2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

邪馬台国関東説 Part1

1 :日本@名無史さん:2024/03/25(月) 22:17:32.69 .net
『完全版』邪馬台国の場所が判明!歴史のミステリーがついに解明される!
https://www.youtube.com/watch?v=4VNGFEdCQpE&t=17s

ミステリー事件簿 チャンネル

2 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 10:00:08.76 .net
関東の何処なんだい?

3 :日本@名無史さん:2024/03/27(水) 19:02:03.79 .net
香取神宮、鹿島神宮周辺らしい

4 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:19:00.83 .net
「裸国・黒歯国」が関東・東北地方の毛人・エミシじゃね?

5 :日本@名無史さん:2024/04/06(土) 10:12:09.20 .net
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?

6 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 05:43:09.39 .net
邪馬台国とは別の国があっただろうね。

7 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:11:10.42 .net
国立歴史博物館教授・藤尾慎一郎
日本経済新聞2023.05.26
愛知県清須市から名古屋西区にかけて広がる要塞都市朝日遺跡から出土した弥生前期(2600年前)の人骨の核ゲノムは混血の少ない渡来系だと判明。
https://i.imgur.com/QIOOu2U.png

これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・松原遺跡の中心部分が発見された。
最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ入る程の規模である。
同時に日本海側から千曲川を遡り関東平野に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。
根塚遺跡からは鉄剣が出土しているが、同様の鉄剣は朝鮮半島の蔚山下垡遺跡からも発見されており、渡来人との関連性が指摘されている。
紀元前の遺跡としては伊勢宮遺跡と篠ノ井遺跡が発見されているが、この遺跡から発見された人骨は渡来人の特徴が見られた。

北信では、北は木島平村、南は千曲市までの領域に約900程の積石塚古墳が見られ、大量の高句麗系渡来人が善光寺平に至ったと考えられている。
八丁鎧塚古墳の後には、大室古墳群や安坂古墳群などが形成された。

南信の伊那谷では特に宮垣外遺跡・新井原12号墳4号土壌・茶柄山古墳群・ 物見塚古墳などには、
馬や馬具の埋葬の仕方や埋葬品の形式から、朝鮮半島南部のあたりから渡来人が至ったとされている。
伊那市の手良地区には「大百済毛・小百済毛」という地域があり、この地名の由来はその名の通り百済からの渡来人によって開発されたからである。

8 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:13:01.24 .net
>>5
エミシは和人だからな

2〜3世紀、後漢の終わり頃の倭国大乱の時期に新潟各所では戦乱を彷彿とさせる高地性集落が増え始める。
日本海側では鉄器を求めて朝鮮半島から直接、東北方面へと準構造船船団による組織的交易がもたらされていた。
実際に東北一円、新潟でもそうだがアメリカ式石鏃が残り、朝鮮半島南東部で作られた鉄斧が一斉に普及する様子を知ることが出来る。
弥生期に東北地方や関東地方東北部を中心として急速に普及した管玉の大多数は、並行する側面をもつ朝鮮半島製の管玉である。
https://i.imgur.com/gV9WpIG.png

長野の根塚遺跡から出土した渦巻紋装飾鉄剣は特注品であり、上越から千曲川流域の在地の人々が朝鮮の鉄器制作工人と直接交渉していたことはよく知られている。
朝鮮半島製の青銅器や鉄器は千曲川流域からさらには関東地方まで運ばれ、利器が劇的に移り変わる時期にあたる。

4世紀からはヤマト王権によって伊那盆地が馬の生産管理拠点に定められたことが想定される。
また、そのような馬の導入によって内陸交通網の整備が進み地域間交流が発展したことが、各古墳の多様な様相の背景として想定される。
このように本古墳群は飯田地域がヤマト王権の東国経営拠点かつ東西交通の結節点として機能したことを表象する遺跡であり、
内陸交通網の整備による王権の国づくりの一面を表すとして重要視される遺跡になる。

9 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:13:37.14 .net
高句麗との戦いで初めて騎馬を目にしたヤマト王権は、馬産を招致し東国に牧を取り入れる。

元々高句麗の馬産が多かった信濃と大陸交易を望んでいた上野の毛野氏を引き入れたのが大きい。
4世紀の三韓征伐を主導した上毛野氏(竹葉瀬)以降は毛野が東国の中心になり積極的な大陸外交と共に栄えるようになる。

4世紀、倭王権の一翼を担った上毛野勢力が対外活動のために結集するに当たって,それまでの経済圏を越えて,
「外交・軍事指揮者」を共立したのがその歴史的背景であったと考えたい[若狭 2017]。
上毛野全域の集団は,外来文化という果実を手にするために大団結したのである。
その結果として5世紀中葉以降の上毛野地域に現出したのが,後述するような「渡来人と多様な技術群」であった[若狭 2011,亀田修一 2012]。

『日本書紀』神功〜仁徳紀には,上毛野氏祖による朝鮮半島での度重なる軍事・外交活動(荒田別・鹿我別の新羅征討[神功49年],
荒田別・巫別による百済からの王仁の招聘[応神15年],竹葉瀬・田道による新羅征討と四邑民の連れ帰り[仁徳53年])が記されているが,
この文献上の記述と,実際に上毛野地域で確認される考古学的事実(渡来文物の多出)との間には,整合する部分が認められる。
したがって,『日本書紀』の記事には5世紀の地域史の実態が埋め込まれていると考えられる[若狭 2015]。

10 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:14:02.79 .net
三陸河北新報社2022年8月24日

【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。

突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。

ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。

宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ

当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。

11 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:14:29.25 .net
5世紀の仙台平野に朝鮮半島から伝わった大規模な須恵器窯跡群が置かれ一大生産地になったのも、この頃外交を担っていた上毛野氏などが先進技術を積極的に取り入れた功績、ではなかろうか。

北東北の古墳時代の開始期には、古墳文化圏から北上してきた土師器が加わり、5世紀になると多くの土師器に須恵器が加わるようになる。7世紀以降には土師器・須恵器のみとなるのである。

土師器は、西日本における弥生土器の製作・焼成技術がほとんどそのまま受け継がれて成立した土器である。器種は壺・甕・台付甕・坏・高坏・甑・器台・小型器台・小型丸底坩などで構成され、文様は基本的に施されない。
東北における古墳時代の土師器の変遷は、塩釜式→南小泉式→引田式→住社式とされ、これらの各型式は現在さらに細分されつつある。
青森県内では塩釜式に並行する土師器が五所川原市隠川遺跡で出土している。

須恵器は5世紀の初頭頃、朝鮮半島南部の陶工の渡来により製作され始めたもので、今のところ大阪府堺市大庭寺遺跡から出土した須恵器が日本最古のものとして知られている。
同市に所在する陶邑古窯群は日本の須恵器生産を一手に担っていたが、須恵器の生産技術はそこから徐々に各地へ広がり、東北地方南部にも及んだ。
東北最古の須恵器窯跡は、5世紀中頃の宮城県仙台市大蓮寺窯跡である。その後、仙台市金山窯跡や福島県泉崎村泉崎古窯跡などでも生産された。この頃の須恵器の器種は壺・甕・埦・高坏・甑・器台などが一般的である。

青森県における古墳時代の須恵器は、十和田湖町長根遺跡や天間林村森ヶ沢遺跡、八戸市市子林遺跡・田向冷水遺跡・八戸城跡、東通村浜尻屋遺跡の出土例が知られている。
長根遺跡の須恵器は大蓮寺窯製品の胎土と類似し、森ヶ沢遺跡の須恵器は畿内産のものと推定されている。

12 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:14:54.29 .net
古墳から奈良時代にかけての日本において、東日本あるいは北日本に居住し、当時の中央政権の支配に服さなかった人々はエミシと呼ばれている。
つまり、エミシという言葉そのものが、固有の文化的特徴を共有する、いわゆる民族を指す言葉ではなく、単なる呼称であるといえる。

アテルイの本拠地である奥州胆沢でも常磐広町遺跡など紀元前後の高度な渡来系灌漑水稲集落が見つかっている。

西暦150〜280年、宮城県石巻市の梨木畑弥生人骨について
https://i.imgur.com/7xAiJAh.png
頭骨の観察的所見では、顔面が面長で、眼窩も高く、鼻骨は狭長で、現代的な印象が強い
上顎切歯に明らかなシャベル状形質が認められる
四肢骨では、脛骨骨体が扁平でない、脛骨大腿骨示数が78.5程度であること
縄文人やアイヌを想わせる特徴はまったくと言ってよいほど認められない
ミトコンドリアDNAはD5b2
結論としては、梨木畑人骨は明らかに和人であり、現代化した特徴を有していた

東日本古墳時代人の遺伝的特徴は東北地方縄文時代人とは大きく異なる一方、現代人には非常に近かった。
この結果は、古墳時代には既に、渡来型弥生人の遺伝的影響が東日本において集団の主体をなすほど大きくなっていた可能性を示していると考えられた。
https://i.imgur.com/0uLa3a5.png

エミシとは誰だったのか-学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像-

13 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:21:57.46 .net
5世紀の三国時代、韓国慶尚北道高霊池山古墳被葬者のmt.DNAはD5b1b1だった

14 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:23:53.22 .net
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?

15 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/07(日) 22:56:19.08 .net
関東に狗奴国があったのだろう
邪馬台国の東の倭種というのが該当すると思われる
考古学的に卑弥呼の後にまもなく関東はヤマトの勢力圏に入っている
邪馬台国はヤマト王権だから東海関東征服に成功したという事なのであろう

16 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:00:42.84 .net
関東も狗奴国だったが狗奴国の中心は天竜川以東の東海な

都は沼津の足高尾上遺跡群

17 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:54:09.96 .net
>>14
>天皇家の関係者はみんな九州説を推してるでしょ。
>「邪馬台国?なんじゃその国?関係ない国を関係があるかのように言うのやめて!」っていうスタンスのようだし。

そのとおりでございます。
竹田恒泰さんも、長浜説を推してます。

18 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:54:27.91 .net
>難波から纏向まで約40キロを陸行1月もかかるのか?

それは九州説も同じだろう
九州説は短里説だから、同じ問題が発生する

女王国まで総距離、12000里
7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。

残り1300里

1300里、2か月問題がある (水行20日+10日+陸行1月(30日)=2か月)

短里説では、1里=72mだから、72m×1300里=約93km

約93kmを2か月かけて、九州説はどこをどう行ったのか

19 :日本@名無史さん:2024/04/19(金) 13:59:48.37 .net
「画期的新説」邪馬台はヤマトである
https://98k.dreamlog.jp/archives/52046904.html

古代中世の礼制と法制・政治との関係史が専門の歴史学者(桃崎 有一郎)が「邪馬台はヤマトである」ことを、
文献史学の立場から結論したとゆー新説であります


文芸春秋3月特別号に掲載と教えてもらってて、ようやく図書館で借りることができました
以下、掲載記事のうち個人的に興味のあった部分のみ、てきとーにメモしました

20 :日本@名無史さん:2024/04/30(火) 00:06:32.22 .net
邪馬台国は茨城にある!? 視聴者の質問に一挙回答!【Q&A】
https://www.youtube.com/watch?v=e9dZU-oIwrk&t=882s

21 :日本@名無史さん:2024/05/01(水) 22:03:35.70 .net
関東には神奈川県大和市て有るから、きっと邪馬台国も有ったはず。

22 :日本@名無史さん:2024/05/03(金) 09:56:15.35 .net
【後編】邪馬台国の秘密を暴露!視聴者が知らない衝撃の真実【Q&A】
https://www.youtube.com/watch?v=T5QFGotRS7A

23 :日本@名無史さん:2024/05/03(金) 09:59:14.90 .net
《邪馬台は「ヤマト」と読む》「邪馬台国はどこにあったのか論争」に歴史学者が画期的新説
https://news.yahoo.co.jp/articles/26d2681b19db630bb66988173d1701a9a5981bdb

(桃崎有一郎「 画期的新説 邪馬台はヤマトである 」)。

24 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/05/03(金) 10:29:00.23 .net
伊都国には日時計の超複雑系なものがあって、日の出が東の山のどの位置から始まったかによって、かなり正確な暦を割り出す事が出来ていた
中国の暦とは一〜二日ほどずれることもあったようだが、農業で用いるには誤差の範囲内だろう
どうやらこの伊都国の暦が北九州各国で使われていたようである
つまりこの伊都国に「ひじり=日知り=聖」つまり天の道を知っている人がいたわけだ

そしてこれと同じものが纏向に存在していた
つまり纏向にも「ひじり=日知り=聖」がいたわけだ
倭国の大王はひじりでなくてはいけなかった

ちなみに唐子鍵には、ここまで凄いものはなかった
つまり伊都国からひじりが纏向にやってきたのだ
伊都国は「ひむかし=日向かし=東向き」で正確な暦を作れる稀有な場所つまり聖地ヒムカで、それが纏向で再現されていたわけだ

ヤマトの大王家がヒムカからやってきてヤマト王権を建てたという伝承は伊都国王家が纏向王権を建てたという歴史的事実が神話化したものと考えられよう

25 :ネトウヨボク滅隊!:2024/05/03(金) 10:29:57.80 .net
伊都国の王家が畿内の纏向に第二のヒムカを作った
これがヤマト王権すなわち邪馬臺國であり、倭の諸国の盟主として後の日本国に発展していったのだろう

糸島と纏向以外で正確な暦を作れるような装置は見つかっていないからな
東に幾つもの山を備えていて、そして西のある一点からそれらの山々を見ると尾根や峠の位置から正確に冬至や春分などが把握出来るという奇跡的な地理条件の土地はそうはあるまい

このような地理的条件を備えた国は伊都国とヤマト王権の纏向しかないのだ
九州に倭王がいたのなら伊都国だったはずであり、伊都国以外が邪馬臺國ならば、それは纏向しかないのである

14 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
名前: E-mail (省略可) :

read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★