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邪馬台国畿内説 Part1009

1 ::2024/04/04(木) 12:08:30.38 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712032230/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

2 ::2024/04/04(木) 12:09:36.71 .net
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 ::2024/04/04(木) 12:10:02.46 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 ::2024/04/04(木) 12:10:59.98 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 ::2024/04/04(木) 12:11:30.69 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 ::2024/04/04(木) 12:12:00.21 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 ::2024/04/04(木) 12:12:30.07 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 ::2024/04/04(木) 12:13:01.98 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 ::2024/04/04(木) 12:13:31.29 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 ::2024/04/04(木) 12:14:00.11 .net
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 ::2024/04/04(木) 12:15:01.24 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

12 ::2024/04/04(木) 12:15:31.04 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 ::2024/04/04(木) 12:16:00.90 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 ::2024/04/04(木) 12:16:30.12 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 ::2024/04/04(木) 12:18:31.06 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 ::2024/04/04(木) 12:19:00.38 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 ::2024/04/04(木) 12:19:30.92 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 ::2024/04/04(木) 12:20:32.30 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19 ::2024/04/04(木) 12:21:02.23 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20 ::2024/04/04(木) 12:21:32.28 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。

21 ::2024/04/04(木) 12:22:02.74 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22 ::2024/04/04(木) 12:22:33.32 .net
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23 ::2024/04/04(木) 12:23:02.96 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24 ::2024/04/04(木) 12:23:30.41 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25 ::2024/04/04(木) 12:24:01.72 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26 ::2024/04/04(木) 12:24:32.11 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27 ::2024/04/04(木) 12:25:32.15 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

28 ::2024/04/04(木) 12:26:02.07 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29 ::2024/04/04(木) 12:26:31.94 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30 ::2024/04/04(木) 12:27:32.93 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31 ::2024/04/04(木) 12:28:05.42 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

32 ::2024/04/04(木) 12:28:36.44 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

33 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 12:28:42.92 .net
>>1
歴史捏造詐欺さん乙

34 ::2024/04/04(木) 12:29:08.11 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

35 ::2024/04/04(木) 12:29:48.11 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

36 ::2024/04/04(木) 12:30:19.83 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

37 ::2024/04/04(木) 12:30:51.92 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

38 ::2024/04/04(木) 12:31:23.52 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

39 ::2024/04/04(木) 12:31:56.37 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

40 ::2024/04/04(木) 12:32:28.33 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

41 ::2024/04/04(木) 12:33:00.32 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

42 ::2024/04/04(木) 12:33:31.17 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

43 ::2024/04/04(木) 12:34:01.04 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

44 ::2024/04/04(木) 12:34:31.52 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

45 ::2024/04/04(木) 12:35:01.77 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

46 ::2024/04/04(木) 12:35:31.43 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

47 ::2024/04/04(木) 12:36:02.16 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

48 ::2024/04/04(木) 12:36:32.39 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

49 ::2024/04/04(木) 12:37:03.04 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

50 ::2024/04/04(木) 12:37:31.20 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

51 ::2024/04/04(木) 12:38:01.26 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

52 ::2024/04/04(木) 12:38:32.30 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

53 ::2024/04/04(木) 12:39:00.74 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

54 ::2024/04/04(木) 12:39:31.02 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

55 ::2024/04/04(木) 12:40:00.95 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

56 ::2024/04/04(木) 12:40:30.79 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

57 ::2024/04/04(木) 12:41:00.68 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

58 ::2024/04/04(木) 12:41:30.76 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

59 ::2024/04/04(木) 12:42:31.08 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

60 ::2024/04/04(木) 12:43:00.87 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

61 ::2024/04/04(木) 12:43:39.21 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

62 ::2024/04/04(木) 12:44:13.56 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

63 ::2024/04/04(木) 12:44:45.83 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

64 ::2024/04/04(木) 12:45:16.50 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

65 ::2024/04/04(木) 12:45:47.62 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

66 ::2024/04/04(木) 12:46:20.01 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

67 ::2024/04/04(木) 12:46:51.93 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

68 ::2024/04/04(木) 12:47:22.86 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

69 ::2024/04/04(木) 12:47:53.94 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

70 ::2024/04/04(木) 12:48:26.07 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

71 ::2024/04/04(木) 12:49:00.63 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

72 ::2024/04/04(木) 12:49:30.62 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

73 ::2024/04/04(木) 12:50:01.18 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

74 ::2024/04/04(木) 12:50:30.89 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

75 ::2024/04/04(木) 12:51:01.23 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

76 ::2024/04/04(木) 12:51:36.43 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

77 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 13:07:02.73 .net
以上詐欺師の書き込みです

78 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 14:57:49.08 .net
阿波はペテン師。

79 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:05:09.98 .net
中傷しか出来ない人って、悲惨

80 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:10:03.89 .net
他説を中傷したって畿内説が支持されるわけじゃないのにねえ

81 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:13:05.23 .net
(1000±100)-(500±50)=500±50

などというデタラメ計算するのが九州信者(の一部)らの言う「残り1300里」
誤差は、たまたまうまく打ち消しあって消えることもあるが、逆に増強して増えることもあるので、

(1000±100)-(500±50)=500±50√5
(√(100*100+50*50))になる
500±50√5とは、500±111.8ぐらい相当
引き算する前より誤差の値は大きくなる

元の12000里にも誤差が乗ってるのだから、差し引きすると、残りの距離よりも誤差の方が大きくなる
1300±2000ぐらいなイメージで考えろ
誤差というのはそういうものだ

82 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:30:00.90 .net
つまり九州説はしっかり説明されてるよ。
証拠出してるし。

83 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:30:20.96 .net
つまり畿内説は意図的に100年古く編年してきた邪馬台国オレオレ詐欺ですよと

4世紀の墓から5世紀の剣が出たニダ→古墳が5世紀だろ
3世紀の古墳から4世紀の三角が出たニダ→古墳が4世紀だろ
3世紀の箸墓古墳周辺で5世紀の木製輪鐙が4世紀の層から発見されたニダ→古墳が4世紀だろ

頭の悪い学者って言い換えれば犯罪者なんですよ

84 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:31:01.99 .net
畿内説の誤差は誤差と呼べないレベル。

85 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:31:45.04 .net
編年も距離も捏造する畿内説論者

86 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:32:41.90 .net
古田武彦さんが 1971年 に、『三国志東夷伝』(180〜 280年の時代史)か ら魏晋朝で用いら
れた里単位が 1里 ≒ 75mの 短里であったことを導き出し、
谷本茂さんが、1978年 に、『周牌算経』
(100〜 200代 に編纂)か ら、そこで用いられた里単位が 1里 ≒ 76.5mの 短里であったことを導き
出しました。

87 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:36:34.12 .net
>>81
厳密に測れない時代の距離(道里)を、現代でいう誤差で扱ってもしょうがない。
2点の間を、それぞれの数字ぽっきりで扱っていたということさ。
だから足し算も引き算もできる。
ちなみに伊都国ー奴国間は行き止まりの傍線行程だから、萬二千余里には含まれない。

88 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:41:19.85 .net
編年、編年とやかましく云いう割には、
畿内関係は、絶対年代をごっそり100年繰り上げておき、相互に齟齬はみられないという。
手品師だな。

89 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:41:58.56 .net
周髀算経は遣唐使の時代に日本にも伝わった。
北宋の元豊年間には刊本が出され、明以後には多くの叢書に採録され、中国の数学・暦学における古典として重んじられた。
それほどまでにロングセラーな書物であり、それほどまでに採録されていた書物。

つまり、周髀算経の1里である短里75mは存在しました。

90 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:47:40.60 .net
>>89
存在したって理由が書いてないけど?

91 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:49:06.69 .net
>>088
>畿内関係は、絶対年代をごっそり100年繰り上げておき、

繰り上げたって証拠は?

92 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:50:51.88 .net
>>91
詳しいことはこちら
畿内説は位至三公鏡の年代を中国側の記録より100年くらい前倒ししている

http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
> 「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年~316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
> この表のものに、さきにのべた「洛陽晋墓」出土の八面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる十二面の「位至三公鏡」のすべてが、
> 西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。

> ここで、さきに、「わが国出土の『位至三公鏡』」をまとめた前の表を、今一度ご覧いただきたい。
> この前の表(わが国出土「位至三公鏡」)には、「漢鏡」の欄がある。そこに、「6期」とか「7期」とか、記されている。これは、右の岡村氏の規準により、
> 七期の区分の、どれにあたるかを示したものである。
> これによれば、わが国出土の「位至三公鏡」の年代は岡村氏の区分によるとき、つぎのようになっている。
> 「漢鏡6期」に属するもの………………………11例
> 「漢鏡7期」に属するもの…………………………7例
> (うち、「7期」とのみあるもの3例。「7-1期」とあるもの4例)
>
> これは、岡村氏のさきの区分の年代では、「後漢中期」から「後漢後期」までのものとなる。実年代で、「二世紀前半~三世紀はじめ」のものとなる。
> つまり、「卑弥呼遣使前」の年代となる。
> ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の「位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。
> 「西晋」代は、すでにのべたように、「西暦265~316年」であって、「卑弥呼没後」の年代であるからである。

93 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:51:26.38 .net
>>91

> なぜ、そんなことになるのか。
> それは、岡村秀典氏が「景初四年鏡」をふくめ、「三角縁神獣鏡」の年代を、卑弥呼の時代のものと、きめてかかるからである。
> わが国において、(位至三公鏡)の年代は、その出土遺跡や、その遺跡から出土する土器の形式からみて、(岡村氏の鏡の編年によっても、)
> 「三角縁神獣鏡」の年代よりも、古く位置づけなければならない。
> 「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時代のものと設定すれば、「位至三公鏡」を、それ以前の「後漢中期」から「後漢後期」のものと設定せざるをえないのである。
> しかし、「事実」は、「位至三公鏡」は、おもに、西晋時代(265~316)のものである。「三角縁神獣鏡」は、そのあとの、主として、四世紀の、前方後円墳時代、
> 布留式土器の時代のものなのである。
>
> 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。
> 監訳本のほうは、中国に原文がある。岡村氏も、大幅に内容を変更することができないのである。そのために、矛盾が生じている。

94 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:54:43.10 .net
>>91
箸墓古墳の年代推定は、ほかの古墳と同様に土器の編年によります。
当初は、前方部から出土した壺形の土師器が布留式土器であり、
4世紀から5世紀のものだった為に、古墳時代前期~中期の古墳であるとされていました。

ところが1970年頃に、後円部から吉備の国に見られるような特殊器台や特殊壺も見つかったのです。
これは吉備における弥生時代末期の典型土器ですので、箸墓古墳もまた弥生時代末期、つまり3世紀の造成であろう、という推定がなされた訳です
一般に、時代の異なる土器が出土した場合、より新しい土器の年代に合わせて編年が行われます。当たり前ですよね?

古い土器の時代に、未来の新しい土器を埋める事は出来ませんから。
ここで3世紀とした理由は、後円部が3世紀に造成され、後円部は4世紀~5世紀頃に造成された、という曲解でした。これはいけませんね?

 奈良盆地以外でこんな時代推定をしようものなら、考古学の権威たちは、口から泡を吹かんばかりに激怒するでしょう。
「有り得ない」と。箸墓古墳だからこそ許されているのです。

考古学会が近畿中心主義なのは有名な話ですが、さらに何らかの圧力が、時代推定を邪馬台国時代へと曲解させたようですね?

 なお、周辺の古墳からも同じような事例がありますが、こちらは正しい時代推定が行われています。
三角縁神獣鏡の大量出土で有名な黒塚古墳や椿井大塚山古墳などで、しっかり4世紀~5世紀とされています。

95 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:56:25.77 .net
>>80
>他説を中傷したって畿内説が支持されるわけじゃないのにねえ

畿内説が中傷なんてした事ない
間違いや事実を指摘してるだけ

例えば、こういう間違い
>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。
>そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
>しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない

96 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 15:59:16.60 .net
関川が正しいのかなhttps://i.ibb.co/Q94ms47/tmp.jpg

97 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:00:57.81 .net
>>92
> ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の「位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。

べつに矛盾じゃないけど?
岡村年代は鏡の製造された年代
写真集の解説文にあるのは墓の年代

まったく矛盾しないでしょ?

98 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:01:11.81 .net
安本美典に論破されている畿内説

99 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:01:50.06 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

100 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:04:20.86 .net
>>94
>当初は、前方部から出土した壺形の土師器が布留式土器であり、
>4世紀から5世紀のものだった為に、古墳時代前期〜中期の古墳であるとされていました。

そんな発掘されてないけど?
デマじゃないの?

101 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:06:25.50 .net
>>82
>つまり九州説はしっかり説明されてるよ。
>証拠出してるし。

いつ、どこで?

102 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:09:51.08 .net
卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな! 誤りと偽りの「邪馬台国=畿内説」安本美典

103 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:18:36.31 .net
証拠の出せない九州説は負けと運命付けられた

104 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:23:22.80 .net
畿内が倭国だった証拠が何も無い

105 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:23:35.40 .net
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/22/Karako_and_Kagi_201805b.jpg/800px-Karako_and_Kagi_201805b.jpg
吉野ケ里より唐古・鍵遺跡の方がカッケーよね

106 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:26:16.03 .net
>>105
唐古民が吉野ヶ里を見学した際に粘土に楼閣をスケッチして持ち帰り、ミニチュアで再現した物見櫓だぞそれ

107 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:27:07.90 .net
>>105
ナマズのヒゲは東鯷国の証

108 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:32:07.40 .net
>>105

高御座の蕨手と同じ

109 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:33:39.39 .net
邪馬台国の隗は九州説なのに、相手の土俵に上がって大和相撲を取っても不利だよ。
そんなことより、倭人条の文字面を、あるがままに読むことだ。
唐津東南500里は佐賀大和町、その東南100里は佐賀城付近。
唐津の小中学生でも知ってることなんだが・・。

110 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:35:14.23 .net
>>106
https://www.yoshinogari.jp/.assets/kitanaikaku-010-2.jpg
このダサいのを?

111 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:54:26.91 .net
>>109
九州説、捏造だけが人生さ

112 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:56:25.03 .net
畿内を倭国だったと捏造するのが畿内説

113 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:01:54.16 .net
>>94
畿内の古墳からはしばしば時空を超越したオーパーツが出土するので曲解にはあたらない

114 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:02:37.71 .net
居直り詐欺↓

>111:日本@名無史さん:2024/04/04(木) 16:54:26.91
>>>109
>九州説、捏造だけが人生さ

115 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:17:07.33 .net
九州説は自分が言ってることの証拠だせないんだから
捏造なんだろ?

116 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:18:40.31 .net
>>113
>畿内の古墳からはしばしば時空を超越したオーパーツが出土するので

という証拠は?







117 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:19:47.86 .net
>>115
九州説
弥生時代の絹は福岡、佐賀、長崎からしか出ていない。
邪馬台国は九州にあったのでは?

Q:なぜ絹が出土すると邪馬台国になるの?

A:魏志倭人伝に邪馬台国は養蚕して絹を紡いでるとあるから。

畿内説
纒向遺跡から桃の種が出た。しかもネズミに齧られていない。
邪馬台国は畿内にあったのでは?

Q:なぜネズミに齧られてない桃の種が出ると邪馬台国になるの?

A:・・・・

118 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:20:10.78 .net
>>112
>畿内を倭国だったと捏造するのが畿内説

という証拠は?







119 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:21:53.54 .net
>>117
ほら
九州説、捏造だけが人生さ

証拠ありがとう

120 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:27:58.25 .net
>>111
伊都国は佐賀川上、不彌国は吉野ヶ里。その南至る1400里に女王の所都。
卑弥呼の宮殿は、阿蘇高千穂と判った。もう助からんな、
やけのやんパチ畿内説

121 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:30:55.69 .net
>>120
お前も配置だけのやけのやんパチ。   @阿波

122 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:35:28.00 .net
>>118
魏志倭人伝に畿内を連想させるような倭国の描写は記述されていない

123 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:36:16.87 .net
>>116
纒向からは平安時代の遺物が発見されている

124 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:36:39.37 .net
>>122
と言う根拠は?

125 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:39:14.81 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

126 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:40:58.93 .net
>>121
とりあえず、倭国内の配置が分かれば、大成功。
何度捻じ曲げても届かない、下流のどんぶらこー阿波とは、天国と地獄の差・・、

127 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:47:29.95 .net
>>118
畿内が倭国だった証拠は?

128 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:48:20.17 .net
>>126
>阿波とは、天国と地獄の差・・、

遺跡や神社でな。   @阿波

129 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:51:57.83 .net
帯方郡から狗邪韓国が直線なのか行程距離なのかなんかよくわからん
渡海の距離は出鱈目だわな
伊都国奴国不弥国は本当にあったの?って感じだよね
対海国一大国末盧国とは明らかに記述内容が違うから資料が違う
つまり里数が正しいと言えるものは何もない

130 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:53:37.46 .net
>>129
>帯方郡から狗邪韓国が直線なのか行程距離なのかなんかよくわからん

分からんのはアホだから。 直線距離でなければ書く意味がない。   @阿波

131 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:54:55.79 .net
>>127
>畿内が倭国だった証拠は?

同じ弥生文化圏で、当時人の移動や物流の濃密な交流があり
令制倭国を中心とする地域であること

132 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:56:54.68 .net
>>119
詭弁の特徴
資料を示さず自論が支持されていると思わせる
「世界では、犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」
「ほら
九州説、捏造だけが人生さ」

一方九州説

卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135~230年のものと判明 奈良・桜井市

https://www.sankei.com/article/20180514-EA4WCTF4W5P5DGAC6JEKJ5BHYE/

133 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:57:06.06 .net
>>131
まったく、痕跡なし!   @阿波

134 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:57:11.58 .net
糸島なんて墓しかないのにここに王宮があったとか無理有り過ぎ

135 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:58:15.00 .net
>>123
>纒向からは平安時代の遺物が発見されている

証拠は?

136 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:58:58.95 .net
>>134
まぁ、畿内説も同じなんだがな。   @阿波

137 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 17:59:27.80 .net
>>131
倭人伝に書かれている倭種が畿内だよ、畿内は倭国では無い

138 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:00:41.72 .net
>>132
>詭弁の特徴
>資料を示さず自論が支持されていると思わせる

九州説がそうだ、という意味ですか?

139 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:01:35.19 .net
>>137
>倭人伝に書かれている倭種が畿内だよ、畿内は倭国では無い

証拠は?

140 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:03:37.25 .net
>>139

女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種

141 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:06:28.35 .net
>>135
オタクど素人?

142 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:06:30.93 .net
>>140
そんなのそこに行った人が記録しただけでしょ
陳寿が知るわけねえじゃん

143 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:09:03.91 .net
畿内説は倭人伝を否定しないと成立しないが不思議な事に邪馬台国だけは絶対に否定をしない

144 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:10:00.74 .net
>>129
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
乍南乍東とあるから直線距離では無いな

145 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:10:30.96 .net
>>143
だって青銅器入ってきてるから

146 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:11:09.85 .net
>>142
周防灘沿いにある国の官はよく知っているだろうよ

147 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:11:43.49 .net
>>132
卑弥呼共立前か
卑弥呼の都ではない可能性が出てきたな

148 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:14:42.46 .net
>>144
どんな行程もまっすぐ一直線にはいかないよ

149 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:14:55.49 .net
昨日の「非常に詳しい方」→HKKさんとのやり取りはレベルが高かった
HKKさんと同等かそれ以上の方がこのスレッドにこればとても勉強になる

150 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:15:54.98 .net
そりゃあ、卑弥呼とか邪馬台国とかのワードは、マスコミ受けがいいし、世間の注目を集められる。地面を掘るのだって金がかかる。

151 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:16:06.71 .net
>>144
>乍南乍東とあるから直線距離では無いな

乍南乍東しながら測ったわけでない。 却下!   @阿波

152 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:17:49.26 .net
つまり畿内説は国内外の記録文献と一切整合しない作り話でしたと

153 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:18:03.18 .net
>>146
>周防灘沿いにある国

そんなところに、女王国の痕跡はない。   @阿波

154 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:19:01.19 .net
>>146
中国人がよ
中「向こうにも陸地が見えるがあれは?」
日「我々と同じ人種が住んでます」

155 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:22:31.85 .net
アマテラス解体新書を読もう

156 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:22:42.18 .net
畿内には九州から徴税した証拠が無い

157 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:23:17.28 .net
女王国以北は一大率が検察している。
そして一大率は伊都国にいる。

畿内説や阿波説やジャワ島説は、ここを説明できないのが致命的と言える。真正面から答えた人がいないのである。

158 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:24:03.81 .net
>>156
範囲なんてわかんねえよ
全国を統一したとは思ってないから

159 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:26:08.50 .net
>>157
説明できないって証拠は?

160 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:26:41.01 .net
>>157
>女王国以北は一大率が検察している。

女王国(鮎喰川下流域)の以北だから、吉野川流域一帯を検察している。   @阿波

161 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:26:55.63 .net
>>155
1,900円かえしてください。

162 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:27:57.06 .net
阿波はただの田舎っぺ

163 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:28:41.78 .net
>>160
即、答えられるのは「阿波」だけ。   @阿波

164 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:29:15.07 .net
牛馬の無い時代に纏向が北部九州を影響かに置けるわけがない。せいぜい葬送儀礼を共通するのがやっと。
漢委奴国王や倭面土国王と同じく九州北部が独自外交をしていたよ。

165 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:29:21.21 .net
>>157
>真正面から答えた人がいないのである。

いないって証拠は?

166 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:30:26.48 .net
>>164
>牛馬の無い時代に纏向が北部九州を影響かに置けるわけがない。

同じように、九州からの東征・東遷もない!   @阿波

167 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:30:27.77 .net
このスレッドには、それ妄想おじさん、証拠は?おじさん、阿波おじさんが常駐しているのですね

168 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:30:53.97 .net
>>156
ないって証拠は?

169 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:33:28.36 .net
>>167
おじさんが常駐してる証拠は?

170 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:35:21.28 .net
>>167
証拠ださない限り皆が「証拠は?」と聞く
根拠言わない限りある皆から「妄想」と言われ続ける

171 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:36:39.21 .net
>>157
私は畿内説でこの質問には何度も答えている
気が向いたので、また答えよう

まず注意してほしいのは「女王国以北」は複数の国を指すということ
この国々は女王国と帯方郡の間にある国々のこと
倭国の領域外の国々が含まれる
その国々を検察する権限はを女王国にはない
あるのは魏となる
つまり、一大率は魏が任命した官吏ということになる

172 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:37:10.43 .net
確かに畿内説は一大率をどのように処理するんだろ

173 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:37:38.55 .net
ニュース速で貼られていた長野の松原遺跡はかなり興味深い
大規模拠点集落だな
弥生時代中期後葉、その後は著しく規模を縮小して後期後葉までほぼ消える
このピークの時期は摂津の猪名川流域の稲作の集落と同じだな
関東の開拓に乗り出し移住したのか?
或いは戦に負けたのか?
シナノ、シナガの地神奈川、
東国の国作りがどうやって行われたのか興味深い

174 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:38:05.30 .net
前方後円墳のルーツは壺棺

175 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:38:18.53 .net
>>157
邪馬台国がすぐ近くの筑紫平野なら一大率自体が要らなくね
そして投馬国が邪馬台国より北の何処になるんだよ

176 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:40:01.42 .net
一大率はイタルです

177 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:40:09.90 .net
何で先週までネットで閲覧できていた天理大学の鳥形の分類の論文が見れなくなったのか?
偶々なんかな
理由が気になる

178 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:41:35.07 .net
>>171
日本にイチダイリツなんて役職は無いでしょう
そう考えると魏が任命したと言えるんだが別の役職名が付いてた可能性もある

179 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:41:41.82 .net
>>172
処理も何も
大宰率の祖型だというのが多数説

180 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:47:13.77 .net
>>179
なんと読むのかわからんがその言葉に一大率という文字を中國人があてたのか?

181 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:47:48.72 .net
イザナギとイザナミが袂を分つ話はどういう意味があるのか?
黄泉の国に残されたイザナギの唾の速玉男と泉津事解男
伊勢遺跡の運用が始まる時期の話なんだろうか?
1世紀後半から2世紀頃

182 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:54:55.36 .net
属国時代
https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1609754/25742f0d2baf64a5b4b9d04944592d5f_a7c70f6f95845799c77542c83931bcb2.png

183 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:55:49.50 .net
>>179
「率」を倭人が聞き取りしたのがソチだろう
サチヒク、ソツヒコとかに日本語化した

184 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:57:09.43 .net
https://i.imgur.com/suXtLLO.jpg
不弥国から南に水行なんかできない思ってたけどどうやらできそうな話になってきた
土蜘蛛タブラツ姫の墓は蜘蛛塚というがこれは大正時代の命名で別名は大塚、明治よりも以前は女王塚と呼ばれていたそうな

185 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:57:35.97 .net
對馬國 対馬[トウマ] 長崎県 対馬市
一大國 壱岐[イキ] 長崎県 壱岐市
末盧國 松浦[マツラ] 佐賀県 唐津市・菜畑遺跡
伊都國 怡土[イト] 福岡県 糸島市
奴國 儺[ナ] 福岡県 博多市
不彌國 福間[フミ] 福岡県 福津市津屋崎
投馬國 鞆[トマ] 中国地方 広島県福山市・鞆の浦
邪馬壹國 大和[ヤマト] 畿内 奈良県御所市・名柄

斯馬國 志摩[シマ] 三重県 志摩市
己百支國 小脇[コワキ] 三重県 尾鷲市小脇・曽根遺跡
伊邪國 熊野[イヤ] 三重県 熊野市
郡支國 土岐[トキ] 岐阜県 土岐市
彌奴國 美濃[ミノ] 岐阜県 美濃市
好古都國 額田[ヌカタ] 岐阜県 額田国造
不呼國 不破[フワ] 岐阜県 不破郡
姐奴國 立野[ツァノ] 岐阜県 立野郷
對蘇國 土佐[トサ] 高知県 土佐市
蘇奴國 讃岐[サナ] 香川県 さぬき市
呼邑國 和食[ワジキ] 徳島県 和食・辰砂鉱山
華奴蘇奴國 倭奈佐[ワナサ] 徳島県 和奈佐意富曾神社
鬼國 紀[キ] 和歌山県 紀州
爲吾國 恵我[エガ] 大阪府 中河内郡
鬼奴國 木津[キナ] 京都府 木津川市
邪馬國 山[ヤマ] 京都市 中臣遺跡
躬臣國 訓世[クジ] 京都市 訓世郷
巴利國 播[ハリ] 兵庫県 播磨
支惟國 吉[キツ] 岡山県 吉備
烏奴國 穴[アナ] 広島県 吉備穴国造
奴國 沼[ヌ] 広島県 沼田郡

狗奴國 桑名[クナ] 東国 桑名 久努 久能 久野 毛野 鬼怒

186 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:59:16.31 .net
>>184
そこに5万戸と7万戸があるのか?

187 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 18:59:46.40 .net
>>186
倭国にそんな巨大な国は存在しない

188 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:02:13.63 .net
邪馬台国はもう少し南(山鹿)のほうまで広がってたかもしれん
熊本の卑弥弓呼と接していた国だろうか

189 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:04:32.13 .net
>>173
>関東の開拓に乗り出し移住したのか?

大洪水で埋もれたのさ。   @阿波

190 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:04:39.38 .net
>>185
詳しく分からないと書いてる国々の最初の2か国がどうも気になるんだよね
斯馬國…対馬国?
己百支國…イ?シ国…一支国?

191 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:06:20.65 .net
>>185
鞆の浦に5万戸、御所市に7万戸があるのか?

192 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:11:01.72 .net
奈良は7千戸

193 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:14:11.36 .net
HKKさんは、筑前型庄内甕の成立時にはいまだ奴国が畿内邪馬台国より上であるという主張であったという考察が興味深い
また、布留ゼロ以降に畿内邪馬台国が奴国を圧倒し始めるということであった
誰かこれを論理的に説明できる人はいませんか?

194 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:16:48.56 .net
香川の根香寺と青峰山の牛鬼伝説
よい香がする木の伝承もある

讃岐の高松
五色台

牛と青と石、香、根香

何なんだろうな
大国主とスクナヒコナ、だけでなくヤマト政権の始まりにも関係するのか?

牛石はやっぱり青と関係するんじゃないか?
6世紀後半、松原の大塚山古墳は誰の墓だったのか?

ニュース速のスレで誰かがエミシはウラル語で奪う人って意味と書いていたな

195 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:18:39.41 .net
>>185
良い試みだが福間から鞆の浦、鞆の浦から奈良までの間どこにも寄らないのは無理があるな
そして吉備や播磨とか通っておいて不可得詳はないだろう

196 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:19:07.04 .net
松原の地元の人は大塚山古墳のアオ親王の墓だと言い張る
実在した、本当の日の皇子だったんじゃなかろうか?

197 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:21:01.91 .net
アカルヒメは牛飼いが連れていた
明玉を奪った人らがいたのか?

198 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:21:39.08 .net
https://kknews.cc/history/9o4pvv5.amp

https://i.imgur.com/pU3nyqi.jpeg
https://i.imgur.com/ETrorVh.jpeg
https://i.imgur.com/gpBbXFO.jpeg

漢民族王朝 4000年の歴史

漢 O2 漢民族 匈奴の属国
蜀漢 O2 漢民族 魏に滅ぼされる
曹魏 O1 漢民族 モンゴル系に簒奪される
孫呉 O2 漢民族 魏に滅ぼされる
劉宋 O2 漢民族
明 O2 漢民族


不明 新(王氏)、南斉(蕭氏)、梁(蕭氏)、陳(陳氏)

199 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:22:52.12 .net
>>194
大化の改新・大宝律令以前は、「阿波」も「讃岐」も区別なく倭国だ。   @阿波

200 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:23:20.33 .net
しばらく前から崇神天皇について語ってきた 治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されている
つまり卑弥呼・台与の後を継ぐ存在
その後3代にわたり纏向に宮を構えている
台与と崇神天皇の間には別の倭国王がいたのかもしれないが、それらしい王がいないのでポスト台与の存在だったとしておく
記紀には卑弥呼・台与は記されていない その理由を私なりに考えてみたい
卑弥呼・台与は巫女で子供を産まない するとその後代の選定の際にまた乱が起こる可能性がある そういう乱を避けようとしたのかもしれない
その代わりに卑弥呼を皇祖神として祀ることになったのだと思う
垂仁天皇になってから天照大神は伊勢神宮に祀られることになる
崇神天皇紀には倭迹迹日百襲姫命や大物主神が登場する
オールスターキャストという趣だが、この物語の主人公は大物主神なのだろう

201 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:24:22.99 .net
>>195
自女王國以北 其戸數道里可得略載
たしかに↑だから邪馬台国までの道程はなんらかの情報が書いてないと変だな

202 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:26:57.47 .net
当時伊勢神宮なんて無いから

203 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:28:12.63 .net
>>191
山陽地方全域と奈良・大阪北部全域

204 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:30:46.66 .net
>>201
投馬国(朝鮮半島)→邪馬台国(日本列島)だから途中の行程なんて無いんだよ

205 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:30:50.42 .net
>>195
女王以北で列記した国は不可得詳ではないよ

不可得詳なのは東日本の国々(アルプス山脈や箱根より向こう側)

206 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:31:09.02 .net
>>201
であるからして、行程記事の締めくくりに、
「自郡至女王国萬二千余里」と総里数が書かれているのだよ。よって畿内はありえない。

207 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:32:00.68 .net
九州にあった倭国の大倭王の歴史

70-80年男王の時代 → 倭国大乱暦年無主 →
卑弥呼 → 台与 → 266年朝貢途絶 → イツツヒコ(穴門の自称倭王)

垂仁の時代、加羅の王子がやってきて穴門を通るとき自称倭王にであったという
何故、自称倭王が穴門などという場所にいたのか?
畿内勢に降伏した九州倭国から脱出して穴門で暫定政府を開いていたのか?

208 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:32:30.40 .net
>>200
崇神天皇は台与より数世代後だな

209 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:34:55.55 .net
そんな証拠は出てきておらん🤪

210 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:36:41.20 .net
不彌、投馬、邪馬台国は連続してるということだな

211 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:36:44.92 .net
自女王國以北 其戸數道里可得略載
そうだろ、その件だ。
畿内より北に北部九州があるのか、そんなこたーねえわな
よって畿内説はボツ

212 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:38:20.65 .net
今日はいつもの通りレベルが低い

213 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:39:45.78 .net
九州説に擦り寄ってる岡上さん、見てるんですよね?
ここに来て質問に答えて下さいよ

214 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:40:54.31 .net
私の説では崇神天皇以前の天皇に触れていない
記紀には崇神天皇の父祖もすめらみこととしているが、それは神話として付け加えられたのだと思う
疫病を克服し四道将軍を派遣して全国をまとめ戸口を調査して初めて課役を課した
それらはいくら称賛しても足りない功績だと思う

215 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:41:15.30 .net
>>206
>であるからして、行程記事の締めくくりに、

違う!
「自郡至女王国萬二千余里」は、行程記事とはまったく別項目だ。   @阿波

216 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:41:36.22 .net
畿内説はひどい状況だ。
旧石器ねつ造より、一万倍ひどいな

217 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:43:07.73 .net
いなか爺様の阿波も、すっかり耄碌したな、

218 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:44:35.79 .net
阿波が倭国だった証拠が無い

219 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:50:30.90 .net
どうせ直線距離を書くなら、どうしても帯方郡からなのですか?
魏の都洛陽からではなく。

220 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:53:51.44 .net
明日香の地は元々誰の地だったのか?
明玉の日と香じゃないのか?
アスカはアサカと同じだろう
堺の浅香にはよい香りがする木が埋まっているという

亀石を作ったのは石神なんじゃないの?
かしこき神、賢き神
仁賢天皇はオケだ

5世紀明日香の入り口に作られた日本最大の方墳である橿原の地の桝山古墳
明治に前方後円墳に作り替えられた古墳だ
石を以って升を作りオケとなす

大和国風土記逸文
昔、明日香の地に老いた狼がおり、多くの人を食らった。これに土地の民は畏れて大口神(オホクチノカミ)と呼んだ。その住処は大口真神原(おほくちのまかむがはら)という(云々)。これは風土記に見られる。『日本紀』では狼は貴神(かしこきかみ)とされている。

221 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:53:56.84 .net
全く期待できませんが、質問を投げかけてみます。
伊都国、奴国が日本の中心であったことは事実です。
問題はいつ北部九州中心であった倭国の中心が畿内ヤマトに移ったのかです。
HKKさんは、筑前型庄内甕の成立段階ではいまだ奴国が倭国の中心であり、畿内に移ったのは卑弥呼の墓を作った布留ゼロ以降であると言います。

ところが、平原王墓を最後に北部九州では畿内を上回る副葬品が出てきません。
HKKさんは、那珂八幡古墳(庄内3)でもいまだ北部九州が上だと主張します。
ところが、那珂八幡の副葬品は極めて貧弱で、三角縁神獣鏡が1面です。

畿内邪馬台国から三角縁神獣鏡を1面しか配布されない奴国那珂八幡がなぜ畿内邪馬台国より上なのでしょうか?

222 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:58:04.77 .net
>>219
そもそもこれは漢土の外の三流人種である東夷の中の倭人物語なのだから、
東夷の支配を担当している(していた)、
楽浪郡、又は帯方郡から書き始めるのが常道。

223 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:58:50.45 .net
>>219
そもそも直線距離ではない

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

「(帯方)郡から倭に至るには、海岸に従い水上を行く。韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里である。」

參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里

「倭地を考えてみると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、すみずみまで巡って五千余里ほどである。」

224 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 19:59:36.61 .net
楽浪郡と帯方郡を奪回した魏の将軍・司馬懿、

魏の朝廷に東夷の国々の調査報告をした帯方郡大守、

魏志倭人伝の編者である西晋の史官らが、魏の敵国である呉の東に位置させるため、

邪馬台国が伊都国の東方にあったにも関わらず、伊都国の南の南に位置付けた

225 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:01:25.29 .net
>>221
>伊都国、奴国が日本の中心であったことは事実です

ウソです。
そんな痕跡、微塵もない!   @阿波

226 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:03:24.24 .net
>>223
>そもそも直線距離ではない

直線距離でなければ、書く意味がない。  @阿波

227 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:04:20.00 .net
香島の天の大神は卑弥弓呼だろう
卑弥呼と女王国は何なのか?
奪う人か
卑弥呼が闇雲にかき集めた人々の地、纏向遺跡
纏向遺跡から生まれた四道将軍
坂上田村麻呂に征伐された鬼、赤頭四郎将軍は四道将軍の末だろう

228 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:07:38.12 .net
>>221
>ところが、平原王墓を最後に北部九州では畿内を上回る副葬品が出てきません

最近の佐賀川上の七が瀬遺跡の発掘成果を勉強してないな、NHKは勉強してるようだぞ。
そこには、彌生末だが、三種の神器が副葬されていた。
続いて此処からは、まだまだ沢山の驚くべき出土があるだろう。

229 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:08:24.98 .net
香島の天の大神は国津神の守り神だったんじゃないのか?
あべこべの歴史に記紀は作り替えられているんじゃないか?
香は酒に関係する漢字だ、酒は薬、

230 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:09:36.75 .net
>>228
七が瀬は平原より前です。

231 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:14:16.74 .net
徳島は牛の伝承の地だ
牛を殺すことを戒める牛打ち坊の祭りもある
縄文時代の穀物神を容赦なく切り捨て、遠賀川式土器の稲作民に乗り換えたんじゃなかろうか?

ヒョウスベは茄子を好むという
阿波に牛打ち坊という風習がある
牛打ち坊は牛を殺す謎の存在だ
殺された牛には2つ牙の痕がある
牛打ち坊は牛の血を吸い尽くして殺すという
旧暦のお盆に、牛打ち坊を閉じ込める小屋を建て小屋ごと燃やすという祭が行われている
その時に茄子も一緒に焼き、寄付をしなかった家に焼き茄子を投げ込むらしい
焼き茄子を投げ込まれた家の牛は3日以内に死んでしまうという

232 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:14:32.93 .net
>>226
何故?
当時ならむしろ直線距離の記録の方が不要だろう
直線で移動できないんだから
帯方郡から邪馬台国までどれくらい移動しなければならないのか知りたい時に
直線距離の情報は役に立たない
実際にはそれより遥かに長い距離を移動しなければならないから

233 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:18:28.16 .net
万二千余里は直線と言うより凄く遠いんだよってくらいの意味だろう

234 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:23:39.40 .net
>>230
>七が瀬は平原より前です。

読めない男だ。
七が瀬はまだまだ手始め。その北の大願寺地区の大神宮跡が二〜三世紀の本命

235 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:23:57.45 .net
>>231
阿波にいるのは卑弥呼ではなくチュパカブラだったか…

236 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:24:03.21 .net
>>233
「大月氏より遠いよ」と解するべきである

237 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:34:25.89 .net
>>232
>当時ならむしろ直線距離の記録の方が不要だろう

朝鮮距離と方角を示すことで、位置が決まる。 そうでなければ、記載する意味がない。   @阿波

238 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:36:28.89 .net
>>232
>直線で移動できないんだから

当り前。 目指す位置さえ決まれば、そこへ行くルートは多種多様。   @阿波

239 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:37:14.45 .net
>>232
>当時ならむしろ直線距離の記録の方が不要だろう

直線距離と方角を示すことで、位置が決まる。 そうでなければ、記載する意味がない。   @阿波

240 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:37:45.95 .net
阿波説によると見えない場所の距離がわかるらしい

241 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:40:56.35 .net
>>240
不正確ながら、なんらかの方法があったのだろう。  
そうでなければ、距離と方角を書く意味がない。   @阿波

242 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:43:02.40 .net
穀物だよな
粟、キビ、ヒエ
阿波、吉備、日枝
偶然かな
何か意味があるのかな

243 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:43:30.05 .net
倭人在帶方東南大海之中

244 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:45:57.08 .net
>>241
「魏志倭人伝」は、陳寿の渾身の作である。   @阿波

245 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:49:04.22 .net
阿波説はいつものように詰めが甘い

246 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:52:58.22 .net
そろそろ阿波が収監されている施設の消灯時間だな

247 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 20:55:21.28 .net
>>245
お前は頭が悪い。   @阿波

248 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:09:08.80 .net
>>243
倭は、大海の中で
南は九州、北は沿海州の東。

列島極南の一点である、
会稽東治の東は、倭じゃないよ。

道里の主語は何? 
なんで起点を消したwww

倭は、会稽東治の東から始まって
その北は未知の沿海州の東
って、樺太なんだよ。
倭は会稽の東だから種子島説は無い。

249 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:23:11.90 .net
>>248
漠然としたもんだから
万二千余里も遠いってだけで漠然としたもん

250 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:23:46.75 .net
阿波説にはきちがいが集う

251 :琪瑛教大祭酒:2024/04/04(木) 21:25:00.51 .net
卑弥呼鬼道には三種の物が必要であり鏡、剣、印璽がそれである
そもそも道教における神器とは天下神器であり意味が違う
また八角或いは甕棺に三種の神器の話をするが三種の神器なんて言葉が現れるのはずっと後だわ二種神宝とか三種の宝物でおそらく使い方を知らんな
無駄なんだな、もう

252 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:25:09.04 .net
東南方向の海の向こうに倭人の住む島があるよってだけの話し

253 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:28:08.79 .net
>>251
骨を焼くと書いてんじゃん

254 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:29:20.28 .net
>>249
>万二千余里も遠いってだけで漠然としたもん

漠然としたもんなら、萬余里のはず。   @阿波

255 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:29:32.31 .net
>>251
弥生時代に畿内から三種の神器は出ていない

256 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:33:15.60 .net
佐賀ルートの人たちのゴールはどこ?

257 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:37:25.37 .net
>>249
>万二千余里も遠いってだけで漠然としたもん

漠然としたもんなら、萬余里のはず。  

極端に言うなら、最初っから距離など記載しない。 お前はいつものように頭が悪い。   @阿波

258 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:40:23.41 .net
見えない場所の距離を計測する方法が無い阿波が直線距離を語ると言う愚行

259 :琪瑛教大祭酒:2024/04/04(木) 21:43:09.81 .net
だから三種の神器なんてものの皇位継承の時代ではない
卑弥呼は宗教指導者としての祭祀に必要であったのであろう
大体吾輩の卑弥呼は神仙思想、道教であり太陽信仰とか関係無い
現在伊勢のアマテラスは卑弥呼ではない
朝鮮神宮の主祭神に卑弥呼はおかしい
菊花紋章、光を放つ中心がアマテラスなのであろう

260 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:43:12.18 .net
>>258
お前はいつものように頭が悪い。   @阿波

261 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:47:41.52 .net
倭人在帶方東南大海之中
次に行く人のために記録を残してるんだからとりあえずこの情報は重要

262 :伊太乃に居たの :2024/04/04(木) 21:51:30.86 .net
>>231
牛打ち坊って一体なんぞや?

・・・って思って調べたら、めっちゃ地元の伝承だったので驚きました。
少なくとも自分らの世代では知ってる人も少ないのでは。

祖父母の代までは古い風習が結構残っていたように思いますが、
牛打ち坊の話は一度も聞いた事がありませんでした。

263 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 21:54:22.27 .net
風土記で菊の話が残っているのは甲斐国風土記逸文だな
甲斐の地は弟橘姫が白い龍に乗り山中湖に消えた地である
堺に祀られている大鳥井瀬大神は弟橘姫という
ひょっとしたら白い龍も含んでいるのかもしれないが

因みに河内の叡福寺には聖徳太子は富士山から甲斐の足が白い黒馬に乗り河内の磯長に降臨した伝承が残っている

「雲上に 菊掘植ゑて 甲斐國 鶴郡を 映してぞ見る」

この歌の注釈として風土記には、甲斐国の鶴郡(つるのこほり)にある菊花山(きくかさん)に流れる水で菊を洗い、その水を飲めば人の寿命は鶴のように長くなる とある。

264 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:01:04.31 .net
関東の海→甲斐の地で白い龍に乗り、応神天皇の時代伊豆の奥野の楠から作られた軽船に乗って戻ってきたんじゃないかなあ
4世記後半くらいかな
和泉黄金塚古墳の時代か

265 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:02:20.67 .net
神大市姫→ウカノミタマ→信太山の葛の葉伝説

266 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:03:16.63 .net
雲の上に菊は掘り植えた!

267 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:05:33.22 .net
雲の上には菊が植えられた
菊は雲と一体になったんだろう
信太山の葛の葉伝説の意味だろうな

268 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:08:16.45 .net
白と黒は一体だ
五色の亀姫が浦嶋子と赴いた常世には白い童と黒い童がいた

269 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:12:41.97 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

270 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:13:53.19 .net
牛打ちは牛内、牛の配下にいた人のことなんじゃないの
ミナトのことをウシヲと読むという意味不明な阿波国風土記逸文の記述に関係しているんじゃないか
牛尾はミナトと関係するなら海人かもな

271 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:15:36.68 .net
>>259
八咫の鏡は平原由来だよ

272 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:16:43.83 .net
根拠の無い事を言う阿波はホラ吹き

273 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:30:27.55 .net
悪い奴らに捨てられた民間伝承のある堅い木のお地蔵さんは弟橘姫だろう
堅い木は樫

樫と菊は一体に
椿が揃えば聖か
大国主が生まれるということかもな
長い長い大国主誕生迄の系譜
系譜の最後はスサノオの姫と結婚だろう
牛石の姫じゃないか?

片岡の聖伝説
親なき聖は誰なのか?

274 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:31:14.28 .net
聖の帝、仁徳天皇陵の主
片岡の聖は誰なのか?

275 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:34:43.47 .net
牛石伝承が残る松原の大塚山古墳、全く同じ時代の全く同じ伝承が残る堺の牛石古墳
父の墓と娘の墓か

276 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:37:11.13 .net
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900q)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850q)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50q)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50qでピッタリです!
Bそして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

277 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:38:05.12 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足=投馬国⇔邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)

278 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/04(木) 22:40:33.68 .net
ネトウヨは参政党や保守党を支持する糞が多いからな
キモオタは素直に日本共産党、立憲民主党、社民党、れいわ新撰組に投票しておけ

279 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:45:22.71 .net
>>90
アイツらは頭が弱いから、

~と仮定すると計算が合うから存在した、などという循環論法未満の馬鹿馬鹿しい計算のことを証明だと誤認してるんだろ

もちろん、その手法で証明できたものは何一つないわけで、彼らの説明に根拠のひとつも存在しないのは必然といえる

280 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:47:24.21 .net
前方後円墳「有棺石槨」は、邪馬台国「有棺無槨」の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

281 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:48:01.59 .net
〜と仮定すると計算が合うからと編年を弄り続けるとオーパーツが出土するようになります

282 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:50:37.47 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水で、自らの権力基盤が根底から崩される驚天動地の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。また鯨漁の「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。
663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流したのだ。

283 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:54:07.15 .net
仲良し3人組の話だろやっぱり
なにわの軽業師の【寅】吉、高橋の薬=酒使いの医者、高間寺の山伏

284 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/04/04(木) 22:54:52.62 .net
ネトウヨは参政党や保守党といったイロモノを支持するカルトの馬鹿だからな
鳥山明の死因がワクチンとか、こんな連中が学問を口にするのがネトウヨクオリティ

九州説ネトウヨの思想はこんな低脳って事だ

285 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:56:02.72 .net
>>284
チョンコはアタオカ

286 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:56:50.41 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルート(239年親魏倭王)を確保→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争(日向投馬国との同盟締結)に備える

<本州=女王国東渡海千里、複有国皆倭種>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が帯方郡要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告にショックを受け、激しく動揺した32歳の「共立女王」台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、跡継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

287 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:57:23.34 .net
>>284
九州説
弥生時代の絹は福岡、佐賀、長崎からしか出ていない。
邪馬台国は九州にあったのでは?

Q:なぜ絹が出土すると邪馬台国になるの?

A:魏志倭人伝に邪馬台国は養蚕して絹を紡いでるとあるから。

畿内説
纒向遺跡から桃の種が出た。しかもネズミに齧られていない。
邪馬台国は畿内にあったのでは?

Q:なぜネズミに齧られてない桃の種が出ると邪馬台国になるの?

A:・・・・

288 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 22:59:19.47 .net
鳥山明の死因はちくわらしいぞ

289 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:10:26.70 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを掌握→吉備楯築王(≠帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服しヤマト王権(「有棺石槨」ホケノ山)を樹立

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

290 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:15:02.89 .net
国ってせいぜい江戸時代の藩レベルだろ、畿内と九州が同じ国と考える畿内説はアタオカ。

291 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:41:30.93 .net
記紀の皇孫降臨神話は、下伽耶(駕洛)国の神話とよく似ている
伽耶は製鉄遺跡の多い所である
神武の父の??草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は、上伽耶(ウガヤ)である
神武は彦火火出見命ともいうが、これは製鉄に関連した名前である
神武東遷と倭国大乱(畿内で行われた倭国の覇権争い)は時期的に合致する
卑弥呼に仕えた男王達は葛城地方に根拠を持っていた
この新政権は、既に奴国や瀬戸内に鉄器加工工房を保有し、北九州から瀬戸内海、
畿内への交易路を確保していたので安定した
倭国の国々の首長は鉄器供給を望んでいた
3世紀後半以降の畿内の古墳から鉄器が目立って出土する

292 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:47:20.38 .net
3世紀前〜中期頃までは九州に鉄利権を独占されていた
しかし後葉に入ると近畿が鉄を豊富に手に入れることができるようになっていた

これは非常に重要なターニングポイントが3世紀中頃にあることを示唆している

293 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:51:48.90 .net
>>290
100国だからそうだろうな
でもその江戸時代の藩は日本だろうが

294 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:53:55.25 .net
>>290
黎明期のクニは、後の律令時代の郡のひとつないし数郡合わせた程度の規模だったようだ
江戸時代の藩はもう少し小さいとこが多いのでは

とはいえ、前都道府県の中で最小の座を香川県に譲って2位になった大阪府、そのうち2割ほどの面積しかない小さな河内国ですら、明治の大合併までは19もの郡があったぐらいで、小さいサイズの郡も少なくはない
逆に、わりと広大な長野県とかの郡はけっこう広いとこが多いしな

295 :日本@名無史さん:2024/04/04(木) 23:53:55.71 .net
戦争があったとかどの時代のどの遺跡の事を言ってるの?
肝心な説明が抜けてる

296 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:00:52.74 .net
>>90
オマエのいってることが正しい理由や証拠が書いてないけど?

297 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:01:25.41 .net
>>101
いつどこでおまえがなにをしてるの?

298 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:03:34.17 .net
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国
これが当時の倭なんだよ

299 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:12:17.49 .net
漢書
楽浪海中に倭人あり、分かれて100余国を為す

後漢書
倭は韓東南大海の中に在り。山島に依り居をなす。およそ百余国ある
武帝が衛氏朝鮮を滅してより使駅を漢に通ずるは三十余国

魏志
倭人は帯方東南、大海の中に在り。山島に依り国邑を為す
ふるくは百余国(と記録されており)漢の時に朝見する者有り
今使訳通ずる所は三十国

宋書
東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國

隋書倭国伝
有軍尼一百二十人猶中国牧宰
クニは120人いる。中国でいう牧宰(国司)のようである

https://i.imgur.com/gu5OJyo.jpg
30国+70国+20国=120国

300 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:19:50.15 .net
百国あったとしてもそのどのくらいが邪馬台国連合かわからないし
そこに九州が含まれるかなんてわかる訳がない
ただ卑弥呼を共立した連合国家があったって事だ

301 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:23:59.20 .net
倭王讃の上表文(冊府元亀)

是年,倭國王倭贊遣使奉表獻方物,
表曰:「封國偏遠 作藩于外 『自昔祖父』
躬擐甲胄 跋涉山川 遑寧處
東征毛人五十五國 西服眾夷六十六國 渡平海北九十五國

東西121国を平定したのはどうやら倭王讃の爺さまのようだ
仮にもし倭王讃を応神とするならその祖父はヤマトタケル

302 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:27:22.92 .net
>>301
それもわからない
過大に書いたかも知れないしいつの時代かもわからない

303 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:29:11.78 .net
東征毛人五十五國に東北が含まれてるかどうかもわからないでしょ?

304 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:29:13.17 .net
東征毛人五十五國に東北が含まれてるかどうかもわからないでしょ?

305 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:31:57.17 .net
オロカな論争はやめるんだ! 邪馬台国は安房!
阿波さんならわかってくれるはず

306 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:32:04.53 .net
ヤマトタケルは空白の4世紀に日本列島を東西に暴れまくった
では3世紀中頃のターニングポイントの時代はだれか?

おそらく崇神の時代、四道将軍を東西に派遣するエピソードがある
崇神の最晩年には加羅や任那あたりから使節が来朝するようになる

倭人は伽耶諸国に鉄を取りに出掛けていたので
伽耶諸国は倭人から情報を得て東の倭種が九州にあった倭国を併合したことを知ったのかもしれない

266年の朝貢を最後に台与の倭国は消息不明になった
それはつまり崇神の時代に、九州が独占していた対馬海峡の制海権と鉄利権を
畿内勢が奪取したということではあるまいか

307 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:38:20.74 .net
倭の五王の時代渡平海北九十五國
それが任那になると半島南部のごく僅か
俺は卑弥呼の時代半島の倭人居住地域はもっとデカかったんじゃないかと思ってるくらい

308 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:41:15.82 .net
>>305
阿波はキチガイ

309 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:43:33.71 .net
卑弥呼が半島の倭人地域をヤマトと思ってたかどうかはわからないよ
でも中国は倭人居住区は倭

310 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 00:50:22.74 .net
>>308
> 阿波はキチガイ
 
それは知ってる
でも 漢字を勝手に書き変えたり 方角を無理くり読み替えたり 都合の良いとこだけツマミ食いして妄想したりする 九州説や関西説のみなさんもりっぱな既知外ですよ
真実はひとつ! 邪馬台国は安房!

311 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:00:48.75 .net
阿波と関係しているというだけで千葉はキチガイの子孫だと思ってしまう

312 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:09:42.03 .net
>>304
含まないと思う

上毛と下毛の両国か、もう少し広くて上総下総までぐらいではないかな
常陸あたりですら、律令時代になっても郡国支配が進んでないレベルで、征服の最前線だぞ、ましてや。

313 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:10:21.64 .net
>>305
安房は、ひょっとしたら毛人の一派かもしれん

314 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:11:50.13 .net
>>310
真実(マミ)ちゃんは1歳なんやな……

315 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 01:13:49.63 .net
>>307
雄略と継体が再興後の百済に広大な土地をあげちゃったから

316 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 02:10:24.10 .net
>>307

渡平海北九十五國は、倭の五王最後の王の武の478年上表文
倭人伝では、「舊百餘國 今使譯所通三十國」

317 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 03:09:56.39 .net
邪馬台国は讃岐に決まっとろうが、、、うどん大好き卑弥呼じゃろ

318 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:09:10.25 .net
奈良県御所(ごせ)市の中西遺跡で、弥生時代前期(約二千四百年前)の水田跡が約三千五百平方メートルにわたって見つかり、県立橿原考古学研究所が発表した。これまで確認された分を含めると、一帯には少なくとも四万三千平方メートルの水田が広がっていたことになり、この時期では国内最大。
 水田跡は九平方メートル程度の小さな区画に分かれ、間を幅三十センチ前後の小さなあぜがあみだくじの線のように走る構造。
 緩やかな傾斜のある地形を利用し、水があぜを越えて水田全域に及ぶ仕組みとみられる。
 水田からは十数センチから二十六センチほどの無数の足跡や、ほぼ同時期の洪水の跡も発見。この洪水で、水田全体は土砂に埋もれたとみられるが、その上には数十年後の弥生時代中期とみられる水田跡も確認された。調査を担当した同研究所の岡田憲一指導研究員は「災害後、再び水田の復興を図ったことが分かる」と指摘する。

319 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:19:56.50 .net
弥生時代の筑紫平野の様子を見てみましょう。
中央に筑後川という大河が流れており、その支流群からの水を集めて有明海に注ぎ込んでいます。
有明海は遠浅の海で、弥生時代の沿岸部は湿地帯が広がっていました。河川の堆積によって、毎年5メートルずつ陸地が広がっている地域です。弥生時代の海岸線は、現代の海岸線に比べて、かなり上流域でした。その当時は、吉野ケ里、久留米、八女、山門を結ぶ線上にありました。
 これらの沿岸地域は、密林地帯になる前の湿地帯でしたので、開墾の必要の無い天然の水田適地へと変化して行きました。必然的に他の地域と比べて農業生産高は大きく、強力な勢力が出現する下地があったという事です。
 当時の筑紫平野の面積は、現代の半分程度しかありませんでした。しかし、有明海沿岸だけでも、扇状地が多い玄界灘沿岸よりは、多くの水田適地が存在していました。

一方、有明海沿岸部から少し上流域の平野部は、密林地帯でした。ここは、水田稲作が伝来する前に陸地となってしまった為に、湿地帯から草原地帯、さらには密林地帯へと変貌してしまった地域です。一旦密林地帯となった場所を開墾するのは、至難の業です。重機どころか、牛や馬もいなかった時代です。わずかばかりの鉄器を使ったところで、焼け石に水です。現代でこそ広大な農地が広がっている場所ですが、弥生時代には三日月湖跡地や谷底低地に水田が点在している程度で、多くの人口を賄えるだけの農業生産はありませんでした。

320 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:23:42.04 .net
これらのように、筑紫平野は玄界灘沿岸地域よりも水田適地が多かったのは確かです。
但し、この平野全域が農耕地だったわけではなく、有明海沿岸部と、内陸部に点在していたに過ぎません。巨大国家が誕生するほどの農業規模ではありませんでした。
 これは、弥生時代から1500年後の江戸時代の記録から明らかです。旧国郡別石高帳です。筑前の国は、広大な平野の面積の割には、たったの52万石しかなかったという事実が記されています。

 筑紫平野には、邪馬台国九州説の比定地が幾つもあります。有明海沿岸部の吉野ヶ里、山門、八女、内陸部の甘木・朝倉などです。
 北部九州の中では水田適地が最も多く、強力な古代勢力が存在していた事を窺わせる考古学・文献史学の根拠がありますので、当然の事でしょう。
しかしながら、巨大淡水湖跡という巨大な水田適地を有していた越前や、河内、奈良と比べると、一極集中型の巨大国家が出現できるほどの農業規模ではありませんでした。

321 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:24:27.74 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服しヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

322 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 06:43:34.65 .net
弥生時代の大規模遺跡だからといって邪馬台国とは限らないのだが
畿内説の人には理解できないらしい

323 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:20:27.10 .net
>>322
大規模遺跡は、矢野遺跡などが密集する鮎喰川下流域。   @阿波

324 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:24:57.93 .net
関門海峡を抜けてから瀬戸内海を進めば舟は東に向かうが、
豊後水道を進めば九州の東岸に沿って大分県の沖から宮崎県の沖を抜け、
鹿児島県沖にある種子島や屋久島に至る
投馬国が仮に鞆の浦であるとすれば、鞆の浦の位置は日南海岸辺りに移動する事になる
博多から難波までの距離は、博多から種子島辺りまでの距離にほぼ該当する
中間に位置する鞆の浦は日南海岸辺りに移動する

魏志倭人伝には倭国は「當在会稽東治之東」とある
会稽は揚子江の川口の辺りから南の地域であり、今の上海や杭州や寧波に近い
会稽の東に在る島といえば種子島や屋久島である
東冶は福州とその周りであるが、福州の東にある島といえば沖縄本島である
陳寿は琉球王国と邪馬台国を混同したのか
?耳と朱崖という、海南島にあった郡の風俗が倭国の風俗の引き合いに出されている
陳寿が思い浮かべた邪馬台国と本当の邪馬台国の位置関係は、
日本列島の地図に照らせば90度ずれたところに移動していた

ここで2つの仮設がある

1. 中国では、皇帝の宮殿は南面する向きに建造される
  だが纏向では宮殿は東(ひむがし)の向きに建てられる
  東に向かって遷都した倭国の使節の解説は曲解され、南に向かって遷都したと誤訳された
  太陽の南中を頂点と感じる中国と、東方日の出を神秘と感じる日本との隔たりである

2. 楽浪郡と帯方郡を奪回した魏の将軍・司馬懿、
  魏の朝廷に東夷の国々の調査報告をした帯方郡大守、
  魏志倭人伝の編者である西晋の史官らが、魏の敵国である呉の東に位置させるため、
  邪馬台国が伊都国の東方にあったにも関わらず、伊都国の南の南に位置付けた

325 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:32:58.82 .net
梯儁や張政が倭人の宗教観に配慮して嘘の方角を報告する意味がわからない

326 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:33:00.70 .net
まあ日本人が中国人を見るたび😳ドロボー❗ドロボー❗ドロボー❗って叫ぶのは変わらんだろうなあ

327 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:35:17.25 .net
>>322
当時の奈良盆地は人口の少ないイナカだったから女王国のはずがない、という考え方を否定することはできる

少なくとも、全国でも有数の人口密集地だった可能性が高まったとはいえる

328 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:43:46.78 .net
>>322
筑前型庄内甕の成立と北部九州型布留甕の成立により、畿内と筑前奴国が極めて密接な関係であったことが明らかであり、
したがって、奴国より大きい投馬国や邪馬台国を九州内に想定することができない

329 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:44:31.17 .net
畿内が女王国として成立したなんて歴史はないが😳

どこか他の場所なんじゃないのか?

330 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:46:46.41 .net
ま、こういうことね

意外とデカイと

https://i.imgur.com/5hHLcqn.jpg

331 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:46:56.25 .net
そもそも男王、女王の分権制を取っていたのが中国の曹魏だろ😳

332 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:48:13.99 .net
>>329
ないって断定する理由は?

333 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:48:35.84 .net
男王として曹操が君臨してたろ

その妻が霊媒みたいな真似をして敵に呪いを仕掛けるみたいなことやってたそっち方面の女王だろ

知らないのか?😳

334 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:49:00.47 .net
>>327
少なくとも、全国でも有数の人口密集地だったのは、矢野遺跡などが密集する鮎喰川下流域。   @阿波

335 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:50:54.11 .net
曹操は鬼道(妻がやってた呪術)に依存していたって話だろボケ😳

日本にも呪いの術はなぜか流行ったからな後年

336 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:50:54.55 .net
>>328
筑前型庄内甕の成立と北部九州型布留甕の成立により、倭人(阿波勢力)の進出が明らかである。   @阿波

337 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 07:52:50.85 .net
鬼道ってのを生み出したのは確かに女王だ😳

それは間違いない🤪

338 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:00:05.57 .net
>>327
博多〜東京のちょうど中間が新大阪
原始時代から中心という認識はあっただろう

2時間27分 東京(千代田区)〜新大阪(淀川区)
2時間28分 新大阪(淀川区)〜博多(博多区)

339 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:00:14.19 .net
>>328
全然分かってない
大和王権ではなく邪馬台国の話をするなら
魏志倭人伝の記述との整合性が重要なんだよ
大陸との交易が確認できる遺跡や魏志倭人伝に記述がある絹や鉄の矢じり等の出土物、
そういうのが決め手なんだよ
弥生時代には邪馬台国以外に国が存在しなかったならお前の理屈は通るが
実際には邪馬台国以外に国が無かったわけがないし
魏志倭人伝にも邪馬台国以外の倭人の国の存在が記述されてる。

340 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:04:15.45 .net
漢鏡3、4、5期は圧倒的に北部九州で銅鏡が出る
漢鏡6期は絶対数が少ないがこれも北部九州が優勢だ
ところが、漢鏡7期、特に7期−2の画文帯神獣鏡は畿内が急に圧倒し始める。
絶対数も多く、桜井茶臼山は当初1面の予定だったが19面ということになり畿内だけで100面に迫ることとなった。
ただし、九州も21面、中国地方14面、四国12面と九州も比較的多く、また銅鏡をほとんど副葬しなかった四国でも中国鏡の副葬が始まる。
そして、三角縁神獣鏡へと繋がっていく。

内行花文鏡などが中心であった北部九州が、急に画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡(畿内からの下賜品)を副葬し始めることから、この時期に倭国の中心が畿内に移ったことが確実である。
とりわけ、HHKさんが庄内3とする那珂八幡古墳で三角縁神獣鏡が1面だったという残念な結果と、福岡県苅田町石塚山古墳の三角縁神獣鏡8面という副葬からも、伊都国、奴国の衰退が伺える。

341 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:07:21.69 .net
種子島は女王国の南に四千余里の所にある侏儒国な。
距離は露布で沿岸沿いに400〜500km、九州説なら位置と方角と考古学的資料が一致するわね

畿内の南だとパプアニューギニアだっけ?あ、東に方角変えてるから太平洋の大海原か?

342 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:10:45.80 .net
あ、位置ではなく距離か

343 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:11:06.41 .net
>>321
案外、倭(日本)を代表することわざ「寄らば大樹」「長い物には巻かれろ」は、女王台与の言葉(遺言)由来かもしれんなw

344 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:14:15.77 .net
甕文化圏の考え方に従うなら九州の鏡部族が畿内を政治的支配下に入れたんちゃうか?

345 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:17:33.26 .net
>>321
かつての家臣・司馬晋に禅譲した曹魏に倣って、出雲吉備連合「」王権に禅譲した筑紫邪馬台国(倭)女王の(日本らしい)言葉

「寄らば大樹」「長い物には巻かれよ」

346 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:18:24.19 .net
>>321
かつての家臣・司馬晋に禅譲した曹魏に倣って、出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した筑紫邪馬台国(倭)女王の(日本らしい)言葉

「寄らば大樹」「長い物には巻かれよ」

347 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:19:23.37 .net
あぁ、そっか
畿内説の人は大和王権と邪馬台国をごっちゃにして考えてるのか
だから九州説の主張が理解できない

348 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:19:28.64 .net
>>344
三種の神器からしてもそうなるよな

349 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:20:12.74 .net
魏は女王国(てめえの妻の実家かもな)と手を組んでいたってことか

350 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:22:10.00 .net
あくまて記録はてめえらから見た記録を残すからな🤔なるほど

351 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:24:57.49 .net
>>347
>畿内説の人は大和王権と邪馬台国をごっちゃにして考えてるのか

時代も名称も一致するから当然同じと考える

>だから九州説の主張が理解できない

そりゃ理由もなきゃ合理性もない主張は理解できない

352 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:26:23.77 .net
畿内説はオレオレ詐欺

353 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:26:59.95 .net
>>339
一応卑弥呼の時代近畿で絹や鉄の矢じりも出土してるんだけどね
年代測定が出鱈目と言われると話しにならんけど

354 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:28:48.06 .net
>>276
>>277
魏志倭人伝の記述に完全一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してない畿内説は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作洗脳作文が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。まさに「ヤマトよ永遠に」w

「古代。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統)」w

355 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:29:13.77 .net
>>347
邪馬台=ヤマトで継続してると考える

356 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:30:06.11 .net
曹魏の特徴

男王(夫)が軍事や政治などを取り仕切り

女王(妻)が宗教に関することを取り仕切る

357 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:30:46.20 .net
355
早く死ね😳

358 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:31:44.79 .net
>>355
つまり畿内説は味噌も〇〇も一緒くたw
>>281

359 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:34:51.47 .net
>>358
凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
紀元前108年までヤマトで遡れるはず

360 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:36:51.54 .net
前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

361 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:40:51.22 .net
九州説とは
方位が一貫してズレてても修正しないノダ
不弥国・投馬国は比定できないノダ
5万戸・7万戸は盛ってるはずなノダ
水行十日・陸行一月は嘘なノダ
クナ国はクマなノダ
そもそも何も出土しない(古代筑紫平野は海と干潟)

362 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:42:20.64 .net
>>322
倭人伝の地理条件を無視するからには、規模とかなにかの中心であることを根拠にするしかないからね

363 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:46:55.91 .net
奈良の中西遺跡や滋賀の服部遺跡は2500年前の水田跡で広大なのよ

364 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:56:42.59 .net
>>361
そうやって自分に自分で言い聞かせて現実逃避しないと耐えられないんだね、可哀想な畿内説…

365 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 08:57:00.93 .net
女王国なんて国名はない
日本語で○○国の王と言える名前があったはず
それがヤマト

366 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:02:54.91 .net
>>360
>国号「背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです

なるほど、実に興味深い

367 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:03:06.31 .net
中国語の倭に相当する日本語の名前

368 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/05(金) 09:05:43.07 .net
中国語の倭は矮小の矮と音通
東夷の中の蛮人だな

そもそも東夷とは厳密には韓半島に住む民族のこと
孔子が東夷は礼儀の国と言っていたほど民度の高い人たち
朝鮮というのも朝日が昇る鮮やかな土地、即ち東という意味を含んでいる

369 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:07:56.76 .net
早「朝」の新「鮮」な清々しい空気

370 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:08:54.31 .net
>>368
何であろうがそれに相当する日本語があるはず
ジャパンであろうが日本語ではニッポンだ

371 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:09:56.28 .net
368
中国史で出てくるのは違うよ
そもそもあそこに人が住んでいたんか?って思われていたよ
後から拡大して東夷に含まれるようになっただけさ

372 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:12:10.78 .net
原野商法で盗賊を生業としていたのが匈奴だしな

373 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:13:38.40 .net
俺は盗賊やめるわ🤩

今日から皇帝な〜❗みたいなもんよな

元は盗賊団に所属していたよ〜なのが中国人になったり

374 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:14:30.28 .net
匈奴の北に居たのが遊牧民と呼ばれる異民族

375 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:15:29.93 .net
漢の皇帝に何処の国の王かも言えないなんてあり得ない
女王国なんて無いんだから

376 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:15:30.68 .net
つまり畿内説は人間社会を知らないアタオカ

377 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:20:41.16 .net
邪馬台国(女王国)って中国のやつらが言ってるんだから中華皇帝の妻でも出していた時代もあったんだろうさ😄

鬼道(怨霊道)創始者が卑弥呼かなるほど🤔

378 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:22:09.13 .net
始皇帝も鬼道に頼るとかって記載もあるからな

呪いの類の宗教を取り仕切っていた皇帝の妻を宗主と崇める集団が鬼道集団

379 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:22:16.01 .net
>>377
邪馬台国は日本語に中国の文字をあてたんだから違う

380 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:25:59.31 .net
倭国や女王国は中国人が勝手にそう呼んでただけだ
でも邪馬台国は違う

381 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:48:55.89 .net
初めは倭奴国と書かれてたからワノ国と名乗ったのでは
その後ノは助詞だと知られて倭国と書かれるようになったと

382 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 09:57:47.83 .net
>>381
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也
倭の極南界に倭奴国があるんだよ
当時の倭は半島も含めた倭人の居住地域
その極南界だから日本の事だ

383 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:04:22.83 .net
>>377
「卑弥呼」の鬼道は、「阿波」の麻。   @阿波

384 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:05:45.16 .net
極南界だと南の端っこみたいに思えるけど当時の中国にそんな知識がある訳無い
単純に北(朝鮮半島)と南(日本列島)に分けてるだけだ

385 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:09:16.84 .net
>>382
>倭の極南界に倭奴国があるんだよ ・・意味不明、
>その極南界だから日本の事だ ・・意味不明

博多辺りの筑前小国の倭奴国が倭の南限だったなら、
筑紫・肥前肥後・豊国以南の広大な地域を支配できていない弱小国ということ。金印などもらえません。

386 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:14:28.76 .net
朝鮮投馬国は九州説の恥部

387 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:15:23.75 .net
>>384
漢の武帝が半島を滅ぼして以来、
東夷人(半島以南の夷人)支配のため設けられた楽浪郡のことを勉強してほしいね。
楽浪土器は日本各地から出てる。

388 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:16:46.46 .net
>>351
名前が同じというのは単なる推測だよ
推測を事実であるかのように仮定して更にその上に推測を積み重ねるのは
学問ではなくて単なる妄想

389 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:17:53.62 .net
巫女王(中華皇帝の妻)卑弥呼のイメージがいつの間にか日本にも定着してその信仰みたいのがほぼ女性ら中心に生まれたけどそんなもんの痕跡は日本にはねえよ

390 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:17:58.68 .net
>>353
それは嘘だね
少なくとも絹は出てないし鉄の矢じりは数が少ない

391 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:19:13.70 .net
>>355
その可能性があるのは否定しないが
それが事実であるという前提で考えるのは学問ではなくて妄想や宗教

392 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:19:49.79 .net
>>362
無視するなよw

393 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:20:51.44 .net
387
なるほどそ〜くるわけか
もともとの漢の領域を見てみなよ
西側に偏っているからな
東側の旧六国地帯ではやがて反乱が多くなっていくからな🤔

394 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:23:36.26 .net
邪馬台ってのをヤマトと呼んだのは勘違いから始まったものだと思ってる😳

日本でも勘違いしたままスタートしちまったわけさ
その勘違いがそのまま常識化した

395 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:24:05.99 .net
そもそも大和と邪馬台国が同一かどうかは邪馬台国の場所の比定には関係ない

396 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:29:45.93 .net
>>382
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

ごく南界はそれとして、その後に 光武賜以印綬 とある。
倭奴国王は中華皇帝のパシリになったわけだが、威張って言える話ではないぞ。

397 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:30:46.91 .net
>>390
絹は桜井茶臼山から出てる
鉄山は、ホケノ山だけで60以上
椿井大塚山で200以上
メスリ山で212

398 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:32:25.26 .net
中国でも巫女王に就任したのは妲己だったり楊貴妃だったり武皇后だったり

399 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:35:48.72 .net
>>390
九州って、ほとんど絹が出てないよな

400 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:38:19.21 .net
>>397
全部、倭人(阿波勢力)のもの。   @阿波

401 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:39:36.22 .net
>>397
畿内では作れない。   @阿波

402 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:39:56.97 .net
畿内から続々とオーパーツが出てくることを踏まえると
鉄や絹も実は時空を越えたオーパーツだったりするかもしれんな

403 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:40:00.69 .net
>>393
>楽浪郡は、漢朝 によって設置され、紀元前108年 から西暦 313年 まで存在した 朝鮮半島の郡 である。

楽浪郡は400年以上も続いた東夷支配の安定拠点で、
三世紀にはいると帯方郡も加わって、半島〜倭の統治を強化・拡大した。
その自慢話が東夷伝の漢伝・倭人伝さ。

404 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:43:01.48 .net
>>355
それが成り立つとすれば古代の支那人が邪をyaと発音していないと話にならんが
ちなみに現代中国語では邪はxie

405 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:45:26.65 .net
>>397
❌鉄山
⭕鉄鏃

406 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:48:16.76 .net
紡織器具は静岡からも出土してるな

407 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:50:37.52 .net
>>397
卑弥呼の時代より後の古墳から絹が出てきた

つまり東征は卑弥呼以降か

408 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:51:25.69 .net
>>397
茶臼山古墳三世紀末じゃねぇかw
頭大丈夫?
九州は紀元前から絹作ってんぞwww

409 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:56:41.11 .net
>>399
頭大丈夫?

733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

410 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 10:57:20.20 .net
>>397
畿内説は、日本神話の手法を真似て、何でもかんでも100年繰り上げるからな。
ま、繰り上げないと、東遷の前になってくれないという、やむに已まれぬ台所事情あり、、、

411 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:00:43.46 .net
正直、畿内説を本気で信じてる人は馬鹿だと思ってる
学者は単に金(畿内説の方が予算取れる、というか上に逆らうと干されるから)で畿内説やってるんだとは思うが
そのビジネス畿内説を鵜呑みにしてる一般人は馬鹿

412 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:04:47.76 .net
ビジネスか🤔

やがては逮捕されるだけだけどな

413 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:07:00.18 .net
邪馬台国=反乱国って扱いでよいかな?

そんな感じになってきてるからさ

間違えても皇祖扱いなんかされねえぞ

414 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:09:21.83 .net
>>413
そういう考察と邪馬台国の場所がどこにあったかは別の議論かと

415 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:26:22.50 .net
邪馬台国という想像上の国は実在しない。頭の中に存在するだけ。

416 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:29:40.77 .net
>>415
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。  わははははは   @阿波

417 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:30:38.39 .net
>>416
ならば何処にあった?

418 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:32:06.59 .net
>>390
https://www.sankei.com/article/20230628-TGGSSXTA5RIIXJWA2XSHPIXNBU/

419 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:33:10.92 .net
>>413
普通に土蜘蛛でしょう
ここを無かったことにしようとするから無理を重ねることになる

420 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:35:04.31 .net
>>417
「阿波」の吉野川流域一帯。   @阿波

421 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:37:21.43 .net
>>409
https://nihonnsi.c.blog.ss-blog.jp/blog/_images/blog/_af5/nihonnsi/4430054.jpg
神戸、香川出土の銅鐸に紡織器具が描かれている

422 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:39:10.95 .net
>>395
大いに関係ある
邪馬台国は紀元前108年にはないといけない
つまり継続してるであろう遺跡がないと
たとえ場所が変わったとしても建物がね

423 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:39:12.07 .net
>>421
「糸玉」 徳島市南蔵本遺跡   令和4年 7月5日(火) 徳島新聞朝刊
「弥生時代の遺跡から初出土」
徳島市の県立中央病院ER棟の建設に伴って行われた南蔵本遺跡の調査では、
全国5例目となる弥生時代前期の畑が発見され、注目を集めた。
その畑の下層からは弥生時代初頭(約2600年前)の生活の跡も確認された。
人工的な穴から「糸玉」という珍しい遺物が見つかった。
弥生時代の遺跡から出土したのは初めてだ。
縄文時代の遺跡を見ると、北海道から関西までのエリアで十数例出土している。
糸玉は、麻の茎から採った繊維をより合わせ、水銀朱を混ぜた漆をかけて糸を作り、
30本ほど束ねて結んでいる。小さな毛糸玉のような形だ。
また、人々の墓も見つかった。
石棺墓はひときわ目を引く。
楕円形の穴(長さ2.2m、幅1.4m)を掘り、4辺に結晶片岩を立てて棺にしている。
長い側面は、結晶片岩を3枚使っている。
墓の中に副葬品はないが、被葬者の頭胸部に水銀朱を振りかけた痕跡があった。
石棺や水銀朱の使用は、弥生時代に朝鮮半島から北部九州に伝わった葬法で、
驚いたことに縄文土器の突帯文土器が石材の隙間を補うため置かれていた。
時代の流れは、歴史年表のように線を真っすぐには引けない。
伝統的文化と新興的な文化は交じり合いながら新しい生活スタイルを生み出す。
今回、縄文時代から弥生時代へ、時代が移りゆく姿を明らかにできた。
(県埋葬文化財センター主任研究員 西本和哉)   @阿波

424 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:40:39.63 .net
>>420
なぜそう言えるのか?
あんたの石で出来た頭の中にあるだけだろう。

425 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:41:53.80 .net
>>424
特異な集落遺跡がいっぱい在るから。   @阿波

426 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:42:28.22 .net
>>396
当たり前だ
日本の王が中国の皇帝の目前でひざまづいたなんて記紀に書けるか!

427 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:44:18.95 .net
倭国大乱は奴国の製鉄王神武と卑弥呼の政略結婚にて収まった
これが神武東遷

428 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:45:32.64 .net
>>425
あんたの個人的な邪馬台国だろう。
日本人全員と同じ邪馬台国でないと妄想と言われる、

429 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:46:14.68 .net
>>411
そのビジネス畿内説というか、フトコロ事情畿内説は、
何でもかんでも100年繰り上げてきた。
旧石器ねつ造や、献金キックバックより、1万倍もひどい

430 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:46:17.18 .net
>>418
纒向遺跡と同時代だと遅いんだよ
奴国は紀元前から大陸と交易し、西暦57年には金印貰うレベルの国だった
んで倭国大乱が起きて卑弥呼が共立される
つまり弥生時代の末期じゃ遅い

https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg

431 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:48:38.96 .net
>>394
山に囲まれた台地
つまり奈良盆地

432 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:48:58.30 .net
>>430
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/iffb4769c22bc10da/version/1535966336/%E9%89%84%E5%99%A8%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB.jpg
鉄が重要なら邪馬台国は山陰か北陸だな

433 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:49:10.80 .net
>>430
なんで遅いのよ?
また年代測定が出鱈目だってか?

434 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:50:14.31 .net
>>430
なにが遅いの?

435 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:50:43.72 .net
>>422
それは完全に違う
『邪馬台国』というのは魏志倭人伝に書かれていた『邪馬台国』であって
日本書紀や古事記の記述は無視しなければならない
何故なら日本書紀や古事記は魏志倭人伝の300年以上後に書かれていて
日本書紀や古事記自体が魏志倭人伝を読んだ上で書かれているから
後だしの文献は先行文献と辻褄を合わせる為に改編出来る

436 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:54:47.46 .net
>>407
絹はすぐに副葬しない

437 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:55:15.12 .net
>>421
それが紡織器具の図だ
と主張する学者がいるが紡織器具の図だと証明されたわけではない
その銅鐸がいつの時代のものでどういう経緯でそこにあったのかも分かっていない

438 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:55:24.93 .net
ホケノの棺外から出たお供え物らしき小枝は、C14 で4世紀だった。
それを「後世の木槨崩落で外から混じり込んだもの」、とかなんとかありえないことを言ってスリ抜けた。
それで世間が納得したと思ってると、大きなまちがいなんですよ。

439 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:55:39.94 .net
>>428
初心者よ、これを見て「阿波」とはどういう所かをよく勉強するがよい。

特異集落遺跡群は、嘘を言わない。   @阿波
「阿波」の北方 「邪馬臺国」(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)
・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸~芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原~大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡
・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域・園瀬川流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・下中筋遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・南庄遺跡・庄蔵本遺跡・南蔵本遺跡   @阿波

440 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:57:20.39 .net
>>438
正に旧石器捏造事件の再来
遺跡をより古く見せたい、古く遺跡だと思いたい願望に合わせて
証拠を取捨選択してるな

441 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:58:19.69 .net
>>437
>それが紡織器具の図だ

「阿波」から、土製紡錘車・石製紡錘車がよく出ている。   @阿波

442 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 11:58:36.16 .net
畿内の古墳からはオーパーツが出るという認識が足りない

443 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:00:30.67 .net
垣内古墳、天神山古墳からも絹が出ている

纒向では、纒向石塚、東田大塚、纒向矢塚、纒向勝山、箸墓(卑弥呼の古墳)ですら、まだ開けてない

発掘すれば絹も鉄器も銅鏡も何でも出てくる

444 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:01:09.58 .net
>>442
オーパーツの出所は、もちろん「阿波」。   @阿波

445 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:03:41.66 .net
>>443
>発掘すれば絹も鉄器も銅鏡も何でも出てくる

全部、倭人(阿波勢力)のもの。   @阿波

446 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:12:12.15 .net
阿波には国宝が無い

447 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:14:36.66 .net
>>435
そうだと思ってるよ
記紀には嘘を書く理由がある
属国の歴史は消したいからな
中国の歴史書の倭人伝に嘘を書く理由がない

448 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:17:21.11 .net
https://www.sankei.com/article/20230628-TGGSSXTA5RIIXJWA2XSHPIXNBU/
ここに絹が出てると言ってるんだが年代が出鱈目だと言われたら話しにならん

449 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:34:38.65 .net
女王の葬式が執り行われたのならかなり大規模にやってるだろ

どこでやったのや?

450 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:36:43.66 .net
中華皇帝の妻やった人物で中国においても巫女王として君臨したような人物のことやからの

まあ要するに武則天とか楊貴妃とかあのレベル

451 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:40:17.45 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

452 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:40:24.92 .net
畿内古墳から絹がでても
250年以降なら倭人伝に矛盾しない。
というか九州絹なら
BC200~でも輸入出来る。

453 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:51:49.13 .net
>>340
漢との通交があったのは倭国乱よりまえやからなあ
漢末に倭国乱が起きて九州の勢力は退場したと考えてもなにも矛盾しなくないか

454 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:52:32.83 .net
ごめ、レスの後半すら読んでなかったわ

455 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:54:12.89 .net
>>343
室町時代には将軍のことを大樹と呼んでたらしいのだが、その言葉となにか関係あるんだろうかね?

456 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:54:12.89 .net
>>451
クマソは球磨阿蘇じゃないっすよ

クマソwiki
肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於郡(現鹿児島県霧島市周辺。)に居住した部族とされる[4]。また5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。
また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。

457 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:55:35.45 .net
邪馬台は大和だよ。こんなの常識だよね。
邪馬壹、邪馬臺、邪馬嘉、邪馬惟
これ全部ヤマト側のトの発音が聴き取れない中国人のミス。

458 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:55:47.28 .net
>>358
畿内説には味噌もくそも両方が存在するが、九州説は味噌もなく、全てクソだからな

459 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 12:58:50.40 .net
>>453
前漢時代から通交があったのは、鉄器王国「阿波」内で鉄器を自前で自由に製作していた国々やからなあ。   @阿波

460 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:01:33.67 .net
>>457
>邪馬台は大和だよ。こんなの常識だよね。

邪馬台は倭(阿波)だよ。こんなの常識だよね。   @阿波

461 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:02:53.05 .net
邪馬ってのが共通する枕言葉やの🤔

それら書いたのみんな別々のやつらなんやろ

462 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:04:42.24 .net
へ〜秦氏のルーツってそんなもんだったわけか🤔

463 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:06:33.21 .net
あ〜分かった

日本てより辰韓に関係ある話だわこれ

秦氏ってのがもとは辰韓の王族なんだろ

464 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:08:36.45 .net
新羅ってのは辰韓における家臣みたいのが立てたか別の部族のやつらの王朝だからよ

465 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:14:29.43 .net
>>463
百済建国者・温祚の兄貴の沸流(フル)が三韓の辰王(振・震=フル)になって、日本に来て天皇になった
日本を乗っ取ってから、秦氏を半島に迎えに行った話が神功皇后の三韓征伐になった
フルは日本では布留・布都・経津などと表記

466 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:26:03.73 .net
>>457
邪馬臺 240年魏使が作った女王国仮称

邪馬壹 倭人伝での転字
邪馬嘉 廣志での転字

邪馬惟 今、唐代の注で奈良を見た後

臺は、曹操の高楼を意味する。
表意文字で和音国名では無い。
壹、嘉 は形を転じた代用文字

467 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:34:55.93 .net
465
なるわけないだろ
天皇の起源は武王だからよ

元は辰韓の王家の血を引いてたとか言われていた子孫の女性とその部下だった武将との間にできたのが応神天皇みたいに言われてるのによ

だから男系が縄文系となったんだろ

468 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:36:32.08 .net
百済の王が日本の天皇家になっただのそれどこの情報だよ?

応神天皇は母親の方の関係で辰韓における支配権を持っていたから辰韓を支配したんだろ

469 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:37:42.95 .net
後漢書の邪馬惟、注と字が違った?

後漢書の時は
版本以前の原文が有ったので
邪馬臺国に戻っている。

470 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:37:56.46 .net
>>438
>ホケノの棺外から出たお供え物らしき小枝は、C14 で4世紀だった。

それは炭素年代を理解できない人の妄言で、ちゃんと270年代の天井崩落時点を示す値が出ている
むろんお供えの小枝などではない

>それを「後世の木槨崩落で外から混じり込んだもの」、とかなんとかありえないことを言ってスリ抜けた。

罵っても反論にならない

471 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:38:32.37 .net
>>466
邪馬臺の臺で倭のような国家を指すと思わなかったんじゃないかと
王宮のある場所だと中国人は勘違いした

472 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:43:31.63 .net
>>270年代の天井崩落時点

天上崩落時点はどのようにして分かったのか、或は決定したのか??

473 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:48:45.59 .net
耶馬渓はなんで(日本語としては絶対に当てるはずのない)邪馬台国の邪馬が使われているのか?

つまりそれが答えだw

474 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:48:52.35 .net
>>465
韓伝だと、
辰韓には独自の王は無く
馬韓に居て治めた。

と、謎だが、
この王が倭人の国司なら解決する。

これが、
日本の聖帝による
百済建国370年以前の半島情勢。

475 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:50:08.66 .net
継体天皇のときに切り替わったろ🤔

これで半島支配のための大義名分がなくなったとも言われとる

その後からだ

半島におった連中らも次々と新羅側に寝返るのが続出したの

最後は大伴金村が任那四県割譲したのをキッカケとして崩壊した

古墳時代における武将などは圧倒的に縄文系が日本国内においても占めてるのだ

476 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:54:34.92 .net
473
文字を知る手段が中国を頼りにするしかなかったんだろ

477 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:54:44.15 .net
>>473
漢字を音で当てたのは、
万葉仮名の始まりだけどね。

倭人伝の倭名の当て字も
和音を聞いた人によって字が違う。

478 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:55:09.81 .net
そんなの後からつけられる
実際文字が入ってきてからつけたんだから

479 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:56:02.94 .net
耶麻って書いたのどこだっけ?

中国史の文献を頼りにするってもそれを書いた中国内の人々が全部バラバラだからよ

480 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:56:11.21 .net
>>473
試行錯誤の万葉仮名でもないしなw 

つまりそういうことw

481 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 13:58:28.72 .net
やっぱね半島は徐々に南に追い詰められて倭人は領土を失ったんだろ?
卑弥呼の時代はもっと広大だったかもね

482 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:00:14.03 .net
耶馬渓はなんで(万葉仮名でもなく、日本語としては絶対に当てるはずのない)魏志倭人伝にしか登場しない邪馬台国の「邪馬」が使われているのか?

つまりそれが答えだw

483 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:00:45.42 .net
>>473
耶馬渓は、江戸時代に頼山陽?が当てたものと記憶している

484 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:01:06.87 .net
馬韓の王から選んだ❗ってことか?

通説では元は高句麗と同族だったのがやって来て百済王になっただの言われとるけどな

最初は百済の方から倭の支配地に乗り込んできてフルボッコされて降伏してるんだけどよ

485 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:02:47.07 .net
>>482
隋書俀國伝では「邪靡堆」だしなw

九州説の諸君、おめでとう!諸君に乾杯(完敗)だよ デスラー

486 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:08:11.67 .net
>>481
卑弥呼の時は狗邪韓国だけだよ。
九州は西岸から、製品輸入。

釜山方面は、日本海ルート国。
青銅は、原料輸入。

漢四郡との戦史はない。
記紀は無理w

487 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:10:34.43 .net
>>486
でも倭の五王の時は渡平海北九十五国だし

488 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:12:48.38 .net
戦ったとかじゃなくて倭人が勝手に半島に住んでただけだろうけど
それが徐々に南に追い詰められた追い出された

489 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:14:43.79 .net
そもそも中国側が半島も倭と言ってるだけで日本側の認識はわからんのよね

490 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:17:25.60 .net
>>482
19世紀に作られた地名を邪馬台国の理由にしようとする
決して学ばない人たち
それが九州説

491 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:18:53.16 .net
>>484
百済王は漢四郡が滅びて
350年高句麗王が幽州刺史楽浪候に就任
日本の後援で370年高句麗を押し返し
朝貢で建国。
この間で、日本に馬が来た。

百済王は日本に馬の輸送を教えた
高句麗の分家臭いが、
百済王は扶余を名乗る。
同じだけどね。

492 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:22:29.04 .net
>>485

日田で出土した曹操鉄鏡といい、人間がいかに開きメクラかってことが良くわかるなw

493 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:35:11.84 .net
>>451
コピペと無駄な改行はやめろ

そして狗奴国はクノ国とは読まない
卑狗がヒコ、卑奴がヒナなのだからコナ国だ
コナが付く地名を探すんだな

494 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:38:42.30 .net
新羅から来ただの言われたらキレ出す人らもそりゃおるだろ

新羅に土地を奪われたが正解なんだからよ

ま〜よ〜するに現地人らがみんな裏切っちゃったんだけどね

495 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:38:55.68 .net
>>409
その論文が書かれた頃は、邪馬台国の年代は弥生時代後期に相当すると考えられていた
今は古墳時代初期と考えられている

その違いだけで、論文の著者の憶測である邪馬台国は九州との部分の論拠は消え去っている

496 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:41:42.07 .net
>>493
匈奴、クド国だな

497 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:42:00.90 .net
>>487
倭の五王は400年で渡平海北九十五国は
卑弥呼以降だけど313年までは漢四郡が居る。
これ以前が九州平定で、300年位から半島進出。
渡平海北九十五国、370年百済、新羅建国。

百済王は、七支刀を贈って、世子王子を聖帝に委ねた。
同時に中国が属国教化で百済に送った博士が渡来。
高句麗王が幽州刺史楽浪候になった意味を知り
高句麗交戦権、半島利権交渉を始めたのが
倭の五王

498 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:42:12.12 .net
日鮮同祖だの唱えてたのも日本の学者らだろ

それで併合だのしよ〜としたわけだ

これはぶち殺されて当たり前だわ

499 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:46:42.96 .net
つまり畿内説は何年経っても頭の悪い詐欺師のまんま

500 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:47:20.83 .net
>>497
進出とかじゃなく武の上表文は勝ちとったみたいにええかっこ言ってるけど元々倭人が住んでただけだろ

501 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:54:02.18 .net
>>495
これやっぱ年代ズラしてんなw

502 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 14:55:05.34 .net
高句麗との交戦は奪いに行ったんじゃなく元々平和に暮らしてたのに追い出されそうになっただけだろ
勿論日本から援軍を出したのは半島利権を護る目的だけど

503 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:00:03.98 .net
>>448
年代はいいとして、3世紀中頃が古墳時代初頭って言われるのってやっぱ違和感あるなぁ
そして奈良より琵琶湖南側の方が栄えてた印象もある

504 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:00:31.71 .net
>>501
このように
根も葉もない中傷だけなのが九州説(死亡済み)

505 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:03:03.09 .net
>>500
301 倭王讃の上表文(冊府元亀)
是年,倭國王倭贊遣使奉表獻方物,
表曰:「封國偏遠 作藩于外 『自昔祖父』
躬擐甲胄 跋涉山川 遑寧處
東征毛人五十五國 西服眾夷六十六國 渡平海北九十五國

これ、ほとんどが言うほど武力侵攻じゃなくて
友好や豪族間の婚姻や調略でヤマト朝廷って言うのは、
都に姫や王子の宮を作って、権力を構築していく手法だよ。 
天下布武は信長までない。
だから、百済王子も日本で養育して王妃が日本王族だった。
戦国藩ほど戦わなくても、講和が主目的。

506 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:06:20.95 .net
>>503
どうでもいいわ
弥生時代はいつからよ?

507 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:09:27.84 .net
>>495
つまり古墳時代前期と書かれてるものは3世紀後葉のことだろう
鉄の出土量が九州と畿内で逆転するタイミングと同じか

508 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:12:28.68 .net
>>505
平安時代とか鎌倉時代とかそんな事やってたのか?

509 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:17:25.45 .net
>>505
甲冑跋渉の意味は?

510 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:18:54.41 .net
はっきり区切らないと納得しないのな
縄文人と弥生人の顔に違いなんか無いわ
それより縄文初期と縄文後期の方がよっぽど違うだろうよ

511 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:18:57.81 .net
>>301
(冊府元亀)の上表文、初めて見た。ありがとう。

『自昔祖父』って、讃の祖父は応神だけど
この文によって、応神がヤマト朝廷の租で良いかもな?
300〜350応神、350〜400仁徳、400〜倭の五王
480雄略、〜誰か? で503継体。

応神もアヤシイとは思ってたけど
神功皇后より前に遡るのは無理すぎると思うんだ。

512 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:21:01.39 .net
>>458
いっそ全部がクソだったら、間違って食ってしまう心配なんてないので、潔いとさえいえる

なまじ、味噌も混じってるからこそ混乱してしまう、始末におえない

という考え方もある

瓦礫しか存在してなくて宝玉など存在しないとこと、玉石混淆のとこと、どちらがマシか。

瓦礫なんて捨てちまうわな

513 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:23:20.04 .net
510
縄文人オリジナルと言われてる人らに近いアイヌ人らは白人と黒人の中間みたいな顔立ちだったとよ

514 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:23:30.82 .net
>>511
景行・成務(ヤマトタケル)時代に東55国、西66国を平定
仲哀・神功時代に海を渡って北に95国平定
そして応神の時代に

515 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:24:15.11 .net
ロシアの探検隊のやつらが言ってるからな

どちらの特徴も持っておる

まだ未分化だったわけやな

516 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:25:30.67 .net
>>513
僅か1000年で顔が変わるか
縄文時代は10000年だぞ

517 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:27:38.18 .net
>>514
年代はいつ頃?
紀元前ですか?

518 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:32:00.66 .net
不思議だよね

519 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:38:06.49 .net
>>503
感情だけでものを言っても意味がない

520 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:40:05.17 .net
>>512
九州説に味噌はないから大丈夫

521 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:40:07.42 .net
つまり畿内説は意図的に古墳を100年古く編年してきた邪馬台国オレオレ詐欺でしたと

4世紀の墓から5世紀の剣が出たニダ→古墳が5世紀だろ
3世紀の古墳から4世紀の三角が出たニダ→古墳が4世紀だろ
3世紀の箸墓古墳周辺で5世紀の木製輪鐙が4世紀の層から発見されたニダ→古墳が4世紀だろ

522 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 15:43:20.42 .net
>>509
まあ、侵攻は無くは無いんだけど
国が荘園領主の纏まり程度で
お互いが奪い合いの戦争を続けないための領主。

戦争も総力戦じゃなくて、
縄張り争いの延長戦上かと。
四道将軍とか、何人規模で行ったのかね?
馬が無いのに?

面と線で仕切る国じゃなくて点を集めた国。
やくざの親分、日本統一というかw

523 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:02:54.89 .net
>>522
国があって王が居るなら、王を倒せば倒した者の国になる。

524 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:04:50.07 .net
523
ならないよ
日本の戦国時代あたりの話だの重ねて考えても無駄だからよ

525 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:05:56.78 .net
>>504
実際には、年代測定法の技術的進歩によって数値の確実度を高めたら推定値が変化したってのが実態で、意図的にずらしたわけではないんだけど、敵の論拠を誹謗中傷して潰さないと自説が消えてしまうという存亡の危機の前で、なりふり構わなくなってんだよね

526 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:08:24.69 .net
武王の上表文には、「昔から祖先はみずから甲冑を身につけ…」と訳する人もいる

527 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:11:27.23 .net
>>524
国があるなら王なり、それに相当する人物がいる

528 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:14:20.07 .net
そこにいる人間らを皆殺しにでもするんだな

そおすりゃその地はその王のものとやらになるだろ

中国みたいなことも日本では起こらんからよ

529 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:16:50.71 .net
赤の他人を王だの認めるとかって話なわけだろ
 
認めない絶対に

それでこんなやつらに随えるか❗ってんで住民残らずみんな消えてるんだからよ

530 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:17:54.24 .net
バカの妄想取るに足りず

中国内ですら実際には土地を捨てて移動だのあたりまえだったのだ

531 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:20:12.15 .net
すごいもんだろw

何十万人て人間らが移動するんだからな

大陸の方が大規模だ

532 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:21:41.39 .net
>>517
モモソはいつ頃なの?

533 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:24:02.86 .net
>>532
知らん

534 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:36:57.61 .net
モンゴルも漢人派閥を利用した間接統治だからよ

モンゴル軍がそのまま攻め込んでも皆殺しにされて終わりだ

535 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 16:48:17.27 .net
日本が台湾を統治したってときも警察官らを派遣しただけ
政治には口出ししとらん
日本が満州に進出して欲しかったのは向こうに鉄道を作ってその利権みたいなもの
鉄道の運転手とか廃業した武士らの転職先だったんだよね

536 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:02:15.05 .net
漢以来の皇帝にはなれなくなったがおそろしい劉将軍とかいたからなあ

連中らが実質的に中国の軍隊だの指揮ってたのさ

その連中らを味方につけられたら皇帝にもなれたみたいにかわってきたからな

537 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:03:06.60 .net
だから国名は変わったけど中身はそんなにかわってなかったんだよ

538 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:04:37.15 .net
異国人「コレカラハ コノクニハ ワタシノクニデス」
先住民「ワカリマシタ」

539 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:09:28.22 .net
>>535
それが可能なのは専門の軍隊が居たからでしょう
遊牧民が定住するんだから住民は追い出される

540 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:11:16.71 .net
司馬懿
司馬壹恣
邪馬壹国
分かるかい?
陳寿のメッセージ

541 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:16:16.83 .net
九州の卑弥呼が景行に
八咫鏡と剣と勾玉差し出したんだけど

応神が在位313年〜350年で実在した
とすると246年は誰?
景行で良いのか?

542 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:18:21.56 .net
銅鏡2、3枚9ださい。
239年卑弥呼魏に使いを送る。

543 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:22:53.45 .net
400 応神、倭王讃の時代
350 仲哀、神功
300 景行、成務、ヤマトタケル(倭王讃の祖父)
250 崇神、垂仁、四道将軍、266年朝貢途絶(倭国滅亡)

544 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:23:18.71 .net
>>541
「神」の字が入ってる初代神武から15代応神までは同一人物や
神武で軍事、崇神で宗教、応神で外交事業を体現してる
神道や道教で、数字の15は完璧を意味するからそうしてある
それで欠史八代とかの、内容スカスカの天皇が設置してある

545 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:23:57.27 .net
あ〜なるほど

546 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:27:43.22 .net
軍隊もいなかったわけかい?

しんじられないなわ

547 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:28:03.76 .net
武力抗争が現実的になるのは源平からで
平安時代までは、諸国豪族が集まって都作って
王子や姫の結婚とかで勢力広げてただけだぞ?

物部、蘇我、藤原でも
皇室の本流は確定してない。

半島進出を実現したのが応神313年でも
高句麗戦が必要な馬の移入は313年以降だと思うぞ。

548 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:28:09.14 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

549 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:30:35.94 .net
547
いや飛鳥奈良時代から戦争だらけだよ

記録を残すかは知らないけどさ

桓武天皇以外の皇族とかみんな戦争で死んだんだぞ

550 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:31:51.76 .net
それで嫌って平安を願うってのが平安京都だぞ

551 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:33:07.77 .net
>>522
古事記の四道将軍の記事の前に「驛使はゆまづかひを」派遣してオオタタネコを探させた逸話がある
駅使はwikipediaに「古代に駅馬に乗用することが許された公的な使者」とある
すでにこの時点で馬が用いられていたのだろう

552 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:36:42.57 .net
平安時代だって戦争はあったさ

荘園作りなんかが本格化してきたからそっちにせいを出す連中らが増えたけどよ

京都中心のことしか書いてないから地方の記録だの抜けてるんだろ

天皇の軍隊だの言われた物部氏は朝廷とは反目して清和天皇の時代に講和が成立するまで朝廷を離れていたしよ

553 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:36:53.71 .net
九州の倭国には牛馬が居なかったが東の倭種には馬がいたのか

554 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:40:21.34 .net
あ?🐴なんざ連絡するのに使われたくらいだろ

使者として早🐴が出るときくらいだろ

行軍は山の尾根を利用するか船だからよ

555 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:41:55.76 .net
どおも騎馬民族みたいな戦争のやり方のくせが抜けないみたいね😄

556 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:42:35.95 .net
いざ鎌倉って普段百姓やってる人たちが何かあったら直ぐ駆けつける意味だと思ってた

557 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:51:47.79 .net
>>544
アタシもそう思う。
財力出雲−軍事尾張の勢力競合で
神話が2回繰り返して、畿内奈良纏向。

有り得ない三韓征伐が出来た。
応神以前の実在可能性って何?
子の仁徳はどっかの古墳が証拠だが
アタシは370年の七支刀だと思う。

700年に持ち主の有った古墳は
全て記紀作成皇室の焚書で、盗掘されている。

八咫鏡は、見て無いけどw 平原鏡なら
古墳出品じゃない? と思うけど?
徳ちゃんに調査してくれるか、聞いてみるか?

七支刀は仁徳陵
人物画像鏡は継体陵
に、有った。

558 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 17:53:38.44 .net
ドロボーだらけやな

559 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 18:01:34.14 .net
はず? が、抜けたw

祖先の墓に財宝を埋める というのは
馬鹿だろ?

王墓を作れない豪族に
後継王は作れない。

これが、古墳時代。

560 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 18:01:40.66 .net
松傾は捕まりましたかな?捕まりましたかな?

561 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 18:10:27.73 .net
松傾=スクリプトじゃ無いのか?
まあ、ここでは、画像と阿波、テンプレ
は、NGなんだが?

最近キュウリを、見て無い。

562 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 18:15:31.79 .net
老婆がなんちゃら、葱の花がなんちゃら、傾いた松がなんちゃら

563 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 18:16:00.41 .net
あとカッパもな

564 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 18:21:20.60 .net
スクリプトは松傾の進化系か?
もう、逮捕されてると思うぞ?
報復戦が、スクリプトか?

565 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 18:37:29.92 .net
懐かしいね。

倭人伝は、坊主○判りの、
歴史の話です。

考古学者の畿内説は
歴史を逸脱した。

だから、何?

566 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 18:50:00.91 .net
松傾スクリプトって1を攻撃してたエロばかだろ?

567 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 20:09:09.60 .net
まあ、テンプレは当然NGだろうが?

スクリプトは画像サイトNGとか、
あわNG、空行NGは、基本だが?

なんか快適になる、アイデア有る?

568 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 20:15:07.69 .net
畿内は西暦100年頃に倭の実権を握り、西暦200年頃に女王が共立された地域である

従って、大陸に近く、上古代より発展していた北九州から見れば、

上記の如くまだまだ後進国に映っていたのではないか

狭野尊(サヌミコト=神武)は大和入り後に女王と結婚するが、妃はいない

これは世界中の王配の鉄則であり、女王の婿が他に子をつくると後継問題で複雑になる

複数の妃を持つ最初の王は孝霊である

569 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 20:24:52.64 .net
>>521
箸墓は纏向だから崇神以降だよ
台与より数世代後の人物

570 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 20:33:16.50 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

571 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 20:47:10.47 .net
>>553
通説畿内説はそのような主張をしない

572 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 20:49:57.61 .net
>>521
というように考えるべきではない

573 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 20:58:18.34 .net
記紀に合わせる不可能性の話なら
漢四郡の313年以前の三韓征伐は無い。

しかし、考古学の話でも
370年の百済新羅の建国は
日本が高句麗と交戦したからであり

これが無いなら日本に牛馬は無い。
400年には、高句麗墳墓を伴う
御牧が甲信にも成立している。

金印の九州倭王は
大倭王でも無いがw

馬も無いのに
出雲、吉備、尾張、越
を纏めた卑弥呼時代の倭王は居た。

倭人伝の邪馬台国、卑弥呼九州説は
やまと王は、畿内説とは、無関係。

574 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:03:54.97 .net
今の最大の関心は、庄内期にはいまだ北部九州が優位であったかだ

575 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:10:36.82 .net
>>573
日本語がおかしい

576 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:12:49.84 .net
>>568
昨日のHKKさんの庄内期はいまだ北部九州が上ということはいまだ私は受け入れてないが、西暦100年に畿内が倭の実権を握ったというのはやや早すぎる気がする

577 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:14:23.51 .net
鉄器出土量が九州と近畿とで逆転するのが3世紀中頃と後葉の境目だ
そこがまさに歴史のターニングポイント

578 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:18:00.44 .net
>>575
遂行無しの殴り書きだが?
だからなに?

なにが、わからないのか
質問出来る?

579 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:19:21.03 .net
>>577
それは遅すぎる

580 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:21:59.49 .net
奈良を50年掘った寺澤薫が2世紀の纏向には何も無いとゆうてます

581 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:22:44.36 .net
>>579
266年の朝貢を最期に九州にあった倭国は滅亡する
後漢書に書かれている大倭王の統治した倭国は東の倭種の軍門に降った

それ以後は畿内から大きく成長した東の倭種の歴史が刻まれ始める

582 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:29:46.61 .net
卑弥呼の纒向での共立は西暦201年頃だろう。
共立時には、まだ奴国の方が国力としては上だったかもしれない。

583 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:30:51.70 .net
>>581
266年は、邪馬台国臺与の朝貢

584 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:32:49.45 .net
>>540
そのぐらいのことはやりそうだね

585 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:33:46.44 .net
266年の朝見は誰がしたか不明だよ

586 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:39:18.47 .net
>>582
>卑弥呼の纒向での共立は西暦201年頃だろう。

寒村纏向にそんな痕跡なし!  あるのは、虚しい夢だけ。   @阿波

587 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:39:45.24 .net
巻向遺跡がこの後にできてる

588 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:40:23.08 .net
>>582
神功皇后201〜269年

卑弥呼即位 201年

台与退位 269年

589 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:40:24.77 .net
前方後円墳の始まり

590 :琪瑛教大祭酒:2024/04/05(金) 21:45:43.19 .net
無駄だよ
箸墓が五斗米巫女、我が姫張魯の娘、張琪瑛なんだな
それが全ての辻褄の合う人物なのだよ
箸墓西殿塚が卑弥呼と岱與その後も左側にあるのが巫女のお墓、右側が内裏ちいさいのが入り婿
因みにnissen同素論は正しいと思うね、が解釈の間違いが不幸を呼ぶ
ブラジルはポルトガル語でアルゼンチンはスペイン語だ
そもそも倭人は百済から文字を教わるとはどちらの同化かねぇ?

591 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:46:07.71 .net
晋書
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見
其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
宣帝の公孫氏を平らぐや、その女王は使を遣はし、帯方に至りて朝見す
その後も貢聘は絶えず。文帝が相となるに及び、また、しばしば至る
泰始初、使を遣はし、訳を重ねて入貢す

魏志倭人伝は張政帰国の247年で記事が終わってるのでそれ以後はわからないが
晋書では卑弥呼が景初二年238年に魏に朝貢したのちも倭国が絶えず使節を送り続けたことが書かれている
そして司馬懿の次男司馬昭が魏の宰相になると(263年)また数回朝貢があったと書かれている
そして266年重ねて朝貢したのを最期に消息不明となる

ここまでは親魏倭王の称号を貰った女王国=倭国の歴史

592 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:49:27.95 .net
>>520
ならば、九州説に味噌をつけるのが良さそう

593 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:52:17.09 .net
>>516
食生活の変化はわりと顔つきを大きく変える

江戸時代の幕藩大名は現代人と似た顔つきが普通だったという
現代人との共通点は柔らかい食事

逆に、固いものを食べることが多かった庶民は現代的な顔つきに変わったのはホンの半世紀ばかり前

594 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:55:37.23 .net
・201年頃、纒向で共立
・北部九州は倭国乱
・乱の為、漢鏡3、4、5を独占していた北部九州では、漢鏡7画文帯神獣鏡が入らなくなる
・畿内邪馬台国による伊都国への一大率設置
・一大率設置により、半島大陸との交易が再開され、漢鏡7画文帯神獣鏡の大部分が畿内へ(中国地方、四国へも)
・女王国の領域に呉の紀年銘鏡なども出る
・景初2年、魏帝から「国中を綏撫する銅鏡100枚」を畿内邪馬台国がもらう(画文帯か斜縁鏡か三角縁、あるいはそのセット)
・筑前は那珂八幡に纒向型前方後円墳が出現(庄内3)
・那珂八幡第2主体に三角縁神獣鏡1面を副葬(布留ゼロ)

595 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:55:55.63 .net
>>591
だれがしたと書かれているのですか

596 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:58:00.62 .net
>>535
台湾占領時代の台湾総督は日本人で、日本のために政治をしてるやん
総督の親族だったという柳田國男が、台湾統治に寄与するべく柳田民俗学を方向付けた(日本の文化と南方との関係を過度に強調した)と言われることすらある

597 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:59:05.82 .net
>>595
政権が変わったとかそういうことは特に書かれていない

598 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:00:05.24 .net
>>594の続き
奴国が卑弥呼共立時にいまだ畿内より上だったとすると、畿内が奴国を上回るのは一大率設置時期しかない。
他方、HKKさんは布留ゼロで卑弥呼の墓を作り始めた時期が、畿内が奴国を上回ったとする立場。
すると、魏志倭人伝の投馬国5万戸、邪馬台国7万戸は全くのデタラメということになる。
なぜならば、この5万戸、7万戸の記述は卑弥呼存命時と解するのが相当だからだ。

HKKさんは「魏志倭人伝など読む価値がない」と吐き捨てたが、これほどまでにも魏志倭人伝を無視する畿内説は認め難い。

HKKさん、また来てください。
ハルキーさんでも岡上さんでもいいです。

599 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:01:59.21 .net
流刑地筑紫に一大率なんか設置しても本州各国は一大率なんか畏れるわけもなく

600 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:02:19.73 .net
>>536
前漢代の、匈奴と漢の皇帝との親戚関係を論拠に、後漢の頃には匈奴の首魁である単于たちは劉姓を名乗ってたから、西晋滅亡後の五胡十六国時代の匈奴の国の皇帝は皆、劉氏

601 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:03:00.18 .net
>>599
一大率は、畿内邪馬台国が北部九州を監視する為に設置したというのが畿内説の立場

602 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:04:50.94 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

603 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:05:35.45 .net
>>552
奈良時代の耕作技術(治水感慨も含む)は平安時代後半の関東よりは技術が優れてたようだな

604 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:11:25.32 .net
>>601
筑紫野君磐井の時代まで畏れるどころか随分好き勝手できたようだな

605 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:14:27.85 .net
>>604
反乱は世界中のあらゆる地域でよく起きてるから、何の根拠にもならない

606 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:17:49.20 .net
>>598
トナカイは嫌儲板探せば見つかるんじゃない?
そんなに会いたいなら自分から会いに行ってやれ

607 :日本@名無史さん 警備員[Lv.1][新][苗]:2024/04/05(金) 23:46:21.85 .net
縄文人

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