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邪馬台国畿内説 Part994

1 :sage:2024/02/20(火) 20:59:30.94 .net
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708239632/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

2 ::2024/02/20(火) 21:03:02.43 .net
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 ::2024/02/20(火) 21:03:59.55 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 ::2024/02/20(火) 21:04:31.29 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
(本項 続く)




◆3ー2
(承前)
 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 ::2024/02/20(火) 21:05:00.89 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 ::2024/02/20(火) 21:05:30.63 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 ::2024/02/20(火) 21:06:01.38 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 ::2024/02/20(火) 21:07:31.73 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 ::2024/02/20(火) 21:08:00.25 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 ::2024/02/20(火) 21:08:31.38 .net
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 ::2024/02/20(火) 21:09:32.36 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

12 ::2024/02/20(火) 21:10:02.71 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 ::2024/02/20(火) 21:10:32.50 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 ::2024/02/20(火) 21:11:02.52 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 ::2024/02/20(火) 21:11:32.28 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 ::2024/02/20(火) 21:12:01.94 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 ::2024/02/20(火) 21:12:32.02 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 ::2024/02/20(火) 21:13:02.82 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19 ::2024/02/20(火) 21:13:32.86 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20 ::2024/02/20(火) 21:14:02.61 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。

21 ::2024/02/20(火) 21:15:33.29 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22 ::2024/02/20(火) 21:16:03.25 .net
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23 ::2024/02/20(火) 21:16:32.76 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24 ::2024/02/20(火) 21:17:01.81 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25 ::2024/02/20(火) 21:17:32.00 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26 ::2024/02/20(火) 21:18:02.88 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27 ::2024/02/20(火) 21:19:01.35 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

28 ::2024/02/20(火) 21:19:32.92 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29 ::2024/02/20(火) 21:20:02.96 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30 ::2024/02/20(火) 21:20:32.50 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31 ::2024/02/20(火) 21:21:02.76 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

32 ::2024/02/20(火) 21:21:32.21 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

33 ::2024/02/20(火) 21:22:02.22 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

34 ::2024/02/20(火) 21:22:32.41 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

35 ::2024/02/20(火) 21:23:02.42 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

36 ::2024/02/20(火) 21:23:32.66 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

37 ::2024/02/20(火) 21:24:02.45 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

38 ::2024/02/20(火) 21:24:33.15 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

39 ::2024/02/20(火) 21:25:31.49 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

40 ::2024/02/20(火) 21:26:01.44 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

41 ::2024/02/20(火) 21:26:31.49 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

42 ::2024/02/20(火) 21:27:01.36 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

43 ::2024/02/20(火) 21:27:31.48 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

44 ::2024/02/20(火) 21:28:01.46 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

45 ::2024/02/20(火) 21:28:31.89 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

46 ::2024/02/20(火) 21:29:01.64 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

47 ::2024/02/20(火) 21:29:31.46 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

48 ::2024/02/20(火) 21:30:01.24 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

49 ::2024/02/20(火) 21:30:31.91 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

50 ::2024/02/20(火) 21:31:01.38 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

51 ::2024/02/20(火) 21:31:31.47 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52 ::2024/02/20(火) 21:32:04.45 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53 ::2024/02/20(火) 21:32:33.20 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54 ::2024/02/20(火) 21:33:02.52 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55 ::2024/02/20(火) 21:33:32.42 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56 ::2024/02/20(火) 21:34:02.32 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

57 ::2024/02/20(火) 21:34:32.36 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58 ::2024/02/20(火) 21:35:02.18 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59 ::2024/02/20(火) 21:35:32.76 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60 ::2024/02/20(火) 21:36:02.39 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

61 ::2024/02/20(火) 21:36:32.39 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62 ::2024/02/20(火) 21:37:02.74 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 ::2024/02/20(火) 21:37:32.32 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 ::2024/02/20(火) 21:38:02.65 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 ::2024/02/20(火) 21:38:32.90 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

66 ::2024/02/20(火) 21:39:03.00 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 ::2024/02/20(火) 21:39:32.73 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 ::2024/02/20(火) 21:40:02.35 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 ::2024/02/20(火) 21:40:33.35 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 ::2024/02/20(火) 21:41:02.86 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 ::2024/02/20(火) 21:41:33.79 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 ::2024/02/20(火) 21:42:03.54 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 ::2024/02/20(火) 21:42:32.65 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 ::2024/02/20(火) 21:43:33.53 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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75 ::2024/02/20(火) 21:44:03.31 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76 :日本@名無史さん:2024/02/20(火) 22:32:32.80 .net
末盧国から伊都国が500里
伊都国から邪馬台国は1500里。
畿内説はこれに異論ある?

77 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/02/20(火) 23:24:03.38 .net
ホケノ山を4世紀にするとかネトウヨ界隈は狂っているよな
酸素同位体比年輪法すら無視して主張しているからな

素直に纏向石塚をAD200年頃と認めれば良いのに、まるでアイヌ民族をシベリアから来たと熱弁するが如くに、ネトウヨは自説に都合の良い九州説を唱えるのである

78 :日本@名無史さん:2024/02/20(火) 23:25:34.40 .net
別に3世紀でよくね?
倭種が栄えてて良かったなーってだけじゃん

79 :日本@名無史さん:2024/02/20(火) 23:40:22.01 .net
>>77
アイヌはシベリアで正解だよ

アイヌの祖先が遺した最初の石器はバイカル系の細石刃

80 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 00:50:16.28 .net
畿内説は岸本みたいのが主流派なの?

81 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 02:10:47.06 .net
>>77

「私は石塚古墳か矢塚古墳が卑弥呼の墓の有力候補だと考えている。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

寺澤は石塚古墳を3世紀後半と考えているようだね。

82 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 03:30:29.73 .net
アイヌを持ち出すのはチョンコだと決まっている

83 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 06:28:22.97 .net
時期を早めれば早めるほど卑弥呼や台与とは時代がズレていくぞ

84 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 06:40:06.79 .net
九州に魏と仲の良い邪馬台国がいて、畿内には別の大きな国(ヤマト王権)があったする九州説は崩壊している
今生き残って九州説学者は全て「100年ずれてるだろ!」という年代論

85 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 06:40:25.95 .net
ふるしょうさんの卑弥呼天下り説が正解

86 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 06:53:40.74 .net
>>85
あれは畿内説なのか?九州説なのか?

87 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 07:15:34.57 .net
>>80
畿内説はというより考古学者の中では主流だろう

88 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 07:48:46.78 .net
【禁無断転載】 古地図に見る山門の歴史 福岡県みやま市瀬高町大字山門やまと

https://shofuku.nobushi.jp/yamatotizu.html

89 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 07:54:25.85 .net
つまり畿内説は頭の悪い低能学者の妄言集でしたと

90 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 08:00:57.58 .net
「話がつまらない人」は説明の型を知らない
https://news.yahoo.co.jp/articles/64bb440772c839861e46d9fe2710186a2ef7c781?page=2
「ウケ狙いしているのがイタい」と思われないために

「なぜ、四大文明が発祥したかわかる? 
それはね、大きな河があったから。そもそも、人の体のおよそ60%が水でできてるでしょ。
だから、つねに水分を補給できる河の畔で生活するのが人間にとってベストだよね。
それに、農作物を育てるにも水分が必要。モノを運搬するには水路が便利。だから、
大きな河の流域で文明が発達しやすいんだ」

91 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 08:31:24.92 .net
ふるしょうさん頭いいな。
女王国は九州で、邪馬台国は纏向だとちゃんと分かってるし、この掲示板の奴らとはやはり格が違うなw

92 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 08:37:46.82 .net
つまり畿内説は不要でしたと

【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称

筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg

93 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 08:39:10.27 .net
つまり畿内説は都合の悪い事実を発見してしまいましたよと

箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/

未だ結果報告無し

94 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 08:41:03.31 .net
>>93
このように九州説の言うことは常に妄想

95 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 08:55:31.25 .net
岸本論文は畿内説の人が考えそうなことを説として述べているだけで、
それ以上の意味はない

96 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/02/21(水) 09:19:40.64 .net
北九州が鉄の生産で優位だったのは弥生後期まで続くのだが、もう古墳時代が見える頃になると他の地域での鉄生産が増加して優位性は失われていく

ヤマト王権が任那を失っても鉄に困らなかったのは、既にたたら製鉄法が生み出されて砂鉄から鋼の生産が可能になっていたからだ

たたら製鉄が行われていた最古の証拠は古墳時代の吉備の遺跡だが、実際はいつから始まったのか不明である
記紀に出てくるヒメタタライスズヒメ(神武皇后)など人物名から見て、かなり古くから行われていたのではないかとも推測できる

古代に鉄生産が盛んだったのは、吉備、日向、出雲、讃岐といった地域だった
もしたたら製鉄法の発明が弥生末期に遡るのなら、この頃にはもう北九州は軍事的優位性を失っていたかもしれず、その各国間のパワーバランスの崩壊が倭国大乱の原因かもしれない

97 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 09:30:20.38 .net
つまり畿内説は根本的に鉄器文化の意味を理解していない
3世紀の北部九州ではすでに農具や工具、刀子などの日用品として広く浸透していた事を示す遺跡や出土品が多い
纏向霊園で発見された鉄は古墳の副葬品であり外部からの持ち込み品である

以下、卑弥呼時代の史書に記録されている鉄について
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、矮、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

98 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 09:38:40.35 .net
畿内説の想像ってテレビ見過ぎの老人みたい
現実社会をよく知らない学者にもそんな奴が多い

99 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 09:50:58.00 .net
>>98
まさにそれ
馬すらいねー移動は全て徒歩
丸木舟で川や海岸沿いを移動するほうが早いくらい遠距離移動が大変な時代だってのに
北部九州から畿内までの巨大政権が成立するって信じられるんだからさ

100 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 09:52:11.97 .net
>>94
妄想だと決めつけないとやってらんないよねー

101 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:04:17.35 .net
100国あるうちの30国だって書かれてるのに
必死で目を逸らすのなんなん?

102 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:05:38.29 .net
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは読み取れない
(伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けているしまともな学者は誰もそのように読んでいない)
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)

考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている

例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続く)

103 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:06:36.06 .net
(続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

104 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:14:13.45 .net
>>92
>広志いわく、
>---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--

(倭国に上陸したら)東南500里で射てると書かれているのに、
なぜ伊都国が福岡西区になるのか。
逆算すると、北西500里の玄界灘の海上で上陸したことになるのだが・・

105 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:15:51.69 .net
>>101
>100国あるうちの30国だって書かれてるのに

書かれてない

106 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:27:03.80 .net
>>105
その通り、
(100国あるうちの)30国とは読めないな。

107 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:29:28.81 .net
>>106
百国あったが、今通ずる国は30国
と書いてある

108 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:33:18.09 .net
つまり倭国大乱で衰退した30国が卑弥呼女王を共立して再建を試みた
しかし狗奴国にそれを阻まれた

109 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:34:06.71 .net
たいがいの人は国家形成という意味で、弥生後期の初めから終わりという時間幅の中で相当に統合が進んだものと読んでると思うが

110 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:34:45.47 .net
魏志倭人伝には、以前は百余国あったがいま交流がある国は三十国だと書いてある
百余国が三十国に統合されたのか百余国のうち三十国と交流があるのかは判然としないが、大きな方向性としてクニは統合や集約が進んで数としては減っていく傾向にあったろう
(最終的には列島全体が日本国という一つの国になる)

111 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:42:47.30 .net
>>109
そんな記録は無い

112 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 10:45:43.00 .net
ヒント 旧唐書

日本は倭国の別種也
日本国はかつて小国だったが、倭国を併合した

113 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:03:21.25 .net
>>111
そもそも倭人伝は、帯方郡がいかにして旧100国を味方に取り込んだかの手柄話である。
手柄があったからこそ、卑弥呼は金印紫綬を賜った。
なのに、100国が30国に減ったのでは、金印紫綬どころではないし、書く価値すら無い。
その歴史の文脈を理解したうえで読むのが当然であろう。

114 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:08:07.79 .net
>>110
その統合のタイミングがいつか?という話だが
記紀でいう崇神の四道将軍派遣やヤマトタケルの東西侵攻の時期
あるいは倭王武の上表文にある先祖の東西侵攻の時期
を何時に設定するべきか

115 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:09:33.82 .net
>>111
進化論を否定した宗教家を思い出す

116 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:13:50.14 .net
>>97
おまえが猿だな。
北陸、関東まで出土
鉄の輸入のみしか思考しないのか?
銅やガラスもあるし日本からの輸出もある。

117 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:16:26.33 .net
>>113
倭国自体は百国あり、そのうち30国が女王国(北部九州)となり魏に朝貢を出した。
しかし他は朝貢しなかったので倭種の国とだけ記された
もしそれが女王国と密接な交流があったのであれば、朝貢しなかった理由などが記録されていてもおかしくない
単に倭種の国とだけ記されたのは特に密接な関係は無かったという事だ

118 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:18:05.42 .net
>>117
宗教?

119 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:20:24.51 .net
このように畿内説は私情で学問を捻じ曲げてきた半島系低IQ民族なんだよ

120 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:22:41.93 .net
>>113
>そもそも倭人伝は、帯方郡がいかにして旧100国を味方に取り込んだかの手柄話である。

それお前の妄想だろ
何の証拠も無く言い切る猿

121 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:22:52.46 .net
岸本って薄っぺらくない?
弥生期の大和はしょぼいという指摘に対して平野部は広いとか反論してるんだぜ?

122 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:25:36.42 .net
>>121
佐原は畿内の鉄の少なさを指摘され何の根拠も述べず
「畿内は鉄が溶ける地質だから残って無いのだ!」と叫んだほど
つまり精神論なんだよ畿内説

123 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:27:19.29 .net
(漢書)倭人は100余国に分かれて住んでいる

(後漢書)漢の時使訳通じたのが30国ほど、東に渡海すると女王に属さない

(魏志)魏の時代に使訳を通じたのは30国、東に渡海すると倭種の国がある

(晋書)266年の朝貢を最後に女王国からの朝貢が途絶えた

※ (記紀)崇神、四道将軍を派遣、畿内ヤマトの東西伸長開始
※ (記紀)景行、ヤマトタケルの東西侵攻、九州征伐
※ (記紀)仲哀、神功が半島に進出

(宋書)倭王武「先祖が西に66国、東に55国、海を渡り95国平定した」

(隋書)筑紫以東は倭に属す

(旧唐書)倭人「日本はもと小国、倭の地を併合した」

124 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:38:32.89 .net
畿内説は、天照大神が三輪山に降臨して、倭国をおつくりになり、
以来、畿内が日本国の中枢中心だったと思い込んでるからどうしょうも無いな。
今も、東京を首都とは認めていない。
あれは一時的で、まもなくお戻りになると思ってるらしい・・、

125 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:38:47.53 .net
日本というのは奈良県周辺だから3世紀は小国だったはず
邪馬台国ほどの先進地域ではなかった

126 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:53:36.33 .net
本当の右派なら、京都より、奈良大阪説だけどな
ただ邪馬台国を福岡とすると、奈良大阪が小国だった事を認めてしまう事になるのだろう
飽くまでも奈良大阪は上代より大国として輝いていたのだと

127 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:57:25.05 .net
まあ、本当の右派が東京を首都と認める事は無いよ
飽くまで東の京

128 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 11:58:36.58 .net
>>1キナイコシ
瀬戸内航路での水行は
大阪湾⇒河内湖⇒大和川⇒巻向のルートは理解できる。
陸行1月は難波からどういうルートなのか説明していただきたい

129 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:00:57.98 .net
記紀を見ても日本が華々しい大国だったという記載は無い
外交を始めたのも最後の方にちょこっとだしな
外交もしない国の文明が九州より発達しているはずもない
嘘なら当初から外交があり、日本全土を支配していたと書くはず

130 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:02:45.63 .net
>>1キナイコシ

3世紀 中国で桃は祭祀のお供え物は理解できたが、当時、日本も桃を備えると言う祭祀の風習があったと言う証拠を提示願いたい。

131 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:03:27.28 .net
>>128
生駒山なら、大きな山の記述はあるはず

132 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:14:11.62 .net
>>1キナイコシ

テンプレで到其北岸狗邪韓國 七千餘里
そして魏志韓伝の方可四千里

の解説ついて戦果は10倍にして報告うんぬんがあるが
当時、魏の国と韓の国とは戦闘状態であったことを証明してください。

133 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:16:23.52 .net
>>130
は?
お供物として出土した事実が動かぬ証拠だけど?

134 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:19:24.62 .net
つまり畿内説は>>!キナイコシに代表される頭の悪い低能者の妄言集でしたと

135 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:26:53.82 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

136 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:29:47.95 .net
>>131
>生駒山なら、大きな山の記述はあるはず

だし、生駒山越えは荷物もあるしわざわざ山越えを選ばなくても、河内湖、大和川があるもんね。

137 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:31:11.51 .net
>>124
流石にそんな話は聞いたことないな
誰の説?

138 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:35:06.87 .net
>>136
大和川は遡れない

139 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:36:29.90 .net
>>133
は?
 獣や魚の骨、イネ等と同じ穴から出土で
人が食べたと言う事実は理化できるけど。
祭祀用だと言う動かぬ証拠は無いんでしょ。

140 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:43:34.21 .net
>>133さん
日本も桃を備えると言う祭祀の風習があったと言う証拠になりませんね
岡山と巻向はぐらいじゃあないでしょうか桃が大量に見つかったのは。
巻向の近くの滋賀の伊勢遺跡が祭祀跡がありますが桃は聞いたことありません。
食用でしょうね。
いかんせん倭人伝には桃、カエルの類は記述されrてません。

141 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:44:08.37 .net
>>137
2チャンネル時代には、盛んに宣伝されてたなあ
ま、当時の有力メンバーは、天照さまに召されて、高天原へでもお帰りになったのかもしれぬが・・

142 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:45:41.48 .net
纏向の桃の種は大型建物とは別の遺構から発見された
つまり桃と建物は関係ない

143 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:47:49.13 .net
>>139
なんにも知らないの?
報告書とかも全く読まないの?

144 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:47:57.43 .net
>>133
>お供物として出土した事実が動かぬ証拠だけど?

イミフ
反対じゃないの
桃核が出土したので、
畿内説はお供え物では無いかと考えた。
しかし、日本で桃をお供えすると言う風習があったかは不明。
なぜなら、祭祀遺跡、古墳で桃核が数多く出土した例は少ない。

145 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:51:44.16 .net
>>132
>当時、魏の国と韓の国とは戦闘状態であったことを証明してください。

証明できない。戦闘状態にあったと言う記録は無い。
また、紀元前から国交があり10倍に報告してもすぐばれます。
スレ主の浅知恵でしょう。

146 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:52:20.37 .net
なんであれ、お供えして3度拝んだら、
魚もカエルも、人様の口へ入ったということさ。
祭祀用というのは、お上品を尊しとする畿内方面の学術用語なんだろな・・、

147 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 12:59:05.68 .net
>>138
>大和川は遡れない

>>5のテンプレに載ってるよ
>この地(巻向)は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、
初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。

148 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:05:19.40 .net
>>143
教委の報告書でしょ。
事実は桃核が見つかった。
あとは推測でしょ。
>>144に記載

また、御供えとした古墳造営基地 兼 墓地 だから、、、

149 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:10:35.04 .net
>>146
感覚で物言うのは良いが証拠が無い

150 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:12:42.29 .net
>>142
専門家の現地調査結果と逆のこと言ってるね

151 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:12:45.23 .net
なんであれ、お供えして3度拝んだら、
魚もカエルも、人様の口へ入ったということさ。
祭祀用というのは、お上品を尊しとする畿内方面の学術用語なんだろな・・、

152 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:13:52.68 .net
>>1キナイコシ

テンプレで到其北岸狗邪韓國 七千餘里
そして魏志韓伝の方可四千里

の解説ついて戦果は10倍にして報告うんぬんがあるが
当時、魏の国と韓の国とは戦闘状態であったことを証明してください。

153 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:14:16.29 .net
>>148
ほんとに事実を何も知らないでデタラメ言ってるの?
それとも意図的にニセ情報流してるの?

154 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:15:47.04 .net
>>1キナイコシ
瀬戸内航路での水行は
大阪湾⇒河内湖⇒大和川⇒巻向のルートは理解できる。
陸行1月は難波からどういうルートなのか説明していただきたい

155 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:16:04.45 .net
>>152
九州教信徒がテンプレ読まずにテンプレ批判しようとしてることが確定した

156 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:21:12.88 .net
>>150
専門家って例の作り話の専門家の事か?
100人中100人が「はぁ?」ってなる発言ばかりで誰も相手にしてないぞ

157 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:24:53.82 .net
>>154
公的機関の調査報告書を馬鹿にしても他人から馬鹿にされるだけだぞ

158 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:26:00.08 .net
公的機関w

159 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:28:28.84 .net
公的機関の発表

纏向土坑から出土した残飯について

このうち蛙類、齧歯類は出土状況などから供養された物ではなく、自然に混入したものと考えています。

つまり纒向遺跡とカエルは無関係

160 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:29:45.09 .net
>>153
あなたでしょ、推測を事実のようにニセ情報を流してるのは。
事実は桃核が見つかっただけでしょ。
祭祀用かどうかは不明が事実でしょ。

161 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:30:08.41 .net
公的機関の発表と馬具の史実

■ニュース:2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
と発表した。
 
■鐙のルーツ(馬具の歴史)
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290~300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。

162 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:31:35.92 .net
>>155=>>1

ほら 答えられない。

163 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:32:44.45 .net
他の公的機関の研究結果と全く整合しない発言を繰り返す畿内説の公的機関w

164 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:34:16.99 .net
都合の悪い調査結果は隠蔽する事で有名な畿内説の公的機関w


>93:日本@名無史さん:[sage]:2024/02/21(水) 08:39:10.27
>つまり畿内説は都合の悪い事実を発見してしまいましたよと
>
>箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
>https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/
>
>未だ結果報告無し

165 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:35:07.37 .net
>>155
あなたが適任だ
難波から、どういう陸路ルートで巻向に行ったのか説明してください。
テンプレに載ってません。河内湖、大和川の水行ルートは載ってますが。

166 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:38:58.81 .net
>>160
九州説さん、ニセ情報も大概に

167 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:39:05.01 .net
桜井市教委でしょ。
仕方ないかも町おこしもあるから。
いつものパターン可能性が高いとか、と思われるとか、と考えるとか
逃げ道を用意して公表

168 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:40:23.76 .net
>>162
>ほら 答えられない。

答える必要ないし
だって証拠ならテンプレに載ってるから

169 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:42:55.26 .net
つまり畿内説の証拠は5chテンプレですよと

170 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:43:33.47 .net
>>1キナイコシ
瀬戸内航路での水行は
大阪湾⇒河内湖⇒大和川⇒巻向のルートは理解できる。
陸行1月は難波からどういうルートなのか説明していただきたい

171 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 13:55:28.54 .net
>>168
>だって証拠ならテンプレに載ってるから

キナイコシの妄想の詰まったテンプレを「証拠」と言い張るキナイコシw

172 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:06:11.61 .net
>>168
テンプレに載ってないのでは?
>テンプレで到其北岸狗邪韓國 七千餘里
そして魏志韓伝の方可四千里
の解説ついて戦果は10倍にして報告うんぬんがあるが
当時、魏の国と韓の国とは戦闘状態であったことを証明してください。

他の人の投稿
>戦闘状態にあったと言う記録は無い。
また、紀元前から(中国と韓)国交があり10倍に報告してもすぐばれます。

173 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:07:48.63 .net
>>170
テンプレは「陸行した」なんて一言も書いてないけど
なんでルートの説明を求めるんだ?

「陸行した」と主張する人に聞くべきだろ

174 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:16:22.09 .net
>>172
テンプレの文そのままコピペ
”戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。”

つまりお前はテンプレ読んでない

175 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:23:09.08 .net
>戦闘状態にあったと言う記録は無い。

って言ってたやつは魏志も読んでないな
どこの九州バカかね?

176 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:23:11.44 .net
>>173

じゃあ遣隋使の説明は何なのよ

177 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:28:15.88 .net
つまり畿内説は想像以上に頭が悪い

178 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:35:39.24 .net
>>176
「陸行日程が妥当である」という結論の説明だな
「陸行した」なんて一言も書いてない

179 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:46:25.61 .net
>>125
邪馬台国が先進地域という
記述もない。願望でしょうか?

180 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:50:20.17 .net
>>178
>「陸行日程が妥当である」
どういうルートの陸行日程なんですか?
>「陸行した」なんて一言も書いてない
瀬戸内航路は詳細に書いてるのに魏の使いは陸行1月はしてないのかな?

君 言い訳を書いてて悲しくなっただろ。Ww

181 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:53:19.33 .net
>>173
そりゃあ 書いてもらわんと
水行のルートは書いといて陸行は知らんわじゃねーーー
テンプレが泣いてるぞ
> 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

182 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 14:54:45.22 .net
>>180
あなたの考え方が理解できない
「陸行日程が妥当である」っていうのは、そういう日程になるルートがあり得るってことでしょ
魏の使者が「陸行した」かどうかは関係ないと思うけど

183 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:01:10.92 .net
>>174

ノー天気な奴
>「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。”<

紀元前から国交があるでしょ。十倍も誇大に報告してもすぐばれるじゃん
それこそ 魏の使いは10倍に誇張して報告しようもないだよ。

184 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:05:08.54 .net
>>183
テンプレの文そのままコピペ
”戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。”

185 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:05:27.61 .net
>>182
>日程になるルートがあり得るってことでしょ

日本語でよろしく

日程があるからルートがあるということ?しかしルートはわからん?

とい言うことでいいなら、、、他説にも言及できないじゃん

186 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:08:10.26 .net
>>182
イミフ
アンタ本当に>>1なの
いくら馬鹿な>>1でもそんなこと言わんよ

187 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:09:21.91 .net
畿内説に質問、
伊都国から邪馬台国は1500里でいいよね?

188 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:09:55.33 .net
つまり畿内説は想像以上に頭が悪い
つまり畿内説は想像以上に頭が悪い
つまり畿内説は想像以上に頭が悪い

189 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:11:40.64 .net
ふるしょうさんが新作動画で邪馬台国と卑弥呼の謎解き明かしたからもうおまえらは用無しだよw

190 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:12:41.53 .net
>>189
古荘はいろんな説を紹介しているに過ぎない

191 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:13:57.86 .net
>>182
>とい言うことでいいなら、、、他説にも言及できないじゃん

なぜ出来ないの?
理由は無いの?

192 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:14:09.78 .net
キナイコシ爺さんの認知症が年々ひどくなっていく

193 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:15:58.32 .net
>>187
>畿内説に質問、
>伊都国から邪馬台国は1500里でいいよね?

医院で内科医

194 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:17:31.06 .net
>>190
定義を変えて、楽しんでいる。

195 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:18:38.82 .net
>>193
末盧国から伊都国は500里で伊井夜根

196 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:19:09.33 .net
>>192
自分がそう判断する理由の言えない人は多分認知症

197 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:20:15.85 .net
>>194
丹波に行ってから変節というか忖度しているように思う

198 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:20:48.38 .net
>>195
妥当性が検証できない

199 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:25:16.89 .net
>>198
じゃあ伊都国から邪馬台国は1500里に妥当性はあるのか?

200 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:27:45.66 .net
>>184
不思議ではないと思う理由は?根拠は?
あんたの脳内だけじゃない。
学者でそんなこと言ってる奴いるのかな?
教えてくれよ。
魏志倭人伝の到其北岸狗邪韓國 七千餘里は10倍に誇張されていて不も思議はないと言ってる学者。

201 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:30:47.11 .net
>>1さあ
あんたのテンプレはどうでもいいけど
畿内説の瀬戸内ルート派では以下説明ができませんでいいの??

>難波から、どういう陸路ルートで巻向に行ったのか説明してください。

202 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:32:21.07 .net
>>200
戦果を十倍にして公表する習慣があるなら
当然ながら不思議でない

203 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:34:25.12 .net
>>1=キナイコシ

コテつけられないほど恥ずかしい投稿が続く(笑)

204 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:35:35.04 .net
>>198
畿内説の末盧国の比定地はどこですか?

205 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:36:12.46 .net
>>201
本当に陸路ルートだったかどうかも証明できないだろ?
不可能でないことが分かればいいんだから無用な詮索をする必要もない
だって畿内説は行程記事だけで邪馬台国を探してるんじゃないから

206 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:36:45.57 .net
畿内説まだ滅びてないのか。

207 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:37:01.38 .net
畿内説は嘘のミルフィーユ。

208 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:37:28.85 .net
テスト

209 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:38:49.33 .net
阿波説は幻覚のミルフィーユ。

210 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:38:52.28 .net
>>204
>畿内説の末盧国の比定地はどこですか?

松浦川下流、中原遺跡を含む地域

211 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:39:07.43 .net
>>157
>公的機関の調査報告書を馬鹿にしても他人から馬鹿にされるだけだぞ

馬鹿にしてないよ 公的機関の調査報告書の憶測部分に反論してるだけでしょ。
公的機関も馬鹿じゃないから断定的なことは言わんでよ。疑義が生じても不思議じゃないでしょ。

212 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:39:37.95 .net
>>206
学界の主流

213 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:41:16.03 .net
>>211
>公的機関の調査報告書の憶測部分に反論してるだけでしょ。

憶測部分だと決めつける根拠は?
根拠がなければ反論じゃない

214 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:41:26.66 .net
>>1 寂しいのーー一人ぼっちで
恨むなら君の脳みそを恨みなさい

妄想の詰まったテンプレを「証拠」とコテもつけられず言い張るキナイコシw

215 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:41:50.84 .net
>>210
では伊都国はどこですか?

216 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:45:35.42 .net
>>202
魏の使いは嘘つけないよ。
すでに中国と韓は行き来が紀元前からあるのだから。
コテもつけられずホザクのはわかるけどさ。
それで学者名あげろよ。いないだろ、お前だけだろ。

217 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 15:51:08.51 .net
>>213
きみ報告書読んでるの
断定的に言ってないところ。

可能性がある。と考えられる。。。。など

まあいいから報告書読みなさいよ。
事実と憶測の部分がわかるからさ。

218 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:04:21.88 .net
>>217
「可能性がある。と考えられる。。。。など」

それを憶測と言って排除するなら
あらゆる考古学的判断を否定することになるよ
やっぱり九州説は学問じゃないんだね

219 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:04:32.29 .net
畿内説って伊都国を比定してないの?

220 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:08:06.03 .net
桃核が出土したので、
畿内説はお供え物では無いかと考えた。
しかし、日本で桃をお供えすると言う風習があったという証拠は無い。
なぜなら、祭祀遺跡、古墳で桃核が数多く出土した例は少ない。
滋賀の伊勢遺跡は祭祀跡はあるが桃は見つかっていない。

221 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:08:15.81 .net
>>216
>魏の使いは嘘つけないよ。

相手の言ってないことを否定しても反論にならんのだが
九州説信者はそんなことも分からないほど知能が低いのかな?

222 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:12:51.58 .net
>>219
伊都国は伊都国
上陸してしばらくすると方角が90度変わる

223 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:13:51.99 .net
>>220
吉備で見つかってんじゃん
纏向よりたくさんの桃の種

224 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:14:03.00 .net
つまり畿内説は学問のガの字も知らない低能でしたと

225 :結論これでいいかな:2024/02/21(水) 16:14:10.28 .net
(畿内説の)
瀬戸内海ルート説では
北部九州⇒瀬戸内⇒大阪湾⇒河内湖⇒大和川⇒巻向の水路ルートであると説明できるが。
陸行1月については難波から巻向までの陸路ルートは説明できない。

226 ::2024/02/21(水) 16:15:57.11 .net
そもそも魏志倭人伝に桃の話など一つもないしね。
また、桃の種が出てくる遺跡なんて、吉備にいくらでもある。上位十ヶ所が吉備にあるんじゃなかったかな。

227 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:19:25.85 .net
>>220
>桃核が出土したので、
>畿内説はお供え物では無いかと考えた。

のじゃなくて祭祀遺構で桃核の出土する類例(纒向辻土壙4、磯野北遺跡、六大A遺跡)や木製祭祀用具、祭祀用土器などの一括廃棄、果肉の付着や未成熟果実の存在などから祭祀行為に伴なう遺物と判断されたもの
憶測呼ばわりする合理的な理由がない

228 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:20:18.39 .net
>>218
まず憶測部分が報告書にあることはわかりましたよね。

憶測だから議論があるのですよ。
事実については議論しようがないでしょ。

229 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:21:28.52 .net
>>222
現在の住所で言ってくれる

230 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:21:44.94 .net
>>225
>陸行1月については難波から巻向までの陸路ルートは説明できない。

説明されてるけど?

231 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:22:41.30 .net
>>228
>まず憶測部分が報告書にあることはわかりましたよね。

憶測呼ばわりする理由は?

232 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:25:20.87 .net
>>219
>畿内説って伊都国を比定してないの?

そんな憶測する理由は?
w


当然ながら比定している

233 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:26:40.34 .net
>>222
確認だが畿内説の寺澤は糸島平野を伊都国に比定しているがそれでいいのだな?

234 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:26:50.37 .net
>>226
>上位十ヶ所が吉備にあるんじゃなかったかな。

なんの上位?

235 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:27:22.37 .net
>>221
中国と韓の紀元前からの行き来があったことは理解したようですね。
それがわかれば問題無いでしょう。あとはあなたに論理的な思考が備われば理解できるようになるでしょう。
考えることは良いことです。
また、あなたのようにムキに投稿するのも成長の余地があると言う事です。イキッテいいですよ。しかし考えてね。

236 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:27:41.40 .net
>>232
伊都国は糸島平野でいいのだな?

237 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:30:08.10 .net
>>233
>確認だが畿内説の寺澤は糸島平野を伊都国に比定しているがそれでいいのだな?

畿内説であるか否かは問わず、ほとんどの学者はそうだね

238 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:31:17.02 .net
>>235
あなたみたいに何も考えないのは悪いことだよ

239 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:35:25.50 .net
>>210
では松浦川河口から糸島平野中心部(伊都国)の距離は25キロ程になりますがそれで合ってますか?https://i.imgur.com/K9xhgfp.jpeg

240 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:37:43.49 .net
>>223
少しはしょったかな
過去レスでは其れも含め投稿してるよ。過去レス読めばわるよ。
失礼しました。
いずれにせよ、中国同様に桃で祭祀を行ったという確たる証拠はありません。
事実としては、纏向で動物の骨、魚の骨、稲などと同じ穴から桃核が多く出土したということ。
あとは推測の域をでないでしょうね。
私は纏向は墓地だからお供えでもいいでしょうと思うが証拠はない。

241 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:40:48.67 .net
>>239
合っていない
直線距離ではあり得ない

242 ::2024/02/21(水) 16:43:37.13 .net
末盧国から伊都国は本来は水行500里なのかもね。
末盧国の官の記載がないことや、また歩いて行くと前の人が見えない等の記述はアクシデント的なものを感じるね。
方角も東南だから、対馬から松浦半島を目指して南下して、その後南東に変じて500里だったんだろう

243 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:44:37.90 .net
>>205
>本当に陸路ルートだったかどうかも証明できないだろ?
不可能でないことが分かればいいんだから無用な詮索をする必要もない


しょうがないでしょ。魏志倭人伝に記述されてるのですから。
畿内説はイカン。都合が悪いと倭人伝の誤りにしちゃう。

>基本<
倭人伝なかりせば、邪馬台国も卑弥呼も存在しない
瀬尾内航路の水行は認めるが陸路は(陸行)疑わしは????

244 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:46:39.83 .net
>>241
仮に大きく蛇行したとしても40キロだと思いますがどうですか?https://i.imgur.com/qEan5eR.jpeghttps://i.imgur.com/ClaIhP2.jpeg

245 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:47:53.60 .net
https://www.med.nagoya-u.ac.jp/medical_J/laboratory/basic-med/social-science/legal-med/

https://i.imgur.com/dQbO9m4.png

246 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:49:00.26 .net
ふるしょうさんの新作動画見れば全てわかるよ。邪馬台国の謎解いてるから。

247 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:49:48.14 .net
つまり畿内説はもはや何を言っても無駄ですよと

248 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:50:55.80 .net
>>246
丸投げ?

249 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:51:08.83 .net
>>246
古荘さんのはいろんな説を紹介しているだけ

250 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:51:15.58 .net
>>244
>仮に大きく蛇行したとしても40キロだと思いますがどうですか?

いい線だ

251 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:51:37.57 .net
>>230
どのように説明されてますか。

難波→?→?→・・纏向


の陸路の?を埋めていただけますか。
できればそのルートの根拠もよろしくお願いします。

河内湖、大和川利用が良いと思いますが水行ですもんね。

252 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:51:38.04 .net
>>230
どのように説明されてますか。

難波→?→?→・・纏向


の陸路の?を埋めていただけますか。
できればそのルートの根拠もよろしくお願いします。

河内湖、大和川利用が良いと思いますが水行ですもんね。

253 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:52:18.07 .net
「2億8000万年前の爬虫類の化石」、実は作り物だった
https://news.yahoo.co.jp/articles/93a9629e64ac29cca969f81c4fb7dd89a4bc6638
https://i.gzn.jp/img/2024/02/19/fossil-forged-soft-tissues-tridentinosaurus-antiquus/00.jpg

254 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:53:09.68 .net
>>243
>しょうがないでしょ。魏志倭人伝に記述されてるのですから。

それがどこかに間違いを含んでる事は確定してるんだから、裏の取れる範囲でしか語れないよ

255 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:54:18.80 .net
>>213
あなた頭がループしてますよ
憶測部分は説明したでしょ。調査報告の「と考える」「の可能性がある」等々。

256 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:54:59.33 .net
ふるしょうさんの新作動画だと卑弥呼が奈良から伊都国まで中国からの使節を出迎えに行った。その時の旅程記事が例の水行十日陸行一月。
これが正解だろう。ふるしょうさんにおまえら全員負けたんだよ頭脳戦でw

257 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:55:33.00 .net
>>247
畿内説、九州説、その地の説も無駄と思います。

258 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:56:06.18 .net
>>251
>どのように説明されてますか。

「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である」と

259 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:58:11.43 .net
古荘さんの説は小説的ファンタジーだよ
本人がそう言ってる

260 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:58:13.37 .net
>>256
丸投げ?

261 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 16:58:46.38 .net
>>255
>あなた頭がループしてますよ
>憶測部分は説明したでしょ。調査報告の「と考える」「の可能性がある」等々。

いや、あなた知能ないでしょ
それを憶測だという理由を聞かれてるのに答えられないんだから
それとも「憶測」という日本語の意味を知らない?

262 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:05:37.33 .net
畿内説の諸君は
水行も陸行も無かったことにしたらいかがか。
魏の使いは、行程はわからないが畿内に来たで通したらいかがか。
そして、倭人伝記述にない桃、カエル、仮面、土器、水路、大きな建物、前方後円墳、ゴキブリで賑わっているところが卑弥呼がいたところとしたらいかが。かWww

263 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:13:01.31 .net
>>262
そういう所にいたかもしれんね。
九州にはゴキブリも桃もかえるもなく
前方後円墳もまったくないのだろうか?
まあ、ト骨、絹は出土する。鉄鏃、骨鏃と
n

264 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:17:59.53 .net
>>263
丹もあるよな。候補地は多いよ。
畿内、九州以外にも説があるし
九州説内でもそれぞれ違う。

265 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:20:03.53 .net
>>258
それルートは?
類例は300年以上もあとの話ですから地形も変わっているでしょうし。
また磯歯津路の整備は5世紀だと思いますが、、、

266 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:24:48.76 .net
>>256
確かに中国人が瀬戸内海で奈良まで行くには
倭人の出迎えが必要だな。

しかし、
247年の張政は伊都迄しか来ていない。
合計10500里。

240年の梯儁は、
九州上陸まで10000里=水行30日の後
陸路で女王の処都に金印を届けた。

九州まで迎えに来てもらったのは誰?
600年の裴世清か?
瀬戸内海沿岸の中国人街で法隆寺の完成待ってたとかw

267 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:26:17.40 .net
>>263
降参かい
九州にもあるかもしれんが、畿内説みたいに邪馬台国論争にカエル、桃なんかで大騒ぎしない。

268 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:34:10.84 .net
畿内説さん、
末盧国から伊都国が500里
伊都国から邪馬台国までが1500里
という事で良いですね。

269 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:34:15.79 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

270 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:44:28.78 .net
>>240
>いずれにせよ、中国同様に桃で祭祀を行ったという確たる証拠はありません。

証拠は?

271 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:44:29.97 .net
>>240
>いずれにせよ、中国同様に桃で祭祀を行ったという確たる証拠はありません。

証拠は?

272 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:55:08.98 .net
末盧国
↓ 500里
伊都国

|1500里

邪馬台国

これでいいよね?

273 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 17:58:39.12 .net
>>272
問題ないね

274 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:05:47.11 .net
末盧国から伊都国の距離の3倍の距離で邪馬台国です。畿内説はアウトです

末盧国
↓ 500里 約40キロ
伊都国

|1500里 約120キロ

邪馬台国 

275 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:07:32.42 .net
そうだね
伊都国から女王国まで1500里
使者は陸上を移動する場合、一日で50里進むので、よって「陸行一月」と言う文言が書かれた。

276 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:14:51.62 .net
>>274
問題ないね
500里が正しいって根拠ないから

277 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:21:12.45 .net
もし1里が400メートルなら伊都国から200キロ離れた所に末盧国があることになるのでね

278 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:24:17.54 .net
>>268
九州上陸の末盧国から伊都国が東南500里
だが? 
伊都国からは、
東南 至奴國 百里、東行 至不彌國 百里
しかない。

帯方郡から女王宮迄の行程は12000里だが? 
皇帝の書と金印を預かった梯儁は伊都は通って無いと思うよ。

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯

金印の配達は盗賊とかと戦争を始める用意はあるはずで
女王との国交上での 伊都の検閲は受け入れたら皇帝の使ではない。

279 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:29:14.75 .net
>>278
検閲はしなくとも魏使なのかは確認するでしょうね。確認できればその後の行程の身の安全も保証出来る

280 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:30:58.54 .net
>>265

出ましたね「磯歯津路」
私もいずれ出そうと思ってましたが
まず>>1に答えさせてからギャフンと思ってたのですが・
ノラリクラリと逃げまくっていましたね。
遣隋使を出したは良いが、答えられないというのが>>1の本音でしょう。
いずれにせよ、陸行1月は各説苦労はするでしょうね。
1月は間違いのような気がします。

281 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:34:50.65 .net
>>270
証拠を示せないから、証拠はありません。

あんたが、示せるなら示したら。

282 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:38:18.79 .net
>>267
大騒ぎした証拠は?

283 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:38:49.61 .net
>>279
240年の瀬戸内海でか?
金印とお宝持った魏船は
乗り換え無しで大阪湾行けるかw

そんな話は、陳寿が絶対記録する。
魏軍は、船を博多で捨てない。

284 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:41:25.09 .net
>>283
畿内に行ったとは思わないけど

285 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:44:35.10 .net
>>283
博多とは限らないかもしれんね

286 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:45:59.63 .net
>>281
>証拠を示せないから、証拠はありません。

証拠を示せないって証拠もありません

287 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:48:59.94 .net
>>280
>まず>>1に答えさせてからギャフンと思ってたのですが・
>ノラリクラリと逃げまくっていましたね。

今日>>1がいたって証拠は?

>遣隋使を出したは良いが、答えられないというのが>>1の本音でしょう。

そういうのが憶測っていうのだよ
しかも外れてる
だって>>1は魏使が陸路を行ったって言ってないもの

288 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:49:55.39 .net
金印やお宝を運ぶ船団としては
最低3隻。1隻の50人が3艘の船を守る。
2隻が兵站調達や現地人と戦闘だろ?
未知の国に金印を届けるというのは軍事だよ。
三国志は戦史なんだが?

289 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:54:28.00 .net
ハッキリ言って、
瀬戸内海に入れる船団なんて
無差別市街空爆無きゃ、
日清日露戦争でも有り得無いんだけど?

魏船が瀬戸内海侵入は無理杉。

290 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 18:57:37.38 .net
>>289
裴世清は空爆した?

291 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:00:29.96 .net
>>268
畿内説さん
>伊都国から邪馬台国までが1500里
という事で良いですね。

良いですよ。纏向までの妥当な距離です

これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね648kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)まで
フェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、
寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
(FAQ58参照)

292 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:01:42.16 .net
ふるしょうさんの卑弥呼天下り説で全て解決だと言ってるだろ。動画見ればわかるわw

293 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:02:23.96 .net
>>287=>>1

294 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:03:49.80 .net
九州説は憶測しかできない

295 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:17:35.78 .net
>>291
その計算だと末盧国から伊都国の500里は216キロになるので畿内説は破綻しますね

296 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:22:39.88 .net
>>295
根拠は

297 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:23:37.21 .net
最終結論
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/59d950f0c094be758ba0b4a49886604e_400e73f9972271baffd4110a6f5ec381.jpg

女山(ぞやま)の眼下に広がるみやま市はかつて山門(やまと)郡とよばれていました...
史書によれば この地は二度も 大和朝廷の征伐に遭っています

最初は景行天皇(12代)の九州巡幸のとき
南筑明覧という江戸時代の地誌に 「この地の女酋 葛築目(玖津女:くずちめ)が勅命に従わないため景行天皇に征せられた」 という古老の話が載っています

二度目は神功皇后(14代仲哀天皇妃)の熊襲征伐のとき
日本書紀に...
「山門郡(やまと:今のみやま市と柳川市)の土蜘蛛 田油津媛(たぶらつひめ)が仲哀9年3月に神功皇后によって誅せられた」
「田油津媛には夏羽という兄がいたが 夏羽率いる軍は妹の死を聞いて逃亡した」
という記載があります

https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/17362650ec28201dd7a0b6400ba1fa8c_8bc3abf07e3ea83218a5d89cfd2af88f.jpg

298 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:27:37.95 .net
>>290
聖徳太子が招待して
法隆寺や斑鳩宮の完成を
瀬戸内海の中国人街で待たせて見せた。

299 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:29:53.47 .net
>>296
あなたの言う1里432メートルで計算しました。432x500=216キロ

300 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:32:01.26 .net
>>295
>その計算だと末盧国から伊都国の500里は216キロになるので畿内説は破綻しますね

500里が架空の数字であるから当然破綻などしない
だって短里なんて無いもの

301 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:35:31.59 .net
なるほど、都合の悪いことは架空だとするのが畿内説だそうだ

302 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:36:11.19 .net
>>300
末盧国も架空ですか?

303 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:37:11.91 .net
畿内説はアホですね

304 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:37:59.15 .net
>>301
>なるほど、都合の悪いことは架空だとするのが畿内説だそうだ

いや、現実的でも合理的でもないことを架空だとするよ

305 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:38:37.84 .net
>>302
>末盧国も架空ですか?

なぜ?
理由は?

306 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:39:51.78 .net
>>305
末盧国はどこですか?

307 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:40:25.42 .net
畿内説が架空だわ

308 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:44:36.57 .net
対  馬(対 馬)---長崎県対馬市
一  大(壱 岐)---長崎県壱岐市
末  魯(松 浦)---佐賀県東松浦郡
伊  都(怡 土)---福岡県糸島市
  奴  ( 儺 )---福岡県福岡市
不  弥(宇 美)---福岡県宇美町
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏
---------------------(2ヶ月かけて以下の各国訪問)---------------------
斯  馬(志 摩)---福岡県糸島市
己 百 支(柴 刈)---福岡県久留米市
伊  邪(伊万里)---佐賀県伊万里市
都  支(筑 紫)---福岡県筑紫野市
彌  奴(耳 納)---福岡県久留米市
好 古 都(多 久)---佐賀県多久市
不  呼(浮 羽)---福岡県うきは市
姐  奴(竹 野)---福岡県久留米市
對  蘇(鳥 栖)---佐賀県鳥栖市
蘇  奴(佐 嘉)---佐賀県佐賀市
呼  邑(糟 屋)---福岡県粕屋町
華奴蘇奴(神 埼)---佐賀県神埼市---吉野ヶ里遺跡
  鬼  (杵 島)---佐賀県白石町
爲  吾(我 鹿)---福岡県赤村
鬼  奴(嬉 野)---佐賀県嬉野市
邪  馬(八 女)---福岡県八女市
躬  臣(御 笠)---福岡県太宰府市
巴  利(把 伎)---福岡県朝倉市
支  惟(基 肄)---佐賀県基山町
烏  奴(大 野)---福岡県大野城市
  奴  ( 儺 )---福岡県福岡市
邪 馬 壹(山 門)---福岡県みやま市---女王山・女山(ぞやま)
狗  奴( 熊 )---熊本県
侏  儒(少 童)---高知県

309 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:44:41.33 .net
畿内説は詭弁でしか返答出来ないようだ

310 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:46:39.90 .net
卑弥呼は伊勢神宮と宇佐神宮

311 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:46:53.02 .net
博多から奈良までの大航海をしておいて、末盧国みたいなマイナーな国を細かく記載して、奈良までの各国は記載しないのはおかしいからな

312 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:46:57.88 .net
>>309
詭弁よばわりする理由は?

313 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:48:03.12 .net
架空w

314 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:48:09.03 .net
>>310
卑弥はヒメだから、ヒメは全国に存在した
北海道にもいたし、関東にも四国にもいただろう

315 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:48:56.91 .net
ふるしょうさんが陸行一月の謎も解明してるよ。卑弥呼が老齢だったから伊都国に行くのにそれだけ日数がかかったんだよ。
おまえらがない頭で考えるよりふるしょうさんの動画見たほうが早いよw

316 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:49:03.80 .net
>>312
今度は論点ずらしですか?

317 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:50:14.68 .net
>>315
見たけどいつもの古荘ファンタジー全開だったと言う印象だな

318 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:52:12.32 .net
畿内説の邪馬台国は架空です。
だって邪馬台国を書いている倭人伝の記載を架空だと主張しているのだから。

319 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:56:42.22 .net
>>316
>今度は論点ずらしですか?

何をどう「ずらし」てると?
あなたは証拠を聞かれては逃げ続けてるよね

320 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 19:59:00.97 .net
>>318
史料に誤謬や架空ばなしが紛れ込むのは普通のことだ
そういう不純物を濾して捨てるのが学問でしょ

321 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:01:18.38 .net
>>309
そうやって
理由も言わずに罵るという九州説の得意技では
第三者の目には論破された人にしか映らないんだけど
いつまで経っても自覚がないねえ

322 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:01:18.52 .net
おまえらが毎日言ってる南を東と解釈する云々もふるしょうさんがその謎を動画で解説してるよ。
太陽の方向のことだよ。おまえらがない頭で考えるより素直にふるしょうさんの動画見たほうが早いってw

323 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:02:01.87 .net
>>319
論点は末盧国から伊都国の500里ですが、それを架空とするのは間違いです

324 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:03:29.79 .net
>>322
古さんはハニー🐅で変節したのだろう

325 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:04:37.08 .net
>>320
つまり畿内説は史料無視で成り立っているって事だね

326 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:05:50.79 .net
倭人伝が架空なら邪馬台国も架空でいいな

327 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:06:09.01 .net
卑弥呼は倭国の女王
卑弥呼を考えるなら、まず倭国を考えなければならない
魏志倭人伝では倭人の住んでいる地域のうち狗奴国・南西諸島の倭地、九州から千里の四国に住んでいる倭種以外の倭人は倭国に住んでいるとされている
倭国の範囲は考古学的知見で日本人が住んでいたとされる地域から倭地と倭種を除いた領域が倭国となる
それは北部九州から東北南部に及ぶ地域で、倭国の建国の時からほとんどその領域に変化がない

328 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:09:41.24 .net
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね

329 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:10:24.34 .net
驚きの畿内説の主張
倭人伝の末盧国から伊都国の500里は架空
不弥国から南に水行は間違い

もう何でもありだなw

330 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:10:38.03 .net
ふるしょうさんの新作動画見ればわかるが、女王国ってのは纏向の卑弥呼が送り込んだ軍団のことだよ。
それをおまえらが邪馬台国と勘違いしてるだけw

331 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:13:11.89 .net
径百歩も架空ですね

332 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:13:20.33 .net
>>323
>論点は末盧国から伊都国の500里ですが、それを架空とするのは間違いです

理由ひとことも言わないの?



さすが九州説


w

333 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:13:21.82 .net
FAQ58 は阿保

334 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:14:12.48 .net
>>331
>径百歩も架空ですね

理由は?

さすが九州説

335 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:16:02.28 .net
畿内説が架空です

336 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:16:56.39 .net
>>333
結局いつも議論から逃げ出して罵るだけになる
九州説の常敗パターン

337 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:17:18.83 .net
倭人伝の記載を架空とするなら邪馬台国も架空でいいだろ

338 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:18:22.33 .net
都合の悪い事は全て架空で済ますのが畿内説。

339 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:19:47.22 .net
>>328
卑弥呼と邪馬台国と分離説もありますな
新井白石、本居宣長、白鳥庫吉、内藤湖南、
明治〜昭和の爺連中等の天道説から地動説かな?

340 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:20:53.34 .net
>>332
倭人伝の里数は432メートルでは無い、そうであるなら郡は4320キロの彼方にある事になる

341 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:23:38.39 .net
畿内説が使う1里432メートルは伊都国から邪馬台国限定の尺度です。

342 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:24:50.11 .net
>>340
短里教?

343 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:24:58.87 .net
方角も邪馬台国限定でオリジナルだねw

344 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:27:51.85 .net
韓方4000里。を1里432メートルで計算すると韓は1728キロ四方になってしまうので、1里432メートルは間違いだと言う事がわかる

345 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:29:57.87 .net
>>342
実際の距離から計算する派

346 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:31:23.43 .net
>>344
なんで方4000里が間違いでないと信じて疑わないの?
信仰?

347 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:33:17.28 .net
>>345
>実際の距離から計算する派

幾つの例を計算した?

348 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:33:17.35 .net
>>346
畿内説が間違いだとは思っているよ

349 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:38:09.33 .net
>>347
倭人伝に出ている行程
7000里
1000里
400里四方
1000里
1000里
300里四方
500里
これらを測ると1里が432メートルになる場所は一つも無い

350 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:39:42.13 .net
>>346
郡から狗邪韓国が7000里だから、方4000里は妥当。

351 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:44:52.98 .net
>>350
どうして?
理由は?

352 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:45:35.65 .net
完全なデタラメでもないんだよな
短里の存在を匂わせる程度には比率があってる

353 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 20:49:53.94 .net
>>351
南に4000里行き、狗邪韓国まで東に3000里で問題なし

354 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:05:56.42 .net
>>343
それだ!
倭人伝に使用されている方位は90度ずれている「斜方位」が使用されていた。

355 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:09:31.15 .net
1日が24時間ではなく1日=2時間とする「短日」が使われていたとすれば、
九州説と見事に整合する。
これは大発見だ!!!

356 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:12:37.16 .net
もう答え出てますよw

ツヌガアラヒトはイツツヒコの穴戸と間違えたけど?w

261 ウィズコロナの名無しさん 2023/12/27(水) 15:53:01.39 ID:LIrmduOl0
当時は「大地が方」「天は球体(半球)」な地球平面説

方位と距離だけで測量したら、地形が歪むのは当然!

706 日本@名無史さん 2023/11/22(水) 20:30:16.05
天子のいる洛陽を中心に
距離と方位を正確にすると
こういう地図が出来上がりますw

>其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近故其法俗多同
後漢書でも地図的に合ってますw

727 ニューノーマルの名無しさん
2021/07/15(木) 11:06:18.17 ID:UT3ee60x0
前も書いたけど
正距方位図法なら、距離も方位も説明できるんだよねw

地図の中心から離れるほど地形が歪む

そして南米大陸のように、東にある日本も間延びして大きくなる

半島が方4千里と書かれてたのがヒントになってたよ

中華思想によって、天子のいる洛陽が世界の中心
これで魏志倭人伝の距離も方位も正しいとw
https://i.imgur.com/LM4HMdk.jpg

357 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:22:33.97 .net
>>352
>短里の存在を匂わせる程度には比率があってる

という証拠をまったく出さない九州説

358 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:22:55.78 .net
畿内説は架空詐欺。

359 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:24:39.84 .net
倭人伝で1里が432メートルになる場所が一つもないのはなぜだい?

360 :琪瑛教大祭酒:2024/02/21(水) 21:26:53.16 .net
以前何度も説明済みの話だな
天円地方、中華は地は方なのだよ。
韓方四千、口。←これが韓国。
西(左辺)一辺四千、
下辺三千ぶんの位置に狗邪韓国。
もう、畿内なの。

361 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:34:47.99 .net
>>349
>倭人伝に出ている行程

そこに短里の根拠ないんだよね

362 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:37:16.24 .net
>>361
1里432メートルとなる証拠が一つも無い

363 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:39:24.31 .net
>>359
>倭人伝で1里が432メートルになる場所が一つもないのはなぜだい?

一つもないって証拠は?

364 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:40:06.89 .net
>>360
方4000里ならその半分の2000里の距離が九州上陸後の移動距離になるので畿内には届かない

365 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:40:26.87 .net
自分でひとつ根拠出せよシーライオン

366 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:40:39.67 .net
>>362
>1里432メートルとなる証拠が一つも無い

中国史料に山ほどあるけど?

367 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:41:02.54 .net
>>363
あるの?あるなら教えろ。

368 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:42:04.54 .net
>>366
倭人伝の話してるのにいきなりどした?

369 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:42:13.04 .net
>>366
魏志倭人伝でだ。

370 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:48:25.01 .net
>>357
証拠いる?
遠いところは里数が大きく、近いところは小さい

371 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 21:55:36.55 .net
畿内説「倭人伝の行程里数は伊都国から邪馬台国だけが正しくて他は全て架空です」こう言う事?

372 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:00:36.79 .net
>>371
奴国までの5カ国と邪馬台国以外は現実にどこにも一致する地名がないのだから
架空で間違いないな

373 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:03:45.24 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

374 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:05:23.66 .net
>>371
中国で使われていた正しい1里の長さと違うのは事実
現実的な比定地から逆算すると1里の長さが一定しないので短里は無い
つまり政治的理由でめっちゃ適当に拡大されてる可能性が高いだろう

375 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:17:01.71 .net
宇佐に山戸という地名があったので宇佐が邪馬台国かもしれんね

376 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:24:05.02 .net
末盧国から伊都国の距離の3倍の距離の場所は畿内では無いな

377 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:24:11.83 .net
FAQ58で混在してるが短里を認めてるも同然

@1万里で郡から北部九州
A残2千里で博多から桜井 (1万2000里ー1万里)

@は短里 Aは長里 で計算

>>1のアホ

378 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:25:11.78 .net
>>376
つまり女王国=本州ですね

379 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:26:55.62 .net
>>378
不弥国で南にターンするので本州には着きません

380 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:27:53.46 .net
ふるしょうさんの言う通り邪馬台国は奈良だよ。もうふるしょうさんが解決しちゃったよw

381 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:28:33.35 .net
倭人伝には漢書地理志にそっくりな記述があってこの部分はおそらく陳寿の造作記事だろう。

<<漢書地理志>>

武帝元封元年略為?耳珠厓郡 
民皆服布如單被 穿中央 為貫頭 
男子耕農種禾稻紵麻 女子桑蠶織績 
亡馬與虎 民有五畜 山多麈? 
兵則矛盾刀木弓弩竹矢或骨鏃


<魏志倭人伝>
作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之
種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵?緜 
其地無牛馬虎豹羊鵲
兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 
所有無與?耳朱崖同

382 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:35:24.26 .net
>>381
逆に木弓が「木弓短下長上」だなんて日本独特の描写がある
造作とは言い切れない

383 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:38:28.05 .net
畿内説は架空です

384 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:44:59.05 .net
500里を架空にしないと畿内説は詰んじゃうw

385 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:46:09.39 .net
「魏略」や「魏書」にあった記事を丸写しにして、
陳寿が編纂した時点での情報をずさんにアップデートしたもので、
投馬国、邪馬台国はそのときに追記されたものだろう。
投馬国=出雲
邪馬台国=大和
あやふやな知識で新情報を書き込んだので方角も間違っているし、全体の里数も直してない
不整合な記事になったというわけ。

386 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:48:28.54 .net
>>385
人口が足らないのでボツですね

387 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:51:58.61 .net
つまり畿内説は地球の別種の話をしていましたと

388 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:52:03.91 .net
不弥国から南へ水行20日は九州があるので出来ない
水行20日は帯方郡からの日数で、12000里の説明が終了したので
同じ行程を日数で書いた別資料を参考に追加挿入したもの

389 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:52:14.28 .net
倭人伝の1里が432メートルだと言うことを証明出来ない畿内説は詰みました。

390 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:56:03.03 .net
>>388
遠賀川や周防灘で水行可能

391 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 22:57:00.38 .net
里は人間が人為的に決めた単位だからな
決めた人が違えば1里の長さは違う
1日は誰にとっても1日で変わらない
倭人も日は知ってるが中国人が作った里は知らない。

392 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:07:01.34 .net
壱岐が方300里です。算数ができる人は1里が何メートルか計算出来ます。https://i.imgur.com/tlxVpfd.jpeg

393 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:08:59.91 .net
年がら年中なんか何度も聞いたような話繰り返してるだけだなおまえらwアホらしい

394 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:15:19.54 .net
>>391
つまり倭人伝中、唯一信用できる記事が
投馬国水行20日、邪馬台国水行10日陸行一月
というわけだ。

395 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:25:06.72 .net
伊都国と奴国の距離は100里、計測したら短里がウソだとバレてしまった。

396 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:41:18.71 .net
>女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない。

奈良まで大航海をしておいて、奈良の西・南・東は「遠く絶たっていて」なのかな?

397 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:43:13.39 .net
>>395
その1里432メートル計算だと伊都国から100里は奴国を通り越して宗像まで行くので畿内説はボツhttps://i.imgur.com/kDxOE9w.jpeg

398 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:46:34.11 .net
平原遺跡~須玖岡本遺跡 25キロ
平原遺跡~比恵・那珂遺跡 30キロ
井原鑓溝遺跡~比恵・那珂遺跡 30キロ

どこをどう測っても1里=250m~300mくらいになってしまうな

399 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:54:22.85 .net
こんな国の形なら倭人伝の里で問題ないなhttps://i.imgur.com/4qq3FXR.jpeg

400 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:54:58.42 .net
>>396
出雲と奈良が遠く隔たっているのだよ。
だから戸数は「可5万戸、可7万戸」
道里は記載なく日程のみ

401 :日本@名無史さん:2024/02/21(水) 23:58:39.03 .net
>>400
出雲も奈良も南に水行していないのでボツ

402 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 00:13:12.06 .net
山鹿市の西部、程遠くないところに狗奴国の国王の高官鞠智彦(くくちひこ:きくちひこ)から取ったと思われる鞠智(くくち)城という古代の山城跡もある。

403 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 00:24:35.08 .net
郡から狗邪韓国まで7000里。船旅で1日350里進んで20日。
半島南端から伊都国の港まで3500里。船旅で1日350里進んで10日(末盧国から伊都国も正規ルートは水行)。
伊都国から女王国までの1500里。1日50里歩いて一月。
日程記事は、郡から女王国までの万二千里は二ヶ月かかりますよという注釈的な記事。
もちろん万二千里自体が政治的な誇大な数字なので日程記事も意味がない。
ただ、狗邪韓国と投馬国、女王国と邪馬台国の関係は問題になる。

404 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 00:47:08.27 .net
>>403
要するに投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね

405 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 00:52:07.59 .net
>>404
不彌国と奴国でそれぞれで万二千餘里

406 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 01:14:13.29 .net
>>402
狗古智卑狗の名前が地名からついたのではなく、地名が狗古智卑狗の名前からつけられたという発想はなかなかいいね
九州説に蔓延る熊本=狗奴国という固定観念に一石を投じるレスだ

407 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 01:25:43.11 .net
伊都国と奴国の間に女王国の国境線があった。伊都国以南は魏と同じ長里でいい。
公孫氏の影響下にあった五カ国で短里が使われていただけ。

狗邪韓国

対馬国

一支国

末盧国

 伊都国    ↑短里使用エリア
ーーーーーーーーー
   奴国   不弥国 ↓長里エリア
(女王の境界)   
    



         投馬国


         邪馬台国


邪馬台国は伊都国から1500里=650キロメートル

408 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 01:34:15.29 .net
>>407
夷人(倭人)は里数を知らない。

409 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 01:36:34.27 .net
>>408
じゃあ伊都国までは、公孫氏時代の記録を参照した。でもいいや。

410 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 01:49:12.01 .net
>>409
魏使は末盧国から伊都国まで歩いて500里だとわかっているので、畿内までだと1万2千里で収まらない事に気がつくよ。

411 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 02:18:28.34 .net
>>407
不弥国からは南に水行してくださいね

412 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 02:58:11.05 .net
>>389
>倭人伝の1里が432メートルだと言うことを証明出来ない畿内説は詰みました。

なんど言ったらわかるんだFAQ58で証明しいぇるだろ(怒)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

413 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 03:12:06.87 .net
*畿内説の1里432メートルは架空の数字

末盧国から伊都国の500里は架空と言い張る畿内説ですが、倭人伝の1里が432メートルだと言うことを証明出来ていません。

郡から狗邪韓国 7000里
狗邪韓国から対馬 1000里
対馬 方400里
対馬から壱岐 1000里
壱岐 方300里
壱岐から末盧国 1000里
末盧国から伊都国 500里

いずれの行程でも1里が432メートルにはなりません。
畿内説の言う1里432メートルが架空の数字なのです。

https://i.imgur.com/wpROL4g.jpeg

414 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 03:54:30.09 .net
>>381
それが、陳寿の言う
所有無與?耳朱崖同
の意味だけど?
倭と似てるだろ?

415 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 03:57:12.47 .net
川越哲志氏 弥生時代鉄器総覧 2000年
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/9dc01bbee8907512def5f992cba9a6ac_d661c85ead329c491845e7310f0473fd.jpg

416 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 04:44:09.41 .net
古くて使えない資料にしがみつくオワコン九州説

417 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 05:50:08.72 .net
>>407
最近、邪馬台国論争にハマった超超素人の九州説?

418 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 06:54:41.98 .net
>>415
ねえねえ、何で下に書いてある注釈を隠したの?

https://i.imgur.com/sAnJ5Du.jpg

419 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:16:54.54 .net
桜井市は「卑弥呼の里」を掲げてふるさと納税を集めているな
その資金使途の1番目に纒向遺跡の調査研究・保存活用が挙げられている

https://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/soumu/zeimuka/sakurai_furusato/index.htm

桜井市は同様の名目で国や県からもお金を引っ張ってきている可能性があるな

考古学界が不自然なほど脆弱な根拠で纒向が邪馬台国と言い張るカラクリがこのあたりにありそうだ
こうした公金の恩恵を受けているのは考古学界だからな

420 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:21:14.82 .net
>>407
阿保過ぎて、奴国、不彌国でそれぞれで万二千餘里、不彌国から水行20日で投馬国だよ

421 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:27:26.52 .net
>>412
お前 キナイコシ並みのお馬鹿さん
なんで残1,300〜2,000里だけ1里432メートル使うの

>>1=>>412=究極の世界一馬鹿

422 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:29:17.32 .net
「女王国」の語が無理解なまま無造作に使われる例が多いので整理する

そもそも魏志倭人伝の記述する「国」には二つのレイヤーがある
一つは日本の歴史学で「クニ」と表記する小国(約500年後の律令制における国郡里制の「郡」や「里」のサイズ)で、「伊都国」や「奴国」や「邪馬台国」などがこれに該当する
もう一つは上記の小国が集まった連合国で「倭国」がこれに該当する

では「女王国」は小国の邪馬台国を指すのか、それとも連合国としての倭国を指すのか
魏志倭人伝には「女王国」の語が具体的に以下の5か所書かれており、一つ一つ考察する

(具体例)
1.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
2.「自女王國以北 其戸數道里可得略載」⇒女王国より北は戸数や道理をおおよそ記載できる
3.「自郡至女王國 萬二千餘里」⇒(帯方)郡から女王国に至るには一万二千里余りある
4.「自女王國以北 特置一大率檢察」⇒女王国より北には特に一大率を置いて検察させる
5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である

(考察)
1については、小国の伊都国が属しているのが女王国ということなので、必然的にこの女王国は「倭国」の意味となる
2については、女王国より北の倭国内の小国については戸数や道理を記載できるということなので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
3については、倭国の北端の構成国は狗邪韓国ないし対馬国でありここまでの距離は帯方郡から七千里(狗邪韓国)ないし八千里(対馬国)なので、必然的にこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
4については、女王国より北に一大率を置くということだが、後の文章で一大率は常に倭国内の伊都国にいると書かれているので、この女王国は必然的に「邪馬台国」となる
5については、これを「倭国」と解釈することも「邪馬台国」と解釈することも可能であり、陳寿がどちらを意図したかは判別できない
(続く)

423 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:29:40.05 .net
(続き)
以上のように、魏志倭人伝では「国」という語にそもそも二つのレイヤーがあるため、「女王国」も広義の女王国=倭国と狭義の女王国=邪馬台国の両方が使われており、具体的にどちらを指すかは文脈で判断する外ない
こうしたことが起きた理由は、出典によって女王国の語が広義で使われたり狭義で使われたりしたためと考えられる(魏志倭人伝は様々な出典からのツギハギ)

424 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:34:47.30 .net
>>423
魏志倭人伝がさまざまな出典からのツギハギで、女王国の意味が文脈によってコロコロ変化するということは、一里の長さが場所によってコロコロ変わっても不思議ではないですね。

425 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:39:18.80 .net
資料をトリミングして都合の悪い部分を隠す九州説。

元資料
https://i.imgur.com/sAnJ5Du.jpg


トリミングされた資料
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/9dc01bbee8907512def5f992cba9a6ac_d661c85ead329c491845e7310f0473fd.jpg

426 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:57:17.69 .net
畿内説は架空の理論です

427 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:58:27.87 .net
>>420
コンセンサスないからね。
それぞれでいいんだよ。
後は言い張り続ければ済むこと。

428 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 07:59:30.77 .net
なるほど投馬国、邪馬台国は半島、九州以外

429 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 08:11:08.37 .net
>>395
呼子付近に上陸した郡使は約40km(五百里)で末盧国と伊都国との国境の伊都G.C.付近の丘陵に着く
この丘陵から伊都国と奴国の国境の糸島峠付近へは約8km(百里)
1里は約80mとなる。

430 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 08:15:30.97 .net
伊都国までの500里を架空と言った畿内説は投了しました

431 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 08:34:05.96 .net
>自郡至女王國 萬二千餘里
は帯方郡から九州での倭国上陸地点までの距離
区間距離を積算すると若干不足を生じるが、それは余りの範囲

地図もない時代に文章で地理情報を伝えることは非常に難しい
重要なことは倭国は帯方郡から南にあること、そしてその最初の上陸地点が萬二千餘里であること
さらに狗奴国はその基準点から南に位置しているということ
だから狗奴国の記述の最初に帯方郡から上陸地点までの距離を明示している

432 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 08:42:02.93 .net
>>419
だから桜井市教育委員会の纏向遺跡の調査報告書も
「可能性が高い」「と考えている」「と思われる」
と言うギリギリの表現の誘導型報告書になっている。
その裏で行脚くしているのが公金チュウチュウの寺澤はじめ畿内説互助会の銭儲け研究者たち。

433 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 08:43:26.88 .net
計算すると
7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里
伊都国と奴国の国境の糸島峠付近が12000里の地点となる。

434 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 08:45:18.39 .net
つまり畿内説は根本的に鉄器文化の意味を理解していない
3世紀の北部九州ではすでに農具や工具、刀子などの日用品として広く浸透していた事を示す遺跡や出土品が多い
纏向霊園で発見された鉄は古墳の副葬品であり外部からの持ち込み品である

以下、卑弥呼時代の史書に記録されている鉄について
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、矮、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

435 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 08:47:42.21 .net
つまり畿内説は頭の悪いエセ学者ホイホイですよと

436 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:02:47.02 .net
>>431
その九州上陸地点から女王の都は2か月の距離
だから、
魏の皇帝は「汝の住んでいる所は遠いという表現を超えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、」
ということになった

437 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:09:57.46 .net
架空の方位と距離でしか成立しないのが畿内説

438 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:11:11.66 .net
>>418
畿内で鉄器といえば副葬品なのか

439 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:12:48.23 .net
>>436
辺境である帯方郡からの12000里でかつ、水行20日、水行10日陸行1日(月)
だから、
魏の皇帝は「汝の住んでいる所は遠いという表現を超えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、」
ということになった

440 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/22(木) 09:19:18.53 .net
寺澤先生は纏向石塚を卑弥呼陵と考えておられるようだ
オレは箸墓が卑弥呼陵と想定しているが、纏向石塚がヤマト王権(邪馬台国)の宗廟であるという見方は一致している

纏向石塚がヤマト王権の建国者つまり韓国や中国で云う処の太祖の陵にあたる可能性は高い

畝傍山の丑寅の「神武天皇陵」は初代王の実墓の記憶が失われた後に造られた参り墓だろう

古事記で有名な太安万侶も実墓が発見されている。
今まで安麻呂墓として伝承されていたものは実は参り墓で、後に実墓と混同されてしまったものだろう。

オレはヤマト王権の太祖の実墓は纏向石塚であり、畝傍山の神武天皇陵は後世に造られたものと推定する
そして太祖の次の太宗の実墓は纏向勝山や纏向八塚だろう
今の「綏靖天皇陵」も後世に造られた参り墓だと思う

441 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:21:57.97 .net
末盧国→伊都国500里
伊都国→→→邪馬台国1500里
畿内には全く届きません。

442 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:22:22.11 .net
つまり畿内説は墓のお供物はその地の産物だという非論理的固定概念を持っていますよと

443 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:22:50.19 .net
>>439
北部九州であれば後に帯方郡の役人を派遣して常駐させるような場所
とても「汝の住んでいる所は遠いという表現を超えている」とはならない

444 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:24:43.91 .net
伊都国から邪馬台国
1500里の記述はない。

445 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:27:14.92 .net
>>444
計算できる。

446 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:28:53.22 .net
>>444
俺は不彌国止まりで
投馬国、邪馬台国に行っていない派。

447 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:30:43.93 .net
>>445
おまえの定義に合わせない。

448 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:31:22.80 .net
帯方郡から水行20日で投馬国、水行10日で陸行1日(月)で邪馬台国
7000里に水行20日、440里に水行10日、600里に陸行1日掛かる。

449 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:32:53.94 .net
>>447
当然だよ。邪馬台国まで万二千餘里の記述はない。女王国の解釈だからね。同調できないのは
ハッキリと書く。

450 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:35:14.93 .net
>>443
帯方郡でも十分に辺鄙な場所、更にそこの先だから
北部九州は超辺鄙な場所なんだよ。

451 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/02/22(木) 09:36:40.95 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

452 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:37:44.99 .net
>>446
郡使は伊都国付近までしか行ってないね
精々不弥国までだな
しかし同時に卑弥呼とも合ってる
つまり、伊都国が卑弥呼の王都だったって事さ。

453 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:38:43.86 .net
>>451
縄文人はDではなくBなんだよな。

454 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:40:32.51 .net
>>447
算数が出来ないのが畿内説です

455 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:40:53.68 .net
>>437
魏志倭人伝の記述は誤りだってのが畿内説の主張だが、誤ってるのは畿内説の読み方なんだよな。

456 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:41:55.31 .net
>>452
女王国(対馬〜不彌国、奴国が王都。
伊都国は一部という考え。

457 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:42:33.91 .net
>>454
卑弥呼は九州ですよ。

458 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:43:23.18 .net
>>451
チョンコは、れいわ立憲共産党を支持します。も加えておけよ

459 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:44:00.38 .net
>>457
当然、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外

460 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:45:57.64 .net
分離派ですね。そういう思考もあるね

461 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:49:39.95 .net
>>456
魏志倭人伝には
「丗有王 皆統屬女王國」
「魏の時代に、伊都国には女王卑弥呼がいた、倭の国々は皆、女王国に従属していた。」
と書かれてるから伊都国に女王卑弥呼が居たんだ
計算上は伊都国と奴国の国境の糸島峠付近が女王国なんで
伊都国と奴国を中心とした地域が女王国
奴国には王都との記述が無い
それに対して伊都国は詳しく説明されてる。

462 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:51:49.42 .net
おれ畿内説だけど FAQ58はおかしいよな。>>1が畿内説を代表してるわけでは無いので無視して。

463 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:56:11.55 .net
>>462
郡から伊都国までの行程のパーツで1里432メートルになる箇所はない。でいいよね?

464 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 09:57:47.63 .net
>>461
糸島峠は定かではないが
王都の記述はない。
歴史的に機能は継続していたのだろう。

465 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:03:27.28 .net
>>456
いいね。佐賀方面でもいいね。

466 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:08:21.04 .net
>>464
奴国が中心的な国であった可能性は高いが
卑弥呼は奴国ではなく少し離れた伊都国に居住してたんだ
例えるならパリとヴェルサイユみたいな感じかな。

467 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:11:06.31 .net
卑弥呼が日本の女王?

鬼術に優れて
大乱で所属王に共立されて
60年間ひきこもりで
城柵の高楼で
女給1000人と住んで
南の王国と戦争になってて
238~247年に魏王に朝貢して
死後後継戦で1000人死んで
13才の女王が立った

どこの王都、巻向の話だよ。
辺境の女囚だろ?

これ、考古学者が
日本の王族で探すのか?

468 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:11:46.15 .net
>>464
糸島峠付近から室見川沿いに百里(8km)下った先の室見川下流域の博多湾岸が不弥国だね。

469 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:11:48.44 .net
後漢書にはこうある
(倭は)およそ百余国
武帝が衛氏朝鮮を滅して以来、漢と使駅を通じたのは三十国ほどである
国はみな王を称し代々受け継いでいる
その大倭王は邪馬台国に居る

470 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:14:39.48 .net
>>466
奴国の南に狗奴国と思考
奴国も重要です。不彌国止まりだけど。

471 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:16:43.65 .net
>>468
その説は那珂八幡古墳が奴国の領域に入っていないのでボツ❌https://i.imgur.com/qL2aXUe.jpeg

472 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:18:13.61 .net
帯方郡

投馬国(投馬国入口)
→狗耶韓国(投馬国終点)
 ↓
 対馬
 ↓
 壱岐
 ↓
 呼子
 ↓→伊都→不彌
   ↓
   →奴国(邪馬臺)ここまで12000里

473 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:21:56.42 .net
>>472
朝鮮投馬国はボツ

474 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:30:37.34 .net
>>473
当然、呼子もボツ

475 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:34:42.79 .net
>>472
放射状読みはないな
奴国の次が不彌国

476 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:37:00.75 .net
>>470
投馬国、邪馬台国、狗奴国は市、郡レベルの国ではなく
もっと広い範囲の地方レベルの名称ですよ。

477 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:43:21.95 .net
>>472
伊都国から分岐ですか?
これもあり だけど郡からの日程はないな。
不彌国からの日程です。投馬国、邪馬台国には
行っていないと推測

478 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:43:47.34 .net
伊都国奴国不弥国の位置関係https://i.imgur.com/4qq3FXR.jpeg

479 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:47:17.41 .net
>>476
奴国も近いね。二万戸。
100里で到着するが広さがわからないので
此女王境界所盡となったかもしれんね。

480 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:51:21.12 .net
>>467
倭国大乱後を鎮めるために共立されたことが重要
大乱の考古学的な証拠は高地性集落の分布に表れている
卑弥呼が即位してそれらが消滅し、環濠も埋め立てられた

481 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 10:56:40.65 .net
高地性集落は諦めろって

482 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:04:05.42 .net
>>477
使者が伊都に滞在している間に倭人から行程を聞き出してだんだろうと
だから伊都国から見て東に不彌国があり、東南に奴国があると

483 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:07:34.06 .net
倭人伝 魏里でひも解く(テンプレFAQ58参照)

@博多あたりから邪馬台国まで約1500里ぐらいである
A博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなる


A÷@
=620〜703キロ÷1500里=413〜468メートル
つまり 1魏里432メートルと整合性がある。 

484 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:08:46.95 .net
>>475
直列読みと言い切れるのは「又」で接続されている場合のみ
それ以外は視点単位で読んだ方がいい
ただし視点も移動するということも考慮する必要がある
まあ移動というより、倭国まで来た事のある使者ごと、時代ごとに異なると言うべきかな
ただ魏志の文面からすると伊都国に駐留するというのは昔から変わっていないと思われる

485 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:11:34.56 .net
>>481
大和における高地性集落の一例 太田三喜
https://opac.tenri-u.ac.jp › opac › repository › metadata › 1551 › GKH014503.pdf

486 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:11:54.20 .net
>>483

⭐畿内説の1里432メートルは架空の数字です

末盧国から伊都国の500里は架空と言い張る畿内説ですが、郡から伊都国までの行程で倭人伝の1里が432メートルだと言うことを証明出来ません

郡から狗邪韓国 7000里
狗邪韓国から対馬 1000里
対馬 方400里
対馬から壱岐 1000里
壱岐 方300里
壱岐から末盧国 1000里
末盧国から伊都国 500里

いずれの行程でも1里が432メートルにはなりません。
畿内説の言う1里432メートルが架空の数字なのです。

487 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:14:03.96 .net
>>485
うまく貼り付けができなかったので再掲します
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/1551/GKH014503.pdf

488 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:33:35.66 .net
高地性集落ってのは南海トラフ地震にビビってた時代を示してるだけ

489 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:39:47.52 .net
畿内説は理由がない

490 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:40:51.57 .net
>>488
>南海トラフの地震は、約90 - 150年(中世以前の発生記録では200年以上)の間隔で発生
しているもの
特に警戒していた時代があったということではない

491 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:41:26.08 .net
>>482
東行なので不彌国止まり。
伊都国で奴国の方角を聞いたのみなので至る。
分岐点は、伊都国で不彌国に行かないければ東に至るになるのでは?

492 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:41:43.21 .net
>>489
そんな変なこと言う理由は?

493 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:45:26.56 .net
>>492
変なことでは無い。理由がない、

494 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:46:04.06 .net
>>463
もちろん
畿内説は行程は間違いで通してるから

495 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:47:16.03 .net
架空なものに理由は無いな

496 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:48:14.68 .net
>>1 さん FAQ58は修正したほうが、、、、

497 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:48:47.24 .net
>>482
伊都国が目的地なので到る
途中のニ島、末盧国の至は経路となるのでは?

498 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:51:12.11 .net
>>490
3世紀末に発生している
津波を恐れて一時的に高地性集落となりやがて忘れて低地に戻る
現代でもそうだろ

499 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:51:44.33 .net
>>487
弥生時代中期からって書いてある
倭国大乱は無関係ですね

500 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:53:06.48 .net
>>1
>>483

あんたら想像以上のど阿保

501 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:53:07.08 .net
>>467
邪馬台国の時代は奈良大阪より福岡佐賀の方が人口も多く武器も発達していた

502 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:54:54.76 .net
>>498
倭国大乱は2世紀におきたこと
3世紀の卑弥呼の時代には高地性集落は消滅している

503 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:55:22.64 .net
>>501
別に邪馬台国が多くの武器があったという記述もないし、あったかもしれんけど定かではない。
願望でしょうか?

504 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:55:39.97 .net
>>502
気のせい

505 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:55:52.97 .net
>>486
テンプレFAQ58をよく読んでから言え
お前の頭じゃ理解できんのかな

506 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:56:52.55 .net
倭人伝の行程記事は、郡使の旅日記ではない。
漢書でも常用された道行文法、いわゆる「双六(すごろく)方式」で書かれている。
つまり、一人の旅人が行って見てきたような分かりやすい書き方で、
水行、渡、陸行、行など、方角の次に行動動詞がある場合は主線行程を進む。
行動動詞がない場合は、単に方角を示しただけの傍線行き止まり行程。
そして主線終点からは、東至、西至、南至、北至の四至を軽く説明して終わる。

この道行文体を利用して陳寿が、ドラマチックに編集した。
倭国に入ったばかりの対海国や、一大国は詳しいが、
だんだん情報を少なくし、主線終点からの南至投馬国や同南至の邪馬台国は、極簡潔にとどめている。

また不彌国の次に投馬国、その次に邪馬台国があったかのように書かれているが、
「又」が無いので、ここは連続式でなく、2国列記。
分かっていたが、2国までの里数もわざと書いてない。
つまり写真や絵画の遠近法を応用し、素人が読めば2国は遥か遠くにあったよう印象操作してるのだよ。

507 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:57:36.52 .net
>>499
落ち着いてよく読みなさい
>弥生時代に東京湾西岸から周防灘にかけての高地に広範囲に分布する集
落遺跡は,一般に高地性集落と呼ばれる。特に弥生時代中期後半には,先
進地域である大阪湾沿岸から瀬戸内一帯にかけて,比高 100m 以上の高地
に防禦施設や戦闘用遺物を備えた遺跡が出現する。これは, 『郷志』倭人
伝, 『後漢書』倭伝, 『梁書』倭伝, 『北史』倭国伝, 『太平御覧』所引の
『錦志』などの諸史料中に表現される「倭国大乱」 l時の所産とされている。

508 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 11:59:31.68 .net
>>493
そんなこと決めつける理由は?

ほら、九州説には理由がない
欲望だけで出来ている

509 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:01:52.93 .net
>>507
所産とされているって誰によってどういう理屈でされてるのさ?
その元論文をここに張ってください

510 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:04:26.09 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

511 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:05:06.79 .net
>>507
PDFをそのままコピペしたので、windows側で読み取り間違いが発生したようです
文中の「『郷志』倭人伝」は「『魏志』倭人伝」の間違いです

512 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:05:34.60 .net
>>497
至と到の使い分けは、末盧国から北東の糸島へ行ったのでは、その値打ちがわからない。

つまり末盧国唐津から東南500里の佐賀川上伊都国へ向かうと、
南200里の多久で東に折れるので「くの字曲り」して伊都国に到るから「到」。
同様に帯方郡から南に水行し、半島性南端で東に折れ、
つまり「くの字曲り」して狗邪韓国に到るので「到」と書かれた。

513 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:07:11.06 .net
>>448
移動時間はせいぜい1日数時間ぐらい
25ヶ国訪問すれば2ヶ月かかる
また30ヶ国程ありとあって、名前が記載された国が20余りだから、
その他の国は2ヶ月のスケジュールで回れなかったという事
また探したが見つけられなかったのだろう

514 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:07:29.01 .net
>>509
一般的にそう解釈されているということ
君が違うのであれば、君の所説を述べるべき

515 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:08:35.36 .net
>>514
つまり根拠はないわけね
根拠はないけども一般的にそう言われてるでおkなら邪馬臺国は九州ですね

516 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:09:24.00 .net
>>49
邪馬台国が桜井市だとは確定していないのでボツですね❌

517 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:10:42.67 .net
>>505
邪馬台国が桜井市だとは確定していないので❌

518 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:12:03.64 .net
>>506
不彌国から分岐で投馬国、邪馬台国だね
郡ではないですね。

519 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:16:40.05 .net
>>512
違うよ。第一目的地だよ。
韓と倭の境に来たという事

520 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:17:01.73 .net
>>507
のちに佐原は間違いを認めて撤回するが、その間違った年代観を使ってしまったのが関川
そして九州説を支え、そして滅ぼした
ハシゴを外されて滅んだ九州説は考古学を憎悪して今日に至る

521 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:17:13.42 .net
*畿内説の1里432メートルは架空の数字

末盧国から伊都国の500里は架空と言い張る畿内説ですが、倭人伝の1里が432メートルだと言うことを証明出来ていませんし、邪馬台国が桜井市だとも確定していません。
郡から狗邪韓国 7000里
狗邪韓国から対馬 1000里
対馬 方400里
対馬から壱岐 1000里
壱岐 方300里
壱岐から末盧国 1000里
末盧国から伊都国 500里

いずれの行程でも1里が432メートルにはなりません。
邪馬台国が桜井市だと確定していない以上畿内説の言う1里432メートルは倭人伝においては架空の数字なのです。

522 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:18:19.96 .net
>>512
呼子も途中からくの字に曲がるから
到だよ。

523 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:21:27.72 .net
>>518
里数がないので、邪馬台国、投馬国は半島、九州以外ですね。

524 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:22:06.16 .net
つまり畿内説は社会人と会話が成立しないほど頭が悪い

525 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:25:03.81 .net
>>521
>いずれの行程でも1里が432メートルにはなりません。

じゃあ、なんメートルになったの?
言えないんでしょ

中国で使われていた1里は400m超で、これは確定している
魏の使者が中国で使われていない単位で報告書を書くことはあり得ない

526 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:25:30.53 .net
倭人伝では不弥国から邪馬台国は1300里だと猿でもわかる書き方をしている

527 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:26:22.90 .net
>>526
おまえが猿だな

528 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:29:08.14 .net
>>515
常識を解さない君自身の問題
邪馬台国は畿内というのは現在の定説・議論の前提

529 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:29:09.46 .net
>>525
行程の1里が432メートルでは無い事は猿でもわかる。1里が432メートルなら郡は九州から4320キロ先にある事になる。そんな馬鹿な話は通用しない。

530 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:29:55.61 .net
>>527
確かオナニー猿だろうな

531 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:30:22.55 .net
つまり畿内が候補となる根拠は何もない

532 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:32:25.82 .net
>>527
猿以下の動物がおまえ

533 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:35:12.17 .net
>>530
定義違いや解釈違いなのにな。
サナダ虫や回虫レベルかもしれん。

534 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:37:42.95 .net
>>528
はなはだ非論理的で草
※高地性集落と倭国大乱には関連付けるような根拠は何もないということに留意してください

535 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:40:10.40 .net
魏志の行程を架空だとする畿内説は架空です

536 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:41:23.16 .net
壱岐の高地性集落であるカラカミ遺跡では卜骨が出ている
高地性集落は弥生中期に倭人の風習卜骨が拡がった本州に多く分布している

537 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:43:18.02 .net
以下の通り、高地性集落は倭国大乱の時期より前というのが現在の考古学の知見だ

高地集落は「倭国大乱」以前にあった 伝染病原因か
https://www.sankei.com/article/20220110-LE7SPPIRX5MGHEZW5GENYXGKY4/

「弥生時代中期以降、西日本各地を中心に突然、出現した高地性集落。人が住むには不向きな山上や山腹に営まれた集落は、武器類の出土などから邪馬台国の女王・卑弥呼の共立につながったとされる「倭国大乱」と関連づける見方があった。が、近年の科学測定などにより、出現時期はほとんどが倭国大乱以前だった可能性が高まり、歴史像の再考を迫られている。」

538 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:45:25.46 .net
>>529
>行程の1里が432メートルでは無い事は猿でもわかる。

じゃあ何メートルなの?
答えられないでしょ

539 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:46:47.79 .net
>>534
こんなに丁寧に話しているのにその反応とは
以後君との議論は遠慮する
虚言を平然と発言するような態度では誰からも相手にされなくなるよ

540 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:47:01.93 .net
>>536
九州島にもあるね。
条件の一つと推測される。

541 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:47:42.87 .net
>>535
>魏志の行程を架空だとする畿内説は架空です

どうして九州説は理由を言わないの?

542 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:48:10.19 .net
>>539
丁寧って根拠をなにひとつ提示せずに思い込みで言い張っただけじゃないか
なんだそれ

543 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:48:15.39 .net
>>537
倭国大乱の後に高地性集落が消滅したことが重要

544 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:49:40.54 .net
>>538

郡から狗邪韓国 7000里
狗邪韓国から対馬 1000里
対馬 方400里
対馬から壱岐 1000里
壱岐 方300里
壱岐から末盧国 1000里
末盧国から伊都国 500里

気になるならそれぞれ実測すれば数値は出るよ。
計算すればいいじゃ無いか
人に頼るな

545 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:50:44.99 .net
>>542
少なくとも君は「大和にあミける高地性集落の一例」の論文を今日初めて目にしたはずだ

546 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:51:44.07 .net
>>541
理由という日本語を知らないの?

547 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:52:19.62 .net
>>545
またPDFの読み取りミスでした
「大和にあミける高地性集落の一例」は「大和における高地性集落の一例」です
失礼しました

548 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:53:08.58 .net
>>300
末盧国から伊都国の500里が架空なら、郡から狗邪韓国も架空なのか?

549 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:54:48.26 .net
>>545
いやだから根拠はなにひとつ提示されたなかったことをお互いに確認しましたね?

550 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 12:54:57.13 .net
>>540
あることは有る
だが倭国乱と安易に結びつけたことが九州説を滅ぼしたとも言える

551 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:04:25.58 .net
壱岐のカラカミ遺跡では鉄生産用の地上炉跡が見つかっている
丹後の高地性集落の扇谷遺跡では
砂鉄系原料から製造された鋳造鉄斧と砂鉄系原料による鍛冶滓が見つかっている
鍛冶工房群が見つかった五斗長垣内遺跡も高地性集落

552 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:06:15.26 .net
>>471
その図は行程を説明したものだから奴国の範囲は不正確なんだ
実際の奴国は伊都国と奴国を除く筑前地方の殆どの地域だろうな。

553 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:08:33.37 .net
>>552
では正確な地図を書いてみてください

554 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:09:58.57 .net
>>537
高地性集落は朝廷勢力が地方進出した
時期の開拓統治機関だろ?

中央豪族の分家を送り込んだんだよ。
基本100~250年で戦意も消えて
諜略の古墳時代に移行した。

卑弥呼の国は狗奴国と戦争で
地方進出の気配は無い。

一大卒に進出されてるしw
もうネ。 アホ草はえた。

555 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:10:57.01 .net
>>512
せーーーーかーーーいw

漢字の成り立ちからも俺は考察

字義考察すれば、簡単に答え出ますw

> 『到(トウ)』dàoは、物が目的の場所や時間に届く様子を表す形声文字です。漢字の足し算で覚えるならば、至(まっすぐ届く)+刂(りっとう・刀・曲線)=到(物が曲がって届く。行き着く。到る)です。部首は『刂・りっとう』。意味は『行き着く』・『到る(いたる)』です。『至(シ)』が矢の様に真っ直ぐに届くのに対し、曲がって届くのが到です。

↓大事な部分を、もう一度w

>『至(シ)』が矢の様に真っ直ぐに届くのに対し、曲がって届くのが到です。

※風船あられさんより引用

556 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:11:48.37 .net
>>552

何もない糸島峠が国境であるという
考古学的根拠が何もない

557 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:12:41.64 .net
>>525
里数での行程は魏使の報告書によるもにではなく、公孫氏時代の郡使の報告書を魏が押収したものを参考に書かれたものだな
日数での行程文とは基資料が10年は違うな。

558 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:13:07.61 .net
畿内説は九州説が間違っていると云い、九州説は畿内説のほうが間違っているという。
しかし、どっちもどっち、
九州説だって、末盧国唐津から、原文にはない北東の怡土島・博多へ喜び勇んで駆け付けている。
明治以来、S、E、F、T、Y、等々、アルファベット全部使っても足りないくらいいらっしゃいますね。

なんで原文通り、東南の佐賀平野へお行きにならないの??
もしかして、今の佐賀大学は戦前は旧制高等学校、及び高等師範学校だったこと。
まさかとは思いますが、
由緒正しき帝国大学の博多でなくては、このオレ様の○○が△△△、ではないのかと、、。

559 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:15:35.55 .net
>>553
資料が無いから細かい所は分かりませんよ
だいたいです。

>>556
何も無い所が国境なんだ。

560 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:16:04.45 .net
>>558
倭人伝の東は30度ずれているので北東には向かっていないhttps://i.imgur.com/gU9C7ej.jpeg

561 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:17:23.64 .net
>>560
九州説の考える倭人伝ってそんなにイイ加減なの?

562 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:19:44.24 .net
倭人伝の南北軸が30度ずれているなら
「倭人在帶方東南大海之中」の中心線も中国地方を通る

563 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:21:31.65 .net
>>561
30度ずれている事が理解できれば全て納得できるよ

狗邪韓国のズレ
対馬から壱岐のズレ
伊都国へのズレ
会稽の東のズレ

30度のズレで全てが解決する

564 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:23:13.48 .net
>>559

何も無い所までの里数などを書く根拠が無い

565 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:24:09.50 .net
>>562
瀚海の事だろう

566 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:24:50.69 .net
>>563

九州は帯方郡の南になる

567 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:25:57.02 .net
>>566
狗邪韓国の時点で南や東に移動してますが

568 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:26:57.21 .net
つまり畿内説はアホの作り話が根拠でしたと

569 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:27:41.17 .net
>>567

>>563はその南や東がずれていると主張している

570 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:30:03.57 .net
>>563
そうやって喉元の問題だけしのごうとするから九州説はどんどん袋小路にはまって行く
警察で尋問されている犯罪者の無罪主張と似ている

571 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:31:54.18 .net
>>558
行ってもいいよ。
投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ならね。

572 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:41:02.47 .net
倭人伝の東のズレは日の出の方角か磁場偏角が理由だな

573 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:42:41.25 .net
磁気偏角https://i.imgur.com/hiPDYqd.gif

574 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:43:36.16 .net
>>572
対馬の南に壱岐があると書かれているから日の出の方角が有力

575 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:45:25.19 .net
>>574
夏至のズレで30度ですね

576 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:46:12.33 .net
>>574
古庄さんコースですね

577 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:47:05.68 .net
>>555
陳寿は三国志で到と至の使い分けはしていません。

その文章は247年張政の倭人船で聞いた地名と
その里程を記録した、伊都迄の行程の報告書の引用です。

南至 投馬國 以降は、
240年卑弥呼に金印を届けた梯儁の報告書の引用で
馬韓を過ぎた投馬国、邪馬台国、狗奴国 の地理と
邪馬台国女王共立の21国名を参問し漢字にしました。
到の使い分けもありません。

この二人の報告書の引用は明らかに異なる筆致で、
陳寿が二つの報告書を並べて、正確に和音地名や名前の
漢字を書き写してる光景が浮かびます。

578 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 13:57:08.94 .net
>>575
>夏至のズレで30度ですね

中国人は南中も落日も見ないという
なんちゅートンデモ説

579 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:05:12.88 .net
>>577
>その文章は247年張政の倭人船で聞いた地名と
>その里程を記録した、伊都迄の行程の報告書の引用です。

なーんも根拠がなくても断定する九州説
だから学術的な文章が根拠ある推定を「・・と考えられる」と書くと
「憶測だー」と妄想して叫んじゃうんだね

580 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:09:14.38 .net
>>578
朝には出発するからな

581 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:09:57.02 .net
楼観なし、城柵なし、の無防備都市・纏向にいたら、狗古智卑狗=河内(大阪)彦と尾張伊勢・卑弥「弓」呼に挟み討たれて、畿内説は全員打ち首w

582 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:21:42.91 .net
>>577
妄想の極み、ますます畿内説に似てきたぞえ

583 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:22:05.34 .net
邪馬台国女王之所都「居処、宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」
https://pbs.twimg.com/media/GG6ldGBa0AAs3Vw?format=jpg

584 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:24:53.89 .net
つまり畿内説は韓国式霊感商法詐欺でしたと
何度も言ってるだろ?

585 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:29:25.11 .net
>>576
勘違いしてますよ

586 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:29:51.61 .net
>>575
おまい、夏の太陽は、1日中、真東に懸かっていると思ってんだろww

日の出の瞬間は真東でも、出たら時々刻々と南へ傾くんだぞ。
何の参考にもならぬ。こん、バカタレめが、、

587 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:32:19.94 .net
266年、巫女だけに跡継ぎのいない台与は倭国大乱の再発を見越して、吉備ヤマト王権に国譲りして、新旧倭王権で西晋武帝に朝貢(複立男王 並受中国爵命)。
吉備ヤマト王権は、筑紫邪馬台の名前も受け継いだため、筑紫邪馬台国=ヤマト王権 という錯覚が生まれた。
すなわち、
吉野ヶ里=(脊振)山(地南麓で舌状に突き出た)台(地)
大和=山門(二上山)

588 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:34:30.40 .net
魏使「東の方角はどっちだい?」
通訳「アガリ(東)の方角を聞いてる」
倭人「アガリ(日の出)ならあっちたい」

※東(アガリ)、西(イリ)

589 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:34:40.12 .net
>>586
船旅の朝は早いんだよ、狗邪韓国までは日の出の方角で正しいhttps://i.imgur.com/mMCvobq.jpeg

590 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:35:44.91 .net
>>572
日の出の瞬間は真東でも、出たら刻々と南へ移る。
古壮とやらにも云うとけ、ちと寝坊したらもう真東ではない、顔を洗った頃には東南東だ。
こん、バカタレめが、、

591 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:38:57.92 .net
>>590
指南魚を使って方位を知った場合には偏角というのがあるのを知らんのか?

592 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:40:23.69 .net
3世紀には未だ方位磁石がなかったから太陽の方角で方位を決めていたから誤差が大のは仕方がないね。

593 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:41:38.72 .net
南中=太陽が一番高く上るとき 四季、時刻を問わず、真南に太陽はある
南中=太陽が一番高く上るとき 四季、時刻を問わず、真南に太陽はある
南中=太陽が一番高く上るとき 四季、時刻を問わず、真南に太陽はある
南中=太陽が一番高く上るとき 四季、時刻を問わず、真南に太陽はある
南中=太陽が一番高く上るとき 四季、時刻を問わず、真南に太陽はある
南中=太陽が一番高く上るとき 四季、時刻を問わず、真南に太陽はある

594 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:42:15.99 .net
「指南魚」は3世紀頃から中国国内で使われ始めたばかりだから
辺境の帯方郡には未だないな。

595 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:44:26.61 .net
>>594
倭人連れて都まで行っているから入手していると思うけどな

596 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:45:27.06 .net
>>593
梅雨の時期は、ほぼほぼ方位がわからないな

597 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:46:49.99 .net
>>589
船旅も知らんくせに、
昔の船は潮の満ち引きに合わせて出船入船だった、
干潮満潮の時刻は、1日に50分ずつ後ろへズレる。 こん、バカタレめが!

598 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:47:30.62 .net
>>595
「指南魚」を偶然見つけ入手したなんて可能性は凄く低くいな

599 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:50:57.61 .net
>>598
元々は魏の軍船だったわけだから、技術的な事はネットワークですぐに知れ渡ると思うけどな

600 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:53:01.03 .net
方位の求め方
地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。この方法は、古くから『周礼(しゅらい)』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。

601 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:53:12.74 .net
>>596
実際の生活では同じ所で生活してたら毎日の事だからだいたいの方角は知ってるんだ
ただその基準が間違ってると方位がずれる
北部九州地で生活してると海岸線が東西で海が北側で九州の陸地が南側って感じるので
20〜30度のずれが生まれたんだろうな。

602 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:54:28.92 .net
>>597
太陽出たら起きて飯を食うだろ、その時太陽の見える方向が狗邪韓国の方角だよ。それを魏使は東と記した

603 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:54:46.94 .net
>>599
未だ大量に作られてないだろ、貴重品じゃないの。

604 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:55:52.15 .net
>>602
朝鮮半島の西海岸を南北と見なしてね、

605 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:57:00.53 .net
>>600
旅先で毎日それをするのは時間の無駄じゃ無いか

606 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:57:44.75 .net
>>596
>梅雨の時期は、ほぼほぼ方位がわからないな

魏の使いは   水行1か月 陸行1か月  2か月も梅雨は無いでしょう。南は南です。

607 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 14:59:18.76 .net
>>603
言わば魏使は国の外交官だから優先的に所有出来たと思うけどな

608 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:03:03.94 .net
>>607
魏使は地方の木っ端役人でしょ。

609 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:05:17.56 .net
九州に到着したら案内人が随行するから方位がわからなくても目的は達せると言えば達せる事が出来る。

610 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:06:26.12 .net
「指南魚」や太陽の方角で一々正確な方角なんて確かめずに地元住民の案内で南です東ですを信じて行っただけだろ
地元住民の方角がだいたいの方角だっただけのことさ。

611 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:06:48.89 .net
>>608
木端役人に金印は預けないと思うけどな

612 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:08:50.30 .net
>>490
中期後半だとここら辺かなぁ
ttps://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/49taguchi6.html
被害地の情報で水辺から高台に移ることもあったかもしれん

613 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:15:13.36 .net
金印を預けたのは帯方太守
魏使は太守の部下の一人だよ。

614 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:32:05.38 .net
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等
奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物

太守の部下だけど軍人で
皇帝の詔書と金印とお宝も持って来てるけどね。
船は公孫氏の奇襲で黄海渡った軍船だと思うよ。

615 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:34:46.09 .net
つまり逆立ちしても畿内説は有り得ませんよと

616 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:44:29.07 .net
海図が無きゃ磁石も要らんよw
循海岸 水行で対馬が見えたら渡る。
壱岐が見えたら渡る。
九州見えたら渡る。

で、
日本海ルートか
瀬戸内海ルートか

だけど、九州歩いちゃったら
両方無いwww

617 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:45:39.58 .net
九州歩いちゃったって根拠なし

618 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:50:32.10 .net
畿内説にとって東南陸行は架空です

619 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:55:04.17 .net
九州説のお爺ちゃんたちはなんの根拠があって筑紫邪馬台国なんて妄想を口にできるんだろうね

620 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:55:27.99 .net
九州歩くとか畿内説に不利だろうが消せ消せ消せ

621 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:57:29.67 .net
つまり畿内説は話をはぐらかして茶を濁すしかない状況ですよと

622 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:57:33.17 .net
>>619
不弥国から東に水行しませんからね

623 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 15:59:08.94 .net
陳寿は記録を継ぎはぎしただけ
里数表記の行程と日数表記の行程はどちらも起点が帯方郡だ
しかし陳寿はそんな事は知らない
同じ時代に編纂された広志には投馬国の記載はなく伊都国のすぐ南が邪馬臺国と記されている
ちなみに魏志韓伝で馬韓50国の一つとして不彌国が紹介されている
陳寿が手にした記録が全て倭の記録だったのかも怪しい


卑弥呼時代の倭国
https://i.imgur.com/jMwIArA.png

つまり畿内は東の倭種の国でしたと

624 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:02:04.33 .net
畿内説「伊都国への陸行500里は架空です。南に水行は東の誤りです。」

倭人伝通りに陸行500里が事実で南に水行が正しかったら畿内説は完落ちですな

625 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:03:26.25 .net
なので投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね

626 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:06:45.25 .net
>>623
朝鮮投馬国はボツ
https://i.imgur.com/P76Ig14.jpeg

627 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:07:15.09 .net
なるほど、邪馬台国と纏向遺跡は無関係ですね

628 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:09:49.96 .net
>>626のように畿内説は絶対に理由を言わない

629 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:15:01.10 .net
>>628
日本史板では朝鮮投馬国はアホだと確定している

630 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:19:54.40 .net
>>629
理由は?

631 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:24:12.64 .net
>>630
おまいか?
アホの朝鮮投馬国は・・

632 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:24:49.65 .net
>>630
幻覚が見えているから

633 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:25:36.97 .net
そもそも、皇帝のお宝運んでる船置いて陸行したら、
同じ場所戻ってこないと軍人の仕事が続かないんですが?

壱岐の直近の港に軍船置いて、軍隊が九州歩いて
瀬戸内海フェリーに乗り換えたのか?

山賊や海賊に襲われるだろwww 
老婆心だが、
四道将軍やヤマトタケルと鉢合わせしないか?
あ、神功皇后か・・・ 全員でも良いけどwww

634 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:26:18.97 .net
理由の言えない>>631>>632がアホだな。

635 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:26:34.91 .net
九州説は理由を言わない
妄想だとよくわかる

636 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:26:48.29 .net
朝鮮投馬国は邪馬台国解明にならない無用の存在

637 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:27:43.01 .net
朝鮮投馬国がアホなのは理由がある

638 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:28:20.43 .net
朝鮮投馬国の相手は暇な時じゃ無いと無理っす

639 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:28:29.10 .net
畿内説は理由を言わない
妄想だとよくわかる

640 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:29:43.33 .net
【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。

『広志』(編纂:晋の郭義恭)

広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)

伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国

又南至る

邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称

筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg

641 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:32:17.85 .net
朝鮮半島南部に投馬国が在ったら自説に都合悪だけだな
理由なんて無いんだ。

642 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:35:04.45 .net
朝鮮投馬国なんて言う学者も素人もいない

643 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:35:56.12 .net
日中の史書を研究した中国人の解釈
https://youtu.be/6Z0avSjgtHo

邪馬台=北部九州
https://i.imgur.com/hGyWM1v.png

邪馬台国は投馬国の南→投馬国は邪馬台国の北

つまり投馬国は半島南部
まあ魏志韓伝にも「韓国は帯方郡の南にあり、東西は海、南は倭と接する」と書いてあるからな

644 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:37:31.95 .net
>>643
投馬国と接するとは書いていない

645 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:40:11.98 .net
無理やり糸島イト国へ行くやつは、
佐賀の旧制高等学校をコケにして、博多箱崎に走った帝国大学かぶれ

646 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:41:00.29 .net
なお、倭人伝の行程を読んでも気付くが、出てくる方角は南、東、東南の3種であり西側については一切触れられていない
これは女王国自体が倭の西側に位置していた事を示唆しているわけ
つまり女王国は九州島にあり、東の海を渡ると畿内など倭種の国があったと書いてあるわけよ

647 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:46:00.62 .net
>>646
あんたばか?
道里不明の国がゴロゴロあるのに

648 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:51:22.55 .net
>>647
あんたばかは自分のことだな
女王国=倭国の東渡海の向こうは倭人の国ではなくて、ばか倭種の国

649 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:53:21.55 .net
つまり畿内説は何の反論も出来ず罵声を返すのが精一杯ですよと

650 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:55:37.42 .net
北側 半島からの渡海ルート
南側 狗奴国
西側 会稽東冶の東の海
東側 倭種の国々

これが当てはまるのは九州だけ

651 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 16:55:39.90 .net
>>645
投馬とはあずま(東)の事だろう

652 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:00:40.16 .net
つまり畿内説は想像以上にIQが低い

653 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:01:20.74 .net
>>651はアンカミスなので気にしないでくれ

654 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:10:35.56 .net
>>643
>日中の史書を研究した中国人の解釈

そのひと無学素人?

655 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:15:20.05 .net
>>648
>あんたばかは自分のことだな
>女王国=倭国の東渡海の向こうは倭人の国ではなくて、ばか倭種の国

女王国は倭国の西側だってのは妄想だけどね

656 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:20:33.34 .net
半島から渡海してきた場所にある国々なんだから九州しかない

657 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:30:21.95 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

658 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:33:57.06 .net
>>655
>女王国は倭国の西側だってのは妄想だけどね

卑弥呼共立記事の前に出てくる女王国は、肥後の邪馬台国の意味で倭国の西側。
共立記事の後に出てくる女王国は、卑弥呼を共立した30国=倭国の意味

659 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:35:13.30 .net
>>655
伊都国も奴国も不彌国も倭種ですね。

660 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:39:11.36 .net
>>658

今使譯所通三十國はあるが
卑弥呼を共立した30国の記述はない。

661 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:41:12.58 .net
投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね

662 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:42:51.21 .net
240年、梯儁の報告書
帯方郡から
南至 投馬國 水行二十日 =馬韓の通過
南至 邪馬壹國 水行十日 =半島南岸東行〜対馬海峡〜九州上陸
女王之所都 陸行一月 =邪馬台国内、女王宮迄徒歩2000里
 記・女王所属国 列記21国
其南 有 狗奴國 不属女王 =女王の境界外

陳寿補足
自郡 至 女王國 萬二千餘里 
・女王国=九州上陸なので、これは247年梯儁の全行程

・停泊地名ではなく直列する3国名であるから里程は示せない。
・240年は魏の公孫氏奇襲、楽浪帯方侵攻の直後で、韓は敵地。
・宿営で247年の倭人船の里程を示した停泊地と同じ行程とは限らない。
・特に上陸地は直近の博多湾に入ったはず。
・伊都で一大率の検閲が有れば、韓通過同様で戦争する準備は有る。

663 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:47:37.23 .net
>>660
21国です。
南至 邪馬壹國
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此 女王 境界 所盡
其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王

664 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:47:59.63 .net
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね

665 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:55:13.38 .net
>>659
倭種は倭国人では無い

666 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 17:56:14.62 .net
つまり畿内説はぐうの音も出ませんよと

667 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:01:33.68 .net
わしの大雑把な測定でも郡から伊都国までの行程は1里100メートル以下だな
https://i.imgur.com/XIK2i96.jpeg

668 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:18:43.99 .net
>>665
海は無いけど、600年の裴世清の日本領で
東西5月行以遠の、奈良の山の東は毛人国だってよ。

669 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:21:19.51 .net
無理やり糸島イト国、博多奴国へ行くやつは、
倭人伝の云う佐賀の旧制高等学校をコケにして、博多箱崎に走った帝国大学かぶれ

670 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:21:28.94 .net
>>668
魏志が来た頃には神武の東征は完了していなかっただろうな

671 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:22:06.28 .net
絶滅危惧種の九州説ですら、もはや史書の解釈云々を言う学者は存在しない
九州説の学者も皆、考古学の観点から自説を唱えている

672 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:30:34.78 .net
倭国の記述は明らかに海の街だが、
奈良は海無し県

673 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:39:50.43 .net
>>670
魏使が来たのは240年と247年の2回だけだが?
神武と崇神と景行とヤマトタケルと神功皇后とは同じ人か?

247年まで倭王の卑弥呼が帯方郡に朝貢してんのに
何時日本の王が朝鮮征伐行けるんだよ?

313年以前に、ヤマト朝廷有ったか?
奴国の魏将軍、難升米ですら245年に韓出兵してたら、
三国志の英雄だぞ?

674 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:43:06.93 .net
>>672
日本はどこも海がある

675 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:49:55.37 .net
>>665
記述はないよ

676 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:53:32.41 .net
>>665
奴国、不彌国、傍国は倭国人ではないのか?

677 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:55:50.38 .net
>>673
ヤマト「朝廷」とか、弥生時代に有る訳無いですよ。
朝廷と呼べるのは天武天皇以降では無いかと。

678 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:55:54.80 .net
>>665
其餘旁國遠絶 不可得詳

679 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:57:59.93 .net
>>675
投馬国の一部かもしれん

680 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 18:59:19.18 .net
>>675
女王国から東に渡海千里で倭種だよ

681 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:02:54.05 .net
倭種は倭国に納税していない人達

682 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:04:59.98 .net
九州は奈良時代になっても平城京には納税してないな
大宰府に納めてた

683 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:06:03.47 .net
倭人伝の行程記事はほとんどが架空。
唯一信憑性が高い記事が、「投馬国水行十日」、「邪馬台国水行二十日陸行一月」の部分。なぜならば、一日の長さは中国人にも倭人にも同じ一日で変わらないからだ。

684 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:06:57.35 .net
>>683
間違い、投馬国水行二十日、邪馬台国水行十日陸行一月ね。

685 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:07:19.82 .net
読み手の都合に合わせて架空にされる魏志倭人伝

686 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:12:15.93 .net
>>682
九州は西の朝廷だからね

687 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:12:39.63 .net
方四千里←誇大
渡海千余里←誇大
東南五百里←誇大
周旋五千里←誇大
可五万戸←誇大
可七万戸←誇大

一つも現実と整合しない魏志倭人伝の道里、戸数。

688 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:12:47.51 .net
架空請求詐欺

689 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:14:01.96 .net
>>687
倭人伝の里数を計算出来ないアホ

690 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:15:20.97 .net
>>689
倭人伝の里数なんてないからw

691 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:17:30.33 .net
>>690
末盧国から伊都国の500里は何キロですか?

692 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:23:07.75 .net
>>691
概念

693 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:25:03.36 .net
>>692
どういう概念なのか誰でもわかるように詳しく説明してくれ

694 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:25:55.90 .net
>>680
女王国ではないが倭国(此女王境界所盡の一部)
壱岐から東千里、宗像あたりだよ。

695 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:26:25.55 .net
>>681
記述などなし

696 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:28:41.75 .net
>>695
倭国は徴税していると記載がある

697 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:28:59.95 .net
倭人、倭種、倭国

倭人伝ではとりあえず、倭国は存在していない。
その意味は、倭人域は統一国ではないという事。

倭人在帯方東南大海の中は、
日本列島が倭人域であるという地理認識。

魏時、倭人域の女王国は見聞したが
その東にも倭種の国々は存在した。

魏時に使によって知り得た女王所属30国は、
中国人の知る倭国の漢時から伝わる100国より遥かに小さい。

女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
の倭と比べれば
参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
の小国なのである。

698 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:29:38.03 .net
>>694
渡海は瀬戸内海です

699 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:29:41.13 .net
>>690
あるけどね。傍国の一部、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外です。

700 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:30:54.10 .net
>>697

王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国

701 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:33:24.38 .net
>>693
大月氏より遠くなれば良い
仮に、狗邪韓国→対馬→壱岐→末盧ではなく、
狗邪韓国→A島→対馬→壱岐→末盧ならば、帯方郡→狗邪韓国は6000里になる

702 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:35:11.06 .net
>>698
それもありうるけど
女王国のどこから?
女王國 東渡海 千餘里 復有國 。
私は女王国範囲の壱岐(一大國)と推測する。

703 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:37:36.79 .net
>>702
九州から山口や四国が見えるのは大分だな

704 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:39:47.46 .net
>>703
女王国の何という国か?

705 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:41:00.67 .net
三世紀は九州倭国の時代、
倭種の畿内が舞台に上るのは4世、宗像=沖ノ島ルートになってから

706 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:43:08.50 .net
>>705
もはや、そのような説はとりえない

707 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:43:34.66 .net
>>705
宗像は倭種でいいな。

708 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:44:05.65 .net
>>704
不弥国から南に水行すると投馬国だな、邪馬台国の北にある

709 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:44:45.28 .net
>>646

「倭人在帶方東南大海之中」なので西には行かない
韓では南に4千里、東に3千里なので東が千里少ない
渡海は南に3千里なので東が3千里少ない
上陸後は東南は南と東は同じなので、東に2百里だけ
つまり不弥国から東に3800里の地点を帯方郡の東南の中心線が通る
というのが倭人伝の地理観

710 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:45:42.97 .net
>>700
使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯

洛陽や帯方、韓諸国への卑弥呼の使者、郡からの使は皆、
港で皇帝や女王の文書や女王への賜遺之物まで検閲を受け、例外は無い。

つまり、使張政が見た大倭の存在によって
女王国は主権国家ではない、と言っている。

一大卒は畿内朝廷が博多西麓の伊都国に置いた防人である。

711 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:46:08.09 .net
>>708
投馬国までの里数がないのに
東千里て書けるんだ?

712 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:47:23.83 .net
>>707
宗像は物部氏、物部氏は末盧国不弥国邪馬台国を地元としているhttps://i.imgur.com/MmZddqP.jpeg

713 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:47:49.05 .net
>>709の訂正
奴国は東南だったw

「倭人在帶方東南大海之中」なので西には行かない
韓では南に4千里、東に3千里なので東が千里少ない
渡海は南に3千里なので東が3千里少ない
上陸後は東南は南と東は同じなので、東に百里だけ
つまり不弥国から東に3900里の地点を帯方郡の東南の中心線が通る
というのが倭人伝の地理観

714 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:48:03.99 .net
日本古代史ネットワークが歴年標準パターン開示請求をしている時に、毎日同じことを書いている馬鹿な九州説

715 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:49:31.43 .net
>>712
物部など魏志倭人伝にはない
後の時代では?

716 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:50:04.71 .net
次有好古都國
これが築城・中津にあった古代国家、4-5重の濠に囲まれていた。
北端に薦神社がある。山口四国への港町。

717 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:50:54.54 .net
>>711
不弥国から邪馬台国の入り口までが1300里。不弥国から1300里弱までは投馬国の領域だと考えられる

718 :琪瑛教大祭酒:2024/02/22(木) 19:51:10.54 .net
九州倭国は一世紀。
帥升は住むこと7.80年であるから何処かに越してる可能性。
1.では原の辻→北九州→卑弥呼畿内という流れかな?
何れにしろ、半島も北九州、列島には北枕は無いのだよ、それが突然現れ大王墓を築き上げて行くわけだ、中華の思想。
崇神でも誰でも好きなの選ぶのは自由だがこれを説明しなければ全く話にならない。
無理であろう、愚説に過ぎないからだ。無理だね

719 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:52:19.13 .net
>>714
記紀や天皇絡みの風土記と
整合性をとる九州説の一部はエセだよ。

720 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:54:26.18 .net
>>719
当然、まったく関係ない。
土蜘蛛と結びつけたり、アマテラスとかアホだ。

721 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:55:16.02 .net
>>719
セミプロとプロの九州説で、考古学を無視している人は皆無
素人だけが魏志倭人伝を読んで「俺は天才だー」と勘違いしている

722 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:57:37.27 .net
>>715
饒速日の頃にはすでに物部八十はいただろうな

723 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:59:11.66 .net
別に畿内説が史書の解釈をクリアして次のステージに行ってるわけじゃないだろう
何を勘違いしてんだ
畿内説が考古学に逃げ込んでるから同じ土俵に立って追い詰めてんだろうが
畿内説主流派の自生説は今どうなってる?

724 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:59:28.38 .net
>>722
いたかもしれんが魏志倭人伝と結びつけたりする
のが間違い。

725 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 19:59:49.47 .net
「倭人あり、帯方東南大海の中」の倭国は、倭人の国だから九州確定。

九州倭国(共立倭女王、親魏倭王の国)から東渡海千里の国々は
倭人でない倭種の国だから、倭国・倭地でもない

726 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:04:22.22 .net
>>724
魏への朝貢船の船長は宗像族の可能性が高いと思わないかい?

727 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:04:26.51 .net
「倭人有り、帯方東南大海の中」、
ここで明確に、(倭種の国ではない)倭人の国であるといっている。
だから九州島で確定、、

728 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:04:59.00 .net
>>725
倭人だよ。
倭種の集まりが倭人伝ですけど?

729 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:05:13.74 .net
邪馬台国の話なら文献に依存するしかない。
240年の倭王がどこに居たか? なら考古学。
しかしこの時、倭王は九州が、統一できていない。

246年魏による韓王朝廃絶で
九州は魏の侵攻の危機に有った。

卑弥呼は朝貢していたが
檄の来た246年の帯方太守が戦死した
韓制圧戦には参戦しなかった。

247年で、倭人伝は終わっている。
247年の帳政送還と臺与の朝貢に魏帝の返礼無し、でだ。
魏も晋も三国志も終わらないのにだよ。

730 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:05:35.18 .net
>>723
畿内説というのは、文献史学と考古学を足したもの

731 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:05:43.06 .net
東渡海千里の倭種は山口県だな。

732 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:06:02.22 .net
>>726
皆無だ

733 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:07:26.73 .net
>>730
畿内説は文献無視だよ
魏志倭人伝は間違いだらけで使い物にならないが畿内説の主張。

734 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:08:29.51 .net
>>731
俺は福津、宗像だな。

735 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:08:58.43 .net
>>733
九州説の学者(プロ)も考えは同じ

736 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:11:01.09 .net
裁判で、伝聞証拠だけを出してきて勝負しようとしているのが素人九州説
裁判で、伝聞証拠と物的証拠を出してきて勝負しようとしているのが学者(ただし九州説の学者は絶滅危惧種)

737 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:16:45.13 .net
>>732
末盧国も宗像族のテリトリーだよ
宗像三女神を祀る田島神社もある

738 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:16:46.92 .net
倭面土国王の帥升を崇神天皇とかスサノ王
伊支馬をxxx天皇とか?
記紀や風土記 天皇とは関係ない。

739 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:17:31.59 .net
>>737
あるから違うだよ。
後の時代だよ

740 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:18:35.51 .net
>>739
当然
神社などない時代

741 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:20:41.63 .net
文献に発掘状況が
ついてきてるのが
戦後の九州の発掘だが?

畿内は倭人伝と無関係だろ?
文献との関連性有る発掘って何?

そもそも240年の倭王なら良いだけで
倭人伝、読んでないだろw

そもそも、魏が倭王印与えたのは
九州の女酋長で倭王じゃ無いんだぞ?

742 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:24:30.91 .net
魏が倭王印与えたのは
九州の女酋長で倭王じゃ無かったんだが、
貰ったから倭王(九州王)になった。

743 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:25:10.02 .net
>>741
残念ながら、学者の間では九州説は絶滅危惧種になっている

744 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:26:07.64 .net
>>737
そりゃ、4世紀のことだ

745 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:27:46.28 .net
>>741
そうだな。神武東征、東遷とか記紀等と結びつけるアホな一部の九州説がいる。

746 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:29:08.67 .net
金印は来たが、
卑弥呼は九州王にもなってない。
帳政の査察で魏は相手にするのをやめた。
王権は印では決まらない。

747 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:29:28.06 .net
>>744
宗像族の縄文時代からのテリトリーだと思うがな

748 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:30:13.03 .net
>>745
壹与より後の時代の話ならいいだろう

749 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:30:34.76 .net
>>742
倭王にあげた
畿内説の一部もある議論から逃げている
漢委奴国王は、漢の倭の奴の国の王に金印をあげたのだと
あり得ない

倭国王ではなく、倭の奴国の王に金印をあげるはずがない
当然、「漢のイト国王」に与えたと見るべきである
イト国こそが倭国の王そのものであった

750 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:32:01.72 .net
>>743
残念ながら、
東西南北も読めない三流の考古学者には、
中華古書の解明は不可。、

751 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:32:42.40 .net
>>747
勝手に思えばいい。
別に宗像族でなくてもいいかな。
後からきた族なら理解する。

752 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:33:29.31 .net
>>748
かまわないよ。

753 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:34:25.10 .net
>>750
考古学者と文献史学者が話し合って導き出した答えが畿内説である
すなわち、畿内説とは裁判官のジャッジそのものである

754 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:35:49.72 .net
阿蘇・高千穂の女王・卑弥呼の所都には、
天然の超戦略的有利性が備わっていました。
北の祖母山を守護神とし、東・西・南は、
五ヶ瀬川が刻み込んだ最大深さ150m、
総延長25?もの断崖渓谷で守られていました。

なんと、奈良の三輪山を含む桜井市と、
ほぼ同面積の天然の大要塞だったのです。

755 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:36:07.71 .net
>>748
当然、ろくな鉄鏃等の武器もないのに
苦戦する神武とか阿保過ぎてな。
壹与の後ならわかる。

756 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:38:34.98 .net
>>755
神武東征に馬が出てくるから
ずーっと、後の話

757 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:39:38.10 .net
>>753
なんだい、
考古学者、史学者と、裁判官がツルんでるのか
其れこそ馴合い談合ジャッジ。

758 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:41:23.41 .net
>>756
たぶん、纏向の馬具出土期あたりだよ。
4世紀あたりだろうな。

759 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:44:04.64 .net
大陸半島の玄関口、筑紫の伊都に
畿内の大和朝廷が防人一大率を置いたのは
魏が公孫氏を滅ぼし韓王朝を廃絶した246年である。

これが、
三国志の倭人伝に記録されているんだが
邪馬台国論争の人たちと言うのは
日本の古代史になんかいちゃもん付けたいの?

760 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:44:21.17 .net
阿蘇・高千穂の女王の大要塞は、
縄文〜弥生の昔から、幾多の王国が興り、衰退し、また興り、
を繰り返してきました。

紀元前には、天照大神と日向三代の高天原王朝がありました。
紀元後には、土蜘蛛女酋長の卑弥呼が、
馬台を鎮め、国を建て、宮殿城柵を厳設しました。
そして神武後継の高千穂王朝から、大神・三田井王朝へと続きました

761 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:44:49.38 .net
>>758
なるほど、気がつかなかった。
そういえば福岡でも3世紀後半
馬鐸出土リンクしていた人がいたね。

762 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:47:43.76 .net
「倭の奴の国の王」という表現がありえない
中華皇帝も1人であるから、例えるなら、「中華の洛陽の皇帝」に金印を与えると言ってるようなものである

仮に、ローマ帝国が中華皇帝に金印をあげるとすれば、「中華皇帝」にあげると言えば良いだけで、「中華の洛陽の皇帝」などと一々「洛陽」という都市名を出すはずがない

ローマ帝国マルクスアウレリウスアントニヌス帝か、中国に3皇帝がいることを認識しながら、「中華の洛陽の皇帝」という金印をあげたなら、曹叡は激怒するはずである。
「蜀や呉のクズは勝手に皇帝を名乗っているだけであって、皇帝は魏帝だけである。無礼だ!」と

763 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:52:31.68 .net
>>761
邇邇芸も壹与の後時代だよ。

764 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:55:54.09 .net
>>763
納得した。

765 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:56:08.41 .net
そもそも倭人伝には、末盧国からは東南陸行と書いてある。
ゴタゴタ言わず、その通り佐賀平野へ進めばよいのだ。

主線行程始点の末盧国は、
古代遺跡が集中する唐津インター出口の中原の津 →
→ 東南陸行500里の伊都国は、佐賀川上の皇統太神宮跡 →、
… 東南至奴国100里は、傍線行程行き止まりの佐賀城址。
→元の佐賀川上伊都国に戻って、東行100里の不彌国は吉野ヶ里、

ここが主線行程の終点で、その次は東至西至南至北至の四至説明となる。

766 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 20:58:20.90 .net
古代国の和名でなら、
い ひ と な く み みたいな国名はあって、
ひみ王とか、いと王とか、くな王とか、ひみく王
とかも、あって良いと思うぞ?

卑弥呼と火見狗呼だろ? 
呼が王なら、他の漢字関係ないからw

767 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 21:00:18.73 .net
>>751
宗像族は筑紫の君と同族だよ、もしかしたら卑弥呼と近い氏族かもしれないね

768 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 21:05:45.14 .net
>>767
遠いかもしれんけど定かではない。

769 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 21:06:31.92 .net
>>766
中国人は皇帝と王を明確に区別している
さらに、王は原則的に1人である
例えば、琉球の三山時代には、琉球王というのを認めなかった。
山北王、中山王、山南王は別々であった。
山北王、中山王、山南王はおそらくそれぞれが、「俺こそが琉球の王であり、あいつら2人は琉球の王じゃない」と訴えた。
なので、「琉球王」として冊封しなかった。
琉球王として冊封されたのは、尚巴志が琉球を統一してからである。

770 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 21:20:00.43 .net
>>769
高句麗王は313年に楽浪帯方を追ったが
350年代に楽浪候、幽州刺史に就任した。

これに対抗して馬韓が倭軍を背景に百済を立国した。
この、半島利権の交渉が倭の五王になるのだが?

百済の候王は日本の聖帝とか日十大王に
中華下寵の剣やら鏡を、王子に持たせて献上してるよね?
七支刀と人物画像鏡だけど?

771 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 21:23:39.92 .net
>>770
だから何?

772 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 21:27:28.01 .net
畿内説って、ただの朝鮮忖度なの?

773 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 22:05:12.52 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

774 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 22:54:32.76 .net
やっぱり投馬国、邪馬台国は半島、九州以外

775 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 22:59:28.45 .net
考古学者の北條芳隆は畿内説ではあるが、非合理的な近畿至上主義イデオロギーに塗れた古臭い畿内自生説ではなく、柳田、寺澤、久住らと同様に纒向調査の結果急速に近畿説の主流になりつつある北部九州(とりわけ伊都国)から纏向への遷都/移動を想定している
その根底には、畿内自生説が説明できなかった神武東征伝承との整合が念頭にあるようだ

以下参照

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/files/download/information_blocks/d14e0537-8587-4fae-afa9-bfd005f66505/value01/value02

「平原・吉野ヶ里から纒向への日の出暦の移設は、倭人社会が経験した歴史の一断面でした。さらにその記憶は、やがて神武東征譚へと昇華し記紀神話に残されたのだと思います。 奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡で使用された伝統的な日の出暦と指標となった龍王山の峯峰は、そののちの奈良盆地の景観設計を大筋で規定することになりました。しかし2世紀後半に発生した「倭国大乱」を経て卑弥呼が女王に共立された段階になると、初期大和王権は、本拠地である首都を北部九州から奈良盆地の東南部に移設した可能性が高く、それが纒向遺跡の成立です。このとき誕生した大型建物Dは、この王権の中枢的な祭礼拠点であり、そこから平原・三雲暦計を基盤とする時間の支配に乗り出すことを意図したのだろうと推測できます。社会の支配に不可欠な暦の移植ですから、この授受関係は神武東征と矛盾しません。つまり私が導いた暦の問題は、原田大六が1954年に提起した東遷邪馬台国説を支持するものとなりました。」

776 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 23:02:41.31 .net
客観的に見て、纒向調査の進展で理論的に崩壊したのは畿内自生説だ

纒向調査を踏まえれば伊都国・奴国あたりの人間が初期ヤマト王権に関与した可能性が高く、邪馬台国の可能性は、
①北部九州や吉備から奈良盆地に入った勢力が関与した、あるいは北部九州から遷都したヤマト王権が魏志倭人伝の邪馬台国とする最近の畿内説、
②魏志倭人伝の邪馬台国は北部九州に留まり伊都国など別の北部九州勢力が吉備経由で奈良盆地に入りヤマト王権を作り、北部九州倭国と畿内ヤマト王権が並立したとする北部九州説、
の大きく二つに絞られるだろう

最近の考古学者は①の方向性が増えているが(寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄など)、私は②だと考える
その理由は、
ⅰ)魏志倭人伝の描く倭国が2世紀初頭あたりから連続して続いていること、
ⅱ)描かれた倭人のクニの様子や行程がどう見ても北部九州であること、
ⅲ)纒向には大陸との交流の痕跡がないこと、
など

777 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 23:03:06.55 .net
>>774
おまえは便所のボットンか

778 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 23:10:12.21 .net
このように九州説は滅亡し、畿内説に寄生する存在にまで堕落したのだった

779 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 23:27:47.66 .net
畿内説が九州説に近づいてきてるんだよ
いまの流れが進めば北部九州倭国と畿内ヤマト王権の並立説にいずれ行き着くだろう
魏志倭人伝に邪馬台国遷都の記述がないこと、纒向の外来土器に北部九州のものがほぼ皆無なこと、北部九州が前方後円墳の受け入れに消極的であったこと、記紀に卑弥呼や親魏倭王の伝承がないこと、などを考えれば自ずと答えは出る

780 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 23:30:42.80 .net
北部九州に関する松木武彦著「古墳とはなにか」の以下の記述が大変興味深い

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

781 :日本@名無史さん:2024/02/22(木) 23:45:41.47 .net
>>774
あなたも俺ほどではないにせよ同じ超能力を持ってますね

そのESPの力が無意識のうちに働いて真偽を判断している

図星でしょ笑

782 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 00:00:20.66 .net
完全敗北した九州説はあろうことか畿内説の学者に救いの手を期待するのだった

783 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 00:08:57.07 .net
テンプレの畿内説は纒向調査で理論的に崩壊した旧来型の畿内自生説であり最近の畿内説とは大きく異なる
こんな纒向調査結果とも魏志倭人伝とも整合しない珍説をいつまでも貼り付けるのは逆に畿内説の評判を落とそうとしているとしか思えない

784 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 00:14:05.95 .net
想像上の国邪馬台国は畿内にあった。
ならば、正しいだろう。

785 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 00:17:37.07 .net
畿内説は架空の説です。末盧国から伊都国の行程は存在しないらしい

786 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 00:36:41.11 .net
>>762

倭は凡そ百余国有って國は皆王を称しているので
倭の一番南の奴国だけの王
中国の皇帝とは違う

787 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 00:56:24.47 .net
>>780

福岡平野の現実的なリーダーと3世紀前半に葬制を共有する親密な関係は畿内

788 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 01:00:54.92 .net
「平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」久住猛雄

つまり畿内を支配したのは伊都国勢力だったという事かな

https://x.com/t_kusumi057/status/1751419245744021621?s=46&t=jWZFRdmwp0KW2-6kNqRixg

789 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 01:22:03.31 .net
>>788

久住は、
「那珂八幡型古墳が糸島地方に点在する事実は、
博多湾岸(「奴国」の交易空間)と初期ヤマト政権を結ぶ政治関係性が
「伊都国」圏に楔を打ち込み、
その交易ルートを統制し始めたことを示すとも考えられよう。」
と書いている

790 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 01:29:49.81 .net
>>788
畿内ヤマトからの文化的影響を最後までやんわり拒絶している伊都国は所詮属国

791 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 03:27:05.44 .net
ふるしょう、やつと考古学やり始めたのか

792 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 03:28:53.94 .net
伊都国のビジネスモデルは朱の交易とする説があるね、伊都国周辺の朱が枯渇したので東遷したのだと。

793 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 06:52:50.64 .net
>>762
親魏倭王印
の方が、意味不明
印なのに、なんで魏に親が付く?

漢 委奴 国王 は、漢の字が大きい
親 魏 倭王印 は、
印として、おかしくないか?

魏 卑弥 国王
みたいになるはず。自称国名見たい!

まあ、呉と蜀の王 もあるけどw

794 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 07:35:22.71 .net
>>775
どこかからの引用だと思うが、
どうしても、纏向が初期ヤマト王権の大王都としたいがための寺沢の野望。
そして、それが寺澤の存在価値を高めると思っているから推測、推測のオンパレード。
長年、調査すれど進展なく、推測を証明するさしたる証拠も出てこず、口だけが先行しているのが実態。
纏向と関係ない邪馬台国を引き込んでいるは世間の注目を浴びさせるためだけの手段に過ぎない。

考えてみれば奈良の地は纏向に限らずどの遺跡もヤマト王権と結び付けようと思えば結び付けられる。
そういう地が奈良。取り立ててて纏向と言うのは寺沢らの私利私欲。
まず大王都なら住居跡が数多く発掘されたりして生活臭がないと、、、、

795 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 08:12:35.60 .net
>>794
>まず大王都なら住居跡が数多く発掘されたりして生活臭がないと、、、、

住居跡が数多く発掘され、鉄器や勾玉などを制作し、水銀朱を精製したりして、
多くの民草が暮らした生活臭がぷんぷんしているのが鮎喰川下流域集落群だ。   @阿波

796 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 08:26:14.98 .net
巻向自体が短期的だが、本質は
倭人伝邪馬台国自体があまりにも矮小
夜郎自大、と言うことに尽きる。

大和朝廷の誕生に
ミソ付けたいだけだろ?

なんでたまたま中国史に出ただけで
九州筑紫女王が日本の朝廷創るよ?

なんで卑弥呼の神武東遷だよ。
そういう歴史は無い。

一大卒が大倭の朝廷が送った刺史
だって、倭人伝には書いてあるだろ?

797 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 08:36:26.47 .net
つまり畿内説はガセネタでしたと

798 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 08:37:47.83 .net
>>794
さもありなん
寺澤氏は自己顕示欲が強い方でしょうね。
公金チュウチュウばかりじゃ恥ずかしいから手柄も上げたいのでしょう。
神の手旧石器捏造事件のようなマネはしないと思いますが。

799 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 08:45:04.35 .net
>>794
>大王都なら住居跡が数多く発掘されたりして生活臭がないと、、、、

同意
何が大王都なんだろうね? キナイコシ得意の教育委員会の公表でも大都市と言っているようだが。

大都市の定義を教えてもらいたいもんだ

800 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 08:47:02.16 .net
>>796
一大卒?

801 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 08:48:21.51 .net
>>1奥山=キナイコシの
テンプレ畿内説は纒向調査で理論的に崩壊した旧来型の畿内自生説であり最近の畿内説とは大きく異なる
こんな纒向調査結果とも魏志倭人伝とも整合しない珍説をいつまでも貼り付けるのは逆に畿内説の評判を落とそうとしているとしか思えない

802 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 08:51:05.96 .net
空想で誹謗するばかりの九州説

803 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:03:39.68 .net
なるほどね。投馬国、邪馬台国は半島、九州以外

804 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:04:26.87 .net
>>794
おっしゃる通り
纏向は初期ヤマト王権の大都市ではないな。
いわんや邪馬台国を引きずり込んで、邪馬台国が纏向に東遷したように誘導するのは愚の骨頂。

西の勢力(倭国と渡来人の連合体)がヤマト王権を創ったとは思う。
邪馬台国・卑弥呼は記紀にでてこないし、謎の4・5世紀などから考えると九州邪馬台国は東遷時すでに滅びてたと思いますよ。

805 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:08:43.70 .net
>>794
賛同する
>(纏向は)長年、調査すれど進展なく、推測を証明するさしたる証拠も出てこず、口だけが先行しているのが実態。

806 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:09:49.45 .net
>>797
畿内説は定説になってる
これを崩そうぜ!

807 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:10:58.34 .net
これも賛同
>考えてみれば奈良の地は纏向に限らずどの遺跡もヤマト王権と結び付けようと思えば結び付けられる。
そういう地が奈良。取り立ててて纏向と言うのは寺沢らの私利私欲。
まず大王都なら住居跡が数多く発掘されたりして生活臭がないと、、、、

808 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:16:08.31 .net
>>793
「漢委奴国王」の読みがおかしい

809 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:17:26.56 .net
>>806
悔しそうだな
どこで定説になってんのかねーーーー
畿内説仲間うちの定説ジャネーノ

810 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:20:22.10 .net
俺ら、絶滅危惧種九州説に残っている唯一道は、奈文研の歴年標準パターンを崩壊させること。

811 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:22:41.53 .net
>>778=>>1

くそテンプレ爺さんは引っ込んでな

812 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:24:31.48 .net
反論ひとつ出来ないに畿内説を崩せる訳ないでしょ

813 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:24:46.70 .net
>>811
32歳のジジイ畿内説です

814 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:26:04.97 .net
纏向は初期ヤマト王権の大都市ではないな。
いわんや邪馬台国を引きずり込んで、邪馬台国が纏向に東遷したように誘導するのは愚の骨頂。

西の勢力(倭国と渡来人の連合体)がヤマト王権を創ったとは思う。
邪馬台国・卑弥呼は記紀にでてこないし、謎の4・5世紀などから考えると九州邪馬台国は東遷時すでに滅びてたと思いますよ。

815 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:28:12.32 .net
>>814
纒向が初期のヤマト王権であることを否定する学者は、たったの1人もいませんので勉強不足かと思われます

816 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:29:10.66 .net
逆転の日本史、ホリエモン、卑弥呼は天照、日食がを読んでみても
結局どっちなのかわからない、もしくはどっちにもいた

817 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:45:59.77 .net
>>815
学者って誰の事?
利権団体に所属してる人達?

818 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 09:52:47.84 .net
ほら、中傷しかできない

819 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:01:38.93 .net
畿内説を守る会の人を学者と呼んでるんですねw

820 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:18:59.41 .net
>>815
初期ヤマト王権って何??
このへんがようわからんのだな。
奈良に王権ができた地??伊勢遺跡との関係は?
唐子鍵遺跡との関係は???
何をもって初期ヤマト王権といっているのかね?
奈良近辺の弥生遺跡は群雄割拠も含め初期ヤマト王権とほとんど関係してるんじゃないの。

821 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:25:09.88 .net
>>815
うそつけ
秋山なんかは唐子鍵遺跡だと言ってるぞ

822 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:25:11.49 .net
>>815
うそつけ
秋山なんかは唐子鍵遺跡だと言ってるぞ

823 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:26:17.28 .net
畿内説は嘘のミルフィーユだな

824 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:31:21.19 .net
畿内説の主張

「郡から伊都国までの1万500里は架空ですが、伊都国から邪馬台国までは1里432メートルです。なんか文句ある?」

825 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:31:38.53 .net
卑弥呼より前は龍と鳥だ
香川山陰北陸近畿東海にまたがる国作り
関東の葛飾や安房も神奈川辺りも参画していた可能性すらある
出雲と大阪は弥生時代前期から鳥形の地でもある
諏訪や奈良、石切辺りは黒い龍が有名やしな
弥生時代後期の唐古・鍵遺跡、橿原は龍の絵画土器の地だな

826 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:33:13.58 .net
>>820
>奈良近辺の弥生遺跡は群雄割拠も含め初期ヤマト王権とほとんど関係してるんじゃないの。

碌すっぽ鉄器さえ作れない奈良近辺に、初期ヤマト王権?   @阿波

827 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:33:19.00 .net
邪馬台国の中心地に比定する説がある、邪馬台国がよくわからないので
半信半疑

828 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:34:00.61 .net
🐉と🪿は共にあり
唐古・鍵遺跡と橿原からは龍と鳥装のシャーマンの絵画土器
池上曽根遺跡からは龍の絵画土器と鳥形

829 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:34:54.99 .net
邪馬台国とヤマト王権は関係ないな
倭国とヤマト王権は関係あるけどな

ヤマト=倭
畿内は倭国ではない。倭種の別国の部類。
倭国(西の勢力)に制圧されたのが倭種の別国畿内の豪族ども

これが一番わかりやい。畿内は倭国でない。邪馬台国も畿内ではない。

830 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:35:24.57 .net
まず邪馬臺国は日本列島で一番大きな国だという根拠のない思い込みがいかんよ
この根拠のない思い込みを捨てることから始めないと

831 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:40:45.45 .net
>>830
>邪馬臺国は日本列島で一番大きな国だという根拠のない思い込みが

7万戸ですけど

832 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:42:27.68 .net
>>831
傍国や東の倭種の戸数は?

833 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:42:40.58 .net
倭国=倭人居住地-(倭地+倭種)
九州の南部と東北地方南部はヤマトタケルの時代まで倭国と対立する熊襲と蝦夷のテリトリー
東北の北端まで大和化となったのは鎌倉幕府が奥州藤原氏を滅ぼした後
北海道の蝦夷地が幕府直轄領となったのは江戸時代

834 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:42:46.82 .net
>>813
可哀そうだね
32歳でもうボケが始まってるのかWW

835 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:42:54.99 .net
>>829
>これが一番わかりやい。畿内は倭国でない。邪馬台国も畿内ではない。

理由をひとことも言わなきゃ、わかりにくいよ

836 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:45:55.05 .net
龍と鳥の時代の後に鏡の時代
奈良時代に書かれた常陸国風土記には鏡を見ると逃げていくトキ鬼の話がある
トキとは鏡の時代より前に山陰北陸近畿東海にいた人たちではないか?
最初の元号(時)の大化を定めたのは孝徳天皇
時を名乗ったのは光孝天皇だな
明治天皇の御歌は本当に興味深い
時鳥は都にはめったにいないという歌も興味深い
庶民が知り得ない歴史があるんだろう

837 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:47:56.19 .net
本日のこれまでの流れ
1,纏向はヤマト王権と関係あるが邪馬台国と関係ないないのではないか?
2,纏向は初期ヤマト王権の大王都では無いのではないか
3,初期ヤマト王権の定義とは?
以上で議論中だが
私見では、邪馬台国と関係ないが、奈良の地に纏向があるので初期ヤマト王権となんらかの関係があったのであろう。

838 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:50:40.02 .net
>>833
文中「東北地方南部」を「東北地方北部」と訂正します

839 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:51:00.35 .net
>>824
もうFAQ58は通用しないことが分かったから、
もう追及はやめようぜ。畿内説から>>1は締め出しをくっているようだ。

840 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:52:59.47 .net
伊勢遺跡の地も弥生時代中期には鳥形の地だ
下之郷遺跡から弥生時代中期に鳥形が見つかっている
息長氏が本拠地にした琵琶湖北部は弥生時代後期に鳥形の地になる
伊吹山の神は白い猪
鳥と猪は枕詞を見ると関係性がわかる

息長の枕詞は鳰鳥の
鳰は平安時代に作られた和製漢字で鳥に入ると書いて水に入る鳥を表しているらしい
ちなみに鳰鳥のは葛飾に掛かる枕詞でもある
まだ見つかってはいないが葛飾辺りも弥生時代後期鳥形の国作りに参画していた可能性もある
息長鳥と書いてシナガ鳥と読む枕詞がある
息長鳥は猪名や安房に掛かる枕詞である
箱根の東側の神奈川の地はかつてシナガ国であった
箱根の西側は弥生時代後期になると登呂遺跡など静岡市、沼津市、細江町の5つの遺跡から鳥形が見つかっている
全て摂津の玉津田中遺跡の鳥形と同じ形の鳥形である
摂津の地はかつて猪名県であった
箱根には猪に纏わる言い伝えがあり、神奈川の寒川神社の御神体は猪の頭である
琵琶湖北部の伊吹山の神さまはヤマトタケルの話にも出てくる白い猪であった

841 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 10:56:34.63 .net
>>835
テンプレ読めよ。テンプレ読んだら畿内は邪馬台国でも倭国でもないことがわかるよ。
テンプレは反面教師

842 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:02:19.04 .net
>>840
サンキュウ
伊勢遺跡では祭祀跡が見つかってるけど桃、カエルは見つかってないね。
伊勢遺跡→纏向の流れだと桃やカエルは祭祀用ではなく食用の可能性が高いね。

843 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:03:03.42 .net
>>794
賛同する
>(纏向は)長年、調査すれど進展なく、推測を証明するさしたる証拠も出てこず、口だけが先行しているのが実態。

844 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:07:11.89 .net
西暦238年と言えば崇神天皇の時代

845 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:07:14.39 .net
結局、邪馬臺国が日本列島で一番大きな国というのは
根拠のない思い込みということが判明したな

846 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:11:22.52 .net
依然として証拠を一切出さない九州説

847 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:13:51.44 .net
>>846
おまえが証拠を出せば済む話しだぞ

848 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:13:56.34 .net
>開皇二十年(600)、倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩?弥と号す。

推古天皇、この頃には既にアマ族が邪馬台国を平定していたと思われる

>山門郡(やまと:今のみやま市と柳川市)の土蜘蛛 田油津媛(たぶらつひめ)が仲哀9年3月に神功皇后によって誅せられた

この頃は未だ北部九州を平定したとまでは書かれていない
従って、この頃外交していたのは北部九州だけという事も考えられる

849 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:14:17.60 .net
wahaha
>>1さんよ
Wwww
纏向が邪馬台国の王都どころか初期ヤマト王権の王都も怪しくなってきたな
Wwwww

850 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:16:05.17 .net
九州や畿内やという色分けは正しくない
百舌鳥古市古墳群の終焉と筑紫の君磐井の最後は同じ時代だ
岩戸山古墳には猪を盗んだ盗人の石像がある
その後誰が権力を持ち一世風靡したか見ていけばいい

851 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:19:41.68 .net
>>848
考えられないよ。

852 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:20:07.52 .net
畿内説から>>1は締め出しをくっているようだ。

853 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:21:13.03 .net
相変わらず、なにも理由を言わずに結論だけ連呼するのが九州説

854 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:27:32.03 .net
>>839
畿内説の詐欺を周知するのは正義です

855 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:29:15.48 .net
誰かが筑紫の君磐井から猪名に連なる姫を盗んだんじゃないの?

もっと昔にも似たような話は各地にある
松や岩にかけてある羽衣を盗む話やな

摂津の猪名川は弥生時代の早い時期から灌漑設備を持つ高度な稲作が行われていた地域である
弥生時代後期になると猪名川の稲作を行なっていた集落は急激に規模を縮小する
仮説に過ぎないが弥生時代後期、猪名川の稲作集団は静岡に移動して登呂遺跡を作ったんじゃなかろうか
弥生時代後期に誕生した登呂遺跡からは区画化された水田跡が見つかっている

駿河国風土記には神女降臨神話が書いてある
神女の軽い衣は松に掛けてあったとある
全国に羽衣伝説が残っているが衣を掛けてあるのは松や岩である
衣を盗むのは漁師であるのが定番のストーリーである

卑弥呼の誕生秘話に繋がるんじゃないかと個人的には疑っているが証拠がないんだよな

856 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:32:47.14 .net
>>851
当然、九州以外の土器出土
各地にある中国朱、
日本各地や半島、中国からの翡翠
各地からの緑色片岩等。交流はあった。

857 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:33:25.77 .net
卑弥呼が海人の家系図に登場していれば弱いが傍証の一つになるんだが

858 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:36:39.09 .net
>>857
比売大神(宗像三女神)だろ

859 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:37:30.66 .net
>>857
家系図も胡散くさいのもあるので要注意。
馬鹿は文献xxと一致したという阿保。
文献xxを参考にすれば一致するのは当然

860 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:44:28.08 .net
そもそも卑弥呼は
ヒミコ
の読みで正しいのか?
現代中国だとhuだから、コとは似ても似つかない発音なんだが

861 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:48:34.48 .net
>>860
昭和のテレビで“ヒミファ”だと言っていたのは記憶している

862 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:48:37.06 .net
>>859
当然、
『新撰姓氏録』等も鵜呑みできない。

863 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:53:28.03 .net
>>859
『延喜式神名帳』も鵜呑みできないよ

864 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 11:59:27.90 .net
>>863
それらが証拠とか阿保はボツ

865 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:03:50.89 .net
倭国大乱前の国作りは、
大和国風土記逸文にあるように
石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のことという記述通りじゃないのかな
旧石器時代からいる石棒で象徴される男神と文物の知識を持つ渡来人の姫神が婚姻を結びあう
光る君への世界観の始まりでしょう

記紀や風土記が書かれた奈良時代ではそれを戯れとしたが

866 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/23(金) 12:04:28.75 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

867 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:09:42.34 .net
チョンコの支持政党は反日のれいわ立憲共産党です

868 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:13:16.36 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

869 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:18:51.96 .net
倭国大乱を鎮めようと必死に動いていたのは欠史の孝じゃないのか?
最後は孝自身が登場して、生きる糧でもある耕作地でもある畿内の場所を民衆にも委ね退いた
それでも人間は欲に塗れ倭国大乱以降600年も内乱を続けた
奈良時代は国が荒び役で奈良に向かった人々は往復の途で行き倒れになっていた
行基集団や畿内の在地の人々は奈良の中枢が何もしないので、行き倒れになった人々を保護して食べ物を持ち寄り助けていた

堺のえべっさん伝承そのままでしょ
むかぁし、むかぁしのこと、堺では、まだ人間は住んでなくて神様ばかりが住んでおられましたのやと。
その時代、堺は浜のえべっさんのあたりまで海であったそうですが、ある日のこと、この浜に葦の葉で編んだ舟に乗って目も鼻もまだ出来ていない、未熟児の神様がこの浜にたどり着かれたそうです。そしてこの浜でどのような修行をなさったのか、誰も知りませんがこの地でえべっさんと言う立派な神様におなりになったそうです。神様になられるまでの年月はわかりませんが、それは長い年月だったと思います。
長い長い年月の後、この地には神様だけではなく人間も、動物、魚、鳥と住むようになったそうです。
このようにして、堺は神様を中心にりっぱな村落が築かれたのだそうです。こうして出来た村落に流れる、石津川上流へ向かった所にもう一柱の天地を守るえべっさんが五色に光る石を持って御降臨なさったそうです。
こうして、浜と陸の神様に守られた堺の地上には、木々が生え、草花が咲き、鳥は舞い、動物は駆けめぐり、海にはたくさんの魚が泳ぎ、それは素晴らしい楽園であったと言われております。 このようにすばらしい楽園をお造りになった神々はやがて天へと住まいを移されたそうです。
ところが、神々によって満たされた地上で万物が平和に暮らしているというのに、神様と同じ姿をした人間だけが、欲という感情を持つようになったそうです。この欲という感情は喜びや悲しみの感情を生みふくらませて、どんどんそうした感情の種類を増やして、戦いの感情や支配する感情など、色々な感情が広がっていったそうです。

870 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:20:45.19 .net
えべっさんでしょ
国作りをしてヤマト政権を始めたのは
ひるこのえべっさん、事代主のえべっさん、大黒さまのえべっさん

871 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:26:28.77 .net
>>779
並立説だとすると、畿内のヤマト王権が自生しないといけないから、おかしいのでは?

872 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:27:04.33 .net
邪馬台国問題など既にふるしょうさんが解決しちゃったよ。もうおまえらの出る幕はないよw

873 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:36:57.99 .net
>>872
自立できないひと?

874 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/02/23(金) 12:38:14.97 .net
古代の日本の豪族の先祖は何故か必ず天照及びその側近の神、もしくは饒速日か大国主に収束するからな
これ以外の無名の神の子孫がいないというのが不思議である

あと隼人はニニギの末裔であるが蝦夷はどの神の末裔でもない
これは記紀が編纂された時に神話が作られたのなら隼人と蝦夷の両方とも先祖の神が設定されるはずだが、設定されたのは隼人だけである

つまり記紀の神話はヤマト王権が隼人と接触済みで蝦夷とは接触がなかった頃に産まれたもの、雄略は毛人を制しているからこれを遥かに遡る頃に産まれたものと分かる
久米歌の中に「えみしはひとりももなひと」とあるが、もしこれを本当にヤマト王権建国期のものと信じるならば、記紀の神話はヤマト王権が纏向に移動する前の九州時代のものということになろう

875 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:39:48.42 .net
並立も何もこの時代の王なんて日本中に山ほどいただろう

邪馬台国も狗奴国も天孫族も一地方の王に過ぎない

記紀にもこの時期に広範囲を平定していたとは書かれていない

876 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:41:41.22 .net
>>875
だとすると、畿内に邪馬台国があってもおかしくないことになる。

877 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:44:49.30 .net
北部九州の影響なしに前方後円墳と三角縁神獣鏡のヤマト王権がどうやって形成されたのか。
朝鮮半島からの渡来人が敦賀あたりから上陸して畿内に王権を作ったと考えないといけなくなる。

878 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:45:12.78 .net
>>871
別に畿内で自生せんでも吉備と東海のマリアージュでいいかも

879 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:45:41.55 .net
ヤマト王権自生説は、つまるところ、
高天原から、奈良の三輪山に天孫降臨があったという説につながらざるを得ない。
で、その三輪山をご神体とするのが大賀神社だが、
摩訶不思議なことにこれは出雲系。

880 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:47:21.99 .net
>>876
宇美からの方角が南なのは?
狗奴国は?
海を渡って千里の国は?
その南の小人国は?
女王国以北以外が記述出来ない理由は?
帯方郡から12000里なのは?(帯方郡から宇美まで10700里)
倭の地周回5000里はどこを周回?

881 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:47:29.97 .net
>>875
魏から王と認められたのは倭王卑弥呼だけだ
狗奴国の王は自分で勝手に王を自称してる
倭で他に王を自称してる者はいないな。

882 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/23(金) 12:48:43.04 .net
もしヤマト王権が畿内に自生したのなら、記紀のストーリーでニニギは三輪山に降臨するはずである
なぜ九州に降臨しているのか。これは九州のルーツがあるからに他ならない。
子供でも分かる理屈である。

883 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:49:32.11 .net
>>881
書かれていないだけで伊都国にも王がいたし
後漢書によれば30余国それぞれが王を称して代々継いでいたそうな
その頂点に大倭王が君臨してた

884 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:50:17.01 .net
出雲から国譲りされたのは吉備でしょう
根の国に行って逃げ帰る時に桃投げつけた吉備人の国

885 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:50:39.34 .net
>>879
天孫降臨は吾田長屋笠狭岬(鹿児島県南さつま市)

886 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:51:32.42 .net
>>883
そもそも王がいないところを国と表現しない

887 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/02/23(金) 12:54:28.40 .net
これはヤマト王権吉備説でも同様で、もし吉備で産まれたのならニニギは吉備の何処かの山に降臨していないとおかしい
吉備は九州勢力が畿内に移動するまでの途中の場所にすぎなかったと考えるのが適切であろう

九州勢力が吉備勢力と共に畿内の銅鐸祭祀族を征服して、邪馬台国(ヤマト王権)を建てたと見るべきなのである

888 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:57:18.46 .net
886
そりゃ同国内の場合だろ

889 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:58:06.62 .net
>天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。

天津彦彦火瓊瓊杵尊の天孫降臨というのは、筑紫にいた王族が倭国大乱なる戦禍から逃れ南九州を平定したという事に由来するのであろう

890 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:59:14.77 .net
陳寿の書いた「邪馬台国」がとこを指すのか、なんてさして重要な問題じゃない。問題はヤマト王権がどうやってできたのかだ。

891 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 12:59:19.07 .net
東遷説は九州説またはどっちにもあった

892 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:01:19.40 .net
>>887
それ年代いつなの?

893 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:01:30.53 .net
>>882
王が多数居たのは卑弥呼が倭王に任命される前の時代の話だな
卑弥呼が倭王となった以後、王は倭王卑弥呼と自分で勝手に王を自称してる狗奴国の王の二人しかいない。

894 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:02:34.40 .net
記紀を作った奈良時代の人々の故地が九州で歴史に背乗りしたんじゃないの
奈良時代の後半からもう一度倭国大乱前のように同じような手順を踏んで結束を確かめ合い国作りをやり直したと思うけどね
志貴皇子のムササビの歌に始まり、竹を切り酒を注ぎ、石鎚山の上仙、更に豊郷を経て、そして‥

平安時代は当初内裏には宮はなかったらしいね
周辺の山々にあったという

895 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:02:55.02 .net
>>883
王が多数居たのは卑弥呼が倭王に任命される前の時代の話だな
卑弥呼が倭王となった以後、王は倭王卑弥呼と自分で勝手に王を自称してる狗奴国の王の二人しかいない。

896 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:05:27.20 .net
>>886
卑弥呼が倭王の時代は倭王卑弥呼に付く国か狗奴国の王に付くか国に分かれていたんだ

897 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:11:01.64 .net
>>886
とするとやはり後漢書に書かれている通り30余国それぞれに王がいたということなんだろうな

凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
(倭は)およそ百余国
武帝が衛氏朝鮮を滅して以来、漢と使駅を通じたのは三十国ほどである
国はみな王を称し代々受け継いでいる
その大倭王は邪馬台国に居る

898 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:11:43.00 .net
>>890
ヤマト王権がどうしてたかは記紀研究でいいじゃん。
このスレは邪馬台国のスレ

899 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:12:06.56 .net
そもそも筑紫に王族なんていないでしょ
王墓らしきものが連続していない

900 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:14:33.64 .net
九州なんて最終的には物部に征服されてるけど?

物部のアラカイが太宰府を設置したんだぞ

九州にいたやつらが京都に来たってか?

太宰府の役人にでもなったんじゃねえのか?

ほんと見下したい連中らが多くて呆れるわ

現実はどおだ?

901 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:14:38.84 .net
三輪山の大神神社の荒魂は狭井の神で酒と井戸と薬の神さまである
この性質はスクナヒコナと同じである
スクナヒコナが潮岬から旅立ちその後に三輪山に降臨するのが大物主である
卑弥弓呼が孝昭の漢風諡号のモデルで三輪山の荒魂狭井の神、その後の孝元の漢風諡号が大物主葦原のしこかもしれないね
勝手な想像だけど

潮岬から船で旅立つと房総半島に辿り着く
房総半島は古墳時代にとんがり帽子の埴輪が見つかっている地だな
奈良時代に書かれた常陸国風土記にはサカ鳥が棲むと書いてある
サカ鳥は朝越えにかかる枕詞
鶏の鶏冠は昔はサカと呼んでいた
鶏が鳴くは東の枕詞だ

856年スクナヒコナが東国の地に戻ってきたと常陸国に伝わる
個人的には平氏と何か関係があるんじゃないかと思うんだけどね

902 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:16:38.08 .net
>>1さんよ
Wwww
纏向が邪馬台国の王都どころか初期ヤマト王権の王都も怪しくなってきたな
Wwwww

903 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:17:31.67 .net
そもそも論で
卑弥呼の系譜は絶えるだろ?
安曇氏と筑紫君が代表したと思うぞ。

あ、
ヤマトはw
出雲尾張吉備・・・で、畿内朝廷。

904 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:21:39.61 .net
さあ古くはアスカだったかもしれないけどな

ヤマトの国と呼ばれるようになったのはほぼ奈良県全域を倭の国と書いてヤマトと呼ぶように❗って命令が出てからだ

905 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:23:14.63 .net
魏志倭人伝が日本列島全体の事を言っていると考えるから見誤るのである

奈良までの大航海をした使節一行が、

「女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない」

奈良まで行けるのだから、四国も東海地方も行けるだろうとなる

906 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:23:59.88 .net
そもそも卑弥呼の読みは本当に「ヒミコ」でいいのか?
現代中国語だと呼の読み方はhuでkoとは似ても似つかない音なんだが

907 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:24:01.55 .net
やがて好字令が発令されて出て倭から和へと変えられた

908 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:24:16.68 .net
>>904
山の麓の事を固有名詞的ではなく「ヤマト(山門)」と呼んでいたのだ

山が付く地名の一つに過ぎない

909 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:26:08.07 .net
>>906
「ヒメと呼ぶ」と聞いたのを「ヒミ」と聴こえて「ヒミ呼(ばれている)」と記したのだろう

910 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:29:59.87 .net
ヤマトの国と呼ぶように❗☺って命令が出たのが西暦700年ころ

911 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:32:00.50 .net
糸島あたりから筑紫平野の南端(山門)までは山を越えずに行ける

山を越える事を(遠く絶たっていて)と記載したのだろう
この記述から狗奴国まで行っていない可能性がある

だから、北九州市あたりも山を越えなければならないから女王国には属さないのだろう

912 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:36:43.41 .net
>>908
九州のヤマトは山の門という意味なのはわかるが
奈良のヤマトはいったいどんな意味なんだろうな

913 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:39:47.21 .net
>>912
仏教寺院 山門は各地にあるので福岡県の山門だけではない

914 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:40:59.99 .net
邪馬台国だけど
元字の臺は、魏の表意文字で
曹操の高楼、王城なのであって

国名という意味では
邪馬国だと思いますけど?

915 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:41:51.81 .net
奈良がヤマトになったのは仏教伝来して以降のはなしか

916 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:49:33.36 .net
津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」
https://pbs.twimg.com/media/GGYOew3a4AAGj9g?format=jpg
https://pbs.twimg.com/media/GGYOgvCa4AEVMEB?format=jpg

917 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:51:45.91 .net
>>914
ヤマ国という国名はともかく、筑紫平野の南端に山門、女山(=女王山、ぞやま)があるのは事実なので、
山に女王がいたという事だろう
そして山を越えなければならない女王以北以外の国々を(遠く絶たっていて)と記載したのだろう

918 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:54:44.28 .net
>>887
>九州勢力が吉備勢力と共に畿内の銅鐸祭祀族を征服して

碌に鉄器も作れない、寒村畿内へか?   @阿波

919 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 13:56:10.90 .net
>>912
300年以降半島進出が活発化して
難波摂津河内が軍港拠点だけど

姫や皇太子の宮は奈良に上げて
山都だと思います。雅な文字で・・・

隋唐の成立時でも登ったし。
天智は近江まで下がった。

920 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/23(金) 13:58:53.03 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

921 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/23(金) 14:02:36.21 .net
ヤマトは山の麓という意味
三輪山の麓だからヤマト国と言ったと考えられる

纏向遺跡は西暦180年頃から三輪山の麓で建設が開始されている
つまり卑弥呼が即位した頃にヤマト国があったというわけだ

922 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:03:59.97 .net
>>919
山の都ならヤマツ国かな

923 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:05:54.86 .net
919
どこの資料?

半島への出兵は出雲から船出したんだよ

九州は敵を迎え打つ地

924 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:07:10.87 .net
秀吉の時代になって九州から出たけどな

半島〜九州間を行き交ってたのは蜜貿易船

925 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:07:33.17 .net
密貿易に訂正

926 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:09:02.60 .net
出雲まで進軍してそのあと半島へと船で渡るか九州へ陸路で進軍するかって二手に分かれたわけさ

927 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:09:19.84 .net
>>906
古代日本語にはh音はなかった。

中国のh音はすべてカ行音に変換される

海hai →カイ

928 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:10:48.95 .net
九州半島間は密貿易船が行き交っていたからな

だから取り締まりも強化したんだよ

929 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:11:36.78 .net
>>779

>北部九州が前方後円墳の受け入れに消極的であったこと

消極的ではないよ

930 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:12:45.41 .net
>>917
原文は、至女王処都邪馬壹国 で、

魏が臺を卑弥呼の宮に使わない為に
表意文字は形で、壹とか嘉に変えた。
つまり、音は無視できたのかと。

和音国名はヤマ国で?
女王の処都であれば、
卑弥呼城でも卑弥呼宮でも良いけど。

931 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:13:03.46 .net
これを見る限り東遷説はないと思う。
明らかにいきなり渡来人が近畿にやってきている。

https://i.imgur.com/KJ3nsmW.jpg

932 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:15:54.25 .net
>>931
渡来人が大量にやってきたのは応神朝
つまり古墳時代に入ってからなんだ

崇神→四道将軍
景行→ヤマトタケル
神功→三韓征伐
応神→渡来人大量来日

畿内から海外進出するまできちんとストーリーになってるんよ

933 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:18:32.20 .net
大阪湾から直接出たのは遣隋使とか遣唐使の時代じゃないのかい?

朝鮮人半島に直接渡る必要はもうないから西海道が取られたら

九州南部に渡ってそのまま中国へと向かう

半島〜北九州間は古くから密貿易が行われたからほとんど私的貿易を狙った連中らがやってきたんだわな

934 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:23:21.31 .net
>>933
>大阪湾から直接出たのは遣隋使とか遣唐使の時代じゃないのかい?

大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。   @阿波

935 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:25:43.40 .net
>>931
それは大和朝廷成立後に渡来人が都に集まったのだろう

936 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:26:36.29 .net
934
昔は大阪湾から船で入り近江の琵琶湖までたどり着きます

大津

937 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:31:07.20 .net
関東の江戸川だってそおだもんよ

江戸自体はもともと寒村

川を遡り船の入江はもっと内陸部の方なんだよ

938 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:32:55.65 .net
また、そもそもだが・・・

魏は倭国を
女王国と言ってる訳だけど?

それって、
一代で終わるのかな?
万世一系の国なんですけどwww

まあ、畿内説じゃなければ
卑弥呼小金井。で桶。

939 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:43:35.78 .net
>>936
どっかに舟用の
水のエレベーターなかった?

まあ、草津追分三五郎で
江戸っ子ごっこ、したいけどw

940 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:53:44.07 .net
倭地は馬がいないのに邪馬台国ってのもおかしな話だねw

日本で馬が現れだすの倭と高句麗が同盟を結んでからじゃないの?

お互いに行き来する連中らが現れたからな

何とかの大兄とか呼ばれた皇族が高句麗の連中らの戦争にも参加してきたみたい

941 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:55:00.44 .net
日本で武器を作ってその武器を高句麗の連中らが使用するくらいの関係にはなってたのよ

その性能の話とかも残っておる

942 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 14:57:11.95 .net
日本は半島放棄❗😆って決めてからは高句麗主導になった半島は

943 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:00:38.28 .net
お互いに行き来があったから高句麗からの難民らも日本までやってきたわけ

944 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:02:16.14 .net
>>93
女王国と呼んでるのは公孫氏だね
卑弥呼の在位期間の内189年前から238年までの約50年間も公孫氏が倭を隷属下に置いていた
長期間女王が治める国だから女王国と呼んでいたんだ。

945 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:03:06.29 .net
>>938
女王国と呼んでるのは公孫氏だね
卑弥呼の在位期間の内189年前から238年までの約50年間も公孫氏が倭を隷属下に置いていた
長期間女王が治める国だから女王国と呼んでいたんだ。

946 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:07:12.60 .net
なるほど

それで滅んだわけだな

947 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:08:56.98 .net
半島あたりにいた馬賊との付き合いって言っても高句麗以前に遡れるのか?

948 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:10:18.66 .net
>>944
公孫三代、帯方郡時代は銅鏡の供給がストップしてたかもしらんな

後漢時代 → 漢委奴国王金印、帥升、70-80年男王の時代
黄巾の乱 → 倭国大乱、暦年主なし
公孫三代、帯方郡 → 190年頃~東夷を支配、中華への朝貢が絶たれる
公孫氏滅亡 → 238年、難升米が魏軍に捕まり洛陽に連行される
魏時代 → 親魏倭王、金印、銅鏡100枚
魏が西晋に禅譲 → 266年を最期に女王国の消息が不明になる

949 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:26:31.10 .net
高瀬舟は京都から舟で囚人を島流しにする話

950 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:31:28.46 .net
魏と倭が交流してた時は男王も居たから女王国とは呼ばないな。

951 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:32:57.75 .net
>>936
江戸時代に帆掛け船によってな。   @阿波

952 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:34:19.22 .net
>>950
魏使が倭国に行った時は卑弥呼か台与が王だった時

953 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:37:24.44 .net
高瀬舟は帆が無いなhttps://i.imgur.com/axv2ytW.jpeg

954 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:40:34.38 .net
>>953
下りはいらん。   @阿波

955 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:42:01.35 .net
登りの高瀬舟にも帆が無いなhttps://i.imgur.com/CoibSnV.jpeg

956 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:47:19.90 .net
>>955
人が居なくても上るのか?   @阿波

957 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:56:09.67 .net
>>956
登りだろうが下りだろうが帆が無いということだ

958 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:56:40.38 .net
>>955
遠賀川も、人が漕がなくても上るのか?   @阿波

959 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 15:59:48.79 .net
>>957
登りだろうが下りだろうが、人が乗っていなくても上るのか?   @阿波

960 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:03:17.15 .net
帆があったら京の街の橋はくぐれない

961 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:05:24.22 .net
くぐらなければよい。   @阿波

962 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:06:29.18 .net
>>923
神功皇后は松浦から出航しているなhttps://i.imgur.com/1qVC1dR.jpeg

963 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:07:16.38 .net
>>961
帆が無ければよいだけ

964 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:09:07.94 .net
>>962
実際は、平戸辺りからの出航だろうな。   @阿波

965 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:10:47.71 .net
>>963
>帆が無ければよいだけ

帆があるとマズイ遠賀川遡上馬鹿。   @阿波

966 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:12:46.79 .net
なるほど

海賊船にでも乗っていったのかな?

967 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:20:04.53 .net
柳川の川上り

https://youtu.be/vWtDdlFWlmU?si=f4KzNZYfLWEp6xmo

968 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:22:03.94 .net
>>952
最初の帯方郡使、梯儁が倭を訪れた時は未だ卑弥呼が生きてて卑弥呼と対面してる
二度目の帯方郡使、張政は卑弥呼とは会っておらず男王が立ち、その後壱与が即位している。
梯儁は卑弥呼と会ったので倭の王が女王である事は知っていたが、たまたま会った王が女性だからと言ってその国自体を女王国とは呼ばないし
張政の場合は男王も見てるから女王国とは呼ばないな。

969 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:25:43.48 .net
>>967
竿で上れるか? どう見ても下りだろ。   @阿波

970 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:29:31.05 .net
>>969
昇進にちなんで川上りだとアナウンサーが言っているだろ、おまえは耳も遠いのか?

971 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:31:47.12 .net
>>970
竿で上れるか? どう見ても下りだろ。   @阿波

972 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:32:51.98 .net
>>971
おまえは自分の認知力を疑った方がいいぞ

973 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:35:32.54 .net
>>968
やはり女王国は公孫氏時代の記録だな
短里も公孫氏が使用していたものだな。

974 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:36:08.02 .net
>>968
つまり、247年以降
陳寿の三国志が終わるまで
女王国の消息、朝貢は無かった。

266年の参列は、倭国? 
同じ女王国か?

975 ::2024/02/23(金) 16:36:42.10 .net
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708671212/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

976 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:37:24.99 .net
>>972
おまえは自分の目を疑った方がいいぞ。 竿も碌に突いていないぞ。 まるで池だな。   @阿波 

977 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:43:53.16 .net
阿波の宣伝係は一人ボッチ
支援者も支持者もいない

978 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:00:22.15 .net
>熊襲梟帥には二人の娘がいます。姉を市乾鹿文(イチフカヤ)といいます。妹は市鹿文(イチカヤ)といいます。
>容姿は美しく、心は雄々しいです。

九州の濃い顔の男の娘は意外なほどに、そこまで濃い顔ではない美形が多いという気がする


>山門郡の土蜘蛛 田油津媛(たぶらつひめ)が仲哀9年3月に神功皇后によって誅せられた

「誑(たぶら)かす」姫から、この俗称を付けたという説があるから、美形だったのかもしれん

979 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:02:47.75 .net
>>977
寄ってたかって掛かってこい! トンデモごとき、一人で十分だ。   @阿波

980 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:07:54.03 .net
>>968
男王は立つもすぐに内乱になって有耶無耶になった
そしておそらく張政の(魏の)後ろ盾を得て台与が共立された
魏の威光が効きまくって台与は倭国を統一した
これが248年の出来事

981 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:08:40.48 .net
>>978
衆をよく惑わしてたのかもしれん

982 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:12:08.87 .net
>>981
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。   @阿波

983 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:12:22.56 .net
>>962
そこかよw
楽浪帯方郡がないんだが?
平壌だし。

日本で三国志読んでなかったのか?
まあ、三韓征伐無理って話は無理だ。

併合で禁書か?
戦前邪馬台国論争本当に有ったのか?

984 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:18:03.15 .net
>>983
楽浪郡帯方郡は313年に高句麗に占領されてる
神功皇后はその後

985 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:18:03.85 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

986 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:20:00.56 .net
倉敷の舟流しは下りも上りもあるhttps://i.imgur.com/cSnPX5Y.jpeg

987 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:24:06.19 .net
>>985
 寒冷化の影響ですか

>投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため

988 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:24:39.98 .net
>>984
その記紀の修正も戦後では?
学校で万世一系の歴代天皇の暗唱で
紀元は、2600年♪ だし。

989 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:31:45.22 .net
>>986
下りも上りも無いに等しい川(運河?)だがな。   @阿波

990 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:34:46.77 .net
>>986
隅田川も。
ハゼ居るとこなら登る流れもある。

991 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:45:55.76 .net
>>984
てか、それって、対高句麗戦で
鉄や牛馬の国内生産化して、
応神から仁徳で百済独立させるんだけど?
征伐の反対なのだ。

992 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:54:14.01 .net
九州説でも構わないが考古学やらうぜ

993 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 17:57:24.29 .net
>>962
松浦の港とは呼子のことだな。

994 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:00:16.92 .net
>>985
瀬戸内海航路を中国船が通行出来るようになったのは平清盛が瀬戸内海航路を整備した後の平安時代末以後だよ
郡使は岡山なんて行ってないよw

995 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:01:36.63 .net
宇佐神宮にあった金印かもしれない金の財宝は大神比義の子孫の緒方三郎に盗まれてしまったのが残念ではある

996 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:10:09.96 .net
>>992
畿内で古墳掘れないのに

997 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:13:42.00 .net
>>994
九州北部から邪馬台国の丸木舟の送迎船に乗り換えたんだろ

998 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:28:20.00 .net
>>992
考古学やると九州説が覆されてしまうからやりたくないんだってさ。

999 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:29:25.13 .net
>>998
考古学でも、「阿波」一択。   @阿波

1000 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:33:36.53 .net
1000なら畿内説自滅

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
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