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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

414 :日本@名無史さん:2022/12/15(木) 21:29:08.98 ID:hLJ0G8259
>>413
吉武遺跡群→三雲井原遺跡、はそれぞれの時代に圧倒的ですから、
それを素直に解釈できないあなたの説は、最初の土台から希望的先入観で成り立っていて、説得力がありません。

ゴホウラ貝釧については、先に示した通り、各遺跡で一瞬だけ保有者がいただけであり、
集落ごとに色分けすることはできませんね。
ゴホウラ貝釧多数副葬者と同じ遺跡に、その前後に伊都系銅鏡副葬者がいることも多く、
どちらかというと、行政的リーダーが、
伊都銅鏡系リーダー→奴国貝釧系リーダー→伊都銅鏡系リーダー
と変遷しているように見えます。

>ゴホウラ貝腕輪が出た安徳台遺跡の集落と須玖岡本遺跡
須玖岡本遺跡のは、有鉤ではない、ただの銅釧では?

>また、ゴホウラ貝腕輪の出た金隈遺跡と比恵・那珂遺跡も同じ連携集落と見ることができそうです。
ゴホウラ貝釧が出土する遺跡を、連携集落とみなすのに対して、
銅鏡その他の威信材が大量に出土する伊都とその関連遺跡を、連携集落あるいは広域国家、とみなさない時点で、
あなたの仮説は矛盾していますよ。

日本古来の神道における宗教的権威の印といえば、銅鏡あるいは剣・矛であり、
三種の神器、十種神宝、神社のご神体もそうですよね。沖ノ島祭祀品もそうです。
それらの弥生時代総元締めが伊都ですね。

>答えの一つとしては、怡土地域は広域のク二ではなかったために、
>ゴホウラ貝腕輪の配布を受けられず、そのためにガラスを用いた腕輪を自ら創出したとする仮定も可能になりますね。
ガラス腕輪は、北部九州からわずか2か所。
日本海沿岸からも3か所。出土していますので、
あなたの仮定だと、伊都が日本海沿岸を広域支配していた、と言っているのと同義になりますね。

貝釧に妙にこだわって、伊都を敵視している所からみると、
失礼ながら、
あなたは奴族の「貝釧多数副葬者」=「奴国王時代の卑奴母離」の末裔かもしれませんね。

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