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邪馬台国畿内説 Part1010

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:19:30.56 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712200110/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

106 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:48:00.82 .net
>>104
中国の史書には5人書かれてるが、もっと多いのかもしれん

107 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:49:15.06 .net
倭の10王とか

108 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:58:36.01 .net
?まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
?次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900?)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850?)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50?)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50?でピッタリです!
?そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

109 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:01:01.18 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)

110 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:08:36.21 .net
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

辻褄が合ってないので嘘だろう

111 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:09:54.82 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

112 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:14:10.71 .net
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

113 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:16:02.29 .net
前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

114 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:18:04.55 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである。

115 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:21:00.09 .net
>>104
つまり畿内説ではなくなりそうね。
その説の人、九州説だし。

116 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:21:56.97 .net
邪馬台国とヤマト王権の並立は不可能であり、そのようなことを主張しているのは九州説でも素人だけである

117 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:25:22.41 .net
>>108
>>109
魏志倭人伝の記述に完全合致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してない畿内説は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作洗脳作文が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「古代。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統)」w

118 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:27:27.51 .net
漢書地理志  楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云 
毎年来てた 

119 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:28:17.12 .net
魏志倭人伝と一致しない九州

120 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:33:10.32 .net
>>112
>北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

まあ交易してるんだから文化交流はあるよね

>糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。

ほうほうなるほど

>従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

唐突に出てきたな
従って〜がなんの理由も解説もなく決めつけだけで判断しようがない

> この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

ただの希望妄想の類い

121 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:43:29.61 .net
漢書地理紙では、倭人は楽浪郡に定期的に貢物を持ってくると書かれている
後に、三雲南や平原の王により倭国はまとまるかに見えたが、倭国乱
そこで纒向に卑弥呼を共立
筑前では生活様式の畿内化、祭祀形態の畿内化、そして楽浪土器の完全排除により、畿内の飛地と化す

こうして倭国は一応の統一を果たすが、狗奴国や卑弥呼の死後の乱で短期的には不安定化するも、臺与の即位で再び安定化
そして、南九州や東海、関東も支配下に置き、4世紀には半島への侵攻を開始する

122 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:44:48.26 .net
九州最大の外港都市博多と畿内が葬制を共有する政治連合だから
一人一説やけのやんぱち雑多九州小説としては、
博多を見られないように
西側のアクセントど崩壊ベルト地帯を通って
なるべく遠くに魏使を連れ去らないといけない

123 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:47:02.23 .net
>>89
延べ千人だろうね

124 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:47:05.61 .net
>>121
そこで纏向〜になんの脈絡もない
無理矢理話をつなげてるだけだな

125 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:12.75 .net
畿内ヤマト王権が邪馬台国を滅ぼしてるからね

126 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:28.14 .net
旧石器時代、石器の特徴からいくつかの文化圏に分けられる

佐賀の腰岳を含む九州
大分の姫島、隠岐の黒曜石、五色台や二上山のサヌカイトを使っていたグループ、福岡大分の東岸、四国、中国、近畿
茂呂型ナイフ石器のグループ、三重から東北の太平洋側
諏訪の近くの和田峠の黒曜石を使っていたグループ、石川から青森の日本海側

38000年前に朝鮮半島を経由して本州にやってきた集団
35000年〜30000年前に沖縄ルートでやってきた集団
25000年前に北海道ルートでやってきた集団がいるらしい

当時の瀬戸内海は今の大分沖辺りまで陸地で纏向遺跡と関係が深い岡山辺りは1番奥まった場所だった
瀬戸内海の海底からは瀬戸大橋建設時に数万点のサヌカイトの石器が見つかっている
和歌山辺りも紀淡海峡辺りがちょうど河口で淡路島はまだ四国と陸続きだった
大阪平野はまだ河内湖もなく起伏に富んだ古大阪平野が広がりその先にサヌカイトの採集地二上山があった

127 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:43.26 .net
そもそも魏志倭人伝と畿内説が一致しないから

128 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:49.13 .net
小説「邪馬台国畿内説」

129 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:54.24 .net
>>125
ヤマト王権と邪馬台国の並立を可能だと考えている学者が存在しない

130 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:51:55.88 .net
九州から近畿に移転とか無いって
最初から近畿だ
中国の史書は邪馬台国という王宮の場所を指してるんだから

131 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:52:22.83 .net
>>116
並立を許さないから邪馬台国が滅ぼされるという結果になったわけね。九州説を固めてくれてありがとう。

132 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:55:11.56 .net
>>129
並立ってなに?倭国にはたくさんの国があって並立どころの騒ぎではなかったわけだが。
魏志倭人伝に書いてあるとおり、女王国の東にも倭人の国があると言っている。
半島でもいろいろな国が複数存在していた時代あり。
中国本土もいろいろな国が複数存在していた時代あり。

133 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:55:17.55 .net
>>131
そうではなく、九州説のほとんどは邪馬台国は北部九州であり、纒向ヤマト王権は4世紀にスタートしたと考えている

134 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:55:58.04 .net
>>132
そんな単細胞的な主張じゃない

135 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:58:49.97 .net
魏略逸文では渡海とは書いてあっても東とは書いてない

136 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:00.31 .net
九州説を成立させる唯一の方法は時代を100年ほどずらすことである
この領域にすら達していない人は、素人中の素人であることを理解しなければならない

137 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:03.68 .net
>>133
伊勢遺跡は?

138 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:44.17 .net
>>133

>九州説のほとんどは邪馬台国は北部九州であり

んなこたぁない
南九州の人は南九州説

139 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:50.19 .net
>>136
100年ずらしてるのは畿内説だろ

140 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:02:27.77 .net
>>138
南九州説などというものを唱えている学者は存在しない

141 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:02:44.66 .net
三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?1

中国で西晋時代(西暦265年~316年)に作られた位至三公鏡は日本では福岡佐賀を中心とする北部九州から出土している。
奈良からは確実な出土例がない

位至三公鏡より形式的に古い時代の鏡
(雲雷文「長宣子孫」銘内行花文鏡などその中に魏の時代の鏡が含まれていると思われる)
も北部九州を中心に出土している。

北部九州出土の位至三公鏡は弥生時代の遺跡からも見つかるが九州以外の位至三公鏡は古墳時代の遺跡から出土している。

これらは時系列から北部九州から位至三公鏡が本土に渡り
先祖から受け継いだ鏡として埋葬されたことを示す

これらのことから魏の後を継いだ西晋の時代3世紀末~4世紀初頭まで鏡の分布は北部九州が中心であったと考えられる

142 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:03:26.66 .net
三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?2

位至三公鏡は中国でも多数出土しているが
特に西晋の首都洛陽で多く見付かっている
しかし三角縁神獣鏡は魏や西晋のあったエリアどころか中国全土で
"確実な発掘によって"出土した例は存在しない
しかし日本では確実な発掘によって400面以上存在している
位至三公鏡が中国と日本どちらでも見付かっている点と比べて
三角縁神獣鏡が中国で作られたものならこの出土数の差は異常である。

また三角縁神獣鏡に使われている銅は位至三公鏡等の西晋時代の鏡と同じ長江流域産の銅が使われている。
また材料だけではなくデザインも長江流域系の画文帯神獣鏡、三角縁画像鏡に近い
中国の考古学者、王仲殊は
日本の三角縁神獣鏡は中国の平縁神獣鏡と三角縁画像鏡を参照して作られたと考えられ
そのどちらも呉の鏡であることから三角縁神獣鏡は魏ではなく呉で作られた鏡であると思われる。

143 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:03:30.98 .net
伊勢遺跡に卑弥呼と台与が居てそのあと纏向遺跡でも良いけどさ
それが正しいと本気で思ってます?

144 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:03:31.50 .net
昔、奥野正男が言ってたね
三角縁神獣鏡が否定されたから畿内説は年代を遡上させる動きを始めるだろうと
その通りになった

145 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:01.89 .net
三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?3

紫金山古墳から三角縁神獣鏡は10面出土したが
鏡の紐を通す孔が全て鋳放し(鋳たままで仕上げしていない)であって
中には孔が完全に塞がっているものもあった。
考古学者の森浩一によると
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。紫色の組み紐。紐は腐ってくるからよく鏡だけ発掘品に並べてあるけど
組み紐とセットで、ある意味では組み紐の方が重要だったわけですね。紫綬。
だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば
紫綬を通す所の、紐の孔は綺麗に作り上げて、そこには何色かの組み紐が付けてあってしかるべきなのです。」
橿原考古学研究所の所長だった菅谷文則氏は
画文帯神獣鏡等の中国の鏡は組み紐を通す孔が綺麗に仕上げされていて
紐を通して日常的な使用に耐えられるようになっているが
三角縁神獣鏡の7~8割は仕上げがされていなくてギザギザが残っており
紐を通しても紐がすぐ切れてしまい日常的な使用には耐えないだろうと述べ
三角縁神獣鏡はお墓に入れる為に日本独自に出来上がったジャンルなのではないかと述べている。

146 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:15.27 .net
>>134
畿内説は無理を通すために支離滅裂になってるもんな

147 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:41.23 .net
三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?4

邪馬台国畿内説に立っている考古学者、石野博信氏ですら
「(三角縁神獣鏡は)ヤマト政権が弥生以来の祭式を廃止し、中国鏡をモデルとして四世紀にヤマトで創作した鏡である」
と述べている。

結論
三角縁神獣鏡は四世紀の鏡
三角縁神獣鏡が
出土した古墳は全て四世紀以降に作られた古墳である

148 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:43.81 .net
>>141
位至三公鏡は絶対数が少なすぎる上に、大阪からも福岡と同数の数が出る
したがって、位至三公鏡が何世紀の鏡であろうとも、畿内説は揺るがない

149 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:49.80 .net
>>146
>>143

150 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:06:18.51 .net
>>140

一人一説やけのやんぱち雑多北部九州小説も同じ

151 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:07:24.58 .net
>>147
三角縁神獣鏡が4世紀だとしても揺らぐことがない通説畿内説

152 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:08:37.11 .net
瀬戸内海が陸地だった旧石器時代、瀬戸内海が誕生した縄文時代以降、どちらかの時代においても、黒曜石のある姫島と二上山のある畿内を結ぶルートとして、中央構造線が大事だと思うんだよな
旧石器時代からの生活や移動のスタイル、文化的繋がりが、弥生時代古墳時代にも影響してくると思うんだよね

瀬戸内海西部の姫島→松山→中央構造線→徳島→淡路島→加太→紀ノ川、和泉

加太の地は泉州方面、紀ノ川から奈良、和歌山南部、淡路島から四国方面に分かれる交通の要衝
加太目線で色々見てみるのも面白いかもしれない

153 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:08:37.28 .net
>>148
古い鏡を新しい古墳に埋めることは可能だぞw

154 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:09:17.48 .net
>>142
華北東部系鏡なるものが登場し始めてから、三角縁神獣鏡呉鏡説は絶滅危惧種となっている

155 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:09:38.70 .net
>>151
古墳の編年が変わるんだよ
畿内説は邪馬台国を畿内にあったことにしたいから
三角縁神獣鏡が見付かった古墳を三世紀に比定しようとしてる

156 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:10:20.89 .net
>>153
位至三公鏡は邪馬台国畿内説に全く影響を与えないので議論する意味がない

157 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:11:27.15 .net
>>152
https://i.imgur.com/pqkFE9g.jpg
ごく大雑把にこんな感じで地理的条件に左右されてはいそう

158 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:11:37.51 .net
>>155
他の遺跡も含めて全体が変わるよね?
それが正しいと本気で思ってるのか?

159 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:11:52.97 .net
>>155
だから、4世紀にしたとしても畿内説という立場が変わってないだろ
三角縁神獣鏡4世紀鏡説は少数説だがな

160 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:12:19.38 .net
三角縁神獣鏡を卑弥呼が貰った鏡ということにしたいから
三角縁神獣鏡は三世紀の鏡と比定し、それより古い位至三公鏡は1~2世紀の鏡に分類する
位至三公鏡は265~316年頃の鏡なのにw
これが畿内説を主張する学者がやる現代のゴッドハンド
歴史捏造事件

161 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:13:05.55 .net
>>160
位至三公鏡は漢代にも作られていることは事実である

162 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:13:12.22 .net
>>142

位至三公鏡は下級役人用の鏡

163 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:13:54.57 .net
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏

「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」

「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」

「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」

164 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:14:03.80 .net
>>160
遺跡全部変わるけどそれが正しいと思ってるのか?

165 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:15:15.45 .net
>>160
機内の古墳から時空を超越してオーパーツが出土するのはさして珍しいことではない
よくあることだ

166 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:16:01.14 .net
ハルキー「三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった銅鏡100枚じゃなかったとしても斜縁鏡がそのルーツ」

斜縁鏡を見れば三角縁神獣鏡が作れるので、三角縁神獣鏡は魏帝からもらったかどうかだけで畿内説を否定する学者は存在しない

167 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:20:22.24 .net
>>132
大正解

168 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:20:46.50 .net
>>129
並立ってなに?倭国にはたくさんの国があって並立どころの騒ぎではなかったわけだが。
魏志倭人伝に書いてあるとおり、女王国の東にも倭人の国があると言っている。
半島でもいろいろな国が複数存在していた時代あり。
中国本土もいろいろな国が複数存在していた時代あり。

169 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:20:48.57 .net
>>166
卑弥呼の貰った鏡は位至三公鏡より古い鏡
位至三公鏡は卑弥呼ではなくトヨが貰った鏡だろう
それらの出土分布を見れば邪馬台国が畿内ではなく九州にあったと考えるのが合理的な判断だ。
後は絹や鉄の矢じりの分布もあるしな
畿内や他でも絹や矢じりあるぞという奴のソース見ると大抵4~5世紀の話だったりするから
本当に畿内説支持してる人たちは頭悪いと思う

170 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:21:34.26 .net
王宮の移転なんて珍しくないし古代からやってただろうよ
継続する遺跡があるかだから纏向だけの問題じゃないのよ

171 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:23:02.47 .net
>>168
この領域にすら達していないので超スーパー素人であるとあなたは認識すべきである

172 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:26:20.06 .net
>>169
位至三公鏡はヤマト王権とは全く無縁の銅鏡
現実的には、5世紀古墳から多く出土しているから、時代的にはやはり5世紀ぐらいだろう
他の銅鏡との共伴状況を見てもそれぐらい
よく伝世している

173 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:30:02.26 .net
>>169
九州からは絹がろくに出ない
邪馬台国は無理

174 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:30:37.67 .net
銅鏡は作り直す事だってできるだろうに
漢代の中古鏡を下賜するってのがどうもピンとこない

175 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:31:13.07 .net
>>173
なんでそんな嘘つくん?

733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。

176 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:40:35.06 .net
魏帝に「銅鏡を配布して国中を綏撫しなさい」と言われている
スプリング8の結果からも三角縁神獣鏡は中国の鉱物から作られていることが明らか
これが600面近く出ている
これは全部ではないにしろ、かなりの数は日本で作られたと見るべきである
しかも、魏帝に「国中に配布して綏撫しなさい」と言われているから、ただちに副葬している

これが通説畿内説を採る理由である

177 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:45:05.04 .net
幻の九州王朝w

178 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:47:25.55 .net
畿内説はなぜすぐバレる嘘をついてしまうのか

179 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:48:17.64 .net
>>169

位至三公鏡

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/collections/detail/94c27c53-a0fd-4cf3-8fdb-34005420bb1c

羽根戸南古墳群は4世紀後半〜7世紀前半
位至三公鏡が出たのは小型の前方後円墳

位至三公鏡が出ている今宿鋤崎古墳は5世紀初ころ

180 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:48:58.97 .net
>>176
銅は和同開珎の708年まで国産出来ないから
銅自体が中国産なのは当たり前といえば当たり前
日本の鉄鍛冶は中国から輸入したインゴットや鉄器、青銅器を溶かして作るものだから
鉄や銅の素材は中国産になる

181 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:50:05.53 .net
>>179
古い鏡を新しい古墳に埋葬するのは可能だし不思議な話ではない
伝世鏡

182 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:53:16.16 .net
>>181
したがって、これは卑弥呼がもらった銅鏡100枚とは考えられない

183 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:57:56.53 .net
西晋が316年に滅ぶから、
逃げちらかした者や共同墓地が荒らされて
位至三公鏡が日本に流入したのだろう

184 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:58:48.62 .net
>>176
>魏帝に「銅鏡を配布して国中を綏撫しなさい」と言われている
これソース求めても絶対に出さないのなんでだろうな

185 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:01:46.40 .net
紀年銘鏡の観点からも位至三公鏡は排除される

186 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:04:35.42 .net
東京大学の先生の意見

これには、三角縁神獣鏡というコピーを共有する意義について考えてみる必要がある。紀元前1世紀から紀元後3世紀、倭の国々は国家形成の胎動のなかで、中国の文物とりわけ銅鏡に付加価値を見いだし、各首長は積極的に中国に朝貢して、銅鏡の獲得と中国の政治的な後ろ盾を得ようとしたと思われる。
中国所産の多様な鏡が舶載して倭国内に持ち込まれることになるのである。同じものを共有して持つことの意義を考えると、汝の好物の一つである銅鏡百枚とは、弥生時代のこれまでの倭の国々が獲得してきた多種多様な鏡ではなく、同質の鏡百枚であった蓋然性が高いと思われる。

三角縁神獣鏡が魏の皇帝から下賜された銅鏡百枚であれば、『魏志』倭人伝にも記されているように朝貢して下賜された鏡などの「もの」をさらに従属する人たちに贈与することにより、自らの政治的な威信と秩序を手に入れることができたと思われる。
それが、異なる鏡であれば、弥生時代のそれぞれの首長が諸国ごとに中国から入手したあり方と同じであり、質的に変わらない分与のあり方は、共通の基盤を有する国家のあり方としては弱い。
むしろ、それは、三角縁神獣鏡という同じものを持つことにより、下賜する者とされる者が同じ「もの」を共有し、「まつりごと」に使用することにより、同じ社会的秩序に属し、それを受け入れることを表し、同じ「もの」を持つことにより、授ける側と受ける側の同質化が生じる、その一方で授ける者と受ける者という政治的身分の序列化が明確になったと思われる。


東大は九州説というのは過去の話

187 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:05:04.35 .net
>>182
100枚じゃ足りないから作ったとも考えられる

188 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:06:53.94 .net
>>182
は?
卑弥呼が貰った鏡を先祖代々受け継いで
4~5世紀に古墳に埋葬する
という話なんだが?

189 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:08:06.36 .net
>>187
私の書き込みは通説畿内説
三角縁神獣鏡は明確にコピー品
九州説は、「国産だから畿内説は不成立」などというが、もはや国産かどうかは畿内説に全く影響を与えない。
私はむしろコピーしまくっているから、これこそがまさに畿内説を不動のものにしていると考える。

卑弥呼がもらった銅鏡100枚ではないというのは位至三公鏡のこと

190 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:09:54.42 .net
纏向と地方で同笵鏡が出るわけでもなく
纏向が鏡を配ったというのは思い込みだけで根拠がない

191 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:10:45.02 .net
そもそも
>魏帝に「銅鏡を配布して国中を綏撫しなさい」と言われている
これがどこにもソースの無い捏造

192 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:10:46.27 .net
>>184
悉可以示汝國中人使知國家哀汝
下賜品で我が国が卑弥呼を大事に思ってると国中に示せと言っている
魏の権威だよ

193 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:10:57.46 .net
>>188
それは位至三公鏡ではない

194 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:11:04.87 .net
>>191
>>192

195 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:11:12.59 .net
>>129
並立ってなに?倭国にはたくさんの国があって並立どころの騒ぎではなかったわけだが。
魏志倭人伝に書いてあるとおり、女王国の東にも倭人の国があると言っている。
半島でもいろいろな国が複数存在していた時代あり。
中国本土もいろいろな国が複数存在していた時代あり。

196 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:12:12.82 .net
>>194
どこに配って慰撫せよとかいてあるのか

197 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:12:46.55 .net
>>190
桜井茶臼山や黒塚や椿井大塚山と同笵が大量に出ている
同笵鏡を線で結ぶと畿内に集中する

198 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:13:05.21 .net
畿内勢力がまだ小さい。神武が東征していたかどうかも不明。まだお互いの縄張りがぶつかるような状況ではない。
したがって、九州に邪馬台国は存在したし、別の畿内勢力も存在した。

199 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:13:16.98 .net
>>196
そういう意味でしょう
他にどう取れば良いのか?

200 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:14:10.10 .net
>>195
邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万戸、千戸、千家
魏志倭人伝を無視しすぎ

201 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:16:12.81 .net
>>198
桜井茶臼山を見れば3世紀末にはすでにヤマト王権は強大であったことが分かる
椿井大塚山や黒塚も含めれば尚のこと畿内は別格である

なお、箸墓古墳も東田大塚も纒向矢塚も纒向勝山も行燈山も西殿塚もまだ開けてない

202 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:16:43.35 .net
>>199
下賜品を見せびらかして卑弥呼が魏朝の後ろ盾を得ていることを示せと書いてある

203 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:17:34.15 .net
>>92
逆やろ

生産に直接には携わらない世話人が千人もいて、それを支えられる大規模な生産力があったってことやろ

そもそも、それぐらいの生産力がなかったら遣使が百人もの生口を献上できないのではないか
生口百人の献上は中国側に記録されてるのだから嘘とは考えられない

204 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:19:04.09 .net
>>102
「周牌算経の短里」は、実在の里呈ではなかったってこと

205 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:19:52.69 .net
鏡を配って慰撫せよとか一体どっから出てきたんだ……

206 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:21:28.85 .net
>>205
ほとんどの学者がそのように解している
なぜなら、国中から三角縁神獣鏡が出てくるからである

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