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邪馬台国畿内説 Part1009

1 ::2024/04/04(木) 12:08:30.38 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712032230/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

242 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:43:02.40 .net
穀物だよな
粟、キビ、ヒエ
阿波、吉備、日枝
偶然かな
何か意味があるのかな

243 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:43:30.05 .net
倭人在帶方東南大海之中

244 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:45:57.08 .net
>>241
「魏志倭人伝」は、陳寿の渾身の作である。   @阿波

245 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:49:04.22 .net
阿波説はいつものように詰めが甘い

246 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:52:58.22 .net
そろそろ阿波が収監されている施設の消灯時間だな

247 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:55:21.28 .net
>>245
お前は頭が悪い。   @阿波

248 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:09:08.80 .net
>>243
倭は、大海の中で
南は九州、北は沿海州の東。

列島極南の一点である、
会稽東治の東は、倭じゃないよ。

道里の主語は何? 
なんで起点を消したwww

倭は、会稽東治の東から始まって
その北は未知の沿海州の東
って、樺太なんだよ。
倭は会稽の東だから種子島説は無い。

249 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:23:11.90 .net
>>248
漠然としたもんだから
万二千余里も遠いってだけで漠然としたもん

250 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:23:46.75 .net
阿波説にはきちがいが集う

251 :琪瑛教大祭酒:2024/04/04(木) 21:25:00.51 .net
卑弥呼鬼道には三種の物が必要であり鏡、剣、印璽がそれである
そもそも道教における神器とは天下神器であり意味が違う
また八角或いは甕棺に三種の神器の話をするが三種の神器なんて言葉が現れるのはずっと後だわ二種神宝とか三種の宝物でおそらく使い方を知らんな
無駄なんだな、もう

252 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:25:09.04 .net
東南方向の海の向こうに倭人の住む島があるよってだけの話し

253 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:28:08.79 .net
>>251
骨を焼くと書いてんじゃん

254 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:29:20.28 .net
>>249
>万二千余里も遠いってだけで漠然としたもん

漠然としたもんなら、萬余里のはず。   @阿波

255 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:29:32.31 .net
>>251
弥生時代に畿内から三種の神器は出ていない

256 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:33:15.60 .net
佐賀ルートの人たちのゴールはどこ?

257 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:37:25.37 .net
>>249
>万二千余里も遠いってだけで漠然としたもん

漠然としたもんなら、萬余里のはず。  

極端に言うなら、最初っから距離など記載しない。 お前はいつものように頭が悪い。   @阿波

258 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:40:23.41 .net
見えない場所の距離を計測する方法が無い阿波が直線距離を語ると言う愚行

259 :琪瑛教大祭酒:2024/04/04(木) 21:43:09.81 .net
だから三種の神器なんてものの皇位継承の時代ではない
卑弥呼は宗教指導者としての祭祀に必要であったのであろう
大体吾輩の卑弥呼は神仙思想、道教であり太陽信仰とか関係無い
現在伊勢のアマテラスは卑弥呼ではない
朝鮮神宮の主祭神に卑弥呼はおかしい
菊花紋章、光を放つ中心がアマテラスなのであろう

260 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:43:12.18 .net
>>258
お前はいつものように頭が悪い。   @阿波

261 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:47:41.52 .net
倭人在帶方東南大海之中
次に行く人のために記録を残してるんだからとりあえずこの情報は重要

262 :伊太乃に居たの :2024/04/04(木) 21:51:30.86 .net
>>231
牛打ち坊って一体なんぞや?

・・・って思って調べたら、めっちゃ地元の伝承だったので驚きました。
少なくとも自分らの世代では知ってる人も少ないのでは。

祖父母の代までは古い風習が結構残っていたように思いますが、
牛打ち坊の話は一度も聞いた事がありませんでした。

263 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:54:22.27 .net
風土記で菊の話が残っているのは甲斐国風土記逸文だな
甲斐の地は弟橘姫が白い龍に乗り山中湖に消えた地である
堺に祀られている大鳥井瀬大神は弟橘姫という
ひょっとしたら白い龍も含んでいるのかもしれないが

因みに河内の叡福寺には聖徳太子は富士山から甲斐の足が白い黒馬に乗り河内の磯長に降臨した伝承が残っている

「雲上に 菊掘植ゑて 甲斐國 鶴郡を 映してぞ見る」

この歌の注釈として風土記には、甲斐国の鶴郡(つるのこほり)にある菊花山(きくかさん)に流れる水で菊を洗い、その水を飲めば人の寿命は鶴のように長くなる とある。

264 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:01:04.31 .net
関東の海→甲斐の地で白い龍に乗り、応神天皇の時代伊豆の奥野の楠から作られた軽船に乗って戻ってきたんじゃないかなあ
4世記後半くらいかな
和泉黄金塚古墳の時代か

265 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:02:20.67 .net
神大市姫→ウカノミタマ→信太山の葛の葉伝説

266 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:03:16.63 .net
雲の上に菊は掘り植えた!

267 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:05:33.22 .net
雲の上には菊が植えられた
菊は雲と一体になったんだろう
信太山の葛の葉伝説の意味だろうな

268 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:08:16.45 .net
白と黒は一体だ
五色の亀姫が浦嶋子と赴いた常世には白い童と黒い童がいた

269 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:12:41.97 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

270 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:13:53.19 .net
牛打ちは牛内、牛の配下にいた人のことなんじゃないの
ミナトのことをウシヲと読むという意味不明な阿波国風土記逸文の記述に関係しているんじゃないか
牛尾はミナトと関係するなら海人かもな

271 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:15:36.68 .net
>>259
八咫の鏡は平原由来だよ

272 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:16:43.83 .net
根拠の無い事を言う阿波はホラ吹き

273 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:30:27.55 .net
悪い奴らに捨てられた民間伝承のある堅い木のお地蔵さんは弟橘姫だろう
堅い木は樫

樫と菊は一体に
椿が揃えば聖か
大国主が生まれるということかもな
長い長い大国主誕生迄の系譜
系譜の最後はスサノオの姫と結婚だろう
牛石の姫じゃないか?

片岡の聖伝説
親なき聖は誰なのか?

274 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:31:14.28 .net
聖の帝、仁徳天皇陵の主
片岡の聖は誰なのか?

275 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:34:43.47 .net
牛石伝承が残る松原の大塚山古墳、全く同じ時代の全く同じ伝承が残る堺の牛石古墳
父の墓と娘の墓か

276 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:37:11.13 .net
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

277 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:38:05.12 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)

278 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/04(木) 22:40:33.68 .net
ネトウヨは参政党や保守党を支持する糞が多いからな
キモオタは素直に日本共産党、立憲民主党、社民党、れいわ新撰組に投票しておけ

279 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:45:22.71 .net
>>90
アイツらは頭が弱いから、

~と仮定すると計算が合うから存在した、などという循環論法未満の馬鹿馬鹿しい計算のことを証明だと誤認してるんだろ

もちろん、その手法で証明できたものは何一つないわけで、彼らの説明に根拠のひとつも存在しないのは必然といえる

280 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:47:24.21 .net
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

281 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:48:01.59 .net
〜と仮定すると計算が合うからと編年を弄り続けるとオーパーツが出土するようになります

282 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:50:37.47 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水で、自らの権力基盤が根底から崩される驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。また鯨漁の「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。

283 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:54:07.15 .net
仲良し3人組の話だろやっぱり
なにわの軽業師の【寅】吉、高橋の薬=酒使いの医者、高間寺の山伏

284 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/04/04(木) 22:54:52.62 .net
ネトウヨは参政党や保守党といったイロモノを支持するカルトの馬鹿だからな
鳥山明の死因がワクチンとか、こんな連中が学問を口にするのがネトウヨクオリティ

九州説ネトウヨの思想はこんな低脳って事だ

285 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:56:02.72 .net
>>284
チョンコはアタオカ

286 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:56:50.41 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルート(239年親魏倭王)を確保→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争(日向投馬国との同盟締結)に備える

<本州=女王国東渡海千里、複有国皆倭種>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が帯方郡要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告にショックを受け、激しく動揺した32歳の「共立女王」台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、跡継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

287 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:57:23.34 .net
>>284
九州説
弥生時代の絹は福岡、佐賀、長崎からしか出ていない。
邪馬台国は九州にあったのでは?

Q:なぜ絹が出土すると邪馬台国になるの?

A:魏志倭人伝に邪馬台国は養蚕して絹を紡いでるとあるから。

畿内説
纒向遺跡から桃の種が出た。しかもネズミに齧られていない。
邪馬台国は畿内にあったのでは?

Q:なぜネズミに齧られてない桃の種が出ると邪馬台国になるの?

A:・・・・

288 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:59:19.47 .net
鳥山明の死因はちくわらしいぞ

289 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:10:26.70 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(≠帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

290 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:15:02.89 .net
国ってせいぜい江戸時代の藩レベルだろ、畿内と九州が同じ国と考える畿内説はアタオカ。

291 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:41:30.93 .net
記紀の皇孫降臨神話は、下伽耶(駕洛)国の神話とよく似ている
伽耶は製鉄遺跡の多い所である
神武の父の??草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は、上伽耶(ウガヤ)である
神武は彦火火出見命ともいうが、これは製鉄に関連した名前である
神武東遷と倭国大乱(畿内で行われた倭国の覇権争い)は時期的に合致する
卑弥呼に仕えた男王達は葛城地方に根拠を持っていた
この新政権は、既に奴国や瀬戸内に鉄器加工工房を保有し、北九州から瀬戸内海、
畿内への交易路を確保していたので安定した
倭国の国々の首長は鉄器供給を望んでいた
3世紀後半以降の畿内の古墳から鉄器が目立って出土する

292 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:47:20.38 .net
3世紀前〜中期頃までは九州に鉄利権を独占されていた
しかし後葉に入ると近畿が鉄を豊富に手に入れることができるようになっていた

これは非常に重要なターニングポイントが3世紀中頃にあることを示唆している

293 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:51:48.90 .net
>>290
100国だからそうだろうな
でもその江戸時代の藩は日本だろうが

294 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:53:55.25 .net
>>290
黎明期のクニは、後の律令時代の郡のひとつないし数郡合わせた程度の規模だったようだ
江戸時代の藩はもう少し小さいとこが多いのでは

とはいえ、前都道府県の中で最小の座を香川県に譲って2位になった大阪府、そのうち2割ほどの面積しかない小さな河内国ですら、明治の大合併までは19もの郡があったぐらいで、小さいサイズの郡も少なくはない
逆に、わりと広大な長野県とかの郡はけっこう広いとこが多いしな

295 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:53:55.71 .net
戦争があったとかどの時代のどの遺跡の事を言ってるの?
肝心な説明が抜けてる

296 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:00:52.74 .net
>>90
オマエのいってることが正しい理由や証拠が書いてないけど?

297 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:01:25.41 .net
>>101
いつどこでおまえがなにをしてるの?

298 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:03:34.17 .net
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国
これが当時の倭なんだよ

299 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:12:17.49 .net
漢書
楽浪海中に倭人あり、分かれて100余国を為す

後漢書
倭は韓東南大海の中に在り。山島に依り居をなす。およそ百余国ある
武帝が衛氏朝鮮を滅してより使駅を漢に通ずるは三十余国

魏志
倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す
ふるくは百余国(と記録されており)漢の時に朝見する者有り
今使訳通ずる所は三十国

宋書
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國

隋書倭国伝
有軍尼一百二十人猶中国牧宰
クニは120人いる。中国でいう牧宰(国司)のようである

https://i.imgur.com/gu5OJyo.jpg
30国+70国+20国=120国

300 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:19:50.15 .net
百国あったとしてもそのどのくらいが邪馬台国連合かわからないし
そこに九州が含まれるかなんてわかる訳がない
ただ卑弥呼を共立した連合国家があったって事だ

301 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:23:59.20 .net
倭王讃の上表文(冊府元亀)

是年,倭國王倭贊遣使奉表獻方物,
表曰:「封國偏遠 作藩于外 『自昔祖父』
躬擐甲胄 跋涉山川 遑寧處
東征毛人五十五國 西服眾夷六十六國 渡平海北九十五國

東西121国を平定したのはどうやら倭王讃の爺さまのようだ
仮にもし倭王讃を応神とするならその祖父はヤマトタケル

302 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:27:22.92 .net
>>301
それもわからない
過大に書いたかも知れないしいつの時代かもわからない

303 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:29:11.78 .net
東征毛人五十五國に東北が含まれてるかどうかもわからないでしょ?

304 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:29:13.17 .net
東征毛人五十五國に東北が含まれてるかどうかもわからないでしょ?

305 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:31:57.17 .net
オロカな論争はやめるんだ! 邪馬台国は安房!
阿波さんならわかってくれるはず

306 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:32:04.53 .net
ヤマトタケルは空白の4世紀に日本列島を東西に暴れまくった
では3世紀中頃のターニングポイントの時代はだれか?

おそらく崇神の時代、四道将軍を東西に派遣するエピソードがある
崇神の最晩年には加羅や任那あたりから使節が来朝するようになる

倭人は伽耶諸国に鉄を取りに出掛けていたので
伽耶諸国は倭人から情報を得て東の倭種が九州にあった倭国を併合したことを知ったのかもしれない

266年の朝貢を最後に台与の倭国は消息不明になった
それはつまり崇神の時代に、九州が独占していた対馬海峡の制海権と鉄利権を
畿内勢が奪取したということではあるまいか

307 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:38:20.74 .net
倭の五王の時代渡平海北九十五國
それが任那になると半島南部のごく僅か
俺は卑弥呼の時代半島の倭人居住地域はもっとデカかったんじゃないかと思ってるくらい

308 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:41:15.82 .net
>>305
阿波はキチガイ

309 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:43:33.71 .net
卑弥呼が半島の倭人地域をヤマトと思ってたかどうかはわからないよ
でも中国は倭人居住区は倭

310 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:50:22.74 .net
>>308
> 阿波はキチガイ
 
それは知ってる
でも 漢字を勝手に書き変えたり 方角を無理くり読み替えたり 都合の良いとこだけツマミ食いして妄想したりする 九州説や関西説のみなさんもりっぱな既知外ですよ
真実はひとつ! 邪馬台国は安房!

311 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:00:48.75 .net
阿波と関係しているというだけで千葉はキチガイの子孫だと思ってしまう

312 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:09:42.03 .net
>>304
含まないと思う

上毛と下毛の両国か、もう少し広くて上総下総までぐらいではないかな
常陸あたりですら、律令時代になっても郡国支配が進んでないレベルで、征服の最前線だぞ、ましてや。

313 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:10:21.64 .net
>>305
安房は、ひょっとしたら毛人の一派かもしれん

314 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:11:50.13 .net
>>310
真実(マミ)ちゃんは1歳なんやな……

315 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:13:49.63 .net
>>307
雄略と継体が再興後の百済に広大な土地をあげちゃったから

316 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 02:10:24.10 .net
>>307

渡平海北九十五國は、倭の五王最後の王の武の478年上表文
倭人伝では、「舊百餘國 今使譯所通三十國」

317 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 03:09:56.39 .net
邪馬台国は讃岐に決まっとろうが、、、うどん大好き卑弥呼じゃろ

318 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:09:10.25 .net
奈良県御所(ごせ)市の中西遺跡で、弥生時代前期(約二千四百年前)の水田跡が約三千五百平方メートルにわたって見つかり、県立橿原考古学研究所が発表した。これまで確認された分を含めると、一帯には少なくとも四万三千平方メートルの水田が広がっていたことになり、この時期では国内最大。
 水田跡は九平方メートル程度の小さな区画に分かれ、間を幅三十センチ前後の小さなあぜがあみだくじの線のように走る構造。
 緩やかな傾斜のある地形を利用し、水があぜを越えて水田全域に及ぶ仕組みとみられる。
 水田からは十数センチから二十六センチほどの無数の足跡や、ほぼ同時期の洪水の跡も発見。この洪水で、水田全体は土砂に埋もれたとみられるが、その上には数十年後の弥生時代中期とみられる水田跡も確認された。調査を担当した同研究所の岡田憲一指導研究員は「災害後、再び水田の復興を図ったことが分かる」と指摘する。

319 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:19:56.50 .net
弥生時代の筑紫平野の様子を見てみましょう。
中央に筑後川という大河が流れており、その支流群からの水を集めて有明海に注ぎ込んでいます。
有明海は遠浅の海で、弥生時代の沿岸部は湿地帯が広がっていました。河川の堆積によって、毎年5メートルずつ陸地が広がっている地域です。弥生時代の海岸線は、現代の海岸線に比べて、かなり上流域でした。その当時は、吉野ケ里、久留米、八女、山門を結ぶ線上にありました。
 これらの沿岸地域は、密林地帯になる前の湿地帯でしたので、開墾の必要の無い天然の水田適地へと変化して行きました。必然的に他の地域と比べて農業生産高は大きく、強力な勢力が出現する下地があったという事です。
 当時の筑紫平野の面積は、現代の半分程度しかありませんでした。しかし、有明海沿岸だけでも、扇状地が多い玄界灘沿岸よりは、多くの水田適地が存在していました。

一方、有明海沿岸部から少し上流域の平野部は、密林地帯でした。ここは、水田稲作が伝来する前に陸地となってしまった為に、湿地帯から草原地帯、さらには密林地帯へと変貌してしまった地域です。一旦密林地帯となった場所を開墾するのは、至難の業です。重機どころか、牛や馬もいなかった時代です。わずかばかりの鉄器を使ったところで、焼け石に水です。現代でこそ広大な農地が広がっている場所ですが、弥生時代には三日月湖跡地や谷底低地に水田が点在している程度で、多くの人口を賄えるだけの農業生産はありませんでした。

320 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:23:42.04 .net
これらのように、筑紫平野は玄界灘沿岸地域よりも水田適地が多かったのは確かです。
但し、この平野全域が農耕地だったわけではなく、有明海沿岸部と、内陸部に点在していたに過ぎません。巨大国家が誕生するほどの農業規模ではありませんでした。
 これは、弥生時代から1500年後の江戸時代の記録から明らかです。旧国郡別石高帳です。筑前の国は、広大な平野の面積の割には、たったの52万石しかなかったという事実が記されています。

 筑紫平野には、邪馬台国九州説の比定地が幾つもあります。有明海沿岸部の吉野ヶ里、山門、八女、内陸部の甘木・朝倉などです。
 北部九州の中では水田適地が最も多く、強力な古代勢力が存在していた事を窺わせる考古学・文献史学の根拠がありますので、当然の事でしょう。
しかしながら、巨大淡水湖跡という巨大な水田適地を有していた越前や、河内、奈良と比べると、一極集中型の巨大国家が出現できるほどの農業規模ではありませんでした。

321 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:24:27.74 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服しヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

322 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:43:34.65 .net
弥生時代の大規模遺跡だからといって邪馬台国とは限らないのだが
畿内説の人には理解できないらしい

323 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:20:27.10 .net
>>322
大規模遺跡は、矢野遺跡などが密集する鮎喰川下流域。   @阿波

324 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:24:57.93 .net
関門海峡を抜けてから瀬戸内海を進めば舟は東に向かうが、
豊後水道を進めば九州の東岸に沿って大分県の沖から宮崎県の沖を抜け、
鹿児島県沖にある種子島や屋久島に至る
投馬国が仮に鞆の浦であるとすれば、鞆の浦の位置は日南海岸辺りに移動する事になる
博多から難波までの距離は、博多から種子島辺りまでの距離にほぼ該当する
中間に位置する鞆の浦は日南海岸辺りに移動する

魏志倭人伝には倭国は「當在会稽東治之東」とある
会稽は揚子江の川口の辺りから南の地域であり、今の上海や杭州や寧波に近い
会稽の東に在る島といえば種子島や屋久島である
東冶は福州とその周りであるが、福州の東にある島といえば沖縄本島である
陳寿は琉球王国と邪馬台国を混同したのか
?耳と朱崖という、海南島にあった郡の風俗が倭国の風俗の引き合いに出されている
陳寿が思い浮かべた邪馬台国と本当の邪馬台国の位置関係は、
日本列島の地図に照らせば90度ずれたところに移動していた

ここで2つの仮設がある

1. 中国では、皇帝の宮殿は南面する向きに建造される
  だが纏向では宮殿は東(ひむがし)の向きに建てられる
  東に向かって遷都した倭国の使節の解説は曲解され、南に向かって遷都したと誤訳された
  太陽の南中を頂点と感じる中国と、東方日の出を神秘と感じる日本との隔たりである

2. 楽浪郡と帯方郡を奪回した魏の将軍・司馬懿、
  魏の朝廷に東夷の国々の調査報告をした帯方郡大守、
  魏志倭人伝の編者である西晋の史官らが、魏の敵国である呉の東に位置させるため、
  邪馬台国が伊都国の東方にあったにも関わらず、伊都国の南の南に位置付けた

325 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:32:58.82 .net
梯儁や張政が倭人の宗教観に配慮して嘘の方角を報告する意味がわからない

326 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:33:00.70 .net
まあ日本人が中国人を見るたび😳ドロボー❗ドロボー❗ドロボー❗って叫ぶのは変わらんだろうなあ

327 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:35:17.25 .net
>>322
当時の奈良盆地は人口の少ないイナカだったから女王国のはずがない、という考え方を否定することはできる

少なくとも、全国でも有数の人口密集地だった可能性が高まったとはいえる

328 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:43:46.78 .net
>>322
筑前型庄内甕の成立と北部九州型布留甕の成立により、畿内と筑前奴国が極めて密接な関係であったことが明らかであり、
したがって、奴国より大きい投馬国や邪馬台国を九州内に想定することができない

329 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:44:31.17 .net
畿内が女王国として成立したなんて歴史はないが😳

どこか他の場所なんじゃないのか?

330 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:46:46.41 .net
ま、こういうことね

意外とデカイと

https://i.imgur.com/5hHLcqn.jpg

331 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:46:56.25 .net
そもそも男王、女王の分権制を取っていたのが中国の曹魏だろ😳

332 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:48:13.99 .net
>>329
ないって断定する理由は?

333 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:48:35.84 .net
男王として曹操が君臨してたろ

その妻が霊媒みたいな真似をして敵に呪いを仕掛けるみたいなことやってたそっち方面の女王だろ

知らないのか?😳

334 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:49:00.47 .net
>>327
少なくとも、全国でも有数の人口密集地だったのは、矢野遺跡などが密集する鮎喰川下流域。   @阿波

335 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:50:54.11 .net
曹操は鬼道(妻がやってた呪術)に依存していたって話だろボケ😳

日本にも呪いの術はなぜか流行ったからな後年

336 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:50:54.55 .net
>>328
筑前型庄内甕の成立と北部九州型布留甕の成立により、倭人(阿波勢力)の進出が明らかである。   @阿波

337 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:52:50.85 .net
鬼道ってのを生み出したのは確かに女王だ😳

それは間違いない🤪

338 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:00:05.57 .net
>>327
博多〜東京のちょうど中間が新大阪
原始時代から中心という認識はあっただろう

2時間27分 東京(千代田区)〜新大阪(淀川区)
2時間28分 新大阪(淀川区)〜博多(博多区)

339 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:00:14.19 .net
>>328
全然分かってない
大和王権ではなく邪馬台国の話をするなら
魏志倭人伝の記述との整合性が重要なんだよ
大陸との交易が確認できる遺跡や魏志倭人伝に記述がある絹や鉄の矢じり等の出土物、
そういうのが決め手なんだよ
弥生時代には邪馬台国以外に国が存在しなかったならお前の理屈は通るが
実際には邪馬台国以外に国が無かったわけがないし
魏志倭人伝にも邪馬台国以外の倭人の国の存在が記述されてる。

340 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:04:15.45 .net
漢鏡3、4、5期は圧倒的に北部九州で銅鏡が出る
漢鏡6期は絶対数が少ないがこれも北部九州が優勢だ
ところが、漢鏡7期、特に7期−2の画文帯神獣鏡は畿内が急に圧倒し始める。
絶対数も多く、桜井茶臼山は当初1面の予定だったが19面ということになり畿内だけで100面に迫ることとなった。
ただし、九州も21面、中国地方14面、四国12面と九州も比較的多く、また銅鏡をほとんど副葬しなかった四国でも中国鏡の副葬が始まる。
そして、三角縁神獣鏡へと繋がっていく。

内行花文鏡などが中心であった北部九州が、急に画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡(畿内からの下賜品)を副葬し始めることから、この時期に倭国の中心が畿内に移ったことが確実である。
とりわけ、HHKさんが庄内3とする那珂八幡古墳で三角縁神獣鏡が1面だったという残念な結果と、福岡県苅田町石塚山古墳の三角縁神獣鏡8面という副葬からも、伊都国、奴国の衰退が伺える。

341 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:07:21.69 .net
種子島は女王国の南に四千余里の所にある侏儒国な。
距離は露布で沿岸沿いに400〜500km、九州説なら位置と方角と考古学的資料が一致するわね

畿内の南だとパプアニューギニアだっけ?あ、東に方角変えてるから太平洋の大海原か?

342 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:10:45.80 .net
あ、位置ではなく距離か

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