていた倭に、
中国の書物並びに、初めて文字を使って書いた書物を添えて献上した、だけだろう。

41 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 17:46:25.40 .net
>>40
勘違いしてるみたいだけど、それを例示したのは、半島が”百済の王仁が文字のない倭国に文化を与えた” とか言うねつ造を教科書にまで書いて全国民に広めてるのを知ったから、その反証として百済はそもそも文字がなかったと書いただけ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81

ただ、金印があったり硯が見つかるのは事実とは言え、稲荷山古墳の銅剣みたいに、漢字が書かれた遺物が見つかるのは5世紀に入ってからで、国家として大々的に文字が使われたと言うのはちょっと疑わしいだろう。もちろんそれは半島も同じ。

半島は、文字が書かれた遺物さえ百済や新羅の地域では6世紀頃まで出土せず、残ってるのは5世紀の高句麗好太王碑の例の倭国が百済と新羅を臣従させたってやつくらい。

42 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 17:48:06.97 .net
ま、言えることは漢字についても半島のねつ造が酷いってことだよ。

43 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 17:55:07.16 .net
>>41
ならいい。

しかし土佐でも硯が見つかったとなると、
北部九州倭国から山陰は紀元前から文字があった可能性があって、
土佐にも弥生時代からその可能性が出てくるわけだろう。

北部九州倭国には、硯、金印、あと楽浪人も暮らしていたから漢字の先生がいつもいたわけだからね。
硯の分布を見れば、どう見ても国家として文字を使っていたのだろう。

そうなると逆に、
楽浪郡と倭國に挟まれた、百済新羅の地域に文字が普及するのが遅かった、というのが逆に謎になる。
大王がいるかいないかが大きいのかな。

44 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 18:09:55 .net
木簡が出ればいいんだけどね。
中国からは紀元前の木簡が出るんだから、日本でも木簡を使っていたなら出そうなものだ。
稲荷山などの鉄剣の銘文には、オオヒコ(意富比垝)が記されているから、まあその頃から漢字で名前を記録していた可能性はあるが、可能性に過ぎないね。

45 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 18:33:50.47 .net
そういや昔畿内説と伊都説が言い合ってるときに、

平原遺跡の大量の銅鏡には意味のある銘文が書かれている

・平原遺跡の銅鏡が仿製鏡
 →平原女王は文字を使っていたのだから、魏と外交して金印を貰った卑弥呼だ

・平原遺跡の銅鏡が舶載鏡
 →平原遺跡の銅鏡が銅鏡百枚の一部だ

どっちか選べ!

というのがあって、うまい事言うと思ったなw

46 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 18:46:14.01 .net
>>35
日本書記に応神天皇16年に百済の王仁が来て、太子は王仁を師として諸の典籍を習ったとあるが
応神天皇16年が何時か分からんし、応神天皇の実在も怪しい
8世紀に適当な事を誰かが書いたみたいだね。

47 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 19:06:01 .net
>>45
何が書いてあるの?調べであんまり見つからなかったんで気になる。

48 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 19:34:52.92 .net
>>47
内行花文鏡が、「大℃q孫」「長℃q孫」。舶載鏡だね。
方格規矩四神鏡が、
「尚方作竟」「尚方佳竟」「陶氏作竟」
+「眞大巧上有仙人不知老渴飲王泉飢食棗浮遊天下敖四海壽敞金石為國保」
尚方作竟とかは舶載鏡だと思うけど。

超大型内行花文鏡5枚は仿製鏡。

49 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 20:21:53.58 .net
>>45
自分は伊都説だが、この選択肢は逆に、大量の方格規矩鏡が銅鏡百枚の一部だとすると、
仿製鏡はほぼ超大型内行花文鏡のみとなり、超大型に銘文は無い。
(銅鏡百枚を溶かして超大型を作り、方格規矩鏡はその残りとも言われている)
ということは、倭王にとって吉祥文はあまり意味が無かった、漢字情報をあまり重視してなかった、ということになるね。

50 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 20:25:43.64 .net
定型文みたいなやつだと、中国の鏡のそのままコピーの可能性もあるって言われるだろうし、鉄剣の象嵌みたいに絶対日本で書かれた文章ってわかる木簡でも見つかって欲しいよね。

それにまだ発掘してない古墳なんてごまんとある訳で、調査したら色々見つかりそう。筑紫の磐井の古墳とか。あんな巨大なのに過去調査してないんでしょ。

51 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 21:24:11.97 .net
倭人伝に「収租賦」とあるから、硯が出土している以上、租賦を文字で記録していた可能性は非常に高いんだよね。
400年前後と言われる崇神も戸数調査をして課役したと紀に書かれてるし。

日本での木簡出土は今のところ7世紀末くらいからだけど、戸籍や租税に関する調査票みたいなのが主で、
文書・手紙の類が少ない。

一つの可能性としては、「種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜」
絹が特産品だったんだから、
贅沢なことに、絹を紙の代わりに使っていた、
いわゆる「帛書(はくしょ)」の可能性があるね。

金印を使う国家間の外交文書は、案の上で木簡文書を作成して、封泥していたけど、
国内での手紙のやり取りは美しい帛書で行っていたのではないか。

正始四年の伊聲耆掖邪狗らが献上したのが、
「生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木𤝔短弓、矢」とあり、
綿の衣服の次に、絹布や絹衣や帛衣でなく、帛布だから、
これは絹の帛書だった可能性があるね。
帛書は中国でも使われていたから喜ばれただろう。

文書が帛書に書かれていたのなら、まずまず残っている可能性は無いだろうね。
ただそれでも、戸籍や租税の記録は木簡だったろうから、そちらすら見つからない理由にはならないけど。

52 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 06:17:36 .net
中国で出土した3世紀以降の帛書を成分解析して日本産の絹が見つかると面白いけどね。
竹帛の記載だと竹簡や帛書で名が残るほどの名声を挙げる、という意味で帛書だけど、
単に帛だけだと絹布の意味だろうから、どうだろうね。
日本で見つかってる弥生時代の絹は絹線維とかまで分解されたものが多いから帛書の形での発見は難しそう。
楠木材と一緒に甕棺や土器に入ってたら樟脳成分で保存されてたりするかな。

53 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 10:02:40.66 .net
>>29
>>30
下記サイトで特に末盧国をあたってみて下さい。ほとんど、異民族が来てもほとんど
変わっていません。(中国のサイトです)
https://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccr/
理由は中国側で異民族の侵入があっても、異民族が漢字を使用するためには、
元の中国人に教えを乞う必要があります。このため、言葉自体は変化しても
漢字の発音は変わらない可能性が高いです。
さらに、末盧国は日本の邪馬台国論者が、松浦=末盧としてるので、松は中国の発音が
ないため、無理やり末を持ってきて魏志倭人伝論者が末盧muatlaにしたのでは
ないかと言う言語学者の説があります。

54 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 10:23:06.62 .net
>>53
「末盧国」=福津市(万津浦)辺り。   @阿波

55 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 10:36:12.14 .net
>>53
>>松は中国の発音がないため、無理やり末を持ってきて魏志倭人伝論者が末盧muatlaにした

意味がよくわからない
もう少しわかりやすく教えて

56 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 22:51:19.27 .net
>>53


>>30
は、中国の支配者が代わるたびに、漢字が同じでも発音は変わると言ってる。

>>53
は、中国の支配者が変わっても、中国地元民に発音を教わるから変わらないと言ってる。

どっちもありうるってことだな。
じゃあ、そんなの無視してよくね?

倭人は倭人で漢字を勝手に使ってたんだから、
末は上古はすえ、2世紀くらいからはまつ、としていた。

なんで2世紀に変わったかというと、三国志動乱で大量の避難民が押し寄せてきたから。

57 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 22:57:00.93 .net
硯が出土した以上、
記紀などの日本書物の発音の重要度がとんでもなくはね上がってる。

硯が無ければ、倭人伝などの倭の地名や人名は、漢魏人による当て字となるが、
硯があるのなら、それらの漢字は倭人が当てていたものを漢魏人が引用した可能性の方が高くなる。

だから中国どうこう調べるよりも、
記紀風土記などでの文字表記から類推するのが正攻法なのだなこれが。

58 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 23:06:52.21 .net
なるほどなるほど。
渡来系の奴国王とは、ユダヤの一部族なのですね。

縄文世界に、中国人が渡来してきて、外見が変わったのではなく、

縄文にいろいろ入って来て、はるか西方からの血が入って、理想郷が形成されているところに、
中国人が入って来て、外見がアジアに引き戻された、ということなのですね。

59 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 23:11:14.40 .net
なれば、日本列島こそが、実はグローバリズムの極致。既に2000年先取りしていたのですね。

その日本をとどめるために、日本を純血で残すもよし。

その日本に注ぎ込んで、新たな化学反応を起こすもよし。

我々は主導権(☓軍事力〇金融力)を持っていませんから、(持てるチャンスを30年前に逃した)
相談するしかないですね。

60 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 23:25:57.38 .net
高句麗の奴族は奴国王の同族でユダヤの純血。

倭人は、奴族=ユダヤのグローバリズムに抵抗して、
攻め込んだわけですね。
好太王の碑。押し返された。

61 :日本@名無史さん:2022/05/02(月) 23:47:49.29 .net
と、いうことは、
奴族系の政治家が主導権を握ると、当たり前ですが、グローバリズムを推進する。
あったりまえですね。

倭人系の政治家が主導権を握ると、それに抵抗しようとする。
そりゃそうですね。

2000年前からそれをやってたわけです。
日本はやはり、人類の最先端を突き進んでいるわけですね。

62 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 00:12:18.64 .net
と、なると、
ユダヤの総本山は一見するとイスラエル、なのですが、
日本も2000年来の重要拠点の一つ、となり、
それと戦う勢力が大量破壊兵器を用いる目標の一つに、
なってしまう、可能性があり、
それを封じるための手段が必要、であり、
奴族お得意の、デコイ、を用いて、破壊目標を、ずらして、
見当違いの目標を、非人道的な手段で破壊、させて、
逆に、未来永劫、非人道的な手段を用いた、敵対勢力を、

63 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 00:15:02.47 .net
軍神が、金印を持って、諏訪に逃げたと思って、
攻め込んだら、持ってなくて、
西の伊邪國に、あった。

川上猛が、金銀錯鉄鏡を持って、東日本に逃げたと思って、
攻め込んだら、見つからなくて、
西の日田に、あった。

64 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 00:30:46.76 .net
>>43
>そうなると逆に、
>楽浪郡と倭國に挟まれた、百済新羅の地域に文字が普及するのが遅かった、というのが逆に謎になる。
>大王がいるかいないかが大きいのかな。

民族がただ生きるなら、文字など必要ない、からでしょう。

ユダヤ系であれば、売買履歴を文字で記録する必要がある。
そして情報こそ命。
情報を残すには、文字で記録する必要がある。

だからこそ、奴国王のいた倭には、(倭人貴族ももともと文字を使っていましたが)
文字が一気に普及したわけですね。

65 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 07:33:19.64 .net
>三国志動乱で大量の避難民が押し寄せてきたから。

遼東半島や朝鮮半島は人の移動が激しくて、時によってはあまりに大量の人が移動したせいで郡など政治区分が変更されたりしてるね。
馬韓の西の州胡というのも、中国とも交易してるとあるから、南西の済州島ではなく、
仁川国際空港のあたりの島々のことだろう。

66 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 08:23:37.95 .net
>記紀風土記などでの文字表記から類推するのが正攻法なのだなこれが。

記紀だと、末の読みは、ま、まつ、すえ、など。
どちらかというと、中国語寄りに考えるなら、ま、まつ。
後の平仮名の「ま」も末から産まれているし。

倭人伝を意識した神功皇后の箇所でも、末羅縣(まつら・がた)だね。

67 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 10:49:33.26 .net
北部九州全体が倭国(邪馬台国)。音読み「ワ」訓読み「やまと」だったのなら、
地方自治体に「倭国」「邪馬台国」は無いのが当たり前だな。
日本国に日本県が無いのと同じだ。

68 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 12:11:38.41 .net
>>8
高句麗 方可二千里 戸三萬
濊 戸二萬
馬韓 大國萬餘家小國数千家 揔十餘萬戸 辰王治月支國
弁辰韓 合二十四國 大國四五千家小國六七百家 惣四五萬戸

三国志東夷伝の全体を俯瞰すると、
どう見ても、倭の中に七万戸や五万戸の巨大国家が複数あったとは考えられず、
倭=邪馬台国全体で総七万戸。
倭=邪馬台国七万戸の中に、大国二万戸小国数千戸ですな。

まあ伊都説で完結でしょう。

69 :日本@名無史さん:2022/05/03(火) 12:17:23.47 .net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1525790222/366

銅鐸も、前スレで考察したように、
石剣地域に入植していく倭種環濠集落が、
収穫期の襲撃に備えて配備したJアラートであることがわかりました。

普段は乾土に埋めて劣化を防ぎ、収穫期に取り出して設置する。
高台に偽装して設置して、敵襲があれば銅鐸を鳴らして集落民を環濠の中へ避難させる。
銅鐸を鳴らし終えたらそのまま獣道を走って、近隣の集落などへ救援を呼びに行く、
というシステム。

70 :日本@名無史さん:2022/05/04(水) 17:10:11 .net
菱環鈕式 

外縁付鈕式1式2式

扁平鈕式1式2式

突線鈕1式 ここまでが聞く銅鐸

突線鈕2式3式 近畿式・三遠式

突線鈕4式5式 ほぼ近畿式

松帆銅鐸 菱環鈕1外縁付鈕6
荒神谷遺跡 菱環鈕1外縁付鈕5 中広形銅矛16 中細形銅剣358
加茂岩倉遺跡 外縁付鈕30扁平鈕式9
柳沢遺跡 外縁付鈕5(1つは扁平鈕式か) 樋結合型銅戈1樋分離型銅戈7
桜ヶ丘遺跡 外縁付鈕4扁平鈕10 樋分離型銅戈7
大岩山遺跡 突線鈕24(4式5式は3)

71 :日本@名無史さん:2022/05/04(水) 17:34:30 .net
銅鐸王国「阿波」の「名東銅鐸」
名東銅鐸は、弥生集落の一角から出土したもので、扁平鈕式という型式に分類されます。
高さ39.3㌢、重さは877.8㌘しかありません。
裾内部に突帯が一つあり、音を鳴らすための機能は備わっているのですが、使用した形跡はみられません。
「見る銅鐸」だったのでしょうか。
鮎喰川流域では「聞く銅鐸」も「見る銅鐸」も出土しています。
「阿波」における銅鐸のまつりが変化する様相を観察できる地域として注目されます。   @阿波

72 :日本@名無史さん:2022/05/04(水) 19:34:52.56 .net
出雲が銅鐸王国というが、
北部九州銅矛荒神谷遺跡と、例外的な大量一括埋納加茂岩倉遺跡で目立ってるだけで、
それを除けばむしろ銅鐸の無い地域。

さらに銅鐸時代の出雲に目立った集落遺跡はない。

後の四隅突出型墳丘墓になってそれなりに栄えるが、
その時には日本海沿岸から銅鐸はとっくに姿を消している。

出雲が銅鐸を作って関連地域に配布していた、とするにしても、
瀬戸内東部や畿内などの、銅鐸分布地域までの地域連続性が無さすぎ。

いい加減に、出雲系=銅鐸国家、という誤った認識は捨てるべき。

73 :日本@名無史さん:2022/05/04(水) 19:56:58.68 .net
「銅鐸」は、全国で約400個出土していて、徳島県はその約1割を占める42個が出土している。
銅鐸の出土数もさることながら、 銅鐸の出土遺跡(29遺跡)の多さに驚かされる。
古代史上、重要視されていない徳島県で、なぜこれほど多数の銅鐸が出土するのだろうか?   

まさに、倭国(阿波)は、銅鐸王国。   @阿波

74 :日本@名無史さん:2022/05/04(水) 20:20:52.65 .net
銅鐸が単なる音を鳴らすための利器であれば、用済みになった時点で廃れたはずであって、
突線鈕2式以降の、大型化装飾化した「見る銅鐸」が登場した以上は、
銅鐸をまつる意識、銅鐸祭祀を重要とみなす集団、が存在したことは明らか。
であるから、「見る銅鐸」が分布する地域はやはり銅鐸信奉部族ではあるのだが、
それはそれで畿内から東海にかけての地域が主な出土地域であるから、
「見る銅鐸」においては出雲など山陰やあるいは山陽瀬戸内地域は蚊帳の外。
さすれば銅鐸民族なるものは次第に東へ東へと追い立てられて「見る銅鐸」を最後にして、
滅亡したのである。
滅亡するのなら華美な「見る銅鐸」を作ってる暇なんぞなかろうに、
なぜにその方向へ銅鐸を発展させたのかという疑問も沸き起こる。
また東海から東日本へと追い立てられるだけでなく和歌山にも最終形の「見る銅鐸」が豊富に認められることはますますもって不可思議極まりないことなのだ。
ちなみに銅鐸が終了する時期はまさに2世紀の倭国乱の時期であることも十分に留意すべき点であり、対馬海峡を経て入手する青銅器の原料そのものが入手しにくくなったことで銅鐸が作れなくなったと考えるのであるが、
であれば、銅鐸をまつりで使っていたのであれば、小型化あるいは簡素化をもって、
今しばらくは銅鐸まつりを存続させる努力の跡が認められてもよかっただろうに、
そのような痕跡もなくあっさりと銅鐸時代が終焉を告げているのもまた銅鐸がどのように認識されていたのかあるいは銅鐸集団が突然の非業な状況に置かれたのかなど話題はまだまだ尽きぬもの。

75 :日本@名無史さん:2022/05/04(水) 20:35:45.51 .net
銅鐸王国「阿波」では、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」が
矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土しています。   @阿波

76 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 13:13:21.80 .net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/744-756

北部九州からは紀元前の弥生遺跡から硯が出土している。
よって倭人は漢字を使用していた。
伊邪那岐/伊耶那岐、伊邪那美/伊耶那美なのだから、倭人は「邪=耶=ザ」として使っていた。

廣志を正しく読むと、
南の邪馬嘉國が現在の佐賀市周辺。邪馬嘉(ザマガ)→佐嘉(栄サカ)→佐賀
西南の伊邪國(伊耶國)が現在の諫早市周辺。伊邪(イザ)→伊佐→諫早

77 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 13:15:03.53 .net
伊都説だと、三雲南小路王墓から柏崎遺跡が笠沙の岬となり、
唐津が吾田=阿多であるから、その勢力が山を越えて佐賀市側に入って、
阿邪訶(ア・ザカ)だったのだな。
吉野ヶ里の甕棺墓女性の時代だな。

70年に奴国王が失脚して、
伊邪國の奴国王系水軍(比良夫貝)と吉野ヶ里が対峙していたから、
阿邪訶(ア・ザカ)の海、つまり有明海で比良夫貝水軍に襲われたわけだ。

当時は佐賀平野が無く、甕棺墓の分布のように山地にへばりつくように、
干潟に面した坂だけの土地だった。
そこをある程度開発した勢力が王となり、
邪馬嘉(ザマガ)國として、独自外交で虺龍紋鏡を入手した。
収入源は、同じ肥国である肥後の木材。トンカラリンだな。
山を越えたら対馬海峡だし、弥生倭国なら交易の好立地ではある。

だが、邪馬嘉國は倭国乱で荒廃もしくは滅亡し、
狗奴国もまた筑後→邪馬嘉→末蘆→対馬海峡と占領して金銀鉄鏡を入手した。

後の川上タケルが川上を名乗っているということは、佐賀にゆかりのある奴族だった可能性があり、
これが阿邪訶時代からのゆかりであれば、例の甕棺墓女性と奴国王との間の子孫である可能性も出てくる。
卑彌呼と卑彌弓呼の名が似ているのも、その辺りの先祖が共通しているのかもしれんな。

阿邪訶(アザカ)→邪馬嘉(ザマカ)→佐嘉(栄サカ)→佐賀

78 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 13:16:18.68 .net
奴国王が失脚した時に、その水軍大将だった息子は金印を持って諏訪に逃げかけたと見せかけたので、
銅戈軍は東日本に気を取られ、奥深く関東まで追いかけていった。

しかし金印はそのまた息子に持たせて西に潜伏させた。
これが比良夫貝という水軍で、諫早市を中心とした伊邪國を根城にして、
倭国の主流となったカモ銅戈軍と敵対していたわけだな。
吉野ヶ里の環濠は比良夫貝をおびき寄せて内部に捕獲し、軍事情報を尋問するために設備だろう。

平戸市や佐世保の比良町などにその名残りがあるのだろう。
佐世保高島の宮の本遺跡などからプロ漕ぎ手の遺骨が出土しており、
本来は対馬海峡を渡海して海外交流した倭舟の漕ぎ手であり、
その当主である難升米が卑弥呼傘下に入って大率となってからは、再度対馬海峡を往来した。
というより刺史の如く末蘆国〜壱岐対馬の地方行政をもしきり、だから今も長崎県所属なのだな。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/
平原遺跡に御柱が立っている理由も説明がつく。

元はと言えば、比良夫貝は古代越ヌナカワ土井ヶ浜遺跡の女王とも親密であり、
奴国王は比良夫貝水軍を味方につけるためにも口説いたのかもしれんな。
そう考えるとその頃から比良夫貝は奴国王サイドとして、カモの銅剣女王國との戦争に参加していたのだから、
奴国王が失脚して倭国実権を握ったカモ銅戈軍は逆襲したという見方もできる。

比良夫貝頭領の難升米が大率として活躍したのであれば、
日本海を股にかけて、水軍を率いて北は蝦夷を討ち、西は白村江の戦にて補給部隊として活躍した、
阿倍比羅夫もまた筑紫大宰帥となったのだな。
率=師で、大率=大宰帥という九州説の論はまたいつものように奥が深く、
阿倍比羅夫もまた長崎の水軍を率いたのかもしれないし、
逆に難升米もまた兵糧不足の魏軍司馬懿に補給をしてあげて、そのお礼が親魏倭王金印や銀印だった、という説も見えてくるのではないかな。

79 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 13:52:35 .net
>金刀比羅というのも海上交通、海軍と関連が深いから、
>大物主が瀬戸内交通を支配する際の水軍だったのかもね。
>比羅、比良、というのが水軍のなんらかの単位だったのかもしれんね。

古代豊国=古代出雲+古代伯耆には、もともと八雷神がいた。
その共立女王が伊邪那美。

対馬海峡〜末蘆〜糸島(筑紫の日向)を保有していた伊邪那岐族と婚姻を結んで擁立したのが、
早良吉武高木遺跡、つまり筑紫の日本のアマテラス大王。
この時に豊国も行政変革がなされ、八雷神→八山津見となった。

古代伯耆のカモが豊国リーダーとして豊国軍を指揮する時が、建御雷神。
元は八雷神の水軍を率いる総大将。

一方で、古代出雲のワニが豊国リーダーとして指揮する時が、八尋ワニ。

比羅、比良、尋、というのは水軍における何らかの広さを示す単位であり、
一定数の水兵が整列した広さ、あるいは一定数の軍舟が整列した広さ、を表すのだろう。
それが転じて、水軍部隊の単位となった。

八雷神あるいは八山津見の一部族当たりの標準的な水軍部隊の単位が、一尋。
豊国共立女王がワニ系の場合は、全八部族に号令をかけることができるので、八尋。

一尋当たり二本の中広形銅矛あるいは広形銅矛が配布される。
一本は出陣式の時に自領に埋納。
もう一本を旗艦に飾って旗頭として出陣して、
勝利したら獲得領土で地鎮祭としてもう一本の銅矛を埋納。

80 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 13:53:48 .net
中広形銅矛(男系奴国王+女系ワニ)が失脚して、
祭祀型銅戈(男系ニギ+女系カモ)時代。
ヤマサチヒコが一時失脚して豊国ワニに匿われた時は、
倭国王も豊国王もカモ系であり、

ワニ王は豊国の中の、ワニ領地のみの地方王。
よって、ヤマサチヒコを筑紫日向へ送り返す時は、一尋ワニ。

広形銅矛男系ヤマサチヒコ+女系ワニが天下を取ると、
倭国王はヤマサチヒコ、豊国王はトヨタマヒメとなり、
出産のため筑紫の日向へやって来たトヨタマヒメは、八尋ワニ。
重臣達の監視下で出産して、王家の文身を入れるため筑紫の日向で出産して、
豊国に女王として帰っていった。ヤマサチヒコの元には代わりに妹を寄こした。

コトシロヌシも、八尋ワニとなっているのだから、豊国王。もしくは、その直属の豊国水軍総大将。

81 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 18:22:52.34 .net
>>70
>荒神谷遺跡 菱環鈕1外縁付鈕5 中広形銅矛16 中細形銅剣358

・荒神谷2号と梅ヶ畑遺跡(京都市)4号、荒神谷6号と松帆5号、荒神谷3号と伝徳島県出土銅鐸、が同笵銅鐸
・銅矛は、中細形2本と中広形14本
・中細形銅剣c類の鉛同位体比分析にて、銅鐸を溶かして他青銅と混合し、銅剣の原料の一つとしている
・銅剣の青銅原料の一つに極めて特殊な鉛同位体比を示すものがあり、前285年に「燕」が斉に勝利しその首都臨淄を略奪した際の青銅器ではないか、との説
・銅鐸は同笵が多いのに対して、荒神谷銅剣は同笵が無い

・山海経「蓋国在鉅燕南倭北、倭属燕」
・燕は、秦王政(始皇帝)に対して刺客の荊軻を送ったが失敗し、前222年に滅亡

・土井ヶ浜遺跡の埋葬頭蓋骨は全て燕の方角を向いている

82 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 18:24:33.06 .net
現代日本人の我々から見ると、本州全域に投射してしまいますが、
弥生倭人の世界では、北部九州を中心とする世界観だったわけですね。

西から、地名・勢力が、
唐津 吾田=阿多 笠沙の岬=柏崎遺跡
糸島 筑紫の日向 三雲井原遺跡
早良 筑紫の日本 吉武遺跡
博多 葦原那珂津国 那珂比恵遺跡〜須玖遺跡〜
宗像 古代出雲 田熊石畑遺跡
北九州市 古代伯耆 城野遺跡
越 山口県山陰地方〜 土井ヶ浜遺跡〜
に比定されます。

越=山口県以東の日本海沿岸にいたのが、八岐大蛇族であり、
古代出雲や古代伯耆を圧迫していましたが、
対馬海峡の伊族がまとまり、
対馬海峡渡海時に漂流した際に救出してもらっていた、古代豊国の八雷神の共立女王と婚姻して、
北部九州沿岸を統一。
吉武遺跡に吉武高木大王が誕生。

吉武高木大王の王族東征将軍が、越の八岐大蛇族を金属製武器で打ち負かして、
田熊石畑遺跡に多重環濠の東方監視基地を作り、
八岐大蛇族領地の尻尾である、丹後半島に扇谷遺跡を建設して長期間運営し、
至高の鉄剣を作成して、吉武高木大王即位時に献上します。

83 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 18:26:30.12 .net
時系列から考えると、
吉武高木遺跡の大王が誕生=倭国成立
倭国が燕と交流

燕が滅亡して、燕人が亡命

燕人知識層は吉武高木大王お抱えとなり、北部九州倭国から離れた丹後に鉄工房建設する国家運営を助言
(倭国本国の森林保全)
燕人の大部分は、旧八岐大蛇族の旧領である土井ヶ浜遺跡に土地を与えられて集落形成
宝飾品作成で生計を立てていた旧八岐大蛇族と混じって、青銅工具を用いた貝輪製作を開始
という流れですね。

日本海沿岸は、旧八岐大蛇族が倭国吉武高木大王の支配下となり、
倭人が丹後鉄工房を運営して鉄器生産。

豊国は吉武高木大王と縁戚の倭種になり、田熊石畑遺跡=在豊国倭国軍基地があるので、
国防は気にしなくてよくなり、

琵琶湖沿岸に下之郷遺跡を建設して入植
瀬戸内にも高地性集落を建設して木材・炭を大量供給する「木の俣」を建設
和歌山・土佐にも鐘崎式土器が入植
と、倭種勢力拡大していきます。

84 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 18:28:17.76 .net
一方で前一世紀頃に、沿海州から奴族が渡来してきて、
こちらは渡来系の多い、当時は低湿地だった葦原那珂津国に集落形成したわけです。

北方の奴族親戚から青銅原料を入手して、
青銅器作成技術を売りにして、
豊国勢などから、銅鐸や銅剣の作成を受注して生計を立てます。

次第に富を蓄えて、0年に奴国王(中広形銅矛将軍)が誕生して、
お得意先である、豊国の平形銅剣女王に兄弟で求婚に押しかけます。
その先は、過去スレで検討した通りですね。

奴国王は最初は妻である平形銅剣女王に匿われて、太田黒田遺跡へ。
そこにも兄弟が押し寄せてきたので、
木の俣=瀬戸内高地性集落群を抜けて、豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍の元へ。
将軍の娘と懇ろになり、樟脳の染み込んだ衣などで窮地をくぐり抜けて、
将軍の婿に収まった。

豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍と共に軍を起こし、
兄弟を破って奴国を掌握し、さらに
元妻を破って瀬戸内を掌握するために銅矛銅剣戦争を開始した。

85 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 18:30:04.75 .net
初期は、奴国王の義父である豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍が総大将だった。
旗印は中細形銅矛。
中期に義父が亡くなり、奴国王は倭人では無いものの、軍事力を背景に将軍位に首尾よく収まった。
旗印は中広形銅矛。

そんな銅矛銅剣戦争の末期ですね。

対馬海峡経由の青銅原料ルートの上位に位置する中広形銅矛軍に対して、
平形銅剣女王軍は劣勢となり、青銅原料不足に陥り、
後の狗奴国と同じく、領内の青銅器をかき集めて青銅製武器を作ろうとした。

鋳型の出土分布からみて、
銅鐸なら平形銅剣女王国で製作する技術があったが、
戦での使用に耐えうる実戦用銅剣を製作する技術は無かった。

そこで、土井ヶ浜遺跡の燕人に交渉を持ちかけたわけですね。

燕人はそもそも倭人と縁があり、
新興の奴族である中広形銅矛将軍を好ましく思っていなかった。

平形銅剣女王国の銅鐸を集め、
燕人が持参してきた虎の子の青銅器を加えて、
それらを溶かして、大量の銅剣を製作し、反転攻勢しようとした。

それを察知した中広形銅矛将軍が、土井ヶ浜遺跡の女王を口説き落として、
大勢は決した戦いで劣勢側に参戦することを恐れた女王が折れて、
一気に終戦となったわけですね。

86 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 18:31:22.32 .net
銅鐸について考えると、
本来は大阪兵庫の毛人領域との境界線に配備されていたわけですね。

ですから本来は、出土しているよりもっと密に配備されていた筈ですが、
燕工人がいる荒神谷遺跡に供出するためにかき集められた。
琵琶湖沿岸→日本海沿岸→荒神谷遺跡
瀬戸内沿岸→川で山陽山陰横断→荒神谷遺跡

京都や阿波は遠すぎるのと、毛人最前線なので、銅鐸が残ったわけですね。

集められた銅鐸を溶かして、燕人秘蔵の青銅と混ぜて、銅剣を作った。
そこで終戦になったので、降伏して、
占領軍の中広形銅矛と一緒に埋納された。

加茂岩倉遺跡の銅鐸は、銅剣銅矛戦争の終戦後に、
時間差で送り届けられてきた銅鐸をまとめて埋納したものでしょう。

87 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 18:33:01.86 .net
銅矛については、
中細形2本は義父である豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍の部下だった古参倭人隊長のもので、
中広形14本は中広形銅矛将軍の奴族隊長のものということになりますね。

土井ヶ浜遺跡の女王は中広形銅矛将軍の手に落ち、
荒神谷にあった青銅器工房に
十六尋の大軍がやって来て、大量の銅剣を押収した、ということでしょう。

過去スレで検討したように、国内制圧した中広形銅矛将軍は奴国王となり、
今度は鉄原料を求めて半島出兵していきます。

にもかかわらず、これだけ大量の青銅器をリサイクルせず埋納したということは、
・武器の主流が鉄器となっていた
・青銅原料の入手量が充分確保されていた
ということですね。

北方の奴族との連携があった、ことを示唆しますね。

88 :日本@名無史さん:2022/05/05(木) 18:34:28.55 .net
奴国王と土井ヶ浜遺跡女王の、
長男が、建沼河男命。次男が、建御名方命。

男系は奴国王、女系は旧八岐大蛇族、でしょうが、
母方の祖父や曽祖父は、燕人や、豊国ワニ系吉武高木大王派遣将軍でしょうね。

建沼河男命は土井ヶ浜遺跡周辺を継いで、
建御名方命は荒神谷遺跡周辺を継いだわけですね。
後者の子孫が難升米で、神原神社古墳なども関わってきます。

89 :日本@名無史さん:2022/05/06(金) 19:25:11 .net
こんばんは~

90 :日本@名無史さん:2022/05/07(土) 12:28:04.05 .net
>>70
鉛同位体比などからは、
菱環鈕から外縁付鈕1式までの古式の銅鐸が、朝鮮半島系の青銅原料。
外縁付鈕2式以降が、華北産中国系の青銅原料ですね。

前108年に楽浪郡が設置されたことで、漢本国から楽浪郡までの流通が容易になって、
輸送コストの低下から、華北原料のコストも下がって、倭人の調達先としてメインになったのでしょう。
となると、
前100年頃に、同系統の外縁付鈕にて、1式から2式への材料変化があったことになりますね。

楽浪郡史が伊都國にいたのは、青銅原料の取引が目的(もちろん朱なども)でもあったのでしょう。

荒神谷遺跡の銅鐸は古いものだけですが、これは時代によるものではなく、
おそらく溶かして使用するのに、古い銅鐸の材質よりも、外縁付鈕2式以降を溶かした材質の方が、
武器としての銅剣を作るのに適していた、ということでしょうね。
外縁付鈕2式以降のものも荒神谷遺跡に運び込まれていたが、これらは優先的に溶かされて銅剣の材料にされていった。
古い銅鐸はとりあえず使われず置いてあったので、荒神谷遺跡占領時に一緒に埋納されることになった。
ということでしょうね。

突線鈕2式3式の、近畿式・三遠式については、
西からの銅戈軍と、東に逃げ込んだ軍神軍が、どちらも同じような鉛同位体比のものを使っていることから、
軍神が逃走する前、つまり奴国王時代の一世紀中頃から、大量に輸入していた華北産青銅原料のもの、
ということになりますね。

楽浪郡から倭に流通した青銅原料は、一世紀中頃から少なくとも二世紀初頭までは、ほぼ一つの鉱山からのものだったのですね。

91 :日本@名無史さん:2022/05/07(土) 12:58:10 .net
>>20
柳沢遺跡を起点にして、四方から石戈が出土していますね。

柳沢遺跡から出土した銅戈は8本ですから、8尋の大軍ですね。
上越市から川沿いに攻め込んだ銅戈軍は初戦を勝利して、中野市で勝利式典を行った。
銅鐸は、軍神側が、物見として山腹に配備していたのを接収したものですね。

軍神本隊は、軽井沢方面へ撤退しますが、急いで逃げ去るのではなく、
背を見せつつ銅戈軍を挑発し続けます。

柳沢遺跡占領直後の銅戈軍の軍議では、
・柳沢遺跡周辺の鎮圧に専念して、北部九州からの援軍を待つか、
・柳沢遺跡から更に出陣して、自軍だけで軍神軍を討って金印を奪取するか
で、銅戈軍将軍は後者を選んだわけですね。

まだ陣中にあって、青銅原料や工房工人などありませんから、旗印は石戈で代用して、
軍を分けて、
四方に散る軍神ゲリラ部隊を掃討にかかるのと、
軽井沢方面の軍神本隊の追撃と、にかかったわけです。

四方に散る石戈のうち、埋納されずに住居跡などから見つかったものは、
それぞれの場所で孤立して各個撃破された跡でしょう。

関東へ深入りした先の、前中西遺跡にて、方形周溝墓から石戈が出土しています。
同じ遺跡の住居からは、樋分離型銅戈型の石戈も出土しています。
が、武具などは出土していませんね。

この集落の辺りで、銅戈軍の総大将が討たれた。ということでしょう。
同じ水軍大将同士、元は北部九州時代の顔見知りでもあったでしょうから、
軍神が銅戈軍総大将を方形周溝墓に弔ってあげた、ということでしょうね。

92 :日本@名無史さん:2022/05/07(土) 16:05:52.87 .net
>>85
砂丘墓地+貝輪繋がりで、
土井ヶ浜遺跡から少なくとも古浦砂丘遺跡まで勢力圏だったのでしょうね。

古浦砂丘遺跡の、額から左眼にかけて青緑色の青銅器装着痕がある男性4人は、
おそらく燕系の青銅器工人の頭領でしょう。
炉の炎をずっと見ていると目が焼けるので、遮光器ゴーグルを装着していた。
スリット型だと視力向上効果もあるので一石二鳥ですね。
さらに旧八岐大蛇族のファッションセンスで、スチームパンク風の21世紀レベルの
おしゃれな青銅製遮光ゴーグルを常用していたのですね。一石三鳥でしょうか。

同じ渡来系奴族工人が西の奴国で成功しているのを見ていて、
平形銅剣女王国からの援軍依頼を受けた時に、
はるか逃れてきた東夷辺境の島国で、一旗揚げてみようかと、色気が出たのでしょうね。
土井ヶ浜女王とは意見が対立しながら、銅剣作成を引き受けたのでしょう。

燕系工人が強固な戦闘用銅剣を作るには、古式銅鐸の朝鮮系青銅ではなく、
外縁付鈕2式以降の華北系青銅が最適だった。
それに、燕族持参の青銅を混合したわけですね。

93 :日本@名無史さん:2022/05/07(土) 16:34:53.05 .net
古浦砂丘遺跡のすぐそばの、志谷奥遺跡から、
銅鐸2つと銅剣6本が見つかっています。

銅鐸は、外縁付録1式と扁平紐式が一つずつ。
銅剣は、荒神谷遺跡と同じ中細形銅剣c類が6本。いずれも激しい戦闘で破損しています。

これはどういうことかというと、
銅鐸2つは、平形銅剣女王国からのなけなしの供出品ですね。
燕系青銅職人(=荒神谷遺跡工人=古浦砂丘遺跡工人)が作った最高級銅剣を装備した兵士6人が、
銅鐸を護衛しながら、日本海沿岸を東から西に向かって舟で移動してきたわけですね。

それが上陸してみると、既に中広形銅矛軍に占領されていた。

大量の中広形銅矛占領軍に追いかけられて、銅剣兵達は丘の上に逃げたけれども、
山道の向こう側からも中広形銅矛軍が押し寄せて、逃げ場を失い、
6人とも必死で戦ったが戦死した。
埋納抗がほぼ認められませんから、
6人の遺体と、ボロボロになった銅剣と銅鐸は、山道から放られて斜面に打ち捨てられ、
青銅器だけが残り、土が積もったのでしょう。

94 :日本@名無史さん:2022/05/12(木) 14:52:39.22 .net
伊都国は一大率を置くくらいに重要な場所、普通なら必ず大きな港あるでしょう。それなのに末盧国から陸行したんだから伊都国は海岸線ではなく内陸部なんじゃない?だから正論になりつつある糸島じゃないような気がする。
東に海がありその奥に陸地があるように書かれているんのは間違いない事実。普通に考えたら島原半島東側か大分県の海沿い。島原半島なら雲仙があるし火山の事くらい記載しそう。火山の火の字もないから大分県の海沿い。福岡県の中津市あたりから宮崎県の延岡くらいまでが怪しい。

後、中国に応援や友好を求めるのだから中国に影響力をもつ九州北部だと思う。そうなると中津市宇佐市や大分市くらいまでか?畿内や四国が邪馬台国ならわざわざ中国に友好や応援を頼む意味がないし。
邪馬台国連合だから佐賀市、鳥栖市、久留米市あたりも邪馬台国で首都が中津市宇佐市あたりのような気がする。

もちろん持論だし根拠はないっす。
長文失礼しました。

95 :日本@名無史さん:2022/06/06(月) 12:02:15.75 .net
>>1
またデタラメを

そのうち安曇とか言い出して馬脚を表すのだろう

96 :日本@名無史さん:2022/06/20(月) 06:29:28 .net
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が帯方郡から会稽東冶に至る「中国大陸沿岸の行程」を倭国に転用した忖度(方便)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

おそらく洛陽(後漢〜曹魏〜西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上にあって、(自ら渡海してまで朝貢して来て)呉を牽制しようとアピールしている可愛い国という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで、呆気ないものですね( *´艸`)

97 :日本@名無史さん:2022/06/20(月) 07:57:22.90 .net
>>94
>福岡県の中津市あたりから宮崎県の延岡くらいまでが怪しい。

なぜ内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれたのか、理由を教えて進ぜよう。
大陸からの「行き」と「帰り」のルートは異なる。
伊都国(直方)は、大陸との往路と復路の分岐点に位置する。 
だから、大陸からの「行き」と「帰り」の両方を監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。  
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国在留管理庁」。  
その伊都国は千戸程度だから、「感田上原遺跡」や「感田野添西遺跡」「平原池の上遺跡」だろう。   @阿波 

98 :日本@名無史さん:2022/06/25(土) 03:10:19.33 .net
港も無い交通の不便な内陸部にに伊都国があったとは思えない。
それと
邪馬台国の四国説とか沖縄説を主張している人は本気なのだろうか。
本気だとはとても思えないのだが。

99 :日本@名無史さん:2022/06/25(土) 07:05:54.91 .net
>>98
そう思うのは、単純に無知で頭が固いから。   @阿波

100 :日本@名無史さん:2022/06/30(木) 17:41:13 .net
負け惜しみ?

101 :日本@名無史さん:2022/07/11(月) 08:12:59.99 .net
四国や近畿なら中国に大金とリスクを追って親善大使を送る価値あるか?
中国に親善大使を送る目的は普通に考えて中国が脅威で敵にしたくないからでは?そう考えるとやはり北九州。親善大使をどうゆう目的で送ったのかがわかればもう少し謎が解けそうだけど。
四国や近畿なら壱岐国に寄る意味もないような気もするが⁈後、四国なら瀬戸内海に海賊とか普通にいるからそのリスクを追ってまで中国側からわざわざお礼の使者をだすかも微妙。

102 :日本@名無史さん:2022/07/11(月) 20:19:36 .net
>>101
>四国なら瀬戸内海に海賊とか普通にいるからそのリスクを追ってまで中国側からわざわざお礼の使者をだすかも微妙。

そもそも、「邪馬臺国」「阿波」へ行くのに瀬戸内海は通らないから。   @阿波

103 :日本@名無史さん:2022/07/11(月) 23:13:40.30 .net
>>102
当時の人間なのか⁈まるで当時の海路を知っているかのようだけど。
いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬→北九州→関門海峡→瀬戸内海→徳島が凡人の俺にはこの海路が普通だと感じる。
熊本から鹿児島、高知から周るのはあまり賢い航海には感じないんだよ。当時の船の能力や技術がどの程度かにもよるけと。
後、当時の地形や陸地がどんな感じかにもよるけど。
当時は5〜6メートル水位が低かったような文献をみたようなきもするが⁈
まあ、いろんな意見があるからこのネタは尽きない。

104 :日本@名無史さん:2022/07/12(火) 06:28:19.69 .net
>>103
>いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬

そもそも、初っ端の「釜山→対馬」から間違い。 対馬海州に流されて対馬の着けない。   @阿波

105 :日本@名無史さん:2022/07/12(火) 06:28:54.93 .net
>>103
>いろいろ行き方はあると思うけど海路で徳島に行くなら普通に考えると釜山→対馬

そもそも、初っ端の「釜山→対馬」から間違い。 対馬海流に流されて対馬に着けない。   @阿波

106 :日本@名無史さん:2022/07/19(火) 23:40:20.63 ID:FywT7dB7f
>>92
>おしゃれな青銅製遮光ゴーグルを常用していたのですね。一石三鳥でしょうか。
スリット型ゴーグルだと、目の防護効果もありますね。
現代での作業時は透明のゴーグルで目を防護しますが、
弥生時代にガラスやプラスチックは有りませんから、スリットで金属片が目に入って怪我をするのを防護したのですね。

>>85
>銅鐸なら平形銅剣女王国で製作する技術があったが、
>戦での使用に耐えうる実戦用銅剣を製作する技術は無かった。
つまりは、古浦砂丘遺跡の燕系青銅職人は、
「鋳造」ではなく、「鍛造」を行っていた、ということですね。

107 :日本@名無史さん:2022/07/20(水) 00:16:43.39 ID:QtCZ+7mQF
>>93
当時の経済における青銅器の価値にもよりますが、
銅鐸2個に対して、青銅剣士6人も護衛につけるのは多すぎで、
舟にはもっと多くの銅鐸が積まれていた筈ですね。

志谷奥遺跡のすぐ前の佐陀川河口の船着き場に上陸したところ、
留守中に侵攻してきていた中広型銅矛軍に出くわして、
とりあえず手で持てる銅鐸2個だけ掴んで丘を上へと逃げて、
そこで討ち死にした。

中広型銅矛軍は、
志谷奥遺跡の銅剣や銅鐸、
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の青銅器、
などを鹵獲せず打ち捨てていますから、
既に鉄製武器を主兵装にしていたし、
対馬海峡経由での青銅原料入手にも困っていなかったわけですね。

よって、青銅剣士6人が運んできて、とりあえず掴んで逃げた、志谷奥遺跡の2つの銅鐸以外の、
おそらく掴んで逃げるには大きすぎたであろうサイズの銅鐸群は、そのまま船着き場で川面に破棄されて、
今も佐陀川河口辺りの水底の砂の中に眠っている可能性が高いですね。

108 :日本@名無史さん:2022/07/20(水) 00:30:12.63 ID:QtCZ+7mQF
また、青銅原料としての銅鐸群を海上輸送してきた青銅剣士6人が、
中海→大橋川→宍道湖の南コースでなく、
日本海側から志谷奥遺跡に上陸したということは、

燕系青銅職人の工房は、中海〜大橋川〜宍道湖に面した場所でなく、
日本海側から佐陀川の河口に入った辺りの川沿いにあったことになります。
例の古浦砂丘遺跡も日本海側ですね。

まだ未発見の青銅工房にも貴重な青銅器が眠っている可能性が高いですね。

109 :日本@名無史さん:2022/07/20(水) 00:35:04.93 ID:QtCZ+7mQF
燕国は、秦によって前222年に滅ぼされます。
数万人の燕人が朝鮮半島へ亡命したことが記録されており、
彼らがその後どうなったか記録されていませんから、その一部は日本列島にも難民として押し寄せた可能性があります。

衛氏朝鮮が旧燕国支配層の受け皿となって、燕国再興を目指しますが、
前漢(前206〜)の成立時に、旧燕人による旧燕領奪取は失敗して、
旧燕国とは全然関係ない前漢の南方出身領主が着任しますね。

で、前漢の武帝によって、前108年に衛氏朝鮮が滅ぼされて、楽浪郡設置ですね。

つまり、前222年頃から、燕人の難民がやって来はじめて、
前108年には、旧燕国の支配層上流層も亡命してきた可能性が高い。

秦末期などには、旧燕勢力は燕再興に動いていたわけですから、その再興資金があったはずです。
徳川埋蔵金ならぬ燕再興資金ですね。
金銀財宝もあったでしょうが、青銅原料(インゴットや完形の青銅器)や青銅武器職人も、
再興軍資金や人的資源だったのでしょう。

前108年には、それら燕再興資金も一緒に渡来してきた可能性が非常に高い。

その末裔が中広型銅矛軍と敵対してしまい、敗北した結果が、荒神谷遺跡の中細形銅剣c類。

金銀宝飾品は中広型銅矛軍が接収していったでしょうが、
青銅器についてはどれもこれも埋納など放棄している。
ということは、佐陀川の河口近くの弥生青銅工房に、
紀元前の周あるいは燕の青銅器が眠っている可能性がありますね。

中広型銅矛軍にとってはただの青銅の塊だったかもしれませんが、
現代の我々にとっては。

110 :日本@名無史さん:2022/07/21(木) 23:15:30.33 ID:JWUluq2RB
陶?(トウケン)=土笛

卵型のオカリナのような吹奏楽器
古代中国で殷代から使用されていた
漢代には宮廷音楽で使用されたが、その後廃れた

朝鮮半島からは出土していない

日本での出土は100個前後
 山陰地方でほぼ全て
 半数以上が島根県松江市の西川津遺跡とタテチョウ遺跡
  東に隣接した米子市目久美遺跡(加茂川流域)や青谷上寺地遺跡からも少数出土
 次に山口県下関市周辺の中ノ浜遺跡や綾羅木郷遺跡
 東の丹後半島の扇谷遺跡と途中ケ丘遺跡から少数

 九州では宗像の光岡長尾遺跡と北九州市の高槻遺跡のみ

 遠く離れて弥生時代後期に静岡県浜松市の伊場遺跡から1個


中国で殷代から使われていた土笛が、
朝鮮半島並びに北部九州倭国をすっ飛ばして、
日本海沿岸から集中出土しているわけですね。

111 :日本@名無史さん:2022/07/21(木) 23:16:15.29 ID:JWUluq2RB
燕の青銅器や青銅職人がやって来ているのだから、
燕人が土笛をもってやって来た、と安直に考えたいところですが、
矛盾が生じますね。

燕は最盛期には朝鮮半島北部を領有していた時代もありますし、
燕が滅亡した後の衛氏朝鮮も、旧燕関係者の国でしたし、
戦乱で燕人が数万人も朝鮮半島に避難してきた記録も残っています。

ですから、日本列島に土笛を持ち込んだのが燕人であれば、
朝鮮半島にも土笛が出土するはずなんですね。

ですから、燕や衛氏朝鮮の影響が強かった朝鮮半島に土笛が出土しないということは、
土笛集団というのは、むしろ燕とは敵対していた勢力の人々であった、
ということになります。

だから、朝鮮半島には入れずに、
直接日本列島まで流浪してきたわけですね。

112 :日本@名無史さん:2022/07/21(木) 23:18:23.62 ID:JWUluq2RB
燕(前1100頃〜前222)
 北京〜遼東(〜朝鮮半島北部)

斉(姜斉:前1046〜前386、田斉:前386〜前221)
 山東半島
 姜斉は周の太公望によって建国された周代の重要国
 姜斉に成り代わった田斉も周から任ぜられた戦国七雄
 斉は燕の南に接する山東半島の強国だった


前664-663 北方から攻められた燕を、姜斉の桓公が助ける

前314 燕の内乱に乗じて田斉が燕に攻め込み、一時的に燕滅亡
前285-284 燕の楽毅が5か国連合軍を率いて斉に攻め込み、首都臨?を陥落、斉領土の大半を占領
前279 楽毅が趙へ移籍して、斉が領土を取り返す

秦による統一
前226 燕の首都陥落
前222 燕王が逃れた先の遼東にも秦が侵攻、平壌で捕らえられ燕滅亡
前221 斉は西に軍を集中させていたが、秦は旧燕領の北から攻め込み、斉滅亡、秦建国

前206 前漢建国
前195 旧燕貴族によって衛氏朝鮮建国
前108 前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡設置

113 :日本@名無史さん:2022/07/21(木) 23:19:42.50 ID:JWUluq2RB
こうして見ると、日本列島に土笛をもたらす集団は、
・燕と敵対している=朝鮮半島に入れない
・対馬海峡へ辿り着ける=山東半島よりは北の沿岸部(楚人なら南へ逃げる)
の条件を満たす、
「前284年に大敗した斉」の人々しかありませんね。

前221年に斉が滅亡した時であれば、燕は前年に滅亡しているため、
斉人は箕子朝鮮にある程度は受け入れられたはずですね。

前284年の、勢い盛んだった燕に大敗したので、斉の人々が大量に海へ逃げだしたものの、
燕影響下の朝鮮半島には居つけなくて、
朝鮮半島南部まで流れて、倭に泣きついて、なんとか受け入れてもらったわけですね。

114 :日本@名無史さん:2022/07/21(木) 23:21:45.00 ID:JWUluq2RB
日本列島側に目を向けてみます。

対馬海峡〜唐津〜糸島を統一した倭人・男系
古代出雲(宗像市など遠賀川以西)と古代伯耆(北九州市など遠賀川以東)の豊人・女系
が婚姻同盟して、佐賀県福岡県の北岸を統一します。

統一王が吉武高木大王ですね。旧伊都です。倭人伝の里程ですね。

吉武高木大王系の東征将軍が宗像の田熊石畑遺跡将軍。

関門海峡を越えた、古代越の勢力を征討して、日本海沿岸を支配します。

扇谷遺跡が運営されたということは、朝鮮半島からの鉄原料の安定供給が丹後半島まで成されていたわけで、
日本海沿岸は吉武高木大王が安定支配していたことになります。

115 :日本@名無史さん:2022/07/21(木) 23:22:32.23 ID:JWUluq2RB
土笛の分布は特徴的で、
九州において、わずかに豊国から3点出土するのみですね。

もし九州がバラバラの小国だったのなら、
土笛の人々はそれぞれの国に受け入れられたり受け入れられなかったり、
あるいは南部など未開の地域に勝手に入植したりと、
九州のあちこちから土笛が出土するはずです。

それが、まるで誘導されたかのように、松江周辺と下関周辺から集中出土する。

ということは、対馬海峡〜北部九州〜日本海沿岸の少なくとも丹後半島までは、
吉武高木遺跡の宮殿にいた殿上人達によって支配されていて、
斉からの難民を対馬海峡渡海させて受け入れることを決めたり、
松江や下関に居住させることを決めたり、
国家的判断を下した、ということを意味していますね。

116 :日本@名無史さん:2022/07/21(木) 23:25:10.57 ID:JWUluq2RB
・対馬海峡〜北部九州〜日本海沿岸は、吉武高木政治集団によって支配されていた

・斉の土笛難民は、吉武高木政治集団によって、対馬海峡渡海を許された
・斉の土笛難民は、吉武高木政治集団によって、松江と下関に居住を許された

・唐津や旧伊都(吉武高木)や奴国に土笛が出ないので、土笛難民は、王族を含まない一般人主体の難民だった

・琵琶湖沿岸や瀬戸内沿岸や紀伊土佐といった、カモ系の銅鐸+環濠集落の入植先と同期していないので、
 斉の土笛難民は、古代越の旧八岐大蛇系の土地に押しつけられた

・扇谷遺跡と途中ケ丘遺跡は前285年には稼働していた。

117 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 10:49:06.70 ID:XH7xXl7n4
>>82
天浮橋については、
現代の地図を見ると、金印志賀島に連なる海の中道だと考える向きが多いですが、
福岡市の古地図を見ると、西鉄平尾〜北へ〜福崎〜東へ〜長浜〜須崎、が半島となっており、
こちらの方が天浮橋だった可能性が高いですね。

海の中道だと、奴國あるいは不彌國の領域ですから、下界側ですね。
平尾〜福崎長浜須崎の半島であれば、伊都側ですから、「天」浮橋と、天を冠して矛盾がありません。

118 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 10:49:42.05 ID:XH7xXl7n4
57年光武帝に謁見して金印拝領
58年金印来倭(倭人伝里程)
  大倭が設置され、本部は硯出土の旧三輪町、長官が大物主

疫病も同時に来倭して奴國不彌國を震源に大流行

59年頃から国譲りイベント開始
使者で+11年
70年に奴國大洪水が起きて奴國王失脚

奴国王は、洪水被害の雀居遺跡から、
妻の実家の古代出雲=宗像に避難した先で、捕縛

金印を管理する軍神は諏訪に逃げるも、
金印そのものは息子に持たせて長崎伊邪國に秘匿

子孫の難升米父によって、
倭国乱時の大物主を擁立して狗奴国勃興

119 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 10:50:26.76 ID:XH7xXl7n4
オシホミミが奴国制圧を命じられた時は、
天浮橋、つまり長浜半島の先端の須崎から、奴国を遠望して、
疫病の感染者がのたうち回り、死者が河口に浮かんでいるのを見て、
とても軍で入れる状態ではない(こちらも感染してしまう)ので、
引き返した。

その後に奴国へ送りこまれた使者の人選基準というのは、
疫病に罹患して、回復した人物、だったのでしょうね。

弥生時代の人々も、一度疫病に罹って回復した人は再感染しにくくなる(免疫)
ことに気づいていて、疫病の只中へ訪ねていく使者の人選を行ったということでしょうね。

120 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 10:53:18.08 ID:XH7xXl7n4
ニニギが旧伊都(吉武遺跡)から新伊都(三雲遺跡)へ移動しようとしている時に、
天之八衢に現れたサルタヒコというのは、
日向峠に工房を持っていた工人だということになります。

日向峠のサルタヒコが、夕日をバックにして、旧伊都=吉武遺跡側からの使者と相対したら、
夕日は東の早良平野と福岡平野、つまり伊都説での高天原と葦原那珂津国とを照らすことになります。

その光を顔面で受けて立つアメノウズメとは、銅鏡を額につけていた巫女なのでしょう。

サルタヒコの
目が赤いのは、鍛冶炉の光で焼けているから、
七咫の鼻は、鍛冶職人の仕事道具であるふいごですね。筑紫型の。

121 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 10:56:52.91 ID:XH7xXl7n4
ここで初めて出迎える、ということは、
早良吉武遺跡側ではなく、
行く先の柏崎遺跡側のお抱え工人だったことになりますね。
高い確率でオルドス式銅剣(遼寧式銅剣・双環柄頭短剣)の一族であり、
カモの入植先と同期しています。

高島市の熊野本遺跡のように、山中に工房を営み、木材・炭をある程度自給していたのでしょう。
日向峠にも熊野本遺跡程度の工房跡は眠っている筈ですね。

また遼寧式銅剣だと燕の勢力範囲と重なっており、
ということは、古浦砂丘遺跡の工人も含めて、108年に渡来した燕系工人だった可能性が高くなり、
古浦砂丘遺跡においても本来は、遼寧式銅剣があったのだけれども、
中細形銅剣c類の原料としてリサイクルされたのだろう、
と予想されますね。

カモ+燕(+吉武王家)
 VS
ワニ+奴族(+吉武王族ムナカタ将軍家)
の構図が浮かんできますね。

シーソーのように、一方が失脚すると、もう一方が栄える。

122 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 10:58:26.79 ID:XH7xXl7n4
故爾 詔天津日子番能邇邇藝命而
離天之石位 押分天之八重多那雲而
伊都能知和岐知和岐弖
於天浮橋 宇岐
士摩理 蘇理多多斯弖
天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣

ニニギ(既にニギ=伊都知事となっていた)
天の磐座(吉武高木宮殿)を離れて、天の八重棚雲を押し分けて、
伊都の道を威風堂々と進んで、
天浮橋(福崎)から出港して(海上に浮き)
斯馬國(当時は島だった糸島半島)に途中休憩でお立ち寄りになり、
筑紫の日向(糸島平野)の高祖宮管内のクシフル岳に天降りされました。

123 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 15:47:28.22 ID:XH7xXl7n4
ニニギが笠沙の岬でコノハナサクヤに出会うわけですが、
一夜の契りで妊娠したため、国津神の子ではないかと疑いますね。

この国津神が指すのは、
もちろん直前まで栄えていた奴族の可能性もありますが、
奴族の奴国は東向こうで伊都を挟んではるか反対方向ですね。

文脈からは、親のオオヤマツミを除けば、
直前に出てきた国津神はサルタヒコですから、
サルタヒコの子ではないかと疑った流れにも読めますね。

ちなみにヒコがつくことから、北部九州倭国になにがしかの所領を持っていたことになります。
前述のごとく日向峠の青銅工房とその周辺でしょうけども。

124 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 15:48:17.72 ID:XH7xXl7n4
ということは、
カモ女性が、前108年にやってきた旧燕王族貴族や工人頭と、婚姻をすることがままあったことになります。
その前提条件があったから、疑われたわけですね。

70から、土井ヶ浜遺跡の英雄の骨年齢、を引き算して、
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の年代=銅矛銅剣戦争の終結が20年代と推測されるので、

前108年から後20年代までは、カモ遺跡に燕支配層の血がある程度入ることがあった。

後20年代から70年までは、銅剣集団に勝者の中広型銅矛将軍転じて奴国王の血が大量に入った。

125 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 15:49:12.85 ID:XH7xXl7n4
>>112
朝鮮半島北部で考えると、
前195に建国された燕系の衛氏朝鮮が、前108に前漢によって滅ぼされます。

その後、楽浪郡の周囲には、
?王之印、の?の系列の国である、?、高句麗、夫餘、東沃沮、が
楽浪郡を取り囲むように存在していますので、
おそらくこれら?の系列の国が、前漢と同盟して、衛氏朝鮮を滅ぼした、
と考えるのが妥当ですね。

奴族もまた?系であり、三雲遺跡の漢・楽浪人とは昵懇で、
青銅原料の大量入手が可能だった。
そこから勢力を伸ばし、銅剣銅矛戦争に勝利して、
奴国王が漢から金印を貰う流れになったと考えることもできますね。

126 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:04:07.96 ID:XH7xXl7n4
田〇山遺跡

宍道湖の東南湖畔にある丘陵上の環濠遺跡
頂上部に柱穴9本の掘立柱建物と5本の掘立柱建物の2つだけを三重環濠で囲っている

竪穴住居は環濠の外
北西斜面の竪穴住居に焼失跡あり
北500メートルにある環濠集落の神後田遺跡も同一生活圏

硯出土
銅剣型石剣(滋賀県高島市の石か)
多数の石(葺石もしくは石礫)

頂上の柱穴9本の掘立柱建物は北北東を向いており、
その先には宍道湖の嫁ヶ島(竹生島神社)がある
嫁ヶ島の竹生島神社は神後田遺跡の野代神社管轄(大己貴命、事代主命、建御名方命)

127 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:07:01.66 ID:XH7xXl7n4
九州説と関係なく、
記紀と出雲国風土記から、
カモのタギリヒメがアヂスキタカヒコネを出雲で産んだわけですから、
タギリヒメも関わる祭祀遺跡であった可能性を仮定できますね。

さらに出雲国風土記には、
宍道湖の対岸(北東岸)である楯縫郡の条にて、
「阿遅須枳高日子命之后 天御梶日女命 来坐多忠村 産給多伎都比古命
 爾時教詔 汝命之御祖之向位欲生 此處宜也
 所謂石神者 即是多伎都比古命之御託 当旱乞雨時必令零也」
アヂスキタカヒコネの后である、天御梶日女命が、多伎都比古命を産む際に、
楯縫郡の神名樋山にて、多伎都比古命の「祖先の向かい」位で産みたいから、ここがよろしい。
「石神」といって、多伎都比古命が雨ごいすれば必ず雨を降らせてくれる。

と言っており、
まさに田〇山遺跡は、地理的にも宍道湖を挟んで真向かいですし、
葺石で葺かれていたあるいは石礫で祭祀を行っていた、と考えられていますから、
タギリヒメが関わっていた可能性が高くなってきます。

128 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:09:07.38 ID:XH7xXl7n4
九州説で考えてみると、
オルドス式銅剣が、柏崎遺跡〜高島市上御殿遺跡
硯が、北部九州〜田〇山遺跡
高島市産の石で作られた中細型銅剣型石剣
宗像三女神の沖ノ島祭祀の投影が、竹生島に向けた遥拝所

ということで、古代豊国カモ系の、沖ノ島女神祭祀・銅剣祭祀であろうと考えられますね。

タギリヒメ〜伊都岐島ヒメ・コノハナサクヤヒメ〜〜卑弥呼

129 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:11:13.30 ID:XH7xXl7n4
>>124
>前108年から後20年代までは、カモ遺跡に燕支配層の血がある程度入ることがあった。

荒神谷遺跡の鉛同位体比からの燕系素材の示唆を加味すると、
亡命燕王族とカモは親密になった。
亡命燕王族は吉武高木集団の配下に入り、その一部が地方領を得て松江市に赴任した。

代々カモ女王筋の姫が嫁入りし、沖ノ島(竹生島)遥拝祭祀をしていた。
5本の掘立柱建物は物見やぐら兼避雷針。

T姫の代になって、
北部九州〜瀬戸内木俣を巡って、N命とY姫が夫婦喧嘩を始めた。
銅矛銅剣戦争末期に、同族のT姫と夫の燕亡命勢も参戦の準備を始めた。

それを察知したN命の大軍がやって来て、征服された。

130 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:11:57.15 ID:XH7xXl7n4
佐太神社というのは、
笠沙岬〜日向にいた猿田彦とは同族、あるいはその元王であった、
ということですね。

伊都説だと三雲南小路1号がニニギとなりますから、
有柄中細形銅剣が棺外に添えられていたということは、サルタヒコは、
新伊都大王のお抱え工人として取り立てられていた、ということですね。

131 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:12:58.48 ID:XH7xXl7n4
>>82
出雲国風土記に、
西の神門郡の古志郷に古志國の人々が到来して堤を建設した、
とありますから、
古代越は、山口県から、最も東でも、出雲市よりは手前までだった、ということですね。

また、出雲国風土記にはスセリビメは1ヵ所しか登場せず、
同じく西の神門郡に鎮座したとあります。

よって、先の土笛なども合わせて考えると、
1世紀のこの地域は、
西の出雲市に八束水臣津野命の一族を筆頭に、
神魂命の綾門比女命、
古代越=土井ヶ浜遺跡を中心とする地域からの人々
田熊石畑遺跡将軍配下の部隊+ワニ
などが混在。

東の松江市の東部に、
斉からの土笛難民(西川津遺跡とタテチョウ遺跡)
そしてなんとその領主に燕王族+カモ(神後田遺跡+田〇山遺跡)

という状況で、
環濠で厳重に防備しておく必要があったわけですね。

132 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:13:36.10 ID:XH7xXl7n4
出雲国風土記が教えてくれることがもう一つあります。

大原郡の条。
来次郷の由来に、
「所造天下大神命詔 八十神者 不置青垣山裏
 詔而 追撥時 此處追次坐 故云来次」
とあります。
要するに、大己貴命が、兄の八十神達を奴国には住まわせないと宣言して、追い払う時に、
ここで追いついた、ということです。
雲南市木次町ですね。

また同じ大原郡の条。城名樋山。
「所造天下大神大穴持命 為伐八十神 造城 故云城名樋也」
大己貴命が兄の八十神たちを征伐しようとして、城を造った。

つまり、奴国から兄達を追い出して、追いかけてきて、
兄達は雲南市木次町で一度追いつかれたけれども、中国山地の奥へと逃げて行ったので、
大己貴命は城を造ってしばらく対峙したわけですね。

その奥にあるのが、三次市。
四隅突出型墳丘墓が発祥したと言われる地ですね。

133 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:33:22.47 ID:XH7xXl7n4
0年頃に須玖遺跡の奴国有力者の末弟として産まれた。

15年頃に兄達と共に、鐘崎の平型銅剣女王の元へ求婚・商談に行ったところ、
平形銅剣女王に気に入られて結婚できた。

当主の座を狙う兄達から付け狙われ、
瀬戸内高地性集落群の奥の、和歌山の太田黒田遺跡に匿われたが、
武装した兄達が押しかけてきたので、再度瀬戸内高地性集落群を抜けて、
平形銅剣女王からするとライバルの、田熊石畑遺跡将軍の元に預けられた。

田熊石畑将軍の若い娘とデキて、将軍になんとか結婚を認めてもらう。

田熊石畑将軍の軍を借りて、奴国の兄達を攻撃。
さらに兄達を追って、将軍の若い娘とハネムーンも兼ねて出雲市へ。

雲南市木次町で追いつくが、兄達はさらに山奥へと逃走して取り逃がした。

134 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:36:19.09 ID:XH7xXl7n4
かねて険悪だった豊国二大部族が開戦。銅矛銅剣戦争。

義父である田熊石畑将軍の配下として参戦も、途中で田熊石畑将軍が死去し、
自らが将軍に昇格。
田熊石畑将軍死去の機を逃さず、T姫とその夫が同族の銅剣女王側に参戦。
銅剣領内の銅鐸をかき集めて、古浦砂丘遺跡の青銅職人が中細形銅剣c類を大量生産。

それを察知して、16尋の大軍で出雲市上陸→松江市制圧(だから北東の竪穴住居が焼け落ちた)

20年頃、銅剣女王国降伏。荒神谷遺跡で降伏調印式。
T姫を手に入れる。
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の戦後処理をしている間に、
T姫がAタカヒコを出産。
T姫を豊国祭祀女王に推薦して、息子のAタカヒコを旧銅剣女王領の王とする。
土井ヶ浜女王も口説き落とす。

淡路島に舟木遺跡建設。

30年代、半島出兵。
30年代後半〜40年頃、若き軍神が活躍。

135 :日本@名無史さん:2022/07/24(日) 22:37:11.30 ID:XH7xXl7n4
56年、伊都の楽浪郡史を舟木遺跡まで案内。東夷伝里程。
57年、軍神が大夫として訪漢。

>>118
70年に失脚するので、兄達の子孫は70年からボチボチ三次市から出てきて、
倭国乱の時期に、後漢書の東の倭種・四隅突出国家「拘奴国」を成す。

136 :日本@名無史さん:2022/07/25(月) 22:53:57.58 ID:SmQPQh+lr
>>128
霊性の高い祭祀遺跡を解析することで、
原始神道の源流である沖ノ島祭祀・銅剣祭祀が前108年までは遡るわけですね。

銅矛祭祀は銅剣祭祀からの発展ですし、
海・湖→池、の島、という形もここから。

沖ノ島祭祀とはすなわち、遠賀式土器・鐘崎式土器を伴って、全国に稲作展開していった、
原日本人の原始神道であり、

その聖地には山鹿貝塚の祭祀女王がいて、
記紀には骨取り神事の記録も対応して残っています。

遥か縄文時代まで遡ろうかという壮大な流れですね。

137 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:05:04.10 ID:cgcvkobX2
遠賀川・鐘崎から出港して各地に入植していった、元が同じカモ系とはいえ、
1世紀前半の時点で既に、分派していたわけですね。

紀元前に吉武高木大王が誕生して、
その東征王族将軍である田熊石畑遺跡将軍が、山口県土井ヶ浜遺跡女王・八岐大蛇などの勢力を倒して、
日本海沿岸を制圧。

>>116
>扇谷遺跡と途中ケ丘遺跡は前285年には稼働していた。

吉武高木大王は、対馬海峡を押さえていますから、
金属器を初めとする海外交易品を完全掌握していて裕福です。
武装も強力ですね。

一方の豊国では、
古代出雲(遠賀川以西)のワニ部族は、田熊石畑遺跡(在豊国倭軍基地)を受け入れて、
利益を享受しましたが、

古代伯耆(遠賀川以東)のカモ部族は、倭軍占領地の先に独力で入植して、
木材や炭、米、生口、などを生産して、
それでもって倭と交易したわけですね。

138 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:05:49.62 ID:cgcvkobX2
琵琶湖の下之郷遺跡なども豊国カモの入植先で、
木材・炭や米を作って、扇谷遺跡や途中ケ丘遺跡などに供給して、
取引していたのでしょう。
時代が重なります。

それはもちろん、下之郷遺跡と扇谷遺跡だけの局地的な関係ではなくて、
下之郷遺跡などを擁するカモグループ全体と
扇谷遺跡などを擁する吉武高木グループ全体との、
広域交易サプライチェーンの一環として、という意味ですね。

139 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:08:06.17 ID:cgcvkobX2
カモの入植先は、同じ遠賀川からの先行稲作開拓民との争いが起きますから、
環濠集落+銅鐸Jアラートの防衛セットですね。

豊国ワニ+奴国王の旗印が中広型銅矛であるように、
カモの旗印は銅剣型石剣木剣あるいは祭祀型銅剣ですね。

過去スレで検討したように、
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の出土銅鐸との同笵銅鐸の分布、
銅剣型石剣木剣あるいは祭祀型銅剣の分布、
そして文献のカモ系と思われる勢力の分布、
とが一致しています。

そして前1世紀頃から、カモによって瀬戸内四国が開発されるのですが、
この頃から、古くからの日本海側と、
新規開発された瀬戸内四国側とで、微妙な違いが生じ始めますね。

140 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:10:25.64 ID:cgcvkobX2
日本海側を大山津見、瀬戸内四国を八上ヒメ、と考えます。

八上ヒメの勢力は、鐘崎式土器で瀬戸内四国〜紀伊に入植して、
高地性集落を建設して、
弥生時代の石油である、木材・炭を大量生産して大儲けして、
奴国に発注して豪華な平型銅剣を大量に埋納します。

一方の大山津見の勢力は、こちらの方が旧来の貴種勢力なのですが、
高地性集落や祭祀型銅剣はありません。
前108年に燕王族を受け入れ、燕工人も同時に配下にします。
オルドス式銅剣の出土は、柏崎遺跡から日本海沿岸を東に山口県〜琵琶湖高島市へ。
また柏崎遺跡から南に山を越えて吉野ヶ里遺跡へ。

文献でのアヂスキタカヒコネ関連をなぞりながら、
同笵銅鐸で岐阜までは追えて、
古代沖ノ島信仰からの竹生島信仰、さらにはHTLV-1の分布によって、日本海沿岸から琵琶湖沿岸までもなんとか関連付けることができますね。

141 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:12:22.15 ID:cgcvkobX2
豊国=古代出雲+古代伯耆は、
伊邪那岐・伊邪那美の時代は八雷神
吉武高木大王誕生時の政治変革で八山津見

八山津見を束ねる豊国女王が大山津見
(後の瀬戸内海の大山祇もカモ族ですが大山津見とは別ですね)

そう考えると、
八上ヒメが豊国女王の大山津見であれば、平型銅剣は日本海沿岸や琵琶湖にも配布していたはずですから、
八上ヒメはあくまでも、カモ女王系の地方女王であって、
非常に有能な実業家で、瀬戸内高地性集落群「木俣」を開発して、大儲けした女王である、
ということになりますね。

大山津見の本流とは違って、燕王族男性や吉武高木王族男性とは結婚していなくて、
奴族兄弟が求婚できるくらいの身分だった。

燕工人が配下に居ないので、高度な青銅器は奴国などに外注しなければならなかった。

配下の神官(巫女)である白ウサギに儀式を取り仕切らせて、
岡垣町に大型平型銅剣を埋納したり、豪勢に暮らしていたが、
豊国女王ではないので、豊国の舟を自由には動かせず、
沖ノ島祭祀をする際にワニの舟をチャーターしようとしてトラブルが起きたりした。

142 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:14:28.61 ID:cgcvkobX2
つらつら考えてみると、
奴族のお坊ちゃんたちが八上ヒメに求婚に行った、という時点で、
いくつかのことが決まって来ますね。

大己貴命の父親ですから、大勢の息子がいます。
多くの女性に多くの子供を産ませるのが家風でしょうか。
高句麗伝「其俗淫」

しかしそもそもで考えると、父親が健在なら、父親自らが八上ヒメを口説きに行くはずですね。

それが息子たちがぞろぞろ押しかけているということは、
・父親が死去した
・父親が超高齢
・父親が病床にある
といったことになります。

さらに、大己貴命が八上ヒメに選ばれた途端に大己貴命の命が狙われ、
大己貴命が兵権を得た途端に兄弟に逆襲をしかけるのですが、
それなら求婚の前に戦っていてもいいはずですね。その勝者が求婚すればいい。

と、いうことは、
父親は病床に臥せっているが、意識と威厳は保っていた。
父親が、自らの寿命を悟り、後継者を決めるのに、木俣の八上ヒメとの結婚を条件とした
兄弟は奴国当主の座をかけて八上ヒメの元へ求婚に行った
大己貴命が八上ヒメに選ばれた
その直後に、父親が死去した、あるいは不服な兄の一部に〇された
父親の威厳が亡くなって、そこからは腕力勝負になって、大己貴命がつけ狙われることとなった
ということになりますね。

143 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:16:17.49 ID:cgcvkobX2
コノハナサクヤヒメは大山津見の娘ですね。

大山津見を男と考えるなら、
そもそも唐津にいたのが大山津見で、その分派が豊国の八雷神→八山津見
伊邪那岐は大山津見の系列で、分派女王の伊邪那美を娶ったに過ぎない。

大山津見を女と考えるなら、
古事記では、父=乳=母、と考える。
書記本文では、天神が大山津見(女)を娶ったとある
書記の他一書では、父とあるのは一つだけで、あとは親であるのみ
ということで、女とも考えられます。

倭と豊国の関係からは、大山津見は豊国女王と考えるのが妥当で、
この場合は、市杵島姫神だと若すぎますから、
多紀理毘売命(田心姫神)が豊国女王の大山津見となります。

144 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:17:11.80 ID:cgcvkobX2
可能性が低い話とはなりますが、
T姫は、
佐太大神 田〇山遺跡
→奴国王 宗像豊国女王
→天神 柏崎遺跡
という人生遍歴を辿り、

??
アヂスキタカヒコネ・高ヒメ命(下照ヒメ)
天若ヒコ・コノハナサクヤヒメ・イワナガヒメ
という子を成した、のかもしれませんね。

145 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:18:00.91 ID:cgcvkobX2
?龍紋鏡

洛陽焼溝漢墓 33面 前32〜後146

モンゴル・ウランバートルなど匈奴 8面

楽浪郡 2面
弁辰領域 3面(祭祀型銅戈)

佐賀県 武雄市2面 吉野ヶ里近傍2面
福岡県 平原遺跡径165最大 北九州市2面中間市2面
大分宮崎 1面ずつ

島根県松江市八雲町 1面
石川県羽咋市 1面
岐阜市瑞龍寺山 1面

岡山県 2面
兵庫県 2面
和歌山 3面

奈良県宇陀市 1面

愛知県 朝日遺跡 1面(祭祀型銅戈)
愛知県 名古屋市熱田区 1面

146 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:18:54.37 ID:cgcvkobX2
?龍紋鏡の分布も不思議ですね。

・前32年頃には成立していた前漢鏡で、洛陽での下限は146年
・祭祀型銅戈

・伊都・奴国(北部九州の中広型銅矛領域)からは出土しない
・唯一の例外が平原遺跡で、それが最大

・瀬戸内和歌山 八上ヒメ領域
・松江岐阜 大山津見領域

・カモ領域の重要拠点のうち、高地田村遺跡と琵琶湖沿岸には出ていない

147 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:21:13.08 ID:cgcvkobX2
洛陽から?龍紋鏡を数十枚入手できるチャンスというのはごく限られていますね。
楽浪郡に2枚しかないので、基本的には洛陽からの大量直輸入で、楽浪郡経由というのもほぼ除外されるでしょう。
旧燕王族は、前108年が下限ですし、反漢ですから違いますね。

となると、57年奴国王か、107年倭国王か。

伊都説で考えるなら、
107年倭国王は、新伊都2代目のあの方ですから、
奥さんは豊国女王になった八尋ワニのあのお方ですね。
?龍紋鏡を得たなら、伊都ならびに豊国のワニ領域である宗像を中心とする地域に分布するはず。

T姫やアヂスキタカヒコネが得たのなら、アヂスキタカヒコネは銅戈時代の有力者ですから、
やはり伊都中央政界にも出るはずですし、
大倭の官庁である旧三輪町など筑後平野にも分布するはずですね。

奴国=北部九州の中広型銅矛分布域=那珂川流域〜宝満川流域(〜熊本)
に出ないのがポイントですね。

148 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:22:17.81 ID:cgcvkobX2
57年奴国王であれば、銅剣女王国に勝利して、各地のカモ女性首長やその娘を
雀居遺跡に呼び集めて、多くの子をなした。卑奴母離

要するに、奴国王が、銅矛銅剣戦争にてカモに勝利して、
T姫を頂点として、貴種女性を大量に集めて子作りした。
その子供達に文字教育をして、?龍紋鏡を渡したうえで、卑奴母離として故郷の領主として戻していった。

大山津見領域も、八上ヒメ領域も、?龍紋鏡の分布が見事に重なりますね。

もちろん他族の女性とも子をなしたでしょうけれども、
T姫を豊国女王にして、カモ領域、特に瀬戸内高地性集落群=木材・炭の大量生産機構
を支配下に置くことが重要だったわけですね。

そしてその先の淡路島に舟木遺跡を建造して、
金印入手に繋がっていったわけですね。

149 :日本@名無史さん:2022/07/29(金) 00:50:52.90 ID:cgcvkobX2
>・カモ領域の重要拠点のうち、高地田村遺跡と琵琶湖沿岸には出ていない

過去スレで検討した通り、
琵琶湖沿岸にあった?龍紋鏡は、卑弥呼が持ち帰って、平原遺跡に入った。

高地田村遺跡にあった?龍紋鏡は、アヂスキタカヒコネが保有していたのだが、
海戦で失われて、今もどこかの海底で眠っている。

ただ、平原遺跡卑弥呼の?龍紋鏡は最大なので、
豊国女王のものだった可能性がありますね。

そうだとすると、それは宗像三女神の象徴であり、
T姫→アヂスキタカヒコネ→アヂスキタカヒコネ失脚後の大山津見領域管轄=??
奴国?馬觚(ウマシマジ)?→旧女王国=不彌國奴國のカモ系地域女王卑弥呼
→倭王卑弥呼(平原遺跡)

150 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 17:39:09.71 ID:zfqn+QZUr
田村遺跡からは平形銅剣は出土していませんね。
鐘崎式土器は出ているので、カモ系の元は同じでしょうけれども、
派閥は違ったわけですね。

大山津見:末蘆〜古代伯耆〜田和山〜琵琶湖沿岸〜京都岐阜奈良
八上ヒメ:祭祀型銅剣分布域、高地性集落群<木俣>
田村遺跡:裸國

田村遺跡範囲からは中広形銅矛、祭祀型銅戈、広形銅矛、は出土しています。

中広形銅矛は土佐全域から夥しい量が出土しているのに対して、
祭祀型銅戈は四万十など土佐東部から4本のみ。
土佐一宮がアヂスキタカヒコネ
土佐にキ龍紋鏡が無い
田村遺跡から方格規矩四神鏡片が出土
平形銅矛の分布を最後に衰退
という経過からは、

カモ系で、王はおらず、0年前後はそれなりに人口の多い村落群だった。
八上ヒメとは木材・炭の商売敵(同族ライバル)だった。
銅矛銅剣戦争では、銅矛側について貴重な兵員を提供し、その見返りに各村落に中広形銅矛が贈られた。
カモ王族系アヂスキタカヒコネ(銅戈)の所領となってさらに栄えた。
古代土佐=裸国の役所は、最初は中広形銅戈の四万十にあったが、後に広形銅戈・土佐神社の高知へ移った。
銅戈・広形銅矛戦争(アヂスキタカヒコネvs山幸+ワニ)にて田村遺跡が攻め込まれ、大幅に衰退した。

151 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 17:40:43.10 ID:zfqn+QZUr
要するに、キ鏡とは、58年から70年の間に、
カ系の領主(女性地方領主)やその娘に、ナ国王(あるいはその息子)が産ませた子が、
その出身地の新領主として派遣された際に、
その身分を示すものとして渡された銅鏡だったことになりますね。
伊都や奴国から出ませんから。

ただし、58年に来倭したのが247年平原遺跡や後の古墳などに伝世副葬されているので、
1世紀前半くらいまでのキ鏡は、配布された本人のものでしょうから、支配地もイコールと考えて考察できますが、
1世紀後半以降のもの、あるいは破鏡などは、伝世したその子孫のものであることになり、
ということは、その子孫が仕官や軍事に伴って任地が移動している可能性はありますね。

152 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 17:42:06.32 ID:zfqn+QZUr
松江市八雲町の小屋谷3号墳からもキ鏡が出土していますが、95cmとやや小振りですから、
出雲国風土記からは、アヂスキタカヒコネの息子の多伎都比古命か塩冶毘古能命の可能性が高いですね。
ただ二人ともヒコがついているので、北部九州倭国で仕官した経歴があることになります。

時代を経て考えると、
58年〜70年の松江周辺は、タケミナカタが領主だったと思われるので、
その時期に、多伎都比古命or塩冶毘古能命は北部九州倭国で仕官していた。
70年にタケミナカタが逃走し、
カモ系アヂスキタカヒコネが有力者となるので、その息子の多伎都比古命or塩冶毘古能命が、
故郷の領主として派遣された。

1世紀初頭の銅戈・広形銅矛戦争でアヂスキタカヒコネが失脚するので、
小屋谷3号墳はそれよりも前ということになり、
多伎都比古命or塩冶毘古能命はアヂスキタカヒコネより先に亡くなって、
小屋谷3号墳に葬られたことになりますね。

153 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 17:45:03.38 ID:zfqn+QZUr
大元の古代伯耆(豊国遠賀川以東)では、北九州市と中間市から2面ずつ出土しています。

と、いうことは、古代伯耆のカモ系支配者は、北九州市と中間市に1人ずつという政治区分だった、
ということですね。

北九州市の南方浦山墳丘墓からは、平原遺跡165cmに次ぐ145cmのものが出ていますから、
これがカモ王族の本貫であり、
広形銅矛時代以降はワニ支配下に入りながらも、
カモ王族系譜の領主もなんとか存続していたことになります。

154 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 17:46:21.88 ID:zfqn+QZUr
佐賀平野に目を向けると、中央の佐賀市などには出ず、
西の武雄市と東の吉野ヶ里近郊に出ています。

と、いうことは、
佐賀中央の領主としては、末蘆〜伊都王族系の支配者が分布していた。
その両端辺境部に、カ系の支配者がいた。
銅矛銅剣戦争時に、武雄市にも吉野ヶ里近郊にも中広形銅矛が出土=進軍占領している。
カ系(女性)支配者もしくはその娘が、中広形銅矛将軍の元で産んだ子が、
キ鏡を持って赴任した。

155 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 20:31:59.34 ID:zfqn+QZUr
そうなると、165cmを保有する資格があるのはA大神しかありえないですね。
過去スレで検討した通り、卑弥呼はT姫などに連なる大山津見系のカ系女王筋であり、
琵琶湖〜丹後半島からの出戻り出世組なわけですから、
A大神と母系が縁戚であることは既に明らかだったわけですが、
165cmを保有していたということは、A大神の子孫であった、ということになりますね。

156 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 21:04:45.75 ID:zfqn+QZUr
もう一柱いらっしゃいましたね。
父親はN国王と明記され、
おそらくカ系で、A大神がワ国重臣に出世したのと同期してブ国女王となった。
I姫。
卑弥呼は女性ですから、女系相続とすればこのお方ですね。
T姫が遥拝していたのも、琵琶湖も、竹〇島ですし。

157 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 21:05:25.78 ID:zfqn+QZUr
銅戈・広形銅矛戦争の顛末にて、ワ系がワ国皇后とブ国女王の実権を握った。

失脚したカ系A大神の長男は145を相続したが、大元のブ国東部の地方領地に押し込まれて、
ワ系ブ国女王の配下としてある意味監視下に置かれた。

カ系女王165の相続女子は、現代と感覚が逆ですが、はるか東方に転封された。

158 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 21:11:51.21 ID:zfqn+QZUr
明記はされていませんでしたね。
上2人はNが結婚しましたが、下1人はしていません。
中細形銅矛将軍から娘婿の中広形銅矛将軍に将軍職が譲られたと考えた場合には、
Nの娘になりうるという話でしたね。

そう考えると、T姫は中広形銅矛将軍の二人目のワ系奥さんと父親が同じということになりますね。
母親はワ系とカ系ですから違うことが明らかということになります。

159 :日本@名無史さん:2022/08/06(土) 23:18:34.00 ID:zfqn+QZUr
>>149
女系だとこうなりますね。

T姫→I姫(→?姫)
→A大神失脚に連動して大山津見領域の東端である琵琶湖へ
→?姫数人?
→カ系地域女王・卑彌呼の旧領=女王国(=府庁不彌國千家+奴國)
→倭共立女王・卑彌呼(邪馬台国首都=魏代伊都、平原遺跡)

160 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:06:51.06 ID:6EHNkogi6
出雲国風土記に登場する御穂須須美命(ミホススミ)についてです。

島根郡の条、美保郷
『所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久良為命子 俾都久良為命子 奴奈宜波比賣命而
 令産神 御穂須々美命 是神坐矣 故云美保』
大国主命が、高志國にいらっしゃるヌナカワ姫(沖津クライの子の、辺津クライの子)を娶って産まれたのが、
ミホススミの神である。
ミホススミの神がいらっしゃるので美保と云う。

親が同じタケミナカタは出雲国風土記に登場しませんから、
ミホススミはタケミナカタと同神とも言われていますね。

祀られているのは、
肝心の島根では、美保神社の境外社(地主社)に1

日本海沿岸で東に進んで、
能登半島の東端で、石川県珠洲市1、富山県氷見市1
新潟県沿岸に13(出雲崎町2長岡市11)

そこから内陸に入って、
長野県5(中野上田千曲市各1佐久市2)
群馬県8(中之条東吾妻町各1、渋川市2、前橋市4)
先奥が、埼玉県さいたま市岩槻区1

161 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:08:57.98 ID:6EHNkogi6
ミホススミとタケミナカタは活動領域が明らかに被っているのにも関わらず、
二人が同時に登場したり二人が絡んだりする話が残っていないことから、
ミホススミとタケミナカタは、同一神と考えるのが妥当ですね。

別々であれば、出雲国風土記にヌナカワ姫の祖先まで書かれているのだから、
タケミナカタも登場するはずですし、
逆にタケミカヅチに敗戦して諏訪に逃げる途上でミホススミが登場したり、
諏訪での地元勢力とタケミナカタとの伝承にも必ず絡んだはずです。

タケヌナカワ命とタケミナカタ命のように名前がかぶっていれば、
それぞれ領地が別の兄弟と考えられますね。

ミホススミとタケミナカタは別系統の名前ですので、
ミホススミが若い頃の名で、出世してタケミナカタになったのだろう、
と推測されますね。

162 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:10:43.82 ID:6EHNkogi6
そう考えると、奴国王と土井ヶ浜遺跡女王の間で、20年代に出生。
母の山口県所領は兄が相続。

30年代中ごろに元服して、外部からの派遣領主として美保に赴任してきたわけですね。

>>131
当時の状況としては、
西の出雲市には、ワニ系部隊が常駐。
荒神谷遺跡に埋納してまだ数年ですから、万一場所を特定されて掘り返されて反乱されないよう、
見張っている必要がありますね。

東の松江市の、
北部:佐陀川流域に旧燕人
南西部:カモ系(神後田遺跡など)
南東部:土笛斉人(西川津遺跡とタテチョウ遺跡)

王を倒された燕人や、銅矛銅剣戦争で敗北したカモ系などは、
復讐心に燃えていた盛りでしょうから、
反乱一揆が頻発して騒然とした地域だったことでしょう。

海上輸送が主体の弥生時代において、現出雲は、
日本海沿岸において若狭湾に次ぐ要衝ですから、
奴国王からすれば、カモや燕系ではない領主を置いておきたかった。

そこで選ばれたわけですね。

163 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:11:38.89 ID:6EHNkogi6
美保に坐したということは、
現出雲の西部、つまり出雲市については、ワニや吉武高木王系の東征将軍の統治下のままで、
ミホススミの所領は、現出雲の東部のみ、つまり松江市とその周辺であった、
ということでしょうね。

現出雲の全域を支配するのなら、出雲市にいれば安全なはずですが、
わざわざ美保に坐した。

ということは、ミホススミの所領は、現出雲の東半分のみであり、
わずかなお供の者たちと一緒に乗り込んできた。
敵意丸出しの旧燕人やカモ族から寝首をかかれないようにするため、
美保の先端にいて、
準構造船の軍船と漕ぎ手を常備しておいて、
何かあればすぐに脱出できるような態勢は整えておいたわけですね。

美保の根もとにいるのはまずは斉人ですから、
旧燕人やカモから見ると、やや敵であり、
敵の敵は味方で、ミホススミから見ると緩衝材になってまだ安心だったわけですね。

164 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:14:23.15 ID:6EHNkogi6
ミホススミの分布を見ると、
紀元前から吉武高木王家が押さえている丹後半島や、カモ琵琶湖沿岸を飛び越えて、
能登半島に前線基地を築き、
能登半島東岸から新潟までの沿岸部を押さえています。

(富山市〜上越市にミホススミが無いのは、後に銅戈軍が諏訪攻略に来た時に追われたからでしょうね。)

そこから内陸に入って、諏訪の守屋氏など有力現地氏族と同盟あるいは婚姻を進めていった。
ということですね。



と、いうことは、
美保に着任したミホススミは、現出雲の統治に見事成功した、ということを意味しますね。

若い身でありながら、自らの出身部族とは異なる人々の元へ派遣され、
しかも複数部族がそれぞれ恨みつらみを抱えながら暮らしている。
それらをまとめあげて、さらに東方へ発展していく、という実績を残したわけですね。

165 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:15:29.73 ID:6EHNkogi6
元は日本海沿岸の有力部族で豊国カモをも凌駕していた、
古代越=山口県日本海沿岸を中心とする地域の八岐大蛇。

吉武高木大王が誕生して、その王族東征将軍に平定されてからは、
北部九州を頂点とする文化ヒエラルキーにおいて、
伊都倭人、豊国倭種、よりも辺境の部族にすぎませんね。

しかもその次男でしかないわけですから、相当の逆境の中で東方開拓していたわけですね。

この東方開拓にはおそらく伏線があり、
そもそもは銅矛銅剣戦争があったわけですね。

中広型銅矛は北部九州奴国から、東へ攻めます。
瀬戸内を中心とする銅剣女王国と戦い、祭祀型銅剣型石剣木剣領域も潜在的には敵ですね。

よって、挟撃を狙うために、その先の、
畿内毛人や、東国蝦夷、と、ある程度の誼を通じていた時期があったのでしょう。
南の裸国と同盟したのもその一つですね。

その時の交流を足がかりとして、乗り込んでいったわけですね。

166 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:16:58.10 ID:6EHNkogi6
ミホススミ時代に既に諏訪など東国調略していた。
タケミナカタ時代には本人が諏訪に移動している。
にも拘わらず、東国からは中広型銅矛が出土しませんね。
これは、九州西部の長崎県(壱岐対馬を除く)についても同様ですね。

一方で先に出た、裸国=古代土佐からは中広型銅矛が大量に出土しています。

と、いうことは、
祭祀型青銅器武器を旗印に使って地鎮祭を行うというのは、
豊国人の風習であった、ことになりますね。

一方で『意支都久良為命子 俾都久良為命子 奴奈宜波比賣命』とあることから、
沖津・辺津の風習が、越のヌナカワ姫にもある。

ここから原始神道について考えると、
砂丘墓地の女王祭祀で、沖津・辺津で祭る、というのが最も原始的・初源の祭祀形態で、
山鹿貝塚女王の頃から沖ノ島祭祀として日本海沿岸に広く存在していた。

そこに銅剣や銅矛を旗印として地鎮祭に使う、いわゆる鳥居の原型、
というものが後から豊国に持ち込まれた。
とも考えられます。

167 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:17:31.03 ID:6EHNkogi6
それを誰がいつ持ち込んだのか、ということを考えると、
108年に燕王族が青銅器工人を伴って亡命してきて、
カ系に受け入れてもらったわけで、

田〇山遺跡の開始時期、
祭祀型銅剣の開始時期、
銅剣を主兵装としていたこと、
などなどを考えると、
銅剣というものを祭器として特別視するという概念は、燕さんたちが持ち込んだ、
あるいは燕さんたちの銅剣重視姿勢をみたカ系が昇華させたのではなかろうか、とも考えられますね。

それが転じて、ワ系が対抗して祭祀型銅矛となった、のではなかろうかと。

168 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:18:13.04 ID:6EHNkogi6
タケミナカタの妃である、八坂刀売神は安曇の女性と伝承にあります。

タケミナカタと共に諏訪に移動した八坂刀売神が安曇の女性と伝わるのであれば、
タケミナカタが諏訪に移動する前に、既に安曇が存在していた、
ということですね。

祭祀型青銅器について考える場合、
男系もある程度は関係しますが、むしろ豊国の女系を示すものであり、
銅剣→銅戈がカモ
銅矛はワニ
となります。

となると、中広型銅矛の段階で、安曇が関係していたのだろう、
とも考えられますね。

169 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:18:56.91 ID:6EHNkogi6
秀吉が半島出兵するまでに、1582から1592まで10年ですね。

銅矛銅剣戦争が20年頃として、
抵抗勢力との小競り合いも鎮圧して、
だいたい30年頃から鉄資源へのルート(魏志韓伝)を目指して半島出兵が始まります。

対外戦ですから、
北部九州はもちろん、瀬戸内資源や、丹後半島の水軍など、
倭国関連のものは総動員されたはずですね。

170 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:23:58.27 ID:6EHNkogi6
そのように情勢が動いている中で、
ミホススミは、複数部族が混在してどうにもならない地域をあてがわれて、
なんとかまとめあげていた。

複雑な地域とわかっているから、大本営からもハナから戦力外とみなされていて、
出兵要請も来ない。

そんな中、斉人だけでなく燕人やカモ系もうまく説得して、
手付かずの東国に権益を作りに行ったわけですね。
特に、もう北部九州倭国では出世の目が無い、斉人や燕人には、新天地領土は魅力的な話だったのではないでしょうか。

大国主に許可を求めたら、西で忙しいから、
資源も何もない東の最果てなどどうでもいいから死なない程度に勝手にしろ、という感じだったのでしょう。


で、東で成果を上げていったわけですが、
大事なのは鉄資源ですから、
東国をどれだけ切り取ろうとも、タケミナカタには成れなかった筈です。

それがタケミナカタになって、しかも国譲りの際に、ワニ筆頭のコトシロヌシと並ぶ存在にまで出征した、ということは、

171 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:25:18.16 ID:6EHNkogi6
半島出兵が苦戦したのですね。

当初は家柄血統だけで将軍隊長を選んで出兵したのが、
実力勝負の海外出兵では通用せず敗戦を重ねた。

重要武将が討ち取られる事態が起きて、
「実力のある隊長」が必要となる場面が生じた、ことになります。

そこで、出自の全く異なる混成部隊をまとめあげ、
方向はちがうけれども東の異世界を着々と攻略している、
若き天才軍神に白羽の矢が立ったわけですね。

172 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:25:53.70 ID:6EHNkogi6
ワニ安曇族の八坂刀売神と結婚して、
ムナカタ、つまり古代出雲の兵を与えられ、対馬から出陣した。

軍神の投入によって戦局が一気に打開され、鉄資源入手ルートが確立して、
鉄資源⇔対馬海峡⇔北部九州⇔瀬戸内高地性集落群侏儒国⇔淡路島五斗長垣内鉄工房
という国家運営が可能になったわけですね。

その功によって水軍大将に抜擢され、下関に名前が残り、
56年には五斗長垣内遺跡まで楽浪郡史の里程測定(金印合格判定試験)の案内をして、
大夫として57年洛陽へ渡った。

173 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:27:34.52 ID:6EHNkogi6
ワニ女性と結婚して、古代出雲の兵を率い、立身出世するというのは、
父と同じサクセスストーリーですね。

また、自らの部族を率いるだけであれば、部族長としての権力は有りますが、
大王となった場合、他部族の反発が予想される。
ワニ系大王になるとカモが困りますし、逆もまたしかりですね。

その点で、若くして複数異民族を束ねた手腕が高く評価された。

ということで、金印を持たされていたわけですね。

ワニ女性と結婚して古代出雲の兵を率いるということは、
本来は吉武高木王族東征将軍のことであり、
奴族の父は、吉武高木大王にはなれないので、
東征将軍になった上で、金印で権威を補完しようとした。
そしてそれを世襲しようとしていたのでしょうかね。

174 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:28:09.42 ID:6EHNkogi6
ミホススミの東国調略が、ミホススミを祀る神社の分布域まで進んだところで、
西に召集されたわけですね。

そのまま西で出世して仕事していたのが、
70年に突然東へ落ちのびることになります。

ですから、何もない場所に突然逃げてきたのではなく、
若い頃からの誼がある場所に逃げてきて、
そのまま地域の主導権を握ったわけですね。

>>91
追って侵攻してきた銅戈軍を、兵力分散した上で、
銅戈軍本隊を埼玉県熊谷市まで深追いさせて撃破した。

ミホススミ時代に既にさいたま市まで調略していましたから、
友軍地域の中で軍略に嵌めた、ということで祭祀分布と考古学出土物の整合性が取れる。ビンゴですね。

175 :日本@名無史さん:2022/08/07(日) 15:28:31.84 ID:6EHNkogi6
軍神はそのまま諏訪で東国をS字甕領域にまとめて、
朝日遺跡まで進軍してきた銅戈軍と、
お互いに銅鐸配備して愛知で睨み合いをしますね。

軍神の古くからの配下に斉土笛人もいますので、東国の範囲で移動して、
静岡に痕跡が残った、ということですね。

176 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:38:03.55 ID:s+h1iLelX
邪馬壹國(邪馬壱国)と邪馬臺國(邪馬台国)ですが、
古代竹簡木簡への墨書において、画数の多い壹と臺は滲んでしまい、いくらでも転写間違いが起きえますね。

よって、
邪馬壹國しかなかったかもしれないし、
邪馬臺國しかなかったかもしれないし、
どちらも存在したかもしれないわけです。

一つの手がかりとしては、後世の注釈で、
後漢書の邪馬臺國については、『案今名邪摩惟音之訛也』とあり、
やまゆい→邪馬壱國、だった可能性が高いですね。

一方の魏志倭人伝の邪馬壹國については、隋書にて『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也』とあり、
やびたい→邪馬台國、だった可能性が高いということになります。
あべこべですが。


ちなみに隋書の記載を論理的に解釈するなら、

魏志倭人伝の世界観では、北部九州倭国=邪馬台国において、
女王卑彌呼が都とする所が、伊都。

隋書倭国伝の世界観では、より広域の日本列島を支配する倭において、
倭王が都とする所は、古の北部九州邪馬台国(含大宰府)である。

177 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:38:51.99 ID:s+h1iLelX
後漢書
『倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百餘國
 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統
 其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼去其國萬二千里
 去其西北界拘邪韓國 七千餘里』

倭について云々〜。
大倭王は邪馬壱国に居て、邪馬壱国は楽浪郡から一万二千里。
倭の西北境界の拘邪韓國は、楽浪郡から七千余里。

つまり、
後漢書の邪馬壱国は、
魏志倭人伝の邪馬台国とは別物というか、
邪馬台国の中の一部地域であった、ことになりますね。

178 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:39:34.66 ID:s+h1iLelX
過去スレで検討した通り、
日田の鉄鏡が曹操鉄鏡と同型であった
→魏志倭人伝の卑弥呼への賜品目録に鉄鏡が無い
→鉄鏡は邪馬台国卑弥呼勢力に渡されたものでは無い
→鉄鏡は曹操から狗奴国王に贈られた
→『漢時有朝見者』は狗奴国王
→狗奴国王が「魏王」曹操と同格の鉄鏡を入手するには「漢委奴國王金印」が必須
 かつ対馬海峡を領有している必要がある
→狗奴国王が対馬海峡を領有していた時期(免田式土器が伊都から出土)があり、「漢委奴國王金印」を保有していた時期があった
→「漢委奴國王金印」が長崎に秘匿されていた

という流れですね。

179 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:40:59.94 ID:s+h1iLelX
全て過去スレで検討した通り、

軍神が金印を保管していたが、奴国王失脚時に軍神は東へ、
金印は軍神の息子が西へ。

その嫡流子孫である難升米父が、
奴族同族の狗奴国王と同盟して、狗奴国勃興に協力。

対馬海峡を占領して、外交ルートを確保。
金印の力で、鉄鏡を入手。

鉄鏡にて王位が得られた狗奴国王にとって、金印が必要なくなり、難升米父と疎遠に。

難升米は狗奴国王と離反して、卑彌呼と手を結び、大率長官に就任。
「対馬海峡をそのまま領有」=『有如刺史』

※だから対馬海峡には卑狗・卑奴母離しかいないし、
 狗邪韓國と末盧國には官すらいない。

魏の命運をかけた、司馬懿の遼東攻略にて、
長雨にて兵糧不足に陥って敗退危機にあった司馬懿の魏軍に、
大率難升米が兵糧を補給して、勝利へと導いた。

その際に司馬懿と陣中にて親交を深めた難升米からの情報が、
『廣志曰 倭(誤字)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』

180 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:43:11.04 ID:s+h1iLelX
70年頃の地名としては、時計回りに、

吾田=阿多 唐津
日向 糸島平野
高天原(日本) 早良平野
葦原那珂津国 福岡平野
磯城 阿志岐山城神籠石
大倭 旧三輪町〜高良 筑後
阿邪訶 佐賀

倭国乱が起こり、倭国内での混乱に乗じて、
東では、日本海沿岸に四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
=後漢書の拘奴國、が勃興。
(魏代=次の男王によって滅亡)

倭国内では、漢末に、
大倭長官の大物主が、伊邪國=長崎の難升米父と同盟して、(小さい蛇=蛇鈕)
狗奴国が勃興して、
阿邪訶→阿多→対馬海峡を占領して、曹操鉄鏡入手。

181 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:43:45.11 ID:s+h1iLelX
大混乱の倭国側では、
若き卑彌呼が所領の「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」をまとめて、
南の狗奴国の侵攻を防ぐ。

その運営手腕を買われて、
倭国=邪馬台国の全体の女王として共立されて、
卑彌呼が倭国王となるわけですね。
ここまで後漢書に記録されているので、後漢代の出来事になります。

「至」はその境界に至る、「到」はその中心地点に到着する、
という法則に従うと、
楽浪郡から「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」までは、
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
となりますね。

対馬海峡についても、
渡海部分3000に対して、島部分1400ですから、無視するわけには壱岐ません。

182 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:44:14.89 ID:s+h1iLelX
北部九州から大量の硯が出土して、
案、刀子、も出土していることから、
北部九州で文字が使われていたのはほぼ確実ですね。

よって、記紀の古代表記は倭人自身が使用していた表記であることになります。

そうなると、中国側の文献において、ほとんどの固有名詞は、
倭人自身が使用していた固有の表記であった可能性が高くなり、
逆に漢魏人が当てた表現というのは、

倭面土國 107年 倭国王師升の謁見場にいた後漢の記録係
邪馬台國 247年 来倭した魏の張政

くらいになり、

倭國 わ 音読み
倭面土國・邪馬台國 やまと 訓読み

ということになりますね。

183 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:45:49.52 ID:s+h1iLelX
卑彌呼所領の「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」が、
中国側の記録に残っている、ということは、
後漢代の「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」が、楽浪郡帯方郡と交流していた時期があった、
ということになり、

順番としては、
狗奴国王と難升米が仲違いした
→難升米が卑彌呼に寝返った
→卑彌呼が対馬海峡を使用できるようになった
→邪馬壱国の地方女王として楽浪郡帯方郡と交流した時期がある(難升米と対等同盟)
→卑彌呼が倭国王に共立された(難升米が配下に入った)

ということになります。
ここまでが後漢代ですね。

その後、魏代に入り、公孫氏が独立し、
司馬懿が遼東遠征して、難升米が司馬懿と交流するわけですから、
続きとしては、

倭国王卑彌呼が、佐賀平野を奪還した
→邪馬嘉と名付けた
→司馬懿に難升米が兵糧補給
→漢魏から倭末蘆に上陸して南に邪馬嘉、西南に伊邪國(伊邪分國・伊耶國)があるよ

184 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:47:44.62 ID:s+h1iLelX
またはっきりすることは、
卑彌呼は親魏倭王であって、親魏奴國王ではありませんから、
卑彌呼の男系は奴族ではなく、
まずまず倭王系列、つまりは天神族であった、ということは確実になります。

185 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:48:08.74 ID:s+h1iLelX
伊邪那岐 伊耶那岐 イザナギ
伊邪那美 伊耶那美 イザナミ

伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

阿邪訶 あざか

邪馬嘉國 ざまか(さまか)

栄国=佐嘉 さか

佐賀 さが

つまり、
卑彌呼の旧所領が邪馬壱国 ざまい
卑彌呼が奪還した旧・阿邪訶につけた名前が邪馬嘉國 ざまか

ということは、卑彌呼は女系カモ系と推定されるので、
邪馬國はカモ系の国ということになりますね。
キ龍紋鏡からは、中間市などが候補になってきますね。

186 :日本@名無史さん:2022/08/18(木) 23:48:39.75 ID:s+h1iLelX
邪馬壱國 ざまい

佐馬壱 さまい

雀居 ささい

187 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:34:12.57 ID:O7SPllHJ4
>>91
>四方に散る石戈のうち、埋納されずに住居跡などから見つかったものは、
>それぞれの場所で孤立して各個撃破された跡でしょう。

群馬県安中市の長谷津遺跡にて、竪穴住居跡から銅鏡片が見つかっていますが、
これも落ち武者狩りの収穫品の一部でしょうね。
初期の銅戈軍が携行していた身分証ですから、指標として高い価値がありますね。

連弧紋の小型?製鏡ですから、男系は奴国の可能性が高く、
古代出雲に無く、古代伯耆から出ているので、女系はカモ系の可能性が高い。

これが後には狗奴国領域に多く出てきます。

188 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:35:30.98 ID:O7SPllHJ4
魏王曹操側の動向からは、鉄鏡入手の候補年が216年

220年 後漢滅亡

公孫氏が遼東太守になるのが189年、帯方郡の設置が204年。
ですが、最初から後漢〜魏と反目していたわけではなく、基本的にはその配下であり、
228年に実権を握った公孫淵から独立路線が強くなり、
236年に魏への不服従を明確にして燕王を自称し始めますね。

ですから、対馬海峡を使用できたのは、
〜215年 倭国 卑彌呼ら
215〜225頃 狗奴国 難升米・狗奴国王
225頃〜 倭国 難升米・卑彌呼

ということになります。

後漢書にて卑彌呼は共立されていますから、卑彌呼共立は220年よりも前ということになって、
やはり前スレでも検討した通り、
後漢書に記録された卑彌呼、つまり前任地の「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」の地方女王から、
倭国全体の共立女王になるまで、というのは、
215年までに卑彌呼が楽浪郡と外交していた記録が楽浪郡役所に残っていたのを、
景初年間に楽浪郡を奪還した魏が接収したものである、
ということになりますね。

189 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:37:45.12 ID:O7SPllHJ4
細かく詰めると、
倭国乱が、桓霊間146〜189年ですから、
それを収めるために卑彌呼が共立されたのであれば、
189年以前には既に「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」の地方女王として実績を上げていたことになります。

倭人卑彌呼が魏志倭人伝にある通り長寿だったとすると、
247-90=157生まれと仮定して、
壹與が13歳で女王になっていますから、これが卑彌呼の前例を踏襲したとすれば、

卑彌呼が189年に32歳。
13歳なのは170年ですから、そこからだと19年。
20歳177年に地方女王になっても、189年までは12年あり、
「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」にて実績を積むのに十分な年数があった計算になります。

ということは、189年というのが一つの節目で、
倭国では倭国乱が一旦終了して卑彌呼が共立女王となった。
遼東から朝鮮半島も乱れていたが、公孫氏がやってきて楽浪郡まで押さえた。
ということで、東アジアの戦乱は一息ついたわけですね。

以上から、
170年代〜189年の倭国乱中は、
卑彌呼は「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」の地方女王で、後漢楽浪郡と外交していて記録が残っていた。

189年頃に倭国王に共立されて、

189年〜215年は、
卑彌呼は倭国共立女王として、公孫氏楽浪郡帯方郡と外交して、同じくその記録が残っていた。

215年に狗奴国が勃興して、
大倭(筑後)→大阪(佐賀)→末蘆→対馬海峡を占領された。
ということになります。

190 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:38:28.47 ID:O7SPllHJ4
『其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼 去其國萬二千里』
これは卑彌呼を指すことが明らかですね。

そもそもからして、後漢書に七千里や一万二千里が出てくる時点で、
里数が測定されたのは後漢代以前であり、
57年金印後漢使のための倭地出張ロードマップ(往路確認専用)であった可能性が非常に高い。

なぜならその後には、考古学的にも倭王は新伊都=糸島の三雲井原遺跡へ遷都していますから、
里程を測定するなら末蘆から伊都は百里になるはずです。
それが旧伊都の到達ポイント=吉武高木宮殿の五百里のままであるということは、
57年金印の時の測定値だからですね。

よって、魏使もまた里数は測定できておらず、
魏使が残したのは張政の旅行日誌からの日数だけであったことになります。

191 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 04:39:56.90 ID:O7SPllHJ4
『其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼 去其國萬二千里』
にて、
倭国共立女王の卑彌呼は、
後漢代には「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」に留まっていたことになります。

と、いうことは、後漢書に記された、
『有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁
 事鬼神道 能以妖惑?
 於是共立為王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語
 居處宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 法俗嚴峻』
の部分は、
「女王國=邪馬壱国=不彌國奴國+α」領域における卑彌呼の状況記録であり、
宮室樓觀城柵があるのは不彌國だということになりますね。

卑彌呼が新伊都に移動したのは220年代後半以降。
難升米が対馬海峡と金印を手土産に帰順してきて、邪馬嘉国(佐賀)を奪還して、
新伊都の安全が確保されてからですね。

魏志倭人伝の記録は後漢書と同じ部分は転載の可能性が出てきますから、
新伊都にも宮室樓觀城柵を作り直したかもしれないし、
旧倭国王の旧居館(高祖宮や細石神社)を使用していたかもしれません。

192 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 07:37:35.90 ID:O7SPllHJ4
>>125
基本的には、
後漢と奴族が親密で、奴国王が里程測定を後押しした上で、57年金印
倭国は本来は親燕でやや反漢
という傾向ですので、

卑彌呼時代の前半についても、
倭国王卑彌呼の前半はやや反漢で、燕地で独立しつつあった公孫氏と連携した。
一方の狗奴国王は親漢で、後継者筆頭の魏王曹操に接触していった。
ということですね。

倭国王卑彌呼は一旦は対馬海峡を奪われて連携が断たれ、
225年頃から難升米と一緒に軍事行動を起こして、
肥前川上の当時の狗奴国首都を陥として、邪馬嘉国(佐賀)と対馬海峡を奪還。

220年代後半から対馬海峡経由の外交を再開しますが、
228年からの公孫淵は叔父からの簒奪ですし、ひどい二枚舌外交で信用なりませんでしたから、
疎遠にしているうちに、
238年に司馬懿の大軍がやってきた。

193 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 07:39:54.96 ID:O7SPllHJ4
遼東攻略と同時進行で、楽浪郡帯方郡は魏が太守を派遣して制圧していますから、
(『又潛軍浮海 收樂浪帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服』)
大率難升米は司馬懿と接触開始していた。

兵糧不足に陥った魏軍から兵糧補給の打診があり、
ここで卑彌呼はゲームプレイヤーとしてどちらを勝たせるかの選択権を握っていたわけですね。
兵糧補給を断って、司馬懿を時間切れ敗退させ、ひいては魏滅亡させることもできた。

けれども、公孫淵の蝙蝠外交を見限って、魏と手を結ぶことに決定し、
見返りに金印を求めたわけですね。
国産の超巨大内行花文鏡に加えて、
狗奴国王の鉄鏡に対抗する舶載威信材を増やすために。

まだ三国の一つに過ぎない新興の魏からしてみても安い買い物であり、
お互いにWinWinの取引だったということでしょう。

194 :日本@名無史さん:2022/08/20(土) 22:01:19.65 ID:O7SPllHJ4
持衰については、後漢書にも記載されていますから、
倭人の長らくの風習ですね。

壱岐対馬の倭人は『乖船南北巿糴』ですから、
当たり前ですが、倭舟で対馬海峡を渡海していました。

後漢書においては、
『安帝永初元年(107)倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見』
ですので、これも当たり前ですが、
倭舟で数百人の倭人や生口が洛陽まで渡海しています。
(160人の生口を後漢の舟で運んでもらったらもはや嫌がらせですね)

魏志倭人伝においては、
『其行來渡海詣中國〜名之爲持衰』
とありますから、
持衰倭舟で中国まで渡海しています。

ただ、『「到」其北岸狗邪韓國』とありますから、
対馬海峡渡海は特別部分で、
狗邪韓國の船着き場から、末蘆國東端の船着き場(深江)までは、
渡海専用の特別仕様の準構造船に乗り換えて、
渡海したことになります。

195 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:19:46.22 ID:PFiVUuoK8
>>190
>57年金印後漢使のための倭地出張ロードマップ(往路確認専用)であった可能性が非常に高い。

時節柄引きこもることが多いですが、
渡海に適した「夏の朝」に家の外に出て、登り始めた太陽の方角を見れば、
真東からはずっと斜めにずれているのが一目瞭然ですね。

方位磁針の無い弥生時代に、後漢からの往路を示すのが目的のロードマップであれば、
(金印を届ける出張にて、楽浪郡史の記した通り倭にきちんと向かってるか確認するため)
早朝の出発時に方角確認するのには太陽が最適です。

196 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:20:36.23 ID:PFiVUuoK8
卜占の出土についてです。

前3世紀くらいから朝鮮半島南部(15遺跡)、そして日本に伝わっていますね。

弥生時代前期から、壱岐、古浦遺跡(島根県松江市)、阿方遺跡(愛媛県今治市)、唐古鍵遺跡
と広範囲に分布。

中期には、上記に加えて、
青谷上寺地遺跡(日本最多250点)、大阪湾沿岸、三浦半島房総半島
からも出土します。

後期に入ると、
上記のうち、壱岐、古浦遺跡では途絶。畿内も唐古鍵の後期前葉までで途絶。

佐賀市、岡山から出土し始めるのと、
長野と、静岡〜房総半島の沿岸に、卜占面焼灼面一致型の独特の傾向を持つものが分布します。

倭国乱〜邪馬台国時代には、青谷上寺地遺跡が途絶。
佐賀市、岡山(上東遺跡など)
静岡〜房総半島の沿岸、
石川県金沢市、佐渡島、群馬県
などからの出土になります。

あとは、古墳時代中期ごろから各地で出土してきますね。

197 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:21:16.45 ID:PFiVUuoK8
卜占は骨ですから、消えてしまうこともままあるでしょうし、
砂丘の古浦遺跡や、脳も残っていた青谷上寺地遺跡などでは保存状態が良かった、
とも考えられ、
卜占が出土しないからと言って、卜占が無かったとは言い切れません。

が、全国各地で、出る所からはそれなりの量が出ているわけですから、
広域における一部で集中出土するという卜占の出土分布を見ると、
一般倭人が日常生活のあれこれを占っていたとは思えないわけですね。

特定の場所で、卜占の専門家が集中的に請け負っていた、
と考えられます。

198 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:21:37.02 ID:PFiVUuoK8
邪馬台国論争に使うにしても、
単純に卜占出土地=倭人の地、とするならば、

邪馬台国時代に卜占が出土している地で考えるなら、
佐賀市(吉野ヶ里ではない)、岡山市、静岡〜房総半島の沿岸、そして朝鮮半島南部、
といった限られた場所しかなくなり、珍妙なことになります。

199 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:22:33.27 ID:PFiVUuoK8
文献を読んでみると、得られる情報としては、

後漢書
『灼骨以卜 用決吉凶
 行來度海 令一人不櫛沐不食肉不近婦人 名曰「持衰」
 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以為持衰不謹 便共殺之』

(倭人は)骨を焼いて占うことで、吉凶を決めている。
(持衰と連続しており、海上移動と関係あるか)

魏志倭人伝
『其俗 舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶
 先告所卜
 其辭如令龜法 視火?占兆』

舉事=挙兵する、出兵する、武装蜂起する

倭人の風俗としては、
出兵して軍が移動する際に、気になる点について、
出兵のたびに、骨を焼いて吉凶を占う。
先に占うポイントを告げておく。
卜占で使う呪文は、中国での令亀法のものに似ている。
火で焼いてできた裂け目を見て吉凶を占う。

200 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:23:45.83 ID:PFiVUuoK8
卜占の出土地が局所に集中している。
文献では、弥生水軍の軍事遠征についてのようである。

魏志倭人伝では、里程の狗邪韓國あるいは日程の投馬國の時点で倭地に入っており、
倭人の勢力範囲の広さにしては卜占の出土地が少なすぎる。

等から考えると、
卜占というのは、倭人がある程度以上の規模で出兵する際に、
出陣前に行っていたゲン担ぎの儀式だったのではなかろうか、
と考えられます。

記紀でも戦の前のあれこれを吉兆として鼓舞したり、
戦国武将もそうですね。
現代でも戦勝祈願、我々がトンカツを食べたり、といったように。

ですから、豊国人の出陣前儀式が、祭祀型武器の埋納。であったように、
倭人つまり壱岐〜伊都人の出陣直前の儀式が、卜占。であった、
と仮定してみます。

201 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:24:20.30 ID:PFiVUuoK8
出陣する倭軍があるとします。
その軍の母体となる勢力、国あるいは連合国家の勢力範囲、がありますね。

自軍勢力範囲の中で軍が移動集結して、
侵攻対象地域への、最終出発地点あるいはそのごく近傍で、
出撃前日に卜占をする、
ということになります。

202 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:25:24.24 ID:PFiVUuoK8
卜占が伝わったのが3世紀頃ですから、伝えたのは、
それこそ殷の流れを持つとも言われる箕子朝鮮の人々か、
あるいは燕の人たちか、が候補となります。

・卜占が朝鮮半島南部に多い
・殷末裔の卜占なら甲骨文字の記入があるはず
・古浦遺跡から最初期に卜占出土
から、燕人の可能性が高くなります。

>>112
燕人が渡来してきたと考えるなら、
前314年に斉によって燕が滅ぼされた時、
前222年に秦によって燕が滅ぼされた時、
が考えられ、
燕による朝鮮半島への影響力がまだ低かった、前314年が候補になりますね。

この時に鉄器も一緒に持ってきたと考えれば、日本側の鉄器出土も説明がついてきます。
扇谷遺跡など遠方の丹後に工房を作って、
本国倭国の森林資源を保全し、
遠隔地の森林で工場経営、
という国家経営戦略も、燕人の助言があった、と考えれば納得いきます。

倭には燕人が先にやって来ていたのだったから、
後からやってきた土笛斉人は倭国に足がかりを作らせてもらえなかった、ということになりますね。

203 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:26:07.23 ID:PFiVUuoK8
伊都説ならば、の仮定空想の話ですが、
イザ〇ギ・イザ〇ミについても、
壱岐対馬〜菜畑遺跡〜糸島の倭人男系と、
山鹿貝塚からの豊国女系とが、血縁同盟をして、

>>117
天浮橋、古代の長浜半島から、その先の能古島に渡り、
お互いの軍を集結させて、
最初は倭軍が反時計回り、豊軍が時計回りに博多湾を統一しようとしたところ、
それぞれ自らの国に近いので親類縁者が多く、なかなか攻めきれなかった。

そこで、卜占したところ、それぞれ逆回りで攻める、
つまりそれぞれの国から遠い地域をそれぞれが攻めれば、しがらみが薄いので
気兼ねなく統一できる、
という助言をもらって、
北部九州沿岸地域を統一して、
吉武高木大王が誕生したわけですね。

それが吉兆の前例となって、
倭軍出陣の際には、卜占を行うことが儀式として慣例化したのでしょうかね。

204 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:27:02.23 ID:PFiVUuoK8
卜占は、時代を経るにつれて、準備段階で骨を削って薄く加工していくようになります。

これはつまり、割れ目の出来方を、削り具合と、焼く部分で、ある程度意図的に操作できるようにしていった、ということですね。

王からの命令で、人を集めて軍船を集めて武器を集めて兵糧を集めて準備して、
さあ出陣だ、という武人にとって、
卜占は出陣前の景気づけでもあり、
基本的には吉兆を出すことが要求されたはずです。

ですから、卜占をする占師も、社会的に洗練されていって、
上手く削って焼いて、基本的には良い知らせを出す。
いつもいつも良い知らせばかりだとあれなので、
「今回は兵糧の管理に気を付けるように」
「勝つ、のですが、病人が出るとの相が出ておりますな」
など、
こちらの軍と、攻め込む先の情報を考慮しながら、
おみくじのように注意点を盛り込んでいったら、ありがたくなる、
という感じでしょうか。

205 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:27:32.57 ID:PFiVUuoK8
卜占についてこう考えると、
燕系と思われる卜占集団は、
斉に一時的に滅ぼされた際に、半島北部には箕子朝鮮があったので、
まず半島南部に流れてきて、卜占を始める。

北部九州沿岸統一=吉武高木大王の際に、吉武高木勢力に味方して、
卜占で吉兆を与えたことで、
吉武高木政権に登用されて、鉄器生産の国家運営を助言した。

206 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:29:27.10 ID:PFiVUuoK8
北部九州倭国の軍

<北>ツク〇ミ
壱〇対まに集結してから、出陣。
出陣前夜に一岐で卜占してから出撃。
中広型銅矛将軍転じて奴国王の時代に半島南部領土が安定し、
倭勢力範囲が北上したため、
以後は出陣前夜の卜占は半島南部で行われることとなる。

<東>スサ〇オ
田熊石畑遺跡将軍が東征。
当初は宍道湖中海が出撃直前地点。
後に青谷上寺地遺跡に占師が移動。(燕王末裔がやって来たためどいたのか)

弥生時代の青谷上寺地遺跡周辺は、潟湖であったので、
軍舟を係留する良港であった。

日本海沿岸を征服していった。

207 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:30:12.38 ID:PFiVUuoK8
古浦遺跡、青谷上寺地遺跡は金属器など北部九州と密に交流しており、
北部九州倭軍そのものの前線拠点であったことがわかりますね。

が、
畿〇や、完投については、まだ交流が非常に乏しく、
おそらく独立した開拓勢力。

前者は女系カ〇系主体で、縁組その他で付随して卜占者が入ったのでしょうか。
多鈕細紋鏡の鏡片が副葬されない状態で出土しており、
北部九州での勢力争いに敗れた者の可能性があり、
おそらくス〇ナヒ〇ナもそれで身分証明されたのでしょうか。

後者はおそらく敗北勢力が落ちのびたもの。

208 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:31:46.78 ID:PFiVUuoK8
70年に軍神が長野に落ちのびますね。

ワニ女王系女性と結婚するまでは、祭祀型銅矛も卜占も無関係の
地方領主として東国攻略していましたが、

結婚してからは倭国将軍として半島出征に参加しますので、
ゲン担ぎの卜占は息で習慣付いていたわけですね。

ただ、逃げ込んだ先の長野には卜占専門家がいなかったので、
軍神の配下の燕系人が担当者として卜占を新規開始した。
だから、長野と、静岡〜房総半島の沿岸には、卜占面焼灼面一致型の独特の傾向を持つものが分布するわけですね。

北部九州の主力となった銅戈軍は、朝日遺跡まで進軍して軍神軍と睨み合い、
前線の味方集落に近畿式銅鐸を配備して、
東海で卜占して出撃。

軍神は、長野から出撃して東国制圧して銅戈軍と睨み合い、
前線の味方集落に三遠式銅鐸を配備して、
静岡〜房総半島の沿岸で卜占して出撃。

軍神が亡くなると、東国は征服されて、遠征事案は無くなり、
畿〇〜房総半島の一帯の卜占は一度終了したわけですね。

倭国乱から邪馬台国の長い戦乱時代を経て、
台与の頃になって北部九州が統一され、軍神子孫も支配体制に組み込まれ、
静岡〜房総半島の沿岸で卜占が再開したのは、東北蝦夷への遠征が始まった、と考えられます。

209 :日本@名無史さん:2022/08/21(日) 11:32:27.90 ID:PFiVUuoK8
そう考えると、
倭国乱〜邪馬台国の間も、壱岐はほぼ無風ですから、
半島南部の運営は安定した居たわけで、卜占分布からもやはり投馬國だったかと。

佐賀、岡山、から出土しており、
倭国乱〜邪馬台国狗奴国の争いのものでしょうね。

青谷上寺地遺跡は四隅突出墳丘墓が無く滅ぼされているので、
銅戈系だったから銅戈・広型銅矛戦争時に滅ぼされたか、
70年頃から中国山地から出てきた、奴国王の兄達の子孫が、
倭国乱の混乱に乗じて燕系拠点を襲った、などが考えられますね。

210 :日本@名無史さん:2022/09/04(日) 11:34:03.22 .net
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg

211 :日本@名無史さん:2022/09/04(日) 19:01:04.47 .net
ト骨の事が魏志倭人伝にあります。
さてどこですか?

212 :日本@名無史さん:[ここ壊れてます] .net
有明海沿いですね。
現糸島市は伊都国ではありません。
墓地公園です。

213 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 14:19:23.25 .net
>>87
瀬戸内海の平型銅剣はそれより後の時代のものだから、銅剣勢力範囲が変わったと見るべきでは?

おそらく出雲のそれと同じ成分になりますよ
鋳直されてるはずです

214 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 14:26:48.30 .net
>>81
〉・銅鐸は同笵が多いのに対して、荒神谷銅剣は同笵が無い

銅剣は研磨が入るから判定は難しいが、47本に関しては同范と判断されているはずですよ

我が国の青銅器は何を持ってして国産なのかと言うと、国産の銅か否かの事ではないかと考えられます

錫と鉛は最後まで輸入のはずです

つまり、本当の意味での国産なのかどうかの話としては分析が考察不足ではないですか?

215 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:36:17.47 ID:2xfQGHIb1
>>199
『其辭如令龜法』
倭の卜占で使われる祝詞が、
中国の令亀法で使われている祝詞のようである。

大きな一文ですね。

と、いうことは、
漢魏使が体験した倭の卜占は、
<漢語>で行われていたであろう可能性が高い。

もし<倭語>で行われていたとしても、
逆に倭語であるにも関わらず中国の令亀法の祝詞に近いと感じられたということは、
<内容>は中国の神事や故事そのものであったはず、
ということですね。

漢語で、倭の神々の内容、
あるいは
倭語で、倭の神々の内容、であれば、
『其辭如令龜法』にはなりませんから。

216 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:37:04.53 ID:2xfQGHIb1
タカミムスビ

吉武高木遺跡 宮殿


カミムスビ

原の辻遺跡 カラカミ遺跡 勒島遺跡

少名毘古那 常世國

唐古鍵遺跡

217 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:37:48.19 ID:2xfQGHIb1
記紀を解析していくと、
少名毘古那が、鵝ガチョウの皮を剥いで作った衣を着て、天之羅摩船で渡海して現れます。
久延毘古に問い合わせると、カミムスビの子であると答え、
そこでカミムスビにも問い合わせると、私の子である、と答えます。

少名毘古那は大国主と一緒に国造りをした後、
常世國へ去っていきます。

その後に、光海から御諸山上~がやってきますね。

218 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:38:55.16 ID:2xfQGHIb1
伊都説で解析してみます。

ガチョウの皮衣を着ているということは、
養蚕して絹が特産品だった北部九州倭国の外、四国あるいは本州から渡海してきた。

タカ〇ム〇ビは高木であり吉武高木遺跡の宮殿で政策決定する殿上人。

では、カ〇ム〇ビとは。

ガチョウの皮衣を着て東方から渡海してきた名も知れぬ人物が、
カ〇ム〇ビの子孫であると断定できるには、
一つは多鈕細文鏡(片)がありうると考えていました。
しかしそれでは、譲渡や盗掘、たまたま拾った、などが考えられますね。

次に文身。
東方へ移住した一世、つまりカ〇ム〇ビの実子であれば、
(カ〇ム〇ビが倭人であれば)倭人貴族ですから文身で判断できるわけで、
それであれば、一目見たらカ〇ム〇ビの子と判断がつきますね。
問い合わせるなら、いきなりカ〇ム〇ビでよく、クエ〇〇を介する必要はない。

219 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:41:14.60 ID:2xfQGHIb1
そう考えていくと、
>>202
前314年に半島南部に避難してきた、燕系の卜占占い師(貞人)の家系であった。

男系の倭人吉武高木王家とは親しいものの、倭大王の配下でしかなく、
女系の倭種カ〇系と婚姻してカ〇系祭祀型銅剣地域に飛び地的に迎えられていった。
その一つが唐〇カ〇遺跡。

壱岐対馬はもちろん、古浦遺跡(島根県松江市)、阿方遺跡(愛媛県今治市)であれば、
北部九州に近いことから、
その支配層(支配官)の人となりは北部九州でも把握できていたはずですね。

中広形銅矛将軍が銅剣女王国を降伏させ(荒神谷遺跡)、
奴国王となって淡路島まで進出して五斗長垣内遺跡を建設するに至り、
唐〇カ〇遺跡と友好関係を結ぶことになった。

唐〇カ〇遺跡出身で奴国王に重用されることになる、身体障害者の賢人。

粗末な身なりをした、辺境集落出身の賢人の身元を証明したのが、
『其辭如令龜法』。

卜占で用いる祝詞が、壱岐の貞人が用いる秘伝の祝詞とほぼ同じであったことから、
同じ燕系の貞人であることは疑いの余地がなく、
貴種として重用される足がかりになった、ということになりますね。

220 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:42:04.71 ID:2xfQGHIb1
ヒコ、がつくので、北部九州倭国で官職についたことになりますね。

また、この時点でヒコがいることから、
ヒコの成立は大国主時代までは遡れることになります。

細かく解析していくと、
まずはクエ〇〇が判定していますから、クエ〇〇も貞人であり、
ヒコだから倭国の官ですし、
倭国領域では卜占が壱岐からしか出土しませんので、
自動的に、一大国の原の辻遺跡もしくはカラカミ遺跡の官だったことになります。

となると、カ〇ム〇ビについては、
クエ〇〇をカラカミ遺跡として、カ〇ム〇ビを原の辻遺跡とするか、
クエ〇〇を原の辻遺跡として、カ〇ム〇ビを勒島遺跡などとするか、
となりますね。

221 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:44:15.38 ID:2xfQGHIb1
考察を進めると、
北部九州からの東進が何波かに分かれているように、
燕人の渡来(亡命)も複数の波があり、

>>202
前314年に第一波(甲波)が卜占の貞人を伴って、半島南部へ。
吉武高木大王樹立に助力。

・壱岐・古浦・阿方にも拠点を持つ。
・中央にも進出したが、ために却って政変に巻き込まれた集団が、倭種〇モ族に匿われて唐〇カ〇遺跡へ。

>>112
前108年に燕系の衛氏朝鮮が滅亡し、
旧燕王族末裔が青銅器職人や燕復興資産を伴って来倭。(乙波)

これも倭種〇モ族と親しくして、女王一族と婚姻しながら、
古浦遺跡&田〇山遺跡に拠点を築く。

一方の甲波も、衛氏朝鮮滅亡によって半島南部を追われ、
勒島遺跡から青谷上寺地遺跡へ亡命移住。

・勒島遺跡と青谷上寺地遺跡の卜占相似
・勒島遺跡から北部九州系漁具や土器
・青谷上寺地遺跡のDNA解析で、男系は渡来+倭縄文、女系は渡来系

甲波と乙波には約200年のタイムラグがあったので、
同じ燕系ではあっても、同一ではなかった。

222 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:53:16.11 ID:2xfQGHIb1
>・中央にも進出したが、ために却って政変に巻き込まれた集団が、倭種〇モ族に匿われて唐〇カ〇遺跡へ。

>>133
その例が、歴史書に呈示されているわけですね。
女系カ〇族は、他族であっても、貴種を匿う風習があった。

甲波の貞人は、唐〇カ〇遺跡に匿われ、その子孫が『其辭如令龜法』によって、
一時的に中央政界に返り咲くことが出来た。

須玖遺跡の末弟お坊ちゃんは、太田黒田遺跡に匿われ、
そのままなら紀伊國風土記に名が残ったかどうか、であったけれども、
兄弟が武装して押しかけたことで、
田熊石畑遺跡将軍の元へ送り返され、中広形銅矛将軍から奴国王となった。

223 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 21:56:53.59 ID:2xfQGHIb1
銅矛銅剣戦争にて、
乙波は銅剣女王国側で参戦しようとして、中広形銅矛将軍に制圧される。
 田〇山遺跡の北西部住居焼け落ち
 荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡

甲波は逆に、中広形銅矛将軍と同盟して、銅剣女王国を挟撃しようとしていた。
だから、銅剣銅矛戦争が終了してから、甲波の唐〇カ〇遺跡出身の賢人が取り立てられた。

甲波と中広形銅矛将軍転じて奴国王の連携があったからこそ、
国内情勢が落ち着いてからの、
半島出兵に繋がっていったわけですね。
>>134

224 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 22:12:56.02 ID:2xfQGHIb1
初代については、
豊国王の娘の子らで、
長男は東征中に戦死
次男は渡海して、母の国=豊国に戻ってからワニ系=銅矛の王になった
三男は渡海して、常世國=唐〇カ〇遺跡へ
四男は宗像→遠賀川遡上→阿志岐山城の神籠石→御笠側を攻め下って那珂比恵遺跡まで制圧

225 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 22:26:04.24 ID:2xfQGHIb1
甲波は半島南部を足場にしていて、魏代には彌彌と彌彌那利がいる。
東に離れてその一族がいるから、耳成山があるわけですね。

魏志倭人伝は倭人の習俗を伝えるので、
半島南部は倭の勢力範囲ではあっても、
住人がイコール倭人ではないので、生活描写はない。

卜占を倭人が使うのは、魏志倭人伝を正確に解読すると、
「出兵して軍が移動する際に、気になる点について、骨を焼いて吉凶を占う。」

卜占を占う燕系貞人がいるのが、考古学的には漁村ばかりですから、
「倭人は、出兵して弥生水軍が移動する際に、気になる点について、燕系貞人に骨を焼いて吉凶を占ってもらう。」
「燕系人は、出兵以外のあれこれについても集落内で占う。」
と考えれば、
倭国乱において、北部九州倭国で卜占が乱発されていないことも説明できます。

226 :日本@名無史さん:2022/09/07(水) 22:31:10.38 ID:2xfQGHIb1
乙波は奴国王時代は没落しますが、
若き軍神の所領になって、軍神と一緒に東方攻略しましたね。

>>208
よって、東方へ移住した人や、軍神が東国へ落ちのびた際に同行した人がいた。
甲波ほどは卜占の専門家ではないので、見よう見まねで微妙に違うやり方で行っていた。

元々燕(卜占)や斉(土笛)は沿岸地域の人ですから、
北部九州から銅戈軍が攻めてくる日本海側ではなく、
南の温暖な静岡〜伊豆に新天地を求めたわけですね。

227 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2022/09/07(水) 23:07:52.42 ID:LtqOnqo7J
(崇神)七年春二月丁丑朔辛卯 詔曰昔我皇祖大啓鴻基 其後聖業逾高
王風轉盛 不意 今當朕世數有災害恐朝無善政 取咎於神祇耶
蓋命神龜以極致之所由也於是 天皇乃幸于神淺茅原 而會八十萬神以【卜】問之

228 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:56:05.49 ID:6ZpfiSst0
故從其國上幸之時 乘龜甲爲釣乍 打羽擧來人 遇于速吸門 爾喚歸
問之「汝者誰也」答曰「僕者國~」又問「汝者知海道乎」答曰「能知」
又問「從而仕奉乎」答曰「仕奉」故爾指渡槁機 引入其御船 卽賜名號槁根津日子
此者倭國造等之祖

號槁根津日子(椎根津彦)は、
亀の甲羅に乗って釣りをしていた。

古事記では吉備の国を出たところで、
日本書紀では東征出発直後に筑紫國菟狹(伊都説だとウサ=宗像)より手前で、
神武一行と出会いますね。

229 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:56:45.82 ID:6ZpfiSst0
亀卜については、考古学的には古墳時代後期の6世紀以降しか出ていません。
しかし、

<記録で明らかに卜占が行われていたのに、出土が伴っていない>
・各地の神社で卜占が行われているけれども、必ずしも考古学的に残っていませんね
・壱岐対馬も延喜式に記録され、現代まで続いているのに、考古学的には伴っていません

人骨のほとんどが残らないのと一緒で、骨卜や亀卜も残りにくい。
よって、たくさん出土する遺跡で盛んに卜占が行われていたことは明らかだが、
出土しないからと言って、無かったとは言い切れない。

<亀卜を示唆する記録>
・『其辭如令龜法』という時点で、ベースは亀卜であるわけですね。

漢魏使が見たのが骨卜であっただけで、その祝詞は亀卜のそれであった。
 当時の倭人にとって、亀が神獣であって、生きた亀を卜占に使うのは憚られ、
浮き甲、つまりたまたま見つかる海亀の死骸しか使えなかった可能性。
 亀卜は大王直属の高位神官のみに許された特別な祭祀であり、
下々の者達は、骨卜しか許されず、漢魏使はそれを目撃した可能性。

・上のような記紀の記載も亀卜が存在したことを示しています。

いずれも古墳時代初期あるいは遥か前であることが明らかで、
その頃から亀卜が存在したことを示唆しています。

230 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:57:52.62 ID:6ZpfiSst0
前者を伊都説で考えるなら、
過去スレで検討した状況としては、
筑後にいた伊都国王が、卑彌呼死去に際して、
北の卑彌呼長期政権首脳陣と、
南の狗奴国と、
に挟まれて絶体絶命のピンチに陥り、
狗奴国王妃あるいは元王妃で現狗奴国王の母である、叔母に頼んで、
狗奴国との同盟を仲介してもらった。


昨日までの敵国と同盟するには理由付けが必要であり、
亀卜をその根拠とした。

古代中国の殷と同じく、神権政治のごとく亀卜を利用した、ということになりますね。
もちろんケズリを入れて、伊都国王の望む結果が出るようになっているわけですが。

となると、
元大倭長官の狗奴国王、
もしくはその妃の叔母、
のどちらかが、神権政治レベルの亀卜を行う技能があった、ということになります。

231 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:58:31.87 ID:6ZpfiSst0
さらにそうなると、過去スレで検討した通り、
邪馬嘉國つまり佐賀が、狗奴国王と邪馬台国との鍔ぜり合いの場で、
邪馬台国時代に卜占が出土。

考古学的に残っているのは骨卜だけだが、
狗奴国王の決定に関わる事案に関しては亀卜が行われていた可能性がある。

佐賀の卜占は、筑後肥後→佐賀→唐津→壱岐対馬→曹操から鉄鏡
の全盛期の狗奴国王あるいは妃が行っていたもの。

232 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:59:01.17 ID:6ZpfiSst0
後者については、
亀の甲羅に乗って釣りができようはずもなく、
亀卜に使うために集めた亀甲を積んだ舟に乗って、釣りをしていた、
ということになりますね。

ヒコとして倭国官に登用されたということは、
単なる亀甲集めの漁人ではなく、
それなりの血筋の国津神であるということ。

初代は亀卜を扱う集団と連携して、
東征していった、ということになりますね。

233 :日本@名無史さん:2022/09/09(金) 23:59:24.80 ID:6ZpfiSst0
松江の古浦遺跡
横に孝霊山

久留米に高良
筑後に旧三輪町

孝霊天皇
黒田 久留田 久留米

亀卜
亀甲
甲羅 こうら

234 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 00:01:48.26 ID:+cAOF/6mW
そもそもからして、
漢字の元となった、甲骨文字とは、
卜占の結果を、骨や亀甲に刻み込んで成文化して記録するためのものですね。

・卜占で占う内容は複数ありますから、それらを忘れないよう記録するため。
・卜占で出た結果を、王に文字で伝えるため。
・卜占で出た結果を、公式文書として残すため。

しかし、日本で出土する卜占史料には、甲骨文字が刻まれていない。

と、いうことは、
日本での卜占は、

・その場で占って、その場で結果を共有した
>>225
出陣直前の吉兆

・卜占の結果を、大王に報告した
>>51
絹布に帛書

などであった、と考えられます。

235 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 00:03:22.33 ID:+cAOF/6mW
我々日本人の母系である田〇山遺跡を貶めるかのような、
相変わらずの偏向軽薄記事が見受けられますが。

そもそも硯で墨を解いて、その目的は何か?

一つは、文字を書いていた。
木簡竹簡に墨書したり、
帛書に墨書したり、ですね。

もう一つ考えられるのは、
近くの古浦遺跡からも卜占が出土していますから、
卜占結果を強調してよく見えるようにするため、
の可能性も高いですね。

現代に伝わる亀卜の流儀には、
亀甲を焼約してできるひび割れを強調するために、
墨を垂らす、
という作法がありますね。

236 :日本@名無史さん:2022/09/10(土) 03:22:37.92 ID:+cAOF/6mW
卜占を行う一族の、男性を、
自らの舟に乗せて、
水先案内をさせ、
最終的には成果を上げたので、褒美を与えた。
(北部九州倭国でヒコになった)

>>191
後漢書
『灼骨以卜 用決吉凶
 行來度海 令一人不櫛沐不食肉不近婦人 名曰「持衰」
 若在塗吉利 則雇以財物 如病疾遭害 以為持衰不謹 便共殺之』

(倭人は)骨を焼いて占うことで、吉凶を決めている。
(持衰と連続しており、海上移動と関係あるか)

237 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2022/09/10(土) 21:33:40.75 ID:fU6mRurCk
  〜〜37:32〜

https://www.youtube.com/watch?v=JxF6ub7LvV8&list=PLs6xnxTmbWh0iZkyPUOYEFhqxsMPlpF2v&index=27

238 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 13:40:15.29 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。

239 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 23:17:54.48 .net
>>238
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
今どき水行陸行の意味すらわかってないとかw

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

240 :日本@名無史さん:2022/09/12(月) 23:18:07.00 .net
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

241 :日本@名無史さん:2022/09/18(日) 15:11:19.84 ID:wo4UJOzPX
『隋書』流求国伝
>流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至
「流求国(台湾)は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」

台湾へ水行

242 :sage:2022/09/19(月) 07:17:21.92 .net
>>240
伊都国から方向も里数もないんですけど?

243 :日本@名無史さん:[ここ壊れてます] .net
>>242
方位と日数が書いてあるが

244 :日本@名無史さん:2022/09/22(木) 06:15:53.60 ID:RIqFAUeFg
>>239
>水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
>これを押さえておかないと正解には辿り着かない

>>241
>台湾へ水行

里程●●日程▲▲という表現は、「里程ならば●●掛かり、日程ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえると正解である平原遺跡に辿り着く。

245 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 01:36:16.08 ID:N9t/XXqbM
日本列島で最古相の卜占出土

新撰亀相記 壱岐・対馬上県下県・伊豆が四国卜部
       壱岐卜部の祖が天比登都柱命(あまのひとつはしらのみこと)
       対馬卜部の祖が押見命(おしみのみこと)
       伊豆卜部の祖が雷大臣命 東国卜部の祖とも

延喜式 壱岐対馬伊豆から卜占の神祇官を選出 905-927-967

現代対馬 地方国として唯一の亀卜が行われている


卜占というのは、祝詞も秘伝、卜占技術も秘伝、でどちらも高等難解ですから、
一度途絶えると再開は極めて困難ですし、
平安時代の京都政権に壱岐対馬の卜部が採用されたという点だけでも、
壱岐対馬、特に対馬の卜占というのは、
日本最古から連綿と行われてきたことが明らかですね。

246 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 01:37:31.69 ID:N9t/XXqbM
>壱岐・対馬上県下県・伊豆が四国卜部

魏志倭人伝の里程にて、
對海國が方可四百餘里。
一大國が方可三百里。

島の大きさと合致していない、という指摘がありますが、
これも過去スレで検討した通り、
島の大きさではなく、國の大きさであった、ということですね。

対馬島には、後の上県・下県の元となった、
對海國と、おそらく魏略の對馬國、の2国があったことになります。

またそれぞれ到ではなく至ですから、
渡一海千餘里で至るのは、それぞれ對海國や一大國の国境までであって、
方可四百餘里=800里余と、方可三百里=600里の、
合計1400里も、対馬海峡渡海部分そして女王国までの12000里には、
合算する必要がありますね。

247 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 01:38:02.54 ID:N9t/XXqbM
>>215
>『其辭如令龜法』
>倭の卜占で使われる祝詞が、
>中国の令亀法で使われている祝詞のようである。
>大きな一文ですね。

>と、いうことは、
>漢魏使が体験した倭の卜占は、
><漢語>で行われていたであろう可能性が高い。

なれば、魏使は倭人の卜占を実際に体験しているわけで、
その観点から、
魏使が体験した卜占とは、魏使が到達した伊都までの卜占。
つまりは壱岐対馬の卜占であったであろう。

倭人の卜占の祝詞は、当時はまだ卜占を伝えたおそらく燕人の祝詞を使っており、
漢語だった。

と、いうことは、
文字で伝えるか、
もしくは漢語を話す人が周囲にいる環境か、
でなければ漢語の祝詞を伝えることは困難であり、

「硯の分布域」
もしくは
「楽浪土器の分布域」
における卜占であったことが、『其辭如令龜法』からわかってきますね。

そうなると、
壱岐対馬〜北部九州〜田〇山遺跡のエリアがそれに該当し、
倭人倭種が居住するという魏志倭人伝の記載とも対応します。

248 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:53:38.78 ID:N9t/XXqbM
倭人の卜占が、<漢語>で行われていたからといって、
卜占を行っていたのが中国からの渡来人(おそらく燕人)の貞人であった、
とは言えませんね。

その強力な実例が、
後に伝来した仏教の『お経』です。

仏教の最初期には渡来人の僧侶が伝えたのかもしれませんし、
鑑真和尚や隠元和尚のような感謝すべき中国僧もいたことでしょう。

しかし、日本の仏教を支え、その宗教世界・哲学世界・知識世界を発展させたのは、
紛れもない多数の日本人僧侶ですね。

にもかかわらず、
遅くとも6世紀の仏教伝来から、現代の我々に至るまで、
1500年間の長きに渡って、我々日本人は、
『お経』を漢文体で敬っていますね。

つまり、
天皇家すら崇拝した仏教の経典『お経』においてすら、
日本人僧侶が漢文体での『お経』を使用し続けることに何の違和感もなく、
それどころか逆に有難いものとして敬い続けてきているわけですね。

よって、
『其辭如令龜法』だからといって、
卜占を行っていた貞人が、中国からの渡来人(おそらく燕人)によって独占されていた、
ということにはならない、ということになります。

249 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:54:24.05 ID:N9t/XXqbM
仏教の『お経』は、漢文体であり、
経典のみならず、中国伝来の最先端知識も習得することが、
長らく日本人知識層の教養であった。

のと同じく、
卜占の祝詞は、伝来当初から漢文体であり、
祝詞のみならず、中国(亡命燕人)伝来の最先端知識も習得することが、
長らく倭人知識層の教養であった。

250 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:55:12.12 ID:N9t/XXqbM
それが故に、逆にわかることもあります。

・仏教の『お経』は1500年間に渡って、漢文体で使用され続けている。
・前3世紀に伝来した卜占の祝詞も、少なくとも後3世紀まで600年間は漢語で行われていた。
・にもかかわらず、現在の卜占の祝詞は、日本語の祝詞になっている。

・現在の卜占の祝詞は、基本的には記紀、特に古事記の天孫降臨に焦点を当てた大祓祝詞である。
・記紀編纂の主たる勢力は中臣氏であり、延喜式の神祇官も中臣氏の息がかかっている。

以上の条件から見えてくることは、
仏教ですら漢文体のお経を長らく使用しているのに、
卜占の祝詞を倭文(日本語)に変更した、あるいは少なくともそれを許容した、
ということは、
中臣氏は卜占を伝えた中国からの渡来人(おそらく燕人)の末裔では無い。
ということがわかりますね。

251 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:56:03.12 ID:N9t/XXqbM
中臣氏は
卜占の祝詞を、中臣氏が天皇家に奉公した天孫降臨をメインテーマとしたものに変更し、
卜占を国家祭祀に取り入れさせた。

中臣氏の首脳陣は伊豆・壱岐対馬であり、それはすなわち雷大臣の子孫である。
その他の神社の卜占も、国家命令によって、それまでの祝詞から、中臣氏指定の祝詞に変更させた。

卜占はケズリによって調整できるので、
国家の重要案件は、中臣氏によっていかようにもコントロールできる。

非常に合理的な、国家支配体制の確立の一部が見えてきますね。

252 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 20:56:52.73 ID:N9t/XXqbM
時期としては、白村江の戦の敗戦直後ですから、
太平洋戦争末期の鬼畜米英と同じで、
敵性言語を使用するとは何たることか、
というのが、
卜占の祝詞を日本語に変更する大義名分だったと思われます。

そうなると、
白村江の戦の敗戦後の国家再建が、唐占領軍による指導の下に行われたという説は
明確に否定され、
むしろ半島利権を喪失したけれども、
日本列島一丸となって、唐には屈しない、という覚悟の表れが、
卜占の祝詞が、
魏志倭人伝の『其辭如令龜法』から、
日本語の祝詞へ変更されたことに凝縮されている、ということになりますね。

253 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:52:11.08 ID:N9t/XXqbM
では、卜占を伝えた中国からの渡来人(おそらく燕人)から、
燕人以外へ卜占が伝えられた事案とは何か?

>>131
山鹿貝塚女王から始まる、豊国(古代出雲+古代伯耆)の沖ノ島祭祀が、
カモの東方入植に伴って東方拡散してきますね。
その一つが田〇山遺跡。

一方で、燕系亡命人が、各地のカモに受け入れられ、
特に古浦遺跡には、衛氏朝鮮滅亡に伴って亡命してきた、旧燕国王族末裔がやってきて、
カモ女王系の女性巫女と婚姻を続けます。
卜占が出土していますね。

>>235
田〇山遺跡に硯が出土しており、
旧燕国王族末裔の夫→田〇山遺跡の豊国カモ女王系の妻
に、卜占が伝えられた。

254 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:54:11.26 ID:N9t/XXqbM
>>134
奴国王がT姫にAタカヒコを産ませたことで、
T姫を豊国女王に推薦した。

この時点では、
豊国元首女王はT姫。
豊国首相事代主はAタカヒコ。

古浦の燕貞人と切り離されたT姫が、
Aタカヒコに、卜占を伝えたわけですね。


しかし軍事力を背景に実権を握るのはワニのス〇リビメ。

255 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:55:15.62 ID:N9t/XXqbM
ス〇リビメは子を成さぬまま逝去し、
N国王支配下での勢力弱体を回避したいワニの強い圧力にて、
豊国女王はワニ系のT2姫に。

T姫は失脚して、柏崎遺跡の〇津国玉神の元へ。

既にN国王の子を身ごもっており、〇ワカヒコを出産。
それが>Aタカヒコそっくりと、>国津神の子では?の伏線。

豊国元首女王がT2姫になり、
豊国首相事代主もT2姫とN国王の息子になる。

さらに半島出兵で勝利するために、辺境豪族の次男坊だが軍略に長けた、
軍神が招聘され、ワニ女王系女性と婚姻して、
女系ワニの一員となる。

256 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:56:34.87 ID:N9t/XXqbM
よって、カモとワニの古代豊国有力氏族争いにおいて、

前夜において、
豊国女王はワニT2姫。
豊国首相はワニT2姫の息子。
金印保持はワニ女王系女性と婚姻した軍神。

>>144
事が成った後は、
豊国女王はカモI姫。(T姫とN国王の娘)
倭国王妃はカモK姫。(T姫とN国王の娘)
倭国首相はカモAタカヒコ。(T姫とN国王の息子)

だった可能性が高くなりますね。

257 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 21:57:30.60 ID:N9t/XXqbM
つまり、N国王失脚時に詰め寄ったのは、
Aタカヒコであり、人物をぼかすために、
武器や船の名前になっている。

家族で考えると、父を子が、という構図ですが、
部族で考えると、ワニとカモの生存競争、ですね。

>>142
>その直後に、父親が死去した、あるいは不服な兄の一部に〇された

おそらく後者であり、
2代続けて、そのようなことがあった。

Aタカヒコは、新伊都2代目の兄と手を組んだ結果、失脚してしまいますから、
2世紀からしばらく、親〇氏として、
ワニ勢力から攻撃され続けていたのでしょう。

それを払拭するために、ぼかしてスッキリしたかったのでしょうね。

258 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 22:00:00.77 ID:N9t/XXqbM
古浦旧燕国王族末裔の夫
→田〇山遺跡の豊国カモ女王系の妻
→息子のAタカヒコ=大物主?
→狗奴国王とその妃
→雷大〇


259 :日本@名無史さん:2022/09/28(水) 22:03:41.44 ID:N9t/XXqbM
>>256
男女の双子でない限り、

倭国王妃はカモK姫。(T姫と柏崎遺跡の〇津国玉神の娘)

でした。

260 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:45:04.83 ID:NazgEnPA8
いわゆる「幕府」であった、と考えれば辻褄が合いますね。

伊都説で解析すると、
旧伊都に吉武高木大王がいて、宗像に田熊石畑王族東征将軍がいた。

奴国は渡来人の密集地帯であり、
その貴族男性の一人が出世して、東征将軍まで登り詰めた。
吉武高木大王にはなれないので、「幕府」の形で実権を握った。

後漢から金印を貰って、権威強化したが、
那珂川の治水に失敗して、大洪水土石流で失脚した。

糸島平野の新伊都に三雲井原大王が出現したが、
これも「幕府」であった。

そう考えると、「倭国」ならびに「倭国王」というのは幕府になりますから、
伊都国王が本来の元首であり、
倭国王は伊都国王に任命された幕府将軍であった、
ということになります。

261 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:45:46.27 ID:NazgEnPA8
>>82
のように考えると、
元々日本(ひのもと)があって、日本大王がいた。

奴国王は将軍で、幕府。
日向の三雲井原大王や平原女王も将軍で、幕府。

日向前者三代の子孫が日本国王になったので、この三代は記録には残されたが、日本国王の代数にはカウントされない。
後者の子孫はそうではないので、日本国の正史には載せてもいいし載せなくてもいい。

262 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:46:07.62 ID:NazgEnPA8
漢書・王莽傳上
元始五年(後5)秋

『莽既致太平 北化匈奴 東致海外 南懷?支 唯西方未有加
 乃遣中郎將平憲等多持金幣誘塞外羌 使獻地 願?屬
 憲等奏言「羌豪良願等種 人口可萬二千人 願為?臣 獻鮮水海 允谷鹽池 平地美草皆予漢民 自居險阻處為藩蔽
 問良願降意 對曰『太皇太后聖明 安漢公至仁 天下太平 五穀成孰 或禾長丈餘 或一粟三米 或不種自生 或?不蠶自成
 甘露從天下 醴泉自地出 鳳皇來儀 神爵降集
 從四?以來 羌人無所疾苦 故思樂?屬』 宜以時處業 置屬國領護」
 事下莽 莽復奏曰「太后秉統數年 恩澤洋溢 和氣四塞 ?域殊俗 靡不慕義
 越裳氏重譯獻白雉
 ?支自三萬里貢生犀
 東夷王度大海奉國珍
 匈奴單于順制作 去二名
 今西域良願等復舉地為臣妾 昔唐堯被四表 亦亡以加之
 今謹案已有東海 南海 北海郡 未有西海郡 請受良願等所獻地為西海郡
 臣又聞聖王序天文 定地理 因山川民俗以制州界
 漢家地廣二帝三王 凡十三州 州名及界多不應經 堯典十有二州界 後定為九州
 漢家廓地遼遠 州牧行部 遠者三萬餘里 不可為九 謹以經義正十二州名分界 以應正始」
 奏可
 又摶@五十條 犯者徙之西海 徙者以千萬數 民始怨矣』

263 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:46:45.58 ID:NazgEnPA8
論衡
『周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉 服鬯草 不能除凶』
『武王伐紂 庸 蜀之夷佐戰牧野 成王之時 越常獻雉 倭人貢暢』

越裳と倭人は度々セットになって記録されており、
漢書と論衡は同時代の書物であることから、
漢書についても論衡の記載を前提にしていると考えられていますね。
つまり漢書の東夷王は倭人である。

論衡の倭人は縄文時代の話で、暢草を献上していた。

漢書の東夷王も倭人を意味していると思われるが、
論衡を前提にして、越裳が白雉を献上しているのにも関わらず、
東夷王が奉ったのは國珍と書かれているので、暢草ではない。

つまり
漢書の東夷王は、論衡の倭人と同系統のように思われるのだが、
論衡の倭人とは別の場所に居て、暢草が特産品ではなくなっていたのだろう、
ということですね。

264 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:47:27.63 ID:NazgEnPA8
『越裳氏重譯獻白雉
 ?支自三萬里貢生犀
 東夷王度大海奉國珍
 匈奴單于順制作,去二名』

このメンツで、後5年に「大海」を渡ってくる東夷王、となれば、
倭王しかありませんね。

そして考古学にも、三雲南小路1号大王+2号妃の、
圧倒的な副葬品
 東夷世界あるいは当時の中国を含めてもダントツの銅鏡数
 ガラス璧
 金銅四葉座金具
によって、
漢書の東夷王が、倭王であったことが証明されます。


ちなみに?支自「三萬里」貢生犀とありますので、
四夷は一万二千里で統一されていた=一万二千里は里程の合算ではない、
という主張は完全に否定されます。

魏志倭人伝の一万二千里は、奴国に至る。
女王國=邪馬一(ざまい)國=卑彌呼の前任地=奴国+不彌國+α、に至るですね。

265 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:48:08.45 ID:NazgEnPA8
洛陽から漢鏡を大量入手する機会は以下のようになります。

5年 東夷王
57年 奴国王
107年 倭国王師升
後漢末 狗奴国王
239年以降 卑彌呼壹與が複数回

基本的に各銅鏡は、王が外交して入手した権威の証ですから、
奴族が入手した銅鏡を倭王が重宝することはありませんね。
しかし、倭王が入手した銅鏡を臣下である奴族に下賜して墓に入ることはありえることになります。

洛陽焼溝漢墓による漢鏡の年代分布も検討すると、
三雲南小路王墓の銅鏡はほぼ全て5年の時のものとなり、
5年 連弧紋鏡(清白銘、日光銘、昭明銘、星雲紋)
となります。

266 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:49:36.03 ID:NazgEnPA8
5年に旧伊都の大王が入手した銅鏡群が、旧伊都では出土せずに、
新伊都の大王の墓に入っている。
と、いうことは、
5年東夷王の死去時には、
東夷王を盛大に葬ることが出来ない、状況であった、ことになります。

>>118
>>134
伊都説で解析すると、5年であれば吉武高木大王の時代ですね。
奴国王はまだ子供。
平形銅剣女王が高地性集落群を開発中。

10年代中旬〜後半に奴国王が平形銅剣女王と結婚後離別して銅矛銅剣戦争が発生。
20年代に銅矛銅剣戦争が終結。

その後奴国王の時代も挟んで、
70年に新伊都へ遷都。
という流れですね。

5年東夷王が田熊石畑将軍であった場合、
奴国王が義父から実権を受け継いだ際に、義父の親族がバックなのだから、
宗像で銅鏡群も盛大に副葬されていた筈。
そう考えると、5年東夷王は吉武高木大王自身であった。

一方で、中広形銅矛は伊都から出土せず、伊都を飛び越えて壱岐対馬から出陣している。
ということは、幕府を開くにあたって、
奴国が伊都を武力制圧したのではなく、
クーデター的な政変によって、吉武高木大王が失脚する事態が生じた、可能性が高くなりますね。

267 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:51:24.51 ID:NazgEnPA8
中広形銅矛将軍が伊都王家を倒した場合、
そのまま自らが大王になればいいわけですし、
伊都に命令できる立場になって、
伊都からも中広形銅矛が出土する(=伊都を占領あるいは伊都からも出陣)はずですね。

それが無いということは、
中広形銅矛将軍が王になってからも、伊都が独立性を保っていたことになります。

このような条件を満たす経過としては、
5年東夷王=吉武高木大王が銅鏡群を入手する

10年代に田熊石畑将軍がクーデターを起こして5年東夷王が失脚する。
<伊都王家内の勢力争い>

田熊石畑将軍には娘しかおらず、5年東夷王には5人の息子達。

10年代後半に田熊石畑将軍が死去。
田熊石畑将軍には娘しかいないので、
娘婿の奴族中広型銅矛将軍が実権を握って奴国王に。
<伊都とは戦わずして、田熊石畑将軍後継の奴国王が実権を引き継いだ>

70年に奴国王が失脚したので、
5年東夷王の銅鏡群と共に、孫が新伊都へ移動して新幕府・倭国王となった。

268 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:51:46.24 ID:NazgEnPA8
57年奴国王については、既に洛陽に存在していた筈の、
方格規矩鏡がまだ倭地にもたらされていませんね。

想定されるのは、
銅鏡を重宝するのは倭人、であり、
奴族は銅鏡を重視していなかった、のではと考えられます。

ですから、奴族が希望する威信材は、金印や鉄鏡であり、
57年奴国王の主目的は金印であり、キ龍紋鏡は贈り物の一部。
後漢末狗奴国王の主目的は鉄鏡であり、画紋帯神獣鏡の鏡職人が贈り物の一部。
であったのだろうと推測されます。

269 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:52:38.18 ID:NazgEnPA8
107年師升から、大量の方格規矩鏡と、連弧紋のいわゆる内行花紋鏡とがもたらされます。

と、いうことは、
連弧紋鏡〜内行花文鏡というのが、日本(ひのもと)の後5年東夷王の権威鏡。
方格規矩鏡が、日向の幕府倭国王の権威鏡。
と推測されますね。

270 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:53:05.27 ID:NazgEnPA8
三雲南小路1号大王に清白銘連弧紋鏡。
2号妃に日光銘と昭明銘ですから、
伊都国王男系の最高権威の銅鏡は、清白銘連弧紋鏡ということになります。

これが出土する墓というのは、
伊都国王男系の墓である可能性が高くなりますね。

70年に土井ヶ浜遺跡英雄などの貝輪製作一族、つまり軍神の親族が追われますから、
貝輪をつけているならまずまず1世紀以内。
銅釧をつけているなら間違いなく70年以降、だとわかります。


非常に興味深いのは、
香川県高松市の双方中円墳の、猫塚から、三角縁神獣鏡と共に、
清白銘連弧紋鏡や蝙蝠紐座内行花文鏡などが出土しており、
双方中円墳は狗奴国系だと想定しつつありましたが、
実は伊都国王系だった可能性も高くなってきますね。

271 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:54:04.90 ID:NazgEnPA8
須玖岡本遺跡D地点の王墓からも、清白銘連弧紋鏡が6枚ほど出土していますから、
最期に古代出雲(旧狩尾神社)で捕縛されて失脚した奴国王の墓ではなく、
伊都国王族の墓であったことになります。

さらに、
・107年師升と想定される井原鑓溝遺跡と同じ、希少な草葉紋鏡の連弧紋鏡が出土している。

・洛陽焼溝漢墓だと2世紀後半になる、?鳳鏡(キホウ)が出土している。
(墓に2世紀後半なので、107年に入手できた可能性あり)

・井原鑓溝遺跡が大量入手している方格規矩鏡が無い。

ということから、
須玖岡本遺跡D地点は、三雲井原倭国王の王族であるが、
日向の幕府将軍系ではない。
つまり、
吉武高木系の伊都国王であった、可能性が高くなります。

272 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:55:05.36 ID:NazgEnPA8
須玖岡本遺跡D地点と、籠神社、は、共に昭明銘連弧紋鏡を保有しています。

丹後国風土記に、大穴持命が高志国に坐していた時に天火明神に丹後の国を治めるよう詔したとあります。
ので、
大穴持命は東征将軍でしたから、職務として各地の武官任命権があり、
天火明が若い頃に、丹後国で若狭湾水軍大将を勤めていた時期があった。
その名残りが昭明銘連弧紋鏡なのではないか、ということですね。

伊都早良平野の王ですが、投降した奴国福岡平野を占領支配するため、
そこにいたということですね。

273 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 11:58:31.68 ID:NazgEnPA8
5年 東夷王 連弧紋鏡(清白銘、日光銘、昭明銘、星雲紋)
57年 奴国王 金印 キ龍紋鏡
107年 倭国王師升 方格規矩鏡 四葉方格規矩鏡 キ鳳鏡 草葉紋鏡
後漢末 狗奴国王 金銀錯嵌珠竜文鉄鏡 画紋帯神獣鏡(の鏡職人)
239年以降 卑彌呼壹與が複数回 方格規矩鏡など

274 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 12:11:51.83 ID:NazgEnPA8
〇火〇神については、
5年東夷王の孫であり、
若い頃に中広形銅矛将軍に命じられて丹後若狭湾水軍大将を勤めていた。

吉武高木遺跡(=魏志倭人伝の到伊都地点)から、
70年に、弟は西の糸島平野へ。柏崎遺跡のカモ系姫と婚姻。
夫婦とも兄より先に亡くなり、三雲南小路1号2号へ埋葬された。(短命長命神話)

70年に、兄は伊都国王に。
奴国も領地に追加され、早良平野(天)と福岡平野(地)の洪水被害からの復興に尽力する。
福岡平野には?馬觚(シマコ)を配置し、旧領主奴族の妹との間の息子ウマ〇〇ジを任命する。

大倭を介した東方交易など、福岡の発展に長らく尽力して、
甥の107年師升から銅鏡を贈られて、
107年以降に死去。(70年に30代だとして107年に70前後)

275 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 18:59:23.73 ID:NazgEnPA8
清白銘連弧紋鏡

立岩遺跡10号甕棺墓(福岡県飯塚市)
 清白銘3、中細形銅矛、絹、朱、鉄剣、砥石?2

稗田地蔵堂遺跡箱式石棺(山口県下関市)
 清白銘1、鍍金蓋弓帽(漢王族クラス)

東小田峯遺跡10号甕棺墓(朝倉郡筑前町)
 清白銘1、日光銘1、ガラス璧、鉄戈、鉄剣

二塚山遺跡15号甕棺墓(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)
 清白銘1

猫塚

276 :日本@名無史さん:2022/10/01(土) 19:19:03.64 ID:NazgEnPA8
こう考えてみると、
やはり倭人というのは、山海経に記されたように親燕であり、
であるから、反秦であり、微妙に反漢。
反漢の王莽が有力になると、誼を通じようと出向いた。朝貢ではない。
師升も朝貢ではなく、出向いただけ。新銘の方格規矩鏡を入手。

倭地の覇者であるから、倭王には自然と神性の権威が備わっており、
求めるのは銅鏡。
倭王の権威の元に、銅鏡を入手して、外交権威の証としただけ。

日本(ひのもと)の証が、連弧紋鏡〜内行花文鏡
日向の証が、方格規矩鏡

その希少性が故に、
倭国王の鏡は、盗掘悪用されないように、破鏡とした。


奴族は漢と同調して楽浪郡開設時に勢力伸長した。
親漢。グローバリズム。
倭地においては渡来系の一部族に過ぎず、
後漢の権威を求めて、里程測定を許可し、金印や鉄鏡を求めた。


倭人と奴族
ワニとカモ
全ての二面性を併せ持つ
卑彌呼とは、不思議でありだからこそ魅力的であるのですね。

277 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 17:49:59.66 ID:lYOAX7JeK
同じ三雲井原王墓群で、井原鑓溝で方格規矩鏡を重宝していて、
平原女王墓でも方格規矩鏡を大量副葬していますから、
57年に伊都勢力が遣使したのであれば、方格規矩鏡も入手していた筈ですね。

三雲南小路1号2号において、
方格規矩鏡無しで、前漢鏡(連弧紋鏡)のみを大量入手している、
ということは、
方格規矩鏡が出現する前の、
5年東夷王が伊都勢力であった、としなければ説明がつきませんね。

278 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 18:02:49.94 ID:lYOAX7JeK
さらに三雲南小路1号2号において、
方格規矩鏡無しで、前漢鏡(連弧紋鏡)のみを大量入手している、
ということは、
57年奴国王は伊都勢力とは別である、
金印が主目的で、方格規矩鏡など銅鏡にはあまり興味が無かった、
の2点も強く示唆されますね。

そうなると自動的に、
107年倭国王が方格規矩鏡を入手しないと井原鑓溝の説明がつかなくなります。

平原遺跡に八葉の超巨大内行花文鏡が作られるためには、
国産での開発期間が必要ですから、
107年の段階で、四葉内行花文鏡がもたらされる必要がある。

また蝙蝠ではなく八葉ですから、
蝙蝠内行花文鏡は、後漢末狗奴国王か、239年以降の卑彌呼壹與か、
が入手したことになりますね。
九州内での蝙蝠出土分布はほぼ邪馬台国側ですから、
まずまず卑彌呼の銅鏡百枚の一部だったかと。

279 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 18:21:43.77 ID:lYOAX7JeK
>>278
こちらの推論は、伊都説が前提の場合ですね。
伊都説を外して考えると、

5年東夷王が三雲南小路1号2号勢力であることは確定。

57年金印王が伊都勢力と仮定すると、その時に方格規矩鏡を入手することになり、
井原鑓溝が金印王になりますね。

須玖岡本遺跡D地点は方格規矩鏡が無いので、
どちらにせよ三雲南小路1号2号の一族で、その下であることになります。

107年倭国王が浮きますが、四葉内行花文鏡はこの時に入手しないと、
八葉超大型内行花文鏡ができない。

どちらにせよ蝙蝠内行花文鏡がもたらされていますから、
蝙蝠が来るのは卑彌呼壹與時代であろう、ということにはなります。

平原遺跡に蝙蝠が入ってないのは、
八葉超大型内行花文鏡を権威鏡として作ったのに、<大型化>
中国では<蝙蝠>方向へ進化していたので、
平原女王からしたら面白くなかったからでしょうね。

280 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 20:38:42.33 ID:lYOAX7JeK
大事な条件を忘れていましたね。

後漢書 東夷列傳
『桓霊間 倭國大乱 更相攻伐 歴年無主』
魏志倭人伝
『其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國乱 相攻伐?年』

桓霊間が146-189年。
其國=倭国ですから、倭国の男王時代の上限が、
146-80=66年。
つまり57年金印王は、倭国王とは別王統、なのでしたね。

よって、
>>278
となりますね

281 :日本@名無史さん:2022/10/02(日) 22:52:27.25 .net
・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)


・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)


・文部科学省検定済教科書

「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

282 :日本@名無史さん:2022/10/14(金) 21:59:19.37 .net
纏向説論者は大型建物が一棟しかないのに、その建物群をあえて「大型建物群」と呼んでいる
本来であれば「建物群」ないしは「大型建物一棟を含む建物群」と呼称すべきであろう。
一般人が「大型建物群」という言葉を聞けば、複数の大型建物の集合体であると勘違いするのは至極当然のことである。

これに対して纏向説論者は

>大型建物群というのは、「大型建物」の群れじゃないんだよ?
>建物群の規模の大きなものが、大型「建物群」なんだ
(邪馬台国畿内説Part540>>880

という実に見苦しい言い訳をしているが、
纏向遺跡を実際以上に大規模なものに見せかけるためにこのような呼称を意図的に使用していることは明白である

纏向遺跡にはその調査のために多額の税金が投入されており、
その遺跡の実態を虚飾する行為は日本国の納税者、日本国民に対する重大な背信行為である
纏向説論者は詐欺師集団、反社会勢力も同然と言えよう
日本社会のゴミ屑、税金にたかるダニと言い換えても良い

纏向遺跡関連の予算は大幅に削減し、発掘調査は早急に中止すべきであろう

283 :日本@名無史さん:2022/10/15(土) 00:21:39.21 .net
スクラ■ン■■ブルまだか

284 :日本@名無史さん:2022/10/15(土) 15:07:22.72 .net
スクールランプル?

285 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:39:33.77 ID:r3vux1zYK
>>228
其年冬十月丁巳朔辛酉
天皇親帥諸皇子舟師東征
至速吸之門 時有一漁人乘艇而至
天皇招之 因問曰「汝誰也」
對曰「臣是國~ 名曰珍? 釣魚於曲浦 聞天~子來 故?奉迎」
又問之曰「汝能爲我導耶」
對曰「導之矣」
天皇 勅授漁人椎?末 令執而牽納於皇舟 以爲海導者 乃特賜名 爲椎根津?(椎此云辭?)此?倭直部始?也

行至筑紫國菟狹(菟狹者地名也 此云宇佐)
時有菟狹國造? 號曰菟狹津?・菟狹津媛 乃於菟狹川上 造一柱騰宮而奉饗焉
(一柱騰宮、此云阿斯?苔徒鞅餓離能宮)
是時 勅以菟狹津媛 賜妻之於侍臣天種子命
天種子命 是中臣氏之遠?也

この下りを読むと、中臣氏自ら、
「是時=出発前」に菟狹津媛を娶ったのだから、元は日向〜宗像(筑紫の宇佐なので古代宇佐=宗像)に居た。
おそらく椎根津?は中臣氏の一族もしくは配下で、亀卜に用いる亀甲を採っていた。
と告白しているようにも見えますね。

286 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:40:14.64 ID:r3vux1zYK
>>180
そう考えると、
三雲南小路1号大王が全体の倭国王ではあるが、
直轄地としては新伊都(=糸島平野)+唐津+対馬海峡

三雲南小路1号大王の兄が、旧伊都の伊都国王=〇本国王であり、
直轄地としては旧伊都(=早良平野)+旧奴国(福岡平野+筑後)
ということになりますね。

287 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:40:42.79 ID:r3vux1zYK
昔我天~ 高皇産靈尊・大日?尊 舉此豐葦原瑞穗國而授我天??火瓊々杵尊

抑又聞於鹽土老翁 曰『東有美地 山四周 其中亦有乘天磐船而飛降者』
余謂 彼地必當足以恢弘大業・光宅天下 蓋六合之中心乎
厥飛降者 謂是饒速日歟 何不就而都之乎

卅有一年夏四月乙酉朔 皇輿巡幸
因登腋上?間丘而廻望國?曰「?哉乎 國之獲矣 ?哉 此云鞅奈珥夜 雖内木錦之眞?國 猶如蜻蛉之臀?焉」
由是 始有秋津洲之號也
昔 伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國 細戈千足國 磯輪上秀眞國 秀眞國、此云袍圖莽句爾」
復 大己貴大~目之曰「玉牆内國」
及至饒速日命乘天磐船而翔行太?也 睨是ク而降之 故因目之曰「?空見日本國矣」

288 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:41:38.82 ID:r3vux1zYK
であれば、豐〇原瑞〇國とは、
伊都説であればすなわち
大王の全領土と考えるなら、北部九州倭国のこと。
大王の直轄地と考えるなら、新伊都(〜唐津〜対馬海峡)のみを指す。

289 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:42:53.36 ID:r3vux1zYK
東にある山に囲まれた土地とは、すなわち筑後。
旧三輪町があって、硯が出土していて、
1世紀から2世紀にかけて各種工房鋳型が大量に出現し、
そして南方の熊本トンカラリンからの木材など、
急成長を遂げていた地域。

博多湾経由ならびに、日田街道を抜けての大分経由、にて、
瀬戸内畿内交易圏とも繋がり、
成長著しかったこの地域を、
新伊都の倭国大王が差し押さえにかかった、ということでしょうね。

290 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:44:18.67 ID:r3vux1zYK
>>274
ウマ〇〇ジは、ヒコやミミがついた名を持ちませんから、
北部九州倭国の内にも外にも領地を持たなかったことになりますね。

瀬戸内畿内経済圏の覇権争いの結果なわけですから、
奴族の長〇ヒコ(庄内式)から、
伊都国王族のウマ〇〇ジに、大倭長官職が移された。

交易には、鉄器つまり武器や、生口つまり労働力であり兵力にもなる、
が含まれ、
しかも海上交易ですから、そのまま海運力=水軍力でもある。
よって、領地領民はもたないけれども、潤沢な兵力は持っている。

だから、長〇ヒコは戦うことができたし、
ウマ〇〇ジも越や美濃を平定したりできたわけですね。

三雲南小路1号大王の兄は福岡県内にいて、その部下の長〇ヒコがあちこち出張していた。
その息子くらいから、東方へ足しげく訪れるようになりえます。

291 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:45:51.44 ID:r3vux1zYK
>>180
イザ〇ギが、細戈千足國と言っているのですから、
紀元前に精巧な武器が満ち足りている国、となれば、
考古学的には、吉武遺跡群が筆頭候補になってきますね。

つまり、
初代が東征した新領土=南小路1号大王の兄の領土とは、
旧伊都(=早良平野)+旧奴国(福岡平野+筑後)ですから、

初代東征による新規獲得領土の各地について、
お三方がそれぞれ、
旧伊都の吉武遺跡など早良平野、
狭義の奴国の福岡平野、
広義の奴国(倭國之極南界也)の南方部分である筑後、
について残したコメントであり、

東征にてそれらを総括したものを譲り受けて、
伊都国王として、日向領土+伊都国王領土を史上初めて統一統合した、ということになります。

292 :日本@名無史さん:2022/10/30(日) 19:47:11.39 ID:r3vux1zYK
秋津洲は、山に囲まれた部分ですから、
〇〇ということになり、
第6代の秋津嶋宮もそこにあって考古学的に整合性が取れる、ということになります。
大倭の役所が三輪にあって繁栄していたので、
大倭=瀬戸内畿内経済圏の争奪戦が繰り広げられたわけですね。

293 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 19:58:29.22 ID:RWcyaZi50
腋上は〇後を見渡せる場所で、
阿志岐山城神籠石(筑紫野市)=古代磯城と被らないためには、
もう少し進んで、筑紫神社の辺りになりますね。

筑紫神社、竈門神社、宇美八幡宮、といった、内陸に、
なぜか玉〇姫がおわすのは、
ご本人は移転したけれども一緒に祀らていた母君は母系の氏神すなわちその地の人々の母系祖であったがゆえに
残さざるを得なかったのでしょうかね。

294 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 19:59:23.19 ID:RWcyaZi50
香椎、博多(那珂比恵遺跡)、春日(須玖遺跡群)、阿志岐山城神籠石(隈・西小田地区遺跡群)

久留米久留田・高良大社(祇園山古墳)

旧三輪町(薬師ノ上遺跡・大己貴神社・平塚川添遺跡)、朝倉市三奈木・美奈宜

295 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 20:55:45.44 ID:RWcyaZi50
>>274
70年の時点では、
旧伊都(早良平野)も奴国(福岡平野)も洪水土石流疫病で悲惨な状況で、
それらを併せて受け持った、
三雲南小路1号大王の兄=須玖岡本D地点被葬者は、
長兄として悲壮な覚悟を持ってそれらを担当した。

その名残りが、伊都に爾支。
 伊都(天)の副知事に泄謨觚と柄渠觚。
 奴国(地)には?馬觚。

泄謨觚(せつも・こ) 下水処理:排泄物を計画的に処理する
柄渠觚(へいきょ・こ) 上水整備:水渠を統括する

河川を整備し、排泄物を処理する、つまり都市機能を整備することで、
洪水の再発防止ならびに、疫病の予防を講じたのですね。

296 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 20:56:23.51 ID:RWcyaZi50
また奴国弥生銀座には?馬觚(しま・こ)を配置し、
経済復興を推し進めた。

「しま」は、「島」のほかに、「縄張り」の意味もありますから、
各種工房群の密集する奴国は、
貴重な収入源の集合体でもあったわけですね。

特に、洪水被害を免れた、「広義の奴国」の南部、
つまり、魏志倭人伝に「〇奴国」と分割記載された筑後領域については、
70年当時すぐに稼働できる経済特区として、
三雲南小路1号大王の兄=須玖岡本D地点被葬者が、重点的に開発をすすめていった、
ということでしょうね。

297 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 20:57:56.31 ID:RWcyaZi50
一方の、三雲南小路1号大王は、洪水被害から脱出して、
西の日向に新伊都を建設した。

対馬海峡を保有していますから、
銅原料、鉄原料、を始めとして莫大な安定利益が約束されています。

三雲南小路1号大王の兄が存命の間は、
三雲南小路1号大王を中心に伊都王家がまとまって、他族に付け入られる隙を作らない、
という目的意識が共有されていましたが、
107年〜125年の間に三雲南小路1号大王の兄が亡くなって、須玖岡本D地点に埋葬された後に、
〇向と〇本のバランスが崩れたわけですね。

なぜ125年かというと、延光四年、つまり室見川の銅版ですね。

渡来系の有力部族複数が、それぞれの秘伝の書体で、
室見川にいた王、つまりは三雲南小路1号大王の兄の息子の一人、
を褒め称えた。

まあ当たり前といえば当たり前で、
元々栄えていた早良平野福岡平野が復興して、
さらに筑後も新興経済地域として大発展。

東方では銅戈軍が朝日遺跡まで進軍して、その先のこれも前世代の東国軍神が死去して、
東日本も降伏。

なんでいつまでも対馬海峡に従っていなくちゃならないんだ、
となったわけですね。

298 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:03:42.30 ID:RWcyaZi50
魏志高句麗伝

「本有五族 有涓奴部 絶奴部 順奴部 灌奴部 桂婁部
 本涓奴部爲王 稍微弱 今桂婁部代之」

高句麗には有力五族があり、元々は涓奴部が王になっていたが、弱体化して、
魏代の今は、桂婁部が高句麗王の座をとってかわっている。

何らかの政争に敗れた涓奴部は単に衰えたのかそれともどこかへ行ったのか?

299 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:04:24.15 ID:RWcyaZi50
能登国一宮の気多大社。

元は万行遺跡の七尾市にあったそうですが、
崇神天皇の御代に現在の羽咋市に遷座したそうです。

祭神は大己貴命。

孝元天皇の御代に、大己貴命が出雲からやって来た。
あるいは、
孝元天皇の御代に従者を率いて渡来した異国の王子。
と伝えられています。

300 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:05:52.97 ID:RWcyaZi50
>>135
解析するならば、

20年頃、奴国有力者の御曹司兄弟が、平形銅剣女王に求婚競争をしましたね。
末弟が見初められて、結婚した。
それに不服な兄達が、末弟を付け狙う。

武力=金属製武器が、伊都勢力>>奴国>平形銅剣女王なので、
伊都国王系東征将軍の、田熊石畑遺跡将軍に末弟が預けられた。
末弟は将軍娘と懇ろになって、軍事力を得た。

>>132
末弟は逆襲に転じて、兄達を追い落とし、
兄達の一部は現出雲から内陸に逃げ込んだ。

末弟は奴国王となり、その息子の軍神が美保関にいたので、
兄達一族は内陸で蟄居しているしかなかった。
男系女系奴族なのと、中央政界と切り離されていた=在地勢力に気を使う必要が無かった、ので、
オリジナルの四隅突出型墳丘墓を継承していた。

301 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:07:16.62 ID:RWcyaZi50
>>152
70年に奴国王が失脚し、軍神は諏訪へ逃走した。

奴族の主流はAタカヒコとなり、ある意味、敵(ワニ系奴族)の敵は味方。

世代が代わったし、
そもそもの親族で、もはや利害関係も特に無くなったため、
仲直りして次第に日本海沿岸に出てくる。

丹後の伊都国王系丹後若狭湾水軍大将に取り入って、
なんとか縁戚を結び、配下として組織に組み込まれていく。

302 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:08:07.86 ID:RWcyaZi50
倭国乱が起きる。(第7代の時か)

日本海沿岸に四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
=後漢書の拘奴國
を設立。

拘奴國は、西の有力女性指導者=卑彌呼「邪馬壱国=女王国=奴國+不彌國+α」と同盟しており、
互いに協力して勢力拡大していく。

西谷墳墓群から次第に勢力範囲を広げ、
第8代の時に、一族の水軍を束ねる有力な若手水軍大将が、
能登半島を攻略して落とした。
当初は彼が祀られていた。
つまり奴国王の兄の子孫。

西の卑彌呼も倭国共立女王に抜擢される。

303 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:09:25.11 ID:RWcyaZi50
九州南部の狗奴国に協力していた、
長崎伊邪国の難升米が、対馬海峡領有権を手土産に、
倭国共立女王卑彌呼に寝返る。

難升米は大率長官となり、中国の刺史の如く、普段は伊都細石神社に勤めながら、
末盧〜対馬海峡〜狗邪韓國を領有する。

難升米は、越後〜東日本を支配する軍神一族の本来の嫡流であり、
難升米が卑彌呼邪馬台国に所属したことによって、
東日本も卑彌呼邪馬台国へ帰順する。

元は奴国同族である、四隅突出型墳丘墓国家=拘奴國も、
軍神一族と手打ち。

304 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 22:12:01.58 ID:RWcyaZi50
正始八年(247)卑彌呼死去。
邪馬台国軍大将の難升米は、筑後肥後境界での対狗奴国戦で、
衆目の中、ド派手に討ち死に。

次の男王。第10代。
北の伊都卑彌呼残党勢力と、南の狗奴国に挟まれて絶体絶命。

叔母の狗奴国王妃に仲介を依頼して、狗奴国と起死回生の同盟をすることで、
卑彌呼勢力を撃破。
さらに軍を進めて、親卑彌呼の四隅突出型墳丘墓国家・拘奴國を滅ぼす。

伊邪国難升米一族ならびに、東日本軍神一族は、
難升米の喪に服していたため、男王からはむしろ香典を頂くしんみりした関係。
邪馬台国勢力下の地方豪族として、そのまま男王配下に収まった。

男王の指導の下、万行遺跡に東日本からの年貢を納めることとなり、
祭神は、奴国王にしておきましょう。

305 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:32:26.75 ID:RWcyaZi50
>>297
池上曽根遺跡ですね。

同時代に驚くほど巨大な大型建物は、
炭素年代が100年ほど新しくなったので、従来通りの1世紀後半になるはず。

すぐ傍の、曽祢神社の祭神が、饒速日命と伊香我色雄命なわけですね。
後者は、魏志倭人伝の伊聲耆掖邪拘に比定する方もいますね。

7世紀の改革時には、池上曽根遺跡の繁栄は跡形もなく、
ただの小集落に寂れた曽祢神社があるだけだったので、
奇跡的に曽祢神社が残ったのでしょう。

306 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:33:02.98 ID:RWcyaZi50
少なくとも紀元前からあって、
三雲南小路1号大王の兄の時代には大型建物があって、
3世紀銀印の伊聲耆掖邪拘の名も残っているということは、
サンドイッチ理論で、
少なくとも「銅戈時代」には、三雲南小路1号大王の兄の勢力の、
大阪湾における主要拠点であったはず。

鉄工房もあったことから、
ますます三雲南小路1号大王の兄の勢力の拠点であり、
舟木遺跡から鉄器を融通してもらっていた。

環濠で防御はしていたが、
鉄器を保有していたから、
現地毛人の襲来があって銅鐸を鳴らして引きこもる必要はなく、
むしろ盛んに出撃したり、
場合によっては、周囲の倭種カモ系銅鐸環濠集落からの救援要請に応えて、
救出出陣もしていたでしょう。

307 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:33:35.79 ID:RWcyaZi50
それだけ重要な拠点であったのに、銅戈が出土していないんですよね。

と、いうことは、
祭祀型銅戈軍は、三雲南小路1号大王の兄の勢力ではなかった。

なればその候補は、
銅鐸Jアラート+環濠集落で先に畿内に入りこんでいた、カ〇勢力。
を女系として、
70年政変で北部九州の有力勢力にのしあがった、
Aタカヒコの勢力であったのではないか。

308 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:34:52.80 ID:RWcyaZi50
戈とは捕獲用兵器であり、
銅戈を奉じて勢力拡大して、107年に160人の生□を贈るまでになったということは、
つまりは新天地の原住民を戈で捕獲して、
船行一年かけて本国へ輸送していた。

なぜ一年かというと、船足の遅い輸送船での輸送。
途中の生□シマでの滞在。

巡り巡って、数百年後に、まさかのその新天地に新都を構えることになり、
生□の歴史をどうにかする必要が生じたのが課題の一つだった。

生□シマの名が残ったのも、当時はそんな島の名前をいちいち記載するほど
正確な地図は無く、
ごくごく地元の人々がそう呼んでいただけだったので、
これも奇跡的に中央の監視の目から漏れて、名前が残ってしまったのでしょう。

309 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:42:04.01 ID:RWcyaZi50
稲作の無い時代の土器の流れは、開拓者の流れ。
遠賀式土器ですね。
数十年で当時の稲の育つ北限まで達し、稲作にて繁殖していきました。

稲作が普及して稲作集落の発展した時代の土器の流れは、
租庸調。

供献土器が〇〇式だから、〇〇地方の祭祀が取り入れられた、
などもありえませんね。

数百年数千年経って、土器だけが残っているだけのことであり、
供献された当時は、
土器ではなく、土器に盛られた品々がメインだったわけですから。

冠婚葬祭でのお供えや、
神社での祭祀で、収穫米や、お酒、塩、などをお供えするのに、
中国製の器を使おうが、ドイツ製の器を使おうが、
中国人やドイツ人に支配されたわけではありません。
単なる器ですね。

310 :日本@名無史さん:2022/10/31(月) 23:47:25.08 ID:RWcyaZi50
武器にも威信材にもならない土器は生口に作らせた。
ついでに供献土器も生口に作らせた。
供献の主品はお供え品であり、土器は単なる器に過ぎない。

ですね。


庄〇式は海上輸送用。要するに北部九州倭国への貢物輸送用。
舟に積んで輸送するため、
薄手で軽量化。
尖り底を木枠に嵌めて固定。
次第に規格化されていくのは、大倭の輸送船が運送を一手に引き受けていたから。
それを作る土器製作者が他の土器も作ったから同じ系統の陸上土器もできただけ。

ですね。

311 :日本@名無史さん:2022/11/02(水) 20:27:13.71 ID:uEo+wQckf
なるほど。天才的ですね。

神々はA島にいた。A大王家もずっとA島にいた。
B勢力が資源に乏しい東の土地を先行侵略して、資源の代わりに先住者を奴隷にして儲けた時代があった。

数百年後、
A大王家が対外戦争で敗北し、弱体化して東遷する事態となった。

A大王家を迎えて東に本拠を構えるにあたり、
東の地における怨みによって、糾弾されて失脚する事態を予防するために、
B勢力が主体となって奴隷をこき使っていた歴史を消去しておく必要があった。

一つに、そのような事実を文字記録から抹消する。

しかし人々の言い伝えまでは消去できないので、
仕掛けたもう一つのカラクリが、

A1系統が先に東遷していて、
A2系統が次に東征してきて、その時にB勢力もやって来たことにした。

一見すると、先駆者の座を譲っているように見えるが、
主犯をA1系統になすりつけた。

312 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:23:20.72 ID:hyPx5R89C
>>221
青谷上寺地遺跡が一つのポイントになりますね。
・勒島遺跡との関係
・襲撃されている
・近畿型(樋分離型)銅戈片

卜占の流派で検討すると、
前314年に亡命燕第一波
神a派:勒島遺跡→前108年に青谷上寺地遺跡
神b派:勒島遺跡→旧伊都吉武遺跡での中央政争に敗れて唐〇カ〇遺跡へ

甲羅派:前108年過ぎに古浦遺跡

313 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:25:13.95 ID:hyPx5R89C
神a派と神b派は、
20年過ぎの奴国王の国内整備時代に共に協力的ですから、
親奴国王だったわけですね。

一方の甲羅派は、100年ほど田〇山姫と婚姻を重ねているうちに、
田〇山姫にも次第に卜占が伝えられていきます。

後10年過ぎの銅矛銅剣戦争後半において、
劣勢になった平形銅剣女王国から救援要請を受けて、
参戦することを決定します。

平形銅剣女王国領域からの銅鐸供出と、古浦の燕復興資金の青銅と、を溶かして、
銅剣を製作しますが、
露見して、
中広形銅矛軍の16尋の大軍によって制圧されますね。

誰がチクったんでしょうね?
西隣りに常駐していたであろう、東征将軍配下のワニ系部隊でしょうか。
東隣りの、神a派でしょうか。

314 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:26:34.80 ID:hyPx5R89C
20年頃に荒神谷遺跡で降伏調印式。
古浦の燕系貞人はおそらく粛清された可能性が高いですね。

ただ、甲羅派の卜占技法は、田〇山女王→Aタカヒコと伝えられていきます。
もはや男系女系共に燕とは無関係になってしまいますが。

奴国王時代になって、
30年頃から、古浦周辺は若き軍神領に。
青谷上寺地遺跡は親奴国王ですから、軍神とも親しかった筈ですね。

70年に奴国王が失脚しますね。
軍神が持ち去った金印を追って、銅戈軍が血眼になって追いかけていきます。

(金印は軍神の長男が西へ秘匿して比良夫水軍→難升米へと繋がっていきますが)

315 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:30:50.15 ID:hyPx5R89C
卜占の技法における、ケズリに注目してみます。

要するに、単なる神事で結果が何でもよければ、
何も加工せずにただ焼灼してヒビ割れを見るだけでいいのですが、
政治的要求が高くなればなるほど、
コントロールする必要性が高まりますから、
ケズリをしっかりと入れて規格を整える必要があるのですね。

この観点から見ると、やはり古浦遺跡出土の卜占は、
いきなり最終形のケズリDが入っています。
骨を両面とも完全に平坦に成形する高度な技法ですね。
燕王族お付きの貞人が一緒に渡来して来たのでしょう。

(弥生前期となっていますが、ケズリDが出現するには早すぎるので、
おそらく前108年以降なのでしょう)

甲羅派秘伝の高度なケズリ技法(焼灼V+ケズリD)が、
田〇山姫→Aタカヒコ→カ〇系大倭長官と伝わり、
肥前の牟田寄遺跡(狗奴国王妃)
倉敷の上東遺跡(狗奴国王族) 楯築墳丘墓の領民集落
唐〇カ〇遺跡(大倭カ〇関連)
などに出土して、
その後全国に広がっていくことになります。

基本的には大倭長官であることが多いので、土器もその系統が絡んできますね。

316 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:34:09.04 ID:hyPx5R89C
70年に奴国王が失脚して、軍神が古代出雲(宗像)から、諏訪まで逃走する際に、
金印捜索隊によって、軍神逃走経路上の関係者が次々にとばっちりを喰らったわけですね。

平和を愛する貝輪職人であった、軍神の兄=土井ケ浜遺跡英雄
もその一人ですし、
青谷上寺地遺跡の人々も、そうなのでしょうね。

軍神はおそらく、諏訪での防衛戦に備えて、
青谷上寺地遺跡の戦力になりそうな男性だけを連れて行ったのでしょう。

よって、
東国の軍神領域での卜占は、青谷上寺地遺跡の前半の技法がメインとなりますし、
軍神は、銅戈軍に負けないための現実的な即効性のある政治や軍事をしなければなりませんでしたから、
神権政治は必要なく、
卜占はあくまでも形式的な祭祀レベルでよかったので、
原初的な卜占面焼灼面一致型の卜占で事足りたわけですね。

中には焼いただけでヒビすら入っていないものも出土しているので、
青谷上寺地遺跡から連れてこられた人の子孫が、神事の際に形式だけ真似れば十分だったということでしょう。

317 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:37:11.77 ID:hyPx5R89C
青谷上寺地遺跡は一度滅亡した後地に、銅戈系の人々が入り、
ケズリDの卜占も出現したのでしょう。

近畿型(樋分離型)銅戈は、近畿→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡と侵攻したわけですね。
柳沢遺跡に攻め込んだ将軍は軍神に撃破されてしまいましたが。

祭祀型銅戈の中では初期に属しますので、
おそらくAタカヒコ本人あるいはその有力な部下が、近畿にいて、
初期にはそこから軍を発したのでしょう。

Aタカヒコはそのまま北部九州倭国の遷都建国の重鎮になりましたから、
すぐに北部九州倭国各地から九州型(樋結合型)銅戈が活動を開始することになりましたが。

318 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 22:50:09.53 ID:hyPx5R89C
青谷上寺地遺跡に銅戈系の人々が入って、
持ち込んだ近畿型(樋分離型)銅戈を、
占領の証に地鎮祭埋納してあったか、あるいは祀ってあったのを、

後の銅矛銅戈戦争時か、倭国乱時に、青銅原料として再利用して、
銅鏃などを作ったわけですね。

>>209
青谷上寺地遺跡には四隅突出型墳丘墓がありませんから、
後漢書の拘奴國=日本海沿岸倭種の四隅突出型墳丘墓国家=赤坂今井墳丘墓を長とする女王国
とは敵対もしくはそれまでに衰退していた。

70年まで三次市に押し込められていた、奴国王の兄達の末裔である拘奴國は、
どちらかというと、ワニ系奴国王と敵対だったわけですから、
奴国王を打倒したカモ系銅戈勢力とは敵の敵で味方のはずですね。

そう考えると、
青谷上寺地遺跡は本来は神a派で、勒島遺跡の人々も受け入れたりした。
奴国王の側についていた。
70年奴国王失脚時に一度滅ぼされ、跡地に甲羅派(焼灼V+ケズリD)が入った。
その甲羅派も、銅矛銅剣戦争時に粛清され、拘奴國には参加できなかった。
と、いうことになりますかね。

319 :日本@名無史さん:2022/11/03(木) 23:15:18.44 ID:hyPx5R89C
>>317
近畿→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡

>>318
その甲羅派も、銅矛銅戈戦争時に粛清され、拘奴國には参加できなかった。

銅矛銅戈戦争であれば、
金属器ルート上流の新伊都2代目VS大倭経済圏の構図ですから、
金属原料が枯渇して、
手持ちの青銅器を供出しなければならなかったのですね。
>銅戈片→銅鏃

320 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:46:26.01 ID:qV1ymmbMb
>>79
古代豊国=古代出雲+古代伯耆の、
西の有力部族がワニ
東の有力部族がカモ

それぞれ相手が邪魔になるので、
ワニは対馬海峡〜半島権益を志向する傾向があり、
カモは関門海峡〜列島権益を志向する傾向があった。

なれば、当然のことながら、
>>312
神a派はワニと組んで、半島出兵を促す傾向があったことになりますね。
特需もありますし、
自領の保全にもなりますから。

321 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:47:33.07 ID:qV1ymmbMb
奴国王が平形銅剣女王と結婚した直後から、
神a派が奴国王に協力的であったということが、
いずれは半島出兵をすることになる伏線であったことになります。

奴族は親漢であり、
楽浪郡使ともある程度連携していた。

燕系の神a派は、本来は微妙に反漢の立場ですが、
故国復興はもうあきらめて、
奴族に楔を入れて、末弟をバックアップして、
奴国を親神a派にして利用しようと画策したのでしょうかね。


また、東方からやってきた神b派のことを、
わざわざ卜占の辞で身分確認しなければならなかった、
という逸話から、
神b派が奴国王政権に合流したのは、ずっと遅く、
銅剣銅矛戦争が終わって、中広形銅矛将軍が奴国王になってから、
であることがわかります。

322 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:48:33.52 ID:qV1ymmbMb
>>132-135
以上から、
前108年過ぎに、青谷上寺地遺跡に亡命していた神a派は、
奴国王擁立に最初から関わっていた。

10年代後半に、中広形銅矛将軍が、田熊石畑将軍の配下の立場で、田熊石畑将軍の娘である妻を連れて、
奴族の兄達を追って現出雲に来た時は、
現出雲市のワニ系部隊が現地で迎え入れたし、
東の青谷上寺地遺跡の神a派も中広形銅矛将軍に助力した。

その時はまだ、古浦甲羅派や田〇山遺跡女王は中立。

兄達が中国山地に逃走したことで、
中広形銅矛将軍は奴国領主の立場を確立したため、
一旦北部九州へ引き上げた。

323 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:49:11.00 ID:qV1ymmbMb
その数年後に銅剣銅矛戦争が勃発し、
次いで義父の田熊石畑将軍が戦中に亡くなり、
中広形銅矛将軍が東征将軍位を継いだ。

20年頃に、甲羅派の銅剣女王側への参戦準備を聞きつけて、
中広形銅矛将軍が16尋の大軍で押し寄せた。

この時の兵は、おそらく、
主力のワニ部隊が中広形銅矛14尋、
応援の神a部隊が中細形銅矛2尋、
だったのではなかろうか。

324 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:50:03.56 ID:qV1ymmbMb
70年に飛びますが、

>>317
近畿型(樋分離型)銅戈は、
近畿→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡
と進攻したと予想されるわけですね。

土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡での惨劇が起きるわけです。

片や、石鏃で拷問を受けた後に処刑され、さらに顔面を潰されています。
かたや、新生児3人や若い女性たちを含む109人が頃され、遺骨は環濠に散乱していますから、皆頃しで埋葬もされず放棄されたのですね。

325 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:51:31.40 ID:qV1ymmbMb
日本海沿岸は、扇谷遺跡の運営から、
紀元前3世紀頃には、吉武高木大王によって統一されていたことが示唆されますね。

鉄資源や鉄器が、対馬海峡〜伊都〜丹後半島を常に行き来していたわけで、
要するに「平時」においては警察力が機能していたわけです。

吉武高木大王からすると、
地方領主が勝手に争って、年貢が減ったら困りますし、
あるいは
勝手に武装蜂起すること自体が、危険分子として粛清対象になりますね。

よって、2遺跡の惨劇は、
まずまず「戦時」の出来事だったということになります。

しかし戦時であっても、
かような事件はなかなか起きないわけですね。

特に100人以上を皆頃しとなると、数十人以上の部隊が実行したことになり、
部隊が大きければ大きいほど、
ある程度の規律が必要であって、
要するに、サイコパスやシリアルキラーなどが味方にいたら、
例え味方であっても危険な集団だとなります。

柳沢遺跡に攻め込んだ銅戈軍だと、8尋の大軍ですから、
それなりの軍紀がないと機能しないわけで、
まずまず無茶はしない筈、だとなります。

326 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:52:28.40 ID:qV1ymmbMb
二つの遺跡を比較してみます。

土井ヶ浜遺跡では、酷い目に会ったのは村長だけですね。
なぜなら、これだけの頃され方をしたにもかかわらず、
きちんと埋葬されているわけですから。
さらに、他の墓もおそらく金印捜索のため荒らされたけれども、
埋葬され直している。

と、いうことは、
他の集落民はほぼ避難していたことが確実ですね。

金印捜索が主目的なので、
集落民が複数捕らえられればそれは全員拷問を受けて、
徹底的に洗いざらい吐かされることになりますから。

327 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:53:31.94 ID:qV1ymmbMb
一方の、青谷上寺地遺跡ですが、
これは妙ですよね。

金印捜索が主目的なら、乳幼児まで手にかける必要は無いわけです。
まるで全滅させることが主目的のようだ、ということになります。


英雄の方は、奴国王の息子で、古代越の八岐大蛇。
なので、個人ではなく、所属組織ですでに色々ある。

伊都国王系の隊長から見たら、金印を入手して調子に載っている賤奴。
カモ系の隊長から見たら、銅剣銅矛戦争の屈辱やら、女王を初め各地の女性領主を奴国王に手籠めにされた。
古浦の生き残りがいれば、これも故郷を蹂躙された
など、
本人の生き方とは別に、
政治と無関係ではいられないわけですね。

328 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:54:37.93 ID:qV1ymmbMb
>>316
>軍神はおそらく、諏訪での防衛戦に備えて、
>青谷上寺地遺跡の戦力になりそうな男性だけを連れて行ったのでしょう。

逃走する軍神の視点で考えると、
弥生東日本や、半島での異民族戦を経験しているわけですから、
友邦の危険度も判断できたはずですね。

その軍神から見て、土井ヶ浜遺跡は危険度最大。
兄に危険を告げ、一緒に逃げるよう説得したが、
頑固な兄は頑として受け入れなかった。
「せめて領民だけでも逃すんだ、いいか皆すぐに逃げてくれ!」
と故郷の皆に警告して、急いで去ったのでしょう。

英雄はさすがに他の皆は逃がし、集落に一人残って対応した。

平和憲法九条の精神を、二千年前に命がけで実践し、
矢を射こまれながらも、
「お前たち、なんて野蛮なことをするんだ、やめなさい!」
「金印なんかどうでもいいじゃないか。そんなもの意味はない」
「暴力はよくないぞ。いくらでも話し合おうじゃないか」
といったことを説得し続けたのでしょうね。

銅戈隊長に処刑され、父や弟に似た顔を破壊されましたが、
弥生時代の軍人には理解不能な英雄の訴えがなんとなく通じて、
ああ、この集落は金印とは無関係なんだろうな、ということがわかって、
領民は救われた、ということでしょうね。

329 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:56:25.27 ID:qV1ymmbMb
一方で、軍神から見て、
神a派の集落は、まずまず危険性はないだろう、と判断されたわけですね。

(ちなみに、男性に縄文系がいたとのことですが、
 戦士階級は軍神が連れて行ったと考えると、残された男性は生口だった可能性があります)

卜占で重んじられ、古くからの名家である神a派だから、
女子供などは、捕らえられるが、教養もある美人揃いだからどこぞにもらわれていくだろうし、
男はあるいは奴隷などにはされるかもしれないが、
さすがに頃されることはなかろう。
いずれ捲土重来して救出する時も来るはず。
と思ったわけですね。

また、土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡それぞれの村長の危機管理意識についても、
むしろ青谷上寺地遺跡の方が、つい100年前に勒島遺跡を追われた記憶が残っているわけで、
滅亡の危険性については十分に理解していた筈です。

よって、軍神から見ても、村長から見ても、
残した領民が全滅する危険性は低かった、はずです。

では、神a派を全滅させるほどの恨みを持っていたのは誰か。

330 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:57:16.02 ID:qV1ymmbMb
要するに、卜占の主流派争いですね。

神a派は前4世紀には渡来して、吉武高木大王擁立に参加して、
倭地においては卜占を司る有力古豪となっていた。

そこに、前1世紀に、祖国から王族が貞人や青銅職人などを率いて亡命してきた。

数百年の時間差は大きく、
甲羅派の方がケズリDなど技法も最新式だし、
全般的に知識や技術も最新。
カモも女王系を嫁がせるなど、それらを吸収しようと大人気。

なので、銅剣銅矛戦争末期に、甲羅派が銅剣女王国側に参戦すると聞いて、
神a派の部隊2尋が、古浦の甲羅派集落を滅ぼしたのでしょう。

331 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 19:57:54.21 ID:qV1ymmbMb
甲羅派の生き残りがいたわけですね。

>>93
一つは、各地から供出される銅鐸を、古浦の青銅器工房へ輸送護衛していた兵達。
出張先の各所で、故郷の滅亡を知ったことになります。

もう一つは、急襲された古浦から命からがら脱出した人たち。

銅矛水軍の大軍が押し寄せたので、
逃走経路は中国山地に逃げ込むしかなく、
その先には、奴国王の兄達の一族がいて、敵の敵は味方で匿ってくれたわけですね。

(後の西谷墳墓群と吉備の縁の始まりでしょうか)

その中には、燕王族の末裔がいた可能性が非常に高く、
そしてその勢力が、カモに匿われて、

70年に、Aタカヒコの出陣要請に応えて、紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地から出撃した、6尋の銅戈軍とイコールあるいはその一部となったわけですね。

332 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 20:09:02.53 ID:qV1ymmbMb
紀伊の上ノ段銅鐸銅戈出土地→宗像→土井ヶ浜遺跡→青谷上寺地遺跡→柳沢遺跡

奴国王捕縛のため終結したのは、
九州型銅戈軍の十数〜数十尋を主力とする大軍だったのでしょうけども、
逃げた軍神を追いかけるには、
長距離用の舟、つまり準構造船で追いかける必要があったわけですね。

紀伊から遥々遠征して来た近畿型銅戈軍6尋は、遠距離を準構造船で疾駆してきたので、
そのまま軍神追跡部隊に回った。
九州勢は、佐賀〜福岡県北岸での移動なので、普通の軍船だったので、
旗艦などの準構造船で1尋を急造して、参加した。

>>91
前中西遺跡の方形周溝墓に副葬された石戈が樋分離型ですから、
近畿からの武人が大将を勤めたこともわかりますね。

史実に合わせるなら、
軍神水軍が乗って来た軍船(これらも準構造船だったわけでしょう)を焼き払って、
本軍は上陸追跡し、
伝令が帰った。(軍神はもう戻って来れません→来ません)

333 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:43:28.46 ID:qV1ymmbMb
>>144
>>256
??=Sが生きのびたわけですね。
男系は高い確率で太子丹の血統。
ですが、
女系では、Aタカヒコと女王母を同じくする、父違いの兄でもある。

カ〇女王系なので、当然カ〇勢力に保護された。

Aタカヒコも丁度豊国宰相から、東方振興地域担当の大倭に、
1世紀当時としては格下げにされた。
ので、兄勢力を匿うのに大いに助力できた。

334 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:44:45.37 ID:qV1ymmbMb
後60年代の激しい政争だったわけですね。

伊都国側は、57年金印がもたらした疫病で一時的に弱体した奴国王に、
恭順するよう使者を送る。

しかし奴国王はその使者を寝返らせる。

つまり、
〇ワカヒコを伊都国王にして、伊都国とカ〇系を治める。
軍神は金印奴国王で、奴国と全体を。
奴族で倭地を乗っ取ろうという作戦ですね。

一方の伊都国側も調略を進めていて、
母子共に冷遇されたAタカヒコですね。

〇ワカヒコの抹●は伊都国王家の命運をかけた一大事であり、
ここはクリアされた。

335 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:46:19.44 ID:qV1ymmbMb
葬儀の場でAタカヒコが騒ぎを起こし、
その後に喪主へ詫びを入れる。

喪屋を壊したお詫びに、カ〇一族が責任を持って〇ワカヒコを弔おう。

大倭の本部を、倭国(当時はまだ伊都国+奴国)の東端の旧三輪町に作ったように、
カ〇一族の貴種である〇ワカヒコは、
1世紀カ〇領域(銅鐸分布域)の東端である美濃国に祀って、
末永くカ〇領域ひいては大倭を見守ってもらいましょう。

と、卜占でお告げを出して、自らお詫びの出張に出かけたわけですね。

近畿の兄勢力達と挙兵時期を密談するために。
目立ちにくい近畿で軍備を整えたわけです。

336 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:46:55.76 ID:qV1ymmbMb
神戸市には、
7本の近畿型銅戈で有名な桜ヶ丘遺跡と、
保久良神社からも近畿型銅戈が出土しており、
祭神には椎根津彦命がいらっしゃいますね。

青亀の背に乗ってやって来たとの言い伝えが残っており、
つまりは亀卜。
卜占を伝える一族だったのでしょうか。

337 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:48:41.77 ID:qV1ymmbMb
甲羅派の卜占(焼灼V+ケズリD)が伝え残った経路は、
妻のT姫→Aタカヒコや姫達
だけでなく、
夫のS系統も生き残っていたわけですね。

銅戈時代に、紀伊→神戸→と移動し、
東征時に道案内をつとめたことで出世し、
倭国に領地を得たのだろう、ということになりますね。

ただ、どちらの系統についても、卜占の考古学的出土は限られています。
さらに、日本史書、中国史書、各種言い伝えでも、亀卜があったことは明らかなのに、
亀卜の甲羅が出土しませんから、
ただでさえ骨は残りにくいのに、
甲羅は骨よりもさらに残りにくいのか、
あるいは甲羅派の卜占神事の一環として、海に還すような手順があったのか、ということになります。

過去スレで検討したように、
T姫→娘達、の九州縄文女系子孫が、卑彌呼で、
「トト」というのは卜占を行っていたことを意味する可能性が高く、
卑彌呼や卑彌弓呼の「卑彌」「卑彌〇呼」も卜占を意味する可能性が高いですね。

ただ、
卑彌呼は第8代のトトであって、
第7代のトトは狗奴国王妃だと推定されますが。
同系統の卜占を行い、令亀法の辞だったのでしょう。

338 :日本@名無史さん:2022/11/06(日) 21:49:40.36 ID:qV1ymmbMb
70年以降は、Aタカヒコが実力者となりますから、
甲羅派も勢いを増したわけですね。

となると、神a派が失速し、
壱岐での卜占出土量が激減したわけですね。

壱岐の神a派、つまりはク〇ヒコの一族は、卜占を禁じられたか、
過去の神b派のように辺境へ流されたか。
(Aタカヒコ領域なのでさすがに処刑までは無かったと思いますが)

そのAタカヒコも銅剣銅戈戦争で失脚し、
甲羅派も一旦は転封され、
卑彌呼の祖のカ〇女系も一度は滋賀へ。

339 :日本@名無史さん:2022/11/09(水) 03:59:43.14 ID:brhHvmb/t
>>332
軍神追跡軍は、近畿からは7尋でしたね。
紀伊の6尋と、他にも初期型の近畿型銅戈出土地から合流して、
宗像を目指したわけでしょう。

近畿勢は秘密の援軍であり、
軍神側はまさか相手方に甲羅派が参加しているとは知らなかったので、
青谷上寺地遺跡の一般人が危険に晒されるとは思いもしなかったのでしょうね。

九州型銅戈の主だった将軍隊長については、軍神は当然顔見知りであり、
戦時にどのような振る舞いをするかは予測がついたでしょうから。

九州型銅戈が柳沢遺跡までは来ているので、
軍神追跡軍の当初の将軍は、古代豊国軍のカ〇系将軍だったのでしょう。
イ〇ナギを追いかけた八雷神の流れですね。

軍神を捕らえていれば、連れ帰って奴国王と豊国宰相と三人並べて降伏文書に調印させていたわけで、
つまりは軍神を捕らえることはできなかった。
九州型銅戈将軍が、上越市関川河口辺りに泊めてあった軍神軍の準構造船団を焼き払って、
一旦宗像へ戻って状況報告したわけですね。

なぜ戻ったと思うかというと、
深入りした石戈の中に、九州型銅戈型の石戈が無いからですね。

340 :日本@名無史さん:2022/11/09(水) 04:05:05.94 ID:brhHvmb/t
残った近畿型銅戈軍の中に、甲羅派の将軍あるいは隊長がいて、
軍神軍、ならびに軍神軍の中にいる神a派に敵討ちしようと、
進軍を主張して暴走深入りしたのでしょう。

20年頃の荒神谷遺跡の時に10代後半で、銅鐸回収作戦に従事していた銅剣戦士がいたとすれば、
70年には60代後半ですから、まだ将軍隊長を勤めることのできる年齢ですからね。

近畿→宗像→軍神追跡軍に参加して日本海沿岸へ出航し、
遥か50年ぶりの故郷・古浦の浜に一時上陸して、
両親兄弟姉妹、あるいは恋人や、妻子、を思い出して涙し、
それがために、復讐心を燃え上がらせてから、その直後に、
青谷上寺地遺跡に上陸ですから、

他の部族の部隊から見ても、甲羅派部隊が青谷上寺地遺跡に復讐する流れがあったわけですね。

柳沢遺跡から、執拗に神a派を追跡攻撃しようとした、ということは、
もちろん金印のこともあるでしょうが、

20年頃に甲羅派の古浦集落を襲撃した、神a派の隊長なり勇士なり政治的実力者なり、
あるいはその有名な子孫が、
軍神軍と一緒に諏訪に逃げ込んでいた可能性が高いですね。
標的がいたのでしょう。

341 :日本@名無史さん:2022/11/14(月) 19:27:44.65 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ

342 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 10:10:25.26 ID:JEXyyOMiN
後漢書
「其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪郡徼 去其國萬二千里」
三国志
「自郡至女王國 萬二千餘里」

後漢書に萬二千里が記載されていることから、里程は後漢代のもの。

大倭王=金印倭王=卑彌呼であり、
後漢代の卑彌呼が居たのが、
女王國=邪馬一国=奴國+不彌國+α=若き卑彌呼の前任地(>>186

至は、その国の境界に至る
到は、その国の中心地点に到着する

7000+1000+方可400×2+1000+方可300×2+1000+500+100=12000
12000里で女王國=卑彌呼の前任地=奴国境界に至る。


日数は魏使の出張報告書からの転載。

343 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 22:22:47.63 ID:JEXyyOMiN
日数は魏使の出張報告書からの転載。

「従郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
帯方郡から倭に至るには、
沿岸航海をして、
韓國を通り過ぎて、
(通り過ぎてから)
急いで南へ進み、次いで急いで東へ進んで、
倭人支配地域の北岸である狗邪韓國に'到着'する。

「南至投馬國 水行二十日」
帯方郡から南へ進むと、倭人支配地域の投馬國に'至る'。
帯方郡から投馬國までは、舟で二十日かかる。

「南至邪馬壹國
 女王之所都 水行十日陸行一月」(二十日→十日→一日の墨書転写間違い)
投馬國の狗邪韓國から南へ進むと、北部九州邪馬台国に'至る'。
邪馬台国の中の、女王が都としている場所までは、狗邪韓國から舟で十日と徒歩で一日かかる。


卑彌呼は長らく不彌國雀居遺跡に居していたのが、
正始元年(240)に梯儁等と金印外交をするため、新伊都=日向=女王之所都へ移動してきた。
そこで没したので平原遺跡は新伊都に存在する。

344 :日本@名無史さん:2022/11/20(日) 23:05:16.29 ID:JEXyyOMiN
日数は魏使の出張報告書からの転載。

「従郡至倭 循海岸水行 歴韓國
 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
帯方郡から倭に至るには、
沿岸航海をして、
韓國を通り過ぎると、倭に至る。
(倭領に至ってから倭領投馬國の中を)
急いで南へ進み、次いで急いで東へ進んで、
倭領の北岸である狗邪韓國に'到着'する。
帯方郡から狗邪韓國までは、七千余里である。

「南至投馬國 水行二十日」
帯方郡から南へ進むと、倭領の投馬國に'至る'。
帯方郡から投馬國までは、舟で二十日かかる。

「南至邪馬壹國
 女王之所都 水行十日陸行一月」(二十日→十日→一日の墨書転写間違い)
投馬國の狗邪韓國から南へ進むと、北部九州邪馬台国に'至る'。
邪馬台国の中の、女王が都としている場所までは、狗邪韓國から舟で十日と徒歩で一日かかる。

漢文では直前の単語にかかるため、
七千餘里→狗邪韓國
水行二十日→投馬國
水行十日陸行一日→女王之所都
にそれぞれかかる。


卑彌呼は長らく不彌國雀居遺跡に居していたのが、
正始元年(240)に梯儁等と金印外交をするため、新伊都=日向=女王之所都へ移動してきた。
そこで没したので平原遺跡は新伊都に存在する。

345 :日本@名無史さん:2022/11/22(火) 23:07:32.94 ID:LJrG5/A/p
>>336
椎根津彦命の祖神は大国主命として、
保久良神社に一緒に祀られていますから、
ほぼほぼアジスキタカヒコネ一族。

ごくごく低い確率で、ヤガミヒメの木俣神系列の可能性もありますが。

記紀の同段に登場する方たちに燕人の痕跡は残されていませんね。

346 :日本@名無史さん:2022/11/22(火) 23:09:40.63 ID:LJrG5/A/p
>>91
この時の近畿型銅戈7尋のうち少なくとも1将が燕系甲羅派の生き残り旧王族であり、
故郷古浦の燕系同郷人の仇討ちのため、徹底進軍を主張して深入りしたものの、
軍神の軍略に嵌められて全滅したわけですね。

>同じ水軍大将同士、元は北部九州時代の顔見知りでもあったでしょうから、
>軍神が銅戈軍総大将を方形周溝墓に弔ってあげた、ということでしょうね。

真逆かもしれませんね。

古浦の前々領主である燕系甲羅派の嫡流が、
近畿型銅戈軍の将として、
天下分け目の合戦に参加した。

古浦の前領主である奴国王系の軍神が、それを撃破した。

軍神が、捕縛した甲羅燕将と面会して、初対面で語り合ったわけですね。

古浦の甲羅派を全滅させたのは、神a派。
しかも軍神は、その後10年後に産まれた次男に過ぎない。

お互いに渡来系の将として、異民族の配下を率いて苦労した経験も共有できて、
古浦周辺の共通の知人、意外な近親者、の話題が見つかって盛り上がり、
お互いリスペクトして友情が芽生えかけたけれども、
時代の哀しさで、軍神は甲羅将を・・・遥か東方の地で・・・処刑せざるをえなかった。

前中西遺跡の方形周溝墓に丁重に葬った軍神の心中や如何に。

吠えたでしょうね。。。

347 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:33:24.88 ID:dlk2F1+sv
松本清張の「砂の器」で有名ですが、
東北弁と出雲弁(雲伯方言)がズーズー弁で似ているのですね。

東北地方に広く分布するズーズー弁が、
関東中部を飛び越えて、
なぜか西の出雲地方だけに飛び地的に存在するわけです。

また、現代日本人のDNA解析でも、東北地方の現代日本人と、出雲地方の現代日本人は、
DNA傾向が似ているそうです。


東北地方の縄文式土器が、沖縄でも出土していますから、
縄文時代からある程度の交流があったことはわかっていますが、
東北の人が自然に拡散するなら、出雲だけでなく、
日本海沿岸に広く薄くズーズー弁が分布するはずですね。

348 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:36:01.37 ID:dlk2F1+sv
伊都説から解析していくと、その謎も説明ができますね。

20年頃に、
青谷上寺地遺跡から出撃した神a派の中細形銅矛2尋が、
古浦の甲羅派集落を壊滅させた。(>>323

30年代後半に、若きミホススミが古浦を含む現出雲東部地域の領主として着任して、
私的な東国攻略を開始した。(>>170
ミホススミ範囲までは攻略に成功した。

自領の古浦地域が廃墟と化していたので、
東北弁の人たちを大勢連れてきて、古浦地域で稲作をさせて、年貢を納めてもらった。

被支配民ではあるが、稲作農民だと生活は安定するので、
東北弁の人たちはある程度増えて、東北弁が残った。

支配者は(>>152)何度か交代するが、
稲作農民は貴重な年貢を献上してくれる存在なので、
そのまま根付いたわけですね。
DNAもそれを示しています。

349 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:39:59.62 ID:dlk2F1+sv
後に軍神が諏訪に鎮座するわけですが、
北部九州と敵対した状態の軍神に、東国の人々が従ったということから、
ミホススミが東北弁の人々を連れてきた方法が、
奴婢や生口の形ではなく、
募集形式だったことがわかりますね。

豊かな西方に、既に一度耕されて肥沃だが、放置されている土地がある。
一家で移住して進んで弥生先進地域で暮らしてみませんか。
とか、
飢えている孤児を集めて稲作させたり。
とか、
平和な方法で集めてきたことが確実ですね。

そして、古浦にやってきた東北弁の人々の稲作が軌道に乗って、
それなりの生活をしていることが、
東北の知り合いにも伝わっていた。
70年までは、たまには親族に会いに来ることもあった。
ということでしょう。

350 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:45:05.94 ID:dlk2F1+sv
以上から解析すると、
東北弁と東北DNAが古浦にやってきたのは、
30年代後半〜70年だった、ということになりますね。

雲伯方言の分布範囲は、
島根県の出雲地方(飯南町を除く)
隠岐地方
鳥取県の伯耆地方西部(西伯郡・日野郡・米子市・境港市)
とのことですから、
まさに古浦を中心に拡散しています。

東北弁の人々は結構大勢やってきて、
貴重な労働力として周囲に入っていった、ということでしょうね。


飯南町に入っていないということは、
飯南町が奴国王の兄勢力の側だったからでしょうね。
後漢書の東の拘奴國=四隅突出国家、の発祥地域ですね。

351 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 12:46:08.60 ID:dlk2F1+sv
軍神の出身地である土井ヶ浜遺跡(の集落という意味ですが)は、
貝輪入手に特化していたのですから、
沖縄〜南九州〜長崎、の貝輪ルートの人々と密接な関係があった。

ので、縄文系の人々を差別する意識があまりなかったわけですね。
というかむしろ親戚感覚でしょうか。

特に、土井ヶ浜遺跡の領主であった兄の、英雄が、
二千年後の平和憲法の平等の精神を既に強く実践していて、
ミホススミが贈った縄文人も、皆と同じように扱い、
一族と同じ墓に入れるほどであった。

ので、生口のような奴隷商売をしたら、
兄や母に絶縁されるので、
家風のおかげで無茶はできなかったわけですね。

だがそのおかげで、北部九州で失脚しても、
東国に逃走してそこで支配者になることができた。

352 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:27:16.24 ID:dlk2F1+sv
徐福は東方の海中にある蓬莱に不老不死の薬を求めたのですから、
目的地は日本列島であったことは確実ですね。
前219年に1回目、前210年に2回目の出航をしています。

「史記」
・徐福は一回目の来倭時に、海中大神に遭遇した
・徐福は一回目の来倭時に、蓬莱山に到達した
・海神に出会い、蓬莱山はその東南にあった
・蓬莱山には宮殿があって、銅色で龍形の蓬莱王使者が面会してくれて、光り輝き天を照らしていた

・徐福の一回目の来倭時に、大鮫魚が邪魔をしたので、2回目は連弩を用意してもらった
・2回目に、男女三千人と、百工とを連れて行った
・徐福は平原廣澤の土地を得て、そこで王となって帰って来なかった

「後漢書」
・会稽の海外に、東?人がいて、二十余国をなし、また夷洲と?洲がある
・徐福一行は夷洲と?洲に留まって代々子孫を残し、後漢代には数万家にもなっていた
・夷洲と?洲の徐福子孫は時々会稽の市にやってくる
・逆に、会稽東冶県の人が遭難漂流して、?洲に漂着した人がいた
・?洲は遠絶で、往来できない

「三国志」
・呉の孫権が、夷洲を遠征したが、夷洲の数千人を得て還っただけで、損害の方が大きかった

353 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:28:17.18 ID:dlk2F1+sv
土井ヶ浜遺跡のミトコンドリアDNA解析から、
斉の山東省臨錙(りんし)遺跡からの渡来人である可能性が高くなっていますね。

土井ヶ浜遺跡では、頭部を北西に向けて葬られているのが有名で、
その方角に山東半島がありますから、
まあ誰がどう見ても斉をルーツに持つ人々でしょう。

(むしろ反対する人というのは、なにか特別な思惑や目的があるのだろう、と考えられますね。)

ちなみに、鵜(フクロウ?)を抱く巫女、は、英雄の母系祖先ですね。
(同じミトコンドリアが、なぜかベトナムで見つかっています)

土井ヶ浜遺跡のミトコンドリアDNAのハプロタイプはD4b2b1

354 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:29:59.28 ID:dlk2F1+sv
解析すると、

斉の方士であった徐福は、始皇帝の歓心を得るために、
不老不死の神薬を求めて来倭した。

1回目は、朝鮮半島経由で、対馬海峡に到達した。
>>112
燕系の衛氏朝鮮が建国する前ですから、秦の使者が通過できたわけですね。
そこで遭遇したのが、海神・大鮫魚、ですから、
サメ=ワニ、つまり古代出雲=宗像を本拠とした、熊鰐の勢力に遭遇したわけです。

対馬海峡の北岸は、燕系の神a派。
対馬海峡は、吉武高木王家の外戚だったであろう、女系ワニ。
が管理していて、
共に、吉武高木大王に従っていた。

とっくに稲作を開始していて、金属器も保有していて、国家運営していましたから、
秦始皇帝の探索隊を日本列島へ入れるなんてとんでもない話だったわけですね。

徐福は吉武高木宮殿に連れてこられたが、
大王や殿上人には会わせてもらえず、
口上の使者とだけお話させていただいて、追い払われた。

>>115
前285年の斉土笛難民は、政治色の無い避難民だったので、人道的に保護した。
けれども、
前219年の徐福は、秦始皇帝の配下で、
始皇帝は周囲の国々を滅ぼして奴隷化した恐るべき皇帝ですから、
青銅製武器で武装した軍隊でぐるりと取り囲んで徐福を威嚇して、
追い返したわけですね。

355 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:30:35.55 ID:dlk2F1+sv
追い返された徐福の立場で考えると、
斉の方士に過ぎない立場。
不老不死の神薬は手に入らない。というか、無い。
このままだと一族滅亡することが確定している。
かといって、海戦で、あの東夷海神の軍に勝つのは不可能。

となると、一族で亡命する以外に助かる道はなかったわけですね。

そこでついた嘘が
不老不死の神薬を手に入れるには、
「男女三千人と百工と、交換」するなら、手に入るそうです。
しかし、用心のために、「連弩で武装」させてください。

ということで、故郷の親族三千人と、新天地でやっていくための技術者と、護身用の連弩、を
始皇帝の資金で用意して、
前210年に2回目の出航をしたわけですね。

356 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:31:34.50 ID:dlk2F1+sv
対馬海峡に向かえば、今度こそ海神ワニ水軍=大鮫魚に襲われて、
間違いなく日本海の藻屑となりますから、

台湾沖縄経由で九州南部に入国したわけですね。

三千人の男女では、既に稲作をしていた九州を征服するのは不可能ですから、
現地の人たちと交わりながら、入居していった。

ワニに見つかると、始皇帝の手先として捕まりますから、
ワニがいない地域を選んで入っていく。

となると、
南部九州から有明海沿いに北上して、最終的には長崎の縄文系の人々と交わっていったわけですね。

南部九州から、東は四国や紀伊半島にも分布したかもしれませんが、
徐福集団も金属器ルートには近づきたかったでしょうから、
主勢力は長崎に入っていったのでしょうね。
徐福は長崎県で亡くなった可能性が高いですね。

前206年に秦が滅亡してくれますから、
始皇帝の手先のレッテルから解放されて、
ワニ活動地域に直接顔を出せるようになり、
前206年以降に、土井ヶ浜遺跡が開始となったのでしょう。

357 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:33:47.63 ID:dlk2F1+sv
対馬海峡渡海部分が、約200kmで、水行十日。

ただ、対馬海峡渡海は倭国直轄の重要海運部分で、舟・漕ぎ手や補給など最高級だったでしょうから、
他の渡海部分だともっと日数がかかったことになりますね。

長崎〜沖縄本島が、約800kmですから、水行四十日以上。
まあ2か月強だったのでしょう。

沖縄本島〜台湾対岸の福州市が、約900kmで、水行四十五日以上。

沖縄本島〜会稽だと、約1500kmですから、水行七十五日以上。

3世紀の孫権が攻め込むことが出来た夷洲は、沖縄でしょうね。

弥生時代に南西諸島を渡海していくのは、漂流すると太平洋ですから、
危険性が非常に高い。

よって、南部九州の?洲から南西諸島を経て、わざわざ中国大陸まで直接往来するのは、
利益に比べて損失が高すぎたので、
遠絶だったわけですね。

沖縄夷州からなら、たまに若手人員や物資が豊かな時期に、会稽まで交易船を送ることがあった。

358 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 19:37:12.90 ID:dlk2F1+sv
徐福が王となった、というのは、倭地全体の大王ではなく、
いわゆる旧百余国の中の一小国の王、ということですね。

技術者を連れていったけれども、
燕人なども既に来ていて、
北部九州での競争は厳しく、

青銅も鉄も入手経路は吉武高木大王直轄の対馬海峡しかなく、

徐福集団が利益を上げることが出来たのは、
沖縄との交易路を生かした、貝輪製作くらいしかなかった、
ということですね。

359 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 21:13:19.80 ID:dlk2F1+sv
そう考えていくと、
東革是國というのが、台湾。
夷洲が、沖縄。
?洲が、南部九州。

徐福一行は、台湾は通り過ぎて、
沖縄〜南部九州(〜長崎〜土井ヶ浜遺跡)に定住した。

台湾は元々複数の部族に分かれて暮らしていたのですから、
東革是國の二十余国というのはそういうことでしょうね。

360 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:01:40.82 ID:dlk2F1+sv
臨錙遺跡のミトコンドリアDNAは現代ヨーロッパ人と共通する部分があるとのことですから、
徐福一行は彫りが深い顔立ちで、縄文人と似ていたのかもしれませんね。

斉系の後発組ですから、伊都国奴国になかなか入れず、
その外縁の、長崎伊邪國や、越土井ヶ浜、などに住んでいたということですね。

沖縄にも拠点があり、
長崎の上腕がモリモリ発達したプロ漕ぎ手集団が、
定期的に沖縄を訪れて貝を仕入れていた。

貝輪など貝製アクセサリーが倭人社会でヒット商品となって、
希少性があるので重宝されたということですね。


ちなみに、長崎出身で五輪で金をいくつも獲得したプロ選手がいましたが、
プロ漕ぎ手の子孫なのかもしれませんね。
世界で最も難しい海域を行き来していたのですから、
上腕モリモリで、海上移動するのでバランス感覚も優れていたわけで、
それに適した男性が何世代もセレクトされていくうちに、
世界トップレベルのプロ漕ぎ手→プロ選手が誕生したというわけでしょうか。

361 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:03:12.65 ID:dlk2F1+sv
70年に貝輪一族の軍神が金印を持ち去ったので、
貝輪一族=比良夫貝、が倭国軍に追い回されることになりますね。

倭人社会で考えると、
貝輪、もとい貝釧が大ヒットして、長らく貝釧をいくつも腕につけて、
シャラシャラと軽快な音を立てるのが身だしなみだった。

それが突然手に入らなくなったわけですね。

そこで考え出された代替品が、銅釧やガラス釧だったのでしょう。
貝釧をつける風習があったので、
銅釧やガラス釧をつけていた。
けれども、
銅釧は重いし、手入れしないと錆びて緑の輪になってしまう。
海上移動している時に転覆したりしたら、溺れる確率が上がりそうですよね。
ガラス釧は綺麗ですが、うっかりぶつけると割れてしまいますから、
おちおち酒も?めない。

ですから、時代が下ると銅釧やガラス釧は廃れていったわけですね。

362 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:12:57.13 ID:dlk2F1+sv
巴形銅器は、スイジガイを模していると言われていますが、
そもそもからして、元々は、
盾にはスイジガイが張り付けてあったのでしょうね。

現代でも沖縄では、スイジガイを魔除けとして軒先にぶらさげる風習が残っているそうです。
またスイジガイを加工した、スイジガイ製利器があちこちで発掘されています。
そしてスイジガイは食用にもなる。

よっておそらく、沖縄そして、沖縄と行き来する長崎比良夫貝は、
航海厄除け並びに非常食として、スイジガイをいくつか船べりにぶら下げていたのでしょう。
スイジガイなら突起が多いので、細紐でぶら下げておけますからね。

転じて、プロ漕ぎ手は当然のことながら、
平時の移動や輸送だけでなく、
戦時においても、引く手あまただった。
弥生時代の主戦場は海上戦ですからね。

で、身を護るための盾に、お守りとしてスイジガイを張り付けていたわけですね。

スイジガイを張り付けた盾は比良夫貝だから、これを射ると、比良夫貝と敵対することになって、
後々比良夫貝のプロ漕ぎ手が自軍と契約してくれなくなるし、
場合によっては海上で襲われることもあるかもしれない。
だからスイジガイの盾は攻撃するなという不文律ができあがって、
転じて皆スイジガイを張り付け始めた。

363 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 22:13:34.57 ID:dlk2F1+sv
渡海のプロ達の厄除け風習が、倭人の間にも流行して、
基本的に出陣する時はスイジガイを張り付けた盾が準備されて、
それを積んで出航するようになったわけですね。

これもまた、70年を境にスイジガイが手に入らなくなりましたから、
代替品として巴形銅器が開発されて、
当初はスイジガイと同じ六脚だったけれども、
時代が下るにつれて、スイジガイを見たことのない青銅器職人が作るようになって、
五脚や四脚のものが増えていったということですね。

364 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 23:27:10.00 ID:dlk2F1+sv
軍神の父は奴国王。
母は土井ヶ浜女王ですから、
母方の母系は土井ヶ浜女王系。
母方の父は伊都国王族の田熊石畑遺跡将軍でしょうね。

徐福一行は、
母系社会の九州縄文人と長年同居しているうちに、
徐福一行の代表者も女性が務めるようになった。
その一部が、長崎縄文人と、古代越=山口県の縄文人つまり八岐大蛇族のネットワークや、
先に渡来していた斉土笛集団との繋がりなどで、
土井ヶ浜に領地を得た。

ただし、八岐大蛇族は既に一度敗北しており、
山口県各地の女王は田熊石畑遺跡将軍の子を産むことで、領地安堵を受けていた、
と考えられますね。

その流れがあったので、
奴国王が、義父田熊石畑遺跡将軍から首尾よく将軍位を継いだ後に、
土井ヶ浜女王に子を産ませることができたのでしょうし、

また軍神も、
女系集団であるワニの女王筋の女性を娶り、
また母方の祖父が田熊石畑遺跡将軍だったので、
古代出雲の兵権を得ることが出来たわけですね。

365 :日本@名無史さん:2022/11/23(水) 23:28:14.01 ID:dlk2F1+sv
>>178
金印を長崎に秘匿したとして、
比良夫貝が、なんで倭国と戦ってまで軍神の息子を匿ったのかを考えると、
その息子の母が比良夫貝の女王筋だったから、
としか考えられませんね。

つまり、軍神の最初の妻は、比良夫貝女王筋の女性だった。

だから、軍神は比良夫貝=長崎のプロ漕ぎ手集団、という強力なバックを持っており、
だから、若き軍神は、伊都国系の丹後若狭湾を飛び越えて、
遥か東国遠征をすることができた。

よって、ワニ女王筋の女性も娶ってワニ将軍に出世してからも、
対馬海峡渡海など有利に事を運ぶことが出来たし、

70年の時も、圧倒的な速さで東へ逃げ去ることができたわけですね。

366 :日本@名無史さん:2022/11/24(木) 03:13:18.98 ID:kOkvU7TjI
>>353
D4b2b1dは、青谷上寺地遺跡出土人骨5個からも検出されていますね。
D4b2b1の場合は、朝鮮半島の6世紀半ば頃の全羅北道群山市の堂北里遺跡の甕棺からも検出されているようです。
D系統は日本民族と朝鮮民族で高頻度でみられ、このほかツングース系のウィルタ、モンゴル系のブリヤート、カルムイク、チュルク系のテレンギスなどでもよく見られるそうです。
また、中国や中央アジア、アメリカ先住民でもみられるようです。
D4だけの場合は、現代日本人では30%以上の頻度だそうです。

これを見ますと、古代の日本や朝鮮では、D4b2b1はそれほど特異なハプロではなかったようですが、どうなんでしょうか。

367 :太国 ◆ZgyHKik.H2:2022/11/24(木) 18:58:43.64 ID:QjvKun0oJ
尊皇討奸

https://www.bing.com/videos/search?q=%e9%9d%92%e5%b9%b4%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e6%ad%8c&docid=603491150469136465&mid=FB1B7F367E25EA3EC637FB1B7F367E25EA3EC637&view=detail&FORM=VIRE

368 :日本@名無史さん:2022/11/24(木) 22:49:09.49 ID:/crA4hq91
>>366
土井ヶ浜遺跡の女系解析は、ハプロタイプではなく、特定塩基配列部分の変異傾向をグループ分けして解析されていますね。

ハプロタイプはまた別の解析データ群で、覚書程度にメモしただけです。
そのデータ群での土井ヶ浜遺跡のデータは2体のみで、他の大勢も同じかどうかはわかりません。
ちなみに青谷上寺地遺跡32個体のハプログループはバラバラで、13ハプログループ29女系統もありますね。
最多のD4bですら24%しかいません。
これだけバラバラのハプログループが弥生集落に集まる理由としては、
「有力な王家」の存在が考えられますね。各地の部族から妻が送られる存在、ですね。
そういう王家があった、もしくは滅亡してどこかから避難してきた、などはどうでしょうか。
またD系統全て足してということであれば45%で半数近くなりますから、青谷上寺地遺跡本流の本来の母系はD系統の可能性が高くなりますね。

369 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 04:02:37.14 ID:r+gUZir6p
そもそもの縄文人からしてmtDNAハプログループは意外とバラエティ豊かだったそうですから、
各地の弥生遺跡のハプログループを多数並べてみて、
弥生時代にはどの遺跡でもバラエティ豊かなら、
既に縄文から混じり合っていて、mtDNAは出自云々にはあまり使えない、同一集落内での母系家族関係の検索にしか使えない、
ということになりますし、
弥生遺跡のほとんどでは単一や少数のハプログループで占められているのに、たまにバラエティ豊かな集落があるのであれば、
それは希少な集落であって、特別な社会的地理的意味が付加されうる、
ということになるでしょうから、
やはり複数遺跡、複数地域、との比較が必要でしょうね。

370 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 18:46:14.77 ID:4B2ESdqhY
なるほど、そこが焦点でしょうね。
一つの説として、青谷は渡来した入植者が集まるハブみたいな場所だったとする考えが出てくるのも、青谷が特別な集落と理解された結果ということになりますね。
ご指摘のように、青谷一般集落説も可能かもしれません。

古代史好きにとっては、欣喜雀躍するデータだと言えますね。

371 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 21:22:13.93 ID:r+gUZir6p
ハプロタイプ数は、
隈西小田遺跡(筑紫野市)で35個体12グループ、
縄文晩期の、船泊遺跡(礼文島)13個体5グループ、中妻貝塚(取手市)29個体9グループ、下太田貝塚(茂原市)24個体13グループ、
ということですから、
青谷上寺地遺跡32個体13グループが特にバラエティ豊かではないようですね。

隈西小田遺跡と比べると、
青谷上寺地遺跡の45%を占めるD4系統が、隈西小田遺跡ではD4d1のみ。
隈西小田遺跡で最多のC系統11個体31%が、青谷上寺地遺跡C1a1のみですから、
女系に関しては両遺跡は疎遠であったことがわかりますね。

D4b2bについては、
町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)の古墳時代地下式横穴墓からD4b2b1、
沖縄本島の3-8世紀遺跡から、15検体中D4が4、見つかっています。

372 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 21:25:49.43 ID:r+gUZir6p
>青谷上寺地遺跡の45%を占めるD4系統が、隈西小田遺跡ではD4d1のみ。
>隈西小田遺跡で最多のC系統11個体31%が、青谷上寺地遺跡C1a1のみですから、

青谷上寺地遺跡の45%を占めるD4系統が、隈西小田遺跡ではD4dが1体のみ。
隈西小田遺跡で最多のC系統11個体31%が、青谷上寺地遺跡C1aの1体のみですから、
女系に関しては両遺跡は疎遠であったことがわかりますね。

>D4b2bについては、
>町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)の古墳時代地下式横穴墓からD4b2b1、
>沖縄本島の3-8世紀遺跡から、15検体中D4が4、見つかっています。

D4b2bについては、
町田堀遺跡(鹿児島県鹿屋市)の古墳時代地下式横穴墓からD4b2bが1体見つかり、
沖縄本島の3-8世紀遺跡から、15検体中D4が4体、見つかっています。

373 :日本@名無史さん:2022/11/25(金) 21:34:30.56 ID:r+gUZir6p
から、
2回目航海で南西諸島経由で亡命してきた仮説を証明するまではいかなくとも矛盾はしないデータですね。

また神a派が元々勒島遺跡で対馬海峡の北岸側元締めとして栄えていたのであれば、
その頃に周囲から交通要衝の有力者に多数輿入れしてきて蓄積されたハプロタイプ群が、
前108年に勒島遺跡を追われて青谷上寺地遺跡に移動してきたことになり、
日本列島側だけでなく、半島側の紀元前女系ハプロタイプも多数含んだ状態で移動して来たことになり、
そのような可能性も考慮しながら他遺跡のハプロタイプ群と比較してみるのも興味深いかもしれません。

燕や斉の沿岸地方に分布していたD4が、縄文時代から時々漂着してきて、
国家が滅亡することが多くなる前3世紀頃からやや多数集団で落ちのびてくるようになって、
最期まで残っていたD4集団が徐福一行で、それもまた逃げてきた、ように見えますね。

374 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 03:38:00.56 ID:+/M0hzhdU
母系のDが日本、朝鮮、ツングース、モンゴル、チュルクでよくみられる母系ハプロであることと、
父系のC2が東アジア、シベリア、中央アジアに多くみられることは、関連がありそうです。

一方、父系C1a1は、青谷上寺地では4点のうち2点がみつかっているようです。
現代の日本ではこのC1a1は5%の頻度ですが、日本以外では韓国済州島、中国遼寧省、同河北省、北朝鮮黄海南道、韓国で少数みつかっているようです。
これらのエリアは東アジアの中緯度帯の北部といえますが、興味深いのはC1a1はアイヌ人ではゼロで、一方のC2については25%と高い頻度とされています。
C1a1は高緯度地方へは進出しなかったのかも知れませんね。

こうしたことからしますと、青谷のY-C1a1の人は、黄海周辺あたりから半島へ移動した血筋で、勒島からさらに海を渡って青谷まで移住したのかも知れませんね。
青谷の母系D4の女性と何かの関係があったのかもですね。

375 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 14:54:18.96 ID:TmmnFbGPN
>>354
解析していくと、
海神=ワタツミ、大鮫魚=ワニ、の勢力としての中国史料初出の可能性が高いわけですね。

後の志賀島アズミも、女系はワニと考えられますから、
海神・大鮫魚は、
最初からアズミそのものの可能性もありますし、少なくともその女系祖、ということにはなります。

徐福が鮫と認識したということは、
鮫を連想させるような文身を入れていた
ワニ水軍が「鮫」あるいは「大鮫魚」と大書した旗を掲げていた
鮫皮の衣服を着ていた(防水性)
などが考えられますね。

後のワニ女王、トヨタマヒメが、出産の際に出身国での元の姿になると言って、
それを覗き見ると、ワニの姿に変身してのたうち回っていた、ということですから、
鮫皮の衣服(倭人の絹服と違って)の可能性が高いと思われますね。

376 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 14:56:17.58 ID:TmmnFbGPN
前約200年の時点でワニが対馬海峡を管轄しているのであれば、
そもそもワニ=吉武高木大王家だったのでは?とも連想されるわけですが、
一つには、
徐福が、海神には遭遇したにもかかわらず、
蓬莱宮殿では、宮闕=宮殿の門までで、大王の使者に会って終わっていることから、
蓬莱大王がトップで、海神はその配下だった。
という構図になりますから、
やはり男系吉武高木王家と、女系ワニだったと考えられます。

もう一つには、
これもトヨタマヒメが、日向王家に対して、自らを他国の人として発言していることから、
やはりワニも伊都国に対しての豊國の出の可能性が高いと思われますね。

伊都説だと、唐津湾岸の古代地名が吾田だった、と計算されるわけですが、
そうなると、アズミとは、
男系が吉武高木王系の女系ワニで、吾田にも拠点を持つ一族、
という意味だった可能性がありますね。

そうなると、吉武高木大王が既に存在している時代に、
対馬海峡を管轄していた大鮫魚とは、
吾田にも拠点を持つ女系ワニ族という意味での、古代アズミ一族だった可能性も出てきます。

377 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 14:57:38.38 ID:TmmnFbGPN
魏志倭人伝の「國」でも問題になりますが、
倭国の「國」や「王」については、注意が必要ですよね。

後漢書に「國皆稱王 世世傳統」とあることから、
百余国があって、それぞれに王がいて、
楽浪郡と外交していただけでも三十國とそれぞれの王がいたわけですね。

よって、倭王と倭国(卑弥呼時代に張政が当てた字が邪馬台国)が、
特別な共立大王と広域連合国家であって、

その中の多数の國というのは、都道府県や市町村レベル、
その多数の王というのは、戦国大名のようなもの、
だったわけで、
徐福が王となった、というのも、地方集落の自称王になって、なんとか生活の場を得た、
という意味だったことになりますね。

378 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 15:04:44.17 ID:TmmnFbGPN
>>264
徐福は蓬莱山に到着したと認識していたので、
徐福の認識としては、蓬莱に着いた。吉武高木宮殿を見た。蓬莱王の使者と会った。
ということになります。

徐福は秦始皇帝のれっきとした使者ですから、
始皇帝の使者徐福が面会を求めて遥々やって来たけれども、
吉武高木大王はおろか政権首脳達も、謁見すらしてくれなかった、
ということになりますね。

元の使者に対する、鎌倉幕府の対応と並んで、
東アジアの外交史上とても大きなポイントだと思われます。

つまり倭人はしっかりした国家意識を持っていて、
中国国家だからといってなんでも従属だったのではなく、
気に入らなければ門前払いを喰らわせるだけの独立意識を持っていた、
ということですね。

379 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 15:08:34.94 ID:TmmnFbGPN
>>264
5年東夷王について考えてみると、
徐福の時と同じ構図で考えるならば、
舟に乗って動き回っている王とは、
吉武高木大王ではなく、
倭の多数ある國の、多数いる王の一人、であった可能性が高く、
対馬海峡を管轄していた王、おそらくはその頃もワニ王ワダツミ、ひょっとするとアズミ、
であった可能性が高い、ということになりますね。

名前と肩書については、相手の自称を記録せざるを得ませんから、
私は倭地の「王」、私は奴国の「大夫」、私は倭国の「倭国王」、と言われたら、
中国側が否定する根拠もありませんから、
とりあえずそれがそのまま記録に残ったわけですね。

また107年師升についても、同じ構図で考えるなら、
伊都国王=吉武高木王が元首であって、
倭国王=三雲井原大王は幕府将軍であった、
と考えると辻褄は合ってきます。

380 :日本@名無史さん:2022/11/26(土) 16:37:00.64 ID:TmmnFbGPN
>>82
中国初の統一皇帝である始皇帝(前221〜)の正式使者である徐福は、
倭王(伊都国王=吉武高木大王)に謁見を願い出たが、門前払いされた。

外交交渉に失敗した徐福は、処罰を恐れて、
一族全員で倭地へ亡命した。

381 :日本@名無史さん:2022/11/29(火) 16:16:51.90 ID:d1IZh6CDl
>>379
弥生時代の国の元首は、部族シャーマンが務めたでしょうね。
一方、世俗的な首長は、そうした宗教的権威を持たない集落のリーダーだったのではないでしょうか。
こうした考えに立ちますと、部族シャーマンの宗教的権威を表す具体的な呪具としては、ゴホウラ貝腕輪がそれであったように思われます。
安徳台遺跡では、甕棺に葬られていた男性はゴホウラ貝腕輪を43個も腕につけていましたし、隅・西小田遺跡では41個と多数のゴホウラ貝腕輪が出土しています。
このゴホウラ貝腕輪をつけた人物は、そうした国の元首を務めた部族シャーマンだったと思われますね。

そこで、吉武高木遺跡の出土物をみてみますと、このゴホウラ貝腕輪がみつからないのです。
そうしますと、吉武高木遺跡の有力者は世俗的首長であったことが考えられます。
つまり、近隣の集落をまとめた広域の国のシャーマン元首ではなく、吉武高木集落一個のの首長だったのではないでしょうか。
そうなりますと、対外的に国を代表する王は元首でしょうから、吉武高木遺跡の有力者は国を代表する元首ではなかったことことが想像されます。

埋葬に際して副葬される品々の量や質は、シャーマン元首のそれより集落首長のほうが豊かだったことはあり得ることです。
しかし、その両者を分ける目印は、ゴホウラ貝腕輪の有る無しではないかと思いますが、いかがでしょうか。

382 :a:2022/11/30(水) 12:31:06.90 ID:znLbHJh1D
http://www.geocities.ws/setsinrigaku/10.html

383 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:50:50.43 ID:XXic3JZbH
>>381
たしかにそうですね。

貝腕輪=貝釧の出土傾向についていくつかポイントを挙げると、
・吉武遺跡から出土していない
・三雲井原王墓からも出土していない

・同一遺跡にて貝釧副葬墓はごく一部
・同一遺跡にて貝釧を10以上副葬された「貝釧多数副葬者」は1人が限度
(貝釧有力者の世襲を長く追えない)

・「貝釧多数副葬者」は立岩型甕棺墓、立岩型ゴホウラ貝釧、が多い
・「貝釧多数副葬者」の後に、貝釧は途絶える

この傾向から見ると、
貝釧を副葬された被葬者は、シャーマンなどの特定の役割をもった人物であった
けれども、例えば銅鏡や金属製武器の副葬のような、代々の権力者の世襲は追えない
わけですね。

384 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:51:27.09 ID:XXic3JZbH
個々の遺跡の中で比較検討して見ると、

例えば、
隅・西小田遺跡には甕棺墓が1500基あるにも関わらず、
貝釧が副葬された甕棺はわずか7基(ゴホウラ5・イモガイ2)しかないのですね。

唯一の「貝釧多数副葬者」が5号甕棺墓で、
たしかに立岩型ゴホウラ貝釧41個と銅鏡鉄剣鉄戈が見つかっていますが、
それ以外は、
ゴホウラ8+細形銅剣1が次点で、
後は貝釧のみで、ゴホウラ6、ゴホウラ1が2基、イモガイ10(おそらく女性)、イモガイ1(子供)
となっており、
とても指導者の系譜は追えないわけです。

あるいは、立岩遺跡では、
「貝釧多数副葬者」は34号甕棺墓のみで、ゴホウラ貝釧14+日光銘連弧紋鏡+鉄戈
ですが、
日光銘連弧紋鏡は、三雲南小路2号妃墓に7枚副葬された女系鏡であり、
>>270
伊都国王男系鏡と考えられる、清白銘連弧紋鏡が副葬された、
10号甕棺墓や32号甕棺墓には、貝釧は副葬されていませんでした。

385 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:52:02.16 ID:XXic3JZbH
伊都説で解析すると、

貝腕輪=貝釧については、

<伊都国から出土しない>
・吉武遺跡から出土していない
・三雲井原王墓からも出土していない

<伊都王族と想定される墓からも出土しない>
・伊都王族東征将軍の在豊国倭軍基地である、田熊石畑遺跡から出土していない
・伊都王族男系の証と考えられる、清白銘連弧紋鏡が副葬された甕棺墓からも出土していない
・三雲南小路1号大王の兄と考えられる、須玖岡本D地点王墓から出土していない

ということで、
伊都国王族ではない、別の男系勢力のものだと考えられる。
わけですね。

386 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:52:47.03 ID:XXic3JZbH
「貝釧多数被葬者」は、立岩型甕棺墓の同時期に、
各地の遺跡に一人ずつ、出現したわけです。

この時期の北部九州におけるゴホウラ貝の需要急増によって、
ゴホウラ貝釧の中には質がやや不良のものも含まれるようになりますし、

沖縄の供給基地では、
採取の容易なイモガイの備蓄がピークを迎えた同時期に、
出荷しまくったゴホウラ貝の備蓄が減少してしまいます。

387 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:53:23.39 ID:XXic3JZbH
<魏志倭人伝>
對馬國 卑狗、副:卑奴母離
一大國 卑狗、副:卑奴母離
末盧國
伊都國 伊都国王、伊都国都知事:爾支、副:泄謨觚、柄渠觚
奴國  ?馬觚、副:卑奴母離
不彌國 多模、副:卑奴母離

<後漢書>
倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百餘國
自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀
使人自稱大夫
倭國之極南界也
光武賜以印綬

388 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:54:29.10 ID:XXic3JZbH
「貝釧多数被葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」

と考えられますね。

銅剣銅矛戦争に勝利した奴国王が、
主にカモ系女性領主を集めて、子を成し、
母の所領へ官として赴任させた。

卑=カモ 奴=奴国王 母と離れて

と考えると、
雀居遺跡に集められた、カモ系女性領主(卑)が産んだ、(奴)国王の子が、
母と離れて、母の領地の官として赴任した。
ということですね。

解析結果の、卑彌呼も卑彌弓呼も女系はカモだった、という推測とも合致してきます。

389 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:55:34.57 ID:XXic3JZbH
紀元前に、吉武高木大王が、日本海沿岸を統一した証が、
翡翠の勾玉。

それに対して、奴国王は、「倭國之極南界也」ですから、
南海からの貝釧に重きを置いたわけですね。


流れで見ると、
半島南部に神a派(>>330
対馬海峡はワニ(>>376

前210年に徐福一行が沖縄→有明海→長崎入り
前206年に秦が滅亡して、徐福一行の伊都国通過解禁

前108年に衛氏朝鮮滅亡して、楽浪郡設置
甲羅派が古浦遺跡へ亡命、カモ女王系と縁戚に
神a派が没落して青谷上寺地遺跡へ

前1世紀後半〜1世紀初頭に、銅剣女王国が瀬戸内高地性集落群を整備して、
弥生時代の大規模油田=木俣にて木材・炭の大量生産体制を整える

対馬海峡保有ワニ VS 瀬戸内保有カモ <銅矛銅剣戦争>

390 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:56:06.07 ID:XXic3JZbH
奴国王は結果的には、ワニの中広形銅矛将軍におさまって勝利します。

對馬國 卑狗(ワニ系 or 神a派)
一大國 卑狗(ワニ系 or 神a派)

末盧國 伊都国王系
伊都國 伊都国王、伊都国都知事:爾支、副:泄謨觚、柄渠觚

奴國  卑奴母離(安徳台遺跡)
不彌國 奴国王

余旁國々 各国の王 官:卑奴母離

という感じに、
各地のカモ系女王に産ませた卑奴母離を赴任させていったわけですね。

対馬海峡と、豊國はワニ。
末蘆国と伊都国は伊都國王。

その他の国々に、「奴国王時代の卑奴母離」=「貝釧多数被葬者」を送りこんだ。

391 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:57:58.03 ID:XXic3JZbH
落ち目だった神a派と、徐福派も、奴国王についたわけですね。

神a派は元々半島南部を拠点としていて、壱岐にもヒコを輩出していたので、(>>220
対馬海峡を管轄していたワニとは親しかった。

徐福派は、むしろ奴国王のほうが求めたのでしょうね。

ベースは八岐大蛇族ですし、徐福も最初の来倭が門前払いですから、
伊都国王とはあまり親しくない。

高い渡海能力や、徐福百工のそれなりの技術力がありますから、
奴国王が目をつけて、口説いたのが、
土井ヶ浜遺跡女王ということになりますね。


>>365
ちなみに、土井ヶ浜遺跡女王の次男である軍神の最初の奥さんは、
イモガイ貝釧の宮の本遺跡の女王系だった、ということになります。

70年に東へ落ちのびる際に、
宮の本遺跡女王との長男には、金印を渡して伊邪國の宮の本遺跡へ逃し、その子孫が難升米。

一方で、諏訪で失敗した際に自らの血統が途絶えるのを危惧して、
次男以下の一人を北海道有珠モシリ遺跡へと逃したわけですね。
宮の本遺跡で作られたイモガイ貝釧を装着しています。

392 :日本@名無史さん:2022/12/01(木) 23:59:17.92 ID:XXic3JZbH
70年に奴国王が失脚しますが、
その後は、カモ系Aタカヒコが有力者となりますから、(>>257
カモ系卑奴母離の大多数は失脚や処刑まではいかず、
伊都国王系の支配官を受け入れて生きのびたわけですね。

伊都国側から見ても、
奴国王が登場する前の、百余国それぞれに王がいる状態よりも、
卑奴母離制度は残して、各国の政治に介入したほうがよろしいので、

伊都国王系の倭国王、を頂点として、
各地の王は伊都国王系以外全て任官制にしたのでしょう。


對馬國 卑狗(カモ系 or 甲羅派)
一大國 卑狗(カモ系 or 甲羅派)

末盧國 伊都国王系
伊都國 伊都国王、伊都国都知事:爾支、副:泄謨觚、柄渠觚
奴國  官:?馬觚 卑奴母離・卑狗
不彌國 官:多模 卑奴母離

余旁國々 各国の官 卑奴母離

393 :日本@名無史さん:2022/12/02(金) 00:04:26.40 ID:LEJYFLynh
よって、
「貝釧多数被葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」
は、
20年代〜70年ということになりますね。

奴国王支配は終わりますから、
先の大戦終了時と同じで、
皆いっせいに貝釧を外したわけですね。

半分に割った貝釧を隠して取っておいた人が所々にいて、
自らの死去時にこっそりと副葬させたのでしょう。
奴族なのですね。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/625

394 :日本@名無史さん:2022/12/03(土) 20:10:57.34 ID:kqhId1SG9
弥生時代中期になりますと、集落が広域に連携するク二が形成されるようになるそうです。
背景としては、気温の温暖化で農産物の収穫が増加するようになり、さらに増産を計るための可耕地の争奪が始まり、
この過程で集落の広域連合が進み、ク二が形成されるようになったとみられているようです。

こうした流れの典型とされます吉野ヶ里遺跡は、佐賀平野の中部地域の広域連合の盟主であったようです。
この弥生中期の吉野ヶ里の甕棺では、少女の人骨に9個のゴホウラ貝などの腕輪が付けられているものがみつかっています。
ゴホウラ貝腕輪は前期のうちに北部九州で用いられるようになりますが、
中期になりますと多数のゴホウラ貝腕輪の装着がみられるようになるようです。
広域のク二の成立により、広域連合の元首としてのシャーマンの威信財としてのゴホウラ貝腕輪の需要が高まったた結果だと思われます。

こうしたことをみますと、吉武高木遺跡は前期末から中期初頭の集落ですので、
広域連合のク二が成立する前の時代の個別的な集落だったということになります。
この時期の吉武高木集落のシャーマンには、まだ多数のゴホウラ貝腕は求められていなかったということでしょうね。
吉武遺跡群の調査報告書では腕輪の出土があったとされていますが、それがゴホウラ貝腕輪だったのかどうかはっきりしません。
ゴホウラ貝腕輪の出土に関する一覧表では、吉武遺跡は記載されていません。

こうしたことからしますと、吉武高木遺跡は広域連合のク二の盟主ではなく、他の近隣の集落に影響力は持っていたとしても単体としての集落であり、
その単体集落の元首である高木のシャーマンはゴホウラ貝腕輪を威信財としていなかったということなのかも知れませんね。
その後、北部九州で集落の広域連合化が始まり、吉武高木遺跡の集落は消滅していくのだと思います。

395 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:22:30.38 ID:A6QDbB09B
>>394
ですから上で示した通り、
貝腕輪の需要が高まったのは「考古学的に」ごく一時期のみなわけです。
そこを無視してゴリ押しされても、どうにもなりませんよ。

伊都国男系は貝腕輪を求めておらず、
となれば、別系統の奴国王が伊都国に対抗して重視した威信材と考えられますね。
中広形銅矛もまた伊都国に入れておらず、
すなわち中広形銅矛将軍が奴国王となった。

中国史書で言うところの、伊都国男系が倭国系として、
金印奴国王が一代かぎり。

記紀でいうところの天神族に対して、大国主の天下が一代かぎり。

「貝釧多数被葬者」が、
ごく短期間に、
伊都国を除く各地に林立していることが、
それを示しています。

396 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:23:07.12 ID:A6QDbB09B
吉野ヶ里遺跡には、ゴホウラ貝輪の「貝釧多数被葬者」はいませんね。

36個のイモガイ貝釧を装着した女性甕棺墓被葬者は見つかっていますが、
副葬されていた銅鏡には「久不相見長毋相忘」の銘がありますから、
(久しく会うことができなくても、末永くお互いを忘れないようにしましょう)

地域女王ではあるでしょうが、どう見ても広域元首ではなく、
奴国王の数多くの妻の一人、であった可能性が非常に高いでしょうね。

そう考えると、
イモガイ貝釧の「貝釧多数被葬者」は、奴国王と結ばれた地域女王(女性首長)
ゴホウラ貝釧の「貝釧多数被葬者」が、「奴国王時代の卑奴母離」

奴国王は長寿だったので、先に亡くなる息子がいたのでしょうし、
70年に生きていた息子たちは貝釧を外したでしょうから、
ゴホウラ貝釧の「貝釧多数被葬者」の出土総数は、
実際にいた「奴国王時代の卑奴母離」よりは、少なくなる計算になりますね。

ゴホウラ貝釧は基本的に男性ですが、
奴国王が自らの男系にこだわった結果とも考えられるわけで、

極めて例外的に女児に与えられた吉野ヶ里での9個ゴホウラ貝釧は、
母のイモガイ貝釧「貝釧多数被葬者」が娘しか産まず、
かつ「倭國之極南界也」の奴国王にとって吉野ヶ里は重要地点であったため、
女性に与えることを特別に認められた、けれども夭逝してしまったのでしょうね。

397 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:24:33.83 ID:A6QDbB09B
銅鏡、剣(刀)、勾玉、というのは、
三種の神器にも、十種神宝にも入っており、

銅鏡や刀剣というのは、魏志倭人伝においても魏皇帝とやり取りされている威信材であります。

青玉というのが翡翠勾玉であり、
縄文時代から国際的に分布している倭の特産品であります。

それだと困る説が難癖をつけているだけで、じゃあ代替品はというと、はっきりしたものはありません。

貝輪は立岩式甕棺墓の時代までで急に途絶えていますし、
日本史書でも中国史書でも威信材としての記載はありません。

伊都にないものをなんとか見つけてそれを最大限に持ち上げて一発逆転、
という手法は、
桃の種と同じことで、結局は文献と齟齬が生じて論が空中分解してしまいますよ。

398 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:31:16.17 ID:A6QDbB09B
貝釧は途絶えますが、銅釧という形で風習は残ります。

ゴホウラ貝釧を模したと言われる有鉤銅釧もまた、鋳型は九州では奴国からのみ出土。
そして三雲井原王墓からは出てきません。

桜馬場遺跡からは有鉤銅釧が出土していますから、
奴族と何らかの繋がりがあるのでしょうが、
桜馬場遺跡は井原鑓溝大王の完全な臣下墓ですから、
釧の立ち位置というのがわかりますね。

その桜馬場遺跡末蘆國王家も倭国乱にて滅亡します。

前後に大王墓が無い事から、考古学的に長期政権女王だとわかる
平原女王墓にもまた、貝釧銅釧は無いことから、
釧というものは奴国王一代のごくごく短期間の威信材であったことになります。


そもそも基本的な考え方として、
卑弥呼時代に最重要地点の伊都國に平原女王墓があって、圧倒的豪華な副葬品があるわけですから、
それが卑彌呼だと考えるのが真っ当ですし、

卑彌呼が別にいて、平原女王はその配下だと主張するのなら、
別にあるとする卑彌呼墓は、墓制は平原女王墓と同じであるべきですし、
副葬品も平原女王墓と同じ系統でさらに豪華版であるのが真っ当ですね。

三雲南小路王墓と柏崎遺跡、井原鑓溝遺跡と桜馬場遺跡、のような関係で。

399 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:44:01.32 ID:A6QDbB09B
吉武高木大王と呼ぶのは、
吉武高木遺跡の大型建物=高殿、が長らく政治の場として維持されていたのと、
高木神、高皇産霊神、に比定されうるのと、
魏志倭人伝の里程の「到伊都國」の基準点であるのと、
からそう呼んでいるわけで、

王墓自体は、同じ吉武遺跡の中で、
吉武高木遺跡→吉武樋渡遺跡と続いていますし、
近衛戦士階級である吉武大石遺跡も立岩式甕棺墓の時代まで続いていますね。


吉武遺跡(旧伊都) 高天原 魏志倭人伝里程

奴国王一代 葦原那珂津國  短期間の「貝釧多数被葬者」時代

三雲井原遺跡(新伊都) 日向 魏志倭人伝日程


吉武遺跡では、銅剣は基本装備。
翡翠勾玉は、日本海沿岸を安定支配している時期に副葬なので、ほぼ基本装備。
銅鏡は、外交で入手した時のみ副葬なので、あったりなかったりするのでしょう。

神話でも八咫鏡はアマテラス時代の途中、岩戸隠れの時に作られていますし。

400 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 16:49:51.28 ID:RuSNcyUD8
>>396
吉野ヶ里のゴホウラ貝腕輪の数をどう見るかですね。
ゴホウラ貝腕輪は奴国が一手に配布していたようですし、その配布経路の主軸は奴国から立岩遺跡方面の東西方向に延びていますから、
吉野ヶ里のゴホウラ貝腕輪は築後川方面からの交易支路を経由して入手されたものでしょう。
そうしますと、吉野ヶ里はその交易路支路の末端付近に位置しますから、吉野ヶ里のゴホウラ貝腕輪の数はそうした交易上の制限や奴国などとの政治的な関係に起因したことが考えられます。
吉野ヶ里のゴホウラ貝腕輪の数は、そうした吉野ヶ里の立ち位置によるものでありますが、それでも佐賀平野中部のク二の盟主としてはそこそこの数だったように見えますね。

同じ北部九州で、吉武高木遺跡付近だけが宗教的威信財としてのゴホウラ貝腕輪を受け入れなかったとは考えにくいですね。
調査報告書では「腕輪」の出土が明記されていますから、宗教的威信財としての貝腕輪の文化は吉武高木遺跡の集落にもあったと思われます。
ゴホウラ貝腕輪の出土がないことについては、なんらかの理由で入手できなかったのではないかと思われますね。

401 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 17:54:30.49 ID:RuSNcyUD8
>>398
弥生中期後半から後期、古墳前期まで用いられたゴホウラ貝腕輪を模した有鉤銅釧は、唐津市桜馬場遺跡の宝器副葬のための甕棺からも出土しました。
被葬者が身につけていなかったものですね。
この有鉤銅釧の内側は角ばっていて、直接腕に付けるには不向きなようです。
こうしたことから見ますと、有鉤銅釧が持つ宗教的威信財としての価値は相当減じていたと思われます。
建物の柱穴付近からも出土したりしているそうですから、もはやシャーマンが身に付けた呪具のゴホウラ貝腕輪とは別の祭祀具のような価値に変質していたのではないでしょうか。
ゴホウラ貝腕輪と同列には論じられないように思いますね。

402 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 18:20:35.41 ID:RuSNcyUD8
>>400
吉武高木遺跡出土の「腕輪」は、ウィキの「吉武高木遺跡」では銅製腕輪2個としています。
これは、宗教的威信財のゴホウラ貝腕輪とは別の威信財と考えるのがよいようですね。

403 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 00:25:18.27 ID:GkcD2C3vT
やはり伊都王族には貝釧の風習はないようですね。

短期間のみ北部九州各地の「旧百余國」に出現した「貝釧多数被葬者」は、
「倭國之極南界也」の奴国王が派遣した「奴国王時代の卑奴母離」なのでしょうね。

日本海沿岸を支配する証の青玉=翡翠勾玉に対抗しての、
南方に展開した証の貝釧。

基本的にはカモさん領域に派遣されていくわけですが、
女系カモさんが既に各種男系を受け入れており、非常に解析しづらいですね。
男系の主系統だけでも、
カモさん自身の男系
吉武高木王家
 田熊石畑遺跡将軍家
燕系神a派
 神b派
燕王家系甲羅派
奴国王系
と種々ありますからね。

ただ、一つわかることは、
「貝釧多数被葬者」に、キ龍紋鏡が副葬されていない、
という、超重大な事実から、

58年に来倭した金印後漢使によってもたらされたキ龍紋鏡は、
疫病の流行やらなんやらで周囲に配布されず、奴国の宝庫に保管されていたのが、
70年にAタカヒコに渡った。

だから、キ龍紋鏡は、皆が貝釧を外した70年以降からしか副葬されない。

404 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 00:26:58.96 ID:GkcD2C3vT
>>256
さらに、外戚となった柏崎遺跡から出土しないことから、
キ龍紋鏡は、カモ系統の中でも、Aタカヒコの子孫並びに親族のみに限定配布された銅鏡であることがわかります。

よって、平原遺跡に副葬された、面径16.5cmの最大規模の
キ龍紋鏡の所持者はAタカヒコ関係者にかなり絞られることになります。

・Aタカヒコは、新伊都二代目の時に、復権したワニ(広形銅矛)に敗れて失脚している。
・後漢が倭国を認識しており、その禅譲後継国である魏が、卑彌呼を倭国王と認定している。

ことから、卑彌呼の男系は倭国王で、伊都国王系であり、
Aタカヒコの直系ではないだろう。

と、いうことは、
Aタカヒコと父(伊都国王系の田熊石畑遺跡将軍に娘しかいなかったので、その娘婿として将軍位を継いだ奴国王)も母(T姫)も一緒の可能性がある、
Aタカヒコと同世代の豊国女王である、I姫。

新伊都二代目の時に、I姫の娘が失脚して、東方荘園の琵琶湖沿岸に都落ちした。

卑彌呼はその女系直系であった、ということで、
前スレでの解析と合致してきます。

405 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 00:29:39.17 ID:GkcD2C3vT
女系は世界遺産に認定されましたし、

男系は世界最古の帝王家。

なぜに7世紀に隠さなければならなかったのか、
と、考えると、

卑彌呼には子孫はいない。
卑彌呼の弟と親族は滅ぼされた。

有力家臣の難升米は皆が唖然とするほどド派手に討ち死に。

あと問題があるとするならば、銀印の片方ですね。ゴリさんじゃありませんよ。

「魏率善」
高位の者が進出したが故に、逆にトップを狙う権利も生じたわけですね。

406 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 13:31:57.73 ID:rbFGgkQf7
>>403
吉武高木遺跡やそのあとの三雲・井原遺跡からゴホウラ貝腕輪が出土しないことの理由を推測しますと、次のことが考えられます。
弥生時代には、三雲などの集落がある怡土地域と志麻地域の間に海が貫入して水道ができていました。
ですので、怡土地域の平地部はかなり限られた広さしかない地域でした。
北部九州の各地方で広域をまとめたク二が成立する時期になりますと、怡土地域の限られた数の集落はク二を形成することができませんでした。
このことから、怡土地域はク二としての構造を持つことなくク二の時代に入った地域だったと考えることができます。

そして、他のク二の宗教的盟主はゴホウラ貝腕輪を宗教的権威の象徴とする宗教的体制を共有しますが、ク二としての宗教的体制を形成していない三雲の地域では、
ゴホウラ貝腕輪の配布を受けることができなかったと考えることができそうです。
その結果、クニの時代の前段階の吉武高木の集落で権威の具とされた銅腕輪が、三雲・井原の集落でも引き続き権威の象徴として継続されたのではないでしょうか。

つまり、怡土地域はク二ではなかったことが、ゴホウラ貝腕輪が出土しない理由だとみなすことになります。
そうしますと、3世紀前半に伊都国とされた地域は、こうした事情を背負ったごく狭い広さの地域であったとすることが可能です。
倭人伝では、伊都国は規模の大きな国のように描写されていますし、国名も伊都と華美な字が使われていますが、
しかしながら、倭人伝より前に成立しました魏略では伊都国にそのような描写はなく、むしろ対馬、壱岐と同じ扱いの国として書かれています。
このことは、伊都国が対馬、壱岐と同じ人口規模の小さい地域であったことを示すものです。

こうしたことからしますと、弥生時代中期の怡土地域は、ゴホウラ貝腕輪の配布を受けることができないク二の前段階にある地域集落ということになってきます。
伊都国に対するこれまでの考え方は、かなりの修正が必要ではないでしょうか。

407 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 13:47:26.20 ID:dD+hgK0wU
YouTubeでトンカラリンさんの邪馬台国1〜5を見ると伊都国説で間違いみたいですね。

408 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 20:11:56.02 ID:rbFGgkQf7
トンカラリンさんは、動画の冒頭で金印の「委奴」をイドと読んで、伊都国のことだとしています。
倭の字を用いていないから「委奴」をワノナと読むのは間違いとするわけです。

しかし、倭の字を当時の中国人がワと発音したという保証はありません。
と言いますのも、委と倭は同じ発音をする場合があるからです。
金印が造られた後漢時代の発音は、上古音として再構されています。

中国語(上古音)
委=iuar(イウア)
倭=uar(ウア)、iuar(イウア)

上のように、倭をイウアと発音していたとすれば、これは委のイウアの発音と同じになります。
そうしますと、委も倭も同じ音でありますので、委(イ)と倭(ワ)のように区別することができなくなります。
つまり、委と書いてあるので倭とは別だとすることができなくなるわけです。

また、奴の発音では、

中国語(上古音)
奴=nan(ナン)

中国語(中古音)
奴=no、ndo(ノ、ンド)

となりますので、後漢時代の金印では、奴の発音はナンです。
ドの発音が出てくるのは後漢時代よりもあとの時代になります。
そうしますと、後漢時代の委奴の字をイドと発音するのは無理ということになります。

こうしたことから、トンカラリンさんが冒頭で「委奴はイドの発音なので伊都国を意味している」とする考えは成り立たなくなりますね。

409 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 21:48:49.55 ID:GkcD2C3vT
>>403
伊都説で解析を進めると、

70年に奴国王が失脚したことで、
「奴国王時代の卑奴母離」である「貝釧多数副葬者」も失脚した。

>>391
また、軍神の長男が、金印を秘匿して、
母の故郷である宮の本遺跡(伊邪分國)へと逃れて、
伊邪國(長崎県)プロ漕ぎ手水軍=比良夫貝、として倭国と対立したことで、
南方からの貝ルートが閉ざされてしまった。

わけですね。

けれども、
約30年ほど経った、新伊都二代目の外戚と考えられる桜馬場遺跡の時代に
ゴホウラ貝釧を模倣した有鉤銅釧が復権していますね。

410 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 21:50:45.86 ID:GkcD2C3vT
新伊都一代目の三雲南小路遺跡にも、
外戚の柏崎遺跡にも、釧はありません。

新伊都二代目の井原鑓溝遺跡にも、釧はありませんが、
外戚の桜馬場遺跡には、有鉤銅釧が出現します。

伊都説だと、桜馬場遺跡は八尋ワニ勢力になりますね。

>>152
一方で、カモ系と考えられるキ龍紋鏡は貝釧も銅釧も伴いません。
平原遺跡も釧はありませんね。

以上から、
・ゴホウラ貝釧ならびに有鉤銅釧は、伊都国男系はつけない
・ゴホウラ貝釧ならびに有鉤銅釧は、奴国男系であってもカモ女系ならつけない
と考えられます。

となると、桜馬場遺跡の男系は伊都国王系ではない、つまり奴国王系である可能性が非常に高くなり、
柏崎遺跡が失脚して、
桜馬場遺跡=奴国王男系+ワニ女系(=アズミ?)
ではないかという推定が浮上してきますね。

有鉤銅釧の鋳型も、奴国領域の、「香椎」、古賀市、筑前町、から出土しています。

411 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 21:54:14.92 ID:GkcD2C3vT
>>363
桜馬場遺跡の巴形銅器は、元になったスイジガイと同じ六脚のものですから、
最初期の巴形銅器ですね。

よって、
有鉤銅釧も巴形銅器も、アズミが作り始めたものである可能性が高くなりますね。

有鉤銅釧副葬者が、「新伊都二代目三代目時代の卑奴母離」

巴形銅器が、「アズミ外戚時期の倭国軍の盾飾り」

豊国から出土しないのは、
豊国が倭国に対して独立性を保っていた(墓制・石製品流通など)ためであり、
また、
男系ワニの本貫ワニや、男系田熊石畑遺跡将軍のワニが、治めていたからかもしれません。


一方で、広形銅矛は、桜馬場遺跡からも、豊国からも出土しますが、
こちらは広義の女系ワニ勢力の共通旗印、と考えれば説明がつきますね。

412 :日本@名無史さん:2022/12/13(火) 21:55:53.30 ID:GkcD2C3vT
東日本に逃げ込んだ軍神領域(長野〜関東〜千葉)からも、
こちらは帯状円環銅釧が出土していますね。

奴族の軍神は軍神で、
北部九州とは分断された状態で、別個に貝釧の代わりを創出したのでしょう。
東国の卑奴母離ですね。

土井ヶ浜遺跡の生まれで、しかも
一緒に逃れた妻がアズミならば有鉤になりそうなものですが、
>>391
宮の本遺跡との関係や、アズミであっても女系を重視するなら、
イモガイ貝釧の方を模倣することになったのかもしれませんね。

413 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 17:51:32.15 ID:N9J93a0NY
>>410
ゴホウラ貝腕輪や銅腕輪をどのような背景でとらえるかですね。

弥生後期の二塚遺跡(前原市)では、ガラス腕輪が出ています。
一方、同じ後期〜晩期の平原遺跡では、ガラス玉やガラス小玉は出ていますが、腕輪は出ていません。
これを宗教的祭祀者(元首)のいる集落と行政的リーダーのいる集落とに分け、この2頭立ての体制の連携集落がこの時期の北部九州にあったとします。
この体制は、3世紀にも続いていて、倭国の元首となった卑弥呼のいる邪馬台国では、卑弥呼のいた所と卑弥呼の弟とされる行政的リーダーの人物がいた所は別々であったように倭人伝などでは描かれています。

このパターンで見ますと、ゴホウラ貝腕輪が出た安徳台遺跡の集落と須玖岡本遺跡は、クニにおける宗教的祭祀者のいた所と行政的リーダーのいた所という2頭立て体制の関係にあり、
また、ゴホウラ貝腕輪の出た金隈遺跡と比恵・那珂遺跡も同じ連携集落と見ることができそうです。

そうしますと、クニのような広域連携体制を形成することができなかったものの、怡土地域では重要な集落であった後期の二塚遺跡のガラス腕輪は、この集落には元首的な祭祀者がいたことを示していて、
ガラス腕輪を持たない行政的リーダーのいる平原遺跡とペアを組んでいたと考えることが可能になります。
そして、中期中頃の三雲南小路遺跡ではガラス玉類はたくさん出土しますが、ガラス腕輪が出ていないことから、この集落は行政的リーダーのいる所だったとみなすことができます。
そうなりますと、この三雲南小路遺跡の集落とペアを組んでいた宗教的祭祀者のいる集落が別にあったことが想定されます。
この集落はまだ見つかっていないとみなすことも可能でしょう。

いずれにしましても、怡土地域でもガラス腕輪を宗教的権威の印として身につけた人物がいたと見ることができそうです。
それがなぜゴホウラ貝腕輪でなくガラス腕輪だったのかについては、答えの一つとしては、怡土地域は広域のク二ではなかったために、
ゴホウラ貝腕輪の配布を受けられず、そのためにガラスを用いた腕輪を自ら創出したとする仮定も可能になりますね。

414 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 21:29:08.98 ID:hLJ0G8259
>>413
吉武遺跡群→三雲井原遺跡、はそれぞれの時代に圧倒的ですから、
それを素直に解釈できないあなたの説は、最初の土台から希望的先入観で成り立っていて、説得力がありません。

ゴホウラ貝釧については、先に示した通り、各遺跡で一瞬だけ保有者がいただけであり、
集落ごとに色分けすることはできませんね。
ゴホウラ貝釧多数副葬者と同じ遺跡に、その前後に伊都系銅鏡副葬者がいることも多く、
どちらかというと、行政的リーダーが、
伊都銅鏡系リーダー→奴国貝釧系リーダー→伊都銅鏡系リーダー
と変遷しているように見えます。

>ゴホウラ貝腕輪が出た安徳台遺跡の集落と須玖岡本遺跡
須玖岡本遺跡のは、有鉤ではない、ただの銅釧では?

>また、ゴホウラ貝腕輪の出た金隈遺跡と比恵・那珂遺跡も同じ連携集落と見ることができそうです。
ゴホウラ貝釧が出土する遺跡を、連携集落とみなすのに対して、
銅鏡その他の威信材が大量に出土する伊都とその関連遺跡を、連携集落あるいは広域国家、とみなさない時点で、
あなたの仮説は矛盾していますよ。

日本古来の神道における宗教的権威の印といえば、銅鏡あるいは剣・矛であり、
三種の神器、十種神宝、神社のご神体もそうですよね。沖ノ島祭祀品もそうです。
それらの弥生時代総元締めが伊都ですね。

>答えの一つとしては、怡土地域は広域のク二ではなかったために、
>ゴホウラ貝腕輪の配布を受けられず、そのためにガラスを用いた腕輪を自ら創出したとする仮定も可能になりますね。
ガラス腕輪は、北部九州からわずか2か所。
日本海沿岸からも3か所。出土していますので、
あなたの仮定だと、伊都が日本海沿岸を広域支配していた、と言っているのと同義になりますね。

貝釧に妙にこだわって、伊都を敵視している所からみると、
失礼ながら、
あなたは奴族の「貝釧多数副葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」の末裔かもしれませんね。

415 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:27:25.31 ID:hLJ0G8259
時代が進んでしまいますが、話題に出たので、
ガラス釧ですね。

鉛ガラス釧(緑)
・二塚遺跡(前原市長野川沿)  甕棺墓
・二塚山遺跡(神埼郡吉野ヶ里町) 甕棺墓
・西谷墳墓群2号墓(出雲市大津町) 四隅突出型墳丘墓
・比丘尼屋敷墳墓(京丹後市大宮町) 弥生後期墳墓

カリガラス(青)
・大風呂南1号墓(与謝郡与謝野町)
  方形台状墓・舟形木棺 有鉤銅釧13、貝輪残欠、鉄剣11

以上全てが弥生時代後期後葉です。

416 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:28:16.52 ID:hLJ0G8259
大風呂南1号墓でよくわかりますね。

先祖が外した貝釧が残っていた。
ゴホウラ貝釧を模した有鉤銅釧を保有していた。
ガラス釧を保有していた。

同系統の権力を示す、全セットが揃っています。
男系奴國王系+女系ワニ系の丹後若狭湾水軍将軍だったわけですね。

その名の通り、河内青玉繋でしょうか?

417 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:30:52.60 ID:hLJ0G8259
二塚遺跡については、伊都近郊に出張設置された、末蘆國藩邸でしょうね。

長野川が、末蘆國と伊都國の県境だったものと推定されます。
「又渡一海千餘里 至末盧國」の上陸地点は筑前深江であり、余裕で末蘆國側ですね。

三雲南小路大王=新伊都の倭国王一代目、の外戚が、
 柏崎遺跡で、男系伊都国王系+女系カモ
  <関連重要拠点に配下のお抱え工人(オルドス式銅剣)の足跡>

井原鑓溝遺跡=新伊都の倭国王二代目(師升)の外戚が、
 桜馬場遺跡で、男系奴国王系+女系ワニ(有鉤銅釧、巴形銅器)

桜馬場遺跡の親族が、新伊都近郊に設置した末蘆國藩邸が、二塚遺跡でしょうね。
 <関連重要拠点にガラス釧>

418 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:33:00.25 ID:hLJ0G8259
ガラス製品自体は、勾玉や管など各種製品として、主に伊都と丹後に大量出土しますから、
ガラス釧というのは、「釧」であることに意味があったことになりますね。

>>132
西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓は、奴国王の兄達の子孫と考えられるわけですが、
3号墓→2号墓→4号墓→9号墓→6号墓、の順に作られたそうです。

興味深いのは、
3号墓 特殊器台
2号墓 ガラス釧
4号墓 特殊器台
の並びですね。

三輪山、保久良神社、楯築遺跡、など、
巨岩を並べる磐座、立岩の遺構が残るのは、
基本的には大倭の輸送拠点跡地と考えられ、
>>315
基本的にはカモ系Aタカヒコ一族の管轄であり、卜占・亀卜の出土や説話が付随しますね。
弧帯文の亀石もその名の通り、亀卜の亀を崇めたものでしょう。

>>337
そこに、義兄であるS系統も、諏訪で深入りした嫡男は討ち取られましたが、
親族あるいは郎党が若干は残って大倭で働いていたと考えられ、
>>331
命を救われた恩としての交流があった。

よって、西谷墳墓群においても、相変わらずの、
3号墓 特殊器台 カモ大倭系
2号墓 ガラス釧 ワニ系
4号墓 特殊器台 カモ大倭系
の女系せめぎ合いがあったわけですね。

419 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 22:54:35.28 ID:hLJ0G8259
>>3
しかし不思議ですね。
>「A統属B」は全て、〇新たな所属変化に伴って、
>◎AがBの”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になる、の意味。

同じ三国志にこれだけわかりやすい例文が沢山あるのに、
なぜそれを用いて解釈しないのか。

『到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘? 世有王
 皆統屬女王國』

<訳ではなく説明>
伊都國の官には爾支がいて、副官には泄謨觚と柄渠觚がいて、千余戸の人々がいて、同時代にも伊都国王がいる。

女王國=奴國+不彌國+α(東に豊国が挟まるので、旧奴国領域内に限定=せいぜい福岡県内)=邪馬一国
は地方女王卑彌呼の本領であり、
元々は、伊都國と女王國は別々の自治体だった。

倭国乱を収拾するために、
卑彌呼が倭国王に共立された<新たな所属変化>のに伴って、
伊都國の王以下の皆は、倭国王に共立された卑彌呼の、”直接管轄域の一部”もしくは”直接の部下”になった。


卑彌呼は倭国王になったのですから、(〇奴国王ではない)伊都國王系。

伊都國には伊都國王がいて、
奴国などには伊都國王系の卑彌呼が派遣されていた。
卑彌呼が優秀だったので、卑彌呼を共立して、
広域国家倭国=卑彌呼時代邪馬台国が成立して、本家の伊都國王ら皆は倭国の一員となった。

という至極単純な話ですが。

420 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 23:03:03.29 ID:hLJ0G8259
卑彌呼は元々は、女王國=奴國+不彌國+α(東に豊国が挟まるので、旧奴国領域内に限定=せいぜい福岡県内)=邪馬一国
の地方女王で、
府庁のあった不彌國にいたわけですね。

ですから、後漢書と被る部分は、不彌國時代のことになります。
「事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國
 自爲王以來 少有見者
 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入
 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人 持兵守衞」

里程については、56年頃の奴国王金印後漢使の時のものでしょうが、
奴国王も卑彌呼も、不彌國にいたのは同じですから、
伊都國の基準点は吉武高木遺跡宮殿でいいですし、里程の最終到達地点は不彌國。
「居處宮室樓觀、城柵嚴設」を見つけたければ福岡空港を掘り返してください。

卑彌呼治世の最終期に、佐賀=旧・阿耶訶→邪馬嘉國、を狗奴国から奪取して、
魏との外交活動が活発になったことで、
卑彌呼が新伊都へ移動してきたわけですね。
それが魏使の旅行日誌に記された日程の「女王之所都水行十日陸行一日」になります。

421 :コロナの特効薬は「イベルメクチン」!!!!:2022/12/16(金) 21:36:09.61 ID:nliTu59aa
ミカエル 「日本予言!! 世界経済崩壊!!」

秋ごろから日本経済が悪化する!!「経済崩壊」!!「日本経済破綻!!」
銀行が次々につぶれるだろう!!
「預金封鎖」がおこる!!
「黒田総裁と竹中平蔵たち」と「ビル・ゲイツ」が「アメリカ国債を25%」
引き出し、アメリカを世界大恐慌におとしいれるだろう!
「日本人はアメリカ人から憎まれる」!!
黒幕は「ロックフェラー財団」と「ビル・ゲイツ」と
カルト集団の教祖「ロード・マイトレーヤ」が真犯人!!
「黙示録の獣」=「ロード・マイトレーヤ」が不気味に笑うだろう!!

日本で失業者が公園にあふれるだろう・・・
ミカエル「ニューディール政策」を思い出せ!!
「日本の銀行」が次々につぶれる!
「サル痘」が流行し、大勢の人間が死ぬだろう!!

「世界統一銀行」が世界を支配する!!
「世界統一銀行」は預金者の預金を奪う「ドロボー銀行」だった!!
世界中で「マイナンバー・カード」が盗まれる事件が多発する!!
「世界統一政府」と「ロード・マイトレーヤ」は、人間の「ひたい」と「右手」に
「獣の数字」をイレズミさせ、全人類を支配しようと計画する!!
「レイザータトゥーガン」=「レーザーイレズミ銃」
「マイナンバー」の正体は「獣の数字」!!
中東で大戦争がおこるだろう!!
「たくさんのユダヤ人」が中東の戦争で戦死するだろう!!運命!!

「新型コロナ」の特効薬は「イベルメクチン」!
「サル痘」の特効薬は「テコビリマット」!!
「秘密の本」→「戦慄の聖母予言」(せんりつのせいぼよげん)!!
                予言の書 ミカエル

422 :日本@名無史さん:2022/12/17(土) 15:43:25.41 ID:w6g0A55EK
>>414
吉武高木の集落と三雲井原の集落の間には、高祖山の山領が東西につらなっています。
こうした山領は、その前と後の平地に立地する集落の連携を阻みます。
吉武高木と三雲井原は、そうした立地の典型でしょう。

両集落が連携した関係にあったとは考えにくいです。
吉武高木は早良平野の集落との連携関係をみるのが良いでしょうね。
吉武高木と三雲井原の間の山領は、日向峠のある谷筋が通行路であったことは明瞭ですが、
双方は、やはり別の生活圏にある集落とみるほうがいいですね。

423 :日本@名無史さん:2022/12/17(土) 15:58:46.56 ID:w6g0A55EK
>>418
筑前平野と佐賀平野などにみられるゴホウラ貝腕輪は、それぞれ政治的背景を持つク二のつながりを見ることが可能ですが、
一方、怡土平地の二塚遺跡のガラス腕輪の場合、出雲や丹後などのガラス腕輪と相当な遠隔地でありますので、それらのガラス腕輪による政治的なつながりは考えにくていです。
出雲や丹後のガラス腕輪は、それぞれの集落が交易で入手したものを単独で宗教的威信財としたものでしょう。
出雲などは政治的連携に関して墳丘墓をその印として採用していたようですから、ガラス腕輪はシャーマン個人の威信財として用いられたとみるのが良いでしょうね。

いずれにしましても、ゴホウラ貝腕輪をク二間の政治的連携の印として用いたのは筑前平野や佐賀平野などの地方で顕著だったのかも知れません。

424 :日本@名無史さん:2022/12/17(土) 20:42:10.59 ID:q23UeCZza
>>414
須玖岡本遺跡の中の伯玄社遺跡出土の中期小児甕棺からは南海産腕輪が出ているそうですが、
これはイモ貝製腕輪の可能性が高いですね。
女性や子供の腕輪の場合は、イモ貝製腕輪が普通だったとされています。

この例からしますと、集落にはごく普通にシャーマンがいて、日常の祭事を行っていたことが考えられます。
そのシャーマンの子供が、伯玄社遺跡の小児甕棺に葬られていた人骨でしょうね。
こうした一集落所属のシャーマンとク二の元首となった大シャーマンの役割は大きく異なり、その大シャーマンの威信を表すものとしてゴホウラ貝腕輪が装着されたのでしょう。

425 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:49:09.75 ID:Ttr88fH2l
>>423
ほら、あなたの説はどんどん破綻していますよ。
高価なガラス釧を交易で求めることが出来るのであれば、
より一般的な貝釧はなおさらのこと交易で求めることが出来た筈ですね。

交易で求めたものであれば、これもまたただ一代のみ装着されているので、
一過性のお洒落アイテムではありえても、
宗教的威信材にはなりえないでしょうね。

>>424
奴国の一等地である須玖岡本遺跡で、必死に探してそれだけなのですから、
逆に奴国王家というのも、貝釧の風習は無かった、と考えるのが妥当ですね。

伊都国王家も、奴国王家も、本家に関しては、共に貝釧の風習は無かった、
と考えられます。


貝釧は「縄文時代」から広域に存在しますし、
北部九州であれば、古代豊国の山鹿貝塚の女性たちが多数貝釧を副葬されています。

この時点で、貝釧があるからクニだというあなたの仮定は破綻しています。

縄文時代の貝釧は近海産なので、
ゴホウラなど南海交易に意味を置くとするなら、

結局のところ広域交易が重要ということになり、振り出しに戻って、
当然のことながら、
・海外からの銅鏡
・楽浪土器
・青銅器鉄器
が豊富な伊都国こそが、クニの中枢、ということになります。

426 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:50:41.55 ID:Ttr88fH2l
山鹿貝塚は、縄文時代早期から約6000年間続いた貝塚で、
貝輪をつけた女性被葬者が多数見つかっていますね。

有名なのが、2号人骨と3号人骨で、
いずれもタマキガイ(ベンケイガイ)の腕輪を多数装着しており、

3号人骨(30代女性)が、右腕に15個、左腕に11個の貝輪、
鹿骨のかんざし2本

2号人骨(20代女性)が、右腕に4個、左腕に14個の貝輪、
緑色大珠、鹿角のアクセサリー2本、サメ歯イヤリング2個
2号人骨の右腕に4号人骨(新生児)

3号人骨と2号人骨は共に、肋骨や鎖骨、脊椎を抜き取られていた、
という非常に特色のある女性首長=女性巫女であったと考えられています。

427 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:52:51.45 ID:Ttr88fH2l
過去スレで検討しましたが、
山鹿貝塚女王こそが、後に遠賀式土器を伴って全国に稲作を広めた、
古代豊國イザナミ一族に比定されうると考えられ、

遠賀川を挟んで、
西が古代出雲國、東に古代伯伎國。
その境にあったのが、共立女王の砂丘墓地である山鹿貝塚=比婆山。

古代豊國に八雷神という縄文系八部族がいて、
共立女王を立てていた。

女王を決める方法が、記紀に伝わる骨抜き神事。
先代女王が亡くなると一旦山鹿貝塚へ埋葬し、
満月の夜に掘り返して(蛆はわくが蠅は飛ばない)、
各部族がそれぞれの担当場所の骨をつまみ、同時に抜き取る。

最もたやすく抜き取ることのできる部位=最も早く腐敗転生が進んでいる部位であり、
その部族の高位女性に次の女王が産まれてくる。

チベット族のダライ・ラマ、あるいはクマリ、といった宗教指導者の決め方に似ていますね。

他部族のイザナギがその縄文系秘事を盗み見たので、八雷神が怒って追いかけてきたわけですね。

428 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:54:28.69 ID:Ttr88fH2l
西の古代出雲の最有力がワニ。
イザナギと婚姻を結んだのはワニ系のイザナミであり、
在豊国倭軍基地である、田熊石畑遺跡を誘致した。

西へ展開する傾向があり、吉武高木大王の外戚として、対馬海峡も管轄することになります。
>>375
サメ歯のアクセサリーは縄文時代から多数出土しており、
サメは貴重な海の幸として捕獲されていたわけですね。

舟乗りは耐水性に優れたサメ皮の革ジャンを着て、
サメ頭部の皮でできた帽子をかぶる者もいたので、
見た目でサメが歩いているようなものだったわけですね。

東の古代伯伎の最有力がカモ。
遠賀式土器、あるいは鐘崎式土器、を伴って東方展開していった、
日本人の母系とも言えますね。

後の東方へ、八雷神全てが分布するのではなく、
火雷のみが伝えられていることから、
火雷(胸)→淤縢山津見(胸)→カモ

こちらはおそらくですが、
大雷(頭)→正鹿山津見(頭)→ワニ
なのでしょう。

429 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:55:10.11 ID:Ttr88fH2l
山鹿貝塚の二人の女王は、
共に近海産の貝輪を多数装着し、
共に骨抜き神事を施行され、
共に鹿骨や鹿角をまとっていますね。

サメ歯イヤリングをしている方が、古代ワニ系女王で、
していないほうが、古代カモ系女王でしょうか。

緑色大珠は、成分分析では厳密には翡翠ではありませんが、
古代に成分分析はありませんから、
翡翠と同系の宝石製の、大珠、と認識して使用していたものと思われます。

吉武高木遺跡の翡翠勾玉の女系祖、ということになりますね。

430 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 13:56:26.55 ID:Ttr88fH2l
貝輪、貝釧というものについて俯瞰してみると、
縄文時代から、タマキガイ(ベンケイガイ)など近海産の貝輪を、
女性有力者がつける風習が日本全国にあったわけですね。

南海産貝を素材とした貝釧は、
縄文時代末〜弥生時代開始期の、前5,6世紀くらいから、登場してくるわけですが、
オオツタノハ(種子島・トカラ列島、伊豆諸島南部)
→イモガイ・ゴホウラ(沖縄以南)
の順に登場してきますから、

沖縄から売り込んできたのではなく、
北部九州から、種子島・トカラ列島→沖縄と求めて、次第に交易路を拡大していったことがわかりますね。

>>352
前210年に徐福一行が亡命してきた頃から、ゴホウラ・イモガイ製貝釧が増えてきます。
沖縄には北部九州への輸出用と考えられる、貝集積地や前処理加工品集積地が増え、
北部九州では男性のゴホウラ貝釧装着者が出現してきますね。

そして、奴国王期と考えられる、立岩式甕棺墓の時代の一時期に、
各遺跡に一人ずつの「貝釧多数副葬者」が登場しますが、
それを最期に、貝釧副葬者は消滅してしまいます。

431 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 14:00:41.92 ID:Ttr88fH2l
縄文時代から日本列島の女性首長=女性巫女は近海産の貝輪をつけていた。

南海産貝による貝輪は珍しいお洒落アイテムとして九州縄文系女性に人気が出た。

亡命してきた徐福一行が、生活の糧として、
南海産の貝を輸送するルートを強化して、
女性用イモガイ貝釧と共に、
男性用ゴホウラ貝釧も売り込んだ。

先進地域であり、金属器が豊富な伊都国は買ってくれなかった。
お金持ちの須玖遺跡も買ってくれなかった。
彼らは腕輪が欲しい時は青銅製腕輪を自分たちで作った。

前206年に秦が滅亡したことで、徐福一行はワニ領域に入れるようになり、
諸岡遺跡→土井ヶ浜遺跡になんとか足場を築いて、
縄文系女性首長相手の行商で生計を立てていた。

後20年の銅矛銅剣戦争時に、土井ヶ浜遺跡女王婚姻によって、
奴国王傘下に入ったことで、
ゴホウラ貝釧が公式スポンサー認定され、
奴国王系の「奴国王時代の卑奴母離」の威信材として採用されてバカ売れした。

432 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 14:01:12.33 ID:Ttr88fH2l
大国主失脚時に、祭祀を続けることが許されていますから、
天神族は祭祀に関しては寛容。

伊都説で当てはめるなら、
ゴホウラ貝釧が宗教的なものであれば、
奴国王が失脚しても続行を許されていた筈ですね。

それが消滅してしまったということは、
ゴホウラ貝釧の装着は、行政的威信材であった、ということを意味しています。

奴国支配の終了とともに、役目を終えた、
そしてあるいは伊都国支配の再開時に、敵対者とみなされないためにも、
率先して貝釧を外す必要があった、ということですね。

433 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 14:03:04.10 ID:Ttr88fH2l
地域で見ていくと、
壱岐対馬には、縄文時代からの近海産の貝輪は出土しているのに、
ゴホウラ貝釧は出ていない。

ことから、ワニ支配地にはゴホウラ貝釧の卑奴母離は派遣されていないことになりますね。
これは香椎〜宗像のワニ支配地域にも当てはまります。

よって、ゴホウラ貝釧の卑奴母離は、
基本的には「カモ支配地域」に派遣された、
奴国王の息子達、であったことになりますね。

奴国王+女系ワニ(銅矛)の息子達にとっては、誇らしい勝利の証、だったでしょうから、
後には有鉤銅釧として復活させてのでしょうが、

奴国王+女系カモ(銅剣銅戈)の息子達にとっては、ちょっと微妙だったわけでしょう。


また、神a派の青谷上寺地遺跡からも、
タマキガイ(ベンケイガイ)の貝輪は出土するにも関わらず、
ゴホウラ貝釧は出土しないため、
ワニ、神a派、といった、奴国王の同盟勢力については、政治的独立が保たれ、
奴国王系の卑奴母離は派遣対象外だった、ことになりますね。

434 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 15:00:22.19 ID:Ttr88fH2l
弥生時代には現代よりも海岸線が内陸側でしたから、
当時の糸島半島は、入りこんだ入江と汽水にて、島のように分離しており、
斯馬國と呼ばれていたわけですね。

弥生時代の交通は、水上移動が基本であり、
吉武遺跡と三雲遺跡の交通は、伊都と斯馬國の間の水道を通っていたのでしょう。
糸島半島の外海側を通るより遥かに安全かつ早いですからね。

この水道の最も標高が高い部分は、
満潮の時には舟が通れるけれども、
干潮の時には浅瀬あるいは陸になって舟が通れない。

この天体運動による神秘の水門が、
橘の小戸
だった、と予想されますね。

435 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 15:01:34.45 ID:Ttr88fH2l
>>180
同じく佐賀平野の大部分も、当時は有明海の干潟で、
阿邪訶、大坂、というのは、
背振山脈の山裾まで迫る有明海と、山側の陸地にへばりつくように暮らす
そんな坂だらけの土地柄からきた呼び名であったと考えられますね。

これも水上移動が基本で、
例えば柏崎遺跡から吉野ケ里遺跡まで移動する場合は、
唐津(吾田)から唐津線を経て、小城市(都支國?)まで出たら、
そこからは舟に乗って、
有明海の干潟の無い、やや沖まで出てから、
東へ向かって、
当時はこれも海沿いだった吉野ケ里遺跡へ移動した、ということになります。

436 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 15:06:54.14 ID:Ttr88fH2l
オルドス式短剣の青銅器鍛冶頭領だったと予想されるサル〇ヒコは、
高天原(早良平野吉武遺跡)から、日向(三雲遺跡)へ向かう、
日向峠の山中に工房を構えていたと考えられ、

三雲倭国王+外戚柏崎遺跡(オルドス式)の時代に、接収した吉野ケ里遺跡(オルドス式)に、
鍛冶工房指導のため出張した際に、遭難したわけですね。

1世紀後半のある晴れた日。

小城市の桟橋で護衛付きの舟に乗って、有明海の沖へと漕ぎ出した。
見送りの者達は、しばらく見守った後、坂を上って集落や官舎へ帰り始める。

貴人であるサル〇ヒコを乗せた舟は、干潟のない所まで出たら、
東へ向きを変えてゆるゆると進み始める。

坂の上から、遠目に見えているわけですね。
農作業やらやってる一般の人々も、ふと顔をあげると
サル〇ヒコの舟が海上を少しずつ移動していくのが見えるわけです。

と、誰かが「あ、あれは!?」と叫びます。

西の彼方から、通常の3倍のスピードで接近する数隻の舟が現れたわけですね。

上腕モリモリの漕ぎ手達。
盾にはスイジガイ。
敵対する伊邪國・比良夫貝の軍舟です。

437 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 15:07:43.51 ID:Ttr88fH2l
高所の集落から皆がわーわー叫びますが、はるか沖まで声は届きません。
が、じきにサル〇ヒコの舟も気づいて、必死に漕いで逃げ始め、
盾や弓を準備しますが、

比良夫貝にあっという間に追いつかれ、
挟み撃ちにされて2方向から矢を射こまれては盾も役に立たず、
一瞬で全滅して、乗りこまれて目ぼしい物は奪われ、
舟は鎮められて、
比良夫貝はあっという間にまた西へと去っていった。

晴れた有明海には、わずかな残骸が漂うだけで、
まるで白昼夢で何ごともなかったかのように、静かな光景に戻っていたわけですね。

阿邪訶の大勢の人々が一部始終を目撃した、衝撃的な事件だったので、
記録にも残ったわけでしょうね。

438 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:40:24.98 ID:Ttr88fH2l
しかし妙ですよね。

国譲りの際に、
古事記では、建御雷神と、副で天鳥船神、
日本書紀では、経津主神と、武甕槌神、
がそれぞれ遣わされるわけですが、

そもそもの、
オシホミミとニニギがなぜ動いていないのか。

ホアカリについても、なぜ動いていないのか。
>>272
また丹後若狭湾水軍はホアカリ指揮、あるいは少なくとも天神族管轄のはずなのに、
出雲を現出雲と考えるにせよ、伊都説で古代出雲を宗像地域と考えるにせよ、
敗走するタケミナカタはなぜ丹後を通過して諏訪に行けたのか。

アジスキタカヒコネは、迦毛大御神とも呼ばれる、
大国主のカモ系トップなのに、国譲りの際になぜ彼の意見は聞かなくてよかったのか。

出雲で敗北して落ちのびて諏訪で降伏したタケミナカタが、
何故に後の東国武士に厚く崇敬されたのか。

不思議ですね。

439 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:41:59.90 ID:Ttr88fH2l
考古学的に実際に奴国で大洪水が起きており、
雀居遺跡の居館も流された跡が出土していますね。

伊都説で、葦原那珂津国を奴国として、
奴国大洪水にて奴国王が失脚した、という条件を加味した上で、
全ての条件を満たす流れを考えてみます。

倭の古来盟主である伊都国王家と、
新興のため、後漢金印の威を借りた奴国王家とは、
反目していたわけですが、
「福岡市を中心とする」大洪水によって、お互いに被害を受けたわけですね。

これは近年の福岡市の水害と同じことで、
那珂川流域が一番被害が大きかったにせよ、
那珂川流域だけに局所的に豪雨が降ることは無いわけで、
奴国が甚大な被害を受ける豪雨であれば、
伊都国もそれなりの被害を受けたわけです。

で、共に被災地となった「伊都国と奴国は災害時不可侵協定」を結んで、
伊都国軍は、伊都国領域への災害派遣を、
奴国軍の特にワニ軍は、奴国領域への災害派遣を行ったわけです。

440 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:44:15.47 ID:Ttr88fH2l
それぞれの兵士達が、現代で言うところの「災害救助活動」を行って、
被災者の救出、
土砂の処理、
仮設住宅の建設、
など、
数か月あるいは数年数十年はかかりそうな大変な作業を行っていたわけですね。

軍神の主力も古代出雲ワニ軍ですから、当然一緒に奴国での「災害救助活動」に参加します。

>>335
関西出張していたAタカヒコ。
大倭管轄の瀬戸内(侏儒國)高地性集落群には、狼煙連絡網がありますから、
弥生時代にあっても、わずか1日で詳細情報を受け取ることができたのですね。

義兄S系統達と元々計画していましたから、
天の与えた好機、とばかりに、急ピッチで準備を加速して、
祭祀型銅戈を鋳造して、埋納して、準構造船団で出陣したわけですね。

441 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:45:41.76 ID:Ttr88fH2l
Aタカヒコ主導の出陣ですね。

奴国ワニはもちろんですが、伊都国側も戦闘するどころではありませんから、

室見川上流の伊都国男系領主で、上流なので洪水被害は無かったが、
被災者受け入れを拒んで、自領への通行不可にしていた領主に連絡して、
伊都国男系+カモ女系の息子に、伊都国系代表として出てきてもらって、

福岡市から地理的に離れていて、洪水被害の無かったカモ領域=豊國東部の伯伎國のカモ軍を率いる大将になってもらって、
一緒に、古代出雲に押しかけたわけですね。

442 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:46:40.47 ID:Ttr88fH2l
災害の多い日本列島に住む我々も大きな教訓としなければなりませんね。

土石流で甚大な被害を受けた奴国に、
「災害救助活動」のため軍を派遣していたので、
奴国王も豊国宰相の息子(避難民用の食料調達のため漁をしていた)も、
はるか東方から不意に現れた準構造船団などには成す術もなく、
捕縛されたわけですね。

奴国王は最終的には処刑され、
豊国宰相の息子は沖ノ島に幽閉されたものと思われます。

Aタカヒコの主目的は、軍神の持つ金印を奪うことだったのでしょうが、
それは叶わなかったので、
奴国王から祭祀を譲り受ける、つまり家督を譲り受ける、という約束を取り付けることで、
なんとか体面を保ったわけですね。

443 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:47:48.48 ID:Ttr88fH2l
軍神は、被災した奴国で災害救助活動中に、宗像からの急報を受けたわけですね。

Aタカヒコの狙いが金印であることは明らかですから、
瞬時に決断したわけです。

宮の本遺跡女王との長男を呼んで、小袋に入れた金印を渡したのですね。

「いいか。よく聞け。
 Aタカヒコの兄ぃが裏切って、父が捕まった。」

「な、なんと!?」

「この金印を持って、伊邪分國に逃がれよ。
 そして金印を持っていることは誰にも話してはならない。
 たとえ育ての親の爺であってもだ。
 よいな。
 伊邪分國に逃げたら、決して見つからない場所に隠せ。
 そして水軍をまとめて、指揮するのだ。
 よいな、決して誰にも言うなよ。」

「ち、父上はどうされるのですか?」

「奴国はこのありさまだ。
 今はどうにもならんだろう。
 私は東国に落ちのびて、捲土重来を期す。
 が、これが今生の別れになるかもしれぬ。
 体をいとえよ。
 さあ、急げ。」

その数刻後には、長男の乗った舟が、那の津を出航し、
宮の本遺跡プロ漕ぎ手達によって、弥生時代最高速度記録で
斯馬國已百支國を飛び越えて伊邪國へと逃げ込んだのでしょう。

444 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:50:46.77 ID:Ttr88fH2l
災害救助活動中だったので、
軍神は兵もおらずまともに戦うことなど最初からできず、

少数の準構造船でちょっと顔を見せて、
Aタカヒコの軍勢が捕らえに来る態勢で話し合いの余地もないことを確認すると、
ターンダッシュで逃走開始したわけですね。

で、若い頃からの地盤がある諏訪で急造軍を整えて、
追討軍を見事に撃破した。

準構造船を破壊されて、銅戈軍と講和条約を結んだのか、
あるいは、その後は銅戈が上陸できていませんから、
何度か攻めてきた銅戈軍をことごとく破ったのかですね。

そして軍神が立ちはだかったことで、
後のAタカヒコ政策によるDNA大規模移動から東日本縄文系社会を守ることになった。

このようないきさつであれば、
ただでさえ験を担ぐ武士達が、崇敬したとしても理解できますね。

445 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:52:38.59 ID:Ttr88fH2l
宗像三女神は、スサノオの娘達で、
うちお二人は大国主の子を産んでいますね。

大国主はスサノオから兵権を譲られていますね。

一番若い市杵島姫神(伊都岐島神)は大国主には嫁いでおらず、
ニニギの養育係だったとのことですから、
アジスキタカヒコネ達と同世代ですね。

アジスキタカヒコネは大国主と多紀理毘売の子で、
同父同母の妹に高比売命がいます。
高比売命はアメノワカヒコと結婚したけれども死別しましたね。

ニギハヤヒは、
天道日女命、との間に天香山命
那賀須泥毘古の妹の登美夜毘売、との間に宇摩志麻遅命
をそれぞれもうけています。

大日?貴が天照大御神、大己貴が大国主、道主貴が宗像三女伸、
であります。

446 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:53:06.59 ID:Ttr88fH2l
>>143
>>144
要するに、
タキリビメ
アジスキタカヒコネ
イチキシマヒメ
のお三方については、カモ系女王一家であり、
何らかの伊都を持って、名前をあれこれ分散させて記録したのではないか、
と思われるわけですね。

447 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:55:20.81 ID:Ttr88fH2l
奴国王失脚後、Aタカヒコ(祭祀型銅戈)が実権を持つわけですが、
彼の政策が現代のDNA解析にまで影響を及ぼしたわけですね。

>>348
古浦はAタカヒコの産まれ故郷でもありますから、
若き軍神の行った成功政策を知っていたわけですね。

で、Aタカヒコの目の前には、復興半ばで
荒廃したままの福岡平野が広がっている。

で、軍神の成功政策を、超大規模に行ったわけですね。

生口の大量輸送です。(土器の大移動)

ただただひたすら生口を連れてきたわけですね。
短期的には、労働力が大量補給されて、
土砂を処理したり、建築復興作業、北部九州での稲作の手伝い、
などなど急速な経済復興を成し遂げたわけです。

448 :日本@名無史さん:2022/12/18(日) 22:56:34.92 ID:Ttr88fH2l
が、元々、毛人地域で安い労働力で作った稲を、
倭国に運ぶことで食料需給が成り立っていたのが、

労働世代の毛人をごっそり強制移動したので、
毛人地域の年齢バランスが崩れて、深刻な労働力不足から稲作集落が維持できなくなり(住居の消失)、
毛人地域からの年貢がほぼ消失してしまったわけですね。

一方で、倭国では、毛人が大量に来た当初は楽になったけれども、
現在の移民問題と同じで、毛人も年を取っていきますし、
そもそも倭国は外部からの年貢で成り立っていたのに、
年貢が激減して、人口が激増したわけですから、こちらも未曽有の大飢饉になったわけですね。

現代の我々は、DNA解析にその爪痕を見ているわけですね。

政策による、西日本広域の大飢饉発生から、Aタカヒコの立場が悪くなり、
新伊都二代目における外戚勢力交代の要因となっていったのでしょうね。

449 :日本@名無史さん:2022/12/19(月) 03:15:03.28 ID:wLiOC7gl+
都道府県別に渡来系DNAの割合を調べたら、
渡来人がまず訪れたはずの九州はさほど高くなく、
関西と四国で高かった、という結果ですね。
銅戈勢によるものだったと。

450 :日本@名無史さん:2022/12/19(月) 21:47:16.85 ID:FsaON+ts6
>>425
ク二の政治的連携を示すアイテムとして用いられたのが、元首であるシャーマンが身に付けた宗教的威信財のゴホウラ貝腕輪だったとするのがよいでしょう。
そして、ク二の元首のシャーマンは、それぞれその国力にみあった複数のゴホウラ貝腕輪を保持したのでしょう。
そのような複数のゴホウラ貝腕輪を保持した大シャーマンが一度現れますと、そのク二はそれにみあった格付けがなされて、
それ以降は次の何代にもわたってそれぞれ大シャーマンが新たにゴホウラ貝腕輪を装着しなければならない必要がなくなったのではないでしょうか。
ゴホウラ貝腕輪の多数装着例が一時期に偏っている理由にはそうした格付けの成立があるとし、それ以後はみなし格付けだけで済んだのかも知れません。
いずれにしましても、そのゴホウラ貝腕輪の配布元は那の津を抱えたク二だったことは明らかですし、そのク二から配布してもらわなければゴホウラ貝腕輪は入手できなかったということでしょう。

ク二が成立しなかった三雲などの怡土平地ではシャーマンの威信財としてはゴホウラ貝腕輪が配布されず、そのため別の腕輪を自ら調達する必要があったのでしょう。
それが銅腕輪やガラス腕輪だったということでしょうね。
ですので、怡土とは遠隔地の丹後でガラス腕輪が出土しますが、それぞれの集落が独自に入手して宗教的威信財としたものだということになります。
怡土と丹後の間に政治的連携があった可能性は、非常に低いと思われます。

ゴホウラ貝腕輪については、いろいろ勉強になりました。
ありがとうございます。

451 :日本@名無史さん:2022/12/20(火) 07:22:05.39 ID:wghyifHnR
レシップスは増幅だよな

452 :a:2022/12/20(火) 12:40:11.72 ID:y5vkXMUiv
https://spontaneous-cobbler-dbdeb6.netlify.app/14.html

453 :日本@名無史さん:2022/12/20(火) 16:25:07.96 ID:CIQlqHDmj
まあ言えば、レッテル張り効果だな。

454 :日本@名無史さん:2022/12/21(水) 13:40:44.32 ID:uGP53BU6Y
博多の比恵遺跡で出た石板は3世紀の硯だとされてきましたが、江戸時代の硯だとする調査結果が出てきましたね。
この分では、伊都国の硯も再検討の必要があるかも知れません。
まったくのドンデン返しとなるのかどうか、今後が注目されます。

455 :日本@名無史さん:2022/12/22(木) 23:19:21.65 ID:GYoQOlFIF
>>454
訂正1
比恵遺跡は間違い。
正しくは西新町遺跡。

訂正2
江戸時代の硯は間違い。
正しくは砥石。

456 :日本@名無史さん:2022/12/24(土) 14:32:26.84 ID:NckeOKwEs
伊都国がどのような立ち位置にあった国なのかは、倭人伝よりも魏略を見るほうが分かりやすい。
魏略では、「帯方より倭に至るには…対馬国に至る…一支国に至る…末盧国に至る…伊都国に至る」と道順を示したあと、
「その国王は皆女王に属すなり」と書いてある。
帯方郡などからの使節が留まる所とする字句はどこにも見えないし、
対馬から伊都までの四ヶ国の王は皆倭国の女王に所属しているとしている。

一方、倭人伝では対馬などの四ヶ国の道順は同じだが、
伊都国については「…伊都国に到る」として魏略の「至」字ではなく「到」字を用いて書いている。
そしてそのあとに「世々王有りて皆女王国に統属す」と続けている。
伊都国の王たちは皆女王国に統属してきたとするものだ。
さらにこの伊都国は「郡使往来するに常に留まる所なり」と書いて締めくくっている。

上の魏略が対馬から伊都までの国の王たちが皆倭国の女王に所属しているとしているが、
倭人では女王に所属しているのは伊都国の歴代の王たちだとし、その伊都国に帯方などの使節は逗留しているとしており、
この部分が魏略と大きく異なっていて、倭人伝は魏略の記述を書き換えていることが分かる。

魏略のほうが先行する史書であることからすると、倭人伝の伊都国に関する書き換えは明らかに意図的なものであることが考えられる。
なので、この倭人伝の記述に立って伊都国を理解すると、倭人伝の著者の意図に乗せられてしまう危険性がでてくるというわけ。
十分に注意する必要があるだろう。

457 :日本@名無史さん:2022/12/24(土) 15:24:37.68 ID:0CuNLspFi
まあ、魏略も倭人伝もイト国を伊都国と華美な字でもって記述しているところを見ると、
どうも帯方郡に非常に協力した国であったことが推測される。
倭国が魏の冊封国となることについて、伊都国の働きが大きかったことへの褒美だった可能性も考えられる。
帯方郡に忠実な国だったということになってくるな。

458 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:49:24.12 ID:8Fd89PlMA
>>450
こちらこそありがとうでした。
青銅器だけでなく、
貝釧の繋がりでクニを論じることができる、ということを
逆にそれだけ力強く主張してもらえたことで、
考察が進みました。

>>384
>>417
甕棺墓については、
男系も、少なくとも伊都国王系と奴国王系、のどちらも入っている、
女系も、少なくともカモ系とワニ系、のどちらも入っている、
ことから、部族を示すものでは無く、官職を示すものである、可能性が高いですね。

>>418
四隅突出については、
男系は、中国山地に逃げ込んだ、奴国王の兄達一族に比定されうるわけですが、
女系はカモ系とワニ系が交互に入っているので、女系はどちらでもいいと考えられます。

459 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:50:37.14 ID:8Fd89PlMA
>>434
>満潮の時には舟が通れるけれども、
>干潮の時には浅瀬あるいは陸になって舟が通れない。

海神ワニ王が新伊都二代目に渡した、潮満珠と潮乾珠が連想されますね。

仮説ですが、
交通信号だったのかもしれません。

潮の干満は6時間おきに繰り返しますね。

伊都と斯馬國の間の水道(仮に糸島水道と呼びます)を通るのに、
干潮時刻に通ろうとすると、座礁してしまい、水道が通れなくなってしまうわけですね。
先日もスエズ運河で座礁事故が起きて、しばらく通行不可になってしまい、
巨額の賠償金をどこが払うかで揉めていましたね。

糸島水道の浅い部分の両手前に、ワニ族の信号係の櫓があって、
通行可能時間には潮満珠が掲げてあり、
舟は通行料を払って糸島水道を通過できる。

干潮時間には潮乾珠が掲げてあり、潮が満ちてくるまで皆待っていた。

のかもしれませんね。

460 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:52:21.98 ID:8Fd89PlMA
そう考えると、
新伊都一代目はカモ系で、宰相Aタカヒコは新伊都二代目の兄を推していた。

新伊都二代目は一旦失脚して、古代豊国のワニ王に匿われた。

>>448
Aタカヒコ政策の問題点が次第に大きくなり、
ワニ勢力の復権を求める流れができて、古代出雲にて新伊都二代目が挙兵した。

新伊都から出陣した兄水軍は、糸島水道を通って古代出雲へ向かおうとした。

新伊都二代目+ワニは、潮乾珠を通常より長めに掲げて兄水軍を待たせた後に、
小戸にて干潮時間を迎えるタイミングで潮満珠を掲げて、兄水軍が糸島水道を進み始めた。

途中で潮が引いてきて、兄水軍の先頭集団が座礁してゆき、
兄水軍が糸島水道内で進退窮まったところで、
新伊都二代目+ワニの伏兵が、両脇の山側高所から攻め込んだ。

兄水軍は動けない舟から降りて応戦したが、
低地にて不利、かつ足場が悪く、苦戦しているうちに、
今度は潮が満ちてきて、動きも取れなくなり、溺れる者も多数で敗北した。

勝利した新伊都二代目が高祖宮に収まった。

461 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:52:48.89 ID:8Fd89PlMA
魏略逸文を出典別に並べると以下のようになります。

<漢書> 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注
『倭在帯方東南大海中 依山島為國 度海千里復有國 皆倭種』

<翰苑> 卷三十
『従帯方至倭循海岸水行歴韓國 到枸耶韓國七十余里
 始度一海千余里至対馬國 其大官曰卑拘副曰卑奴 無良田南北市糴
 南度海至一支國 置官至対同 地方三百里
 又度海千余里至末廬國 人善捕魚能浮没水取之
 東南五百里 到伊都國 戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其國王皆属王女也

『女王之南又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
 自帯方至女國万二千余里
 其俗男子皆點而文 聞其旧語 自謂太伯之後
 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身以避蛟龍之吾
 今倭人亦文身 以厭水害也』

<北戸録> 卷二 鶏卵卜
『倭國大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視占吉凶也』

<三國志> 東夷伝倭人条 裴松之注
『其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀』

<法苑珠林> 魏略輯本 所引
『倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余』

462 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:54:22.61 ID:8Fd89PlMA
>>456
翰苑の原典を見ていただくとわかりますが、
魏略逸文においても「伊都に到着」しており、しかも伊都が最終目的地となっています。

魚豢が記した魏略は、陳寿の三国志より若干前に完成したと言われていますから、
梯儁の報告書は参照できたけれども、
張政さんの旅行日誌が手に入らなかったわけですね。

倭 漢読み「ワ」 倭読み「やまと」であり、
邪馬台国は、「やまと」に対して張政さんが宛てた当て字であり、

里程は里数のみ。
伊都で女王卑彌呼に会えたし、
几帳面な陳寿は念のため卑彌呼前任地(邪馬一国)である奴國+不彌國までの里程も記した。

日程は日程のみ。
北部九州倭国=張政さん卑彌呼女王様時代の邪馬台国の、都=三雲遺跡まで、帯方郡から水行30日+陸行1日。

『倭在帯方東南大海中 依山島為國 度海千里復有國 皆倭種』
倭は九州島に倭国を成しており、千里渡海すると倭種の國がある。
つまり、倭人の倭国(=卑彌呼邪馬台国)とは、九州島に限定されるわけですね。

463 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:55:16.33 ID:8Fd89PlMA
>>245
対馬は北の上島と南の下島(古代は逆)から成る細長い島で、
古代延喜式の時にも上県と下県がありましたから、

それに対応して、
1-3世紀には、北に対馬國、南に対海國、がそれぞれあったものと思われますね。

里程は57年金印後漢使の来倭出張時のものなので、
狗邪韓國→千余里→対海國方可四百余里→千余里→一大國(一支國)方可三百里
は判っているけれども、
対馬國の正確な大きさや渡海距離は実測記録が無かったので、記載できなかったわけですね。

金印後漢使や、張政は対海國に停泊したけれども、
梯儁は対馬國に停泊した、ということですね。

ただ、狗邪韓國→ →一大國が、1000+400×2+1000=2800里なのはほぼ同じですから、
総計12000余里は変わらず記載できたことになります。

464 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 16:55:48.60 ID:8Fd89PlMA
<翰苑> 7世紀唐 著:張楚金

『倭國
 憑山負海 鎮馬臺 以達都』 (臺の上部は吉でなく去)
『後漢書曰 倭在朝東南大海中 依山島居 凡百余國
 自武帝滅朝鮮 使驛通漢於者州余國 稱王 其大倭王治邦臺 (臺の上部は吉でなく去)
 楽浪郡徼去其國万二千里
 其地大較在會稽東 与珠雀?耳相近』
『魏志曰 倭人在帯方東南
 炙問倭地 絶在海中 州島之山或絶或連周旋可五千余里』
『四面倶極海
 自営州東南 経新羅至其國也』
『分職命官 統女王而列部』
『魏略曰 従帯方至倭循海岸水行歴韓國 到枸耶韓國七十余里
 始度一海千余里至対馬國 其大官曰卑拘副曰卑奴 無良田南北市糴
 南度海至一支國 置官至対同 地方三百里
 又度海千余里至末廬國 人善捕魚能浮没水取之
 東南五百里 到伊都國 戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其國王皆属王女也』
『早弥娥 惑翻叶群情 臺與 幼歯方諧衆望』(臺の上部は吉でなく去)
『後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王師升至
 桓遷之間 倭國大乱 更相攻伐 歴年無主
 有一女子名曰卑弥呼 死更立男王 國中不服 更相誅殺
 復立卑弥呼宗女臺與 年十三為王 國中遂定 (臺の上部は吉でなく去)
 其國官有伊支馬次曰弥馬升次曰弥馬獲次曰奴佳?之也』
『文身點面 猶稱太伯之苗』 黒占
『魏略曰
 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
 自帯方至女國万二千余里
 其俗男子皆點而文 聞其旧語 自謂太伯之後
 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身以避蛟龍之吾
 今倭人亦文身 以厭水害也』
本文はまだ続く

465 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 17:05:41.27 ID:8Fd89PlMA
翰苑の一続きの記載もまた、
伊都国までで到着していますし、

倭国の説明にて、「其國官有伊支馬次曰弥馬升次曰弥馬獲次曰奴佳?之也」
が組み込まれていますね。

四面倶極海でもありますし、
北部九州倭国ですね。

これを転写していたのは大宰府の官人でしょうから、
この流れで正しかったということですね。

466 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 21:52:27.39 ID:7coCRbtZs
>>464
翰苑の魏略では、「到伊都国」となっていますね。
「到」が正しいようです。

「至」は真っすぐに届く意で、一方、「到」は曲折して届く意のようです。
「到伊都国」は、末盧に着いてから曲折して進んで伊都国に至るの意になりますね。
真っすぐ進むか、方向を変えて進むかの違いがありますが、至と到はその程度の違いのようです。
根本的な違いはないようです。

467 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:53:05.39 ID:8Fd89PlMA
絹は中国並びに日本にとって重要な交易品でしたね。

中国では紀元前3000-6000年に絹生産が始まったとされており、
シルクロードを通して遥かエジプトやローマ帝国まで輸出していましたし、
蚕や桑の国外持ち出しは厳しく制限されていました。

日本での絹は、紀元前1-2世紀の、早良区有田遺跡の甕棺墓から銅戈に付着した絹が出土したのが最古で、
弥生時代の絹は全て福岡佐賀長崎県から出土しています。

甕棺墓からの出土が多いですが、
土壙墓や組み合わせ石棺墓などからも出土していますし、
かの吉武高木遺跡の、三種の神器が副葬された3号木棺墓にても、
銅矛銅戈を包んでいた絹が検出されています。

北部九州で最初期に出土する絹は、四眠蚕(4回脱皮したら繭を作る)のものですね。
朝鮮半島のは三眠蚕で、後になって楽浪郡経由と思われる伝播をしますので、
北部九州への絹生産法の伝来は、
稲のDNA解析結果と同じく、中国南部から伝来した可能性が高いですね。

468 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:53:55.51 ID:8Fd89PlMA
一方で、支石墓、ですが、
数としては、支石墓の大多数が朝鮮半島にあります。

支石墓には二種類あり、
卓子型支石墓(北方型支石墓)=支石が高いと、
碁盤型支石墓(南方型支石墓)=支石が低い、
があります。

朝鮮半島南部ならびに九州に見られるのは、後者ですね。

近年の研究から、同時期に双方が存在していることから、
源流はそれぞれ別である可能性が高いとされています。

469 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:54:54.54 ID:8Fd89PlMA
碁盤型支石墓の分布を見れば明らかですが、
・朝鮮半島では、南西部に密集している
・九州では、島原、五島列島、熊本など九州西岸に現れ始める
・九州では、いわゆる伊都國の西半分など、せいぜい福岡県の西半分までしか分布しない
・九州では、五島列島の宇久松原遺跡など、甕棺墓と混在する傾向がある
・支石墓は壱岐対馬に分布しない
・九州の支石墓は1世紀頃に終焉するが、甕棺墓は続く
といった特徴があります。

つまり、
朝鮮半島南部から九州へ伝播したのであれば、
壱岐対馬から出土するはずですし、
福岡県東部にも入っていくはず。

また甕棺墓という九州側の独自特色が強いことからも、
碁盤型支石墓は朝鮮半島南部からではない可能性が高いですね。

470 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:56:06.40 ID:8Fd89PlMA
碁盤型支石墓は、
九州においても、朝鮮半島南部においても、西岸に多い。
五島列島や島原といった、失礼ですが、西の辺境的な場所に多い。

といった傾向から、
中国南部から、海流に乗って、伝来してきた、
と考えるのが自然ですね。

浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)に碁盤型支石墓が13基ほど見つかっており、
甕棺墓も伴っているそうです。

副葬品には、銅矛銅戈銅斧銅鑿銅短剣、銅箭銅鏃、青銅製小型鐘
紡錘
などの弥生開始に必要な要素が詰まっており、
この石棚墓(碁盤型支石墓)の関係者が渡来してきて、
九州西岸に碁盤型支石墓などをもたらした、と考える人も多数いるようですね。

471 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:57:35.15 ID:8Fd89PlMA
九州における支石墓について検討してみると、
・出土する人骨が、縄文系の人が多い(渡来系の人骨もいるけれども)
・面として分布するというよりは、各地に飛び地的に固まって営まれている
・支石墓の副葬品は土器くらいで、威信材は無いのが普通。

ですから、
中国南部から交易や征服を目的として組織的に渡来して来た、
というよりは、
アクシデントとしての漂流者が、海流に乗って東に流され、
運よく九州や朝鮮半島の西岸に漂着した。

九州縄文人の集落で救助され、そこで縄文人に交じって生活し、
本人の場合もあるが、縄文人の配偶者やハーフの子供が支石墓に葬られる場合も多かった。
のでしょう。

支石墓は残るので目立ちますが、
当時の人口当たりの個数としてはごく少数ですね。
支石も1メートルちょっとのものが多く、近隣の山などで探せばありそうですよね。

ごく少数の漂流者がたまに来て、技術などを伝えつつも、
そのまま縄文集落に帰化同化したということでしょう。

472 :日本@名無史さん:2022/12/25(日) 23:58:34.53 ID:8Fd89PlMA
支石墓の群れに混じって、甕棺墓が出現してきます。

これもつまり、
漂流者の中にたまたま、稲を一束積んでいた農民がいたら、
それで九州縄文集落に稲作が伝来ですね。

漂流者の中にたまたま、桑の実と、四眠蚕を積んでいた養蚕家がいたら、
それで九州縄文集落に養蚕が伝来したわけですね。

蚕は生糸、絹を生み出して、産業の源にもなりますし、
繭を取ったあとの蚕蛹は食用にもなりますから、弥生時代にあっては貴重な蛋白源でもあった。
繁殖用においておくと、蚕蛾となって生まれ変わります。

甕棺墓は蚕の繭を模しており、
豊かさと、再生と、を象徴していたものと思われます。

473 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:00:10.17 ID:oV6Lk8FT5
養蚕伝来=甕棺墓の登場、ということですね。
甕棺墓=養蚕有力者、ということになります。

五島列島・宇久島の宇久松原遺跡には、早くも弥生早期の甕棺墓が出土しています。

縄文時代においては、日本側で海外に売れるものというのは、
翡翠や黒曜石ぐらいしか無く、
また朝鮮半島南部にもまだ鉄器青銅器が普及していませんから、
危険を冒して対馬海峡を渡海する必要性がそもそも無かったわけですね。

しかし、絹が作れるようになると話は別で、
中国が国外不出にしている高級品ですから、海外で高く売れるわけですね。

474 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:01:05.61 ID:oV6Lk8FT5
「国土交通省 地質図」

養蚕を開始したとして、では何が重要になってくるかというと、
「良質な畑」ですね。

蚕は桑の葉を大量に食べますから、桑が良く育つ土地が必要だったわけです。

桑は落葉性の灌木ですから、水はけの良い真砂土の畑。
つまりは『花崗岩』の土壌を求めて甕棺墓=養蚕有力者が展開していったわけです。

国土交通省の地質図で九州を見てみると、
花崗岩の土地がわかりやすく赤く記してあります。

桑がよく育つ花崗岩地域と、甕棺墓=養蚕有力者の分布域が合致することがわかります。

475 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:01:38.14 ID:oV6Lk8FT5
基本的には、
花崗岩あるいは玄武岩の土地は農業に適しており、
変成岩の土地は植物が育ちにくいようです。

国土交通省の地質図によると、
地質学的に、古代豊国は変成岩の土地ですから、桑が育ちにくかった。
ので、
養蚕をしても、花崗岩地域に比べて育ちが悪く、普及しなかったのですね。

ですから、豊國には、甕棺墓=養蚕有力者がやって来ず、
逆にそれ故に、領土を狙われることが無くて、
独立性を維持できたわけですね。

476 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:02:47.11 ID:oV6Lk8FT5
花崗岩の土地が、甕棺墓=養蚕有力者の分布そのままですね。

背振山系は花崗岩山系であり、
甕棺墓=養蚕農家がびっしりと群がって桑を植え、蚕を育てまくったわけですね。
絹バブルです。

博多湾東部だと、
古賀市は花崗岩で馬渡束ヶ浦遺跡など甕棺墓が出土していますが、
香椎は変成岩ですから、甕棺墓が入らなかった。
開発されずに残っていたので、後には逆に、宮の候補地になったのでしょう。

宇久松原遺跡の宇久島にも花崗岩があります。

離れた場所だと、下甑島にも花崗岩があり、ここからも甕棺墓が出土したらしいですね。

南島原で甕棺墓が出土したとのことですが、(島原市有家町中須川)
ここは玄武岩ですね。

壱岐島は同じく玄武岩で甕棺墓が出土。

477 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:03:25.53 ID:oV6Lk8FT5
あとは地理的政治的なもので、
五島列島の西側諸島にも花崗岩があり、甕棺墓が眠っているのか、
あるいは対馬海峡から遠すぎるので、輸送コストの問題で生産地に選ばれなかったのか。

熊本など甕棺墓が一時期だけ存在した場所は、花崗岩で無かったので、
コスト競争に負けたのか。

九州東岸の花崗岩も、豊國を越えなければならないし、
輸送コストの問題でしょうか。

478 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:05:23.03 ID:oV6Lk8FT5
明治政府と同じで、甕棺墓=養蚕有力者の勢力も、
絹を大量生産して、輸出することで、
青銅器などを輸入したのですね。

富の蓄積が始まって、甕棺墓からは青銅器が副葬され始めます。

養蚕の開始と共に、
縄文時代はさほど重要でなかった対馬海峡が、重要な交易ルートになったのですね。

その対馬海峡を仕切っていたのが、石棺墓勢力=ワニということですね。
ちなみにこの石棺墓は、後の新伊都二代目の奥さん豊国女王の実家の城野遺跡石棺墓まで続きますね。

古代の出雲や伯伎など地名は現在よりも西寄りで、
北部九州のものであったと推定されるのですが、
九州説の中には、それらは、本来はもっと西寄りだったと主張される方もいます。
そう考えると、豊國勢力は、本来もっと西寄りにいて、
西の有力者ワニは、
対馬海峡〜博多湾沿岸〜が本貫であった可能性もありますね。

479 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:47:22.38 ID:oV6Lk8FT5
おそらく花崗岩の土壌を求めてあちこち拡散したと思われる、
北部九州における支石墓の分布が、
福岡県東部に入れなかった、ということは、

支石墓(石棚墓)渡来人を吸収した、北西部九州縄文勢力と、
ワニなど北東部九州縄文勢力(八雷神)とは、
それぞれが別の、緩やかな広域クニを形成していた可能性が高いですね。

そして伊都説で考えるならば、
もう一つの、有力なおそらく九州中部縄文勢力が、
その中間にいたことになります。

さらに言うなら、豊國から東に渡海した、古代越の地域には、
縄文時代の有力勢力である、八岐大蛇(中ノ浜遺跡?)がいたことになります。

九州の有力中部縄文勢力が、脊振山系頭部で暮らしていたのを、
その花崗岩の土地を求めて、
北西部九州縄文勢力(支石墓甕棺墓→絹生産)と、
北東部九州縄文勢力(八雷神→ワニ対馬海峡交易ルート)とが、
連合して攻めた、ということでしょうね。

480 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:47:58.78 ID:oV6Lk8FT5
微妙な話になるのであれですが、
空想世界の話として、
北西部九州縄文勢力(支石墓甕棺墓→絹生産)は、
>>471
支石墓の段階ですでに、
>・出土する人骨が、縄文系の人が多い(渡来系の人骨もいるけれども)
のと、
支石墓が早々に姿を消している。
(標石墓や須玖岡本D地点などはあるにせよ)
ことから、
考古学的には、縄文系の可能性が高いと思われますね。
しかし文献的には、くどく呉の太伯の末裔と自称し続けているので、
どうでしょうね。
文献の方は、本当は縄文系だけれども、箔をつけるためにそう自称していた、という可能性もありますが。
DNA解析が進むとハッキリしてくるでしょうが、どうなんでしょうね。

481 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:48:43.01 ID:oV6Lk8FT5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/876

古代に渡海する場合、真夏で晴れならいいですが、
それ以外の季節や、雨に降られると、
潮しぶきで体が濡れて、低体温症になる危険がありますね。

>>428
体温維持のために、耐水性の高いサメ皮の衣服が必須だったのでしょうね。
油を塗ったサメ皮の衣服と、サメ頭部の帽子をかぶって、完全防水の姿で渡海していくので、
サメが舟を漕いでいくような光景だったのでしょうね。

>>375
甕棺墓=養蚕有力者を多数従えた吉武高木大王家と、
対馬海峡渡海を受けもつ、女系外戚ワニのタッグだったわけですね。

対馬海峡渡海時に遭難した場合、対馬海流で流されて、
まず目指す避難場所が沖ノ島だったと考えられ、
その近辺もワニ族が押さえていた、と考えると、
ワニ族は飛び地的に、対馬海峡と、古代出雲の一部と、を押さえていたのかもしれませんね。

482 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:49:29.61 ID:oV6Lk8FT5
国家の運営像としては、
<甕棺墓=養蚕有力者>
温暖な九州の花崗岩地域で桑がよく育つ
→蚕がモリモリ桑の葉を食べてよく育つ
→大量の生糸、絹が生産される
→<対馬海峡渡海専門のワニ族>が絹を朝鮮半島側に運ぶ
@
→朝鮮半島南部の神a派が、同じ燕系の衛氏朝鮮で多鈕細紋鏡など青銅器と交換してくる
→ワニ族と神a派はマージンを受け取る

A
→朝鮮半島南部で鉄資源を入手する
→鉄資源をワニ族が対馬海峡渡海して北部九州へ運ぶ
→田熊石畑遺跡将軍が、丹後扇谷遺跡へ鉄資源を運び込み、現地の木材を燃料に鉄器を生産する
→鉄器を北部九州に輸送して使う

という形だったのでしょうね。
明治政府と酷似していますね。

483 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:54:18.33 ID:oV6Lk8FT5
中国がそうであったように、

吉武高木王家ならびにワニ族にとって、
絹こそが富の源泉ですから、
当然のことながら、専売独占したわけですね。

豊國東部(古代伯伎國)の有力部族であるカモは、
背振山系南部で養蚕に参加してはいたものの、
海外交易の利益のほとんどは、吉武高木やワニ、神a派に取られてしまう。
金属器に乏しい状態で、環濠集落+銅鐸で東方開拓していたわけですね。

そこに風穴を開けようとした、女性実業家が、ヤガミヒメだった、のでしょう。

国土交通省、地質図で、本州四国を見ると、
中央構造線の北に、花崗岩のベルト地帯があることがわかります。

瀬戸内高地性集落の大半は、花崗岩の土地を選んで建設されており、
弥生時代の石油である、木材と炭、の生産はもちろんですが、
おそらく桑の栽培と養蚕にも手を出そうとしたのでしょう。

平形銅剣女王が、新規開発した、瀬戸内高地性集落群=木ノ俣、にて、
絹をも大量生産する。
そしてその海外販売ルートが、紀元前1世紀に楽浪郡と組んで勢力伸長した、
奴族ですね。

衛氏朝鮮が滅亡して没落した燕系にとって代わって、
奴族が海外交易ルートを担当しつつあった。

その倭地における有力奴族の末弟に目をつけたわけですね。

484 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 00:57:39.19 ID:oV6Lk8FT5
絹販売の独占を、敏腕女社長のベンチャー企業に破られそうになって、
銅矛銅剣戦争が勃発したわけですね。

既得権益派が、吉武高木王族の田熊石畑遺跡将軍、ワニ銅矛、(亡命神a派)、
ベンチャーが、銅剣女王、奴族、(亡命甲羅派)、
と見事に分かれますね。


しかしながら、奴族のおぼっちゃんが、女性関係の妙によって、
いつの間にか田熊石畑遺跡将軍の後釜に座っていて、
奴国王金印にまでつながった、ということでしょう。

子沢山の秀吉、のようなサクセスストーリーだったのでしょうかね。

485 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 01:24:57.07 ID:oV6Lk8FT5
奴国王が70年に奴国大洪水で失脚しますから、
被災地の福岡平野から甕棺墓が消えて、
新伊都に甕棺墓大王が出現しますね。

養蚕に大事なのは、花崗岩の真砂土土壌や温暖な気候と共に、
「平和な世の中」が必須ですね。

弥生時代も変わらず竪穴住居の天井部分で蚕を飼っていたでしょうし、
戦乱などで家屋が破壊されたりする状況だと、養蚕はできないのですね。

よって、倭国乱の時期は、養蚕がしにくくなって、甕棺墓=養蚕有力者が減ったでしょうし、

あるいは難升米の故郷である伊邪國は、定期的に倭国軍が攻めてきて、逃げ回らなければならなかったので、
難升米が司馬懿に話して広志に記録されたように、革を着ていたのですね。

486 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 01:26:05.98 ID:oV6Lk8FT5
紀元前の扇谷遺跡の丹後半島も、花崗岩
紀元後の五斗長垣内遺跡・舟木遺跡の淡路島も、花崗岩

鉄工房を稼働する燃料となる木材が育ちやすい場所をちゃんと選んで建設していたのですね。

>>418
>三輪山、保久良神社、楯築遺跡、など、
>巨岩を並べる磐座、立岩の遺構が残るのは、
>基本的には大倭の輸送拠点跡地と考えられ、

これらも花崗岩の土壌ですね。

銅矛銅剣戦争で、銅剣女王國が滅ぼされたのも、
初代のお方が、豊國岡田ワニで準備してから瀬戸内東征したのも、
専売品である絹の新興生産地を粛清するためだったのでしょうかね。

487 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 01:26:41.07 ID:oV6Lk8FT5
後漢書にて、東夷で養蚕しているのは、倭と辰韓のみですが、
三国志では、倭、?(ワイ)、馬韓、弁辰、とほとんどの国が養蚕を行っています。

公孫氏が養蚕を奨励したのか、
あるいは倭国乱で倭からの絹輸出が減ったことで、半島側でも絹を自給するようになったのか。

いずれにせよ、文献からは、
主な輸出先であった朝鮮半島で養蚕が盛んになっており、
戦乱続きの倭の絹産業は大打撃を受け、甕棺墓=養蚕有力者が消えていったわけですね。

488 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 21:37:49.89 ID:XkPY6nYLZ
>>480
志摩町の支石墓人骨の抜歯形式について、中橋孝博という学者の考えがサイトで見られます。
それによりますと、「抜歯形式では上顎の犬歯、下顎の切歯・犬歯を主とした抜歯痕がみられる」として、
「長崎県根獅子遺跡や佐賀県大友遺跡など西北九州の弥生人骨や西日本各地の縄文集団で流行したもので、かなり在来色の強い形式」としています。

この考えからしますと、海外からもたらされた支石墓を取り入れた新町遺跡の弥生早期の集団が、その墓に彼らの一員で縄文系の抜歯を行った人物を葬ったということになりますね。
このことは、菜畑遺跡などの最初期の水田稲作の集落から出土した土器には縄文系の模様がほどこされていることと軌を一にすることでしょう。
伊都地域の弥生早期(縄文晩期末)の住人は、縄文世界に住んでいた人々だったとしていいのではないでしょうか。

一方では、現在の日本人のYハプロの3分の1がO1b2で、このO1b2はベトナム人などのO1b1と親戚関係にある染色体です。
中国の長江下流域から淮河下流域の水田地帯にはこの両者が住んでいて、淮河の場合は淮夷と呼ばれていたようです。
2900年前の菜畑にやってきたのは、このうちのO1b2の水田稲作民だったと考えることができます。
その彼らは縄文人と混血して人口を増やしていきます。
ですので、彼らは自分たちがどこからやってきたのか、子孫に記憶を残していたのではないでしょうか。

そして、その後、漢の時代に司馬遷が史記をまとめ、その中で周の太伯と虞仲が長江河口付近に領地を得たことが書かれますが、
この事績は当時の役人など知識人に共有された有名な話だったと思われますし、それが話として倭の彼ら水田稲作人にも伝わり、それが彼らの出自の記憶と被さった結果、
「太伯の後」という新たな記憶が生まれたものと考えることができるのではないでしょうか。
そして、魏略に記されますように、魏の使節が邪馬台国の有力者に彼らの出自を質問すると、彼らは「太伯の後」だと告げて胸を張ったということだと思われますね。

489 :日本@名無史さん:2022/12/29(木) 16:16:15.04 ID:wg3t23nwZ
糸島新町遺跡の支石墓など南方系のものの中国での分布は、浙江省〜江蘇省に広がるそうです。

一方、朝鮮半島南部の南方系支石墓や新町遺跡支石墓などは縄文晩期(弥生早期)の時期に当たるそうですので、
ちょうど水田稲作が菜畑などに渡来する時期に重なりますね。
その時期を3000年前頃としますと、この時期は中国では周の5代穆王の在位時期です。
穆王の事績と江蘇省あたりの地方が重なるのは、大規模な淮夷排撃です。
ですので、この淮夷排撃によって淮河下流域から避難した水田稲作民が、菜畑などにやって来たと考えることができます。

江蘇省のその淮夷のいた地方も支石墓の分布域に入りますので、これらの避難淮夷が新町遺跡などに支石墓をもたらした者たちであった可能性を考えることができますね。
このように考えますと、新町遺跡などの南方系支石墓が浙江省温州あたりから直接もたらされたと考えなくてもよくなります。
そして、渡来したこの淮夷の水田稲作民がもたらした南方系支石墓を自分たちの墓として取り入れたのは、在地の縄文人たちであったとすることは可能ではないでしょうか。

このようにみますと、五島列島などの南方系支石墓は浙江省温州あたりから直接もたらされたとするよりは、九州本土から普及したとみることもできますね。
このあたりの考えは、どうでしょうか。

490 :a:2022/12/30(金) 12:19:41.60 ID:cBQKtSHw0
http://www.geocities.ws/setsinrigaku/23.html

491 :日本@名無史さん:2022/12/30(金) 15:07:10.34 ID:XSbDzu0EI
ある意味、社会的自我は抑圧によって形成される。
この抑圧のメカニズムによって形成される自我をアイデンティティと呼ぶことが可能です。
もちろん、強度の抑圧は、その社会的自我をいびつなものにしてしまい、社会適応をむつかしくします。
ここらの抑圧機能の調整が大事です。
調整役のその働き手を名付けるとすれば、それは「他者から与えられる愛情」でしょう。
宗教などもその力の一つでしょうね。

492 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:30:59.95 ID:Pl6QGsmmk
>>489
幅広い考察ですね。

呉の太伯関連ですが、
江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡人骨(春秋時代:前8〜5世紀)と、隈西小田遺跡とで、
ミトコンドリアDNA配列が一致する人骨がありましたよね。

隈西小田遺跡の被葬者が渡来一世とは考えにくいので、
梁王城遺跡人骨と同じ母系の「女性」が渡来してきて、
さらにその女性子孫が産んだのが、隈西小田遺跡の甕棺墓被葬者、
ということになります。

女性を伴う遠距離渡来ということになり、
梁王城遺跡関係者から北部九州に「集団の渡来」があった可能性が非常に高いわけですね。

同様に、
山東省臨錙遺跡についても、最終的には土井ヶ浜遺跡へ、
「集団の渡来」があったのだろうと考えられるわけです。

493 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:32:10.62 ID:Pl6QGsmmk
さらに梁王城遺跡から出土した5000年前の人骨は、
いずれも上顎の側切歯を抜歯しており、
身長180センチ以上の高身長の人も複数いたとのことですから、
弥生人と共通する資質を持っていたことになります。

縄文時代には上顎の犬歯を抜歯していたのが、弥生時代から上顎の側切歯が多くなる。
また安徳台遺跡の甕棺墓被葬者には身長176センチの人が2人いたり、
弥生時代に入ってから高身長になるわけですから、

まあ弥生時代開始時期にこの地域から複数回の「集団の渡来」があったのだろうと
考えられますね。

文献で対応するものとして、上で検討したように、
臨錙遺跡からの「集団の渡来」は徐福が候補になるわけですし、

梁王城遺跡からの「集団の渡来」については、呉の太伯の子孫も候補になってきますね。

>>489
>穆王の事績と江蘇省あたりの地方が重なるのは、大規模な淮夷排撃です。
淮夷の反乱を平定したり、東夷26邦を従わせたのは、
穆王の前の4代昭王(前995-977)とありますから、
菜畑遺跡の開始時期と重なってきます。

あとは石棚墓との関係が焦点になってきますね。

494 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:33:48.18 ID:Pl6QGsmmk
人間の永久歯、ですが、
最大で上下に左右8本ずつ、合計24本ですね。

中央から、
中切歯・側切歯(I:incisor)
犬歯(C:canine)
第一小臼歯・第二小臼歯(P:premolar)
第一大臼歯・第二大臼歯・第三大臼歯(M:molar)
の片側8本ずつ。
第三大臼歯(=親知らず)の生える本数(0-4)は個人差がありますね。

生えてくる順番は遅い方から、
犬歯(11-12歳)>第二大臼歯(12-13歳)>第三大臼歯(17-21歳)


噛み合わせ(咬合)については、
鋏状咬合 現代人、顎が発育不全で上顎前歯が下顎前歯の前にかぶさる
鉗子咬合 縄文人、顎ががっしりしていて上顎と下顎の前歯が同じ位置
反対咬合 病的、咬合不全や発音不全となる

495 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:36:34.07 ID:Pl6QGsmmk
古代の抜歯についてですが、
・縄文人は上顎犬歯を抜歯+下顎
・弥生人は上顎側切歯を抜歯(+下顎)

・上顎中切歯は抜かない
・縄文人の上顎犬歯抜歯は12歳頃
・他の歯は、虫歯でも抜歯していないことが多い
・縄文人の中に、側方の歯列だけ異常に擦り減って(小臼歯〜大臼歯)しかも外に歪んでいる人がいる

抜歯の無い正常歯列を上下左右
MMMPPCIIIICPPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM
とします。

496 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:37:04.14 ID:Pl6QGsmmk
抜歯を?で示すと、

縄文人は両側の上顎犬歯を抜歯するのが基本で、

<0型> 上顎犬歯のみ抜歯
MMMPP?IIII?PPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM

<2C型> 上顎犬歯+下顎犬歯も抜歯
MMMPP?IIII?PPMMM
MMMPP?IIII?PPMMM

<4I型> 上顎犬歯+下顎切歯を抜歯
MMMPP?IIII?PPMMM
MMMPPC????CPPMMM

などいくつかのバリエーションがあります。

弥生人は、土井ヶ浜人でよく調べられていて、
両側あるいは片側の上側切歯を抜歯するようになります。

MMMPPC?II?CPPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM

あるいは

MMMPPC?IIICPPMMM
MMMPPCIIIICPPMMM

等ですね。

497 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:39:09.35 ID:Pl6QGsmmk
抜歯は「古代の歯列矯正」と考えられますね。

抜歯は痛いですし、
古代だと抗生物質が無いので感染症を起こして死ぬ危険もあります。

それでも敢えて抜歯していた理由を考えると、
歯列矯正、が最も当てはまります。

抜歯の風習は、縄文時代には集落によって80-100%だったわけですが、
弥生時代から減少して、甕棺墓被葬者では10-20%。
古墳時代以降はしなくなりますね。
その結果として、歯科治療が発達する前の日本人について、西洋人から見ると、
出っ歯が多い
歯並びが悪い(乱杭歯)〜犬歯が目立つ(八重歯)→吸血鬼などを連想させて怖い
というイメージだったわけですね。
明治時代の西洋の新聞とかに書かれる典型的日本人はたいてい出っ歯ですね。

縄文時代は調理法が未熟でしたから、歯並びを揃えてしっかり噛むことが重要だったわけです。

歯列矯正するのに、現代であれば、
ワイヤーや、マウスピースがありますし、
親知らずが生えてきて他の歯が圧迫される場合には、親知らずを抜歯できます。

縄文時代の歯医者さんが使える手段は、抜歯のみ。
しかも奥歯を抜くのは困難。

なので、前にある犬歯を抜歯して、歯槽骨(歯ぐき)のスペースを空けて、
歯列矯正、親知らずも正常に生えるよう促したわけですね。

498 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:45:33.37 ID:Pl6QGsmmk
抜歯するなら抜きやすい前歯を抜歯するとして、
縄文人は犬歯。弥生人は側切歯を抜歯していましたね。

犬歯の方が大きくて抜きにくいのに、縄文人がなぜ犬歯を抜歯したかというと、
日本人は水平方向に咀嚼
欧米人は垂直方向に咀嚼
する傾向があるとのことですから、
尖った犬歯が水平方向咀嚼時に邪魔だったのですね。

それと、大きい犬歯を抜くことで、歯ぐきになるべく大きな余裕を空けて、
第三大臼歯=親知らず、が正常位置に生えてくる確率を上げて、
第一小臼歯〜第三大臼歯の臼歯群をフルで使う、ことが重要だったのでしょう。

生存率に大きく影響したと。


弥生時代になると、
渡来人がやってきて、調理水準が上がって、そこまで噛み合わせに全力をかける必要が無くなった。
渡来人の歯医者さんもやって来て、側切歯の抜歯を推奨してきた。
つまり、縄文時代に比べると、美容的な意味が強くなり、
医療的にはまあせいぜい親知らず対策くらいが主目的になり、
犬歯よりは小さい側切歯、しかも場合によっては片方だけだったり、
抜歯しないという選択肢も増えたわけですね。

499 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:47:05.70 ID:Pl6QGsmmk
下顎の抜歯については、
縄文時代は、鉗子咬合の人が多かったからですね。

抜歯すると、
横幅のスペースが空くのと同時に、
歯列は口内へ、奥へと倒れます。
傘を閉じると、傘の骨の間のスペースが狭くなるのと同時に、傘の骨が中央へ倒れていくのと同じですね。

縄文人は、鉗子咬合=上顎と下顎の大きさが一緒ですから、
上顎を抜歯すると、上顎の歯だけ奥に移動することで、
下顎の歯が外に位置する、反対咬合になります。

よって、上顎と歯列を合わせるために、下顎の抜歯もしたわけですね。

縄文時代の歯医者さんとしては腕の見せ所で、
鋏状咬合の人であれば、元々下顎のほうが小さいので、しばらく様子を見る、
場合によっては下顎の抜歯は不要。これが0型ですね。

鉗子咬合の人は、口の中を覗き込んで、
第二大臼歯の奥に十分なスペース=親知らずが生えるスペースがあるなら、
抜歯を見合わせるが、
基本的には下顎を抜歯しておいたほうがいい。
2C型などになります。

500 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:50:21.46 ID:Pl6QGsmmk
大事なのは上顎の中切歯2本、ど真ん中の2本ですね。
これが正常でないと、サ行やタ行が発音できなくなります。

上顎よりも下顎の歯が小さいですから、
上顎の中切歯2本には、下顎の中切歯側切歯4本ともが当たります。

上顎の犬歯を抜歯した後に、下顎切歯が上顎中切歯を押す形になってしまった場合、
放置して、
上顎中切歯が前に飛び出る(=極端な出っ歯)になってしまうと、
発音障害をきたします。
もちろん見た目も酷いものになりますね。

ですから、上顎中切歯が押されている程度に応じて、
下顎切歯群を左右対称に抜歯して、歯列矯正を調節したのですね。
2I型や4I型になります。


ちなみに、古代に世界の他の地域において、上顎中切歯2本の抜歯例がありますが、
これは刑罰や奴隷などでしょうね。

501 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:51:35.55 ID:Pl6QGsmmk
縄文集落で、上顎犬歯の抜歯率が、80%の集落と、100%の集落がありますが、
歯医者さんの差ですね。

見立てのいい歯医者さんがいる集落は、
11歳時に、上顎の歯の大きさと、歯ぐきの広さを確認して、
親知らずが生えるスペースが十分にあるなら、抜歯せずに様子を見る。

縄文人だって人ですから、
無駄な抜歯をしないですむなら、それに越したことは無かったわけです。

歯医者さんがいなかったり、
先代の歯医者さんが、奥義を伝授する前に亡くなったり、
歯医者そのものが、面倒くさがりだったり、
といった事情のある集落だと、
とりあえず12歳になったら全員の上顎両犬歯を抜歯しておいたのでしょう。

502 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:56:03.17 ID:Pl6QGsmmk
>・縄文人の中に、側方の歯列だけ異常に擦り減って(小臼歯〜大臼歯)しかも外に歪んでいる人がいる

プラントオパールで明らかになっているように、
縄文人が稲、アワ、ヒエ、などのイネ科の雑穀を食べていたからですね。

ちなみに、岡山県の彦崎貝塚からは、
イネ、コムギ、オオムギ、キビ、ヒエ、モロコシ、シコクビエ、といった、
「複数の」プランオパールが出土しているので、
「栽培していた」ことがわかりますね。

ヒエだけ、などわずかな種類だけ食べていたのならば、
集落近くにたまたま原生で生えているものを採集した可能性がありますが、
これだけ多種類の物を食べていたということは、
各種の雑穀を人間が集めてきて、畑で栽培していたことを示しています。

食事の話に戻ると、
縄文時代は器具が未発達ですから、
脱穀、籾摺り、精米などをしようと思っても、莫大な労力と時間がかかったわけです。

集団の構成人数が少ないので、分業体制が確立しておらず、
狩猟採集その他、毎日やらなければならない作業が山のようにあったので、
炭水化物に関しては、平常時には穂のまま食べていたのですね。

503 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:57:53.76 ID:Pl6QGsmmk
例えば稲なら、茶碗1杯が2株とのことですから、朝に4株くらい持って、
仕事に出かけます。

で、歩きながら、そして仕事をしながら、食事をしていたわけです。

穂を1本むしり取って、例えば右手に茎を掴んで、穂を横向きにくわえます。
で、右の上下臼歯群で茎を噛みながら、茎を右手で引っ張り抜くと、
籾だけが口の中に残りますね。
これを数回繰り返して、籾を全て口の中に回収します。
脱穀ですね。

口の中に籾が溜まったら、ゆっくり咀嚼して、
臼歯群で籾を割っていきます。

籾を割りながら唾液をまぶしていくと、
中の米部分に唾液が浸透してゆき、次第に柔らかくなって、
ガムのようにくちゃくちゃ咀嚼して、でんぷん質を練り出して接種したのですね。
チューインガムを噛んで、糖分だけ接種するイメージです。
籾摺りですね。

十分に時間をかけて、中身の米を溶かして接種して、甘い味が無くなったら、
籾だけの残りかすを吐き出して、(歯みがきにもなる)
また穂をちぎって、次の脱穀へ。

504 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 22:58:37.55 ID:Pl6QGsmmk
仕事をしながら、口の中では脱穀籾摺り調理食事歯みがき。
これを日中ずっとやっていたのでしょう。

男性で力が強くて、せっかちな人は、
こち亀の両さんのように、
歯を食いしばって一気に茎を抜き取るパワフルな脱穀を繰り返した結果、
長年のうちに、
>・縄文人の中に、側方の歯列だけ異常に擦り減って(小臼歯〜大臼歯)しかも外に歪んでいる人がいる
になったのですね。

日中ずっと籾をくちゃくちゃやって、
日が傾いて来たら集落に帰って、
肉や魚を焼いて食べたり、野菜を食べたりしたのでしょう。

505 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:02:16.43 ID:Pl6QGsmmk
この食事方法の場合、
例え集落の倉庫に稲穂を保管しているにせよ、

その大半は朝に株・稲穂ごと持ち出して、
集落の外で仕事しながら茎も籾も吐き出して、
そして帰って来ますから、

例えば集落で脱穀その他をするようになった後世に比べると、
縄文集落から出土するプラントオパールの量は非常に少ないものになりますね。

506 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:03:44.79 ID:Pl6QGsmmk
細かいことを詰めると、
小臼歯を失っている人は若くして亡くなっている人骨が多いのですね。

臼歯列を5分の1失いますから、
臼歯列で穂から脱穀する効率や、籾をすりつぶす効率が落ち、
栄養摂取率が落ちて寿命が短くなったのでしょうね。

縄文時代に結婚相手を選ぶときは、前歯ではなく、
臼歯の本数をチェックしたことでしょう。


一方で、調理した跡も見つかるわけですが、
縄文集落では身分差がそこまで顕著ではありませんね。
戦争も無い平和な時代ですから、
我々の社会と同じ考えで行くと、

身体障害者や乳幼児、そして高齢者、のために、
石器で脱穀、籾摺りをしてあげて、せめて玄米の状態にして、調理したものを
毎日出してあげていたのでしょうね。

507 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:05:32.39 ID:Pl6QGsmmk
山鹿貝塚の古代女王は抜歯をしていませんね。

これはつまり、彼女たちを共立している勢力というのがそれなりの大勢力であり、
共立女王たちは、ちゃんと脱穀籾摺りされた食事を毎日献上されていた、
ということでしょうね。

後の甕棺墓被葬者の抜歯率が低いのも同様の理由ですね。
養蚕で裕福なので、きちんと調理された食事を食べる生活が代々保証されており、
歯の大きさ対歯ぐきの広さ比率がよほど悪い人や、
親知らずが生えてきて痛みがひどい場合、
などだけ抜歯したのでしょう。
その代わり、後の日本人同様、歯並びは悪かったでしょうけれども。

あと、出土する人骨は身分の高い人がほとんどですから、
一般人の抜歯率はまだ相変わらず高かっただろうと思われますね。

508 :日本@名無史さん:2023/01/03(火) 23:25:29.68 ID:Pl6QGsmmk
>>500
>上顎中切歯が前に飛び出る(=極端な出っ歯)になってしまうと、

ああ、逆でしたね。
この場合も反対咬合が問題で、上顎中切歯が下顎切歯より後ろになってしまうと
様々な問題が発生するので、
下顎切歯を抜歯した、ですね。

509 :日本@名無史さん:2023/01/04(水) 23:03:24.95 ID:EHG+ejYBd
>>488
>一方では、現在の日本人のYハプロの3分の1がO1b2で、このO1b2はベトナム人などのO1b1と親戚関係にある染色体です。
>2900年前の菜畑にやってきたのは、このうちのO1b2の水田稲作民だったと考えることができます。

それは強引すぎるでしょうね。

O1b1とO1b2に分岐したのが約3万年前と言われています。
それで現在、O1b1がインド〜ベトナム〜中国、O1b2が日本〜朝鮮半島〜北東アジア
に分かれています。
(曹操はO1b1)

>中国の長江下流域から淮河下流域の水田地帯にはこの両者が住んでいて、
これは単なる推測の一つであって、ハプロタイプを調べた裏付けはありません。

3万年前にDNA上で分かれたO1b1とO1b2が、
3千年前にどちらも長江〜淮河で稲作していて、
そのうちO1b1だけ中国に留まり、
O1b2だけが日本などに稲作を伝えて、稲作できない寒冷地域へ拡散していった・・。

かなり厳しいストーリーですね。

510 :日本@名無史さん:2023/01/04(水) 23:05:08.64 ID:EHG+ejYBd
Y染色体ハプログループは取り扱い注意ですね。

今後、より細かい分岐まで解析されるにつれ、
数回のどんでん返しがあるものと予想されますね。

例えば、O系統であっても、O1bまでしかわかっていない段階であれば、
長江で稲作をしていたO1bが、朝鮮半島経由で日本に稲作を伝えたんだ!
で科学的に終了していたわけですね。
それがO1b1とO1b2に分かれていて、O1b2が稲作とは関係ない地域へ拡散しているので
状況が変わっている。


現時点での単なる印象としては、出アフリカして、
まずCが来て、当時渡れたアメリカ大陸やオーストラリアへ渡っていった

次に我らがDが来て、チベットや日本へ分岐したが、
その頃にはアメリカ大陸やオーストラリアは渡れなくなっていた。

臨錙遺跡からの徐福集団は、女系ミトコンドリアDNAにて白人と同じ系統と判明したので、
男系Y染色体も白人C1A2と近い、
C1A1なのだろう。

O1b2が奴族。

O2が中国からの渡来人の本流。

「日本に来ていないO1b1」は長江〜淮河の稲作に関与しておらず、
O1b1とO1b2は3万〜2万年前に中国からそれぞれ南北に一旦追い出されたのだろう。

511 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 00:23:45.19 ID:DjSPxjpqr
>>493
菜畑などで出土する山ノ寺式土器の年代調査では、前930年〜前860年頃という年代が考えられているようです。
また、ウィキの「菜畑遺跡」では、最下層の水田の年代を前930年頃としているようです。
そこで、前930年と周王朝の王の在位年代と重なる王を見てみますと、穆王(前976年〜前922年)がこれに当たります。
一方、昭王の在位は前995年〜前977年となっています。
穆王は、在位37年目に淮夷を率いる徐偃王を楚に命じて討伐させます。
この年は前939年になりますので、その9年後頃に菜畑で水田稲作(前930年)が始まるように計算することができますね。

このようにみますと、昭王の在位期間と菜畑の水田稲作開始年代とは、時間にやや開きがあるようにみえますね。

512 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 20:51:34.13 ID:DjSPxjpqr
>>509
このYハプロから見る種族関係は、非常に面白いですね。

O1b1とO1b2が分岐したのは3万年前頃とされていますが、
この両者の生活圏が全然別であったかどうかの点については、まだ誰も指摘していません。
そこで、注目の淮河流域を見て見ますと、三国時代の魏の始祖となった曹操の墓が見つかっていて、
その墓の人骨のY遺伝子を調べたところO1b1a2aという結果が出て、曹操のYハプロはこのO1b1a2aだったとされています。
そして、曹操が出た曹一族が住んでいたのは、江蘇省の徐市あたりだったとされています。

一方、ベトナムの主要なハプロはO1b1a1aで、このハプロの原郷は長江の南の江西省や広東省あたりとされています。
ベトナムのO1b1a1aと曹操一族のO1b1a2aは非常に近いハプロですので、双方は元々はこの長江の南のあたりにいた種族を祖先としていることが想定されます。
そうしますと、曹一族は長江流域を越えて北の江蘇省へ移動したO1b1a2a系の一派の中の一族というふうにとらえることもできそうです。

そして、日本に水田稲作をもたらしたとされますO1b2の水田稲作民は、非常に遠いところからゃってきたとは考えにくいですし、
最も近い水田稲作地帯が江蘇省の淮河下流域であることを考えますと、
曹一族が属した徐州あたりのO1b1a2aの種族と菜畑のO1b2の水田稲作民は、ごく近くで共生していたと考えることが可能になります。
このことからしますと、遺伝子の分岐自体は3万年前とされますが、その分岐した二つの同系種族はごく近くに住み続けていたと考えることも可能なのではないでしょうか。

O1b1a2aの曹一族が江蘇省の徐州あたりに住んでいたことを特殊な例とするか、それともごく普通のことだったとするかで考えは相当違ってきますが、どうでしょうか。

513 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 21:53:43.25 ID:DjSPxjpqr
>>510
中国で高身長の地方は、満州と山東省が有名ですね。
山東省の出身の孔子も高身長だったとされています。
山東省の臨?遺跡の人骨がコーカソイドだったとされていますが、
この山東省の種族のルーツと関係がありそうなのは、Y-R1bですね。
R1bの言語とされるケントゥム語は、西ヨーロッパと中国西域のタリム盆地北縁あたり(天山南路)に確認されているようです。
タリム盆地北縁の言語は、トカラ語と呼ばれています。
8世紀頃まで存在していたとされていますね。

臨?遺跡の人骨がコーカソイドとしますと、このR1bのトカラ語話者と関係してくるように思われます。
この臨?市のある山東省が現在でも中国で高身長のトップ級の地方であることと、古代の西域タリム盆地北縁のR1b種族の存在は、
なにか関連があるのかも知れません。
タリム盆地北縁あたりの原住種族が山東地方へ移住した、というような記録はないのでしょうか。

514 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 00:09:29.51 ID:vvsMCyz1J
現在の山東省の人のYハプロが詳細に調べられているようで、QとRがそこそこ見られるようですよ。

515 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:43:32.34 ID:jMqI6ECGN
>>511
なるほど。
土器年代の精度が気になりますが、そうであれば、
それこそ西北九州→菜畑の順番だったからこそ、そのタイムラグが生じたのではないでしょうか?
支石墓に副葬された土器も西の方が古い傾向がありますし。

支石墓の下の埋葬部分については、
支石墓を伝えた集団の本来の形式が箱式石棺墓。
在地の縄文人は元々木棺墓。(支石墓の土壙墓は木棺が消失しただけ)
支石墓+木棺墓の形は、単に我々の墓石のような感覚で支石を一時取り入れただけだったと。

よって、支石墓を伝えた集団は支石墓+箱式石棺の形式が無くなった時点で在地の縄文社会に帰化同化したと考えられますね。
そうなると、吉武高木大王もそうだったと。

呉の太伯の子孫がいたとすれば、ワニの方に吸収されたのかもしれませんね。
同じ石棺墓系で、ワニ女系社会に婿入りして、吉武高木王家の外戚になったと。

「諸國文身各異 或左或右或大或小 尊卑有差」ですから、血統の記憶は残っていたのかもしれません。

516 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:44:28.43 ID:jMqI6ECGN
ハツカネズミのミトコンドリアDNA解析で、
約4000年前に、CAS(南アジア系)が中国南部から。
約2000年前に、MUS(北ユーラシア系)が朝鮮半島から。
それぞれ渡来したと判明しましたね。

CASは、
西で分岐しながら次第に東に拡大したのではなく、
先に日本列島そして南樺太まで一気に分布してから、各地でそれぞれ分岐していったそうです。
西日本、東北、北海道、南樺太、の4グループがそれぞれでクラスター発展したそうですね。


後からやってきたMUSの方が強かったようで、
現在は東北地方までくらいMUSが主流で、CASの遺伝子は吸収される形になっているそうです。

517 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:45:29.54 ID:jMqI6ECGN
そこで妙なのが、なぜその時に朝鮮半島にもCASが渡らなかったのか。

4000年前の時点で朝鮮半島にMUSがいて強かったから、CASが入れなかった、とするなら、
その時点で逆にMUSも渡来してきたはずですね。

渡海距離で考えるなら、対馬海峡の最大渡海距離が54kmくらい。
宗谷海峡が48kmであまり変わりませんし、
南西諸島経由だと100km以上の渡海部分が複数あり、宮古島と沖縄本島は240kmも離れています。
ですから、渡海距離が原因でもない。

ツシマヤマネコに捕食された可能性も考えましたが、それだと2000年前にMUSが来れたのが妙です。
それに南西諸島にはイリオモテヤマネコがいますし。

518 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:46:20.14 ID:jMqI6ECGN
それでよくよく調べてみると、
考古学的には8000年前から4000年前には極端に人がいなかったそうですね。

ハツカネズミは家ネズミですから、人間の集落に依存して生きている。
だから、人間がいないと食べていけないので、
伝播しなかったわけですね。


ハツカネズミが襲来して困った縄文人が、
まだ汚染されていない土地を求めて逃げてきた。
のではないでしょうかね。
時期が一致します。

519 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:47:15.77 ID:jMqI6ECGN
プラントオパールが出土しているのですから、
少なくとも6000年前には日本に稲が伝来していた。

縄文人はイネ科の各種雑穀と一緒に稲も育てていた。

上で推論したように、抜歯風習のそもそもの目的が、
イネ科雑穀を効率よく食べるためだったのであれば、
抜歯開始=イネ科雑穀の栽培開始。
稲の伝来が少なくとも6000年前で、抜歯縄文人は当然稲も栽培していた。

他のイネ科雑穀と比較して、稲の何が優れているかというと、
保存性ですね。
精米せずに保管すると、何年かもつ。

天候不順などの凶作対策で、複数種類のイネ科雑穀を栽培して
リスク軽減をしていたのでしょうけれども、
保存のきく稲は重視されていた筈で、稲があったからには、
水田遺構が見つかる可能性も高いですね。

520 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:48:47.68 ID:jMqI6ECGN
稲が伝来してから数千年の間、縄文社会はイネ科雑穀を栽培して繁栄していた。

そこに、4000年前ハツカネズミが襲来してきたわけですね。

ハツカネズミは高い登攀能力を持ちますので、
縄文社会の倉庫は格好のえさ場になって、食い荒らされたのですね。

土器に蓋をして保管するしかありませんが、
稲穂を倉庫に山積みにするのに比べて、
保管できる量が極端に減りますね。

食料をストックできなくなると、集落で維持できる人数も激減して、
数千年かけて築き上げてきたムラ社会が崩壊したのでしょう。

保存がきく、という稲の長所も生かせなくなって、
稲作が衰退します。

ハツカネズミの出現によって、食料を奪われ汚染されて、
・三内丸山遺跡は約4000年前に途切れたし、
・縄文時代後期に、日本列島の人口は26万人から8万人に激減した。

ですから、水田遺構を探すのであれば、
2000年前-4000年前の遺跡ではなく、
むしろ
4000年以上前のなるべく古い遺跡の周辺を探した方が見つかるかもしれませんね。

521 :日本@名無史さん:2023/01/06(金) 04:49:40.21 ID:jMqI6ECGN
縄文時代に既に稲作はなされていた。

ハツカネズミがやって来て、食料の長期保存ができなくなり、稲作が衰退した。

支石墓渡来人が伝えたのは稲作ではなく、
『ねずみ返し』
だったのですね。

『ねずみ返し』が伝えられたことにより、
食料の長期保存が再びできるようになって、
稲作が再度栄え始めた、わけですね。

なので、鹿児島まで30年、青森まで200-300年という超スピードで稲作が広まったのは、
稲作の土台は6000年以上前に元々できていて、
ハツカネズミによって一時中断していたのが、
『ねずみ返し』の伝来によって、再開したからですね。

『ねずみ返し』の伝播速度を見ている、と考えれば超スピードが理解できます。

522 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:36:51.39 ID:JigDkZuWg
稲DNAのSSR多型a〜hの分布
中国大陸:abcdefgh
日本列島:ab(c)
朝鮮半島:acdefgh

SSR多型はDNA配列の中の無意味な非使用部分ですから、
稲の性質には関係がなく、
DNA検査をしない限り、a〜hのどの型か知ることはできません。

よって、日本列島にabしか伝わっていないということは、
中国からの「ごく少量の稲」が日本で栽培されて日本列島へ広がっていった、
ということを意味しますね。

中国の田んぼ一面の稲を全部持ってきて、日本に植えると、
当然a〜hのより多くの種類が混ざってしまいます。

計算しやすいように、a〜h8種が同じ割合と仮定して、
1種類(b)だけ持ってきたいなら、1割る8を繰り返すので、
稲1本だと100%。
稲2本だと12.5%
稲3本で一気に1.7%
まで確率が下ってしまいます。

2種類(ab)が同時渡来にハードルを下げたら、1割る4になって、
稲2本で100%
稲3本で25.0%
稲4本で6.3%

523 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:38:01.53 ID:JigDkZuWg
これが何を意味しているかというと、

@ごく数本の稲
確率論的に、日本列島に伝わった稲は、
1〜3本の稲を最初におそらく九州西部で植えて、
それを栽培したものを増やして、日本列島全体へ広がっていった。

A伝来稲の作付けは1回だけ。
可能性としては、1本だけ伝来が2回(bのみなら12.5%)か2-3回(abなら25%)もありえますが、
100%vs12.5〜25%ですので、
1回だけと考えていいでしょう。
つまり、
初回に、bのみとすればほぼ1本。abとすれば1〜3本。の稲を九州の地に植えて、
それが比較的短期間に九州縄文人の間に広まった。

ので、
その後、中国から稲(a〜h)が渡来した時には、
稲?ああ、もううちの畑にはありますよ。
ということで、新たに作付けされることは無かった。

ということになりますね。

524 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:40:38.34 ID:JigDkZuWg
>>502
日本列島は緯度からしても野生稲は存在せず、
栽培稲が渡来するしかないわけですね。

栽培稲は籾が弾けない=自力では生息範囲が広がりにくい
=人間が栽培しないと広まらない
わけですから、
日本列島だと、稲のプラントオパールが出土する時点で、
人間が稲を栽培していたことは確実ということになります。

これが中国南部や東南アジアだと、稲の自生のものが存在するので、
プラントオパールが出土しただけだと、
栽培していたかどうかは言えない、という違いがあるわけですね。

よって、日本列島においては、
・SSR多型でabしかない=1-2本の稲から栽培開始して、少なくとも九州では一気に広まった
・原生稲がない=人間が栽培しないと広がらない
という2条件が成立するので、
方程式を解くがごとく、6000年前に岡山県で稲のプラントオパールが出土したなら、
自動的に、
6000年前には、九州全域+岡山県までの瀬戸内で、稲作が開始されていた、
ということになります。

525 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:46:38.84 ID:JigDkZuWg
そしてなぜに稲栽培が一気に広まったかを考えると、
同じイネ科の雑穀、つまりヒエ、アワその他が、既に栽培されていたからですね。

イネ科雑穀が栽培されていて、主食になっていたから皆抜歯していた。
栽培のノウハウが確立していた。

だから可食部分が大きくて、しかも保存が効く稲が伝来すると、
各地でもてはやされて、
最初の1本をあっという間に増やして、各地で栽培されたのでしょう。

あとは水稲が初回セットで伝来したか、後続の渡来人が伝えてくれたか、
(中国農民一人来てくれたら伝来なのでハードルは非常に低い)
はたまた温暖湿潤な日本列島であれば、縄文人が自然に開始したのか、
といったところになりますね。

526 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 10:48:47.25 ID:JigDkZuWg
朝鮮半島から稲が伝わる可能性があるとしたら、遠賀式土器の時ですね。

突帯文土器が近畿まで。北へ抜けられていない。
次の遠賀式土器が東北まで行った。

要するに、
3000年以上前に近畿より北で稲のプラントオパールが見つかれば、
縄文時代に既にabとも来ていて、縄文人の品種改良で稲北進を果たしていて、
遠賀式土器の北進を勢力的政治的なものと考える。

3000年以上前は北に稲がなかったのなら、
朝鮮半島の稲を入手した遠賀式土器勢力が北進したことになります。
その場合は、もともと縄文bがあって、そこに「弥生aのみ」が加わることになるので、
持ち込まれたaは当然1本1回だけ。
(2本だと確率が1/7=14.3%まで下がります)

そして近場なのに1本だけしかもたらさないなら、
集団集落としての渡来入植ではない可能性が高い、ということですね。

527 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:27:42.47 ID:JigDkZuWg
新町支石墓群
 24号支石墓
  木棺墓・低身長抜歯屈葬・突帯文土器壺
  左大腿骨頸部に柳葉形磨製石鏃が嵌入
  首級も埋葬

長野宮ノ前遺跡
 12号支石墓
 木棺墓
 遺体の胸部と思われる箇所から柳葉形磨製石器2とどめをさすように交差

志登支石墓群
 6号支石墓 打製石鏃6
 8号支石墓 柳葉形磨製石鏃4

三雲加賀石支石墓
 組み合わせ式木棺墓・翡翠管玉12
 柳葉形磨製石鏃6

井田用会支石墓
 隣接する石棺から柳葉形磨製石鏃1

528 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:29:17.32 ID:JigDkZuWg
支石墓には副葬品自体が稀なのに、
ごく一部に石鏃が入っていて、
埋葬状況がわかる2つは戦死に伴うものですから、

支石墓勢力、正確には糸島地方の支石墓勢力は、
柳葉形磨製石鏃勢力と交戦した可能性が高いということになりますね。

可能性だけならば、
朝鮮半島から渡って来た支石墓勢力が、元の朝鮮半島勢力と仲違いして、戦った。
とも考えられますが、

西北九州が九州支石墓の初発で、
壱岐対馬に支石墓が無いことからすれば、
まず西北九州に中国から直接渡来した集団が支石墓をもたらして、
在地の縄文勢力に次第に溶け込みながら、
ねずみ返しの普及による稲作再開と稲生産量の増加、
養蚕の開始、
などを普及させつつ北部九州を国家勢力として発展させ、
鉄資源と、中国へのルートを求めて、対馬海峡ごしにいわゆる異文化交流を開始した。
とも考えられますね。

またこの場合も、
九州西岸と朝鮮半島西南への、共に中国の同じ地域からの漂着渡来なので、
当然似通った部分が多くなる、ということにもなります。

529 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:31:15.94 ID:JigDkZuWg
>>489
太伯集団が、昭王の大規模東征南征に遭って、
台湾へ疎開、あるいは台湾からさらに南西諸島へ疎開中に、
台風などで遭難して、
その一部だけがなんとか島原半島などに漂着して、保護された。
とも考えられるわけですね。

であれば、集団の計画的一時疎開だったので、
蚕紙(休眠卵)や桑も持参していた、
可能性が高いことになります。

支石墓の主体が、当初の箱式石棺墓から、
木棺墓抜歯縄文人になっていって、
支石墓が消えて、
吉武高木遺跡には、木棺墓大王+甕棺墓近衛兵、の組み合わせになりますから、

支石墓+石棺墓=渡来直系勢力は、元々十数人や数十人の比較的少人数で、
重要人物が討ち死になどで死去したりして、

甕棺墓養蚕有力者の一部や、豊国系石棺墓の一部などとなって、
血縁者が吉武高木勢力や豊国ワニ勢力に溶け込む形で残ったのではないか、
と予想されますね。

530 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:33:00.48 ID:JigDkZuWg
>>476
大分県南部の内陸にも花崗岩の表層地質があるのですが、
ここにも豊後大野市の平石遺跡から甕棺墓が出土しているらしいですね。

甕棺墓の主要分布域からこれだけ離れた花崗岩の土地からも
甕棺墓が出る=養蚕していた、
ということは、
甕棺墓勢力=養蚕勢力というのは、九州縄文人が強く関与しており、
数千年の間、九州で暮らしていたので、九州の土壌を隅々まで知り尽くしていたということですね。

ただ、平石遺跡も対馬海峡から遠いので、輸送コストの問題で、
背振山系の甕棺墓密集地帯との競争に勝てず、甕棺墓がすぐに撤退したということでしょうか。

あとは九州の花崗岩土壌だと宮崎県の日向市ですかね。
甕棺墓があるとしたら。
対馬海峡からは最も遠いので、厳しいかもしれませんが。

ただ、甕棺墓養蚕とは関係なかったとしても、
やはり花崗岩の土壌だから、後の日向勢力が入植していったのでしょうかね。

531 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:33:44.71 ID:JigDkZuWg
甕棺墓も土器ですから、形式は似ていて、

刻目突帯文 ※原山支石墓群は刻目突帯文のみ、弥生なし

板付T

伯玄社

金海  ※吉武高木遺跡

と変遷していきますね。

<刻目突帯文〜伯玄社> 初期
<金海〜城ノ越〜汲田> 吉武高木王家
<須久〜立岩古式>   甕棺墓大型化・副葬品豪華に
<立岩新式〜桜馬場〜三津> 三雲井原大王時代

532 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:34:50.28 ID:JigDkZuWg
刻目突帯文時代の甕棺墓分布域は、支石墓の分布域とほぼ同じですね。

糸島平野や糸島半島西側に分布していますし、
大友遺跡にも夜臼式のが入っていますが
高祖山を越えた東には、早良区にごくわずかに出土しているだけです。
また背振山系の南では、鳥栖市が東限です。

伯玄社時代になって、いわゆる後の「奴国領域」に入っていって、
背振山系を取り囲む甕棺墓密集地帯が早くも完成します。

新たに入っていった「奴国領域」が、
春日市〜小郡市〜久留米市〜旧山門郡〜菊池郡
ですね。

533 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:35:52.88 ID:JigDkZuWg
九州には、考古学的にも文献でも女性指導者が多いわけですね。

縄文時代については、
男性は、狩り、舟で漕ぎだす漁、畑の種まき前の掘り返し作業
女性は、採集、素潜り漁、畑の手入れ、土器製作
を主に分業していたはずですね。

そうなると、縄文時代の九州集落のほとんどは海に面していますから、
男性リーダーは、「舟で漕ぎだす漁」を指導する場面が多くなるので、
天候不順などで遭難する危険性が高かったわけですね。

ですので、集落周辺に留まっている女性を村長にしたほうが、
村長に不測の事態が起きる危険性が低くて、組織の動揺が少なくて済むので、
女系指導者社会となっていったわけでしょうね。

その流れのまま、弥生時代が始まって、
甕棺墓養蚕時代に突入したので、
今度は女性が養蚕機織りをすることになって、これまた女性が外貨獲得の稼ぎ頭になって、
女王制度が続く下地になったのでしょうね。

534 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:36:42.87 ID:JigDkZuWg
>>179
難升米が司馬懿に自らの故郷について話したことから、
伊邪國(伊耶國)が今の長崎県。


倭国の官の頂点が爾支(ニギ)、その下の地方官が卑狗(ヒコ)
倭国周囲の倭国領外の官が彌彌(ミミ)

その原型は、
伊邪國(伊耶國)の複数部族を束ねていた大首長が(爾)支

伊邪(伊耶) ノ (爾)支

伊邪國(伊耶國)と血縁同盟することで、
伊邪國(伊耶國)から見ると領外の女大首領が、

伊邪(伊耶) ノ (彌)彌

535 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:37:26.75 ID:JigDkZuWg
>>427
古代豊國に、西の古代出雲國と東の古代伯伎國があって、
八雷神がいて、
山鹿貝塚女王を共立していた。

それと同様に、
古代伊邪國があって、長崎県〜佐賀県福岡県西部〜熊本県北西部の範囲で、
複数部族がいて、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支 を戴いていた。

おそらく男王だった、
「<伊邪(伊耶) ノ (爾)支> 之所都」 = 「伊都」

536 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:38:58.95 ID:JigDkZuWg
太伯集団は伊邪國の島原半島に漂着して、現地縄文人に保護された。

伊邪國縄文人は、伊都へ使いを出して、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
に報告した。

文字が無いので詳細は伝わらず、数十年おきにあるいつもの単身漂着者と思われて、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
からは、親切にしてやれ、とだけ命がきた。

一命をとりとめた太伯一行は、未知の島国で何の地理的状況もわからず、
とりあえずは生きていかなければならないので、
島原の縄文集落に混じって、生活を始めた。

島原の集落民が、ハツカネズミに苦しめられているのを見て、
ねずみ返しを作って倉庫につけてあげて感謝された。
稲は島原集落の畑にあったので、持参金属器を使って水田を作って増やした。

持参した桑枝を刺し枝して茂らせ、(桑は成長力が旺盛)
翌年に四眠蚕の休眠卵を孵化させて、養蚕を開始した。

養蚕の維持と、
助けてくれた島原縄文人に迷惑をかけないように、自分たちが食べる分の稲を育てるのとで年月が経過した。

537 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:39:48.33 ID:JigDkZuWg
年月が経過してようやく、
島原に漂着した太伯集団が何やら凄いらしいという噂が、
伊都の
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の耳に入り、
太伯集団のリーダーが召喚された。

ねずみ返し、養蚕、水田、金属器、が
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
に伝えられた。

ここに伊邪國・伊都の弥生繁栄がスタートした。
菜畑遺跡。


刻目突帯文の出現については、
必ずしも水稲の開始と同期する必要はありませんよね。

もちろん水稲の開始と一緒に伊邪國で開始されたのかもしれませんし、
ねずみ返しの方が先に東方へ広まってから、
刻目突帯文は東方のどこかで誰かが始めて、それが西でも取り入れられた、
でもいいわけです。

538 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:40:45.20 ID:JigDkZuWg
刻目突帯文時代に、
伊邪國の、伊邪(伊耶) ノ (爾)支 と、
古代豊國の、山鹿貝塚女王系と、
が婚姻同盟して、

能古島に水軍を集結させてから、

>>479
>>532
春日市〜小郡市〜久留米市〜旧山門郡〜菊池郡にいたであろう、
「中間の縄文勢力」を挟撃したことになりますね。


能古島に水軍を集結させたということは、
「中間の縄文勢力」もまた、複数部族の寄り合いだったでしょうが、
その大首領が、
おそらくは那珂川流域の春日市の伯玄社遺跡にいたのでしょうね。

539 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:41:24.37 ID:JigDkZuWg
伯玄社時代になって、
北部九州は、
伊邪國の男王 伊邪(伊耶) ノ (爾)支 と、
古代豊國の女王 伊邪(伊耶) ノ (彌)彌 によって治められていた。

伊都の範囲は東に広がり、
高祖山を挟んで、
東に、ひのもと(>>291
西に、ひむかい

540 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:42:05.22 ID:JigDkZuWg
数千年暮らしてきた九州の土地を知り尽くしていた
伊都上層から、
九州では銅や鉄を入手できない
だが半島南東部には鉄産地があるらしい、
と知った太伯集団が、侵攻を献策。

海峡を渡海しての侵攻が始まる。

541 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:42:46.43 ID:JigDkZuWg
投馬國を支配下に加えたことで、
旧来の縄文系寄り合い所帯から進化して、
より中央集権を高めた、
吉武高木大王が誕生。

ただし、吉武高木大王は、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
のみから産まれているので、

吉武高木遺跡には、木棺墓大王と、甕棺墓近衛兵。
石棺墓ワニは、対馬海峡管理など海上検閲を担当(大率の前身)

542 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:44:36.88 ID:JigDkZuWg
吉武高木大王の王族将軍が、
半島の鉄産地の占領を目指して出征したが、
鉄器の上流を完全占領するのはさすがに難航したため、

鉄資源の入手ルートだけは確立してから、
日本海沿岸統一へ変更。

金属製武器の優位性によって、中ノ浜遺跡などの日本海沿岸縄文勢力を制圧し、
丹後半島に花崗岩の真砂土地域を見つけて、
扇谷遺跡を建設運営。

吉武高木大王に至高の鉄剣を献上。

543 :日本@名無史さん:2023/01/07(土) 19:45:44.77 ID:JigDkZuWg
オー月ヒメの話は、つまり、

吉武高木大王としては、
国家として、租庸調を徴収したい。

しかし縄文時代からのしきたりは、複数部族の共存共生であり、
新たな中央集権に反対する、地方女性領主を、粛清したイベントがあったのですね。
おそらくは伊邪國の有力女性領主。

で、その土地を接収して、
養蚕して、稲作して、粟小豆麦大豆も育てて、
それらを国家として徴収したうえで、

>>482
神a派に渡して、燕国あるいは衛氏朝鮮と交易したわけですね。
青銅器を入手するために。

544 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 06:24:05.90 ID:EoVxFA56k
仮説としては、
縄文時代に文字は無いので、
北部九州の縄文人が、北部九州全体を呼んでいた地名がやまと。
やまとの中に、勢力名あるいは地名として、いざ、いずも、ほうき、などなど。
自分たちが何人かと聞かれたら、やまとびとであり、いざの人やいずもの人がいた。

そこに、倭(ワ)の倭人(ワじん)が渡来。
やまとびとに帰化同化して溶け込んでいく。

漢字も知っていたので、やまとの言葉や地名に宛てていく。
やまと に宛てたのが、倭。

だから「倭」に音読み訓読みそれぞれの意味ができて、
倭 ワ 中国にいた倭ワの末裔
倭 やまと 北部九州の縄文以来の地元自称名。

中国人からしたら、倭=ワで、太伯の末裔を連想させる。
倭人からしたら、倭=やまと。

史上初めて中国で「やまと」と発音したのが、師升で、
居合わせた後漢書記がそれを聞いて宛てたのが「倭面土」。
逆に、魏人張政が倭国に出張してきて、現地人が「やまと」と発音するのを聞いて、
宛てたのが「邪馬台」。

545 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 13:39:52.74 ID:EoVxFA56k
>>428
ワニが、伊都男系はもちろんですが、
太伯集団の男系も受け入れたことで、
弥生開始時に大きくリードしたわけですね。

その大成功先例があったので、ライバルのカモも負けじと
神b派や、甲羅派などを積極的に受け入れた、ということですね。
古浦遺跡&田〇山遺跡などはその代表的な例だったと。

八雷神はもとは豊國共立女王を立てて横並びだったのに、
渡来人を受け入れた=革新改革を行った、かどうかで、
主力2派と残り6派では、勢力の繁栄度が大きく変わったわけですね。

楽浪郡と組んだ奴族・奴国王はたまたまその狭間でバッティングして、
カモとワニで取り合いになり、
結果的にはワニ代表になったけれども、両勢力に大量に子孫を残したと。

また伊邪國の複数部族についても、
元々は共立王を立てていたのでしょうけれども、
リーダーの爾支部族(本来は末蘆國〜伊都西部)だけがどんどん偉くなって、広域大王になった。

もはや豊國や神a派や各地の有力部族が外戚を狙っている状態で、
伊邪國の爾支系以外の他部族は、取り入る隙すら無くなって、
単なる地方の辺境集団群になったということでしょうね。

546 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:34:33.12 ID:EoVxFA56k
>>498
抜歯についてです。

歯医者さん、というのはもちろん比喩表現で、
集落ごとの「抜歯方式の伝統」とか「歯列矯正知識」とかの意味ですが、
外科手術ではありますので、
抜歯担当者は、一人あるいは少数の「熟練者」に行ってもらいますよね。
おそらくシャーマンが、祭祀やら祈祷やら薬草処方やら何やらの多数業務の一つとして、
抜歯も担当していたのでしょう。

平安時代には巫女が抜歯を行っていたとの記録があります。
僧医が抜歯した記録は無い事から、
抜歯というのは、神社管轄、
つまり弥生時代(あるいは縄文時代からの知識も引き継いで)からの伝統的治療法であったということでしょう。

女性が行っていたということは、意外と筋力の問題ではなかったのですね。

縄文時代であれば、
患者を寝かせて頭を固定した上で、狙いの歯に木の棒の先端を当て、
大きな石でコツンと叩いて脱臼させる、角度などのコツがあったのかもしれませんね。

547 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:35:23.01 ID:EoVxFA56k
天皇や藤原氏も、民間の女性歯科医に抜歯してもらっているのは、
抜歯経験人数の差でしょうね。

内科(薬の処方など)は、知識人である僧医が良かったのでしょうけれども、
外科(抜歯)は、一般庶民の歯をいつも抜歯している巫女歯医者さんの腕が良かったのですね。

そういう目で見ると、江戸時代までずっと抜歯痕が認められますので、
「風習的抜歯」は無くなったけれども、
親知らずが大きかったり斜めに生えて痛い時とか、虫歯などの時には、
「治療的抜歯」というのは長らく続いていた、ということでしょうね。

548 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:36:10.02 ID:EoVxFA56k
時代を縄文弥生に戻すと、
抜歯の基本は、
まずは、歯が大きい上顎の、臼歯群の歯列を整える、
ことだったでしょうから、

縄文時代は、上顎の両犬歯(11-12歳)
弥生時代は、上顎の側切歯(8-9歳)
が生えた時点で、必要に応じて抜歯することになります。

抜歯することで、歯槽骨のスペースを空けて、臼歯群が綺麗に生えそろうのを促したのですね。

下顎の抜歯については、その後の咬合に対応して決めていく。
上顎では、たまに第三大臼歯(親知らず)がトラブルを起こしたときには、
抜歯を追加したのでしょう。

549 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:37:48.60 ID:EoVxFA56k
台与の女王共立が16歳。
武士の元服が12〜16歳。
ですし、
精通や初潮の年齢からしても、

12歳で上顎の抜歯、をして、その後に大人の仲間入りですね。

と、いうことは、
縄文系上顎犬歯抜歯なのか、弥生系上顎側切歯抜歯なのか、は、
12歳までに所属していた集落、
つまりは産まれた故郷の集落によって決まる、ということになりますね。

例えば土井ヶ浜遺跡だと、
基本は上顎側切歯の抜歯なわけですが、
少数の、上顎犬歯抜歯の人がいます。

上顎側切歯抜歯の人は、土井ヶ浜遺跡の地元民か、もしくは同じ弥生系抜歯集落出身の人。
上顎犬歯抜歯の人は、土井ヶ浜遺跡以外の、縄文系の歯医者さんがいた集落、から嫁入り婿入りしてきた人、ということになります。

同様に、
勒島遺跡で確認された男5女6の頭蓋骨のうち、
女性2体に上顎両犬歯の抜歯が認められた、とのことですが、
これもつまり、
北部九州から燕系神a派の所に嫁入りした、おそらくワニ(もしくはカモ)の女性でしょうね。

550 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:38:54.19 ID:EoVxFA56k
土井ヶ浜遺跡の上顎抜歯を詰めて考えると、

犬歯抜歯は女性が多いので、
外部の縄文系抜歯集落からは、
婿入りしてくる人数よりは、嫁入りしてくる人数が多かった。

側切歯の片側のみ抜歯は、
毎回両側抜歯しなくても、片側だけの抜歯でそれなりにスペースが空くので、
それで両側の第三大臼歯が生えてくることが多いのだ、
という、渡来系の新知識と思われるのですが、

縄文系の犬歯抜歯についても片側抜歯があるので、
土井ヶ浜遺跡と、婚姻を結んでいた先の縄文系集落の歯医者さんにも、
片側だけでも大丈夫な場合が多い、という知識が伝わって、
犬歯で片側抜歯、という選択肢が増えたのだろう、
と考えられるわけですね。

551 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:41:21.18 ID:EoVxFA56k
>>493
日本で江戸時代まで治療的抜歯が続いていたのと同様に、
中国でも治療的抜歯は重要な治療方法として続いていたはずですね。

ただし、社会が発展して分業制が進むと、
歯医者さん、でないと、抜歯の細かいノウハウがわからなかった、
可能性が高いですね。

よって、これまで推測された各派の渡来集団であっても、
歯医者さん(シャーマンだったり医師だったり)が、必ずしも同行していたとは限らなかったわけですね。

そう考えると、歯医者さんが同行したのは、
太伯集団 →支石墓みんな上顎犬歯抜歯だから?
神a派 →勒島遺跡に側切歯抜歯が無いから?
甲羅派 →古浦遺跡は上顎犬歯抜歯だから?
徐福集団 →土井ヶ浜遺跡で側切歯抜歯〇

552 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:43:59.66 ID:EoVxFA56k
渡来一世は故郷中国での思春期に上顎側切歯抜歯をされていたかもしれませんが、
歯医者さんが同行していなかったのですね。

例えば太伯集団だと、島原の縄文集落に同居して、
周りの島原縄文人達が、縄文歯医者さんの抜歯で平穏に過ごしているのを見て、
二世以降は郷に入りては郷に従って、島原縄文歯医者さんに抜歯してもらったわけですね。

古浦遺跡の場合はもっとわかりやすくて、
母系は田〇山遺跡のカモ女性達であって、子供を育てるのは母親ですから、
母親がカモ系なら、当然カモ系の縄文歯医者さんに抜歯してもらった、わけですね。

553 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 20:47:24.89 ID:EoVxFA56k
徐福集団には、徐福百工が同行してきましたから、
歯医者さんもいて、
上顎側切歯抜歯や、片側のみ抜歯、という歯列矯正新知識をもたらしたのでしょう。

よって、上顎側切歯抜歯のルート=徐福集団の軌跡、とも仮定されますね。

広田遺跡は体格の違いからして、おそらく福建省か台湾で雇った水夫集団が一緒に渡来したのでしょうが、
歯医者さんは必要なので、
広田遺跡からの求めに応じて、徐福集団の歯医者さんが弟子を指導して、
上顎側切歯抜歯を伝授したのでしょうね。

ちなみに、
「山」の文字が刻まれた貝符が出土しており、
後漢代の隷書とのことですから、
>>389
奴国王から贈られたものでしょうね。

宮の本遺跡も上顎側切歯抜歯。

こう考えると、土井ヶ浜遺跡は、ゴホウラ貝釧の製作販売だけでなく、
歯列矯正医術も売りだった可能性が出てきますね。
歯医者さん集団だったかも。

554 :日本@名無史さん:2023/01/08(日) 22:00:02.78 ID:EoVxFA56k
伊都説で検討しただけでも、大陸の戦乱のたびに、
呉、斉、燕、奴、の貴種・技術者・知識層、が渡来してきているわけですね。
日本列島まで逃れてくるにはある程度の財産や技術能力がないと辿り着けない。
東アジア各地の国家における優秀な上層集団が集まるまさに理想郷ですね。

要するに、
戦時だと、男が強いけれども
平時だと、女には頭が上がらない。

ワニやカモといった縄文女性は強くて、
次々逃げてくる東アジアの男たちを受け入れて、尻に敷いてきたわけですね。

一万年熟成した縄文社会を受け皿として、
東アジアの優秀な人材が流れ込んできた。

ノーベル賞受賞者を多数輩出、
ものづくりニッポン、
日出づる国、
というのは、
こうした優秀な男系女系が濃縮されたことで産まれた蓬莱であり黄金の国ジパングなのですね。

555 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 07:57:50.11 ID:H+4GMAtJM
>>549
台与は13歳でしたね。
文意は同じですが。

13歳で女王就任できるのであれば、
基本的には13歳で大人になるということですから、

上顎の抜歯は、ほぼ100%出身集落の歯医者さんによるもの。

下顎の抜歯は、その年齢時に所属している集落の歯医者さん次第、
ということになりますね。

人の動きを見るには、上顎抜歯が非常に重要ということになります。

556 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 08:12:05.57 ID:H+4GMAtJM
土井ヶ浜遺跡には、四隅配石墓がありますね。

三次市に逃げ込んだ奴国王の兄一族が開始した、四隅突出型墳丘墓とルーツは同じで、
同じ奴族ですから、
土井ヶ浜遺跡のは、幼くして亡くなった奴族のものであり、
つまりは、
英雄の兄弟=奴国王と土井ヶ浜女王の子、
もしくは、
英雄の子供=奴国王の孫
である可能性が高いですね。

ミトコンドリアDNAが英雄と同じなら、前者の可能性が高くなり、
異なれば、後者の可能性が高いことになります。

557 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 08:12:48.70 ID:H+4GMAtJM
奴国王本人の墓は、晩年に失脚していますから、無いわけですね。
天寿を全うしていたなら、やはり四隅突出だったでしょうけれども。

楽浪郡と提携した奴族が渡来してきて、まずは須玖遺跡に入ったと思われるわけで、
少なくとも奴国王の父は、墓を残したはずですが、
須玖遺跡に四隅突出墓が残っていません。

奴国王失脚時に破却されたものと思われます。

おそらくですが、日本列島においては、
奴国王の父、一人から、
奴国王の兄達→日本海沿岸の四隅突出型墳丘墓国家=後漢書「東の拘奴國」
奴国王とその大勢の子孫達(ゴホウラ貝釧多数副葬者)
が分岐していった可能性が考えられますね。

558 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:39:19.58 ID:H+4GMAtJM
虫歯の発生率は、
縄文時代 アメリカ先住民 約1%
現代   イヌイット 約2%

縄文人 約10%
弥生人 約20%
現代人 約30%


同時代のアメリカ先住民や、現代イヌイットと比較するとわかりますが、
>>502
縄文人は、イネ科雑穀を栽培して主食にしていたから、狩猟採集民に比べると虫歯が多かった。
つまり縄文人は農耕民だった。

>>503
しかし、縄文人の食事方法は、籾ごと咀嚼していたので、
でんぷん質を練り出した最後の方は、籾だけを咀嚼することになり、
それが歯みがき代わりとなって、農耕民にしては虫歯の発生率が抑えられていた。

土井ヶ浜遺跡の虫歯の発生率は約2割。
上顎側切歯の片側あるいは両側抜歯が主流で、抜歯していない人もそれなりにいますので、
脱穀・籾摺りをして、玄米あるいは白米の状態で食事していたのですね。

籾咀嚼歯みがきをしなくなって、虫歯が増えたということですね。
歯の摩耗速度は遅くなって長持ちするようにはなったでしょうけれども。

559 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:40:03.76 ID:H+4GMAtJM
土井ヶ浜遺跡においては、
女性巫女領主(1号人骨)も、
英雄(124号人骨)も、
上顎両側切歯を抜歯されています。
(英雄は上顎も半分破壊されていますが、歯並びからそう推測されています)

>>549
上顎の抜歯は、生まれ故郷の歯医者さんによって決まりますので、
英雄の弟である軍神もまた、上顎両側切歯を抜歯されていた、ことになります。

だいたいの容姿が想像できるわけで、
母系が土井ヶ浜女王で、徐福集団・臨錙遺跡白人ルーツ
父親は奴族で、美男子だったと伝わっている。

となると、
土井ヶ浜遺跡男性の平均身長は163センチ。
英雄と同じく体格はいい。

現代のハーフ芸能人のような顔立ちで、
両側切歯を抜歯しているので、歯並びが美しいイケメン。
だったのだろうと予測されますね。

560 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:42:27.85 ID:H+4GMAtJM
軍神は、軍略の才があって、数々の武功を挙げている。

奴国王も取り巻きから、
「軍神殿の凛々しいところは、奴国王さまのお若い頃にそっくりですな。」
など持ち上げられると、まんざらでもなく、目を細めていたのでしょう。

颯爽として女性にもてる軍神の姿に、
若き頃の自らの姿を重ね合わせていたのかもしれませんね。

いわゆる「覇王色の覇気」をまとっていたので、
ワニ女王筋の女性を娶らせて、
金印を任せたのでしょう。

561 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:44:17.49 ID:H+4GMAtJM
なぜに容姿を解析しているかというと、
>>441
Aタカヒコが主力なのに、
英雄の顔面を破壊するほど敵意を持っていることの解明ですね。

英雄は、金印のとばっちりで、石鏃で拷問され、最期は銅剣でとどめをさされていますね。
その後に顔面を破壊されています。
腕の良い歯医者さんが拷問処刑されるという戦慄の事件だったわけですが、
田舎暮らしの英雄の、どの部分に敵意を抱いたのか。

例えば伊都国系の隊長が、奴族に憎悪を抱いていて、
Aタカヒコ兵もいる目の前で、「この賤奴め!」と叫んで顔面破壊したら、
その時点で別の戦争が勃発しそうですよね。

562 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 10:46:31.05 ID:H+4GMAtJM
その答えの一つが、母系の違いによる形質の違い。
父親が同じ奴国王でも、
母親が、縄文カモ系と、徐福集団渡来白人系と、では、
身長や顔つきが大きくちがった可能性。

もう一つが、抜歯の有無による面貌の違い。
抜歯をして歯並びがいいと、口周りがすっきりしますから、
見た目で顔つきの系統が違ったのですね。

甕棺墓有力者は抜歯していない人が多いので、歯並びが悪く、
出っ歯なども多かった。

一方で、軍神は、縄文時代としては背の高い美男子で、
前歯の並びが綺麗だった。

辺境出身の軍神が、奴国王のお気に入りとして出世して、
しかもワニグループに入った。
イケメンで周囲の女官たちも軍神推しばかりで、
カモ系としては目の敵にしていたわけですね。

英雄を縛り上げて金印の在りかを詰問して拷問をしている間、
対話をするたびに、英雄の綺麗な歯並びが見えますから、
話をしているだけで軍神を連想して怒りが沸騰していった、
のでしょうかね。

563 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:26:07.78 ID:H+4GMAtJM
>>444
70年当時の軍神の動きを考えると、
・宮の本遺跡女王との長男に金印を渡して、丸太舟ただ一艘で伊邪國へ逃した。
・準構造船団にて、ワニ女王筋の妻と子供たちを連れて、諏訪へ逃れた。

銅戈軍8尋は、諏訪へ追撃していきますね。

>>174
・各種計略にて、銅戈軍を分散させて各個撃破した。(銅戈型石戈が分散出土)
・金印を餌に、銅戈軍を関東方向へと深入りさせて大将を討ち取った。(前中西遺跡石戈)

この戦い方はまさに、孫氏の兵法。

『兵は詭道なり』

そのものですね。

564 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:28:27.64 ID:H+4GMAtJM
<孫氏> 計篇 前500年頃

『兵者詭道也

 故能而示之不能 用而示之不用
 近而示之遠 遠而示之近

 利而誘之 亂而取之
 實而備之 強而避之
 怒而撓之 卑而驕之
 佚而勞之、親而離之

 攻其無備、出其不意
 此兵家之勝、不可先傳也』

戦争とは騙し合いである。
よって、
本当は出来ることを出来ないように見せかけたり、
必要なものを必要ではないように見せかけたりする。
本当は近くにあるものを遠くにあるように見せかけたり、
遠くにあるものを近くにあるように見せかけたりする。

利益になるものを見せて敵を誘い込み、
敵を混乱させて略奪する。
敵の戦力が充実しているならこれに備えて防御し、
敵の戦力が強大ならば戦いを避ける。
敵を怒らせて攪乱し、逆にへりくだって敵を驕り高ぶらせる。
敵が休養十分ならこれを疲れさせ、敵のまとまりがよければ離間の計をかける。

防備の薄い部分を攻めて、敵の予想外の場所に出撃する。
戦争に勝つには以上のような臨機応変な戦い方が必要であり、戦争前にあらかじめ伝え決めておくことはできないのである。

565 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:32:04.41 ID:H+4GMAtJM
軍神は、雀居遺跡の奴国王居館にて、孫氏を熟読していたものと思われますね。

現在の我々にとっての孫氏は、使用する武器や戦いの様相など科学水準が違いますので、
実用書としては使えず、
争いごとに対処する心構えの参考書くらいにしかなりませんが、

弥生時代の軍神にとっては、軍隊の運用法や、実際の陣の張り方など、
戦陣での生死に関わる実用的情報がてんこ盛りの、超重要軍事情報だったわけですね。

>>171
他の弥生将軍達は、矢を斉射してからの、一斉突撃、といった単調な戦い方しか知らなかった。

鉄製武器を揃えていたので、
金属ルート下流の銅剣女王國相手に戦っていた間は、連戦連勝だったけれども、
半島出兵して、相手も鉄製武器を持っているとなると、苦戦したわけですね。

なので、
孫氏を身に着けた軍神の「軍略」が非常に役立ち、大活躍したのでしょう。

566 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:35:08.34 ID:H+4GMAtJM
70年以降の軍神は、東国をまとめて、(S字甕、多孔銅鏃)
銅戈勢力と対峙するわけですが、
(最前線で近畿式銅鐸vs三遠式銅鐸が睨み合い)

東国の武将を集めては、孫氏の兵法を講義したのですね。

軍学者孫氏の兵法に、異民族戦をも戦い抜いてきた軍神の応用編が盛り付けされた、
そんな軍学としてのバックボーンが受け継がれ、
だから、
後世の東国武士軍団は、個の力だけでなく、軍団の運用として強かった。
そして軍学の祖である軍神が崇敬された。


1575年長篠の戦では、
孫氏も軍神も知らない新兵器「鉄砲」と、
16世紀の天才が考案した新戦法「三段撃ち」とで、
ようやく軍神に勝利したのですね。

567 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 13:59:07.87 ID:4dttQUj05
>>558
稲穂を口に含んで歯で籾をこいたとすれば、口は傷だらけ血まみれになるし、第一籾は苦くありませんか。

568 :日本@名無史さん:2023/01/09(月) 15:56:48.38 ID:H+4GMAtJM
>>567
そりゃまともにバリバリ咀嚼したらそうでしょうね。

籾殻が裂ける程度の力加減で水平咀嚼をして、籾殻に亀裂が入ったら、
しばらく顎を動かさずに唾液で浸しておく。
唾液が米に浸透して米が柔らかくなったら、チューインガムみたく噛んで
米を練り出す。

味が気になるなら、ある程度米を練り出した段階で、
口の中で籾殻をよりわけて吐き出したらいいですが、
栄養接収を主目的にするなら、米が無くなるまでとことん噛み噛みして、
最後の最後に籾殻を吐き出した方がいいですよね。
縄文人が生き残ろうと思うなら後者でしょう。

苦味はどうでしょうね。
お店で白米を買える我々現代人なら耐えられないかもしれませんが、
縄文時代ですから、
ドングリのパンとかよりはマシなのではないでしょうか。
ドングリもアク抜きを何度もしないと食べられませんし。

縄文人の歯の擦り減り方について諸説あるようなので、
一つの思考法として提案しているだけですが、どうでしょうかね。

569 :日本@名無史さん:2023/01/10(火) 17:26:47.42 ID:0lmsGoQdE
歯の摩耗の一番理由は皮なめしではないか、とする意見がありますね。
また、固い食べ物ものを噛み砕いたのも、大きな原因とされています。
縄文抜歯は、咀嚼に不都合な切り歯を除去したものとする考えが歯科医界ではごく普通に語られているようです。
成人儀式とする考えがありますが、儀式の裏にはそうした咀嚼の滑らかさの追求という現実的な理由があったと見るようです。

まあ、朝起きて食事をつくるのが主婦だったことは人類の普遍的な習慣でしょうから、
部族の集落では朝、全員の食べものを広場で一括料理して、男や子供たちがそれを取ってきて家で三々五々と食べたでしょう。
やはり、味の問題がありますから、籾は他の食材と一緒に炊くことはなかったのではないでしょうか。
また、粥にする場合でも、籾味は避けたのではないでしょうか。
大人や子供たちが、間食として籾粒を取って口にし、ぽりぽりと食べたことはあったかも知れませんね。

570 :日本@名無史さん:2023/01/11(水) 02:20:12.78 ID:+8i1rGFMi
イメージが先行しているようですが、理論的に考えてみると妙ですね。

>また、固い食べ物ものを噛み砕いたのも、大きな原因とされています。
であれば、粥ではなく、硬い状態で食べたのでは?
>まあ、朝起きて食事をつくるのが主婦だったことは人類の普遍的な習慣でしょうから、
考古学的文献的に根拠があるなら教えてほしいです。

理論的に考えると、縄文時代は冷蔵庫が無いのですから、
魚も肉もとりたてで食べるのが一番安全で、
朝は起床してすぐ作業に出かけ、明るいうちに魚や肉を入手して、午後に塩焼きして食べる。
夕方に皆で食べるのが最も合理的でしょう。

余った食材は、干物か塩漬けにして貯蔵しておいて、冬に取っておく。

炭水化物に関しては、クルミドングリは石器で割って食べる。
ドングリを食べる以上、味は度外視でしょうね。
魏志倭人伝の時代ですら薬味を使ってなかったのですから。

問題はイネ科雑穀で、臼と杵がありませんから、
脱穀はまだ石器などでできるとして、籾摺りがとてつもなく時間と労力を要します。
この点についてはどう考えているのでしょうか?

現代から振り返って考えるのではなく、
最初は石器時代から始まるのですから、噛み砕いて食べ始めたところから次第に進化する筈です。

571 :日本@名無史さん:2023/01/11(水) 02:26:40.81 ID:+8i1rGFMi
調理前のβデンプンのままだと、加熱調理したαデンプンに比べて消化しにくくなりますが、
唾液で時間をかけて溶かし、よく咀嚼しながら、
口の中でどろどろの粥状にしたものだけ胃に送るようにすれば、
調理時の消化吸収率に近づくと思います。

以上のように考えると、籾摺りがネックですね。
臼と杵さえあれば籾摺りの効率が上がって、あとは煮ればいいですから。

籾摺りができないのなら、ドングリの方が逆に効率がいいのかもしれませんね。
乾燥させれば保存もできますし。

>>520
貝塚はむしろ残飯を狙って集まる鳥やイノシシの狩場だったのが、
ハツカネズミがやって来て、ハツカネズミの繁殖場になってしまったので、
終了したのですね。

572 :日本@名無史さん:2023/01/11(水) 02:48:19.18 ID:+8i1rGFMi
石狩紅葉山49号遺跡では、スプーンやヘラ状の木製食器は出土しているようですが。
縄文時代とはいえ北海道ですね。

弥生時代の倭人が手づかみで食事していたとありますから、
九州であれば、縄文時代も手づかみだったと考えていいでしょうかね。

手づかみであれば、粥状・雑炊系の食事は逆に食べにくくて作らないでしょうから、
ドングリパンあるいはもち米おこわなどの系統になってくると思われますね。
「稲穂から直接食べていた説」もまあ残りますね。

スレから脱線していますので、戻していくと、
例えば青谷上寺地遺跡は、木製スプーンが出土していますから、
倭人ではありませんね。

よって、北部九州説以外の日本海ルートはここでぶっつり途切れることになります。

伊都説で検討すると、
日本海沿岸は東の倭種地域であり、
青谷上寺地遺跡は、勒島遺跡から避難してきた燕系の神a派の集落ですから、
食器を使う習慣があった、ということで綺麗に説明がつきますね。

573 :日本@名無史さん:2023/01/11(水) 07:03:44.02 ID:+8i1rGFMi
>>312
卜占から想定される神b派については、
唐〇カ〇遺跡から、木製匙や縦杓子が多数出土していますね。
共伴土器も、大和第T様式から大和第X様式まで全時代に渡っています。

言わんこっちゃない・・ですね。

伊都説としては補強されますね。
韓を通過した時点で倭地。
魏志倭人伝に詳記される対馬〜北部九州は倭人。
でありますので、北部九州が倭人であることは確定しています。

あとは東にどれだけ広がっているか、の問題ですが、
燕さんたちいい仕事を残してくれてますね。

574 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 00:16:55.76 ID:c7BhE/QQB
>>531
なるほど。
考古学的に、甕棺墓の分布拡大を追うことで、北部九州の統一過程を追えますね。

よくよく見ると、伯玄社時代に入った「奴国領域」は、いわゆる「狭義の奴国」までですね。

「広義の奴国」の南部、つまり久留米など筑後地方に入ったのは、金海式時代からになります。

甕棺墓が拡大した部分で考えていくと、

伊邪國の、伊邪(伊耶) ノ (爾)支 と、
古代豊國の、山鹿貝塚女王系と、
が婚姻同盟して、
能古島に水軍を集結させてから、

伯玄社遺跡に首領がいた現在の福岡市に当たる部分の縄文勢力を征服して、
北部九州の日本海沿岸地域を統一した。

神a派との絹交易が開始され、
彼らと連携して、投馬國を拡張。

新規獲得して整備した早良区=ひのもと(>>291)、に、吉武高木大王を擁立。

575 :日本@名無史さん:2023/01/23(月) 00:20:20.51 ID:c7BhE/QQB
>>543
そう考えていくと、オー月ヒメは金海式で新規獲得した地域ということになりますから、
投馬國もしくは筑後。
前者は記紀では除外されていますので、
まずまず久留米など筑後地域の縄文旧支配勢力だった可能性が高くなります。

意外ですが、
長崎伊邪國と豊國勢とが、筑前→筑後(+肥国)と統一していったことになりますね。


>>569
そう考えるとですね、縄文時代の食生活の貴重な記録かもしれませんよ。

「口から食物を出す」
健康な歯並びの料理人が、
籾ごと口に入れて、歯で脱穀籾摺りをして、実の部分(白米など)だけ出して、
客人、小児老人、身体障害者、などに振るまっていた。

「口や鼻から食物」
健康な料理人が、
籾ごと口に入れて、歯で脱穀籾摺りをして、飲み込んでしばらく胃で消化してから、
嘔吐して、あと同じ。

「尻から食物」
健康な料理人が、
籾ごと飲み込んで、翌日に排便したものを洗浄すると、
未消化のものの中に、調度食べ頃の状態になったものが・・・あと同じ。

我々現代人からすると、いや弥生人にとっても、
もちろん穢汚いですが、
縄文時代は石器時代ですから、あらゆる物事が今とは違ったわけで、検討はしてみるべきでしょうね。

576 :日本@名無史さん:2023/01/25(水) 23:54:25.83 ID:1r1kW2uyY
>>575
>長崎伊邪國と豊國勢とが、筑前→筑後(+肥国)と統一していったことになりますね。

弥生時代の九州における、
・豊国が独自性を保っていた
・西北九州(伊邪國)が縄文形質を強く残していた
という特色について、説明がつきますね。

外来の渡来勢力ではなく、
九州在地の縄文勢力が北部九州を統一していった。
そしてその原動力は、長崎伊邪國と豊國勢であった。

豊國の八雷神は骨取り神事で共立女王を立てていた。
伊邪國でも複数部族が共立縄文王を立てていた。
そして彼らは支配勢力となったので、「軍事征服」を受けなかった。

ので、当然のことながら、伊邪國と豊國の縄文勢力は、弥生国家形成後もプレゼンスを維持できたのですね。


>「口や鼻から食物」
一度胃に入れてから嘔吐したものを食べさせるというのは、
乳幼児や病人への食事として優れた点がありますね。

・胃酸で「消毒」されている
・咀嚼と胃酸である程度「消化」されている
・煮込む手間を省くことで「燃料」となる木材が不要
・胃までで戻すので、「栄養素」が残っている

縄文時代であれば、理想的な離乳食・病院食ですね。

577 :日本@名無史さん:2023/01/25(水) 23:55:24.10 ID:1r1kW2uyY
>>479
伊邪國とは本来、長崎県から糸島平野までの範囲であり、
豊國八雷神や越八岐大蛇と同様に、縄文複数部族の集合体だったわけですね。

豊國八雷神の西の雄が、古代出雲國=遠賀川以西のワニであったのと同様に、
伊邪國の筆頭が、唐津〜糸島の「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」だった。

西北九州=伊邪國が、縄文色を濃く残していた説明としては、

@縄文時代数千年来のご近所付き合いがあった

太伯集団の渡来=ねずみ返し&養蚕絹織の伝来によって、
縄文古来の有力集団であった、唐津〜糸島の「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」が、
弥生進化を遂げて、
北部九州の盟主へと出世していったのだが、

伊邪國の他部族たちは、
「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」の数千年に渡るご近所さんだったので、
一目置かれていた。

A弥生時代の長崎県は辺境

多島(多数の小国)で平野が無く、資源も無く、人口も少ない。
熊本有明海にアクセスするなら、沿岸航海とはいえ外海回りで長崎を経由するよりも、
佐賀や筑後に背振山系越えする方がはるかに安全で速い。

「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」の縁者として従ってくれて、
それなりの租庸調を納めてくれていれば、
それでいい存在だったわけですね。

578 :日本@名無史さん:2023/01/25(水) 23:57:15.34 ID:1r1kW2uyY
北部九州倭国は、東へ日本列島開発、北へ投馬國開発、と資本投下していきますから、
西の伊邪國は良くも悪くも放置されたわけですね。

「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」が弥生大王になったので、
末蘆國伊都國そして巳百支國が倭国側に所属して、
伊邪國は長崎県だけになったのでしょう。


伊都説で伊邪國を考えていくと、(本来は伊邪國の首都が伊都なのでしょうけれども)
西の伊邪國は九州縄文部族集団の中では、漂着する中国人を受け入れることで先進的な立場にあった。

太伯集団が島原に漂着(原山支石墓)して、ねずみ返し&養蚕絹織が伝わり、
弥生時代の幕開けとなった。

「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」が大王になって、オラがムラ出身の有名人は輩出した。
けれども、伊邪國の他部族としては、本来は縄文共立なので横並びだったのだが、
「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」は手の届かない偉い人になってしまった、
ということでしょうね。

>>356
「伊邪(伊耶) ノ (爾)支」の外戚として権勢をふるっていたワニ。

徐福集団は、そのワニと疎遠な渡来集団ですから、
同じく豊國ワニとは縁もゆかりもない伊邪國縄文系部族集団としては、
ウェルカムだったわけですね。

579 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:37:48.35 ID:sU+Zf6pOS
>>443
軍神の策略に弥生世界が嵌ったわけですね。

伊邪分國・宮の本遺跡女王との長男一人(NSM男)に金印を渡して逃れさせた。

自らは準構造船団を率いて、
ワニ女王筋の妻子、そして宮の本遺跡女王との他の息子達も全て連れて、
東へ逃走した。

弥生世界で金印の在りかを知っているのは、軍神とNSM男のみ。
その他の全ての人々は、軍神が肌身離さず首にぶら下げている絹袋に入っている金属塊が金印だと思っていたわけですね。


>>328
故郷の皆には逃げるよう知らせた。
>>329
まさか畿内からの甲羅派銅戈軍とは思いもしなかったので、
Aタカヒコとの関係性と、Aタカヒコの性格を考えると、
神a派からは縁者や有志兵を集めただけで、あとの人々はむしろAタカヒコに託して残していった。
>>391
血統を残す確率を上げるために、北海道有珠モシリ遺跡に宮の本遺跡女王との息子の一人を逃れさせた。

さらにもう一人を青森に逃れさせた可能性もありますね。

580 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:41:57.08 ID:sU+Zf6pOS
軍神とNSM男の二人以外は、軍神が金印(蛇紐)を持って諏訪に逃げ込んだと思ったわけですね。

軍神の計算としては、
洪水で被害を受けた奴国では、北部九州東部〜大倭領域のカモ勢力Aタカヒコには勝てない。
しかし、東国で防備を固めれば、はるばる遠征してくるカモ軍と勝負できる。

倭国軍(カモ軍)が総力で伊邪國を攻略すればもちろん一たまりもないが、
倭国軍は金印が諏訪にあると思っているので、伊邪國への大規模攻略は無いだろう。

NSM男を伊邪分國に潜伏させておけば、プロ漕ぎ手水軍首領なのだから、
勝てはしないが、捕まることは無い。

伊都國奴國は洪水で大被害を受けて復興は始まったばかりであり、
Aタカヒコが権力を握っても前途多難。
そのうちワニ勢力が盛り返した時に、連携して捲土重来を果たす勝算はある。

万が一自らが東国で散ることになっても、
NSM男は金印を持っているから、上手く立ち回れる可能性があるし、
敗れても、極南界の奴国王南方ルートで金印を持ったまま中国南方へ逃れれば、
取り立ててもらえる目はあるだろう。


と、思っていたけれども、
金属器入手ルートが無いのは想像以上に厳しく、
>>447
またAタカヒコの生口カンフル剤政策が移民一世代の期間は有効だったので、
軍神は東国で天寿を全うしたのですね。

581 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:42:50.40 ID:sU+Zf6pOS
有珠モシリ遺跡では11人の合葬遺骨が出土しており、
上顎切歯の片側のみ抜歯がなされていますね。

つまり徐福系、軍神の母集団です。
彼らの全部あるいは一部は、幼少期に、英雄に抜歯された可能性も高いですね。

軍神の指示で北海道に逃げ込んで、拠点構築していた。

頭部外傷などありますので、戦闘の結果として亡くなっているわけですが、
追跡して来た銅戈軍に敗北した遺骨を、生き残った仲間や現地の人々が集めて埋葬した可能性と、
現地の人々と争いになって亡くなり、生き残った仲間が集めて埋葬した可能性と、
がありますね。

遺骨に刺さった黒曜石の石鏃の産地分析をすればわかりますね。
まあ前者の可能性が高いですが。

582 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:44:59.18 ID:sU+Zf6pOS
一方で、NSM男が逃げ込んだ西の伊邪國です。

縄文時代数千年に渡る伊邪國大首領である爾支が、北部九州の盟主に出世しているのが誇りですね。

養蚕を開始したのは伊邪國。
豊國と一緒に北部九州を統一したところ、
背振山系の真砂土花崗岩土壌が一大養蚕地域=甕棺墓高度経済成長地域になって、
伊邪國の養蚕は廃れてしまった。

爾支の外戚は豊國ワニががっちりキープして、面白くなかったわけですね。

爾支配下の東征将軍職に就いた奴国王が権勢を振るっていたのも微妙だったのですが、
奴国王が失脚したと思ったら、
伊邪國にとっては、豊國西部ワニよりさらに疎遠な、豊國東部カモ系のしかも奴族Aタカヒコが仕切り始めたわけですね。


微妙な話になりますが、

伊邪國古来の大首領である爾支が官扱いにされて、(ひのもと)
Aタカヒコが擁立した共立王である倭国王が誕生します。(ひむか)

583 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:46:29.70 ID:sU+Zf6pOS
巳百支國から祭祀型銅戈が出土しています。
新伊都倭国軍は一応西にも軍を派遣していたわけですね。

伊邪國捜索を担当させられた銅戈隊長は苛ついていたのですね。

今は東の大倭地域からの生口が熱い。
金印はそのまた東の軍神が持ってる。そのうち大規模戦役があるなら戦ってみたい。
北の投馬國も鉄やらなんやらホット。

なんで俺が西担当なんだよ。
島ばかりだし、何も無いし、未だに縄文集落とかマジかこいつら。

怖えぇ。

NSM男の伊邪分國は斉の徐福末裔でなんか弩とかいう最新兵器も持ってんだろ。
漕ぎ手が凄くて通常の3倍の速度で動き回って、遥か南の極南界すら超えて活動してるらしい。

遭遇したらどうしよう。
俺の舟の周りをしっかり船団で円陣組んで移動しなくちゃな。

とりあえずあの島を捜索して報告書を提出しよう。

584 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:47:15.44 ID:sU+Zf6pOS
銅戈隊長「おい、このムラの頭を出せ」

老巫女「なんか用かの?」

銅戈隊長「なんだこのババァは?」

老巫女「伊邪の地に何の用じゃ?」

銅戈隊長「お前らNSM男って知ってんだろ?案内してくれ。報酬ははずむぞ。」

老巫女「知らん。」

銅戈隊長「あ?知ってんだろ。案内しろよ。」

老巫女「知らん。出ていけ。」

村人たち「出ていけ!出ていけ!」

銅戈隊長「お前ら!!素直に協力しないとためにならんぞ!?」

老巫女「儂らの首領は爾支様だけじゃ。お主のような豊國奴國の輩ではない。出ていけ。」

銅戈隊長「こ、こんの、クソババア!!!」

585 :日本@名無史さん:2023/01/27(金) 23:49:59.52 ID:sU+Zf6pOS
伊邪國平戸島、根獅子遺跡の縄文集落。

上顎両犬歯抜歯の縄文女シャーマンに邪険に扱われた銅戈隊長は、
ついカッとなってやってしまったのですね。

これもまた金印のとばっちりではありますが、
NSM男としては、
銅戈軍が来たら逃げろというアナウンスはしていたでしょうが、
金印のことは言えませんから、

伊邪國の縄文集落としては、まさか銅戈軍がそこまで本気だとは思ってもいなかったのですね。

伊邪國にとっては、縄文時代数千年を経て、
史上初めての軍事侵攻を受けたことになり、
銅戈軍の蛮行が瞬く間に伊邪國全土に広まって、反・新伊都、爾支復活待望、になってしまったのでしょうね。

586 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:33:21.03 ID:1V32gJg9k
南方浦山古墳 (北九州市小倉南区) 未盗掘
 円墳、箱式石棺
 40代男性
 庄内式土器、二重口縁壺
 蛇行剣(345mm)
 キ龍紋鏡(45mm)  ※平原遺跡1号女王墓165mm
 鉄剣、鉄斧、槍鉋、刀子

587 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:34:43.93 ID:1V32gJg9k
巨大な蛇行剣が見つかったようですが、
最大例はいいですが、
最古例は南方浦山古墳ではないでしょうかね?

妙ですね。
まだ公表されていないデータでもあるのでしょうかね?


南方浦山古墳を伊都説で解析すると、
キ龍紋鏡が出土しているので、女系市杵島姫命もしくは男系アジスキタカヒコネの一族。

前者は新伊都2代目の外戚がワニ(アズミ)系になった時に一旦失脚して、
琵琶湖沿岸へ移動し、
卑弥呼の母の代に北部九州倭国へ戻って来たので、
平原1号は方形周溝墓。

と、いうことは、
南方浦山古墳の円墳は、男系アジスキタカヒコネ系の可能性が高くなりますね。

588 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:36:21.34 ID:1V32gJg9k
記紀に記されているように、
崇神天皇の御代に疫病が流行しますね。

崇神天皇は、宮中で祭っていた天照大神と倭大国魂神を外に出すことにして、
天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑へ、
倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬へ。
その結果、渟名城入媛命は病気になりますね。

さらに亀卜を行ったところ、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が憑いて、
伊香色雄に八十平瓮作祭~之物を準備させて、
大田田根子(大物主神子孫)に大物主神を、
市磯長尾市(椎根津彦子孫)に倭大国魂神を、
それぞれ祭らせると、漸く疫病が終息します。

崇神五年に疫病が流行り始めて、七年十一月に終息ですから、
約3年間の流行があったわけですね。


一方で、三国志において、
青龍二年(234年) 夏四月大疫
青龍三年(235年) 春正月京都大疫
の記録があり、
司馬懿の大軍が遼東まで移動してきて、難升米達が接触しています。
さらに難升米達は洛陽まで訪問して、貢物を貰って帰ってきます。
青龍三年銘の方格規矩四神鏡も日本で出土していますね。

589 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:37:36.30 ID:1V32gJg9k
大きな流れは前スレで検討した通りで、
現代の我々は、新型コロナが流行したら、原因ウイルスを突き止めようとしますが、
弥生時代だと、疫病が流行したら、原因となる祟りを突き止めようとしたわけですね。

<診断>
非常に科学的な対処をしており、
まず、原因となる祟りを突き止めにかかります。

親魏倭王の金印を貰った直後に疫病が流行している。
一方で、難升米が公開した漢委奴國王の金印も58年に疫病をもたらした既往がある。
この2つのうちどちらかが原因であることは(当時の人にとっては)明らかで、
2つのうちどちらが原因であるかを突き止めたかったのですね。

台与を責任者として、伊都國関係者を隔離。
渟名城を責任者として、奴國関係者を隔離。

で、後者が病気になったので、明らかに漢委奴國王の金印が原因。

<治療>
漢委奴國王の金印への対処として、
ワニ彦国葺に命じて不彌國の志賀島に封印させたのと、
奴国王の子孫二人に祭らせた。

590 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:40:24.91 ID:1V32gJg9k
要するに、蛇行剣とは、
疫病=蛇紐金印の祟り、に対しての、ワクチンや治療薬ですね。

第10代と同盟して以来、有力勢力となった狗奴国系の貞人(Aタカヒコ系)が、
日頃から疫病退散の祭祀を行いながら、

<ワクチン>
定期的に卜占して、疫病を予防するために最適な、氏族あるいは人物(主に奴族)をピックアップして、
蛇行剣や領地恩賞を与える。

<治療薬>
疫病が流行したら、同じく卜占して、
祟りの原因を鎮めるのに最適な者(主に奴族の)をピックアップして、
蛇行剣や領地恩賞を与える。

病原ウイルスなどの知識もない時代ですから、
蛇行剣祭祀は立派なワクチンや治療薬だったわけですね。

特に治療については、
疫病が流行し始める
→蛇行剣の製作に入る
→皆が一心不乱に蛇行剣の完成を祈る
→蛇行剣が完成して対象者に授与する
(→その頃には自然免疫が獲得されて疫病が終息する)
→蛇行剣の治療効果に皆が感謝する

と、いうことだったのでしょうね。

591 :日本@名無史さん:2023/01/28(土) 19:43:02.09 ID:1V32gJg9k
そう考えると、南方浦山古墳は、大田田根子か市磯長尾市が候補になりますね。

後者は亀さんの子孫ですから卜占が絡んでおり、
T姫からのAタカヒコ系統の可能性が高くなります。
キ龍紋鏡を重視するならこちらですね。
まだ確定はできませんが。


蛇行剣祭祀にすがったご先祖様たちの気持ちは、
新型コロナの脅威に晒されている現代の我々にはよくわかりますね。

長大な蛇行剣を作ったということは、
当時大規模な疫病の流行があって、それを鎮めるために必死で作ったのでしょうし、

新型コロナに怯えてワクチンを何度も打つ我々に、
ご先祖様たちが安心するようにと、蛇行剣を差し伸べて光明を見せてくれているのかもしれませんね。
5月から引き下げられるそうですし。
崇神天皇に感謝ですね。

592 :日本@名無史さん:2023/02/01(水) 01:14:48.36 ID:TAQl7w55Y
いや、現代感覚で見つけて浮かれてる場合じゃないのかもしれませんね。

当時の国家最高権威の数名が同じ啓示を受けて実行した封印が、
75%から100%開封されてしまった。
特に今回の物が最大ですから。

原子力とか大丈夫でしょうか。
安倍晴明がこの世に生きていれば適切な対処法を示してくれたのでしょうけれども。

593 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 09:49:18.83 .net
>>341
わかるけど、それだと邪馬台国が少なくとも畿内から中国地方、北部九州まで支配している事になるような気がするけど可能なのか?
250年前後の事はよくわからないけど日本は統一されているとは思わないので中国地方、四国、九州のいずれかは敵対勢力だと思う。たくさんの宝物を乗せた使節の船は畿内に着く前に海賊やら盗賊、敵対勢力に奪われたり攻撃されたりして無事に畿内に辿り着くとは思えない。
魏志倭人伝を読む限り少なくとも対馬と壱岐と末盧国と伊都国民は邪馬台国とは友好な関係か従属国である。そうなると畿内から北部九州までは邪馬台国の勢力圏でないと安全な渡航が出来ない。
豊臣秀吉でも全国統一にかなり苦心したのに、それより文明が遥かに劣った250年前後に畿内から北部九州までが統一国家とは思えない。
しかし、九州説に矛盾があるのも事実。畿内説にも矛盾があるのも事実。

594 :日本@名無史さん:2022/12/06(火) 18:42:13.75 .net
>>593
矛盾がないのは、「阿波」だけ。   @阿波

595 :日本@名無史さん:2023/01/04(水) 06:36:10.82 .net
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ

596 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 23:02:57.11 .net
>>595
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw

2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし

597 :日本@名無史さん:2023/01/05(木) 23:03:05.56 .net
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる

598 :日本@名無史さん:2023/03/14(火) 23:22:36.83 .net
・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)


・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)


・文部科学省検定済教科書

「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

599 :日本@名無史さん:2023/03/17(金) 00:00:03.15 .net
>>598
そういう非科学的な願望を並べることしかできないから畿内説は敗れ去ったんだよ

600 :日本@名無史さん:2023/03/18(土) 14:02:04.01 .net
>>598

大和盆地南東部に七万戸もあったのか!
驚き桃の木山椒の木

601 :日本@名無史さん:2023/03/19(日) 07:05:32.21 .net
>>599
論文書こうね

602 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:10:27.73 ID:A+J+vh5mG
家船(えぶね・いえぶね)

もともと日本列島各地には水上生活者(船を家として、年間を通して水上・海上で過ごす人々)が多数いた。
彼らを蜑人(アマ・延の下に虫+人)と呼んだ。
中国大陸沿岸にも広く蛋民と呼ばれる漢族の水上生活民がいた。
文献で明らかに遡れるのは13世紀まで。
動力船の普及と高度経済成長に伴って、工場勤務や運送業など陸上生活に移行する人が増えて、1960年代にほぼ絶えた。
ということですね。

北部九州だと、
五島列島(伊邪國)など長崎県を中心とした北西部、
鐘崎(稲羽)などを中心とした北東部、
大分県臼杵などを中心とする豊後シャア、
の三大圏があったようですね。
対馬海峡を抜けて朝鮮半島にも出張していたようです。

603 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:12:15.29 ID:A+J+vh5mG
家船で生活するアマ達が、そもそも縄文時代から存在していた、
と考えると、
数々の謎が説明できますね。

丸木舟に萱でも板でも葉でも屋根をつければ家船になりますから、
縄文時代でも作れます。

家船であれば基本的には手漕ぎ船ですから、
移動能力は縄文時代から変わらず、
縄文時代の北部九州アマの文化圏も、
長崎伊邪國、筑前豊前、豊後、の3つに大別できた可能性が高い。

水上であれば、蚊などの害虫がいませんし、
洪水や森林火災などの災害があってもすぐ移動できる。
子供が成人しても新たに土地を開墾する必要が無く、(田分け者の回避)
丸木舟の家船を作ればそれで新たな一家が形成される。

604 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:13:36.19 ID:A+J+vh5mG
縄文時代であれば、そもそもの水田が無いわけですから、
陸上生活にこだわる必要がありませんね。

各地に貝塚があるくらいですから、陸上生活であっても海産物に頼っていたわけで、
それならいっそ家船で海上生活をした方が便利です。

縄文時代は東日本が栄えて、西日本は栄えていなかった。
と言われますが、
西日本にも貝塚はありますし、
そもそも似たような人々が暮らすのなら、温暖な西日本の方が暮らしやすい筈ですね。

考古学ベースで考えると、出土した物だけを根拠に議論するので、
東日本が栄えていたことになりますが、

発想を転換してみると、
「縄文時代には、家船での水上生活の方が便利だった」
「西日本の人々は温暖な縄文時代に水上生活を満喫していた」
「東日本の人々も水上生活をしたかったが、冬は寒いので、陸上に居を構えざるをえなかった」
のではないか。

605 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:14:52.55 ID:A+J+vh5mG
縄文時代の推定人口は、最盛期で26万人とされていますが、
アマがいたならその数倍はいたことになりますね。

例えば青森県であれば、冬は間違いなく陸上生活していたでしょうから、
縄文時代の青森県における竪穴住居からの推定人口と、
海産資源をベースにするなら、
同等の人口密度で西日本にも縄文人が暮らしていた筈ですね。

さらに、
西日本、九州の方が温暖であることを加味するなら、より多かったはずだ、
と推察されることになります。

また、家船集団であっても、
所属港の管理や、燃料や水などの確保のために、陸上生活担当者がいたわけですが、
近代の家船集団の、湾内における海対陸の居住比率が、
最大では9対1の集団もあったとのことですから、
現在九州で推定されている縄文人口は、
実は最大でその10倍いた可能性がある、ということにもなりますね。

606 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:20:49.46 ID:A+J+vh5mG
縄文海進においてシミュレートしてみます。

共通事項として、
平野は次々と海に飲み込まれて、高地へと追いやられますね。
>>516
4000年前にハツカネズミが一斉放散して、大陸では長江文明を滅ぼし、
南西諸島経由で日本列島にも押し寄せて蹂躙します。

<西日本>
縄文海進によって、平地は次第に海に没していく。
温暖なので、大多数は家船を作って水上生活者として海産物で生計を立てた。

陸上生活者もいたのだが、4000年前にハツカネズミが出現して文化崩壊し、
家船に転居したか、一部は半島へ疎開した。

<東日本>
縄文海進によって、平地は次第に海に没していく。
冬は寒いので、
家船で夏は北上、冬は南下の移動生活をする水上生活者と、
竪穴住居で定住して貝塚文化を営む陸上生活者とがいた。

4000年前にハツカネズミが出現して文化崩壊した。

607 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:21:30.64 ID:A+J+vh5mG
<半島>
縄文海進によって、平地は次第に海に没していく。

冬は寒いので、
家船で夏は北上、冬は南下の移動生活をする水上生活者がいた。

陸上生活者が追いたてられた山地には、熊、狼だけでなく、
虎、豹などの猛獣がうようよしており、
新規入植は極めて困難であった。

>>518
そのため、4000年前のハツカネズミは、陸上生活者がわずかな半島陸地には入っていけなかった。
ハツカネズミの代わりに、
列島から、ハツカネズミに追われた陸上生活者が入植してきた。

608 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:25:45.38 ID:A+J+vh5mG
家船で暮らすアマの存在によって説明できる次の謎が、
弥生時代の山口県沿岸における居住集落ですね。

山口県沿岸には、中ノ浜遺跡、梶栗浜遺跡、綾羅木郷遺跡、土井ヶ浜遺跡など、
大規模な墓地・貯蔵地遺跡が見つかっているにも関わらず、
目ぼしい弥生集落跡が全く無いわけですね。

これもつまりは、水上生活者のアマ勢力だったと考えれば辻褄が合います。

伊都説で考えると、
>>602
鐘崎を中心とする地域にいたのが、古代ワニではなかろうか。
そしてその東にいたアマ勢力こそが、
>>82
古代越=山口県を中心とする、「八岐大蛇」だったのではなかろうか。

九州側の行橋市にある、下稗田遺跡とは、豊後アマの勢力圏にあって、
環濠で防御していないことから、
実は越の「八岐大蛇」の、九州側の主要港だったのではないか。

であるから、考古学的に判明しているように、吉武高木勢力+古代ワニ勢力に一度滅ぼされたのではないか。
と考えられるわけですね。

609 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:28:14.23 ID:A+J+vh5mG
家船で暮らすアマの存在によって説明できる次の謎は、
一大國三千許家と、不彌國千餘家ですね。

この2国だけが、戸ではなく家なのは、
アマの家船を足しているから、と考えられますね。

倭人伝と一続きの記載である乾伝との整合性を取ると、
しっかりとした住居を構えて戸籍調査に登録されたのが「戸」
家船のような水上生活者、あるいは遊牧民・漂流民や野宿者も含めるのが「家」
と考えられます。

倭地で考えると、全ての国の津々浦々にアマの家船が漂泊していたのでしょうが、
その所属する母港、が、壱岐(ツクヨミ)や志賀島(ワダツミ・アズミ)だった、ということですね。

他にも伊邪國(ヒラフガイ?)や、岡田(ワニ)や、越(八岐大蛇→ヌナカワ?)や、
東方にも日本列島全域でアマが活動していたわけですね。

610 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:30:34.07 ID:A+J+vh5mG
家船で暮らすアマの存在を加味して、魏志倭人伝を読み直してみます。

『始度一海 千餘里至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居?島 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘? 無良田食海物自活 乖船南北?糴』

狗邪韓國から初めて渡海して、東夷伝里の千余里で対馬國に入国する。
対馬國の大官は彦で、副官は夷守である。
対馬國がある対馬島は絶海の孤島である。(対馬島には対馬國と対海國がある)
対馬國は東夷伝里で四百余里四方である。
山が険しく、深い林が多く、道は獣道のようである。
(アマが主体であり、道が発達していない)
陸上居住者は千余戸である。
良田は無く、海産物で自活している。
船に乗って南北に渡海して商売取引している。

アマの暮らし方そのままですね。

壱岐に比べて対馬の方が停泊する浦が多いですから、
陸上作業組が千戸。木材や炭、真水の補給担当ですね。
とすると、対馬には、数千〜万の家船が停泊していて、漁をしたり、
南北に行ったり来たりして様々な物品を輸送していたということですね。

縄文時代は家船単位で商売していたのでしょうが、
少なくとも魏志倭人伝の時代には、「大率」がそれを締めていたということになります。
壱岐の一大國に登録した家船だけが、大率の検察下に、対馬海峡を渡海できたのでしょう。

611 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:32:42.72 ID:A+J+vh5mG
『至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北?糴』

対馬國からまた南に渡海して、東夷伝里の千余里で一大(一岐)國に入国する。
一大國の官もまた彦であり、副官は夷守である。
一大國は東夷伝里で三百里四方である。竹や木や草むらの林が多い。
海上生活者を合わせて三千余家が所在している。
幾ばくかの田はあるが、食べていくには足りないので、対馬と同じく南北に渡海して商売取引している。

対馬と同じく、アマの生活感ですね。
三千という数字があるので、考古学的に判明している、原の辻遺跡とカラカミ遺跡の戸数を引けば、
壱岐を母港として大率に登録していた家船数
あるいは、
壱岐に滞在していた家船数の平均数
がわかりますね。


『又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘? 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅皆沈沒取之』

一大國からまた東夷伝里で千余里を渡海すると、末蘆國に入国する。
末蘆國の陸上生活者は四千余戸である。
(古くから開けている柏崎遺跡〜桜馬場遺跡など)
山や海に沿って暮らしている。(陸上生活者と水上生活者が暮らしている)
草木が生い茂っており、道を行く時に前の人が見えないほどである。
魚やアワビを好んで獲り、水深が深かろうが浅かろうが皆、潜水してこれを獲っている。

末蘆國もアマが主体なので、移動は舟であり、道は開けていない。
そうなると、唐津湾にたむろしている家船は、五千〜五万の可能性が出てきますね。

612 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:47:38.09 ID:A+J+vh5mG
>>412
軍神が一緒に連れて行った奥さんにしても、
蜑人・海女・住ミ美・墨
ということかもしれませんね。

美保関辺りの当時の軍神所領に住んでいて、奥さん本人はともかく、
その一族家来が家船の水上生活者だったので、

軍神が、
古代出雲=宗像
→故郷土井ヶ浜遺跡で兄達に警告・その一部は一緒に逃走開始(→>>581
→所領で蜑人墨の妻子がすぐに合流逃走開始
→諏訪
と突然の逃走劇にも関わらず、
財産の多くを持って逃げることが出来たのですね。<家船に家財一切を積んでいるから>

それが後の、東海式銅鐸や、多孔銅鏃、
そして東方の前方後方墳の前漢鏡などの存在説明になりえますね。

613 :日本@名無史さん:2023/06/04(日) 01:58:39.06 ID:A+J+vh5mG
>>272
軍神の東方逃走集団は、丹後を通過しているので、
爾支お兄さんを通過していますね。

と、いうことは、やはりAタカヒコは、伊都国勢にはあまり伝えずに挙兵した可能性が高いですし、
軍神は上手いこと爾支お兄さんを言いくるめて丹後を通過したことになりますね。

「奴国での合議にて、我らは東国を開拓することになった」
「奴国での合議にて、東国開拓して木材など物資を送る使命を受けた」
あるいは、上官の将軍として、丹後若狭湾水軍長官に、通過させるよう高圧的に接した、などですね。

軍神を通過させたことが、問題となって、
新伊都=三雲大王には、爾支弟さんの方が擁立されて、
お兄さんは、爾支になって、旧奴国領域の鎮圧の役目を与えられた、ということでしょうかね。

614 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 22:07:30.51 ID:MA4AFpQjw
縄文土器のうち、丸底のものや、
深鉢などで、底があるけれども非常に小さい底で、
縄文時代の竪穴住居の土間ではたして直立していられたのかどうか、
というものは、
水上生活者アマが舟の上で使うのが主目的だったのかもしれませんね。

後の庄内式や布留式と同じで、
揺れる舟の上で固定するなら、底は意味がなく、
木枠に嵌めて固定することになりますからね。

>>606
>家船で夏は北上、冬は南下の移動生活をする水上生活者と、

三内丸山遺跡でヒスイが出土したり、
各地の黒曜石が遠距離移動したり、
というのも、
そもそもの住人が水上生活者で漂って生活していたのですから、
交易とも言えますし、広域経済活動とも言えますね。

615 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 22:09:53.55 ID:MA4AFpQjw
>>609
一大國の有三千「許」家
については、
余の誤写として三千家余りと訳すことが多いですが、

壱岐島一大國での滞在を「大率に許可されている」家船水上生活者並びに陸上生活者が三千家

と訳した方が、
倭人伝全体での意味が通りますね。

許と余では誤写するにも字体が違いすぎますし。


縄文時代の丸木舟が出土したのは関東千葉県が圧倒的に多いそうですが、
大半がハツカネズミ来襲直後の3000-4000年前のようです。

古代の木材は、現代の石油に匹敵する貴重な材料兼燃料ですので、
全国の古代全時代において、建物もそうですし、舟もそうですし、
木材は大事にリサイクルされ、最後は処断して薪としても有効利用されたわけですね。

それが千葉県から丸木舟が大量に出土するということは、
アマといえども陸上母港はあるわけですから、
ハツカネズミによって蹂躙された九州〜四国本州の人々が、
大混乱の中、必死に東へ東へと逃げて、
本州東の千葉県に追いつめられた。

千葉県から先は、寒冷な東北地方へ北上するしかなく、
しかもハツカネズミは彼らを追い越して行く先にも満ち溢れたので、
ハツカネズミ避難民が千葉県に短期間吹き溜まって、
再利用しきれない破損丸木舟が朽ち果てた、ということでしょうかね。

616 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 22:11:32.40 ID:MA4AFpQjw
『天地初發之時 於高天原成~ 名 天之御中主~
 (訓高下天 云阿麻 下效此)
 次高御??日~ 次~??日~
 此三柱~者 並獨~成坐而、隱身也

 次 國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時
 (流字以上十字以音)
 如葦牙 因萌騰之物而成~』

天地開闢の時、高天原に神様が現れました。
天之御中主、高御??日~、~??日~、と名づけられました。
(「高」の下に記載した「天」は訓読みで「アマ」と読みます、以下の文中でも同様です)

この三柱の神様たちは、いずれも一人神でしたので、姿を隠されてしまいました。

その次に、國がまだ幼く、あぶらのように、クラゲのように、漂っていた時、
葦の芽のように萌えあがってきたものによって神様が誕生しました。

617 :日本@名無史さん:2023/06/05(月) 22:20:12.79 ID:MA4AFpQjw
弥生時代の開始時期に、早良平野に有力勢力が上陸したことがありました。

伊邪國アマの大頭領と、太伯集団の有力者と、燕系東方集団の有力者です。

この三者はこの当時はそれぞれ別々に行動していたので定着できず、
早良平野からは一旦手を引きました。

その次に、当時まだ縄文時代の延長で、
北部九州の国民の大半が家船アマとして、
あぶらのように、クラゲのように、漂うように水上生活をしていた時に、

618 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:04:20.98 ID:JCsm4OK6n
縄文日本列島に水上生活者がいたように、
古代大陸沿岸にも水上生活者がいたのでしょう。

古代に東シナ海を渡ってくるのであれば、
意図的な渡海ではなく、戦災や天災による不慮の漂流なわけで、
確率論からすると、
漂流に生きのびて渡来してくるには水上生活者の確率が高くなります。

>>263
倭人については、縄文時代に相当する記録も残っていることから、
日本だけにいたのではなく、環東シナ海一帯に居たのではないか、
とか、
元々大陸側にいたのが、日本にやって来たのではないのか、
と考える識者も多いですね。

619 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:05:28.47 ID:JCsm4OK6n
魏志倭人伝
『男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫
 夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害
 今倭水人好沈沒捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後 稍以爲飾
 諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
 計其道里 當在會稽東冶之東』

魏略逸文
『其俗男子皆点而文 聞其旧語自謂太伯之後
 昔夏后少康之子封於会稽 断髪文身以避蛟龍之害
 今倭人又文身以厭水害也』

大陸側の沿岸部にあった国家は、呉越や斉燕であり、倭国はありませんよね。

のであれば、
古代中国において、倭人とは特定の部族や国民を示すのではなく、
沿岸の水上生活者全般のことを倭人と呼んでいたのではないか。
つまり蛋民の古語が倭人であった、可能性がありますね。

日本は国が続いているので、アマという言葉が残ったが、
大陸側は入れ替わりが激しいので、倭人という言葉は日本関連でのみ残って、
蛋民に変わったと。

そう考えると、用語の問題であって、
古代中国側にいた水上生活者も倭人。
古代日本側にいた水上生活者も倭人。

後に九州のアマが自分たちを倭人倭国と自称し始めたからややこしくなった。

倭寇も、日本の倭の意味も入ってはいるが、
日本とは関係なく、主に海で暮らす海賊という意味も含んでいることになって、
日本人以外の人々がむしろ多かったという実態と合ってきますね。

620 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:06:39.14 ID:JCsm4OK6n
古代の大陸側では、倭人=水上生活者が、「斷髮文身以避蛟龍之害」をしていた。
少康之子が会稽に封じられたり、
太伯が会稽に移動したり、
した際には、沿岸地方では一大勢力だった水上生活者集団の風習を取り入れることで、
それを配下においてコントロールした、ということになりますね。

ですから、陸上国家としては、呉越ですが、
呉越沿岸部の水上生活者として、呉の倭人や越の倭人がいた、のではないか。

家船で暮らす倭人であれば、東シナ海を漂流したとしても、
生きて日本列島や半島に漂着する可能性が上がりますし、
家財道具生活道具一式を運んできてくれます。

ただ、倭人は水上生活者ですから、稲作や養蚕(桑)とは相性が悪いはずですね。
中国倭人だけの家船が漂着した場合は、日本側のアマにとっては、
あまり目新しい進展はなかったかもしれません。

そこで、
>>511
陸上生活者である太伯集団が、戦災によって、倭人の家船に乗せてもらって避難した。
台湾あるいは南西諸島に避難移動中に、台風などに遭遇して漂流した。
ごく一部が九州や半島の西岸に漂着し、
長崎伊邪國に、ねずみ返し、養蚕、青銅器、をもたらしたのではなかろうか。

621 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:07:53.39 ID:JCsm4OK6n
伊都説で考えた場合に想定される渡来勢力について、
家船倭人の要素を検討してみます。

>>113
斉の土笛難民については、
北部九州に居つけなかった=王族や技能者のいない一般人集団だった、
可能性が高いので、
一般人集団が対馬海峡までたどり着いたことから、
まずまず「水上生活者」の家船集団だったことになりますね。

>>355
徐福の場合は逆に、1回目の来倭時に神薬入手に失敗して、
一族郎党ですぐにでも逃げだしたいのに、
2回目の来倭のために時間をかけて準備をしていることから、
まずまず「陸上生活者」の集団亡命だったことになります。

>>312
一番重要な燕さんたちは、半島への影響力が強く、
衛氏朝鮮時代も経ていますから、
陸上生活者も水上生活者もどちらも来ることが出来ますね。

特に、陸地伝いの陸上生活者については一番濃厚に渡来していたことになります。
神a派や神b派など、大規模集落遺跡を成しているのもそのためですね。

>>557
奴族だけが中国側からではなく、沿海州からで、
しかも乗馬の風習があった、ということですね。

622 :日本@名無史さん:2023/06/08(木) 03:08:33.51 ID:JCsm4OK6n
2万年以上前にO1B1とO1B2が分かれた場所が中国だと、
出発点が近すぎて、その後中国で混ざり合ったはずですから、

遥か西方の中央アジアで分かれて、東へ押し出され、
O1B1はヒマラヤ山脈の南側ルートを東進して、自生稲地帯に至って稲作開始。
O1B2はヒマラヤ山脈の北側ルート、つまりシルクロードを東進して、沿海州へ。

2万年ぶりに中国北部や日本列島で再会したのではないでしょうかね。

623 :日本@名無史さん:2023/06/11(日) 19:29:56.71 ID:ulR2Z6xNh
棺に対して蓋が巨大とのことですから、
X印は荒神谷や加茂岩倉と同じ意味合いの卜占貞人による封じでしょうかね。

幅が小さく小柄な女性か子供とのことですね。

石棺なので女系はアマ勢力。かつ太伯系の親族あり。

釧ならワニ系で、貝輪なら70年以前。銅釧なら70年以降。

蛇行剣が出ればぬなき入ヒメと地名が一つ確定するのですがね。

624 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:01:13.86 ID:r40R1t5mJ
>>619
言葉で考えると、水上生活者を示す言葉が、

周代の中国「倭人」
縄文時代の日本「阿麻」アマ

現代の中国「蛋民」
現代の日本「蜑人」アマ

という、可能性がありますね。

太伯集団のアイデンティティについて検討すると、
周王家の直系である太伯系が、倭人と自称していたわけですね。

ということはつまり、
伊邪國に漂着渡来してきた太伯集団の末裔の主流は、
自分たちを倭人=水上生活者と認識していたことになり、
九州側で言うところのアマ集団の一部になっていたことを示唆します。

625 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:02:59.88 ID:r40R1t5mJ
縄文時代の地理を考えると、
そもそもの伊邪國=長崎県には、現代ですら広い平野が無い。
ましてや縄文時代なら尚更だったでしょう。

支石墓(石棚墓)が太伯集団の足跡だとして、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の勢力範囲内で東に住む許可をもらっても、

背振山系の南は阿邪訶(あ・ざか)で、当時まだ佐賀平野は無く、干潟と山坂だけ。
背振山系の北で末蘆國や筑紫日向まで出るとようやく平地があるけれども、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の本拠地ですから、
すぐには入居させてはもらえなかったのですね。

626 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:04:12.50 ID:r40R1t5mJ
石棺墓は縄文時代には無く、弥生時代になってからで、
支石墓の下部構造として出現しますから、
太伯集団がもたらした可能性が高いですね。

これら石棺墓が基本的には海岸沿いに分布しているのも、
太伯集団が周語「倭人」=倭語「阿麻アマ」として渡来初期を過ごしたことを示唆しています。

太伯集団が漂着渡来してきて、ねずみ返し、養蚕(四眠蚕)、青銅器、支石墓(石棚墓)、石棺墓をもたらした。
けれども、
伊邪國には、広大な平野や、広大な真砂土地域がなかったために、
渡来初期を水上生活者として過ごすことになり、
その時期が数世代続いた。

ねずみ返し(稲作の再開)や養蚕(絹生産)など目玉商品は縄文人に伝わったけれども、

太伯集団の細かい陸上生活風習(鼎や中国式農工具など)は伝わらなかった、
と説明できますね。

627 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:20:19.51 ID:r40R1t5mJ
太伯集団は家船生活を続けるうちに、中国にいた頃の風習をだいぶ喪失して、
抜歯をはじめ九州縄文アマ文化への同化が進んだわけですね。
>>527
投馬國出兵時には、石棺墓は既に少数派となり、
出土人骨も縄文系となっています。

支石墓は壱岐対馬に到達することなく消滅しますので、
この戦役で太伯系純度の高い人物が多数亡くなったのかもしれませんね。

だから吉武高木大王は木棺墓で、縄文系。
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の系統でしょうね。

ただ、文身の風習があるので、
太伯系貴種の血筋自体は、残っていた可能性があります。
残っていたとしたら、石棺墓か甕棺墓、(+標石)の可能性が高いですね。

少しでも太伯系の血筋が入っている人、あるいは血筋の繋がらない親戚とかであっても
太伯の末裔を名乗る利点があるとしたら、
中国勢力との外交・交易ですね。
なんといっても周王族の血筋ですから、
例えば燕商人相手に、絹と青銅器の交換取引をする時に、
舐められずにすみます。

628 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:22:46.69 ID:r40R1t5mJ
夢想するならば、
7300年前の九州縄文人に、既に家船アマがいたのではなかろうか、ですね。

もし、いた、と仮定してみますと、
7300年前の鬼界カルデラ破局噴火時の様相が見えてきます。

何ごともなかった火山が、ある日突然破局噴火をするということはなく、
その前にも何度もそれなりの噴火はしますので、
先日大変だった沖縄のように、軽石が漂着してきますね。

鬼界カルデラからだと黒潮に乗るので、九州東岸全域が軽石で覆われて、
沿岸航海すら難しくなっていたわけですね。

そこに破局噴火が起きた場合、火砕流は時速100km以上なので逃げられませんが、
九州東岸だと、火山灰の降灰から逃げようとした家船集団がいたのかもしれませんね。

大量の火山灰が降って来て、そのままだと埋もれてしまう。
かといって、沿岸には漂着軽石が堆積していて沿岸航海はできない。

軽石が少ない沖へと漕ぎ出すしかなかったのではないでしょうか。

大分県沿岸からであれば、沖に漕ぎ出しても、そのまま四国沿岸や瀬戸内海がありますから、
陸地に避難できますが、
宮崎県沿岸の家船集団は、命からがら沖に漕ぎ出して、
そのまま太平洋に乗り出してしまった。

629 :日本@名無史さん:2023/06/12(月) 23:25:18.49 ID:r40R1t5mJ
コロンビアの墜落事故で、先住民の子供4人がジャングルで40日間生きのびて生還したそうですね。
ジャングル生活のエキスパートの生存能力に、世界中が感服しましたね。

同じことで、
縄文時代の家船集団であれば、人類史上最も海上サバイバルに習熟したエキスパートですから、
彼らが家財道具一式を積んだ家船で沖に漕ぎ出して、
海上で数艘数十艘、あるいは数百艘が舟体を結び付けて安定させると、
そのまま海上集落となりますね。

海上生活の道具、保存食糧、などもあるし、
水の補給(雨
遊撃舟による漁、狩り、
など、
現代の我々では想像もつかないほど高い能力で、太平洋を漂流しながらも生きのびた。

台風など嵐にさえ遭遇しなければ、かなり高い確率で長期間生きのびることが
できたのではないでしょうか。

ですから、インカ帝国のYAP遺伝子、
エクアドルのHTLV遺伝子配列や縄文土器、
などは宮崎県縄文人の家船アマが・・・。

630 :日本@名無史さん:2023/06/13(火) 23:00:46.47 ID:cRyD13KI0
中国の最古の水田が6000年前。
稲作の開始自体は1万年以上前。

実在が証明されている殷が3700年前。
殷の前の夏王朝を二里頭遺跡に比定しても4000年前ですから、
稲作開始から国家形成までは数千年のギャップがあり、
農耕開始による人口増加というのは、国家形成の必要条件ではあっても、
十分条件ではないということですね。

では何が条件かというと、金属製武器=青銅器の登場ですね。
これはエジプトでもインカ帝国でも、世界のおよその国家形成に当てはまります。

理屈は簡単で、
国家形成するには、支配勢力が、多数の被支配勢力を支配しないといけない。

お互いに石器までしか持っていないなら、自然界に溢れる石器で同等の武装がいくらでも作れるので、
軍事力=人口であり、
どのムラだろうが他のムラに作物を献上なんてしたくありませんから、
あちこちで独立祭りになって、広域支配国家は形成しがたい。

入手源が希少である青銅器あるいは鉄器だからこそ、
鉱山〜青銅資源入手ルートを押さえた勢力は、それを持たない勢力に対して、
青銅製武器の有無で圧倒し続けることで、広域支配を継続できるわけですね。

631 :日本@名無史さん:2023/06/13(火) 23:01:46.00 ID:cRyD13KI0
北部九州でも同じことで、
菜畑遺跡に最古の水田が登場したのが前10世紀。
吉武高木遺跡に王墓が出現したのが前4世紀ですから、
実に600年ほどの時間差がありますね。

前10世紀に太伯集団が青銅器技術をもたらしたものの、
燕国はまだはるか遠方で青銅原料の供給がわずか過ぎたわけですね。

その後、燕は次第に半島への影響力を強めてゆき、
倭人も次第に半島への足掛かりを伸ばしていったことで、
青銅器入手ルートが強化されてゆき、

>>291
対馬海峡を介した青銅器の安定供給が一定量を超えた時点で、
青銅器武器軍隊で他勢力を軍事的に従わせることが可能になり、
吉武高木大王が誕生することになります。

632 :日本@名無史さん:2023/06/13(火) 23:03:37.36 ID:cRyD13KI0
後の鉄砲伝来の時と同じですね。
海外勢力がいきなり鉄砲軍隊で侵略してくるのではなく、
技術だけ小出しに伝えてくれたので、(種子島伝来
それを取り入れて国産化する時間が稼げた。

そのおかげで信長秀吉の頃には日本は世界有数の鉄砲大国になっていたから、
侵略されることなく、家康が西洋軍を追い払って鎖国できたわけですね。


弥生時代も同じで、
燕系軍団がいきなり青銅製武器軍隊で侵略してくるのではなく、
少数漂着の太伯集団が技術を伝えてくれていたので、
青銅器を取り入れて国産化する時間が稼げた。

ので、
後に神ab派や甲羅派が多数亡命してきたり、
>>354
徐福集団が来訪したりしても、

>・蓬莱山には宮殿があって、銅色で龍形の蓬莱王使者が面会してくれて、光り輝き天を照らしていた

既に青銅製武器での武装が完了していたので、
縄文系吉武高木政権は侵略されることなく、
神ab派甲羅派徐福集団は辺縁に入居するしかなかったわけですね。

633 :日本@名無史さん:2023/06/13(火) 23:06:50.86 ID:cRyD13KI0
方程式を解いてみましょう。

条件A<高床式倉庫にはねずみ返しが必須>

4000年前にハツカネズミが日本列島全体、樺太まで押し寄せますね。
よって、それ以降は、作物を貯蔵するならハツカネズミ対策が必須になります。
よって、高床式倉庫にはねずみ返しを設置するのが必須となりますね。
ねずみ返しは正倉院にもついています。

条件B<板を作るには金属器が必須>

ねずみ返しは板ですから、製材するのに金属製のヤリガンナが必須です。
ねずみ返しと、青銅器を、セットで太伯集団が伝えてくれたのですね。

条件C<弥生時代の青銅器鉄器は全て対馬海峡経由で輸入された>

時期によってワニだったり変化したでしょうが、
ここでは「大率」が総元締めとしておきます。

条件D<水田で大量生産した稲は高床式倉庫で保管する>

ハツカネズミ対策だけなら、土器に密閉して土中などに保管する方法もありますが、
保管量が限定されますね。
収穫した稲穂、あるいは稲荷(米俵)は、高床式倉庫に山積みして保管するのが普通です。
後の時代もずっとそうですし、

ttps://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/188
魏志倭人伝にも、徴収した年貢を邸閣に保管していたとあります。

634 :日本@名無史さん:2023/06/13(火) 23:08:53.34 ID:cRyD13KI0
条件ABCDを連結して解くと、

弥生時代に水田を営むには、
収穫した稲を保管するために、ねずみ返し付きの高床式倉庫が必須であり、
ねずみ返しを作るための青銅器が必須であるから、
普段は伊都で執務している「大率」と親密でなければならなかった。

青銅器も消耗品ですから、
水田を長期間営むには、
遠賀式土器保有者によるねずみ返し伝達(単発の技術伝来)のみでは不十分で、
「大率」との<長期間の友好関係>が無ければならなかった、
ことになりますね。

よって、ある地域の水田が営まれている間=大率と親密
水田が破棄される=大率と敵対あるいは大率との接触ルートが遮断されて青銅器供給を止められた
という事象が想定されます。


大率と長期間敵対していた地域や集団は、
金属器を入手できなかったし、
水田を営むこともできなかった(苦労して収穫してもハツカネズミに食べられる)
ということですね。

635 :日本@名無史さん:2023/06/14(水) 23:25:45.00 ID:3JgFOPUpN
松菊里遺跡というものがありますね。

巨大な環濠集落
方形住居群と、竪穴住居群の2集団
竪穴住居には、中央土壙の両端外もしくは中に柱穴2つがついた松菊里型住居がある
水田跡
石棺墓、木棺墓、甕棺墓(子供)
松菊里型住居から、遼寧式銅剣や扇銅斧など燕系青銅器

といった遺跡で、
松菊里型住居、燕系青銅器、石棺墓、の組み合わせは、
朝鮮半島各地や日本列島各地でも多数見つかっていますね。

少し前までは、
松菊里遺跡こそが日本に稲作を伝えた拠点であって、
松菊里型住居の渡来人が多数来日して弥生時代を開始したのだ、
と考えられていましたね。

636 :日本@名無史さん:2023/06/14(水) 23:26:45.56 ID:3JgFOPUpN
ところが炭素年代で測定していくと、
東夷世界で最古の水田は、朝鮮半島南東端〜北部九州になってしまいました。

対馬海峡を挟んだ菜畑遺跡とオクキョン遺跡
佐賀県小城市の石木中高遺跡

オクキョン遺跡 孔列文土器 突帯文土器 前11世紀
石木中高遺跡 黒川式土器(孔列文土器) 前11〜9世紀
菜畑遺跡   山ノ寺式土器(突帯文土器) 前10世紀

炭素年代の幅もありますし、
また遺跡で見つかる土器が必ずしもその遺跡での最古のものとは限りませんから、
これらの遺跡はどこが先とかではなく、
伊邪國倭人勢力の同一圏内での出来事である可能性も高いですね。

637 :日本@名無史さん:2023/06/14(水) 23:27:43.38 ID:3JgFOPUpN
松菊里型住居というものについても、
松菊里遺跡のものについては当初は前5-4世紀と言われていたのですね。

一方で福岡県糟屋郡粕屋町(不彌國)の江辻遺跡も松菊里型住居のみで構成された環濠集落で、
弥生時代早期で前8世紀とか言われています。

でもって、いつからか松菊里遺跡のも前8世紀とも言われていますが、
松菊里遺跡は極めて貴重な遺跡なのに埋め戻されていてよくわからないのですよね。
松菊里遺跡の石棺墓に副葬された遼寧式銅剣が元々前6世紀と考えられていたのを
これは前8世紀だと繰り上げた学者がいて、そのせいのようにも思えますが、その根拠がよくわからない。

遼寧式銅剣は中国東北地方における発祥は前11世紀よりは遡らない。
これが朝鮮半島に伝わったのは前7世紀以降という話もあって、
なんだかぐちゃぐちゃですね。

638 :日本@名無史さん:2023/06/14(水) 23:31:30.59 ID:3JgFOPUpN
日本列島側において、
松菊里型住居、と呼ばれる建物について考えてみると、

・江辻遺跡を除けば、普通の竪穴住居に混じって、1軒あるいは少数の松菊里型住居がある
・青銅器が見つかることが多い
・今川遺跡(環濠集落、遼寧式銅剣を再加工した有茎両翼銅鏃や銅鑿)
・堅田遺跡(環濠集落、ヤリガンナ鋳型)
・石棺墓を伴うことが多い

などの特徴がありますね。

普通の竪穴住居に混じって、少数の松菊里型があることから、
特定の「機能」を有した建物である可能性が高い。
そしてそれは青銅器に関連したものであろう。

639 :日本@名無史さん:2023/06/14(水) 23:32:59.54 ID:3JgFOPUpN
青銅器の鍛冶炉、でしょうね。
江辻型青銅鍛冶工房。

炭を燃やして風を送れば、1000°くらいになります。

銅の融点は1085°ですが、錫を混ぜることで融点が下りますね。
錫30%で約700°だそうです。

燕国で精錬された青銅器を輸入して、坩堝(るつぼ)で溶かして斧やヤリガンナに加工したわけですね。

坩堝(るつぼ)に青銅片を入れて、炭で熱して溶かすわけですが、
坩堝は土器でいいとして、
坩堝を掴む金属器という贅沢品が無かったわけですね。

前3世紀くらいになって燕勢力との交易が本格化するまでは、
青銅器は超貴重品であって、
一つのムラにヤリガンナ一つとか、複数のムラに一つとかで、
それを大事に使って、傷んできたら、
再度溶かして、鋳型に流し込んで再生させて、何度もリサイクルしていたわけですね。

ですから、坩堝をつかむ金属器などはなかった。

両腕のついた土器製の坩堝
炭を燃やす土壙炉の両端に柱を立てて、
坩堝の両腕に紐を結んで炭火の上に坩堝をぶら下げて熱したわけですね。

この方法なら、
土壙炉の側に鋳型を置いておいて、
坩堝の中の青銅が溶けたら、横から木の棒で押して傾けて流しこめばいいですね。

江辻型青銅鍛冶工房、には、1間×〇間の細長い掘立柱建物が付属していることが多いですが、
これは薪あるいは炭置き場でしょう。

640 :日本@名無史さん:2023/06/14(水) 23:38:06.98 ID:3JgFOPUpN
土壙炉の内部に柱穴が開いているタイプは、青銅器破砕用ですね。

遼寧式銅剣など細長い物や、大きな物は、
小さく破砕しないと坩堝に入りませんから、
熱して柔らかくして石斧などで破砕する。

この場合は吊るしていては叩けませんから、
土壙炉の中の穴二つに、融点の高い岩(低い石柱)2つを置いて、
その間に遼寧式銅剣を橋渡ししてから、炭で熱します。

銅剣が柔らかくなってきたら、岩と岩の間の熱せられて柔らかくなった部分を
石斧で叩き割ったわけですね。


ちなみに、平原遺跡などの破鏡に、錆色塗装なるものが認められますが、
これは破鏡にするため熱して破砕した時に起きた変化でしょうね。

弥生時代にダイヤモンドカッターなどありませんから、
石柱2つの上に銅鏡を置いて、下から炭で熱して、
柔らかくなったところを石斧なり北部九州倭国なら鉄斧なりで破断する。

熱することで表面がある程度溶けるので、それまでについていた錆や緑青が、
銅鏡の一部として本体表面に溶け込んでしまった、ということですね。

特に、平原遺跡の大型銅鏡群の場合は、分厚いですから、
芯まで柔らかくするのにより高温で長時間熱する必要があったでしょうから、
錆色塗装変化が強く起きたことになりますね。

641 :日本@名無史さん:2023/06/15(木) 04:58:39.16 ID:V21pI/77f
吉野ヶ里遺跡は残念でしたが、
今回の墓?が邪馬台国時代のものであるなら、
九州説はいよいよ伊都説に集約されるのに一歩近づいたことになりますね。

もちろん吉野ヶ里遺跡は弥生時代の最も重要な遺跡の一つであり続けますが、
集落部分で既に、倭国乱の頃に大きく衰退したことがわかっていましたね。
戦死体も出土していましたから、倭国乱の戦地となって衰退した可能性が高かった。

邪馬台国時代の有力者の墓が石囲のこれでは、
ほぼ同時期の平原女王墓と比べてあまりに墓の規模も形式も違うことになり、
邪馬台国でもないし、邪馬台国を南に比定しようとしても、
吉野ヶ里を経由地にする説がもう厳しいですね。

他説が九州説の振りをして、吉野ヶ里を伊都説の対抗馬として攪乱する戦法ももう使えなくなりました。

>>178
>>179
伊都を首都とする邪馬台国と、南の狗奴国が戦った。

狗奴国王の動きは、過去に予測した通り、
筑後で狗奴国勃興
(伊邪國難升米父と同盟して対馬海峡保有)(伊都から免田式土器)
→肥前川上<全盛期・曹操鉄鏡入手>
(難升米が卑弥呼側に寝返る)
→筑後→肥後
だった可能性が高いわけです。

642 :日本@名無史さん:2023/06/15(木) 05:09:55.54 ID:V21pI/77f
一方では、そもそも、巨大な蓋石の時点で、弥生時代後期の石棺墓と大きくちがうのに、
何をもって弥生時代後期としたのかが不明ですね。
底が土なので支石墓系の石囲土壙墓もしくは木棺墓だった可能性もあります。

弥生時代後期であれば、線刻で封じをしている節から、封印したい人物。
ということは、疫病で病死した人物の可能性があり、蛇行剣やぬなき入ヒメが候補に挙がったわけですね。

しかし支石墓の流れであれば逆に非常に古いものだった可能性もありますね。

あと気になるのは線刻で、
「男女多黥臂點面文身 没水捕魚
 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字
 知卜筮尤信巫覡」
吉野ヶ里近辺は卜占や貝輪多数副葬女性やらで、隋書倭人の特徴に合致してきます。

卜占の甲骨文字の流れかもしれませんし、
九州の巨石などにはペトログリフが刻まれたものがあり、
縄文人の線刻文字
あるいは中国では絶えた、古代中国の一地方における線刻文字が漂着民によって伝わったのが残っていた、
という可能性もありますね。

未盗掘というのも、4枚の蓋石のうち1枚だけが裏返しだったことや、
棺内になにもなかったことなどから、
実は一枚裏返しの部分だけ開けて盗掘されて、裏返しに戻したのではとも思われますよね。

何にせよ貴重な発掘イベントでしたね。感謝です。

643 :日本@名無史さん:2023/06/17(土) 20:44:21.76 ID:jRJPmK8V+
卑弥呼が伊都国に居たのは間違いなく北部九州地域全域が邪馬台国なのも確定だが
邪馬台国の範囲と狗奴国の範囲が次の問題だな

644 :日本@名無史さん:2023/06/17(土) 20:49:48.52 ID:jRJPmK8V+
表題は少しおかしいな
女王之所都=邪馬台国(北部九州地域)
女王之所都しない国=投馬国(朝鮮半島南部地域)
邪馬台国の首都が伊都国

645 :日本@名無史さん:2023/06/18(日) 20:11:29.23 ID:93IpyhXRh
>>644
鋭いですね。伊都説の方たちによって解読された重要ポイントの一つですね。

三国志東夷伝は北から南へと順に記載されていて、
韓伝の次が倭人伝で連続記載されていますね。

「馬韓 有西
 〜凡五十餘國 大國萬餘家 小國數千家 総十餘萬戸」

「弁辰韓 合二十四國 大國四五千家 小國六七百家 総四五萬戸」

「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
 官有〜 可七萬餘?」

要するに、韓伝で2回も、
「地方自治体としての國々があって、その総和が全体の〇万戸ですよ」と念を押されているのですから、
続く倭人伝でも、その法則を当てはめて読めばいいだけですね。

旧)昔はその法則を当てはめずに、
里程最終の不彌國から、日程を繋げて邪馬壹國七万戸の位置論争をしていました。

その場合の訳は、
>(投馬國から)南に進むと、邪馬壹國に至る。
>邪馬壹國は女王卑彌呼が都とする場所で、(投馬國から)水行十日陸行一月である。
>邪馬壹國は(前掲の国々とは別に)約七万余戸である。

となって、弥生時代最大の人口密集地である奴国弥生銀座二万戸を凌ぐ
弥生時代七万戸(+投馬國五万戸)を比定する必要が生じて解読不能になっていたわけですね。

646 :日本@名無史さん:2023/06/18(日) 20:13:33.06 ID:93IpyhXRh
伊都説)里程と日程は並列であり、
邪馬壹國は北部九州の広域国家で、首都が伊都國。
水行二十日→水行十日→陸行一日、の墨書誤写である。

その場合の訳は、
>(投馬國から)南に進むと、邪馬壹國に至る。
>(邪馬壹國の中の)女王卑彌呼が都とする場所(=伊都國の西側=糸島平野)までは、(投馬國から)水行十日陸行一日である。
>邪馬壹國は(對馬國以降の大国小国の総和で)七万余戸である。

ですから、
邪馬台国の首都が伊都国
女王之所都=伊都國の中のさらに女王卑彌呼が都としている部分=伊都國の西部の三雲や高祖宮≒伊都國
女王之所都しない国=投馬国(朝鮮半島南部地域)+里程での伊都國以外の國々+餘旁國
となりますね。

考古学的にもすんなり収まります。

647 :日本@名無史さん:2023/06/18(日) 20:14:22.28 ID:93IpyhXRh
>>634
青銅原料の入手量によって、縄文社会から弥生社会への発展段階が設定できますね。
ざっくりとですが

入手量が最小の場合、まず必要なのがねずみ返しですね。
ねずみ返しが無ければ水田を開発してもハツカネズミが喜ぶだけですから、
食べていくために
まず必要なのが槍鉋ヤリガンナや鑿ノミということになります。
食料があっての文化文明ですから、それ以外の全ての青銅器は、ヤリガンナ・ノミの次になりますね。

青銅入手量がちょっと増えたら、
斧>石斧の約3倍効率にUP=木材伐採効率を上げる
もしくは
武器>他勢力の森林資源をいただく
ですね。
木材は古代の石油で、燃料であり材料でありますから。

そこから入手量が増えたら、
青銅製農工具、銅鐸 などの機能品
銅鏃>獲物や敵に撃ち込む贅沢品
になります。

弥生時代に当て嵌めると、
早期)ヤリガンナ・ノミ
前期)斧・武器
中期)銅鐸・銅鏃
後期)鉄器の安定入手→荒神谷・加茂岩倉遺跡での青銅器廃棄処置
となりますね。

648 :日本@名無史さん:2023/06/18(日) 20:15:06.27 ID:93IpyhXRh
そう考えると、
突帯文土器が東海地方までで、
遠賀川式土器が青森県まで、
というのは、
それぞれ水田稲作の普及とリンクしていることからも、
青銅原料の入手量の差によるものだった、と考えられますね。

太伯集団が伊邪國に青銅器をもたらして、その有用性を伝えたものの、
朝鮮半島を介した交易ルートはまだか細く、
しかも伊邪國の絹生産=青銅器を購入する資金も乏しかった。

ので、突帯文土器時代の伊邪國アマ勢力が入手できた青銅器では、
ねずみ返しを東海地方までしか安定供給できなかったわけですね。

649 :日本@名無史さん:2023/06/18(日) 20:16:54.36 ID:93IpyhXRh
そこで、伊邪国は豊国勢と婚姻同盟して、能古島に水軍を集結させて、
福岡平野の陸上生活者=伯玄社勢力を挟撃征服して、
花崗岩地域での桑畑、絹生産量を拡大。

青銅器購入原資を増やした上で、

>>527
半島側にも出兵して柳葉勢力に勝利して、燕勢力との交易ルートを安定させた。

結果、青銅原料入手量が増えたのと、
豊国に拠点を構築することができたことで、
遠賀川式土器が青森までねずみ返しを安定供給できるようになった=水田稲作の普及
ということですね。

650 :日本@名無史さん:2023/06/18(日) 20:20:03.78 ID:93IpyhXRh
そうなると、
>>522
確率論的には、

日本列島に稲が伝来したのが、6000年以上前。
a+b、もしくはbのみ。

>>636
最初の水田稲作が、a。

たまたまaだけを増やしたか、
b(長粒種)しかなかった日本列島に、太伯集団が持ってきたa(短粒種)を優先作付したか。


プラントオパールで証明されている通り、
6000以上前に稲は伝来しており、
災害や病害対策も兼ねて、稲、アワ、ヒエ、キビ、など稲科雑穀を全部栽培していた。

東日本にて、おそらく自然選択にて、次第に寒冷対応の稲が増えて、
縄文時代のうちに既に青森以北まで稲は雑穀の一つとして栽培されていた。

例えば北部九州から稲を持ってきて、
最初は越前では何とか育ったが、越中越後ではほとんど育たなかった。
それが
越前で稲を10年ほど栽培していると、10回の自然淘汰で寒冷に強い稲が選択され、
越中に持っていってみると結構育つようになっていた。
そこで越中で稲を10年ほど栽培してみると・・・越後で・・・。
という繰り返しですね。

651 :日本@名無史さん:2023/06/18(日) 21:17:15.51 ID:93IpyhXRh
>>649
宗像市の田久松ヶ浦遺跡がその名残りで、
木棺墓・土壙墓・小児用甕棺墓
つまり石棺墓(太伯集団)ではなく、豊国のプレゼンスを維持している。

豊国のプレゼンスを維持しつつ、
石剣を副葬品として(青銅製武器はまだ)
柳葉形磨製石鏃との戦いに参加していた。

ということですね。

652 :日本@名無史さん:2023/06/18(日) 21:34:32.93 ID:93IpyhXRh
板付遺跡も婚姻同盟の名残りで、
夜臼式(柏崎式)土器(刻目突帯文土器)と、
板付T式土器(遠賀式土器)、
そして大陸系磨製石器が出土している環濠集落ですから、

長崎伊邪國アマ、太伯倭人と、
豊国八雷神と、
が同盟して福岡平野の陸上生活者=伯玄社勢力を挟撃征服して、

福岡平野は敵地なので、環濠集落を形成して、
Jアラート銅鐸を配備して、

花崗岩土壌での桑畑=絹生産増加を原資として、
大陸の燕勢力との青銅原料取引を増加させるのと、
柳葉勢力を圧倒するのと、で
勢力拡大して、

遠賀川から東方へ、
水田拡大と、木材・炭の入手量増加のため入植していったわけですね。

653 :日本@名無史さん:2023/06/19(月) 07:18:28.53 ID:PKE+o8rRY
>>646
伊都国説の解説はユーチューブのゆっくり動画に挙げてある
「トンカラリン」「邪馬台国」で検索すると1〜5の5つの動画がある。

654 :日本@名無史さん:2023/06/19(月) 07:36:45.94 ID:PKE+o8rRY
邪馬台国(女王の勢力圏)の東には海があるから豊の国まで邪馬台国に含んでいたと考えられるが
南がどこまでか?
火の国も邪馬台国であり、南九州の熊襲が狗奴国なのか
境界線はどの辺りか。

655 :日本@名無史さん:2023/06/19(月) 07:45:56.49 ID:PKE+o8rRY
>>1
『自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國』
(女王卑弥呼は)女王国の北の国々については、一大率を特設して検察させていました。諸国は大率を畏れ憚っていました。
(女王卑弥呼は)常に伊都國で(一大率を使い女王国の北の国々)治めていました。
主語の(女王卑弥呼は)を補って読むと意味が分かる。

656 :日本@名無史さん:2023/06/19(月) 20:54:18.17 ID:2grBz54us
なるほど。

あまりに畏れ多いので、
あくまでも伊都説であれば、のお話ですが。

稲そのものは縄文時代からあったわけですね。

日本列島というか東夷世界において、
水田稲作を開始した、すなわち弥生時代を開始したのは、

縄文伊邪國のアマ大頭領であり、
漂着渡来して周語倭人=倭語アマの一員となった周王室末裔をも配下に従えた、

伊邪(伊耶) ノ (爾)支

であったのですね。

さらに、
遠賀川式土器をもって、日本列島全域に水田稲作を広めた大いなる母系こそが、

骨取り神事の山鹿貝塚豊国女王すなわち、

伊邪(伊耶) ノ (彌)彌

であった。

ということになりますね。

657 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:34:26.62 ID:hiEvmwobm
弥生時代前期における、江辻型青銅器工房の分布について、
代表的なものは以下のようですね。

四反田遺跡 (佐世保市)環濠なし

江辻遺跡 (糟屋郡粕屋町)環濠あり、大規模

今川遺跡 (福津市)環濠あり、銅鏃
備後守屋舗南側土塁跡遺跡 (北九州市)環濠あり

下稗田遺跡 (行橋市)環濠なし

堅田遺跡 (御坊市)環濠あり、日本最古のヤリガンナ鋳型
田村遺跡 (南国市)環濠あり


環濠の有無が統一されていないことから、
環濠をわざわざ作って維持していたことには意味があることになり、

環濠集落=アウェイの森林資源を燃料にした
環濠なし=ホームで営まれた
青銅器工房だったと仮定できますね。

658 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:35:09.23 ID:hiEvmwobm
やはりというか、
伊邪國の四反田遺跡に環濠が無いことから、

四反田遺跡は伊邪國勢のホーム工房だったのでしょうね。

江辻型青銅器工房の最古のものは、
当然ながら太伯集団が漂着した伊邪國のどこかにある可能性が高いですね。

>>636
よくよく考えてみれば、
最古の水田がこのエリアで作られたのだから、
ねずみ返しが安定入手できる目途があるから水田を作ることにしたわけで、
方程式を解くがごとく、
青銅製ヤリガンナを安定保有できたことを意味しています。
となると、青銅器メンテナンスのために、青銅器工房もあったことになりますね。

659 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:36:38.76 ID:hiEvmwobm
ただし、
倭人=アマ=水上生活者なのであれば、
母港があるとはいえ、領地に縛られることなく、
アブラのようにクラゲのように海沿い広範囲を移動していたのでしょうから、
燕から青銅原料を入手してすぐ加工するために半頭側で工房が開発された可能性もありますね。

ただその場合もごく初期のものは自領で操業開始するでしょうから、
環濠集落ではないものが最古候補のものとなってきます。


最後の縄文土器である刻目突帯文土器は、
青銅器・炭・ねずみ返し・米、とった海運物流が一気に盛んになったので、
土器を大量に作らなければ需要に追いつかなくなり、
縄文を刻んでいる暇が無くなって、
簡素な文様になった、ということでしょうね。

日本の縄文土器発であることが覆せなくなってきたので、
シニ・ガイ文化を持ち出す方もいるようですが、
シニ・ガイ文化だと青銅器はあったようですが、稲作や支石墓形式が伴わないので、無理スジと思われますね。

660 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:38:48.79 ID:hiEvmwobm
江辻遺跡は、最大規模かつ江辻型青銅器工房のみで形成された、
青銅器鋳造専用の環濠集落ということになりますね。

アウェイの地で、森林資源を燃料にして工房を運営した。
つまり後の丹後半島や淡路島と同じで、
支配地外縁の森林資源で大型工房を運営した、と考えられます。

アウェイはアウェイとして、江辻遺跡が環濠で防御した相手ですが、

福岡平野の陸上生活者=伯玄社勢力を挟撃征服した結果なので、
伯玄社勢力から守るための環濠、と考えたいところですが、

ここで問題になるのが、
さらに東の、今川遺跡と備後守屋舗南側土塁跡にも、
環濠で防御した同時期の江辻型青銅器工房が存在しているのですね。

661 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:39:23.85 ID:hiEvmwobm
今川遺跡と備後守屋舗南側土塁跡の場所は、それぞれ古代出雲と古代伯耆であり、
古代豊国の領地ですね。

そこに環濠集落の江辻型青銅器工房が存在するということは、

伊邪國と古代豊国が婚姻同盟して、
福岡平野の伯玄社勢力を挟撃して征服したものの、
そのすぐ後に、伊邪國と古代豊国は夫婦喧嘩をして、敵対関係になった、
ということを示していますね。

記録されている通りですね。

662 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:43:41.39 ID:hiEvmwobm
伊邪國と古代豊国が夫婦喧嘩をして、
伊邪國アマが豊国沿岸に環濠集落を作って、豊国の森林資源を伐採して青銅器工房を運営していた。

豊国女王はぶち切れて、1日1000人ぶちのめす勢いで怒ったのですね。

けれども伊邪國勢は、環濠で防御しながら、
めげずに青銅器を生産し、水田を増やして、1日1000人増やす勢いで発展していった、
ということですね。

今川遺跡では銅鏃を作っていますから、
半東にて燕との盟約が成っていた。
まだ東方への圧が弱いですから、北方で燕さん達と共同戦線を張っていた可能性が高いですね。

663 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:45:07.61 ID:hiEvmwobm
次に目を引くのが、下稗田遺跡にも環濠が無い事ですね。

下稗田遺跡をホームとする勢力がいた。
小規模ながらも江辻型青銅器工房を運営していた。
ということは、対馬海峡を保有する伊邪國勢と仲がいい。

伊邪國から豊国を挟んでの九州東岸ですから、
伊邪國勢の飛び地ホームである可能性は低い。

>>608
となると、この一帯の海域(周防灘)を生活圏とする、アマ勢力がいたことになり、
伊都説であれば、彼らこそが、
八岐大蛇であったのではないか。
と思われますね。

664 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:46:26.95 ID:hiEvmwobm
下稗田遺跡にも石棺墓があるので、
縄文系アマ集団である八岐大蛇にも、太伯集団の男女が婚姻して入ったのでしょう。

さらに東方の堅田遺跡や田村遺跡は環濠防御しているわけですが、
八岐大蛇が関門海峡に存在していたのであれば、
これら東方の環濠集落の江辻型青銅器工房の「初期」は、八岐大蛇が運営していた可能性が高くなりますね。

ただ、八岐大蛇にとって不運だったのは、ホームである山口県西部や周防灘沿岸に、
花崗岩土壌が少なかったので、
背振山系との養蚕競争に勝てず、甕棺墓=養蚕有力者になれなかった、
のですね。


また、
間に挟まれた豊国八雷神にとっては踏んだり蹴ったりで、
伊邪國勢とは敵対して森林資源を伐採されるし、
八岐大蛇とは敵対してはいないものの、おそらく古来から献上しなくてはならなかった。

665 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:49:42.98 ID:hiEvmwobm
三国志東夷伝東沃沮条
『王? 別遣追討宮 盡其東界
 問其耆老「海東 復有人不?」
 耆老言「國人嘗乘船捕魚 遭風見吹數十日 東得一島
 上有人 言語不相曉 其俗常以七月取童女沈海」
 又言「有一國亦在海中、純女無男」
 又説「得一布衣 從海中浮出 其身如中國人衣 其両袖長三丈
 又得一破船 隨波出在海岸邊 有一人項中復有面 生得之
 與語不相通 不食而死」
 其域、皆在沃沮東大海中』

おそらくこれを読んでいたので、娘8人云々の話を残したのでしょうね。

東沃沮から日本海を漂流して島国に漂着して、しかもわざわざ記録に残したということは、
金印倭人に関連した情報と思われたからであって、
範囲的には八岐大蛇の勢力圏ですし、
童女云々の風習からも八岐大蛇でしょう。

王?が会話している老人が、言葉が通じなかった、と語っていることから、
八岐大蛇は倭語を話していた。(漢語ではなく)
つまりは太伯倭人集団が増えたのではなく、
縄文アマ集団が、太伯集団関係者をごく少数迎え入れたもの、だったことがわかりますね。

後に倒されますが、実は縄文数千年を共に過ごした同じアマ仲間であったということですね。

666 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:51:34.75 ID:hiEvmwobm
>>628
縄文時代に日本列島は自由に移動できたのですから、
温暖な西日本の方が、東日本よりも人口が多かった筈ですね。

にもかかわらず、
縄文早期から東日本の方が人口が多かったのであれば、
その差がすなわち、
縄文早期から、西日本には、家船生活者アマが大量に存在していた、ことを示唆していますね。

陸上文化が発達して長い我々から見ると、
水上生活者と聞くとなんだか遅れてるように感じますが、

縄文時代には水田もありませんし、
逆に水上生活者の方が清潔かつ海産物で食料も安定していた。
また古代は海上移動が基本ですから、
水上生活者の方が広域移動して物産や情報も手に入りやすかった。

縄文時代には、
水上生活者アマから見ると、
むしろ陸上生活者の方が不潔で遅れた集団に見えていた可能性がありますね。

667 :日本@名無史さん:2023/06/20(火) 21:55:30.56 ID:hiEvmwobm
>>575
伊都国王系東征将軍が、女性酋長の歓待を受けたものの、
嘔吐物を食事に出されて穢汚いと怒った。

弥生系稲作集団⇔縄文系集団の生活格差が原因とも思っていたのですが、

実は同じ縄文系の中における、
アマ集団⇔陸上生活者の差だったのかもしれませんね。

アマ集団の場合、飲み水だけは真水でなければならないものの、
入浴や洗浄は海水でもいいですね。

これが海水を使えない「内陸奥地」の集落となると、清潔度が全く違ったのではないか。
なので、水洗いというのがなかなかできず、
食した物を胃酸で消毒調理して、戻して出す、というのがご馳走だった。

そう考えると、オー月ヒメの所領がだいぶ絞られて、
金海式で新規獲得した地域で、
かつ、
花崗岩土壌で、(接収された後に桑畑
かつ、
内陸奥深く。(アマが見慣れない胃酸調理

久留米だと当時は海岸に近いので、
思いっきり内陸の嘉穂か、
もしくは旧三輪町などが候補になってきますね。

わざわざ記載されていることから、後に重要地点になったことから逆算された可能性があり、
前者だと立岩遺跡、後者だと大倭本部あるいは平塚川添遺跡などが絡みますね。

668 :日本@名無史さん:2023/06/21(水) 03:54:57.81 ID:ZodpWsHIU
伊邪(伊耶) ノ (爾)支

伊邪(伊耶) ノ (彌)彌
は兄妹だったのですから、
共に木棺墓の縄文系同族だったのですね。

前者の系統は吉武高木遺跡の木棺墓大王となったし、
後者の祖先もまた山鹿貝塚の木棺墓女王であった。
文献でも考古学でも縄文系ですね。

伊邪國と豊国が同盟して九州北岸を統一した。
豊国遠賀川流域を足場に、遠賀川式土器&ねずみ返しを携えて、日本列島全域に水田稲作を広めた。
この事業の主要港が稲場=鐘崎だったということですね。

>>662
増えるのは1日1500人でしたね。


一方で、弥生時代になって登場した、支石墓(石棚墓)→石棺墓が太伯系ですね。
少数の漂着渡来だったので、
出土人骨からもわかるように弥生早期のうちに、縄文アマにどんどん帰化同化していった。

>>481
サメ皮の衣服と、サメ頭部の帽子で対馬海峡を渡海するのがワニ。
ワニの母集団が縄文系アマで、その中に太伯系が含まれたとするのか。
それとも北部九州アマの中に、ワニ太伯系とするのか。

また伊都説であればですが、
吉武高木遺跡の殿上人であったタカ〇ム〇ビは太伯系の流れを持つ有力者と想定されますね。

669 :日本@名無史さん:2023/06/21(水) 03:56:42.99 ID:ZodpWsHIU
>八岐大蛇にとって不運だったのは、ホームである山口県西部や周防灘沿岸に、
>花崗岩土壌が少なかったので、

八雷神にとっても同じことで、
古代豊国の主要部分には花崗岩土壌が少なかったので、
九州北岸統一後の養蚕経済成長に乗り遅れ、
政治的判断としては、森林資源でも提供してくれということになって、
喧嘩になったと。

表層地質図からは、豊国中央は花崗岩土壌に乏しく、
東西両端にわずかな花崗岩土壌があるわけですが、

西部今川遺跡周辺を伊邪國に、
東部下稗田遺跡周辺を八岐大蛇に、
それぞれ占拠されるという可哀想な状況が見えてきますね。

豊国南の嘉穂や嘉麻の辺りまで行くと花崗岩土壌がありますから、
この辺りが南限ですね。

川の流域に沿って国家形成されることを重視するなら、
この辺りは古代豊国に含まれたのだが、夫婦喧嘩があったので養蚕普及が遅れた、
と考えられます。
この場合は、オー月ヒメは旧三輪町になります。

ただ可能性としては、
嘉穂嘉麻は、古代豊国には含まれない、オー月ヒメ勢力の領地だったが、
オー月ヒメが征服された後に、カモさん達が領主として入っていって地名が変わった、
可能性もありますね。

670 :日本@名無史さん:2023/06/21(水) 04:41:04.54 ID:ZodpWsHIU
ワニについて考えるに、
対馬海峡を保有していて、しかも志賀島や豊国岡田にも関係している。

その間に環濠集落の板付遺跡があるので、
福岡平野を挟んで最初期のワニ勢力圏が分断されている。

豊国岡田に拠点があるので古代豊国八雷神の一員と思えたのだが、
ワニが誘致したはずの田熊石畑遺跡が多重環濠なのでアウェイのようだ。

ワニの本貫がどうにもわかりにくかったのですが、
水上生活者アマが原点と考えると解決しましたね。

本来は対馬海峡、つまり壱岐対馬を母港とするアマ集団だったのですね。

後の家船アマと同じで、
伊邪國、対馬海峡ワニ、豊後越八岐大蛇、の3大圏があったけれども、
水上生活者なので明確な国境があるわけではなく、活動範囲は流動的だったわけです。

ただワニ集団だけは、対馬海峡を渡るためのサメ皮装備が特徴だった。
当然のことながら漂う生活なので、半東沿岸にも行き来する日常だった。
北上すると寒いので、半東には通年滞在ではなく、冬になると南下していた可能性が高い。
(三国史記でも倭人は暖かい季節になると襲来)

671 :日本@名無史さん:2023/06/21(水) 04:46:53.17 ID:ZodpWsHIU
豊国の八雷神視点で考えると、
地上生活者であり、弥生時代への移行に伴って、
八雷神→八山津見、となった。

八山津見の長が大山津見(女王)
火雷カモしか残っていないので、田熊石畑将軍がやって来た時にでも火雷が豊国統一したのでしょうかね。

以上は地上生活者クニ

ちなみに後の瀬戸内海の大山祇は瀬戸内アマの総帥であり、水上生活者アマ
同じカモ系だけれども東方展開した勢力であって、違うのですね。

山津見に対して、婚姻同盟の時に産まれた綿津見(海神)というのも、
母系が豊国女王系のアマということになりますね。


ワニは太伯系を含んで対馬海峡権益で栄えたので、各地に母港を獲得して、
水田稲作・養蚕の普及によって陸上生活が発展するにつれて
そこから陸上領土を形成していったわけですね。

よって、
壱岐対馬
博多湾東部→志賀島アズミ(不彌國
洞海湾→岡田の熊ワニ(熊野
など北部九州の主要港湾をベースに領土形成していったと考えられますね。

672 :日本@名無史さん:2023/06/21(水) 04:48:11.03 ID:ZodpWsHIU
それぞれの利権からしても、
遠賀川式土器の祖である豊国カモ系は、
東方展開しようとする。

祭祀型の銅剣・銅戈ですね。

対馬海峡権益で栄えたワニ系は、
北方展開しようとする。

祭祀型銅矛ですね。

国家予算をどちらに振り分けるのか。
この構図は後々長らく続きますね。

673 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 14:49:57.78 ID:h0ti/1nGP
支石墓において箱式石棺を下部構造とする割合

長崎県西北部 98.9%
長崎県東南部 69.9%
熊本平野   41.2%

佐賀平野  0.6%
唐津平野  1.4%
糸島周辺  2.4%

長崎県西岸地域に、縄文時代後期の古い支石墓が多く、
そして古い支石墓ほど箱式石棺が多いのですね。

>>470
石棚墓からの漂着者は、支石墓+箱式石棺が標準スタイルだった。

それが急速に薄まっていくことから、
非常に少数の漂着者が、
長崎伊邪國の家船アマ集団にあっという間に同化帰化していったことを示していますね。

674 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 14:50:56.84 ID:h0ti/1nGP
支石墓に埋葬された人骨が、
縄文系の体格であったり、縄文系の抜歯をしている。

また、箱式石棺の形状についても、
初期のものは正方形に近い形で、長辺が1メートル強のものが多い、
つまりは縄文系の屈葬をしているのですね。

ということは、
少数の太伯系漂着者が、
ねずみ返しや養蚕を伝えたことで伊邪國でもてはやされ、
伊邪國の縄文女性との間に子を作った。

けれども、
根獅子遺跡のように、伊邪國でもまた縄文女性が力を持っており、
子供達は縄文系社会で育ち、ゆりかごから墓場まで、
縄文系の抜歯をして、
縄文式の屈葬で葬られた、
ということですね。

日本は古来女性が力を持った社会だったわけです。

675 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 14:55:07.25 ID:h0ti/1nGP
支石墓ならびに箱式石棺は、石なので残りますから、
あたかも支石墓一族の大集落があったように見えますが、

原山支石墓(南島原市)で34、大野台支石墓(佐世保市)で71、ですので、
300年営まれて平均寿命を40歳と仮定した場合、
同時代に生きている人だとそれぞれ5人とか9人とかになります。

アマも入れると万人はいたであろう縄文末の九州社会の中では、
ごくごく少数ですね。

副葬品も土器くらいなので、いわゆる王とかではなかったわけです。

676 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 15:31:32.63 ID:h0ti/1nGP
一方の木棺墓ですが、
>>633
箱式木棺は、板ですから、条件Bが発動して、
青銅器の保有が前提条件になりますね。
弥生時代からです。

箱式木棺に入るというのは、
青銅器を保有していることを示すステータスだった可能性がありますね。

方形周溝墓に多く、これは燕さん達でしょうかね。

吉武高木の第3木棺墓が箱式木棺ですが、多鈕細紋鏡もありますし、
この大王だけ後援もしくは外戚に燕さん達が加わっていたのでしょうね。

677 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 15:34:17.46 ID:h0ti/1nGP
舟形木棺や割竹形木棺というのは、
縄文アマの丸木舟が原型と考えられ、刳抜式木棺ですから石器で作れますね。

舟形木棺は平手町遺跡(名古屋市)の方形周溝墓から出た弥生時代中期
2000年前のものが最古で、
次が京丹後市の金谷1号墓(方形台状墓)で1800年前。

割竹形木棺は吉武高木遺跡ですね。

舳先が無いわけですが、
これはアマ集団の在り様を考えれば、母船(マザーシップ)だったのでしょうね。

働きバチや将軍の乗る舟は、普通の舟の形であちこち移動するわけですが、
王(女王)の暮らす舟は、ほぼ移動することなく母港に佇んでいたわけで、
安定性重視の割竹形だったのですね。

吉武高木遺跡の大王が割竹形木棺であることから、
水上生活者アマは、舟葬をしていたのだろうと推測されますね。

脈絡もなく突然舟形木棺で伸展葬を開始するとは考えにくいですから。

内海である瀬戸内海のアマはわかりませんが、
少なくとも伊邪國のアマは、遺体を舟に乗せて、沖で海流に流したのでしょう。

678 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 15:35:40.18 ID:h0ti/1nGP
4000年前にハツカネズミが一斉放散してきて、貝塚文化が崩壊して、
陸上生活者クニが悲惨なことになりますね。
虫やハツカネズミにまみれた生活。

水上生活者アマの方が清潔で優位な生活を営んでいたのでしょう。

アマ(舟葬・伸展葬)>クニ(土壙墓・屈葬)、ですね。

3000年前に太伯系が少数漂着して、ねずみ返しが伝わったことで、
高床倉庫に穀物を保存できるようになり、
水田稲作が開始or再開されますね。

さらに、養蚕によって、絹という輸出品が登場し、
青銅器を購入できるようになります。
甕棺墓=養蚕有力者は、クニが従事するので屈葬ですね。

次第にクニの生活が豊かになり、政治的発言権が大きくなって、
それでアマとクニのバランスを取るために誕生したのが、
吉武高木政権ということですね。

伊邪(伊耶) ノ (爾)支
を中心として、各勢力が束ねられて、
アマ母船=割竹形木棺が、ついに陸上に鎮座したわけですね。

679 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 18:40:11.71 ID:h0ti/1nGP
壱岐島の縄文遺跡はごくわずかで、弥生遺跡に移行せず廃絶している。

考えてみればそれもうべなるかなで、
縄文時代には九州側も海産物くらいしかないし、
半島側もまだ中国勢力が到達していないし、
わざわざ命がけで対馬海峡を渡海してまで交易するものが何も無かったわけですね。
せいぜいアマの一部が季節性に移動していたくらいだったのでしょう。

それが太伯系集団によって、
ねずみ返しが伝えられて水田稲作が開始or再開され、青銅原料を入手する必要性が生じた
養蚕が伝えられて、絹という商品が誕生した
ことによって、対馬海峡を渡海する意味ができたわけですね。

よって、壱岐対馬には箱式石棺が進出して弥生遺跡が開始されたわけですね。

壱岐に支石墓はありませんが、吉野ヶ里の石棺のような、石蓋石棺墓はありますから、
伊邪國の系譜はあると。

そして壱岐の弥生遺跡は北部九州系の土器で開始していますから、
>>636の意味は、
>>656なのだろう、
ということになります。

680 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 18:43:05.75 ID:h0ti/1nGP
<伊邪(伊耶)國> 長崎県〜唐津〜糸島

唐津平野
 吾田(阿多) 菜畑遺跡 アマが開始した田
糸島平野
 伊都イツ 伊邪國爾支の母船が所在する津
 吾平山上 井原遺跡   アマが岡上がりした平野や丘・聖地
 吾平津  潤地頭給遺跡
糸島半島
 斯馬   当時は島


<葦原那珂津國> 福岡平野
 筑前 縄文伯玄社勢力
 筑後 オー月ヒメ

<豊国> 香椎以東
 アマ 八岐大蛇
 クニ 八雷神

古代出雲 遠賀川以西  肥河→吉野川→遠賀川
古代伯耆 遠賀川以東
比婆山  山鹿貝塚

681 :日本@名無史さん:2023/07/08(土) 18:55:40.95 ID:h0ti/1nGP
>唐津平野
> 吾田(阿多) 菜畑遺跡 アマが開始した田

から南に下ると、
佐賀 阿邪訶 当時は平野は無く干潟からすぐ山坂
ですね。

佐賀の支石墓が分布する範囲がそのまま、
伊邪(伊耶) ノ (爾)支
の勢力圏だったことになります。
>>185

なので、石木中高遺跡の場所も選ばれたわけですね。

682 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:20:21.78 ID:0e2V+xDih
>>678
>アマ(舟葬・伸展葬)>クニ(土壙墓・屈葬)

アマは男性指導者だったのでしょうね。
>>678
吉武高木の割竹形木棺大王も男系継承だった可能性が高いと思われますね。

日本列島の豊かな海産物の中で暮らし、比較的大らかな縄文生活を送っていた。
なので、亡くなった後は舟葬の伸展葬で、黄泉の国で起き上がる。

長崎伊邪國視点だと、対馬海流に乗って東方へと流れていきますから、
黄泉の国は東方。
おそらく豊国地方の縄文時代総称が根国で、伊邪國から見ると東方にあることから、
亡くなった後に舟葬で辿り着く東方黄泉世界の一部に見えていたのでしょう。


クニは考古学遺物が残っているので、女性指導者が多かったことがわかりますね。

屈葬については、
「亡くなった人が起き上がらないように」という表現をよく見ますが、
「亡くなったご本人も」「起き上がりたくなかった」ということでしょうね。

香辛料も無く、本格的な水田稲作も無く、
結局のところはその日暮らしの厳しい生活だったので、1回でもうこりごり。
亡くなった後はそのまま眠っていたかったわけですね。

>>507
恵まれていた筈の山鹿貝塚女王達ですら屈葬しています。

683 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:22:02.49 ID:0e2V+xDih
アマの葬儀は自然な流れで、舟葬・伸展葬を続けて、
弥生時代に入って陸上が発展してくると、
アマ勢力としてそのまま陸上指導者になれば吉武高木のように刳抜式木棺へ。
有力クニ勢力に婿入りあるいは嫁をもらって陸上埋葬される時は、三雲井原のように甕棺墓など妻側の埋葬方法に従う場合もあった、
ということでしょうね。

太伯系は大陸にて支石墓・石棺墓の風習があった。
大陸側は国家の入れ替わりが激しかったので、風習の連続性があるかはわかりませんが、現代の蛋民は陸上埋葬だそうですね。

漂着渡来後、
伊邪國アマと交わってアマの一員になった人たちは、支石墓の伸展葬へ。
伊邪國クニと交わってクニの一員になった人たちは、当初は箱式石棺で屈葬。
そのうち頑張って養蚕機織を根付かせた人たちは、甕棺墓の屈葬へ。

そう考えると、アマクニの分類だけでなく、
アマであっても、事情があって陸上埋葬する場合には、
縄文時代であれば屈葬だったのかもしれませんね。
オー月ヒメの逸話にもあるように、同じ縄文系であっても、アマから見ると陸上生活は凄まじいもので、
陸上で再生するのはご勘弁だったわけです。

684 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:24:19.81 ID:0e2V+xDih
>>472
甕棺墓は蚕の繭を象徴したものと思われ、
そもそも再生を願っていますね。

ねずみ返しのおかげで陸上生活者クニの生活が安定して、
甕棺墓=養蚕有力者は財を成して裕福になっていった。>青銅器・絹の副葬

豊かな人生を送れば、亡くなった後もまた生まれ変わりたいと思うわけですから、
先祖代々の屈葬はまだ捨てられないけれども、
死生観は前向きな方向へと変化していったわけですね。

甕棺墓   繭による再生力・絹による富
鹿の線刻画 鹿の角の再生力

そして再生を願う最たるものが、「破鏡」ですね。
もちろん盗掘されての身分詐称など悪用防止目的もあったでしょうけれども、

>>640
青銅片を来世へ持参して、坩堝で溶かして「再生」するわけですね。
それが権威を象徴する威信鏡の「破鏡」であれば、まさに最強の再生アイテムですね。

戦国武将の真田氏はいつ戦場で斃れてもいいように、
三途の川の渡し賃として六文銭を身に着けていたそうですが、
弥生時代の武将達も同じような意気込みで、破鏡片を身に着けて出陣していたのかもしれませんね。

685 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:27:17.06 ID:0e2V+xDih
そう考えると、一つの仮説としては、
円墳というのは、方形周溝墓、前方後方墳という方形墓とは全く異なるコンセプトで、
再生を願う「坩堝」だったのではないか。

青銅・鉄を持って坩堝の中で眠りに就けば、
来世ではいきなり人生アドバンテージでスタートできますね。

>>639
>両腕のついた土器製の坩堝
双方中円墳は青銅器の坩堝。
江辻型青銅鍛冶工房の系譜ですね。

>ですから、坩堝をつかむ金属器などはなかった。
前方後円墳は時代が下って鉄器時代ですから、
坩堝をつかむ鉄棒がありますね。
前方部が長方形でなく少し開いているのは、
2本の鉄棒で坩堝を挟んで持ち上げる形、ではないでしょうかね。

686 :日本@名無史さん:2023/07/10(月) 01:29:45.44 ID:0e2V+xDih
さらにそう考えると、単なる空想世界のお話ですが、
凸面で実用鏡としては使えない△鏡は、
坩堝にくべる青銅原料だった可能性がありますね。

日本最古の「硬貨」だったのではないでしょうか。

もちろん一般の市場で使うものではなく、
有力者同士が使う高級貨幣ですね。

「今年うちの領土は凶作だったから、△2枚で米200俵売ってくれないか」
「この戦いはうちが勝ったから、△5枚を差し出せば手打ちにしてやろう」
といった具合に。
もちろん贈答品や下賜品・献上品としても重宝されていたと。

ただ、硬貨は硬貨でも、必要な時は溶かして実用青銅器にする青銅原料だった。
ので、有力者が亡くなったら、坩堝円墳に一緒に入れてあげたわけでしょうね。

卑彌呼の銅鏡百枚も、青銅原料として溶かして、
伊都説だと超大型内行花文鏡になりましたね。
紀年銘鏡くらいは記念に残して親族に配ったようですが。

687 :日本@名無史さん:2023/07/13(木) 22:01:54.66 ID:6/PK4Pa/U
>>685
>双方中円墳は青銅器の坩堝。
であれば、双方中円墳の双方(2つの方形部)が直線状ではなく、やや斜めになっている謎が解けますね。
( -〇- ではなく -〇、 )

>炭を燃やす土壙炉の両端に柱を立てて、
>坩堝の両腕に紐を結んで炭火の上に坩堝をぶら下げて熱したわけですね。

a)直線型の場合
支えなく吊るした状態だと、左右どちらに傾くかわかりません。

となると、坩堝で溶かした溶銅を鋳型に流し込むのに、長い棒や石で坩堝を傾ける必要があるわけですが、
煮えたぎった溶銅の入った坩堝を操作するのは難しいし危険ですね。

b)双方中円墳型の場合
支えなく吊るした場合、必ず凸側に一定の力で傾きますね。
(-〇、の上方)

ということは、-〇、の上縁の下部に石組みで支えを作っておいて、
土壙炉|石組支|鋳型 の順に並べておけばいい。

土壙炉の真上の坩堝を熱して、溶銅になったら、
石組支の頂点の石を外せば、
-〇、が自重で鋳型側に傾いて、溶銅は自動で鋳型に流れ込んでいく。

ということになり、安全性が高くなりますね。
最初に有毒ガスや、熱気に、なるべく近づかずにすみます。

当時あったもので最大限の工夫を凝らした、古代の職人さんたちの知恵だったのですね。

688 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 11:13:53.90 ID:eqVOWGeOC
>>619
>古代中国において、倭人とは特定の部族や国民を示すのではなく、
>沿岸の水上生活者全般のことを倭人と呼んでいたのではないか。

後漢書 烏桓鮮卑列伝 檀石槐伝
『種?日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之
 聞倭人善網捕 於是東?倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食』

鮮卑の大人である檀石槐(137-181)が、鮮卑の人口が急激に増えたので、農耕・牧畜・狩猟では食料が不足し、
烏侯秦水(北京の北東の川)の魚を捕まえようとしたが上手くいかなかった。
「倭人」が網で上手に魚を捕らえると聞いて、
「倭人國」を東撃して「千余家」を捕まえて、彼らを「烏侯秦水の上」に置いて、
魚を捕らせて食糧供給の助けとした。

倭人を北部九州倭国の人々と解釈すると、遥か大陸奥地の鮮卑との関係など意味不明になりますが、
古代漢語においては、倭人=水上生活者であったと考えれば、

版図を広げて栄えた檀石槐鮮卑が、
渤海湾の水上生活者倭人の小国があったのに目をつけて、
これを攻めて千余「家」の家船生活者を捕獲して、
烏侯秦水の上、つまり「烏侯秦水の水上生活者」として移住させて、魚取りに従事させた、
ということで意味が通じますね。

>>687
坩堝の両腕はもっと細長くて、先端に紐を結んで水でも掛けながら作業していた、
と考えていましたが、
双方中円墳の形状だと、紐ではなく、
江辻型青銅器工房の土壙炉両側の柱穴に、石柱か土器柱を立てて、
その上面に窪み・溝をつけてあって、
そこに双方中円墳型坩堝の両腕を嵌め載せたわけですね。
たしかにその方が耐熱性にも安定性にも優れていますね。

689 :日本@名無史さん:2023/07/16(日) 20:18:52.61 ID:eqVOWGeOC
>>686
>日本最古の「硬貨」だったのではないでしょうか。
>ただ、硬貨は硬貨でも、必要な時は溶かして実用青銅器にする青銅原料だった。
なぜそう思うのかというと、実例があるからですね。
弥生時代の倭地に多大な影響を及ぼした勢力の青銅貨幣。

「刀銭」ですね。

燕・斉・越、といった国で製造流通していた貨幣。
刀銭から導かれる考察は。

壱)燕・斉・趙といった北方諸国は、畜産・狩猟国家だった。

水田農耕民の我々であれば、まあどう考えても自国の流通通貨を刀銭のような形にしませんよね。
世界最長の日本国家の歴史上でも無かった貨幣形状。

獣の皮を剥ぐ刀。
燕・斉・趙は、基本的には牧畜・狩猟民族であり、畑作はすれども、水田耕作民ではなかったわけですね。

弐)尺度の違い

燕の明刀銭と、斉の大刀銭とは、共に国家貨幣でありながら、
明刀銭が大刀銭の2/3規格となっています。

国力あるいは青銅原料供給量の相違。
斉と燕の差。
辺境になるほど尺度が小さくなる実例ですね。
九州説の東夷伝里の考古学的物的証拠の一つになります。
また何故に漢帝国の出先機関である楽浪郡が東夷伝里を使ったかという理由には、
なるべく小さな東夷伝里を基準にすれば、同じ法律で、同一面積の田畑から増税を徴収できますね。

参)日本列島からの出土は、沖縄から2、日本海沿岸久美浜町の函石浜遺跡から1

690 :日本@名無史さん:2023/10/14(土) 04:46:33.84 .net
ワシ、こっちの方がええと思うんやけどなぁ

691 :日本@名無史さん:2023/10/29(日) 22:37:39.21 ID:WrZRJSjKg
魏志『其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王』
魏略『女王之南又有狗奴国 女男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也』

【免田式土器】
・重弧文が刻まれた優美な長頚壷型の弥生土器
・弥生後期から古墳時代初期つまり狗奴国存在時期の土器

・北部九州広形銅矛と分布範囲を分け合う
・菊池川流域には方保田東原遺跡などわずかしか出土せず、それより南で集中出土する
 →逆に広形銅矛南限が山鹿市まで
・九州東岸についても、大分県東岸は広形銅矛、宮崎県東岸に免田式土器
・伊邪國(諫早を中心とする長崎県)にはどちらも分布しない

・沖縄県からも少量出土
・いわゆる邪馬台国領域からの出土遺蹟は、三雲(伊都)、下稗田(行橋市)、
二塚山(吉野ヶ里)、みやこ(武雄)、安国寺(久留米)、亀ノ甲(八女)、甘木山(大牟田)など。

魏志『漢時有朝見者』
曹操集譯注『御物有尺二寸金錯鉄鏡一枚 皇后雑物用純銀錯七寸鉄鏡四枚 皇太子雑純銀錯七寸鉄鏡四枚 貴人至公主九寸鉄鏡四十枚』

【金銀錯嵌珠龍文鉄鏡】
・日田市のダンワラ古墳から出土
・長宜子孫銘、蝙蝠紐座
・曹操墓出土鉄鏡と同型、直径21.1cm=九寸
・曹操は魏王まで、魏皇帝は曹丕文帝から

692 :日本@名無史さん:2023/11/04(土) 18:17:23.62 ID:jsj2trjv8
>ニホンヤモリは外来種だった!遺伝子と古文書で解明したヤモリと人の3千年史
>www.tohoku.ac.jp/japanese/2022/12/press20221201-02-gecko.html

>家の守り神としても親しまれてきたポピュラーな動物―ニホンヤモリは、
>実は約3000 年前に大陸から九州へ、恐らく人とともに移り住んだもので、
>その後人の手の力を借りて、日本列島を西から東に進んできたものでした。

支石墓(石棚墓)の漂着渡来と完全に同期していますね。
3000年前に中国南部から、五島列島西端の福江島に上陸。

2400年前に九州北西部へ拡散。

九州北西部から、2000年前に、
出雲→その後拡散せず
四国→2000〜800年前に畿内へ

畿内→600年前に北陸へ
  →900〜300年前に東海へ→220〜100年前に関東へ

弥生時代の海運から考えると、日本海沿岸を一気に伝播してほしいところですが、
現代でもニホンヤモリの分布北限が東北地方までなので、
変温動物である爬虫類ですから、寒冷適応するのに時間がかかった、と考えられますね。

出雲が盲端になっているのは示唆的で、
九州説における、古代出雲=宗像も補強していますね。

693 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 00:50:38.61 ID:CrkGfyoXs
CもDも出アフリカ組で、おそらく後発組に追いやられた可能性が高いとされていますが、
Dがチベット高原と日本列島で生きのびたのに、
先発のCがチベット高原に逃げ込んでいないということは、
D1a2とC1a1は、D1a2とD1a1が分かれた後に、合流していて、当時から4対1の組成で一緒に日本列島にやって来た可能性が高いですね。

中国大陸の古代遺跡からD1a2とC1a1が出てこない、ということは、
12000年前にはNに大陸から追いやられて日本列島にやって来た。
石器時代にNと差が出るとすれば、寒冷地適応の違いでしょうかね。

そのNが4000年前に青銅器O=国家形成に追いやられたのであれば、
Oはやはり4000年前頃に西アジアから青銅器技術を携えて東進してきた、
可能性がありますね。

694 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 01:49:19.30 ID:CrkGfyoXs
そう考えていくと、Oは5000年前くらいまで西アジアで青銅器文明の一翼を担っていた可能性が。
いわゆるメソポタミア文明において、都市国家あるいは遊牧民集団として、O1b1、O1b2、O2その他の集団に分かれて存在していた。
それが同時あるいは順番に滅ぼされて、同時あるいは順番に東進を開始した。

西アジアでの居住地域の場所の違いから、東進ルートが分かれ、
O1b1は南方ルートでインド〜東南アジアへ。
O2は中央ルートで夏家店文化に数派に分かれて入ってゆき、
先住のNに次第に取り入って後に下克上して殷。
O1b2は北方ルートで沿海州シニガイ文化。

後の漢O2と、扶余O1b2は、元が同じ民族かつ文明であり、共同戦線を張って、
楽浪郡&扶余系複数国家を作ることとなった。

O1b2の中にも複数勢力があり、来倭は二派で、
第一波が3000年前の刻目突帯文土器で、おそらく戦乱により集団亡命。
青銅器を伝えたが、絹が無かったので、交易で青銅原料を補給できず、ある程度増えたが埋没。
西アジア系神話の八岐大蛇を自称。

695 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 01:51:55.44 ID:CrkGfyoXs
第二派が前108年楽浪郡設置時に、滅ぼされた旧燕勢力にとって代わって、
漢との交易を元締めすることになった、奴国王の父親を頭とする商社。
O1b2のうち四隅突出墳丘墓を墓制とする勢力。

息子達が平形銅剣女王=瀬戸内高地性集落群経営社長に求婚し、
末弟が結婚。

>>132
兄達一族は奴国を追われ、中国山地奥へ逃亡。
四隅突出墳丘墓を伝承。

後90年に奴国王失脚。

兄達一族は中国地方に出てきて、同じO1b2系の人々を従えて、
後に四隅突出墳丘墓国家、後漢書の拘奴国を建国。

696 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 21:04:41.86 ID:CrkGfyoXs
一斉放散とはすなわち突然変異した個体が獲得した「新規能力」が環境にマッチして大量増殖すること。

ハツカネズミの一斉放散は、
8000年前にインド大陸から南アジア亜種系統(CAS)がアジア大陸部に一斉放散。

4000年前にCASが中国南部珠江流域を中心とする中国南部から
日本列島を南樺太まで一斉放散。貝塚の分布範囲=人間集落の分布範囲に拡散。朝鮮半島には渡らず。

2000年前に北ユーラシア亜種系統(MUS)が朝鮮半島で一斉放散。
一部は日本列島にも渡海して、現在は日本列島ではMUSが主になっているそうですね。

また、DNA断片長がわずかとなっているものの、4000年前以前にも、
日本に第3系統のハツカネズミが生息していた痕跡があるそうです。


一方で、東アジアそして日本列島における関連イベントとしては、
8000年前に長江流域で稲作開始。
長江文明は5000〜4500年前をピークにして衰退。

日本においては、縄文時代が持続成長して、
5000年前までには稲が伝来。
4000年前に縄文貝塚が急激に衰退。三内丸山遺跡も衰退。

4000年前に、中国北西部の夏家店下層文化で中国の青銅器時代開始。牧畜狩猟・雑穀栽培。
長江流域にも三星堆遺跡で青銅器出土。
国家形成開始。殷。

3050年前に、シニガイ文化の刻目突帯文土器→現出雲→西日本に拡散
3000年前に、浙南石棚墓の支石墓→伊邪国西部→伊邪国に拡散
甕棺墓勢力が養蚕開始して青銅器時代本格化

2000年前は既に吉武高木遺跡が存在

697 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 21:07:17.65 ID:CrkGfyoXs
>>633
条件A<高床式倉庫にはねずみ返しが必須>
条件B<板(ねずみ返し)を作るには金属器が必須>
条件D<水田で大量生産した稲は高床式倉庫で保管する>

この3条件は世界共通ですね。
ハツカネズミが一斉放散ごとに獲得した能力に着目して方程式を解いてみましょう。

壹)8000年前:家ネズミ化

人間を怖がらなくなったのですね。
自然界のネズミの中で、人間社会に入りこむのは数種の家ネズミだけ。
それまでハツカネズミは野ネズミで、
普通の野生動物と同様に、人間が活動する場と自らの生活圏が重なるのを嫌っていたのが、
人間の食料を食べることが優先されて、人間社会を生活の場とすることを厭わなくなったのですね。

ハツカネズミが家ネズミになるきっかけの一つが、稲作の開始で、
保存のきく稲を栽培するようになって、人間の人口が増えて、
人間の人口が増えると、人間の貯蔵する食物や、あるいは人間の出す食べカスも増え、
人間社会に潜り込んでそれらを食べるようになったのですね。

トキソプラズマという人間にも病気を起こす病原体がありますが、終宿主は猫。
これがネズミに感染すると、終宿主である猫に食べられて、猫の体内へ入るために、
ネズミの恐怖心を制御して抑制し、物陰から出て行動するようにするそうです。
このような病原体に感染して、人間を怖がらなくなったハツカネズミがいて、
人間社会の中で餌を得ることの旨味を知ったのかもしれませんね。

その一部が日本列島にもやって来て、貝塚の残飯などを食べていたのでしょう。

ただこの世代のハツカネズミはまだ、ジャンプするだけで、高床式倉庫を作れば貯蔵食料は被害を受けなかったのですね。
長江文明も三内丸山遺跡も高床式倉庫を作って繁栄しています。

698 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 21:09:13.96 ID:CrkGfyoXs
二)4000年前:登攀能力

柱を登れるようになったのですね。

ねずみ返しが無い高床式倉庫に貯蔵した作物は全て、ハツカネズミに食べられてしまうようになった。
当時の長江文明人や縄文文明人にとっては悪夢だったでしょうね。

稲を貯蔵できなければ、人口も安定維持できません。

特に中国大陸では、ただでさえ軍事力生産力に差が出る青銅器勢力との差が、
ハツカネズミの登坂能力獲得によって、決定的な大差になってしまったのですね。

青銅器文明を獲得した勢力は圧倒的優勢で支配地域を広げた。
そして彼らは牧畜狩猟・雑穀栽培の集団だった。

中国でも青銅器文化と共に殷が誕生し、
日本でも青銅器の伝来と共に弥生時代が開始され、吉武高木遺跡が誕生しますね。

699 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 21:11:16.85 ID:CrkGfyoXs
参)2000年前:戦争本能

同じハツカネズミの他集団を襲ってテリトリーを奪う闘争本能を得た。

現在進行形でお手本を見せているホモサピエンスと同じですね。
MUSが何らかの理由で攻撃性を増して、周囲のハツカネズミ群を襲ってテリトリーを奪うようになった。
ホモサピエンスが他のヒト族を滅ぼしていったのと同じことが起きて、
日本列島にも渡来して、先に増えていたCASを駆逐していったのですね。


4000年前のCAS一斉放散の時は、南樺太の貝塚集落にまでCASは到達したのに、
朝鮮半島には渡らなかった。
それが2000年にはMUSが一斉放散したということは、
朝鮮半島の人口が一定以上に増えたのは楽浪郡設置の頃だった可能性が高くなりますね。

人口が増えるには女性が増えなければなりませんが、
九州からHTLV-1が渡海していないので、
この時期に増えたのは燕を最多とする秦そして漢建国時の滅亡勢力から亡命してきた女性が主だった可能性が高いという計算になりますね。

700 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 22:05:22.55 ID:CrkGfyoXs
山東半島において、4500年前の龍山文化期に、
楊家圏遺跡にて稲のプラントオパールを採取。水田稲作相当量。
趙家荘遺跡にて不完全形の水田遺構と、発育不良の稲籾。
が、見つかっているわけですが、
その後の水田遺構が続かないわけですね。

これも解析すると、
8000年前から4500年前に長江文明が稲作&高床式倉庫で栄えた。

4000年前のハツカネズミ第二期一斉放散にて、稲作集落が壊滅してゆき、
一部の稲作民が、物々交換で共生していた倭人=水上生活者と共に北へ避難した。

>>688
すなわち大陸倭人の移動圏内で移住した。
>>615
同じくハツカネズミから逃げたけれども、追いつかれたのですね。

寒冷地域では稲が発育不全で、
そのうち追いかけてきたハツカネズミにも追いつかれ、水田稲作は放棄された。

圧倒的優位に立った青銅器勢力=殷によって、稲は当初は雑穀栽培の一品種として吸収され、
ねずみ返しが普及した後世になってようやく、
水田稲作が「再開」されることになった。

701 :日本@名無史さん:2023/11/08(水) 22:07:25.63 ID:CrkGfyoXs
要するに、
青銅器文明を開始したのは、牧畜狩猟・雑穀栽培の勢力であった、
ということですね。

刻目突帯文土器の渡来人も、
>>689
燕亡命勢力も、
「本格的な稲作を知らなかった」
ということです。

3050年前に刻目突帯文土器が渡来してきた時に、
ねずみ返しをもたらしたけれども、
稲作はD1a2縄文人が「再開」して、刻目突帯文土器人に「教えた」ということですね。

同じく、
燕滅亡時や、衛氏朝鮮滅亡時に、万単位で亡命してきた旧燕人にも、
受け入れた豊国の山鹿貝塚女王系勢力の人々が、
「水田稲作を教えて」あげて、一緒に東方開拓してあげた、
のでしょう。

それが方形周溝墓勢力ですね。

702 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:14:26.72 ID:kFppqJVaI
>>682
吉武高木遺跡、田熊石畑遺跡、それぞれの割竹形木棺は全て、
それぞれの遺跡の沖合における対馬海流と同じ向きになっていますね。

あたかも対馬海流を大船団が流れていくように見えます。

これはつまり、縄文時代の水上生活者アマの舟葬の風習が続いているわけで、
東方の黄泉の国へと流れ着いて生まれ変わる。

温暖な縄文時代に、より温暖な西日本の方が人口が少なかったというのはおかしな話であり、
縄文時代には、豊富な海産資源に恵まれた日本列島においては、
水上生活の方が清潔であり、食料にも恵まれていた。

西日本は温暖なので、大多数は水上生活アマとなったが、
東日本の特に緯度が高くなるほど冬には寒くて水上生活をできないため、
陸上生活クニを選択せざるを得なかった、ということですね。

703 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:18:23.59 ID:kFppqJVaI
その視点で平原遺跡を見てみますと、
1号女王墓は割竹形木棺墓で、その埋葬方向の直線上には吉武高木遺跡があるんですね。

さらに、平原遺跡の西の大柱、西の鳥居2つ、東南の大柱、が、
1号墓を挟んで一直線に並んでおり、
これもまた吉武高木遺跡を指していますね。

この吉武高木遺跡への軸線から「日の出」を迎えるのが、「春分の日と秋分の日」。

平原女王卑弥呼は、吉武高木遺跡の割竹形木棺墓王族であり、
縄文時代からの舟葬アマの勢力。

ただ、吉武高木遺跡の割竹形木棺墓王族が陸上生活に移行してから300-400年ほど経過しているので、
卑弥呼が死去後に流れ着きたかった祖地は、
吉武高木遺跡であった、ということになります。

つまり吉武高木遺跡とは3世紀倭女王にとって権威の根源となる聖地であり、
魏志倭人伝に記された伊都国の里程到達地点とは、吉武高木宮殿であったのだ、
という説を、
卑弥呼自ら強力に指し示していることになります。

704 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:19:50.04 ID:kFppqJVaI
そういう目で見ると、前方後円墳の割竹形木棺は、
前方部方向に足を向けて、後円部に埋葬されていることが多いですね。

割竹形木棺を引き継ぐということは、同じ死生観を引き継いでいたでしょうから、
彼らが流れ着きたかった場所とは、
・縄文アマ精神であれば黄泉の国<海の彼方>
・弥生陸上精神であれば祖地(本貫)
を指し示しているのだろう、と予測されますね。

そうなると、
桜〇茶臼山は、奈〇盆地の南端で、南を指向しているので、太平洋黒潮に乗りたい。
ホ〇ノ山もたぶんそう。
箸〇は、熊本を指しているので、おそらく〇〇ヒメご本人ではなくその子孫。

〇〇ヒメは狗奴国王妃で、狗奴国王とは大倭長官の〇物主であり、
当初同盟していた難升米父の保有していた蛇紐金印を見て驚いた、ということでしょうね。

705 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:21:22.51 ID:kFppqJVaI
刻目突帯文土器が沿海州から奴族第一波として渡来して来た、と仮定した場合、
彼らの主要スペックについては、
牧畜畑作、青銅器あり、水田稲作知らない、養蚕なし、陸上生活者、ですね。

彼らが島根県に漂着渡来して、青銅器による木板作成=ねずみ返しをもたらした。

ただこれは、青銅器が無いか有るかの違いが非常に大きかったわけで、
もたらした青銅器の量は、驚くほどわずかだった可能性がありますね。

例えばほんの銅ノミ10本分くらいしかなくて、
それでもリサイクルしながら大事に使っていれば、
数百枚のねずみ返しを提供できた。
その提供可能範囲が、刻目突帯文土器の東限までだった、ということですね。

前4000年のハツカネズミ一斉放散以降、1000年に及ぶ苦難の時代を終わらせたので、
各地で受け入れられ、
DNA解析による渡来時期とも一致しますね。

彼らは陸上生活者ですから、クニ。

ただ、養蚕は知らなかったので、日本列島の発展度としては、
ハツカネズミの脅威から解放されて、
4000年前の一斉放散直前の状態まで回復できた、という意味合いになりますね。

706 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:23:44.16 ID:kFppqJVaI
刻目突帯文土器渡来に次いで、
3000年前に浙南石棚墓の倭人=大陸水上生活者が少数漂着渡来してきます。

彼らの主要スペックは、
水田稲作、青銅器あり、養蚕、水上生活者、ですね

ニホンヤモリのDNA解析が示す、漂着早期の定住地の一つである、
宇久松原遺跡において、
刻目突帯文土器が出土していることから、
3000年前までには、
先に渡来した刻目突帯文土器奴人が、五島列島まで分布していたことになります。
それだけねずみ返しの貢献度が大きかったのですね。

漂着倭人は日本列島側の縄文からの水上生活者アマと親和性が高かったでしょうが、
一方で、養蚕は当然陸上生活者が屋根裏で行うものですから、
これをアマが陸上に上がってやったのか、
それともクニにやらせたのか、でその後の展開が大きく違ってきます。

どちらにせよ、
水上生活者アマのうち、縄文系支配層が割竹形木棺。
渡来系が石棺。

由来に関係なく、養蚕で資産形成した者が甕棺ですね。

707 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:24:45.32 ID:kFppqJVaI
平原遺跡でわかることは、
1号女王が割竹形木棺、2号家臣が舟形木棺ですから、
どちらも舟葬を元にしているけれども、
身分としては割竹形木棺が王族・支配層で、舟形木棺は武人・家臣でしょうね。

上でも推測しましたが、
割竹形木棺はマザーシップで、母港に佇んであまり移動することは無かった。
居住性重視、安定性重視ですね。

漁や戦い、諸々の事は、舟形木棺が行っていた、のでしょう。

708 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:25:47.53 ID:kFppqJVaI
>>132
刻目突帯文土器の奴族第一波はわかりませんが、
奴族第二派の奴国王一族の墓制については、兄達一族のものが参考になりますね。

三次市のものを調べるのが一番純度が高いですが、
ここでは著名な西谷墳墓群の四隅突出墳丘墓で見てみると、
二重木棺墓というのが目立ちますね。

四隅突出墳丘墓+二重木棺墓というのが奴国王家の本来のスタイルである可能性が高い、
ということになります。

そうなると、木槨+木棺はそこから派生した可能性もあるのですが、
木槨というのが別方向、というのは方形周溝墓勢力からもたらされた可能性も高いので、
現時点ではどちらとも言い難いですね。

709 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:27:50.96 ID:kFppqJVaI
西谷墳墓群は情報の宝庫で、
もう一つ重要なのが、
西谷墳墓群3号墓の王と王妃が埋葬された中心埋葬施設である、
第4主体の「四隅に4本の柱穴」が発掘されていることですね。

奴国王の兄達は、三次市→東の拘奴国四隅突出墳丘墓にて、
奴国王の息子である軍神も、はるか諏訪の地で、
共に四本柱を立てている。

と、いうことになります。
奴国王家の風習であった可能性が高くなりますね。

その意味合いを考えると、
実用的には避雷針。

西谷墳墓群においては、霊廟はもっと小さな通常サイズのものが設置してあり、
諏訪においては、宝物庫を、
それぞれ落雷の火事から守るために、避雷針として定期的に柱を立てたのでしょう。

もちろん宗教的、精神的には、落雷のエネルギーを取り込んで云々、という思想があったかもしれませんね。

710 :日本@名無史さん:2023/11/19(日) 22:34:05.97 ID:kFppqJVaI
平原遺跡の大柱も同じことでしょうね。

1号墓の縁に沿った小さな柱穴が、殯宮。(魏志倭人伝「停喪十餘日」)
大柱は殯宮への落雷防止、
かつおそらくは女系に豊国八雷神の血を引く卑弥呼の魂に雷のエネルギーを供給する。

難升米は軍神の長男の子孫と想定されますので、
難升米の発案で立てられたのでしょう。

ただ、卑弥呼は伊都国王族であって、奴族ではないので、二本だけ。


軍神側との共通点は、柱だけでなく、殉葬もありますね。

平原遺跡の周濠には土壙墓が複数見つかっており、
それぞれに複数人ずつの殉葬者が埋葬されていた。
これも難升米の立案でしょう。
卑弥呼は100ですね。

西谷墳墓群にも複数の土壙墓。

軍神は、後の殉葬禁止令によって動物に切り替えた。80ですね。

711 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:02:32.50 ID:wdeeas71O
>>352
「蓬莱宮殿」ですね。

『史記』は当然のことながら陳寿ら当時の史学者達にとってもバイブルのような史書であり、
秦始皇帝が不老不死の薬を追い求めて徐福を派遣した話などは常識。
その象徴が東方海中に光り輝く「蓬莱宮殿」。
すなわち「吉武高木宮殿」ですね。

大航海時代の西洋人が、東洋の黄金の国ジパングを追い求めたのと同じく、
当時の中国人にとって、蓬莱宮殿は不老不死をイメージさせる存在だったわけですね。

57年に、蓬莱宮殿=吉武高木宮殿にて漢委奴國王金印授与式典が行われ、
その時に来倭した後漢使が実見した情報を報告したでしょうから、
そこからは夢の存在ではなく、倭地の政治議事堂としての現実の姿が知られたことでしょうけれども、
イメージとしては、昔からの蓬莱宮殿の好印象は残っていたはずですね。

里程の到伊都國=吉武高木宮殿=蓬莱宮殿

そして邪馬台国女王卑彌呼は蓬莱王族=伊都國王族

なので、陳寿にとっては、大先輩の司馬遷が記した「史記」を目標として、
必ず記録に残したい重要情報だったのですね。

712 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:03:39.91 ID:wdeeas71O
>>710
軍神は75でしたね。

曹操集譯注の鉄鏡のように、殉葬者数にも格付けがあって、
軍神は金印奴国王にはなれなかったので、100ではなく75なのでしょう。

卑彌呼は金印王ですから100なのですね。

ということは、奴族墓の格付けは殉葬土壙墓の多少である程度推測できることになります。
ただ、一つの土壙墓に何人殉葬されたかがわからないので、だいたいの予測になりますが。

713 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:09:16.61 ID:wdeeas71O
>>706
吉武高木遺跡も吉武大石遺跡も、甕棺墓もほぼ割竹形木棺と同じ向きに埋葬されていますね。

対馬海流と向きを揃えているので、これらの甕棺墓被葬者達も、
死生観としては北部九州縄文アマの死生観だと思われますが、

甕棺墓は屈葬なのと、
養蚕によって得られる富を、来世に生まれ変わっても引き続き得たい、という願いも込められているでしょうから、
黄泉の国に流れていって、そこで花開く、というイメージですかね。

石棺墓が無いのも気になりますね。
甕棺墓の中に、本来は石棺墓の人たち、
つまりはそもそも四眠蚕をもたらしてくれた石棚墓呉太伯の血が入った人たち、
は必ずいるはずだと思われますが、どうでしょうね。

それと、弥生時代に入って、ねずみ返し→水田稲作と、養蚕貿易とで、
陸上集落が栄えたので、
アマの王様が陸上に居を移したということでしょうけども、
アマの大部分の人は、舟葬を続けていたと思われますので、
一見すると、割竹形木棺大王の周りに甕棺墓ばかりで取り囲まれているように見えますが、

当時の風景としては、湾にはびっしりと家船が浮かんでいて、
弥生時代ですから、交易も移動も軍事も全て水上アマの独壇場であって、
彼らは舟葬だったから考古学的に残っていないだけなのだろう、という点に注意が必要ですね。

714 :日本@名無史さん:2023/11/20(月) 23:10:59.02 ID:wdeeas71O
その視点で、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓を見てみると、
吉野ヶ里遺跡最初期の、弥生時代前期後半の甕棺墓は、
中央列が見事に対馬海流と同じ角度で並んでいるのですね。

その角度は、どちらかというと吉武高木遺跡のものよりも、田熊石畑遺跡のものに近いように見えます。

それが前期末から中期に入ると、その列が崩れて、いろんな方向に向けて埋葬されるようになります。

つまり、吉野ヶ里遺跡を最初に開始したのは、北部九州沿岸のアマであり、
おそらくは豊国領域のアマ。(田熊石畑遺跡からなら結局は吉武高木伊邪伊都系列ですが)

その後養蚕で栄えて、数世代もすると、有明海に面した陸上生活者クニとしての性質が強くなり、
対馬海流を忘れた、
ということですね。

その後のいろんな方向にも意味があるのかもしれませんが。
それぞれの祖地(本貫)とか。

715 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:25:24.24 ID:sxTVszr6L
田熊石畑遺跡は多重環濠遺跡ですから、現地人に対して防御しており、
吉武高木の割竹形木棺アマ王族が将軍として派遣された、
在豊国の伊都国軍基地、と考えられますね。

田熊石畑遺跡の9号墓までの大多数が沖合の対馬海流と同じ向きであるのに対して、
6号墓と7号墓のみが、他と直交するように北北西に向かっていますね。南枕です。

その先にあるのが、沖ノ島。

吉武高木遺跡、そして田熊石畑遺跡の伊邪國アマ→伊都國王族の流れに直交してまで主張しているということは、
それだけ強い固有の死生観、宗教観を保持していることになります。

田熊石畑遺跡将軍の妻、つまりは豊国女性の死生観は、
対馬海流に乗って東方黄泉の国へ流れるのではなく、
沖ノ島を聖地として崇めていた、ということになりますね。

>>139
沖ノ島祭祀の源流を、現地の宗像において、さらに前2-3世紀まで遡ることができることになります。

716 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:27:24.42 ID:sxTVszr6L
田熊石畑遺跡の将軍は、豊国女王あるいはその宗女を娶ることで、
豊国支配権を裏付けていたでしょうから、
6・7号墓の時代には、その豊国母、豊国妻、の影響が強かったことになります。

>>475
花崗岩土壌が少なく、倭の海外主要交易品であった桑畑養蚕に適していなかった豊国において、
田熊石畑遺跡がなぜ独自支配権を維持できたかというと、
東方への交通の起点という地の利が一つと、
もう一つは、磨製石器ですね。

豊国産の石包丁は弥生時代の北部九州に広く流通した特産品でしたね。
国土地理院の表層地質図で見ると、遠賀川流域は泥岩が多く、
考古学的にも田熊石畑遺跡が開始した頃から、石棺墓が入っていって、
流域各地で石包丁が作られ、北部九州広域に流通しています。

青銅器や鉄器を使用しているといっても、全て朝鮮半島からの輸入ですから、
紀元前にはまだ輸入量に限度があり、石器も重宝されたわけですね。

ですから、金属器の取引先であった、燕国あるいは衛氏朝鮮が安定していれば、
金属器が比較的多めに輸入できるので、
田熊石畑遺跡にも金属器が回って来て、吉武高木王族である田熊石畑将軍の威光が盛んとなり、
割竹形木棺は、伊邪アマ式の、対馬海流方向になる。

燕国や衛氏朝鮮が戦時体制になったりして、金属取引量が減少すると、
豊国の石包丁が売れるようになり、豊国女王家の母や妻の力が強くなって、
割竹形木棺は、沖ノ島へ向かった。

ということでしょうね。

717 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:29:14.89 ID:sxTVszr6L
山鹿貝塚女王は、縄文屈葬で、北枕。
ただ、他の人々の中には、屈葬だけれども東に足を向けているものも多い。
というのが、豊国の陸上生活者クニの埋葬方法ですね。
埋葬方角については何とも言えません。
沖ノ島祭祀についてもあったともなかったとも言えませんね。

田熊石畑遺跡の6・7号墓については、

一)田熊石畑将軍の女系は豊国陸上生活者クニであった。
伊邪アマ流の、割竹形木棺による舟葬の死生観を知り、
古来豊国聖地であった沖ノ島信仰と結びついて、割竹形木棺を沖ノ島へ向けた。

二)田熊石畑将軍の女系は豊国水上生活者アマであった。
彼らは元々沖ノ島へ向けての舟葬など沖ノ島関係の葬祭をしていた。

などが考えられますね。

どちらにせよ、もともと沖ノ島が聖地だったので、
征服者である田熊石畑将軍の伊邪アマ流の対馬海流舟葬に逆らってまで、
沖ノ島を指向したのだろう、とは思われますね。

718 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:30:54.17 ID:sxTVszr6L
>>714
吉野ヶ里遺跡の初期甕棺墓は、田熊石畑遺跡の割竹形木棺と同じ方角に並んでいる。

だいぶ繋がって来ますね。

吉武高木遺跡がアマ大王。
田熊石畑遺跡がその王族東征将軍。
として、記紀を見ますと、

>>667
オー月ヒメ(筑後縄文女王)の所領を奪い、花崗岩土壌で養蚕・稲作・粟小豆麦大豆も育てて、
カ〇〇スビ(神a派)と交易。
この時点では新規所領は吉武高木王家に帰属。

古代出雲(宗像市など遠賀川以西)の肥河(釣川)にて、
八岐大蛇(縄文周防アマ+刻目突帯文土器奴人)を倒して、
須賀(田熊石畑遺跡)に拠点形成。

田熊石畑将軍の軍勢が、筑後からさらに西と南に支配地を広げ、
そこには田熊石畑将軍配下の人々が入った。
肥河の田熊石畑遺跡の影響下なので、肥国。後に肥前と肥後。

吉野ヶ里の初期支配層も田熊石畑将軍男系となった。
おそらく吉野川(遠賀川)。

719 :日本@名無史さん:2023/11/21(火) 23:37:56.21 ID:sxTVszr6L
>>575
オー月ヒメは口鼻尻から食事を出すわけですね。

これと対比されるのが、
>>507
山鹿貝塚女王は抜歯をしていない件ですね。

同じ縄文女性クニ領主ですが、
オー月ヒメは、自ら食料を調理するということは、
自ら咀嚼して、胃の中で溶かして、吐き出した。
つまり抜歯をしていて、奥歯が並んでいたのですね。

一方の、山鹿貝塚女王(イ〇ナミ)は抜歯していないから、歯並びは悪いけれども、
きちんと調理された食事を毎日献上されていたから、それでも摂取できていた。
女王としては格上となります。

ただ、調理の意味が、良く言うなら、脱穀籾摺りされて熱を通した食事を毎日献上されていた。
ただ可能性としては、周囲の抜歯召使たちが、オー月ヒメ方式で食事提供していたのかもしれません。

豊国ど真ん中の比婆山(山鹿貝塚)(古代出雲國=遠賀川以西と、古代伯伎國=遠賀川以東との境)
から、伊邪(伊耶) ノ (爾)支を追いかけてきた、
黄泉醜女(豫母都志許賣)というのも、
考古学的には、山鹿貝塚系の抜歯していない古代豊国巫女達であった、と推測されますね。

抜歯していなので、歯並びがガタガタだったわけです。(黄泉醜女さんたちすみません)

さらに考えると、
奴国王の最初の奥さんの八神ヒメも、山鹿貝塚直系の豊国正統女王だったでしょうから、
抜歯なしで、
田熊石畑将軍の娘さんは、抜歯していたでしょうから、

抜歯なしの熟女と、抜歯ありの同世代処女とで、若き奴国王が選んだのは・・。(本当にすみません)

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