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邪馬台国畿内説 Part1009

1 ::2024/04/04(木) 12:08:30.38 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712032230/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

587 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:39:45.24 .net
巻向遺跡がこの後にできてる

588 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:40:23.08 .net
>>582
神功皇后201〜269年

卑弥呼即位 201年

台与退位 269年

589 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:40:24.77 .net
前方後円墳の始まり

590 :琪瑛教大祭酒:2024/04/05(金) 21:45:43.19 .net
無駄だよ
箸墓が五斗米巫女、我が姫張魯の娘、張琪瑛なんだな
それが全ての辻褄の合う人物なのだよ
箸墓西殿塚が卑弥呼と岱與その後も左側にあるのが巫女のお墓、右側が内裏ちいさいのが入り婿
因みにnissen同素論は正しいと思うね、が解釈の間違いが不幸を呼ぶ
ブラジルはポルトガル語でアルゼンチンはスペイン語だ
そもそも倭人は百済から文字を教わるとはどちらの同化かねぇ?

591 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:46:07.71 .net
晋書
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見
其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
宣帝の公孫氏を平らぐや、その女王は使を遣はし、帯方に至りて朝見す
その後も貢聘は絶えず。文帝が相となるに及び、また、しばしば至る
泰始初、使を遣はし、訳を重ねて入貢す

魏志倭人伝は張政帰国の247年で記事が終わってるのでそれ以後はわからないが
晋書では卑弥呼が景初二年238年に魏に朝貢したのちも倭国が絶えず使節を送り続けたことが書かれている
そして司馬懿の次男司馬昭が魏の宰相になると(263年)また数回朝貢があったと書かれている
そして266年重ねて朝貢したのを最期に消息不明となる

ここまでは親魏倭王の称号を貰った女王国=倭国の歴史

592 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:49:27.95 .net
>>520
ならば、九州説に味噌をつけるのが良さそう

593 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:52:17.09 .net
>>516
食生活の変化はわりと顔つきを大きく変える

江戸時代の幕藩大名は現代人と似た顔つきが普通だったという
現代人との共通点は柔らかい食事

逆に、固いものを食べることが多かった庶民は現代的な顔つきに変わったのはホンの半世紀ばかり前

594 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:55:37.23 .net
・201年頃、纒向で共立
・北部九州は倭国乱
・乱の為、漢鏡3、4、5を独占していた北部九州では、漢鏡7画文帯神獣鏡が入らなくなる
・畿内邪馬台国による伊都国への一大率設置
・一大率設置により、半島大陸との交易が再開され、漢鏡7画文帯神獣鏡の大部分が畿内へ(中国地方、四国へも)
・女王国の領域に呉の紀年銘鏡なども出る
・景初2年、魏帝から「国中を綏撫する銅鏡100枚」を畿内邪馬台国がもらう(画文帯か斜縁鏡か三角縁、あるいはそのセット)
・筑前は那珂八幡に纒向型前方後円墳が出現(庄内3)
・那珂八幡第2主体に三角縁神獣鏡1面を副葬(布留ゼロ)

595 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:55:55.63 .net
>>591
だれがしたと書かれているのですか

596 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:58:00.62 .net
>>535
台湾占領時代の台湾総督は日本人で、日本のために政治をしてるやん
総督の親族だったという柳田國男が、台湾統治に寄与するべく柳田民俗学を方向付けた(日本の文化と南方との関係を過度に強調した)と言われることすらある

597 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 21:59:05.82 .net
>>595
政権が変わったとかそういうことは特に書かれていない

598 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:00:05.24 .net
>>594の続き
奴国が卑弥呼共立時にいまだ畿内より上だったとすると、畿内が奴国を上回るのは一大率設置時期しかない。
他方、HKKさんは布留ゼロで卑弥呼の墓を作り始めた時期が、畿内が奴国を上回ったとする立場。
すると、魏志倭人伝の投馬国5万戸、邪馬台国7万戸は全くのデタラメということになる。
なぜならば、この5万戸、7万戸の記述は卑弥呼存命時と解するのが相当だからだ。

HKKさんは「魏志倭人伝など読む価値がない」と吐き捨てたが、これほどまでにも魏志倭人伝を無視する畿内説は認め難い。

HKKさん、また来てください。
ハルキーさんでも岡上さんでもいいです。

599 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:01:59.21 .net
流刑地筑紫に一大率なんか設置しても本州各国は一大率なんか畏れるわけもなく

600 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:02:19.73 .net
>>536
前漢代の、匈奴と漢の皇帝との親戚関係を論拠に、後漢の頃には匈奴の首魁である単于たちは劉姓を名乗ってたから、西晋滅亡後の五胡十六国時代の匈奴の国の皇帝は皆、劉氏

601 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:03:00.18 .net
>>599
一大率は、畿内邪馬台国が北部九州を監視する為に設置したというのが畿内説の立場

602 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:04:50.94 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

603 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:05:35.45 .net
>>552
奈良時代の耕作技術(治水感慨も含む)は平安時代後半の関東よりは技術が優れてたようだな

604 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:11:25.32 .net
>>601
筑紫野君磐井の時代まで畏れるどころか随分好き勝手できたようだな

605 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:14:27.85 .net
>>604
反乱は世界中のあらゆる地域でよく起きてるから、何の根拠にもならない

606 :日本@名無史さん:2024/04/05(金) 22:17:49.20 .net
>>598
トナカイは嫌儲板探せば見つかるんじゃない?
そんなに会いたいなら自分から会いに行ってやれ

607 :日本@名無史さん 警備員[Lv.1][新][苗]:2024/04/05(金) 23:46:21.85 .net
縄文人

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