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邪馬台国畿内説 Part995

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:53:32.37 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708430370/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

2 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:54:15.99 .net
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:54:46.11 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:55:16.81 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:55:47.08 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:56:16.47 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:56:46.93 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:58:00.67 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:58:30.54 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/23(金) 15:59:01.13 .net
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 ::2024/02/23(金) 15:59:30.94 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

12 ::2024/02/23(金) 16:00:00.21 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 ::2024/02/23(金) 16:00:30.64 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 ::2024/02/23(金) 16:01:00.86 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 ::2024/02/23(金) 16:01:30.98 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 ::2024/02/23(金) 16:02:00.73 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 ::2024/02/23(金) 16:02:30.64 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 ::2024/02/23(金) 16:03:01.05 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19 ::2024/02/23(金) 16:03:30.71 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20 ::2024/02/23(金) 16:04:00.56 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。

21 ::2024/02/23(金) 16:05:00.77 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22 ::2024/02/23(金) 16:05:31.67 .net
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23 ::2024/02/23(金) 16:06:00.71 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24 ::2024/02/23(金) 16:06:31.15 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25 ::2024/02/23(金) 16:07:00.79 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26 ::2024/02/23(金) 16:07:30.62 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27 ::2024/02/23(金) 16:08:31.29 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

28 ::2024/02/23(金) 16:09:00.45 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29 ::2024/02/23(金) 16:09:30.80 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30 ::2024/02/23(金) 16:10:00.82 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31 ::2024/02/23(金) 16:10:31.39 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

32 ::2024/02/23(金) 16:11:01.76 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

33 ::2024/02/23(金) 16:11:31.41 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

34 ::2024/02/23(金) 16:12:00.77 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

35 ::2024/02/23(金) 16:13:01.84 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

36 ::2024/02/23(金) 16:13:33.10 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

37 ::2024/02/23(金) 16:14:16.23 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

38 ::2024/02/23(金) 16:14:48.15 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

39 ::2024/02/23(金) 16:15:20.63 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

40 ::2024/02/23(金) 16:15:51.92 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

41 ::2024/02/23(金) 16:16:23.21 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

42 ::2024/02/23(金) 16:16:55.27 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

43 ::2024/02/23(金) 16:17:27.43 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

44 ::2024/02/23(金) 16:17:58.66 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

45 ::2024/02/23(金) 16:18:30.08 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

46 ::2024/02/23(金) 16:19:00.73 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

47 ::2024/02/23(金) 16:19:30.20 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

48 ::2024/02/23(金) 16:20:00.82 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

49 ::2024/02/23(金) 16:20:30.79 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

50 ::2024/02/23(金) 16:21:00.53 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

51 ::2024/02/23(金) 16:21:31.23 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52 ::2024/02/23(金) 16:22:00.87 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53 ::2024/02/23(金) 16:22:30.90 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54 ::2024/02/23(金) 16:23:00.60 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55 ::2024/02/23(金) 16:23:30.45 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56 ::2024/02/23(金) 16:24:00.56 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

57 ::2024/02/23(金) 16:24:30.58 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58 ::2024/02/23(金) 16:25:00.50 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59 ::2024/02/23(金) 16:25:30.50 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60 ::2024/02/23(金) 16:26:31.44 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

61 ::2024/02/23(金) 16:27:00.61 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62 ::2024/02/23(金) 16:27:30.58 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 ::2024/02/23(金) 16:28:00.41 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 ::2024/02/23(金) 16:28:30.43 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 ::2024/02/23(金) 16:29:00.74 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

66 ::2024/02/23(金) 16:29:30.26 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 ::2024/02/23(金) 16:30:00.22 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 ::2024/02/23(金) 16:30:30.55 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 ::2024/02/23(金) 16:31:00.58 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 ::2024/02/23(金) 16:31:30.81 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 ::2024/02/23(金) 16:32:01.39 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 ::2024/02/23(金) 16:32:30.31 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 ::2024/02/23(金) 16:33:01.28 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 ::2024/02/23(金) 16:34:02.78 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

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75 ::2024/02/23(金) 16:34:34.80 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:36:39.14 .net
上記のテンプレに意味あるの?

77 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:44:04.99 .net
>>76
畿内説がどんなもんかネガキャン

78 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:46:35.90 .net
>>76
テンプレは畿内説の恥をさらしてるだけ

このテンプレでは畿内説の人は投稿しない

だから何年も>>1しか畿内説の投稿はない

79 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:48:19.90 .net
畿内説の主張

「郡から伊都国までの1万500里は架空ですが、伊都国から邪馬台国までは1里432メートルです。なんか文句ある?」

これがトンデモ論法。

80 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 16:50:35.70 .net
あと10年も経てば、昔畿内説というのがあったらしいになる。

81 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:08:00.93 .net
魏志倭人伝の行程文の記述には少なくとも3つの資料が繋ぎ合わされているな
1.公孫氏が残した倭に付いて里数(短里)での記録
2.最初の帯方郡使、梯儁の報告
3.二度目の帯方郡使、張政の報告

82 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:28:09.88 .net
>>80
教科書の邪馬台国のところ、箸墓の代わりに北部九州のあの遺跡が載ってそう

83 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:34:28.06 .net
九州説の主張。
3世紀に何もなかった畿内に4世紀になって大量の銅鏡を生産する工房と、大量の人員を動員して大規模古墳を築造する巨大権力が突如として勃興した。

84 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:36:25.35 .net
>>83
畿内ではなく纏向では?
さすがに纏向以外は栄えていたでしょ

85 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:37:37.17 .net
畿内説の主張だと
「不弥国過ぎたら方位が90度ずれる」らしいhttps://i.imgur.com/afsL9NF.jpeg

86 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:39:17.60 .net
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

87 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:40:56.24 .net
>>84
>さすがに纏向以外は栄えていたでしょ

鉄器も作れない、畿内がか?   @阿波

88 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:41:55.42 .net
朝貢使節には中国国内で担当役人が根掘り葉掘り聞き取りするだろ(大鴻臚が担当か)

89 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:42:22.78 .net
>>84
纏向以外は栄えていたなんて九州説の人はいません。

90 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:46:51.50 .net
>>89
倭種の国は栄えてたでしょ
邪馬台国以上に強い政権が誕生した地なんだから

91 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:48:43.06 .net
証拠の出せないことだけ言う九州説

92 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:49:14.51 .net
今ある畿内は神武の東征があったから

93 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:50:50.47 .net
>>90
そんなことを言っている九州説はいません。

94 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:54:24.25 .net
>>92
それいつだろな
馬はいたみたいだけど

95 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:55:12.05 .net
>>93
いないっておまえの思い込みじゃん

96 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:56:34.17 .net
>>95
じゃあ名前を挙げてください。どうぞ

97 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:56:57.81 .net
>>83
自生説が否定されて畿内説の人も大変だよな
あれだけ馬鹿にし続けた東遷説に縋らないといけなくなってしまった

98 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:58:50.24 .net
>>96
九州説はアマチュアの集まりじゃん
バカなの?

99 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/02/23(金) 18:59:15.12 .net
九州説のネトウヨどもは三世紀の畿内には何もなかったというのだが、二世紀の間違いだろう

彼ら壺や日本会議の連中は炭素14がうんたら言い出すのだが酸素同位体比年輪法で纏向は三世紀と判明しているんだよな

このネトウヨの文が鮮明に統一された書き込みは教義か何かなんだろうな

100 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 18:59:29.64 .net
>>97
とうとうそこまで落ちぶれたかw

101 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:00:56.88 .net
例えばなんらかの理由で漢委奴国の王族が東遷したとして
統治者が消えた倭国(九州)では後継者争いが起こった

そんな倭国(九州)で女王を共立してた頃
畿内では崇神が纏向政権を打ち立てていた
かもしれんよな

102 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:01:51.64 .net
学閥とか公金と無関係の素人の方が心はピュア

103 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:03:00.69 .net
漢委奴国は猪名県だった摂津と思うけどね
金印は大阪城普請の時に石山古墳から黒田官兵衛が持ち出したと睨んでいる

104 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:03:42.97 .net
>>103
石山と呼ばれていた古墳

105 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:03:50.32 .net
>>101
東遷した時期が問題だよね
馬がいないとキツくね?

106 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:04:08.19 .net
>>103
考古学の成果からすると九州の三種の神器を持ち込んでるらしいよ

107 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:04:40.44 .net
>>103
持っていたら兵を集めるために売り払っているよ

108 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/02/23(金) 19:05:42.67 .net
倭国大乱が終わったときに、何故か倭王は九州から畿内に移動していた
移動先は纏向であり、これがヤマト王権になった

中国の史書には倭国大乱の後に卑弥呼という女王が即位したのだという
考古学的にも倭国大乱の後に畿内の銅鐸文化は消滅し、九州や吉備の銅鏡文化に交代した事が分かっている

ヤマト王権は九州や吉備からやってきた銅鏡文化人が畿内に打ち立てた征服王朝であり、女王卑弥呼を頂点に据えた連合王国であった

109 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:08:16.55 .net
倭国大乱を互いに攻伐しあった倭国の国々では
女王を共立して停戦する意味があるけども
争っていない東の倭種がわざわざ女王を共立する理由がないよな

そして纏向は男王崇神の国です

110 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:08:54.70 .net
古墳に朱を使うのは九州スタイルだろ

111 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:09:36.92 .net
証拠の出せないことだけ言うのが九州説

112 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:10:40.91 .net
>>111
畿内説では箸墓は誰の墓なんだっけ?

113 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:10:51.78 .net
算数が出来ないのが架空畿内説

114 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:13:41.13 .net
箸墓を卑弥呼というのは福永伸哉のバカくらいだろ、寺澤は石塚古墳説。

115 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:15:46.93 .net
>>114
それはそれでなにか証拠があるのかいな

116 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:20:04.50 .net
子どもの教科書は箸墓が出てくるね
卑弥呼の墓の候補だとか言って

117 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/23(金) 19:21:31.18 .net
オレは纏向石塚は邪馬台国を建国したヤマト王権の男王つまり神武のモデルになった初代王、箸墓は邪馬台国の女王卑弥呼つまり斎王の倭迹迹日百襲姫という説をとるな

寺澤先生の著書は酸素同位体比年輪法の結果が出る前のものだから、今は考えを変えているかもしれない

118 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:23:33.64 .net
>>115
石塚古墳の盛り土に庄内1式の甕や高杯、併行する時期の吉備の甕などがふくまれているという理由みたいね。

119 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:24:10.41 .net
>>117
倭人(阿波勢力)が造ったお墓しか語れない、遺跡貧困説。   @阿波

120 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:33:18.25 .net
モモソヒメの逸話は古事記には出てこないのでフィクションと考えられる

121 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:37:09.97 .net
>>112
>畿内説では箸墓は誰の墓なんだっけ?

卑弥呼の墓という人が多いね

122 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/02/23(金) 19:42:55.90 .net
記紀編纂の際に集められた資料の中に偽書があった可能性もなくもないな

偽書が作られる理由は様々あって推測し難いものがある

酷いのになると唐代に偽書を作って政敵が作ったものだと嘘を流して失脚を狙ったりしたものもある

因みにその偽書の内容は全くのポルノ小説で誰が作ったのか不明だが完全に文才の無駄遣いである

とにかく偽書には気をつけないといけない

先代旧事本紀ですら序は偽作らしいからな

123 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:48:27.82 .net
>>120
大和朝廷の支配下に無い国の事を描くわけないだろ

124 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:51:30.00 .net
>>122
おいチョンコ、竹島は日本のものだよな?

125 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:52:20.01 .net
どう考えても箸墓は台与陵だよな

4C初頭の崇神天皇とのエピソードから見ても百襲姫は台与

266年に晋に朝貢したときに13歳という事は4C初めの301年は
台与は48歳

百襲姫と整合するんだよ

126 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:53:40.27 .net
>>123
どこの国の事だと思っている?

127 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:55:12.22 .net
>>125
トヨは300年頃までは生きていただろうから箸墓では無い

128 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:55:47.12 .net
崇神天皇が唯一、頭の上がらない人物が百襲姫

そりゃそうだ

百襲姫は上皇さまの台与なんだから

129 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 19:59:57.35 .net
>>125
266年頃は台与はアラサー

130 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:00:58.56 .net
◆モモソヒメの実在を疑う寺澤薫◆

「実在性の不確かな崇神紀の倭迹迹日百襲姫像が、実在性の確かな『魏志』倭人伝の卑弥呼像と重ね合わされていった。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

131 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:01:32.14 .net
畿内説も九州説に負けず劣らず相当アタマゆるゆるなこと言ってんね

132 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:11:09.78 .net
>>130
著書を読めばわかるが、寺澤氏はマルクス主義者の左翼なので記紀は全否定というか無視してるよ。世代的にしょうがないけど。

133 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:15:34.49 .net
臺与が後宮に入った可能性は高いが
背景の豪族の継続性が無理だろ?

存在しない神功皇后の末裔は
日本の皇統で栄えるか?

134 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:16:48.76 .net
>寺澤氏はマルクス主義者の左翼なので記紀は全否定というか無視してるよ

畿内の大古墳が掘れないのをいいことに、
なんでんかんでん、妄想放題、云い放題だな

135 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:19:06.95 .net
畿内説になったか「ふるしょう」さんのライブを見ましょう。
とはいえ、あの人はまだまだ素人だけど、

136 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:28:38.91 .net
素人というか、
何でもあり、ふるしょうのワイドショウ、みたいなもんだね、

137 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:30:22.44 .net
>>129
どこをどう読むと晋に朝貢した266年に台与がアラサーなんだよ????

晋に朝貢したときに年十三だぞ





新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
また、卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。
張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。

壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。
そして、臺(中央官庁)に参上し、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、
青大句珠二枚、模様の異なるいろいろな錦二十匹を貢いだ。

138 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:48:02.97 .net
>>132
日本書紀のモモソヒメは沫蕩尊くらいリアリティが無いよ

139 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:52:59.86 .net
>>137
壹與の遣使は正始八年
「八年,倭國女王壹與遣大夫掖邪狗等詣臺獻上男女生口三十人,貢白珠五千枚,青大句珠二枚,異文雜錦二十匹」

泰始元年の遣使は女王とのみ
「晉武帝泰始元年,倭人國女王遣使重譯朝獻」

https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=815093&searchu=%E5%80%AD

140 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:53:35.10 .net
>>137
それ正始8年(247年)

其八年太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之

卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還
因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

141 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 20:54:41.90 .net
>>139
ソース乙
同じソース貼るとこだった

142 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 21:52:08.81 .net
>>140
冊府元亀という文献があるのか

初めて知ったわ

じゃあ卑弥呼は247年の頭までに亡くなって相誅殺男王の治世はほんの数ヶ月で、
その年のうちに台与が即位して張政が来倭し、張政の見送りと同時に晋に朝貢ってか

目が回るな

143 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 22:02:57.40 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

144 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 22:03:42.82 .net
>>142
そう
だから魏からしたら男王なんてのは無いのと同義で
卑弥呼の後に再び倭国大乱になりかけて
張政の(魏の)後ろ盾で台与が共立されて
魏の威光が効きまくって倭国が統一された
と考えることもできる

145 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/02/23(金) 22:21:14.12 .net
トヨ(豊)は卑弥呼没後の数年後に13歳で即位したのだろうから、266年の時点でアラサーというのはあっていると思う
行燈塚古墳は4世紀初期の構築だから崇神はこの頃に出生したのだろう

崇神とトヨの間に欠史八代のうちの数人がいたのは間違いないように思われる
開化や孝元は事績が無ければ付けられないような意味のある諡号だから、記紀編纂の時には事績があったが削除されたのだろう

開化は文明開花の意味だし孝元の元は都を作った人物に送られる文字だ
中国に朝貢した記録を削除したら書くことが無くなったのだろう

146 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/02/23(金) 22:28:20.93 .net
江戸時代に竹島(独島)の漁業問題が発端になって、日本の鳥取藩と韓国の李王朝で外交問題になった

その時に江戸幕府は竹島(独島)は鳥取藩の帰属ではないと韓国に伝えて問題が終結したという事件があった

ここから分かるのは、江戸幕府は竹島(独島)の領有権を放棄しており、国際法上17世紀の時点で独島(竹島)は韓国領に確定しているという事である

日本ではこの手の議論が報道されておらず、結局のところ独島(竹島)の議論は情報の非対称性からくる政治的な問題ということになる

147 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 22:31:41.65 .net
>>144
いや、冊府元亀の筆者が266年の台与の朝貢を、倭人伝を見て正始八年(247年)の
出来事だと勘違いして247年と266年の二回あったように記述してしまった可能性もある

148 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 22:42:31.24 .net
元の漢字は冠をつける人の象形で頭とか首長の意味だな
事態を収拾する為に孝の頭が表に出てきたということだろう

台与にはよからぬことが起きたんじゃないか
摂津国風土記逸文に飯盛山にいたトヨウケは障ることがあり丹後に帰った話がある

いずれにせよ池上曽根遺跡など大阪の銅鐸とヒスイの勾玉の集落は弥生時代末期をもって営みを終える
皆何処かに消えてしまうんだな
池上曽根遺跡のある摩湯丘陵には有馬に去ったという伝承が残っている
熊野のアリマか摩耶山のアリマか

149 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 22:44:13.79 .net
>>147
晋書倭人伝には司馬懿の次男(司馬昭)が魏の相国に任じられると(263年)また数度朝貢してきたと書かれており台与政権中も度々朝貢していたことがうかがえる
しかし266年の朝貢を最後に突然朝貢が途絶えた

150 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 22:53:33.20 .net
和泉国風土記逸文に三毛入野命が和泉の地を所領としたとある
記紀では三毛入野命は常世に行ったとある
和泉の地は常世と認識されていたんじゃないか?
丹後国風土記にある浦島太郎が行ったのは常世だ
常世は竜宮城ということだな

弥生時代後期、橿原、清水風遺跡、池上曽根遺跡から龍の絵画土器が見つかっている
奈良の伝承では奈良湖の水を巡り龍と鯰が争い龍が勝ち奈良湖の水を大阪側に流すことになった
奈良湖が存在したのは弥生時代迄だな
河内には奈良から降りてきた龍神が柏原の地に留まり大和川の治水を行い堺の方に去ったとある
柏原からは大和川の辺りに弥生時代後期の大集落跡が見つかっている
龍の伝承では堺まで足跡が追える

龍の女神を守ろうと狗奴国は最後まで抗っていたんじゃないか

151 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 23:05:18.19 .net
>倭国の男子は身分の高低や年齢に関係なく顔や体に刺青をしていたという記述があります。
>これは海中で魚から身を守るために行っていたようです。

※奈良は海無し県

152 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 23:28:03.98 .net
>>139
248年は倭国女王壹与朝貢だけど
266年は倭人国女王遣使ですね。
壹与なのか?卑弥呼の印がだけか?
翌年は遣倭人だし。

だんだん国だか王だか?倭人でんねんw
そういう史料でも無いような?
ありがとうございます。

153 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 23:28:38.66 .net
スサノオの眉マユから生えてきたのが楠
楠から作られるのが軽船
摩湯丘陵の麓にあった池上曽根遺跡は軽と関係があるかもしれないね

摩湯丘陵のある和泉には楠のもとに堅い木でできたお地蔵さんがやって来たが、ある時悪い奴らに連れ去られ海に捨てられたという
その後堅い木でできたお地蔵さんは大蛸に乗り嵐を引き連れ戻ってきたという
この話はヤマトタケルと弟橘姫の話にそっくりだな
橘は常世の木である

蛸と言えば蛸薬師で薬と関係がある
和泉の地には仲良し3人組なにわの軽業師の寅吉、高間寺の山伏、高橋の薬使いの民話が残っている
薬の神さまは狭井の神やスクナヒコナがいる
スクナヒコナは潮岬から旅立ったという
風を起こして去った伊勢津彦も東国に去ったな
東国で態勢を整えて弟橘姫を守って故地に戻ってきたのかもね
先代旧事本紀によると相模の国造は伊勢津彦の3世孫の弟武彦で武蔵の国造の祖は伊勢津彦とある

154 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 23:30:45.17 .net
懿徳天皇の宮は軽の境岡、孝元天皇の宮は軽の境原
どちらも奈良とされているが和泉の地じゃないかと思うんだよね

155 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 23:38:45.36 .net
池上曽根遺跡は弥生時代の石器製造の一大拠点
二上山のサヌカイトの剣や槍、紀ノ川産の石で作られた数千点の石包丁、石器の祠が見つかっている
摩湯丘陵には湯が湧き栄えた集落の伝承が残る

和泉から堺にかけての海岸線は井戸を掘ると塩湯が湧いた
奈良時代や平安時代に都から堺に湯浴みに行った記録が残っている
明治時代でも奈良から婦人たちが列をなし徒歩で河内を通り堺まで湯浴みに行っていた
今でも温泉は続いている

延喜式祝詞に登場する湯津磐村は和泉の地のことじゃないの?

156 :日本@名無史さん:2024/02/23(金) 23:49:45.17 .net
>>86
>投馬国(吉備)の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

>>1テンプレ爺さんは日本海は寒冷化で機能を失ってたらしいが
これに準じれば瀬戸内海も同じだな
>>1 は適当 >>1 は適当 >>1 は適当

157 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:01:50.79 .net
寺澤はじめ
今の畿内説はどうしても九州から卑弥呼を引っ張り出して
東遷したかのように持っていきたいようだ。

東遷したのは倭国(連合体)に間違いないが、邪馬台国・卑弥呼と言う証拠はない。
東遷があれば、謎の4、5世紀ぐらいが妥当かもしれない。
ここがポイント
「邪馬台国」の読みから「ヤマト」でなく西にあった「倭国」から「ヤマト」と名付けたんだよ

158 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:04:45.52 .net
>>1=トナカイ=ネトウヨ撲滅隊

159 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:15:55.65 .net
>>152
単なる過去の文献の整理文献だから内容のエラーが相当あると思うぞ

魏志倭人伝は正始八年(247)に倭が帯方郡に狗奴国との戦争報告をすると
張政が来倭して難升米に黄幢を授けて檄で諭したとあるだけで、
卑弥呼の死と塚を作ったのがいつなのかまでは記載されてないよ

ましてや次の相誅殺男王がいつ即位して、いつ崩御したのかも記載されてないし、
台与の即位がいつなのかも記載されていない

冊府元亀の筆者が勘違いして全て正始八年(247)の出来事にしてしまった可能性が高い

本当は台与の即位と朝貢は266年だったが、冊府元亀の筆者が魏志倭人伝を
勘違いして読み、正始八年(247)の出来事にしてしまったために247年と266年に
朝貢したと記載してしまった可能性が高い

160 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:28:53.68 .net
冊府元亀はまさに過去の文献の整理文献だから、長い文章は短くするようなことはしているだろうが、
いちいち内容を吟味して文章を付け足すような面倒なことはしてなだろうね
基本的には単にコピペしてるだけ

161 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:29:19.12 .net
>>156
>>1テンプレ爺さんは日本海は寒冷化で機能を失ってたらしいが
>これに準じれば瀬戸内海も同じだな

それは頭の悪い人だけがする誤解
だって機能を失なう理由はなんだった?
ほら、理解できてない

162 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:41:57.63 .net
>>161
水位の変化なんて日本海だけではないでしょ。
瀬戸内海は寒冷化の影響はなかったのでしょうかね・・・・

163 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:54:42.75 .net
>>146
ネトウヨ朴滅隊は本物のチョンコのようだな

164 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:55:24.08 .net
>>156 >>161

これ(寒冷化による日本海ルートの衰退)はね、スレ主の私見にすぎないの。
畿内説でも日本海ルート説もあるからさ。
畿内説間で議論すればよい話

おれも寒冷で日本海ルートの衰退は無いと思う。現に3世紀日本海側の仮称北陸航路は機能してたのだからさ。

165 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:59:51.91 .net
若狭や伊吹山の麓は鳥形の地だからな
まだその辺は支配下におけてなかったのかもね
日本海ルートは安全ではなかったんだろう

166 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 00:59:57.72 .net
理由の言えない九州説は常に敗勢

167 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:00:59.87 .net
青谷上寺地遺跡でも激闘の跡
当時の日本海側の状況やね

168 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:02:34.95 .net
青谷上寺地遺跡は松江の西川津遺跡や池上曽根遺跡の鳥形と同じ鳥形が見つかっている
銅鐸もあるね

169 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:05:12.47 .net
大寒禊は鳥船の所作の後、池に浸かり祓戸四神を唱える
倭国大乱、四道将軍、ヤマトタケルの罪を禊するのかもな

170 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:13:56.49 .net
仮に、卑弥呼の墓が見つからないとするの良いのだか、九州には半にも副葬品がない
九州説は、九州にとっては厳しいがごめんなさい

171 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:16:29.89 .net
福岡県の石塚山古墳が卑弥呼の墓です。
副葬品も出ています。

172 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:17:08.89 .net
>>166
理由が言えないのはあなたではないでしょうか?
寒冷化の影響は瀬戸内海ではおきなかったのでしょうか?
まあ、いいでしょう。
日本海航路について、興味が調べてください。

「宗像海人族」

少しは労力を使いなさいよ

173 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:18:46.79 .net
理由の言えない畿内説は常に敗勢

174 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:21:59.03 .net
>>130
寺澤本は面白いけど、役に立たんな。推論の積み重ねあるが、証拠の積み重ねがない。
纏向遺跡が良い例。

175 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:28:13.23 .net
>>174
畿内説ありきでやって50年、最後は小説家になって卑弥呼を伊都国から誘拐してきました。

176 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:34:55.70 .net
畿内説は推論の積み重ね
A 一つの証拠
@ Aから可能性が60%ある推論
A @を元に可能性が60%ある推論
B Aを元に可能性が60%ある推論
C Bを元に可能性が60%ある推論
A(証拠)から見た 推論の可能性
@ 60%
A 36%
B 21.6%
C 12.9%

もっと手荒いの畿内説の手法
12.9%しかない可能性Cを、あたかもAから60%の可能性があるように主張する

70%×70%×70%×70%=24%

177 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:42:02.11 .net
キナイコシ 不貞寝ワハハ
起きたら 数行の悪態投稿ワハハ

178 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:43:34.26 .net
不弥国から違う方向に向かった時点で0点ですけどね

179 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 01:44:00.80 .net
>>172
「宗像海人族」は見事な攻撃だ いずれにせよ東だから×

180 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 02:09:27.28 .net
海賊と呼ばれた昭和の宗像族の出光佐三はイランにまで船を出して日本を救ったよ。正確に言えば出光は宇佐氏で平清盛の子孫でもあるよ。

181 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 02:39:54.55 .net
出光佐三の先祖に宇佐公仲がいるが、宇佐家口伝では従兄弟の安徳天皇とすり替えられたそうだ、信じる信じないはあなた次第だが、本物の宇佐の神勅ではそう出ていたと私は考えます。

182 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 03:18:21.90 .net
>>160
その通り

だから年代の記載のない出来事はすべて、その直近手前にある記載年代の
出来事にしてしまっている

戦争報告と張政の檄、卑弥呼の死と塚の築造、次期男王の即位と相誅殺事件と崩御、
台与の即位と晋への朝貢が247年のたった1年間で起きた出来事な訳がないじゃないか

台与は266年に年十三で即位して晋に朝貢したんですよ

183 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 03:24:03.97 .net
>>182
張政が266年まで日本に居たと考えるのは無理がある

184 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 03:30:48.11 .net
243年に朝貢メンバーだった掖邪拘が23年後の266年にも朝貢メンバーだったとするのも無理がある

185 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 03:46:45.95 .net
>>183
正始8年、247年の檄文は難升米に対して用意したものだよね

台与即位時の檄文は台与に対して用意したものだよね

長期滞在しても紙も墨も筆もないんだから戻らなきゃ台与即位時の檄文が
用意できないじゃないか

やはり台与即位と晋朝貢は266年の出来事ですよ

186 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:01:30.14 .net
>>185
九州では入れ墨をしているから墨はあるよ、紙は無くても絹や木簡に字は書ける

187 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:02:15.32 .net
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 国中遂定 政等以檄告喩壹與

文?

188 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:10:12.51 .net
塞曹掾史に自分の判断で魏国を代表して檄文を書く権限なんかないだろ

189 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:17:38.51 .net
>>188
檄文と同じ内容で台与を励ましたのだろう

190 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:21:15.74 .net
>>186
檄文は帯方郡太守の言葉であるはずだろ

一外交官の言葉じゃないぞ



>>189
な訳ないだろが糞

191 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:28:02.99 .net
張政が檄文を魏に取りに帰ったという記録が無い

192 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:29:12.56 .net
>>190
クソは脳無しのキサマだ

193 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:32:15.53 .net
役人が二十年も外国に滞在してその間俸禄はどうしてたん?帯方郡から送金されんの?

194 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:32:26.22 .net
洛陽から遠い郡太守は魏の東夷に対する外交方針に沿ってある程度一任されてただろうが
塞曹掾史が独断で倭国に対して檄文を書いても国書じゃないからな

195 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:40:26.44 .net
266年に帰国したら国は無しだぞ

196 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:41:00.08 .net
「因齎詔書黄幢」

詔書は皇帝が発布する公文書

197 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:43:19.54 .net
正始四年では単なる使の掖邪拘が台与即位&朝貢時には率善中郎将 掖邪拘と
役職名のついた管理職になっている

やっぱり266年の出来事ですよ

198 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:46:08.93 .net
為檄告喩之
檄文を作ったのは張政だよ

199 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:49:35.17 .net
「遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之」

この主語は太守王頎

200 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:50:51.51 .net
>>195
何で266年まで滞在するんだよ

247年に難升米に檄文読んだらすぐ帰って、266年に台与即位でまた来て
檄文を読んで帰っただけだろ

201 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:54:26.17 .net
掖邪狗が率善中郎将の官職を貰ったのは243年

202 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 04:54:34.96 .net
>>180 >>181

「宗像海人族」
良く調べてらっしゃる
出光と関係あるとは知らなかった
勉強になります。
対馬海流を使ったりして日本海中心に縄文期から海を支配してきたとか。
畿内説ではないので日本海ルートには興味ありませんが、宗像海神族には興味がわいてきました。

203 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 05:00:00.23 .net
正始四年 掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬

204 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 05:09:13.10 .net
>>202
宇佐神宮の近くには出光という住所がありますが、出光佐三の先祖の居した場所なのだと思いますhttps://i.imgur.com/rlQpejd.jpeg

205 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 05:15:57.50 .net
創業者の出光佐三は宗像郡赤間村の藍問屋の次男
実家が破産した佐三に返済不要の起業資金を出したのが
淡路の資産家日田家の婿養子の日田重太郎(佐三に息子の家庭教師を依頼した)

206 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 05:17:35.62 .net
>>203
おたくら 何をもめているのですか?

207 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 05:19:05.87 .net
>>203
おたくら 何をもめているのですか?
邪馬台国論争ですか?
基本は倭人伝記述ですが、、

208 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 05:28:51.83 .net
>>202
私も畿内説ではないし九州説でもない。
投馬国、邪馬台国には行っていない説。
宗像方面は倭種ですね。

209 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 05:42:49.43 .net
出光佐三「僕の家には昔から言い伝えがある。大分県の宇佐神宮のそばに出光村というところがあり、そこから光が出たことから出光という名がついたらしい。」
光って金印じゃないのかとふと思った

210 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 05:45:22.03 .net
>>207
まるで畿内説スレで、
倭人伝の話をしてしまった時
のような、虚しいスレ進行ですなぁ。
激が判ってない。告諭しても無駄。

211 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 05:55:57.16 .net
>>210
>>激が判ってない?
檄ですよ。

212 :やっぱ無理だわ 推古紀では:2024/02/24(土) 06:16:27.63 .net
>>1 さん こんなの拾ってきました
【コラム】龍田古道(2)飛鳥時代の龍田古道

>裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられます。
 ところが、遣隋使から中国では幅広い直線道路が整備されていることを聞いた推古らは、道路の整備が急務であると考えました。
『日本書紀』推古21年(613)には、「難波より京に至る大道を置く」と記されています。この京とは飛鳥の小墾田宮のことです。
大道とは幅の広い直線道路でしょう。裴世清の来朝から5年後のことです。
この推古21年に置かれた大道とは、難波宮から南へ直線的にのびる「難波大道」と、それに直交する竹内街道と一般に考えられてきました。しかし、発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降と考えられるようになりました。
お問い合わせ
文化財課
582-0015 柏原市高井田1598-1(歴史資料館内)
電話:072-976-3430

213 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 06:20:42.55 .net
宗像氏
海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。

214 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 06:20:44.70 .net
>>1
日本海ルートの衰退や、陸行1月、変な魏里計算、十倍戦果報告、、、

ぜったいテンプレ誰かに見てもらったほうが良いよ
5ちゃんだから笑われておしまいだけど、世に出せない

215 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 06:32:55.02 .net
>>213
すごいウミンチュウですね。
北陸、東北まで行っていたとか。
畿内説じゃないけど、瀬戸内航路より日本海航路のほうがいいかも。水行案内人は宗像海人。
この辺の議論は畿内説内部でしょうな。
いずれにせよ方位の問題は残るけど。

216 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 06:42:52.73 .net
>>212
ふーーーん キナイコシは浅学だね
大和川を利用したのか水行だね。
>>1が異論があるなら公的機関である柏原市文化財課へだねWw

>裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられます。
>発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降と考えられるようになりました。

217 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 06:44:55.83 .net
>>214
変だ変だというだけで何も反論できない九州説みじめ

218 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 06:54:00.34 .net
大型建物と箸墓は同時期に存在していないんだけど?https://i.imgur.com/bnFeF6T.jpeg

219 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:02:00.77 .net
>>218
それがなにか?

220 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:09:13.84 .net
>>219
桜井市のイラストは嘘を描いている
https://i.imgur.com/QJGNJuj.jpeg

221 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:17:58.78 .net
九州の伝承で光るものは鎮西上人伝説でもあるね
明星寺に湯屋があり明星が光ったという
イワイの姫島のアカルヒメのことじゃないかな
明は少なくとも明日香時代と光明皇后に関係するな
古墳時代にも関係する可能性もある
光明皇后は和泉の伝承では明るく輝く鹿の子だったらしい

アカルヒメは摂津の姫島に住吉神と共に祀られていてやり直しの神さまとして大切に祀られている
日本はやり直しが許される地なんだな

222 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:24:14.28 .net
宇佐で光る君は宗像三女神の降臨だな

223 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:26:20.36 .net
>>217
テンプレ裴世清の件
あっそ、宿泊込みで48日かかったの。
大和川を利用した線が強いね。
発掘調査で難波大道は7世紀、竹内街道も7世紀のようですね。 

(柏原市文化財課の公表)

>>217
日本海ルートの線も出てきたね。

224 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:30:27.00 .net
>>217
悔しそうだな 喧嘩に負けて「勝った、勝った」と泣いて帰るガキみたい

225 :ズバリ賞:2024/02/24(土) 07:31:53.81 .net
0177日本@名無史さん
2024/02/24(土) 01:42:02.11
キナイコシ 不貞寝ワハハ
起きたら 数行の悪態投稿ワハハ

226 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:33:37.19 .net
キナイコシやトナカイの論は畿内説の中でもかなり珍説の類
最近のまともな考古学者の書いたものを読むと言っていることが全然違う

227 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:34:51.43 .net
>>220
ひどいイメージ図だね
桜井市教育委員会作成だろうが、公的機関のやることだろうかね。学問じゃなく誘導だね。

228 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:35:29.10 .net
>>223
「裴世清」
『日本書紀』によれば、6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。
この難波津とは、さぬき市難波郷津田の津。
この京とは、「阿波」の推古天皇豊浦宮。   
ちなみに、大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。   @阿波

229 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:39:44.99 .net
>>226
私も危惧してます
畿内説のテンプレ解説をスレ主にはやめてもらいたい。
もう標的にあってるが、彼の浅学にはあきれる。

230 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:41:20.67 .net
>>224
>悔しそうだな 喧嘩に負けて「勝った、勝った」と泣いて帰るガキみたい

自分のことでしょ?

矛盾だ矛盾だと叫ぶだけで、矛盾とは何かと聞かれると黙ってしまう
計算がおかしいと言い出して、誰のやった計算かと聞かれるとスゴスゴと逃げる

あなた、連敗記録を更新中です

231 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:42:39.55 .net
>>229
罵るだけの一人芝居みっともない


w

232 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:50:29.41 .net
最後に星が落ちる話もある
阿波だったか尾張だったか

233 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:51:38.96 .net
talk 心と宗教板 [ワールドメイト]深見東州[宗教界のお笑い芸人]2スレに居ます
西知正悦

234 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 07:52:08.08 .net
>>1
ちょっと教えてください

テンプレで
北部九州から水行20日で投馬国(吉備)
投馬国から水行10日で大阪湾(難波あたり)
そこから「裴世清」の例を出し48日(1月でも可としよう)

疑問 
1,この行程説明は何の目的なの
2,柏原市文化財課の解説では「裴世清」は大和川で行ったみたい。
すると、陸行は水行の間違い??
3,発掘物から街道ができたのは裴世清の旅行程より後の7世紀
(柏原市 文化財課)

このあたりテンプレは理解できません。解説願えませんか?

235 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:00:39.52 .net
>>185
魏志東夷伝全体すべての条で正始年代が最後の記事になってる
陳寿が参照した東夷伝のオリジナルが正始を終わった頃には完成していたんだろう

236 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:01:45.41 .net
>>230
横からだけど
読んでくれましたか
>>212の柏原市文化財課の発表
阿波さんは「大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い」と言ってますし。

日本海ルートについてはある方たちが「宗像海人族」に言及してますが、それに対する論も何もないのですか。
ないなら、こんなスレ閉めたらいかがですか。

237 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:04:30.03 .net
>>231
レスの流れをつかまないから馬鹿投稿となる

テンプレより
「勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。」

238 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/02/24(土) 08:05:38.47 .net
古代の東アジアには実名を人に明かす事を忌むという文化があった
卑弥呼も難升米も都市牛利も台与もみな実名ではあるまい

倭の五王時代なら倭王姫子や倭王豊というところだろうか
余談だが中華思想だとイギリスのエリザベス一世ですら女だからという理由で酋長と書かれてしまったのだから、ネトウヨは女王と書いてくれた魏志には感謝しろよな

239 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:09:42.58 .net
スレタイを
「珍説 邪馬台国」
に、すれば
皆、納得出来るのでは?
1000スレ達成前に是非!

240 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:22:30.58 .net
>>212
なるほどね裴世清は
飛鳥の北東の大和川沿いにある桜井市海石榴市(つばいち)で迎えられたのか。
するとなんだな柏原市文化財課の大和川で裴世清らは来たは当たってるな。
陸行なら海石榴市なんて通らずまっすぐ飛鳥だよな。

>>1キナイコシさんテンプレの推古紀の説明は何の意味があるのかな?

241 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:33:23.37 .net
>>217 >>230
君らの意見も聞きたい

ちょっと教えてください

テンプレで
北部九州から水行20日で投馬国(吉備)
投馬国から水行10日で大阪湾(難波あたり)
そこから「裴世清」の例を出し48日(1月でも可としよう)

疑問 
1,この行程説明は何の目的なの
2,柏原市文化財課の解説では「裴世清」は大和川で行ったみたい。
すると、陸行は水行の間違い??
3,発掘物から街道ができたのは裴世清の旅行程より後の7世紀
(柏原市 文化財課)

このあたりテンプレは理解できません。解説願えませんか?
>>240 投稿も参考にできるかな

242 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:38:02.24 .net
>>227
>ひどいイメージ図だね
桜井市教育委員会作成だろうが、公的機関のやることだろうかね。学問じゃなく誘導だね


御意
桜井市教育委員会あらため、桜井市観光課内教育委員会

243 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/02/24(土) 08:38:57.51 .net
蝦夷は倭人に同化しなかった縄文人の末裔つまりアイヌ系民族である
倭人と混住している地域の蝦夷には倭語を喋れるバイリンガルも多かったのだろう
だから一部の記録を見て蝦夷は日本語話者でアイヌ民族ではないと主張する者が出てくる

記紀の神話では様々な氏族が神の末裔ということになっており、隼人ですら天照の末裔とされているが、不思議なことに蝦夷には先祖の神がいないのである

ここから記紀の神話がヤマト王権が隼人とは接触済だが蝦夷との接触が無かった頃に産まれたものと推測する事ができる

久米歌では「えみしはひとりももなひと」と歌われており、ヤマト王権はかなり古くから蝦夷に関する知識を持っていたと分かる

即ち記紀にある天孫の家系図はヤマト王権(邪馬台国)の支配層が畿内に来る前に産まれたものであり、隼人がいた九州から畿内に王権が移動したという考えられるのである

そしてこの神話が後々まで伝えられていったという事は邪馬台国の王家とヤマト王権の王家が同一という事実を指し示すのである

244 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:39:47.27 .net
>>241
裴世清が大和川で行ったというのは日本の地理を知ってる人の意見
文章を読んだだけじゃ上陸して一月半で都に着いたとしか読めない
陸行一月という記述も日報のような記録を見て生まれた誤解な可能性があるってのが1の言ってることでしょ

245 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:42:53.26 .net
>>244
>文章を読んだだけじゃ上陸して一月半で都に着いたとしか読めない

だから、『日本書紀』によれば、6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。
この難波津とは、さぬき市難波郷津田の津。
この京とは、「阿波」の推古天皇豊浦宮。   
ちなみに、大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。   @阿波

246 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:50:05.90 .net
>>230
>計算がおかしいと言い出して、誰のやった計算かと聞かれるとスゴスゴと逃げる

お前がFAQ58でやった計算だろ、博多から桜井まで残1300里〜2000里は魏里432メートルで倭人伝と整合すると言ったのは(大爆笑)
さんざん、末盧國から伊都国までの魏里を使って500里も距離を出せとつるし上げられてたじゃん。

お前の記憶力はカエル以下だな

247 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 08:56:32.06 .net
>>246
>魏里を使って500里も距離を出せと

つまり計算がおかしいというのはウソなんだ
1はそこ計算してないだろ?

248 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:02:14.98 .net
>>245
>>難波津とは、さぬき市難波郷津田の津。

文字が同じ、以外で根拠となるものありますか?

249 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:05:05.19 .net
【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】
   「春三月に、難波宮に幸せる時の歌」

「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも」

   「上の一首、船王の作」


奈良時代の後期難波宮(大阪市)からは「阿波の山」は絶対に見えない。
また、この「阿波の山」は、徳島市の眉山ではなく、
香川県さぬき市津田の前期難波大隈宮辺りから見た、なだらかな阿讃山脈である。   @阿波

250 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:05:05.48 .net
>>234
解説できるわけねーじゃん
日本史そのものの知識はお察しなんだからw

251 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:07:24.64 .net
>>1奥山さん
これのことですよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
FAQ58
推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「陸行日程が妥当である」と言ってるが
柏原市文化財課の見解では
@裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられる。
A発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降である

つまり、裴世清らは大和川利用(これは陸行ではない・・テンプレも言及している)
次にかりに裴世清らが陸行としても難波大道、竹内街道とも裴世清らが来た後に設置された街道である。

よって公的機関である柏原市文化財課の公的発表から照らし合わせると
テンプレで言う「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である」は根拠となりえない。

252 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:11:58.04 .net
>>248
万葉集巻6-977歌人神社忌寸老麻呂 / かみこそのいみきおゆまろ
【直越へのこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも】

阿波市から、古代の難波奈良街道に沿って阿讃山脈(大坂峠)を越え、
香川県さぬき市津田の「前期難波大隈宮」が在る、「難波の海」を見て詠んだ歌。  

奈良盆地では、まったく説明できない描写。   @阿波

253 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:13:21.09 .net
つまり畿内説は空想でしたと

254 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:15:10.57 .net
>>244
そうでしょうね
地理もそうですが、裴世清らは飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられてるから、大和川利用でしょうね。陸地ならわざわざ遠まわりしないですね。
いずれにせよ>>1の解説では?????

255 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:19:46.38 .net
>>248
「あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・」
この歌は、応神天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。
通説の大阪市難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、
淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。
また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。
さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。

これらの説話は、古代「難波」の地であった讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、
さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。   @阿波

256 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:25:38.73 .net
東夷伝では1里は80mくらいだよな。
行程文の里数での説明文は、女王国と呼んでるから公孫氏時代の記録からの引用
日数での説明文は、女王と呼んでて最初の魏の郡使、梯儁の報告からの引用だな。

257 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:34:20.23 .net
>>251
瀬戸内海航路を中国船が通行出来るようになったのは平清盛が瀬戸内海航路を整備した後の平安時代末以後の事で、それよりも前は九州に上陸して陸路で畿内に向かうか、日本海を通って山陰に上陸して畿内に向かうルートしかなかった。
裴世清が大阪湾に上陸したは嘘だな。

258 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:35:20.51 .net
>>247
計算はおかしいですよ
残1300里〜2000里に魏里を使うのなら
残を出した計算式にも魏里を使わないといけません
万2000里ー万里=2000里としましょう
右辺に魏里をかけるなら左辺の万2000里にも魏里をかけなければいけません。
小学校で習ったでしょ
A−B=Cの時 CにYをかけて計算して式が完成するには
AーC≠C×Y→正しくするには
(A−C)×Y=C×Y⇒AY−BY=CY

あなたの残里数2000里に魏里をかけて計算が成り立つには
元となる1万2000里や1万里にも魏里をかけなくてはいけません
つまり、あなたの言う博多は郡から1万里ですから魏里をかけたら博多は郡から4320キロの距離にあることになります。
そんあ馬鹿なですよね。郡から4320キロにある仮想博多か君の計算をすると桜井市ははるか彼方になってしまいます。

こんなのは小学生でもわかります。
あなたは今回も理解できないでしょうね。
まあ馬鹿をさらして わめき散らかしなさい

259 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:40:04.47 .net
>>251
>「陸行日程が妥当である」と言ってるが
>柏原市文化財課の見解では

その見解、倭人伝の話じゃないね
反論にならない

260 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:40:31.57 .net
末盧国から伊都国、奴国、不弥国への道
1里は80mで魏志倭人伝の記述に合うように考えた結果
https://i.imgur.com/qL2aXUe.jpeg
末盧国は呼子付近に上陸、伊都G.C.から先が伊都国、糸島峠から先が奴国、室見川下流域の博多湾岸が不弥国
奴国は2万戸なので奴国はもっと広がったと考えられるがこの図は行程の説明用なのでご了承ください。
角度は20度程度のズレがありますが
呼子〜伊都G.C. 五百里(40km)東南
伊都G.C.〜糸島峠 百里(8km)東南
糸島峠〜室見川下流域 百里(8km)東

261 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:42:44.30 .net
>>248
>郡から1万里ですから魏里をかけたら博多は郡から4320キロの距離に

それ、あなたの計算でしょ?
1は計算してないんだから別に1の計算おかしくない

262 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:43:17.51 .net
>>234
>テンプレは理解できません。解説願えませんか?

俺が解説してやるよ
  「>>1が馬鹿だから」

>>1よ オマエの馬鹿をさらす数行投稿していいよWw

263 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:44:41.37 .net
播磨風土記に応神天皇の事績が色々書かれている
ちょうど五色塚古墳が作られた時代だな
讃岐の石工も動員されたという
住吉大社神代記には神功皇后と住吉の神の密事と神が名乗った話がある
吾が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊と

264 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:45:52.56 .net
>>255
現在の、淡路島と小豆島は離れすぎてる。並んでいるとは言い難い。
かなり遠くから見れば並んでいるように見えるだろうが、そのような場所はないし、島が違うのでは?

265 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:46:11.90 .net
その後は播磨風土記の速鳥伝説や後世の高砂の歌に繋がるんでしょ

266 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:50:59.84 .net
駒手御井は、難波高津宮天皇の御世、井戸の上に楠が生えた。
この楠は朝日が上れば淡路島を隠し、夕日が沈む頃には大倭嶋根を隠した。
よって、その楠を伐採して舟を造らせた。その舟は飛ぶように速く、一漕ぎで7浪を越え去ることができる。よって速鳥と名付けられた。
朝夕にはこの舟に乗り、御食を供えて、井戸の水を汲む。しかし、ある朝の御食の時に会えなかった。そこで、このような歌が詠まれた。

「住吉の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何そ速鳥」

これは結婚式の高砂の歌とそっくり
高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり

267 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:53:14.54 .net
記紀が嘘だらけなのはもう明らかだな
明治以前は普通に伝承が歴史を伝えていた
失わさせられた記憶を取り戻さないとね

268 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:54:13.71 .net
つまり畿内説が嘘だらけなのはもう明らかだと

269 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:56:41.84 .net
>>259
あなたのおっしゃる通りです。
推古紀は
倭人伝の話ではありませんよ。
推古気を持ちだして
テンプレで「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である」なんて言うことがバカバカしいのです。
こと自体がバカげているのですよ。
反論とするならば、
推古紀は解説にふさわしくない」「ほかの妥当な旅行日程を示してください」。理由は柏原市埋蔵文化課見解と。
事実として推古紀では裴世清らは飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられている。。

270 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 09:58:43.16 .net
住吉の神さまに祈り一寸法師を授かる
法師とは修行僧だ
播磨の針を刀に、楠の軽船の軽い椀を船に、薬屋の高橋のハシを櫂に、鬼の腹の中から鬼退治

271 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:03:02.97 .net
269です
>>259
反論と言うより指摘でしょうかね
推古紀はFAQ58で言う「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である」の根拠になっていない。
理由は柏原市埋蔵文化課見解と前段または私以外の方も述べてますのでお読みください。

272 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:04:50.17 .net
大阪の民話の仲良し3人組なにわの軽業師の寅吉、高橋の薬使い、高間寺の山伏に、住吉の神さまと播磨の神さまを味方につけたのが一寸法師じゃないか

273 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:08:50.44 .net
>>1奥山さん
これのことですよ
・・・・・・・・・・・・・
FAQ58推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「陸行日程が妥当である」と言ってるが
柏原市文化財課の見解では
@裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられる。
A発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降である

つまり、裴世清らは大和川利用(これは陸行ではない・・テンプレも言及している)
次にかりに裴世清らが陸行としても難波大道、竹内街道とも裴世清らが来た後に設置された街道である。

よって公的機関である柏原市文化財課の公的発表から照らし合わせると
テンプレで言う「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である」は根拠となりえない。

274 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:15:35.96 .net
>>255
比喩かもしれない

275 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:15:45.35 .net
>>261
最後ですよ
でしたら残2000里を>>1はどのような計算で出したのでしょうかね??
倭人伝の万2000里から北部九州までの1万里を引いたのではないのですかね??
それ以外に残2000里を出す計算式や方法ありますか?
言い張るのは良いですが教えてくださいよ。

276 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:18:56.75 .net
三角縁神獣鏡は中国では出土しないと言われてるが、
中国にもあるじゃん
https://m.huaban.com/pins/1120351301/

277 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:22:00.47 .net
日本の古墳は9割が盗掘されている
副葬品が海外に流出していても何ら不思議ではない

278 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:24:53.69 .net
>>275
>それ以外に残2000里を出す計算式や方法ありますか?

その計算でいいよ
計算べつにおかしくないけどね

279 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:27:51.54 .net
「邪馬台国畿内説」
正確な意味は知らないが、魏志倭人伝から離れて妄想すべきと思う。

280 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:30:34.59 .net
>>273
>テンプレで言う「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である」は根拠となりえない。

どうして?
文章だけじゃ外港から都まで陸行で1月半かかったと読めてしまう実例があるでしょ?
つまり同じような誤解で陸行1月という記事が書かれる可能性を否定できない
ほら、根拠だ

いや、奥山じゃないんだけどさ

281 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:33:38.00 .net
>>269
>テンプレで「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である」なんて言うことがバカバカしいのです。
>こと自体がバカげているのですよ。

バカバカと連呼しても反論にも指摘にもならないけど?

282 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:43:57.91 .net
>>280
Aでない可能性を否定できないことはAであることを主張する根拠になるのか?

283 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:52:25.70 .net
>>282
Aである可能性を否定出来ないことは、だ
書き間違え

284 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 10:58:54.09 .net
>>283
>Aである可能性を否定出来ないことは

推定無罪ってこと
主張してないから関係ない

285 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 11:15:11.63 .net
>>264
>そのような場所はないし、島が違うのでは?

だから、
応神天皇の難波大隈宮は、
さぬき市難波郷津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。   @阿波

286 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 11:20:48.42 .net
>>278
そうですよね。
また群から博多までの1万里は7000里+1000里+・・・の積算ですね
1万里の積残の一つとして狗邪韓國から唐津まで3000里です。
これをFAQ58の計算にあてはめます
ーーー
3千里は1魏里432m換算で1296キロに相当する。
 参考値として釜山から唐津まで264キロとなり
 1296キロVS264キロとなり
おおむねどころか似ても似つかぬ数字となってしまいます。
すなわち、FAQ58の計算自体が滑稽なのです。
ーーーー
参考FAQ58より
>これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
テンプレ前段より
>釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである<

287 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 11:30:06.04 .net
>>284
推定無罪は特殊
学問でAである可能性を否定できないからAが正しい、と主張しても通らない
積極的にAである根拠が必要

288 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 11:31:06.51 .net
>>286
>これをFAQ58の計算にあてはめます
 ・・・
>おおむねどころか似ても似つかぬ数字となってしまいます。
>すなわち、FAQ58の計算自体が滑稽なのです。

そんな計算はFAQ58に書いてないけど、滑稽なのは誰のやった計算?

289 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 11:34:04.56 .net
>>287
>積極的にAである根拠が必要

なんで?
1は「この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない」って明言してるのに

290 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 11:47:58.95 .net
>>280
>文章だけじゃ外港から都まで陸行で1月半かかったと読めてしまう実例があるでしょ?
↑ ここ間違い 推古紀の文書を読み解くと陸行でなく大和川航行です(柏原市教委)
>つまり同じような誤解で陸行1月という記事が書かれる可能性を否定できない

可能性は何%ですか。低い可能性を根拠とするのもスレ主の勝手ですが、畿内説を解説するテンプレです。
畿内説のご都合主義と言われるゆえんです。
再度
@ 裴世清は大和川沿いにある桜井市海石榴市(つばいち)で迎えられており、大和川を利用している(柏原市文化財課)
A 発掘調査によって「難波大道」の設置は7世紀中ごろ以降であることがわかり、竹内街道の設置も7世紀中ごろ以降に設置
@Aより裴世清らは難波津から陸行でヤマトに入った可能性は低いどころか、その陸路さえ説明できない。
つまり可能性がると言うが否定する材料も多く、大和川(水行)で行った可能性が非常に高い。こうした高い可能性を切り捨て、願望にも近い陸行を畿内説の解説に使うことは学問を愚弄している。
ひいては畿内説の誤解を与える詐欺行為である。

言い過ぎ御免な。裴世清らの陸行の可能性はゼロに近いと思うよ。
そんなの根拠にしてもらっても、、、

291 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 11:53:33.19 .net
>>288
きみ終わってるよ
なぜ1万千里−1万里=2千里の計算を>>1はできたのでしょ。
私が言っても理解できないようですから、誰かにFAQ58見てもらえばいいですよ。
もうオシマイとします。罵声はご自由に(笑)

292 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 11:56:27.81 .net
じゃあこれは?
>>277


https://baike.baidu.com/item/%E5%90%8C%E5%90%91%E5%BC%8F%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%BC%98%E7%A5%9E%E5%85%BD%E9%95%9C/2574672

293 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 11:57:10.50 .net
ふるしょうが九州説になったのか?

294 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:00:52.98 .net
>>291
キウスまた負けて逃げた

295 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:04:12.14 .net
>>292
畿内説の言う三角縁とは別物ですが?

296 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:05:35.09 .net
>>280
横からスマン 可能性は相当低いよ
魏の使いの行程と推古紀とは関係ないし
その低い可能性を元に「陸行日程が妥当である」と言いっきちゃうのもおかしいし。
ちなみに私は日本海ルート説ですがね。行程についてはにググれば出てきます。しかしこのテンプレでは??
宗像海人の話をもっと聞きたいのですが、、、、

297 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:08:45.03 .net
>>269
>事実として推古紀では裴世清らは飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられている。。

たぶん>>1は誰かの受け売りでを海石榴市のところ理解できなかったのか読んでないのかも?

298 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:10:49.47 .net
>>295
「畿内説のいう三角縁」ってなに?
「日本の古墳から出土する三角縁とは別物」ならわかるけど。
九州説の三角縁は違うのか?

299 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:23:30.08 .net
>>297
>たぶん>>1は誰かの受け売りでを海石榴市のところ理解できなかったのか読んでないのかも?

キウスは日本語が読めないんだよ
テンプレは長すぎの陸行という誤情報が出てくる例を挙げてるのに

300 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:28:32.90 .net
>>297
出店するなら漢文読めなくても訳ぐらい読むだろう
たぶん気が付かなかったのかもな海石榴市のくだり

>>1
残念だったね FAQ58で「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
せっかくテンプレに「海石榴市」のせてるのに、、、
これがわかれば、柏原市教委同様に大和川と気づいたろうに。

301 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:28:42.03 .net
二大宗廟に守られた天皇家は女王邪馬台国の後継者。
八咫鏡こそ女王の後継者の証。

302 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:32:50.91 .net
>>289
>なんで?
1は「この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない」って明言してるのに

そりゃあそうだよ試算がメチャクチャだから位置比定に使用できないよ

303 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:40:47.92 .net
つまり畿内説は空想でしたと

304 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:44:57.15 .net
つまり畿内説が嘘だらけなのはもう明らかだと

305 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:45:52.11 .net
八咫鏡の名前は倭大物主櫛御玉命だったと思う
出雲国造神賀祝詞によれば

306 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:50:19.62 .net
>>220
畿内説は人を欺くことに躊躇がない印象だな
真実の探求が目的じゃないからかな

307 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:51:56.07 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

308 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:56:06.59 .net
>>306
だよね
観光課なら少しはわかるが
作ったの桜井市教委だから始末が悪い

309 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 12:59:36.14 .net
罵るしか打つ手のない九州説は死に体

310 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:01:13.55 .net
つまり畿内説は連続性のある説明が出来ない行き当たりばったり説でしたと

311 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:03:54.14 .net
1は絶対に算数はしないと決めている人、だって計算したら負けてしまうから。

312 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:08:47.84 .net
大物主の櫛の御玉
スサノオと稲田姫の話でもそうだが櫛は女性の象徴だな
櫛をさし鏡を掲げた巫女の一群の埴輪も見つかっている

大物主に関係する女性は婚姻相手であった箸墓の主だ
台与だったのかもしれない
孝の巫女を表す漢風諡号孝霊に八咫鏡の名前の構造は似ているんだよな

大物主は孝元の漢風諡号なのか
結婚する予定だった箸墓の主に何か障ることが起きたのかもな

313 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:10:32.63 .net
ふるしょうさんがもう解決しちゃったよ。

314 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:13:47.68 .net
>>311
学問じゃ数学するからな

315 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:13:49.47 .net
斎宮歴史を博物館のホームページにある斎宮に夜な夜な蛇の神さまが通う噂話もそう考えると話の筋が通るな

316 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:14:00.21 .net
>>301
八咫鏡?
景行天皇が北部九州の女王国を滅ぼしたとき、女王の神夏磯姫が賢木に八握剣、八咫鏡、八尺瓊をかけて白旗を船に掲げて降参したんだよね

317 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:23:49.41 .net
神武は東征時に岡の県(遠賀川流域)に滞在しているが、ここで物部宗像族と合流し広島に向かったのだろう

318 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:26:35.15 .net
>>311
全くその通り

319 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:43:35.55 .net
やっぱり真実の歴史の記憶を物語として後世に伝えていたが何処かの時点で忘れさせられていたんじゃないか
明治維新がかなり怪しい

320 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:49:14.21 .net
>>319
政権がガラッと変わるときにだいぶ消されてる気がする
壬申の乱も怪しいよ
大津京を燃やしたときに歴史書も焼いてそうじゃん

321 :ほらよ>>1 推古紀:2024/02/24(土) 13:49:33.65 .net
6月15日、客たちは難波津に泊まる。
    ・・・難波津に停泊
飾り船30隻で客人を江口に迎えて新館に入らさせた。
    ・・・船30隻は大和川から下ってきたもの推測できる
秋8月3日、唐の客は都に入った。この日飾り馬75匹を遣わして、
海石榴市(つばきち)の路上に迎えた。
    ・・・海石榴市(つばきち)は瀬戸内航路の終着点

結論 

322 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:51:44.80 .net
>>314
算数しない時点で畿内説は破綻です。

323 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:53:52.58 .net
>>316
天照の霊代を九州と畿内が持っていたということは、同じヤマト!

324 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:54:27.02 .net
>>321
大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。   @阿波

325 :ほらよ>>1 推古紀:2024/02/24(土) 13:55:35.25 .net
6月15日、
客たちは難波津に泊まる。
    ・・・難波津に停泊
飾り船30隻で客人を江口に迎えて新館に入らさせた。
    ・・・船30隻は大和川から下ってきたもの容易に推測できる
秋8月3日
唐の客は都に入った。この日飾り馬75匹を遣わして、
海石榴市(つばきち)の路上に迎えた。
    ・・・海石榴市(つばきち)は瀬戸内航路の終着点

結論 裴世清は水路(大和川)で都に入ったと見るのが妥当
   

326 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:57:01.16 .net
>>325
大阪市中央区の後期聖武難波宮には「津」は無い。   @阿波

327 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 13:57:10.89 .net
>>321
つまり「陸行一月半」に見えてしまう情報

328 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 14:00:34.27 .net
>>325
畿内説も阿波説も破綻だな

329 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 14:13:20.13 .net
三世紀に瀬戸内を水行できると思ってるオツムの弱さで毎日必死に邪馬台国考えてるとか笑えるw

330 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 14:17:06.21 .net
>>327

はーーー
読んだらわかるけどなあーー
1の頭じゃむりなのか、ごまかそうとしてるかのいずれかだな

331 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 14:41:22.53 .net
天之安河(鮎喰川)を挟んで、天照大神軍が気延山に布陣、
須佐之男軍が眉山に布陣。   
ここが天之安河の宇氣布(うけふ)の舞台。   @阿波

332 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 14:43:43.28 .net
>>320
いや明治前迄は伝承はちゃんと伝わっているからな

333 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 14:49:28.61 .net
>>285
さぬきから見ても遠く離れてる。

334 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 14:52:52.35 .net
>>333
遠く離れても、淡路島と小豆島が見えればよい。   @阿波

335 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 15:12:21.40 .net
>>330
>はーーー
>読んだらわかるけどなあーー

何が?

説明する能力、ない?

336 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 15:37:41.65 .net
>>335
レスの流れ見てないのかな
俺わかるけど
漢文の略でわかるし、>>290の柏原市文化財課の説明でもわかるけど。

337 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 15:38:04.82 .net
>>300
店出すのか?

338 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 15:41:47.19 .net
>>299
>テンプレは長すぎの陸行という誤情報が出てくる例を挙げてるのに

イミフ

339 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 15:43:28.97 .net
つまり畿内説は詐欺師集団

340 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 15:44:28.71 .net
なるほど、投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね

341 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 15:46:50.29 .net
>>338
御意 日本語の不自由な方かなイミフ

>>299
>テンプレは長すぎの陸行という誤情報が出てくる例を挙げてるのに

342 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 15:52:17.35 .net
>>337
揚げ足とってんのかな? 出展の変換間違いじゃないの。
何かと思ったよ。

343 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 16:36:23.23 .net
>>337
>レスの流れ見てないのかな
>俺わかるけど

じゃ、説明できる?

できないでしょ

344 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:24:57.28 .net
>>343
レスNO 間違えてるよ
俺説明するよ
FAQ58記述=原文
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
現代誤訳
6月15日客たちは難波津に泊まる。飾り船30隻で客人を江口に迎えて新館に入らさせた。
秋8月3日唐の客は都に入った。この日飾り馬75匹を遣わして、
海石榴市(つばきち)の路上に迎えた。

次  
1,定説(テンプレでも一部記載あり)
桜井市海石榴市(つばきち)は瀬戸内航路の終点・・ググれば数多く出てきます
2,裴世清は大和川沿いにある桜井市海石榴市(つばいち)で迎えられており、大和川を利用している(原文を元にした柏原市文化財課見解)

以上より 原文を読み解けば裴世清は大和川で飛鳥へ来たといううことがわかる。

だから、原文からは「陸行一月半」に見えてしまうような情報は入ってこない

345 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:32:06.72 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

346 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:33:41.58 .net
>>344

ご苦労さんだけど、相手は小学校の算数も理解できないやつだぞ。無視すりゃいいんだよ。

347 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:40:44.45 .net
川は遡上出来ないとする阿波説も終了したな

348 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:40:45.99 .net
>>346
できないって証拠は?

また中傷?

349 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:43:20.09 .net
畿内説は海石榴市から陸行1か月の場所を探さないといけませんね

350 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:44:31.48 .net
>>348
計算したら負けだからしないのだろう

351 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:46:35.26 .net
算数のテストで答えを書かなかったら0点。つまり畿内説は0点。

352 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:48:07.15 .net
>>344
>以上より 原文を読み解けば裴世清は大和川で飛鳥へ来たといううことがわかる。
>だから、原文からは「陸行一月半」に見えてしまうような情報は入ってこない

それは海石榴市の位置や大和川を知っている日本人の知識があるからそう思えるのでしょ?
原文からは、上陸した日付と入京の日付しかわからない

だから
"原文からは「陸行一月半」に見えてしまうような情報は入ってこない"は間違いで
"「陸行一月半」に見えてしまうような情報"が入って来ますね

353 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:50:02.02 .net
>>351
>算数のテストで答えを書かなかったら0点。つまり畿内説は0点。

実際には、設問にない答えを書いたら0点なんだけどね

354 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:50:23.19 .net
倭人伝の方角は間違いだとするくせに、1里は間違いなく432メートルであると言い張るのが畿内説

355 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:55:13.45 .net
方角をとると糸島市は共通の九州説の一部と
同じだよね。角度ズラせば済む。

356 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 17:55:58.69 .net
日本は女王邪馬臺国と大和天皇家と大陸半島渡来人の倭漢融合王朝。天照まんせーーー!

357 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:00:53.56 .net
畿内説の1里432メートルの2000里だと直線距離で東京に到着します。これはダメですね、半蔵門の英国大使館に邪馬台国があったかもしれませんね。https://i.imgur.com/skEBL6O.jpeg

358 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:03:23.76 .net
毎日同じことを書いている九州説

359 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:03:49.13 .net
嘘と誤魔化しの畿内説の一生もそろそろ終了だな

360 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:05:55.24 .net
>>358
おまえはまだ畿内説とかやってんの?
友達を無くすからやめた方がいいぞ

361 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:06:11.24 .net
>>354
>倭人伝の方角は間違いだとするくせに、1里は間違いなく432メートルであると言い張るのが畿内説

当たり前の正い見解でしょ

方角は倭人伝の情報だから誤認も欺瞞もある
けれど1里の長さは当時の中国で使われている単位だから固定だもの

362 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:09:15.11 .net
>>361
行程の里数も倭人伝の記載。

363 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:10:58.81 .net
非常にお見苦しい畿内説の言い訳である

364 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:13:27.22 .net
>>358
>毎日同じことを書いている九州説

一人だからだろ

365 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:13:52.15 .net
平原の超大型内行花文鏡の次が、三角縁神獣鏡の九州
この時点で詰んでる

366 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:14:18.82 .net
>>363
ただ罵っても反論にならないよ

367 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:15:39.62 .net
内行花文鏡は八咫の鏡

368 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:16:59.82 .net
>>362
>行程の里数も倭人伝の記載。

そうだよ
誤認も欺瞞もある
けれど1里の長さは約432メートルで固定だ

369 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:18:18.91 .net
>>367
>内行花文鏡は八咫の鏡

だという根拠は?

370 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:18:39.46 .net
>>366
行程の里数は倭人伝の記載。倭人伝の里数を計算すれば1里が432メートルでは無いことがわかるhttps://i.imgur.com/XIK2i96.jpeg

371 :伊太乃に居たの ◆oRNQXnZmlfa1 :2024/02/24(土) 18:19:20.20 .net
>>347
川は手漕ぎで遡上できないっていう謎主張は、阿波説全体ではなく特定の個人の主張だと思います。

その人は、思いこみが激しく、理屈が通らないことも平気で発信するので非常に厄介です。

徳島の阿波説支持者も非常に困っていると思います。

372 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:20:45.00 .net
>>370
>行程の里数は倭人伝の記載。倭人伝の里数を計算すれば1里が432メートルでは無いことがわかる

という証拠は?

373 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:23:00.05 .net
>>370
>>260を見れば1里80mくらいなのが分かるね。

374 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:23:12.23 .net
>>369

平原の内行花文鏡の直径46.5センチは、漢の時代の寸法でいうと「二尺」となり、この直径では円周が「八咫」となる。

375 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:25:21.85 .net
>>372
計算出来ないの?

376 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:27:40.86 .net
>>361
方角は誰にとっても変わらないが
里の長さは人が決めたもの、違う人が決めた別の里があってもおかしくない
単に同じ漢字の里を使用してるだけで別の長さの里も有り得る
中国本土とは別の権力者が決めた違う長さの里を使用していたんだよ。

377 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:28:44.04 .net
>>375
彼は計算しない人なんです
話しても無駄ですよ。

378 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:29:07.60 .net
八咫鏡は糸島から近い宗像大社にもあるよ

379 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:30:59.80 .net
>>377
計算出来れば畿内説などやって無いだろうね

380 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:33:59.03 .net
>>377
自分のやった計算を「おかしい」と言ってテンプレを非難する木臼は
思考をしてない人

381 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:34:10.15 .net
計算出来ない畿内説は0点です

382 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:35:30.87 .net
>>376
>単に同じ漢字の里を使用してるだけで別の長さの里も有り得る

その別の里を魏使が本国に報告したという九州説は脳不在

383 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:37:23.62 .net
>>381
計算できないって証拠は?
証拠を無視する九州説は学問でない
もちろん理系の頭じゃない

384 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:40:20.53 .net
>>382
公孫氏が1里80mの里を使用していた
魏が公孫氏を滅ぼした時に公孫氏が作った記録を押収し
その中に1里80mの里を使用しており
それを陳寿が参考にしたと考えてる。

385 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:41:00.51 .net
計算しないと言うことはやましいからです

386 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:41:29.22 .net
>>374
>平原の内行花文鏡の直径46.5センチは、漢の時代の寸法でいうと「二尺」となり、


つまり二尺鏡だから、円周をとって八咫鏡だなどと言わない

387 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:41:49.74 .net
だから畿内説はバカにされる

388 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:42:26.63 .net
>>384
>公孫氏が1里80mの里を使用していた

このように
根拠のない妄想でできているのが
九州説

389 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:43:48.92 .net
倭を含む東夷は50年くらいの間、公孫氏に従属していた
東夷伝で1里80mくらいの里が使用されているのは公孫氏が使用していたとしか考えられない。

390 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:44:40.31 .net
>>385
>計算しないと言うことはやましいからです

つまり計算をせずに
「倭人伝の里数を計算すれば1里が432メートルでは無い」と結論だけ言い張る九州説は
やましいんだね?

391 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:44:42.02 .net
>>388
韓の方4000里をどう説明するの?

392 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:45:27.74 .net
>>389
>東夷伝で1里80mくらいの里が使用されているのは

証拠は?

393 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:46:05.17 .net
>>390
グーグルマップで韓の東西南北の長さを測ってみろよw

394 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:46:06.47 .net
横からだけど、国が違えば尺度も違って不思議では無いね、独立した燕が独自の尺度を使うのはありうる話

395 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:46:59.84 .net
>>392
君の証拠は?

396 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:47:58.28 .net
絶対に計算しない畿内説はアホですね

397 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:49:58.98 .net
>>396
違うよ
計算したら負けるからやらないだけ
計算できないアホではない

398 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:50:06.09 .net
渡海が全部1000里なわけがない
測ってない

399 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:51:03.65 .net
畿内説はグーグルマップで韓の東西南北の長さも測れない馬鹿w

400 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:51:58.18 .net
畿内説の1里432メートルで計算すると末盧国から伊都国までの500里は216キロになりますが、末盧国の現在の住所を教えてください

401 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:52:01.01 .net
>>391
>韓の方4000里をどう説明するの?

いろんな説明ができるでしょ
テンプレによれば
・戦果報告の誇張数字がひとり歩きor悪用された
・四方千里が誤解された
・1万里を適当に7:3に分けて7千里に辻褄合わせで捏造した
とか、「短里があった」より遥かにマトモな案でいくらでも説明がつく

402 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:53:08.52 .net
>>398
渡海だけは測れなかったんでしょうね
海上では歩測も紐を使った測量も出来ませんからね。

403 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:54:39.49 .net
>>401
それ何の説明にもなってないよw
バカじゃないのwww

404 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:56:00.65 .net
渡海1000里は目視だな、日頃から遠くの山を見て訓練されていたのだろう

405 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:56:10.01 .net
>>400
>末盧国の現在の住所を教えてください

中原、久里、千々賀あたり
中原遺跡を含む松浦川下流エリア

406 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:56:10.97 .net
>>401
それで説明したつもりとか論理的な思考力ゼロですねw
IQ幾つwww

407 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:56:52.65 .net
【考古学】福岡市・西新は古墳時代初頭、国内最大級の貿易拠点だったか…朝鮮半島や畿内・山陰などの土器 九州歴史資料館で展示 [ごまカンパチ★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1708755035/

> 西新町遺跡は3世紀末から4世紀にかけて、国内で製造できなかった鉄素材を朝鮮半島から輸入する拠点として栄えた

国内で製造できなかった鉄素材
国内で製造できなかった鉄素材
国内で製造できなかった鉄素材

408 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:57:15.47 .net
>>403
>それ何の説明にもなってないよw

理由もなく否認?
いかなる時も思考しない九州説らしいね

409 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:57:25.09 .net
>>405
1里432メートルの計算に合わないね

410 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 18:58:14.95 .net
>>406
>それで説明したつもりとか論理的な思考力ゼロですねw

罵るだけで反論不能?
いかなる時も思考しない九州説らしいね

411 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:00:24.48 .net
>>339
>畿内説はグーグルマップで韓の東西南北の長さも測れない馬鹿w

つまり決して計ろうとしない九州説の自分は馬鹿だと
計算も決してしない九州説は、やましいからだと
自白いただきました

412 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:00:38.26 .net
>>408
>>410
本気で説明になってると思ってるのw
自分の感想を述べてるだけじゃないwww

413 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:01:33.63 .net
>>409
>1里432メートルの計算に合わないね

それが何か?

414 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:02:01.20 .net
>>411
では何kmでしたか述べよ

415 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:02:13.95 .net
>>408
そもそも公孫氏の里並みの根拠のないことを主張した認識はないのか

416 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:02:17.89 .net
>>412
>本気で説明になってると思ってるのw

反論ができないと
自白いただきました

417 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:02:48.55 .net
>>413
畿内説が破綻した証拠

418 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:04:29.93 .net
>>415
>そもそも公孫氏の里並みの根拠のないことを主張した認識はないのか

ありません
「公孫氏の里」って、まったく根拠ない上に実際の地理とも合わないでしょ?
テンプレのあげてた案は根拠があるもの

419 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:04:55.33 .net
>>416
畿内説からは理論的な反論がありませんね
自分の感情を述べれば反論とか終わってますよ。

420 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:05:52.55 .net
>>417
>畿内説が破綻した証拠

なぜ証拠になるの?
また理由なしで言い張るだけ?

いかなる時も思考しない九州説らしいね

421 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:06:21.17 .net
畿内説は韓の東西南北が何kmなのか測る事も出来ない能無ししかいないなwww

422 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:07:10.08 .net
韓の東西南北が何kmなのか測る事も出来ない能無しが畿内説なんですねwww

423 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:07:30.36 .net
九州説は多少はふるしょうぐらいの勉強をしろよ

424 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:07:43.33 .net
畿内説は能無しなんですねwww

425 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:08:08.07 .net
韓の東西南北が何kmなのか測る事も出来ない能無しが畿内説なんですねwww

426 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:08:26.66 .net
畿内説は能無しなんですねwww

427 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:08:59.74 .net
未だ測れないのかw

428 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:09:48.62 .net
能無しにも過ぎるなw

429 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:10:16.03 .net
>>420
末盧国から伊都国の500里の1里は432メートルでは無いですが、どう解釈してますか?

430 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:10:46.68 .net
>>428
渡海4ヶ所全て1000里
測ってません

431 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:11:40.43 .net
>>429
帳尻合わせ

432 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:12:09.60 .net
>>414
>では何kmでしたか述べよ

回答
仁川市月尾公園より木浦海洋大学校まで直線距離299km
同じく江陵市江陵総合運動場まで204km
木浦海洋大学校より釜山市影島灯台まで250km

433 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:12:22.65 .net
>>430
千里眼で目視したのだろう

434 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:13:59.77 .net
漢書では1里単位まで出してるのに、魏志では百の位までの概数
要するに、測ってない

435 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:14:17.45 .net
>>429
>末盧国から伊都国の500里の1里は432メートルでは無いですが、どう解釈してますか?

机上で捏造された数字なので現実と違うものと解釈します

436 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:14:19.56 .net
>>431
つまり1里432メートルは嘘でしたと

437 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:16:34.52 .net
>>432
299km、204km、250kmを4000里とすると1里はそれぞれ75m51m、63mとなりますねw

438 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:17:36.55 .net
末盧国
↓ 500里
伊都国

↓ 1500里

邪馬台国

これが倭人伝の世界

439 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:17:39.10 .net
「此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり」

以上
まだマトモな人間がいた時代の九州説が短里を否定した理由

440 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:18:13.09 .net
>>418
もう全くお話にならない
このように認識が狂ってるのが畿内説

441 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:18:22.00 .net
>>347
いやいや、川は遡上出来るよ。
曳船か帆掛け船でならな。 よかったな。   @阿波

442 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:18:26.76 .net
>>436
嘘です
長里をとる畿内説がいるなら、そいつは馬鹿だ

443 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:20:37.82 .net
>>437
>299km、204km、250kmを4000里とすると1里はそれぞれ75m51m、63mとなりますねw

ほら、一定しない
古代中国人はgoogle地図を使えるパソコン持っていないので使用不可
つまり現代人の妄想とわかるね

444 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:21:30.50 .net
>>437
1里80mなら韓は320km四方で、実際の大きさに近いですね。

445 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:23:28.90 .net
>>442
このように
ただ罵るだけで反論がまったく出来ないのが九州説
つまり敗北者

446 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:24:17.23 .net
>>443
それぐらいは誤差ですよ
432メートルは程遠いですねw

447 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:24:19.28 .net
>>444
>1里80mなら韓は320km四方で、実際の大きさに近いですね。

どうやって測ったと?

448 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:27:18.02 .net
>>446
>それぐらいは誤差ですよ

じゃあ1里80mって、どうやって算出したの
どこを測定した?

>432メートルは程遠いですねw

捏造だから現実とかけ離れていて当然だけど?

449 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:29:19.22 .net
>>431

>帳尻合わせ

畿内説が自己紹介してます

450 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:31:55.87 .net
>>448
432メートルは捏造だから現実とかけ離れていて当然なんですね!

451 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:34:13.82 .net
>>450
>432メートルは捏造だから現実とかけ離れていて当然なんですね!

とうとう九州説は中国の歴史をまるまる否定ですか

452 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:35:22.81 .net
自分では測定もしなけりゃ計算もしない
九州説の正体が見えたな

453 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:36:57.17 .net
>>451
東夷伝の話をしてるんですから、東夷伝での話ですよ。
東夷伝では432メートルは捏造だから現実とかけ離れていて当然なんですね!

454 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:37:14.58 .net
>>445
想像以上の馬鹿だな
テンプレで釜山〜佐須奈=63kmとしたんだろ
倭人伝では1000里なんだろ。
魏の使いが想定した1里あたりの距離ぐらい計算できるだろ
これ算数
63キロ÷1000里=63M

1里 432メートルじゃないよ

455 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:38:00.72 .net
冊府元亀が台与即位と晋朝貢を正始8年(247年)にしてるのって
冊府元亀の著者が魏志倭人伝の内容を解釈せずに写した単なるエラーだろ

卑弥呼の崩御が正始8年だとしても郡使は卑弥呼陵の完成を報告してるよね

径百余歩だと

この時点で正始8年の出来事じゃないよね

それから卑弥呼の次の男王の相誅殺事件も知っていて崩御も知っている

崩御しなければ台与は即位できないんだから

どう考えても台与即位と晋朝貢は正始8年の出来事じゃないな

やはり定説通り266年の出来事だよ

だいたい冊府元亀以前に台与即位と晋朝貢を正始8年だと書いている文献ってないだろ

456 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:40:10.26 .net
>>451
君は精神異常者か?
現実とかけ離れているのは432メートルだろwww

457 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:41:12.29 .net
1里432メートルだと倭人伝が破綻してしまうだろ

458 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:43:04.05 .net
>>457
1里432メートルだと倭人伝だけでなく東夷伝全体が破綻してしまう

459 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:45:33.09 .net
つまり畿内説は破綻していると言う事

460 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:46:45.09 .net
畿内説は東夷伝全体を破綻させるな

461 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:47:31.05 .net
畿内説はデストロイヤー

462 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:48:32.72 .net
史書を破壊する畿内説

463 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:49:13.09 .net
>>347
いやいや、川は遡上出来るよ。

曳船か帆掛け船でならな。 よかったな。   @阿波

464 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:49:48.74 .net
キウス発狂中

465 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:51:25.91 .net
我田引水の為に川を堰き止めたら洪水で自分が滅びてしまった畿内説

466 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:52:17.92 .net
>>453
>東夷伝の話をしてるんですから、東夷伝での話ですよ。
>東夷伝では432メートルは捏造だから現実とかけ離れていて当然なんですね!

筆者の陳寿は晋の著作郎なんだから1里432メートルが捏造なわけないでしょ
当時の中国人が普通に知っている常識です

467 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:53:40.65 .net
>>466
倭人伝の里数が432メートルと言う証拠が無い

468 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:57:27.10 .net
>>455
完成してたかどうかはわからん
縄張りしただけで「おおきいなあ」という感想かもしれん
殉葬も倭人から「100人」って吹き込まれてそりゃあ凄いと書き記しただけかもしれん

469 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 19:58:40.47 .net
百は「たくさん」の表現なだけで、径たくさん歩、殉葬たくさん人、ということかもしれん

470 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:00:47.13 .net
>>455
通説は正始八年としてる

渡邊義浩「魏志倭人伝の謎を解く」
(早大教授、三国志学会副会長)

471 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:03:04.65 .net
>>469
だったら径百「余」歩という表現にならんだろ

472 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:03:34.12 .net
>>466

郡から狗邪韓国 7000里 
狗邪韓国から対馬 1000里
対馬 方400里
対馬から壱岐 1000里
壱岐 方300里
壱岐から末盧国 1000里
末盧国から伊都国 500里

いずれの行程でも1里が432メートルにはなりません。

473 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:06:23.58 .net
ワールドメイトの神法などを多分に創価学会に書かされました。
興味が有る方はこちらまで

talk 心と宗教板 [ワールドメイト]深見東州[宗教界のお笑い芸人]★2

474 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:09:33.53 .net
>>470
卑弥呼陵の完成を見て規模の報告までして時期男王の相誅殺事件を報告して
崩御=台与即位まで知っている

これが正始8年のたった1年間の出来事な訳がないじゃないか

475 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:14:02.11 .net
魏使は箸墓は見ていないよ、畿内に行っていないから

476 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:16:48.74 .net
>>467
>倭人伝の里数が432メートルと言う証拠が無い

当時中国で使われていた単位が証拠だよ

477 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:18:51.74 .net
>>466
中国の学者もほぼ全員が短里を認めていたな
反対してるのは日本の畿内説の人だけw

478 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:19:00.30 .net
>>476
計算が合わないのでダメですよ

479 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:20:09.08 .net
>>472
>いずれの行程でも1里が432メートルにはなりません。

そりゃ当然だ
適当に大盛りされてるんだから
等倍にきちんと比率を守ったりする意識は無いさ

480 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:21:11.45 .net
畿内説さん、中国でも南は東ではありませんよ

481 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:21:13.65 .net
>>478
>計算が合わないのでダメですよ

合う必要がナゼあるの?

482 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:21:47.39 .net
1里の長さは権力者が決めるものだから
地方の権力者がその地方独自の里を定める事も十分に考えられると中国の学者は言ってた。

483 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:22:34.48 .net
>>477
畿内説も短里なんだが?

484 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:22:53.42 .net
>>480
>畿内説さん、中国でも南は東ではありませんよ

という証拠は?
東越も東冶も越の南にあるよ

485 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:23:37.58 .net
>>481
つまり倭人伝の1里は432メートルでは無いと言う事ですね

486 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:23:56.03 .net
>>483
>畿内説も短里なんだが?

そんな畿内説はない
お前、ニセモノだな?

487 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:25:07.31 .net
>>483
そうなんですか、必死に反対してる人は畿内説じゃなくて単なる気違いだったんですね。

488 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:25:37.90 .net
>>470
帯方郡に狗奴国との戦争報告したばかりなのに、その年のうちに
「国中遂に定まる」というのも何か釈然としない

やっぱり台与即位は266年だよ

489 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:26:13.73 .net
>>485
>つまり倭人伝の1里は432メートルでは無いと言う事ですね

どうして?
理由は?





490 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:27:23.61 .net
東夷伝の1里は約80mなんですね
異論は無いですね。

491 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:27:31.19 .net
>>487
>そうなんですか、必死に反対してる人は畿内説じゃなくて単なる気違いだったんですね。

そりゃキウスは畿内説じゃないものな

492 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:28:00.23 .net
>>1
ほんとうにバカだね
1里432Mと魏の使いが認識してたら、
釜山→対馬を1000里とは記述しないだろ
以後も同じ

お馬鹿さん

493 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:29:35.14 .net
畿内説でも短里を認める人と認めない人がいるようですね。

494 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:30:01.80 .net
>>489
行程のどこを測っても、伊都国までの全工程を測っても1里が100メートルを超える事は無い

495 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:30:31.67 .net
>>493
短里ではない
測ってない

496 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:31:04.57 .net
畿内説は馬鹿を晒すだけ

497 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:31:27.12 .net
現実を直視するなら短里は認めざるを得ないよな
認めない人は現実逃避だな。

498 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:32:42.75 .net
>>497
適当に帳尻合わせてるだけで測ってない

499 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:33:34.12 .net
>>482
>1里の長さは権力者が決めるものだから
>地方の権力者がその地方独自の里を定める事も十分に考えられると中国の学者は言ってた。

そのひと、まちがいなく学者失格でしょ
公孫淵は237年まで魏の臣下だし、新しい年号は紹漢で、こっちの方が後漢の正統な後継と気を吐いている
反対した重臣を処刑してまで独立を強行したのだから事前に準備しているはずもない
短期間に新しい度量衡なんて作るわけがない

500 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:33:46.52 .net
>>498
言い張るだけでは説得力がないな。

501 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:34:18.51 .net
>>497
>現実を直視するなら短里は認めざるを得ないよな

なぜ?
また言い張るだけ?

502 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:35:13.18 .net
>>493
>畿内説でも短里を認める人と認めない人がいるようですね。

ナリスマシでしょ
そんなバカはいないさ

503 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:35:55.25 .net
壱岐→末盧が1000里は、短里使っても厳しい

504 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:36:54.55 .net
1里が432メートルなら東京に邪馬台国があったことになるhttps://i.imgur.com/skEBL6O.jpeg

505 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:37:31.34 .net
>>499
公孫氏は何れ魏との衝突は避けられないと考えて魏とは違う度量衡を準備していた可能性は高いと思うよ
1里400mを80mにすれば国土を25倍の広さに見せかけられる。

506 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:37:47.32 .net
「此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり」
九州説もまだ頭のマトモな人間がいた時代は
このように短里など否定している

507 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:39:04.77 .net
>>505
何で魏使が公孫の度量衡を使うんだよ?

508 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:39:10.92 .net
>>505
>公孫氏は何れ魏との衝突は避けられないと考えて魏とは違う度量衡を準備していた可能性は高いと思うよ
>1里400mを80mにすれば国土を25倍の広さに見せかけられる。

誰に見せるつもり?

w
w
w

509 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:39:40.48 .net
>>503
海上は実測出来ないから仕方がない
渡海は全部1000里にしてるだけだね。

510 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:40:44.32 .net
奈良の海柘榴市から陸行1か月で東京は可能だな

511 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:40:45.49 .net
>>508
地図とか盗まれた時の為

512 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:40:47.66 .net
だいたい1里80だなんて九州説(超泡沫説)の素人だけの都市伝説でしょ
だって誰も算出していない

513 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:41:21.39 .net
>>509
つまり、短里なるもので測ってないということ

514 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:42:33.15 .net
>>507
魏使が使ったのではなく
陳寿が魏志倭人伝の記述する際に公孫氏の残した資料を見た
その資料が短里で書かれていた。

515 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:43:35.23 .net
1里432メートルなら、奈良を遥かに越えてしまうので畿内説はボツですね

516 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:43:45.13 .net
>>505
魏とは違う度量衡を準備?
反対する重臣を殺してまで抗戦に踏み切ったんだぜ
そんな準備いつしたの

517 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:45:26.24 .net
>>513
陸上は歩測や紐で測ったようだ
女王国(博多湾岸の不弥国)から倭種(山口県)までが1000里(80km)だったので
他の渡海も1000里にしたのではないかな。

518 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:46:06.55 .net
俺が九州説をやめた理由の一つが短里の不存在

519 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:47:39.73 .net
>>517
100の位までの概数なんだから測ったわけない
漢書西域伝では1の位まで出してる

520 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:48:06.26 .net
>>516
独自の度量衡を定めるだけなら大きな反対もないだろ
230年前後くらいかな。

521 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:48:49.44 .net
>>514
言ってることに、なにひとつ根拠が無いんだけど

522 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:49:11.07 .net
>>518
1里432メートルだと東京に邪馬台国があったことになるから、邪馬台国東京説に変えた方がいいな

523 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:49:48.88 .net
俺が畿内説を受け入れられないのは短里が説明出来ないから。

524 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:51:07.52 .net
>>523
あなたも算数が出来ない特殊学級ですね

525 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:51:59.71 .net
>>519
>独自の度量衡を定めるだけなら大きな反対もないだろ

叛逆とみなされる理由になること、わざわざするか?
233年に呉の使者殺して魏にコビ売ってるぞ

526 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:53:02.99 .net
>>521
魏志倭人伝及び東夷伝では魏の公里とは異なる短里が使用されているから
陳寿は倭人伝だけでなく東夷全体で短里の使用された資料を見ていた。

527 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:54:06.29 .net
>>525
公孫淵ですから。

528 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:54:19.47 .net
そもそも短里があったという根拠すら一つも無いって知ってる?

529 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:55:28.89 .net
>>524
数学は成績優秀でしたけど。

530 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:55:36.24 .net
>>524
>あなたも算数が出来ない特殊学級ですね

それって自分でなにひとつ計算できない九州説のことじゃないの

531 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:55:50.23 .net
燕の資料が残っていたのなら改めて測量はしなかったとするのが正解だろうね

532 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:56:46.88 .net
>>528
証拠は東夷伝や三国史記等、多数ありますよ。

533 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:57:29.74 .net
>>529
>数学は成績優秀でしたけど。

証拠が出せないだろ
そういうのって理系じゃない人の行動パターンだ

534 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 20:58:59.30 .net
>>529
あなたは郡が九州から4320キロ先にあったと思っている人ですね。

535 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:07:06.59 .net
>>534
>あなたは郡が九州から4320キロ先にあったと思っている人ですね。

このように
根拠のない決めつけをする人は知能が低い
もちろん理系ではあり得ない

536 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:08:56.29 .net
>>492
するどい指摘です
>1里432Mと魏の使いが認識してたら、
釜山→対馬を1000里とは記述しないだろ
以後も同じ

おっしゃる通りです。
魏の使いが1里をどのように想定してたかがカギ
1里432Mと沿うておは

537 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:09:40.85 .net
公孫三代はこんなひとたち

公孫度(150-204)
中平6年(189年)、董卓の中郎将となった同郡出身の徐栄の推挙で、遼東太守に任じられる[3]。しかし地元には彼の出自を軽んじる名族がいくつもあったため、先んじてこれらの家を罪に当てはめ百余家を滅ぼした。

初平元年(190年)、中原の騒乱を知ると独立志向を強めていく。自ら遼東侯・平州牧を名乗り、父の公孫延に建義侯の称号を追贈し、漢の二祖(劉邦・光武帝)の霊廟を建立するなどした。

襄平の名門をことごとく滅ぼし支配を固める一方で、高句麗や烏桓を討伐し功績を挙げ、董卓死後に実権を握った曹操に賞され、武威将軍・永寧郷侯の地位を与えられた。しかし公孫度はこの地位に不満だったため、朝廷から贈られた印綬は武器庫にしまいこんだ。


公孫康
建安9年(204年)、父の後を継いで太守となった。
建安年中に、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置し、韓や倭まで勢力を広げた[1]。

建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。


公孫淵
父の公孫康が死去した時はまだ幼少であったため、叔父の公孫恭が遼東太守となった。やがて公孫淵が成人すると、公孫恭を太和2年(228年)に脅迫して、遼東太守の座を奪った。この時、魏の明帝から揚烈将軍の官位を与えられている。

その後、公孫淵は魏の他に呉とも通じるなど、巧みな外交を見せている。この経緯から嘉禾2年(233年)、呉から九錫を受け燕王に封じられた。しかし、後に心変わりして呉の使者として来訪した張弥・許晏・賀達らを殺害し、その首を魏に差し出した。この功績により、大司馬・楽浪公に任じられている。

しかし、こうした公孫淵の二枚舌外交は、魏の強硬政策を招いた。 景初元年(237年)、毌丘倹は明帝の名で公孫淵に出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わずに迎撃の構えを見せ、毌丘倹と一戦に及びこれを撃退した。この結果、公孫淵はついに自立を宣言し、燕王を称した[2]。

538 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:09:53.06 .net
畿内説の1里432メートルは倭人伝においては荒唐無稽。だから畿内説を支持する人は少ない。

539 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:10:12.66 .net
九州説信者の知能の低さは何年も前から明らかになっています

>お前が中卒の老害で有る事があからさまになったなw
>このご時世に学歴を何らかのしきいとして持ち出すのは確実に老害だからw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1594696181/461
ほらね
このブーメラン自殺
はかでしょ?

540 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:11:19.08 .net
>>492
するどい指摘です
>1里432Mと魏の使いが認識してたら、
釜山→対馬を1000里とは記述しないだろ
以後も同じ

おっしゃる通りです。
魏の使いが1里をどのように想定してたかがカギでしょう
1里を現在の432M相当とは想定していないのは明らかでしょう。
1里を80M前後で想定していたと計算上は成り立つでしょう。

541 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:12:02.41 .net
>>538
>畿内説の1里432メートルは倭人伝においては荒唐無稽。だから畿内説を支持する人は少ない。

証拠は?

542 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:12:22.74 .net
>>492
するどい指摘です
>1里432Mと魏の使いが認識してたら、
釜山→対馬を1000里とは記述しないだろ
以後も同じ

おっしゃる通りです。
魏の使いが1里をどのように想定してたかがカギでしょう
1里を現在の432M相当とは想定していないのは明らかでしょう。
1里を80M前後で想定していたと計算上は成り立つでしょう。

543 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:13:04.70 .net
短里のメリットはより細かい地理把握が出来ること

544 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:17:23.93 .net
>>536
>するどい指摘です

いや、ニブすぎる
だって

>1里432Mと魏の使いが認識してたら、
>釜山→対馬を1000里とは記述しないだろ

もともと魏の使いが釜山→対馬を1000里と記述したという根拠が全くない
だから、それを否定しても自分の主張が正当化できていない
つまり論理がおかしい

545 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:18:30.95 .net
>>542
>1里を80M前後で想定していたと計算上は成り立つでしょう。

どういう計算?

546 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:19:29.51 .net
>>541
低能者はこれ読め

>魏の使いが1里をどのように想定してたかがカギでしょう
1里を現在の432M相当とは想定していないのは明らかでしょう。
1里を現在の80M前後で想定していたとすれば、倭人伝記述の里数と実際の距離との整合性が取れるでしょう。


要するに、倭人伝では魏の使いでも鎮守でも良いが、
1里の距離をどのように認識してたかがカギ。
計算上 432Mではなくおおざっぱに80M前後で想定してた。

547 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:19:39.66 .net
計算しない
できない

それが九州説のデフォ
理系じゃあり得ない

548 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:21:02.23 .net
自分にするどいとかキウスは痴呆か

549 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:22:27.17 .net
>>547

1里432メートルだと

2000里は864キロになります

ので

畿内説は破綻します

550 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:24:36.27 .net
>>490
コンセンサスないんだよ。
後漢書
其地大較在會稽東冶之東
魏志倭人伝
計其道里 當在会稽東治之東
だしな。

551 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:28:47.58 .net
>>550
そうなんだ。壱岐から末盧国は
千里なんで呼子はボツ。

552 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:29:29.58 .net
>>545
倭人伝の里数は信用できないのではなく、
どのように解き明かすかが先決、解き明かせるのが短里の考え
短里なるものが存在したかどうかは知りませんが
>>546さんの言うように
当時 1里を現在距離に引き直したとき、どのくらいの距離に想定されてたかが倭人伝の里数を解くカギでしょうね。
記述の里数と実距離で計算すると、多少の狂いはあるでしょうが短里に近いものがあるのは確かでしょう。

553 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:32:21.25 .net
末盧国から500里で伊都国なので、
1里432メートル説はボツ❌

554 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:33:40.99 .net
呼子もボツ

555 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:34:42.34 .net
結局詭弁を使わないと畿内説は成り立たない

556 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:36:14.76 .net
>>555
九州説の一部もな

557 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:37:35.63 .net
>>552
>どのように解き明かすかが先決、解き明かせるのが短里の考え

と、いうだけで自分で全く計算しないのは、なぜ?
妄想だからでしょ

558 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:39:18.96 .net
>>556
九州説全部が正しい書き方するなよ。
(九州説一部を除く)の注釈必要だ。

559 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:39:25.58 .net
キナイコシを教えるのはむつかしいね
知恵遅れの子だから仕方ないけど、、、

560 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:40:29.76 .net
>>552
>記述の里数と実距離で計算すると、多少の狂いはあるでしょうが短里に近いものがあるのは確かでしょう。

確かだという証拠は?
実距離の実例は?
いつもイメージと総論だけですね

自分で計算しないのは、やましいところがあるからでしょ

561 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:40:58.15 .net
>魏の使いが1里をどのように想定してたかがカギでしょう
1里を現在の432M相当とは想定していないのは明らかでしょう。
1里を現在の80M前後で想定していたとすれば、倭人伝記述の里数と実際の距離との整合性が取れるでしょう

562 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:41:38.46 .net
>魏の使いが1里をどのように想定してたかがカギでしょう
1里を現在の432M相当とは想定していないのは明らかでしょう。
1里を現在の80M前後で想定していたとすれば、倭人伝記述の里数と実際の距離との整合性が取れるでしょう

563 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:42:19.69 .net
>魏の使いが1里をどのように想定してたかがカギでしょう
1里を現在の432M相当とは想定していないのは明らかでしょう。
1里を現在の80M前後で想定していたとすれば、倭人伝記述の里数と実際の距離との整合性が取れるでしょう

564 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:43:24.13 .net
>>549
>1里432メートルだと
>2000里は864キロになります
>ので
>畿内説は破綻します

する理由は?
九州説って全く論理が無いんだね

565 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:48:07.00 .net
伊都国までが500里

伊都国から邪馬台国は1500里

末盧国から伊都国の距離の一往復半の距離を不弥国で南に折り返すと九州からは出ませんね。

566 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:48:25.27 .net
>>563
>1里を現在の432M相当とは想定していないのは明らかでしょう。

なぜ明らかなの?
毎度のごとく理由はまったく無し?

>1里を現在の80M前後で想定していたとすれば、倭人伝記述の里数と実際の距離との整合性が取れるでしょう

どう整合性は取れるの?
具体的な内容は全く無しで総論の御託宣だけ?

計算しない
比定地も明らかにしない
距離も計らない
どう計算して短里なるものを出したかも黙して語らない
ないないないの九州説

ただの政治思想なんでしょ?

567 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:51:59.50 .net
>弥生時代後期から古墳時代初め頃で、邪馬台国とほぼ同時代から若干後ろの頃の期間には、
>九州の中・南部地域では免田式土器(重弧紋長頸壺(ちょうけいこ))が広く分布した。
>それゆえ、森浩一氏などから、これがクマソないし隼人の土器ともいわれ、佐古和枝氏は狗奴国の象徴だともみる。

568 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:52:10.07 .net
>>560
自分で計算しなくても短里、魏志倭人伝でググるといっぱい出てくるよ。
それに賛同してるだけだがね。
知りたかったらググったら。
あなた、短里を非難すれど短里説すら知らない人?

569 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:54:09.24 .net
言葉尻だけで防戦一方の畿内説は破綻している

570 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:59:01.48 .net
>>560
私は当然、実距離を測ったことがないので
これを参考にしてください

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/paper/paper17.html

571 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 21:59:50.84 .net
>>569
九州説は学者の間では絶滅危惧種だけどな

572 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:04:41.95 .net
>>566
天邪鬼ですかね
いっぱい、私やあなたが指名してる人に振るのもいいですが。
書くのは労力がいります。
だから、短里・魏志倭人伝などでググると計算は出てきます。
そのくらいの労力使いなさいよ。

これなんかはおすすめ
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/paper/paper17.html

573 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:08:15.61 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

574 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:10:36.53 .net
あんたひとりでダダこねて理解もできない
みんなに申し訳ないと思わないのかな
まず学問以前に性格変えたらいかがかな
友達いないでしょ
相談する相手もいないから誤解したままでいるのですよ

575 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:13:46.80 .net
反論できず悪口だけの九州説

576 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:15:23.76 .net
>>566
お前はアホか
1里492Mに想定してたら郡から北部九州まで約5000キロになるだろ。

577 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:16:35.59 .net
>>572
>天邪鬼ですかね

反論不能
自力で論じることすら不能
立証もちろん不能

九州説みじめでしょ

578 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:16:52.56 .net
つまり畿内説は精神にも異常がある

579 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:18:10.02 .net
>>576
想定もなにも、一里は約400mなわけだが

580 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:19:48.12 .net
>>575
またまた 負けても
勝った勝ったと泣いて帰るつもりかWW

581 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:19:58.98 .net
>>579
それを言うなら南は南。

582 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:20:44.30 .net
畿内説は池乃めだか師匠。

583 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/24(土) 22:22:46.85 .net
ネトウヨは酸素同位体比年輪測定法というと逃走するな
まだ箸墓は4世紀とか言ってるんだぜ

壺や日本会議の文が鮮明に統一された言動が見事だぜ

584 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:24:16.22 .net
>>583
チョンコは自分の国の歴史の捏造も平気でやるよな

585 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:24:48.95 .net
>>542
魏の郡使は魏の人間だから1里は492mの認識
1里は80mの短里を使用してたのは公孫氏の郡使
公孫氏の郡使の記録を後に陳寿が入手して内容を魏志倭人伝へ転記しただけ
魏の郡使は1里は80mの短里を知らない。

586 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:26:10.32 .net
「狗奴国」とは、犬狼の祭祀・習俗をもつ住民(列島原住のいわゆる「縄文人」たる山祇種族)の国だから、
これは、犬吠えの習俗が史料に見える「吠人、すなわち隼人」の種族につながることは問題ない。
その高官まで「狗古智卑狗」と「狗」の文字が入るが(一支国の官「卑狗」もなんらかの意味があるか)、
一方、邪馬台国の高官の名に「伊支馬、弥馬升、弥馬獲支」、
女王国に属する「投馬国、斯馬国、弥馬国」と「馬」が付くのが多いことと好対照である

「北部九州」は邪馬台国連合圏、「南部九州」は隼人圏として、
残る「中部九州」が狗奴国に関係する地域圏だとみられる。
南部九州と中部九州とが列島原住たる縄文人の伝統・習俗をもって近い関係にあったことは、
太陰暦八月十五日の満月の夜に行われた「十五夜綱引き」が熊本以南で沖縄までの地域にあったこととも示される。

現在の福岡県と熊本県の県境に跨るのが筑肥山地であり、その東側延長は大分県に及んでいて、
この山地が、弥生後・末期でも、二大勢力圏の境界線となっていたとみられる。
境界線の南方でも、弥生後期頃に福岡県同様に菊池川流域を中心に環濠集落が多く営まれた。
熊本県内の弥生時代の遺跡数は約740もあって、これは日本国内の約13%を占める、という。

587 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:29:28.45 .net
いまどき九州説な人って全部受け売りで自分じゃ何も考えてない人みたいだね
計算ひとつ出来ないんだもの

588 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:30:31.19 .net
伊都国と奴国の間に女王国の国境線があった。伊都国以南は魏と同じ長里でいい。
公孫氏の影響下にあった五カ国で短里が使われていただけ。

狗邪韓国

対馬国

一支国

末盧国

 伊都国    ↑短里使用エリア
ーーーーーーーーー
   奴国   不弥国 ↓長里エリア
(女王の境界)   
    



         投馬国


         邪馬台国


邪馬台国は伊都国から1500里=650キロメートル

589 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:31:15.89 .net
>>579
ほんの少し進歩したな 1里432Mから約400MできましたねWw

590 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:32:42.61 .net
郡から1里432メートルで7000里を水行したらトンデモ無いところに、畿内説は破綻しているhttps://i.imgur.com/8dM0B0s.jpeg

591 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:37:56.13 .net
>>588
そんなアタオカな主張はNG

592 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:39:52.18 .net
>>1
あなたドツボ
簡単ですよ
「なるほど九州説などは短里説ですか。畿内説は倭人伝の方位、距離とも信頼できないという説です」
これでいいのですがねーー
FAQ58で突然魏里(432M)で計算を始めるから突っ込まれるのですよ

593 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:41:12.85 .net
>>588
倭人は里を知らない
里を使用したのは帯方郡から来た郡使
なのでその説はボツ

594 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:42:02.57 .net
>>588
こういう思考もあるな。
日数だし可変だ。一例だな。

595 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:43:39.03 .net
>>587
そうですね 
畿内説の人は公金チュチュウだから 学者も 皆 倭人伝の距離を自力で測量したのですよねWW

596 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:46:51.80 .net
>>580
>またまた 負けても
>勝った勝ったと泣いて帰るつもりかWW

わらえるな
反論ひとつ出来ない九州説が
誰かに勝ったわけ無いじゃないか
計算ひとつ出来ないのに
w

あんた、どんな反論ができた?
な。論破されたままだろ

597 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:47:04.55 .net
帯方郡
 (倭・韓は帯方郡に属す)

狗邪韓国

対馬国

一支国

末盧国
             一大率検察
 伊都国(女王に属す) ↑短里エリア
            (女王国以北)
ーーーーーーーーーーーーー
   奴国   不弥国 ↓長里エリア
(女王の境界)      (女王国)
    

余の旁国

         投馬国


         邪馬台国(女王の都)
(伊都国から1500里)
ーーーーーーーーーー
狗奴国(女王に属さず)

598 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:49:32.23 .net
>>597
そこら辺にたくさんいる九州説以下の酷い妄想

599 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:49:59.79 .net
>>592
>FAQ58で突然魏里(432M)で計算を始めるから突っ込まれるのですよ

無理筋で突っ込んだって自損自爆するだけだわ
里と言えば魏里なのは道理なんだから

600 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:52:32.79 .net
>>599
帯方郡から魏里を採用しないなら出鱈目でしかない

601 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:55:49.22 .net
南は南だからね。

602 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:58:12.58 .net
>>601
東南は東南だしな。
畿内説と九州説の一部はボツ

603 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:58:55.13 .net
>>601
対馬の南には壱岐があると書かれているな

604 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 22:59:02.05 .net
>>599
またドツボ
郡から1万2000里 を432Mで計算したらパプアニューギニアだったけ
各説吹っ飛んじゃうよ

605 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 23:00:49.30 .net
畿内説はチェリーピッキングなので短里と長里を便利に使い分けます

606 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 23:05:55.82 .net
>>596
君の記憶力は蚤程度かい
推古紀でもまたやりますか(笑)

607 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 23:14:34.31 .net
壱岐から南は書いていないな

608 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 23:17:45.09 .net
倭人伝の東は30度ズレているよ

609 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 23:19:13.64 .net
チェリーピッカー畿内

610 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 23:20:36.55 .net
>>597
は、文体論でも区分できる

文体A
伊都国まで
 方位、道里、国名

文体B
奴国~不弥国
 方位、国名、道里

文体C
投馬国~邪馬台国
 方位、国名、日数

611 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 23:21:42.71 .net
阿波はグラスホッパー

612 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 23:30:04.05 .net
ここ畿内説をつるし上げるスレみたい

613 :日本@名無史さん:2024/02/24(土) 23:37:25.31 .net
>>610
A(女王国以北)は公孫氏時代の資料で短里で書かれていた。
そこにC(女王国)の記事を追加した。

その結果、女王国以北、道里戸数可略載、余旁国不可得詳の文章が生まれた。

最後にB(奴国、不弥国)を追加した。

その結果、奴国が2回出てくるようになったというわけ。

614 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 00:04:09.15 .net
>>608
・30度のズレ
(海の穏やかな夏に、日の出る方角を「東」とした)
・あれは道程ではなく郡使の滞在する伊都国からどのように他の国に行くかを記載している
・その他の国には行っていない
・伊都国から女王国まで陸路で行けるが、わざと遠回りすることで広い連合国に見せかけた
・陸行1日を1月と書き間違えた
と仮定すると

奴国→春日市付近
不弥国→篠栗町付近
投馬国→宮崎市付近(九州の東側の海岸沿いに南下)
邪馬台国→筑後地方(九州の西側の海岸沿いに南下、有明海のどこかから上陸して1日ほど歩いた場所)

でスッキリ

615 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 00:26:23.46 .net
仮定しないのでボツ

616 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 00:31:43.05 .net
畿内説に不都合だからボツ

617 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 00:33:47.54 .net
1里432メートルで不弥国から南に水行すると熊本に着きますhttps://i.imgur.com/T68VAMh.jpeg

618 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 00:49:26.30 .net
不弥国は香椎でもいい気がする

619 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 01:17:26.48 .net
不弥国は宗像族の国だと思う

620 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 01:54:44.57 .net
短里こそ現実を無視した妄想だよ
だって、そんなもの誰も倭人伝の記述から算出してないだろ

621 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 01:59:59.62 .net
ありもしない1里432メートルを言い張る畿内説は学問とは別の領域にある。仮に1里432メートルだとしても不弥国から南に水行すると熊本に到着するので畿内説はボツhttps://i.imgur.com/T68VAMh.jpeg

622 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 02:27:07.47 .net
>>621
>ありもしない1里432メートルを言い張る畿内説は

実際あるし
魏の公式な単位だもの

623 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 02:47:34.94 .net
>>622
どこからどこまでの距離が1里432メートルなのか言えよ

624 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 02:48:16.83 .net
>>619
宗像族は倭種

625 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:03:45.77 .net
>>623
>どこからどこまでの距離が1里432メートルなのか言えよ

里はすべて1里約432メートルだよ
間違った里数がいくつも記載されているだけ

626 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:04:33.96 .net
Xのポストを見ても倭人伝の1里が432メートルだと主張する変人はいない

627 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:05:50.02 .net
>>625
つまり倭人伝の1里は432メートルでは無いという事。

628 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:17:50.24 .net
畿内説はデタラメでしたっと

629 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:32:35.25 .net
>>627
九州説は根拠のない断定が好きだね


630 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:36:54.55 .net
>>629
倭人伝の1里が432メートルだと断定している畿内説の学者はいるのか?

631 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:42:25.83 .net
>>622
倭人伝読んでないのかな 

倭人伝記述の里数を1里432Mで検算してください

さてさて、郡から北部九州までの約1万里は4320キロですか?

そんなバナナ

632 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:46:11.89 .net
>>629
>九州説は根拠のない断定が好きだね

きみね 断定じゃない常識  根拠は小学校の算数

633 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:46:55.77 .net
>>629
>九州説は根拠のない断定が好きだね

きみね 断定じゃない常識  根拠は小学校の算数

634 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:46:56.26 .net
>>629
>九州説は根拠のない断定が好きだね

きみね 断定じゃない常識  根拠は小学校の算数

635 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:50:22.43 .net
>>630
>倭人伝の1里が432メートルだと断定している畿内説の学者はいるのか?

畿内説か否かに関係なく、全ての学者は中国の1里が432メートルだと断定している

636 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:52:03.59 .net
そして倭人伝の1里が約80メートルだと算出した学者はいない

637 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 03:59:56.45 .net
>>635
倭人伝の話なんですけどーーー
倭人伝の1里は魏里432Mで記述されてると言った畿内説の学者いるのですか

638 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 04:10:34.75 .net
>>636
私は短里なるものは存在したかしないかはわからないが。
魏志倭人伝を読む限り、魏の使い(鎮守でも良いでしょう)が1里60M〜100M間で想定していたのではないか思う。
実距離の出し方は人それぞれですが ほぼこの範囲でしょうかね。1里おおよそ80M前後と言う方も実距離の出し方の違いかもしれませんね。

639 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 04:14:02.13 .net
>>634
じゃ、あなたは小学校の算数が出来ないの?

640 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 04:37:37.09 .net
>>1奥山さん
FAQ58に戻りましょうか
1万2千里から北部九州までの消化距離を差し引いて、残距離1300〜2000里としてます。
そしてそれに魏里432Mをかけてその距離は562〜864km。あなたは、これは博多から桜井市の実距離と比較し妥当な範囲としてます。

さてこの論法は通じるのでしょうか?
この手法で1万2千里のうち朝鮮半島で消化した7千里を差し引くと釜山から邪馬台国までの残余は5千里となります。それに魏里432Mをかけると2160キロとなります。
さて桜井市を中心に邪馬台国があったとして 釜山から桜井市までの距離と整合性は見られるでしょうか?

ここにFAQ58の問題点があるのですよ。

641 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 04:56:57.34 .net
追記
 
>>1奥山さん
推古紀の陸行については理解できましたか?
裴 世清らは大和川を利用しで京(飛鳥)に行っていますので陸行の事例にならないと言うことです。

642 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 05:32:00.22 .net
>>1 奥山さん検証願います

FAQ58であなたは
>博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km<
としてますね。
では、わたしの>>640投稿にあてはめます。桜井市から博多までの620キロはあなの試算に従います。
次に福岡から釜山ですが直行航路で213キロ(フェリー)
魏の使いは北部九州の国々を訪問してますのでそれに100キロ多めに足すと313キロとなります。
620+313で桜井市から釜山まで933キロです。

釜山から邪馬台国までの残5千里は魏里432Mで2160キロ
933キロ VS 2160キロ で整合性は見られません。
つまり、倭人伝の一部の里数だけとりだして魏里で検証するのは????

643 :キウス :2024/02/25(日) 05:44:36.16 .net
>>1=奥山さん=キナイコシ
キウスです 640〜642は私の投稿です
以前のようにコテをつけることとします(希薄をキウスと読み間違えたお馬鹿さんですよ)

さて、あなたはコテなし投稿でいつまで逃まわるのですか。
正々堂々とコテをつけて論戦しませんか
あなたがコテをつけて投稿するのであれば時間があるときはお相手しますよ
本当は九章算術均輸の題材が良いのですがね。いずれまた、、

644 :キウス ◆PyuQX798ps :2024/02/25(日) 06:01:20.79 .net
>>1 奥山さん

失礼 訂正です

コテではだめですね

トリをつけてください

645 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:07:02.16 .net
>>637
>倭人伝の話なんですけどーーー

で、それは晋の陳寿が書いたんだから魏晋の1里だろ?

646 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:11:51.41 .net
>>640
>さてこの論法は通じるのでしょうか?

言っとくけど奥山じゃないぞ
知能がある相手なら通じるさ

>この手法で1万2千里のうち朝鮮半島で消化した7千里を差し引くと釜山から邪馬台国までの残余は5千里となります。それに魏里432Mをかけると2160キロとなります。
>さて桜井市を中心に邪馬台国があったとして 釜山から桜井市までの距離と整合性は見られるでしょうか?

ないに決まってる
渡海3回3千里とか、頭ん中で適当にこさえた架空の数字に決まってるからな
だって、そんな距離を当時は測定する技術がない

ここにFAQ58の問題点があるのですよ。

647 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:12:33.20 .net
問題点はバカにはわかりにくいってことだ

648 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:15:53.63 .net
なるほど、投馬国、邪馬台国には半島、九州以外ですね

649 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:18:06.25 .net
>>641
>推古紀の陸行については理解できましたか?

普通の人間位は理解できるが、極度に知能の低いあんたには理解できないんだろう
困ったことだ

>裴 世清らは大和川を利用しで京(飛鳥)に行っていますので陸行の事例にならないと言うことです。

そんなこと関係ないのが分からないかな
そんなに知能が低いのか

裴世清が陸行したか水行したか、そんなこと現地を知らない人間には分からない
間違って「陸行してひと月半かかった」という情報を引き出してしまうってこと
そういう事例だ

650 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:28:32.99 .net
>>642
>次に福岡から釜山ですが直行航路で213キロ(フェリー)

なんで奥山のいう265キロを使わないの?

>魏の使いは北部九州の国々を訪問してますのでそれに100キロ多めに足すと313キロとなります。

その100キロの根拠は?

>釜山から邪馬台国までの残5千里は魏里432Mで2160キロ
>933キロ VS 2160キロ で整合性は見られません。

5千里には架空の3千里とか含まれてるから整合するわけない
すっごく頭わるい?

651 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:31:25.68 .net
>>643
>本当は九章算術均輸の題材が良いのですがね。

あんたには無理だ
漢字読めないだろ?

652 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:37:35.99 .net
漢字を読んで平安仮名を当てるのと字(あざな)で読むって間違い犯してたもんな日本も

653 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:37:59.27 .net
おかしな感じはしてたんだ

654 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:42:50.35 .net
短里は存在が確認されていない

655 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:47:05.97 .net
小国では短里の方が便利だよ

656 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:50:44.77 .net
トリなしにはトリなしで答えましょう
>>646 常識人にはあなたの言うとおり通用しますが
    奥山氏はレス通り多くの方からこの件は指摘をうけているのにいまだ理解しません。
>>649 たぶん昨日も同じ投稿をされた方ですか 説明はされてましたよ ではさわりだけ
>裴世清が陸行したか水行したか、そんなこと現地を知らない人間には分からない

まず推古紀を持ち出した>>1の結論
「外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。」
これに対する反論として推古紀は陸行日程の類例にならない河川航行(水行)の類例であるから
次に現地の人しかわからないのではなく、推古紀を読み解くと大和川航行と理解できます。(推古紀の解釈で柏原市文化財課も大和川航行としてます。)
現地云々は推古紀の理解を深めるためにでしょうか? 当時 現地に行った人ならなお一層、推古紀記述はヤマト川航行であると理解できるでしょうぐらいでしょうか

これあなた 過去レス確認してるから労力かかりますよ。
できれば同じ質問はしないでほしいのですが、、、

657 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 06:53:52.00 .net
>>1
奥山さん いつもどおりトリなしで騒いでますね
トリ付けて論戦しましょうよ

658 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:15:44.82 .net
>>なんで奥山のいう265キロを使わないの?

自分なりに調べようと思っただけです。別に使っても結論は五十歩百歩で一緒でしょう。
>その100キロの根拠は?

倭人伝記述の対馬、、、松浦、、、などの国々を行脚してるので。100キロじゃ足りないならもっと多くても良いですよ。これも結論は五十歩百歩
>5千里には架空の3千里とか含まれてるから整合するわけない
架空の3千里とは??お教えください。>>1の計算には架空が入っていないのですか??
彼の計算は1万2000里−(1万里〜1万700里)でしたが
ここには架空の3千里は含まれていない???

架空???詳しくお教えください。

659 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:21:13.86 .net
>>656
>現地の人しかわからないのではなく、推古紀を読み解くと大和川航行と理解できます。

できるって理由は?
また理由を言えない結論オンリー言い張り?

660 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:24:31.12 .net
>>658
>彼の計算は1万2000里−(1万里〜1万700里)でしたが
>ここには架空の3千里は含まれていない???

実距離と比較しないから含まれていても問題ない

661 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:36:41.97 .net
>>624
魏使は不弥国から水行している。
おそらく海人宗像族の船に乗る為に不弥国へ行ったのだろう。

662 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:39:42.61 .net
毎日、里数のことを書いている九州説

663 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:40:04.97 .net
キウスは全1病

664 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:41:52.27 .net
>>659
>できるって理由は?
また理由を言えない結論オンリー言い張り?<

推古紀が読解できないのであれば柏原市文化財課の見解をお確かめください
また 推古紀記述の海石榴市(桜井市)はテンプレにも記載されていますが瀬戸内航路の終点であることは広く知られています。

665 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:45:23.02 .net
>>663
楽しちゃダメですよ 論じないと(笑)

666 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:51:26.08 .net
>>662
流れが畿内説の魏里みたいだからしょうがない

667 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:52:22.22 .net
>>662
畿内説のインチキ具合が甚だしいからだよ

668 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:55:34.44 .net
回答先を指名するのを忘れましたので再度
>>650
>>なんで奥山のいう265キロを使わないの?

自分なりに調べようと思っただけです。別に使っても結論は五十歩百歩で一緒でしょう。
>その100キロの根拠は?

倭人伝記述の対馬、、、松浦、、、などの国々を行脚してるので。100キロじゃ足りないならもっと多くても良いですよ。これも結論は五十歩百歩
>5千里には架空の3千里とか含まれてるから整合するわけない
架空の3千里とは??お教えください。>>1の計算には架空が入っていないのですか??
彼の計算は1万2000里−(1万里〜1万700里)でしたが
ここには架空の3千里は含まれていない???

架空???詳しくお教えください。

669 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:58:05.98 .net
魏里か公孫里か知らんけど
長里のおよそ1/5したら実際の地理にマッチしてしまうのだなあ
畿内説はこれを絶対に認めることができない

670 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:58:35.76 .net
>>667
なにがインチキなんだ?
具体的に言えないってことは
九州説側がインチキして中傷してるってことだぞ

671 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 07:58:58.52 .net
掘れども掘れども、何にも出てこない九州

672 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:00:12.67 .net
>>669
そりゃ認めないだろソンナ作り話w

673 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:00:46.91 .net
曹操の鉄鏡レベルのお宝、日田の鉄鏡は絶対に認めることができない畿内説

674 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:01:28.62 .net
>>669
マッチしない
水行二十日投馬国、水行十日陸行一月邪馬台国

675 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:01:39.16 .net
>>672
対馬の皆に一支があると書かれてるのも絶対に認めることができない糞畿内説w

676 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:02:39.47 .net
>>674
里数が五倍に盛ってあるのに日数は正確だとする根拠がない

677 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:03:10.52 .net
>>673
魏帝は鉄鏡などあげてない
銅鏡100面をあげて、国中を綏撫しなさいと言っている
これが三角縁神獣鏡、あるいは画文帯神獣鏡、あるいは斜縁鏡だ

678 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:04:02.77 .net
>>676
それならば、イーブンだ

679 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:04:03.29 .net
このように畿内説は魏志倭人伝を否定しないと存在できない妄想説

680 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:04:30.47 .net
ほら絶対に認めることができないw

681 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:05:57.32 .net
>>679
女王国まで12000里
不弥国から女王国まで1300里
そこから水行二十日投馬国、水行十日陸行一月で邪馬台国だ

682 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:06:07.32 .net
>>660
>実距離と比較しないから含まれていても問題ない

それで
架空の3千里はどこを指しているのですか?

残1300〜2000里を魏里で導き出して実距離と比較してるのでしょ?
その残1300〜2000里=1万2000里−(1万里〜1万700里)から導いだしてるのでしょ。

とにかく架空の3000里を具体的に提示してくださらないと話が進みませんよ。
其れこそ「架空の3000里」こそ「架空}?????

683 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:06:11.64 .net
>>664
>推古紀が読解できないのであれば柏原市文化財課の見解をお確かめください

あんた、頭が弱いんだね
「推古紀を読み解くと大和川航行と理解できます」なんて豪語して
また真っ赤な嘘だったんだ
「裴世清は飛鳥の北東の大和川沿いにある海石榴市(桜井市)で迎えられたことから、おそらく大和川水運を利用したと考えられます」
って文化財課の話だから、海石榴市が大和川沿いにあるってことを知らないと分からない内容なのにさ

自分で理由の答えられない作り話を、いつも他人任せにして逃げようとするんだね
性根だいぶ腐ってない?

684 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:06:44.29 .net
>>675
認めて良い

685 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:07:59.02 .net
>>681
帯方郡から10700里の不弥国はどこですかね?

686 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:08:24.08 .net
>>684
はいチェリーピッキング

687 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:08:50.96 .net
>>685
宇美町でいいよ
福岡のどこか

688 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:09:17.76 .net
>>660
>それで
>架空の3千里はどこを指しているのですか?

>>646で回答済みだ
知能低いんだね

689 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:09:20.99 .net
>>687
はいチェリーピッキング

690 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:09:58.45 .net
このように畿内説はチェリーピッキングしないと存在できないチェリーピッキング説

691 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:11:01.26 .net
>>680
>ほら絶対に認めることができないw

そりゃあ九州説のウソなんぞ認めるのは不道徳だもんね

692 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:12:14.41 .net
>>689
なぜそれがチェリーピッキングになるのか理解できない

693 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:15:22.86 .net
残念ながら、九州最後の王は平原イト女王だ
次は、九州は畿内に取り込まれて三角縁神獣鏡圏に入る
九州説が成立する可能性は絶無だ

694 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:15:25.21 .net
>>692
九州説信者は知能が低いから、言葉の意味を知らなくても使っちゃうんだよ

695 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:24:37.98 .net
岡上君(岡上の方が歳上だが)は、このスレッドの俺の書き込みを見たのか、纒向古墳群についてWikipediaで調べたらしい
纒向石塚、纒向勝山、纒向矢塚、東田大塚ですら未調査であることを最新の動画で語ってたな

696 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:25:08.42 .net
>>673
それは日田に渡来した北魏の宝物。曹操の七十二の偽墓伝説が生まれたのは北魏の墓との混同が原因だぞ。

697 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:27:00.66 .net
>>688
失礼しましたこれのことですね
>ないに決まってる
渡海3回3千里とか、頭ん中で適当にこさえた架空の数字に決まってるからな
だって、そんな距離を当時は測定する技術がない
👆
これは>>1の計算にも含まれていますよ
1300〜2000里=1万2000里−(1万里〜1万700里)

(1万里〜1万700里)→この中に含まれてますよね
すると>>1の残>688
失礼しましたこれのことですね
>ないに決まってる
渡海3回3千里とか、頭ん中で適当にこさえた架空の数字に決まってるからな
だって、そんな距離を当時は測定する技術がない
👆
これは>>1の計算にも含まれていますよ
1300〜2000里=1万2000里−(1万里〜1万700里)か

(1万里〜1万700里)→この中に架空の3千里は含まれてますね
すると答えの1300〜2000里は計算式に架空の数字が使用されたますので、これも架空と夏てしまいます。

よって架空の1300〜2000里に魏里432Mかけて、実距離と比較しても無意味となりFAQ58は無意味な計算となりいます。

698 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:36:34.54 .net
失礼  >>697ですくちゃくちゃになってしまったので
>>688
渡海3回3千里→これが架空の3000里ですね

これは>>1の計算にも含まれていますよ
1300〜2000里=1万2000里−(1万里〜1万700里)

(1万里〜1万700里)→この中に架空の3千里は含まれてますね

すると導きだされた 1300〜2000里は計算式に架空の数字が使用されてますので、答えのこれも架空の数値となります。

よって架空の1300〜2000里に魏里432Mかけて、実距離と比較しても無意味となりFAQ58は無意味な計算となります。

この説明でもFAQ58はおかしいとわかりますね。
(しかし渡海3回3千里を架空とした場合ですが)

699 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:39:30.07 .net
>>692
宇美は帯方郡から何里ですか?

700 :キウス#1682:2024/02/25(日) 08:39:56.09 .net
>>1奥山さんは戦意を失い数行罵声?嘆き?投稿に変わったようですね。

701 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:41:27.82 .net
壱岐→末盧1000里
そんなわけない

702 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:41:28.62 .net
>>697
>すると答えの1300〜2000里は計算式に架空の数字が使用されたますので、これも架空と夏てしまいます。

どうして?
「兄と弟の年齢差が3歳だ」というのが本当のとき、兄が15歳で弟が12歳という架空の年齢を捏造することも出来るでしょ?
つまり、あなたのその考えは正しくない

703 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:42:41.20 .net
>>699
魏志倭人伝では10700里だが、特に10700という数字にこだわることはない
測ってないんだから

704 :キウス :2024/02/25(日) 08:42:47.69 .net
奥山さんと同じことをしてしまいました
キウス#1682

今度変えときます

705 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:43:38.80 .net
>>700
キウスがまたウソついてる
大笑い

706 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:48:36.03 .net
>>703
ではなぜ不弥国からの1300里にはこだわるのですか

707 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:48:44.94 .net
>>698
>この説明でもFAQ58はおかしいとわかりますね。

いや、お前が妄想してるだけだ
徹底して論理的思考のできない奴だな
だって
>すると導きだされた 1300〜2000里は計算式に架空の数字が使用されてますので、答えのこれも架空の数値となります。

ならんね
1300〜2000里という実数の方が先にあったのかも知れないから

708 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:49:22.24 .net
>>706
こだわってない

709 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:50:09.55 .net
>>704
>ではなぜ不弥国からの1300里にはこだわるのですか

測った可能性があるから

710 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:50:36.01 .net
>>709
はいチェリーピッキング

711 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:51:19.38 .net
このように畿内説は自分が何を主張しているかも理解できない

712 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:52:08.00 .net
九州説信者は老害だね
そう自称してる

713 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:52:57.25 .net
>>710
>はいチェリーピッキング

ほらまた
理由のない断定

714 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:53:23.75 .net
10700里に帳尻を合わせたのは、「不弥国は女王国ではない」ことを示す為の帳尻合わせ
10800でも11000でも、とにかく12000里にならなければ良いというもの
測ってないのだから

715 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/25(日) 08:53:48.84 .net
ネトウヨは酸素同位体比年輪測定法というと逃走するな
まだ箸墓は4世紀とか言ってるんだぜ

壺や日本会議の文が鮮明に統一された言動が見事だぜ

716 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:53:50.88 .net
>女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない。

有明海から以北の玄界灘までの平野部は水行、陸行にて移動可能だが、山を超える事は出来ないという事だろう

717 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 08:54:10.86 .net
>>711
>このように畿内説は自分が何を主張しているかも理解できない

という理由は?
このように
九州説信者の言動には理由がない

718 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:03:23.60 .net
邪馬台国が伊都国から遠くない所にあったなら魏の使者は卑弥呼の墓を実見できる
したがって径100余歩は現実的な数字とすべきであるが、九州にそんな墓はない
よって九州説は背理法で否定される

719 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:03:36.87 .net
阿波=アハ=オホ

大王オホキミ=アハキミ=阿波君

720 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:07:40.10 .net
鮮明の実家は代々の儒家の家だぞ

それでキリスト教に帰依したようなやつのたわごとだのな

721 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:11:46.91 .net
このスレの畿内説がアタマ悪すぎてまともな畿内説まで馬鹿にされそう

722 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:16:26.99 .net
>>721
文献史学を学び、考古学びし者だけがたどり着ける領域、それが通説畿内説
その意味では半分は同意する

723 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:16:34.87 .net
>>721
こんな根拠のない中傷する奴は、まず頭の悪い九州説だな
畿内説のもんなら九州説がバカな理由をしっかり書くよ
そのほうが九州説がバカにされて良いだろ?

724 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:20:26.57 .net
考古学を一切学んでいない奴はどの説を唱えようとも素人の感想

725 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:21:29.43 .net
>>702
>「兄と弟の年齢差が3歳だ」というのが本当のとき、兄が15歳で弟が12歳という架空の年齢を捏造することも出来るでしょ?

そうですね
3=15−12 3=18−15 
3=16ー13
いずれも答えは3ですので これは理解できますよ。
あなたの理論を数式化してはいかがでしょうか。

私はもし3000里が架空であれば以下です。
FAQ58の計算式にあてはめます。
架空の3000里をAとし博多からの残距離をBとします。(B=FAQ58の1300〜2000里が該当します)

FAQ58の計算式
12,000−(A+7,000)里=B
Aが変われば当然答えのBも変わりますね
するとBはAが変化すればBもまた変化します。
その普遍的でないBに魏里をかけても出てくる答えCも普遍的ではありません。
そのCと実距離と比較しても無意味と言うことになります。

わたしの釜山からの計算も同じです
3000里が架空であればFAQ58同様に成立しません。

3000里が架空であればこんなところでしょうか。

726 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:21:30.42 .net
>>702
>「兄と弟の年齢差が3歳だ」というのが本当のとき、兄が15歳で弟が12歳という架空の年齢を捏造することも出来るでしょ?

そうですね
3=15−12 3=18−15 
3=16ー13
いずれも答えは3ですので これは理解できますよ。
あなたの理論を数式化してはいかがでしょうか。

私はもし3000里が架空であれば以下です。
FAQ58の計算式にあてはめます。
架空の3000里をAとし博多からの残距離をBとします。(B=FAQ58の1300〜2000里が該当します)

FAQ58の計算式
12,000−(A+7,000)里=B
Aが変われば当然答えのBも変わりますね
するとBはAが変化すればBもまた変化します。
その普遍的でないBに魏里をかけても出てくる答えCも普遍的ではありません。
そのCと実距離と比較しても無意味と言うことになります。

わたしの釜山からの計算も同じです
3000里が架空であればFAQ58同様に成立しません。

3000里が架空であればこんなところでしょうか。

727 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:25:50.66 .net
ハルキーさんから考古学を少し学んだだけで「邪馬台国は纒向」と言い始めたふるしょうさんは少しは賢い

728 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:27:35.27 .net
>>707
>1300〜2000里という実数の方が先にあったのかも知れないから

残念ながら倭人伝にかような数値は出てきません。
万2千里からそれまでの行程の積算を引くしか今のところ方法はありません。

729 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:29:13.54 .net
ひどいねーー畿内説は小学生以下の頭しかないねーーー

730 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:30:53.51 .net
>>726
>3000里が架空であればFAQ58同様に成立しません。

まだ理解できないの?
12,000(架空)ー1,300(実数)=10,700(架空)は成り立つんだよ

731 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:34:05.95 .net
>>711
>このように畿内説は自分が何を主張しているかも理解できない

その通り とにかく畿内に邪馬台国がなんでも良いという思考停止したバカ集団。

732 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:35:26.04 .net
>>683
論じてない言いがかりですので無視とします

733 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:40:59.78 .net
>>730
>まだ理解できないの?
12,000(架空)ー1,300(実数)=10,700(架空)は成り立つんだよ

実数1300里は倭人伝に記述されてましたか?
それとも何らかの計算式???
実数なら残〇〇とはFAQでも言わないだろうし、、、
摩訶不思議

734 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:42:13.96 .net
>>731
残念ながら、畿内説は通説を超え、定説のレベルに入っている

735 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:48:27.52 .net
掘っても三角縁神獣鏡しか出てこない九州は邪馬台国ではあり得ない

736 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:53:39.40 .net
遼東における公孫氏から魏への覇権移動
画文帯神獣鏡から三角縁神獣鏡への変化
弥生墳丘墓から前方後円墳への変化
邪馬台国からヤマト王権への変化
北部九州から畿内への覇権移動

これらはリンクしてると思うんだ。

卑弥呼共立の弥生王権が魏の影響で倒されて中国式のヤマト古墳王権が樹立された、と考えたい。
邪馬台国の記述が卑弥呼共立のころの記述であれば九州説、陳寿編纂時点の記述であれば畿内説、どちらもありうると思う。

737 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 09:54:20.12 .net
畿内説は
ブレーキングダウンの大阪チームの

シェンロンやダイスケと同じだな

負けてるのに わめき倒す









畿内説は
ブレーキングダウンの大阪チームの

シェンロンやダイスケと同じだな

負けてるのに わめき倒す

738 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:14:11.31 .net
0729日本@名無史さん
2024/02/25(日) 09:29:13.54
ひどいねーー畿内説は小学生以下の頭しかないねーーー

739 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:19:22.55 .net
羲和=天照=卑弥呼
扶桑国=日本国=邪馬台(大和)国

740 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:19:59.42 .net
親魏倭王に封じられて魏の冊封体制に入ったことによって倭国の経済や政治体制に急速な変化が起こり、それが後の大和王権の成立につながった、と考えるのが自然だ。

そうなると、邪馬台国ヤマト王権並立説は成り立たない。

邪馬台国が東遷してヤマト王権になったか、最初から九州から畿内を含む政権が成立していたか、どちらかしかない。

741 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:21:58.51 .net
>>728
>残念ながら倭人伝にかような数値は出てきません。

よくある日行30里を水行だけ7割に割り引くとかして
訪倭記録にあった水行30日と陸行30日とかから試算して1,530里とか出して、百里単位に丸めて
この1,500+架空の10,500=架空の12,000里とか出せるよ
12,000余里が欲しかったら
机上の捏造なんて、いくらでも方法はあるね

742 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:25:51.68 .net
まともな畿内説
語義矛盾だ

743 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:26:49.63 .net
>>740
九州には、邪馬台国はない。
壹与のあたりに台頭する。

744 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:28:10.08 .net
>>736
九州で共立する理由がない

745 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:30:35.51 .net
畿内で共立する理由あるのか?

746 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:33:16.76 .net
>>737
負けてるのを理解しているのに、ワンチャンいけるかもと思ってるのが九州説の学者

747 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:40:02.69 .net
遼東を公孫度が支配してた189〜238年の約50年間、倭は漢との直接的な交流が出来なくなってる。
平原遺跡で女王の墓が見つかり出土品から2世紀で卑弥呼の墓ではないとされてるが
卑弥呼治世の殆どの時期は漢からの輸入が途絶えていたと考えられるから
平原遺跡が女王卑弥呼の墓で良いのではないか。

748 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:41:33.42 .net
>>740
むしろ、九州は共立時は畿内ヤマト王権の傘下に入ってなかったと考えるべきだろう
一大率を置かれている

749 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:43:04.77 .net
>>747
漢鏡4期5期の平原は卑弥呼の墓ではあり得ない

750 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:44:49.50 .net
>>740
3世紀に九州から畿内を含む政権が成立していたは無理な主張だな
九州と畿内の間の交流痕跡が見られない
文字も畿内では普及していない

751 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/02/25(日) 10:44:57.67 .net
上代は出雲国造家が出雲の神主であるように神社が国家であった

卑弥呼と天皇家の先祖は九州にあった太陽神を祀る天照神社?というべき祭祀施設があるクニの国王兼神職だったと考えられる

このクニの大巫女だった卑弥呼が諸国の推戴を受けて瀬戸内海沿いに勢力を伸ばし、遂に吉備の軍団と共に畿内の銅鐸祭祀族を征服して纏向に巨大な神殿兼宮廷を作ったのがヤマト王権の始まりだろう

これが邪馬台国の建国で推戴された女王が卑弥呼で畿内征服を主導した卑弥呼の実家の家長が神武のモデルになってヤマト王権の初代王とするのが最も矛盾のない主張となる

752 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:45:20.82 .net
>>749
理由は?

753 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:45:51.71 .net
>>747
>卑弥呼治世の殆どの時期は漢からの輸入が途絶えていたと考えられるから
>平原遺跡が女王卑弥呼の墓で良いのではないか。

それは不合理な思考
卑弥呼が死んだ時には漢魏の文物が入って来ているんだから

754 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:46:56.04 .net
>>747
>平原遺跡が女王卑弥呼の墓で良いのではないか。

それより先に、女王卑弥呼の王都遺跡を探すのが良いのではないか。   @阿波

755 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:47:12.11 .net
>>750
一大率を置かれた九州は、纒向卑弥呼共立政権に支配された

756 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:47:40.85 .net
平安時代末に平清盛が瀬戸内海航路を整備するまで瀬戸内海を通って中国船が畿内に来る事はなかった
北部九州地域や出雲が発展したのは海運に恵まれていたから。

757 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:48:02.84 .net
>>751
モデル?k

758 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:48:46.82 .net
>>748
>畿内ヤマト王権の傘下

畿内ヤマト王権の王都遺跡がないので、論外!   @阿波

759 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:49:06.36 .net
>>755
一大率は女王国以北に置かれたとされている
北部九州地域に一大率が置かれたとした場合九州が邪馬台国だね。

760 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:51:01.01 .net
>>752
三角縁神獣鏡に紀年銘鏡があることから、魏晋鏡は三角縁神獣鏡である
漢鏡4期の銅鏡を魏帝が下賜するはずがない

761 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:51:14.84 .net
>>731
畿内説を一般人に説明しても意味不明で同意は得られないですね。

762 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:53:13.21 .net
卑弥呼が魏と交流を持ったのは晩年の極僅かな期間だから魏鏡に拘る必要はない。

763 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:55:18.40 .net
?まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州:銅鐸王大国主)、又有侏儒国(四国:少彦名)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
?次に帯方郡から12000里(狗邪韓国7000里+1000里+対馬400里+1000里+壱岐300里+1000里+末盧500里+伊都100里=奴国博多まで11300里)から半径700里(50?)の範囲。伊都➡博多の北は玄海灘、東百里は不弥国なので、南の筑紫平野にいくしかないこと。
?そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることまでは読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(神)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く巫女の卑弥呼にピッタリです!

なお、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶(帯方郡から12,000里)の東(の海上)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-中津)↓〜複有国皆倭種(本州・銅鐸王大国主✖畿内説)
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国・少彦名✖阿波説)
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶〜〜〜幻の邪馬台国(帯方郡から12,000里)架空の女王国

764 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:55:58.56 .net
>>755
邪馬台国は九州以外。
卑弥呼は共立で九州にいる。

765 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:57:35.01 .net
魏志倭人伝の記述には公孫氏時代の記録が多く引用されてるのは間違いないな。

766 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:58:19.65 .net
>>762
魏鏡にこだわる必要がないとすれば、漢鏡7期鏡であるべきだ

767 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/02/25(日) 10:58:26.11 .net
ネトウヨは天皇家が魏に朝貢した歴史と日本列島の先住民がアイヌであるという歴史を必死になって否定するからな

倭人は日本列島の先住民ではなく他所からやってきてアイヌに取って代わった存在であるという事実を絶対に認めようとしない

邪馬台国九州説なるものも天皇家が中国に朝貢していて日本が建国の時に中華の属国になったのを隠すための政治的主張なのである

768 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:58:54.27 .net
>>750
縄文時代から交流がある

769 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 10:59:16.08 .net
つまり畿内説はパヨクですよと

770 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:01:58.66 .net
189〜238年までは公孫氏が遼東を支配し東夷を従属下に置いていたんだから
東夷伝の記述の多くが公孫氏の残した記録からの引用で当然なんだ。

771 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:02:03.65 .net
⇩魏志倭人伝の正解⇩
https://i.imgur.com/yeSFSbh.jpeg

772 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:02:23.82 .net
魏志倭人条・・・女王国東渡海千里、復国有り、皆倭種
太平御覧倭人条・・・(宗女臺与年十三為王 国中遂定)其の倭国東渡海千里、復国有り、皆倭種

つまり、女王を共立した倭30国の東渡海千余里、復国有り・・、、
であるから、倭30国は九州島の認識で間違いない。
畿内説は、内藤氏の頃から倭人条蔑視・無視の性癖が抜けない、よろしくありませぬぞえ。

773 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:05:02.27 .net
魏志倭人伝の記述が魏使の報告書が中心だと思い込んでたのが間違いだった
魏使の報告書と同等かそれ以上に公孫氏の残した記録からの引用も多かったんだ。

774 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:05:17.88 .net
>>764
九州は女王国ではない
したがって、一大率を置かれて支配されている
卑弥呼は纒向にいなければならない

775 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:06:49.82 .net
つまり箸墓ありきの畿内説(南→東)

776 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/02/25(日) 11:10:13.81 .net
公孫氏などは大した勢力ではない
所詮は魏の権威を元に韓半島の諸国に偉そうにしていた屑豪族

ところが公孫氏は何を勘違いしたのか呉の孫権と結んで魏からの独立を企てた
結果は司馬懿のあの有名な「行きに百日、帰りに百日、討伐に百日、一年で終わる」の言葉通りに速攻で壊滅

公孫氏などはこの程度の小物に過ぎない

777 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:11:44.26 .net
>>761
>畿内説を一般人に説明しても意味不明で同意は得られないですね。

このように
九州説は証拠のないことしか言わない

778 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:13:07.82 .net
>>774
一大率が置かれているのは女王国の北側なんだ
したがって纏向は東の倭種

779 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:14:48.77 .net
>>760
貢物に対する恩賜ではなくお土産品の好物なので
市中からかき集めてきた中古の銅鏡でなんら不思議はない

780 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:15:23.69 .net
>>778
「南」水行の盲信だね

781 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:16:12.76 .net
>>780
南水行は関係ない
一大率の説明を無視しないと当てはまらないのが畿内説

782 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:17:00.21 .net
>>777
一般人は畿内説を理解できないのは事実
プロ(学者)でないと理解できない

783 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:18:30.02 .net
名前だけ盗ってきてその説明は都合が悪いので無視するのが畿内説

784 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:18:35.51 .net
箸墓は台与の墓じゃないか
箸墓伝説と重ね合わせると殺されたのかもな

785 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/25(日) 11:19:25.88 .net
弥生末期から古墳時代初期に出土する刀などは漢王朝時代のお古いが多いからな

銅鏡も卑弥呼のためにわざわざ王室工房で作ったのではなく、鄴や洛陽の民間職人の在庫からもってきたんだろうな

786 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:20:42.77 .net
>>779
仮に、市中からかき集めてきたなら、三角縁神獣鏡の説明ができない

787 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:20:50.20 .net
最新の研究では箸墓は280〜300年の築造

788 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:20:58.06 .net
>>779
皇帝が「特に賜う」と言っている品がマチナカで買ってきた中古品とか、帝国の威信ボロボロでしょ

789 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:22:02.62 .net
>>787
>最新の研究では箸墓は280〜300年の築造

九州説さん、また捏造?
あんたらもう信用ゼロでしょ

790 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:22:18.24 .net
>>670
畿内説の方位も距離もインチキだな

791 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:22:24.45 .net
>>776
公孫氏がたった一人の人物だったと思ってるようだね。
実質的に、公孫域から始まり、公孫度、公孫康、公孫恭、公孫淵の五代続いた。
しかし五代目がバカ殿だった、
ま、畿内説は初代から今までマトモはひとりもいないわけだが・・、

792 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:23:56.85 .net
安本美典は三角縁神獣鏡は後のヤマト王権が邪馬台国を偽証する為に作ったとか言ってるよな
もうめちゃくちゃ

793 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:24:25.85 .net
>>787
卑弥呼の墓なら遅すぎで
台与の墓なら早めか

794 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:25:03.75 .net
九州説は捏造やりすぎでしょ

795 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:25:52.09 .net
三角縁神獣鏡は東倭種の酋長が配った国産の鏡

796 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/25(日) 11:26:22.28 .net
箸箸の話は朱塗りの矢がホトに刺さるという話の変形なんだろう

大陸では赤い弓矢というのは愛の神がいる恋の矢だからな

日本書紀が編纂された時代には仏教の中で雑部密教と言われるものが既に入ってきていたから、赤は敬愛の呪力を持つという概念があってもおかしくはない

797 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:26:23.25 .net
>>787
うむ行燈山渋谷向山の間が空きすぎているから、箸墓西殿塚は共に4世紀第一四半期(300〜325年)の築造とするのが妥当だな

798 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:27:14.53 .net
>>760
平原遺跡の漢鏡は魏代に作られた仿古鏡かもしれないよ。

799 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:28:48.59 .net
>>795
だとしても、三角縁神獣鏡のルーツは華北東部系鏡
九州説のハルキーさんも認めている
「三角縁神獣鏡のルーツは斜縁鏡」
「三角縁神獣鏡と斜縁鏡は兄弟」

800 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:30:52.24 .net
>>798
だとすれば、三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の説明がつかない

801 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:31:04.49 .net
>>792
でもそれ以外に説明のしようがないよな。九州説に立つと。
やっぱり無理がある。

802 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:31:31.01 .net
三角縁は副葬用として作られた映らない鏡
国産だよ

803 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:31:35.47 .net
三角縁神獣鏡のルーツがどこだろうが
しょせん国産鏡にすぎない

804 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:31:38.09 .net
・大和地方の軍事・経済力を示す鉄器は、3世紀前半まであまり出土していない。
この北部九州よりはるかに貧弱な軍事力と経済力で、当時はるばる遠方の魏まで朝貢できたのかという問題点が指摘されている。

・大月氏国の10万戸を上回る14万戸(奴国2万+投馬国5万+邪馬台国7万)は、1戸5人で計算すると70万人。
弥生時代の日本の総人口は59万人であるから、これまた相当「盛った」数字である可能性が高い。

・邪馬台国は九州説の有力な比定地である山門(やまと=旧・山門郡瀬高町=現・みやま市瀬高町)となる。
魏志倭人伝によると、不弥国(福岡県宇美町)から邪馬台国(山門)までは南行1300里。実際にも宇美町から山門までは南へ50km程度なので、誤差の範囲でほぼ一致する。

・箸墓古墳は前方後円墳であるが、魏志倭人伝によれば卑弥呼の墓は円墳で、形式も一致しない。

・魏志倭人伝の記述によると、邪馬台国は周囲に堀をめぐらした環濠集落とされている。
北部九州では吉野ヶ里遺跡などがそうであるが、箸墓古墳が位置しているのは環濠集落ではない。

・邪馬台国から大和朝廷に覇権が移動したことを裏付けるような、「日本(大和朝廷)は、昔は小国だったが、
その後倭国の他の国々を併合した」という旧唐書の記述もある。
また、雄略天皇とされる倭王武の上表文では、「先祖たちの活躍により、
我が国(倭国)は東に55国、西に66国、北に95国を平定する大国となった」と武功を誇っている。

https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/1e981d5faff70578ab731e91d26ac62c_f9254529a2b1655640d829f5a19e197e.jpg
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/8c29dbb5e575185903719edf03106712_b8ff3339e00f2f03e056b2b9f97e7fe3.jpg

805 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:33:32.74 .net
>>803
国産だとしても畿内説は全く動かない

806 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:33:35.21 .net
>>787
うむ、行燈山・渋谷向山(4世紀第2四半期=325〜350)との間が空きすぎているから、箸墓と西殿塚は共に4世紀第1四半期(300〜325年)の築造とするのが妥当で、
佐紀盾列(4世紀第3四半期=350〜375)とも整合する

まとめると、

箸墓・西殿塚=4世紀第1四半期(300〜325)
行燈山・渋谷向山=4世紀第2四半期(325〜350)
佐紀盾列=4世紀第3四半期(350〜375)
河内=4世紀第4四半期(375〜400)以降
和泉=5世紀第1四半期(400〜425)以降

807 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:34:18.00 .net
>>800
どういうことですか?
魏代に漢鏡そっくりの仿古鏡が造られたのは知ってますよね。青龍三年銘方格規矩鏡とか。

808 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:36:11.88 .net
>>804
ホケノ山や椿井大塚山の副葬品から推論すれば、すでに3世紀には畿内が九州を上回る

809 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:36:45.05 .net
>>787
まとめると、

箸墓・西殿塚=4世紀第1四半期(300〜325)以降
行燈山・渋谷向山=4世紀第2四半期(325〜350)以降
佐紀盾列=4世紀第3四半期(350〜375)以降
古市=4世紀第4四半期(375〜400)以降
百舌鳥=5世紀第1四半期(400〜425)以降

810 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:37:12.68 .net
鏡作坐天照御魂神社では平原の内行花文鏡のレプリカが飾られているhttps://i.imgur.com/LMV2Fly.jpeg

811 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:37:43.00 .net
>>805
卑弥呼の貰った銅鏡百枚ではなく
東倭種の酋長が配った鏡という認識であれば問題ない

812 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:37:45.97 .net
>>807
平原だけ漢鏡4期5期を副葬するのはおかしい

813 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:38:40.58 .net
三角縁が国産鏡だとして、なんで北部九州から魏鏡が出てこないんだ。
平原の漢鏡が仿古鏡だと考えるしかない。

814 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:39:30.04 .net
>>811
卑弥呼のもらった銅鏡はやはり三角縁神獣鏡が筆頭だろう
しかし、画文帯神獣鏡や斜縁鏡も検討しなければならない
それを元に作られたのが三角縁神獣鏡ということも考えられる

815 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:42:23.72 .net
箸は竹の象形と台上にしばを集め積んで火をたく象形が合わさってできた漢字だな

816 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/02/25(日) 11:42:36.54 .net
西殿塚といえば崇神の前の代の開化や孝元という諡がおかしい

文明開花やら都を定めたとか、具体的な事績が無ければ、このような名前は贈られない

記紀から削除されただけで魏や晋に朝貢して国家体制を整えたという伝承はあったんだろう

西殿塚や桜井茶臼山やメスリ山の被葬者が卑弥呼の跡を継いだ彼らだと思う

817 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:44:20.49 .net
>>806は妄想しすぎ

818 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:44:28.00 .net
紀年鏡は三国時代(魏呉)の復古鏡ということで説明できる
おそらく4世紀にヤマト王権が本格的に半島派兵する際、配下の有力豪族の間に三国志を知らずに渡海できない!として大流行したと思われる。

819 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:46:03.65 .net
>>774
邪馬台国とか国が
支配している記述はない

820 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:46:15.21 .net
>>814
洛陽から三角縁神獣鏡が大量に出てきたら良かったのに、残念

821 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:46:44.06 .net
>>818
景初4年鏡があるから無理筋

822 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:48:35.00 .net
>>814
画文帯神獣鏡や斜縁鏡が元だろうな。

823 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:48:53.74 .net
>>820
洛陽焼溝漢墓から1面でも三角縁神獣鏡や斜縁鏡が出てこれば完全決着

824 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:48:56.22 .net
4世紀のヤマト王権内における歴史(三国志)ブームの痕跡が、景初四年鏡というありえない紀年鏡か。。。

825 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:48:57.80 .net
洛陽で作られたなら景初四年鏡など存在しない
皇帝の崩御を知らない者、場所で作った証拠だ

826 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:50:41.89 .net
>>825
すなわち、景初4年鏡は正始元年に日本で作られた
したがって、邪馬台国は畿内である

827 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:52:02.11 .net
>>823
一面しか出ないならそりゃ日本から持ち込まれたに過ぎん

828 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:52:26.56 .net
>>826
出鱈目

829 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:52:46.21 .net
4世紀半島派兵を本格化させたヤマト王権内では、三国志(歴史)ブームが起き、多くの紀年鏡が(偽)造され、景初四年鏡というあり得ない年号まで生まれてしまったと

830 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:53:48.27 .net
>>827
洛陽焼溝漢墓に日本から持ち込むはずがない

831 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:54:04.46 .net
日本で鏡が作られたら邪馬臺国だとか理屈が飛躍しすぎてて草

832 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:54:17.49 .net
洛陽晋墓で決着ついてない?

833 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:54:27.15 .net
>>829
そして2〜3世紀の邪馬台国=畿内という幻想まで産んでしまったのだ

834 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:55:57.58 .net
>>830
逆に考えてみたらいい
洛陽で何百枚も出る鏡が日本の墓から一枚出たところで日本製と考えるのかどうか

835 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:56:10.54 .net
>>828
存在しない年号が入っているのは、その年に作ったから
4世紀の人は景初4年の紀年銘鏡を作れない

836 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 11:59:31.22 .net
>>829
うむ、やはり三国志歴史ブームにハマった、4世紀のヤマト王権傘下の豪族が造らせた復古鏡だろうな

837 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:00:07.72 .net
すなわち、景初4年鏡は
正始元年に日本の高天原で、思金神によって作られた、拠って邪馬台国は九州高千穂である

838 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:00:56.26 .net
九州説またもや畿内説を追い込みましたね
畿内説のいつものパターーン

隠れ蓑のように
三角縁神獣鏡にしがみつく
そして泥仕合に持ち込む

それしか攻撃をかわすてがないから
しかし防戦一方の畿内説 でも▲にしがみつく

839 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:01:25.56 .net
>>834
そのように考えない

840 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:03:07.87 .net
私は景初四年はあったとみています。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/52335/files/42213

841 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:03:17.99 .net
九州説またもや畿内説を追い込みましたね
畿内説のいつものパターーン

隠れ蓑のように
三角縁神獣鏡にしがみつく

842 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:04:33.39 .net
>>838
防戦一方なのは九州説
何にも出てこない

843 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:05:09.96 .net
畿内説に質問
三角縁神獣鏡について 寺沢らの見解は

844 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:05:37.34 .net
>>835
その年に作った保証などない

845 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:06:17.59 .net
>>839
非合理的にすぎる

846 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:06:27.86 .net
>>843
寺澤は国産鏡だよ。
読んでないの?

847 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:08:41.33 .net
>>844
4世紀に作ったと考える方が不自然だ

848 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:09:05.78 .net
>>836
いまだに宇宙戦艦ヤマトや戦艦アンドロメダのプラモを改造してる50代のおじさんみたいなもんか?

849 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:10:48.55 .net
>>840
あってもいいんです
景初4年(正始元年)に作ったのは変わらない

850 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:11:22.99 .net
ちな、宇宙戦艦ヤマトは、今から45年前、1978年(20世紀第3四半期)のアニメねw

851 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:12:34.52 .net
>>847
そもそも存在しない年号が不自然だ

852 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:12:38.76 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

853 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:12:53.16 .net
紀年鏡=三国志グッズ だったのか...orz

854 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:13:11.70 .net
唐も高句麗も日本もかつては魏の臣下だった

855 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:14:15.18 .net
土器編年から考えても、スプリング8の結果から考えても、C14から考えても、年輪年代法から考えても三角縁神獣鏡が3世紀鏡であることが明らか 
日本古代史ネットワークは、これらが全て歴年標準パターンの基礎になっているとかいう無理筋の主張

856 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:15:14.87 .net
>>851
正始元年に日本で作ったと考えれば問題ない

857 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:16:01.12 .net
3世紀鏡だとしても邪馬台国となるかどうかは話が別w

858 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:17:16.99 .net
>>845
九州説のハルキーさんも1面でも洛陽焼溝漢墓から出てこれば畿内説で決着と言ってる

859 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:17:17.18 .net
邪馬台国≠ヤマト王権 の九州説
邪馬台国=ヤマト王権 の畿内説

860 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:18:38.15 .net
三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないと九州説を中心に反論して来ましたが
昨今の新聞記事などを見ると、どうも三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないという結論になったようです。

論争ということからすれば、九州説の勝ちということになります。
しかし、代わりに今度は、画文帯神獣鏡が卑弥呼の鏡だと畿内説の考古学者は主張しているようです。
もちろん、三角縁神獣鏡と違って画文帯神獣鏡は間違いなく中国の鏡です。

けれども、三角縁神獣鏡にしろ、画文帯神獣鏡にしろ、神獣鏡は魏ではなく、呉の鏡なのです。魏と敵対していて戦争を繰り返してきた呉の鏡なのです。中国の鏡の専門家である王仲殊氏は、はっきりと神獣鏡は呉の鏡であり、魏で作られたことはないと言っています。

861 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:18:52.35 .net
>>857
九州説の全ては、年代論で戦っている
安本美典も関川もそう
三角縁神獣鏡が3世紀鏡なら、彼らも畿内説にならざるを得なくなる

862 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:20:36.75 .net
>>860
ところが、近年、華北東部系鏡という概念が誕生した

863 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:20:56.51 .net
>>763
>>771
魏志倭人伝に完全に合致する九州説
魏志倭人伝に何一つ合致しない畿内説

864 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:22:15.42 .net
>>856
年号を知らない者がいつの時代にか作成したのだな

865 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:23:04.59 .net
>>862
ルーツがどこだろうが国産の鏡なら卑弥呼の鏡とは関係無い

866 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:24:24.42 .net
楼観城柵なしで完全無防備な纏向にいる畿内説は、河内(大阪)彦と尾張伊勢狗奴国卑弥弓呼に挟み討ちされて、全員打ち首獄門

867 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:24:53.16 .net
たった可能性のある鏡は、内行花文鏡か方格規矩鏡などであると言ってるな。
皇室に伝わる三種の王仲殊氏は、魏から日本にわ神器である八咫鏡も内行花文鏡ではないかと言われている。
畿内説の考古学者は、どうして日本人が好み、魏の鏡でもある内行花文鏡や方格規矩鏡ではなく、
呉の鏡である三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡を卑弥呼の鏡としているのだろか。
しかし、内行花文鏡や方格規矩鏡などはほとんどが九州から出ている。
これらの鏡を卑弥呼の鏡とすれば、九州説の証明になってしまうね。

868 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:25:47.99 .net
>>840
それ読んだけど完全なでたらめ
大学の准教授のくせにレベル低いわ

869 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:26:14.32 .net
鏡作り神社は崇神の時に八咫鏡を作っているが、伊都国から来た職人が作った物だろう

870 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:26:29.97 .net
⇩この一文で畿内説は瞬時に瓦解

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 

871 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:28:23.46 .net
>>865
斜縁鏡を元に三角縁を作ったとすれば畿内説で決着

872 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:29:18.70 .net
247年に戦争してて帯方郡に援軍を要請するほどの脆弱な王権であれば、巨大な箸墓など造れるはずもなしw

873 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:29:46.76 .net
>>867
王仲殊の説は古い
今調査しているのは華北東部系鏡

874 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:31:24.10 .net
>>871
>斜縁鏡を元に三角縁を作ったとすれば畿内説で決着

ろくに鉄器も作れない畿内がか?   @阿波

875 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:31:45.30 .net
>>870
理由がないな

876 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:31:57.25 .net
福岡市・西新は古墳時代初頭、国内最大級の貿易拠点だったか
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1708755035/
朝鮮半島や畿内・山陰などの土器 九州歴史資料館で展示

877 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:32:52.25 .net
>>859
間違いですぞ
×邪馬台国≠ヤマト王権 の九州説
〇邪馬台国=ヤマト王権 の畿内説

〇九州説
倭人伝記述より後の邪馬台国
もしくは九州を中心とした倭国連合体
がヤマト王権を創設

878 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:34:19.27 .net
>>870
>>872
うむ、やはり⇩こうなる

箸墓・西殿塚=4世紀第1四半期(300〜325)以降
行燈山・渋谷向山=4世紀第2四半期(325〜350)以降
佐紀盾列=4世紀第3四半期(350〜375)以降
古市=4世紀第4四半期(375〜400)以降
百舌鳥=5世紀第1四半期(400〜425)以降

879 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:35:32.38 .net
もっとそもそも論言えば難升米が洛陽で詔書金印もらったのは景初二年なのだよ
景初三年なんて日本人しか言わない奇形説だろ

880 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:36:05.58 .net
>>872
帯方郡に援軍を要請とかしてないから妄想

881 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:37:32.05 .net
>>880
張政が来倭してるw

882 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:38:05.27 .net
>>878
このように
理由もなく
結論だけ言い張るのが九州説
つまりトンデモ

883 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:38:12.70 .net
すでに多くの学者間では
三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないという結論になってるよ。
今は画文帯神獣鏡が卑弥呼の鏡だと畿内説の考古学者の主張だよ。

884 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:39:22.31 .net
>>878
実に自然な間隔で築造していったことが判るな

885 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:41:01.53 .net
>>881
軍隊が来たのか?

886 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:41:44.25 .net
>>883
だったら畿内説で決着だな

887 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:41:55.44 .net
>>881
>張政が来倭してるw

つまり援軍など養成していないw

888 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:43:21.71 .net
>>874
日本で鉄が作れるようになったのは6世紀以降だろ

889 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:43:29.34 .net
>>860
山東省から斜縁二神二獣鏡出土

890 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:46:03.50 .net
畿内説ならわざわざ宇美に寄る必要が無いだろう

宇美が山麓にあり、そこが東の限界だから、そこから筑紫平野に向けて南下したんだよ

891 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:46:07.97 .net
方位も距離も捻じ曲げる畿内説はトンデモ確定

892 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:47:20.54 .net
>>873
「方格規矩鏡」は特段、畿内説に優位に働かないようですね。

893 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:51:31.47 .net
張政は以前に黄幢やるよと決められてたのを
三韓の反乱があって延期になってたところ
それが鎮圧されてから日本に持ってきただけよ

894 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:54:12.40 .net
>>882

ご活躍のようでWw

895 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 12:56:53.76 .net
そうだな
畿内に行くんだったら
伊都国によった後九州北岸を水行して
山陰地方沿岸を水行し但馬半島に行くだろうね
そこから奈良まで陸行する

それか伊都国から筑後平野、日田を徒歩で抜けて宇佐あたりまで行って
倭の船に乗って瀬戸内海を移動するかもしれないな

896 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:01:34.83 .net
>>883
このように
決して証拠を出さないのが九州説

897 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:01:37.21 .net
不弥国から南に水行した者だけが邪馬台国に行きなさい。

898 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:03:17.60 .net
>>879
梁書、太平御覧が景初三年

三国志集解でも廬粥は景初三年を妥当としてるね

899 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:07:43.31 .net
>>898
下手くそな推理だよな
どうせ公孫氏と戦してたから景初二年は無いとかいう勝手な決めつけだろう

900 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:08:44.93 .net
纏向説だと狗奴国の説明に困るんですね
南には山しかないし
それっぽい地名は熊野しかない
卑弥呼と同等の称号の王がいて魏の援助を要するほどの
強敵でなければならないが、それらしいのがいない
日琉語に詳しい人が遠江の勢力に比定してたけど真東だから
とりえないしなぁ

901 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:08:48.11 .net
>>895
決して理由を言わないのも九州説

902 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:10:52.90 .net
>>892
方格規矩鏡は畿内からも出てるから問題なし

903 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:11:34.52 .net
>>900
困っていない
方位に誤りがあるというのが畿内説の基本だし
女王の都の南に狗奴国などとも倭人伝には書かれていないから

904 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:16:38.14 .net
>>903
方位だけじゃないな。
支那の古書はさっぱり信用できないというのが畿内説の始まりだからな。
そのくせ、どこかに邪馬台国が有っただけは信用するお笑い番組。

905 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:19:09.07 .net
>>899
景初二年に詔書が出ていたら、それは亡き先帝の詔書なので
正始元年になって恩詔に答謝することが出来ない

906 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:22:38.26 .net
>>905
小帝にすれば済む話

907 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:23:35.50 .net
>>904
>そのくせ、どこかに邪馬台国が有っただけは信用するお笑い番組。

中国史書にある邪馬台国とは三世紀中頃にあったヤマト政権のことだと
日本の学者が考証しているだけだけど?
史料の裏を取るのが学問だろ?

908 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:26:16.68 .net
>>906
>小帝にすれば済む話

済まないな
遺詔と印綬を奉じて倭に詣ったと言わなきゃね

909 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:32:28.09 .net
>>243
チョンコは北海道を乗っ取ろうとしているようだな

https://x.com/japannnavi/status/1761606790926811164?s=46&t=jWZFRdmwp0KW2-6kNqRixg

910 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:35:50.20 .net
---------------------(2ヶ月かけて以下の各国訪問)---------------------
投  馬(三 潴)---福岡県久留米市---景行天皇の子孫・水沼氏
斯  馬(志 摩)---福岡県糸島市
己 百 支(柴 刈)---福岡県久留米市
伊  邪(伊万里)---佐賀県伊万里市
都  支(筑 紫)---福岡県筑紫野市
彌  奴(耳 納)---福岡県久留米市
好 古 都(多 久)---佐賀県多久市
不  呼(浮 羽)---福岡県うきは市
姐  奴(竹 野)---福岡県久留米市
對  蘇(鳥 栖)---佐賀県鳥栖市
蘇  奴(佐 嘉)---佐賀県佐賀市
呼  邑(糟 屋)---福岡県粕屋町
華奴蘇奴(神 埼)---佐賀県神埼市---吉野ヶ里遺跡
  鬼  (杵 島)---佐賀県白石町
爲  吾(生 葉)---福岡県うきは市
鬼  奴(嬉 野)---佐賀県嬉野市
邪  馬(八 女)---福岡県八女市
躬  臣(御 笠)---福岡県太宰府市
巴  利(把 伎)---福岡県朝倉市
支  惟(基 肄)---佐賀県基山町
烏  奴(大 野)---福岡県大野城市
  奴  ( 儺 )---福岡県福岡市
--------------------------( ↑ 女王以北 ↑ )--------------------------
邪 馬 壹(山 門)---福岡県みやま市---女王山・女山(ぞやま)
狗  奴( 熊 )---熊本県(狗古智卑狗=菊池彦)
-------------------------------------------------------------------------------------
侏  儒(少 童)---高知県

https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/fe8051fd224fc216db4f8d0a567990b6_9058df78777e53ffba25e965b2f72ce4.png

911 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 13:55:53.78 .net
>>896
グダまかないで ビシッと決められないのかなW

912 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:02:14.00 .net
>>911
そもそも画文帯が卑弥呼がもらった銅鏡なら、これもまた畿内説が圧倒的に有利だろ

913 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:04:50.58 .net
>>912
証拠の出せない九州説はまたも敗北

914 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:13:53.06 .net
銅鏡の中国での分布図とかないのかとググると安本さんとこのが出てくるね
画文帯は南方の鏡じゃん

915 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:14:08.03 .net
>>883
画文帯神獣鏡も国産の鏡だろ。

916 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:16:40.70 .net
畿内説はとっくに落城してます。ここにいる畿内説は落武者の亡霊です。

917 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:17:02.60 .net
どんどん袋小路の方に逃げ込む九州説

918 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:17:12.43 .net
>>907
そもそも内藤氏は、支那の史書は信用できないといって噛みついたのに、
なんで考証したらヤマトになるのか。
信用できない物事は、いくら考証しても信用できないだろう

919 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:23:13.90 .net
>>914
畿内説への入り口へようこそ

920 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:27:50.85 .net
>>915
つまり、畿内説

921 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:27:52.27 .net
畿内説とはヤマト王権畿内説の事です、とそのうち言い出すだろうな

922 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:33:02.97 .net
狗奴国のクナは国クニと同じ語源かもな
ナとかニは土地を表すらしい
クは元々神聖なという意味があったようだが、次第に区切られたという意味も持つようになったという説もある
クナは神聖な区切られた土地という意味だろうか

沖縄にはマユンガナシという祭があるが、マユとは豊かな真の世という意味らしい

923 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:37:13.97 .net
>>918
>そもそも内藤氏は、支那の史書は信用できないといって噛みついたのに、

証拠は?

924 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:43:58.04 .net
>>919
畿内説は人生の無駄

925 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:44:02.57 .net
>>915
公氏と呉の関係もあるし
又地政的に狗奴国と呉の接近も危惧していたかもしれん。

926 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:48:29.66 .net
負け馬投票権を握りしめて墓場まで持っていく畿内説。

927 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:49:44.58 .net
藤井寺の国府遺跡は旧石器時代からの複合遺跡であるが、縄文時代前期の楔状耳飾りをした人骨が5体も見つかっている
楔状耳飾りは身分が高い人が身につけていたと考えられている
縄文時代に既にそういう考えがあったのは驚きだが

堺の伝承では遠い昔に神さまは天に上がって既にいないが、昔は神さまだけが住む土地だったという

今ではネットでヘイトの対象日本されているが、太古の昔は河内や和泉は豊穣の地で日本人にとって聖地だったんじゃなかろうか

津軽藩の家系で神奈川生まれの、天台宗大僧正である今東光は河内はバチカンのようなところであると評した

それに対抗するではないが、渡来人たちが理想郷を作ろうとしたのが弥生時代末期以降の奈良の歴史ではないだろうか?

対立ではなく大事なのは聖徳太子の教えだが

928 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:50:16.62 .net
悪口しか言えないのは負け犬の証拠

929 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:50:27.81 .net
>>927
訂正対象に

930 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:53:15.52 .net
徐々に漢化していく畿内大和w
魏晋王朝と繋がりがないと起こらない現象。漢化第一号の冒頓単于の末裔が劉氏に改名したのも魏晋の時代よ。

931 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:53:25.37 .net
畿内説をやっていると友達が減るらしい。ソースはXのポスト

932 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:53:36.95 .net
つまり畿内説は悪口の塊でしたと

933 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:54:33.16 .net
>>924
九州説は人生の無駄だよ
正確に言うと、文献しか見ない九州説は人生の無駄
ハルキーさんの言う通り、考古学を学ぶと邪馬台国論争はさらに楽しくなる

934 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:56:56.12 .net
そう言えば公孫氏の香炉が前方後円墳の形をしていたな

935 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 14:58:48.06 .net
文献無視はダメですよ

936 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:00:49.61 .net
>>931
つまり、九州説は科学ではなく友達の増減だということ

937 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:01:16.94 .net
公孫氏が魏志倭人伝のキーだな。

938 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:03:34.11 .net
>>936
畿内説をやってるとカルトに見られると言う事だろ

939 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:05:06.16 .net
>>930
漢字を学んだ畿内人は立派
常に中央に反抗し続け、一大率を置かれたり、磐井の乱を起こした独立性の高い九州もある意味立派

940 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:07:33.52 .net
公孫氏が分かれば邪馬台国も分かる

941 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:07:51.42 .net
文献無関係の
ヤマト国畿内説w

邪馬台国は地図上には有り得ない
三国志の中だけの倭国

942 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:08:49.87 .net
画文帯を東晋時代として、位至三公鏡を西晋鏡とする安本美典氏の主張はおかしいと思うが、それでなくても位至三公鏡は総数が統計学的に意味をなさないし、
福岡7、大阪6で別に無視できる

943 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:09:44.86 .net
証拠を重んじない九州説は学問じゃないよ

944 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:10:27.53 .net
>>941
文献と考古を照らし合わせた結果、九州説の学者は消えてしまった

945 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:11:10.52 .net
畿内には倭国の歴史が無い

946 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:12:09.09 .net
最大の証拠は文献であり、その文献を無視する畿内説は証拠を軽んじている。

947 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:14:54.73 .net
文献を重視したら畿内説は崩壊します。例えば南一つで瓦解するのが畿内説です。

948 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:15:20.09 .net
>>946
という証拠は?

また墓穴を掘った九州説

949 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:17:14.05 .net
>>945
魏志倭人伝を読む限り、畿内も倭国である
畿内邪馬台国の一大率に支配される九州も倭国であり、女王国もその首都である邪馬台国も当然に倭国であると見なすべきである

950 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:18:37.27 .net
>>947
南は東と読み替えるべきである
タイムマシーンに乗って、卑弥呼が纒向にいることを確認してきたのだから、南が東の誤りであることは確実である

951 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:18:47.94 .net
>>948
文字による記録以上の証拠はない。

952 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:19:38.56 .net
日本書紀に大坂山から石を運んで箸墓が作られたとある
二上山や柏原の芝山の石が箸墓から見つかっている
大坂山は二上山やそれを含めた柏原周辺の山々という説がある

大坂に継ぎ登れる 石群を 手ごしに越さば 越しかてむかも
飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂
という歌も載っている

日本書紀の箸墓が作られる記述と素直に詠んだ歌の内容は微妙にずれていると思うんだよな
素直に読むと石むらを越える喜びを歌った歌に思えるんだが
奈良から大坂山を越えてその向こう側へ

953 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:19:43.55 .net
>>949
倭国だった証拠はありますか?

954 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:21:01.19 .net
>>950
あなたは良くない薬を使ってますね

955 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:23:03.21 .net
隋書や日本書紀の言う通り大和朝廷は魏志の邪馬臺

956 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:23:56.83 .net
>>951
文字による記録は刑訴法では伝聞証拠として、証拠採用されない
なぜなら伝聞は、知覚→記憶→叙述という過程を辿るので、その中で誤りが入りやすいからである

ましてや、魏志倭人伝など、伝聞の伝聞の伝聞の伝聞の伝聞、又聞きの極みでこれを全て鵜呑みにすることはできない
そこで考古学という物的証拠と照らし合わせる必要がある

957 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:24:08.49 .net
190年から247年まで
女宮1000人、未婚の女王が
奈良の城柵の高楼で隣国と戦いつつ
魏に朝貢しながら倭国を治めた。

王権継承者は13才の少女
これが、後の大和朝廷の礎である。
日本の歴史は、大丈夫なのか?

958 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:26:17.55 .net
さっさと箸墓掘って 親魏倭国王金印出しちまえよ

959 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:30:29.71 .net
>>956
文字によって記録されたものが歴史
考古学は歴史ではない。

960 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:32:10.57 .net
2年くらい前に国立遺伝学研究所から発表された母系遺伝子の研究によると、奈良滋賀で一つのグループ、東海で一つのグループ、東北富山石川和歌山で一つのグループを作っている
畿内の京都大阪は上記の三つのグループの混血でやや東北グループよりだった
東北は三内丸山遺跡で楔状耳飾りが見つかっており、この集団が東北の母系の基盤になっているのではと個人的に考えている

母系遺伝子から見ると京都大阪は実は東国より
奈良滋賀の母系のルーツが気になるが

961 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:32:13.20 .net
>>956
でもその伝聞の伝聞の伝聞の邪馬台国を畿内説が主張するのは変ですね。邪馬台国ごと否定するのがスジ

962 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:34:08.58 .net
アメリカ人の先祖はインディアンである。
インディアンの酋長が、後にアメリカ大統領になった。
 

963 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:35:52.60 .net
>>955
文字記録もない蛮族の何百年も昔の話しなんかわかるわけない

964 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:38:07.48 .net
>>961
考古(物的証拠)と組み合わせて考えるべき

965 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:39:20.18 .net
卑弥呼の治世は約60年と推定されており、その内の約50年間は公孫氏と外交関係を持っていた。、
晩年の10年くらいが魏との外交関係。
卑弥呼を一番良く知っていたのは公孫氏だったのであり、卑弥呼に付いての記録を最も多く持っていたのが公孫氏だったのである。
倭人伝を編纂するにあたり陳寿は倭に付いての資料を多く集めた。
当然、公孫氏の残した資料が多く含まれており、短里はこの公孫氏の残した資料に使われていたのである。

966 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:39:45.12 .net
>>964
ゴキの破片も桃の種も邪馬臺国に結びつかず単なる東の倭種にしかならない

967 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:40:10.22 .net
>>966
三角縁神獣鏡

968 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:40:33.23 .net
>>967
日本で独自に発展した国産鏡

969 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:41:15.87 .net
せめて曹操の鉄鏡くらいのお宝持って来ないと

970 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:41:44.11 .net
畿内説は倭人伝のチェリーピッキング

971 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:41:57.74 .net
>>966
桃核12個は、C14で3個が4世紀の可能性ゼロ、4個は4世紀より2世紀の可能性が高いことを示し、
そして12個全てが3世紀の可能性が高いと示した

972 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:42:40.90 .net
>>968
その元になったのが斜縁鏡や画文帯神獣鏡

973 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:43:40.95 .net
>>971
桃は倭人伝には出てこないので何の証拠にもならん

974 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:44:05.30 .net
魏の使者の経路は復路も考えると紀ノ川から奈良入りしたんじゃないか
竹内宿禰も古墳時代九州南部から紀伊の港に帰還した話があるからね
九州から大陸への復路を考えると大陸からの船は伊万里辺りの港に泊めていたんじゃないかな
伊万里→脊振山地の南側→佐賀→筑後川の北岸→日田→中津→耳津→紀伊半島→紀ノ川→奈良でしょう
奴国は筑後川の北、那珂川の東、遠賀川の西の国じゃないか
伊都国は吉野ヶ里かもね

耳津を出て南下して黒潮に乗り紀伊半島近くまで流されたら黒潮を離れて紀伊の港に上陸したんでしょう

復路は紀伊→徳島→高知→九州の沿岸部やね
復路は四国の遺跡からも裏付けられたルートだね

975 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:44:58.04 .net
>>973
年代が確定するので大きな証拠になる
九州説の生き残りもここが確定すると撤退する

976 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:45:25.95 .net
卑弥呼時代に四道将軍出さないと
大和朝廷出来ないと思うけど

奈良に諸国の豪族が集まって
中央王権確立させてるのに
狗奴国との戦争に女王の手紙見た
帯方郡太守の使が干渉したの?

「どうする日本」 大河ドラマ化?

977 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:46:56.06 .net
>>974
佐賀から中津は北への陸行だからボツですね

978 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:48:08.10 .net
>>976
なんで?

979 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:49:32.47 .net
>>969
魏帝は国中に示して綏撫しなさいと言ってるから、元々配布が原則

980 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:51:11.65 .net
魏志倭人伝の記述の内、公孫氏の残した資料を参考に書かれた部分がないか検討すると
短里を使用した行程文と、短里で書かれてる女王国が使われた部分が公孫氏の残した資料を参考に書かれた部分であると考えられる。下記

従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至 対馬国 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶島 方可四百余里 土地山険多深林 道路如禽鹿徑 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海千余里 至末盧国 有四千余戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐 東南至奴国百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二万余戸 東行至不弥国百里 官日多模 副日卑奴母離 有千余家

自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳

自郡至女王国 萬二千余里

自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒国在其南 人長三四尺

981 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:52:17.73 .net
>>972
ルーツがなんだろうと日本独自に発展した鏡である以上、卑弥呼の鏡たりえない

982 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:53:07.01 .net
>>979
どこに配りなさいと書いてあるの

983 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:53:45.82 .net
>>981
元になるものがないと作れない
三角縁神獣鏡はゼロから作ることはできない
斜縁鏡の兄弟であり、画文帯や画像鏡の要素も入っている

984 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:54:20.28 .net
>>982
魏志倭人伝に

985 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:54:31.37 .net
>>983
東の倭種が鏡を作ったところで卑弥呼は無関係

986 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:54:55.74 .net
>>984
該当箇所を抜き出して日本語に訳してみて

987 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:55:43.51 .net
>>985
そのような荒唐無稽な主張をするプロはもはや九州説にも存在しない

988 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:56:42.36 .net
>>980
女王国と短里は同じ文章で使われている事が多く、同一の基資料からの引用である事が分かる。

989 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:57:02.51 .net
国産の鏡を作ったぞ!

これは卑弥呼の鏡に違いない!

ちょマテよ

990 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:59:21.68 .net
>>986
銅鏡百枚真珠?チ丹各五十斤皆装封付難升米牛利
還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也

991 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 15:59:38.48 .net
>>976
中央王権確立させていたのか?

992 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 16:00:20.06 .net
>>990
日本語に訳せと言ってるのに日本語すら通じなかったか……

993 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 16:00:42.19 .net
>>989
そのような主張をするのは九州説にすらいない
絶対に九州説を成立させたい九州説も、三角縁神獣鏡に苦しんでいる

994 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/02/25(日) 16:01:26.39 .net
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1708841942/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

995 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 16:01:43.60 .net
>>985
最初は卑弥呼でしょ。
呉の鏡師は景初二年公孫氏滅亡
で難升米あたりが連れてきた。

996 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 16:01:54.78 .net
>>992
塚田敬章さんに完全に依拠している

997 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 16:01:58.38 .net
もう畿内説gdgdやんけ
そりゃ今更ながら東遷説にすがるハメになるわ

998 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 16:03:26.88 .net
>>980に対し下記の文では女王と書かれている

南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸

次有斯馬国 次有巳百支国 次有伊邪国 次有都支国 次有弥奴国 次有好古都国 次有不呼国 次有姐奴国 次有對蘇国 次有蘇奴国 次有呼邑国 次有華奴蘇奴国 次有鬼国 次有為吾国 次有鬼奴国 次有邪馬国 次有躬臣国 次有巴利国 次有支惟国 次有烏奴国 次有奴国 此女王境界所盡 其南有狗奴国 男子為王 其官有狗古智卑狗 不属女王

これは公孫氏の残した資料ではなく魏の最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる

999 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 16:03:30.06 .net
平原鏡の和製が証明出来れば解決

1000 :日本@名無史さん:2024/02/25(日) 16:03:48.33 .net
東遷はない。

1001 :2ch.net投稿限界:Over 1000 Thread
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