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邪馬台国畿内説 Part999

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:02:01.35 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1709405290/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

2 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:03:00.41 .net
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:03:30.53 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:04:02.15 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:04:31.13 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:05:01.13 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:05:31.36 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:06:01.33 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:06:31.28 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

10 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:07:30.83 .net
 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。



◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:08:01.35 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

12 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:08:31.05 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:09:00.83 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:10:01.15 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:10:40.70 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:11:30.35 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:12:00.59 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:12:30.42 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:13:01.24 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:13:31.11 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。

21 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:14:00.58 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:14:31.06 .net
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:15:01.04 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:15:31.11 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:16:01.00 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:16:30.14 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:17:30.65 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

28 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:18:00.82 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:18:31.23 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:19:00.56 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:19:30.40 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

32 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:20:00.51 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

33 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:20:30.03 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

34 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:21:00.85 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

35 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:21:30.40 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

36 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:22:00.64 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

37 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:22:30.96 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

38 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:23:00.62 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

39 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:23:31.56 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

40 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:24:00.73 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

41 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:24:31.20 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

42 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:25:00.81 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

43 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:25:31.07 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

44 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:26:00.95 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

45 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:26:30.77 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

46 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:27:00.88 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

47 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:27:31.28 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

48 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:28:00.98 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

49 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:28:31.07 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

50 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:29:00.97 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

51 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:29:31.01 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:30:00.75 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:30:31.21 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:31:00.38 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:31:30.92 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:32:00.68 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

57 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:32:30.51 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:33:00.72 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:33:30.65 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:34:00.27 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

61 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:34:30.74 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:35:00.39 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:35:30.26 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:36:00.48 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:36:30.63 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

66 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:37:00.67 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:37:30.52 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:38:00.56 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:38:30.53 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:39:00.86 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:39:31.14 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:40:00.58 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:40:30.89 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:41:00.53 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

75 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/03/06(水) 14:41:31.23 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 16:55:24.34 .net
以上、霊感商法詐欺のマニュアルでした

77 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/03/06(水) 17:44:55.32 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

78 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 19:22:22.90 .net
ネトウヨネトウヨほざいてるだけのバカを信仰するやつなどいるわけねえわな🤔

79 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 20:13:53.85 .net
で、客観的に見て魏志倭人伝の記述と一致するもんなんてあった?

80 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 20:17:31.27 .net
魏志倭人伝だけでずっとオナってろよ

81 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 20:25:30.84 .net
魏志倭人伝と一致したのは、1507年のヴァルトゼーミュラーの地図。
北緯35度〜5度に日本が縦長に描かれており、「冬でも生野菜を食べる」などが一致。
女王国までの里数12000里もほぼ一致。

82 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 20:43:39.63 .net
風土記から見る歴史も面白い
播磨風土記には木花咲耶姫は伊和大神の妻神とある
播磨風土記には伊和大神が出雲に行った話や伊和大神の国作りは尾張で終わりという話がある
弥生時代中期末、尾張の朝日遺跡には大変化が起き日本海側と共通の墓制に変わり松江の西川津遺跡と形が同じ鳥形が現れる
弥生時代後期には尾張を越え静岡まで鳥形が広がり摂津の玉津田中遺跡と形が同じ鳥形があった登呂遺跡が誕生する
弥生時代後期には国作りは尾張を越えて広がる
弥生時代後期の伊賀の名張には砦のような集落跡がある
伊賀に石の城を作ったと伊勢国風土記逸文にある伊勢津彦は播磨風土記に伊和大神の子とある
風土記と考古学的結果の時の流れがリンクするのだ
風の性質を持つ伊勢津彦。スサノオや播磨風土記の五色の玉を持つ石神も風の性質を持つ
伊和大神は兵主の神で武と関係が深い
古語で鳥はスであった
スサノオは鳥の狭野男で諱が狭野の神武天皇と同じではなからうか?
ヤマト政権誕生の地、橿原からは弥生時代後期サヌキと同じ高地性集落が誕生し、鳥装のシャーマンや龍の絵画土器が現れる
樫でできた鳥形があったのは松江の西川津遺跡である
橿原神宮の石碑に刻まれた御歌は胸を打つ
遠つ世の 風ひそかにも 聴くごとく
樫の葉そよぐ 参道を行く

真に優れた武人、立派な男、ますらおは誰だったのだろうか?

83 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:06:49.35 .net
関西人は記紀のころからずっと倭人伝に挑戦し続けてるわけだ
でも南に行く魏志倭人伝がある限り九州説はなくならんわな

84 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:06:53.24 .net
>>77
チョンコでなくて良かったhttps://i.imgur.com/7gLSGBZ.jpeg

85 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:14:20.63 .net
投馬国……官「彌々」 副「彌々那利」 = 景行天皇に退治された凶賊の「耳垂」(みみたり)

86 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:33:57.20 .net
狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国

こんだけ国の名前が出てきてんのに最初に登場する8カ国は場所が比定できてその他はどこだかわからないなんておかしいだろ。
投馬国以降は控えめに言って信憑性の低い情報に基づいて書かれたか、悪く言えば捏造、創作された国名だろ。

87 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:39:05.75 .net
>>86
狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国 以下の国々は、「邪馬臺国」を構成する国々だある。   @阿波

88 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:45:48.60 .net
>>87
阿波は構成国では無い

89 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:47:51.84 .net
>>84
邪馬台国九州説に立つと、ヤマト王権は、朝鮮半島から渡来した騎馬民族征服王朝ってことでいいですね?

90 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:48:36.62 .net
魏志倭人伝の行程記事部分の下敷きになる調査報告書を書いたのは公孫氏政権下の帯方郡使

ⅰ)その帯方郡使が実際に行った倭国のクニ(構成国)
狗邪韓国、対馬国、一支国、末蘆国(港のみ)、伊都国、奴国、不弥国
※対馬海峡を挟んだ朝鮮半島南部と北部九州沿岸のクニ

ⅱ)帯方郡使が倭人から距離(日数)や戸数などを聞いた倭国のクニ
投馬国、邪馬台国
※博多湾側から南に御笠川→宝満川→筑後川を水行した筑後のクニ

ⅲ)帯方郡使が倭人から国名しか聞いてない倭国のクニ
傍国21国
※その他北部九州に散らばるクニ

91 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:50:28.93 .net
>>90
狗邪韓国、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国 以下の国々は、「邪馬臺国」を構成する国々である。   @阿波

92 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:51:37.75 .net
>>89
記紀にはそうは書かれていない

93 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 21:56:52.89 .net
>>92
垂仁天皇の時代にツヌガノアラシトさんが渡来してますけど。

94 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 22:06:13.06 .net
>>89
古墳人が王朝をつくった形跡はないが、勢力を伸ばしたようなので
また騎馬民族と言う人も出てくるだろう

95 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 22:06:15.59 .net
邪馬台国畿内説の年代感では、日本の前方後円墳のほうが高句麗の前方後円型積石塚よりも古いので、騎馬民族征服王朝説の成立する余地がないが、邪馬台国九州説の年代感に立てば、前期古墳でも4世紀の築造ということになって騎馬民族征服王朝説が十分に検討の余地が出てくる。

96 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 22:06:40.87 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

97 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 22:09:32.49 .net
江上波夫は応神朝を騎馬民族と言っていたから、彼の騎馬民族王朝説を前提とすると邪馬台国とは関係ないな

98 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 22:15:16.95 .net
>>93
都怒我阿羅斯等に征服されたとは書いていない

99 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/06(水) 22:21:48.69 .net
さすがに現代の学問水準で応神を騎馬民族であるとするのは無理がある
ただ江上波夫氏の学説は天皇至上史観を破壊するとい意味で政治的に大きな意味があったことは評価したい

歴史学とは過去の事績を参照してより良い政治を応援するためのものである
江上氏の学説はこの国の進歩主義を後押しする効能をもたらした
歴史学は政治性と切っても切り離すことができない
史学とは短期的には政治性を評価するべきであり、政治性が失われるような過去になった時に初めて現実と切り離せば良いのだ

100 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 22:22:29.50 .net
>>97
箸墓古墳から馬具が出土してるんだから崇神朝から騎馬民族渡来になる。

101 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/06(水) 22:28:44.21 .net
さすがに現代の学問水準で応神を騎馬民族であるとするのは無理がある
ただ江上波夫氏の学説は天皇至上史観を破壊するとい意味で政治的に大きな意味があったことは評価したい

歴史学とは過去の事績を参照してより良い政治を応援するためのものである
江上氏の学説はこの国の進歩主義を後押しする効能をもたらした
歴史学は政治性と切っても切り離すことができない
史学とは短期的には政治性を評価するべきであり、政治性が失われるような過去になった時に初めて現実のイデオロギーを考えないことが許されるのである

102 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 23:14:29.09 .net
播磨風土記に興味深い記述がある
鴨波里(あははのさと)。昔、大部造(おほとものみやつこ)らの始祖である古里賣(コリメ)が、この野を耕してたくさんの粟の種を蒔いた。これによって粟粟里(あははのさと)と呼ばれるようになった。

コリって何なのか?
長江は米、黄河以北は粟が主食だった?

103 :日本@名無史さん:2024/03/06(水) 23:33:54.85 .net
韓国語で 稲イネ は ピョ。 米コメ は サル だ。

まったく語源・音韻が違う。
コメは南中国語「ミー・マイ」に近い。飯メシ、も同語源と思われる。
よってコメは朝鮮から来ていないし、朝鮮語と日本語は無関係。

これは日本語で、まったく解釈不可能だ。 数千年となりに居た民族とは思えない。
イネが朝鮮から伝来したのなら、名称が似ているはずだ。

ぴょ、ぴょ と言われても、鳥の鳴き声を真似ているとしか日本人は理解しない。

反対に 馬ウマ は古代インド=ヨーロッパ語の馬の名称である マー が入っている。
これは百済語のマールか、中国語のマーから日本語に入ってきたことがわかる。

104 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 00:09:28.86 .net
なにはづに咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

競技かるたで最初に詠まれる歌だな
花とは梅のことらしい
梅に鶯
鶯姫の話で開けてはいけない箪笥が登場する
最初の引き出しには風が吹き、次は長閑な田園風景、最後は梅に鶯だな

播磨風土記にある伊和大神の妻神の木花咲耶姫の花は梅なんだろうか?
伊和大神は鶯と関係があるのだろうか?
若草山山頂にある鶯塚は誰の墓なんだろうか?4世紀末頃?
疑問が膨らむばかりだ

105 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 02:17:48.36 .net
>>86
7国が247年の行程で立ち寄り地名
投馬国、邪馬台国、狗奴国は、
帯方郡から直列の国の地理概念
21国は和名で参問した女王共立国

106 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 06:28:05.01 .net
>>83
素人は九州説になるから、絶対王者畿内説としては美味しい

107 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 06:32:11.00 .net
倭人伝を無視しないと成立しない畿内説

108 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 07:04:56.89 .net
絶対王者は伊都説だから。あとは全部言い訳のかたまり。

109 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 07:32:23.34 .net
伊都説は露骨な倭人伝無視の珍説だからなあ
支持者もいないし

110 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 07:46:25.99 .net
つまり畿内説は存在理由を証明出来ませんでしたと

111 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 07:49:08.00 .net
畿内説では、

・伊都国までしか行っていない

・女王国は奴国のこと、菊池国というのがあり熊本(男王国)

・邪馬台国は奈良、狗奴国(男王国)は静岡(久努)で南に比定

・熊本は熊襲で、静岡も同じく賊国だった

・南国を思わせる記述は狗奴国の記述、従って列島を意図的に南に傾けて「當在會稽東冶之東」としている

・大和も天皇の国なので男王国だが、熊本、静岡を同じ南に比定しているので、差別化のために大和=女王国としている

・つまり、朝廷を女王国、賊国を男王国と記号化している(熊本の南と、静岡の南の比定)

・倭迹迹日百襲姫は大君ではなかったが、表向きの女王だった

112 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:05:43.80 .net
倭人伝が存在したら
畿内説が存在出来ない?
大和朝廷畿内説www

113 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:17:12.77 .net
絶対王者、考古学の先生がそう言うから
つまり自分の頭がない

114 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:19:20.78 .net
考古学の先生はあまり出来が良く無いので考古学をやってます

115 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:36:15.46 .net
玉石混交のいろんな資料から情報を寄せ集めてパッチワークしてまとめただけだから文章がめちゃくちゃで支離滅裂。それが魏志倭人伝。

116 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:37:46.50 .net
>>115
そう言いながら邪馬台国だけは信じている畿内説w

117 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:40:43.15 .net
>>106
裸の王様

118 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:48:28.45 .net
>>116
邪馬台国=やまと
と読めるから倭人伝の記事を利用してるだけで違うなら記紀と同様に倭人伝全否定で以上終了なんだけどね。畿内説からしたら。学者はそんなふうにはっきりは言わないけど。

119 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:52:53.55 .net
考古学的な出土事実と文献資料が合わなければ、普通は文献資料のほうが間違っていると考える。九州説はそれが転倒してしまっている。

120 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:55:49.74 .net
人間が類人猿から進化したという考古学的な発掘事実に対して、聖書にはそう書いてないとずっと言い張り続けているのが邪馬台国九州説。

121 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:56:19.50 .net
つまり畿内説学者が一般社会人より低能な事は周知の事実ですよと

122 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:57:07.31 .net
邪馬台国は伊都国の南にあり、狗奴国の北だと魏志倭人伝は書く
伊都国が筑前怡土であったことは畿内説も認める通説だ

狗奴国がどこか、だが、肥後には隈本(後に熊本)、隈部、隈荘、隈府、託麻、球磨など「クマ」のつく地名が多く、また狗奴国の官の狗古智卑狗は熊本県北部の久々知(菊池の旧名)から久々知彦だと考えられ、狗奴国は肥後にあったと推定される
具体的な有力遺跡として山鹿市の方保田東原遺跡がある

邪馬台国は筑前の南で肥後の北にあったとすると、邪馬台国は筑後山門(プラス隣接する肥後山門=肥後国菊池郡山門郷)であった可能性が高い
筑前から筑後への当時のルートは御笠川→宝満川→筑後川の水行だったと考えられるが、そうすると山門の手前に妻(上妻・下妻)すなわち投馬国もある

邪馬台国と狗奴国の間の菊池川流域には鉄鏃が大量に出土し、両国の間に激しい戦いがあったことを示唆する

邪馬台国が筑後だとすれば、卑弥呼が女王として治めた倭国は筑紫の地方勢力ということになる

魏志倭人伝に倭国の東には海を渡った倭種の国々があったと書かれていること(本州・四国に比定される)、倭国の西の記述がないこと(北部九州の西は東シナ海)などとも整合する

帯方郡から邪馬台国(狭義の女王国)まで一万二千里、帯方郡から伊都国まで一万五百里すなわち伊都国から邪馬台国まで千五百里(魏志韓伝・倭人伝の一里換算で凡そ100km)と距離感もぴったりだ

魏志倭人伝の方角、距離、位置関係を素直に読めば、邪馬台国やそれを含む連合国倭国は自然と北部九州に収まることがわかる

123 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:59:12.56 .net
ごく一部の情報だけで邪馬台国の場所を判断しようとする人間が多いが(一般に知能レベルが低いほどその傾向が強い)、それは誤りだ(例えば文献を度外視して前方後方墳と土器編年だけで邪馬台国の場所を特定しようとする日本の考古学界などはその類だ)
邪馬台国の真実は必ず魏志倭人伝と記紀と考古学の様々な情報が総合的複合的に整合するところにあるはずだ

まず魏志倭人伝
この記述によれば距離(帯方郡から一万二千里かつ伊都国から千五百里)、方角(伊都国・不弥国から南)とも邪馬台国は北部九州になる
南に菊池・熊本あたりの狗奴国があり、東に海を渡ると倭種の国々(本州・四国)があり、西については何ら記載がない(東シナ海なので何もない)という周囲の位置関係もぴったりだ
鉄鏃・絹・有棺無槨の墓制(箱式石棺墓)など北部九州に特徴的なことばかりが記述され、巨大前方後円墳・銅鐸など畿内大和に特徴的なことは一切記述されていない
魏志倭人伝を丹念に読んで地図や考古学と照らし合わせれば、邪馬台国および倭国が北部九州にあったことは容易にわかる

次に記紀
これを読めば、纒向に都した崇神・垂仁の時代には北部九州にはまだ影響力を持っていなかったことがわかる
崇神天皇が四道将軍を派遣した先は吉備・東海・丹波・北陸の四地域で北部九州には接触していない
纒向の外来土器は多い順に吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%となっており、近接する河内を除けばぴったり四道将軍派遣範囲だ
そして纒向から北部九州の土器は殆ど出ない
記紀に書かれたこと(纒向ヤマト王権の勢力範囲に北部九州は含まれないこと)は考古学的にも裏付けられる
(続く)

124 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 08:59:31.78 .net
(続き)
魏志倭人伝に描かれた倭国は北部九州の勢力すなわち筑紫の地方勢力であり、記紀に描かれた初期ヤマト王権(崇神天皇あたり)は大和の地方勢力だ
前者には王を合議で決める風習や巫女女王の伝統があるが、後者は成立当初から血統による男系男子(特に男系は絶対)に強く拘り、権力継承も全く異質だ
明らかにこの二つは地理的にも政治的にも別の権力であり別の国だ
纒向遺跡を調査すればするほど魏志倭人伝の倭人のクニの様子と似ても似つかないことがはっきりしてきたが、そもそも別の国なので当然の話だ

「北部九州倭国と畿内ヤマト王権は別の国」
何故こんな簡単なこともわからず邪馬台国畿内説などという極めて合理性の乏しい珍説を主張する人間がいるのか理解に苦しむ

125 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:01:45.89 .net
>>120
>人間が類人猿から進化したという考古学的な

それ考古学じゃ無いけど?
実は証拠と言えるものは未だに発見されてないんだよ
猿から人までのグラデーションのように滑らかに並べる事が出来ないのを知らないのか?
畿内説はとことん無知だな

126 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:03:15.06 .net
つまり考古学は基本的にドカタなのですよと

127 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:06:03.35 .net
>>118
畿内説お得意のチェリーピッキングw

128 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:06:35.29 .net
ドカタで賢い人物の存在率が低い事はドカタ自身は良くわかってるだろ
考古学者には先生と呼ばれて仰け反ってる自惚れ馬鹿の存在率が高い
脳が硬化してるようなジジイが多いせいもあるが

129 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:13:20.32 .net
倭人伝を書いた本人が会稽東冶の東と言っているんだから、そうならない九州説の倭人伝解釈はみな間違いなのさ

130 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:18:35.57 .net
陳寿は入手さた記録を繋ぎ合わせただけであり、倭についての土地勘なんてない
そんな陳寿が行程記録を全て直列配置して、会稽東冶の東あたりだな、と述べているだけ

畿内説は文章読解力も無いので文系にすら届かない
当然一般企業では使えない部類

131 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:18:43.76 .net
>>129
会稽東は陳寿がそう思ったってだけの事

132 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:19:47.51 .net
畿内説は算数も出来ない、算数したら負けだから。

133 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:35:09.49 .net
>>127
記紀であろうと魏志倭人伝であろうと、歴史資料を読むときには文献批判が必要である。考古学的な出土事実や同時代資料との比較によって読まなければならない。史料批判、文献批判の作業をチェリーピッキングなどと言って憚らないのが邪馬台国九州説なのである。

134 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:37:01.03 .net
方位も距離も無視する畿内説

135 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:40:00.30 .net
>>134
方位、距離が正しいとするとインドネシアなんだからその時点で方位、距離が虚偽であることが確定するでしょ。
そうしたら行程記事で残るのは日数記事だけでしょ。

136 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:40:34.79 .net
現在は正確な地図があって、地図を見て考えるが、昔は見聞があって大まかな地図ができる。
と思うが

137 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:42:01.78 .net
畿内説擁護と九州説擁護が数分の間隔で掛け合い漫才のようにやりとりをしている
よくも、同じようなキャラクターがその時間に待ち合わせたのかように現れるものだ
口調もよく似ている
これらは同一人物なんだろう

138 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:44:11.96 .net
>>135
日数だけでたどり着けると思うのはアホですね

139 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:48:06.05 .net
>>138
たどり着けるかどうかは関係ない。観光ガイドじゃないんだから。

140 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 09:54:14.90 .net
たどり着く事は重要だ、贈り物をもって行ってるのだから

141 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:19:21.29 .net
日の出る方角を「南」と勘違いするレベルだと辿り着けないなw

142 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:19:24.22 .net
>>133
畿内説の場合は文献批判ではなく文献否定、文献無視、文献拒否だろ

143 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:20:51.71 .net
>>141
そんな奴は帰国も出来ないだろ
行ったきり行方不明になる

144 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:22:01.59 .net
>>142
などと理由も
何も言わずにただ誹謗するのは
九州説が議論で惨敗しているという証拠

145 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:23:21.66 .net
つまり残っている記録は無事に帰国した使者の記録であり、距離はともかく方角はおよそ正しいという事だ

146 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:23:23.36 .net
邪馬台国が「やまと」と読めるから畿内だーってか
それだと筑後山門(やまと)も候補になるじゃん

147 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:24:23.08 .net
>>144
文献の何処に畿内だと書いてあるんだ?
証拠を添えて提示せよ

148 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:25:32.48 .net
>>131
>会稽東は陳寿がそう思ったってだけの事

つまり陳寿がそういうつもりで書いたんだから
違うふうに解釈するのは我流のマチガイ解釈ってことだ

ということは、九州説が不正解ってことで確定なんだ

149 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:27:38.91 .net
>>147
>文献の何処に畿内だと書いてあるんだ?
>証拠を添えて提示せよ

「文献に畿内だと書いてある」と言っていない相手に
そんなこと問うのは

あなたの知能が極度に低いって証拠だよ

w

150 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:29:06.79 .net
>>148
ますます畿内はノーチャンスだな

151 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:29:38.66 .net
>>146
>邪馬台国が「やまと(乙)」と読めるから畿内だーってなら
>それだと筑後山門(やまと(甲))は候補として失格

152 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:29:57.39 .net
九州弁で語尾に「〜タイ」と付けるのは邪馬台国民だった名残りよ
タイと付ける基準が曖昧で地元民以外は上手く使いこなせない謎

153 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:30:37.44 .net
つまり畿内説はみんなの想像する以上に頭が悪い

>149:日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:27:38.91
>>>147
>>文献の何処に畿内だと書いてあるんだ?
>>証拠を添えて提示せよ
>
>「文献に畿内だと書いてある」と言っていない相手に
>そんなこと問うのは
>
>あなたの知能が極度に低いって証拠だよ
>
>w

154 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:32:11.07 .net
>>153
纏向を採用するくらいだもんな

155 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:32:48.25 .net
纏向と断定しないで
畿内のどこかだろうとぼかしておけばよかったのに

156 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:42:07.59 .net
理由も言えない九州説信者は
極度に知能が低い


w

157 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:42:30.44 .net
>>155
九州説はずっとそれをやって卑弥呼の墓も特定できずに滅びていきましたね

158 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:45:14.04 .net
だって遺跡ないもんね、九州

159 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:46:19.08 .net
畿内には魏志倭人伝と位置や遺物が整合する遺跡が一つも存在しない

160 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:48:01.49 .net
初期ヤマト王権は銅鏡を国産化し三角縁神獣鏡という大陸にはない独自の鏡を作った

倭面土国王帥升や邪馬台国女王卑弥呼が率いた北部九州倭国は、大陸と密接に交流するグローバルなカルチャーで中華帝国からの冊封や舶載鏡をありがたがったが、内陸にあって大陸との交流を殆ど持たなかったヤマト王権は、ナショナリズム的性格を強く持って大陸にはない巨大前方後円墳や仿製鏡の製造を積極的に行った

後の日本国としての独立とアイデンティティ醸成のためには、日本列島をヤマト王権が統一したことは良かったと私は思っている
考古学界は、纒向遺跡に関して根拠も説得力もまるでない邪馬台国の遺跡だという荒唐無稽な主張を速やかに捨て、堂々とヤマト王権の遺跡だと主張すべきだろう

実際、橿考研青柳所長の
「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」
という発言は、近年は纒向=邪馬台国の畿内説一辺倒だった考古学界が、邪馬台国と纏向を切り離して考え始めていることを示しているように思われる

161 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:51:41.86 .net
神話の時代のモモソを実在としてみたり
発掘しない箸墓の被葬者を卑弥呼としてみたり
考古学からみてこういった行為はどうなんですかね?

162 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:51:43.24 .net
>>153
そもそも順番が違う。
3世紀から古墳時代が始まってましたねっていう考古学的な出土事実がまずあって、
さて魏志倭人伝をみるとちょうど同じ頃に邪馬台国とか女王とかの記述がある。じゃあおそらくこの遺跡はそれでしょうね、ということであって、そもそも魏志倭人伝から出発してない。違うなら魏志倭人伝が嘘だったんだね以上終了で終わりなんですよ。

163 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:52:18.04 .net
>>160は妄想

「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」
これ、畿内説の典型的な主張だから
考古学界は纒向=邪馬台国の畿内説一辺倒

164 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:53:16.47 .net
卑弥呼の邪馬臺国と連合国は倭国大乱よりも前の時代からずっと続いてるわけだが

165 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:53:34.97 .net
あ、いや
纒向=邪馬台国
という説は実在してないな

これも>>160の妄想

166 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 10:54:32.92 .net
>>163
青柳に電話して真意を聞いてみればいいよ

167 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:13:53.47 .net
>>163
君の解釈がいつも通りご都合主義で間違っている
青柳発言は外形的には畿内説と九州説に中立だ
そして近年さしたる根拠もないままに畿内説ゴリ押しが異常だった考古学界から、このように中立的で穏当な見解が出てきたのは画期的だ

168 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:15:29.12 .net
>>167
>青柳発言は外形的には畿内説と九州説に中立だ

それ、妄想
桜井茶臼山が三世紀の古墳だって明言してるでしょ

169 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:16:49.38 .net
>>168
それは君特有のご都合主義だ
世間一般では通用しない

170 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:19:24.44 .net
>>164
都合の悪いものはスルー

171 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:20:38.27 .net
>>167
考古学のこと何も知らないのに
「さしたる根拠もないままに畿内説ゴリ押しが異常だった考古学界」
なんて言っちゃう九州説のオワコンぶりが痛々しい

172 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:22:20.72 .net
>>169
>それは君特有のご都合主義だ
>世間一般では通用しない

なにひとつ理由を言わずに決めつける九州説の特徴は
知的レベルの低さを雄弁に物語る

173 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:22:38.28 .net
邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、
邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった

邪馬台国が奈良盆地にあったとは言っていない
10年前に比べて自信がなくなったのか、当然のことで言わなくてもいいと
思ったのかわからない

174 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:25:35.85 .net
ヤマト政権=邪馬台国?
ないな
仮にそうなら偉大な女王や魏との交流を知ってたはずだし
女帝の続いた奈良時代に編纂された記紀にも記載して正当性をアピールするだろう

175 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:26:07.38 .net
>>161
>神話の時代のモモソを実在としてみたり

畿内説の主張じゃないな

>発掘しない箸墓の被葬者を卑弥呼としてみたり

調査で判明してる範囲の情報で十分に推定できることなので問題ない

176 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:27:28.76 .net
>>174
>女帝の続いた奈良時代に編纂された記紀にも記載して正当性をアピールするだろう

しない
中国に朝貢した事実が国是に反するから

177 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:28:01.41 .net
>>171
まともな考古学者とはまるで違うことしか言わない考古学のド素人が偉そうに

178 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:29:04.20 .net
>>162
違うな

魏志倭人伝の卑弥呼時代は3世紀だから古墳時代が3世紀に始まった事にしました
だろ
考古学的に古墳時代の形成は2世紀の東日本の前方後方墳で始まっており纏向メクリ1号墳も前方後方墳だ
高尾山古墳は纏向より古い時代の前方後方墳であり、それを認め無い発言をしているのは寺澤はじめ畿内説に固執した金魚のフンだけだ

179 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:30:39.09 .net
>>175
>調査で判明してる範囲の情報で十分に推定できることなので問題ない

全く推定出来ないが何を根拠に言ってんだ?
まさか歴博の問題発言か?w

180 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:30:55.69 .net
>>173
邪馬台国はしょぼい印象しかない
武力で平定したのではなく共立で連合体にしただけの国
あげくに狗奴国に攻め込まれて魏に助けてもらう
長期の対立は拮抗するから成立する
複数の国で集まってやっと狗奴国ひとつのレベル

ヤマト政権みたいな強い王権がそんなにしょぼいはずがない
こいつらを平定した側だろう

181 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:31:36.39 .net
古墳時代(こふんじだい)とは、日本の歴史における弥生時代に続く考古学上の時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代、3世紀中頃から7世紀末を指す。

なのだそうです。

182 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:37:32.38 .net
古墳時代、元年は無いだろう

183 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:41:22.01 .net
>>175
>>発掘しない箸墓の被葬者を卑弥呼としてみたり
>調査で判明してる範囲の情報で十分に推定できることなので問題ない
推定してる論文を複数提示してください

184 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:43:10.79 .net
>>181
>弥生時代に続く

そこが馬鹿学者と呼ばれる所以

列島は連続した1系統の歴史しか無いと思ってるんだろう

呆れるほどの世間知らずだw

185 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:47:43.04 .net
>>184
学者が考えやすいから分けたのではないのかな?
知らんけど

186 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:48:48.96 .net
他の分野の研究によれば古代日本列島には多数の民族、文化、言語が並行して存在していた
もちろん小規模な国家レベルでな
そしてそれらが時代と共に統合されたというわけでも無いそうだ

187 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:51:05.08 .net
倭人伝は魏時に派遣した2回の魏使の説明報告を中心に書かれた。
倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

240年梯儁は、朝貢の返使で皇帝の使いとして、卑弥呼の王宮まで金印を届けた。
これは238年に半島を奇襲した魏にとって初めての韓西岸行軍、探検だった。
皇帝の軍隊として詔書返礼品金印をもって、東夷を軍船で渡航した。
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩

247年帳政は、太守弓遵が戦死した、韓制圧戦での
其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授
のあと、卑弥呼軍の戦況の調査のため
其八年 太守王頎到官
倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
で、遣倭使、載斯烏越の帰国船に便乗して伊都までやってきた。

この時の從 郡至倭 の報告の引用が以下〜東行 至不彌國 百里迄 の里程文である。
丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐は、伊都までだった理由。
報告としては
使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾
と 
卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定 政等 以 檄告喩 壹與
がある。

188 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:52:28.67 .net
日本列島全域で一斉に変わっているのではないだろうけどね

189 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 11:56:35.49 .net
倭人伝が魏時二回の郡使の記録
の引用であることは、陳寿自身が自慢している。

陳寿は、東遺伝序文では

東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀

と、倭、韓の所属国名を詳紀できたことを、

倭人伝評曰で、

使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

と、この二回魏使の記録を
後世に残せたことを自己評価している。

190 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:04:02.72 .net
鉄器文化ですら数百年かかってもこの浸透具合だからな

後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
つまり弥生時代の鉄器共有地域=邪馬臺連合国ってことよ
【魏志より】
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代に栄えていた鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

191 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:07:22.23 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

192 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:07:50.04 .net
その資料、オワコン

193 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:09:00.17 .net
淡路島に五斗長垣内遺跡がある

194 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:20:21.21 .net
つまり畿内説は妄想で始まり妄想に終わったオワコンでしたと

195 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:21:43.27 .net
>>183
>推定してる論文を複数提示してください

説明してほしきゃ、するけど?
論文教えてやる義理はないな

196 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/07(木) 12:28:18.96 .net
淡路島の五斗長垣内遺跡を見れば大規模な鉄器工房が畿内にあったと分かるのにな
ネトウヨの理屈は統一教会と日本会議理論だからな

197 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:36:36.95 .net
>>195
なんだ論文だせないのか

198 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:41:16.89 .net
>>197
妄想だから

199 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:50:19.97 .net
>>184
>そこが馬鹿学者と呼ばれる所以

そんなこと学者が知らんと思ってるアンタの脳が心配だ

200 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:51:55.25 .net
>>197
>なんだ論文だせないのか

いや、いつまでも九州説信者が無知でいた方が楽しいからだろ

201 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:55:32.42 .net
イャマダ国は讃岐にあった。

202 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:57:32.76 .net
>>196
淡路島は畿内じゃないぞ。 「阿波」だ。   @阿波

203 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 13:09:51.30 .net
>>202
アホか?淡路島は淡路国、阿波だった事はかつて一度も無いぞ。

204 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 13:16:52.23 .net
つまり畿内説には根拠がありませんよと


>200:日本@名無史さん:2024/03/07(木) 12:51:55.25
>>>197
>>なんだ論文だせないのか
>
>いや、いつまでも九州説信者が無知でいた方が楽しいからだろ

205 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 13:22:05.16 .net
メクリ1号墳も高尾山古墳も3世紀

206 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 13:34:51.54 .net
>>204
>つまり畿内説には根拠がありませんよと

非論理的な妄想しかできないんだな九州説は
一度でいいから筋の通った話してみろよ

なんで突然そんな結論が飛び出すのか自分の口で説明できないって
あたま悪すぎだろ

207 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 13:36:21.57 .net
纏向は大陸との交渉を示す出土品があまりないのが厳しいところですね
九州との関係も希薄
伊勢や尾張とは関係は深い
楼観や城柵の跡はまだ発見されていない

今のところ邪馬台国と結びつけるものは一つもない
金印や、それが捺された封泥が発見されるまで待つしかないようですね

208 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 13:39:27.96 .net
畿内の纏向と筑前博多は葬制を共有する密接な交流関係
博多の首長墓と九州との交流はほぼ無い

209 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 13:49:00.59 .net
>>208
お前いつもコレばかり言ってるがそんな証拠は何も無い
学者もそんな事言ってないぞ?

>畿内の纏向と筑前博多は葬制を共有する密接な交流関係

210 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 13:56:50.53 .net
>>209

まだ九州ではどこも前方後円墳を造っていない3世紀前半に
博多に纏向と同じ特異な墳形の墓を造っているという事実だから

「〜これらの全ての事象は、「博多湾貿易」の成立を示すものである。
この交易機構の成立は、西日本広域との交易網を背景とした、
「奴国」の勢力と初期ヤマト政権の特殊な関係性によるものであろう。
「博多湾貿易」の成立にみる交易機構の革新により、
西日本各地の勢力が「伊都国」中枢を経由せずに
対外交易を行うことが可能になったと考えられる。」 久住

211 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:02:29.74 .net
>>203
読んで字のごとく、淡路島は「阿波」の島。 畿内など微塵も無い。   @阿波

212 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:02:48.48 .net
3世紀の北部九州には前方後円墳もあれば焼ノ峠の前方後方墳もある

墓制統一説は松木が何となくそう思うとテレビで語っただけ

つまり畿内説独自の妄想であり拡散すればデマの流布という犯罪ですよと

213 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:06:59.99 .net
那珂八幡古墳(86m)の半分以下の規模の焼ノ峠古墳(38.8m)は3世紀後半
前方後方墳は九州では非常に少ない

214 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:11:25.72 .net
卑弥呼の墓には殉葬者100余人ということなのですが、箸墓には殉葬跡はあるのですか?

日本の古墳全般に殉葬ってあまり聞いたことない、と言うか馴染まない感じがありますね。

215 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:14:18.76 .net
日本では殉葬墓は見つかっていない

216 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:36:31.79 .net
つまり畿内説は韓国式霊感商法詐欺そのものでしたと

217 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:39:47.40 .net
>>211
そりゃぁ畿内基準の視点で、阿波へ至る路という意味は有るが、
阿波そのもので無いのは明白な事実。

勝手な空想はやめましょう。

218 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:41:49.48 .net
>>207
>九州との関係も希薄

それ、マチガイ
IIb期の博多が畿内の飛び地もかくやという状況なので、濃厚

>楼観や城柵の跡はまだ発見されていない

大型建物Bは楼観に相当、建物群の外側は柵列で囲まれて水垣を成しており城柵と呼べる

>今のところ邪馬台国と結びつけるものは一つもない

という根拠なし

219 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:43:32.45 .net
まるで慰安婦をでっちあげる韓国人みたいな言い回しw

>218:日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:41:49.48
>>>207
>>九州との関係も希薄
>
>それ、マチガイ
>IIb期の博多が畿内の飛び地もかくやという状況なので、濃厚
>
>>楼観や城柵の跡はまだ発見されていない
>
>大型建物Bは楼観に相当、建物群の外側は柵列で囲まれて水垣を成しており城柵と呼べる
>
>>今のところ邪馬台国と結びつけるものは一つもない
>
>という根拠なし

220 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:43:42.54 .net
>>214
>卑弥呼の墓には殉葬者100余人ということなのですが、箸墓には殉葬跡はあるのですか?

墳丘に殉葬者を埋葬したなどと倭人伝には書かれていないので問題にならない

221 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:44:48.19 .net
卑弥呼は倭国乱の後に「共立」されたとのこと
一人では立てなかったと言うことは、突出した勢力の出身ではなかったんですね
国連事務総長のように、弱小国出身だったのでしょうね
基盤が脆弱で、リーダーシップ皆無、カリスマ性なし、不安定な運営
諸大国の顔をうかがう、ただのお神輿のおばあちゃんのイメージ
すぐ死んで、子孫がいないから共立されたんだな

222 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:45:33.01 .net
>>219
九州説信者の言動は反日教育を受けた韓国の人によく似ているよ

223 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:48:03.58 .net
>>221
個人的な印象論は他人に通用しない

224 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:53:52.21 .net
後漢書に書いてあるように、後漢時代ですでに邪馬台国は代々王を継ぐ30国からなる事が記されており、大倭王が邪馬臺に住んでいたと書いてある
この後継が卑弥呼女王である
魏志には邪馬台国は7万戸と記されているので後漢時代ですでに大きな勢力だったことがわかるが倭国大乱により衰退し、女王を共立する事で再建を試みたものと考えられる
他の史書によれば卑弥呼時代に倭国で飢饉が発生したとも記録されている
3世紀中頃には狗奴国に戦争を仕掛けられるほど衰退し、滅びたのかもしれない

畿内にはこれら受難の時代を示す遺跡などの痕跡は無い
邪馬台国があたかも3世紀に突如として現れ、栄えた国であるかのように印象操作している畿内説は霊感商法詐欺なのでご注意ください

225 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:54:04.31 .net
>>214
ない
九州だと祇園山古墳が殉葬100ある計算
殉葬以外にも箸墓の工期が数年とかかかるから張政の帰国に間に合わない
昔は張政は長く止まったとされていたが中国側の記録で短いと特定されたので纏向はもう無理

226 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:55:43.09 .net
楽浪郡から12000里*434メートルはパプアニューギニア
当時の中国には正確な直線距離を測る技術があったのだろう

227 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 14:59:13.88 .net
>>217
碌に鉄器さえも作れない畿内は勝手な空想はやめましょう。    @阿波

228 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:00:36.77 .net
1里432メートルで帯方郡から水行7000里するとhttps://i.imgur.com/8dM0B0s.jpeg

229 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:16:32.28 .net
曹操が薄葬令を、出してたはず。
親魏倭王の墓も、こじんまりした小さな塚だったろう。
前方後円墳の如き、みっともない、田舎者丸出しの、
醜悪な墓であろうはずもない。

230 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:18:32.60 .net
>>228
違う
南に直線距離で12000里を測ってみなよ
パプアニューギニアだから(ジャワ島も捨てがたいが)

231 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:24:24.01 .net
>>230
どっちも言いたい事は同じ

232 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:25:50.98 .net
>>229
>曹操が薄葬令を、出してたはず。

州牧としての発布だから州外の倭国はまったく無関係

233 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:31:33.80 .net
>>215
>九州だと祇園山古墳が殉葬100ある計算

妄想
須恵器も出てる共同墓地だ

>中国側の記録で短いと特定されたので纏向はもう無理

そんな特定はされてないので九州説が無理
魏の使者が直接見聞できる場所なのに径百余歩の墓はなく殉葬者もいないんだから

234 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:32:50.51 .net
>>231
>どっちも言いたい事は同じ

つまり、どっちも薄らばか

235 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:38:04.87 .net
>>234
倭人伝の1里が432メートルだと思っている畿内説はリアル馬鹿

236 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:42:38.83 .net
朝貢してんのに皇帝より立派な墓を使者に見せるとか
邪馬台国はお茶目だね

237 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:44:39.38 .net
そうだね
倭国は倭種の中でも中国と交流が深いので
ヒミコの墓も中国式で当時最先端のスタイリッシュなものだったと思うよ。
国際的な基準から見ても恥ずかしくないような墓。
楽浪郡辺りにある墓を見ればいいんじゃないか。
殉葬ってのも陳寿の嘘で、ヒミコに仕えた人々の集団墓だっただけ。

238 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:46:31.69 .net
陳寿が嘘ついてんのやっと認めたか

239 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 15:55:47.21 .net
やっぱり陳寿が嘘つきで畿内さんが正しかったのね

240 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 16:02:11.24 .net
自作自演乙

241 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 16:28:09.24 .net
>>235
>倭人伝の1里が432メートルだと思っている畿内説はリアル馬鹿

理由が言えず罵るだけな九州説は
ほぼ白痴

242 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 16:32:22.14 .net
畿内説は算数も出来ないバカ

243 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 16:32:45.80 .net
木花咲耶姫は富士山に祀られているが常陸国風土記に福慈神の話がある 
富士山の麓の駿河国風土記には神女降臨神話が残っているね
弥生時代後期には摂津の玉津田中遺跡の鳥形と同じ鳥形の集落が複数富士山の麓に登場する
田のある田園風景の集落

福慈神の親神の神祖神は旅をする神さまで、蘇民将来によく似た話が残っている

古老が言うには、昔 神祖尊(ミオヤノミコト)という神がいた(富士・筑波の2神の親神である)。

この神が諸神の居処を巡行した際、駿河国の福慈岳(富士山)に到った時に日が暮れたので、福慈神(フジノカミ)に宿を乞うた。その時、福慈神は「今は新嘗祭のために家内で物忌をしています。今日のところはどうかお帰り下さい」と言って断った。これを恨んだ神祖尊は泣きながら「お前の親だというのに、どうして宿を貸さないのか。お前の治める山は生きている限り、冬も夏も 雪が降り 霜が降りるほど 重ねて寒さが襲い、人が登らなくなって飲食物を供えなくなるだろう」と罵った。

それから神祖尊が筑波岳(つくばのやま)に登った時に また宿を乞うた。その時、筑波神は「今夜は新嘗祭ではありますが、敢えて尊を断ることもないでしょう」と言い、敬い拝み謹んで饗した。これに神祖尊は歓んで「愛しき我が胤(子孫)よ、高い神宮は天地に並び日月共々に人々が集い、飲食物も豊かで代々絶えること無く、日に日に栄えて 千秋万歳(永遠)に遊楽が尽きないだろう」と言った。

244 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 16:39:45.32 .net
>>235
1里は432mである

245 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 16:39:53.28 .net
>>239
陳寿が嘘つきってw
陳寿は残っていたデータをつぎはぎしてまとめただけやろ
漢の時代の情報も混ざっていて1人で書いたものとは思えない、ということは中国の学者もテレビで言っていたやないか

246 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 16:48:25.37 .net
>>245
中国の学者って肩書きだけの三流だろ
言ってることデタラメだもの

247 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 16:53:06.60 .net
>>246
自分の考えと相容れないやつはみんな三流のアホ扱いかよw
お前はそんなに偉い奴なんか?

248 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 16:55:04.29 .net
中国の魏晋南北朝史学会の副会長とかも出てきとっただろ?
どの程度の権威のある学会なのかは知らんけど

249 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:07:53.26 .net
>>246
中国の史書を中国の学者が解釈したものより、畿内説という日本の底辺が自己流勝手解釈したものを信じる宗教ですかw

250 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:07:57.22 .net
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝前半部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する

251 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:10:07.76 .net
>>221

卑弥呼の弟が国を治めるのを佐けているので
卑弥呼の一族が中心となった共立政権

252 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:11:06.18 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

253 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:17:30.52 .net
>>246
畿内説だが、陳長崎先生は一流の学者である
魏志倭人伝がツギハギであることは畿内説でも明白である

254 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:26:55.75 .net
陳長崎(中国魏晋南北朝史学会副会長)の見解は、
「一つの完成した史料とは言えず
部分部分で内容が矛盾している」ということなので、
倭人伝だけを根拠に邪馬台国の比定をすることはできない
日本の考古学研究成果も基づいた通説が畿内説

255 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:27:24.75 .net
中国魏晋南北朝歴史学会

中国魏晋南北朝歴史学会は民政部の認可を受けた国家一級学会で、現在魏晋南北朝の歴史を研究する専門家や学者を中心に300名以上の会員が所属しています。この学会は 中国社会科学院 に所属しており、同学会の科学研究局によって運営されており、事務局は 中国社会科学院歴史研究所 にあります。
https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%AD%8F%E6%99%8B%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E4%BC%9A?fromModule=lemma_search-box

256 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:30:28.73 .net

中国魏晋南北朝史学会だった

257 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/07(木) 17:34:42.56 .net
安倍晋三を支持していた統一教会や日本会議の主張する倭人縄文末裔説や反アイヌ主義や邪馬台国九州説や任那日本府説や在日韓国人ヘイトなどは完全論破しておかねばならない

オレは九州や吉備の倭王が畿内に移動して邪馬台を建国しそれが卑弥呼即位だと考えるがネトウヨは邪馬台国がヤマト王権だと日本が中華に朝貢した事になるからと歴史を修正しようとしている

アベ支持者は社会の底辺だらけだからな

258 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:38:52.92 .net
>>244
郡から末盧国の1万里と1里432メートルは整合しない

259 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:41:07.93 .net
中国が方万里の地理的世界観(尚書禹貢)だから
陳寿が描いている地理はGoogleマップとは違う

260 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:43:13.46 .net
>>254
陳先生によれば
「邪馬台国の場所は九州が理にかなっている」

261 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:44:27.50 .net
陳先生は東遷説も支持しているな

262 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:48:51.75 .net
>>260

内容が矛盾している史料内容で理にかなっていても無意味
バラエティ番組なので九州説の立場で出演料をもらっている

263 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:49:28.26 .net
>>262
妄想乙

264 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:51:53.42 .net
>>262

「諸説あり」はBS-TBSのバラエティ番組

265 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:51:55.90 .net
桜井市や奈良県からの公金にぶら下がっている日本の考古学関係者以外の誰が見ても合理的なのは九州説
もちろんそれを理解するには前提としてある程度の知能は必要だが

266 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:53:40.14 .net
>>262
中国人の高名な学者の解釈より自分達の解釈の方が正しいって、どんだけ思い上がってんのよw

267 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:55:49.89 .net
>>265

畿内説は日本の学者の通説なので
ほとんどの畿内説の学者は桜井市や奈良県の公金とは無関係

268 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:58:42.34 .net
>>266

陳長崎(中国魏晋南北朝史学会副会長)の解釈は
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない
魏よりも古い漢代の史実が混在している
一つの完成した史料とは言えず
部分部分で内容が矛盾している
一人の人物が書いたものではない」

269 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 17:59:16.80 .net
>>267
殆どが公金と無関係は言い過ぎ
特に桜井市教育委員会学芸員の君は全くニュートラルな立場ではないでしょ
そんな奴のポジショントークが畿内説だ
だから畿内説をよくよく調べると合理的根拠がまるでない

270 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:02:23.14 .net
畿内説が根拠とする前方後円墳、三角縁神獣鏡、桃の種、ベニバナ。。
何れも魏志倭人伝には一言も書かれていないので、これらは邪馬台国の根拠には理論的になり得ない
(場所や後世との連続性から考えて初期ヤマト王権の祭祀や権力の物証にはなり得る)

畿内説論者は土器編年をこねくり回して邪馬台国の根拠にしようとするが、そもそも纒向の外来土器は基本的に吉備以東(吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%、阿讃播8%)で北部九州のものは殆どない
これでは伊都国に一大率を置き奴国や不弥国を勢力範囲としたはずの畿内説はまるで成り立たない
彼らは土器の一体何を見ているのか

魏志倭人伝との整合を考えないから畿内説論者は頓珍漢な主張ばかりするのだ 
彼らが邪馬台国の根拠だと主張するものは全て初期ヤマト王権の根拠であり、邪馬台国の根拠になり得るもの(=魏志倭人伝の記述と整合するもの)はびっくりするほど何もない

邪馬台国の真実は魏志倭人伝などの文献と考古学が総合的に整合する所にのみ存在する

271 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:03:07.09 .net
>>269

「公金と無関係」ではなくて
「ほとんどの畿内説の学者は桜井市や奈良県の公金とは無関係」
俺は桜井市教育委員の学芸員をしたこともないし、
>>1でもない

272 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:03:48.57 .net
>>271
ああ、キナイコシじゃなかったか
それは失礼した

273 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:05:07.67 .net
>>272
いや、>>271はキナイコシだよw

274 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:07:55.71 .net
桜井市は「卑弥呼の里」を掲げてふるさと納税を集めている
その資金使途の1番目に纒向遺跡の調査研究・保存活用が挙げられている

https://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/soumu/zeimuka/sakurai_furusato/index.htm

桜井市は畿内説を旗印に日本国民からお金を集めている
また同様の名目で国や県からもお金を引っ張ってきている可能性がある

考古学界が不自然なほど脆弱な根拠で纒向が邪馬台国と言い張るカラクリがこのあたりにありそうだ

これで学問と言えるのだろうか

275 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:10:15.36 .net
>>268
>陳長崎(中国魏晋南北朝史学会副会長)の解釈は

間違いだらけ
実力ないな

276 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:11:41.61 .net
とりあえず、ただの湿原だと判明した詐欺遺跡は、教科書から削除しような

考古学を重視するなら異論は無いはずだ

277 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:12:33.35 .net
桜井市纒向学研究センター長の寺沢は、自身で畿内説の中でも異端と言っている
桜井市がどこからお金を集めて使おうが
通説畿内説には影響しない

278 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:12:52.79 .net
>>274
このように
九州説は中傷専門

279 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:16:56.96 .net
>>267
>畿内説は日本の学者の通説なので

碌に鉄器さえも作れない畿内説がか?   @阿波

280 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:17:51.34 .net
>>278
君が適任だ

纏向遺跡で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記してください。
こないだの奴は、記述にないものも憶測で入れてたけど、憶測はダメですぞ。

281 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:19:02.26 .net
ろくに鉄が出てこない纏向が首都のわけないわ
現代の東京だって市ヶ谷に陸上自衛隊の駐屯地あるくらいなのに

282 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:21:29.18 .net
おーーい
>>奥山
ええ加減にせーーーよ

お前ひとりで、どんだけ下らんレスすんだ。

長いテンプレと数行書き込みでスレ全体の2割以上消化してるぞ。

読みにくくてしょうがない

283 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:22:44.13 .net
>>258
だから短里で測ったんだと九州説のあなたは主張したいわけですよね?

284 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:24:51.28 .net
>>270
ベニバナが九州で出土しないのであれば、それは纒向が直接中国と交流したことを示す

285 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:32:19.71 .net
>>269
それは素人の考え
考古学を勉強すると、畿内説以外は成立し得ないことが明らかである
また、理化学的年代測定からも畿内説以外は成立し得ない

考古を学んで畿内説を否定する場合、土器編年や理化学的年代測定に誤りがあったと主張せざるを得ない
これを否定することは文系である考古学者には不可能であるから、理系の学者に「誤りである」ことを証明してもらうしかない

考古学者は決してポジショントークをしているわけではないのである

286 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:33:36.32 .net
>>262
私は畿内説だが、貴殿の考えには全く賛同しかねる

287 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:34:17.70 .net
>>285
>考古学を勉強すると、畿内説以外は成立し得ないことが明らかである

碌に鉄器さえも作れない畿内説がか?   @阿波

288 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:39:28.49 .net
つまり畿内説とは、中国史書についての中国の学者による解釈をデタラメだと一蹴し、日本の底辺の寄せ集めである考古学会による自己流勝手解釈を重んじるという宗教ですよと

289 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:40:06.02 .net
>>286
理由を言わないのは九州説の特徴

290 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:41:19.60 .net
>>281
鉄は出てくる
九州説は、「それはその時代の鉄じゃない」と言い張っているだけ

291 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:42:56.99 .net
>>290
>鉄は出てくる

「阿波」のな。   @阿波

292 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 18:45:05.05 .net
>>289
あなたは魏晋南北朝史学会の副会長より、魏晋南北朝の文献を読み込んだ自信はありますか?
私は絶対に魏晋南北朝史学会副会長の陳長崎先生より、魏晋南北朝の文献を読んでない
1%にも満たないでしょう
したがって、陳長崎先生の主張は正しいと考えざるを得ない

ただし、陳長崎先生は考古学を全くやっておられないので北部九州説になっている
その点は仕方ない
日本の考古学者がきちんと説明をすれば、畿内説しか成立し得ないことは理解できるはずだ

293 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 19:02:46.99 .net
年輪年代法のあの全く訳の分からない数式を見て、「はいこの数式は間違いですね。よって年輪年代法は破綻している」と述べられる者だけが、年輪年代法が破綻していると言うことができる
あれが数3レベルなのか、東大入試レベルなのか、大学数学レベルなのかさえ私には分からない

294 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 19:03:39.60 .net
纒向邪馬台国説を立証するには以下の二つが必要
⓵纏向の時代が卑弥呼の時代と被っていること
②金印や封泥のような物証が出てくるか、そうでなければ同時代の遺跡の中で纏向が魏志倭人伝に記述された倭国や邪馬台国の様子と最も合致すること

考古学界は炭素14年代法の測定結果などを古い方に目一杯ストレッチさせながら⓵の証明に躍起になってきた
しかしながら②については、魏志倭人伝の記述との整合性を何ら指摘できず、苦し紛れに
「纏向の墓が一番大きいから列島で一番強大な権力」
⇒「だから列島を代表して魏に朝貢したはず」
などという極めて非学問的で雑な論理に終始している
また①の証明だけで足りると勘違いしている頭の悪い畿内説論者も少なくない(このスレにも先程いた)

魏志倭人伝の記述と纏向遺跡の発掘結果があまりに大きく掛け離れていることは畿内説にとって致命的だ
奈良県や桜井市の公金が欲しい考古学界がどんなに「畿内説が通説だ」などと徒党を組んで強弁しようとも、②が成立しない限り畿内説が邪馬台国論争の中で説得力を持つことはない

纒向を調査した結果、邪馬台国らしいものや大陸との交流の痕跡(銅鏡・鉄器・楽浪土器・硯など)が何も出土せず、魏志倭人伝の倭国・邪馬台国とは別の国であることがはっきりしつつある
纒向=邪馬台国だとする関西考古学界の強弁ももはや限界に来ているだろう

295 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 19:09:10.55 .net
>>294
金印は証拠たり得ない
志賀島から漢委奴国王金印が出てきたが、志賀島に金印が下賜されたはずがない
あれは移動している

それと、歴史に詳しい人にお聞きしたい
確か、エジプト辺りの碑文がイランかアフガニスタンあたりで出てきたというのがありましたよね?
あれ、何でしたっけ?
博識な方、教えて下さい

296 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 19:13:56.05 .net
客観的に見て、纒向調査の進展で理論的に崩壊したのは畿内自生説だ

纒向調査を踏まえれば伊都国・奴国あたりの人間が初期ヤマト王権に関与した可能性が高く、邪馬台国の可能性は、
①北部九州や吉備から奈良盆地に入った勢力が関与した、あるいは北部九州から遷都したヤマト王権が魏志倭人伝の邪馬台国とする最近の畿内説、
②魏志倭人伝の邪馬台国は北部九州に留まり伊都国など別の北部九州勢力が吉備経由で奈良盆地に入りヤマト王権を作り、北部九州倭国と畿内ヤマト王権が並立したとする北部九州説、
の大きく二つに絞られるだろう

最近の考古学者は①の方向性が増えているが(寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄など)、私は②だと考える
その理由は主に以下の3つ
ⅰ)魏志倭人伝の描く倭国が2世紀初頭あたりから連続して続いていること(移転移動のニュアンスが皆無)
ⅱ)描かれた倭人のクニの様子や行程がどう見ても北部九州であること
ⅲ)纒向には大陸との交流の痕跡が全くないこと

297 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 19:14:02.50 .net
数式ってw

298 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 19:17:45.08 .net
>>297
見ましたか?

299 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 19:26:52.07 .net
Wikipediaより
ヤマト王権

ヤマト王権(ヤマトおうけん)は、古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オホキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日本の政治および軍事勢力。

大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼせ、
原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東・北陸・南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築した。

300 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 19:52:19.55 .net
つまり畿内説は印象操作で霊感商法詐欺を展開している学問テロ集団って事よ
考古学的通説は畿内説などと言ってるが、実際は畿内説が作った基準をベースとした考古学における通説だ
簡単に言うと今の考古学というのは畿内説が作った考古学なんだよ
だから畿内説が通説になるのは当たり前なんだよ
典型的低能の自作自演だw

301 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 20:18:52.99 .net
とりあえず、なーんも見つかってない遺跡を、教科書から削除しろよ

302 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 20:25:55.79 .net
畿内自生説か、反畿内自生説かを考えると、やや畿内自生説の方が有利と考える。
纒向からも九州系土器はわずかに出てくるが少なすぎる。
九州は常に半島・大陸と近かったことから、交易の観点からも国防の観点からも、本州には移住しなかったし、ヤマト王権からも「九州にいておけ。畿内には来るな」と命令されたはずだ。
むしろ、国防上も九州→本州への移住はなくても、本州→九州への移住はあったと考えるべきである。
したがって九州は、ヤマト王権の国防上の理由からも人口はかなり多かったと見なすべきである。
畿内の立場から言えば、九州は「捨て石」。※九州の人ごめんなさい。
すると、東征や東遷はなかったと考える方が自然である。

例えば、中国六朝時代、中国は外敵の侵入を防ぐ為に国境に兵力をより多く配置した。
しかし、これらの国境警備隊は中央よりも軍事力を持つので、後に野心を抱き、皇帝に禅譲を迫った。
これを、宋→斉→ 梁→陳と繰り返す。最後は北朝の隋が中国を統一する。

303 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 20:30:06.99 .net
https://www. amazon.co.jp/dp/4160901662/

304 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 20:36:01.06 .net
>>302のことからすれば、鉄などの武器はむしろ畿内より九州の方が多かったと推測できる。
畿内にはすぐ隣国に敵がいないが、九州にはすぐ近くに敵がいる。
今の日本の辺境たる沖縄に米軍が集中していることからも分かる。

したがって、古墳時代の鉄の数はあまりにも畿内が九州を圧倒・凌駕するので、半島や中国と戦う為の武器は九州の方が多かったとしても、
九州を傘下に置く畿内の王墓の副葬品の鉄数では、圧倒的に畿内が多くなるのである。

305 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 20:49:47.62 .net
>>300
日本の考古学が京都大学で生まれた点も付け加えたい

306 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:01:25.35 .net
邪馬台国
https://youtu.be/iFh7PRzD1xc

307 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:09:49.20 .net
>>304
>九州を傘下に置く畿内の王墓の副葬品の鉄数では、圧倒的に畿内が多くなるのである。

「阿波」のな。   @阿波

308 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:19:31.23 .net
>>302
その九州系土器ってどれの事言ってるのか調べても見つからねぇんだよな
纏向は時代によって地域別の土器の割合変わってるし、推定年代別に考えないとよくわからんよ
何れにしても九州の影響は殆ど無いと思う
誰か言ってたけど、貨泉でも出てくれないと中国との繋がりすら無い遺跡でしょ、あそこ

309 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:23:37.34 .net
>>308
つまり東遷説死亡

310 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:24:57.72 .net
畿内説の中の人も東遷説をとる人もいる。
東遷という言葉だからセンター(支配層)が移動することだろう。
卑弥呼共立前、共立後、卑弥呼死亡後、男王即位後、壹与共立後。
卑弥呼共立前に東遷を済ませていたなら、畿内説。
それ以降なら、九州説+東遷説。
という呼び方になるのかな?
九州説と畿内説を分けるのは東遷の時期をどこに持ってくるかにかかってくるのかね?

311 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:28:30.86 .net
>>310
それ、妄想

312 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:29:34.58 .net
つまり東遷説をとる学者は妄想狂ということか

313 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:32:34.75 .net
>>312
いや、>>310が妄想教

314 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:35:01.09 .net
東遷リーダーは吉備だったのかもね、後から九州が参加したか

315 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:38:10.20 .net
ある人は纏向遺跡と九州北部は交流がほとんどないと言う
ある人は九州北部の奴国と纏向遺跡は葬制を同じくする交流が深い、飛地とも言える関係と言う
一体どっちなんじゃい

316 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:39:18.29 .net
九州でも九州を南北に分けるように菊池川あたりから鉄鏃が大量に出土してんだよね
国防のために武器が多かったとするなら、北部九州を侵略されて戦っていたのかな

317 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:42:31.14 .net
東方拡大なら、平安時代の関東への平姓や源姓の入植をイメージすれば良いのだろうけど
東遷って言葉は分かりずらい
日本の歴史上ないからね

318 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:48:30.53 .net
東遷なら元いた場所と縁がなくなるだろw
北魏様の南遷を見習えwww

319 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:50:52.32 .net
>>317
東遷は明治時代に実質首都機能移転という例が有るじゃない。

320 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:54:29.11 .net
>>310
>九州説と畿内説を分けるのは東遷の時期をどこに持ってくるかにかかってくるのかね?

東遷説も畿内説も、寒村奈良湿地に溺れる。   @阿波

321 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 21:56:19.22 .net
>>316
>九州でも九州を南北に分けるように菊池川あたりから鉄鏃が大量に出土してんだよね

碌に鉄器さえも作れない菊池川あたりだけどな。   @阿波

322 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:04:03.07 .net
>>319
そうなんだ
その頃にはすでに江戸が日本の中心で
天皇が京都から江戸に引っ越しした程度に思っていたよ

323 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:05:53.44 .net
>>319
歴史は繰り返すっていうよね
天下統一した豊臣は貿易都市だった大阪で栄え、ナンバーツーだった徳川をど田舎の江戸に追いやった
徳川は江戸を繁栄させて豊臣を滅ぼし、江戸は大阪を抜いて1番の大都市になった

豊臣→巫女女王、大阪→北部九州
徳川→初代大王、江戸→畿内

って置き換えるとあら不思議

324 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:11:03.94 .net
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)

しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制や横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人の書く倭国乱に繋がったのであろう

北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)

しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)

私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える

タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう(欠史八代などを考慮すればタイミング1の可能性が高いか?)

初期のヤマト王権は北部九州でハブられた勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはその敵の勢力)

325 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:13:10.91 .net
畿内説のアナタへ

畿内説のアナタへ

倭人伝記述と合致する出土物を物証として語るべき。

倭人伝記述と合致する出土物を物証として語るべき。

畿内説は推理推測が多すぎて、真実が見えてこない

326 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:14:43.72 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






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327 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:15:24.40 .net
>>310
1世紀とかに九州北部勢が分裂して一部勢力だけが東遷してる可能性もある

328 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:17:08.67 .net
大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀〜3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、
山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼせ、
原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した

多くの考古学者は、畿内自生説で納得しているらしい
だとすると北九州の勢力がヤマトの勢力下にあっても、半独立状態であったことも
納得してもらいたい
この卑弥呼を中心とする半独立勢力が、独自にクヌコクと戦争したり、琉球のように
伝統により中国に朝貢したことを納得してもらいたい、政治的な同盟国家である
この国が卑弥呼を共立した邪馬台国であっても考古学上何の問題もない
魏使も実際に行かないので、ヤマトのことは別の倭種の国ぐらいの認識だったのだろう

329 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:17:52.20 .net
鶯姫伝説は古今集為家抄などにある話で駿河や浅間と関係が深いんだよな
殿方は鶯姫を手に入れることが出来ず、鶯姫を恋焦がれる思いが炎となり鶯姫の形見の鏡に乗り移るというストーリー

330 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:21:07.99 .net
>>327
>1世紀とかに九州北部勢が分裂して一部勢力だけが東遷してる可能性もある

どこへだ?   @阿波

331 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:21:39.27 .net
>>315
>ある人は纏向遺跡と九州北部は交流がほとんどないと言う
>ある人は九州北部の奴国と纏向遺跡は葬制を同じくする交流が深い、飛地とも言える関係と言う

もちろん前者が妄想で後者が史実

332 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:21:57.49 .net
鶯姫は欽明天皇や天武天皇の時代など何度も登場する
鶯姫の謎が解ければ謎の4世紀半ば5世紀初頭の変遷が見えてくるかもな

333 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:25:51.63 .net
4世紀後半で後々富士山浅間大社に関係してくる人物は武振熊か

334 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:27:49.54 .net
鶯塚古墳のある若草山の麓は和邇氏の本拠地だったところだな
和邇氏の祖は武振熊

335 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:33:56.85 .net
>>324
適当に話を作ってみた

卑弥呼には2人の弟がいた
北部九州は内部だけでなく、貿易ライバルだった出雲とも争っていて出雲を制圧していた
戦後処理で卑弥呼が共立されると、卑弥呼の末弟は出雲王室に婿入りして権力を引き継いだ
もう1人の弟は卑弥呼とともにまつりごとを行った
姉は太陽、弟は月の神様のように崇められた
卑弥呼を共立した国々の王、女王は卑弥呼の猶子となり、義兄弟のちぎりを結んだが、卑弥呼は伊都国の「息子」を特に信頼していた
狗奴国の背後となる狗奴国の東側の地域を制圧すると、信頼する伊都国の「息子」の子どもたちがその地の管理者となり
伊都国の聖地の名前から「日向」と名付けられた
卑弥呼が高齢になり後継者争いが起きると邪馬台国と日向の関係が悪くなり、日向は狗奴国から攻め込まれて滅びた
敗れた伊都国の一族は、邪馬台国や出雲と対立していた吉備へ亡命していく

336 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:39:13.35 .net
>>330
播磨

337 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:39:33.30 .net
木を切っていた男に出会った鶯姫は男に木を切らないでとお願いするのが出会いの話だ
武振熊は忍熊皇子を倒したんだよな

木花咲耶姫と鶯姫は富士山と縁がある
鶯姫は木花咲耶姫の末なんじゃないのか?
駿河国風土記にある駿河に降臨した神女は時代的に伊和大神と木花咲耶姫の娘か?
常陸国風土記によれば福慈神は新嘗祭をするから農耕と関係するんじゃないか
弥生時代後期に誕生する玉津田中遺跡と同じ形の鳥形が見つかった稲作の集落登呂遺跡と何か関係があるかもなあ

338 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:46:00.79 .net
鶯姫は東海と関係があり鶯姫に恋焦がれた男の思いが炎となり鏡に乗り移る
駿河国に降臨した神女は衣を漁師に奪われて夫婦となる
生まれた子は誰なのか?
東海の土器が大量に見つかる纏向遺跡にいた説が有力な鏡の卑弥呼と関係あるのかないのか興味深い

339 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:51:51.43 .net
卑弥呼の弟が難升米だよ
難升米は伊都国王でもある

340 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 22:51:56.39 .net
ごくろうさまです

341 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 23:11:22.36 .net
忍熊皇子は東国で兵を起こさせたんだよな
東国の筑波山には福慈神の兄弟或いは姉妹神がいたんだよな

和泉には弟橘姫を祀る宿院頓宮と住吉大社に関係する戻り湯の伝承がある
楠の元にやってきたが悪い奴らに海に捨て去られ、後に嵐を連れ大蛸に乗り戻ってきた堅い木でできたお地蔵さんの話もある
関東、武蔵国はは五十狭茅宿禰の同族、出雲臣が国造をしていた地だな

342 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 23:21:25.43 .net
とりあえず、中国の陳教授の説をベースに議論すべきだろうな
日本人が魏志倭人伝読んでもそもそもその解釈が間違っている可能性もある
文章を書く技法がまだ確立されていない時代に書かれたものを外国人が解釈するのは相当困難だろ

343 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 23:41:01.65 .net
つまり、邪馬台国は九州北部にあって、その後畿内に東遷したという説やね

344 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 23:48:25.93 .net
>>342
陳教授の説?
間違った説をベースになんかしたらトンデモまっしぐらだぞ

345 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 23:51:15.68 .net
先祖代々の本貫を捨てて
中国との政治的なつながりを捨てて
郡や朝鮮諸国との交易の利得を捨てて
半島南部での鉄資源へのアクセスの優位性を捨てて
何が悲しゅうてアズマエビスの纏向に引越しせなあかんの?
九州の寒冷化?阿蘇山大噴火?異民族の侵略?

346 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 23:52:27.12 .net
>>344
なんで間違っていると言える?
お前は中国の高明な学者の解釈より自分の解釈の方が正しいと言えるほど偉いのか?w

347 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 23:54:14.53 .net
>>345
西晋が滅びた後、華北は小国分立の時代に入った
当然、難民などもたくさん押し寄せてきただろう
そのため首都を畿内に移転したのではないかね?

348 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 23:55:45.57 .net
台湾大学の周教授は邪馬台国は伊都国の近くにあるはずだと言っているからね
北部九州におさまるよ
他の場所はありえない

349 :琪瑛教大祭酒:2024/03/07(木) 23:56:28.44 .net
無駄だな。列島の状況証拠から九州なぞありえない。
朴の影響地。それ以外の何物でも無い。
辰国分裂のピース

350 :日本@名無史さん:2024/03/07(木) 23:59:21.58 .net
初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉

この繰り返しか
何回同じ構図があったんやろな

351 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:04:55.26 .net
陳長崎教授も台湾大の周教授も東夷伝を読んで邪馬台国は九州だと言う。

でも日本の考古学者はそうじゃないと言う。
倭人伝中の方位や距離は出鱈目だと一顧だにしないのに
邪馬台国や卑弥呼は確かに存在したとする

352 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:05:17.76 .net
>>346
>なんで間違っていると言える?

実際間違ってるからだ
刺史が検察官で亡くなったことなどないのは陳寿が明記してるからな

353 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:10:38.21 .net
>>352
陳教授は刺史は漢の時代は監察官、魏の時代は行政官の意味だった
つまり漢代の情報や魏の時代の情報が混ざっているという話をしているだけだが
それを間違っていると主張するお前がトンデモだろ

354 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:11:15.29 .net
訂正:なくなった

355 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:13:02.73 .net
>>353
実際それが間違いなんだから仕方ない
しっかりした証拠もある

356 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:17:02.26 .net
>>314
時代が下ると吉備はやたら討伐されるから吉備説って案外面白いのかもとは思う
弥生中期には日本海経路の出雲や丹波方面とか、九州も熊本で土器出てるし
後期には瀬戸内の要所抑えてるし、畿内勢には目の上のたんこぶだよね
ヤマト政権は邪馬台国じゃなくて狗奴国じゃない?

357 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:23:35.72 .net
>>353
九州説信者は知的レベルが低いから、言ってる内容の真偽とか考えず、言ってる人の肩書きや見てくれで盲信するのさ
だからトンデモに簡単にハマる
オレオレ詐欺に騙される後期高齢者と同じ

358 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:25:00.78 .net
>>355
それはお前の思い込みだということやな
魏晋南北朝史学会の副会長のコメントやぞ?
お前如きよりはるかに偉い人や

359 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:27:33.86 .net
>>357
いずれにせよ、お前のような何の権威も学識もない輩の主張よりはるかに信用できるわw

360 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:28:23.72 .net
>>358
ほら、言ってる内容を気にしないで相手の肩書きだけで盲信してる
ばかの典型です九州説

361 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:29:43.64 .net
>>360
じゃあちゃんと証拠出せよ
自分の考えと相容れない主張をする奴はみんなアポなんかよw

362 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:30:01.33 .net
アポ→アホ

363 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:41:14.30 .net
いずれにせよ、中国人の昔の中国の史料研究をしている人は日本人の研究者とは違う読み方、解釈をしているということだよ
日本での解釈の通説にとらわれてはいけない

364 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:47:29.89 .net
>>361
「自漢季以来、刺史総統諸郡、賦政于外、非若曩時司察之而已」魏志賈逵伝
魏代の刺史が検察もやってたと陳寿が明記している

365 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:48:41.78 .net
>>363
中国人が言ったからって間違いは間違いだからな

366 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:54:20.03 .net
刺史【しし】

中国の地方官の名称。漢代に全国を13州に分け,州の下の郡県を監察するために設けられたが,次第に固定化し,州が監察区域から行政区域になるとその長官になった。

だそうです
ググるだけで出てきます

367 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 00:58:34.25 .net
>>365
お前が思い込んでいても間違いは間違いや
あきらめろ
もう畿内説は崩壊した

368 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 01:04:44.71 .net
九州説さん
刺史が魏代も検察やってたって一時史料見ても、まだ間違いに気が付かないの?

369 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 01:16:13.22 .net
謙虚な姿勢で中国人の研究者の意見を聞けよ
自分の主張に合わないものは全てトンデモ、間違いという考えでは世の中通用しないぞ

370 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 01:16:14.11 .net
九州説信者の知能の低さが浮き彫りに・・・

371 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 01:17:39.52 .net
>>369
>自分の主張に合わないものは全てトンデモ、間違いという考えでは世の中通用しないぞ

でも、明らかに間違ってるのでは?
史料見た?

372 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 01:25:59.75 .net
評曰:自漢季以來、刺史總統諸郡、賦政于外、非若曩時司察之而已

評に曰く:漢末より以来、刺史は諸郡を総統し、賦政を畿外で行ない、曩時の司察官ではなくなっていた


全然間違っていないが?
どっちが無知?

373 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 01:27:38.04 .net
畿内説は終了だな
文献から裏付けられた

374 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:07:21.04 .net
>>372
>全然間違っていないが?
>どっちが無知?

あなたが無知

>評に曰く:漢末より以来、刺史は諸郡を総統し、賦政を畿外で行ない、曩時の司察官ではなくなっていた

間違いです
「曩時の司察官而已(のみ)ではなくなっていた」

司察官であったことは変わりない
最初は軍目付を兼任し、政務の統括官ともなり、とうとう州のトップになるけど
最後まで司察官であったことには変わりない

375 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:11:13.05 .net
>>365
君がそう思うのは勝手ですよ。

376 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:12:59.00 .net
それが行政官やろ?州の長官なんだから

377 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:15:31.00 .net
今みたいな民主国家じゃないんやぞ?
州のトップは警察組織のトップも行政組織のトップも兼ねるの当たり前やろ?

378 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:17:32.75 .net
昔は行政と警察、軍隊は一体なんだぞ?
行政官と言った陳教授の発言は全く間違っていない
陳教授に謝ってこいよ

379 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:19:16.12 .net
畿内説は終了しました
文献から裏付けられました
これにてスレ終了!解散!

380 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:19:27.51 .net
畿内説って、アンチ九州説の集まりのような気がしてきた。

文献でも九州、物証でも九州なんだろうな・

無理だって纏向は文献もダメ 物証もダメ

中国人からもてもダメ

国内のアンケートもダメ

どうなってんの

381 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:29:11.51 .net
中国人の研究者が文献上畿内説にダメ出しをしているのは重要な点だな

382 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:41:21.69 .net
>>378
>行政官と言った陳教授の発言は全く間違っていない

行政官だから検察しないっていうのが間違いなんじゃないの?

383 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:55:16.89 .net
>>377
>今みたいな民主国家じゃないんやぞ?
>州のトップは警察組織のトップも行政組織のトップも兼ねるの当たり前やろ?

じゃ、検察官も兼ねてていいよな


長崎珍説が終了だ
倭人伝の刺史の話が昔の情報だという説は不成立



 

384 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 02:57:34.55 .net
もともと監察区域で刺史はその監察組織のトップだったが、漢代末から行政区域になってそこの長官になったということ
行政官で間違いないし、漢代と魏の時代で刺史の意味が変わったのは事実
全く間違っていない

畿内説終了しました
もうスレは終了

385 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:00:15.01 .net
中国人の偉い研究者が3人揃って九州だと言っている
もう文献上はあり得ない説なんだよ、畿内説は
いい加減に諦めろ

386 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:03:52.78 .net
要するに中国の研究者から見たら、
畿内説?ハア?何寝言言ってんの?
というレベルの説だということ

387 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:06:11.68 .net
>>384
>全く間違っていない

検察もするんだから「検察してるから魏代の情報じゃない」って説は
間違いだって確定してるんだけど






388 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:07:59.10 .net
>>387
監察区域じゃなくなって、普通の行政区域になっとるんだけど

389 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:09:21.27 .net
>>387
刺史の意味が変わったのは事実やろ?
まさかそんなこともわからんようなアホなんか?

390 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:10:49.63 .net
魏志倭人伝を、予断なく中国人の専門家が読んだら九州説になる。
日本の考古学者は、大半が畿内と言っている。漢文読めないからね。

391 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:25:07.87 .net
>>389
何を言ってるのかな?

検察もするんだから「検察してるから魏代の情報じゃない」って説は
間違いだって確定してるんだよ

中国人の専門家とやらがインチキだっただけだろう?

392 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:37:14.08 .net
じゃなくてなんで中国人とやらを持ち上げなきゃならないんだ?

答えなどまだ出てないだろ

いいかげんにしておけい

393 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:44:48.72 .net
専門家ヅラした三流のばけの皮剥げてない?

394 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:47:47.76 .net
答え出てるし
九州説滅亡

395 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 03:55:01.31 .net
漢文読める人が、なんの先入観なく、魏志倭人伝を、読んだら、九州に邪馬台国があったと結論づける。
我々日本人は、のちに日本の中心となる大和王朝の存在や、邪馬台国と名称が似ていることから、どうしても、邪馬台国を畿内に結びつけてしまう。これが間違いの元なんだな。

396 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 04:23:39.40 .net
成りすまし乙

397 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 04:42:44.25 .net
邪馬台国はそのまんま大和国で終わってるだろ

後は箸墓が本当に卑弥呼陵なのかを検討するだけで、
違うなら真の卑弥呼のはどこかを探す段階

398 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 05:59:07.49 .net
検察と監察ごっちゃに話すな
刺史の元の業務は監察
刺史の話題ってまたループしてんのかよ

399 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 06:33:27.49 .net
話をループさせて平成初期から進ませないのだ目的のスレだからw

400 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 06:42:15.42 .net
つまり畿内説は韓国人と同類なので漢字だらけの中国史書は読めませんよと

401 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 06:46:24.27 .net
>>395
だけど筑後山門(やまと)は無視w

402 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 07:12:08.82 .net
324の続き

外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行していく

北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王が治めるようになった(卑弥呼や台与)

翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は奈良盆地にはまだ少なかった鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる

こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の以下の違いとして表れるのであろう

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
(続く)

403 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 07:13:04.29 .net
(続き)
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

404 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 07:16:17.89 .net
問題は記紀との整合性だな。

倭人伝が証明してるのは
九州には独立国があった。

300年代で半島南部も平定した。
百済新羅は大韓帝国同様傀儡立国。

これが真実だが、日韓併合した
戦後の日本で言えるか?

つまり、
畿内説がまかり通る
考古学は学問ではない。

もう、ホントの話しようぜ。
5ちゃんなんだぜwww

405 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 07:22:23.84 .net
記紀によると、忠愛天皇の九州遠征が最初だから、それまでは倭(九州)と大和(日本)は別の国家という事になる
よって、北九州だろう

406 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 07:26:48.39 .net
つまり畿内説は全くの作り話ですよと

407 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 07:28:24.51 .net
うそをうそで、
塗り固める考古学。

掘れば命の泉湧く。
真実と向き合わなくっちゃ!

408 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 07:32:13.84 .net
>>398
>刺史の話題ってまたループしてんのかよ

ループってw
刺史は漢代も魏代も、地方の役人を司察して弾劾する職務を行なってた
行政と軍司令官の職務が上乗せで加わっただけ
魏代に入って検察をやらなくなったなんて珍説は間違いで確定しているよ

409 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 08:13:07.24 .net
まず自生説は否定された。
だから東遷でヤマト王権が生まれたという。
次に来るのは何だと思う?
ヤマト王権なるものが本当にあったのかという疑問の声だ。

410 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 08:15:00.24 .net
奴国の場所は宮崎県
ついに新証拠を発見か!?
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=479x1024:format=jpg/path/sd367f92e3d4e63dc/image/i49f0005bffcab099/version/1697933251/image.jpg

411 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 08:35:49.40 .net
>>409
>まず自生説は否定された。

妄想だよ

412 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 08:36:38.32 .net
魏〜魏〜言ってる時点でかなりキチガイなんだが

413 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 08:55:40.86 .net
>>406
記紀が作り話で、その記紀を基にした畿内説は学問ではないエセ学問なんだ
現皇室の成立は701年と見るべきだな。

414 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 08:59:09.00 .net
>>413
あのー
畿内説って、どっちかっていうと記紀否定だけど

415 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 08:59:39.14 .net
>>384
そうですね、刺史のくだりは漢代(公孫氏の記録)からの引用ですね
女王国と呼んでいたのも、短里を使用していたのも公孫氏ですね。

416 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:01:00.12 .net
>>408
そんな個人の独自研究は認知されてないよ。

417 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:02:08.85 .net
>>411
自生説こそ壮大な共同幻想だった
畿内説自慢の考古学が近畿至上主義を支える自生説を否定してしまったのは大きな皮肉と言う他ない

418 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:02:14.07 .net
>>408
三国志では、各種w皇帝も
漢では、元刺史だよ。

247年の帯方郡太守は 246年まで
幽州刺史の母丘検?に従って
高句麗を東臨大海沿海州に追ってた。
これが東夷伝の時代背景。

419 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:03:12.90 .net
>>414
記紀も史書も否定かw
東の倭種の国ヤマトの史書を探せよ
創るんじゃなくてw

420 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:05:46.72 .net
つまり畿内説は韓国式ウリナラ起源説という事よ

半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている

■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

421 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:11:28.85 .net
>>416
あなた認知症なの?

422 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:17:27.74 .net
>>420
そのアンケートの結論

「いったいなぜ、学会の風潮とは真逆の結果が出たのだろうか。おそらくそれは、学校で「邪馬台国論争」を習った時期が関係していると思われる。
1960年代から2000年代半ばまで、学界では長らく「九州説」が有力視されていた。
その傾向は、教育の現場に直接的な影響を与えたことは間違いない。
つまり、多くの読者が「邪馬台国=九州」といったイメージを持っているのは、昔受けた「歴史の授業」が要因なのではないか。
あくまで、推測ではあるが。」

まあ統計としても問題はあるんだけどね

423 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:20:42.18 .net
>>422
普通に先入観なく魏志倭人伝読めば北部九州にありそうに思えるからやろ
抜粋した史料くらいは高校の日本史で使うからな

424 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:21:10.49 .net
不都合な歴史を
否定するのが考古学だった。
記紀厨と朝鮮パヨが、操縦した。
 
だがしかし、昭和~戦後の発掘は
史書の事実に追従している。
中国からも墓誌が出る。 多分もう・・・

朝鮮古墳は梅ても、もうだれも
漢四郡や任那が無い、とか言わない。

考古学も、東夷伝の漢字を飛ばして
読むのは終りにしたほうが良い。

425 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:24:36.52 .net
このように
証拠のあることを一つも言わないのが九州説

426 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:26:03.96 .net
桃の種も蛙もゴキも証拠にならんぞ

427 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:29:45.14 .net
結局畿内説の根拠って倭人伝の径百歩だけだろ?

428 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:30:56.61 .net
>>420
倭人は、呉の太伯の後、の問題は、
240年以前に、太伯を知る可能性から

史記を読んだ日本人がいたwww
と、言う可能性があるか? だぞ?

429 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:31:14.82 .net
>>426
桃の種は鬼道の証拠!
蛙は食糧だっただけ!
ゴキは全国から集まった食糧があった証拠!

箸墓が卑弥呼の墓なんだから、何だって邪馬台国があった証拠になるんだよwww

430 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:33:41.57 .net
馬具は後から紛れ込んだだけ

431 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:36:55.88 .net
>>427
その径百歩も墓の直径じゃなくて100人の奴婢の殉葬された範囲のことなんだよな。

432 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:37:06.97 .net
>>427
そうそう
前方の祭壇があったと思われる盛り土はスルーで
後方の円の幅がぴったりってね
大きな墳墓だと表現するなら奥行きもこんなにあるんだーってアピールしそうなのに

魏の使者は後ろの円の幅しか報告しないなんて無能だねぇ

433 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:37:14.34 .net
>>430
絹の玉もな

434 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:38:43.65 .net
都合が悪いものは「後から紛れただけ」
あとはこじつけで「纏向こそ邪馬台国」

435 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:39:17.79 .net
>>431
>その径百歩も墓の直径じゃなくて100人の奴婢の殉葬された範囲のことなんだよな

まちがい
ちゃんと冢と書いてある

436 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:40:26.51 .net
>>434
>都合が悪いものは「後から紛れただけ」

ちゃんと証拠があるんだけど


あなた方の言うことと違ってね

437 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:42:02.33 .net
>>430
朝鮮馬具なら、313年までは、
まだ高句麗との断絶時代なんで、
最初の馬具だぞw
考古学が、ないがしろにするか?

438 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:43:39.76 .net
>>437
本来なら大発見
だけど邪馬台国に馬はいなかったとされるんだから、卑弥呼の墓の馬具はあとから紛れ込んだだけのもの

439 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:44:24.45 .net
>>436
馬具があとから紛れ込んだだけという証拠ねーwww
頑張って

440 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:44:24.66 .net
>>432
>後方の円の幅がぴったりってね

実際ぴったりだから仕方ないね

もし卑弥呼の墓が北部九州にあったのなら張政が見ていないという言い訳は通じないよ
なのに該当する遺跡は無い
絶望的でしょ?


魏の使者は後ろの円の幅しか報告しないなんて無能だねぇ

441 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:45:22.27 .net
>>439
>馬具があとから紛れ込んだだけという証拠ねーwww

ちゃんと発表されているから勉強してね

442 :琪瑛教大祭酒:2024/03/08(金) 09:47:17.39 .net
まあ、九州はなんとか記紀の正統性を作り上げたい連中の戯言に過ぎない。
もう意味の無いことだよ。
昭和天皇は半島から来たと話、南山に神宮を建て、八角墳墓を選ばれた。
朝鮮神宮を建てた時に主祭神に神道者は異議を唱える、神道者も勘違いしておったのだよ九州の如くな。
八角朝鮮アサガオ墳墓族の藤原は興福寺に朴の子供八部像を造り、藤原の墓は木幡南山なんだよ。

443 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:50:25.80 .net
>>440
165メートルは径百歩ではありません

444 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/08(金) 09:52:55.25 .net
邪馬台国九州説はヤマト王権が中華に朝貢した歴史を無かった事にしようという江戸時代から続く歴史修正主義の妄説だからな

倭国大乱前に九州にいた倭王が畿内の銅鐸文化人を征服して邪馬台国(ヤマト王権)を建国した
これが西暦180年頃の出来事で、この時の男王が神武(のモデルになった人物)だろう

ヤマト王権の成立を卑弥呼の後と言い出したり、邪馬台国はヤマト王権ではないと主張する輩は、アイヌを日本の先住民族ではないと言い張るネトウヨの同類であろう

ネトウヨの中身は悪夢のアベ政権を支持していた統一教会や日本会議の連中であり今は日本保◯党なるQアノンの連中である

445 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:53:19.79 .net
>>435
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼、以って死す。冢をおおいに作る、径百余歩に徇葬者の奴婢は百余人。
卑弥呼は既に死んでいた。多くの冢が作れて、直径百余歩に徇葬者の奴婢は百余人であった。
計100歩の冢を作ったとは書かれてないね。

446 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:54:09.21 .net
>>435
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼、以って死す。冢をおおいに作る、径百余歩に徇葬者の奴婢は百余人。
卑弥呼は既に死んでいた。多くの冢が作れて、直径百余歩に徇葬者の奴婢は百余人であった。
径100歩の冢を作ったとは書かれてないね。

447 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:54:52.89 .net
>>442
半島から来たと言ったのは光仁天皇の夫人の一人。

448 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:56:51.75 .net
>>435
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼、以って死す。冢をおおいに作る、径百余歩に徇葬者の奴婢は百余人。
卑弥呼は既に死んでいた。多くの冢が作られて、直径百余歩に徇葬者の奴婢は百余人であった。
径100歩の冢を作ったとは書かれてないね。
大作は大きく作るではなく、たくさん作るって意味だよ。

449 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:57:45.37 .net
>>438
韓にも馬具は無かったけど

馬韓には馬をやったら
喰っちゃった。 
って、書いてあるから、
青銅のついでに馬具だけ持ってきた
って、可能性はあるんだけど?

450 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/08(金) 09:58:07.45 .net
邪馬台国の男王が倭国連合全体の女王として建てた傀儡が卑弥呼だったのだろう

卑弥呼が薨じたあとに男王自らが政権運営しようとしたら諸国が従わず、また傀儡女王を用意した

簡単な話である

451 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 09:58:42.48 .net
>>435
>径100歩の冢を作ったとは書かれてないね。

「大作冢 徑百餘歩」と書かれてるのを見て
冢が徑百餘歩だと思わない人は普通じゃないよ

452 :琪瑛教大祭酒:2024/03/08(金) 10:01:08.35 .net
名は伏せるが昭和天皇とたまたま車に乗り合わせたときに陛下に尋ねそう答えたと番組で語っていた。その時田原総一郎は渋い顔をしていたよ。

453 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:03:14.32 .net
>>451
それは前方後円墳とこじ付ける為の誤訳だったって指摘が以前にあったのを覚えていないの?
大作冢を大きな冢を作るや徑百餘歩と徇葬者奴婢百餘人を切り離すとか無理やりの誤訳だったんだ。

454 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:03:31.63 .net
大倭王が統べる30余国からなる倭国は
倭国大乱以前からずっと続いていたということを無視するか
あるいは九州から東遷したことにしないと成立しない畿内説

455 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:05:42.84 .net
>>450
魏志倭人伝は前漢代、後漢、魏代の事が入り乱れて書かれてから
訳て考えないと意味を掴めないよ。

456 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:06:35.38 .net
>>450
魏志倭人伝は前漢代、後漢、魏代の事が入り乱れて書かれてから
分けて考えないと意味を掴めないよ。

457 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:07:36.67 .net
>>443
>165メートルは径百歩ではありません

徑百餘歩だよね

458 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:08:26.72 .net
>>456
>魏志倭人伝は前漢代、後漢、魏代の事が入り乱れて書かれてから

と言う理由は?

459 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:13:43.75 .net
>>457
150メートルとされていた時も径百歩だったなw

460 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:16:27.86 .net
>>456
漢書の引用はありますけど?
何処がいつの話かを
指摘出来るんですか?

正しい読めたら、
話は終わってしまうw

461 :琪瑛教大祭酒:2024/03/08(金) 10:17:55.09 .net
何れにしろ無駄だよ、
卑弥呼は北枕前方後円墳。
後々八角朝鮮アサガオ墳墓。
これを誤魔化すことはできないし、否定的になることは日本を否定している。
神武より前23代は月支城、祖天御中主は慶州羅井の朴赫居世。天照は宮家からすれば赫居世。隋書まで畿内に邪馬台者は存在している。天武が斎宮を自分の娘にしたところで卑弥呼の流れを完全に変えたと考える。
九州では架空の大王を持ち出さないと話が繋がらない
、あり得ない寓話。

462 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:23:33.89 .net
>>459
>150メートルとされていた時も径百歩だったなw

それも徑百餘歩だよね


なにか問題でも?

463 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:26:05.22 .net
死を以て大いに作った
の 盛り塚であって
死んでから作ったんだよ。

倭人伝に書かれた女王国は
まだ、古墳時代じゃ無いからな。

464 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:34:19.52 .net
中国語で書いてあるから中国語で読む事が、より正しいだろうね。

465 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:34:38.25 .net
>>463
>倭人伝に書かれた女王国は
>まだ、古墳時代じゃ無いからな。

古墳時代ですが?

466 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:38:46.76 .net
>>453
>それは前方後円墳とこじ付ける為の誤訳だったって指摘が以前にあったのを覚えていないの?
>大作冢を大きな冢を作るや徑百餘歩と徇葬者奴婢百餘人を切り離すとか無理やりの誤訳だったんだ。

覚えている価値なし

大作冢 径百余步
狥葬者 奴婢百余人
で対句文型

通説どおりが正しい訳

467 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:42:06.65 .net
寺澤薫「 畿内ヤマト説に立つ研究者には、纒向遺跡の一角に築造された箸墓古墳こそ卑弥呼の墓だと考えている人が多いようだ。そのおもな根拠は以下のようなものである。 第一に、箸墓古墳が築造された布留0式古相期の暦年代を、放射性炭素年代測定などの自然科学的な年代決定法に依拠して、三世紀中葉にさかのぼるとみる有力な説があること。そうであれば、卑弥呼の没年(二四八年頃)と箸墓古墳の築造年代とはきわめて接近することになる。 第二に、箸墓古墳の後円部の径が、卑弥呼の「冢」の径「百余歩」(一四四メートル余)に近似すること。ここでは前方部の長さは除外されている。ところが近年、墳丘周辺部の調査が進むにつれて本来の形状が明らかになり、かつて一五〇メートル前後とされていた後円部の径は、現在では約一六五メートルを計測する。こうなると、径の大きさが近似するという根拠じたいは説得力をやや欠くといわざるをえない。」

—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著

468 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:44:00.71 .net
日本の歴史は旧石器時代に黒曜石やサヌカイトの石器を使う人々から始まるんだよ
神さまと言えば山の岩の上で寝ている存在だ
興玉神石かもな
使う玉の色で蛙になったり蛇になったり鳥になったりするんだろう
伊勢神宮内宮には興玉神石という石が祀られていて、遷宮の後も興玉神石の石だけは残される
数万年後には伊勢神宮は興玉神石だらけになるだろうな

斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が乗っている
鱗を石と考えると上の話とそっくりだ
蛇と言えば大物主だな

神鳳寺縁起帳に「第十一垂仁天皇の御時、初めて斎宮女御を別御室にて祝ひ奉る。この室に(天照大神)が入らせ給はんとては、御冠装束は俗の姿にて入らせ給ふ。必ず三枚の鱗を落とす。これを大唐櫃に取り入る。この櫃入り満たむ時は、世の中滅ぶべしと云々」とある

よく似た話が、鎌倉時代の僧で、神宮祭主の大中臣隆通の子である通海が神宮を訪れた記録『大神宮参詣記(別名、通海参詣記)』の中に出てくるのです。要約すると、
 「斎宮は皇太神宮の后で、夜な夜な通うので、斎宮の御衾には朝になると蛇の鱗が落ちているという人がいる。」

469 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:44:44.41 .net
歴史の話にするなら
九州北部平定は247年~300年。
半島侵攻は313年から350年、
370年七支刀で、百済新羅建国。

馬の移入が証明している。
400年代には関東甲信に御牧。
前方後円墳に高句麗墳が付随する。
古墳時代が倭の五王時代である。

470 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:47:17.34 .net
>>467
寺澤は文献解釈は専門外だから参考にはならないな
直径150mでも165mでも徑百餘歩だよね

471 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:47:26.99 .net
もっとスマートに表現した話が石見神楽の切目だな

切目「「それ神といつぱ、天地未分の昔より、虚空円満におはします。これは即ち一元の神、又五行別像のその理はいかに。」
介添「木火土金水、青黄赤白黒の色を得て、五柱の神と現はれたまふ。」
切目「さてその垂跡は」
介添「事解男、速玉の男、伊弉諾の神社。」
切目「無念の鼓は。」
介添「父母の声。」
切目「羯鼓太鼓は。」
介添「幼兒の声。」
切目「みな神風の源は。」
介添「重波よする伊勢の宮。古歌に曰く、片そぎの千木は内外に變れども誓ひは同じ伊勢の神風。」

472 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:52:01.68 .net
魏志倭人伝の徑百餘歩は、徑百餘歩で1つの単位。
分解は出来ないと考えますが。

473 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:53:02.85 .net
>>472
単位ではなく、長さに訂正

474 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 10:58:06.32 .net
35000年前からずっといるサヌカイトの石器を使う人々が最初に新しい存在と出会ったのは20000年前である
サヌカイトの採集地二上山の麓に20000年前に竪穴式住居が現れる

淡路島は元々四国と陸続きで島ではなかった
淡路島が島になるのは最終氷期が終わった後の縄文時代である
淡路島より前に既に男女の神がおり、水ひるこが誕生している
石と水が出会って誕生したのが水ひるこかもね

ちなみに水ひるこが乗るのは鳥の磐樟船だね

475 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:00:28.02 .net
>>470
何メートルまでが径百歩なんだい?

476 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:03:22.50 .net
>>466
誤訳と判明しても都合が悪いから無視するんですねw

477 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:03:34.77 .net
「大作冢」というのは、三国志の呉書・孫和何姫伝の裴松之注に引く「江表伝」に用例があるね

 孫皓が張布の娘を美人として寵愛し、この夫人が死んだ時、孫皓は悲しみと思慕から後苑に「大きな冢」を築いた。工人たちに命じて柏の木で人形を作らせ、それらを冢の中に入れて墓を守る護衛兵とし、金銀や珍宝を夫人と一緒に葬ったが、その数は莫大なものであった。葬礼が終わった後、孫皓は後宮に引きこもって喪に服し、半年も姿を見せなかったので、都の人々は葬礼が大いに豪奢であったため、みな孫皓が死んで、このように葬られたのだといった、とある。

 ここでは、「大作冢」が厚葬の象徴として用いられていて、その葬礼が呉の皇帝である孫皓の葬礼と見紛うほどのものであった、と言ってる。

478 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:07:07.69 .net
>>477
大き冢を作ったではないんですよね

479 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:14:17.56 .net
>>477
大きさのことは言ってないんだよな、豪華だったということか

480 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:16:23.39 .net
なんで「大いに冢を作った」を説明するときのサイズが全長280mじゃなくて小さい方の後円部直径160mなんだろうな
変じゃね?

481 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:20:08.88 .net
卑弥呼の墓は殉葬百余人

482 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:22:20.95 .net
>>469
つまり卑弥呼時代のヤマトは史書に出てくる狗奴国ぐらいしか当てはまらない

483 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:23:24.53 .net
最後の畿内説の拠り所もなくなりますた


このU字形と鋸歯文の組み合わせは、渋谷町の北、天理市柳本町の黒塚古墳(3世紀後半~4世紀初め)から出土した「U字形鉄製品」とも共通する。

 「この鉄製品の類例はなく、用途は不明。しかしそれを解明するヒントが、渋谷町から約1キロ南の桜井市・纒向(まきむく)遺跡にありました」と北山さん。

 そのヒントとは、纒向遺跡で出土した4世紀前半の「冠帽(かんぼう)形埴輪(はにわ)」だ。権力者が権威を誇示するためかぶった帽子がモデルとされ、顔を出す部分の周りにU字形の飾りがあり、鋸歯文が施されている。「黒塚古墳のU字形鉄製品は、布製冠帽の芯でしょう。伝渋谷出土の石枕には、被葬者の威儀を象徴するものとして、冠帽の意匠が採り入れられたのでは」と推定した。

484 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:24:52.13 .net
つまり畿内説は「東の倭種の国」または「狗奴国」の歴史であり、北部九州邪馬台国に成りすまそうとするオレオレ詐欺でしたと

485 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:27:28.72 .net
>>476
>誤訳と判明しても都合が悪いから無視するんですねw

都合が悪くなくても、あなたの誤訳は無視します
ほかの人と同じです

486 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:27:51.83 .net
>>480
よこです
現代風に書くと、長さおよそ300m、後円部の径およそ200m。
と見聞録に書くかな?

487 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:29:16.65 .net
>>483
それを黄幢だと言い張ってた奴は相当アホ

488 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:32:06.00 .net
>>483
>最後の畿内説の拠り所もなくなりますた

たくさんありますが?
九州説は拠り所がなくて気の毒です

489 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:35:04.14 .net
卑彌呼 以死大作冢 徑百餘歩 
徇葬者 奴婢百餘人

誤訳は、以てを既に、にした事。
死を以て、墓を盛った。 です。

古墳は、間に合わない。
古墳にしないと都合が悪いから。
しかし古墳で葬者奴婢百餘人は無い。

490 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:35:57.36 .net
奈良 権力者の冠をデザイン? 天皇陵出土説もある謎の石枕の正体に迫る
https://www.asahi.com/articles/ASS3775HFS2GPOMB00Q.html

491 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:45:29.40 .net
韓国人がバカだってのはよく分かる

492 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:47:53.18 .net
>>490
一般人は使わないし、作らないだろう

493 :琪瑛教大祭酒:2024/03/08(金) 11:53:13.59 .net
無駄だな
神武詔勅。兼六合開都掩八紘…
もと六部が八部になったんだな
半島辰国が分裂しやがてそれを名乗る者が後の支配者だわ
卑弥呼は老子道徳経をもってして初代列島王だな。
これを消したかったのが八角

494 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:53:16.21 .net
>>490
畿内説の卑弥呼は
マジンガーZだなwww

兜か?
どこが旗だよ。

495 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:54:13.37 .net
493
無駄なのはおまえだ

496 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:57:53.29 .net
>>487
トナカイw

497 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:59:44.43 .net
>>496
トナカイっておったなw
最近見ないけど

498 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 11:59:47.16 .net
いいがかりつけてごめんなさい😂って泣いて🙇‍♂するの待ってるんだからさ早くやってよ

499 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:00:48.66 .net
>>483
つまり黒塚は四世紀前半の「冠帽形埴輪」の元ネタになった「布製冠」が出土していたということか

500 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:02:00.24 .net
最も重要なことは、中国人の研究者が何の先入観もなく素直に魏志倭人伝を読むと、
邪馬台国は九州にあるように読めてしまうということ
南は東の誤りだとか、月は日の間違いだとか、そんな瑣末な話はどうでもいいこと
つまり畿内説は終了

501 :ネト:2024/03/08(金) 12:19:47.28 .net
最も重要なことは、中国人の研究者が何の先入観もなく素直に魏志倭人伝を読むと、
邪馬台国は九州にあるように読めてしまうということ
南は東の誤りだとか、月は日の間違いだとか、そんな瑣末な話はどうでもいいこと
つまり畿内説は終了

502 :ネト:2024/03/08(金) 12:19:47.34 .net
最も重要なことは、中国人の研究者が何の先入観もなく素直に魏志倭人伝を読むと、
邪馬台国は九州にあるように読めてしまうということ
南は東の誤りだとか、月は日の間違いだとか、そんな瑣末な話はどうでもいいこと
つまり畿内説は終了

503 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:20:41.97 .net
最も重要なことは、欧米人の研究者が何の先入観もなく素直に魏志倭人伝を読むと、
邪馬台国は近畿にあるように読めてしまうということ
南は東の誤りだとか、月は日の間違いだとか、そんな瑣末な話はどうでもいいこと
言語と考古学で畿内説に確定

504 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:20:59.71 .net
中国の解釈

https://youtu.be/6Z0avSjgtHo

https://i.imgur.com/hGyWM1v.png

北部九州一帯を邪馬台と比定している

505 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/08(金) 12:21:19.79 .net
最も重要なことは、欧米人の研究者が何の先入観もなく素直に魏志倭人伝を読むと、
邪馬台国は近畿にあるように読めてしまうということ
南は東の誤りだとか、月は日の間違いだとか、そんな瑣末な話はどうでもいいこと
言語と考古学で畿内説に確定

506 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:22:51.76 .net
>>505
コテ付けたり付けなかったりw

507 :琪瑛教大祭酒:2024/03/08(金) 12:23:57.93 .net
しつこいね。殉葬は殉教だよ、中華に例がある。
箸墓は八角でさえ女性墓なんだよ
唯一五段、唯一神明造りの始まりの都。
そして鬼道の痕跡、神獣鏡が拡がる地。
いくら誤魔化し続けたところで箸墓は誤魔化せんよ
始祖道教の指導者のおはか。
九州にあるのは朴の柱信仰
以外に無し。
甕棺族の地

508 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:24:16.26 .net
>>503
欧米人の研究者が何の先入観もなく魏志倭人伝を読むと、邪馬台国は九州にあっただよw
畿内に邪馬台国あったなんて欧米人の研究者はいないよ。

509 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:24:18.00 .net
現代の中国の学者が倭人伝を読んで北部九州に邪馬台国があったと読んでいるなら、
当時の中国人達も同じように判断してきたということだろうね

510 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:26:40.92 .net
ある古代の石碑に漢文で「うんこは青い」と書いてあった。

これを見てある人は「うんこは青いんだ!」と主張した。

ある人は反論した。「いや、うんこは茶色いですよ」

高名な中国人の学者に石碑を見せ、読んでもらった。確かに「うんこは青い」と読めるという。「ほら、間違いない、うんこは青いんだ。」

人々は言った。「いや、その石にはうんこは青いと書いてあるかもしれないけど、うんこは茶色いのが事実だから。事実と石碑の文章とは違う。」

511 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/08(金) 12:26:41.53 .net
ネットの調子がおかしいために戻ったり連打したりしたら投稿がメチャクチャになったようだ
最後の投稿が正式なものだ

512 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:27:56.17 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

513 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/08(金) 12:30:23.72 .net
ネトウヨは日本会議や統一教会の宗教右翼だからな
九州説を否定されると教祖様の言葉の過ちがある事になるから必死なのである

514 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:33:31.79 .net
>>510
倭人伝には九州北部の話が書いてあるが、
畿内説はヤマトは畿内にあった。
と、当たり前の事を主張しているw

どちらも事実ではある。

515 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:35:16.40 .net
>>512
504の地図、穴海あるけど、
いつの地図だろう?

516 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/08(金) 12:35:34.04 .net
学問的な意味での九州説などは既に成り立たないことが明らかである
それなのに何故かアイヌ先住民否定説と同様にネトウヨが邪馬台国九州説を主張するのである

これは統一教会と日本会議の信者がネット上で声闘をしているという図式である
九州説はアベ信者や日本保守党や維新の支持者が多いに相違ない

517 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:37:28.80 .net
>>509
>現代の中国の学者が倭人伝を読んで北部九州に邪馬台国があったと読んでいるなら、

そいつが馬鹿だったら?

518 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:40:28.29 .net
考古学者は畿内説で確定というが、卑弥呼の都は纏向に違いない、三角縁神獣鏡は
卑弥呼の鏡に違いない、箸墓は卑弥呼の墓に違いないと思ったぐらいのことだ
いずれも証明されていない

519 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:41:36.25 .net
中国の学者で畿内説っていないでしょ

520 :ネトウヨボクメツ隊!:2024/03/08(金) 12:51:15.82 .net
今の日本人のD1a2の多くは今から1800年前の一人の男性に由来している
現代の世界人類の200人に1人がチンギスハンの子孫だというがそれと同じである

この1800年前の男性とは恐らく邪馬台国すなわちヤマト王権の初代王だろう
何故ならばこの時期は魏志倭人伝の云う卑弥呼擁立の時期であり、奈良盆地から銅鐸文化が消滅して纏向遺跡の構築が始まった時代だからだ

なにせ源氏も平氏も全員がこの初代王の子孫なのだからな

521 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:52:22.21 .net
卑弥呼おんなじゃなかった説

522 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 12:56:12.42 .net
>>519
>中国の学者で畿内説っていないでしょ

は?
王仲殊とか王金林とか畿内説だけど?

523 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:00:34.11 .net
中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける」
「当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」

大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」

魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」

台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海竜で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地のの人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」

524 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:02:43.25 .net
畿内説オワタ\(^o^)/

525 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:03:16.19 .net
山の門なら意味が取れるけど
奈良のヤマトは意味が取れない
一体どんな意味が隠されてるんだ

526 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/08(金) 13:06:25.47 .net
ヤマトはyama ato(山跡)すなわち山の麓
三輪山の麓の国ということで纏向遺跡のこと

527 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:09:57.40 .net
>>526
あきらめろ

***
中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける」
「当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」

大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」

魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」

台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海流で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地のの人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」

528 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:10:40.69 .net
>>526
跡がなぜ麓なのか飛躍しすぎてね?

529 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:17:32.06 .net
>>523
な?
レベル低いだろ?

530 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:21:04.44 .net
宇佐神宮のあたりに山戸があった

531 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:21:50.96 .net
>>529
お前はこれらの人たちがレベル低いと言えるほど偉い人なのか?
あり得んだろ
ただの一介の歴史愛好家の分際でw

532 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:24:39.61 .net
ネイティブスピーカーの専門家が、口を揃えて邪馬台国は九州にあったと結論している。
鼻で笑い飛ばすのではなく、重く受け止めるべきだよ。

533 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:30:14.62 .net
>>532
でもレベル低いだろ?

534 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:30:44.37 .net
>>533
いや、お前の方がはるかにレベル低いと思うけど

535 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:31:24.26 .net
邪馬台(やまと)読みってのも平安仮名(850年ころ確立)で読んでるしなあ😄

536 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:39:53.63 .net
01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者 ←漢
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭←(魏時の郡使の説明による倭への行程は…)

↓帳政の報告書の引用↓
03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家

↓240年梯儁の報告書の引用↓帯方郡から馬韓以降の地理と女王国の国勢
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳 ←陳寿の補足
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里 ←陳寿の補足
ここまで、全部、魏時の二回の遣使の話

537 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:40:19.99 .net
>>523

>当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて

山はどこでも多いのでどこでもヤマになってしまう

>魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。

魏の時代そのものではないなら行程記事も魏の時代そのものではない

538 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:40:52.04 .net
他の史料だと
邪馬嘉ってのもあるね

539 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:42:12.16 .net
>>535
後付けだろ低能
邪馬台はヤマトとは読まないと、中国の学者から散々罵られたんだぞ
それでもしつこくこじつけて無理矢理ヤマトと言い張ってるのが畿内説だ
そういった背景があるから日本の歴史は嘘八百と認定されてるんだよ

540 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:42:45.86 .net
太宰府の平安時代の写本「翰苑」は漢字を間違え過ぎ

541 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:42:55.57 .net
>>538
そもそも魏志倭人伝では邪馬壹(ヤマイ)だから

542 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:44:13.80 .net
ネイティブの俺が読むと
イャマド国じゃあ

543 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:45:48.46 .net
倭人らと通商でもあり倭人みたいなカッコをした呉人らなら中国にいたんだよ

呉人らは中国全体を呉の国と称していた

魏だの晋だのあっても中国のことを呉の国と呼んだ

544 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:46:32.31 .net
ほんまもんの倭人がいただのそりゃデタラメだ😄

545 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:47:17.54 .net
>>539

ヤマトは夜麻苔とも書かれているということは、
ヤマトのトの発音が上代では違う

546 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:47:43.62 .net
卑弥呼は九州、山門の王、巫女であったと思われるが北九州で女王に共立され
出身が山門なのでその国が邪馬台国と中国に伝わった。邪馬台国は全体を、さ
している
女王の都が山門である必要はないが、どこにあったかは謎である

547 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:48:20.27 .net
魏時の女王国との外交史
57 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都
58 其年 十二月 詔書 報 倭 女王 曰
59 制詔 親魏 倭王 卑弥呼 帶方太守 劉夏 遣使送汝 大夫 難升米 次使 都市牛利
 奉 汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到
 汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 
 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順
 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印??綬
 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
 又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹
 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠?チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩

62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬

64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授

65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之

68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人 ←張政の説明
69 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
70 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
71 政等 以 檄告喩 壹與

72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
73 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

548 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:49:05.37 .net
>>546

つまり何も根拠がない

549 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:54:20.80 .net
張政の見た伊都
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

梯儁が女王宮で仕入れた情報
50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 乱 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 伝辞 出入 居虚宮室
53 楼観 城柵 厳設 常有 人持兵 守衛

陳寿のまとめ
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
女王国は大倭の中の小国だった。

全部魏時の情報ですが?
評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉 ←陳寿が魏使の記録だと書いてある。

550 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:55:32.28 .net
黒塚古墳のU字型鉄製品って、帽子の骨組みだったのね。
魏から難升米がもらった黄幢とかいう錦の御旗みたいなものだと信じ込んでたよ。
また畿内説信者に騙されてた。

551 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:55:52.11 .net
>>539
>邪馬台はヤマトとは読まないと、中国の学者から散々罵られたんだぞ

誰だか知らんが、その学者は確実に低脳

552 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:56:54.00 .net
鉄の骨組みの帽子って重すぎだろw

553 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:57:07.08 .net
↓残りはどうでも良い情報↓
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東

28 其 風俗 不淫 男子 皆露結 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈結 作衣 如 単被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種 禾稻 紵麻 蚕桑 緝績 出 細紵 縣綿 其地 無 牛 馬 虎 豹 羊 鵲
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鉄鏃 或 骨鏃 所 有無 與
32 但耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣

33 有 屋室 父母 兄弟 卧息 異處
34 以 朱丹 塗 其身體 如 中國用 粉也 食飲 用 俎豆 手食
35 其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死停喪 十餘日 當時 不食肉
36 喪主 哭泣 他人 就歌舞 飲酒 已葬擧家 詣 水中澡浴 以 如練沐

37 其 行來 渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟻蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
38 名之 為持衰 若行者吉善 共顧 其生口 財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺 之謂 其 持衰 不謹

39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠簳桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 獮猴黒雉

41 其 俗 擧事 行來 有所云 為輒 灼骨 而卜以 占 吉凶 先告所卜其辭 如 令亀法 視 火坼 占兆
42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝

43 其人 寿考 或百年 或八九十年
44 其俗 国 大人 四五婦 下戸 或 二三婦 婦人 不淫 不妬忌
45 不盗 僅少諍訟 其 犯法 軽者 没 其妻子 重者 没 其門戸 及 宗族
46 尊卑 各有 差序 足相 臣服 収租賦 有邸閣 國國 有市 交易 有無

554 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:58:56.36 .net
鉄の骨組みは確かに重い。
強靭な首を持ってたんだろう。
だだ、中はパイプ状だったから、頑張ればなんとかなったのだろう。

555 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 13:59:12.05 .net
>>545
それ記紀だろ

隋書には邪摩堆と書かれており、語尾わタイと読むことが明確にされている

そもそもヤマトなら邪馬都だろ
伊都国はイトコクだろ

556 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:00:01.44 .net
邪馬臺は、山の臺で合ってる

ただし、本来は「馬壹」

馬韓と対比になってる、そこが新解約ポイント!

だから「馬壹」

干岐 ←干は「韓」のこと

なら、倭国は「一岐」 ←「一」は「壹」のこと

答え見えて来ましたねw

卑弥呼時代は、邪馬壹国だったと
臺與時代で、邪馬臺国となったと

そして、卑弥呼はイチキシマヒメだともw


>邪馬台国の「邪」は、どこから来てるのか?

「邪」の字義じたいは「琅邪」から来てるので
秦の始皇帝と徐福の琅邪台エピソードとも取れるが

単純に「馬韓から見て」、日本を「小日本」と語るような蔑称の意味合いも考えられると
小馬壹ではないがw

557 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:00:09.49 .net
>>537
北部九州一帯が「ヤマ」と呼ばれていたという話をしとるだけやと思うんだが、それは何の反論にもなっとらん

558 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:00:13.02 .net
>>551
>>288

559 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:02:10.70 .net
新解釈ポイントね!w

馬韓 ←→ 馬壹

干岐 ←→ 一岐 壹岐

560 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:04:42.74 .net
東夷伝序文
略)
其後 高句麗 背反 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 践 肅慎之庭

東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀 ←倭人伝の事、韓伝含む

↓倭人伝を記録できたことの意義
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉

561 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:05:54.25 .net
>>555

倭人の発音を鮮卑系王朝の使者が聞き取って音写したのが堆
日本の上代の発音は日本の文献でしかわからない

562 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:06:34.84 .net
卑弥呼の金印や難升米と牛利がもらった銀印が発見されるまでは、大きな進展はなさそうだな

563 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:07:54.97 .net
日本の学問の通説畿内説は、考古学研究成果によって明らかになった
畿内から筑前博多に及ぶ政治連合を倭人伝で書いているのだろうという学説
まだ脆弱で自由度が高くパッチワーク的だと考えられている
なのでこの外に邪馬台国を比定するのであれば、
魏使のルートはこの政治連合の外側を通らなければならない

564 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:09:32.74 .net
つまりヤマトは架空の名称ですよと

565 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:10:51.70 .net
畿内説がここまで往生際が悪いとなれば逮捕まで行くかもな

566 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:14:59.81 .net
ホンマに畿内説の奴らは往生際が悪いな
日本に文献が残されていない以上、まずは中国の文献の解釈が第一やろ?
考古学の出土物が邪馬台国のものであるという保証はどこにもないし、そもそも編年自体が間違っている可能性もある

567 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:18:38.74 .net
>>556
邪馬(臺)国
梯儁は、次有列記21国に有る邪馬国で
卑弥呼の臺を見た。これを女王国の仮称とした。

魏では、臺は曹操の高楼を言う絶対的表意文字
廣志では 嘉 だが、陳寿は、壹

つまり、和音国名とは無関係で
臺 でさえ無ければ形だけ変えれば良かった。
後漢書以降は曹操への忖度は無いので原典
梯儁の報告書に使用された 臺 に戻った。

568 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:21:22.61 .net
【考古学】また捏造か 持論をネットでステマ【再び】

569 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:22:01.52 .net
陳寿に曹操への忖度があるの?

570 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:22:54.88 .net
曹操って日本では悪人として捉えられているわけだが🤔

意見が合わなくて困ったもんだね😳

571 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:25:40.65 .net
>>546
山の麓、ヤマ多い、山門、山戸、どれと言い難い

572 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:34:34.99 .net
壹與は帳政が聞いた和音の漢字化だから、伊代でも良い。
臺与は、宮を継承したという意味も有るけど名前だろう?

陳寿は、本当は 邪馬 臺 国 だけどネw
と言う意味で、外交史の最後に
送政等還 因詣 臺
の文字を一度だけ使用している。
これ、マメな。

573 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:34:44.83 .net
>>555
>そもそもヤマトなら邪馬都だろ

それは甲類なので間違い

574 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:39:24.94 .net
>>569
正史に認めた時の改定条件が有ったと思われる。

23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
これも、ママじゃ、読めない理由は削除、っぽい。

575 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:41:41.15 .net
>>572
>送政等還 因詣 臺
>の文字を一度だけ使用している。

尚書臺は朝見を受け付ける役所だからね

576 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:46:33.77 .net
記紀だか万葉集だかが書かれた時代の半島人の耳にはそう聞こえたのかもしれないが
その発音と魏使が記録した時の発音が同じとは限らないのでは?

577 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:49:13.22 .net
筑後では「やま」は牟礼(古代朝鮮語)である
と民族の言語を誇りとして現代に伝えている

578 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 14:57:51.78 .net
末羅の「羅」もそうだし半島系の語彙が九州にはあったのかもね
そういえば伽耶の言葉で「門」は tol と発音した記録があるんだってな

579 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:00:52.42 .net
牟礼の門は「むれと」だな

580 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:03:17.44 .net
240年の梯儁の報告書に示された3国
投馬国、邪馬台国、狗奴国は
帯方郡から南、馬韓を過ぎてから、直列する3国です。

投馬国、邪馬台国は
238年に半島入りした魏時で初探検だった、梯儁による仮称。
引用文だから残ったのであって、
陳寿も張政も採用してはいない。
倭人伝引用以外は後世も…
廣志では 邪馬嘉国。

馬韓を過ぎるのに20日
弁辰韓の通過〜対馬海峡で10日
女王の処都迄、陸行一月でその南が狗奴国。
そもそも隣国への里程を示すってことは無い。

581 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:03:35.73 .net
>>579
ムレトはどこにもなくて残念だね

582 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:06:58.20 .net
つまり、山門はヤマト王権が討伐した後につけた地名ということだろう

583 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:15:46.73 .net
>>487
U字型鉄器を黄幢と言ってた人物と邪馬台はヤマトと読むと言ってる人物は同一人物

584 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:21:40.59 .net
>>546
卑弥呼の王宮は山門と思われるが
墓は、糸島に在る、のは何故だ?

何故そんなこと言うか?
墓を見た張政は伊都迄しか来ていない。
伊都の隣は、斯馬国 らしいが。

585 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:25:01.50 .net
高牟礼山(高良山)のほぼ全域を社地とし、中腹に高良大社の社殿が鎮座する
高良山の麓にある高樹神社が元は山上に鎮座していたとされる
「高牟礼権現」「高牟礼神社」と称される高良山の地主神

https://kurumechikugo.info/takagishrine/

586 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:26:28.34 .net
半島ねえ

ならそいつら発覚したらぶち殺しでよいな

ここは日本だってことをりかしとらんてことだからな

587 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:33:22.74 .net
U字型鉄器が4世紀の布製冠帽の芯とかどうすんだよこれ

588 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:35:35.30 .net
64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授
これって、今、韓の制圧戦してるから
後ろから難升米将軍も魏軍の黄旗掲げて参戦せよ!
って、檄 だよ? 

普通の軍旗だろ?
ヤマト朝廷が三国志に登場したりしてな?
弁慶みたいな奴が良いwww

郡は卑弥呼には軍隊動かす能力無いの
知ってんじゃないかな?

つまり、古墳作る為の労働力も無いような?
倭人伝に韓には有った、徴兵、労役の話は無い。

589 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 15:58:51.41 .net
つまり畿内説は年代をサバ読み過ぎでしたと

590 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/08(金) 16:04:04.45 .net
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・酸素同位体比年輪法を無視して纏向を四世紀という
・時系列を無視して漢字を現代音で読んでしまう

591 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:19:21.34 .net
どうやら箸墓古墳もほぼ4世紀と出そうな雰囲気

箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/

むかし無断で立ち入った人が4世紀で間違いないと言ってたもんな

592 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:28:19.20 .net
四世紀なら帯方郡からの移民らがやってきてから建設が本格的に始まったってことになるだけなんだがよ

593 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:29:30.75 .net
卑弥呼の年代の続きからそれが生まれたってことじゃないってことだろ

594 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:31:00.27 .net
西暦300年代後半〜西暦500年代前半は渡来人らの渡来時期なんでな

韓国人だのほざくわつらはぶち殺す

595 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:31:07.40 .net
大倭王は畿内に居たのは確かだけど
奈良は無いと思うね。 大阪湾だよ。
交通の要は船だもん。

でも、馬無くて
尾張や出雲とちゃんと交流できるのかね?

596 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:32:54.14 .net
>>591

陵墓に無断で立ち入った人って誰?

597 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:37:11.09 .net
>>596
ムッちゃんこと竹内睦泰

598 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:39:49.98 .net
埋め戻すの早っw
言うことすることホント韓国人と瓜二つ

■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
 
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」

https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html

599 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:43:16.26 .net
九州の卑弥呼の話より、
畿内説の250年の大倭王って誰よ。

370年は仁徳で良いんだけど、
350年はお父さんで応神で良いし。
稲荷山の8代前に武人頭が居たって言うんだから
まだ王朝になってないってことも無いだろ? 
四道将軍。出してた?
空白だけど250年だって大阪湾だろ?
考古学もたまには歴史の役に立ってみw

600 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:49:07.66 .net
黒塚古墳のU字型鉄製品は独特の形をした布製冠帽の芯だったか

これに限らず、結論ありきの畿内説論者のご都合主義解釈は基本的に間違っていると見て良さそうだ

601 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 16:53:40.82 .net
>>598
370年に仁徳天皇が建国させた百済王から七支刀貰って
王子を日本で養育するシステムが出来てる。
って歴史知らないのか?
奈良とは、思わなかったけど・・・

602 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:07:09.17 .net
>>601
それ史実じゃなくて空想だろ

603 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:08:59.29 .net
新羅王が日本人で、
百済王の母親が代々日本人だってのが
バレちゃったのカモ知らんね?

604 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:15:13.99 .net
>>602
金石文の話だよ。
七支刀銘文
(表)泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼 七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王 永年大吉祥
(裏)先世以来 未有此刀 百濟王世子奇生 聖帝 故為 倭王 旨造傳示 後世

表は七支刀が晋で作られた経緯。 宜供供侯王は、百済近肖古王、余句である。
朝貢によって百済候となったから晋帝は百済王を侯王と呼んだのである。
名前の字がおかしいのは漢字が無かった百済音の漢字変換だからである。

倭王の高句麗交戦と半島利権の主張の南朝外交は400年以降であり、
370年で、この侯王というのは百済候=百済王しかない。
この時、晋王は漢字を伝える属国教化ための博士も送っている。
百済はこの博士も馬2頭を付けて日本に献上した。
完全な傀儡立国なのである。

裏は百済王の請願。聖帝は370年諡号仁徳の在位当時での称号である。
百済王が世子を倭王(聖帝)に委ねるのに際して、
晋王から下寵された刀の由来を示し忠誠の証として献上している。

和音、ひじりのみことに、聖帝の字を当てたのは、
百済王を日本の帝の下位に置くための謙譲である。
百済は九州諸国同様、日本の新参一領主国であった。

これ以降、百済王には倭人豪族の姫が嫁ぎ、
王子は日本で貴族待遇で養育されている。

605 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:20:37.37 .net
父親も代々日本人だったりしてw
故郷で養育

606 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/08(金) 17:21:09.55 .net
百済時代の1600年前の遺跡で倭人居住区が発見されて埴輪が出たそうだ
武寧王の時代よりもかなり前だ
これで埴輪の起源が百済である可能性が出てきたな

607 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/08(金) 17:26:21.88 .net
オレは漢城が百済の都だった時代に倭人が居住していて埴輪が作られていたいうのならば埴輪の起源も韓半島であったと推測する
埴輪は素朴だが豊かな感情が表現されている
芸術性のあるものだから日本列島ではなくもっと先進文明のある地域で産まれたものと考えたい

608 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:29:34.22 .net
U字型鉄製品が四世紀の冠帽なら
黒塚古墳はそれ以降に築造されたってことかな?てっきり難升米のお墓かと思ったよ。まぁ銀印もなかったしな。

609 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:31:38.53 .net
>>606
半島にも倭人が居住して埴輪作ってたんだな
これは埋め戻さないと不味いのでは

610 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:38:25.74 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

611 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:46:21.22 .net
中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける。当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」

大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」

魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」

台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海流で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地のの人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」

612 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:50:06.76 .net
>>608
昔から畿内説は50〜100年サバを読むことで有名だったろ

613 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:50:59.17 .net
青銅輸入の交易はBC200まで遡るけど
313年以降は日本から韓四郡以北にも半島進出してるし
だから牛馬の扱いを高句麗人使って仕込んで移入できたんだよ?
朝貢して、郡に寄り添った卑弥呼の国にはできない。

漢四郡に南部からも攻めたのは日本が後援したから。
中国の半島政策は、いつだって収奪と奴隷化の愚民化政策。
倭の五王の話が、ヤマト朝廷ではないみたいな話はもう出ないだろw
313年は帯方太守のおかかえ、みたいな中国人職人も来たかもな?

614 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 17:59:21.13 .net
>>611
中国人、漢文読めないと思うぞ?

ネットの文献資料は有難いけど
句読点とか括弧とか、なんだか解らん。

漢字ってのは、目で見て字義が通じるもんなのに
中国人は、漢字やめちゃったからね。

倭人伝は御経よりも簡単。
なんで、わざと誤読させてる?

615 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:06:52.86 .net
>>597

素人じゃ年代はわからないよ

616 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:09:50.69 .net
>>598

東漢氏の居住地の高取の遺跡と
纏向の古墳群は関係ない

617 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:11:06.53 .net
>>614
少なくとも君よりははるかに読める人たちだと思うけどねw
それに漢字を完全にやめているわけじゃないし

618 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:11:30.65 .net
自己、だけどw
>中国人は、漢字やめちゃったからね

あれって、万葉仮名みたいに平仮名進化するのかな?
中国語って、統一してないなら
日本人でも見れば判る漢字が良くね?

619 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:15:47.65 .net
つまり畿内説はとことん頭が悪いと

620 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:21:49.32 .net
>>617
ここで、彼ら先生の間違いを指摘して欲しいか?
そんなことより、アタシのレスに釣られてwww

九州説で5年程度だけど、中卒がw5ちゃんの
王者1000スレでも、アッチ池って、
けなされて、教わった皆への、お礼なんだけどw

621 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:30:47.61 .net
改行と
句読点,大事だろwww

622 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:36:09.52 .net
>>620
君の解釈と違うというだけの話
自分の考えと違う人は全て間違い扱いはそもそも人間としておかしい
公金チュウチュウの畿内説に染まっているからそのような腐った考え方をするようになっているのだろう

623 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:38:40.86 .net
倭人伝ちゃんと読んでも
畿内説が有るなら説明してください。

ヤマト王=倭王=邪馬台国説?
250年の倭王は卑弥呼か?

考古学で
卑弥呼と邪馬台国は癌。

日本のホントの古代史
中学生でも、もう、見えてると思うよ?
ネット時代なんだよ? 

ネラーって、馬鹿?

624 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:41:45.15 .net
>>614
>中国人、漢文読めないと思うぞ?

中国の高名な学者よりも自分の方が読めるとでも言いたいのかな?
思い上がりも甚だしいw
大笑いされるぞw

625 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:44:28.93 .net
>>623
畿内説しか成立しない

626 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:46:42.77 .net
>>622
ありがとう。
しかし、何を言ってるのか判らない。

私は意見とか説ではなく
陳寿の文を正しく読んだだけ。

倭人伝が、漢字を飛ばさず読めたなら
読み方が、間違ってるという反論には答える。

627 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:49:58.73 .net
>>624
中国の高名な学者って藁
古田チルドレンの大阪のおばちゃんじゃねえか

628 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:50:51.40 .net
>>606
1600年前ということは5世紀
すなわち、ヤマト王権から埴輪を導入したことが明確

629 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:51:46.81 .net
>>626
>私は意見とか説ではなく
>陳寿の文を正しく読んだだけ。

君がきちんと読めてないだけだなw

630 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:52:28.20 .net
>>626
>倭人伝が、漢字を飛ばさず読めたなら

なんで「倭人伝が」読むの?
日本人?

631 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:52:47.24 .net
>>625
アホですか? 俺も梅w

632 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 18:58:39.81 .net
>>631
そこは、俺の梅♪ でw

633 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:00:13.34 .net
アメリカ人に「日本人だから源氏物語正しくスラスラ読めるでしょ?」って言われたら
俺こまっちゃうけどな

634 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:00:51.83 .net
ネトウヨ撲滅とかいう奴が書いているのは、韓国の首都であるソウルから埴輪が出てきたので、韓国の考古学者は驚いているという記事
百済に倭人がかなり住んでいたということが明確になったということ

635 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:01:28.13 .net
>>611

誰一人として行程記事から比定してる人はいない

636 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:02:42.93 .net
伊都国が糸島平野、奴国が福岡平野なら不弥国は筑紫平野か直方平野だな

637 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:04:08.53 .net
この3点が非常に重要だな

大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」

魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」

台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」

638 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:04:51.68 .net
>>634
そもそも「倭人」は西遼河流域から半島を南下してきて列島に渡来して
やがて縄文人と混血したのだからそりゃ半島のあちこちに倭人住んでたよな
半島の建国神話に倭人が出てくるのも当たり前という

639 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:09:39.43 .net
でも畿内説の人は、玄界灘の国々を纏向が抑えていたっていうんだよな。馬も牛もいない、街道も整備されてない、船での移動も難所は土地の人でないと通行できない。そんな時代だったのに。特に奴国は纏向の飛地みたいなものだって言うんだな。

640 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:11:00.83 .net
>>630
漢文って、動詞に対する主語が何か?
時制もだけど、凄く大事なんだけど
解りにくいよね? 和訳は嘘ばっかり。

倭人伝を正しく読めば論争は無い。
九州説とかも知らんけど?

倭人伝は、読めば、倭王? 卑弥呼?
女王は、九州陸路一月行に居た。
だよ?

641 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:13:47.19 .net
>>640
江戸時代から、今の日本人よりはるかに漢文の素養のある学者たちが論争しているわけだがw

642 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:14:40.75 .net
>>638
ジョン・ホイットマンや宮本一夫の日琉語説は考古学専攻学者の誰も支持してないよ

なぜなら遼寧土器人が入植した考古痕跡も朝鮮無文土器人が入植した考古痕跡もないから

沿海州南部から日琉語系の刻目突帯文土器人が入植したという話なら支持するが

入植した考古痕跡がちゃんとあるから

643 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:17:22.54 .net
>>639
牛馬がいないし、鉄器もろくにないわけだから、武力制圧したはずはない
伊都国奴国周辺の人たちが東遷したとすればありうるだろうな
要するに首都を移しただけってこと
それ以外の状況では想定するのは無理

644 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:20:28.25 .net
>>642
沿海州南部はゲノム的になんかあるっけ?

645 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:21:05.27 .net
伊都国奴国周辺の人たちが東遷って、それ無理だから

646 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:22:01.35 .net
>>640
>倭人伝を正しく読めば論争は無い。

文章技法がきちんと確立されていない時代の文章だから、解釈の仕方はいろいろありうるものなんだよ
またそこを逆手に取って、わざとわかりにくくボカして書いたものもあるだろう
お前の解釈だけが全て正しいとか勘違いするな
よく日本にある書物で漢文に句読点つけてあるものもあるけど、元々は句読点などというものもない
どう区切って読むかということを考えるだけでも難しい

647 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:23:10.37 .net
>>645
でもそういっている学者もおるやろ?
お前が無理だと思ってもそう考えている人がいるんだよ

648 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:27:57.57 .net
結論を言えば
邪馬台国は金印国同様
統一されてない倭国の中の一国である。

しかし、半島情勢で九州と本州は
共立一大率? これが、倭人伝だが?

卑弥呼は北部九州王で、倭王では無い。
大倭王は、魏とは無関係に畿内に居た。
倭人伝=日本古代史だろ?

649 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:33:01.48 .net
結論いうが理由は言わない
それが九州説

650 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:34:00.68 .net
>>647
>でもそういっている学者もおるやろ?

いないよ

651 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:36:44.11 .net
391年に馬なしでヤマト王権は高句麗を攻撃してるから、馬がないから云々は全く成立不可

652 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:38:18.57 .net
うん、そうだよね?
おやすみw てか? TV見ようかな?

今日は、みんなへのお礼と記念なんで
30回以上、書いちゃったw

みんなもご都合主義の
現代語訳じゃない
ちゃんとした、
白文で、倭人伝読んでねw

1000 乙!

653 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:45:38.54 .net
>>643
ホケノ山から鉄鏃が70以上、椿井大塚山から鉄鏃が200以上出ている
鉄鏃は実用品であるから、その所有物のごく一部を埋葬したと見なすべきである
したがって、3世紀にはすでに畿内には九州を超える鉄器が存在した

654 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:47:27.72 .net
ホケノ山は4世紀だろ

655 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:48:14.03 .net
畿内説の夢は無限大だな

656 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:50:34.42 .net
>>608
4世紀ではなく、4世紀前葉の前方後円墳から11例中、6例出土している
したがって、黒塚古墳の年代を動かす理由はない

657 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:52:44.73 .net
年代が古く出ると指摘のある土器の煤を除いたら
何年くらいになるのか興味ある

658 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 19:55:13.11 .net
古墳を作れる王には徴兵制が必要。
卑弥呼には有ったか?

難升米は檄によって郡の対韓戦に招請された、
しかし、韓制圧戦には参加しなかった。

日本は公孫氏と箕氏から続いた韓王朝を滅ぼした
魏の王権とは、敵対、防衛することを決めた。

だから、
卑弥呼の死後の情報だけだけど
防人の、一大率を伊都に置いたんだろ?

659 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:01:11.51 .net
>>658
文献的な視点で言うとあったと見なすべき
奴国の3.5倍の邪馬台国は超大国である
さらに、奴国の2.5倍である投馬国も卑弥呼を共立している
考古学的な視点で言うと、理化学的年代測定法や土器編年、出土物からもあったことが明白である

660 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:03:31.20 .net
>>651
馬なしという証拠は?
箸墓の馬具は
「四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」
んでしょ?

661 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:06:41.33 .net
>>650
https://www.sankei.com/article/20220203-WO5PBIS6HZMNVJFJEMX6V4C45Y/

662 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:08:31.98 .net
>>660
魏志倭人伝の記述、並びに好太王碑、その他の文献からも馬を輸入したのは391年以降である
周濠の輪鎧は、単に半島から手に入れたなど、理由はいくらでも考え得る

663 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:13:35.09 .net
北九州=奴国

南九州=狗奴国

ここまでは確定

664 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:21:37.28 .net
>>653
残りの鉄が他から出ないからその考え方は考古学的に間違っている

鉄が普及していなかった後進奈良盆地では貴重な鉄を威信財として王が独占し、人々は木製土木具で古墳を作っていた

翻って先進北部九州では鉄器が普及し鉄製農具で農業を行なっていた

これが誰もが知る客観的事実

絶対に間違っている君1人だけの珍説をいつもありがとう

665 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:24:28.83 .net
>>664
>>20を見ましょう
筑前の鉄は畿内をはるかに下回っている

666 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:28:58.78 .net
キナイコシは自分が畿内説を代表しているような傲慢な言い方をするが、まともな考古学者の書いたものを読むとどれもキナイコシの言っていることと全然違う
彼の意見はどう見ても畿内説内でも突出して低いレベルの珍説だ

例えば松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く
こういうまともな見解は素直に頷ける

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」

「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

667 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:31:20.46 .net
>>665
何世紀の話?

668 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:33:06.95 .net
>>664
>鉄が普及していなかった後進奈良盆地では貴重な鉄を威信財として王が独占

寒村奈良盆地に王など居るわけがない。   @阿波

669 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:33:12.66 .net
筑前での鉄器が>>20を見て畿内を圧倒的に下回るから、「九州では鉄は少なくなっていた」と考えるのは素人でしょう
半島の最前線であり、かつ畿内ヤマト王権の支配下にあった九州では、単に半島と戦う為に鉄器を使用していたので副葬できなかった
また、畿内ヤマト王権に鉄器の副葬を制限されていた(序列の関係で)と見るべきでしょう

670 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:34:30.23 .net
>>665
>筑前の鉄は畿内をはるかに下回っている

筑前の鉄も畿内の鉄も、「阿波」の鉄。   @阿波

671 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:36:13.54 .net
>>669
碌に鉄器さえも作れない畿内に、畿内ヤマト王権など夢のまた夢。   @阿波

672 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:37:12.23 .net
>>665
鉄器の副葬品が多いというデータしかないな

奈良では鉄器が珍しかったから王が自慢げに副葬しただけだろう
むしろ当時の奈良は鉄器をありがたがる後進地域であった証拠にしかならない

奈良で「木製」土木具で古墳を作り始める以前から北部九州では当たり前に「鉄製」農具で農業をしていたのだ

673 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:37:30.40 .net
>>667
3世紀後半〜4世紀

674 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:38:41.03 .net
>>672
碌に鉄器さえも作れない寒村奈良盆地に王など居るわけがない。   @阿波

675 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:39:14.53 .net
>>668
いや奈良盆地にも王がいた
先進北部九州社会から排除されて吉備勢力を巻き込んで後進奈良盆地を征服した王が

676 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:40:02.26 .net
>>675
碌に鉄器さえも作れない寒村奈良盆地に王など居るわけがない。   @阿波

677 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:40:14.99 .net
>>672
そのような説は到底採用できない

678 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:40:32.34 .net
>>673
卑弥呼の時代とはズレてるようだが

679 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:41:20.10 .net
5CHのスレ消化で金儲けできるのか?

深夜2時でも1分おきにレスしてるが、スクリプト??
結構なアルバイトなのか???

680 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:41:38.59 .net
>>677
そりゃ君の珍説とは相容れないだろうさ

681 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:41:39.33 .net
>>678
鉄器は実用品なので死んだ後に副葬する

682 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:42:56.42 .net
>>680
王が自慢げに云々という個人的な感想は到底採用することができない
根拠が必要

683 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:43:52.59 .net
3世紀の北部九州では鉄器は農業や武器に普通に実用されていたが、同じ時期の奈良盆地は鉄器が少なく王が独占して嬉々として墓に副葬していた

この文化水準の違いを見よ

684 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:43:55.24 .net
>>681
西晋時代のはなしね

685 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:44:22.18 .net
>>662
それマジで言ってんのか

686 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:46:36.68 .net
>>682
松木武彦は「誇示」と言っている 
本質的には私と同じ意味だ

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。

687 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:46:53.79 .net
>>683
王が鉄鏃を副葬するとか意味分からんわ
将軍の墳墓なら分かるが

688 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:47:29.38 .net
>>684
西晋時代のホケノ山と椿井大塚山だけで、弥生時代1000年の福岡の鉄398(安本美典による)に迫り、かつ、京都で112、兵庫で92、大阪で40であるから(安本美典による)、
卑弥呼時代にはすでに畿内が九州を圧倒していたと見るべきである

689 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:48:42.75 .net
>>686
松木は畿内では鉄は出なかったとは言ってない

690 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:52:46.08 .net
>>685
何がマジ?

691 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:52:47.23 .net
>>683
碌に鉄器さえも作れない寒村奈良盆地に王など居るわけがない。   @阿波

692 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:53:19.71 .net
>>688
倭種の国では、邪馬台国には比較にならないほどの強い政権ができたってわけか
そら邪馬台国は滅びるがな

693 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:54:15.90 .net
>>692
邪馬台国は滅びていない
通説畿内説では、邪馬台国がヤマトになる

694 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:55:53.99 .net
>>689
私は松木が畿内から鉄が出なかったと言っていたとは一言も主張していない

北部九州と畿内の鉄の普及の比較で言えば、松木はこう書いている

「また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

695 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:57:44.73 .net
>>693
各種文献からは倭国は畿内ヤマトに併合されたように見える

696 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 20:59:28.39 .net
魏から西晋になった頃って畿内説でいうと天皇は誰の時代なの?

697 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:00:44.35 .net
ついでに久住猛雄はXで以下のようにポストしている
最近のまともな考古学者は一昔前の安直な近畿至上主義、大和中心主義じゃないんだよな
畿内と北部九州など他の地域の位置付けを客観的・相対的に捉えている

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「>そのための考古資料
そうなのですが、件の方は「都合よい」情報や旧説だけ引っ張って利用してます。畿内「自生」説に都合の良い情報のみ。また地域の自律性主体性を考古学は明らかにしてるのに記紀史観でそれは無視。」

「歴史の説明には過程の説明とその証拠が重要かつ必要なのに(文献記述が少ない時代で考古学資料に多く頼らないといけない場合はなおさら)、その説明求めても「人口」謎理論の繰り返しで、過程は不明、結果論的予定調和説明なのはいかがかと。いわゆる「畿内自生説」への批判学史を全く知らないみたい。」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」

698 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:01:51.28 .net
>>694
すなわち、「畿内には鉄はなかった」などという説はあなたも排除したわけだ
松木と私の考えは一部一致しているが、個人的な感想部分では違う

松木の個人的感想は、「畿内では王が誇示」
私の個人的感想は、九州が鉄器を副葬しなかったのはヤマト王権の支配下にある九州では、半島と戦う為に貴重な鉄器は副葬できなかったというもの

699 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:03:39.02 .net
>>698
北部九州では鉄器で当たり前に農業してるのに貴重過ぎて副葬できなかったとか正気かね?w

700 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:04:56.92 .net
国作り、邪馬台国狗奴国、全てヤマト政権だよ
切り口(時代も含め)が違うだけ
弥生時代後期に橿原にサヌキと同じ高地性集落、龍と鳥装のシャーマンの絵画土器、これがヤマト政権の始まり

701 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:06:25.78 .net
>>699
>>20を見れば分かる
筑前は畿内の鉄器の20分の1ほどしかない

702 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:10:06.04 .net
>>701
北部九州では鉄器が実用品であって威信財にならないから副葬しなかっただけだよ
松木武彦の文章読んでもそれくらいのことは伝わるはずだが

703 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:12:02.05 .net
弥生時代後期初頭に出雲から畿内に人々が移ったのが始まりだろう
イザナミが根の国から黄泉の国に行く話でもあるし、スサノオのヤマタノオロチ退治でもあるんじゃないかなと
堺の民間伝承でも堺にいたオロチは出雲からやってきた人が倒してくれたとある
草薙剣のある尾張の朝日遺跡でも同じようなことが起きたのかもな

加茂岩倉遺跡は紀元前後に営みを終え加茂岩倉遺跡の銅鐸が弥生時代後期になると葛城の上牧や堺の陶器などから見つかるからね

704 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:17:27.34 .net
九州北部の国々も弥生時代後期にはヤマト政権の枠組みに入ったようだな
未完成な状態であるが
博多からは播磨の土器が多数、吉野ヶ里からは瀬戸内海沿岸部の墓制の石棺、近くの七ヶ瀬遺跡からは木棺墓とヒスイの勾玉
ヤマト政権から婿入りを受け入れる形で枠組みに入ったのかもな

705 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:20:52.63 .net
>>699
>北部九州では鉄器で当たり前に農業してるのに

荒れ地を開墾せねばならず仕方なかった

706 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:21:45.76 .net
弥生時代後期には東は関東から西は佐賀まで
ヤマト政権の版図かもな
楠の葉が生い栄える地佐嘉
楠の上の枝が上総に、下の枝が下総になったと風土記の逸文に残る関東
遠くの地を欲した勾マガリの話は播磨風土記にあるな

707 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:22:55.50 .net
>>702
一部理解できる
ただし、九州では何度も言うように、畿内ヤマトの命令で半島と戦わされる為、鉄鏃などのガチの実用品は副葬しなかったろうが、
畿内では、実用品ではない蛇行剣などのとんでもない鉄の副葬品に加え、実用品である普通の鉄刀なども大量に副葬している

富雄丸山の蛇行剣は九州では全く出てこないから、威信材にならず副葬しなかったというのは非常に苦しい

708 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:23:12.28 .net
邪馬台国に鉄器が大量にあるとかの
記述はない

709 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:25:03.38 .net
播磨は物部でしょ、九州のお仲間

710 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:29:13.12 .net
>>704
博多と播磨はもっと古い時代から交易してたと思う
例えば漢委奴国王の時代とか

711 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:30:21.61 .net
大和国風土記にある話そのままじゃないか
初期のヤマト政権の仕組みは
石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のこと
石津川に祀られているのは五色の光り輝く石を持っていたえべっさんとひるこのえべっさんだな

712 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:30:47.19 .net
>>708
単に武器として使ってたってだけだもんな

713 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:31:22.80 .net
>>706
東に海を渡るとまた倭種の国があるので残念ながらそれはない

714 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:37:26.32 .net
銅鏡は畿内から大量に出る
九州では、卑弥呼時代より前の伊都国、奴国では多く出る
これは威信材である
ところが、卑弥呼時代以降には畿内に全く歯が立たなくなる

九州で銅鏡が畿内に圧倒される理由は、やはり畿内の傘下に入ったと見るのが自然

715 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:40:51.45 .net
黒い龍神伝承やトミの一族の伝承は東北と大阪によく残っている
大量のヒスイを集めていた三内丸山遺跡は遼河文明と関係が深いというか入所者の遺跡と言っても過言ではない遺跡だ
遼河文明は龍トーテムだった
国立遺伝学研究所から発表された母系遺伝子の研究では東北富山石川和歌山が同じグループで、大阪京都が1番近いのはこのグループだった
日本人の大きなルーツの一つだろうな
遼河文明や三内丸山遺跡からは楔状耳飾りを認めているが、旧石器時代から続く藤井寺の国府遺跡からも縄文時代前期両耳に楔状耳飾りをした5体の人骨が見つかっている

旧石器時代にサヌカイトの石器を使っていた人々と楔状耳飾りの集団は縄文時代の早い時期から共に暮らし始めている
日本人が形成されていく過程は大阪によく残っているのだ

716 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:41:10.04 .net
>>714
>九州で銅鏡が畿内に圧倒される理由は、やはり畿内の傘下に入ったと見るのが自然

違う。
畿内に倭人(阿波勢力)が進出していったからに他ならない。   @阿波

717 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:43:29.63 .net
卑弥呼時代は公孫氏に朝貢してて鏡が入手しにくかったので
難升米が魏からなんか欲しいものはないか?と聞かれて
鏡たくさん欲しいと言ったのかもしれない

718 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:48:03.18 .net
>>713
魏晋南北朝史学会の副会長である陳長崎先生の話では、これは卑弥呼時代の竹簡ではない可能性が極めて高い
刺史が純然たる監察官であったのは西暦100年〜150年くらいだろう
すると、弥生時代後期にはすでに九州〜関東までは共立邪馬台国の傘下に入っていた可能性がある

719 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:48:39.69 .net
卑弥呼以前に平原女王がいたはずなのに
後漢書や魏志に記録されていないのは妙だね。卑弥呼より50年ほど前の人かな。

720 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:50:35.85 .net
紀元前後、弥生時代中期末に起きたのは
大量の銅製品を集めていた荒神谷遺跡が営みを終える
丹後半島の中心集落の場所が変わる
鉄工房が丹後半島から淡路島や彦根に移動
愛知の朝日遺跡の墓制が日本海側の墓制に変わり墓域も変わる
朝日遺跡は渡来人100%の遺伝子構成の人骨が見つかった集落

弥生時代中期末に、弥生時代中期まで一世風靡し先住民を支配下に置きつつあった渡来人勢力が倒されたんじゃないか
先住民が主権を取り戻す動きがあったのかもね

721 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:53:59.31 .net
卑弥呼より前に女王はいない

722 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 21:56:41.82 .net
>>720
>鉄工房が丹後半島から淡路島や彦根に移動

鉄器王国「阿波」を頑なに避けて通るトンデモ。   @阿波

723 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:01:55.73 .net
2世紀以前の九州において、銅鏡や鉄を威信材として副葬していたことは確実である。
三雲南小路、井原鑓溝、平原、須玖岡本を見れば分かる

ところが、卑弥呼時代から九州では銅鏡も鉄器も全く出土しなくなる。
全く出土しないというのは大袈裟であるか、九州が副葬し始めるのは三角縁神獣鏡だけである。
九州では、3世紀以降、威信材としては三角縁神獣鏡しか副葬しなくなったのは確実である。

この点を奴国2万戸、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸なども照らし合わせて考えると、九州説が成立する余地が全くないのである。

724 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:11:18.98 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

725 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:18:15.03 .net
>>719
卑弥呼が即位した頃〜亡くなる頃のどこかの時期に伊都国で造られた墳墓だよ
卑弥呼は平原女王を知ってるはず

726 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:20:24.26 .net
>>723
卑弥呼時代は後漢に朝貢できなくなってる
九州にあった倭国が畿内に滅ぼされて併合されてしまったんだな

727 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:20:27.44 .net
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)

しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制や横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう

北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)

しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)

私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える

タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう(欠史八代などを考慮すればタイミング1の可能性が高いか?)

初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはその敵の勢力)
(続く)

728 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:23:11.73 .net
(続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった

北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王が治めるようになった(卑弥呼、台与)
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる

翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる

こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

729 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:35:49.34 .net
>>721
もしそうだったら平原女王が卑弥呼でいいな

730 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:36:57.27 .net
>>726
>九州にあった倭国が畿内に滅ぼされて併合されてしまったんだな

いや、勝手にイト倭国が失速したんだよ
威信財の頒布が出来なくなって権威は失墜し
原の辻貿易が博多湾貿易にとって変わられて対外経済活動の主役の座も畿内と親しい奴国に奪われた
干戈を交えずに勝負がついたのさ

731 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:38:08.94 .net
畿内は労働力を無駄に使っただけ、幼稚園児の砂場遊びみたいなものさ

732 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:38:20.72 .net
>>729
>もしそうだったら平原女王が卑弥呼でいいな

無理
大魏の成立前に死んでる人だから

733 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:40:07.22 .net
>>721
>卑弥呼より前に女王はいない

いたのは金持ちの女村長くらいだな

734 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:42:04.58 .net
当時の九州で倭国乱は無かったね
倭国混乱くらい

735 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:43:00.43 .net
畿内で墓に朱が使われるようになったのは九州より先なのかな?

736 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 22:44:11.61 .net
>>734
畿内が倭国だった証拠は無い

737 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 23:44:50.29 .net
>>736
とすると九州説は倭人伝に合わないね

738 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 23:48:10.21 .net
>>735
>畿内で墓に朱が使われるようになったのは九州より先なのかな?

九州は遺体に施朱する風習
棺内に朱を塗る東方式は畿内から九州に伝わった

739 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 23:52:21.47 .net
>>738

>棺内に朱を塗る東方式は畿内から

畿内の墓で九州より古いものはどれ?

740 :日本@名無史さん:2024/03/08(金) 23:58:06.97 .net
>>637

日本の古地名を根拠にするなら、中国の学者より日本の学者の研究
古代日本の運搬が陸路か海路かというのも日本の研究
中国人学者に聞いても結局日本の古代を研究してなければ
素人レベルの答えが返ってくる

741 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 00:04:41.41 .net
日本の学者は頼りにならないだろ

742 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 00:10:38.07 .net
中国の学者に聞くのは、倭人伝の解釈だけ、当たり前

743 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 00:22:45.38 .net
>>741
>日本の学者は頼りにならないだろ

九州説は学者に否定されてるからなあ

744 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 00:27:06.58 .net
>>611の中国人学者の中で
倭人伝に関して見解を述べているのは陳長崎教授だけ
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。
いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い
一つの完成した史料とは言えず部分部分で内容が矛盾している」

745 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 00:44:38.41 .net
張莉准教授以外は倭人伝関連の見解だな

746 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 01:03:28.97 .net
>>611の中国人学者の4人中
日本の古地名の研究の専門家でもない学者が
古地名を根拠にしたり、
九州と畿内の地名の類似を根拠にしている
バラエティ番組側による日本の邪馬台国論争の情報提供を受けていると考えられる

747 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 01:13:41.49 .net
倭人伝が根拠だろ

748 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 01:21:32.42 .net
日本を貶める目的ならここに出入りしてる朝鮮人のように畿内説をとるしな

749 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 01:35:07.32 .net
ネイティブスピーカーで、かつ文献学の専門家が、北部九州と言っている。
謙虚に聞こうよ。

750 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 01:40:04.83 .net
元々今の雑多九州説は、
元映画会社の脚本家の九州文学小説のヒットで始まった
続いて関西の在日朝鮮人定時制高校の元教師や
心理学者のイベント業者が名乗りを上げ、
学者との討論やイベントに招くことで集客した
常にメディアがビジネスとして関わっている

751 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 01:49:16.75 .net
九州説は需要があるからな

752 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 01:50:52.83 .net
さして説得力のない畿内説学者の戯言とか誰も聞きたくないし

753 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 01:55:11.23 .net
ヒットした九州文学小説の後は
時間がかかる学問的根拠がなくてもいい九州説は
メディアにとってはちょろい商売であるけれども
今ではもう儲けもしょぼい

754 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 02:07:25.14 .net
>>749
まずはこの動画などを見て「ネイティブスピーカー」とは何なのかをよくよく考え直してみることをおすすめします。
https://youtu.be/KUIEuG5Ox6A?si=bMadQGGTAoe9p0M-

755 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 02:10:52.26 .net
これ読むとトナカイがXの楊堅じゃ無いかと思った
https://x.com/kofunjidaishi/status/1766146719497310615?s=46&t=jWZFRdmwp0KW2-6kNqRixg

756 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 02:17:01.99 .net
出版不況といわれて久しい今の時代は小説は売れない
畿内説が学問の通説になってしまった現在、
文学小説に始まった雑多九州説を復活するには、
ダンスが義務教育になりティ−ンに大人気のDリーグ(ダンスプロリーグ)で九州説チームが優勝し
全国の小学校に「九州説Tシャツ」を3枚贈るしかない

757 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 02:39:22.24 .net
>>754

中国历代语音变化を説明してあげないとないと
一人一説雑多九州説が見ても確実に意味がわからないと思う
説明しても拒絶するだろうけど

758 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:06:06.65 .net
>>748
仮に、日本を貶めるとしても事実は捻じ曲げることができない
アカギしげると同じ
ヤクザが「出た目は半だ!」と言い張っても、出た目は丁であるから、これを殺されるのを避ける為に「半だ!」ということはできない。

759 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:10:47.72 .net
>>749
日本の考古学をやってない中国の文献史学の学者が北部九州説をとることは全く違和感ない
仮に裁判をして魏志倭人伝(伝聞証拠)だけを読ませたら、裁判官は九州説に軍配をあげる可能性が高い

が、文献(伝聞証拠)だけでなく、物的証拠(間接証拠)も合わせて裁判官がジャッジしたら、絶対的に畿内説しか採用しようがない

760 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:21:29.10 .net
>>757
畿内説が絶対的に確定であると信じている畿内説の私でも、「中国人の文献史学者は無知である」というような主張は到底採用できない
九州説に対抗する為に中国人史学者も貶めようとするのは、まさにブーメランになる

これを主張すると、九州説が言っているように、日本の考古学者は全てインチキで無知であるということも受任さざるを得ない
もし、中国人の文献学者がデタラメであるというならぱ、その根拠を示すべきである。
あなたは、畿内説を貶めているので書き込むべきでない。
書き込むにしても、中国の文献史学者を素人呼ばわりするべきでない。
あなたが中国の文献史学者より知識を有している可能性はゼロである。

761 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:27:43.41 .net
北部九州説は元々考古資料が根拠で
行程記事だと九州説をとるとしても南九州だろうね

762 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:33:43.26 .net
バラエティ番組出演者で
魏晋南北朝史が専門の中国人学者は陳長崎教授しかいない
「中国人の文献史学者は無知である」のではなく、
バラエティ番組出演者の中国人の学者は
日本の古代に関しての研究をしていない

763 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:36:00.63 .net
>>760
>中国人の文献学者がデタラメであるというならぱ、その根拠を示すべきである。

陳長崎の間違いを史料上の根拠をあげて論破した人がいたが
九州説は中国人盲信をやめなかった

764 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:36:10.93 .net
のに
日本の古地名や地名の類似を根拠にしている

765 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:43:31.57 .net
>>764>>762の続き

766 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:56:22.98 .net
これはバラエティ番組制作スタッフが、
九州説にはもう北部九州がヤマ地名だったとか、
心理学者の説の地名類似とか、
牛馬がいないから伊都国から遠くないくらいしか
根拠とすることはできないだろうとバカにして
適当に番組作っていることの表れ

767 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 03:59:55.47 .net
>>762
確かに、日本の古代の研究は大してやってないだろうが、台湾大学の周徳望は日本古代史研究家(どの程度か知らないが)でもあるという。
それと、「バラエティ番組」という主張は全く採用できない。
NHKより学問的な番組であった。

陳長崎先生が、刺史の記述を「これは魏の資料でない」と断言したのは相当な知識をあなたや私より有しているからである。
他の莫大な資料を見て、そのように判断したのだろう。
これに対し、陳長崎先生を貶めようとする畿内説の人は、「魏の時代でもAやBの例から監察官であった」と主張するが、陳長崎先生からすれば「この日本人は全く無知すぎる」と思っているかもしれない。
とはいえ、陳先生が全く反論しない、反論する気もない・畿内説から否定されていることも恐らく知らない状況で「陳は無知だ」と言うべきでない。
陳先生が反論すれば、一大率が監査官でなかった可能性は極めて高いということを、日本人も認めざるを得ないだろう。
畿内説が「お前は嘘つきだ。魏の時代でも刺史は監査官だ!」と主張したら、陳先生は100倍の反論を持っているはずだ。
私も絶対王者通説畿内説だが、陳先生を批判すべきじゃない。

768 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 04:16:36.47 .net
>>767

魏晋南北朝史が専門の陳長崎教授の倭人伝の刺史に関する見解は専門家としての見解
だから「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。
いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い
一つの完成した史料とは言えず部分部分で内容が矛盾している」
というのも専門家としての見解
であるのに、問題は邪馬台国の比定に関して
魏の時代について書かれた文章そのものではない倭人伝の記述を根拠に理にかなうとか
日本の古地名も研究していないのに国が移動して地名も移動するという
明らかにバラエティ番組制作スタッフが用意した情報を根拠にしていること

769 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 05:17:23.23 .net
>>768
>というのも専門家としての見解

それなのに明らかに間違ってるって、どんだけカス?

770 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 07:21:57.44 .net
おは。まだやってらっw
えろい人が、中国人学者の話を纏めてくれてたんで、
おかしいとこ指摘するのに倭人伝全文貼ったけど… まだ?
刺史がただの官、とか言うのは、畿内説以外で聞いたことが無い。

65 其八年 太守王頎到官
245年玄菟太守だった王頎は、
幽州刺史の毌丘倹に従い高句麗を東臨大海に追った。
そもそも、毌丘倹は、公孫氏を討った天下のw副将軍である。
太守を従えて戦争する刺史であって、ただの官ではない。

東夷伝序文
略)
其後 高句麗 背反 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 践 肅慎之庭
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀

長老から、顔が二つの漂流者の話を聞いたのが王頎で、
この詳紀が、倭人伝である。

王頎は後に中央の太守となるが、この与太話は、
多分陳寿が280年頃に、直接取材したのでは? 
と思う。 これ、マメなw

771 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 07:32:29.33 .net
日本最古の名城は吉野ヶ里

772 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 07:40:53.48 .net
>>770
>えろい人が、中国人学者の話を纏めてくれてたんで、

それが間違いだという動かぬ証拠を突きつけられたのに
肩書きだけを信じて証拠を軽んじる九州説は
もちろん学問じゃないね

773 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/09(土) 07:46:12.51 .net
ヤマト王権は建国の折に中国の属国になりました
卑弥呼の朝貢が何よりの証拠です

これを教科書に書かないから九州説という国学者の亡霊のような連中が湧き出てくる
あとアイヌは日本の先住民であるということ、和人は弥生時代に韓半島からやってきたと、これは受験勉強の際に学ばせるべきである

774 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:01:05.27 .net
だから卑弥呼は九州の女酋長だ
と言う結論に、なってる。

775 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:07:16.10 .net
一大率、刺史の話をしたが、
これが、中央から派遣された
大宰府なんだよ。

女王国は、主権国家じゃ無かった。
だから、倭人伝は247年でオワタ。
三国志は、終わらないのに、だ。

ヤマト畿内説なw

776 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:17:10.03 .net
>>768
じゃあ、あなたは中国の史学者より文献に詳しいんですね?
魏晋南北朝の全てに応えられるんですね?
魏晋南北朝史学会の学者達と会話が成立できるんですね?

そんなことは絶対にあり得ない。
ここにいる連中はほとんど素人レベルしかいない。

777 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:18:17.26 .net
>>774
なりません

778 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:19:51.25 .net
>>771
吉野ヶ里は出土物から、伊都国、奴国よりかなり格下である

779 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/03/09(土) 08:35:41.47 .net
これはオレの感想に過ぎないがO1b2は中世初期までに爆発的に増え、D1はそれ以降に増加したのだろう

古代の荘園世界では藤原氏の血筋のものが社会的優位性を持っていたために飢饉や戦乱の中で優先的に生き残り子孫を増やすことができた
中世以降は源氏と平氏の血筋のものが武士社会の中で社会的優位性を持っていたために戦乱の世でも優先的に子孫を増やすことができた

今の日本人のYハプロの割合が古代中世と同じであったとは考え難い
日本人が縄文文明人の末裔であるという言説は階級社会による社会的淘汰というものを考慮していない発想なのである

オレはヤマト王権の初代王と藤原氏の始祖つまり藤原鎌足の二人の子孫が異常に多いのが日本人のYハプロの割合の示すところであると考えるのである

780 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:36:14.82 .net
>>777
成増

781 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:38:19.23 .net
>>776
>じゃあ、あなたは中国の史学者より文献に詳しいんですね?

間違いは間違いなんだよ
証拠みたろ?
なんで九州説信者は証拠を無視して肩書きを盲信するの?

782 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:42:18.73 .net
住居ゼロという証拠を重視:九州説

783 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:48:02.26 .net
>>782
住居ゼロって証拠は?

784 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:48:41.45 .net
鉄器ゼロという証拠を重視:九州説

785 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:48:53.77 .net
肩書を盲信
畿内説が言うのかw

786 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:57:02.66 .net
何の自虐ギャグかと思ったわw

787 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:57:20.75 .net
久住猛雄はXのポストでまた畿内自生説を古い考古学と斬って捨てている
畿内説でも久住猛雄や松井武彦の論は九州説の私から見ても合理的でバランスが取れていて大いに参考になるが、何故このスレには近畿至上主義、大和中心主義イデオロギーに凝り固まった古臭い畿内自生説的な畿内説論者しかいないのかね?
それが残念だ

「>古い考古学を参照しているとしたら、私の力の限界ですが
それです。「自生説」への固執など。
また「全て」をそれで説明していないとしても、それぞれの説明に一貫性が無く、「全て」ではないですが、「近隣」地域(この「近くの」が曲者)の地名や氏族伝承から無理矢理結びつけている場合があります」

「>大和朝廷の大和自生説は考古学的な発想ではなく、記紀の記述(欠史八代とその後の歴史)から来るものです
つまり考古学的なそれへの否定意見には、考古学的には反否定できないということですね。これまで考古学的に無理筋な反否定をされて来ましたが。結局は「記紀」のみが拠り所ですね。」

あとこの久住に否定されている論者、記紀を根拠にするならむしろヤマト王権は九州からの征服勢力と捉えるべきなのに、何故記紀が自生説の根拠になるのか理解不能

788 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 08:57:59.25 .net
>>782
失礼ね
まだ発掘されてないだけであるはずだよ

789 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:03:10.81 .net
>>784
>鉄器ゼロという証拠を重視:九州説

鉄器ゼロって証拠は?

790 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/03/09(土) 09:05:22.06 .net
ヤマト王権は九州や吉備からの征服王朝であるのは明白
そしてこれ邪馬台国であり纏向遺跡が本拠地であった

結論は単純なのだが、ネトウヨが畿内説は畿内自生説という古い話を持ち出してお人形さん遊びで論破ごっこをしているのである

791 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:06:27.95 .net
>>785
>畿内説が言うのかw

言うとも
九州説が証拠を軽んじて権威を盲信してる証拠が出てるから

792 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:07:46.69 .net
ネトウヨボクメツタイって九州説信者のナリスマシだったのかw

793 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:14:24.99 .net
倭人伝はというか三国志は中国人が中国人向けに書いたもの
じゃあ中国人の受け取り方は大いに参考になろう
という話だろ
中国人の受け取り方に証拠、証拠言うのはアホみたいに見えるわ

794 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:36:08.01 .net
>>793
でも、そも「受け取り方」がキチンとした証拠で否定されてるわけだよね
なぜそれを盲信するの?

795 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:37:17.24 .net
>>794
キチンとした証拠てなんのこと?

796 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:50:17.18 .net
キチンとした証拠:鉄器ゼロで木器を使っていた

797 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:50:33.95 .net
>>795

see>>364

798 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:51:33.09 .net
日本書紀では卑弥呼は神功皇后。
魏〜唐では邪馬台国は大和王権。
これを覆す証拠はまだ出ていないw

799 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 09:52:56.42 .net
>>796
ニセ証拠を捏造する九州説

800 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:11:00.35 .net
>>364
書いてある、
と言っても部分を引いて
証拠とは言えない。

その人は単于に敗れたが
後も曹操に重用された将軍。

魏は戦国で倭人伝の背景でも
ずっと戦争をしていて、
武官であれば、太守にしても
単なる官ではない。

801 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:14:29.94 .net
卑弥呼、台与の後継は斎宮の女王(ひめみこ)
崇神の代で確立済み。

802 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:21:44.77 .net
>>801
崇神と応神は同一か?

四道将軍以前にヤマトが統一国って
おかしく無いのか?

803 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:28:18.75 .net
>>801
崇神天皇 = ニニギ

これが俺の最新の考察見解

804 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:32:05.37 .net
ニニギは伊都国のニキだよ

805 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:33:02.75 .net
卑弥呼のアマテラス説もあるネw
墓から八咫の鏡出ちゃったから。

806 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:33:15.76 .net
じつは崇神がニニギで、垂仁がイワレヒコ考察

なぜ記紀編纂者は、そう思ったのか?

323 日本@名無史さん sage 2023/06/18(日) 12:03:54.51
興味深い案件にぶつかったw

崇神 五十瓊殖(印恵)  いにえ(贄=供え物)

垂仁 五十狭茅(伊佐知) いさち(幸=獲た物)

景行 忍代別(淤斯呂和氣) おしろわけ

つまり、、、

「瓊」瓊杵が天孫降臨で「殖」民

山「幸=佐知」彦

「忍」穂耳の「代」の「別」
(オシホミミの代の別系譜)

じつは崇神天皇がニニギだった?(印恵だから、金印を恵んだ?w)
そして景行天皇で別の代・系譜にバトンタッチ?
ニニギ(杵)とオウス(臼)は、ほぼ同時代だった?w
いろいろと情報ぶちこんでて興味深いねw

807 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:36:18.34 .net
ぶちゃっけ、御間 = みま = 御孫

天孫のニニギさんですw

808 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:42:53.22 .net
>>807
ぶちゃっけ、御間 = みま = 美馬   @阿波

809 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:51:44.07 .net
神話は神話のままで良いのに
欠史八代のあと、また繰り返すのな。

四道将軍で
瀬戸内海~越、尾張、東海
までまとめて、
倭人伝の246年一大率で九州平定

これが、
ヤマト朝廷の誕生の真実なんだよ。
倭人伝論争で、有耶無耶にしようぜ。

810 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/03/09(土) 10:53:41.95 .net
ハンギョレ新聞のニュースで倭国が百済を支配していた証拠なる妄説が出ていてうんざりした
そのニュースとは「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見」というものだ
埴輪工房があったから倭人居住区と分かったのだが、倭人が百済を支配していたなどあり得ない

オレは逆に埴輪の起源が百済であったと考えたい
埴輪が用いられていたのは栄山江流域だけでなく、百済全域であった可能性があり、倭人はこの文化を輸入したのだろう

記紀では殉葬を禁止して埴輪を建てたというのだが、これは信じ難い話だ
形象埴輪が人物埴輪になったのは百済文化の影響だったのではなかろうかと思う

811 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 10:53:50.55 .net
>>800
>その人は単于に敗れたが
>後も曹操に重用された将軍。
>魏は戦国で倭人伝の背景でも
>ずっと戦争をしていて、
>武官であれば、太守にしても
>単なる官ではない。

なんか発狂してます?
その>>364は後漢末から魏にかけての歴史を述べた箇所なんで賈逵がどうだったかと無関係だってことは
ふつうの知能があればわかるのに
魏代も刺史は督察業務を担ってたので陳説は不成立って証拠だよ

812 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 11:02:23.82 .net
>>810
百済は倭人が雑居していた多民族国家って隋書に書いてあるやん。

813 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 11:03:10.80 .net
>>811
三国志なんだから
魏の曹操の話だろ?

中国人の歴史は
毛沢東から始まるのか?

習近平に、現代中国里では、
中国からチベット国境まで何里か?
聞いてみw

814 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 11:11:29.66 .net
大陸に倭人はいないよ

倭人の装束をした呉人らの間違いだろ

倭人が縄文人としての場合な

815 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 11:12:30.55 .net
越人、呉人とかそのあたりだろ

816 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 11:15:42.23 .net
セロイひと

817 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 11:18:43.91 .net
ぶちゃっけ、朝鮮半島って「逆立ちした大きな馬の頭」

九州地方は「小さな馬の頭」って見えるよね

地形的にw

おおぐま座と、こぐま座が天空で向き合ってるような感じにw


>>567
それは認識してる

てか、「壹」は後世の人間による嫌みな修正 
or 陳寿が春秋の筆法を使った隠しメッセージ

つまり、司馬懿の字を「司【馬壹】恣」と分解し
「邪馬壹国は、司馬懿の功績を大きく見せるための、でっち上げ」の意味を込めて
「邪【馬壹】国」にしたと最初は考察してたが

やはり、半島との対比が如実に感じるんだよね
最近の俺の考察的に

涜蘆国 ←→ 末蘆国 などもそう

818 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 12:18:32.65 .net
>>812
日本が百済撤退を確定したのは663年です。
この後、対馬国境を確定するために日本書紀を作りました。

百済 禰軍 墓誌(要所抜粋)
于時 日本 餘噍 拠 扶桑 以 逋誅 風谷 遺甿 負 盤桃 而 阻固
萬騎 亘野 與 蓋馬 以 驚塵 千艘 横波 援 原虵 而 縦濔 以 公格 謨海 左 亀 鏡瀛
東 特在 簡 帝 往尸 招 慰
意訳
660年百済滅亡の時、
日本の残党は扶桑=日本本土に逃げ帰り補足と懲罰を逃れた。
風谷となった百済の遺民は、盤桃の国土に残り固く抵抗を続けた。

これが、白村江の2〜3年前。百済滅亡時の様子である。

百済建国以来、開拓と高句麗戦で牛馬の移入などの成果を上げていた
日本移民や進駐軍は、百済滅亡によって、ほとんどが引き揚げていった。 
百済王族や将校などは逋誅され唐に送られている。

白村江はこの後で、日本国内の在日百済人や百済貴族など遺民の送還と、
多分九州豪族などの残留民の回収のために送られた。 
他に日本が、楽浪方面に上陸を目論む理由は無い。

遣唐使時代の日本には、唐と戦争の意図はなく、
新羅との戦争が目的なら釜山上陸が当然なのである。

819 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 12:19:31.40 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

820 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 12:46:34.42 .net
それ平安読み(成立西暦850年)

821 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 12:47:37.53 .net
卑弥呼の時代は西暦240年ころか〜🤔

600年前やな

822 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 12:54:33.14 .net
百済の滅亡で楽浪郡、帯方郡と倭国の外交史は終わった

823 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 13:07:36.50 .net
>>822
313年でしょ?
百済を作ったのは370年、
七支刀の仁徳の話。書いたっけ?

高句麗が攻めた訳で、
倭人は攻めてないけど加勢もしてない。
たぶん南に逃げた鏡職人とか連れて来てる。

この後、半島進出が本格化するけど
卑弥呼の国には無理な話。
当然、安曇族は尖峰に立つけど
親方は邪馬台国じゃなくて、畿内ヤマト朝廷。

824 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 13:12:36.36 .net
百済は始祖仇台が帯方郡で建国した国。大和王権と大陸のコネクション。

825 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 13:57:54.42 .net
刺史に関しての陳長崎教授は、
刺史は往時は監察官で統治権がなかった
漢末より以来は諸郡を総統するようになった
倭人伝では女王とは別の王(統治者)がいる伊都国に置かれ、
官がいない末盧国などの諸国を檢察はしているが
統治はしてないので魏の時代の刺史とは違うという見解だろう
「刺史の如くあり」で刺史そのものではないから
解釈の違いだろう

826 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/03/09(土) 14:32:27.14 .net
ネトウヨ史観だと日本列島が生まれた時からこの島国には日本人が住んでいたのだという

もしこれが正しいとすると日本人はアフリカ起源のホモサピエンスではない事になる
つまりジャップは人間ではなく、人に似た猿の一種で生物学的には亜人という結論になる

このようにネトウヨ理論は常にブーメランなのである

827 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 14:45:09.76 .net
>>825
>官がいない末盧国などの諸国を檢察はしているが
>統治はしてないので

じゃ、官のいない末盧国は誰が統治してんの?
言ってること矛盾してない?

828 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 15:09:20.99 .net
>>825
刺史
>漢末より以来は諸郡を総統するようになった。
「刺史の如くあり」は、魏の役人張政の報告。以下。

47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

48=王の遣使が京都=洛陽に朝貢に向かう時も、郡や諸韓國からの使も、
女王や皇帝への傳送文書及び賜遺之物も全て例外なく一大率の検閲を受け差錯を得ない。

つまり、
一大率によって女王国は主権国家では無い。と報告している。
だから、この247年で女王国と魏の外交は終わった。

陳寿は、倭人伝の意義を東夷伝序文

東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉

評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
で、
いまだ備わっていなかった東夷の国の実態を
この二回の遣使による魏使の報告書で
ここに記述できた事だ、と言っている。
中国人は、漢文がちゃんと読めているか?

829 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 15:11:17.21 .net
>>827

女王を共立してない首長
四千余戸有るから複数かもしれない
一大率が檢察してるのは末盧の津周辺だけだろう

830 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 15:32:54.98 .net
>>828
魏の観点から中央集権による首都と呼べるもんがないかもしれん。国による支配でなく卑弥呼という共立された王によって保たれている弱い基盤でしょうね。

831 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 15:33:55.85 .net
>>829
州内の各行政担当者を綱紀取締りするのが刺史の主要任務だから、刺史の如きだというなら末盧国も取り締まらないのはおかしいでしょ

832 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 15:40:36.70 .net
>>828
×魏使の報告書
○各国から来た遣使の話

833 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 15:41:22.15 .net
>>831

末盧国には共立した官名が書かれていないから
魏における州内ではない

834 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 16:30:43.22 .net
もはや詐欺にしか属さない畿内説

835 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 16:35:32.46 .net
>>833
>末盧国には共立した官名が書かれていないから
>魏における州内ではない

女王国以北にある国で、海外から来た人や外国の使者が通る土地なのに、なんで女王の管理下にないの?
おかしくない?

836 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 16:38:05.95 .net
>>833
決めつけるのはどうかと思うけど
官名が書かれていなくても資料が散逸していて’記載できなかっただけの可能性もあるわけで

837 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 17:21:20.78 .net
中世ではかぐや姫は鶯の卵から生まれる認識もあったみたいだね
仲哀天皇の妃大中姫の子や系譜にkagの音の人物がいるんだよな
麛坂、香坂皇子
鶯塚古墳は誰の墓なんだろう

話は別になるが、酒と関係が深い香の字も気になる

838 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 17:27:41.81 .net
>>835

「草木茂盛 行不見前人」だから
末盧国の端っこだけ
?B期(3世紀第4四半期)に唐津に双水柴山2号墳(方円35m)が造られ
3世紀末-4世紀に久里双水(方円108.5m)に造られるから
台与の代〜終わりにかけて唐津の首長が倭国に編入されるのであろう

839 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 17:27:48.13 .net
>>833
魏が238年に半島に入って
239に公孫氏を滅ぼしたんだけど
240年の官って何?

840 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 17:34:28.09 .net
>>836

小説ならそれでもいい

841 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 17:36:11.29 .net
>>839

「國皆稱王丗丗傳統」が女王を共立したら官

842 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 17:43:28.99 .net
>>839
良くないよ?
官が何か? ってキャラクター設定でしょ?
魏使が官って、言ってんだよ?
王都邪馬台国の官って何?
戦争相手国狗奴国の官って何?

843 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 17:47:38.28 .net
>>841
それは王だし? 漢代は大夫だった。

844 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 17:55:15.40 .net
九州説は残念ながら成立できない

845 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 17:55:33.55 .net
>>843

魏が認めたのは親魏倭王卑彌呼だけ
女王を共立している女王国には王は女王卑弥呼だけ
女王国の隷属国には自称王がいる
女王国に属さない国にも自称王がいる

846 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 18:06:12.04 .net
>>845
だから、対馬の官は王でも良いけど
邪馬台国の官は何? いっぱいいてなw

847 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 18:17:56.10 .net
中国史が周辺国の王を官と言う事例は無いだろ?
官と言うのは、皇帝の時世での官だよ?

倭人伝の官は、日本まで来た
魏使の権限で雇った通訳案内人以外に有るか?

848 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 18:20:55.31 .net
南朝幕府の将軍やってた時代は黒歴史

849 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 18:34:44.37 .net
高句麗は、313年に漢四郡を潰した。
350年代に、幽州刺史、楽浪候となるが
これに対抗して日本は馬韓辰韓と対高句麗戦を始めるが、
百済建国には370年までかかった。

ヤマト朝廷の牛馬移入は
高句麗人の支援無しでは成立しなかった。

古代日本の富国強兵の謎は、牛馬に有る。

850 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 18:42:23.54 .net
>>848
倭の五王は高句麗との戦争をした。
百済と新羅は友邦。傀儡かも?
で、中華の幽州刺史、楽浪候である高句麗
と、交戦してる事を南朝に認めさせて
北朝を挟み撃ちにしてやんよw
と言う、餌を出した。
 
これが古代東夷外交。

851 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 18:49:14.83 .net
卑弥呼は考案天皇の義姉
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/128fca430d598bae1f26279fc2f113b5_22bbbd6c089554d021a639f7a6ab0bae.png
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/22c87748231302394646263d6855b9b7_c6b34f31e2365cbb0a6fd8756fb501de.png
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/2caf03bd8e03ac24bac4fdfbbfb1e2c7_38d1be08ced2e69c65615c139ccd50d3.png
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/8de074fab9d36e6359fa2c2e1fe73c22_b2322cf806b927e979925007fb203481.png

邪馬台国は大阪
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/1dd190589c3ff6c7d67e89389765cdc4_fb94200797418c4f556b50bacd04620c.jpg
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/5480c962ad16c2f14e6b35dc9fc72608_c68cd509df10e34fae204c45d884ec7c.jpg
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/8d8b98840c65fcd11e67905ffd85d02b_7b32ddf35ccf2ed0dabf5e78dcc93755.jpg
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/55a6208de3d11bf1b706c43ad1debc98_79cfede4911251a68458cc363ca25436.jpg

古代の我国
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/5b812e626a1d369bf046351d3b9e5c0f_8ee2bcffd61c8fef9feed69c09c6ee8b.jpg
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/610352ea0f3012d38f0abac1b65203a9_f47cae88a8ec08cc0a8a9f442c68ed20.jpg

852 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 18:56:44.42 .net
なんで釣れないんだろう?
畿内説って、歴史、文献はダメって、知ってたけど?
まあ文献原理は、大倭王九州説でも無いけどね。

ヤマトは畿内は、絶対正しいぞw
1000は? 反論、出てこないなら
もう寝るぞw

853 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:10:28.27 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

854 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:13:27.70 .net
根拠は倭人伝なんだけど?
なんで、
畿内説の反論は釣れないのかな?
根拠無し?
みたいのは数十年来で知ってる。

畿内説は、三国志の倭人伝とは無関係な
ヤマト畿内説だろ? 
間違いない。

855 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:13:40.04 .net
つまり畿内説はハッタリでしたと

856 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:19:01.05 .net
そんな時代も有ったね と
いつか笑て話せる日が 来る。
と、思うぞ?

ホントの事言っちゃおうぜw

857 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:32:13.64 .net
スレ主ってオクヤマとか・キナイコシ先生だろ?
1000スレ、オメ。

ここが、もう師匠なんだから、
なんか聞きたいこと有る?

858 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:40:29.51 .net
>>851
纏向より大阪のほうが可能性ありそう

859 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:41:00.34 .net
海の近くにある国だもんね

860 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:46:25.84 .net
神功皇后は鶏との因縁が生駒に残っている
役立たずと神功皇后に川に捨てられた鶏は龍田の神さまに拾われて庭で飼われるようになったという
鶏が鳴くは東の枕詞
この時代は東国も深く政局に関係しているんじゃないか
出雲臣の一族が活躍する時代でもある 
先代旧事本紀によれば出雲臣の一族が武蔵国造を務めたとある
五十狭茅宿禰は武蔵国造の子やね
忍熊皇子に応えて東国で軍を起こしたという

また風を起こし東国に去った伝承のある伊勢津彦は武蔵国造の祖で三世孫が相模国造になったとある

鶏の鶏冠は昔はサカと呼んでいたという
常陸国に坂鳥が住むと風土記にあるね

少しずつ卑弥呼かもと時々言われる神功皇后の時代が紐解かれていけばいいが

861 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 19:57:57.59 .net
サカ、鶏、酒、香、酒は薬、三輪山の狭井神、薬の神さまスクナビコナ、薬師に蛸薬師、
この辺りが同じ存在を表していれば面白いが

嵐を伴い大蛸に乗り戻ってきた堅い木でできたお地蔵さんの伝承
蛸じゃなくて大蛸なのが気になるな

若草山一帯に勢力を誇った和珥氏はミマツヒコと関係があるらしいが、播磨風土記には姫路の飾磨郡の謂れにオオミマツヒコが屋形にいた時に鹿が鳴いた話が出てくる

862 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 20:02:43.11 .net
中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける。当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」

大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」

魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」

台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海流で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地のの人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」

863 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 20:10:31.79 .net
九州北部一帯が縄文時代からヤマと呼ばれたという根拠はない

864 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 20:13:25.53 .net
政治学の周徳望教授は
倭人伝の水行30日を無視している

865 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 20:14:32.87 .net
>>863
根拠は知らんが、そう考える研究者がいるということ
全員の研究者が同じ考えではない

866 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 20:16:42.19 .net
世界漢字学会の会長だからね
そんな適当なコメント出すとは思えんけど

867 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 20:33:11.20 .net
>>858
『日本書紀』推古天皇一六年に、次のような興味深い記事を見る。

『一六年(608年)夏四月、小野妹子(おののいもこ)は大唐(隋)から帰朝した。
隋の国では妹子臣を名づけて、蘇因高とよんだ。 大唐の使人裴世清(はいせいせい)と下客(しもべ)十二人が、
妹子に従って筑紫についた。 難波吉士雄成(なにわきしおなり)を遣わして、大唐の客裴世清らを召された。
大唐の客のために新しい館を難波の高麗館の近くに造った。 六月十五日、客たちは難波津に泊った。・・・中略・・・

秋八月三日、唐の客は都へはいった。この日飾馬七十五匹を遣わして、海石榴市(つばきいち)の路上に迎えた。』

裴世清たちは、四月に筑紫、すなわち九州に着く。そして六月十五日に難波津に到着する。
一行は難波津の迎賓館に相当する館に留め置かれ、飛鳥の都に入ったのは八月三日である。

難波津に一ヵ月半以上留まったのである。もし日本列島の地理を、まったく知らない人が、
この日付の記述によって、地理像を想定したら、難波津から都まで一ヵ月半と想定したとしても不思議はない。

『魏志倭人伝』の陸行一月の記事もこれと同じようなことが考えられる。
魏の使者を迎えるための準備が整うまで、大阪湾のどこかに留め置かれたのである。

地理像を描いた人物は、この滞在した期間を、移動した日数と誤解したのである。

『魏志倭人伝』の最後の行程、「陸行一月」とは、このような誤認に基ずく記述である。
その証拠に、上陸地点の国名や官の名前、戸数は何も記さない。ここは、もはや邪馬台国の一角なのである。

ここから邪馬台国の都までは二、三日である。

868 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 20:38:30.20 .net
>>867
それについては陳教授がコメントしていたやん
里数表記のところと、日数表記のところは別の時代の記録

869 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 20:53:23.19 .net
別の時代の記録ということは、公孫氏の記録かもな
わからんけど
魏使が里数表記使わずに日数だけを表記するわけないし
里数も日数も両方併記することはありうるだろうけど

870 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 21:25:11.88 .net
同じ時代でも別の時代でもどちらでも結果は変わらんけどな

871 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 21:44:50.35 .net
裴世清も菅原道真も二か月近く水行したんだな

872 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/03/09(土) 21:57:07.24 .net
ネトウヨは愚劣だから瀬戸内海を順調に海行出来ると思っているんだよな
奴らは「熟田津に船乗りせむと月待てば」の和歌すら知らない日本会議や統一教会の自民党や日本保守党支持者の底辺低学歴のバカだからモーター付きの船のように海を進めると思っている

873 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 22:18:25.70 .net
>>872
仮に瀬戸内海を水行してんなら、立ち寄った港の地名や国がいくつか出てきそうなのにね
魏志倭人伝に出てくるのは投馬国くらい

874 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 22:23:59.20 .net
>>873
難波が既に邪馬台国だから

875 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 22:26:10.94 .net
要するに陳教授が言ってる通りなんだろ
違う時代の情報なんだよ
不称国→投馬国→邪馬台国
と進んだわけではない
起点はよくわからんが、
大陸のどこか→投馬国→邪馬台国
ということ
これならスッキリ読める

876 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:11:14.31 .net
郡から女王国まで万二千里。
帯方郡から狗邪韓国まで7000里。船旅は1日350里進むので水行20日。 投馬国とは狗邪韓国のほか小国をいくつか含む含む広域国。
投馬国から伊都国まで3500里(末盧国から伊都国まで本来は水行500里)。船旅は1日350里なので水行10日。
伊都国から女王国まで残り1500里。当時の使者は陸行1日50里進む。日数に換算すると陸行1月。
邪馬台国とは、伊都国や女王国などの市町村レベルの国々を含む広域国家。つまり北部九州。
日程記事は、前に書いてある里程記事を書き換えた注釈的な記事。
里程記事は短里?で記されているが、日程記事は一里434メートル程度で計算されているので、事情を知らない中央の役人が作成したものだろう。

877 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:13:06.65 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

878 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:15:40.21 .net
東夷伝序文

書稱 東漸 於 海 西被 於 流沙 其 九服之制 可得 而言 也
然 荒域之外 重譯 而 至 非足跡 車軌 所及未 有知 其 國俗殊 方者也

自 虞 及 周 西戎 有 白環之獻 東夷 有 肅慎之貢 皆 曠世 而至 其 遐遠 也 如
此及 漢氏 遣 張騫 使 西域 窮 河源 経歴 諸國 遂 置 都護 以 總領之
然 後 西域之事 具存 故 史官 得詳 載焉

魏 興 西域 雖 不能 盡 至 其 大國
亀茲 于眞 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師 之属
無歳 不奉 朝貢 略如 漢氏 故事

而 公孫淵 乃 父祖三世 有遼東
天子為 其絶域 委 以 海外之事 遂隔断 東夷 不得通 於 諸夏
景初中 大興 師旅 誅 淵 又 潜軍 浮海 収 楽浪 帯方 之 郡
而後 海表 謐然 東夷 屈服

其後 高句麗 背反 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 践 肅慎之庭

東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀

雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉

879 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:16:14.72 .net
01 倭人 在 帯方 東南 大海之中 依山島 為國邑 旧百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭

03 循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
04 始度 一海 千餘里 至 對海國 其 大官日 卑狗 副日 卑奴母離
05  所居 絶島 方可 四百餘里 土地 山險 多深林 道路 如禽鹿徑
06  有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴
07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
08  多竹木 叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴
09 又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
10  浜山海居 草木茂盛 行 不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆 沈没 取之
11 東南 陸行 五百里 到 伊都國 有千餘戸 官日 爾支 日 泄謨觚 柄渠觚
12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
13  東南 至奴國 百里 官日 兕馬觚 副日 卑奴母離 有二萬餘戸
14  東行 至不彌國 百里 官日 多模 副日 卑奴母離 有千餘家

15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17  官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳鞮 可七萬餘戸
18  自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20  此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不属女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里

880 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:16:39.77 .net
陸行1日50里というのは、50×435メートルで21キロメートルくらい。箱根駅伝の一区間のイメージ。

881 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:20:07.35 .net
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)

28 其 風俗 不淫 男子 皆露結 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈結 作衣 如 単被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種 禾稻 紵麻 蚕桑 緝績 出 細紵 縣綿 其地 無 牛 馬 虎 豹 羊 鵲
31 兵用 矛盾 木弓 木弓短下長上 竹箭 或 鉄鏃 或 骨鏃 所 有無 與
32 但耳 朱崖 同 倭地 温暖 冬夏 食 生菜 皆 徒跣

33 有 屋室 父母 兄弟 卧息 異處
34 以 朱丹 塗 其身體 如 中國用 粉也 食飲 用 俎豆 手食
35 其死 有棺 無槨 封土 作冢 始死停喪 十餘日 當時 不食肉
36 喪主 哭泣 他人 就歌舞 飲酒 已葬擧家 詣 水中澡浴 以 如練沐

37 其 行來 渡海 詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟻蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人
38 名之 為持衰 若行者吉善 共顧 其生口 財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺 之謂 其 持衰 不謹

39 出 真珠 青玉 其山 有丹 其木有 枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
40 其 竹篠簳桃支 有 薑橘椒襄荷 不知 以 為 滋味 有 獮猴黒雉

41 其 俗 擧事 行來 有所云 為輒 灼骨 而卜以 占 吉凶 先告所卜其辭 如 令亀法 視 火坼 占兆
42 其會同 坐起 父子 男女 無別 人性嗜酒 見大人 所敬 但搏手 以當跪拝

43 其人 寿考 或百年 或八九十年
44 其俗 国 大人 四五婦 下戸 或 二三婦 婦人 不淫 不妬忌
45 不盗 僅少諍訟 其 犯法 軽者 没 其妻子 重者 没 其門戸 及 宗族
46 尊卑 各有 差序 足相 臣服 収租賦 有邸閣 國國 有市 交易 有無

882 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:20:44.15 .net
間違いだけどな

883 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:21:37.42 .net
47 使 大倭 監之 自女王國 以北特置 一大率 檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於 國中有 如刺史
48 王 遣使 詣 京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣 女王 不得差錯
49 下戸 與 大人 相逢道路 逡巡入草 傳辞説事 或蹲或跪 兩手據地 為之恭敬 對應 聲曰 噫比 如然諾

50 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 乱 相攻 歴年 乃 共立 一女子 為王
51 名日 卑弥呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
52 自為王 以来少有見者 以婢千人自侍 唯有 男子一人 給飲食 伝辞 出入 居虚宮室
53 楼観 城柵 厳設 常有 人持兵 守衛

54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
56 参問 倭地 絶在 海中 洲島之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里

884 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:24:28.56 .net
57 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都
58 其年 十二月 詔書 報 倭 女王 曰
59 制詔 親魏 倭王 卑弥呼 帶方太守 劉夏 遣使送汝 大夫 難升米 次使 都市牛利
 奉 汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到
 汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 
 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人勉為孝順
 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印綬
 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直
 又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹
 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤 皆装封付難升米牛利
 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

60 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王
61 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物 倭王 因 使 上表 答 謝 詔 恩

62 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
63 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等 壱拝 率善中郎將 印綬

64 其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授

65 其八年 太守王頎到官
66 倭 女王卑弥呼 與狗奴國 男王卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
67 遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之

68 卑弥呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人
69 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時 殺千餘人
70 復立 卑弥呼宗女 壹與 年十三 為王 國中遂定
71 政等 以 檄告喩 壹與

72 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
73 獻上 男女生口三十人 貢 白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

885 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:27:17.50 .net
鶴岡八幡宮では仲哀天皇は薬師如来とされたんだな

神功皇后が卑弥呼なら仲哀天皇は卑弥弓呼か?
歴史は繰り返す話なんだろうか?

886 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:27:34.67 .net
評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

これだけだよ? 中国人でも良いけど?
漢文読めるならなんか質問ある?

887 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:38:09.30 .net
外国に向かって
先っぽシマ(志摩、志摩)
海辺イソ(怡土、伊勢)
山向こうヤマト(山門、大和)
山中の盆地(日田、飛騨)

要するにヤマカド国は山門にあった

888 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:39:26.73 .net
>>886
なんで原文貼り付けてんの?

889 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:40:17.80 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

890 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:44:05.22 .net
黒塚古墳のU字型鉄製品
畿内説の人が、難升米がもらった黄幢だと言ってたけど、実は四世紀の冠帽だと判明したよ。
だまされてた!

891 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:47:17.23 .net
>>890
ソース提出

892 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:50:24.66 .net
まさか今日も埋まらないとか、思わなかったw
1000スレおめ。 おやすみ。うめ

893 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:57:21.22 .net
富士山って音的に、敵の山って感じがしませんか?僕はします。

894 :日本@名無史さん:2024/03/09(土) 23:58:13.96 .net
>>876
その解釈だと唐突に投馬国がでてくる説明がつかない
別の時代の情報ならスッキリ理解できる

895 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 00:00:43.61 .net
4世紀後半だな 
九州の勢力が畿内にやってきたんじゃないか?
竹内宿禰は日向牛諸井と配下の【鹿】皮の服を着た人々を味方にしていた
4世紀後半奈良に円墳と蛇行剣、4世紀末には堺の円墳七観山古墳と蛇行剣、豊中にも円墳と蛇行剣
5世紀に入ると円墳蛇行剣のセットは畿内から見られなくなり、6世紀継体天皇の頃宇陀に大量の円墳と蛇行剣が出現する
4世紀後半佐紀陵山型古墳と呼ばれる奈良の佐紀陵山古墳、和泉の摩湯山古墳、4世紀末に五色塚古墳、膳所、5世紀に伊賀、その後このタイプの古墳は見られなくなる

五色塚古墳は大量の石が使われ淡路島や讃岐から石を運んだ伝承
楠から作られた速鳥が淡路島から水を運ぶ伝承が残る
讃岐の人々や速鳥は奴婢として働かされていたのか?

5世紀に入ると突如百舌鳥古市古墳群の時代に
ヒスイの勾玉が再びブームになる
鬼の口(奴婢か?)に入れられても目から出てくる一寸法師
住吉の神を味方に付け軽い椀を船に、ハシを櫂に、ハリを刀に鬼の腹の中から鬼退治
奴婢にされていた人々が一斉に立ち上がったのかもな
鹿の耳の百舌鳥の耳原伝説も同じことを言っているのかな?

896 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 00:36:16.42 .net
飾磨郡で鹿の鳴き声を聞いた大ミマツヒコは大中姫の子、香坂皇子だったのか?
酒の神さまの子なら香がつくのは納得だな
孝昭天皇ミマツヒコの末裔かな?

そして大中姫は鶯姫だったのか?

897 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 02:00:13.69 .net
>>781
私は畿内説だ

898 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 02:02:22.75 .net
>>875
陳先生はそんなことは言ってない

899 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 05:26:38.79 .net
投馬国、邪馬台国は半島、九州以外ですね

900 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 07:30:43.81 .net
方角を間違うはずない 
中国にはBC5世紀から既に羅針盤があった
太陽の軌道でも確認出来る
投馬国までの起点を北方の対馬か釜山にずらせば、九州内で十分収まる範囲。

901 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 07:35:48.25 .net
>>900
九州説は言い張るだけ
根拠を何も出さない
だから学問の世界から排除された

902 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 07:42:25.70 .net
>>888 
おは? 
まず、倭人伝で修正されるべき箇所の可能性の話

12  丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐
卅有王皆統属女王國 往来  郡使 常所駐
これは、陳寿の文ではなく張政の報告書の引用

16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
南至 邪馬壹國 水行十日 女王之所都 陸行一月

この2箇所は、二重主語の筆法が有るのかもしれない

07 又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國
一大國 これは一支国 壱岐 官有 伊支馬=壱岐の馬

27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)
計 其 道里 文節で道里を計に主語が無い。 
太伯之後 部分が削除された可能性。

短里 の件は不明だが陳寿は247年魏使張政の報告書を引用
正始年間での事だが、これが陳寿にも、まかり通った。

これ以外は、普通に読んで筋が通っている。
行指定できるほうが話しやすいでしょ?

903 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 08:05:59.23 .net
僕の考えた最強の魏志倭人伝

904 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 08:14:57.24 .net
>>898
違う時代の情報とは言っていたよ

905 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 08:17:40.74 .net
>>901
距離は信用できないが方角は信用できると台湾大の教授は言っていたけど

906 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 08:21:02.77 .net
>>902
>伊支馬=壱岐の馬

なんやこれ?
馬はmaと聞こえた音に馬の漢字を当てただけ
牛馬はいないと言っているのだから馬はいない
そんなクソ簡単なこともわからんのか?
畿内説はアホばっかりやな

907 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 08:37:05.40 .net
魏志倭人伝は何のために書かれたか考えてみなよ
・書いたのは晋に仕えた陳寿
・晋の皇室は司馬氏族
・邪馬台国は司馬懿が朝貢のきっかけを作り、これにより司馬懿は大出世した
・大月氏国を朝貢させた武官も大出世している
・朝貢した国は多いが、「親魏」の金印を授かったのは邪馬台国と大月氏国だけ
・当時は三国時代、大月氏国は蜀を牽制するうえで重要な国
邪馬台国は呉の東の海の向こうにあったと思われていたなら、呉の背後にある国だから優遇された可能性大
・陳寿は周辺の国々を野蛮な国として紹介しているが、邪馬台国だけは素晴らしい国と褒め称えている
・その頃は、朝貢してきた国が大きくて豊かであるほど、また遠ければ遠いほど、皇帝に徳があるとされる価値観

ここから推測されるのは
「魏志倭人伝は陳寿が皇帝をアゲアゲするために書いた」
そのため邪馬台国を立派な国と誇張しているだろう
実際は、連合国のはずなのに狗奴国ひとつ牽制できないほどしょぼい
畿内さまの最強王権とは別モノ

908 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 08:39:21.24 .net
主語がどうのこうのと書く人もいるが、
ここの書き込みも、文法、品詞、等、考えて書き込まないと思う。
考えることは、他人が読んで分かりやすいか、誤解をしないかくらいではないかと思う。
左から順に読む、前後しない。
中国語も左から順に素直に読めば良いと思う。

909 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 09:16:41.30 .net
最低限の文法は必要だぞ

910 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/10(日) 09:55:45.40 .net
今の中国人でも文語文はかなり苦手だからな
オレも何人か中国人の知り合いがいて、皆かなりのハイレベルの大学を出ていて教養ある人たちだが、文語文は苦手だったと言っている
詩文以外では日本人も中国人も漢文の読解力に差はない

現代のイタリア人とアメリカ人でラテン語の文章の読解力に差がないのと同じようなものだ

911 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/10(日) 10:01:14.68 .net
日本人が云うところの漢文だが、これは現代中国語の口語文とは別物だから、それは知っておく必要がある
歩は口語文ではrunで走はwalkだ
日本の漢字は文語文と同じだから現代中国語とは意味が逆になっている

このように口語文ができるからといって文語文が書けるかというとそうはならぬのだ

912 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:08:46.90 .net
>>906
人名だけど?
倭人の官や使の名は
ほぼ、所属国名の後に名だよ。

913 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:09:36.66 .net
日本人に中国の韻文はちょっと難しいからね

914 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:17:48.69 .net
>>907
という憶測が考古学の結果から否定された

915 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/03/10(日) 10:19:00.17 .net
百済の都であった漢城から埴輪制作の跡が見つかったそうだ
オレはヤマト王権の埴輪の起源を吉備と考えていたが、実は百済だったのかもしれないと考え初めている

纏向王権を作ったのは九州と吉備の勢力だと考えられているが、何故ことさらに吉備が取り上げられるかというと特殊器台の存在があるからだ
そもそも特殊器台→形象埴輪というのは吉備は二次的で本来は韓半島のものではなかったのかと思うのである

纏向遺跡からはオンドルも出ているから韓半島とのつながりが非常に深い
今の学説は吉備の影響力を強く見すぎていて、実はこれは韓半島の文化ではないかという仮説を立ててみたい

916 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:19:20.62 .net
米英の歴史書は間違いだらけ
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2024/03/04/2024030480123.html
「広開土王は新羅の支配者」
「日本が韓半島南部に任那日本府を設置

917 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:23:08.66 .net
>>900
投馬国を九州内に見出すことは不可能

918 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:25:25.49 .net
>>915
>纏向遺跡からはオンドルも出ているから韓半島とのつながりが非常に深い

フェイクニュース



 

919 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:42:47.45 .net
>>917
>投馬国を九州内に見出すことは不可能

むろん半島にモナー

920 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:51:40.96 .net
纏向遺跡のある桜井市のお隣り、橿原市役所分庁舎前にストリートファイター「春麗」銅像クラウドファンディングで設置
https://news.yahoo.co.jp/articles/ff7f89f9bf843e4c34ef520cb51de584bec0bbd8
カプコン創業者の辻本憲三会長は同市出身ということで、橿原市とカプコンはストリートファイターを地域活性化に活用しようと、包括連携協定を締結
ゲーム「ストリートファイター」のキャラクター「春麗(チュンリー)」の銅像が市役所分庁舎ミグランス前に設置され、9日に除幕式が開かれた

921 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:52:47.43 .net
魏使が来た時点で畿内の政治的影響が九州最大の貿易都市に及んでるんだから
知性ある人間みな畿内説にならないわけがない

922 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 10:55:54.92 .net
ぶっさ、コミュ抜けるわ

923 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:00:44.44 .net
九州説では投馬国が見つからない

924 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:05:05.26 .net
>>923
だから、「投馬國」は温暖黒潮太平洋沿岸の四国土佐。   @阿波

925 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:11:50.54 .net
南に水行でいけるところに三潴、上妻、下妻のツマの国があるじゃん
投馬國を見つけたくない人は見つけられないんだろうけど

926 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:14:03.47 .net
>>925
そこに奴国の2.5倍の投馬国を設定することができない

927 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:15:19.04 .net
妻は妻でもヒメタタライスズヒメなんだな

だから、投馬国の官は彼女の息子たち2人w

928 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:15:19.20 .net
>>926
なんで?

929 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:20:09.66 .net
>>928
漢委奴国王金印・奴国の2.5倍を誇った痕跡がない

930 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:22:17.31 .net
>>929
倭人伝よく読めよ
投馬國、邪馬台国の戸数は推定だよ

931 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:23:03.01 .net
ちょっと狭くない?

932 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:26:45.02 .net
>>931
かなり狭い
しかも、九州説の場合、投馬国5万戸と邪馬台国7万戸に加えて、傍国21ヶ国を全て九州内に設定することになる

933 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:27:05.66 .net
言語学、考古学、比較心理学からの研究の結果、邪馬台国や卑弥呼は存在しなかったとする他ない。

934 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:28:43.72 .net
福岡平野240km2
筑後平野600km2

ちょうどいいだろ?

935 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:28:53.69 .net
>>933
初代は、もう死んでる
魏志倭人伝に出てくるのは2代目

936 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:29:36.21 .net
>>932
訂正
傍国21ヶ国を全て「北部九州」に設定

937 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:31:11.87 .net
>>934
平原を最後に三角縁神獣鏡しか出てこない

938 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:35:03.34 .net
>>937
急に話変えるんだなw
銅鏡は模倣、大型化を経験して宝物としての価値はなくなったんだよ
奈良の田舎では流行ってたみたいだけど

939 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:41:39.65 .net
>>938
あなたとは面積の話をしていない

940 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:41:48.32 .net
>>925

「妻(つま)」は「端(はじ、へり)」の意味

https://kobun.weblio.jp/content/%E5%A6%BB

941 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:43:19.63 .net
理由を言わない九州説

942 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:47:40.98 .net
理由が全て妄想の畿内説

943 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:49:11.05 .net
証拠を出さない九州説

944 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:51:41.47 .net
中国教育部人文社会科学重点研究基地
世界漢字学会会長 ザン克和教授
「邪馬台国の場所は九州北部」
「古代の地名はその場所の地理的な環境に影響を受ける。当時山の多い九州北部一帯はヤマと呼ばれていて、中国の使者がその言葉を聞いてその音に近い漢字をあてた」

大阪教育大 張莉准教授
「『ヤマ』は縄文の昔からあった古地名。九州北部を示す呼び名だった」

魏晋南北朝史学会副会長 陳長崎教授
「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い」
「邪馬台国の場所は九州が理にかなう。『女王国の東の海を千里あまり渡るとまた倭人の国がある』とある。つまり邪馬台国の東には海があったことになる。畿内説ではこの条件と一致しない」
「邪馬台国は九州にあったが、畿内に移動した。同時に地名も移動している。国が移動して地名も移動するのは古代ではよくあること」

台湾大学教授 政治学研究所 周徳望教授
「中国の歴史書に書かれた他国までの距離の記述は非常に曖昧。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。中国史に記載された距離をそのまま日本に当てはめてはいけない」
「明代に描かれた中国最古の世界地図では日本は現在よりはるかに南にかかれており、中国の真東にあると認識されていた。実際には海流で流されて九州にたどり着く。当時の認識では長江の東は九州だった。邪馬台国は九州にあったはず」
「政治体制や文化については正確に記述している。現地のの人は顔に入れ墨をしているが、この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲とも考えられる。当時の畿内にはこのような風習は存在しなかった」
「伊都国が海外との重要な交流の場、政治を担っていたのなら、邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。牛も馬もいないため運搬能力が低い。道路の状況も良くない。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない」

945 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:51:58.68 .net
筑紫平野が5万戸の投馬国だとしたら、邪馬台国は熊本平野しかなくなる

946 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:52:49.43 .net
潴は沼で水沼氏
沼は東日本の地名

https://j-town.net/2023/02/08343096.html?p=all

947 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:56:08.19 .net
中国人に投馬国は薩摩だと言っている人もいたな
「サツマ」の「サ」が接頭辞で、「ツマ」が国名という考えらしい

948 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 11:58:33.53 .net
>>944
学者なのに、なんでこんなレベル低いの?

949 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 12:00:25.46 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

950 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 12:02:00.64 .net
>>938
前方後円墳を作り、そこから三角縁神獣鏡は出土しているので、その考えは間違い

951 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 12:11:51.88 .net
古地名には意味があるので、
まず古語から研究しなければならない
中国人にはまず無理

952 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 12:20:36.87 .net
「どんな国名か?」
「どんな国か?」
魏の役人はこれらを聞いた上で

どんな国かパッと見でわかるように
字を選んで、字をアテてる、が俺の見解

488 ウィズコロナの名無しさん 2023/09/30(土) 08:42:31.00 ID:L2QR4Xcd0
だから、投馬国も
その国の特長を字義にアテ込めてる

投げる 手(てへん)に殳(ほこ)を投げる形をした地形の国
投じる 国譲り神話で天津に投じた国津の大国主

俺の考察では、出雲と比定

953 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 12:47:00.38 .net
>>893
富士山の名前が定着したのは何時代が調べたら?

954 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 12:48:22.67 .net
>>912
石破

955 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 12:54:58.40 .net
>>914
考古学の結果って何?
桃の種とかゴキとか?

956 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:02:42.71 .net
>>955
「其山有丹」   @阿波

957 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:05:38.27 .net
>>955
桃核の14Cの結果から、纒向が2世紀末〜3世紀と確定したな

958 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:08:12.05 .net
>>957
つまり

魏志倭人伝の時代背景から邪馬台国は北部九州だと考えられていたけど
卑弥呼の時代ぴったりの桃の種が出土しているから纏向こそ邪馬台国だと考えられるようになった

ってことね

959 ::2024/03/10(日) 13:11:33.86 .net
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1710041306/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

960 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:16:30.75 .net
桃の種が卑弥呼と同時期だった
倭種の国は桃が好きだったんだねーとしか思えんw

961 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:16:40.15 .net
記念の1000スレか

962 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:17:36.05 .net
1000もやっててまだこれか
いつ脳みそアプデするんだか

963 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:22:42.29 .net
北部九州からは朝鮮半島由来のものが多く出ているので
邪馬台国も北部九州だと数十年前までは考えられていたが
学術研究が進み、3世紀九州で最も発展している筑前博多と
畿内大和が密接な交流関係にあることから
畿内〜筑前に及ぶ広域の女王国だと考えられるようになった

964 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:22:42.42 .net
消滅してる九州説がなかなか沈黙しないから

965 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:25:08.64 .net
>>960
纒向の年代が合ってるなら、わずかに抵抗している九州説学者が完全に絶滅するけど、よろしいか?

966 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:43:09.60 .net
つまり畿内説は霊感商法詐欺がバレて韓国人に戻りましたよと

967 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:49:45.94 .net
関西の雑多九州説には、竹島は韓国に統治権があると主張している者もいる

968 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:51:14.59 .net
>>960
>倭種の国は桃が好きだったんだねーとしか思えんw

それは頭が悪いからでは?

969 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 13:57:44.18 .net
>>963
東征した物部氏が里帰りしてただけ

970 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:02:37.44 .net
>>969

首狩り甕棺墓は、
九州東部に拡がることもなくど没落したので東征はない
朝鮮半島南西部では6世紀くらいまで存続する

971 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:20:52.54 .net
>>962
>1000もやっててまだこれか

つまり、畿内説も九州説も間違いだったということ。  まったく、無駄な論争ではあるが、暇つぶしにはなる。   @阿波

972 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:37:30.62 .net
>>944
長江の東 って関係ない話だろ?
なんのこじつけだ?

倭在帯方の南東大海の中
って、始めから言ってるのに?

973 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:44:28.72 .net
>>948
お前よりはるかにレベルの高い人だらけだよw

974 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:45:57.94 .net
>>972
会稽東冶の東の話だろ
動画見てみなよ
YouTubeにまだあるぞ

975 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:46:14.18 .net
>>968
桃の種は鬼道だーのほうが脳みそヤバいぞ

976 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:48:07.75 .net
>>973
そう断定する根拠は?

977 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:48:41.59 .net
>>975
なぜ?

理由は?

978 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:48:56.25 .net
>>973
IQに違いがありすぎると、相手の言葉や説明が理解できなすぎて「こいつはバカだ」と勘違いするらしい
相手のほうは、なぜそいつは理解できないのか理解できずに会話を諦めるw

979 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:49:11.10 .net
>>944
東遷説まであんのかよwww

倭人伝には卑弥呼が大倭王では無かった。
と、書いてある。
中国人なら読めるだろ?

日本の倭人伝論争では、
みんなが、都合悪いから
見ない事にしてる、だけだぞ?

980 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:50:02.92 .net
>>979
そう
しょぼい女性首長にすぎない

981 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:53:41.20 .net
>>976
じゃあお前の学歴職歴教えろよ
すごければ撤回するし

982 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 14:56:01.95 .net
>>974
漢文としては、なんの道里を計ったら
会稽東治の東なのか?は書いてない。

動詞の主語と指示代名詞の行き場が無い文。

983 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:05:09.20 .net
>>982
お前のレベルが低いことはよくわかったよ

984 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:05:14.19 .net
>981
1の後輩だけど?

985 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:10:02.84 .net
陳寿は1里100メートル換算で会稽の東とした事がわかる。https://i.imgur.com/6ndGKcD.jpeg

986 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:16:40.68 .net
>>982
>漢文としては、なんの道里を計ったら
>会稽東治の東なのか?は書いてない。
>動詞の主語と指示代名詞の行き場が無い文。

「其使詣中國」
「計其道里、當在會稽東冶之東」
「其風俗不淫」
って続けて書いてあってなんの道里か分からなかったら
白痴同然じゃないの?

987 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:18:22.30 .net
>>985
>陳寿は1里100メートル換算で会稽の東とした事がわかる。

どうしてわかるの?

988 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:27:29.51 .net
>>944
共立されたのは卑弥呼であって、
邪馬台国ではない。邪馬台国になんら力はない。

989 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:32:25.14 .net
>>988
一番人口の多い国に
なんら力がない、という理由は?

990 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:36:38.47 .net
1里432メートルだとタイまで行ってしまうhttps://i.imgur.com/RbmaNUq.jpeg

991 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:41:55.91 .net
>>986
そもそも、
倭在帯方東南大海の中
とは、別の話になっている。

計る道里
と言うのは位置じゃないし
当在は一点を差すので
倭の位置を言うなら
この用法もおかしい。

漢文として壊れている。

992 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:43:06.17 .net
>>990
>1里432メートルだとタイまで行ってしまう

どうして?
理由は?

993 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:47:54.18 .net
>>991
>計る道里
>と言うのは位置じゃないし

距離でしょ?
何がおかしいの?

>当在は一点を差すので

どうして?
「当在・・・之東」だから
一線でしょ?

>倭の位置を言うなら
>この用法もおかしい。

どうして?
どのくらい倭が南方にあるのか言ってるのに、何がおかしいの?

>漢文として壊れている。

壊れてるのは貴方の頭では?

994 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 15:52:33.90 .net
つまり畿内説は算数も出来ない

995 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:00:19.65 .net
>>985
この線は何ですか?

計 其 道里 當在 會稽東治 之東
のような気もするけど
里の距離は、どこから?

996 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:02:58.23 .net
>>995
会稽から1万2千里

997 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:07:05.40 .net
>>985

中国は方万里の地理的世界観なので、
その図は間違い

998 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:15:41.03 .net
>>996
自郡 至 女王國 萬二千餘里
はあるけど?

計 其 道里 當在 會稽東治 之東
これ洛陽から會稽東治を東する?
は、あるけど万二千里はどっから?

999 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:19:02.24 .net
会稽東治 の東は、江蘇省下相県の真東。
帯方郡(沙里院市)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m   
∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg

1000 :日本@名無史さん:2024/03/10(日) 16:19:42.12 .net
>>962
>1000もやっててまだこれか

つまり、畿内説も九州説も間違いだったということ。  まったく、無駄な論争ではあるが、暇つぶしにはなる。   @阿波

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