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邪馬台国畿内説 Part1007

1 ::2024/03/29(金) 18:34:35.27 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1711434842/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

2 ::2024/03/29(金) 18:35:32.52 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1711434842/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末

3 ::2024/03/29(金) 18:36:21.89 .net
に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。



◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

4 ::2024/03/29(金) 18:37:01.67 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

5 ::2024/03/29(金) 18:38:01.52 .net
 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。




◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

6 ::2024/03/29(金) 18:38:32.49 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

7 ::2024/03/29(金) 18:39:02.27 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

8 ::2024/03/29(金) 18:39:35.27 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

9 ::2024/03/29(金) 18:40:12.58 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

10 ::2024/03/29(金) 18:40:46.74 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

11 ::2024/03/29(金) 18:41:30.99 .net
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

12 ::2024/03/29(金) 18:42:02.04 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

13 ::2024/03/29(金) 18:42:31.02 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

14 ::2024/03/29(金) 18:43:02.06 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

15 ::2024/03/29(金) 18:43:31.64 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

16 ::2024/03/29(金) 18:44:02.25 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

17 ::2024/03/29(金) 18:44:33.27 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

18 ::2024/03/29(金) 18:45:03.03 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

19 ::2024/03/29(金) 18:45:32.39 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

20 ::2024/03/29(金) 18:46:02.35 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

21 ::2024/03/29(金) 18:46:32.87 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。

22 ::2024/03/29(金) 18:47:02.41 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

23 ::2024/03/29(金) 18:47:32.50 .net
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

24 ::2024/03/29(金) 18:48:03.81 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

25 ::2024/03/29(金) 18:48:32.40 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

26 ::2024/03/29(金) 18:49:01.87 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

27 ::2024/03/29(金) 18:49:32.05 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

28 ::2024/03/29(金) 18:50:32.04 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

29 ::2024/03/29(金) 18:51:02.41 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

30 ::2024/03/29(金) 18:51:31.28 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

31 ::2024/03/29(金) 18:52:02.87 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿

32 ::2024/03/29(金) 18:52:32.60 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

33 ::2024/03/29(金) 18:53:01.96 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

34 ::2024/03/29(金) 18:53:32.02 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

35 ::2024/03/29(金) 18:54:02.26 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

36 ::2024/03/29(金) 18:54:32.55 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

37 ::2024/03/29(金) 18:55:07.18 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

38 ::2024/03/29(金) 18:55:42.86 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

39 ::2024/03/29(金) 18:56:18.00 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

40 ::2024/03/29(金) 18:56:49.08 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

41 ::2024/03/29(金) 18:57:23.22 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

42 ::2024/03/29(金) 18:57:59.26 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

43 ::2024/03/29(金) 18:58:31.65 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

44 ::2024/03/29(金) 18:59:03.28 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

45 ::2024/03/29(金) 18:59:33.21 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

46 ::2024/03/29(金) 19:00:03.81 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

47 ::2024/03/29(金) 19:00:34.38 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

48 ::2024/03/29(金) 19:01:03.26 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

49 ::2024/03/29(金) 19:01:33.90 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

50 ::2024/03/29(金) 19:02:03.86 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

51 ::2024/03/29(金) 19:02:42.72 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

52 ::2024/03/29(金) 19:03:15.29 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

53 ::2024/03/29(金) 19:04:03.57 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

54 ::2024/03/29(金) 19:04:32.69 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

55 ::2024/03/29(金) 19:05:02.68 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

56 ::2024/03/29(金) 19:05:32.68 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

57 ::2024/03/29(金) 19:06:02.77 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

58 ::2024/03/29(金) 19:06:33.48 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

59 ::2024/03/29(金) 19:07:03.98 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

60 ::2024/03/29(金) 19:07:33.99 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

61 ::2024/03/29(金) 19:09:02.25 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

62 ::2024/03/29(金) 19:09:32.27 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

63 ::2024/03/29(金) 19:10:01.79 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

64 ::2024/03/29(金) 19:10:33.79 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

65 ::2024/03/29(金) 19:11:03.07 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

66 ::2024/03/29(金) 19:11:32.70 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

67 ::2024/03/29(金) 19:14:01.06 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

68 ::2024/03/29(金) 19:14:32.45 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

69 ::2024/03/29(金) 19:15:03.09 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

70 ::2024/03/29(金) 19:15:33.46 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

71 ::2024/03/29(金) 19:16:13.60 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

72 ::2024/03/29(金) 19:16:46.86 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

73 ::2024/03/29(金) 19:17:17.13 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

74 ::2024/03/29(金) 19:17:50.51 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

75 ::2024/03/29(金) 19:18:22.82 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

76 ::2024/03/29(金) 19:19:04.95 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

77 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:20:24.81 .net
不弥国で立ち往生する放射読みなどというのは全くもって馬鹿げている
不弥国から水行して5万戸の超大国投馬国に着いたというべきである

78 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:34:43.34 .net
不弥国は、福岡県苅田町が有力
千余家だが石塚山古墳というデカい前方後円墳と7面の三角縁神獣鏡が出ている
墓の大きさでも三角縁神獣鏡の数でも那珂八幡古墳を上回っている
これは北部九州でも、権力の主体が奴国からより畿内や投馬国に近い沿岸に移ったと考えられる

79 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:39:37.94 .net
>>78
卑弥呼の時代に何があったの?

80 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:49:15.87 .net
>>77
5万戸の超大国なんて現実的じゃない

81 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:49:21.52 .net
>>78
5万戸の投馬国のような超大国が興るのは、温暖黒潮太平洋沿岸地域。   @阿波

82 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:50:42.03 .net
>>79
大量の鉄の輸入、それを畿内へと運ぶ役割、
さらに、中国からの銅鏡または銅鏡制作の為の銅などの原材料の輸入、それを畿内へと運ぶ役割、
さらに、畿内から北部九州への銅鏡の配布の為に北部九州東岸が重要な役割を持つようになった

これは大分県宇佐市赤塚古墳からも強く推察できる

83 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:51:18.59 .net
阿波君はごまめだから許してやるよ

84 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:53:44.46 .net
つまり畿内説は全くのでっち上げでしたと

85 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:55:07.42 .net
ハイハイ邪馬台国時代の基礎知識ですよ

【後漢書】
後漢書には邪馬台国は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる国だと記載されている
【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

86 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:56:28.67 .net
>>82
遺跡が出ないと話しにならねえわ

87 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:57:09.57 .net
宇佐市の市長は良く理解していらっしゃる

市長コラム「赤塚古墳と小部遺跡 その1」(令和2年8月号)
県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘の中に、国史跡の川部・高森古墳群があります。3世紀末から6世紀にかけて造られた6基の前方後円墳を中心に、約120基の円墳や周溝墓が集中しています。

このうち赤塚古墳は推定墳長約58m、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳の一つです。大正10年、箱式の石棺から三角縁神獣鏡等5面や鉄刀などが出土しています。
三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府)や石塚山古墳(福岡県)と同じ鋳型で製作されています。

なお、三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚の一部で、赤塚古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があります。
魅力的な話ですが、赤塚古墳の築造時期は卑弥呼が銅鏡をもらった239年より半世紀余り後であることなどから説得力にやや欠けるようです。

赤塚古墳などの被葬者は、古墳時代に宇佐地方を支配していた宇佐国造家(くにのみやつこけ)の一族と考えられています。
ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。

88 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 19:57:34.10 .net
>>86
遺跡が出てる

89 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:07:21.82 .net
卑弥呼が亡くなった後どうなったか、本来の形大倭が主導する時代にしばらくなりその後崇神からは人の時代になったんじゃないの?
前方後円墳は大倭が主導し始めた墓制と思うけどね
その後は軍の拠点に作られていったんじゃないか
大倭ネットワークは関東とか九州に広がってたんでしょ
九州から関東迄、楠伝承が怪しい

90 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:13:23.03 .net
https://www.sankei.com/article/20161017-XPH3RMJEWJJ6TP6C3YYJSF7FTI/
遺跡ってのはこういうの

91 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:15:54.09 .net
>>85
ホケノ山と椿井大塚山とメスリ山の3古墳だけで、九州の鉄の数を上回る

92 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:20:56.59 .net
>>91
そう言いながら寺澤が修正した図

https://i.imgur.com/RPZr0fm.png

大して変わらんかったとさw

93 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:23:30.60 .net
>>85
その地図みたいな分布だったのは紀元前後ぐらいの話、邪馬台国時代どころか1世紀の時点ですら、すでに独占性は完全になくなってて、出雲とか若狭とかに新しい交易拠点ができてて九州は出し抜かれてるんだぞ

94 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:27:09.53 .net
>>90
大洪水に埋もれて消滅した遺跡。   @阿波

95 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:28:25.58 .net
>>91
>ホケノ山と椿井大塚山とメスリ山の3古墳だけで、九州の鉄の数を上回る

鉄器王国「阿波」で作られた鉄器を自慢するな!   @阿波

96 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:29:52.25 .net
>>92
「阿波」を恐れ、避ける寺澤。   @阿波

97 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:30:18.04 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

98 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:31:34.11 .net
まんがやテレビで卑弥呼の王宮は吉野ヶ里だよねw
つまり、そういうことw

99 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:35:51.83 .net
邪馬台国は機内にはない

100 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:36:29.51 .net
?まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
?次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900?)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850?)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50?)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50?でピッタリです!
?そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!

ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(嘘)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州✖畿内説)
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国✖阿波説)
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(女王之所都=沖縄那覇あたり)

101 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:39:51.00 .net
>>87
つまり畿内勢力が九州を支配した時代の最古級は3世紀末ということか

102 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:41:03.54 .net
266年に、後ろ盾だった魏を失ったことは親魏倭王・台与にとってまさに寝耳に水&驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)としてヤマト王権に禅譲した方が良いと出たのかもしれんw

筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(複立男王=崇神)は箸墓を築き、日本の統一を高らかに宣言したわけだw

そして5世紀になると倭の五王(応神朝)が九州に再び西遷して、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ半島派兵を繰り返し広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝・天垂彦(邪靡堆=阿蘇山祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火し、首都・阿蘇邪靡堆が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
白村江の戦いで近江大津宮へ逃れ再び東遷し、大和にいた分家(留守居家老)である天武と合流したのだw

103 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:41:06.50 .net
纏向にいた大勢の人たちは何処に消えたのか?
阿波が飲み込んで各地に連れて行った可能性があるな
速開津比売の子がアワなのはどういう意味があるのか

104 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:43:27.81 .net
https://i.imgur.com/F9hbvbd.jpg
寺沢センセが監修した鉄器出土MAP
を古墳時代初め(3世紀初〜中頃)を見やすいように修正

105 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:45:21.65 .net
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、巫女だけに世継ぎのいないことから将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

106 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:46:49.87 .net
このスレは高度なのでついてゆくのに必死だ
先月は畿内説だったが、今は九州説(東遷説は無理)に傾倒中
自分のレベル的には漫画家さんが運営するこのサイトの内容がとても納得できました
https://note.com/susa404/m/m444ca5b7b5a8

107 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:47:42.41 .net
3世紀半ばに入ると、ホケノ山70以上
椿井大塚山200以上
メスリ山200以上
と鉄器が圧倒的に畿内で出てくる一方、九州では鉄刀が1本とかのレベル

これは明確に鉄器を畿内が独占し始めることを意味する

108 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:47:42.51 .net
明帝の勅使が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

109 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:49:39.15 .net
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。

https://i.imgur.com/S93qy2b.png 
首長権力の有りようが窺われる。

110 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:51:11.16 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみた!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…魏(半島西岸)ルート(239年親魏倭王)を確保→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争(日向投馬国との同盟締結)

<本州=女王国東渡海千里、複有国皆倭種>
出雲…新羅(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(後漢鏡副葬なし)を征服→大和唐古鍵を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲し、消滅したとの帯方郡使の報告にショックを受け激しく動揺した32歳の台与は、巫女だけに国際政治もよく知らず、共立のため跡継ぎがいないことから、死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

111 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:51:34.54 .net
鉄器がお宝だった東の倭種
鉄器が日用品だった国々とはひとあじ違うな

112 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:51:53.32 .net
>>109を見ればわかるが、非常に残念なことに九州奴国筑前ですら、甲斐、近江を下回る

九州が倭国の中心であったのは漢委奴国王の奴国の時代であって、その奴国をはるかに上回る投馬国と邪馬台国を九州内に想定することができない

113 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:53:02.50 .net
>>111
富雄丸山の蛇行剣を見ても、明らかに九州は邪馬台国時代から鉄でも畿内に圧倒される

114 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:53:47.05 .net
円墳は前方後円墳体制の中でどんな位置付けなのだろうか

115 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:56:49.73 .net
オーパーツが出ててすごい

奈良 富雄丸山古墳の「蛇行剣」の「つか」 特殊な形とわかる
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240326/k10014402871000.html
> 4世紀後半に造られたとされる富雄丸山古墳よりのちの時期の、5世紀の刀の特徴だということです。

116 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:56:50.08 .net
>>114
畿内にたくさんある馬鹿でかい墓がほとんど未調査なので判断が難しい
纒向古墳群ですら、ホケノ山しか調査してない
纒向石塚、東田大塚、纒向勝山、纒向矢塚、箸墓も未調査だ

117 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:57:49.94 .net
富雄丸山古墳は4世紀後半w
息を吐くように嘘を吐く畿内説工作員w

118 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:58:07.00 .net
西暦107年「倭面土(ワミャント)国」は大和(ヤマト)の勃興か

119 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:59:04.66 .net
>>117
富雄丸山は4世紀後半であるが、富雄丸山を上回る鉄器が九州から出てこない
九州では、平原王墓を最後に副葬品が極めて貧弱になる

120 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 20:59:18.04 .net
>>109
この中で投馬国はどこだっけ?

121 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:01:30.20 .net
>>120
備前

122 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:01:53.66 .net
>>120
そりゃ大和に匹敵する規模の国だろう

123 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:08:24.39 .net
>>109を見れば、畿内ヤマト王権(邪馬台国)に、九州が一大率を置かれて監視されていたのも理解できる当然、一大率の役人は畿内人が主体であったろう。
それは筑前型庄内甕や北部九州型布留甕を成立させたこととも一致する

124 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:09:01.74 .net
>>109
鉄器王国「阿波」で作られた鉄器を自慢する鉄器貧乏畿内説。   @阿波

125 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:11:31.51 .net
一大率は出雲だから
なんでいちいち九州に寄らなきゃならんのよ?

126 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:11:58.51 .net
>>108
うゎ、すげー!これどこ?CGか?

127 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:12:34.33 .net
>>109の筑前(2万戸の奴国)が九州最大の鉄器を出土するのであって、筑前を除いては東日本すら下回るのである
したがって、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸を九州内に想定することは不可能と言わざるを得ない

128 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:14:12.63 .net
鉄器王国大和()に匹敵する国はどこかな?

129 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:15:12.56 .net
妻木晩田、様々な形の竪穴式住居
謎だよな
会見郡辺りか
伯耆国風土記逸文の記述に関係しているんじゃないか
スクナヒコナが治め損なった集落
莠は雑草のこと

相見郡
群家の西北には餘戸里と粟嶋がある。

少日子命が粟を蒔いたので、莠がよく実って垂れた。そこで粟に乗ると弾かれて常世国に渡った。故に粟島という。

伯耆国で地震があったのか?
雷鳴(かむとけ)、地震(なゐ)の時に雉が鳴くのはなぜか?…伯耆国風土記には このようにある。

地震の時、鶏・雉は恐れて鳴くのである。山鶏(やまどり)は嶺谷(をたに)を越え、樹木に止まり踏み踊る。云々。

130 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:15:34.69 .net
言の葉で印象操作する畿内説w
狗奴国はどこだ?w箸墓を手伝ってた東海か?w

131 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:15:44.55 .net
>>125
一大率は伊都国に置かれているのであって出雲ではない
一大率の役人は当然畿内人であろう
したがって、筑前型庄内甕や北部九州型布留甕の成立と、九州を監視する一大率の記述が一致するのである

132 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:16:07.09 .net
>>126
あとは宮室に金箔貼ったら完成だから

133 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:16:42.94 .net
>>128
京都

134 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:17:38.68 .net
>>126
纏向だよ

135 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:18:10.71 .net
>>131
伊都国が出雲だと言っている
糸島は墓しかない

136 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:19:58.64 .net
>>130
私は狗奴国は南九州の可能性の方がやや高いと思っていた
しかし、このスレッドで「卑弥弓呼」は卑弥呼と非常に名前が似ていることから同族であり、単なる親族間の争いという考えに納得した
266年に臺与が朝貢したこととも整合する

137 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:21:32.07 .net
妻木晩田は諏訪の伝承と何か関係しているんだろうか?
丑三時の根入り杉
丑三時は真夜中だ
倭国大乱の時か
国を揺るがすような災害が起きたのか?
明け方に鶏が鳴いて、早朝に岩戸開き神話

138 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:22:03.00 .net
>>135
伊都国は代々王がいたとある
それは明らかに、
・三雲南小路大王
・井原鑓溝大王
・平原大王(桜井茶臼山に次ぐ銅鏡40面の圧倒的大王)
という糸島であって、出雲では絶対にない。

139 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:22:25.49 .net
はるか後世の富雄丸山古墳ww

そんな新ものより、
阿蘇市下扇原遺跡・・・阿蘇カルデラ南面にある彌生末期の製鉄遺跡がすごい。
この学術調査で、漢王朝から伝わった1180度〜1300度の革新的高温炉を検出証明。
これは武器・工具の性能を変えた最新式のハガネ鉄生産炉。2-3世紀は熊本の時代だった。

140 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:23:17.79 .net
>>138
大金持ちの出雲だよ

141 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:24:12.04 .net
>>140
伊都国を出雲とする学者が存在しない

142 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:25:18.07 .net
>>139
熊本からは全く何も出土しない
本当に残念
>>109を見ても分かる通り、肥後はない

143 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:25:40.74 .net
圧倒的な青銅器
権益を一手に握る出雲

144 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:32:28.70 .net
鉄器の出土例とか普通に見たら邪馬台国九州説と神武東征の証拠にしかならないが、時間と空間を操る者にとってはこれも邪馬台国畿内説の証拠になるんだな

145 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:34:33.79 .net
>>144
鉄器の出土の資料が古いんじゃないか?
淡路島や彦根からたくさん出たのに反映されてない

146 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:34:59.93 .net
平原の大王は、新しくしても西暦200年頃である。
これをもって平原こそ邪馬台国であると主張する素人も多い。
仮に、西暦200年ならば、銅鏡40面、しかも超大型内行花文鏡5面を含む墓の主は圧倒的な大王である。

このあまりにも圧倒的な大王がいた伊都国は出雲であるという考えは全く受け入れられない。
伊都国は明確に福岡県糸島市である。

この伊都国という超大国を管理する為に、畿内ヤマト王権邪馬台国は一大率を伊都国(福岡県糸島市)に置いたのである。

147 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:35:17.76 .net
舌先三寸の印象操作でしかない畿内説w

148 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:37:34.82 .net
>>145
鳥取県妻木晩田の鉄250点も無視されてるしな
鳥取県全部ではなく、妻木晩田遺跡だけで250点
安本美典の福岡県の鉄は398点

149 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:38:36.83 .net
>>146
超大国と言われても遺跡がない
確かに銅鏡は多いんだけどなんで割られてたんだろうな?

150 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:40:16.91 .net
南にあるという狗奴国は東海地方の勢力。
東の海は日本海で、海の向こうの倭種は沿海州の倭族のこと。
以北を管轄する一大率は狗邪韓国から伊都国を経て日本海側の投馬国(出雲国)と但馬国を検察する。無問題。
西に関しては、会稽東冶の東というのは倭国のことなので無問題。
東西南北問題なし。畿内説で決定。

151 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:40:23.84 .net
>>108
邪馬台国は想像上の国だから、自由発想

152 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:41:27.86 .net
>>149
私は畿内説だが、破鏡の研究は自分で勉強するべき。
漢鏡6期についてが参考になるだろう。

漢委奴国王(通説では、漢の倭の奴の国王)だが、絶対に奴国に与えられた金印ではない。
委奴国(伊都国)に与えられたのである。

153 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:43:25.77 .net
>>152
違うな
倭国者古倭奴国也

154 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:45:00.63 .net
三雲南小路は1世紀後半に方形周溝墓
方形周溝墓の勢力が平原に婿入りして拠点を作り始めていたんじゃないか
倭国大乱前の倭国は婚姻を結び勢力を拡大したんだろうな
柏がやってきたのかもね
大和国風土記逸文の石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のこと
筑紫風土記には、寄柏 御津柏とある。

155 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:45:08.18 .net
>>153
違うな
その資料は57年以降

156 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:46:28.82 .net
金印を与えられるのは倭王だよ
集落の長じゃない

157 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:49:17.19 .net
ここまで書いたけど俺はあの金印が本物と思ってない

158 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:49:24.13 .net
>>156
すなわち、伊都国(委奴国)の王
倭の中の「奴」の族長に与えるものではない
匈奴の族長は銀印とか銅印なのに、倭の中の「奴」の族長に金印を与えたと見るべきではない

159 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:50:25.82 .net
>>158
倭国者古倭奴国也

160 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:50:36.56 .net
九州北部も1世紀には橿の元に入った可能性がある
この時代がヤマト政権の始まりと言ってもいいかもな

161 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:51:58.71 .net
組んず解れつ年代場所妄想捏造入り乱れ
かな?

162 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:53:46.07 .net
>>142
>>139
熊本は神武東遷前の黎明期で、これが倭人伝の邪馬台国女王の都。
大和の華美豪勢は、東遷後の新時代。
そこんところがかんじん!

163 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:54:46.93 .net
>>159
それは後の時代
57年の時点では委奴国は、倭国とは別で存在していたと認識していたと見るべきである。

人偏は減筆したんだーなどと言う者がいるが、
「漢匈奴惡適姑夕且渠、漢匈奴惡適姑夕且渠、漢匈奴栗借溫禺鞮、漢匈奴歸義親漢長、漢匈奴歸義親漢君、漢匈奴惡適尸逐王、漢匈奴歸義親漢長、漢匈奴伊酒莫当百、漢休著胡佰長、漢仟長印、漢保塞烏桓率衆長」のように
画数もはるかに多く、人偏も減筆してない印鑑が出土しているのに、「漢委奴国王金印」だけ減筆したとは到底考えられない。

164 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:55:05.55 .net
上手くいった場所もあるが伯耆国の話のように上手くいかなかった場所もある
国作り道半ばだが着実に統一国家に向けて歩み始めたのが1世紀だろう
ヤマト政権の初期の時代だな

165 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:58:35.42 .net
>>163
倭は昔の倭奴国だと言ってるのにおかしいだろ

166 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 21:59:27.85 .net
>>165
それは後に認識したと解するべきである

167 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:03:56.38 .net
牛馬のない時代。
人の移動も物資の移動も情報の伝達も全て人力。
共同体としてまとまるのは、せいぜいが郡や町の領域。
奈良の勢力が一大率を通じて九州北岸を影響下に置いていた?
ありえません^_^

168 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:05:03.71 .net
>>167
出雲だから

169 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:06:56.31 .net
1世紀から九州北部は近畿の影響下だ

170 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:07:58.29 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

171 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:09:34.35 .net
>>167
邪馬台国が九州なら一大卒いらない

172 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:10:01.63 .net
出雲で輸入した青銅器を近畿で加工すると出雲さんが良い値で買ってくれる

173 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:12:07.19 .net
1世紀の近畿には離れた地にも影響を与える権威があったんだろう
磐座の神さま、出雲の龍女神、稲作の神、香の酒の神が手を組んだら凄い権威が生まれるな

174 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:13:33.07 .net
軍事的な威嚇力がなければ九州北岸は奈良の言うことなんて聞きません。
独自外交を行なってます。

175 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:15:18.49 .net
壱岐からは橿原や池上曽根と同じく弥生時代後期に龍の絵画土器が見つかっている
竜宮への信仰があつい夫婦の伝承が壱岐に残っている

176 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:17:10.07 .net
>>174
証拠のない感情論だけ
それが九州説

177 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:17:16.47 .net
このスレの欠点は、邪馬台国の定義をしていない事だろう。
邪馬台国が肥大化しているように思う。

178 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:20:23.57 .net
漢の時代、皇帝から冊封された倭王もしくは倭国王は九州北部にいました。
漢から王朝交代で後継した魏は、今までと同じように九州北部の首長を倭王に冊封しました。
当時の倭種の最大の勢力が倭王になるわけでも、最強の勢力が倭王になるわけでもありません。
正当性ちゅーもんがないんですな、ぽっと出の畿内とか吉備とかの辺境の野蛮人には。

179 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:25:26.77 .net
大分県宇佐市の宇佐市長の公式コラム


市長コラム「赤塚古墳と小部遺跡 その1」(令和2年8月号)

県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘の中に、国史跡の川部・高森古墳群があります。3世紀末から6世紀にかけて造られた6基の前方後円墳を中心に、約120基の円墳や周溝墓が集中しています。

このうち赤塚古墳は推定墳長約58m、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳の一つです。大正10年、箱式の石棺から三角縁神獣鏡等5面や鉄刀などが出土しています。三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府)や石塚山古墳(福岡県)と同じ鋳型で製作されています。

なお、三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚の一部で、赤塚古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があります。魅力的な話ですが、赤塚古墳の築造時期は卑弥呼が銅鏡をもらった239年より半世紀余り後であることなどから説得力にやや欠けるようです。

赤塚古墳などの被葬者は、古墳時代に宇佐地方を支配していた宇佐国造家(くにのみやつこけ)の一族と考えられています。ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。

180 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:25:29.73 .net
近畿特に大阪は弥生時代に於いてもあちこちの中心集落で石棒祭祀が行われていた
ぱっと出どころか何千年と伝統を守ってきた地だよ

181 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:26:25.79 .net
>>178
ぽっと出の畿内が、「ヤマト朝廷」になることも事実

182 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:28:48.12 .net
世界史に登場する国の全てが「ぽっと出」である
なぜなら、先行者が存在するのであるから、「ぽっと出」とするしかないのである

183 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:32:19.06 .net
新嘗祭や大嘗祭の饗宴、伊勢神宮の神事で使う三角柏は堺と志摩に生えていたと志摩国風土記逸文にある
志摩国のは奈良時代行基が植えたものだ
三角柏は隠れ蓑の葉、大谷渡りとも言うらしい

柏の葉、木の葉で食事をする、そういうのを大切に守ってきたのが日本人の本来の姿だよ

184 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:41:26.34 .net
NHKは卑弥呼がヤマト政権の始祖と断言したから検証していかないとな
引きこもりで誰も姿を見たことがない卑弥呼が大嘗祭や新嘗祭、饗宴を行えたか?
魏志倭人伝にそんな記事はないからな

185 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:42:46.07 .net
伊勢遺跡は首長たちが集まって行っていた祭祀場跡だ
新嘗祭をした可能性は多いにある

186 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:44:34.56 .net
>>184
NHKはそんなことを断言していない
断言というか、推測として寺澤先生がそのように意見を述べただけである

が、可能性としては極めて高いと言わざるを得ない

187 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:45:11.09 .net
昔は九州でカクレミノの樹液から漆みたいなの作ってたそうだな
カクレミノを特別視するのも東征により九州から畿内にもたらされた風習か

188 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:46:32.36 .net
漢が倭国(=九州北部)の酋長を漢委奴國王に封じたのなら、漢を継いだ魏も倭国(=九州北部)の酋長を親魏倭王に封じたでしょうね。
魏としては、蜀漢や呉から正当性について非難されてるわけですから、漢代から朝貢している国が継続して魏にも朝貢してくることは、自分たちが正当な漢の後継者であることを内外に示してくれる重要なイベントだったのでしょう。

189 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:47:14.23 .net
>>186
内容を吟味しないで放送することはない
しかもかなりセンシティブな内容だ
会長含めNHKが容認したということだ
番組の責任はNHKにあるからな

190 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:48:23.51 .net
>>188
というように考えるべきでない
隋書

191 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:49:28.43 .net
卑弥呼がきっかけで追われ、熊野の大渓谷を渡り熊野の地に隠れ住んだ時代があるんじゃないの

192 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:54:23.40 .net
>>189
卑弥呼がヤマト王権の最初の王である可能性は極めて高いと言わざるを得ない
なぜなら、まず卑弥呼は箸墓に埋葬されたという前提がある。
箸墓はあまりにも巨大だ。
それよりも小さい桜井茶臼山で、盗掘されているのにとんでもないほどの三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡、内行花文鏡が出た。
黒塚、ホケノ山、メスリ山、椿井大塚山、富雄丸山などの調査をした古墳に加え、畿内の墓はほとんど未調査。
行燈山、西殿塚もまだ未調査で、まさに化け物級の大王がいたことは確実である。

その最初の始祖となった卑弥呼を倒せる勢力を全く見出せない。
であるから、寺澤先生の意見は偏りがあるわけでもなく、極めて妥当な意見と解し得る。

193 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 22:58:40.49 .net
卑弥呼の前に男王がいただろ。

194 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:02:45.67 .net
>>193
その男王は畿内にいたのかという点で疑問が残るので、卑弥呼を最初のヤマトの王としても何ら責め立てるべきことではない

195 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:06:23.58 .net
とうとう5世紀の蛇行剣が4世紀の墓から出てきたニと言い出した畿内説はオワコン

196 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:07:19.75 .net
>化け物級の大王がいた

それ卑弥呼じゃなく神武天皇な

197 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:07:55.18 .net
卑弥呼より前に倭国には男王の治世が約80年ある
2世紀初頭倭国王帥升がいる
それより前の1世紀後半には政治の中枢を示す伊勢遺跡が誕生する

卑弥呼がヤマト政権の始祖というなら、卑弥呼より前の男王の時代や帥升、伊勢遺跡はヤマト政権とは関係ないことを示さないといけない

198 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:09:20.74 .net
>>195
あなたは会話ができますか?

199 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:10:12.52 .net
>>196
酒とか飲んでますか?
読解力あります?

200 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:15:17.77 .net
この放送の件は国体に関わることだから国会にNHK会長を呼んで見解を聞く必要があるかもな

201 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:21:03.85 .net
卑弥呼がヤマト政権の始祖って華陽院が徳川幕府の始祖と主張するようなものだな

202 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:27:55.82 .net
伊勢遺跡ほど、共立「」と言う文言に合致する遺跡は、ありえないであろう。
卑弥呼誕生の秘密に迫るヒントが、この遺跡にあるのではないかと思うのである。

203 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:36:13.08 .net
伊勢遺跡は夜に水の祭祀を行っていたという
定住の痕跡はないので決められた時に集まっていたのだろう
水の祭祀に関係する漢風諡号は安寧である
安は、新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示している漢字
寧は、屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味の漢字

大和国風土記逸文にある石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のことという記述通り、水に誓いを立て首長間で婚姻を結んでいたんじゃないか?
石津神は婿を、天津神は嫁を出す形で

伊勢遺跡は3代目の倭国王から始まった可能性がある

204 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:49:29.52 .net
初代倭国王は誰?

205 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:51:49.37 .net
ヒコホホデミ

206 :日本@名無史さん:2024/03/29(金) 23:57:17.04 .net
ヒコは正確な年代は分からないが、もっと後に出来た言葉と思うが

207 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 00:30:28.62 .net
なぜ?

208 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 00:31:59.52 .net
卑弥呼や倭国大乱前の時代は平和な時代
環濠がなくなり、玉作りの集落、鉄器の集落、漆器の集落、銅製品の集落、稲作の集落など各集落毎に特徴があり、分業と交易の国作りが進んでいた
纏向遺跡だけが巨大化したくさんの集落が営みを終えた卑弥呼の時代とは比べ物にならないくらい秩序だった国作りが行われていた

209 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 00:58:05.63 .net
ファンタジー小説?

210 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 01:44:10.43 .net
魏の使いがとどまって、一大率なる謎の存在も常駐する伊都国ってなんなの?
魏志倭人伝では1000戸、魏略では10000戸と全く違うのはなんでなの?
代々王がいるっちゅーのはどういうことなの?

211 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 02:20:17.54 .net
>>210
王が一大率だよ
王が居て一大率も居るなんてあり得ない

212 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 02:28:05.59 .net
丗有王皆統屬女王國
女王国は邪馬台国
卑弥呼が居なきゃ成り立たない女王国なんて名称は有り得ない
男王ならなんて名称なんだ
それで伊都国王は邪馬台国に属してる

213 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 04:21:22.78 .net
『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史1 日本のはじまり 旧石器~縄文・弥生~古墳時代』てのがあったから読んでみた
まあ物語としては面白い
ただ一番最後の部分台与は卑弥呼とまったく同じ事をしているってのがある
これこそが俺が台与は居ないと思う理由だ

214 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 06:32:43.35 .net
>>203
伊勢遺跡一つで夢を語れるアンポンタン。   @阿波

215 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 06:34:36.60 .net
>>211
>王が一大率だよ

筑紫忌部のドンだ。   @阿波

216 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 06:45:53.53 .net
つまり畿内説はフィクションでしたと

217 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 06:49:06.12 .net
沖縄人が今でも日本のことをヤマトゥーといい、本土人をヤマトゥンチュといい、日本人達をヤマトゥーターと呼ぶのは、古来からの名残でしょう
元は奈良で始まったヤマト国が、第二次大戦、そして現代の沖縄にまで残っている

218 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 06:58:54.95 .net
>>217
奈良かどうかはわからない
凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統
其大倭王居邪馬臺國
この邪馬臺國はどこなのか?

219 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:06:35.50 .net
元々連合国家の名称がヤマトかもね
範囲はわからんけど

220 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:13:43.56 .net
王の血筋から豪族たちの合議制で王を選んでたんでしょう
卑弥呼もそれに含まれる

221 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:20:58.57 .net
>>211
上洛した信長みたいなもんなんじゃねぇの?
知らんけど

222 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:22:49.71 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水で、自らの権力基盤が根底から崩れる驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(大和には留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。また鯨漁の「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだw

223 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:27:24.91 .net
張政を追い返して外交してないんだから台与は魏と不仲でむしろ喜んで晋に接触したのだろ

224 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:30:23.73 .net
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

225 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:30:57.48 .net
>>218
魏志をそのまんま引き写したにしては魏志に書かれていない情報が混ざってるんだよな
どこか漢代の史料にそういう情報があったのだろうか

226 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:32:35.92 .net
魏志とか言ってる時点で話にならねえだろ

227 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:33:18.40 .net
224
それ中国の話な

なんで日本が関係あるんだよボケ

228 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:34:17.50 .net
てめえのその腐った中国中心観やめたらどおだ?

さてはてめえ反日だな😳

229 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:37:10.00 .net
>>225
倭国大乱の時期も具体的だしね
もしかすると魏志と同じ資料かもしれない
魏志は魏の時代を書いてるから漢代の記述は省いてるかもね

230 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:40:14.16 .net
>>108
「親魏倭王」卑弥呼、万歳!

231 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 07:47:51.40 .net
>>225
>魏志をそのまんま引き写したにしては

勝手に改造する人だよ

232 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 08:02:26.54 .net
吉田松陰の辞世の句

「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

ヤマトは最初、奈良の一地方を指すに過ぎなかったが、後に国名となったのであ?

233 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 08:08:59.59 .net
>>232
それはいつの時代の事を言ってるの?

234 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 08:22:52.80 .net
吉野ヶ里遺跡「謎のエリア」発掘調査の成果は…注目の発見は「青銅器の鋳型」弥生時代の社会解明につながる可能性も

邪馬台国時代の有力者の墓とみられる「石棺墓」など大きな発見が相次いだ吉野ヶ里遺跡のいわゆる“謎のエリア”。注目されるのは「青銅器の鋳型」。青銅器の“生産地点”が発見されるのは大変珍しいという。
https://news.yahoo.co.jp/articles/673a84b9ae9c6c05ab3fe6e4f2b6b601fcb0e4cc

235 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:06:09.99 .net
>>234
>「青銅器の鋳型」弥生時代の社会解明につながる可能性も

物部(忌部)の郷で採れた蛇紋岩製だ。   @阿波

236 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:07:31.22 .net
>>234
水銀朱も、もちろん「阿波」産。   @阿波

237 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:07:47.70 .net
吉野ヶ里は倭人伝のクニグニの一つで、不彌国。その発掘調査は偉大だった。
更に川上の七が瀬遺跡、大神宮遺跡と大物が控えている。
此処が注目の伊都国国衙跡。

238 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:10:43.30 .net
ハルキーさん、出てこいよ
俺と戦おう

239 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:22:33.49 .net
富雄丸山古墳の「蛇行剣」も「水銀朱」も、もちろん「阿波」産。   @阿波

240 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:23:13.95 .net
なぜテレビの再現ドラマやマンガアニメで卑弥呼の王宮が吉野ヶ里になってゐると思う?w

つまり、そういうことw
>>108

241 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:47:49.58 .net
つまり九州説はマンガやアニメのレベルってこと

242 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:50:58.57 .net
つまり畿内説は宗教家の妄想作文でしたと

243 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:51:40.48 .net
>>237
七が瀬遺跡は吉野ヶ里住民の墓でしょ
やっぱ鏡割ってるのな
平原も吉野ヶ里住民の墓じゃないか?
そのくらいの勢力圏はありそうに思うんだがな

244 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:55:40.40 .net
吉野ヶ里遺跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1
歴史 古墳時代
>古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。
また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。
倭国大乱の後卑弥呼が即位して戦乱の世が治まり吉野ケ里の機能は消失している

245 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 09:58:53.66 .net
>>244
吉野ヶ里遺跡も、倭人(阿波勢力)の遺跡ってこと。   @阿波

246 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 10:03:26.60 .net
富雄丸山古墳も、倭人(阿波勢力)のお墓。   @阿波

247 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 10:06:12.09 .net
トンデモどもよ、まだ無駄話を続けるのか?   @阿波

248 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 10:06:57.71 .net
末盧国から東南五百里は吉野ヶ里じゃないのかな?
方向も合うし歩く理由にもなるし

249 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 10:09:05.91 .net
>>108
畿内には見られない宮室(雲仙普賢岳を向いた主祭殿)・楼観・城柵・邸閣(租税倉庫)の4点セットがすべて備わった日本で唯一の吉野ヶ里を出すと、畿内説が狂ったように舌先三寸の印象操作で否定してかかるなw

250 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 10:12:04.67 .net
銅鐸埋蔵なんてのも中国から出てくる遺物などと比較して考えたら"楚"の時代あたりに山東半島あたりで行われたのと同じことやってんだわな

年代測定も紀元前2世紀あたりと出るしそのころにお互いに共通性を持つわけ

この人々を"弥生人"と呼ぶ

朝鮮人が弥生人だのそんな話はねえわ

251 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 10:17:56.10 .net
"楚"がその地域を支配していたときの風習なんだわ

中国王家の象徴、飯炊き釜が日本に無いとか言ってるがそれを象徴としたのは"周"王朝

252 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 10:41:10.14 .net
吉野ケ里に王はいなかった・・今回最後の候補地も調べたから

253 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 10:45:11.65 .net
>>99
そりゃ、機内には国なんて作れんわな、
空飛ぶ国とか、無理やで

254 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 10:47:03.64 .net
>>252
居るだろ
遺跡の規模はデカいし周辺全部勢力圏でしょ

255 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:09:06.21 .net
>>150
その東の海のことを東海とか呼ぶ国が現代にいることがうっとうしくなってきた今日この頃

256 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:10:10.54 .net
>>153
それ、いにしえの倭の奴国 という意味じゃなくて、いにしえの倭奴国 て言う意味やろ

257 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:13:30.77 .net
>>156
金印ってのは、朝貢国の中でも圧倒的大国にしか与えられない特別なものだから、倭の大半を束ねる大国と認識されてないともらえないはずなんだよな

258 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:16:45.61 .net
>>256
そうだよ
倭は昔は倭奴国と言ったって事でしょ
だから倭奴国王ってのは倭国王の事だよ
漢の倭国王

259 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:20:09.67 .net
>>210
鴻臚館、大宰府の前身みたいなイメージ? のがあったんだろうかね

後代、平安時代ごろにも、唐や新羅の使節が来たら大宰府で留め置け、都まで来させるな、って制度もあった

260 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:25:07.58 .net
安寧と次の懿徳の漢風諡号、和風諡号も興味深いな
安寧はトミのヤマト政権初の女王の可能性がある
懿徳もトミかもな和風諡号から見ると
長髄彦のモデルかもしれん

261 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:25:10.96 .net
>>210
>代々王がいるっちゅーのはどういうことなの?

「丗有王(これ・ここに、王有り)」 
「丗」は、「此女王境界所盡」に習い、「此」の誤字だろう。   @阿波   

262 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:42:36.17 .net
>>222
もともと、邪馬台国の使節が魏に朝貢したのは司馬懿が遼東郡の燕国を征伐して公孫淵を滅ぼしたからだ、
だから東夷伝は司馬氏の創業神話としての価値があるから魏志の中で他の地域とは別扱いされて、特別に収録されている
そういうわけだから、魏から晋に代わっても司馬氏が後ろだてなまま、変わらないよ

263 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:44:52.57 .net
つまり畿内説は舌先三寸の印象操作

264 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:51:53.14 .net
そして九州説は舌足らずで印象操作失敗

265 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:52:06.38 .net
オレオレ詐欺そのもの畿内説w

266 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:57:18.81 .net
トンデモどもよ、まだ無駄バトルを続けるつもりなんだな?   @阿波

267 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 11:57:35.75 .net
畿内説がうるさく言うように、出土土器には時代を示す編年がある。
歴史書の各条、つまり竹簡にも編年があり、歴史順に厳密に編まれていた。
それを現代人の学者が、自己保身の都合で手前勝手に差し繰ってはいけない。

268 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:01:25.98 .net
>>262
大倭王台与が統べる倭国は
西晋初代皇帝2年目(266年)の朝貢を最後に消息不明になる
他の東夷各国はその後もずっと朝貢しているのに倭国だけが
頻繁に行っていた朝貢をプツンと止めた

自分で朝貢を止めたのかできなくなる事情が何かあったのかはわからない

269 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:01:26.58 .net
「丗有王」→(世に有りし 王たち)と過去形で読むべし・・

270 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:03:11.26 .net
権力好きで大げさなんだろうと

271 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:03:50.84 .net
ここがね

272 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:04:45.85 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

273 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:06:57.03 .net
土器の年代なんてかなり雑な推定だよ

そして銅鏡の紀年とそれが副葬される古墳の年代は畿内では50年以上ずれてる

これって結局
銅鏡をもらった王族が子孫に銅鏡を配り分けて、
そのうちの一派が50年後に銅鏡をもって畿内に移り住んだ

ってだけのことでしょ

じゃなきゃ紀年と同時期の古墳から1枚も出てこない理由がわからない

274 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:21:41.00 .net
古墳の副葬品は古墳を造った同じ時か古い、後の時代の物がある可能性もあるね

275 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:25:01.13 .net
畿内説を否定するようなことは言うなよ

276 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:27:19.78 .net
>>100
魏志倭人伝に完全一致している九州説に印象操作は必要ないからねw

全く一致してないからこそ畿内説は常に印象操作が欠かせないわけだw まぁ頑張ってw

277 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:28:08.13 .net
つまり銅鐸神話族が馬韓邪馬台国を征服したってことか?

278 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:31:11.38 .net
昔話の最後
市が栄えた
市が割れた
大倭が割れた話なんじゃないか?
台与で市が元の一つに戻ったか
トヨウケには触ることが起きたみたいだからなあそれ次第か
和泉黄金塚古墳の時代の可能性もある
まだまだ謎があるな

279 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:35:59.91 .net
つまり畿内説は居直り詐欺でしたと

280 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:36:35.05 .net
>>278
大倭ってなんだ?
日本に文字は無いぞ

281 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:37:09.37 .net
>>100
魏志倭人伝に完全一致している九州説に印象操作は必要ないからねw

全く一致してないからこそ畿内説は365日24時間、永遠に印象操作が欠かせないわけだw まぁ頑張ってw

282 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:44:24.43 .net
>>225
元は魏志ではなくて魏略だろ

283 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:49:03.05 .net
>>260
和風諡号を追贈した飛鳥時代や漢風諡号を追贈した奈良時代の人がその大王たちをどのように見ていたかが反映されているだけで、
本当に在世当時のことを反映してるとは限らんのよな

284 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:51:32.26 .net
>>268
平均して10年に1回よりは少し頻度が高い程度やろ
次の使節を送るまでのどこかで何かあって支障が出たとしか分からんわ

285 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:53:14.40 .net
>>273
鏡の編年がずれてるというのは、ずらしたい人の妄想でしかない

史実なのか推定なのか推測なのか憶測なのかを区別できるほどの根拠などないのだ

286 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:59:42.55 .net
>>268
それは、
「其後復立男王」として、「壹與」の後に立った「神武天皇」は、吉野川北岸の服従しない勢力を征伐するため(神武東征)、
大陸に朝貢などしている場合じゃなかったから。   @阿波

287 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 13:16:07.73 .net
>>281
一致している、一致していると連呼することが街宣車的印象操作でしょ
しっぱいしてるけど

288 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 13:29:06.76 .net
>>284
晋書倭人伝の最後にこうある
其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
その後も貢聘は絶えず。文帝が相となる(263年)に及び、また、しばしば至る。泰始初(泰始元年265年あるいは泰始二年266年)、使を遣はし、訳を重ねて入貢す。

晋書武帝記の記事にはこうある
十一月己卯,倭人來獻方物
(泰始二年266年)十一月己卯、倭人が産物を朝献した。

この記事が最期となり倭国は消息が途絶える
ちなみに魏志倭人伝は張政帰国時の247年で終わっているので
247年から263年(司馬懿の次男司馬昭が魏の相国になった年)の間の朝貢は不明

289 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 13:35:11.92 .net
成熙二年十二月に魏から晋に禅譲されて、即、泰始元年に改元されたので、泰始元年は数日しかない
武帝紀と併せて考えれば、倭の朝貢は泰始二年(266年)の1回だけでしょう

290 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 13:37:59.31 .net
成熙→咸熙だった

291 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 14:10:42.66 .net
>>288
だから、
「其後復立男王」として、「壹與」の後に立った「神武天皇」は、吉野川北岸の服従しない勢力を征伐するため(神武東征)、
大陸に朝貢などしている場合じゃなかったから。   @阿波

292 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 14:36:37.87 .net
>>291
すぐ目の鼻の先にある敵対勢力に阻まれてしまったら、大陸はおろか日本国内の他の地方とさえ交流できないんじゃないの?

293 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 14:45:54.60 .net
あ〜🤔

楚文字ってのはあるみたいだけどな

294 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 14:47:34.05 .net
>>292
>大陸はおろか日本国内の他の地方とさえ交流できないんじゃないの?

だから、「神武東征」をやった。   @阿波

295 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 14:48:37.28 .net
🤔あ〜そっか、日本から出てくる文字も漢字そのものじゃなくて楚文字の可能性があるのか

296 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 14:49:04.09 .net
294
とりあえず消えてろおまえは😳

297 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 14:52:05.37 .net
漢字は始皇帝が選び出して使用し始めたのが始まりだからな

楚文字ってのは漢字の兄弟文字みたいなもので中国人らが使ってる漢字の兄弟みたいなもんや

298 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 14:53:26.54 .net
厳密に言えばところどころ漢字なんかとはかなり違うけどな書体も

ただ近い文字だから変換は可能だ

299 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 14:55:25.54 .net
>>296
目の上のたん瘤ってやつか?   @阿波

300 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 15:16:37.89 .net
太国って最近見ないね

301 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 15:59:09.22 .net
>>100
>>108
魏志倭人伝に完全一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないからこそ畿内説は24時間365日、年代繰り上げ印象操作が永遠に欠かせないわけだ。まさに「ヤマトよ永遠に」w まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統より)w

302 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 16:06:02.85 .net
「古代。せいぜい頑張ってくれたまえw」デスラー

303 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 16:06:02.98 .net
「古代。せいぜい頑張ってくれたまえw」デスラー

304 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 16:33:07.57 .net
>>301
具体的なこと全く言えないんじゃ、言ってること全部インチキと疑われて当然

305 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 16:56:17.23 .net
1000も洗脳工作スレが続く畿内説、乙!w

306 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:00:26.54 .net
>>305
おまえも脳洗えよ
汚れすぎだぞ

307 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:12:37.85 .net
わざわざ1000スレもかけて、
自分の哀れな姿を宣伝してきたんだからな、アホ踊りの典型・・

308 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:16:22.41 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

309 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:21:02.28 .net
>>308
洪水で日常生活そのまま封印された遺跡だが鉄器はごくわずかしかない寒村であった

310 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:40:25.63 .net
🤔うむ

紀元前より"銅鐸神話王国"があったのは確認済みだ

311 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:41:17.55 .net
ことごとく空ぶるなあ😄

312 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:45:20.22 .net
>>311
トナカイ=伊勢遺跡説=スクリプト荒らしでいいか?   @阿波

313 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:46:21.35 .net
足守川流域遺跡群の津寺遺跡

6000本の杭を打ち込んだ不思議な構造物

https://news.infoseek.co.jp/article/president_66730/

314 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:49:36.91 .net
TBS報道特集 17:30〜

▽「蛇行剣」の保存作業に1年間密着。見えてきた唯一無二の歴史的価値とは。

315 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:49:54.89 .net
そもそも日本書紀がウソ八百だー、
あんな山奥に高天原-高千穂王朝があったなんて、
荒唐無稽な万世一系のおとぎ話で、オレの青春を無駄にしてくれた・・、

まして、あの九州の山奥の高千穂に、卑弥呼王朝なんかあるわけがない・・、
関東・関西・中四国・博多の都会育ちお坊ちゃん学者は、皆そう思ってきたんだろな。
特に、昭和一ケタ参入組の老学者は、ほとんどはそうなんでないかな。

316 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:53:08.25 .net
>>312
なんで俺なんだよ?
トナカイて誰やねん?

317 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:54:22.17 .net
何か見つかったら考えよう、な

318 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:56:01.97 .net
>>316
違ったか?   @阿波

319 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:57:32.95 .net
荒神谷と加茂岩倉遺跡の青銅器の持ち主は
妻木晩田遺跡くらいしかないよな?
50㎞くらい距離がありそうだけど集落の規模はこのくらいだろ?

320 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:57:58.10 .net
>>318
全然違うわ

321 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 17:58:56.73 .net
>>314
>見えてきた唯一無二の歴史的価値とは。

制作地が鉄器王国「阿波」だという、歴史的価値。   @阿波

322 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 18:02:00.02 .net
馬鹿馬鹿しい、卑弥呼は天照大神だー、
オレがきちんとした平野部に見つけて始末つけてやるわい・・、
と、平原やら、大宰府やら、甘木朝倉やら、筑後山門やら、纒向の箸墓・ホケノやら、阿波徳島やら・・・

探し回るけど、なーも出てこらっさん。そら、出るわきゃなかろ。
紀元前の高天原・高千穂王朝も、紀元後の卑弥呼王朝も、九州の山奥の天然の大要塞・高千穂にあったのだ。
曰く、倭人伝の灯台下暗し伝説(笑笑www

323 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 18:20:34.98 .net
47都道府県
約100国なら一つの県の半分くらいの面積がある
しかも対馬や壱岐が1国だから

324 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 18:24:51.06 .net
>>314
>TBS報道特集 17:30~

奥山誠義、顔を晒したな。   @阿波

325 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 18:28:52.36 .net
つまり畿内は女王国の東にあった倭種の国でしたと

326 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 18:30:13.53 .net
>>314
>TBS報道特集 17:30~

蛇行剣の柄の辰砂も勿論、「阿波」産。   @阿波

327 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 18:33:16.99 .net
九州なんて原の辻遺跡と吉野ヶ里遺跡と
あと南に一つの三つじゃないのか?
末盧国に官が居ないのは当たり前で全部吉野ヶ里の勢力圏だろ?

328 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 18:58:03.74 .net
>>301
曲解と創作によって魏志倭人伝と一致しているように装ってるだけで、実際には史実ガン無視してるけどな、九州説の諸流派すべて。

329 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 18:59:49.04 .net
奥山、倭人(阿波勢力)が作った蛇行剣の泥を慎重に除いていたな。 ご苦労であった。   @阿波

330 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 19:13:25.14 .net
畿内の威信材スゲー!畿内確定!
幻の九州王朝は畿内レベルの魏〜南朝の三角縁鏡はあるのか?

331 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 20:09:47.23 .net
妻木晩田のある山陰は興味深い
西から大規模集落を並べてみる

出雲、根の西川津遺跡(漆器など木製品の製造、樫の鳥形)
伯耆の妻木晩田(多様な竪穴式住居)
因幡の青谷上寺地(西川津遺跡と同じ形の鳥形)
丹後のトヨウケ

伯耆の由来
手摩乳(テナヅチ)・脚摩乳(アシナヅチ)の娘の稲田姫(イナダヒメ)を八頭之蛇(ヤマタノオロチ)が呑もうとしたために、(稲田姫は)山中に入って逃げた。その時に母が来るのが遅かったので、稲田姫は「母來(ははき)」と言った。故に母來国(ははきのくに)と名付けられた。後に改められて伯耆国(ははきのくに)となった。云々。

相見郡
群家の西北には餘戸里と粟嶋(あはしま)がある。

少日子命(スクナヒコ)が粟を蒔いたので、莠(はぐさ?)がよく実って垂れた。そこで粟に乗ると弾かれて常世国に渡った。故に粟島という。

雷鳴(かむとけ)、地震(なゐ)の時に雉が鳴くのはなぜか?…伯耆国風土記には このようにある。

地震の時、鶏・雉は恐れて鳴くのである。山鶏(やまどり)は嶺谷(をたに)を越え、樹木に止まり踏み踊る。云々。

元々稲田姫の集落だったが伯耆したのか?  
様々な人々が暮らすようになり、スクナヒコナが治めようとしたが雷が鳴って失敗したのか?
鶏や雉は去ったが山鳥は谷を越えた地で踏み踊る

その後はアメノホヒの話になり、オオナムチの和魂となり大物主に吸収という話かもな

山陰の歴史は孝に、トヨウケとの関係性も山陰で育まれたのかもしれん
大物主と百襲姫の話は、因縁と和睦の話なのかもしれん

332 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 20:10:45.00 .net
>>331
訂正、放棄したのか

333 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 20:22:07.51 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

334 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 20:24:19.46 .net
呉人は鯰の冠を被り文身の風習があったという
鯰と雷は関係が深い

335 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 20:45:38.21 .net
あらゆるものを飲み込む蛙石とは何なのか?

336 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 20:50:14.35 .net
ハルキーさんが九州説だがおまえらより詳しそうなんだがw

337 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:15:15.11 .net
中国地方が投馬国5万戸・近畿一帯が邪馬台国7万戸・東海関東が狗奴国、が畿内説
全部九州にあるのがバカ九州説

338 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:19:11.69 .net
地方、辺境ほど大雑把に把握されるわけだが

339 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:20:38.54 .net
邪馬台国は奈良で狗奴国は河内湖と大和川の南でしょう
河内和泉は石棒祭祀が根強く残っていた地であり龍神の伝承が残る地でもある
銅鐸とヒスイの勾玉、鳥形の地でもあるね

340 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:22:39.43 .net
河内は庭鳥古墳という前方後方墳がありNHKの説によれば狗奴国の地になる
河内の同盟国は伊豆や関東にまで広がっていたのかもねえ

341 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:24:51.48 .net
多摩丘陵は摩の地だね
元々横山と呼ばれていて、枕詞は眉引きの
和泉の池上曽根遺跡のあった摩湯丘陵と関係が深いのかもね

342 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:38:29.95 .net
ヤマタノオロチ伝承は遠賀川にも残っている
ヤマタノオロチがスサノオに倒された後、遠賀川は真っ赤になったという

遠賀川の鎮西上人伝説によれば、遠賀川には真っ赤柿が生えていた
鎮西上人は黒い柿や丸印の柿が欲しいと願い修行を重ね遂に願いを叶え、飯で山を作ったという

鎮西上人はヤマタノオロチ退治のその後に続く話だろうな

343 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:49:04.70 .net
狗奴国東海説はNHKと同じだろw
前方後方墳が狗奴国とかハルキーさんも動画で言ってたが短絡的すぎて話にならん。

344 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:52:18.20 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

345 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:57:02.32 .net
武蔵国の国造の祖は伊勢津彦、播磨の伊和大神の子だな
4世紀武蔵国国造になるのは出雲臣の一族
国津神の元に行った神さまだな
堺の石津神社の宮司も同じ一族
因みに徳川幕府によって、堺一円と河内四郡の人々は全員石津神社の氏子とされたらしい

346 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 22:58:11.04 .net
>>345
国津神の元に行った神さまアメノホヒの子孫

347 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 23:07:05.60 .net
出雲の西川津遺跡、鳥取の青谷上寺地遺跡、大阪の雁屋遺跡、池上曽根遺跡などは同じ鳥形の集落だ
縁があるということだ

昨日までGoogleで見れた天理大学の鳥形の分類の論文が見れなくなっている
昨年まで見れた岸和田市の民話のホームページも見れなくなっているな
伝承の抹殺を図ろうとするかなりの圧力があるのかもな

恐ろしい話だ

348 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 23:10:28.03 .net
つまり畿内説は頭の悪い詐欺師でしたと

349 :日本@名無史さん:2024/03/30(土) 23:37:32.84 .net
狗奴国が継体天皇に滅ぼされて
血筋が同じなんで反乱やめてね
っていいくるめたのがヤマト王権でしょ

日本海側の女王国が南下してきたんだから
その首都の邪馬台国のが出るわけないじゃん

350 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 00:05:29.14 .net
奈良も大阪も大和川水系で昔から一体だよ
時々イレギュラーな出来事が起きるだけだ
旧石器時代から何も変わらない
天地未明の時代から脈々と
谷を越え移動しても必ず元の地に戻ってくる
石と水の出会いで生まれた水蛭子、えべっさん

351 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 00:05:36.48 .net
狗奴国を滅ぼしたのは景行天皇

息子のヤマトタケルに命じて東国征討させた

352 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 00:22:08.22 .net
>>351
4世紀に東国の前方後方墳が前方後円墳に替わって行ったんだな

353 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 00:31:57.74 .net
滋賀と大阪も淀川水系で縄文時代から交易がある

354 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 01:06:48.45 .net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%83%B7%E4%BA%80%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3

355 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 01:15:19.98 .net
>>352
景行天皇の治世は4C中頃だから狗奴国が滅んだのもヤマトタケルが活躍したのもその頃

卑弥呼崩御から百年後くらいの出来事

356 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 01:28:21.55 .net
>>352
沼津あたりは3C中頃の高尾山古墳の次に築造されたと見られる3C後半頃の
神明塚古墳から前方後円墳になっている

邪馬台国と一時的に和平を結んだ事を意図しているのではないか?

357 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 01:31:53.89 .net
東国の変化は鉄剣のおおひこによる

358 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 01:38:15.53 .net
随史「則魏志所謂邪馬台者也」 随使の裴世清が大和で儀仗を受ける

長柄神社「下照姫命」西方から銅鐸等が出土している

神武紀の「臍見の長柄丘岬」に比定される

奈良県御所市大字名柄字宮271

359 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 02:59:55.24 .net
毛人
大和政権に服属しない、東国に居住する集団をいう。

360 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 03:05:10.60 .net
卑弥呼と卑弥弓呼・・・跡目争い   
狗奴国=毛人
陳寿はこの二つを混同したんでしょう

361 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 06:28:36.68 .net
>>100
>>108
魏志倭人伝に完全一致している九州説に印象操作は一切必要ないからね(余裕の「よっちゃんイカ」)w

全く一致してない畿内説は24時間365日、年代繰り上げの印象操作が永遠に欠かせないわけ。まさに「ヤマトよ永遠に」w

「古代。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統)」w

362 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 07:13:28.44 .net
>>337
>中国地方が投馬国5万戸・近畿一帯が邪馬台国7万戸・東海関東が狗奴国、が畿内説

なんの根拠も無く、ただ配置しただけのバカ畿内説。   @阿波

363 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 07:14:49.13 .net
>>339
>銅鐸とヒスイの勾玉、鳥形の地でもあるね

まさに、倭人(阿波勢力)の専売特許の品々。   @阿波

364 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 07:16:58.02 .net
>>347
>同じ鳥形の集落だ 縁があるということだ

そりゃ、みんな倭人(阿波勢力)なんだから。   @阿波

365 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 07:27:03.14 .net
つまり畿内説は白いカラス

366 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 07:51:34.23 .net
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国
倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑舊百餘國

367 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 07:58:44.35 .net
倭王武の上表文487年w

368 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:00:06.13 .net
>>366
隋書倭国伝
有軍尼一百二十人猶中国牧宰
クニ(国造?)は120人いて中国の牧宰(国司)のようである

369 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:01:08.96 .net
隋書倭国伝7世紀www

370 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:03:31.72 .net
紀元前からずっと7世紀になっても
倭人の国の数は100余国だったことがわかるな

371 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:07:30.46 .net
卑弥呼の時代の百ヵ国は北部九州倭国のみの、武や天垂彦の時代の百ヵ国は本州四国も含めた日本国であることが判るねw

372 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:08:58.34 .net
わたしの国は,はるか遠いところにあって,宋そうからいえば海外の国になっています。わたしの父祖ふそたちは,みずからよろい・かぶとに身を固かため,山や川をわたり歩いて,おちついて休息するひまもありませんでした。そのおかげで,東では蝦夷えみしの55か国を平らげ,西では熊襲くまその66か国をおさえ,さらに海をわたって朝鮮ちょうせん半島の95か国をしたがえました。(以下略いかりゃく)

373 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:09:40.04 .net
元100ヶ国あった
これが全部九州に納まるのかw

374 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:10:44.02 .net
それ見ておまえら勘違いしたわけやな🤔

375 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:11:34.96 .net
昔(後漢=帥升時代)百ヵ国、今(倭国大乱・卑弥呼共立後の魏代)30ヵ国ねw

376 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:15:30.11 .net
それを隋書倭国伝では後漢代(2世紀)も隋代(7世紀)もまとめて百ヵ国と書いたわけw

377 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:16:04.00 .net
>>371
北部九州倭国は30余国だろう

378 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:23:12.42 .net
https://i.imgur.com/BWx2GKq.jpg
楽浪海中に倭人あり、わかれて100余国をなす

379 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:27:38.36 .net
>>366
「東征毛人五十國西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」   
これはずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北の展開記述である。
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸・朝鮮半島南部 
これは、倭国(阿波)から進出した「倭人(阿波勢力)」の開拓地域と符合する。   @阿波

380 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:35:26.68 .net
>>378
毛人(蝦夷)はそこじゃないな

381 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:39:13.78 .net
旧百余国は前2世紀の話だから九州だけ←基本ですよ

382 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:44:23.04 .net
100余国が統合されて30国になった説はNG

383 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 08:48:06.73 .net
大量の青銅器を保有する出雲とか使役を通じてるにきまってんじゃん

384 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:04:52.58 .net
https://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/nendai02.html
貨泉は前漢と後漢の間にあった新(紀元8年~23年)の時代に鋳造がはじめられた貨幣で、新が15年という短期間で終わったため、一緒に出土した土器などの年代をはかるキーとなります。

385 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:09:07.00 .net
東アジア最大の鉄剣「蛇行剣」 初の一般公開 
https://news.yahoo.co.jp/articles/c8a2c995063416eacdf852d78ce1a625e4255939
奈良 富雄丸山古墳

386 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:09:58.97 .net
北周の皇帝「武帝」、DNA基に顔を復元
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1711823898/
復元顔は従来の説覆す北東アジアの典型

387 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:12:31.95 .net
https://www.buccyake-kojiki.com/archives/1017955543.html
中国で作られた貨泉(かせん)が25枚発見された。それまでの全国のものを全部合わせても、弥生時代の出土例は11遺跡16枚を数えるにすぎなかったため、その量の多さがうかがい知れる。

388 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:20:53.48 .net
>>383
工房があってこその使役だ。   @阿波

389 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:40:16.71 .net
384
貝貨なら使用されてたけどな👈楚

390 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:44:10.38 .net
北周皇帝ハプロはC2aやん

典型的なモンゴル人じゃねえかよ

周王朝名乗った唐(鮮卑)人のハプロは確かNだったはずだがな

391 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:44:21.52 .net
蝦夷の元は四道将軍、纏向遺跡であったり卑弥呼を共立した支配層の一部が東国で蝦夷になるのだよ 
単純化すれば香島の天の大神がそこで退治する
船を献上させて農業に就くよう導くのだ

石見神楽の道反しも同じような内容だ

卑弥弓呼は河内の地で舟を追い返すまで耐え抜いたのだ

ミカはミキ、お酒です

同じことが何度も何度も繰り返されてきた

392 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:44:34.62 .net
>>388
おまえんとこは作る人で出雲さんは買う人
出雲さんはお金持ちだから

393 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:45:01.79 .net
あ〜あ〜完全な仮冒だなボケ

こんなんばかりやな

394 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:45:59.67 .net
遺伝ハプロNの子孫に青い目だの銀髪だの多いんだよ

日本にも東北にいるからな

395 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 09:51:28.38 .net
鶏が鳴く前は夜
夜に怪しく光る火
記紀では短く書かれてぼやかされているが倭国大乱の時代、火が暴れ回っていたんだよ

阿波の豆狸の話だよ
阿波の豆狸は夜の山に火を灯し朝に雨を降らせてた

これが倭国大乱から魏志倭人伝の時代までの話だ

396 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 10:01:03.19 .net
>>389
中国と交易があるかどうか
九州だけとかアホな事言ってるから

397 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 10:14:00.82 .net
常陸国風土記にあるだろう
常陸国の山野や里には酒鳥が住むと

鶏が鳴くは東の枕詞

398 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 10:18:59.95 .net
大戦は戦後処理が大変なんだよ
卑弥呼が闇雲にかき集めた纏向の多くの人々
考え抜いた策が四道将軍だろうね
主に東国に派遣され新たに開拓民としたんだな

399 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 10:20:12.10 .net
畿内の倭種は、地鶏が鳴く常陸の国まで逃げ出したか、、、

400 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 10:25:45.69 .net
かちかち山の話は狸退治の話
兎が仇を討ってくれる話だ
兎と言えば因幡の白兎だろう

401 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 10:27:03.32 .net
こんなふうに気が狂ってないと
九州説であることは難しい

402 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 10:31:54.49 .net
因幡の白兎が出会った後に大国主になる若者
大国主になったのはいつか?
NHKが日本列島が今のように九州から東北まで統一されるのは倭の五王の時代と言っていたな
現代の住吉さんの神使は兎

403 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 10:32:36.20 .net
>>330
三角縁が魏鏡ではなく、国産の量産鏡であることは科学的(成分)にも考古学的(景初4年)にもすでに判明してるから。
卑弥呼とはつながらない。

404 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 10:59:15.01 .net
弥生時代には関東にも鉄は流通してるし四道将軍とか
神話の話しを出すと胡散臭い

405 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:01:32.59 .net
モモソw

406 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:02:32.49 .net
>>403
そんな研究結果だした学者はいません

407 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:02:43.15 .net
収租賦有邸閣國國有市交易有無
何の為にこれやってるのよ?

408 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:04:45.56 .net
日本で貝貨が使われた歴史の痕跡を見てみると紀元前14世紀あたりに当たる縄文時代にまで遡る

409 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:05:36.25 .net
要するにそれを使えば何にでも交換できたってことだけどな

410 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:06:17.91 .net
酒殿だよ
その建物
今でも神社に名残りがあるでしょ
稲倉
香は国津神のブレインかもな

411 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:07:21.10 .net
>>406
現学者で三角縁神獣鏡は魏国産と言う方を列記願えますか?

412 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:10:12.44 .net
>>404
>弥生時代には関東にも鉄は流通してるし

関東忌部が持ち込んだものだ。   @阿波

413 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:13:02.06 .net
農耕の時代になり、貴重な狩場であった水辺は稲作の地に取ってかわられた
生きる糧を失った狩猟採集民が行き場もなく彷徨っていたのがスサノオの一面だろう
狩猟採集民も稲作民も争うことなく暮らす知恵が税であり酒殿なんじゃないかと推察している

414 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:15:33.95 .net
>>408
中国との交易の話し

415 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:28:49.71 .net
狗奴国 河内説だけはない件

239 日本@名無史さん sage 2023/07/04(火) 12:34:03.43
狗奴国河内説
↑9月末に反乱して10月には終息
伊都国まで1ヶ月以上の片道、魏に報告する前に終了w

一番、破たんしてる説w

崇神天皇10年
9月、四道将軍派遣、武埴安彦の叛乱
10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

416 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:29:58.59 .net
>「国宝級の大発見」富雄丸山古墳 埋葬されていたのは一体誰?

もちろん、倭人(阿波勢力)の一人。   @阿波

417 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:33:22.05 .net
布都主も狩猟採集民かもな
倭国建国初期の話なんだろうか
全国を平定して元いた場所に戻ってきたと

上総国下総国風土記逸文に楠の枝が上総下総になった話もあるな

ここから西に行くと高来里(たかくのさと)がある。古老が言うには、天地の初めに草木が言葉を話した時、天降る神がおり、その名を普都大神(フツノオオカミ)という。

大神は葦原之中津国を巡って山河の荒ぶる神の類を平定していき、平定し終えると天に帰ろうとした。その時。身に付けていた兵器と玉を悉く皆脱ぎ捨てて、この地に留め置き、白雲に乗って蒼天に昇って帰っていった(俗にその兵器は「稜威の甲・戈・盾・剣」であったと言われる)。

土地の諺に「葦原鹿 味わいくされる 食らう山宍 二国大猟 無可絶えつくす(葦原の鹿は味わいがよく熟しており、山の鹿よりも美味、常陸と下総の二国が大猟でも絶えることはない)」というものがある。

418 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:36:58.06 .net
伊勢遺跡の周囲を囲む建物は倉庫じゃないかなと思ってる
各地から持ち寄って規模の大きな市を開いてたんじゃないかと

419 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:37:37.88 .net
412
忌部の時代など新しい時代だわ

420 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:39:12.94 .net
NHKの番組では前方後方墳の地は狗奴国と言っていたぞ
河内湖と大和川より南の河内の地の古墳時代初期の古墳は、前方後方墳の庭鳥古墳

421 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:42:51.19 .net
ど素人の集まり👉NHK

422 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:44:12.45 .net
唐古・鍵遺跡の鳥装のシャーマンの絵画土器
シャーマンの胸に鹿の絵がある
興味深い
鹿は命の源の食糧だったんじゃないか

423 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:44:29.45 .net
>>419
>忌部の時代など新しい時代だわ

物部氏の衰退(丁未の乱587年7月)後、残党が「忌部氏」(斎部)や「石上氏」を名乗ったのであろう。   @阿波

424 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:46:55.67 .net
>>420
>NHKの番組では前方後方墳の地は狗奴国と言っていたぞ

倭人(阿波勢力)のなかでも方形を好むのが蘇我一派だ。   @阿波

425 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:47:05.17 .net
伊勢遺跡の近所の下之郷遺跡
炭化していない米粒のDNA鑑定行ったところ、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカがあり、しかもそれらは複数の品種があったことがわかりました。
これまで稲作は、温帯ジャポニカが中国~朝鮮経由で伝わったと考えられており、下之郷遺跡で発掘された稲籾の中に「熱帯ジャポニカ」があったことは思いもよらぬ発見でした。
東南アジアから海を渡って熱帯ジャポニカが伝わってくるルートがあったと考えられます。
https://shimonogou-iseki.yayoiken.jp/taberu.htm
ここでも規模の大きい市をやってたんじゃないかと

426 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:56:08.46 .net
徴税を担う大倭の母体は狩猟採集民だったんじゃないか?
大倭根子、大日本根子

427 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:56:41.00 .net
現代で言うところのフリーマーケット

428 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:57:09.64 .net
>>424
「方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型か?」
「蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群」
先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、
古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。
また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。
他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。
これらも倭国(阿波)内・外で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。   @阿波

429 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:57:32.82 .net
>>426
大倭なんて文字ないってばよ

430 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 11:58:49.18 .net
>>428
一族の墓ってのは考えられるな

431 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:03:02.73 .net
伊勢遺跡は夜に水の祭祀を行なっていたのが遺物からわかっているが、交易もしていたかもな
池上曽根遺跡とか自分らでは使いきれない数千点の石包丁を作っていたし
西川津遺跡は漆器とか大量の木製品
唐古・鍵遺跡もメインは木製品だな
稲部遺跡とゴッサカイトは鉄製品
弥生時代後期は分業と交易の時代かもな

432 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:05:17.42 .net
大倭なんて役職が仮にあったとしても
それを読んだ中国人がそれがなにかわかんねえじゃん
中国語で読んで意味あるの?

433 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:05:39.25 .net
大倭ってのが漢文の中に出てくるんだっけ?

漢記に滅朝鮮大倭なんたらとかあるとかなんとか

日本では倭国造ってのが奈良県に設置されてそのあと大倭国となり大和となった

西暦700年以後に設置されたもんよな確か

434 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:07:04.33 .net
それ以前は確か奈良県は飛鳥って呼ばれたはずだけどな🤔

435 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:08:19.43 .net
飛鳥は明日香のこと

436 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:09:40.95 .net
>>431
池上曽根遺跡のデカい建物な
あれ使って盛大な市をやってたかもと思ってる
伊勢遺跡や纏向遺跡とは性質の違う遺跡ではあるけど
前身としては考えられる

437 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:09:45.84 .net
飛鳥国(あすかのくに)から大和国(やまとのくに)に改称してんだよ

438 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:11:55.92 .net
やっぱり無知や〜😂

後追いでやってるからだよおまえら

439 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:12:01.46 .net
>>433
中国語だから大倭王で通じるのよ
市の番してる人を大倭と書いても中国人に理解出来ないでしょ?

440 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:13:47.71 .net
池上曽根遺跡
出土品として特筆すべきは大量の石包丁が出土している点である。

昔から包丁は武器だったんだね。恐ろしい。

441 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:14:07.43 .net
大倭は偉い人とかそういう意味だと思うけど
役職名だと書いてもわかんねえじゃん

442 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:20:18.74 .net
ただの美称だよ

昔の天皇にも美称で「大倭」って付けてるだろ

443 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:21:37.48 .net
坂鳥の朝越え
鶏が鳴き朝が来て雨、天が降る
坂鳥の一族は潮岬から伊豆そして房総半島に逃れたんじゃないか
途中の伊豆は250年頃の前方後方墳が見つかっている

堺の香がよい木が埋まっている伝承のある浅香
浅香と同じ音の神社が三重の阿射加神社
猿田彦大神、【伊豆速布留神】、竜天大神

伊豆の地は興味深い
伊豆国風土記逸文
奥野神猟(おくののみかり)には、毎年国ごとの役(えだち)が置かれ、八牧別所(やまきのわけどころ)を構えて幣(みてぐら)として狩具(かりくら)を納めたとされ、その事の次第は国記にある。推古天皇の御代、伊豆・甲斐の2国の間には聖徳太子の領地が多かったので、この猟鞍(かりくら)を留めた。

八牧別所は、往古は猟鞍の司であり、山神(やまつかみ)を祀り司った社は幣坐神社(みてぐらのかみのやしろ)と名付けられた。その旧法(ふるきのり)は絶えて久しい。夏野猟鞍は、伊藤・奥野で、毎年 鹿柵(かせ)の射手が選ばれる。云々。

伊豆の奥野の楠で応神天皇の時代軽船が作られる話もある

伊豆の地は山神や狩猟、熊野の神や楠、軽とも関係が深いのだ

444 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:23:02.58 .net
日本の役職名が大倭(ヤマト)だとしたら中国人に読めねえじゃん

445 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:25:51.11 .net
女王国は30ヵ国、狗奴国の仲間は70ヵ国なんじゃないの?
因幡の白兎が鰐に言っていただろう
仲間が山野に沢山いると

446 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:28:46.82 .net
444
知らんよ
日本でもヤマトだの使い始めたのは1000年以後だからな

447 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:29:28.26 .net
それ以前はどうなってたんだかな?🤔

448 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:31:23.08 .net
>>446
そもそもヤマトだったら中国人が大倭なんて文字をあてるはずがない

449 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:32:24.16 .net
>>446
倭建命、日本武尊

450 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:32:32.95 .net
大倭つまりグレートワは対外的な呼び方だよね
倭国の外の属国、つまり倭種の地に置かれた機関だろうよ

451 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:32:45.04 .net
日本に残る最古の文字を記してたのは竹簡文字らしいからな

竹を割ってそこに文字を刻んだわけ

そこに書かれていた文字が日本語の源流

452 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:34:38.45 .net
割った竹を並べて一つの文書として記録をのこしていた

453 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:35:26.98 .net
大倭はタワ
俵のタワも同じじゃないの
石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のこと、戯れであるみたいなことが大和国風土記逸文にあるでしょ
大倭システムのことを揶揄した記述だろう
風土記が書かれた八世紀初頭の奈良にいた人々の見解

454 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:35:49.22 .net
>>450
なんで市の番を対外的な呼び方にしなきゃならんのよ?

455 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:38:00.60 .net
鎮西上人伝説に関係する九州の飯塚、摂津国風土記にあるトヨウケがいた稲倉山は大倭の拠点の一つだろうな

456 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:38:27.95 .net
倭国の威厳を高め徴税や指揮監督をやりやすくするため

457 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:39:50.98 .net
>>455
拠点てなんなのよ?
各地にある市の倉庫番だろうがよ

458 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:41:03.49 .net
纏向=常世の郷 でしょ
スクナヒコは纏向に行ったんだよ

纏向の桃はどこから来たかといえば、遼東半島の公孫氏からもたらされたものなわけで

公孫氏の末裔は日本では常世姓を名乗ってる

常世の国=遼東半島
常世の郷=纏向

459 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:42:52.92 .net
各地でやってたフリーマーケットで利用料を徴収してたってだけでしょ

460 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:46:22.51 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

461 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:48:13.54 .net
各地でやってたフリーマーケットで物が行き渡るようにしてたと
魏志倭人伝に書いてんじゃん

462 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:50:43.40 .net
>>457
>各地にある市の倉庫番だろうがよ

各地といっても、吉野川流域の国々な。   @阿波

463 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:50:48.64 .net
収租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之

464 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:52:49.91 .net
鏡でも配って物物交換でもしてたんじゃねえの?

日本各地から鏡出てくるからな

465 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:54:07.28 .net
>>463
おまえらは都会の畿内に持ち込む方だから

466 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:55:30.39 .net
>>459
祭りを仕切ってたんじゃねーの

マーケットと祭りはセットだったんだよ

要するに、あれは「船旅おつかれさま」と「稲作おつかれさま」を兼ねてるわけだから

船旅で得た交易品と、稲作で出来た米とを交換する場なわけだろ?マーケットって

その代表者が大きな市に、それぞれの品物を持って集まってくるわけだ

そこで酒(日本酒や桃ワイン)飲んで交流や情報交換もしたわけだ

「うちではこうやって稲作してるよ」「うちでは銅をこうやって加工してるよ」「東の方にいくと田んぼにできそうな空き地があるよ」とか

467 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:56:38.08 .net
>>464
そう
鏡ってのは当時は貨幣がわりだわな
だから卑弥呼はとにかく数を欲しがったわけだ

468 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 12:56:56.58 .net
関東の鉄もマーケットで買ってたんでしょ
だから直ぐに行き渡る

469 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:00:19.38 .net
邪馬台国の位置に関するネット上の熱狂的な議論集
https://www.youtube.com/watch?v=jnr2uuNMoN4

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470 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:00:46.60 .net
>>461
その当時最大のマーケットが出雲で神在月に開催されるマーケットだったのよ

そこに日本各地から王様クラスの人間が集まるから、出雲では「神在月」、出雲以外では「神無月」って呼んだわけだ

もちろんマーケットの目的は買い物だけじゃない
現代でも東京モーターショーなどのデカい展示会で何をしてるかというと、偉い人同士の交流と情報交換なのよ

マーケットがあれば祭りがあり、酒があり、そこでしか食べられない特産品があり(纏向の桃とかね)、偉い人同士の交流があったわけだ

471 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:01:49.26 .net
>>466
規模はまちまちだろうし大集落は大きいだろうし
でも國國有市交易有無だからどこでもやってるんだろ
小さな登呂遺跡にも倉庫はあるから

472 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:03:14.74 .net
邪馬台国なんて国はねーぜ。
https://www.youtube.com/watch?v=AAzSlOnTKsc

473 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:03:19.17 .net
>>457
>各地にある市の倉庫番だろうがよ

各地といっても、吉野川流域の国々な。

その国々は、自前で鉄器を作れて財力があるからな。   @阿波

474 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:04:01.64 .net
>>470
でかい規模だと単純に儲かるだけでしょ

475 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:05:49.97 .net
富雄丸山古墳なんかに話題が移って

緊張感がないというか、すっかりだらけた雰囲気、、

476 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:06:37.94 .net
>>474
鉄器や勾玉などの工房が無ければ儲からない。   @阿波

477 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:07:20.33 .net
登呂遺跡は摂津の玉津田中遺跡と同じ形の鳥形が見つかった集落跡だが、昨日までネットで閲覧できた天理大学の鳥形の分類の論文が見れなくなっている
何故なんだろうな?
学問や言論の自由もない国になったか

478 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:07:28.84 .net
>>475
そりゃ、「阿波」だけがクローズアップされただけだから。   @阿波

479 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:08:29.02 .net
権力で押さえつけるんじゃなく市場に任せるってかんじだと思うけどね
だから良いもの、珍しいものを作ってマーケットの規模を競う

480 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:11:33.10 .net
阿波の眉山は元々石棒の製造拠点で岡山から奈良まで出荷していた
河内は特に上客だった
阿波では遠賀川式土器が現れるタイミングで石棒祭祀を放棄して貝塚に石棒を廃棄している
因みに遠賀川は元々縄文時代、九州一円に石器を出荷する石器の一大製造拠点だったところだ

481 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:21:37.48 .net
現在は店が多くあり、市が開かれると特別な出来事。
大昔は店無いから、持っていない物を手に入れようとしたら交換する。
市はその場所。現在ならローソンでからあげクンを買うようなもの。
と思うが…

482 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:21:59.63 .net
>>480
>因みに遠賀川は元々縄文時代、九州一円に石器を出荷する石器の一大製造拠点だったところだ
弥生時代もそうだよ

483 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:26:48.60 .net
NHKの番組で狗奴国は前方後方墳というのはあながち的外れではない
卑弥呼派と卑弥弓呼派は入り乱れていたと思われる
NHKが卑怯者なのは河内湖と大和川の南は前方後方墳の地なのに女王国にしているところだな
筋は通そう

484 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:29:58.87 .net
小説では、
10匹の魚に竹串をさし一つにした魚幾つかと、動物の皮の交換が成立したが、魚を数えたら9匹だったので喧嘩になった話が載ってたな。

485 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:30:23.88 .net
>>470
収穫が終わって一番活発な時期なんだろうな
でも出雲に何があるかと言えば青銅器の輸入だと思うけどな

486 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:33:24.87 .net
NHKは、そんなとこ女王国にしてたのか。相変わらずだなあ

ま、そのうち大恥かいて退散だろう

487 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 13:57:26.24 .net
>>403
よしんば国産だとしても、斜縁鏡を見なければ三角縁神獣鏡は作れない

488 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 14:05:44.04 .net
中国で竹簡が用いられたのは楚のじだやからな

これを楚文字と呼ぶ

489 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 14:11:43.52 .net
>>487
そうだろうね。何かを見ただろうね。
それだから畿内が邪馬台国の根拠なんて言い出したらなんでもアリになるわけだから、
まともな人はそういう論理飛躍する部分を取り上げて重要な根拠なんてことは絶対に言わない。
言うのは畿内説で頭がいっぱいのやばい人たちだけ。

490 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 14:11:58.50 .net
>>336
あれより詳しい人はここには一人もいない
ただ投馬国が鹿児島辺り、邪馬台国が大分辺りと残念なことになっている

491 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 14:13:15.04 .net
>>489
三角縁神獣鏡は国産であろうとなかろうと畿内説は全く揺るがない

492 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 14:26:44.44 .net
>>415
河内彦はナガスネヒコの一族だよ

493 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 14:45:27.53 .net
>>483

4世紀の前方後方墳だろ

494 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 14:56:57.67 .net
遺跡の年代は別に良いんだけど4世紀の神社は無いから
あったら神社の遺跡が出ないなんてあり得ないから

495 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:03:46.74 .net
神社ないよ

祠ならあったけどな

地面に穴を掘って神棚みたいに祀ったりするのが原型

鏡などもこの形式で祀られていたみたいだからの

496 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:04:34.44 .net
地面てえか岩盤みたいなところかな

これが自然を利用した祠

497 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:06:10.69 .net
社殿はもともとは寺などを建立していた秦氏が神社の社殿も作るようになってから広まったものやろ

498 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:06:41.39 .net
>>495
誰に向かって何を祈ってたの?
山や太陽が人に見えるのか?
阿蘇の噴火の火柱が人に見えるか?

499 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:11:53.91 .net
神話があるから人に対して祈るのよ
どっちが先か分かり切った事

500 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:13:57.65 .net
外で御座敷いて人に祈ってもなんの有難みもない

501 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:16:39.74 .net
目に見える仏様が居るんだしそら仏教に負けるわ

502 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:18:10.76 .net
しかも豪華絢爛五重塔もあるし

503 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:22:59.99 .net
祠なら紀元前からある

504 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:23:12.36 .net
>>480
石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、
紅簾片岩の露頭が確認でき、この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡
・滋賀県米原町磯山城遺跡の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。
また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末~弥生時代前期初頭の土器型式で
2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、三谷遺跡・名東遺跡の存続期間と
ほぼ一致することが確認された。
さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、
近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、
在地の人々による積極的な関与があったと考察される。  @阿波

505 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:24:08.09 .net
>>480
「柱状片刃石斧」
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿~東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。
この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。
阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂Ⅲ遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。
南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、
これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、
東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など) ・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、
姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。   @阿波

506 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:24:54.96 .net
>>503
あるだろうな
一方は仏様に手を合わせもう一方は山だって

507 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:26:14.31 .net
昔はアニミズムなので神さまはたまに磐座に降りて来なすった
人がりっぱな建物に住むようになったので、
神さまに申し訳なかろうということになって、
社殿を作るようになった

508 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:27:47.98 .net
仏教があったのはもともと中国西側だってw

そんなもんねえわ

509 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:28:25.08 .net
一方は仏様もう一方は石棒らって
大笑い

510 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:29:19.67 .net
阿波のいなかアワ知識ひけらかし、、

511 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:30:04.72 .net
>>507
絶対違うな
何もない所で人は想像できない

512 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:33:20.45 .net
手を合わせれば願いを叶えてくれる人が必要
山や石棒じゃ無理

513 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:37:31.47 .net
祠があったかも疑わしい
あれば遺跡が出る

514 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:40:19.89 .net
>>511

神社が作られるまで日本には信仰がなかったと?

515 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:47:42.33 .net
>>514
あったって言ってんじゃん
山や太陽に手を合わせてただろうな
絶対人には見えないけど

516 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:53:14.79 .net
>>515

お前神社に参拝したとき何か見えてるの?

517 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:56:50.93 .net
>>516
人を見てるな
願いを叶えてくれる人

518 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:58:12.29 .net
祠は自然の地形を生かして作られるからな

こんなんでも祠になったのよ

https://snapmart.jp/photos/1401983

木の股の空間を利用して祠となった

519 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 15:59:11.05 .net
要するに☔に濡れない空間を利用して祠として使われた

520 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:01:11.32 .net
>>517

お前神主さんに手を合わせてるのか?
神社のご神体はほぼ公開してないぞ
お前が言ってる「願いを叶えてくれる」というのは祈りではなくて陳情だよ

521 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:02:33.90 .net
>>520
神様だよ

522 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:04:41.98 .net
>>521

神様は人じゃないの
神さまだから

523 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:05:23.62 .net
じゃあ神様ってどんなのかと言えば感情の有る人だよ
山や太陽じゃないな

524 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:07:57.16 .net
エジプトの神様も人の形してるでしょ?
太陽をそのまま描いてるわけじゃない

525 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:08:55.33 .net
>>523

お前が行ってる神社って、
どこの見える「感情の有る人がいる」神社なの?

526 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:09:41.85 .net
>>525
神様は祀ってる人でしょ

527 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:10:25.30 .net
>>526

見えないだろ

528 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:13:13.62 .net
>>527
見えないのは山や太陽だ
仏様も石や木で人じゃないけど人を見てる

529 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:14:38.55 .net
>>528

それは寺の仏像

530 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:15:29.07 .net
>>529
山や太陽から同じものが感じられるか?

531 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:16:56.13 .net
見てるってのは心の問題だから

532 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:20:09.11 .net
>>530

お前神社で人を見てるんじゃなかったのか

533 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:21:15.32 .net
>>532
当たり前だけど心の問題だから
誰に対して手を合わせてるか

534 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:23:24.36 .net
>>533

だから古代から人は見えない神さまに祈ってたんだよ

535 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:28:00.83 .net
>>534
山や太陽じゃダメなのよ
太古の昔はそれでも良かったかも知れんけど
仏様には勝てない

536 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:30:21.26 .net
>>535

仏様に豊作なんか祈らんぞ

537 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:33:01.98 .net
>>536
御神体が山や太陽なんてほぼほぼ無いでしょ
廃れたんだよ
昔はそれしかないってくらいだっただろうに

538 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:36:05.66 .net
>>537

昔の話をしてるんだろ

539 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:38:06.97 .net
>>538
今になって廃れたんじゃなくて昔から廃れてるでしょ
山や太陽じゃ仏様に勝てないのよ
だから神話をでっち上げた

540 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:38:17.18 .net
>>537
少なくとも日本では御神体の鏡とは太陽の依り代でしょ

541 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:43:05.81 .net
>>540
墓に埋めてんじゃん
祈りは鏡の持ち主に対してでしょ

542 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:47:41.70 .net
>>540

ご神体は元々岩とかだったのを明治時代に鏡と法令で決めたんだよ

http://miyajimastyle.com/column/2017/07/11/21009

543 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 16:51:36.27 .net
鏡は裏面が自分を移すから昔はそれは珍しかったのだろう

544 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 17:15:06.81 .net
>>541
生前から崇めていた太陽と一緒に埋葬されてなにか問題でも?

545 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 17:18:37.15 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

546 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 17:27:15.76 .net
>>544
太陽の依り代埋めてどうする?

547 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 17:35:15.36 .net
>>546
輝かしい転生ができるだろ
え?アホなの?

548 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 18:05:31.58 .net
「現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている」
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う
御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 
南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。
このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。   @阿波

549 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:27:27.54 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

550 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:28:44.66 .net
ん?どういうことかな?
神武天皇が7世紀時代ということが間違いなければ、
卑弥呼や壱与は新しい女王なの?
@阿波さんへ

551 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:32:32.45 .net
>>550
神武天皇が7世紀時代?

ん?どういうことかな?    @阿波

552 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:35:12.62 .net
>>551
あれ、違いました?
神武天皇の正確な時代考証っていつだと仰ってましたっけ?

553 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:35:21.49 .net
>>491
その理由がまったくないから畿内説はかなり厳しい。

554 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:37:36.05 .net
>>552
「卑弥呼(「天照大御神)」の五代孫。   @阿波

555 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:40:11.93 .net
>>554
へえ。
卑弥呼
壱与
卑弥弓呼
神武天皇
だったから、
他に2人、王がいたのかな?

556 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:41:08.46 .net
しかし、伊勢神宮などの建設って大変遅いですね。
うーん、神武天皇は都合、何世紀の人物に為るんだろう?

557 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:42:42.64 .net
卑弥呼も具体的に時代考証わからないですよね。
卑弥呼の年代さえ分かれば、
色々、紐づけられるんだけどな

558 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:44:26.13 .net
ああ、魏志倭人伝に邪馬臺国と卑弥呼の記載があるわけだから、
魏志倭人伝成立の前か。

559 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:45:08.55 .net
>>556
>しかし、伊勢神宮などの建設って大変遅いですね。

そりゃ、8世紀の遷都後に「阿波」から伊勢の地に勧請したんだから。   @阿波

560 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:46:52.39 .net
魏志倭人伝は、3世紀後半か。
竹内文書には、イエス・キリストが来日したと有るが、
それだと、卑弥呼女王即位の前に既に来日していたのかな?
なんでこんなに不明瞭なのかな?

561 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:47:20.29 .net
>>559
簡明な話でしたね。

562 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:48:39.42 .net
>>555
順序が違う。
卑弥呼
卑弥弓呼
壱与
神武天皇だ。   @阿波

神武天皇

563 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:54:40.85 .net
では、大和朝廷は、平城京からということでいいんですかね?
それだと、大変簡明だけど。

564 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 19:56:21.84 .net
文武天皇の藤原京から。   @阿波

565 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:01:12.94 .net
>>564
あ、そうなんですか。へえ。
そんなに話は簡単じゃないんですね。
それでは、倭姫命は、伊勢神宮を勧請しましたが、
この人物は偉大で立派だったんですか?
それから、真の元伊勢は、
日本海の方だったんですかね?それとも、伊雑宮?

566 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:04:05.92 .net
>>565
>それでは、倭姫命は、伊勢神宮を勧請しましたが、

ん?どういうことかな?    @阿波

567 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:06:11.95 .net
阿波の いなかアワ自慢

568 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:06:14.13 .net
>>565
>それから、真の元伊勢は、

定かではないが、阿波市に伊勢神社が在る。 いずれにせよ、「阿波」からの勧請だ。   @阿波

569 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:07:39.36 .net
藤原京は、古代最大の都、か。
ふーん、日本史を確り学んだ人じゃないと、
藤原京の名は出てきませんね。

570 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:09:23.38 .net
>>566
また違いました?
元伊勢から遷座したという意味で書いたのですが、
それは勧請とは言わないのか。
何分、受験日本史程度しかわからないもので。

571 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:11:08.48 .net
>>568
成る程!!伊勢神宮は阿波からの勧請か!!
それで頭がスッキリしました。
古代から存在する地元という意味の元伊勢は、
やはり伊雑宮で良いんだろうなあ。

572 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:15:15.43 .net
大和朝廷は、戦乱などばっかりで、
大した歴史を歩んでいませんね。
やはり、邪馬臺国が重要なのか。
卑弥呼以前が詳しく分かると、
日本の組成がわかるんだけどなあ。
分かっていることは、
縄文時代(旧石器時代)から存在していること
主には、ソロモンとシバが開いたこと
イエス・キリストも渡来している
あとは卑弥呼以降ですかね

573 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:27:52.44 .net
しかし、卑弥呼を持って初めて国が定まったのは変わらないのだろう。
真正のイエス・キリストが契約の箱を持ってきたのは、
この阿波の天照大神の神社なのかも知れない。
うーん、ソロモンが気になる。

574 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:45:42.47 .net
>>557
その考え方が間違ってる
卑弥呼ははっきりしてるのよ
わからんのは天皇の方

575 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 20:49:09.39 .net
>>563
墓や遺跡があるから何かが居た

576 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 21:02:14.78 .net
>>574
天皇は帝だから、古代ユダヤのガド族らしいですよ。
祭祀。
神武天皇は、ガド族だった。
では、何故、ガド族の神武天皇が初代天皇に即位したのか。

577 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 22:12:15.85 .net
記紀に、天之御中主や国常立大神や天常立大神が出てきますが、
これらの大大神も、邪馬臺国の人物としていらっしゃったのですか?

578 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 22:17:14.90 .net
天之御中主神
中=那珂にいたとされる

579 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 22:21:48.32 .net
>>578
>中=那珂にいたとされる

それを言うなら、那賀=長(国)=「狗奴国」だ。   @阿波

580 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 22:23:32.63 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

581 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 22:39:29.79 .net
世界中でお茶やコーヒーが飲まれるのは結局カフェインに魅せられてるわけだ

もちろん当時はカフェインなんて物質名は知らないけど
感覚として知ってたわけだ

それと同じで、THCは知らなくても麻を焚いて儀式に使う文化はあったと

毎日吸ったら煙で呼吸器がおかしくなるから、祭りのときだけ盛大に焚いたわけだ

582 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 22:46:26.08 .net
神さまは山の磐座の人々だろ?
日本昔話そのまま
特に六甲山系ー西宮辺りは縄文時代から続く磐座のメッカだ
明治になるまで廣田神社の広大な神域だった
熊野の神が1番最初に降臨したのも世界遺産のゴトビキ岩という磐座
三輪山も多数の磐座があり4世紀の祭祀跡がある
神さまが色々神託=指令を出していたということだな
堺の伝承でも元々は神さましか住んでいなかったとある
当たり前だな。神さまは1番古い日本の先住民なんだから、全国何処でも同じだ
猿田彦が立ったのは興玉神石という蛙石
伊勢の内宮にも興玉神という岩が祀られていて、遷宮した後も興玉神の岩はその場に残されるという

因みに金剛山は昔は高間山と呼ばれていた
間マの地だな

583 :日本@名無史さん:2024/03/31(日) 23:38:18.41 .net
今でも墓には墓石を使うからね

人間の本能として「デカくて固くて重いもの」に対して畏敬があるんだよ

584 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 00:00:52.73 .net
古代福岡の戸数が、古代韓国(三韓)と同じ15万戸になる九州説

585 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 00:35:09.14 .net
一ヵ月舟に乗って、一ヵ月歩いて筑紫平野に行く九州説

586 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 01:55:32.26 .net
倭人伝の日数記事は、里数記事を日数に換算した後世の加筆注釈にすぎない。作成時期も作成者も異なる。里数記事と日数記事を連続して読んではいけない。

郡から狗邪韓国(投馬国)までの水行7000里は20日に換算。
狗邪韓国(投馬国)から伊都国までの水行3500里は上記の半分なので10日に換算。
伊都国から女王国(邪馬台国)までの陸行1500里は1日50里(約20キロ)進むので30日に換算。

注意点は、以下の3点。
①里数記事は総距離を12000里と引き伸ばしたため、いわゆる短里(一里=80m)ほどで書かれているが、日数記事作成者は事情を知らず魏の標準里(一里=434m)で計算している。
②末盧から伊都は本来は東南水行500里。壱岐から末盧を目指し南下し南東に向きを変えて伊都の港に入る。末盧には寄らないので官の記録ない。方向も南東。行くに前の人が見えずと言うのもアクシデントで上陸したことを示している。
③投馬国と邪馬台国は日数記事作成時の情報が反映されたもの。

587 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 02:05:13.77 .net
富雄丸山古墳の被葬者って中臣氏だと思うわ
元々神武天皇に従って日向から東征してきたし
先祖の天児屋根命の名も児湯郡(呼邑国)と通じるし日向にルーツを持つ蛇行剣の持ち主として相応しい

あと富雄の地名もナガスネヒコじゃなく中臣由来だろうな

588 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 06:34:43.54 .net
?まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
?次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900?)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850?)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50?)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50?でピッタリです!
?そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

589 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 06:35:35.42 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(嘘)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(女王之所都=沖縄那覇あたり)

590 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 06:58:32.03 .net
>>589
不弥国を奴国の東じゃなくて北にするのは九州説には許されない

591 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 07:02:29.99 .net
そして熊襲の襲て阿蘇じゃなくて鹿児島の曽於郡の事だからなアホ

592 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 07:18:55.50 .net
>不弥国を奴国の東じゃなくて北にする
ワロタw

593 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 07:20:03.90 .net
>>588
>>589
魏志倭人伝に完全一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してない畿内説は24時間365日、永遠の年代繰り上げ印象操作が欠かせないわけだ。まさに「ヤマトよ永遠に」w

「古代。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統)」w

594 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 07:21:14.97 .net
>>591
という根拠は?

595 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 07:27:34.67 .net
>>593
この畿内説洗脳工作スレが1000も続いてる秘訣はそれ!w

596 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 07:39:12.00 .net
>>387
製造時期と遺跡の推定年代の差が大きすぎるよな

597 :琪瑛教大祭酒:2024/04/01(月) 07:41:40.28 .net
やはり不治の病だのう
無駄だよ、もう終わった話で五王に向かっているのが専門家であろう
吾輩は八角昭和まで来とる

598 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 07:50:01.66 .net
弥生時代の水田跡地から出土するのは、熱帯ジャポニカ米が多く、しかも雑草の種が大量に埋まってる。
まだまだ焼畑農業的な手法で農閑期を空けて、稲作を試作していた段階。
畿内説はガセです。

599 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:12:11.48 .net
>>586
里数は不弥国までしか書いてないんだから無理がある

600 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:12:30.16 .net
つまり畿内説はデマを拡散する犯罪者ですよと

601 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:12:50.70 .net
考古学の編年繰り上げ操作 + 印象工作(南→東への洗脳作文)=畿内説の変質狂的な洗脳情熱大陸w

602 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:15:40.09 .net
>>586
分けて読む読み方なんてあり得ない
邪馬台国にたどり着けない

603 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:22:46.90 .net
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国。日田出土)を貰い、巫女だけに世継ぎのいないことから将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

604 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:25:44.40 .net
>>603
前方後円墳が「有棺石槨」だっていう理由は?

605 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:28:36.83 .net
>>604
ホケノ山 主体部 で画像検索w

有棺無槨は甕棺墓や石棺墓のように棺を直接土葬すること(アメリカの映画でよく見る光景)

606 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:34:56.35 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…魏(半島西岸)ルート(239年親魏倭王)を確保→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争(日向投馬国との同盟締結)

<本州=女王国東渡海千里、複有国皆倭種>
出雲…新羅(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(後漢鏡副葬なし)を征服→大和唐古鍵を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が帯方郡要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告にショックを受け、激しく動揺した32歳の「共立女王」台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、跡継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

607 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:45:01.96 .net
>>605
>ホケノ山 主体部 で画像検索w

また理由が言えないんだね
九州説はいつもそうだ

>有棺無槨は甕棺墓や石棺墓のように棺を直接土葬すること(アメリカの映画でよく見る光景)

だという理由は?
また理由もないことを言い張るの?


九州説はいつもそうだ

608 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:45:12.65 .net
>>604
前方後円墳は高野槇(防腐効果)の木棺でしょ?つまり腐るわけだから、主体部がグシャグシャに崩れないようにそれを保護する石槨が必要なわけ
それに対して「有棺無槨」の甕棺墓や石棺墓は(棺自体が腐らない)土師器や石だから、無槨(土に直接)でも良いわけ

609 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 08:49:40.67 .net
石槨で保護した木棺「有棺石槨」ヤマト王権の前方後円墳 vs 直に土葬する甕棺墓や石棺墓「有棺無槨」

明らかに違う墓制だNe w

610 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 09:04:44.12 .net
つまり畿内説は半島系DNAが濃い人種によるオレオレ詐欺でしたと

■魏志倭人伝以外の記録文献
張楚金『翰苑』  660年以前に成立。平安時代初期(9世紀)頃に転記。
郭義恭『廣志』  3世紀末~4世紀末、晋朝期ごろに書かれた史書。
魚豢『魏略』  魏略は、魏志より早く成立。西暦280年^297年頃までに成立。
李昉 [日+方] (りほう)『太平御覧』  983年に完成

■『廣志』https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。

※中国の史書において連続した行程の場合は「又~至る」と記述される
※伊都国は福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている

611 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 09:12:10.06 .net
>>609
ちなみに、畿内ヤマト王権に石棺が導入されるのは中期(5世紀)津堂城山古墳以降

612 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 09:19:09.79 .net
>>608
>前方後円墳は高野槇(防腐効果)の木棺でしょ?つまり腐るわけだから、主体部がグシャグシャに崩れないようにそれを保護する石槨が必要なわけ

主体部が崩落してしまえば、せっかく(石槨だけにw)の高野槙の防腐効果も発揮できず、木棺もろとも腐ってしまうw
石槨で保護してるのは、高野槙の防腐効果を最大化するための、本州(女王国東渡海千里 複有国皆倭種)出雲吉備連合(ヤマト)王権の「ひと工夫」ではなかったか?

613 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 09:29:13.63 .net
>>606
>3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

碌な鍛冶炉遺構の無い所をいくら詮索しても無駄。   @阿波

614 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 09:36:31.81 .net
>>611
いや、前方後円墳に石槨なんて無いが?

615 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 09:49:38.35 .net
>>614
前山古墳群   @阿波
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5024266/

616 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 09:56:38.80 .net
>>614
ホケノ山 木槨 で検索w

617 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 10:00:42.22 .net
>>616
ひとことも理由が言えないんだね

618 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 10:08:33.54 .net
>>617
よこですが
何の理由なのか?

619 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 10:18:55.15 .net
つまり畿内説は開きメクラ

620 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 10:23:21.50 .net
吉備特殊器台の箸墓に殉葬なし!

621 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 10:25:02.19 .net
>>617
ロボットによる自動レス

622 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 10:29:52.86 .net
垂仁の殉葬をなくしたって話は、つまり前方後円墳のことを言ってるんだね

623 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 11:30:15.90 .net
つまり纏向古墳造営キャンプは垂仁の宮

624 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 11:37:10.41 .net
森村伊作氏の、佐賀平野経由、肥後邪馬台国の九州説スレで良かったのに、
アソコを飛び出して畿内説スレをおっ立てた奥山も、
今じゃ、4世紀末の富雄丸山をナデナデするようになったそうだし、
畿内説はついに崩壊、雲散霧消したな。

というより、のぼせモンの無駄な努力だった・・

625 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 11:55:05.18 .net
巻向遺跡が造営施設なら、権力者が居住してたのはどこなんだろ?

626 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 11:57:27.69 .net
>>624
>森村伊作氏の、佐賀平野経由、肥後邪馬台国の九州説スレで良かったのに

どのみち、碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い九州や畿内が、日本の起源になど成り得る訳もなし!  @阿波

627 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 11:58:12.92 .net
>>625
>巻向遺跡が造営施設なら、権力者が居住してたのはどこなんだろ?

もちろん、「阿波」   @阿波

628 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 11:59:31.94 .net
>>625
秋津遺跡

629 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:03:13.91 .net
今日も今日とて、
阿波田舎の、いなか踊り、徳島無駄知識自慢ww

630 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:06:57.32 .net
Wikipediaによると
巻向遺跡 2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡
秋津遺跡 3世紀後半から4世紀中葉にかけての初期ヤマト王権の時代

なので秋津遺跡の前の場所になるかな?

631 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:08:23.44 .net
>>630
いづれも、消えてなくなった遺跡。   @阿波

632 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:11:37.62 .net
そうだねえ、
いずれも、神武東遷ではかなく消えてなくなった遺跡さ。

633 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:11:56.72 .net
>>507
奈良時代の時点ではたいていの神社は社殿がなく、法律で定めて社殿を作るように朝廷から各地の神社に命じたものの、奈良時代後半の時点では受け入れ率が低く、社殿建設が進んでいなかったと伝わっている

逆にいえば、朝廷から命じられるまでに自発的に社殿を作った神社は少ない

634 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:12:55.35 .net
>>631
引っ越すのが当たり前だから

635 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:13:49.35 .net
>>624
>森村伊作氏の、佐賀平野経由、肥後邪馬台国の九州説スレで良かったのに、
>アソコを飛び出して畿内説スレをおっ立てた奥山も、

このスレ立ててる人か九州説スレにいたとか
何の証拠もないことを断定するのが
九州説という生き方

636 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:14:28.38 .net
>>542
江戸時代だと、お経やら仏像を神体にしてる神社も少なくなかったが、神仏分離令で変更された

637 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:14:52.57 .net
>>632
>いずれも、神武東遷ではかなく消えてなくなった遺跡さ

で、神武天皇の痕跡も消えて無くなったのか?   @阿波

638 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:16:13.04 .net
>>560
それ、昭和初期に創作された偽書やからな
ホントは日本に来たりしてないよ

639 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:17:55.55 .net
>>565
伊雑宮は江戸時代に作られた偽書で由緒を偽作した神社やな
実際は一介の末社

640 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:21:36.71 .net
>>584
十五万戸って、六十~八十万人ぐらいやぞ

福岡はもちろん、三韓でも収容不可能な人口
韓半島全体の人口ぐらいやろ

641 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:22:15.96 .net
未だに結果報告無し
おそらく箸墓古墳は4世紀で確定

箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/

642 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:23:56.68 .net
>>637
そうかい、秋津遺跡は神武の宮だったというのか
じゃ、阿波が消えてしまったわけだ・・、

643 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:26:12.40 .net
>>588
うゎ、すげー!

644 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:26:23.00 .net
>>624
伊作ってまだ生きとんの?
だいぶ前に訃報っぽいのを自サイトにのせてなかったっけ? 偽訃報やないかなと思って見とったけど、やっぱり偽やったんか? てか、森村って名前やったん?

645 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:28:47.68 .net
今ある神社を否定してるだけで神事は否定してないよ
天皇の様に王がなんかやってたでしょう
現存する神社に歴史なんか無いわ

646 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:31:00.49 .net
やっぱ科学を信じるべきだな

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/keisaironbun.pdf
> 日本では、奈良文化財研究所(奈文研)の光谷拓実が 1980 年から研究を開始し、ヒノキ、スギ、コウヤマキ、ヒバの標準パターンが作成されている
> (図 2。奈良文化財研究所『埋蔵文化財ニュース』99 号 2000 年。および
> 光谷拓実「年輪年代法と文化財」―『日本の美術』421 号 2001 年に鷲﨑加筆)。ただし、基礎データは非公開でブラックボックス化している。
> なお、スギの標準パターンはヒノキに連動し作成されており、ヒノキが 100 年狂えばスギも 100 年狂う。この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が
> 通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
> しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。基本となる標準パターンの作成時、飛鳥時代で年輪パターンの接続に失敗し、奈良時代〜現代は正しいが、
> 640 年以前(弥生中後期〜古墳〜飛鳥時代)の測定値は全て 100 年古くズレている(表1、表 2 参照。ほとんどがヒノキで、一部はスギ)。

647 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:32:41.57 .net
>>640
だから朝鮮半島5万戸と日本列島7万戸くらいが妥当

648 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:35:06.43 .net
>>646
それで伊勢遺跡の年代は?

649 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:40:56.21 .net
百襲姫は崇神を扶けてもいるし
伝承が吉備讃岐よりなので
(皇女7歳倭国大乱を避けて黒田廬戸宮から讃岐へ退去)
ヤマト王権に抹消されるような人物像にはない
だから箸墓自体は百襲姫のものであったとしても
卑弥呼のものではないんだろう

650 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:48:28.54 .net
654
中国の方にも祠ってえのがあるけど昔の人物らを祀ってるのな

原始形の祠って自然を利用したり洞窟に祀ったりしたこともあったんやけどな

651 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:48:46.29 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

652 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:49:34.93 .net
雨風を凌げてある程度の空間があれば祠って作れるからな

653 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:50:46.18 .net
そこに御神体となるものを飾る

それが祠

654 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:56:11.33 .net
>>645
正確な年代は知らんけど、昔は「やしろ」で後に神の文字が付けられた

655 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 12:57:15.80 .net
追加
なので、昔は神社は無かった

656 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 13:03:12.91 .net
苗代は苗の田、苗の土地。

657 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 13:19:16.88 .net
>>646
>なお、スギの標準パターンはヒノキに連動し作成されており、ヒノキが 100 年狂えばスギも 100 年狂う。この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が
> 通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
> しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。基本となる標準パターンの作成時、飛鳥時代で年輪パターンの接続に失敗し

これが大ウソと言う証拠を本人が出してて大笑い
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

どこまで恥かきゃ気が済むの?
w
w
w

658 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 13:21:57.41 .net
九州説、脳ないから

659 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 13:35:17.93 .net
>>598

無農薬だと通常水田雑草は生える
温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを交配すると、
一定の率で「早生」のイネが出現する事が確認されている
イネの原産地は日本列島より低緯度なので早生に品種改良が必要だった

660 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 13:39:14.16 .net
>>646
>やっぱ科学を信じるべきだな

文系さんのいう「科学」って
なんのことやら

661 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 13:55:42.62 .net
文系の生兵法

662 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 14:02:24.00 .net
>>657
寺沢の古墳時代www

663 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 14:02:47.03 .net
貝貨を使用してたのは縄文時代から出るから交流はあったわけさ

664 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 14:05:03.13 .net
タカラガイってので調べてみな

縄文時代から製作されて財貨として利用されてたもんだからよ

665 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 14:24:56.97 .net
つまり畿内説は理系どころか文系未満にすら満たない低能詐欺師でしたと

666 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 14:26:52.16 .net
ほら、幼稚園児みたいに無内容な言い返し
これが九州説だ
脳ないでしょ

667 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 14:28:12.37 .net
>>662
>寺沢の古墳時代www

まったく反論できないって、やっぱり九州説信者には脳が無いようだ

668 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 14:46:04.10 .net
つまり畿内説は何の根拠もない妄想でこじつけて古墳時代を100年遡らせてきたので古墳と副葬品の年代が合わなくなってしまったと

669 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 14:58:43.49 .net
>>668
そういうデマで抵抗するのが九州説の汚れた心性

670 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:08:53.83 .net
>>669
>>641の結果報告まだ?

671 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:09:49.48 .net
>>646
その後で別の研究者が別の樹種で同じパターンを作成して光谷氏の編年が科学的に正しいと発表したことで疑念は解消されたんだろ
解消される前の古い論を持ち出しても今更やな

672 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:10:48.22 .net
>>651
ダウマ国って、達磨大師の母国であるダルマ国のことか?

673 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:11:23.53 .net
つまり畿内説は韓国ウリナラ起源説と同類でしたと

半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている

■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

674 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:16:21.40 .net
ここ畿内説スレなのにまともな畿内派論者いないから何書いても喚くばかりで反論が期待できないんだよな
まだ阿波の方が100に1つの確率で役に立つ書き込みしてるわ

まぁまともだったら畿内説とか取らないか…

675 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:24:49.59 .net
>>674
>何書いても喚くばかりで反論が期待できないんだよな

そう言って自分を騙してないと
すぐ論破されちゃう自分が惨め過ぎるんでしょ

676 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:26:55.61 .net
>>674
でも現実には>>646は簡単に論破されちゃって反論ひとつできないでしょ九州説さん

677 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:31:23.12 .net
畿内説に何期待しても無駄ってことよ

678 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:33:05.98 .net
>>646
酸素同位体比何年年代法でも同じ結果が出てるから無意味
畿内説で確定

679 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:45:45.84 .net
>>646
ちゃんと潰しといてやろうか

>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。
>そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
>しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない
「古墳開始期が通説より 100 年遡上し」という九州説式100 年遡上論は完全な誤り

680 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:52:52.90 .net
>>630
伊勢遺跡→稲部遺跡はどうでしょうか?

681 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:54:33.19 .net
>>678
年輪の繋ぎ自体ミスしてるって話だからな
間違った年輪パターンから酸素当てはめても炭素と同じようにズレるだけ
科学ってのは第三者の検証と追試が可能じゃなきゃならないから、年輪パターンのデータを開示してブラックボックス無くせって話

682 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:56:34.85 .net
>>681
間違った年輪パターンという証拠がない

683 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 15:57:13.33 .net
>>681
>年輪の繋ぎ自体ミスしてるって話だからな

文系じいさんの想像話だけど?

684 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:01:00.44 .net
14Cでも敗北しているからな
ハルキー氏が自分で計算したOXCALを用いて算出した纒向の桃核12個でも、4世紀の可能性は極めて低く、むしろ4世紀よりは2世紀の可能性の方が高いという結果が出た。
12個のうち、3個は4世紀の可能性が全くなかった。

685 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:10:15.65 .net
庄内式の土器編年も怪しいよね
どうしても卑弥呼の年代と合わせたかった?

686 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:11:11.36 .net
>>680
>伊勢遺跡→稲部遺跡はどうでしょうか?

土砂で消える遺跡ばっか。   @阿波

687 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:14:30.89 .net
>>685
調べたものがどんな結果が出るかわかんねえじゃん
卑弥呼の年代と合わせたものを拾ってきたならすげえよ

688 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:16:12.07 .net
>>685
>どうしても卑弥呼の年代と合わせたかった?

「卑弥呼」の時代に合うのは、弥生土器畿内第Ⅴ様式期に誕生した軽量小型丸底土器(東阿波型土器)。   @阿波

689 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:17:34.11 .net
ハルキーさんが実写でふるしょうさんの動画に出て対談しとるw

690 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:24:44.49 .net
>>663
縄文時代は東日本にしか人が住んでないからな
西日本が9000人で、21万人は東日本

691 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:25:14.84 .net
土器の外側についてる煤は除外したほうがいいと思う

692 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:32:33.44 .net
炭素14も酸素同位体もサンプルの木材が死んだ時期を示すもの、つまり伐採時期であり木製品の製作時期とは言えない
特に鉄器の無かった畿内であれば大木を伐採するすべもなく、古い木材をリサイクルしていた可能性は多いにある

つまり畿内説は古墳時代は建物を建てるたびに木材を伐採していたという事を証明する必要がある

693 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:34:06.58 .net
>>690
琵琶湖に縄文土器が沈んでるのよ

694 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:35:22.29 .net
>>692
木造建築の遺跡たくさんあるから

695 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:37:50.12 .net
建物跡なら質、量とも近畿が他を圧倒してるでしょ

696 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:53:18.55 .net
>>682
それを確認したいから見せてくれって話だろ

>>683
爺さんに恥かかせるのにも公開したら秒で終わる話じゃね?

697 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 16:55:44.84 .net
データ非公表だと論文の体を為していないと思うのだが日本の考古学ではそれでセーフなのだろうか

698 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:01:59.91 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

699 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:02:06.98 .net
>>695
6世紀以降だから無関係

700 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:02:50.92 .net
>>697
他はどうなのよって話しなんだけどな
年代測定が正しいか間違ってるかなんて知らないよ
でも纏向は元々3世紀初頭と言われてたもんが2世紀後半になって
なんか問題あるのか?

701 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:03:40.04 .net
>>699
伊勢遺跡の年代は間違ってるの?

702 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:03:42.47 .net
>>697
旧石器時代捏造以前から考古学は詐欺サークルみたいなもんよ

703 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:04:11.13 .net
>>701
建物は無いぞ馬鹿?

704 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:04:26.54 .net
>>702
だからどうしろと?

705 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:05:27.28 .net
>>703
柱の跡が残ってるし太さも推定されてるんだけど

706 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:06:11.38 .net
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。
https://i.imgur.com/S93qy2b.png

古墳時代前期ですら、九州の大国奴国(筑前)は鉄器でも甲斐、近江を下回る。
銅鏡でも近畿を完全に下回り、むしろ配布をコントロールされるようになる。

したがって、この奴国を上回る投馬国や邪馬台国を九州内に想定することは不可能と言わざるを得ない。

707 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:06:50.65 .net
>>692
>特に鉄器の無かった畿内であれば大木を伐採するすべもなく、

うそ情報流しても反論になりません

708 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:07:21.56 .net
>>700
箸墓古墳を勝手に3世紀前半にスライドさせたから周濠で発見された5世紀の木製倭鐙が4世紀初頭と判断された
4世紀初頭以前の中国や半島にも存在しなかった木製倭鐙が日本にあったと言い張ってらわけ

709 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:08:21.57 .net
古臭い畿内自生説に染まったトンデモNHKスペシャル(古代史ミステリー第1集)に関する久住猛雄のポストを拾った
重要なポイントは以下の二つかな
・前方後方墳=狗奴国シンボル説は無理筋
・酸素同位体比年輪年代測定結果はサンプル不足でまだ何とも言えない(言えるのは「対象の杭1本は230年以降」まで)

久住「古墳時代さんとこれは同意見」
(「前方後方墳は大きいのは大和だし、古墳時代に入っても築造されてますよ。狗奴国のシンボルは無理。」というポストに対して)

久住「これについては中塚先生が「1本だけ」という慎重なコメントをしていた意味をお考えください」
(「お、纏向遺跡の木材の年代。九州説、ど〜すんの?」というポストに対して)

久住「中塚先生、纒向の溝の杭列の木杭で年輪30年以上が一本だけという(20年代はいくつかあるが確率論的に危ないので中塚先生は除外)「慎重」なコメントしてるのにNHKに利用された感。あの溝確か下層から布留0式あるが、杭列あるいは溝掘削が1本の杭で「230年代以降」としか言えないのだが、→」「平城宮造営直前の溝の木杭や材木が「多数」700年から710年直前で揃っていることと、「1本」だけというのは同列にできないのだが?大丈夫かこれ?」

「邪馬台国中心の倭国成立過程とより、卑弥呼晩年以降の倭国の話でしたね。弥生後期後半からにしてほしかった、、、青谷上寺地の殺傷人骨とか深掘りすれば、女王共立過程の番組をもう一つ作れたような?ついでに、途中で出て来た中川朋美さんの弥生時代殺傷人骨分布図、大部分弥生中期。中川さん困惑かも」

710 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:09:27.48 .net
>>708
調べたのはそれだけじゃないでしょ?
検査前にどうやってその年代のを拾って来るの?

711 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:09:28.88 .net
>>708
木製輪鎧は中国でも1点しか出土しておらず、いつのものなのか分からない

712 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:10:53.41 .net
>>697
そこら辺も問題提起してるな
ttps://nihonkodaishi.net/topics/inf-disclosure2.html
日本のガイドラインに沿った情報公開しろって

この爺さん自体はリンク先の団体から追い出されて別にサイト建ててる

713 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:12:17.45 .net
北部九州が畿内の属国/傘下だったなどとは魏志倭人伝からは全く読み取れない
そもそも伊都国は倭国=広義の女王国に属していた、とは書いてあるがこれを属国などと変な解釈をするのは如何にも読解力に欠けているしまともな学者は誰もそのように読んでいない
記紀でも崇神・垂仁の時代に九州に政治権力が及んでいるような記述は全くない(四道将軍を派遣したのは吉備以東)

考古学的にも北部九州が畿内の傘下にあったなどという物証はなく(纏向の外来土器も北部九州のものは殆どなく四道将軍派遣範囲とほぼ重なる)、むしろ北部九州の方が鉄器など進んでいるので最近の客観的・合理的な畿内説学者は北部九州の先進性を率直に認めている

例えば久住猛雄はXで以下のようにポストしている

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
(続く)

714 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:12:57.61 .net
桃の種や土器に付着した有機物だっけ?
それを見て検査前に卑弥呼の時代だってわかるの?

715 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:12:57.88 .net
(続き)
また松木武彦は「古墳とはなにか」という書籍で以下のように書く
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

716 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:14:45.59 .net
最近、富雄丸山古墳で5世紀の剣が発見されたが、5世紀の特長を持つ剣が4世紀の墓から発見されたとか言ってたよな
それは墓自体の編年を古く見積りすぎているので墓の年代を5世紀と改めるべきだろ

717 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:15:39.08 .net
以下は考古学者の佐々木憲一明大教授の論文の一部米田俊幸や佐々木憲一が言う通り、「土器の移動は文化交流によって生じるものでその交流関係は対等である」と捉えるのが常識的かつ自然だろう。そもそも一部の畿内説論者が言うように土器受容が政治的支配を意味するのであれば、河内の庄内甕を受容した纒向ヤマト王権は河内の豪族から政治的支配を受けていたことになり、図らずも彼らが唱える纒向畿内説自体が理論的に破綻する
『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』

718 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:16:57.27 .net
>>717
思ってないから
市で物々交換してたんでしょう

719 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:17:23.09 .net
古墳時代に入ると大和が鉄器でも筑前を圧倒
筑前は大和どころか、甲斐山梨県以下になってしまうのである
さらに、銅鏡でも三角縁神獣鏡を配布されるようになる
このような状況で、投馬国や邪馬台国を九州内に想定するのは無理、不可能である

720 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:20:00.18 .net
大分県宇佐市の宇佐市長の公式コラム


市長コラム「赤塚古墳と小部遺跡 その1」(令和2年8月号)

県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘の中に、国史跡の川部・高森古墳群があります。3世紀末から6世紀にかけて造られた6基の前方後円墳を中心に、約120基の円墳や周溝墓が集中しています。

このうち赤塚古墳は推定墳長約58m、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳の一つです。大正10年、箱式の石棺から三角縁神獣鏡等5面や鉄刀などが出土しています。三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府)や石塚山古墳(福岡県)と同じ鋳型で製作されています。

なお、三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚の一部で、赤塚古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があります。魅力的な話ですが、赤塚古墳の築造時期は卑弥呼が銅鏡をもらった239年より半世紀余り後であることなどから説得力にやや欠けるようです。

赤塚古墳などの被葬者は、古墳時代に宇佐地方を支配していた宇佐国造家(くにのみやつこけ)の一族と考えられています。ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。

721 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:21:54.22 .net
>>714
そもそもその辺りって炭素だと年代の幅(誤差)が80年とかでかくなるんだよ、太陽活動の影響で
それを20年かそこらの幅に限定したから胡散臭くなってるんだよね
全部データを公開すれば見ればわかるじゃん!で終わる話
むしろこれを引っ張ってるのは畿内説勢なんよ

722 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:22:03.13 .net
青やな
白と黒の間の色が昔は全て青だった
青色の玉を八坂丹というとヒスイの産地越後国風土記逸文にある
伯耆国風土記逸文にある雷が鳴ると鶏、雉は鳴くが山鳥は尾谷を越えて踏み踊るとある
山鳥が踏み踊った地が因幡国の青谷上寺地遺跡かもな
弥生時代後期の鳥形が見つかっており、銅鐸の破片も見つかっている
青谷上寺町遺跡の鳥形は、島根の西川津遺跡、大阪の雁屋遺跡、池上曽根遺跡と同じ形なんだよな

時代は違うが6世紀後半の大塚古墳は地元ではアオ親王の墓だと伝わる
平安時代の阿保親王と混同している説もあるが地元の人は皆アオだと断言するようだ

723 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:23:41.82 .net
>>719
それ東遷説の証拠にしかなってなくね?
大丈夫?

724 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:27:54.97 .net
>>723
ならないから大丈夫

725 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:28:27.71 .net
ゴッサカイト遺跡の鉄、加古川沿いを縦断して日本海側から播磨に運ばれていたという研究をしていた人がいたような

青谷上寺地遺跡は港のある交易の拠点基地だ
鉄の輸送を担っていたのかもしれん
鳥の磐樟船の拠点だったんじゃないか

726 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:28:30.43 .net
>>721
だから酸素なんたらってのでも調べたんでしょ?
俺から言わせれば3世紀初頭が2世紀後半になったところで無問題
原理知らんしそんなもんでしょうとしか思わん

727 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:29:23.07 .net
>>723
伝統的第5の受容と庄内型筑前甕の成立を考えると、東遷説はやや弱いように思える

728 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:30:44.78 .net
>>706
>古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)

これはつまり、倭人(阿波勢力)の畿内進出を意味している。   @阿波

729 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:32:21.32 .net
>>708
>箸墓古墳を勝手に3世紀前半にスライドさせたから周濠で発見された5世紀の木製倭鐙が4世紀初頭と

それも君ひとりの空想だよね
情報出所がない

730 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:33:31.06 .net
>>719
国・王権は移動するものだ。
大和は古の「邪馬台也」ではなくて、古の「邪馬台者也」とは、まさに其のこと。
言い換えれば、大和王権は、倭人伝に云う古の邪馬台王権だったということ。

731 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:33:54.93 .net
ゴッサカイトの搬入土器の大半は河内
河内と密接な関係がある集落だ
和泉の池上曽根遺跡と河内の雁屋遺跡と同じ形の鳥形の青谷上寺地遺跡

大塚山古墳は牛石伝承の地
因幡や伯耆は牛鬼伝承の地

732 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:34:54.37 .net
>>722
訂正大塚山古墳

733 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:35:17.64 .net
>>721
>そもそもその辺りって炭素だと年代の幅(誤差)が80年とかでかくなるんだよ、太陽活動の影響で

なりませんけど
科学的根拠なにもない想像でしょ

>全部データを公開すれば見ればわかるじゃん!で終わる話
>むしろこれを引っ張ってるのは畿内説勢なんよ

されてるけど?
なにニセ情報流してんの

734 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:35:25.63 .net
>>730
卑弥呼時代に移動した痕跡が見られない

735 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:37:41.63 .net
>>725
>ゴッサカイト遺跡の鉄、加古川沿いを縦断して日本海側から播磨に運ばれていたという研究をしていた人がいたような

そんなアホな。 鉄器王国「阿波」からだよ。   @阿波

736 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:38:31.19 .net
播磨はほぼ出雲ですよ

737 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:41:04.84 .net
>>736
播磨も出雲も、倭人(阿波勢力)ですよ。   @阿波

738 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:43:09.06 .net
>>734
卑弥呼の時代は、まだ九州を纏めるので精いっぱい。
で、その後は日向三代というから、
移動したのは、臺与の2-3代くらい後だろな。

739 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:48:45.35 .net
はっきり言うと伊勢遺跡も炭素年代測定ってのをやってて
今まで想定された年代が出てるのよ
これが間違ってると言われると今まで自分が想像してたのが
全部狂って来るわけでじゃあ他はどうなのよって話しになる

740 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:50:28.24 .net
鳥取の取トリはアイヌ語ツオリで〜が集まっているところという意味らしい
熊が集まっているところ熊取

鳥取と言えば因幡の白兎だが鰐に毛皮を剥ぎ取られた白兎は蒲の地で毛を再生する話が因幡国風土記逸文にある
蒲の地は何処だったのか?
京丹後市弥栄町に、鳥取という地名が現在も残っている
藤原宮跡出土木簡に「旦波国竹野評鳥取里大贄布奈」とあり、これは古代の史料で裏付けられる最古の鳥取
この辺りは蒲井浜や琴引浜、宇川、伊根、間人など興味深い地名が残っている
前回そっくりさんが選ばれたのは柏原市の人であったがかつて柏原にも鳥取郷があった
和名類聚抄には河内国大県郡鳥取郷という地名があり、古代の寺院・集落跡があって鳥取千軒とも呼ばれてきた、柏原市青谷の周辺らしい
和泉にも鳥取の地名があり、垂仁天皇の皇子印色入日子命が営んだ鳥取の河上宮に由来するという

741 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:50:32.70 .net
>>738
それはないでしょうが、そうであるならば邪馬台国は畿内で確定

742 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 17:54:44.48 .net
東遷ではなく東征だな
ヤマトという地名は地名が先にあったのではなく倭国造となった椎根津彦がヤマト氏を名乗っていて支配地域の地名になったんじゃないだろうか
椎根津彦の先祖は山幸彦だから高天ヶ原である邪馬台国の名を名乗っていても不思議ではない

743 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:00:24.47 .net
想像だけする九州説

744 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:00:42.67 .net
>>742
ヤマトクニツクリ?

745 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:04:15.42 .net
牛さんは4500年前に渡来した縄文人じゃないか
大陸の禹が関係しているのでは?
牛鬼伝説の元ネタは弥生時代、牛が日本列島に来たのは古墳時代

746 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:05:24.75 .net
畿内説は想像ですらない妄想w

747 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:06:20.92 .net
>>719

30:日本@名無史さん:2024/03/30(土) 12:15:03.53
https://i.imgur.com/In62R0B.jpg
寺沢センセが監修した県別鉄器出土MAPを
古墳時代初め(3世紀初〜中頃)だけわかりやすいように加工した

748 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:08:37.91 .net
日本神話は、年代はさかのぼらせて騙っているが、、
やはり、大筋で正しいんだろな
高天原は九州高千穂、豊葦原中津国は大国主の出雲。
畿内大和は、神武東遷以降に、楽浪・帯方渡来人で栄えた。

749 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:09:46.83 .net
鍛冶屋の金屋子神が乗っていたのは白鷺
因幡の白兎は、禹の白鷺だったりして
隠岐に何をしに行っていたのか?
鉄を運ぶ途中だったんじゃないか

750 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:10:20.38 .net
>>747
その意味のないデータが、どうかした?

751 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:13:32.33 .net
ここら辺?
炭素で使った試料と比較すんのが科学じゃないの?
せめてスギのデータも見たいんだけど何処にあるかな
ttps://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-17H06118/17H06118seika.pdf

752 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:14:40.71 .net
>>747
https://i.imgur.com/uurZoBN.jpg

31 日本@名無史さん[] 2024/03/30(土) 12:27:54.13
>> 30
3世紀後葉になると
前方後円墳への鉄器大量副葬によって
九州と畿内の鉄器量が逆転する

3世紀初〜中頃は九州が優位
3世紀後葉は畿内が優位

3世紀中頃にいったい何があったんだ……
そういえば魏から西晋への禅譲もその頃だな

753 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:16:41.93 .net
>>747
例によって、100年ほどさかのぼらせて加工したんだろww

754 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:17:20.96 .net
>>752
そんなデタラメ誰が言ってんだ?
脳内の教祖か?w

755 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:21:43.73 .net
牛鬼伝説の本場岡山から4500年前の稲のプラントオパール

756 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:23:28.02 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

757 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:26:58.65 .net
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)

しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制や横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう

北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)

しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)

私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える

タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう
欠史八代や纒向築造開始時期などを考慮すればタイミング1の可能性が高いと思われる

初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備や東海など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはそれに敵対する勢力)
(続く)

758 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:28:29.04 .net
つまり畿内説は想像異常に頭が悪い詐欺でしたと

759 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:29:30.65 .net
(続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行するこれにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった

北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになったマグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろうこのため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる

翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を威信財として独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる

こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

760 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:29:38.35 .net
>>757
唐古・鍵遺跡にも九州との関わりはサッパリ見られない

つまり畿内は東の倭種の国でしたと

761 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:31:39.13 .net
神武は、
自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲
妖怪だよ。

762 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:31:49.59 .net
北部九州に大気な国があった形跡って無いんだよね

763 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:33:21.42 .net
>>747

3世紀初〜中頃よりも、卑弥呼が遣使した後の
3世紀中頃〜3世紀末に鉄器が急増するところのほうが重要

764 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:34:53.12 .net
>>681
同じやり方でつぎはぎしてパターン作るのが追試ってやつやぞ

自前でやれ

765 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:37:29.33 .net
>>697
理系の論文でも整理したデータとか典型例代表例しか出さないのが普通で、生データを公開することはマレ

766 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:37:42.58 .net
魏志
食飲用籩豆 手食
食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる。

隋書
俗無盤爼藉以檞葉 食用手餔之
その風俗では皿や板台はなく、カシワの葉を敷く。食物は手を使って食べる。

3世紀、九州の邪馬臺国では食事に食器を使っていたが
7世紀の東の倭種はカシワの葉っぱを食器に使っていた

767 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:40:35.43 .net
柏餅食ってるとこ見たんじゃないか

768 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:42:28.09 .net
>>766
文化の浸透ってほんと時間がかかるもんなんだよな
卑弥呼時代の奈良は土人地帯だったという事よ

769 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:44:27.53 .net
>>760
伝統的第5様式の受容、筑前型庄内甕の成立をそれはできない

770 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:45:09.06 .net
カシワ

日本では古くから「葉守の神の樹」と呼ばれている。
冬でも葉が落葉せずに枝に残っているため、
そこに神が宿る木と考えられ、神聖な木とされている。
食物を盛るために敷く葉として、
神事としての食事にふさわしいものと考えられた。

771 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:45:41.08 .net
松木武彦は名著「古墳とはなにか」の中で、前方後円墳に過度な政治的意味合いを持たせた従来型の畿内説(ほぼ畿内自生説と被る)をやんわりと批判する(白石太一郎など考古学界の重鎮への批判になるので筆致は遠慮がち)
関東の例も含め、古い畿内説の論理的弱点を的確に突いており、極めて妥当な考え方だ

「だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている」

「墳丘の形や規模を畿内との政治的関係の表示とみる方法論の原則を首尾一貫させるのであれば、六世紀末から七世紀にかけての関東の長たちは、畿内の長たちよりも政治的に上位にあったと解釈しなければならない。もし、文献史料がまったくなかったとしたら、七世紀には列島の政治的中心が畿内から関東へと移った、と考えられたにちがいない。もちろん、そんなことは実際にはなかった。おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう」

要は、鉄器を副葬することの意味が鉄器先進地域の北部九州地域では後進畿内よりも早くから低下したのと同様に、巨大前方後円墳を作ることの意味が先進畿内では後進関東よりも早くから低下したということだ

772 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:49:18.28 .net
九州では大した政治勢力が自生しなかったというだけ
九州と本州を人種で区別する試みは意味が無いよ

773 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:49:20.28 .net
箸墓エピソードが後世の創作ということになるとモモソの存在も怪しくなってくるな

774 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:49:53.25 .net
>>768
鉄も稲作も一気に広がってるから
鉄より高価な青銅器がたくさん入る理由がないのよ

775 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:50:03.22 .net
筑前型庄内甕を成立させたのは単なる交易の結果で、前方後円墳と三角縁神獣鏡は畿内の支配下に入ったと見なすべきでないというのは荒唐無稽

776 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:52:38.43 .net
国々には市があって過不足なく行き渡るようにしてたと
魏志倭人伝に書いてあるだろ

777 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:53:10.61 .net
>>771

松木は鉄器を副葬することの意味が
鉄器先進地域の北部九州地域では後進畿内よりも早くから低下した
とは言ってなかろ
勝手に改竄したらだめだ

778 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:54:28.75 .net
>>762
全く無いよ
何にも出てこない、椿井大塚山と同笵の福尾石塚山古墳と、大分赤塚古墳が出てくる程度

大事な点は、平原王墓まではとんでもない宝物が出ていたと言うこと

779 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 18:58:04.69 .net
というか、とんでもなくサビ色塗装していた

780 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:00:08.30 .net
>>777
以下の文章は先のように要約できる
近畿至上主義イデオロギーに塗れた君には都合が悪い内容なので脳が拒絶する(=バカの壁)のであろうが
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

781 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:03:03.09 .net
>>780
鉄は日用品に使われてるから

782 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:06:12.42 .net
3世紀の北部九州では鉄は実用品(農具や武器に当たり前に使用)

3世紀の畿内では鉄は王が独占する威信財(古墳は木製土木具で築造)

これが文化の差だ

783 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:06:39.87 .net
>>780

松木は鉄器を手に入れやすい北部九州よりも
入手ルートが限られていた畿内のほうが
権力が集中し易かったといっているのであって
北部九州が鉄器の副葬が早くから低下したと言っているのではない

784 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:07:40.85 .net
鉄製品の修理を請け負ってた集落もある
修理した銅鐸や銅鏡なんてないでしょ?

785 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:08:17.87 .net
>>783
言ってるよ
私が引用した文章でもその意味のことを言っているし、本を読めばもっとはっきりわかる

786 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:11:11.95 .net
>>782
鉄の威信財なんてあったっけ?

787 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:17:00.69 .net
>>766
俗無盤爼藉以檞葉 食用手餔之
本によると東日本の習慣だそうな

788 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:18:29.16 .net
鉄器は3世紀中頃までは九州が優位
畿内の鉄器が増えるのは3世紀後葉になってから
古墳に副葬された鉄器が増えてようやく逆転する

らしいよ

789 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:20:07.39 .net
古墳に鉄器を副葬するあたり、よっぽど鉄器が貴重な地域だったんだね

790 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:21:27.28 .net
日本海側から播磨に抜けるルートはまさに天日槍の足跡
天日槍はこの鉄のルートを奪う為にやってきたのか?
〜ポコ、〜ボコは女王国が伊都国に置いた官にある名前と同じだな
怡土県主は天日槍の子孫
筑紫の枕詞はしらぬひ
女王国と天日槍は手を組んで牛さんを乗っ取ったのか?
岡山の天日槍の伝承を探る必要がある

播磨風土記には天日槍は芦原シコオと播磨の地で争った、海中に居を構えたとある
播磨風土記には大物主芦原のシコという神さまも出てくる
芦が散るなにわ、あしひきの山

卑弥呼の父は誰なのか?

791 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:24:01.87 .net
>>788
>畿内の鉄器が増えるのは3世紀後葉になってから
>古墳に副葬された鉄器が増えてようやく逆転する

それだけでは社会全体の鉄器は北部九州と畿内では全く逆転しない
「副葬品だけのデータを見れば」逆転しているように錯覚するだけだ

テンプレは副葬品だけの鉄器のデータを持って来て畿内が圧倒的などとバカな主張をしている
実際はまだ木製土木具で古墳を作っている段階なのが後進地域が畿内だ

畿内が本当に北部九州を逆転するのは4世紀か5世紀だろう

792 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:24:02.21 .net
https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=757
https://www.sankei.com/article/20161017-XPH3RMJEWJJ6TP6C3YYJSF7FTI/

793 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:25:37.29 .net
>>774
鉄より高価な青銅?
また根拠不明な妄言連発だなw

794 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:26:04.80 .net
卑弥呼亡き後3世紀後半、纏向遺跡から吉備の土器が見られなくなる
内乱を経て台与の時代
箸墓伝説、大物主との婚姻エピソード
何が起きていたんだろうな
まだまだ謎だらけだ

795 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:27:41.79 .net
>>793
鉄は日用品
青銅器は威信財

796 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:32:06.95 .net
青銅器が入ってくるのに鉄が入ってこない理由がない

797 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:33:06.11 .net
247年 台与(13)即位
265年 魏から西晋に禅譲
266年 倭国の朝貢、これ以降倭国の朝貢が途絶える

3世紀後葉、畿内の鉄器出土量が九州を逆転

畿内東倭種が九州倭国勢の独占してきた対馬海峡の制海権・鉄利権を奪ったか

798 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:34:25.31 .net
>>797
元々制海権があるから青銅器が入ってくるわけで

799 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:34:36.40 .net
>>791

鉄器で国が繁栄する何かを作らなければ
そこいらのおじさんたちが鉄器を持っていて
住居に残して死んでいっても意味が無い

800 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:35:45.94 .net
>>798
交易してるんだから国際都市奴国を経由してなんぼでも入ってくるぞ

801 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:36:44.45 .net
弥生時代青銅器の用途の殆どは銅鐸用だって

802 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:37:50.67 .net
>>800
鉄だって入ってくるでしょう

803 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:39:38.77 .net
青銅とハガネ鉄を一緒くたにしてるようでは、時代の流れを読めない

ハガネ鉄で作られた軽くて鋭利な武器の前では、
青銅の武器など、大根同然だったのだよ。

804 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:40:07.71 .net
>>802
3世紀後葉にならないと増えなかったね

805 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:40:22.80 .net
>>803
だから銅鐸作ってたんだって

806 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:41:14.10 .net
>>804
つまり要らないって事だ

807 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:41:21.10 .net
だが倭国乱の後共立されたのが女王卑弥呼であった

808 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:43:39.42 .net
https://i.imgur.com/2s7qBim.jpg
弥生時代後期(1世紀後半〜2世紀)なんか畿内にも鉄が無かったわけじゃない
ただ圧倒的な九州に対して畿内が逆転できるのはようやく3世紀後葉に
古墳に副葬された鉄器が激増してからということ

809 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:44:57.09 .net
近畿の青銅器と言えば銅鐸と三角縁神獣鏡

810 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:45:24.44 .net
>>764
それ出来なきゃ科学じゃねんだわ

811 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:46:42.30 .net
>>765
データに疑義がある時は普通に求められるよ
ない場合は反証論文が出されることもある

812 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:50:44.17 .net
鉄の威信財って剣や刀か?
そんなんずっと後だろ?

813 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:52:51.40 .net
>>788
2世紀半ばになると中国地方で(輸入窓口である出雲と地域の中心である吉備を中心に)鉄の出土か増えて九州は衰退してるだろ

814 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:56:10.92 .net
>>811
反証はデータじゃなく理論への反対を目的にするものの方が多いだろ?
まあ、当該論文を否定する目的の論文なら反証だが

815 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:56:40.47 .net
>>813
吉備や播磨は2世紀までは鉄が増えるが3世紀初〜中頃には減るな
しかしそれも九州には敵わない

816 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:57:23.30 .net
ハガネ鉄で武装した帯方郡と邪馬台国の兵に愕き、
銅鐸と銅剣をかき集めて、どっかの山の斜面に埋め、降参した。
それが出雲&畿内の国譲り降伏物語、、

817 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:58:10.88 .net
>>812
弥生時代から、鉄剣を副葬しているが?   @阿波

鮎喰川下流域で最古の古墳と考えられるのは, 名東町節句山 1・ 2号墳であり, 1号墳は石蓋盤棺で鉄製品 (飽 ?)のみの出土の点などからして,
弥生時代の墳墓の可能性が指摘されている。 2号墳は箱式石棺に 竪穴式石室をしつらえた埋葬施設を有し,棺及び石室内部から舶載の四獣鏡や
勾玉,鉄剣,鉄刀子, 鉄斧 ,鉄鎌などが検出されており, 3世紀末ないしは4世紀前半に位置づけられるとされている。

818 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:58:26.24 .net
>>815
淡路島で鉄器作るの止めたからかな?

819 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 19:59:43.85 .net
>>818
九州で倭国大乱が始まると鉄鏃需要が跳ね上がる
すると何故か淡路の鉄器製造拠点が消えてなくなる

820 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:00:33.15 .net
>>817
3世紀末ないしは4世紀前半は古墳時代だから

821 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:01:08.29 .net
漢委奴国王も、倭面土国王帥升も、九州北部に居たんだから、親魏倭王も九州北部に居たんだろう。
なにも、その時代の最大の勢力の首長が倭王というわけではない。正当性がなければ、外国から倭王として認められることはない。

822 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:02:29.10 .net
>>821
なんだそりゃ?
まるで説得力がない

823 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:03:40.48 .net
>>819
倭国大乱は始まってないと思うけどな

824 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:04:03.33 .net
>>820
3世紀末ないしは4世紀前半の鉄剣、他所にあるのか?   @阿波

825 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:05:29.43 .net
>>824
弥生時代に鉄の威信財なんて無いでしょ?

826 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:05:40.52 .net
>>814
西遼河起源説だっけ?
あれ反証論文出されたじゃん
元になった手法とかデータセットとか検証して科学的じゃないってやったやつ

少なくとも予算は税金から出てるんだから、
爺さんが公開求めてるやつだって
せめて科学的に検証できる状態にしろって思うの普通じゃね?
公開したらこの話は終わるんよ
考古学は神の手創り出した責任あんだから自浄作用の一環でさっさと公開したら終わんのにってだけ

827 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:07:46.70 .net
>>816
降伏寸前で救世主が九州から呼び戻されるんじゃないか
卑弥呼が共立される少し前の話だろう
卑弥弓呼、スクナヒコナ、サルタヒコ佐田大神、香島の天の大神、伊勢に祀られている名前がコロコロ変わる伝承の神さま

828 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:09:50.45 .net
そして卑弥呼が先に亡くなり再び混沌の時代に
シャッフル

829 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:10:02.17 .net
>>825
弥生時代なら、鉄器そのものが威信材だろ?   @阿波

830 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:11:51.71 .net
糸島市だけで斯馬国と伊都国の二カ国ですもんね。不弥国は宇美町。こんなのが30個集まっても大したことですよね。昭和の福岡は100市町村と考えれば、親魏倭国がいかにしょぼい存在か。里数や戸数は司馬懿に忖度した誇張だろうし。

831 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:12:46.52 .net
>>829
鏃は出て来るけど消耗品だからなあ

832 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:14:16.35 .net
>>831
>鏃は出て来るけど

鉄器王国「阿波」からの下賜品だな。   @阿波

833 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:15:25.61 .net
>>821
志賀島で見つかった金印はそこで奴国王が敗死した証拠。たぶん出雲に敗れて王権は出雲に移った。

834 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:16:29.50 .net
島が聖地だったからではないかと
宗像しかり

835 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:18:19.22 .net
纏向が北部九州を支配していた証拠はない
北部九州は後漢代と同じように独自外交を行っていた

836 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:19:00.09 .net
絵本地獄の宗兵衛、落語にもなっている仲良し3人組の話でしょ
なにわの軽業師の寅吉→高橋の薬使いの医者→高間寺の山伏

837 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:23:48.21 .net
大事なのは牛さんの伝承だよな
1番の謎だわ
スサノオの始まりは牛と石の結びつきなんじゃないかと思うんだよな
旧石器時代からのサヌカイトの産地、サヌキの五色台
昔が丑寅みさきや牛鬼伝承の地岡山だ
香川の隣が再生の地、道後、ここは香と聖徳太子の謎もある

838 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:24:32.12 .net
>>837
訂正昔→隣

839 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:26:26.91 .net
牛、寅、石、五色台、香川の香、サカ、etc

840 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:26:53.26 .net
東に海があり千里向こうにも倭種がいる
→周防灘の西
以北に一大率を置く
→伊都国奴国の南
南に狗奴国クコチヒコ
→熊本平野と菊池平野の北
会稽トウヤの東
→畿内を中心とする国をこのようには表現しない

結論は筑紫平野

841 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:28:34.97 .net
南→東の読み替えは間違い!と言いつつ、奴国の東の不弥国を北に設置してしまうバカ九州説
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg
おまけに脳内邪馬台国を海上に設置

842 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:29:50.21 .net
縄文時代の4500年前に稲をもたらした岡山の勢力と瀬戸内海で五色台のサヌカイトを使っていた集団の間には何千年もの繋がりがあるんじゃないか

843 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:30:12.37 .net
大阪湾から歩いて一月で纏向
魏の使いは、1日につき1キロしか歩かなかった!

844 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:31:12.96 .net
古代福岡の人口が、三韓と同じ60万人クラスになってしまう馬鹿九州説

845 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:32:18.50 .net
石と牛で日印かもしれん

最後の牛石伝説は松原の大塚山古墳の牛石と堺の牛石古墳の伝承か
6世紀後半何が起きたのか?

846 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:32:20.48 .net
>>843
九州説は陸上を一ヵ月舟に乗って、さらに一ヵ月歩くんだろ

847 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:33:26.98 .net
>>844
なんで無邪気に戸数を信じるのかな?
奈良盆地すら7000戸がやっとなのに。

848 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:33:47.90 .net
>>843
おまけに、瀬戸内海は難航路だから、古代は山陰側から行ってるんだよ馬鹿

849 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:35:03.86 .net
>>847
近畿一帯+αだから
九州説は古代の筑紫平野に50万人

850 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:35:20.04 .net
>>848
近江は銅鐸が遅くまで残ってますが?

851 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:35:49.50 .net
>>848
>古代は山陰側から行ってるんだよ

お前も同じ馬鹿。   @阿波

852 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:36:28.45 .net
>>848
そうか
畿内説者で瀬戸内海ルートをとる者はいないのか?
瀬戸内海ルートをとる奴は馬鹿か

853 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:36:43.85 .net
佐田大神の母は国津神だが、父が本当にマスラ神か疑う話が出雲国風土記にある
父が天、母が国、天照国照じゃないか?

マスラ神は石神のことだろう
石を以って升を作りオケとした話が播磨風土記にある
マスラ男の語源やろな 真に優れた武人、男

854 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:37:40.49 .net
卑弥弓呼は九州からやってきた饒速日でもあるのかもな

855 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:37:55.60 .net
阿波も瀬戸内海。
なら@阿波も馬鹿か?

856 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:39:19.80 .net
饒速日と長髄彦はマブダチだ
長髄彦のピンチに呼び戻されたのか?

857 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:39:26.15 .net
>>855
阿波も瀬戸内海??

「阿波」は、温暖黒潮太平洋ルートだ。   @阿波

858 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:40:52.96 .net
蛮族をも綏撫するために三角縁神獣鏡は日本全国に配布さへている

859 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:42:37.60 .net
>>855
阿波も瀬戸内海??

「阿波」は、瀬戸内海が整備される雄略天皇時代までは、温暖黒潮太平洋ルートだ。  @阿波

860 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:44:15.94 .net
>>826
特に理由がないならとっとと公開すりゃいいのにとは思う
拒む理由が分からん

861 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:47:50.00 .net
https://www.youtube.com/watch?v=L80SnZJxpKY

862 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:48:49.67 .net
当時の日本列島には馬も牛もいない
そんな時代に奈良が福岡を影響下に置いていたなどと考える人はちょっとおかしい

863 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:49:54.92 .net
出雲→徒歩で伊勢遺跡

864 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:50:02.48 .net
阿波国風土記逸文のミナトをウシホと読むと意味がわからない内容の話が残っている

865 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 20:55:19.20 .net
出雲→吉備→伊勢遺跡だな

866 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 21:04:51.07 .net
牛鬼は椿の古根という
イザナギの唾から生まれたのは速玉男、熊野速玉大神
イザナギそのものか
唾の後片付けをしたのが泉津事解之男、後を継いだということか

867 :琪瑛教大祭酒:2024/04/01(月) 21:34:58.87 .net
もう終わった話
だが九州には別に責務がある
卑弥呼以前からの話だわ
半島と列島に繋がる甕棺地域はどうなったのか?
阿残墓とも言われ、平原は柱に井戸と朴のタマゴ
辰国の六村六部の1つなのか?
ハッキリさせるべき時だね
神武詔勅
六合が八合になり八紘一宇となる
八幡八角だわ。
ここへやがて繋がるわけだろ

868 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 21:45:11.36 .net
松傾は捕まりましたかな?捕まりましたかな?

楽しみ楽しみ

869 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 21:57:35.78 .net
>>864
「踵」を表す「キリブサ」は、「日本書紀」の「久比婢須」(クビヒスまたはクヒビス)に由来する言葉で、四国一帯に広がっています。
ここから「クビス」「キヒヒス」などの語形を経て「キビス」となりました。
近世に上方で使用された語で、現在も西日本の高齢者らが使っています。

井戸を「イズミ」と言うのは徳島と香川、愛媛の東予地方に集中します。
「出水」のことで、「日本書紀」や「宇津保物語」(平安時代中期)では、地中から湧き出てくる水、湧き出る場所を指しました。

「トエル」は徳島県南や美馬市以東で「叫ぶ」「泣く」の意味で使われており、淡路島にも広がっています。
香川、岡山にもわずかながら分布があります。

よく似た意味の語として県西や県南には「ウドム」があり、中四国や九州でも使用されています。
「日本書紀」や「万葉集」の時代には鳥獣の鳴き声、波や地震の鳴動を「とよむ」と言いました。
その後、平安中期には濁音化した「どよむ」が人の声が騒がしいことを言うようになりました。
「ウドム」は、「うなる」と「どよむ」の混交形だという説があります。   @阿波
https://www.topics.or.jp/articles/-/504551

870 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 22:01:59.34 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

871 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 22:30:29.37 .net
『磯上乃古事記』では、わが国の天地初発の時より記されているのは当然ですが、
諸国風土記のうち、同じく天地初発より記された風土記は、阿波風土記を除いてはありません。   @阿波

872 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 22:31:26.09 .net
四道将軍の事績が殆どなくヤマトタケルの事績は誇張され長大
仲哀天皇の時代は既に関東で出雲臣の人々が活躍している
東国への往路のヤマトタケルの悪事は四道将軍の事績なんじゃないかと思うんだよね
帰路がヤマトタケルの事績じゃないか
畿内で何か起きたんやろな
葛の葉伝説に繋がっていく話とかあったのか
丸々省略されているけど
弟橘姫が戻って来る話とか戻り湯の話とかも関係して来るのかな
この辺もおいおい調べないといけないかもな

873 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 22:35:17.54 .net
つまり畿内説はこじつけ妄想を確定事項と思い込む宗教でしたと

874 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 22:44:45.64 .net
>>821
まあ、九州の半分ぐらいしか領有してない日本国王の良懐ってのも居たのは確かだがな

875 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 22:46:37.74 .net
アメノホヒの子とフツ主の仕事がいつ発動したかも謎だわ
この辺がキーになるかも
アメノホヒの子孫は畿内と関東で活躍するからな

876 :日本@名無史さん:2024/04/01(月) 22:51:32.64 .net
フツ主と伊吹山の神、同じようにも思える

天の安河のほとりにある岩群・五百箇磐石(イオツイワムラ)となり、これが経津主神の祖である
天の安河は伊勢遺跡のある滋賀の野洲川だろう

877 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 00:06:53.84 .net
>>780
銅鏡も同じ文脈で考えられそうだね

878 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 00:10:03.42 .net
>>847
もっと後の、古墳時代より2倍近くまで人口が増えたはずの奈良時代の富山県(越中国)の戸数が二千戸なのと比べたら、かなり栄えてるやん

879 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 00:11:28.01 .net
>>860
なんか、むちゃくちゃ忙しいので対外交流は全部お断りやとか?
講演とか講座とかもかな?

880 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 01:30:21.28 .net
>>878
家康が来る前の江戸で人口二千人ぐらいだからな
古代の筑紫平野に12万戸住んでたのが九州説

881 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 02:41:03.69 .net
つまりファンタジー

882 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 02:59:12.55 .net
吉野ケ里遺跡が北部九州全体の中心集落と考えた方が良いと思うけどな
だってそれ以外に王宮に相応しい遺跡って無いでしょ?
古墳の年代とも合致するし

883 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 03:30:24.10 .net
1800年前・邪馬台国時代の筑紫平野。吉野ヶ里遺跡は海岸沿いだった
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/i1f6800f6e7197c15/version/1534910431/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%AD%91%E7%B4%AB%E5%B9%B3%E9%87%8E.jpg
1800年前の邪馬台国時代には、吉野ヶ里から久留米市を結ぶ線あたりが海岸線になっていたようです。吉野ヶ里遺跡は、いまでは海岸線から遠く隔てられた佐賀平野の山裾に近いところに位置していますが、当時は波打ち際でした。この時点で山門地域は、まだ有明海の海の底だったので、邪馬台国の可能性はありません。
吉野ヶ里遺跡については、当時はまだ有明海の岸辺だったので、耕作地はほとんどありませんでした。農業生産の少ない土地に、大きな国は出現しません。吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国だったとは到底考えられません。

884 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 03:32:57.98 .net
この地図だけでも九州説は木っ端微塵

885 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 03:46:49.37 .net
海の中だった山門が邪馬台国とか、三潴が投馬国とかヘソが茶を沸かすわ

886 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 04:15:42.19 .net
南に水行出来そうな地図だな

887 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 05:37:34.85 .net
おまえら祠って言っても原始形はタヌキの洞穴みたいなもんなんやで

888 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 05:43:46.06 .net
>>588
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(×本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(×四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)

889 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 06:02:26.39 .net
>>110
266年に、後ろ盾だった魏が西晋に禅譲して消滅ことは「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)としてヤマト王権に禅譲した方が良いと出たのかもしれんw

筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(複立男王 並受中国爵命=崇神)は箸墓を築き、日本の統一を高らかに宣言したわけだw

そして5世紀になると倭の五王(応神朝)が九州に再び西遷して、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ半島派兵を繰り返し広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝・天垂彦(邪靡堆=阿蘇山祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火し、首都・阿蘇邪靡堆が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
白村江の戦いで近江大津宮へ逃れ再び東遷し、大和にいた分家(留守居家老)である天武と合流したのだ。

890 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 06:43:13.76 .net
漢→魏→晋
と変わっても倭国には特に影響ないよ

891 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 06:43:53.03 .net
>>821
隋書「すなわち魏志で言うところの邪馬臺なる者なり」
親魏倭王はヤマト王権

892 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 06:51:07.59 .net
>>876
>天の安河は伊勢遺跡のある滋賀の野洲川だろう

違う。
鮎喰川だ。   @阿波

893 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 06:59:17.37 .net
滋賀県は銅鐸が最後まで栄えた地域だよん

894 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 07:10:39.71 .net
吉野ケ里の人口がせいぜい千人、周りを合わせてもせいぜい千戸
邪馬台国7万戸とはかけ離れてるのが現実

895 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 07:22:52.86 .net
昔の中国より権威が低下しても南朝が存続してたら日本(邪馬台国)は中国に臣従ルート
中華思想のイレギュラー北朝様の影響で日本独自の天下が生まれたことに感謝するがよい

896 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 07:24:57.45 .net
っつか最前線だろ、あそこ

897 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 07:28:57.36 .net
895
だからおまえの祖先は乞食だって

898 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 07:30:23.57 .net
昔の京都あたりも乞食(流民)が溢れかえっていたらしいからな

おまえら乞食しに日本まできたのか?

899 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 07:32:12.01 .net
律令時代の山門郡にあたる福岡県みやま市あたりには、弥生時代どころか縄文時代にも人が住んだ遺跡があちこちに出ている

https://www.library.miyama.fukuoka.jp/rekishi/kodai01.html

つまり弥生時代に山門郡は海だった説は客観的に成り立ちようがない

そもそも縄文海進のピークは弥生時代よりも遥か前だ

明らかに間違った地図を平気で持ち出す知能の低い人間がいたものだ

900 :琪瑛教大祭酒:2024/04/02(火) 07:36:33.45 .net
九州は卑弥呼を語る必要はない
甕棺族を明らかにすべし
辰国の分裂がおおきく影響している地域であり魏志倭人伝では瀚海に対する対海国が倭の最初に記され対馬(対馬韓)とはなっていないし瀚海を挟み一支国が始まるところも説得力ある説明が必要であろう

901 :琪瑛教大祭酒:2024/04/02(火) 07:40:21.34 .net
もう無駄なのだよ
箸墓は間違いなく道教の指導者の墓であり
道教嫌いの当時統治者が記す箸を刺してはダメなんだな。
決定的ミスだな

902 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 07:43:16.29 .net
>>893
「阿波」だ。   @阿波

903 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 07:59:05.86 .net
辰砂王国「阿波」
鉄器王国「阿波」
銅鐸王国「阿波」
勾玉王国「阿波」
神社王国「阿波」
古墳王国「阿波」
銅鏡王国「阿波」等々

古代は「阿波」から始まった。   @阿波

904 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 08:12:19.03 .net
>>899
山門郡て柳川市とみやま市だからな
http://www.xufu-saga.com/jomon-yayoi-map.htm
この地図でもほぼ海やんけ

ちなみに>>883は国土地理院の地図

905 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 08:12:49.04 .net
>>852
畿内説者で瀬戸内海は海じゃなく川だから渡海じゃなく水行と言い張るやつなら見たことある

906 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 08:17:43.13 .net
つまり畿内説の学者は詐欺の共犯者

907 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 08:35:39.84 .net
大体、山門やまとの田油津媛たぶらつひめとかいかにも引っ掛けじゃん
大和説に引っかからないやつを引っ掛けるための次の罠だよ

908 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 08:36:17.09 .net
https://i.imgur.com/7vYtJ9j.jpg
海の中を山門と呼んでたわけがないのでどこか他の地名だった可能性が濃厚
山門にふさわしいのはどこだろうな、案外山の中だったりしてな

909 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 08:39:58.16 .net
>>905
そういう普通の感覚の人はよく見る

910 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 08:41:12.89 .net
海か川かは海水か淡水かじゃないんか

911 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 09:06:22.96 .net
頭の悪い九州説爺さん発見

912 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 09:09:28.71 .net
901
おまえはただのドロボーやろ

913 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 09:09:55.31 .net
海でも川でも陸に沿って移動するのは水行だが
海か川かの違いは海水淡水の違いちゃうんか

914 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 09:10:12.22 .net
まったく無駄😳

915 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 09:25:28.83 .net
神奈川にも大和市があるわ

916 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 09:37:34.55 .net
AIで地形調査したら東北の山の中で前方後円墳が見つかるらしいな
九州の山の中もAIで調べたら思わぬところで遺跡見つかるかもしれん
土蜘蛛とかけっこう山の中に住んでたっぽいしな

917 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 09:44:00.64 .net
虎退治に出かける豪傑が「たかがデッカい猫」と言ったのにマジ反論する田舎書生

918 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 09:46:46.05 .net
遺跡が残っているから海の中では無いなhttps://i.imgur.com/jKNx9cj.jpeg

919 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 10:30:11.50 .net
王が山に登って「国見」をする話が出てくるけど

あれは田んぼの開拓の計画を練ってるんだよね

ここに川がある、ここは干潟だけど埋め立てて田んぼにできる、土はあそこの山から取る、
残った残土はあのへんに積み上げておく

みたいに、山の上から平野を見て考えてるわけ

920 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 10:31:37.74 .net
>>918
いや山のふもとの比較的標高が高い場所に遺跡が集中してるじゃん
それは今の平野部は当時は海ないし干潟だったからでしょ

921 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 10:33:15.83 .net
>>908
いや山のふもとじゃん
当時の山門は海と山の両方が近い場所で、要所
要所に都市を置くのは弥生時代としては正しい

922 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 10:44:49.89 .net
>>883
>1800年前・邪馬台国時代の筑紫平野。吉野ヶ里遺跡は海岸沿いだった
これは1800年前とは違うな、改ざんねつ造。
下の1800年前と比べてみろ。

>>904
>山門郡て柳川市とみやま市だからな
ここの1800年前は正しい。
柳川市+みやま市=山門郡、なかなか詳しいじゃないか。
律令制の頃からそうだが、それを知らずに山門郡だから邪馬台国ダー、の学者が多い。

923 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 10:58:29.35 .net
もう居ない

924 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 11:14:16.38 .net
http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-14a5.html
壊した銅鐸をリサイクル用として売りに来てたってのが
正しいかもしれんな

925 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 11:17:16.51 .net
>>924
その破片は纒向遺跡とは関係ないらしい

926 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 11:21:33.86 .net
>>925
関係あろうがなかろうが粉々にした理由は持ち運びやすいから

927 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 11:23:21.73 .net
信仰が薄れたんじゃなくて食べるのに困って売った
または横領する奴が居た

928 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 11:29:33.34 .net
>>921
せいぜい筑後川を太くした程度の海だなhttps://dec.2chan.net/up2/src/fu3306491.jpeg

929 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:03:33.65 .net
>>903
王国、日本一だ❗

930 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:12:39.40 .net
荒神谷や加茂岩倉は取られるから隠したんでしょ
これはお金になるって事で

931 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:19:07.44 .net
>>909
その畿内説曰く大陸の中国人から見たら瀬戸内海は川とのことらしいが
君の回りは中国人だらけなのか

932 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:20:33.13 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

933 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:23:57.30 .net
>>929
国宝が一つも無い王国w

934 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:25:46.55 .net
>>928
平地と言ってもほぼ潟だからな
ムツゴロウかワラスボぐらいしか住んでない

935 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:30:57.05 .net
地質調査をした人の海岸線
https://i.imgur.com/jUq2Da3.jpg

図6の 点線 は, 海成層の直上 に発達す る2.5m以 上の厚 さの砂層 の前 縁線を示してい る.
この線は縄文海進ピーク時期の海岸 線と比べると根拠が薄いが, 弥生時代末の海岸線に近い と考えられ る.
この線は必ずしも同一時代 を示すわけで はなく, 川副町大宅間 (筑後川河口の 中州) 付近では江 戸時代初期の堤防線の外側に出ているなど矛盾点 もあ る.
しか し, 全体的には縄文海進ピーク時期の海岸線と 江戸時代初期の堤防線の間にうまくおさまってい る.

936 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:32:56.91 .net
弥生時代の諸富遺跡が海では無い証拠だけどな

https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34628_20130513073242.pdf

937 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:44:33.08 .net
なんにしても集落で数万戸は無理だから
魏志倭人伝の記述が間違ってるか別の解釈を考えなきゃ

938 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:47:05.50 .net
1戸、2戸と数えていないから、渡海1000里とあまり変わらないだろ、

939 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/02(火) 12:47:55.03 .net
最初期のヤマト王権は男王と女王がおり、男王が神武のモデルになった人物で、女王が卑弥呼であった

つまり日本は中国に朝貢し天皇は中華皇帝の臣下となったのである

これを否定するのがネトウヨ学説である

940 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:48:18.86 .net
いい加減な数値でなにを表そうとしたかだろうな

941 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:50:00.35 .net
2万戸の食料を賄うには北部九州全部でもまだ足りないと言ってた人が居た

942 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:50:34.79 .net
筑後川周辺だけでも奈良の7千戸よりも遥かに多いな

943 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:56:55.61 .net
『翰苑』
憑山負海 鎮馬臺 以建都
山により、海を負い、馬臺を鎮め、以て都を建てる

944 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 12:56:58.34 .net
>>938
集落単位なら人口も把握してる人は居たと思う
それが一万人以上であっても

945 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:01:52.32 .net
倭人伝の戸数は、大月氏国の戸数10万戸を意識したものに過ぎない。
奈良盆地で7000戸がやっとなのに70000戸の国があるはずなかろう。
常識的に考えて。

946 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:06:54.03 .net
露布みたいに戸数も10倍で書いたんじゃね
墓の径も本当は10歩だったりして

947 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:09:25.35 .net
>>946
集落遺跡が一番多い所が7万戸の「邪馬臺国」だ。   @阿波

948 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:11:04.84 .net
奈良が大和になったのは、人が少なかったから、先住民の排除も少なくて済むからではないのかね

949 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:11:28.46 .net
>>947
つまり、大河四国三郎吉野川流域集落遺跡群。   @阿波

950 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:15:18.80 .net
>>948
なんで奈良が大和なのよ?
大和民族は奈良県民じゃないでしょ?

951 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:16:46.60 .net
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がめちゃくちゃで非合理的だ

帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ

公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく

卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ

そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、里数ではなく日数で表記し、かつ距離や戸数が不自然なまでに誇張されていたのだ

このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解する

952 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:17:15.00 .net
統一国家大和朝廷であって奈良じゃないって

953 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:18:05.61 .net
>>950
奈良盆地です

954 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:18:57.56 .net
有明海は干満差が6mあるから、
潟の州の少し小高くなったところが遺跡だろう
筑後川周辺は島地名が多い

島の地名
https://shi113113k.sagafan.jp/e966425.html

浮島村
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%AE%E5%B3%B6%E6%9D%91-3024970

955 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:26:23.03 .net
>>951
>公孫氏が短里を採用していたとすれば、

しないから

956 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 13:59:40.40 .net
>>940
大月氏国よりデカいんだぜ!て言えるように盛った説

957 ::2024/04/02(火) 14:15:14.39 .net
新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712032230/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

958 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 14:40:44.39 .net
>>956
一番簡単なのは、2万戸は1万戸より大きいかな

959 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 14:48:05.88 .net
戸数は普通に盛ってるだろう

960 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 14:58:56.88 .net
>>951
>公孫氏が短里を採用していたとすれば、

短里は、東夷里、楽浪里、或は公孫里、とでもいうべきもの。
漢王朝と同じ里では、失礼・生意気にあたるからね

961 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 15:04:56.85 .net
公孫氏が里を盛ったのはあり得るな

962 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 15:05:19.31 .net
楽浪郡は、四郡設置の時から、半島以南を任されていた。
だから、すでに倭国は調査済み、というか、
我が国でいえば戦国時代だったんだから、倭国統治の計画を持ち、着々と準備を進めていたとみるべき。

963 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 15:05:26.11 .net
周の時代の里のようだから周里で

964 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 15:27:27.28 .net
http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf

上によると古代中国の天文測量法「一寸千里法」で測定すると
洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
グーグルマップで距離を測ると300km相当
300km=300000m÷4000里=75m

つまり当時の天文測量の精度があれなせいで
短里が生まれてしまい、
古代中国人はこのことに気付いてなかったらしい

そして実測できない邪馬台国のような外国だから
一寸千里法を使わざるを得ず、
倭人伝だけ短里になった

965 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 15:28:19.17 .net
昭和前半世代は、戦時教育の反動が強い。
九州の山奥の高千穂に皇統神話の高天原・高千穂王朝があったなど、
ありえない御伽噺に騙された、との思いが先走る。

だから畿内か九州の平野部に、倭人伝の卑弥呼王朝を探し当て、
万世一系を亡き物にしてやろうと思ったのでしょうね。
かって高千穂を見学した先輩諸師は、これこそ大和朝廷がこしらえた御伽噺の寓都と一蹴したらしい。

しかし博多平野にも、筑紫平野にも、まして吉備や奈良にも、そのカケラさえ見つからない。
実は灯台下暮らし、九州の中心にある天然の大要塞・高千穂こそ、女王卑弥呼の都だったのですよ。

966 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 15:36:16.96 .net
>>965
万世一系かどうかと邪馬台国は基本的には無関係
何故なら邪馬台国=大和王権はまだ確認されてはいないから

967 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 15:54:19.85 .net
>>966
倭(「邪馬臺国」+「狗奴国」)→大和朝廷   @阿波

968 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 15:54:47.30 .net
>>964
ちょっとよくわかんないんだけど
東西方向の距離は計算に入れず南北方向だけって事か?

969 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 16:00:07.79 .net
>>966
その通り、高天原/高千穂神話は紀元前数百年のお話し。
倭人伝卑弥呼の記録は、紀元後200年辺りのこと。基本的に両者は無関係さ。
無関係であるにも関わらず、天照大神は卑弥呼ダー、と錯覚したおえらい先学が沢山いるのよ。

970 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 16:13:47.22 .net
>>964
不名誉教授だな

971 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 16:15:19.12 .net
邪馬台国は中国化前の大和国、卑弥呼は天照を宿す日巫女、日王で正解ニダ

972 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 16:26:27.31 .net
>>969
卑弥呼と無関係の偉大なヤマト朝も倭の五王の頃には中国の属国になっちゃったんだ…?

973 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 17:14:11.77 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

974 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 17:24:58.89 .net
>>969
それはそうだろ
古代天皇の没年齢は盛られに盛られまくってる

神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳

これらの天皇で1352年
仮に全員が60歳まで生きたとしても660年
692年は盛っていることになる
実際はもっと早く死んだ天皇の方が多いから

『仮に神武天皇が生きていたとしても』大和王権の成立が4世紀な可能性はある

975 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 17:27:04.26 .net
まさか畿内説の人は本気で神武天皇即位が紀元前660年と信じてる分けないよな?
そんなのネトウヨすら信じないぜw

976 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 17:28:05.32 .net
ネトウヨより右だと極右かw
畿内説主張するのは極右www

977 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 17:28:54.52 .net
なに言ってんだ?
4世紀ってどっから出た

978 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 17:37:28.52 .net
畿内説が神武天皇おか言うわけないだろ
京大史学だぞ

979 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 17:54:40.79 .net
辰砂王国「阿波」
鉄器王国「阿波」
銅鐸王国「阿波」
勾玉王国「阿波」
神社王国「阿波」
古墳王国「阿波」
銅鏡王国「阿波」等々

古代は「阿波」から始まった。   @阿波

980 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 17:59:18.60 .net
通説畿内説はイデオロギーによって崩れるようなものではない
寺澤が言ってる通りだ
邪馬台国の時代から中国に朝貢しているのはヤマト民族としては受け入れ難いという右翼がいても、邪馬台国が畿内に存在したことは覆しようがない

981 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:00:45.49 .net
>>980
>通説畿内説はイデオロギーによって崩れるようなものではない

しかし、考古学であっけなく崩れる。   @阿波

982 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:01:41.19 .net
>>977
まともな事績が無い2~9代天皇を欠史八代とした場合
初代天皇は崇神天皇となる(神武天皇=崇神天皇説)
雄略天皇の実在は概ね認められているから雄略天皇から遡って初代崇神(神武)天皇はいつ即位したか予想する

崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
仲哀天皇53歳
応神天皇111歳
仁徳天皇142歳
履中天皇70歳
反正天皇75歳
允恭天皇78歳
安康天皇56歳
雄略天皇

平均在位12年なら132年
西暦456-132年なら西暦324年
崇神天皇=初代なら大和朝廷成立は4世紀中頃の古墳時代

因みに平均在位12年は推古天皇から昭和天皇までの平均在位期間で
平均寿命の短い古代天皇に絞って平均在位期間を計算すると10年という計算になるから
大和王権の成立は336年

983 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:04:26.76 .net
つまり畿内説の馬鹿学者は編年を100年ずらしたが為に常に矛盾と言い訳に追われてますよと

984 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:14:04.13 .net
魏志倭人伝と後漢書東夷伝の倭国大乱を比較すると、




《その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、倭国は乱れ、
互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。》



《桓帝と霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、
主導する者がいなかった。一女子がいて、名は卑弥呼という。》




桓霊(かんれい)の間 =後漢の桓帝・霊帝のころ。 すなわち146〜189年の間。

桓帝の在位期間146〜168年、霊帝の在位期間168〜189年

倭国大乱が160年頃から始まったと考えると最初の男王が邪馬台国に
居住して七、八十年後の出来事になるから最初の男王が邪馬台国に居住したのは
80〜90年頃になる

最初の男王を神武天皇だとすると107年に後漢に朝貢した帥升は綏靖天皇か
安寧天皇あたりだという事になる

985 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:14:25.07 .net
>>983
残念ながら、編年を100年ずらすことはできない
岡村編年も極めていびつになってしまう
また、理化学的大年代測定法からも、考古学者による土器編年や銅鏡編年は妥当と言わざるを得ない

986 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:23:19.04 .net
やっぱり箸墓は崇神天皇の墓だな
それ以前の巻向型古墳はニギハヤヒとその一族の墓で崇神天皇の母方の家なんだろう

987 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:27:38.09 .net
>>985
編年をいくら考察しても、碌な鍛冶炉遺構や集落遺跡の無い九州や畿内では、如何ともしがたい。   @阿波

988 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:28:29.71 .net
>>982
>平均在位12年なら132年
問題は、そのころに神武東征で使った河内湖が存在したかどうかだよな。
西暦132年だと、干潟や平野になってしまっている可能性が高いので。

989 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:34:11.20 .net
>>983
編年を100年ずらしたのは九州説

>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。
>そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
>しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない

990 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:53:27.48 .net
>>989
そういう事なのよね
この測定法が間違いなら他も見直ししなきゃいけないのに
纏向だけ間違いとする事で満足する

991 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:55:17.73 .net
日皇子も天帯彦も偉いヤマト人の本名や素性は口に出せないの

992 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:55:40.81 .net
>>982
勝手に寿命は60歳くらいとか想定しても意味がない
そもそもが出鱈目なんだから

993 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:57:15.30 .net
>>986
土師氏の墓だと垂仁の時代かもね
纏向宮も垂仁の宮

994 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:57:40.17 .net
>>989
それは論点じゃないよ
纒向遺跡が邪馬台国とは無関係な勢力だった可能性があるんだから
纒向遺跡の年代は邪馬台国論争には関わらない

995 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:59:18.02 .net
>>992
実際にはもっと短いだろうからねw
324年より新しくなることはあっても古くなることは絶対に無い

996 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:59:18.96 .net
>>994
年代測定が間違いだと主張してただろうが

997 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 18:59:21.24 .net
>>950
大和民族は、縄文時代以前から日本列島に住んでいた人々のうち、
弥生時代に大和(奈良盆地の南東部)を本拠地とする人々を中心に形成された
ヤマト王権(大和朝廷)に属する民族の呼称である。
ヤマト王権の勢力拡大に伴い、一地域名であった「大和」が日本を広く指す呼称となり、
民族名ともなった。
ただし、ヤマト王権の成立過程は現段階でも明らかになっておらず、謎も多い。

大和民族の形成当初は九州地方の隼人や、東北地方の蝦夷が異民族とされていた。
しかし彼らは中世以前に大和民族と完全に同化している。
琉球諸島の住民は中世に独自の王朝を築いた歴史を持ち、
日清両属状態を解消して完全に日本に組み込まれたのが明治になってからであるため
今でも文化的異質性が残っている。

998 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 19:00:45.46 .net
邪馬台国と関係あろうがなかろうが年代測定に関係ないから

999 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 19:02:26.96 .net
九州説はない

1000 :日本@名無史さん:2024/04/02(火) 19:03:01.23 .net
九州には邪馬台国はない
九州にあるのは伊都国と奴国

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