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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
- 51 :日本@名無史さん:2022/05/01(日) 21:24:11.97 .net
- 倭人伝に「収租賦」とあるから、硯が出土している以上、租賦を文字で記録していた可能性は非常に高いんだよね。
400年前後と言われる崇神も戸数調査をして課役したと紀に書かれてるし。
日本での木簡出土は今のところ7世紀末くらいからだけど、戸籍や租税に関する調査票みたいなのが主で、
文書・手紙の類が少ない。
一つの可能性としては、「種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜」
絹が特産品だったんだから、
贅沢なことに、絹を紙の代わりに使っていた、
いわゆる「帛書(はくしょ)」の可能性があるね。
金印を使う国家間の外交文書は、案の上で木簡文書を作成して、封泥していたけど、
国内での手紙のやり取りは美しい帛書で行っていたのではないか。
正始四年の伊聲耆掖邪狗らが献上したのが、
「生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木𤝔短弓、矢」とあり、
綿の衣服の次に、絹布や絹衣や帛衣でなく、帛布だから、
これは絹の帛書だった可能性があるね。
帛書は中国でも使われていたから喜ばれただろう。
文書が帛書に書かれていたのなら、まずまず残っている可能性は無いだろうね。
ただそれでも、戸籍や租税の記録は木簡だったろうから、そちらすら見つからない理由にはならないけど。
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