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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
- 398 :日本@名無史さん:2022/12/04(日) 15:31:16.17 ID:A6QDbB09B
- 貝釧は途絶えますが、銅釧という形で風習は残ります。
ゴホウラ貝釧を模したと言われる有鉤銅釧もまた、鋳型は九州では奴国からのみ出土。
そして三雲井原王墓からは出てきません。
桜馬場遺跡からは有鉤銅釧が出土していますから、
奴族と何らかの繋がりがあるのでしょうが、
桜馬場遺跡は井原鑓溝大王の完全な臣下墓ですから、
釧の立ち位置というのがわかりますね。
その桜馬場遺跡末蘆國王家も倭国乱にて滅亡します。
前後に大王墓が無い事から、考古学的に長期政権女王だとわかる
平原女王墓にもまた、貝釧銅釧は無いことから、
釧というものは奴国王一代のごくごく短期間の威信材であったことになります。
そもそも基本的な考え方として、
卑弥呼時代に最重要地点の伊都國に平原女王墓があって、圧倒的豪華な副葬品があるわけですから、
それが卑彌呼だと考えるのが真っ当ですし、
卑彌呼が別にいて、平原女王はその配下だと主張するのなら、
別にあるとする卑彌呼墓は、墓制は平原女王墓と同じであるべきですし、
副葬品も平原女王墓と同じ系統でさらに豪華版であるのが真っ当ですね。
三雲南小路王墓と柏崎遺跡、井原鑓溝遺跡と桜馬場遺跡、のような関係で。
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