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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3´

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2023/11/28(火) 19:34:00.88 ID:C8GfPRLsA
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は同一行程の並列説明です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

前のスレが途中で落ちてたんで続き用に立てました

邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/l50

95 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 10:55:34.50 ID:+SgOGD7oG
メソポタミア地域において、一つの群れが農耕を開始すると、
周囲の群れも学習して開始し始めた。

計算上は、
O1b2群れがシュメール地方。
O2群れがその東方。
O1b1群れがその東南。
にそれぞれ多かったことになります。

さらにO1b1範囲の中でも、
O1b1a1aはやや北西寄り
O1b1a1bが北東
O1b1a2が南東
にいたのだろうことも予想されます。

メソポタミア地域のO集団のうち、
最初に本格的に男性複数人体制へ移行したのがO1b1a1a。

O1b2とO2が滅ぼされていないということは、
同じく農耕を開始していたので、人数で負けていなかったわけですね。
O1b1a1aの侵略に対して防衛できたわけです。

よって、O1b1a1aは、西のO1b2や北のO2領域には入れず、
東方へと進出していったのでしょう。

まだ狩猟採集生活群れしかいない領域に、
O1b1a1a雑穀栽培群れが、ものすごい勢いで侵攻していったのですね。

96 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 11:01:23.65 ID:+SgOGD7oG
北東のO1b1a1bは、内陸を東へ東へと逃げて、
中国大陸南部に入り、
O1b1a1a農耕勢力の北縁にかわすことで、なんとか生き残った。

南東のO1b1a2は、丸木舟も使いながら、海岸線を東へ東へと逃げて、
中国沿岸の海へと追いやられて、
これが中国側の倭人=水上生活者集団となったのでしょう。

O1b1a1aはイネ科雑穀農耕が専門ですから、
雲南省の辺りで野生稲を取り入れて、稲作開始。
長江文明ですね。

大繁栄したO1b1a1aはそのまま人類の覇者になる勢いでしたが、
彼らは青銅器文化を開発できなかったのですね。

97 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 11:02:24.94 ID:+SgOGD7oG
5000年前にシュメールO1b2が青銅器を発明した。

それを学習したO2は北回りルートで中国北部へ。
もう一つの別の勢力(まだ詰め切れていませんが、インダス文明〜現在のインド主勢力のはず)
が、南回りルートで、O1b1a1aを駆逐していった。

ただ、4000年前に、その青銅器南回りルート勢力がインドまで征服したところで、
ハツカネズミの一斉放散が発生して、東西の農耕ベルトが蹂躙された。

狭義のインダス文明が、4600年前から3800年前ということで、一度滅んでいることから、
インダス文明は、青銅器をもっていたけれども、
ネズミ返しの発明をできなかったことになります。

5000年前に青銅器文化を獲得したインダス文明勢力が、東進して、
O1b1a1aを追い払ってインドを制圧したのが4600年前で、
そのまま東進するはずだったのが、
ハツカネズミの一斉放散にて、O1b1a1a長江文明もろとも壊滅してしまった、
ということになりますね。

そうなると、ネズミ返しを発明したのは、O2系統だろう、ということにもなってきます。

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