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邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3´

1 :卑弥呼は伊都國で治す:2023/11/28(火) 19:34:00.88 ID:C8GfPRLsA
邪馬台国は北部九州の広域連合国家で、伊都國が首都です。

伊都國には、
女王卑弥呼の墓候補である平原遺跡や、
住七八十年の男王の墓候補である三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡があります。

里程と日程は同一行程の並列説明です。
里程は不弥国を越えて、遥か侏儒國まで続いています。
日程は帯方郡から投馬國まで水行二十日、
投馬國から、邪馬台国の中の、女王之所都=伊都國まで、水行十日+陸行一日です。

魏志倭人伝の見聞録は、考古学的に判明している奴国の描写が皆無なので、
魏使は伊都國までしか来ていません。
魏略の行程もまた、伊都國までしか記載されていません。
首都の伊都國で金印や贈物を渡して魏使は帰国しました。

前のスレが途中で落ちてたんで続き用に立てました

邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/l50

2 :日本@名無史さん:2023/11/29(水) 02:17:57.21 ID:aBqf69hH3
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/703
>1号女王墓は割竹形木棺墓で、その埋葬方向の直線上には吉武高木遺跡があるんですね。

>さらに、平原遺跡の西の大柱、西の鳥居2つ、東南の大柱、が、
>1号墓を挟んで一直線に並んでおり、
>これもまた吉武高木遺跡を指していますね。

>この吉武高木遺跡への軸線から「日の出」を迎えるのが、「春分の日と秋分の日」。

正確には、
割竹形木棺や柱群祭祀線が向いているのは日向峠・日向川ですね。
春分秋分の日の出が吉武高木遺跡。

縄文アマの舟葬、そして古代日本アミニズム太陽祭祀を考えると、
その意味としては、
舟は日向川を流れ越えて、
その向こうにある本貫・権威源泉の吉武高木遺跡に流れ着く。
ということでしょうね。

3 :日本@名無史さん:2023/11/29(水) 02:28:41.56 ID:aBqf69hH3
『山海経』前4-前3世紀(註:西晋(265-316)の郭璞(276-324))

『盖國 在鉅燕南倭北 倭属燕』
 (倭國在帶方東大海? 以女爲主 其俗露?衣服無針功 以丹朱塗身 不?忌一男子數十婦也)

『朝鮮 在列陽東海北山南 列陽属燕』
 (朝鮮今樂浪縣 箕子所封也 列亦水名也 今在帶方 帶方有列口縣)

秦前漢新後漢三国と600年の王朝交代を経た後の註は置いておいて、
『』の原文部分だけで考えていきます。

盖國は、巨大な燕の南、かつ倭の北にある。倭は燕に属している。
朝鮮は、列陽の東、かつ海の北、かつ山の南にある。列陽も燕に属している。

倭が日本だと、倭の北に盖國があることになります。
しかし、朝鮮は海の北とありますから、盖國と被ってしまいますね。

確定部分は、燕国が、北京北西部の薊を首都とする中国北西の国家ですね。
周分家の燕と同時代であれば、朝鮮は殷末裔の箕子朝鮮。

三国志と同じ解釈法で、朝鮮はこの場合、南が海、北が山、東が列陽、と接するわけですから、
列陽とは陸地で接している。

よって、朝鮮の東にある列陽とは、燕に征服された遼東勢力(遼寧式銅剣)と考えられ、
鴨緑江が境界で、列陽=遼東勢力と、朝鮮が接しているのか、
列陽は後の楽浪帯方郡領域まで含んでいて、その東に朝鮮なのか、
ということになります。

そうなると、盖國とその南の倭、は、朝鮮半島と日本列島の位置ではなく、
山東半島とその南方領域である、ことになりますね。

4 :日本@名無史さん:2023/11/29(水) 02:29:27.67 ID:aBqf69hH3
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/688

倭=水上生活者の勢力、であり、
倭人=水上生活者=蛋民の古語、と解すれば、辻褄が合います。

山海経は、古代中国の倭=山東省より南方にいた水上生活者勢力について初めて記した文献ではあるけれども、
日本列島について初めて記した文献ではないのではないか、ということになります。

5 :日本@名無史さん:2023/11/29(水) 02:32:34.36 ID:aBqf69hH3
盖國について検討していくと、

『繋年』(前380-前370)清華大学竹簡
「周武王既克殷  乃設三監于殷
 武王陟 商邑興反 殺三監而立祿子耿
 成王纂簒伐商邑 殺祿子耿
 飛廉東逃于商盍(蓋)氏 成王伐商盍(蓋) 殺飛廉
 西遷商盍(蓋)之民于朱圉 以御奴?之戎 是秦之先人 世作周?
 周室既卑 平王東遷 止于成周
 秦仲焉東居周地 以守周之墳墓 秦以始大

史記と若干相違はありますが、内容としては、
周の武王(在位前1046〜43)は殷を制圧して、殷に三監を設置した。
武王が即位すると商邑(殷の首都)で殷の遺民が反乱して殷を再興し、
三監を殺して祿子耿を擁立した。
成王(在位前1042-21)はこれを受けて商邑を征伐し、祿子耿を殺した。
飛廉は「東の商盍(蓋)氏へ逃げた」ので、成王は商盍(蓋)を討伐して飛廉を殺した。
商盍(蓋)の民は西の朱圉へ遷して、辺境の奴隷を管理させた。
この時の商盍(蓋)の民が、秦の先人である。
(時代は下って)周王室は既に弱体化して、平王(在位前771-720)は東遷して(東周の新首都)成周にとどまった。
秦仲(前844-前822)がこの時に東に移動して、周領土に居して、周の墳墓を守った。
ので、秦は勢力を増した。

禽?(西周早期中期青銅器銘文)
「王伐盖侯 周公某禽祝禽又振祝王易金百孚禽用乍宝彝」
周の成王の時に、盖国が反乱したので、成王が平定した記録。

盖國は周の東方。
山東半島並びにその周辺地域だった可能性が高いですね。
殷の一部あるいは殷の同盟国だったので、
殷遺民が殷再興を期して反乱したのに加担して、周に征討されたことになります。

6 :日本@名無史さん:2023/11/29(水) 03:01:01.98 ID:aBqf69hH3
『論衡』王充(27-100頃)
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉 服鬯草 不能除凶」
「武王伐紂 庸 蜀之夷佐戰牧野 成王之時 越常獻雉 倭人貢暢」
「暢草可以熾醸芬香」

周の成王(在位前1042-21)の時ですから、日本はまだ縄文時代。
この倭人も、中国南部の水上生活者であった可能性が高いですね。

ちなみに鬯草(暢草)は、香草・薬草で、酒に浸して香り付けをするとのことです。
倭人=水上生活者が献じたのですから、海草でしょう。
ウイスキーのヨード香ですね。
海草が元のピート泥炭のヨード成分でつく潮香。上質のスコッチ。

以上のように考えると、
周代の地理観は、
中国北東部に燕。その東の遼東が列陽。鴨緑江を挟んで東に小さく箕子朝鮮。
燕の南に盖國。
さらに南に水上生活者の倭。
その南もしくは、倭の西の陸上国家が、越(裳)。

7 :日本@名無史さん:2023/11/29(水) 03:11:04.30 ID:aBqf69hH3
そう考えると、倭は水上生活者勢力で、基本は舟葬。
現代の蛋民も舟葬が残っていたようですから。

陸上部分は越だったとしたら、
わずかに食いこんでいる、浙南や長江流域の石棚墓が、
倭の一部が交易や真水補給や貯蔵などのために所有していた陸上拠点の管理者、
だったのではないか、とも想定されますね。

>>2
アニミズム、でした。

>>3
>よって、朝鮮の「西」にある列陽とは、燕に征服された遼東勢力(遼寧式銅剣)と考えられ、
ですね。

倭が成王に献じていることから、
周が殷を滅ぼした時に、
盖國は殷側に、倭は周側に、加勢した可能性が高くなりますね。

よって、周王家→燕→燕に倭が属す
殷系の盖國は滅ぼされ、東の辺境の箕子朝鮮と、西の辺境の秦と、に封ぜられた。
江戸幕府で言うと外様大名ですね。

さらにそうなると、浙南石棚墓からの前10世紀頃渡来は、
戦争での大量避難民ではなく、平時での遭難者のごく少数渡来だった、
可能性が高くなります。

古代倭と周との関係が、
長崎の支石墓の成り立ち、弥生開始時の状況を考える上では重要なポイントになるわけですね。

8 :日本@名無史さん:2023/11/30(木) 03:45:04.72 ID:Sv23bOK4B
>>2
面白いですね。

伊都國の中心点=到伊都國=吉武高木宮殿=蓬莱宮殿
を主眼に見た場合、
春分秋分の日の出が真東ですから、
初代倭国王の王墓と考えられる、三雲南小路遺跡が、
三雲南小路遺跡〜日向山山頂〜吉武高木宮殿
で真東真西で一直線に並んでいるのですね。
確実に真東を意識して場所を選んであるようですね。

三雲南小路遺跡からだと、春分秋分の日の出は、日向山山頂(355m)の南端から出てくる感じですね。

平原遺跡の真東は、吉武高木宮殿よりはやや北寄りになり、
吉武遺跡の住居群の辺りになるでしょうか。

太陽は南寄りに上っていきますから、
平原遺跡から見た実際の日の出は高祖山(416)〜くしふる山の南端か、
もしくは三雲南小路遺跡から見た時と同じく日向山の南端から出てくる。

そうすると、平原遺跡の割竹形木棺や御柱・鳥居群の方角と同じになって来るので、
平原遺跡のほうは、どちらかというと、日向川への流路、日向山からの実際の日の出、
などを意識した感じにになりますね。

三雲南小路〜日向山〜吉武高木宮殿、は真東真西の方位を意識、
平原遺跡〜日向川日向山〜吉武高木宮殿、は魂の還る里程を意識、
していますね。

9 :日本@名無史さん:2023/11/30(木) 03:46:29.04 ID:Sv23bOK4B
>>7
碁盤型支石墓の年代を考えると、
原山支石墓群や宇久松原遺跡など刻目突帯文土器を伴いますから、
縄文末期からであり、
前3000年頃にニホンヤモリや四眠蚕と一緒に少数漂着渡来したと考えられますね。

ですから、支石墓の被葬者は、縄文人骨や屈葬で、
九州縄文人に養蚕など文化を伝えて、そのまま現地縄文社会に同化吸収されたわけですね。
鼎などが出土しませんし。

考古学的には陸上生活者クニのものしか残りませんから、
一足先に渡来していた奴人の刻目突帯文土器が目立ちます。

しかし弥生時代もまだ水上交通社会でしたから、
縄文主勢力であった水上生活者アマ=舟葬のほうが勢い盛んだったはずであり、
住居と墓、住居と貯蔵庫、などの数のギャップがその実態を考える手掛かりになりそうです。

10 :日本@名無史さん:2023/11/30(木) 03:47:41.97 ID:Sv23bOK4B
半島側の碁盤型支石墓は前500年からと言われており、
その時点でそちらから渡来して来た人々が稲作云々というのはありえない話なのですが、
どうなのでしょうね。

対馬海峡に支石墓が分布しないことから、
浙南石棚墓からの漂着者が、北西九州と、南西半島部とに、それぞれ別個に漂着して、
人口の多かった九州では九州縄文側に吸収、
人口の少なかった半島では支石墓勢力が主体的に増えた、
と考えていましたが、

逆に対馬海峡の標石墓や石棺墓などを重視して、
島では大きな石を調達しづらかったのだけだ、と考えて、

前3000年頃、浙南石棚墓から九州に少数漂着渡来
→養蚕開始
→絹交易による青銅器入手=遼東勢力列陽との交易開始
→列陽と交易するため支石墓が列陽方向へ進出
と考えるのが自然になってきますね。

浙南石棚墓の血が薄くなるにつれ、支石墓の上部構造が無くなり、
大人石棺+小児甕棺→養蚕で儲けたら大人も甕棺
のスタイルに収斂していったのでしょうか。

11 :日本@名無史さん:2023/11/30(木) 03:49:10.71 ID:Sv23bOK4B
>>7
山海経によれば、古代倭(山東省盖國より南の水上生活者)と、列陽(遼東勢力=遼寧式銅剣)と、
が燕に属していた。

当時の北部九州は、やまと、であり、水上生活者は縄文アマ、だったわけですね。

古代倭人が北西九州伊邪國に少数漂着渡来して、やまと、に、四眠蚕を伝えて、
やまと、の主要交易品に絹製品が加わった。

やまと、の陸上生活者クニ、は、
縄文本来の陸上生活者+刻目突帯文土器奴人の構成であり、
再開した稲作社会を維持するため、ねずみ返しを作る青銅器を必要としていた。

また桑畑養蚕をするため、花崗岩土壌での陸上生活者が増えていった。
甕棺墓だが、元がアマなら石棺墓、クニなら土壙墓もしくは木棺墓、から金成。

古代倭の血が混じったアマ、が燕繋がりで親勢力の列陽と交易して、
青銅器原料=遼寧式銅剣などを入手し、江辻型青銅器工房で青銅器鋳造。

https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/657

12 :日本@名無史さん:2023/12/01(金) 00:09:40.08 ID:dz+CoR3pX
三雲南小路遺跡・細石神社〜日向山山頂〜吉武高木宮殿〜須玖岡本遺跡
が真東真西の一直線上に並んでいます。

日本人であれば何かを結論づけてしまいそうになりますね。

三雲南小路1号大王墓と、須玖岡本遺跡D地点王墓は、
倭国王男系を示すと思われる清白銘の連弧紋前漢鏡を共有していることから、
兄弟など極めて近い近親者であると既に予想していましたが、
この並びからも、より一層その予想が強化されます。

ですから、須玖岡本遺跡D地点の王は、奴国王ではなく、
金印奴国王が失脚した後に、
進駐して来た、伊都国王族新支配者である、のでしょう。

魏志倭人伝で言うなら、
伊都国知事だった爾支が、共立されて、広域倭国王となり、
末蘆王家柏崎遺跡の姫を娶って、
大王が三雲南小路1号墓、柏崎遺跡系の妃が三雲南小路2号墓の被葬者。
柏崎遺跡と三雲南小路2号は日光銘の連弧紋前漢鏡を共有。オルドス式銅剣はお抱え渡来工人のもの。

空いた爾支には、その兄弟が就任した。
須玖岡本D地点王は、奴国(那珂津国)平定に尽力した爾支その人か、
あるいは、爾支の配下に、その息子達など伊都国勢が任命され、
爾支の下部組織として、伊都國を泄謨觚柄渠觚が、奴國を?馬觚(しま)が、
それぞれ管轄して、須玖岡本D地点王は?馬觚か。

清白銘の連弧紋前漢鏡を共有しているのと、
須玖岡本D地点王のほうが三雲南小路1号大王より長生きして、?(キ)鳳鏡を副葬されているので、
おそらく爾支だと思われますね。

13 :日本@名無史さん:2023/12/01(金) 00:11:39.63 ID:dz+CoR3pX
三雲南小路遺跡・細石神社〜日向山山頂〜吉武高木宮殿〜須玖岡本遺跡
のレイラインは初代倭国王家のラインである可能性が非常に高くなり、

このライン上からは、大型建物宮殿跡、清白銘連弧紋前漢鏡を持つ王墓、重要祭祀跡、
などが出土する可能性が高いことになります。
ただ、初代倭国王伊都国王家の影響範囲内でのことになりますが。

西に延ばすと呼子の大友遺跡、東に延ばすとウサギさん神宮、などがありますね。
そこまで関係が及ぶかどうかはわかりませんが。

14 :日本@名無史さん:2023/12/01(金) 00:14:30.10 ID:dz+CoR3pX
平原遺跡については、春分秋分の日の出自体は真東からですが、
太陽が次第に南寄りに昇って高度を上げて、
糸島平野に朝日が指すのは、
日向山から日が指すわけですね。

そうすると、御柱の影がすっと伸びて、平原遺跡1号女王墓の下半身に刺さる。

太陽との性交。あるいは日向山との性交。ですね。

「1年に2度」の春分秋分の日に、太陽とまぐわう。
私は現時点では支持していませんが、いわゆる二倍歴という説にとっては、
考古学的な根拠の一つにはなるでしょう。

まさに日巫女であり、
詔書に記録されたことから卑彌呼自身が自ら名乗った卑彌呼というのは、
日本人の祖先らしい謙譲語、謙譲表現だったのかもしれませんね。
あるいは呪術的は、本来の名前=日巫女、などの本名を告げるのは良くないことであり、
あえて漢字を変えた、とか。
昔は子供が成人するまでは敢えて変な名前にしたのと同じ感覚で。

春分秋分の日に太陽と交わり、そのエネルギーをもって、
割竹形木棺ですから、日向川を進んで、吉武高木宮殿に到る。

15 :日本@名無史さん:2023/12/01(金) 00:15:37.41 ID:dz+CoR3pX
縄文アマは太陽あるいは月の方角を重視していたことは確実ですね。

縄文早期から前期、最古の貝塚の一つである、夏島貝塚において、
マグロやカツオなど外洋性の魚が出土していますから、
縄文アマはその頃から遠洋漁業に出ていた。

そうなると、大海原にあっては方角の目印が太陽しかありませんから、
太陽の運行については非常に詳しく解析していた筈ですね。
(また、縄文人は最初から丸木舟を知っていた可能性が非常に高い。)

ですから、割竹形木棺で縄文アマ首領の系譜を引き継ぐ、吉武高木王家=原伊都王家も、
太陽方角については精通していたし、古代は祭政一致ですから、
重要遺跡がレイライン上に並んでいるわけですね。

16 :日本@名無史さん:2023/12/07(木) 20:43:32.80 ID:hx4+K9SWd
成人男性の平均歩行速度が3km/時
一日に歩行可能な平均距離が30km/日
と言われていますね。

魏志倭人伝に記された里程の、至末盧國=末盧國上陸地点が、筑前深江駅。
そこから福岡県道49号線で日向峠を越えて行くのが、
数々の重要遺跡を辿っていく、里程の陸上部分と考えられますね。

筑前深江駅からの道路距離並びに歩行時間を測定すると、
魏代伊都の三雲井原遺跡(日程の女王之所都)までが、10.63km・3時間19分
後漢代伊都の吉武高木遺跡(里程の到伊都國)までが、19.64km・6時間8分
須玖岡本遺跡(奴國中の高級住宅地)までが、33.96km・10時間37分
不彌國の雀居遺跡までが、40.22km・12時間34分

ですから、陸行一日はほぼ伊都國内の話であることになりますね。

17 :日本@名無史さん:2023/12/07(木) 20:59:53.09 ID:hx4+K9SWd
上記は舗装された現代社会での移動距離の測定値ですから、
幹線道路もない弥生時代、しかも泥道の多い日本であれば、
一日に歩行可能な平均距離は20km/日にも満たなかった可能性が高いですね。

邪馬台国の道については、各所で粗末だと記されており、
下戸が大人と道路で逢った際には、路傍ではなく、わざわざ逡巡して草に入ると記されています。

もともとの語源からして、倭人=水上生活者ですから、
遠距離移動は舟が基本であって、
道は発達していなかったのですね。

18 :日本@名無史さん:2023/12/07(木) 21:17:55.80 ID:hx4+K9SWd
魏志倭人伝の見聞録は伊都国までですから、
魏使は伊都國までしか来ていない。
ですから日程の女王之所都=魏代伊都中心の三雲遺跡ですね。

里程で不彌國まで行ったのは後漢代の漢委奴國王金印の後漢使。

なぜ陸路かというと、楽浪土器の集中出土でわかるように、
三雲遺跡に後漢大使館があったからですね。(郡使往来常所駐)

そして金印授与式典は、吉武高木宮殿で行われる。

最終地点の不彌國雀居遺跡が、奴国王の居館ですね。

奴国王視点で見ると、後漢使を伊都国勢から護衛しながら移動する、ということになるので、
後漢使上陸地点の選定ならびに三雲大使館までの移動は、
潤地頭給遺跡上陸→伊都集落の中を通って三雲大使館へ遡上
よりは、
筑前深江駅上陸→福岡県道49号線→三雲大使館
のルートの方が、人家が無く視界も広くて護衛しやすかった、
のですね。

そして三雲大使館をベース宿泊地とする後漢使が、
吉武高木宮殿での金印授与式典に臨むには、
三雲大使館→潤地頭給遺跡→斯馬國糸島半島を沿岸航海で迂回→天浮橋(福崎)上陸→後漢代伊都市街を吉武高木宮殿まで遡上
よりは、
三雲大使館→福岡県道49号線→吉武高木宮殿
のほうが早いし護衛しやすいですね。

金印授与式典が終わって、雀居遺跡までは、
吉武高木宮殿→福岡県道49号線→奴国高級住宅地須玖遺跡→奴国王勢力圏内で北上して雀居遺跡
ですね。

19 :日本@名無史さん:2023/12/07(木) 21:23:29.10 ID:hx4+K9SWd
卑彌呼への金印魏使の場合は、
潤地頭給遺跡上陸でも良かったでしょうが、
金印授与というのは超重要イベントですから、

後漢を継承した魏からの使者ということで、
筑前深江駅上陸→福岡県道49号線→三雲大使館
のルートを継承したのでしょう。

古代王朝で非常に重視される「前例の踏襲」ですね。

当たり前ですが、魏使に倭の悪路を長時間歩かせるようなことはありえず、
陸行一月は一日の間違い。

魏代伊都の三雲井原遺跡(日程の女王之所都)までが、10.63km・3時間19分
くらいが限度である、ということになりますね。

20 :日本@名無史さん:2023/12/08(金) 01:54:05.10 ID:qUnjb8SIM
後漢書倭伝や魏略に記されていない部分は、
張政の報告書からの引用=魏使による新情報の可能性が高いわけですね。

ですから、
至末盧國の『有四千餘? 濱山海居 草木茂盛 行不見前人』や、
邪馬台国倭国の『下?與大人相逢道路 逡巡入草』(伊都大率の直後に掲載)などは、
張政の旅誌に書かれていた情報。

上陸してから宿泊地である三雲大使館までしばらく歩かされたことが書かれていたので、
陸行一日をわざわざ付け足して、
それを後世に墨書転写時に陸行一月にとんでもない転写間違いをして、
数百年の混乱を引き起こした、ということでしょう。

同じ視点から、對海國についても、
『方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘?』『食海物自活』
の部分が張政の旅誌に書かれていた可能性が高く、
張政さんは対馬に上陸した。

天候や潮目などから次の壱岐への出航待ちが数日あって、
対馬を散策したり、(土地山險 多深林 道路如禽鹿徑)
対馬の郷土料理を味わったり、(食海物自活)
したわけですね。

21 :日本@名無史さん:2023/12/09(土) 08:36:26.89 ID:7W0tKAJZL
現代での平均歩行速度が3km/時
一日に歩行可能な平均距離が30km/日

幹線道路もない弥生時代に、日本列島の泥道、
魏志倭人伝に記された、すれ違うのに草叢に入らないといけないような細道や獣道なので、
一日に歩行可能な平均距離は20km/日にも満たなかった可能性が高い。

魏志倭人伝に記された里程の、至末盧國=末盧國上陸地点候補の最東が、筑前深江駅。
そこから福岡県道49号線で日向峠を越えて行くとして、

筑前深江駅からの道路距離並びに歩行時間(2km/時)を測定すると、
魏代伊都の三雲井原遺跡(日程の女王之所都)までが、10.63km・5時間19分
後漢代伊都の吉武高木遺跡(里程の到伊都國)までが、19.64km・9時間19分
須玖岡本遺跡(奴國中の高級住宅地)までが、33.96km・16時間59分
不彌國の雀居遺跡までが、40.22km・20時間7分

なので、陸行一日は伊都國内の話。

22 :日本@名無史さん:2023/12/27(水) 05:37:10.23 ID:Ivj5uJE8C
>>19
>古代王朝で非常に重視される「前例の踏襲」ですね。

女王国というのは共立前の地方女王卑彌呼の前任地。
奴國+不彌國+αと考えられるわけですね。
後漢書にも記録されている
「有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑?
 於是共立為王
 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食傳辭語
 居處宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 法俗嚴峻」
の部分は、後漢時代からのものですから、

地方女王時代の若き卑彌呼は不彌國雀居遺跡にいた可能性が高く、
城柵に囲まれた宮殿は福岡空港の下に眠っている可能性が高い。

卑彌呼を天照に例える説者が多いけれども、
むしろ多摸であり、数ある玉依姫のいずれかである可能性の方が高い。
補佐する男子一人は?馬觚(シマコ)でウマシマジ一族ではなかろうか。
そうなると同じ伊都国爾支男系でも、卑彌呼共々ウマシマジ系かもしれない。
推測に過ぎませんが。

前例を踏襲するならば、
後漢金印使の時と同じルートを用いて魏金印使つまり梯儁らも雀居遺跡まで来たはず。
しかし、
梯儁らの行程を示すであろう魏略のルートは伊都までで、次は南の狗奴国の説明に繋がる。
魏志倭人伝の見聞録も伊都までで、日向峠越えや奴国の描写が無い。
などのことから、
正始元年には、卑彌呼は伊都西部千戸へ移動していたことになりますね。

23 :日本@名無史さん:2024/01/13(土) 02:05:50.26 ID:CKL+eaj6m
Y染色体ハプロタイプについてです。

各主要系統が別々に世界規模で独自分布しており、
各系統のY染色体アダムが存在するはずですね。

A系統、B系統は、アフリカ大陸のみ。

次のC系統以降が問題で、
各系統の男系が、それぞれ親系統とが異なる世界分布を示しています。

各系統の分岐を考えるに、
親系統と完全に分岐して、独自路線を歩んでいるわけですね。

と、いうことは、
例えばB集団の中に、一人のCEアダムが誕生したとします。

ホモサピエンスの基本形態が、男性20人+女性20人であれば、
B男性20人集団の中に、CE男性一人が生まれたとして、
それが一人だけ独立して、子孫を残していく可能性は極めて低い、
突発的事象なわけですね。

それが、各Y染色体ハプロタイプについて引き継がれていく。
というのは、確率論的に、ありえない事象であることがわかります。

親も兄弟もB系統なのに、自分だけがC系統の男子が、
一人だけ独立してやっていく確率がそもそも低い。
それが、各Y染色体ハプロタイプ独立時や、Y染色体ハプロ内の亜流それぞれの独立分布について、
選択される、というのは確率論的にありえない、ということは明らかですね

24 :日本@名無史さん:2024/01/13(土) 02:19:25.02 ID:CKL+eaj6m
ですから、
石器時代のホモサピエンスの群れにおいて、
複数のB男性+その兄弟としての突然変異C息子、がしばらく一緒に過ごしていて、
ある時C男子の子孫のみが独立して、
世界において独自分布を残す、というのは確率論として極めて低く、
であるがゆえに、
複数のY染色体ハプロ系統や、その下流系統において、
別々の世界分布を残す、ということは、ありえないわけですね。

現代のY染色体ハプロ分布から、推測されるのは、
ホモサピエンスの本来の原始形態としては、
男性は一人だけ残して、他は全て女性。
狩りも漁も女性が協業体制で行って、
男性は一人だけ。
一人の男性が子孫を残せる間は敬って、他男子は排除。
一人のボス男子が子孫を残せなくなったら、これを排除して、次の男性ボスを残す。

という形態ですね。
つまりは、ライオンのような形態が、ホモサピエンスの本来の形態であることになります。

ですから、
男性は比較的一人を好み、
女性は群れて、情報交換を盛んに行う、という、
現代の生態の説明がつきます。

25 :日本@名無史さん:2024/01/13(土) 02:30:49.74 ID:CKL+eaj6m
>ホモサピエンスの本来の原始形態としては、
>男性は一人だけ残して、他は全て女性。狩りも漁も女性が協業体制で行って、男性は一人だけ。
>一人の男性が子孫を残せる間は敬って、他男子は排除。
>一人のボス男子が子孫を残せなくなったら、これを排除して、次の男性ボスを残す。

これは生物学的には理にかなっていますね。

例えば、一定面積の狩場を、一つのホモサピエンス集団が占有するとします。

一定面積の狩場において、マンモスや鹿、あるいは魚介類などの獲物を得るとして、
その'有限の'獲物を得るための労働力は、
弓矢、あるいは潜水漁(海女)、などで、性別に関係なく飽和状態に達します

そうなると、
一定面積の狩場漁場に対して、
A)男子20人+女子20人
B)男子1人+女子39人
だと、
当然Bの方が、子孫を残して繁栄する可能性が高くなりますね。

コンプライアンスに抵触しかねませんが、
組織の労働力で、一定範囲の縄張りの中での食料収拾能力がMAXに達している場合、
できるだけ女性が多い集団で、できるだけ男性が少ない状態にして、
優秀な男性一人を残しておいて、
他の女性集団で狩りや漁をして、組織を維持するのが、
最も組織が存続する可能性が高いことになります。

26 :日本@名無史さん:2024/01/13(土) 02:42:47.65 ID:CKL+eaj6m
つまり、
ホモサピエンスの本来の原始形態というのは、
ライオンと同じく、

群れには男子一人。
あとは女性が数十人いて、女性が群れて、盛んに情報交換を行いながら、
獲物の情報を共有して、狩りを行っていく。

獲物を得るテリトリーの範囲内においては、
女性の狩り協業体制で充分量の獲物を獲得できていた。

そう考えると、
Bから派生したCが、アメリカ大陸を含む全世界に分布。

次のDは、ごく限られた地域にしか残っていないので、
BCと同じく、オス一人+メス多数の形態を保ちつつ、
たまたまボス猿の地位を獲得した孤立派なのではなかろうか。

更にその次のOが席巻しているわけだが、
シュメール文明の青銅器文化の優位性で席巻したのか、
あるいは
男子複数+女子複数の生活形態であったので、
男子一人のC系統に対して軍事的優位性を保って、駆逐していったのか。
という推論になってくる。

27 :日本@名無史さん:2024/01/15(月) 02:09:44.60 ID:ow3O1JqoL
ニホンザルの群れも、この推論に似たような形態だそうですね。

・母系集団
・メスは群れの中で一生を過ごす
・オスは1頭〜数頭のみが群れの中に入る
・その他のオスは、成長と共に群れの外縁もしくは、単独行動(ハナレザル)となる
・1つの群れが数十〜百頭
・1つの群れの行動範囲は、数平方キロ〜十数平方キロ
・隣接する群れと行動範囲が重なることは少ない

ホモサピエンスの原始形態もこれに似たものだったと推測されますね。

Y染色体ハプログループの古い時代のものが、
分岐するごとにそれぞれ別の世界分布をしていることから、
1つの群れにはほぼ1人の男性しかおらず、
父親や兄弟と一緒に行動することは無かったのだろう、と考えられます。

群れに入れたごく限られた男性以外は、たった一人で生きる人生だったわけですね。
ハナレザルとして暮らすことに対応した性格が、アス〇ルガーか。
他の群れで男性の欠員が出れば、補充員として拾われることがあったのでしょう。

逆に考えると、
Y染色体ハプロが分岐後に異なる分布をしているなら、群れに男性一人時代。
一緒に行動し始めたら、群れに男性複数人時代の幕開け、
ということになります。

28 :日本@名無史さん:2024/01/15(月) 02:40:18.54 ID:ow3O1JqoL
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/590

志賀島に封印された蛇紐の祟り(疫病、大地震など)を鎮めるために埋納された、
蛇行剣。
?龍鏡(ダ龍鏡)も似たような概念で、盾形銅鏡もまた封印に特化したもの。

当時の国家最高の神官巫女達が施した封印を次々に解呪。
見つけるのはいいけれども、封印の更新をせず逆に私欲の念をこめてしまった。
志賀町にも蛇行剣がある、あった、のではなかろうか。

蛇は水、山。
今年は龍年として天翔けようとする。
災厄が続くのか、それとも転じて大いなる飛躍の年となるか。

このまま無為な解呪が続くなら次の龍はさらにとてつもない力を持つことに。

29 :日本@名無史さん:2024/01/15(月) 23:53:16.84 ID:ow3O1JqoL
ホモサピエンスの原始形態が、男性一人+女性多数の群れだったと仮定すると、
母系集団ではあるのですが、
男性についても、集団の遺伝子の半分を担って、似たような動きをしたはずであり、
Y染色体ハプロも、ある程度はその集団の文化レベルなどを反映して動いたと考えて検討してみます。

出アフリカ前後でのY染色体ハプロの動きについて考えてみます。

ABはアフリカ居残り組
Cが出アフリカしてほぼ戻らずに世界に拡散
DEはYAP遺伝子を共有しており、
Dはチベット高原、アンダマン諸島、日本列島など、東方の辺境のみに残存
Eはアフリカ回帰と、ヨーロッパ方面にも多少拡散

ですから、縄張りのやり取りでの強弱を考えると、
AB≒C>>ネアンデルタール
E≧ABC
となりますね。

30 :日本@名無史さん:2024/01/15(月) 23:53:58.35 ID:ow3O1JqoL
ABから定期的に生まれる新型Yハプロのうち、
6万年前にたまたまアフリカ北東部辺縁に居たCの群れが紅海を渡海して、
ユーラシア大陸拡散を開始した。


AB≒C>>ネアンデルタール
については、弓矢や槍など長距離武器の差でしょうね。

その差はそのまま群れの同一行動範囲同一行動時間における
狩り=食料獲得の効率差に直結しますし、

直接交戦、狩場争いとしても、
棍棒を持った屈強なネアンデルタール男性20人はバラバラに動き、

いつもおしゃべりをして情報交換や意思疎通をしている、
弓矢を持ったホモサピエンス女性20人の集団戦闘によって狩られていった。
ということでしょう。

31 :日本@名無史さん:2024/01/15(月) 23:58:30.03 ID:ow3O1JqoL
現生人類の遺伝子に、ネアンデルタール人の遺伝子が2%ほど混入していることが判明していますね。

ほとんどのネアンデルタール人は頃されて狩場を奪われ、
状況によっては食料になった可能性も高いですが、
一部混血することで、ネアンデルタール人の遺伝子が獲得された。

どの遺伝子を獲得するかはランダムですが、
例えば体格の改善→脳容積増加→知能向上、や、
新規免疫の獲得、あるいは新規消化酵素を獲得して生存率が高まった、
あるいは単純にハーフとしての外見的魅力の向上、
などの、
「有益な遺伝子」、をネアンデルタール人から獲得した人は、
生存確率が高まりますから、増えていったのでしょうね。

ですから、
E≧ABC
については、

Eは一旦出アフリカした際に、ネアンデルタール人から何らかの「有益な遺伝子」を得たことによって、
ABに対してある程度の優位性を獲得したため、
アフリカで増え直すことができたものと考えられますね。

E1b1aはアフリカ南部、E1b1bはアフリカ北部に、綺麗に分布が別れており、
砂漠で分断されたのでしょうが、
分布が分かれている、ということは、
この2つも明らかに、群れに男性一人時代に分かれていることになり、
4万年前のEは群れに男性一人体制だった。

おそらくE1b1bが先で、アフリカ北部に増えたところで、
今の分布境界の辺りで、一足遅れでE1b1aのYハプロアダムが産まれて、
アフリカ南部に渡って増えた、という流れでしょう。

32 :日本@名無史さん:2024/01/16(火) 22:07:04.33 ID:/+vhNa/Nn
同時期のDEとD系統の動きについてです。

DとE、そしてD下位系統、E下位系統、がそれぞれ独立して分布していますから、
群れに男性一人時代ですね。

だいぶ後にO系統によって駆逐されるわけですが、
ここでポイントとなるのが、
同じくOに駆逐されたC系統は広く薄く残っているのに、D系統は濃く局所的にしか残っていない、ということです。

O系統の出現が約3万1000年前。
O系統の進出はその後ですから、
それまでにCとDは充分に拡散できていたはずですね。

完全に駆逐して、駆逐されて、ゼロになる、というのは難しい事ですから、

CとDが同様にOに駆逐されたのであれば、今のような分布形式の差は生じないはずです。

33 :日本@名無史さん:2024/01/16(火) 22:10:33.56 ID:/+vhNa/Nn
CとDの残り方に差が出るパターンについて考えると、
ホモサピエンスにおいて、東方ルートへまず進出したのは、
D系統だったのだろう、ということになります。

まずD系統がスンダランド辺りまで進出して、
増殖開始して、そこからさらに拡散しようかという時期に、
すぐ後からやって来たC系統によって駆逐され、
その時点でチベット高原やアンダマン諸島、日本列島などに逃げ込んだD系統のみが、
生き残った。

Cが当時の勝者で、Dを駆逐して、Cが拡散していった。

その状態であれば、ずっと後にO系統による駆逐があったとして、
今のCやDの分布になりえます。


DE男性がチベット高原で見つかったのが本当であれば、
6万年前にまず、DE系統がホモサピエンスの先陣を切って、
出アフリカ〜インドくらいまで東方拡散。
そのDE系統から、西のアラビア半島辺りでD0やEが誕生。
東のインドあるいはもう少し東で、D1系統が誕生。

その直後からC系統による東進が始まり、東進経路のDEはことごとく駆逐され、
東端にいたD1系統が、這う這うの体で高地や離島に逃げ込んで何とか命拾いした。

34 :日本@名無史さん:2024/01/16(火) 23:00:33.61 ID:/+vhNa/Nn
現生人類は動物種として孤立しており、遺伝子的には、
新型コロナなど感染症や、環境変化などに脆弱であると言われていますね。
旧人類と混血することは、ホモサピエンス内では得られない遺伝子を獲得するチャンスでもあった。

旧人類にもいろいろいて、
ネアンデルタール人との混血、ネアンデルタール遺伝子の獲得、
というのが、デニソワ人など他の旧人類と比較して、
非常に有用だったわけですね。


出アフリカ当時の、現場の状況を仮にですが計算してみると、
人類発生から十数万年を経て、アフリカにはABが満ちている。
北にはネアンデルタール人がいる。

CTが出アフリカして、バルカン半島で増えた。(7万年以上前)
次いでバルカン半島北部でDEも誕生した。(7万年以上前)
DEはCTが増えているバルカン半島ではなく、北か東へ新天地を求めようとした。
北に行くとネアンデルタール人がいて、弓矢で勝つことはできるのだが、戦わないといけない。
東に行けばネアンデルタール人がいないから、東へと向かった。

デニソワ人など非ネアンデルタール人の旧人類はいたが、ネアンデルタール人よりはずっと弱く、楽に勝てた。
ただ弱い分、交配してもあまり有益な遺伝子は得られなかった。
<力関係:AB=CT=DE>>ネアン>

バルカン半島がCTとDEで満ちてきた。
Eが生まれ、これもバルカン半島を出ようとしたが、<7万年前>
東には先行したDEが増え始めており、
圧力の弱い北へと進出し、ネアンを駆逐し、一部交配して有益な遺伝子獲得。

ネアンの多い北へあまり深入りせず、
優越性を生かして、故郷アフリカで男性一人群れの男性一人の座を少しずつ得ていった。
<E>AB=CT=DE>>ネアン>

35 :日本@名無史さん:2024/01/16(火) 23:03:49.72 ID:/+vhNa/Nn
次いでバルカン半島でCFを経てCが生まれた。<6万年前>

東にはDE多数。
北はEがいるが、満ちているわけではなく、Eのいない部分から北上。
ネアンを駆逐し、交配して有益な遺伝子獲得。
<C=E>AB=CT=DE>>ネアン>

バルカン半島〜アフリカへの帰省ルートには、Eがいるのでブロックされ、
一部はそのままネアン領域へ北上進出して、ヨーロッパや北ルートで北東アジアへ。
また一部は東方ルートに回ってDE領域へ進出開始。南ルートでDEを追いかけ駆逐していった。

こう考えると、Cによってネアン遺伝子が早期にアジアへもたらされたことになり、
ネアンデルタール人はヨーロッパを中心に発掘発見されているのに、
現在のアジアにネアン遺伝子が結構多いことの説明にもなりますね。

36 :日本@名無史さん:2024/01/17(水) 23:40:37.66 ID:jFRYt1msw
ABはアフリカ内で増え、お互いに駆逐し合うこと無く残っている。
DもAB領域アフリカに進まず、東へ新天地を求め、追ってきたCに駆逐された。

Eもネアン領域に深入りせず、アフリカへ戻り、アフリカでも先住のABを駆逐することなく、
今まで共存している。
そうなるとネアンとも交戦したのではなく、
当時のホモサピエンス領域の北縁にいたため、ネアンと接触したが、
ネアンとは小競り合い程度で、
交配した後はホモサピエンス領域で増えただけ。

つまりCから突然、他の人類種の行動範囲・縄張りを奪い始めるわけですね。
>>27
>・隣接する群れと行動範囲が重なることは少ない
から逸脱するわけです。

どこかで聞いた話だと思ったら、
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/696-700
ハツカネズミの一斉放散における、新規獲得能力の一つ、

>参)2000年前:戦争本能
>同じハツカネズミの他集団を襲ってテリトリーを奪う闘争本能を得た。

ですね。

37 :日本@名無史さん:2024/01/17(水) 23:44:40.60 ID:jFRYt1msw
ですから、
人類というものは、戦争をするのが本来の姿だ、
というのは微妙に間違いで、
一番最初の人類というものは、
お互いの縄張りは侵さずに、共存していた、のですね。

ネアンと遭遇して、ホモサピエンスが自由に拡散できる世界が尽きたところで、
初めて縄張り争いが始まったことになります。


また近年盛んに喧伝されている、女性の社会進出というのも、
そもそもは男性一人+女性多数がホモサピエンスの原始形態でしたから、
理には適っているわけです。

傍隣国のように、男子ばかりを選択して社会の男性割合が異様に高くなる、
というのは、
ホモサピエンスの本来の姿からすると、あまり好ましくない状態である、ということになります。


群れに男性一人体制から、群れに男性複数体制へ転換する要因、
というのが検討課題になりますね。

筋力のある男性がいたほうがいい状態、ということになると、
原始農耕や、畜産、など、
「労力をかけることで食料が増えてより多くの所属員を養えるようになる状態」
が一つの候補になりますね。

男性が一杯いた方が戦闘力が上がって、他の集団に勝てる。
というのは、原始時代であればあまり意味がありませんね。
なぜなら、社会が未熟ですから、他の集団を倒したところで、
食料が増えるわけでもなく、得る物があまりありません。
むしろご近所がいたほうが、緊急時のバックアップとして生存確率が高まります。

38 :日本@名無史さん:2024/01/17(水) 23:45:28.17 ID:jFRYt1msw
・アメリカ大陸に、白人が大量の感染症を持ち込み、また圧倒的な武力で意図的に原住民を排除したが、全滅はしていない
・混血者もそれなりに残っている
・オーストラリア大陸でも同様

・マンモスや、アメリカ大陸にいた大型哺乳類は、原始時代の人類によって食料として狩られて「絶滅」した

・猿食文化がある
・人〇食文化もあった
・飢饉や遭難など飢餓状態では人〇食の報告は多数ある
・白人は有色人種を同じ人類と思っていなかった時代がある(人間動物園)

39 :日本@名無史さん:2024/01/17(水) 23:48:51.45 ID:jFRYt1msw
多数の学者さんがそうだろうと思っているけれども、
あれな結論なので確定させてないだけでしょうが、

要するに、Cさんは、ネさんを食料として狩り始めたわけですね。

単なる縄張り争いなら、
有用な土地から追い払えば、あとは深追いしないので、僻地にネさんが残ったはず。

わずか2%の遺伝子を残しただけで全員消え去ったということは、
寒冷時代のしかも高緯度地域という不毛地帯において、
マンモスなど大型哺乳類と同じく、
貴重な食料として、狩られたわけですね。

マンモスハント、ならぬマ〇ハント、ですね。

40 :日本@名無史さん:2024/01/17(水) 23:51:36.27 ID:jFRYt1msw
ホモサピエンスとネアンデルタールが交配した状況を考察してみます。

2%の遺伝子だけ残して、
ネアン系Y染色体ハプロも、ネアン系mtDNAハプロも、残っていない。


まず、ホモサピエンス男性が、ネアン女性に、子供を産ませた場合。
(そもそも男性一人体制なので、その可能性が低いですが)

男性一人+女性多数の群れに、ネアン女性(現場視点では猿)が引き取られて、
食料を与えられて、出産する、という可能性はまずありませんね。

また、妊娠したネアン女性が、ネアン群れに戻って出産したとしても、
ネアン人として育てられますから、ネアン群れの一員として動き、
ホモサピエンス群れと遭遇したら、結局はネアン人として狩られるだけですね。

41 :日本@名無史さん:2024/01/17(水) 23:53:38.39 ID:jFRYt1msw
では、ネアン男性が、ホモサピエンス女性に、産ませた場合。

男性一人+女性多数体制で、実際にネアン男性と遭遇する可能性が高いのは、
女性のほうですから、
日常生活でたまたま、あるいは戦闘中に捕まったりして、
ネアン男性の子を孕んで、しかもホモサピエンス群れに戻れた状況、
というのは実現確率が高くなります。

ネアン男性(当時視点では猿)とのハーフですから、
差別に合うので、
生まれたのが男性の場合は、すぐ処分されるか、
放逐されて、あとははぐれネアン人としてさまようか、ですね。

42 :日本@名無史さん:2024/01/17(水) 23:55:07.35 ID:jFRYt1msw
生まれたのが女性の場合のみ、(ネアンYハプロ+ホモサピエンスmtハプロ)
ホモサピエンス母親に庇護されて、
ホモサピエンス群れの一員として生きていけるチャンスがあります。

群れの中では差別を受けるでしょうが、
ホモサピエンスの言葉や風習を身につけます。

で、周囲は黒人女性集団ですね。
で、ネアンハーフ女性は、白人女性ぽい。
ハーフなので、金髪碧眼美女の可能性も高くなる。

そうなると、群れの男性一人は、男性ですから、
当然興味津々で、子を産ませまくる。(ホモサピエンスYハプロ+ホモサピエンスmtハプロ)

ハーフ女性というだけでも、増える要素になる上に、
有益な遺伝子、を獲得することができれば、さらに生存確率が上がったわけですね。

そのうち、ネアン遺伝子を持つ、
(ホモサピエンスYハプロ+ホモサピエンスmtハプロ+ネアン有益遺伝子)
の男性が、
群れの男性一人に選ばれることなどあれば、
群れそのものが、一気にネアン要素を帯びていくことになったわけですね。

43 :日本@名無史さん:2024/01/20(土) 19:34:05.33 ID:3RaerPE2M
C系統が6万年前分岐

【C1】
[C1a]
<C1a1>
・4-5万年前分岐
・日本の5%、北東アジアにごくわずかに
<C1a2a>
・ヨーロッパのクロマニョン人〜ネパール
・C1a2a1:イギリス〜ウクライナ
・C1a2a2:スペイン・ポーランド
<C1a2b>
・アルジェリア・アルメニアごくわずか

[C1b]
<C1b1>
・C1b1a1a:西アジア〜中央アジア〜南アジア
・C1b1a1b:サウジアラビア、イラクわずか
・C1b1a2:中国南部、ボルネオ島、フィリピン(アエタ族)わずか
・C1b1b:ブルネイ(ドゥスン族)
<C1b2>
・49600年前分岐
・C1b2a:パプアニューギニア
・C1b2b:オーストラリア


【C2】
・5万年前分岐
・北ルートで東進
・モンゴル
・アメリカ大陸にも進出

44 :日本@名無史さん:2024/01/20(土) 21:49:42.49 ID:3RaerPE2M
一見すると、はるか5万年前に、
C系統がネアンを滅ぼしてユーラシア大陸、オーストラリア大陸、アメリカ大陸、など、
故郷アフリカを除く全陸地を制覇したように見えますね。

けれども、ここでもまた、ごくわずかにしか残っていないCの子系統が存在しています。

ですから、ここまでの流れで考えると、
アラビア半島に進出したCFはしばらくその辺りで繁殖し、
少しずつ子系統を輩出していた。

C子系統のいくつかは、
DE群れと一緒に、アラビア半島〜インド亜大陸に拡散しつつあった。

C子系統のうち、いくつかの系統だけが、ネアン遺伝子を獲得した。

ネアン遺伝子を獲得したC子系統は、強力かつ攻撃的で、
他のホモサピエンス群れの縄張りを攻撃して奪っていった。

アフリカ方向だけは、ネアン遺伝子にて、攻撃性こそ高くないものの、
強化されたE系統が盾となって、戻れなかった。

ネアン強化C子系統は、それ以外の全方向へと爆発的に拡散していった。

45 :日本@名無史さん:2024/01/20(土) 21:51:19.17 ID:3RaerPE2M
アラビア半島にて、
C1a2aがネアン強化された。
C1a1とC1a2bは、ネアンと接触せず、DEの群れに混じって、東方に押し出された。

ネアン強化されたのは、
C1a2a→ヨーロッパ
C1b→南ルートで、C1b1がアジア方面、C1b2がオセアニア方面
C2→北ルート
と、いうことになりますね。

各C子系統のネアン混血は、アラビア半島の辺りで行われて、
その後に一斉放散が始まった、という順番なのですね。

ですから、ここまでの推察によると、
C1a1は本来は非ネアンで、同じく非ネアンD1a2と共に、ネアン混血Cに追い立てられて極東へ逃れた
(良かったですね、D1a2に対しては最古参)

C1bがD1a2やC1a1を駆逐したネアン混血系統だから、朝敵
(C1b2を叩いた豪白人と同盟している現在は理に適ってはいる)

C2は北ルートを大回りしてアメリカ大陸まで到達
最初期の到達者としてモンゴル帝国が威光を示した

D1a2はまさに、ホモサピエンスにおける、南ルートの「最先住民」であり、
特に日本列島については、確固たる所有権を有する、
ということになりますね。

46 :日本@名無史さん:2024/01/20(土) 22:08:36.33 ID:3RaerPE2M
遺伝子からの考察をした上で振り返ると、
考古学も合致しており、

・初期人類の人骨は女性が多い<男性一人+女性多数形態
・男性はあまり動かず、女性が広範囲を動いていたというミネラル解析報告<同上
・ネアン骨の食用痕
・ネアン領域におけるホモサピエンス小児歯<争っていた跡

など、説明がついていきますね。

47 :日本@名無史さん:2024/01/20(土) 22:33:43.21 ID:3RaerPE2M
数万年の混血を経ているので、確実とは言えませんが、
ヨーロッパ西部、特にイングランド諸島などの現生人類に、
ネアン遺伝子比率が特に高いわけではなく、
ユーラシア大陸全域でほぼ2-4%のネアン遺伝子浸透率だということは、

C1a2aによるヨーロッパのネアン駆逐速度は、極めて迅速であった、
ということがわかりますね。

ネアンとの混血が定期的に生じて、ネアン遺伝子率が次第に上昇する前に、
ものすごい速さで西進して、
ネアンを狩りつくしたことがわかります。

一方で、東方におけるDE系統や非ネアンC系統の追撃も、
D1a1、D1a2a、D1a2b、が分岐し始めた直後に、
一気にやってきたことがわかります。

アンダマン諸島において、
大アンダマン人(F、K、L、P、O1b1<明らかに後の侵略勢力
オンガン人(D1a2b<5万年前の避難民
ともに、ミトコンドリアDNAハプログループは、M31とM32、ということですから、

・D系統は丸木舟など渡海能力に長けていたのではないか
・C1a2aは渡海能力が不得手だったのではないか
・アンダマン諸島に逃れたのは、男性一人(D1a2b)+女性複数(M31とM32)の小規模群れだったか
・D1a1aとD1a2も、アンダマン諸島の原住民と同じく、初期形態は出アフリカ当時のままの黒人容姿だっただろう
・アンダマン諸島D1a2bにおける、ネアン遺伝子比率の有無や、HTLV-1保有率の有無が、人類史学上で決定的な要素の一つとなる

といったことがわかりますね。

48 :日本@名無史さん:2024/01/20(土) 22:39:56.92 ID:3RaerPE2M
数万年の混血を経ているので、確実とは言えませんが、
ヨーロッパ西部、特にイングランド諸島などの現生人類に、
ネアン遺伝子比率が特に高いわけではなく、
ユーラシア大陸全域でほぼ2-4%のネアン遺伝子浸透率だということは、

C1a2aによるヨーロッパのネアン駆逐速度は、極めて迅速であった、
ということがわかりますね。

ネアンとの混血が定期的に生じて、ネアン遺伝子率が次第に上昇する前に、
ものすごい速さで西進して、
ネアンを狩りつくしたことがわかります。

一方で、東方におけるDE系統や非ネアンC系統の追撃も、
D1a1、D1a2a、D1a2b、が分岐し始めた直後に、
一気にやってきたことがわかります。

アンダマン諸島において、
大アンダマン人(F、K、L、P、O1b1<明らかに後の侵略勢力
オンガン人(D1a2b<5万年前の避難民
ともに、ミトコンドリアDNAハプログループは、M31とM32、ということですから、

・D系統は丸木舟など渡海能力に長けていたのではないか
・C1bは渡海能力が不得手だったのではないか
・アンダマン諸島に逃れたのは、男性一人(D1a2b)+女性複数(M31とM32)の小規模群れだったか
・D1a1とD1a2aも、アンダマン諸島の原住民と同じく、初期形態は出アフリカ当時のままの黒人容姿だっただろう
・アンダマン諸島D1a2bにおける、ネアン遺伝子比率の有無や、HTLV-1保有率の有無が、人類史学上で決定的な要素の一つとなる

といったことがわかりますね。

49 :日本@名無史さん:2024/02/03(土) 20:39:23.74 ID:++QHXC+HS
蘇我稲目「都塚古墳」方墳
蘇我馬子「石舞台古墳」方墳か
蘇我蝦夷「五条野宮ヶ原1号墳」「小山田遺跡」共に方墳
蘇我蝦夷「五条野宮ヶ原2号墳」「菖蒲池古墳」共に方墳

非常に興味深いですね。

卑弥呼は、過去スレで検討した通り、
初代倭国王の外戚勢力=柏崎遺跡が、倭国王二代目の時に失脚して、
東方領土の琵琶湖沿岸へ一旦逃れた、のが捲土重来した、
と考えられるわけですね。

銅鏡百枚のうち、紀年銘鏡が親族に配られ、だから東方に多く見つかる。
青龍三年銘方格規矩四神鏡
「大田南5号墳」方墳
「安満宮山古墳」方墳

https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/11
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/705-710

その卑弥呼は、伊都説で検討していくと、
孝元天皇子女の、倭迹迹姫命ではないかと想定される。

一方で、蘇我氏は、祖が武内宿禰であり、その祖父が彦太忍信命、
孝元天皇の子孫。

方墳の祖が孝元天皇で繋がりましたね。

50 :日本@名無史さん:2024/02/03(土) 20:49:11.69 ID:++QHXC+HS
【第7代孝霊天皇(高良)】(大倭根子日子賦斗邇命)
細媛命
・孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命)
倭国香媛
・倭迹迹日百襲姫命→大物主と結婚(狗奴国王?&蛇紐金印→金銀錯嵌珠龍文鉄鏡)
・吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)
・倭迹迹稚屋姫命
?某弟
・彦狭島命
・稚武彦命

【第8代孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命)】
欝色謎命
・大彦命→稲荷山古墳鉄剣・前方後円墳
・少彦男心命(卑弥呼弟、平原遺跡2号墓、隅丸方形)
・第9代開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)
・倭迹迹姫命(卑弥呼、平原遺跡方形周溝墓→八咫鏡)
伊香色謎命
・彦太忍信命→武内宿禰→蘇我氏(方墳)
埴安媛(河内青玉繋の娘:大風呂南、方墳)
・武埴安彦命

【第9代開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)】
伊香色謎命
・第10代崇神天皇→豊鍬入姫命(初代斎宮:壹與=與止日女神社)

伊香色雄命=伊聲耆掖邪拘

51 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:11:18.73 ID:x2cl7ZVqf
>>27
>>37
Y染色体ハプログループの初期分岐において、親系統と子系統がそれぞれ異なる分布を示していることから、
ホモサピエンスの原始形態とは、男性一人+女性多数の群れであったと考えられるわけですね。

原始の狩猟採集生活においては、
群れの縄張りで収集できる食料は、
女性集団の体力だけで必要MAXに達していた。
常に絶滅の危機に晒されていた原始のホモサピエンスにおいては、
出産することのできる女性が多いほど、群れの存続確率が高くなるので、
男性一人(動かず生殖専念)+女性多数(狩猟採集)という群れ形態が、
群れの存続確率が最も高かったわけですね。

それに対して、群れに男性を増やしたほうが群れの存続確率が高まる状況というのは、
すなわち男性の体力を使うことによって、食料が増える状況、であり、
農耕の開始(⇔採集)
畜産の開始(⇔狩猟)
遠洋漁業の開始(⇔沿岸漁業)
が条件である、ということになります。

最終氷期が終了した1万年前頃から、農耕も畜産も遠洋漁業も始まっており、
男性社会というものが始まったのも、約1万年前からということになりますね。

52 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:12:43.75 ID:x2cl7ZVqf
農耕・畜産・遠洋漁業のいずれかを開始することによる、
ホモサピエンス群れにおける男性複数人体制の開始は、
約1万年前に世界各地で同時に生じていたことになりますね。

隔絶されたアメリカ大陸やオーストラリア大陸、あるいはアンダマン諸島なども各地で独自に男性複数人体制へ移行していますね。

日本列島も、縄文遺跡から同時期複数男性の遺骨が出土しますし、
最古の貝塚である夏島貝塚を始めとする各地の貝塚から外洋魚が出土し、(遠洋漁業)
また稲などイネ科植物各種のプラントオパールも出土していることから、(農耕)
D1a2は縄文開始時から男性複数人体制だったものと思われます。

暖かくなってきたことでホモサピエンスの生存率が高くなり、人口がやや増えた。
それによって農耕や畜産や遠洋業業を発明したりトライしてみたりする余裕が生まれ、
ホモサピエンスの群れ形態が進歩したのでしょう。

男女混合の人口増加。
つまり我々の現代社会に繋がる文明の開始ですね。

53 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:13:48.72 ID:x2cl7ZVqf
特殊だったのがメソポタミア文明ですね。

メソポタミア文明のシュメール人によって青銅器や楔形文字が発明され、
それがそのままエジプト文明、インダス文明、黄河文明、へと拡散した可能性が高い。

青銅器や文字については日本列島も外部からの伝来であり、その源流も同じくシュメールでしょう。
アメリカ大陸でも、青銅器までは発明されたが、鉄器や文字の発明には至らなかった。
よってこれらの新発明は単純に人口依存性のみではないことにはなります。

54 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:15:15.52 ID:x2cl7ZVqf
O1b2について見てみると、
約6000年前にO1b2a1a1とO1b2a1a2に分岐している。

O1b2a1a1が日本に多く、O1b2a1a2が朝鮮半島に多いわけですが、
この2つは割合だけの問題で、分布域は重なっているわけですね。
どちらかだけが存在する広域というものが存在しない。

よって、6000年前までにはO1b2群れは男性複数人体制に移行しており、
O1b2a1a1とO1b2a1a2は一緒に移動してきた。
現在の割合の差というのは、社会的要因つまりは権力者を輩出したかどうか、
によるものである可能性が高い、ということになりますね。

ただ、
・2群の分布域が別々であれば、男性一人体制時代だった、と言えますが、
・2群の分布域が重なっているからといっても、実は別の広範な領域では重なっていなかったのだが、
そこは絶滅してしまったから残っていないだけだという可能性が残るので、
あくまでも可能性が高い、という表現にはなりますが。

55 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 18:26:03.98 ID:x2cl7ZVqf
・O2、O1b1、O1b2、は3万年前に分岐して、それぞれが別々の分布域を残している

・メソポタミア文明での農耕牧畜開始が約1万年前
・メソポタミア文明での青銅器文化開始が約5000年前

・長江文明稲作は約8000年前に開始、おそらくO1b1
・ハツカネズミの一斉放散が約4000年前
・黄河文明(二里頭文化)での青銅器開始が約4000年前
・沿海州シニガイ文化は青銅器と刻目突帯文土器を保有
・約3000年前に刻目突帯文土器が日本海沿岸に伝来して西日本に拡散

以上のデータを解析すると、以下のような流れが見えてきます。

・O系統は3万年前にメソポタミア発祥
・1万年前にメソポタミアにて各自が男性複数人体制へ移行
・メソポタミア東部にて生き残ったO子系統のうち繁栄できたのが現存のO2、O1b1、O1b2
・メソポタミア文明での勢力争いで弾かれ、各自別個に東進

・O1b1は1万年前〜5000年前に青銅器を知らないまま「南ルート」で東進して長江稲作開始
・4000年前のハツカネズミ一斉放散(登攀能力獲得)にて一旦壊滅
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/696-700

・5000〜4000年前にO2が青銅器文化を伴ってアルタイ山脈の「北ルート」で東進
ハツカネズミで壊滅した中国大陸にて青銅器による木板製作=ネズミ返しによって勢力拡大
国家形成

・O2に遅れてO1b2がO2ルートより「更に北のルート」を東進して沿海州に到達
・O1b2がメソポタミアにいた頃の部族名が「ティアマト」もしくは「ムシュマッヘ」

・前3000年に沿海州での戦乱にてO1b2の一部が日本海沿岸へ避難
刻目突帯文土器勢力が青銅器による木板製作=ネズミ返しによる勢力拡大

56 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 02:24:04.40 ID:gKwPbLROw
一番最後にやって来たので空きスペースが最北からの沿海州しかなかった、
のでしょうけれども、
一番最後に来たということは、メソポタミアでは一番栄えていたということですね。

約1万年前の最終氷期終了による気温上昇で、
農耕牧畜を開始して、群れに男性一人から男性複数人体制へ移行しての、
楔形文字発明ですから、
男性一人+女性複数人体制時代の記憶が記録として残ったのでしょうね。

女神(女王)ティアマト

ティアマトならびにその眷属ムシュマッヘは、蛇、海蛇、竜。
ムシュマッヘは7つの頭を持つ蛇。

八岐大蛇は8つの頭ですが、これは在地勢力の八坂八雷神などとの混合かもしれませんね。
O1b2同族と考えられる高句麗は逆に6部族に減じています。

ほおづきのように赤い目は、後の猿田彦と同じく青銅器鍛冶に従事していたことを示しており、
鍛冶炉の炎で目が充血している。
燃料の木材を得るため森林管理。

西日本各地に刻まれた線刻文字ペトログリフのいくつかは彼らが刻んだものでしょう。

メソポタミアから沿海州までは牧畜遊牧民として移動したと考えられ、
青銅器技術や文字を維持していたことから、
ある程度の歴史神話は携えてきたことになります。

騎乗でしょうね。神代に思いっきり騎乗しているお方がいらっしゃいますね。

57 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 02:25:05.71 ID:gKwPbLROw
その居館だったと考えられる雀居遺跡からは沿海州のものと同じ畜産檻が出土。
文字を書くための案も出土。
金印を貰うのだから木簡束で外交文書を書いてやり取りしていた。

O2分布域の北縁に沿って東進してきたのですから、
その気になって虱潰しにルート上の岩を探していけば、
日本のものと同系統のペトログリフが見つかる計算になりますね。

58 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 02:25:42.14 ID:gKwPbLROw
トーテムが蛇・竜(しかも竜の源流も源流の直輸入・竜の祖そのもの

末裔でのし上がった奴国王は、金印をオーダーする際に、蛇紐を希望。

蛇紐金印をめぐる争いは前スレで検討した通り。
最終的には志賀島に封印。

その後の疫病など災害は蛇紐の大いなる祟りとみなされ、
それを鎮めるための蛇行剣や盾、?龍鏡(ダ龍鏡)。

青龍三年に洛陽で流行した疫病が、司馬懿大軍と濃厚接触したことで倭国へもたらされ、
それに対する対応も過去スレで検討した通り。
赤色の盾矛、黒色の盾矛、のセットがまさに蛇行剣と盾であり、
今回は日本最大の蛇行剣(最古は南方浦山古墳)と、正倉院御物より古い日本最古の錫器として発見されたわけですね。
つまりは最大級に強力な祟りを封印していた粘土壁をこじあけてしまった。

奴国王子孫が主幹となって作成した公式国定歴史書にて、
奴国王支配権は伊都国王家に献上すると確約済み。

59 :日本@名無史さん:2024/03/11(月) 02:35:45.91 ID:gKwPbLROw
そしてその対価が吉武高木宮殿と同等の宮殿。

すなわちはるか当方の地での身分保障と安住の約束。

龍の祖がはるばる渡来して、

聖帝のもとに無事収まったのですね。

不老不死の国蓬莱であり黄金の国ジパングであります。

60 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 00:04:40.73 ID:Fjr8QGMuA
前スレで徐福について検討しましたが、
史記の「有使者銅色而龍形」については保留していました。

蓬莱宮殿=吉武高木宮殿にて徐福と面会した使者が龍形であった。
ということであれば、龍といえば中国。
吉武高木王家は中国系である可能性が高くなる。

しかし、
浙南石棚墓からの渡来長江人が王家を樹立したのであれば、
吉武高木応募は支石墓になっていたはず。
また支石墓埋葬者が縄文系であることも矛盾する。

時期的に、滅亡した燕系中国人のうちの西遼河人が大挙渡来してきて王家を樹立したとしても、
吉武高木遺跡の文物はその前の世紀からの継承がほとんどであり、
方形周溝墓が入っていないし、
多鈕細文鏡もわずか。

さらに、日本最古の王家が中国系なのであれば、
現代日本のY染色体ハプログループも、日本列島独自のもの以外がもっと多くなっていたはず。
けれども、せいぜいO2が10-20%あるだけ。

中国からの渡来人が主流を占めている考古学的根拠も遺伝子学的根拠も非常に弱いわけですね。

61 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 00:06:07.24 ID:Fjr8QGMuA
シュメール創世記の蛇龍部族

セム語族に押し出されて東進

沿海州

西日本

というルートで、龍の祖が直接やってきたということであれば、
龍形のしかも青銅器を保有する使者、
についての説明がつくわけですね。

人類初の青銅器と線刻文字を発明した部族そのものあるいはその一員ということになり、
彦島のペトログリフは、文化伝播の東洋末梢の遺物ではなく、
人類初の文字形態をそのまま残した極めて貴重な世界遺産である、ということになります。

62 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 00:09:06.07 ID:Fjr8QGMuA
ティアマトの最初の名前はナンム(Nammu)とのことですから、
奴族、奴国、那珂川、とは、
ナンムなのですね。

高句麗の〇奴部も同様でしょうね。

メソポタミアの地において、シュメール人はセム語族に取って代わられ、
メソポタミア文明そして現代の中東にもその継承勢力は残っていないとのことですから、

つまり、四大文明の祖であるシュメール人とは、
イコールO1b2、もしくはO1b2(+O2+α)

ムシュマッヘに対応するのが八岐大蛇ですが、
八岐大蛇は越=中国地方の日本海沿岸のみであり、
葦原那珂津国の八岐大蛇や
伊邪国の八岐大蛇はいませんから、
O1b2=ムシュマッヘではなく、
O1b2はティアマト=ナンム勢力であり、その眷属の一つがムシュマッヘであった、
ということになりますね。

63 :日本@名無史さん:2024/03/12(火) 00:11:06.27 ID:Fjr8QGMuA
シュメール神話の原初の部分では、
女神多数
神が子供を多数産んで農耕を開始した
農作業が大変で下位の神が不満
神の姿に似せて粘土から人間労働者を作った
洪水
という話になっています。

これを、1万年前の最終氷期終了時のホモサピエンス群れの変革に当てはめると、
男性一人+女性多数群れで狩猟採集生活
最終氷期が終了した時にO1b2群れの一つがメソポタミアにて最初に農耕開始
男性を増やして職業分化
農作業の労役に不満が出てきた
周囲のまだ男性一人+女性多数体制の群れを制圧して奴隷を産ませた(生口

文字と青銅器を発明して人類最先端を独走

O1b2以外も次第に農業牧畜文字青銅器を模倣学習

洪水をきっかけにO1b2弱体化した際に他民族に滅ぼされて東進開始(奴国王も那珂川洪水で失脚

64 :日本@名無史さん:2024/03/26(火) 21:04:41.62 ID:MfplUUHY6
カイコ(蚕)は完全に家畜化された昆虫であり、
成虫になっても飛べないし食事もとれない。
人間に育ててもらわないと生きていけない家蚕ですね。

同じカイコガ属の野生のクワコから、人間によって作られたと言われています。
河南省賈湖遺跡から8500年前の絹が出土していますので、
稲作と同じくらい古くから養蚕は行われていたことになります。

カイコ並びにクワコの遺伝子は詳しく調べられており、
わかりやすい話では、
インドのクワコは染色体31
中国のクワコが28
日本のクワコが27

カイコの染色体が28ですから、
カイコは中国で家畜化されたとわかります。

ミトコンドリア遺伝子でも中国クワコからカイコへ分岐しています。

65 :日本@名無史さん:2024/03/26(火) 21:06:02.49 ID:MfplUUHY6
カイコの酵素たんぱくの変異解析からは、蚕の地理的分化の仮説として、

・中国種1化性が最初で、そこから中国種2化性が誕生

・中国種1化性から、朝鮮種1化性、ヨーロッパ種1化性が分岐

・中国種2化性から、日本種2化性が分岐
・日本種2化性から、日本にて日本種1化性が誕生

と考えられていますね。ちなみに化性は1年に何世代繰り返すかです。

黄河流域など北部中国が中国種1化性で、
その南に中国種2化性が分布していますので、
中国種2化性から日本種2化性が分岐したということは、
蚕は中国南部から日本へ渡来した可能性が高いということになっています。

長江下流域の河姆渡遺跡(かぼと)から前4500年ごろの蚕紋様が見つかっているので、
養蚕が既に行われていたことから、
同じ長江下地域で紡輪や甕棺墓が出土した浙南石棚墓人の渡来による養蚕伝来が示唆されますね。
中国種2化性の蚕紙(卵)と桑枝を乗せた舟が、ニホンヤモリと一緒に3000年前に福江島に漂着したのでしょう。

66 :日本@名無史さん:2024/03/26(火) 21:07:24.26 ID:MfplUUHY6
カイコの遺伝子研究において、
日本というのは、中国、インド、ヨーロッパ、と肩を並べるカイコ古種の宝庫ですね。

朝鮮半島古種というのが研究報告で見当たらないことからも、
朝鮮半島経由ではなく、
養蚕は日本に直接渡来して大いに栄えた可能性が高いことを示しています。

日本最古の絹出土が前2世紀の有田遺跡からで、かの吉武高木遺跡遺跡からも出土しています。
絹繊維の断面積などから、日本出土の弥生絹は全て国産絹と判明しており、
いずれも北部九州倭国領域からの出土ですね。

67 :日本@名無史さん:2024/03/26(火) 21:08:38.84 ID:MfplUUHY6
カイコの遺伝子系統解析によると、
まず中国で分岐してから、下位系統が次第に世界各地へ拡散しています。

遺伝子変異数ではないので、時間経過を反映しているわけではありませんが、
系統樹において、
3分岐目の枝にて早くも日本古種とインド古種が誕生しています。
8分岐目にも日本古種
12分岐目でようやくヨーロッパ古種が登場します。

中国古種分岐のかなり早い時期に、しかも同じ分岐先で日本古種とインド古種が誕生している。
日本古種とインド古種は中国古種も混じえた並列関係にある。
ことから、
中国の特定地域から、かなり近接した時期に、それぞれ日本とインドへ、養蚕が伝播した、
ことを示しています。
となると地理的に考えて、中国内陸からの伝播ではなく、
中国沿岸部の長江下流域からの伝播が最有力候補となりますね。

そう考えるとやはり、倭人というのは本来は固有名詞ではなく、
水上生活者を指す普通名詞。

浙南石棚墓は中国側の倭人=水上生活者の陸上拠点であり、絹製品を含めた広域海上交易を担っていたのだろう。
沿岸航海にて、東南アジアや遠くインドとも取引していて、
数千年の間に戦乱などで避難した際に養蚕が伝えられた。

たまたま遭難した浙南石棚墓人の商舟が、エチゼンクラゲ同様に漂流して、福江島に漂着した。
たまたま蚕紙と桑枝を積んでいて、帰国しようもないのでそのまま長崎伊邪國で養蚕を開始した。
甕棺墓は養蚕による富や繁栄、そして再生の象徴。

68 :日本@名無史さん:2024/03/26(火) 21:09:15.10 ID:MfplUUHY6
カイコの遺伝子系統解析から想定される、
長江下流域⇔東南アジア⇔インド<海上交易路>と、
長江下流域→九州西岸<漂着路>

それに沿って、九州北西部だけでなく、
東南アジア、インドにも支石墓があるとのことで、興味深いですね。

インドの支石墓も日本と同じく3000年前からとのことですが、
帽子型・キノコ型で形状がちがうので、
今のところは浙南石棚墓や養蚕との関係は何とも言い難いです。
箱式石棺型ではあるとのことですね。
甕棺が見つかっていればおもしろいのですが。

69 :日本@名無史さん:2024/03/26(火) 21:10:45.42 ID:MfplUUHY6
>>58
>赤色の盾矛、黒色の盾矛、のセットがまさに蛇行剣と盾であり、
熊本の幣立神社のご神体「鏡石」は錫盾鏡と同型で、
ペトログリフが刻まれています。

伊都説で解析するなれば、正始八年(247)年に立て続けに、
卑彌呼死去、平原遺跡埋葬徇葬。
対狗奴国戦で難升米が討ち死に。
男王即位も疫病が流行し、赤色の盾矛、黒色の盾矛。

過去スレで検討した通り、科学的に病原を解析して、
漢委奴國王金印の祟りと判断して、蛇紐を鎮めるための蛇行剣や盾。

男王は狗奴国王妃の叔母を通じて狗奴国と同盟。

70 :日本@名無史さん:2024/03/26(火) 21:11:51.33 ID:MfplUUHY6
倭国やまと
大倭おおやまと
大倭国おおやまとのクニ=筑後平野にいた男王が、肥後まで後退していた狗奴国と同盟

日向(伊都)→大坂(佐賀=邪馬嘉國)→西から
奴国→山城(阿志岐山城の神籠石)→北から
挟撃してきた旧卑彌呼派を撃破した。

旧卑彌呼派と同盟国だった、東渡海千里の拘奴國(後漢書のみ)も攻め滅ぼした。

71 :日本@名無史さん:2024/03/26(火) 21:17:47.50 ID:MfplUUHY6
大倭国おおやまと=筑後平野
にいる男王から見ると、
西に大坂(阿耶訶=阿邪訶→邪馬嘉→佐嘉・栄→佐賀)(都支國=都渡城→肥前川上)(壹與=與止日女神社)
ということは、
東の墨坂は、日田方面

同盟した狗奴国領域だったのでしょうね。
過去スレで検討したように、後に鉄鏡が秘匿された伏線になります。

>全ての坂の神や瀬の神に、隅から隅まで幣帛を奉って疫病が終息した
というのが、
幣立神社の幣帛と一致しますね。

隋書倭国伝「無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字」

文字を知らないというのは、漢字を使わない、という意味でしょうね。
独自の象形文字を刻んでいた。石棺蓋の蓋もその流れでしょう。

古くは彦島や各地の象形文字。
そこから発展したのが、幣立神社のペトログリフ文字だったのでしょう。
シュメールの人類初の象形文字由来の独自文字が神代文字。

しかしながら、当時の東アジア最先端知識は大国中国から仏教と共に入ってきましたから、
我々が海外情報を得るために英語を本格的に導入したのと同じく、
当時の東アジア世界における最先端標準文字である漢字を役所が取り入れ始めたということでしょうかね。

72 :日本@名無史さん:2024/03/28(木) 20:40:33.56 ID:EQDjSo4E1
神饌(食物)ではなく幣帛(布)というのも意味深ですね。

主体は絹であり、最高位の五色?(あしぎぬ)が太絹であるということは、
古式を重んじているわけで、つまりは最初期の北部九州弥生絹がその由来ではなかろうか。

幣立神社の鏡石に神代文字が刻まれていたことから、
幣立神社に奉納された幣帛にもまた文字が記されていたのではないか。
つまり帛=白絹の「帛書」。
紙の無い時代に、木簡竹簡よりもはるかに高価だった記録媒体ですね。

正始四年(243)に伊聲耆掖邪拘らも帛布を献上しており、
現代で言うなれば、アメリカ人に高級和紙を贈ったようなもので非常に喜ばれたのでしょう。


富雄丸山古墳の蛇行剣は、柄の部分が刀の形状だそうですね。
つまり武器の種類はどうでもよくて、「蛇行」部分に意味があるということになり、
ひょっとしたら、矛→剣→刀と変遷した可能性もある、ということになりましたね。

73 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:42:20.82 ID:4FmvLT0fC
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/681-683

【HTLV-1(ヒトT細胞白血病ウイルス-I型)】

感染経路
母子感染:母乳を介した感染、感染率20%
性交渉
輸血

ATL(成人T細胞白血病):発症率4%、発症は40歳以上
HAM(HTLV-1関連脊髄症)
HU(HTLV-1関連ぶどう膜炎)

HAM
発症率0.3%、発症平均年齢40歳だが、若年発症もあり
下半身不随
排尿排便障害

HU
発症率HAMと同等、発症平均年齢50歳だが、若年発症もあり
視力低下


感染力の低いウイルス
弥生時代だと、低確率で中年期に白血病を発症して死去
ごく低確率で、下半身不随、あるいは視力低下

74 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:44:54.68 ID:4FmvLT0fC
HTLV-1の母乳感染率が20%ですから、
一夫一妻制の社会だと、出生率が5だとしても、
5×0.2=1人ですから、
一世代で2→1人に半減することになりますね。

100人全員キャリアーの集団でも、7世代(約200年)で感染者がいなくなる計算になります。

よって、HTLV-1が残るためには、性行為による水平感染が重要であり、
そして水平感染で増えるためには、多数のパートナーがいるのが望ましい。
要するに古来の一夫多妻制や、夜這いや通い婚といった不安定な関係、
が必要だった、ということになりますね。

それこそ太古の「男性一人+女性多数群れで狩猟採集生活」というのは、
HTLV-1にとってはパラダイスだったことになります。
HTLV-1陽性者のいる群れというのは、全員仲良く感染率100%だったことでしょう。

一夫一妻制で、ウイルス検査をして母乳制限もする現代だと、
あっという間にHTLV-1は消滅するはずですが、
梅毒が増加しているということは、水平感染の機会が増加している、ということになり、
どうでしょうね。
逆に海外に広がっていく可能性すらあるかもしれませんね。

75 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:46:46.06 ID:4FmvLT0fC
HTLV-1ウイルス側の視点に立つと、
ATL:衰弱
HAM:下半身不随
HU:視力低下
をごく低頻度で起こしますね。

自然界では捕食される危険が高まるわけですから、
HTLV-1にとっての霊長類とは、霊長類同士は少なくとも別系統なら捕食するもの、という認識なわけですね。
猿食とか、古代のネアンさんとか。
全員弱らせるとウイルスもいなくなるので、ごく少数弱らせて、捕食されることで、
他の霊長類群れにも感染しようという戦略。

母乳感染するのですから、乳腺発達・母乳産生亢進させる可能性が。

水平感染が大事ですから、性欲旺盛にさせる可能性がありますね。

76 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:48:47.59 ID:4FmvLT0fC
ある程度閉鎖された島国である日本国内で、
同じような社会制度を営んできたにも関わらず、
HTLV-1流行地域と、非流行地域がある、ということは、

人類がHTLV-1ウイルスを発見して対策を取り始める前までは、
普通に人々が暮らしていた場合、
HTLV-1流行地域は高確率で流行地域のまま残るし、
HTLV-1非流行地域は最初から非流行地域だったのだ、
ということを意味していますね。

現代医学が登場する以前の時代において、HTLV-1流行地域を非流行地域に変えるには、
住民を一掃、きれいさっぱり追い払うしかなかったわけです。

古代に、例えば捕食などすると、輸血と一緒で一気に勝者側が大量感染します。
戦乱でも、攻城戦での皆頃しなどでもない限り、
凌辱などしても奴隷にしたとしても、残りますね。
流行地域を非流行地域にする条件は結構難しいことがわかります。

77 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:50:13.21 ID:4FmvLT0fC
HTLV-1(レトロウイルス)のRNA遺伝子解析

☆まず最初期にアフリカから人類の出アフリカと共に拡散
・中央アフリカ型
・メラネシア型
・大陸横断型(コスモポリタン型)

メラネシア型は最初期にオーストラリアなどメラネシア地方へ入り独立

☆大陸横断型が、さらに複数の亜型に分岐
・西アフリカ亜型
・北アフリカ亜型
・日本亜型(九州)
・大陸横断亜型

日本亜型と大陸横断亜型の分岐は約14000年前
日本亜型が分岐拡散し始めたのは約3300〜4200年前

☆大陸横断亜型がさらに、インドから拡散
・極東クラスター(台湾〜沖縄・アイヌ〜樺太)
・中東クラスター(イラン)
・南米クラスター

78 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:51:51.73 ID:4FmvLT0fC
アフリカからの北回り経路にはHTLV-1が全く無く、
南回り経路上に残っていることから、日本へのルートは南回り経路ですね。

朝鮮半島にHTLV-1が無いことから、
日本への侵入経路は台湾〜南西諸島経由。

一見すると、日本にやって来たのは、
大陸横断亜型の極東クラスターが縄文時代開始期に先に来て、
日本亜型が弥生時代開始期に後からやって来たように見えますが、
それだと後から来た方の日本亜型が、
極東クラスターと同じ経路上にもっと残っているはずですね。

やはり日本亜型が先に来ていて、
後から極東クラスターがやって来たのでしょう。

メラネシア型と日本亜型・極東クラスターはいずれも追い立てられた集団と考えられ、
またどちらも丸木舟を知っていた可能性が高い。

メラネシア型は数万年前なので、スンダランドがまだ存在していた頃に、
海岸沿いに逃亡して、スンダランドからオーストラリア方面へ逃れた。
それがそのままC1b2集団だった可能性もありますが、
先発組は別で、C1b2が後からやってきて置き換わった可能性もありますね。

79 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:53:31.73 ID:4FmvLT0fC
肝心の日本列島ですが、
まず石器時代の先住民がいたはずですから、おそらくC1a1でHTLV-1フリー。

日本亜型と大陸横断亜型が14000年前に分かれていますが、
おそらくインドあるいはそのすぐ西にいたのが、
ネアン混血の好戦的集団が流れ込んできて(おそらくC1b2)、
日本亜型のキャリアー集団は東へ逃走開始。
大陸横断亜型のキャリアー集団はおそらくインドの離島へ避難。

日本亜型のキャリアー集団は、メラネシア型集団同様に海岸沿いに逃げたけれども、
今度はスンダランドが沈み始めていて、
オーストラリア方面ではなくそのまま北上して、台湾から南西諸島に入ったことになりますから、
インドを追い立てられたのは最終氷期終了後で12000年前以降となりますね。

インドから日本までの間にHTLV-1を残していませんから、
ネアン混血の好戦的集団の拡散は早く、
可能性としては1世代の間にインドから日本までやって来たのかもしれませんね。

時代的にはまだ男性一人+女性多数群れだった可能性が高いですね。
丸木舟はあったものの、雑穀栽培はまだだったと思われます。

80 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:55:14.19 ID:4FmvLT0fC
大陸横断亜型の極東クラスターがやって来たのは、
おそらくO1b1の東進が原因だと思われます。

12000年以降なので最終氷期が終わり、地球が温暖となり、
メソポタミアでO系統が雑穀栽培を開始して、男性複数人群れへ転換。

うちO1b1が東進を開始して、
同じ緯度=同じ植物が温暖な環境でそのまま育つ
=最も恵まれた南回りルートで、
これもわずかな年数で中国南部まで到達したはず。

離島に避難していた極東クラスターのキャリア集団は、
すぐには滅ぼされずに時間の猶予があったので、
O1b1の雑穀栽培を学習してこれも男性複数人体制へ転換したのと、
温暖化によって、一部は家船の水上生活者となったのだと思われます。

ただ、インド本土側でO1b1が増えるといずれ征服され、
離島での陸上生活者はインドで土鈴にされ、一部はメソポタミア側に売られた。

水上生活者は舟で東方へ逃げ出したが、
O1b1勢力圏がずっと続くので、東へ東へ移動して、
台湾から南西諸島へ渡海することで、なんとかO1b1勢力圏から逃れられたわけですね。

81 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:55:50.79 ID:4FmvLT0fC
極東クラスター集団は、
男性複数人体制になっていて、
なおかつ雑穀栽培を知っていた。
おそらく中国南部で稲b系統も入手してきた。

先住のC1a1並びに日本亜型集団は、
まだ男性一人+女性複数人体制のままだったので、
これもほんの短期間で、
極東クラスター集団が沖縄〜日本列島〜樺太までの陸地をほぼ奪い取った。

先住集団は、日本の離島に逃れて細々と生き残ったのでしょう。

82 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:56:53.45 ID:4FmvLT0fC
大陸横断亜型には、南米クラスターがありますね。
南米の先住民や、アンデス山脈の1500年前のミイラからも検出されているそうです。

一見すると、樺太〜シベリア〜北米〜南米と移動したようにも思えますが、
アメリカ先住民のY染色体ハプロのC系統やQ系統は北回りですから、
HTLV-1の伝播経路と重なっていませんし、北米に残っていないのが妙ですね。

そう考えると、ミトコンドリアDNAハプロで考えて、
おそらくB系統でしょうね。

日本人のミトコンドリアB系統はB4(9.1%)とB5(4.8%)で、
宮崎に多いとのことです。
ハワイの先住民も9割以上が同系統。
南アメリカの先住民にみられるB2はB4から分岐した系統とのことです。

83 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:59:38.71 ID:4FmvLT0fC
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/628-629

そうなると、鬼界カルデラの破局噴火が繋がってきますね。

極東クラスターと南米クラスターはそれぞれ独立していることから、
B4を含む極東クラスター集団が台湾そして南九州宮崎にやってきて間もなく、
破局噴火に出くわして、太平洋に漕ぎ出したことになります。

ということは、
約7300年前に、
雑穀栽培O1b1がインドに到達して、極東クラスター集団が東に逃げ始め、
極東クラスター集団が長江河口で稲b系統を入手してから、
台湾へ渡海し、すぐに南九州にも渡海し、
鬼界カルデラ破局噴火で太平洋へ漂流する集団が出てハワイや南米に辿り着いた。
これら一連の出来事が、南米クラスターが極東クラスターの下流分岐になる前に起きた計算になります。

ただ、ハワイにはHTLV-1がいないようですから、
B系統がHTLV-1を日本に持ってきたのではなく、
B系統はおそらくはるか昔の男性一人+女性複数人体制の頃から日本にいて、
宮崎県に多くて、
最終氷期以降に、独自に水上生活を開始していた。

そこに7300年前に南から極東クラスター集団がやってきて、宮崎でも一気に増殖し、
感染したB4集団と、非感染のB4集団ができた。

前者が破局噴火時に南米に漂着。
後者は同時期かもしれないし、もっと前後の違う時期に遭難してハワイに漂着。

84 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:00:41.78 ID:4FmvLT0fC
D1a2aもよくよく見てみると、最近共通祖先が21200年前。

D1a2a全体:日本人32.1%、アイヌ89.5%

分岐先を見てみると、
D1a2a1a:日本人17.5%、アイヌ5.3%、15100年前
D1a2a1c:日本人9.7%、アイヌ52.6%、17900年前
D1a2a2:日本人4.7%、アイヌ31.6%、15000年前

同じ日本列島内に、縄文時代からいるので、それなりに混ざっていますが、
分岐が最終氷期より前なので、男性一人+女性複数人体制時代に分岐しており、
別々の時期にやってきた可能性がありますね。

一つの可能性としては、C1a1も含めて、
非感染集団>日本亜型集団>極東クラスター集団
として、それぞれ別の時期にやって来た可能性があります。

85 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:02:15.76 ID:4FmvLT0fC
長くなりましたが、ここからが本題で、
日本列島です。

まずC1a1の男性一人+女性複数人体制が石器時代ですね。

次に、12000年前頃に、HTLV-1日本亜型キャリア集団が、これも男性一人+女性複数人体制でやってきます。
丸木舟はあるが、雑穀栽培は知らない。

そして、7300年前に、HTLV-1極東クラスターキャリア集団が、男性複数人体制でやってきた。
丸木舟・水上生活、雑穀栽培を持ち込んだ。
つまりは極東クラスターの多い琉球民族やアイヌ民族ではないか。

雑穀栽培を持つのであっという間に日本列島を占拠して、
HTLV-1日本亜型キャリア集団を含む先住者は離島へ追いやられた。

そのまま3000年弱が経過して、4000年前にハツカネズミの一斉放散。
青銅器がなく木板を作れない=ネズミ返しが無いため、
長江文明と同じく、
雑穀栽培を主体とする極東クラスター集団は壊滅的打撃を受けた。

そこで息を吹き返したのが、離島で細々と暮らしていた日本亜型集団だったのですね。

86 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:06:50.02 ID:4FmvLT0fC
沖ノ島などの離島に暮らしていた、日本亜型集団の一つが、
ハツカネズミで大幅に人口が減った本土への復帰に成功し、
それが4000年前からの鐘先式土器と山鹿貝塚女王だった、
ということになります。

高地南部(田村遺跡)、和歌山(太田黒田遺跡)など、
HTLV-1のスポットが
鐘崎式土器の分布と一致しています。

魏志東沃沮伝に、おそらく日本海沿岸の八岐大蛇領域に漂着したけれども、
奇跡の生還を果たした古人の説話として、
「上有人言語不相暁 其俗常以七月取童女沈海 又言有一國亦在海中 純女無男」
とあります。

全員女で男がいない海中の国、というのは、
離島に避難した先住者集団=男性一人+女性複数人体制、のことかもしれませんね。

まだ全国統一される前なので、離島にはそのような集団が残っていたのでしょう。
見た目はアンダマン諸島の部族のようだったでしょうかね。

87 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 01:08:52.85 ID:4FmvLT0fC
そして3000年前に、沿海州からO1b2とmtDNAはD系統を主体とする刻目突帯文土器集団が、
青銅器を携えて渡来して来た。
HTLV-1フリー。雑穀栽培。

青銅ノミで木板→ネズミ返しを作成し、
1000年ぶりに倉庫に収穫物を保管できるようになった。

ので、O1b2とミトコンドリアD系統が一気に増えたのが、
本州はHTLV-1フリーの地となった一因と思われますね。

https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/662
遠賀川式土器で全国展開した時には、
豊国勢力と伊邪国勢力は係争中でしたから、
遠賀川式土器はHTLV-1フリー。

支石墓も日本の方が500年ほど古くなったので、
こちらからあちらに伝播した可能性が高くなっていますが、
これもHTLV-1フリーなので、入植したとしてもO1b2+D系統を中心とする人々だろう、
ということになります。

88 :日本@名無史さん:2024/05/05(日) 18:14:12.36 ID:vLlAxzJVJ
>>27
男性一人+女性複数人体制の時代について考えてみると、

その群れの縄張りにおける食料獲得量から、群れの構成人数は決まっており、
産まれてきたのが男なら、コケシ
女なら、構成人数枠内なら育てて、オーバーしていればコケシ

でないと、寒冷な氷河期で、しかも原始時代の狩猟採集生活では、
全滅して群れが存続できなかったわけですね。

狩りや採集は女性陣の仕事であり、
男性本来の姿としてはヒモだったことになります。

群れに男性一人の男性については、
原始時代の寿命であれば、男性の生殖能力の方が先に尽きるということはなく、
男性は群れの女全員と関係をもって、生涯ずっと子供を産ませまくった。

おそらく周囲の群れと普段から物々交換などを通して、ある程度の情報収集はしており、
群れの男性一人が亡くなると、
近隣の群れの中で最も優秀そうな男性の群れに頼んで、
新たに生まれてきた男性を一人、貰って来たのだろう、

ということになります。

89 :日本@名無史さん:2024/05/05(日) 18:27:29.56 ID:vLlAxzJVJ
>>74
HTLV-1ウイルスが現代まで生き残るためには、
水平感染が必須だったことは明らかですね。

現代人の我々までの陸上生活者視点から見ると、水平感染で説明がつくのですが、
では、家船の水上生活者アマについてはどうだったか。

家族で家船移動するのですから、夜這いも浮気もできませんね。
いくらなんでも、
寝静まった相手の家船に乗り込んでことをいたそうとしたら即バレしてしまいます。
男女関係を持ちたければ、正式に結婚して、自分の家船つまり家族を持て。

水平感染の機会が極端に少ないことがわかります。

つまり、水上生活者集団アマにおいては、HTLV-1はどんどん減っていって、
約200年ほどで消滅する計算になりますね。

90 :日本@名無史さん:2024/05/05(日) 18:29:54.47 ID:vLlAxzJVJ
狩猟採集生活時代で比較すると、

陸上生活者クニ
・男性一人+女性複数人体制
・水平感染の機会がいくらでもある(夜這い、夜に逢引き
・HTLV-1感染率維持あるいはアップ

・接触感染の機会が多い
・蚊やツツガムシ、その他害虫害獣の脅威

水上生活者アマ
・家船ごとの核家族化(みんな神様の与えてくれたほぼ唯一の娯楽だったセッ〇スはしたい
・水平感染の機会に乏しい
・HTLV-1感染率は急減、約200年で消滅

・ソーシャルディスタンスの維持
・害虫害獣フリー、清潔


家船の水上生活者はマンションに核家族が暮らしていたようなものだった。
魏志倭人伝「下戸或二三婦」とあります。
当時は出産時の危険性が高かったので、
各家船ごとに「男一人+二三婦+子供たち」の家族構成となっていたわけですね。

そしてHTLV-1は自然に消滅していく。

91 :日本@名無史さん:2024/05/05(日) 18:56:25.90 ID:vLlAxzJVJ
>>83
>>77
・宮崎県に多い、B4B5系統がハワイや南米に到達
・大陸横断亜型の南米クラスターが日本到着後ごく早期に分岐
・アボリジニのメラネシア型HTLV-1感染率は非常に高いのに、
・メラネシア型はハワイや南米に拡散していない

これらの条件を解析することで導かれる仮説としては、

「家船が集団で漂流することで、生きて太平洋横断することができた」
水上生活者といえども、家船一艘では太平洋横断できなかったのだろう。
鬼海カルデラ破局噴火前夜の軽石大量漂着と、それに続く火山灰大量降灰という天変地異によって、
縄文宮崎県の家船が集団で同時に太平洋へ乗り出すこととなった。

「大陸横断亜型の集団がやってきたのは、7500〜7300年前」
大陸横断亜型の集団が渡来して、宮崎県縄文人にそれを伝えた当時、
陸上生活者クニについては、既に日本亜型を保持していたはずであり、
大陸横断亜型が南米に伝わったのなら、日本亜型もある程度は伝わったはず。

よって、鬼海カルデラ破局噴火前夜に太平洋へと乗り出した、
縄文宮崎県の家船集団は、陸上生活者クニを含んでいない。

となると、水上生活者アマとして、HTLV-1のクリーニングがとっくに終了していた縄文宮崎県アマ清浄集団に、
大陸横断亜型保有集団が新たに水上生活者として合流して、それがクリーニングされない200年内に、
太平洋への集団漂流が生じたことになる。

集落ごとの濃淡、あるいはたまたま大陸横断亜型保有する家船家族が含まれたかどうか、という差によって、
ハワイにはHTLV-1フリーの縄文宮崎県家船アマ集団が漂着し、
南米には大陸横断亜型HTLV-1保有の縄文宮崎県家船アマ集団が漂着したのだろう。

日本が昨日中南米との協力関係を結んだのは、女系を共通する両地域として、非常に期待を持てる協力関係だと言える。

92 :日本@名無史さん:2024/05/05(日) 19:16:52.31 ID:vLlAxzJVJ
>>79
鉄道の分岐器のようなものですが、

最初の4万年前メラネシア型集団も、次の日本亜型集団も、
途中に子系統HTLV-1を残していないことから、
普通に地域拡散してから、後から来た侵略者に凌辱駆逐されたのではなく、

中央アジアあるいはインドで暮らしていたところに、
西から暴力が押し寄せてきて、
ものすごい勢いで東へ追い立てられた可能性が高いわけですね。

しかも逃走経路上で陸上生活者クニを出さずに、
丸木舟に乗って沿岸航海で逃走した可能性が高い。

どちらも同じ丸木舟保有勢力にも関わらず、
メラネシア型がオーストラリア方面へ逃げたのに、
日本亜型が日本列島へと北上したことを説明するのに、
1万2千年前からの海面上昇を解答と考えていましたが、

よく考えると、どちらも駆逐された逃走勢力なので、
基本能力はあまり差がないわけですね。

そうなると、メラネシア型集団も日本亜型集団も丸木舟を保有していたとして、
4万年前のメラネシア型集団は、スンダランドから、丸木舟でメラネシアに渡海して、
追撃を振り切った。

「1万4千年前」の日本亜型集団は、スンダランドまで来たが、
メラネシア方面には既にメラネシア型HTLV-1保有集団が満ちていて、跳ね返されたため、
そのまま北上し、
台湾、南西諸島から日本列島へ渡海して、追撃を振り切った、
のだろう、ということになりますね。
1万4千年前に2000年繰り上がりました。

93 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 10:51:59.48 ID:+SgOGD7oG
O1b1

O1b1a1a
インド東部から東南アジア、中国南部(漢族中で、広東省30%、四川省14.7%など)
東アジアの南部に広範に繁栄
現在のO1b1a1aの共通祖先は11000年前

O1b1a1b
中国南部から東南アジア(華南4.6%、華北0.8%、華東0.6%)
14000年前にO1b1a1aと分岐

O1b1a2
中国南部から東南アジア(華南4.8%、華北6.2%、華東4.8%)
共通祖先が23400年前だが、大半が3930年前に共通祖先をもつF3323

O1b2a2のサブグレードに、曹操のPage59が含まれ、
さらにPage59に含まれるのがF3323
F3323は台湾、華北沿岸部、東北三省(遼寧省、黒竜江省、吉林省)

94 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 10:54:20.39 ID:+SgOGD7oG
最終氷期が終了する14000年前までは、
全人類は男性一人+女性複数人体制だった。

沿岸の群れは丸木舟を保有していたものの、寒冷な気候なので、通年の水上生活者はいなかった。

O系統が分岐したのが3万年ちょっと前ですから、
3万年前くらいから、14000年前までの約16000年以上は、
O系統はメソポタミア地域にいた。
D系統はインドを中心とする地域にいた。
最終氷期中ですから、それぞれ男性一人+女性複数人体制の、狩猟採集生活で、
生存していくだけで精一杯だったのですね。

14000年前に最終氷期が終了して、気温が上がり始め、
まずメソポタミア地域でイネ科穀物の雑穀栽培が開始された。

これも放っておけば、世界各地で自主的に農耕が開始されたのでしょうが、
最初に農耕を始めたメソポタミア地域の群れは、一気に人口増加して、
農耕適地を求めて東西に進出していったわけですね。

なぜ東西かというと、栽培している雑穀には成長のための至適温度が決まっているからですね。

95 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 10:55:34.50 ID:+SgOGD7oG
メソポタミア地域において、一つの群れが農耕を開始すると、
周囲の群れも学習して開始し始めた。

計算上は、
O1b2群れがシュメール地方。
O2群れがその東方。
O1b1群れがその東南。
にそれぞれ多かったことになります。

さらにO1b1範囲の中でも、
O1b1a1aはやや北西寄り
O1b1a1bが北東
O1b1a2が南東
にいたのだろうことも予想されます。

メソポタミア地域のO集団のうち、
最初に本格的に男性複数人体制へ移行したのがO1b1a1a。

O1b2とO2が滅ぼされていないということは、
同じく農耕を開始していたので、人数で負けていなかったわけですね。
O1b1a1aの侵略に対して防衛できたわけです。

よって、O1b1a1aは、西のO1b2や北のO2領域には入れず、
東方へと進出していったのでしょう。

まだ狩猟採集生活群れしかいない領域に、
O1b1a1a雑穀栽培群れが、ものすごい勢いで侵攻していったのですね。

96 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 11:01:23.65 ID:+SgOGD7oG
北東のO1b1a1bは、内陸を東へ東へと逃げて、
中国大陸南部に入り、
O1b1a1a農耕勢力の北縁にかわすことで、なんとか生き残った。

南東のO1b1a2は、丸木舟も使いながら、海岸線を東へ東へと逃げて、
中国沿岸の海へと追いやられて、
これが中国側の倭人=水上生活者集団となったのでしょう。

O1b1a1aはイネ科雑穀農耕が専門ですから、
雲南省の辺りで野生稲を取り入れて、稲作開始。
長江文明ですね。

大繁栄したO1b1a1aはそのまま人類の覇者になる勢いでしたが、
彼らは青銅器文化を開発できなかったのですね。

97 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 11:02:24.94 ID:+SgOGD7oG
5000年前にシュメールO1b2が青銅器を発明した。

それを学習したO2は北回りルートで中国北部へ。
もう一つの別の勢力(まだ詰め切れていませんが、インダス文明〜現在のインド主勢力のはず)
が、南回りルートで、O1b1a1aを駆逐していった。

ただ、4000年前に、その青銅器南回りルート勢力がインドまで征服したところで、
ハツカネズミの一斉放散が発生して、東西の農耕ベルトが蹂躙された。

狭義のインダス文明が、4600年前から3800年前ということで、一度滅んでいることから、
インダス文明は、青銅器をもっていたけれども、
ネズミ返しの発明をできなかったことになります。

5000年前に青銅器文化を獲得したインダス文明勢力が、東進して、
O1b1a1aを追い払ってインドを制圧したのが4600年前で、
そのまま東進するはずだったのが、
ハツカネズミの一斉放散にて、O1b1a1a長江文明もろとも壊滅してしまった、
ということになりますね。

そうなると、ネズミ返しを発明したのは、O2系統だろう、ということにもなってきます。

98 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 11:04:29.40 ID:+SgOGD7oG
O1b1a2が、中国側の倭人=水上生活者集団となった。

沿岸部に多いですし、
>>7
燕と同盟していたので、燕領域にも出入りしていたのですね。

後漢書 烏桓鮮卑列伝 檀石槐伝
の倭人もO1b1a2でしょう。
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/688

4000年前のハツカネズミの一斉放散で、
陸上生活者のO1b1a1aが衰退したので、
水上生活者のO1b1a2が陸上拠点を増やしていったのが、浙南石棚墓ですね。
よって、日本に養蚕などを伝えてくれたのも、O1b1a2であり、
その子孫が曹操なので、
そもそも曹操も出自は倭人だったことがわかります。

三国志「又潜軍浮海,收楽浪、帯方之郡,而後海表謐然」
も、
元倭人なので水軍につてがあったのでしょうね。

99 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 11:05:19.23 ID:+SgOGD7oG
ちなみに、
山東省の趙家荘遺跡に4500年前の水田が見つかっていますが、
区画が不定形で、コメの質も悪く、すぐ途絶えています。
これは稲作が伝播定着したのではなく、
ハツカネズミの一斉放散で壊滅した長江から、命からがら逃げてきた人々が稲作に挑んだけれども、

寒冷な高緯度地域にいきなり持ってきたのでは当時の稲はまだうまく育たず、
あるいはハツカネズミに追いつかれて、
稲作はいったん途絶えたものと思われますね。

ただ、他のイネ科穀物の雑穀栽培は残ったのでしょう。

100 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 15:40:03.78 ID:+SgOGD7oG
HTLV-1に戻りますが、
4万年前にHTLV-1のメラネシア型保有集団が出アフリカして、
東進ホモサピエンス第一波として、海岸線沿いに東へ移動。

特定地域に根付く前に、
東進ホモサピエンス第二派にすぐ追いつかれて、
そのまま東へ追い詰められて、メラネシアへと入っていった。

この時の第二波が、YハプロC1b1+mtハプロBの可能性が高いですね。

101 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 15:42:12.49 ID:+SgOGD7oG
次いで大陸横断型(コスモポリタン型)HTLV-1が出アフリカしたはずですね。

ただ可能性としては、HTLV-1最初期のグループが既に出アフリカしていて、
4万年前に中央アジアもしくはインドで第二波に追いつかれ、
現地の離島などに逃れて残ったのが大陸横断型で、
そのまま離島で航海術を磨いて、後に東西へ拡散した、
という可能性もあります。

いずれにせよD系統は、チベットのD1a1がHTLV-1フリーですから、
出アフリカ当時はHTLV-1フリーだったことになります。

日本には、日本亜型と、大陸横断亜型極東クラスターの、異なる2集団が渡来したわけですから、
D1a2aが、大陸横断型HTLV-1保有集団と、インド周辺で出会った可能性が高くなります。

102 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 15:43:33.27 ID:+SgOGD7oG
計算上の話に過ぎませんが、
14000年前の、O1b1a1a東進直前の世界においては、

ベンガル湾がD系統の世界で、C系統その他とも混在しながらですが、
北部内陸にD1a1、HTLV-1フリー

アンダマン諸島(もしくはセイロン島)の、島部分にD1a2a1c、D1a2a2、D1a2b
その対岸の大陸側に、D1a2a1a
(この集団は大陸横断型HTLV-1を保有していた)
が暮らしていた、可能性が高くなります。

ですからミャンマーのベンガル湾沿岸の石器が、14000年前からどこまで遡ることができるか、
が、D1a2a1aが何万何千年そこで暮らしていたか、の指標になりますね。

14000年前にO1b1a1a東進が起きて、ミレット農耕集団O1b1a1aに土地を奪われていった。

北部のD1a1はチベット高原へ逃れた。
ベンガル湾沿岸のD1a2a1aは、丸木舟で東方へ逃れて、最終的には日本列島へ。
アンダマン諸島(もしくはセイロン島)のD集団は、O1b1a1aが陸上生活者で航海が不得手だったので離島で残れた。

もちろんベンガル湾沿岸には、その他のD系統やC系統も沢山いたでしょうが、
滅ぼされた系統がむしろ多数だったのかもしれません。

このストーリーであれば、
D1a2a1aとD1a2a2が15000年前分岐であることや、
HTLV-1の日本亜型と大陸横断亜型が14000年分岐であることと合致しますね。

103 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 15:44:37.88 ID:+SgOGD7oG
14000年前に、O1b1a1a東進によって、先住系統が追いやられて、

大陸横断型が分離して、
D1a2a1aと共に日本列島まで移動したのが、日本亜型
D1a2a2、D1a2a1cと共にベンガル湾の離島に留まったのが、大陸横断亜型の後の極東クラスター

O1b1a1aに征服凌辱されて取り込まれたのが、大陸横断亜型のインドクラスターや中東クラスター

D1a2a1aとは逆に、丸木舟で西へ逃れた集団もいて、大陸横断亜型の中東クラスターの一部かもしれません。


D1a2a1aもHTLV-1日本亜型も日本までの途中経路上で増えていませんから、
丸木舟で日本列島までほぼ直行した。
そうなると水上生活メインとなるため、日本亜型を日本列島まで届けるには、
200年以内には到着しなければなりませんね。
おそらく一世代のうちではないでしょうか。

14000年前なのでまだ海面は低く、いきなりの航海でも南西諸島を渡れたのでしょう。

日本の先住民である、北方からのおそらくC1a1の人々と合流したのだと思われますね。

104 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 15:46:28.22 ID:+SgOGD7oG
D1a2a2、D1a2a1c、D1a2bなどの集団は、
アンダマン諸島(もしくはセイロン島)で暮らしていた。
丸木舟で200km離れた大陸側と交易しつつ、
O1b1a1aの雑穀農耕を学習したわけですね。
当然男性複数人体制へ移行して、すぐ滅ぼされる危険は去った。

それで6000年ほど経過して、
次に起きた大事件が、8000年前のハツカネズミ一斉放散ですね。
インドを中心に起きています。
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/696-699

人類が収穫して貯蔵する穀物に目をつけて、
家ネズミ化=人間を怖がらなくなり、
集落に押しよせて、貯蔵穀物を食い荒らした。

まだ登攀能力は無かったはずで、
高床倉庫を作れば対処できたのでしょうけれども、
8000年前の一斉放散の初撃時にはまだ高床倉庫を大量建築するまでのレベルにはなくて、
大飢饉になったわけですね。

O1b1a1aが大打撃を受けて、飢餓難民がハツカネズミと一緒にアンダマン諸島にも押し寄せて、
D系統集落もハツカネズミに荒らされたうえに、
O1b1a1a集団が押し寄せて、下手すると自分たちが食料にされる危険性すら高かった。

ので、ハツカネズミとO1b1a1aから逃れるために、東へ東へと逃げて、
南西諸島を越えてようやく逃げ切った、ということになります。

D1a2bセンチネル族は、一番辺境の北センチネル島にいたので、
そこまでは飢餓難民が辿り着けなかったわけですね。
ハツカネズミは来たかもしれませんが。

105 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 15:47:30.29 ID:+SgOGD7oG
>>91
逆算すると、ハツカネズミの一斉放散は、8000年前よりは若干新しくて、
7500年前頃なのだろうと思われますね。

日本にはD1a1aの方もいらっしゃるそうですが、
おそらく14000年前のO1b1a1a東進時に、
アンダマン諸島に避難したD1a1aの人がいたのでしょう。

その後すぐにD系統も雑穀栽培を学習して開始して、男性複数人体制へ移行しましたから、
7500年前の、HTLV-1極東クラスター保有集団の渡来時には、
Y染色体ハプロの複数系統が一緒に来ましたということですね。

106 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 15:54:34.26 ID:+SgOGD7oG
日本列島側で考えると、
<男性一人+女性複数人体制時代>
38000年前:人類が初到達、北方経由で、おそらくC1a1を含む、mtハプロはN9bなど

最終氷期の終了
14000年前:D1a2a1aが渡来、丸木舟で南西諸島経由、mtハプロはM7aなど
HTLV-1日本亜型も渡来

<男性複数人体制時代=文化的社会形成時代>
D1a2a1aとC1a1が日本列島の先住民

約7000年間この時代が続いて、
7500年前:D1a2a1c、D1a2a2など渡来
HTLV-1極東クラスター渡来

7300年前:鬼海カルデラ破局噴火
宮崎縄文水上生活者アマ集団が南米へ→HTLV-1南米クラスター

雑穀農耕の極東クラスター集団が耕作適地を奪取してゆき、

日本亜型の陸上生活者は離島へと逃れる。
農耕不適な離島にて、男性一人+女性複数人体制の維持
抜歯なし

火山灰に覆われた九州などは農耕しにくかったので、
極東クラスター集団は主に東日本で増加、貝塚の東高西低
イネ科雑穀を食すため歯列矯正=抜歯

D1a2a1aの一部は水上生活者アマとして火山灰の薄い長崎県伊邪國を中心に活動
五島列島〜有明海
HTLV-1フリー集団となる

107 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 15:55:09.34 ID:+SgOGD7oG
4000年前:ハツカネズミ一斉放散
極東クラスター集団が大幅に減少
貝塚、三内丸山遺跡滅亡、大森貝塚は飢餓状態に陥り人〇食

相対的に海人族D1a2a1aが興盛
離島から日本亜型集団が本土復帰、山鹿貝塚女王、鐘崎式土器、抜歯なし

3000年前:滅亡シュメールのナンム竜末裔が渡来、刻目突帯文土器
青銅器=ネズミ返しをもたらす
YハプロO1b2、mtハプロD4、HTLV-1フリー

108 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 16:07:16.29 ID:+SgOGD7oG
要するに、縄文人は大きく分けると2群あって、

先縄文人:D1a2a1a+C1a1:西日本伊邪國中心
後縄文人:D1a2a1c、D1a2a2:東日本中心

で、D系統視点で考えると、7000年隔絶していたので、
先縄文人は、日本旧石器時代人であるC1a1やN9bとの交配が進み、
後縄文人は、O1b1a1aとの交配が進んでおり、当然東南アジアの人々と遺伝子が合致することが多くなります。

縄文遺伝子と何%合致しているかというのが話題になることがありますが、
先縄文人と比較するか、後縄文人と比較するか、で全然ちがってきますね。
基本的に縄文人骨は、新しい後縄文人のものが研究対象になることが多いですから、
これはO1b2の入っていない、アイヌそのものということになります。

東日本における、極東クラスター渡来直前の比率を示していると思われる、
アイヌにおける比率が、
D1a2a1a(6.25%)とC(12.5%)=約1対2
M7a(16%)とN9b(8%)=約2対1
となっていますね。
男女で比率が逆転していますが、今後の検討課題ですね。

109 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 16:14:05.52 ID:+SgOGD7oG
土器についても当然違うわけで、
教科書によく出てくる、東日本の火焔式土器などは、後縄文人のものですね。

先縄文人の土器は、隆起線文土器など縄文草創期や早期の土器であり、
これは時代が違うだけでなく、
集団系統の違いでもありますから、

鐘崎式土器や、遠賀川式土器といったのは、
それまでの派手な縄文土器から発展した、のではなく、

4000年前のハツカネズミ一斉放散で、極東クラスター集団が壊滅したので、
むしろ元からいた、先縄文人集団が、
離島から3000年ぶりに出てきたのが、鐘崎式土器。

伊邪國の水上生活者アマ集団が、渡来O1b2刻目突帯文土器と手を組んで、
青銅器=ネズミ返しによって、水田開発に乗り出したのが、
遠賀川式土器、
ということになりますね。

先縄文文化への「復古」ですね。

110 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 16:34:15.07 ID:+SgOGD7oG
長崎伊邪國と、豊国が同盟して、福岡平野を占領し、環濠集落板付遺跡を建設。

しかし、その後に一時期喧嘩をしていたようで、
遠賀川式土器が全国展開した時期には、豊国沿岸に伊邪國系の環濠集落が複数形成されていました。

ですから、
水上生活者アマとしてHTLV-1フリーになった伊邪國勢D1a2a1a=遠賀川式土器と、
直前渡来でHTLV-1フリーの奴族O1b2=刻目突帯文土器
とが、
弥生初期の水田稲作全国展開したので、
HTLV-1が広まらず、
逆にHTLV-1フリーの人が一気に主勢力になったわけですね。

現在のHTLV-1分布が説明できます。

111 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 16:35:35.10 ID:+SgOGD7oG
山鹿貝塚女王が抜歯していないのは、
よく調理された消化しやすいものを食べていたからとも思われましたが、

離島で長らく狩猟採集生活を続けていたので、
抜歯風習がそもそも無かった可能性も高まりましたね。

そうなると当然歯並びはガタガタですし、
男性一人+女性複数人体制を続けていたので、
八雷神は女神だった可能性が高くなり、
黄泉醜女はやはり歯並びのせいだったかと。
さらにアンダマン諸島のセンチネル族のような見た目で、

それが弓と石鏃で武装して追いかけてくるのですから、相当怖かったでしょうね。


日本亜型保有集団が男性一人+女性複数人体制を維持していたのですから、
14000年のD系統風習を直輸入しており、
やはりラマやクマリと原始宗教観が共通しているのでしょう。

112 :日本@名無史さん:2024/05/06(月) 16:36:32.32 ID:+SgOGD7oG
関門海峡に臨む豊国の女王系列は、
その後九州倭国の外戚としてプレゼンスを保ち続けますね。

ここで、なぜ九州にだけ日本亜型HTLV-1が蔓延しているのか。

文身、ですね。

入れ墨を彫る時には血液感染します。
集落の子供たちの成長の節目に、成人式のように皆集めて文身を入れたので、
大量感染したのですね。

昔の注射針の使いまわしで肝炎が蔓延したのと同じことですね。

ですから、
文身を入れていた=倭人は、九州だけだったとわかります。

ついでにわかるのは、当時はB型肝炎は無かったのですね。
B型肝炎があったら、文身を入れる儀式のたびに複数人が黄疸を発症して亡くなるので、
さすがに文身風習をやめていたでしょうから。

113 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 00:51:02.42 ID:tdFFJHD1O
【丸ノミ形石斧(栫ノ原型石斧)】
木材を大きく刳りぬいて、丸木舟を製作するのに使用された。

<栫ノ原遺跡(鹿児島県南さつま市)>
・12000年前(11000年前の桜島火山灰層より下層)
・縄文時代草創期の隆帯文土器
・丸ノミ形石斧(栫ノ原型石斧)
・舟形配石炉(丸木舟の表面を炙って耐水性防腐性向上・水流抵抗減弱の処理をする)
→丸木舟を作っていた製造拠点・造船所

<丸ノミ形石斧出土分布>
多くが隆帯文土器と共に出土
・鹿児島県(栫ノ原遺跡、掃除山遺跡など)
・種子島(奥ノ仁田遺跡、鬼ヶ野遺跡)・黒島
・奄美諸島(赤木名遺跡)
・沖縄本島(カヤウチバンタ貝塚)

・宮崎県(椎屋形第一遺跡、セベット遺跡、清武上猪ノ原第5遺跡、塚原遺跡、堀浦遺跡)
・熊本県
・長崎県(宇久島・長崎鼻遺跡、柿泊遺跡)

・高知県
・和歌山県
・八丈島

114 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 00:55:18.20 ID:tdFFJHD1O
丸ノミ形石斧(栫ノ原型石斧)は、
沖縄県〜鹿児島県を起点として、

九州沿岸を海沿いに展開して、
東海岸は宮崎県〜高知和歌山へ渡海
西海岸は有明海沿岸から五島列島へ渡海

八丈島はさすがに遭難した丸木舟が黒潮に乗って漂着したのでしょうね。

1)D系統
チベット〜アンダマン諸島(〜ミャオ族にごくわずかに)にいるが、
日本との中間地点である東南アジアにいない

2)HTLV-1ウイルス
インドにいるが、日本との中間地点である東南アジアにいない

3)丸ノミ形土器
南九州〜沖縄に突然出現して、東南アジアにいない

14000年前に農耕開始O1b1a1a大発展に追われて、丸木舟で一気に渡来してきた。
水上で移動して来たので、HTLV-1が消えない200年以内に渡来。
と考えれば、全てが符合しますね。

115 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 00:55:57.51 ID:tdFFJHD1O
あとは、アンダマン諸島あるいは対岸のミャンマーで丸ノミ形石斧を見つけるか、
もしくは、
丸木舟は出アフリカした人類にとっては標準装備で、打製石器でも頑張って作っていた。
鹿児島までやって来た日本亜型集団が、日本列島で世界最古として開発された磨製石器を学習して、
丸木舟を大量生産したいので、磨製石器を改良する形で丸ノミ形石斧を発明した、
というストーリーでもいいですね。

また非常に興味深いのは、いわゆる豊国、に跳ね返されて入れていないのですね。
農耕が関係ないので、花崗岩土壌・真砂土などは入植条件では無かったはずですが、
豊国は後の石包丁の産地なので、当時から石器の素材で優位性があって、
旧石器時代人が、渡来して来た日本亜型集団に対して優位性があったのかもしれませんね。

116 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 00:56:41.31 ID:tdFFJHD1O
陸上遺跡の断絶について

<沖縄>
旧石器時代〜12000年前までは遺跡あり、丸ノミ形石斧・隆帯文土器
12000年前〜8000年前までは遺跡なし
8000年前のサキタリ洞遺跡・押引文土器から遺跡再開

<先島諸島>
旧石器時代には遺跡あり
3万年前〜4300年前までは遺跡なし
4300〜3500年前に下田原期で土器あり⇔同時期の台湾フィリピンは土器なし
3500年前〜1800年前は遺跡なし
1800年前〜12世紀が無土器文化

117 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 00:59:23.56 ID:tdFFJHD1O
温暖化に伴う水上生活者(家船)の出現

HTLV-1の日本亜型ならびに、大陸横断亜型の極東クラスター、の渡来

ハツカネズミの一斉放散
https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1651274006/696-700

縄文海進

のデータを勘案して、解析してみると、

<沖縄>
旧石器時代:北方からやってきた人類(港川人など)が主に陸上生活

14000年前:日本亜型集団が丸木舟で渡来
南西諸島を飛び石で伝播して、12000年前頃に鹿児島へ到達<栫ノ原遺跡>

縄文海進で陸地平地が毎年どんどん減少していくので、
12000年前には南西諸島の人々は、ほぼ全員が海上生活者になった、
ということですね。

糸満市など、沖縄にも家船集団がいたのですし、
沖縄の島々はそれなりに大きくて、
温暖な時代だと人類が絶滅するどころか過ごしやすい気候だったのですから、
遺跡がない=水上生活者になった、
が正解でしょう。

水上生活者がほとんどだったので、8000年前のハツカネズミの一斉放散の時は、
陸上集落の無い南西諸島を、ハツカネズミは突破できなかったわけですね。

118 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 01:00:43.79 ID:tdFFJHD1O
>>105
よく考えてみると、ハツカネズミの一斉放散は8000年前で良くて、
8000年前の数年後に、極東クラスター集団が台湾に渡来して、極東クラスターHTLV-1を伝えた。
ということは、彼らは土器を知らなかった。

南西諸島を飛び石伝いに北上して、
イネ科雑穀農耕の極東クラスター集団が、
まずは沖縄本島で一息ついて土器を教えてもらった。<サキタリ洞遺跡>

九州有明海方面は、原・伊邪國勢が多かったので、
7500年前以降に九州宮崎県入り。
鬼海カルデラの火山活動活発化にてどんどん東へと流れた。

宮崎に残った一部が破局噴火直前の軽石海面&火山灰大量降灰にて南米クラスター形成、
という流れですね。
7300年前の破局噴火本番にて陸上部分の開墾集団は全滅したのでしょう。

119 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 01:02:48.04 ID:tdFFJHD1O
先島諸島については、
14000年前までの旧石器時代人が沿岸で暮らしていた遺跡は、
現在は海中にある。

14000年前からは、縄文海進で陸地部分がどんどん狭くなったが、
おそらく旧石器時代人が陸上にごくごくわずかには暮らしていたものと思われます。

渡来して来た日本亜型集団は、さすがにほぼ海中そのものでは暮らせないので、
沖縄本島〜鹿児島〜と、しっかりした陸地母港を求めて北上していった。

なので、先島諸島は、水上生活者も常設母港としては使わず、
台湾から沖縄諸島までの、飛び石交通路として、
たまに水上生活者が通りかかることはあっても、
陸上にわずかな旧石器時代人が、遺跡も残らない程度に生息しているだけだったのでしょう。

4000年前のハツカネズミの一斉放散では、
中国南部長江文明の避難民が逃げてきた。
けれどもそれがために、ハツカネズミの経由拠点となってしまい、
中国南部→台湾→南西諸島→日本列島→樺太、までハツカネズミに制圧されてしまったのですね。

避難民は3500年前までの800年粘ったけれども壊滅した。

1800年前から無土器文化ですが、
徐福一行の往来や、
三国志時代の呉が攻め込んだりしたことで、
その存在が知られ、
梁書「又西南萬里有海人 身黒眼白裸而醜其肉?行者或射而食之」
これがそうかと。

一応倭人の領域と認識されていた根拠にはなりますが、内容が内容だけに・・。

120 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 01:06:42.81 ID:tdFFJHD1O
つらつら考えると、
14000年前にやって来た、日本亜型集団が、栫ノ原型石斧勢力であり、
海人族となって、200年でHTLV-1フリーとなったわけですね。
当時から長崎県伊邪國へと進出しています。

超古代豊国領域は、石器の名産地であったためか、やや排他的だった。

一方で、伊邪國勢は、困って渡来して来た勢力に対して、非常に寛容だったことがわかります。

7500年前に極東クラスター集団がやってきたのを、
鹿児島の通過を許可して、東日本へと入植させてあげた。

3000年強前の沿海州刻目突帯文土器O1b2も受け入れたし、
3000年弱前の浙南石棚墓漂着民もエルトゥールル号同様に親切に救助してあげた。

前210年の徐福一行も、貴族子弟や百工など優秀な者が多かったのもありますが、
北部九州周辺への入居を認めてあげた。

前222年燕滅亡、前108年衛氏朝鮮滅亡、時の、亡命旧燕勢力も、
対馬海峡を渡してあげて、東方へ政治避難民として通してあげた。

121 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 01:09:57.08 ID:tdFFJHD1O
男性一人+女性複数人体制は、野生ホモサピエンス時代とも言えるわけで、

14000年前の最終氷期終了後の、男性複数人体制=人類文化揺籃期からが、
本当の社会的生物としての歴史開始と言えますから、

南西諸島とその全海域についても、
先住民が誰か、ということになると、
その中心となったのは、日本亜型集団から海上生活者となった勢力、
つまりは伊邪國へと連なる勢力であるわけですね。

そのまま弥生時代の貝輪交易圏の形成へと繋がります。

伊都+斯馬國=糸島なのですから、
糸満市の家船集団も、
伊都関係の伊邪國五島列島の家船集団と密接な繋がりがあった可能性が高いですね。
(伊都が伊邪國の津=イツであった可能性もありますが)

122 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 01:11:09.98 ID:tdFFJHD1O
一方で、中国側の水上生活者=倭人である、O1b1a2が全くいないことから、
先島諸島以東の島々並びに海域は、
人類が住み始めて以降ずっと、
倭そして日本のものだったことが明確にわかります。

123 :日本@名無史さん:2024/05/10(金) 01:14:09.91 ID:tdFFJHD1O
家船
アマ
海人族

天之御中主

伊邪ノ爾支

124 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:26:49.24 ID:8TqfOsdhg
下戸遺伝子

人間がアルコール(エタノール)を摂取すると、
エタノール→アセトアルデヒド→酢酸→と分解されていく。

エタノールとアセトアルデヒドが人体にとって有害であり、
酢酸まで分解されると害が無くなる。
酩酊症状を出すのはアセトアルデヒドである。

主要な分解酵素は、
@ADH1B:アルコール→アセトアルデヒドに分解
AALDH2とALDH1:アセトアルデヒド→酢酸に分解

ALDH2はアセトアルデヒドが低濃度でも作用するが、
ALDH1はアセトアルデヒドが高濃度にならないと作用しないため、
酒に強いかどうか=アセトアルデヒドの分解速度が速いかどうか、
を規定するのは、ALDH2である。

人間は基本的にはADHとALDH1&ALDH2を基本装備している。
ADH遺伝子あるいはALDH2遺伝子に突然変異を起こして機能低下をきたすと、
酒に弱い下戸となる。

ADH遺伝子変異型が日本に渡来したのが、約2万年前
ALDH2遺伝子変異型が日本に渡来したのが、約7500年前

ADH遺伝子変異であれば、アルコールの分解速度は遅いものの、
アセトアルデヒドは分解されるため、酩酊症状はさほど出ない。

ALDH2遺伝子変異においては、アセトアルデヒドが分解されないため、
酩酊症状が強くでて、下戸となる。

125 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:28:45.96 ID:8TqfOsdhg
各染色体は2対ずつあるので、

2本両方とも正常なALDH2遺伝子:NN型(正常・酒豪)
1本だけ変異型:ND型(酒にやや弱い)
2本とも変異型:DD型(全く呑めない、下戸)
ということになる。

ALDH2遺伝子の変異型が発生したのは、約25000〜30000年前

世界的には、長江下流域が中心地であり、中国大陸に薄く広がり、
日本列島にやや濃く、分布している。
中国北部の山東半島の付け根にだけ飛び地で高濃度スポットがある。

ベンガル湾以西には分布なし。
オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパには皆無。
O系統分布域にごく薄く広がる。

日本国内の分布としては、
酒豪NN型が60-70%台で高いのが、
沖縄鹿児島など南九州、青森など東北から越後など日本海沿岸、高知。
逆に40-50%台で低いのが、
愛知三重など中京地方、近畿瀬戸内、などとなる。

日本人全体では、NN型60%、ND型35%、DD型5%。

126 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:30:30.89 ID:8TqfOsdhg
人類は誕生以来の数十万年を狩猟採集生活で生きてきたのですから、
熟して落下した果実、つまりやや発酵してエタノールを含む食物を食べるために、
ADH遺伝子とALDH2遺伝子は必須だったわけですね。

遺伝子変異は定期的に発生しますから、
定期的に誕生していた、ALDH2遺伝子変異の個体は、
落下果実を食べることができないので、
自然選択で淘汰されて子孫を残せなかったことになります。

一説には、ALDH2遺伝子変異の人は、
アセトアルデヒドが分解されずに血中高濃度に残ることで、
マラリアなどの感染症を抑制することができて有利だったのだ、
という話がありますが、
そもそもマラリアを殺せるほどの血中アセトアルデヒド濃度を維持するほどの酒を、
定期摂取できた原始社会がありませんし、
さらにそもそも、一口のお酒で顔が真っ赤になる下戸の人が、
マラリアを殺せるほど酒を飲み続けたはずがありませんから、
ちがうでしょうね。

正解は、
ALDH2遺伝子変異は人類にとって不利な変異以外の何物でもないが、
O1b1a1aは雑穀農耕を開始しており、
落下果実ではなく、雑穀を食料主体としていたため、
ALDH2遺伝子変異を生じた個体であっても、問題なく繁殖していくことができた、
ということですね。

127 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:34:28.91 ID:8TqfOsdhg
>>95-97
O系統にて、O1b1、O1b2、O2が分岐したのが31000年前で、
現在のALDH2遺伝子変異が発生したのが25000〜30000年前。

そしてO2やO1b2が東進したやや北寄りのルートにはALDH2遺伝子変異がほぼいませんから、

理論上は、ALDH2遺伝子変異はO1b1a1aが保有していた変異であって、
O1b1a1aは、25000〜30000年前頃には原始的にせよ雑穀栽培を開始していたか、
少なくとも野生のイネ科雑穀を主食としていた。
なので落下果実など発酵食品を食べる必要がない=ALDH2遺伝子変異があっても不利ではない、
環境にいたことになりますね。


逆にALDH2遺伝子変異があるから、寒冷な気候の中でもあれこれ工夫して、
必死に雑穀栽培して生き抜いていたのかもしれませんね。
その甲斐があって、
14000年前から温暖化が始まると、
雑穀栽培による食料安定供給の強みが出て、男性複数人体制へと移行し、
東進開始したと。

128 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:39:11.35 ID:8TqfOsdhg
>>104
人類は丸太船あるいは刳り抜いた丸木舟を標準装備していたと考えられますが、
O1b1a1aはやや内陸で雑穀栽培していた集団で、
渡海能力が無いか乏しかったと考えられます。
東南アジアからオーストラリアへ、あるいは中国南部から南西諸島へ、渡海できていませんね。

ですから、O1b1a1a集団が大挙押しよせてきても、
HTLV-1の大陸横断亜型の極東クラスター集団は、
アンダマン諸島にいて、安全だったのでしょう。

そして逆に言うと、極東クラスター集団側だけが、長距離渡海能力を持っていた。

200kmだと24時間以上、おそらく3日ほど漕ぎ続けないと渡海できませんから、
確実にツクヨミ航海=月を目印に方角確認しながらの夜間航海術、
も獲得していたはずですね。

そうなると、アンダマン諸島の極東クラスター集団の方が制海権を握っており、
一方的に襲撃できますから、
定期的にベンガル湾沿岸部を襲撃して、O1b1a1a集落の女性を獲得して連れ帰った。
それによって、雑穀栽培を習得したのでしょう。

また、島陸上で暮らす極東クラスター集団が、古来の女性陣メインだったのに対して、
しょっちゅう出撃する極東クラスター集団は、どちらかというと獲得して来たO1b1a1a集落出自女性、
すなわちALDH2遺伝子変異保有女性が多くなりますから、

8000年前の一斉放散の際には、
島に残った陸上生活重視集団は、渡海して来たハツカネズミや避難民によって蹂躙され、

阿鼻叫喚の世界を脱出して東方へと出発した丸木舟熟練集団は、
ALDH2遺伝子変異を多く保有した集団だったのだろう、
と考えられます。

129 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:41:06.41 ID:8TqfOsdhg
>>97
4600年前に中東からの青銅器保有勢力によって、
O1b1a1aがインドから駆逐されているわけですが、

現在のO1b1a1a分布域もそうですし、
ALDH2遺伝子変異の分布域も、インドはもちろんベンガル湾沿岸からも駆逐されていますね。
4000年前に青銅器保有勢力がベンガル湾沿岸まで到達し、
中国南部へなだれ込む直前に、
ハツカネズミの一斉放散が起きたことがわかります。

そして、
インドから、
ALDH2遺伝子変異が駆逐されている=凌辱されて子孫を残していない
のに、
HTLV-1大陸横断亜型は残っている
ということは、

プレデターが襲来したのだ、ということを示唆してます。


O1b1a1aにすら駆逐されたCD系統国家としては、プレデターと
同盟するのはいいけれども、
自由民主主義だしwetな米さんとはやはり違うでしょうから、
よくよく注意しておきなさいよ、ということになります。

130 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:42:37.41 ID:8TqfOsdhg
日本列島に戻りますと、

>>108
旧石器時代人は北方から樺太経由で、当然NN型

先縄文人は日本亜型集団が南方から渡海で、これもNN型

後縄文人が極東クラスター集団でこれも南方から渡海ですが、
彼らがNDやDD型であった、
ということになりますね。


さらに、C系統について詳しく見てみると、
C1a1は沖縄に多く、日本列島にも分布しているが、アイヌにいない。
C2はアイヌに多いが、沖縄にいない。

131 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:49:46.46 ID:8TqfOsdhg
>>106
以上のデータを加味して考えると、

<男性一人+女性複数人体制時代>
【38000年前】
C系統は丸木舟あるいは丸太舟を知っていて、
C1b2がオーストラリア(サフルランド)へ渡海したのと同じく、
C1a1は南西諸島〜日本列島へ渡海あるいは漂着渡来した

【20000年前】
C2系統が樺太経由で歩いて渡来
ADH遺伝子変異保有
北回りルートなので丸木舟渡海能力を喪失していた
土器=調理による栄養獲得能力優位性と、細石刃=毛皮の優位性でC1a2を駆逐
C1a2は離島にのみ残存

【14000年前】
HTLV-1日本亜型集団が南西諸島経由で渡来
おそらくD1a2a1a
種子島まで来て鹿児島のC2勢力と接触し、土器&細石刃を習得(立切遺跡)

これによって、真水の大量貯蔵(土器甕)、体温の保持(耐水鮫革衣服)を獲得し、
世界最初期の通年水上生活者アマ集団が誕生。
<男性複数人体制時代=文化的社会形成時代>

【7500年前】
HTLV-1極東クラスター集団が南西諸島経由で渡来
ALDH2遺伝子変異保有

【7300年前】
鬼海カルデラ破局噴火
宮崎縄文水上生活者アマ集団が南米へ→HTLV-1南米クラスター

132 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:55:55.55 ID:8TqfOsdhg
と、そう考えると、
ワニ勢力とは本来からD1a2a1aであり、
サメ漁によって、鮫革耐水服、食料、そして副産物としてのサメ歯イヤリングなど装飾具、
を獲得

見た目で鮫そのものだったと

>>90
アブラのようにクラゲのように海上を思うがまま移動して、
清浄なる暮らしをしていた海洋の支配者アマだったわけですね。

133 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 15:58:23.80 ID:8TqfOsdhg
渡来C2がADH遺伝子変異を保有していても生き残れたのは、
土器があったから=調理技術の向上によって、
アルコール発酵した食物に頼っていなかったからなのだ、
ということになりますね。

そうなると、
理論的に、最古の土器はADH遺伝子変異の誕生より古くないといけないので、
20000年前くらいまでは頑張って探せば見つかるはずということになります。

土器アダム、ならぬ、男性一人+女性複数人体制なのですから、
土器イブが、必ずどこかに眠っているはず。
それが日本列島だといいですね。

134 :日本@名無史さん:2024/05/12(日) 16:14:53.26 ID:8TqfOsdhg
【4000年前】
ハツカネズミ一斉放散
極東クラスター集団=下戸DD型が大幅に減少
貝塚・三内丸山遺跡滅亡、大森貝塚は飢餓状態に陥り人〇食

相対的に海人族D1a2a1aが興盛
離島から日本亜型集団あるいはC1a1集団が本土復帰

【3000年前】
滅亡シュメールのナンム竜末裔が渡来、刻目突帯文土器
青銅器=ネズミ返しをもたらす
YハプロO1b2、mtハプロD4、HTLV-1フリー、標準NN型

>>110
共にHTLV-1フリー、NN型酒豪の
「D1a2a1a&O1b2」が水田稲作全国展開

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