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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3

488 :日本@名無史さん:2022/12/26(月) 21:37:49.89 ID:XkPY6nYLZ
>>480
志摩町の支石墓人骨の抜歯形式について、中橋孝博という学者の考えがサイトで見られます。
それによりますと、「抜歯形式では上顎の犬歯、下顎の切歯・犬歯を主とした抜歯痕がみられる」として、
「長崎県根獅子遺跡や佐賀県大友遺跡など西北九州の弥生人骨や西日本各地の縄文集団で流行したもので、かなり在来色の強い形式」としています。

この考えからしますと、海外からもたらされた支石墓を取り入れた新町遺跡の弥生早期の集団が、その墓に彼らの一員で縄文系の抜歯を行った人物を葬ったということになりますね。
このことは、菜畑遺跡などの最初期の水田稲作の集落から出土した土器には縄文系の模様がほどこされていることと軌を一にすることでしょう。
伊都地域の弥生早期(縄文晩期末)の住人は、縄文世界に住んでいた人々だったとしていいのではないでしょうか。

一方では、現在の日本人のYハプロの3分の1がO1b2で、このO1b2はベトナム人などのO1b1と親戚関係にある染色体です。
中国の長江下流域から淮河下流域の水田地帯にはこの両者が住んでいて、淮河の場合は淮夷と呼ばれていたようです。
2900年前の菜畑にやってきたのは、このうちのO1b2の水田稲作民だったと考えることができます。
その彼らは縄文人と混血して人口を増やしていきます。
ですので、彼らは自分たちがどこからやってきたのか、子孫に記憶を残していたのではないでしょうか。

そして、その後、漢の時代に司馬遷が史記をまとめ、その中で周の太伯と虞仲が長江河口付近に領地を得たことが書かれますが、
この事績は当時の役人など知識人に共有された有名な話だったと思われますし、それが話として倭の彼ら水田稲作人にも伝わり、それが彼らの出自の記憶と被さった結果、
「太伯の後」という新たな記憶が生まれたものと考えることができるのではないでしょうか。
そして、魏略に記されますように、魏の使節が邪馬台国の有力者に彼らの出自を質問すると、彼らは「太伯の後」だと告げて胸を張ったということだと思われますね。

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