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邪馬台国畿内説 Part1010
- 1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:19:30.56 .net
- 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712200110/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。
- 2 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:20:30.38 .net
- ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
- 3 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:21:00.48 .net
- ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
- 4 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:21:30.23 .net
- ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
- 5 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:22:00.87 .net
- ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
- 6 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:22:30.79 .net
- ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
- 7 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:23:00.85 .net
- ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
- 8 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:24:31.15 .net
- (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
- 9 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:25:30.02 .net
- ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
(本項 続く)
(承前)
◆7ー2
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
- 10 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:26:00.43 .net
- ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
(本項 続く)
(承前)
◆8−2
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
- 11 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:26:30.62 .net
- ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
- 12 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:26:59.95 .net
- ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
- 13 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:27:30.08 .net
- ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
- 14 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:28:30.98 .net
- (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
- 15 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:29:00.86 .net
- ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
- 16 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:29:30.76 .net
- ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
- 17 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:30:00.61 .net
- ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
- 18 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:30:30.68 .net
- ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
- 19 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:31:00.73 .net
- ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
- 20 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:31:30.71 .net
- ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。
- 21 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:32:00.73 .net
- ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
- 22 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:33:31.76 .net
- ◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
- 23 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:34:00.67 .net
- ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
- 24 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:34:30.95 .net
- ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
- 25 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:35:00.94 .net
- ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
- 26 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:35:31.17 .net
- (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
- 27 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:36:00.74 .net
- ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
- 28 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:36:30.78 .net
- ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。
- 29 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:37:01.05 .net
- ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
- 30 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:37:30.87 .net
- ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
- 31 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:38:00.53 .net
- ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
- 32 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:38:30.59 .net
- ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
- 33 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:39:00.61 .net
- ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
- 34 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:39:30.69 .net
- ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
- 35 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:40:00.58 .net
- ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
- 36 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:40:31.18 .net
- ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png
- 37 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:41:00.61 .net
- ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
- 38 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:41:30.61 .net
- ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
- 39 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:42:31.19 .net
- ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
- 40 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:43:00.97 .net
- ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
- 41 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:43:32.24 .net
- ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
- 42 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:44:01.69 .net
- ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
- 43 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:44:31.12 .net
- ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
- 44 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:45:30.94 .net
- ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
- 45 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:46:00.58 .net
- ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
- 46 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:46:30.63 .net
- ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
- 47 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:47:00.74 .net
- ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
- 48 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:47:30.45 .net
- ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
- 49 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:48:00.91 .net
- ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
- 50 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:48:31.18 .net
- ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
- 51 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:49:00.69 .net
- ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
- 52 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:49:30.51 .net
- ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
- 53 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:50:00.84 .net
- ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
- 54 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:50:30.70 .net
- (承前)
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
- 55 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:51:00.29 .net
- ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。
- 56 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:51:31.13 .net
- ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
- 57 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:52:31.13 .net
- ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
- 58 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:53:31.23 .net
- ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
- 59 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:54:02.28 .net
- ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
- 60 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:54:31.01 .net
- ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
- 61 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:55:00.30 .net
- ◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
- 62 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:55:31.26 .net
- ◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
- 63 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:56:00.64 .net
- ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
- 64 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:56:30.96 .net
- ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
- 65 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:57:00.71 .net
- ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
- 66 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:57:30.96 .net
- ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
- 67 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:58:00.63 .net
- ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
- 68 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:58:31.94 .net
- ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
- 69 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:59:01.20 .net
- ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
- 70 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:59:30.66 .net
- ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
- 71 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:00:31.81 .net
- ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
- 72 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:01:01.27 .net
- ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
- 73 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:01:31.44 .net
- ◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)
- 74 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:02:32.28 .net
- ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png
◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!
A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。
正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
- 75 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:03:02.61 .net
- 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし
- 76 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:23:06.05 .net
- 方保田東原遺跡とかいう纒向の10分の1の遺跡を邪馬台国にするま残念な九州説
- 77 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:27:05.08 .net
- 邪馬台国の卑弥呼の都は日本最大の遺跡でなければならないという根拠をまず示すべきだろうね
- 78 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:32:37.02 .net
- >>77
そもそも、単一遺跡で「卑弥呼」の都を言うこと自体、間違っている。 @阿波
- 79 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:33:32.02 .net
- >>77
倭王だから
集落の長にそんな称号くれない
- 80 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:34:45.21 .net
- >>77
と考えている、九州説も
纒向は100年ずれていると九州説のセミプロは主張しているだけ
- 81 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:35:50.29 .net
- >>79
倭王なら所在する集落の大小は関係ないだろ
- 82 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:36:35.45 .net
- >>79
親魏倭王の称号もらえたのは二つ理由があると思う
ひとつは漢委奴国王の後継者たる大倭王と認められたから
もうひとつは司馬懿が公孫氏を倒したタイミングで帯方郡に使節が勾留されてたから
- 83 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:39:14.79 .net
- >>81
其大倭王居邪馬臺國
王を束ねる倭王の住むところがなんでショボいのよ?
中国の使節を恥ずかしくて呼べない
- 84 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:41:18.85 .net
- 九州説で纒向と邪馬台国が並立して存在しているのは素人中の素人だけ
セミプロハルキーは、纒向が3世紀なら九州説不成立と知っている
- 85 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:43:21.63 .net
- 纏向には人は住んでないらしいがそれでもあの規模だからな
客人を招待できる
- 86 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:43:27.28 .net
- >>83
事実呼んでない
呼んだら詳細を記されているだろう
- 87 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:44:41.76 .net
- >>77
誇大妄想ばかりするくせに、
単一遺跡で「卑弥呼」の都を言うこと自体、間違っている。 @阿波
- 88 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:45:37.64 .net
- >>86
一応詳細は書いてあるんだが
- 89 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:50:49.81 .net
- 自為王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
以婢千人自侍は養えないから疑わしいけど
- 90 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:52:22.08 .net
- 銅鏡100面もらったはずなのに、銅鏡の出ない方保田東原遺跡を邪馬台国にしてしまう残念な九州説
- 91 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:53:31.37 .net
- >>89
300ヘクタールの纒向だけが千人を養うことが可能
- 92 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:54:51.24 .net
- >>91
卑弥呼の世話役千人も居たらそいつら何も生産しないじゃん
- 93 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:59:28.58 .net
- >>92
ということは?
- 94 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:02:30.84 .net
- >>93
そんなに居ないって事でしょう
中国の使節が来た時は厳重にするだろうし格式もあるし
- 95 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:04:15.52 .net
- >>94
つまり倭人が嘘をついたか、中国人の記録者が嘘をついたのか
- 96 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:05:09.61 .net
- 国の威厳に関わるし人揃えていろいろやるよ
- 97 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:06:41.87 .net
- >>95
嘘じゃなくて使節が行ったときにはいろいろやるよ
鼓笛隊の演奏とか
- 98 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:12:28.29 .net
- 王宮だって中国の使節を竪穴式住居に呼べるか?
- 99 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:19:13.16 .net
- 数値はいい加減とよく言われてる
- 100 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:19:19.80 .net
- 大いに冢を作る → 全長ではなく短い方の辺の長さを記述
ほんとに見たの?
- 101 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:20:42.63 .net
- >>100
墓参りに行ったかどうかは知らんけどさ
- 102 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:27:48.77 .net
- 周髀算経の短里で計算してるから畿内説はありえない。
距離まで短里で一致してしまったので100%の裏付けが取れてしまっている。
つまり当時も短里が用いられた。
証拠を出さない限り、崩れないが100%計算で短里であることが出てしまっている。
畿内説の方々残念でしたね。
- 103 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:29:58.73 .net
- https://i.imgur.com/GcB81XN.jpg
大いに冢を作る、なんと径100歩!
全長?知らないですねえ……
- 104 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:44:00.61 .net
- 本当のことを書いちゃおう。
倭の六王
讃 仁徳
隋 履中
珍 反正
済 允恭
興 安康
武 雄略
- 105 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:44:15.94 .net
- 筑前奴国では、庄内併行期に楽浪土器が激減し、布留0の段階では絶滅する
- 106 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:48:00.82 .net
- >>104
中国の史書には5人書かれてるが、もっと多いのかもしれん
- 107 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:49:15.06 .net
- 倭の10王とか
- 108 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:58:36.01 .net
- ?まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
?次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900?)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850?)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50?)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50?でピッタリです!
?そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。
さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096
- 109 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:01:01.18 .net
- ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg
※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)
末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
- 110 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:08:36.21 .net
- 南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
辻褄が合ってないので嘘だろう
- 111 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:09:54.82 .net
- .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
- 112 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:14:10.71 .net
- 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
- 113 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:16:02.29 .net
- 前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
- 114 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:18:04.55 .net
- 3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!
<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)
<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)
247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである。
- 115 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:21:00.09 .net
- >>104
つまり畿内説ではなくなりそうね。
その説の人、九州説だし。
- 116 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:21:56.97 .net
- 邪馬台国とヤマト王権の並立は不可能であり、そのようなことを主張しているのは九州説でも素人だけである
- 117 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:25:22.41 .net
- >>108
>>109
魏志倭人伝の記述に完全合致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw
全く一致してない畿内説は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作洗脳作文が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。
まさに「ヤマトよ永遠に」w
「古代。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統)」w
- 118 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:27:27.51 .net
- 漢書地理志 楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云
毎年来てた
- 119 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:28:17.12 .net
- 魏志倭人伝と一致しない九州
- 120 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:33:10.32 .net
- >>112
>北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
↑
まあ交易してるんだから文化交流はあるよね
>糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
↑
ほうほうなるほど
>従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
↑
唐突に出てきたな
従って〜がなんの理由も解説もなく決めつけだけで判断しようがない
> この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
↑
ただの希望妄想の類い
- 121 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:43:29.61 .net
- 漢書地理紙では、倭人は楽浪郡に定期的に貢物を持ってくると書かれている
後に、三雲南や平原の王により倭国はまとまるかに見えたが、倭国乱
そこで纒向に卑弥呼を共立
筑前では生活様式の畿内化、祭祀形態の畿内化、そして楽浪土器の完全排除により、畿内の飛地と化す
こうして倭国は一応の統一を果たすが、狗奴国や卑弥呼の死後の乱で短期的には不安定化するも、臺与の即位で再び安定化
そして、南九州や東海、関東も支配下に置き、4世紀には半島への侵攻を開始する
- 122 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:44:48.26 .net
- 九州最大の外港都市博多と畿内が葬制を共有する政治連合だから
一人一説やけのやんぱち雑多九州小説としては、
博多を見られないように
西側のアクセントど崩壊ベルト地帯を通って
なるべく遠くに魏使を連れ去らないといけない
- 123 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:47:02.23 .net
- >>89
延べ千人だろうね
- 124 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:47:05.61 .net
- >>121
そこで纏向〜になんの脈絡もない
無理矢理話をつなげてるだけだな
- 125 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:12.75 .net
- 畿内ヤマト王権が邪馬台国を滅ぼしてるからね
- 126 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:28.14 .net
- 旧石器時代、石器の特徴からいくつかの文化圏に分けられる
佐賀の腰岳を含む九州
大分の姫島、隠岐の黒曜石、五色台や二上山のサヌカイトを使っていたグループ、福岡大分の東岸、四国、中国、近畿
茂呂型ナイフ石器のグループ、三重から東北の太平洋側
諏訪の近くの和田峠の黒曜石を使っていたグループ、石川から青森の日本海側
38000年前に朝鮮半島を経由して本州にやってきた集団
35000年〜30000年前に沖縄ルートでやってきた集団
25000年前に北海道ルートでやってきた集団がいるらしい
当時の瀬戸内海は今の大分沖辺りまで陸地で纏向遺跡と関係が深い岡山辺りは1番奥まった場所だった
瀬戸内海の海底からは瀬戸大橋建設時に数万点のサヌカイトの石器が見つかっている
和歌山辺りも紀淡海峡辺りがちょうど河口で淡路島はまだ四国と陸続きだった
大阪平野はまだ河内湖もなく起伏に富んだ古大阪平野が広がりその先にサヌカイトの採集地二上山があった
- 127 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:43.26 .net
- そもそも魏志倭人伝と畿内説が一致しないから
- 128 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:49.13 .net
- 小説「邪馬台国畿内説」
- 129 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:54.24 .net
- >>125
ヤマト王権と邪馬台国の並立を可能だと考えている学者が存在しない
- 130 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:51:55.88 .net
- 九州から近畿に移転とか無いって
最初から近畿だ
中国の史書は邪馬台国という王宮の場所を指してるんだから
- 131 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:52:22.83 .net
- >>116
並立を許さないから邪馬台国が滅ぼされるという結果になったわけね。九州説を固めてくれてありがとう。
- 132 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:55:11.56 .net
- >>129
並立ってなに?倭国にはたくさんの国があって並立どころの騒ぎではなかったわけだが。
魏志倭人伝に書いてあるとおり、女王国の東にも倭人の国があると言っている。
半島でもいろいろな国が複数存在していた時代あり。
中国本土もいろいろな国が複数存在していた時代あり。
- 133 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:55:17.55 .net
- >>131
そうではなく、九州説のほとんどは邪馬台国は北部九州であり、纒向ヤマト王権は4世紀にスタートしたと考えている
- 134 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:55:58.04 .net
- >>132
そんな単細胞的な主張じゃない
- 135 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:58:49.97 .net
- 魏略逸文では渡海とは書いてあっても東とは書いてない
- 136 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:00.31 .net
- 九州説を成立させる唯一の方法は時代を100年ほどずらすことである
この領域にすら達していない人は、素人中の素人であることを理解しなければならない
- 137 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:03.68 .net
- >>133
伊勢遺跡は?
- 138 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:44.17 .net
- >>133
>九州説のほとんどは邪馬台国は北部九州であり
んなこたぁない
南九州の人は南九州説
- 139 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:50.19 .net
- >>136
100年ずらしてるのは畿内説だろ
- 140 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:02:27.77 .net
- >>138
南九州説などというものを唱えている学者は存在しない
- 141 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:02:44.66 .net
- 三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?1
中国で西晋時代(西暦265年~316年)に作られた位至三公鏡は日本では福岡佐賀を中心とする北部九州から出土している。
奈良からは確実な出土例がない
位至三公鏡より形式的に古い時代の鏡
(雲雷文「長宣子孫」銘内行花文鏡などその中に魏の時代の鏡が含まれていると思われる)
も北部九州を中心に出土している。
北部九州出土の位至三公鏡は弥生時代の遺跡からも見つかるが九州以外の位至三公鏡は古墳時代の遺跡から出土している。
これらは時系列から北部九州から位至三公鏡が本土に渡り
先祖から受け継いだ鏡として埋葬されたことを示す
これらのことから魏の後を継いだ西晋の時代3世紀末~4世紀初頭まで鏡の分布は北部九州が中心であったと考えられる
- 142 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:03:26.66 .net
- 三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?2
位至三公鏡は中国でも多数出土しているが
特に西晋の首都洛陽で多く見付かっている
しかし三角縁神獣鏡は魏や西晋のあったエリアどころか中国全土で
"確実な発掘によって"出土した例は存在しない
しかし日本では確実な発掘によって400面以上存在している
位至三公鏡が中国と日本どちらでも見付かっている点と比べて
三角縁神獣鏡が中国で作られたものならこの出土数の差は異常である。
また三角縁神獣鏡に使われている銅は位至三公鏡等の西晋時代の鏡と同じ長江流域産の銅が使われている。
また材料だけではなくデザインも長江流域系の画文帯神獣鏡、三角縁画像鏡に近い
中国の考古学者、王仲殊は
日本の三角縁神獣鏡は中国の平縁神獣鏡と三角縁画像鏡を参照して作られたと考えられ
そのどちらも呉の鏡であることから三角縁神獣鏡は魏ではなく呉で作られた鏡であると思われる。
- 143 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:03:30.98 .net
- 伊勢遺跡に卑弥呼と台与が居てそのあと纏向遺跡でも良いけどさ
それが正しいと本気で思ってます?
- 144 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:03:31.50 .net
- 昔、奥野正男が言ってたね
三角縁神獣鏡が否定されたから畿内説は年代を遡上させる動きを始めるだろうと
その通りになった
- 145 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:01.89 .net
- 三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?3
紫金山古墳から三角縁神獣鏡は10面出土したが
鏡の紐を通す孔が全て鋳放し(鋳たままで仕上げしていない)であって
中には孔が完全に塞がっているものもあった。
考古学者の森浩一によると
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。紫色の組み紐。紐は腐ってくるからよく鏡だけ発掘品に並べてあるけど
組み紐とセットで、ある意味では組み紐の方が重要だったわけですね。紫綬。
だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば
紫綬を通す所の、紐の孔は綺麗に作り上げて、そこには何色かの組み紐が付けてあってしかるべきなのです。」
橿原考古学研究所の所長だった菅谷文則氏は
画文帯神獣鏡等の中国の鏡は組み紐を通す孔が綺麗に仕上げされていて
紐を通して日常的な使用に耐えられるようになっているが
三角縁神獣鏡の7~8割は仕上げがされていなくてギザギザが残っており
紐を通しても紐がすぐ切れてしまい日常的な使用には耐えないだろうと述べ
三角縁神獣鏡はお墓に入れる為に日本独自に出来上がったジャンルなのではないかと述べている。
- 146 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:15.27 .net
- >>134
畿内説は無理を通すために支離滅裂になってるもんな
- 147 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:41.23 .net
- 三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?4
邪馬台国畿内説に立っている考古学者、石野博信氏ですら
「(三角縁神獣鏡は)ヤマト政権が弥生以来の祭式を廃止し、中国鏡をモデルとして四世紀にヤマトで創作した鏡である」
と述べている。
結論
三角縁神獣鏡は四世紀の鏡
三角縁神獣鏡が
出土した古墳は全て四世紀以降に作られた古墳である
- 148 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:43.81 .net
- >>141
位至三公鏡は絶対数が少なすぎる上に、大阪からも福岡と同数の数が出る
したがって、位至三公鏡が何世紀の鏡であろうとも、畿内説は揺るがない
- 149 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:49.80 .net
- >>146
>>143
- 150 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:06:18.51 .net
- >>140
一人一説やけのやんぱち雑多北部九州小説も同じ
- 151 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:07:24.58 .net
- >>147
三角縁神獣鏡が4世紀だとしても揺らぐことがない通説畿内説
- 152 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:08:37.11 .net
- 瀬戸内海が陸地だった旧石器時代、瀬戸内海が誕生した縄文時代以降、どちらかの時代においても、黒曜石のある姫島と二上山のある畿内を結ぶルートとして、中央構造線が大事だと思うんだよな
旧石器時代からの生活や移動のスタイル、文化的繋がりが、弥生時代古墳時代にも影響してくると思うんだよね
瀬戸内海西部の姫島→松山→中央構造線→徳島→淡路島→加太→紀ノ川、和泉
加太の地は泉州方面、紀ノ川から奈良、和歌山南部、淡路島から四国方面に分かれる交通の要衝
加太目線で色々見てみるのも面白いかもしれない
- 153 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:08:37.28 .net
- >>148
古い鏡を新しい古墳に埋めることは可能だぞw
- 154 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:09:17.48 .net
- >>142
華北東部系鏡なるものが登場し始めてから、三角縁神獣鏡呉鏡説は絶滅危惧種となっている
- 155 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:09:38.70 .net
- >>151
古墳の編年が変わるんだよ
畿内説は邪馬台国を畿内にあったことにしたいから
三角縁神獣鏡が見付かった古墳を三世紀に比定しようとしてる
- 156 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:10:20.89 .net
- >>153
位至三公鏡は邪馬台国畿内説に全く影響を与えないので議論する意味がない
- 157 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:11:27.15 .net
- >>152
https://i.imgur.com/pqkFE9g.jpg
ごく大雑把にこんな感じで地理的条件に左右されてはいそう
- 158 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:11:37.51 .net
- >>155
他の遺跡も含めて全体が変わるよね?
それが正しいと本気で思ってるのか?
- 159 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:11:52.97 .net
- >>155
だから、4世紀にしたとしても畿内説という立場が変わってないだろ
三角縁神獣鏡4世紀鏡説は少数説だがな
- 160 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:12:19.38 .net
- 三角縁神獣鏡を卑弥呼が貰った鏡ということにしたいから
三角縁神獣鏡は三世紀の鏡と比定し、それより古い位至三公鏡は1~2世紀の鏡に分類する
位至三公鏡は265~316年頃の鏡なのにw
これが畿内説を主張する学者がやる現代のゴッドハンド
歴史捏造事件
- 161 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:13:05.55 .net
- >>160
位至三公鏡は漢代にも作られていることは事実である
- 162 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:13:12.22 .net
- >>142
位至三公鏡は下級役人用の鏡
- 163 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:13:54.57 .net
- 東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」
- 164 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:14:03.80 .net
- >>160
遺跡全部変わるけどそれが正しいと思ってるのか?
- 165 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:15:15.45 .net
- >>160
機内の古墳から時空を超越してオーパーツが出土するのはさして珍しいことではない
よくあることだ
- 166 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:16:01.14 .net
- ハルキー「三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった銅鏡100枚じゃなかったとしても斜縁鏡がそのルーツ」
斜縁鏡を見れば三角縁神獣鏡が作れるので、三角縁神獣鏡は魏帝からもらったかどうかだけで畿内説を否定する学者は存在しない
- 167 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:20:22.24 .net
- >>132
大正解
- 168 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:20:46.50 .net
- >>129
並立ってなに?倭国にはたくさんの国があって並立どころの騒ぎではなかったわけだが。
魏志倭人伝に書いてあるとおり、女王国の東にも倭人の国があると言っている。
半島でもいろいろな国が複数存在していた時代あり。
中国本土もいろいろな国が複数存在していた時代あり。
- 169 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:20:48.57 .net
- >>166
卑弥呼の貰った鏡は位至三公鏡より古い鏡
位至三公鏡は卑弥呼ではなくトヨが貰った鏡だろう
それらの出土分布を見れば邪馬台国が畿内ではなく九州にあったと考えるのが合理的な判断だ。
後は絹や鉄の矢じりの分布もあるしな
畿内や他でも絹や矢じりあるぞという奴のソース見ると大抵4~5世紀の話だったりするから
本当に畿内説支持してる人たちは頭悪いと思う
- 170 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:21:34.26 .net
- 王宮の移転なんて珍しくないし古代からやってただろうよ
継続する遺跡があるかだから纏向だけの問題じゃないのよ
- 171 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:23:02.47 .net
- >>168
この領域にすら達していないので超スーパー素人であるとあなたは認識すべきである
- 172 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:26:20.06 .net
- >>169
位至三公鏡はヤマト王権とは全く無縁の銅鏡
現実的には、5世紀古墳から多く出土しているから、時代的にはやはり5世紀ぐらいだろう
他の銅鏡との共伴状況を見てもそれぐらい
よく伝世している
- 173 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:30:02.26 .net
- >>169
九州からは絹がろくに出ない
邪馬台国は無理
- 174 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:30:37.67 .net
- 銅鏡は作り直す事だってできるだろうに
漢代の中古鏡を下賜するってのがどうもピンとこない
- 175 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:31:13.07 .net
- >>173
なんでそんな嘘つくん?
733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。
- 176 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:40:35.06 .net
- 魏帝に「銅鏡を配布して国中を綏撫しなさい」と言われている
スプリング8の結果からも三角縁神獣鏡は中国の鉱物から作られていることが明らか
これが600面近く出ている
これは全部ではないにしろ、かなりの数は日本で作られたと見るべきである
しかも、魏帝に「国中に配布して綏撫しなさい」と言われているから、ただちに副葬している
これが通説畿内説を採る理由である
- 177 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:45:05.04 .net
- 幻の九州王朝w
- 178 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:47:25.55 .net
- 畿内説はなぜすぐバレる嘘をついてしまうのか
- 179 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:48:17.64 .net
- >>169
位至三公鏡
https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/maibun/collections/detail/94c27c53-a0fd-4cf3-8fdb-34005420bb1c
羽根戸南古墳群は4世紀後半〜7世紀前半
位至三公鏡が出たのは小型の前方後円墳
位至三公鏡が出ている今宿鋤崎古墳は5世紀初ころ
- 180 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:48:58.97 .net
- >>176
銅は和同開珎の708年まで国産出来ないから
銅自体が中国産なのは当たり前といえば当たり前
日本の鉄鍛冶は中国から輸入したインゴットや鉄器、青銅器を溶かして作るものだから
鉄や銅の素材は中国産になる
- 181 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:50:05.53 .net
- >>179
古い鏡を新しい古墳に埋葬するのは可能だし不思議な話ではない
伝世鏡
- 182 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:53:16.16 .net
- >>181
したがって、これは卑弥呼がもらった銅鏡100枚とは考えられない
- 183 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:57:56.53 .net
- 西晋が316年に滅ぶから、
逃げちらかした者や共同墓地が荒らされて
位至三公鏡が日本に流入したのだろう
- 184 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:58:48.62 .net
- >>176
>魏帝に「銅鏡を配布して国中を綏撫しなさい」と言われている
これソース求めても絶対に出さないのなんでだろうな
- 185 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:01:46.40 .net
- 紀年銘鏡の観点からも位至三公鏡は排除される
- 186 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:04:35.42 .net
- 東京大学の先生の意見
↓
これには、三角縁神獣鏡というコピーを共有する意義について考えてみる必要がある。紀元前1世紀から紀元後3世紀、倭の国々は国家形成の胎動のなかで、中国の文物とりわけ銅鏡に付加価値を見いだし、各首長は積極的に中国に朝貢して、銅鏡の獲得と中国の政治的な後ろ盾を得ようとしたと思われる。
中国所産の多様な鏡が舶載して倭国内に持ち込まれることになるのである。同じものを共有して持つことの意義を考えると、汝の好物の一つである銅鏡百枚とは、弥生時代のこれまでの倭の国々が獲得してきた多種多様な鏡ではなく、同質の鏡百枚であった蓋然性が高いと思われる。
三角縁神獣鏡が魏の皇帝から下賜された銅鏡百枚であれば、『魏志』倭人伝にも記されているように朝貢して下賜された鏡などの「もの」をさらに従属する人たちに贈与することにより、自らの政治的な威信と秩序を手に入れることができたと思われる。
それが、異なる鏡であれば、弥生時代のそれぞれの首長が諸国ごとに中国から入手したあり方と同じであり、質的に変わらない分与のあり方は、共通の基盤を有する国家のあり方としては弱い。
むしろ、それは、三角縁神獣鏡という同じものを持つことにより、下賜する者とされる者が同じ「もの」を共有し、「まつりごと」に使用することにより、同じ社会的秩序に属し、それを受け入れることを表し、同じ「もの」を持つことにより、授ける側と受ける側の同質化が生じる、その一方で授ける者と受ける者という政治的身分の序列化が明確になったと思われる。
↑
東大は九州説というのは過去の話
- 187 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:05:04.35 .net
- >>182
100枚じゃ足りないから作ったとも考えられる
- 188 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:06:53.94 .net
- >>182
は?
卑弥呼が貰った鏡を先祖代々受け継いで
4~5世紀に古墳に埋葬する
という話なんだが?
- 189 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:08:06.36 .net
- >>187
私の書き込みは通説畿内説
三角縁神獣鏡は明確にコピー品
九州説は、「国産だから畿内説は不成立」などというが、もはや国産かどうかは畿内説に全く影響を与えない。
私はむしろコピーしまくっているから、これこそがまさに畿内説を不動のものにしていると考える。
卑弥呼がもらった銅鏡100枚ではないというのは位至三公鏡のこと
- 190 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:09:54.42 .net
- 纏向と地方で同笵鏡が出るわけでもなく
纏向が鏡を配ったというのは思い込みだけで根拠がない
- 191 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:10:45.02 .net
- そもそも
>魏帝に「銅鏡を配布して国中を綏撫しなさい」と言われている
これがどこにもソースの無い捏造
- 192 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:10:46.27 .net
- >>184
悉可以示汝國中人使知國家哀汝
下賜品で我が国が卑弥呼を大事に思ってると国中に示せと言っている
魏の権威だよ
- 193 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:10:57.46 .net
- >>188
それは位至三公鏡ではない
- 194 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:11:04.87 .net
- >>191
>>192
- 195 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:11:12.59 .net
- >>129
並立ってなに?倭国にはたくさんの国があって並立どころの騒ぎではなかったわけだが。
魏志倭人伝に書いてあるとおり、女王国の東にも倭人の国があると言っている。
半島でもいろいろな国が複数存在していた時代あり。
中国本土もいろいろな国が複数存在していた時代あり。
- 196 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:12:12.82 .net
- >>194
どこに配って慰撫せよとかいてあるのか
- 197 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:12:46.55 .net
- >>190
桜井茶臼山や黒塚や椿井大塚山と同笵が大量に出ている
同笵鏡を線で結ぶと畿内に集中する
- 198 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:13:05.21 .net
- 畿内勢力がまだ小さい。神武が東征していたかどうかも不明。まだお互いの縄張りがぶつかるような状況ではない。
したがって、九州に邪馬台国は存在したし、別の畿内勢力も存在した。
- 199 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:13:16.98 .net
- >>196
そういう意味でしょう
他にどう取れば良いのか?
- 200 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:14:10.10 .net
- >>195
邪馬台国7万戸、投馬国5万戸、奴国2万戸、千戸、千家
魏志倭人伝を無視しすぎ
- 201 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:16:12.81 .net
- >>198
桜井茶臼山を見れば3世紀末にはすでにヤマト王権は強大であったことが分かる
椿井大塚山や黒塚も含めれば尚のこと畿内は別格である
なお、箸墓古墳も東田大塚も纒向矢塚も纒向勝山も行燈山も西殿塚もまだ開けてない
- 202 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:16:43.35 .net
- >>199
下賜品を見せびらかして卑弥呼が魏朝の後ろ盾を得ていることを示せと書いてある
- 203 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:17:34.15 .net
- >>92
逆やろ
生産に直接には携わらない世話人が千人もいて、それを支えられる大規模な生産力があったってことやろ
そもそも、それぐらいの生産力がなかったら遣使が百人もの生口を献上できないのではないか
生口百人の献上は中国側に記録されてるのだから嘘とは考えられない
- 204 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:19:04.09 .net
- >>102
「周牌算経の短里」は、実在の里呈ではなかったってこと
- 205 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:19:52.69 .net
- 鏡を配って慰撫せよとか一体どっから出てきたんだ……
- 206 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:21:28.85 .net
- >>205
ほとんどの学者がそのように解している
なぜなら、国中から三角縁神獣鏡が出てくるからである
- 207 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:23:37.02 .net
- >>206
ソースがあって○○だと解釈してるんじゃなくて
○○であってほしいから捻じ曲げて読んでもいいよねってのはどうかと思う
- 208 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:25:29.50 .net
- 最古級の纒向古墳群である纒向石塚(埋葬施設は未調査)、纒向勝山、東田大塚、纒向矢塚ぐらいは調査して欲しい
- 209 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:26:27.73 .net
- >>207
他に配布するものがないし、倭人の好物といえば銅鏡だ
- 210 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:27:29.02 .net
- >>163
>東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
畿内説
箸墓は卑弥呼の墓と主張
- 211 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:30:21.98 .net
- 方保田東原遺跡とかいう銅鏡すら出てこない場所に邪馬台国を比定する九州説
掘れば何でも出てくる畿内では見えているのに掘らない墳墓がわんさか
まさにロマンの宝庫
他方、掘って何か出てきそうな場所が全くない九州
- 212 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:33:25.81 .net
- >>180
でも、複数の物品を混ぜてとかしたら産地が不明瞭になるよ
不純物の存在比で産地を特定してるのに、混ぜたら存在比が変わっちゃうからね
- 213 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:34:56.07 .net
- 魏志倭人伝を読めば、魏帝が邪馬台国に貢物を勝手にあげたのではなく、倭人が魏帝に「これをよこせ」と要求したことが分かる
その中で、国中に配布された形跡があるのは銅鏡100枚だけである
- 214 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:35:09.55 .net
- >>207
それを言ったら曲解連発の九州説も即死確定だぞ
- 215 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:45:27.09 .net
- 現代人でも至難の業! 卑弥呼の船はなぜ大陸から帰れたのか
https://gendai.media/articles/-/96280?imp=0
- 216 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:53:47.84 .net
- >>201
九州説でいてくれてありがとう。
邪馬台国は三世紀初頭。
三世紀末から4世紀にかけて勢力を伸ばしてきた大和王権に飲み込まれた。
- 217 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:54:41.35 .net
- 『魏志倭人伝』から見えた邪馬台国への最も合理的なルート
「船の科学」で読み解けばこれしかない!
https://gendai.media/articles/-/96875?imp=0
とりあえず
瀬戸内海ルートの畿内説、神武東征ならびに邪馬台国東遷説は非常識だということがよく分かる
- 218 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:54:55.41 .net
- >>102
>周髀算経の短里で計算してるから畿内説はありえない。
>距離まで短里で一致してしまったので100%の裏付けが取れてしまっている。
>つまり当時も短里が用いられた。
>証拠を出さない限り、崩れないが100%計算で短里であることが出てしまっている。
>畿内説の方々残念でしたね。
すべて正しい。何の反論もできません。
- 219 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:55:20.71 .net
- 理性的な宇佐市長(佐賀県知事と大違い)
↓
市長コラム「赤塚古墳と小部遺跡 その1」(令和2年8月号)
県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘の中に、国史跡の川部・高森古墳群があります。3世紀末から6世紀にかけて造られた6基の前方後円墳を中心に、約120基の円墳や周溝墓が集中しています。
このうち赤塚古墳は推定墳長約58m、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳の一つです。大正10年、箱式の石棺から三角縁神獣鏡等5面や鉄刀などが出土しています。
三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府)や石塚山古墳(福岡県)と同じ鋳型で製作されています。
なお、三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚の一部で、赤塚古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があります。
魅力的な話ですが、赤塚古墳の築造時期は卑弥呼が銅鏡をもらった239年より半世紀余り後であることなどから説得力にやや欠けるようです。
赤塚古墳などの被葬者は、古墳時代に宇佐地方を支配していた宇佐国造家(くにのみやつこけ)の一族と考えられています。
ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。
- 220 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:57:08.46 .net
- 畿内説信者って基本的に学者も含め頭がおかしいと思う。
カルト宗教なんだろうな。
洗脳から抜けないんだと思う。
- 221 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 14:59:13.54 .net
- >>218
4箇所の渡海が全て千里
短里なるもので測ってないことが明らか
壱岐→末盧1000里
関門海峡1000里
- 222 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:00:28.64 .net
- >>220
天皇家、大和朝廷は三国志の時代には既に日本を統治していた世界で一番古い王朝なんだ!
みたいな願望に引きずられているんだろうね
- 223 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:02:36.97 .net
- >>176
600面全部スプリング8に通したんですか????????????????????
スプリング8って和歌山カレー事件で鑑定可能な精度がないってことが言われてるやつよね。
やっぱ九州説だろ。
- 224 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:04:35.01 .net
- >>222
天皇家の関係者はみんな九州説を推してるでしょ。
「邪馬台国?なんじゃその国?関係ない国を関係があるかのように言うのやめて!」っていうスタンスのようだし。
- 225 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:05:53.36 .net
- >>223
和歌山カレー事件の大きな証拠となっていることが明らかなのがスプリング8
判決文を読めば分かる
スプリング8の結果がなければ無罪を言い渡すしかない事件
- 226 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:11:21.07 .net
- >>222
何処かで王朝交代してても俺は気にしない
古代エジプトだってそうだろうし考えてもわからんし
ただ遺跡が何処に継続してるかだな
- 227 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:12:05.26 .net
- >>225
スプリング8って和歌山カレー事件で鑑定可能な精度がないってことが内外の専門家から指摘されてるから
死刑執行できないよね
冤罪の可能性高すぎで
- 228 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:16:36.88 .net
- 九州説は投馬国を合理的に否定してみろよ
朝鮮半島とかいう糞トンデモじゃなくて
- 229 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:16:38.81 .net
- >>227
河合の主張は単なる推測にすぎない
- 230 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:17:01.64 .net
- 否定じゃなくて比定ね
- 231 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:19:52.77 .net
- 正直なんでも渡来人のおかげみたいな言い方は抵抗があるのよ
神明造の建物なんて中国に無いでしょ?
日本人が作った特別な場所なのよ
- 232 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:19:57.64 .net
- スプリング8の結果も邪馬台国九州説もYouTubeだけで構成されている
素人が作った動画だけが判断材料
- 233 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:23:26.60 .net
- >>228
水行二十日を要し5万戸を擁する場所は半島が妥当でしょ
- 234 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:23:37.00 .net
- >>232
スプリング8は論文出てるよ
- 235 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:23:59.63 .net
- >>233
トンデモ説
- 236 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:24:46.53 .net
- >>233
不適切
韓人の国ばかりだと判明済みなので
- 237 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:25:44.99 .net
- >>235
じゃあそれが当てはまる場所は何処よ?
俺は九州説じゃないからな
- 238 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:25:45.37 .net
- >>234
>>227がいかに判決文を読んでいないかが分かってないし、お前も判決文を全く読んでいないことが分かる
大きな網をかけて適当に反論しようとしていることがバレバレ
- 239 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:26:19.16 .net
- >>237
吉備か出雲
- 240 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:28:38.81 .net
- >>239
それが5万戸ってか?
しかも吉備は途中の国がない
- 241 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:28:58.10 .net
- >>240
水行
- 242 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:29:55.00 .net
- >>241
出発は帯方郡からいきなり吉備って事か?
- 243 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:30:30.05 .net
- 朝鮮投馬国は俺が九州説をやめるきっかけになったので感謝している
- 244 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:31:00.21 .net
- >>242
放射読みなどあり得ない
- 245 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:33:38.48 .net
- >>228
吉野ケ里遺跡
https://youtube.com/shorts/N-S1I47nj-U?si=G1rlNLM2sH3JRgFc
- 246 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:34:33.97 .net
- >>244
放射読みじゃなくて正しいのは水行陸行だけだから
行き先が不弥国で出鱈目な短里なんてなんの意味もない
- 247 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:35:10.38 .net
- >>245
残念ながら、奴国の2.5倍の投馬国を吉野ヶ里に求めることはできない
- 248 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:38:07.56 .net
- >>247
吉野ケ里遺跡だけが投馬国だなんて思ってないよな?
吉野ケ里遺跡周辺の村落もあったろう
- 249 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:38:50.54 .net
- あと人口は盛ってるだろう
奴国にしても邪馬台国にしても
- 250 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:40:37.35 .net
- >>249
九州内に奴国を上回る国を想定することは不可能
- 251 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:45:54.45 .net
- >>220
>畿内説信者って基本的に学者も含め頭がおかしいと思う。
理由の言えない中傷ばかりいうのは頭がおかしい素人では?
- 252 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:46:06.81 .net
- 奴国は女王国連合の一加盟国に落ちぶれていたろ
多分倭国大乱で劣勢になっていたんじゃないか?
- 253 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:48:42.34 .net
- >>224
>天皇家の関係者はみんな九州説を推してるでしょ。
皇国主義の関係者はみんな九州説を推してる
- 254 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:51:26.12 .net
- >>253
尚、現実はこれ
九州説
弥生時代の絹は福岡、佐賀、長崎からしか出ていない。
邪馬台国は九州にあったのでは?
Q:なぜ絹が出土すると邪馬台国になるの?
A:魏志倭人伝に邪馬台国は養蚕して絹を紡いでるとあるから。
畿内説
纒向遺跡から桃の種が出た。しかもネズミに齧られていない。
邪馬台国は畿内にあったのでは?
Q:なぜネズミに齧られてない桃の種が出ると邪馬台国になるの?
A:・・・・
- 255 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:51:29.00 .net
- >>252
筑前奴国は確かに本州と比すると相対的に落ちぶれていく
とはいえ、>>20の通り鉄器の副葬でも九州ではナンバーワン
この奴国を上回る投馬国や邪馬台国を九州内に想定することができない
- 256 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:52:31.03 .net
- 邪馬台国や投馬国が奴国より大きいなんて魏志倭人伝には書いてないよなぁwww
- 257 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 15:57:52.69 .net
- 東京都より近畿地方の方が面積も広く人口も多いが、だから近畿が首都だ!というアホはいない
投馬国、邪馬台国というものを考え直した方がいい
- 258 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:00:27.19 .net
- >>257
ということを九州説に教えて下さい
- 259 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:02:53.64 .net
- 九州説の人は魏志倭人伝の記述や遺跡や出土品で九州説なんやで?
- 260 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:07:14.61 .net
- ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑
長江下流域で出土した土器(南京博物館)
http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip
.
- 261 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:07:39.43 .net
- >>259
YouTubeで構成されているのが素人九州説
- 262 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:14:44.68 .net
- 吉野ケ里が投馬国なら邪馬台国は何処なんだよ
- 263 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:18:43.34 .net
- >>262
方保田東原遺跡とかいう吉野ヶ里よりショボイのが邪馬台国らしい
- 264 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:20:53.68 .net
- >>209
そもそも配布するとか配布しろなんてどこにも書かれてないんだよな
捻じ曲げて読んでるひとはいるけども
- 265 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:22:57.41 .net
- >>255
出雲や鞆や奈良にも想定することができない
- 266 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:23:04.97 .net
- こんなとこ
方保田東原遺跡は、熊本県北部の菊池川とその支流の方保田川に挟まれた台地上に広がる弥生時代後期から古墳時代前期(今から約1700~1900年前)に繁栄した大集落遺跡です。
これまでの調査の結果、幅8mの大溝をはじめとする多数の溝や100を超える住居跡、土器や鉄器を製作したと考えられる遺構が見つかっています。また、全国で唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器である巴形銅器など数多くの青銅製品や鉄製品が出土しており、この遺跡の国力の強さがうかがい知れます。
このほか、山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども出土しており、交易でも繁栄していた集落であったことが分かってきました。これらの発見から、菊池川中流域の拠点的な集落であったと考えられています。
昭和60年2月19日、熊本県における弥生時代の重要な集落遺跡として国から史跡の指定を受け、さらに平成18年7月28日に追加指定を受けました。現在、約11haが指定範囲となっています。史跡の一部は芝生公園として整備されています。
現在のところ、発掘調査が行われた面積は、遺跡全体の5%にも達していません。今後の調査によって、皆さんをアッと言わせるような数々の発見が期待されます。
- 267 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:24:03.28 .net
- >>266
なんだ、ただの邪馬台国じゃん
- 268 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:27:24.32 .net
- >>266
吉野ヶ里よりも唐古・鍵よりも妻木晩田よりも纒向よりもショボイ7万戸邪馬台国方保田東原遺跡
- 269 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:27:58.72 .net
- >>266
>このほか、山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども出土しており、交易でも繁栄していた集落であったことが分かってきました。
ほえ~ここにいったい何があったんやろなあ
- 270 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:28:13.15 .net
- >>265
奈良が邪馬台国の都
出雲は投馬国の一部の可能性を想定できる
- 271 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:29:04.47 .net
- >>270
倭国の都の邪馬臺国のさらに都いうんを想定するんか
- 272 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:33:04.09 .net
- >>271
考古学者の大多数は邪馬台国大和説(歴博館長佐原真)
畿内のどこかではなく大和であると
纒向であると考えられる
- 273 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:35:16.43 .net
- >>272
旧石器捏造事件の時と同じだなw
おかしくね?と指摘した学者は干されたり辞めさせられたりした
- 274 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:39:13.54 .net
- >>266
https://i.imgur.com/Ca1kQjP.jpg
こないだうpった図は結構いい線いってたのか
- 275 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:46:25.23 .net
- 山鹿市の方保田東原遺跡は、奴国を福岡市辺りに、投馬国を筑紫平野内に比定すれば、南を東に読み替える必要もなく、放射読みも必要ない
日本国内で倭人伝の地理条件に最も適合する場所と言っていい
さらに広志は邪馬台を邪馬嘉と書く
- 276 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:46:51.00 .net
- 奴国が落ちぶれたってじゃあ最盛期の遺跡は何処よ?
- 277 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:48:34.10 .net
- >>276
奴国の須玖岡本
- 278 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:49:52.45 .net
- 邪馬台国は置いといて、
実在が確実視されている最古の天皇が崇神天皇と言われている。
3世紀の大型建物が纏向に見つかったなら、
崇神天皇の実在について検討するべきなのに、
なぜにしない?
- 279 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:51:46.13 .net
- 山鹿市 現在人口4万6千人 古代7万戸
- 280 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:52:39.51 .net
- >>175
>なんでそんな嘘つくん?
733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
>なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
その見解が期限切れなので嘘じゃなくて本当
布目先生はその後、下池山から出た絹が魏に献上されたものと同じタイプで
九州から出る弥生絹とはレベルが違うことを科学的に実証した
昔の本には今は通用しない古い情報が多く載っている
直立したティラノザウルスのようなもの
- 281 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:53:48.77 .net
- 方保田東原からは倭人の好物銅鏡が出ないから無視して良い
- 282 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:54:43.61 .net
- >>275
不弥国から2ヶ月もかからない
- 283 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:57:17.72 .net
- >>273
干されてない
考古学者の九州説は高島忠平しか存在しないが、定説畿内説でも寺澤は自ら「異端」と称しており、バチバチのバトルが繰り広げられている
- 284 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 16:57:47.94 .net
- >>282
完全に一致とは言っていない
距離は里数日数ともに盛られているとするだけで良い
里数は盛られてて日数は盛られてないとする方がむしろ不自然だ
- 285 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:01:21.21 .net
- >>284
日数は盛れない
- 286 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:01:53.54 .net
- >>279
政治的な中心から外れれば人口も減るだろう
あと菊池川流域というのもポイントだな
狗奴国の官を狗古智卑狗(一般的には「くこちひこ、ここちひこ」と読むが「くくちひこ」(菊池彦)「かわちひこ」(河内彦)とする説がある)
邪馬台国は狗奴国に負けて狗奴国の菊地彦が邪馬台国の地域を支配し
川の名前を菊池川に変えたのかもしれない
- 287 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:03:13.29 .net
- >>280
ソースは?
- 288 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:05:31.05 .net
- >>280
下池山古墳のwiki
墳丘長約120メートルの前方後方墳である。1995年(平成7年)から1996年(平成8年)にかけて奈良県立橿原考古学研究所により竪穴式石室の発掘調査が行われた。
多数の板石の用いられた石室は、長さが6.8メートルで、その内部からは木棺とともに鉄製品等が出土している。
石室の北西側からは小石室が検出され、その内部で大形の内行花文鏡が発見された。共伴する遺物等より、
古墳の築造時期は4世紀前半頃と推定される。
『古墳の築造時期は4世紀前半頃と推定される』
な、畿内説はこんなのばっかりwww
- 289 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:07:29.01 .net
- 権力者が鉄器を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
- 290 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:07:36.13 .net
- >>280
>魏に献上されたものと同じタイプ
ほう興味深い
魏に献上されたものはどうやって特定したのか
- 291 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:07:41.35 .net
- >>288
死んでから副葬するので問題ない
生きてるうちに、絹や鉄器を墓に入れる馬鹿はいない
- 292 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:10:00.53 .net
- >>289
>外部からの征服だろうよ。
征服するような敵がいない。 倭人(阿波勢力)が進出しただけ。 @阿波
- 293 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:10:09.53 .net
- まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
- 294 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:10:40.98 .net
- >>277
破壊されてるが遺跡群の規模はほしいところ
ただそれぞれの年代がわからんのな
- 295 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:10:48.51 .net
- >>291
分かってないね
邪馬台国は古墳時代じゃなくて弥生時代だよ
弥生時代に作られた絹を4世紀前半に埋めた可能性はあるけど
その絹が奈良で作られたものとは限らないから邪馬台国の場所の証拠としては弱い
奈良が中国の歴史書に書かれるくらい絹の産地ならもっと古い遺跡からもっと沢山出てこなければおかしい
- 296 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:10:59.71 .net
- 九州の絹って弥生中期の首狩り甕棺墓時代のだろ
- 297 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:12:14.57 .net
- >>296
イコール邪馬台国
- 298 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:13:03.72 .net
- >>295
畿内第V様式圏が邪馬台国なんで全く問題ない
- 299 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:14:07.09 .net
- 銅鐸環濠集落方形周溝墓がド没落
入れ替わった権力者が鉄器絹銅鏡を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
- 300 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:14:09.60 .net
- >>295
それは関係ないと思うが
使ってれば作ってるんだろうと思うだろうし
- 301 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:15:12.99 .net
- >>297
首狩り甕棺墓は2世紀までにはど没落してるよ
- 302 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:17:37.51 .net
- >>299
鉄器で作業していたと見るべきである
- 303 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:18:23.08 .net
- 生口
卑弥呼の墓に殉葬されたのは奴婢
でわ、生口とはいったいどこからあらわれたのだろうか?
船行一年
- 304 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:19:01.98 .net
- >>302
じゃあなんで大量の木製農工具が出土する?
- 305 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:19:08.60 .net
- >>285
理由は?
- 306 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:19:33.35 .net
- >>299
>外部からの征服だろうよ。
征服するような敵がいないんだからどうしようもない。 倭人(阿波勢力)が進出しただけ。 @阿波
- 307 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:19:35.64 .net
- >>304
畿内では鉄が溶けて木だけ残った
- 308 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:20:41.01 .net
- >>304
九州でも木製農具は当然使用されており、完全な鉄器化を果たしたのは古墳時代前期と考えられる
- 309 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:26:36.51 .net
- >>278
>なぜにしない?
学者はそんなヒマではないから
- 310 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:28:12.62 .net
- >>304
>じゃあなんで大量の木製農工具が出土する?
掘るのが主に泥だから
- 311 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:29:59.64 .net
- >>309
日本の学者だろ?
邪馬台国は置いといて、
実在が確実視されている最古の天皇が崇神天皇と言われている。
3世紀の大型建物が纏向に見つかったなら、
崇神天皇の実在について検討するべきなのに、
なぜにしない?
- 312 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:30:10.66 .net
- >>300
2000年後に日本の500円硬貨が1万枚見つかる場所と500枚見つかる場所
どちらが日本である可能性が高いかは教えて貰わなくも分かるよな
- 313 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:30:44.47 .net
- >>310
じゃあなんで墓に大量の鉄製農工具がある?
いらんだろ
- 314 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:31:11.44 .net
- >>305
>理由は?
日付と合わなくなるから
- 315 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:32:39.20 .net
- 銅鐸環濠集落方形周溝墓がど没落している
入れ替わった権力者が鉄器絹銅鏡を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
つまり、1世紀から続く倭国ではなーい!
- 316 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:32:41.23 .net
- >>295
>分かってないね
>邪馬台国は古墳時代じゃなくて弥生時代だよ
そう決めつける理由は?
- 317 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:33:31.88 .net
- >>311
どうせそんな奴居ないだろうし
- 318 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:34:22.82 .net
- >>317
そんな奴?とわ?
- 319 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:34:32.57 .net
- >>312
どっちも日本でしょう
- 320 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:34:55.15 .net
- >>317
古代の天皇
- 321 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:35:06.36 .net
- >>314
なんの日付?日報?
里数を盛っても日付と矛盾するんじゃないか?
里数部分は日付を調整できるのに日数部分は調整できないの?
- 322 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:36:04.68 .net
- >>316
魏志倭人伝
- 323 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:36:37.02 .net
- >>319
500枚くらいなら海外でも見つかるよw
- 324 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:37:21.44 .net
- 書いてある事は正しいと思ってるよ
ただし日数行程だけ
- 325 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:38:17.65 .net
- >>323
知らんがな
使ってるのを見たら作ってるんだろうと思うだろうが
- 326 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:42:41.09 .net
- >>325
硬貨じゃなくても車でもなんでも構わないよ
日本で見つかる車の国産車と外車の割合
ドイツで見つかる車のドイツ車と日本車の割合
アメリカなら多数の日本車が見つかると思うけど
日本におけるアメリカ車の割合と合わせて比べれば
どこが2000年前に日本だったかは容易に、合理的に推測出来る。
畿内が邪馬台国なら北部九州より古くから、北部九州より沢山絹が見付からなければならない
- 327 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:45:55.45 .net
- >>326
北部九州より古い絹を出す必要がない
- 328 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:45:56.53 .net
- >>326
何言ってんのかわけわかんねえ
使者はそこで見たものを書いてるだけだから
- 329 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:48:42.63 .net
- >>327
(iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える
- 330 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:54:56.07 .net
- あくまで可能性の話しだけど琴の弦に絹を使ってた可能性はある
- 331 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:55:43.43 .net
- ハルキーさんが九州説なんだし九州だろw
あんな詳しい人が間違えるわけないし。
- 332 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:57:19.98 .net
- 遅くとも、筑前型庄内藩の成立以降は博多奴国は畿内の飛地となるから、庄内期は北部九州で出る物は当然畿内でも出ると考えられる
ちなみに、セミプロ九州説のハルキーさんは、昨日のふるしょうライブでは、「庄内期が畿内が九州を逆転した時期」と書いてたな
布留ゼロで畿内が九州を逆転するとしたトナカイのとは違い、九州説としてはかなり早い時期を想定したと言える
- 333 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:57:43.99 .net
- >>331
自分の頭でモノを考えない九州説らしい言い方
- 334 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 17:59:43.75 .net
- >>331
あの人は九州説だが尊敬できる
非常に詳しい
が、さらにそれより詳しい考古学者とかいう超絶プロがゴロゴロいる
- 335 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:00:15.48 .net
- >>329
弥生時代の実年代が大昔とは違うから
今じゃ九州説の致命傷になったね
- 336 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:01:26.98 .net
- >>329
え?畿内が北部九州より古い絹を出す必要があることが書かれてませんが?
- 337 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:05:31.06 .net
- >>223
大量生産されてるであろう化学薬品で同一ロットだと証明されても、同じ瓶かどうかの証明にはならんやろ、て程度の疑義やろ、それ以上の精度を出せる分析方法なんて存在しないと思うのだが
- 338 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:09:29.06 .net
- >>336
頭悪くない?
魏志倭人伝には邪馬台国では養蚕して絹を紡いでると書いてある
もし畿内に邪馬台国があったのなら畿内にこそ養蚕して絹を紡いでいたという証拠が
北部九州より沢山見付からなければおかしいだろう
でも現実には紀元前から2~3世紀までの絹は北部九州からしか見付かっていない
邪馬台国は2世紀後半から3世紀後半に存在したことが魏志倭人伝で確認されてる
つまり2~3世紀に養蚕して絹を紡いでいた北部九州以外に邪馬台国であり得る場所は
日本の何処にも無いんだよ
- 339 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:11:02.86 .net
- >>259
三十年四十年前の古い出土状況ならともかく、今の考古学の出土状況、分析状況で九州説は無理やろ
- 340 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:11:41.37 .net
- 鳥取会見郡の妻木晩田遺跡
卑弥呼も卑弥弓呼もここに縁があるんじゃないか?
卑弥呼の縁戚台与は丹後半島のトヨウケとすると妻木晩田遺跡とも近い
倭国大乱で統治が効かなくなり妻木晩田遺跡がパワーバランスを左右する存在になっていたのかもしれん
まさかな妻木晩田が高天原の元ネタとかあるのかな?
原とは何なのか?
伯耆国風土記逸文
相見郡
群家の西北には餘戸里と粟嶋(あはしま)がある。
少日子命(スクナヒコ)が粟を蒔いたので、莠(はぐさ?)がよく実って垂れた。そこで粟に乗ると弾かれて常世国に渡った。故に粟島という。
- 341 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:12:05.46 .net
- >>339
頑張るねぇ詐欺師さん
- 342 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:15:34.08 .net
- 纏向遺跡も事後処理を謝ればまたまた暗闇の時代になっていてもおかしくない
鈴芽の戸締りの世界じゃないかまるで
一旦身を引き事態収拾に汗も血も流したのは誰なのか
- 343 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:15:59.91 .net
- >>339
五万戸七万戸を念頭に日本で一番大きな国と考えるくせに
当時の日本列島にそんな集落はどこにも存在しなかったとかギャグかな
- 344 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:17:09.54 .net
- >>339
>頭悪くない?
>魏志倭人伝には邪馬台国では養蚕して絹を紡いでると書いてある
どこに?
頭悪いね
- 345 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:19:50.35 .net
- >>337
そもそも和歌山カレー事件のスプリング8と三角縁神獣鏡のスプリング8の結果を比べて、
「和歌山カレーが冤罪と言われているから、三角縁神獣鏡も間違いだ」と言ってる連中は、
・和歌山カレー事件のスプリング8は何を測定したのか?
・河合教授はスプリング8の結果は一致しないと言っているが、何と何が一致してないと主張しているのか?
ということさえ理解していない。
理解できている人は三角縁神獣鏡のスプリング8の結果について、和歌山カレー事件を持ち出さない
なぜなら、林真須美宅の亜ヒ酸、林真須美実兄宅の亜ヒ酸、前に住んでいた家のガレージの亜ヒ酸、東カレー鍋の亜ヒ酸、青色紙コップの亜ヒ酸が、
中国のAという工場で、かつ同じ時期に作られた亜ヒ酸であることは間違いないからだ。
中井教授は韓国製亜ヒ酸、メキシコ製亜ヒ酸なども示して、嫌疑亜ヒ酸と林真須美亜ヒ酸の違いを説明しているが、冤罪派の連中はそもそもそれすら見てない
- 346 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:21:05.56 .net
- >>338
使者は別に全国行脚して絹の生産量調べてるわけじゃないから
- 347 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:22:59.20 .net
- >>338
見つける必要がない
奴国は畿内の飛地であるから、仮に畿内では絹をつむいでなかったとしても魏志倭人伝との整合性はとれている
- 348 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:24:24.49 .net
- >>339
九州説は絶滅危惧種になったからね
東京大学ですら、畿内説の論文を出したが、今はそもそも邪馬台国に口を挟む東大教授さえいなくなった
- 349 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:25:15.80 .net
- >>340
山陰がないと近畿に輸入品が入ってこないのよね
だから敵とは思わない
- 350 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:25:22.93 .net
- >>343
定説畿内説はそんなことを主張してない
- 351 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:26:56.41 .net
- >>340
妻木晩田は九州説のおす方保田東原遺跡や吉野ヶ里遺跡より5倍もでかく、鉄も250点出してますからね
- 352 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:27:00.96 .net
- >>348
その論文ってどれ?
- 353 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:27:54.48 .net
- 銅鐸環濠集落方形周溝墓がど没落している
入れ替わった権力者が鉄器絹銅鏡を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
- 354 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:29:25.19 .net
- >>353
俺だったらそんな村出ていく
- 355 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:29:37.98 .net
- >>351
デカいからどうしたっていう
- 356 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:30:18.53 .net
- >>352
これには、三角縁神獣鏡というコピーを共有する意義について考えてみる必要がある。紀元前1世紀から紀元後3世紀、倭の国々は国家形成の胎動のなかで、中国の文物とりわけ銅鏡に付加価値を見いだし、各首長は積極的に中国に朝貢して、銅鏡の獲得と中国の政治的な後ろ盾を得ようとしたと思われる。中国所産の多様な鏡が舶載して倭国内に持ち込まれることになるのである。同じものを共有して持つことの意義を考えると、汝の好物の一つである銅鏡百枚とは、弥生時代のこれまでの倭の国々が獲得してきた多種多様な鏡ではなく、同質の鏡百枚であった蓋然性が高いと思われる。
三角縁神獣鏡が魏の皇帝から下賜された銅鏡百枚であれば、『魏志』倭人伝にも記されているように朝貢して下賜された鏡などの「もの」をさらに従属する人たちに贈与することにより、自らの政治的な威信と秩序を手に入れることができたと思われる。それが、異なる鏡であれば、弥生時代のそれぞれの首長が諸国ごとに中国から入手したあり方と同じであり、質的に変わらない分与のあり方は、共通の基盤を有する国家のあり方としては弱い。むしろ、それは、三角縁神獣鏡という同じものを持つことにより、下賜する者とされる者が同じ「もの」を共有し、「まつりごと」に使用することにより、同じ社会的秩序に属し、それを受け入れることを表し、同じ「もの」を持つことにより、授ける側と受ける側の同質化が生じる、その一方で授ける者と受ける者という政治的身分の序列化が明確になったと思われる。
↑
そのままコピペして検索
- 357 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:30:37.28 .net
- 九州説ってデマ以外の何かを主張したこと有った?
- 358 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:30:47.27 .net
- >>355
おまけにお金持ち
輸入利権を握ってるな
- 359 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:31:30.58 .net
- >>347
畿内って相変わらず主語がデカすぎる
纏向とはどうなんだって言うのが畿内説のキモだろうが
- 360 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:32:08.43 .net
- >>338
>でも現実には紀元前から2~3世紀までの絹は北部九州からしか見付かっていない
そんな現実ない件について
- 361 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:32:09.73 .net
- >>358
九州と畿内の鉄が逆転するのは3世紀後葉だそうな
- 362 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:32:44.99 .net
- >>354
>俺だったらそんな村出ていく
ちくしょう、見えすいた誘いだが、乗らざるをえないぜ、くっ、、
はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら文身ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪
- 363 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:32:52.44 .net
- うーん
絹が出てこないからと言って別に畿内説には不利にならないのだ!
そういう言い分はさすがに強弁が過ぎる
「絹に関しては九州に有利だが…」程度にしておいた方が良い
- 364 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:33:05.97 .net
- >>359
魏志邪馬台国伝なら、まあ理解できるが
魏志倭人伝なんで別に
- 365 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:34:03.73 .net
- >>363
絹は出ている
桜井茶臼山でも出てるので問題なし
- 366 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:34:04.54 .net
- >>361
青銅器が思いっきり入ってきてるから
青銅器の方が貴重品だよ
- 367 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:34:48.54 .net
- >>366
銅鐸文化圏という考え方は消えてなくなったな
- 368 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:35:23.52 .net
- >>361
畿内は墓への副葬で逆転するから、遅くとも3世紀半ばには畿内では鉄器が溢れていたことになる
- 369 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:36:18.43 .net
- >>361
古墳は無しね。
北部九州倭国の征服の可能性が高いから。
比較するなら、集落遺跡からの鉄器出土量が逆転するのがいつか?
- 370 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:36:41.74 .net
- >>367
どういう事かわからん
青銅器も輸入品
- 371 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:37:08.64 .net
- >>368
被征服民はあわれにも木器で重労働
- 372 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:37:20.59 .net
- 銅鐸環濠集落方形周溝墓がど没落している
入れ替わった権力者が鉄器絹銅鏡を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
- 373 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:38:34.81 .net
- >>344
種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲
「禾稲、紵麻を種まき、蠶桑す。緝績して、細紵、縑、緜を出だす。その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし。」
「稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹わたを生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。」
- 374 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:38:59.16 .net
- >>369
筑前型庄内甕の成立により、奴国は畿内化されているのでそれは不可能
- 375 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:39:40.00 .net
- >>368
権力者のお宝として墓への副葬で九州を逆転できたわけで
畿内では貴重品だぞ
- 376 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:40:01.11 .net
- 加工して銅鐸や銅剣作ったら出雲さんが良い値で買ってくれたんでしょう
- 377 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:41:35.68 .net
- >>360
違うよ、ここからも見付かってるよ
という反論はなんどもみたけど
全部三世紀末から4~世紀のものだった
それは弥生時代の絹は北部九州のみからという事実は覆せていない
- 378 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:43:54.43 .net
- >>375
鉄器は一大率や狗奴国との関連から単に副葬するだけの機能であったというべきでない
また、4世紀に入ると半島侵攻を始めるのであるから、大量に保有していた鉄器のごく一部を副葬したというべきである。
- 379 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:44:09.04 .net
- >>377
纏向遺跡と稲部遺跡から出てるんだけどね
- 380 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:45:33.58 .net
- >>377
生きているうちに副葬すべきでないから、3世紀末から4世紀は全く問題ない
- 381 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:45:37.44 .net
- >>361
絹が北部九州から畿内に広がるのも三世紀末から
古墳に鏡を埋葬する文化も三世紀末から畿内に広まってる
つまり仮に邪馬台国が大和王権、又は大和の雛型だったとしても
三世紀末に九州から畿内に移って行ったということを示唆している
纒向遺跡は九州から畿内に政治的な中枢を移す際の橋頭堡だったのかもな
- 382 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:46:42.97 .net
- >>379
それも三世紀末
- 383 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:46:43.72 .net
- >>381
住居ゼロの湿原に政治中枢を移動?www
- 384 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:47:20.66 .net
- はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら文身ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪
- 385 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:47:26.47 .net
- >>381
>絹が北部九州から畿内に広がるのも三世紀末から
証拠でもあるの?
- 386 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:47:33.86 .net
- >>382
年代測定が間違ってるってか?
- 387 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:47:43.18 .net
- >>383
橋頭堡の意味分かる?
- 388 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:48:22.78 .net
- >>385
>>175
- 389 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:48:56.81 .net
- 銅鐸環濠集落方形周溝墓がど没落している
入れ替わった権力者が鉄器絹銅鏡を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
・
- 390 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:49:01.98 .net
- >>381
定説畿内説だが、それならば不可能ということもない
- 391 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:49:02.52 .net
- >>383
>住居ゼロの湿原に政治中枢を移動?www
住居ゼロという妄想をやめないと九州説は世界の孤児で終わる
- 392 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:49:04.78 .net
- >>295
そりゃまあ、税もしくは貢納物として奈良に持ち込まれた可能性があるかもしれんから、奈良で作られたとは限らんかもな
支配下の地域から持ち込まれただろうとしか。
- 393 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:50:05.81 .net
- >>391
住居ゼロという考古学成果!
- 394 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:50:40.72 .net
- >>382
>それも三世紀末
妄想で終わる九州説
- 395 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:51:05.08 .net
- 銅鐸環濠集落方形周溝墓がど没落している
入れ替わった権力者が鉄器絹銅鏡を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
生口はどこからやってきたのだ?>船行一年
・
- 396 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:51:36.66 .net
- >>304
古代には、鉄は希少品だったから、農機具の刃の部分に嵌め込んで本体は木製品ってのが農具の主流やん
それと、古代の農業では、農機具は領主豪族の所有物で、農民に貸し出されていたと考えられている
- 397 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:52:19.59 .net
- >>396
木製農工具で奴隷労働w
- 398 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:52:28.72 .net
- >>389
九州説、妄想で終わった
- 399 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:52:56.73 .net
- >>386
纒向遺跡の絹
きんちゃく袋は高さ約3.4センチ、幅約3センチ、厚さ約2.4センチ。ふっくらとした形で口はひもを数回巻き付け、縛っていた。
1991年、古墳時代前期(3世紀後半)
の幅約2メートル、深さ約60センチの溝から大量の土器や木製盾などと一緒に出土したが、絹の詳しい由来や袋の中身は不明だった。
https://usfl.com/news/18658
- 400 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:52:58.70 .net
- 定説畿内説だが、>>381の考えは不可能とは言えないが、纒向に移ったのが3世紀末はさすがに遅すぎる
3世紀初頭以前ならば、不可能と言えなくもない
畿内自生説とは相容れないが
- 401 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:53:06.01 .net
- >>311
研究する人にとって、労多くして益少なし、と思われてるから研究されてないだけじゃないの
- 402 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:53:06.06 .net
- 銅鐸環濠集落方形周溝墓がど没落している
入れ替わった権力者が鉄器絹銅鏡を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
生口はどこからやってきたのだ?>船行一年
あ!!征服されたんだ!!
・
- 403 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:53:25.67 .net
- >>394
>>399
- 404 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:53:54.15 .net
- >>401
邪馬台国は置いといて、
実在が確実視されている最古の天皇が崇神天皇と言われている。
3世紀の大型建物が纏向に見つかったなら、
崇神天皇の実在について検討するべきなのに、
なぜにしない?
- 405 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:54:08.70 .net
- >>395
ヤケクソの連呼になったな
九州説いつもの完敗パターンだ
- 406 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:54:46.20 .net
- >>399
>絹の詳しい由来
は!?
わかったぞ!!
北部九州倭国からの征服者が持ってきたんだね!
・
- 407 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:55:14.07 .net
- 銅鐸環濠集落方形周溝墓がど没落している
入れ替わった権力者が鉄器絹銅鏡を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
生口はどこからやってきたのだ?>船行一年
・
- 408 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:55:59.39 .net
- >>399
稲部遺跡と同じ矢入れの靫ってのが出てるらしいわ
- 409 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:56:10.22 .net
- >>329
時差の存在、長く独占していたと言う解釈は、ほかの地域から出てない時期が長いという、当時の出土状況を開陳してるだけで、それ以外の意味を含んでないやろ
- 410 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:56:47.04 .net
- >>404
考古学はそんなことをする学問ではないから
暇な考古学者はやってるかも
しかし、難しいだろう
魏志倭人伝はリアルタイムに極めて近いが、記紀はリアルタイムから500年後
- 411 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:57:31.48 .net
- >>399
3世紀後半を3世紀末に改竄する九州説いつものパターン
- 412 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:57:57.36 .net
- >>410
邪馬台国は置いといて、
実在が確実視されている最古の天皇が崇神天皇と言われている。
3世紀の大型建物が纏向に見つかったなら、
崇神天皇の実在について検討するべきなのに、
なぜにしない?
- 413 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:58:30.27 .net
- >>378
願望100%で草
- 414 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:59:04.52 .net
- >>409
余所でも作っていたなら出てきてなきゃおかしいだろ
というか絹は高級品だから秘匿して独占した方が単価高くなるしな
支配地が広がったのならそこでも養蚕して絹を作るのも分かる
だから三世紀末から日本各地に広まったのでは?
- 415 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:59:12.41 .net
- >>331
アインシュタインが量子力学を、そんなのありえねーっつってつよく否定した事実からも分かるように、賢い人でも間違えることは珍しくない
むかし、アップルのジョブズが、お前が赤字の元凶じゃとでも言われたのか追い出されて他で会社を作ったこととか、後の推移を見れば信じられんやろ
- 416 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:59:16.56 .net
- >>412
もういいから
崇神なんて居ねえから
- 417 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 18:59:52.02 .net
- 九州説と韓国の起源説って双子みたいに似てるね
OINKyusyu
- 418 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:00:08.09 .net
- 孝霊山の麓の妻木晩田遺跡
弥生時代後期を中心に中期終わり頃から古墳時代前期初頭
青谷上寺地遺跡
遺跡は弥生時代前期後半に集落としての姿を現し、中期後半に著しい拡大を遂げ後期に続くが、古墳時代前期初頭に突如として姿を消す
事代主
船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった
事代主は方針を真逆に変え青柴垣に隠れたということか?
青とは?
妻木晩田と青谷上寺地が手を結んだのか?
- 419 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:00:13.71 .net
- >>412
書いた通り
記紀がリアルタイムでないので、これを崇神と結びつけようとするのはリスクだし、考古学者の領域でない
- 420 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:00:51.49 .net
- >>411
どっちも同じ意味だろう
三世紀後半の方が範囲は広いかも知れないが50年までは差が無いんだから
三世紀末じゃなくて後半という言い方でも結論は変わらない
- 421 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:01:00.39 .net
- 日本古代史の転換点は九州と畿内で鉄の出土量が逆転する3世紀後葉なんだな
3世紀後葉に一体何が起こったんだろうな
- 422 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:02:24.05 .net
- >>418
妻木晩田と青谷上寺地を比較すると、どう考えても妻木晩田が圧倒すると考えられる
手を組んだかどうかで言えば、卑弥呼以降は手を組んだろう
が、卑弥呼以前は戦争していた蓋然性が高い
- 423 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:02:57.98 .net
- はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら文身ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪
- 424 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:03:51.16 .net
- 銅鐸環濠集落方形周溝墓がど没落している
入れ替わった権力者が鉄器絹銅鏡を独占していて、
一般人は木器で作業の住居なし蛙食ということは、
外部からの征服だろうよ。
生口はどこからやってきたのだ?>船行一年
あ!!征服されたんだ!!
・
- 425 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:04:25.66 .net
- >>343
弥生時代当時の人口は、関東から九州まで全部合わせて十数万戸やぞ
単一集落で五万戸なんていう巨大都市はあり得ない
そんな多くの人口が集中する大都市は平城京が最初やろ、藤原京ですら、もう少し少ない
- 426 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:05:37.96 .net
- >425
したがって九州説は排除される
- 427 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:05:47.10 .net
- >>348
むかし、邪馬台国九州説の本丸だった東大も、今では見る影もないな
- 428 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:06:12.20 .net
- >>420
>どっちも同じ意味だろう
ほら、詐欺師の強弁
- 429 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:07:44.66 .net
- >>427
ですね〜
まあこれだけ状況証拠が出てきたら、九州説は無理ゲーでしょう
- 430 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:08:30.76 .net
- >>361
その時期に逆転したのなら、邪馬台国の成立を契機として九州よりも畿内の方が多くの鉄を副葬できるようになったって意味やろ
邪馬台国が九州ならば逆転の時期は四世紀半ば以後にならないと無理やろ
- 431 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:09:34.53 .net
- >>421
畿内邪馬台国の臺与が倭国を固める時期と一致
- 432 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:09:57.94 .net
- >>421
250年頃に卑弥呼死ぬ
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
「新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
また、卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。」
現存する『晋書』武帝紀と四夷伝では、文帝(司馬昭)の時代(255~265年)及び武帝(司馬炎)の266年に倭人が朝貢したことは書かれている。
266年に朝貢したのが壱与なら266年には男王は失脚していた
その男王が九州から叩き出されて纒向辺りに行ったとか
- 433 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:09:59.69 .net
- >>425
大きな国だから邪馬臺国は纏向ダーという理屈の根本から崩れさりました
- 434 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:11:25.48 .net
- >>431
台与が国中遂定したのは247年
- 435 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:13:05.89 .net
- >>425
別に単一集落なんて書いてないじゃん
- 436 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:15:22.27 .net
- >>393
巻向の発掘の大多数は、戸建住宅を立て替える際の発掘なので個人住宅一軒分の狭い範囲しか掘ってない
たまに、もっと大きな開発に伴う広い発掘(等の大規模な発掘調査)もあるが、300回ぐらい?の発掘の大多数は一軒分だけ
掘った範囲が狭いから住居跡があんまり見つかってないだけやろ
開発時じゃない学術目的の場合は、できるだけいいものが出そうな場所を発掘したいんだから、(戦国時代や近世の町で言うなら)城下町ではなく天守閣みたいなとこを選んで発掘するから、ますます住居跡が出にくい
- 437 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:15:44.81 .net
- 全ては三角縁神獣鏡で決まる
- 438 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:17:19.04 .net
- >>404
誰かが研究費を寄付してスポンサーになれば研究されるんじゃないかな
お前さんがポンと寄付したらいいよ
- 439 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:20:35.23 .net
- >>425
すまん間違えた、単一都市での五万戸の住民は平安京にならないと無理や
- 440 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:28:25.70 .net
- つまり畿内説は4世紀の作り話でしたと
- 441 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:51:31.73 .net
- ニセ情報だけが九州説の生きる道
それ、死んでるわ
- 442 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 19:51:45.83 .net
- 青谷上寺地遺跡、西川津遺跡、大阪の雁屋遺跡、池上曽根遺跡は同じ形の鳥形の集落
だな
- 443 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 20:29:03.89 .net
- 日本書紀を書いた人は、魏志倭人伝の卑弥呼のためにわざわざ神功皇后を創作したのに
なんで倭の五王は完全スルーしたのだ?
こっちは天皇自らがぺこぺこしてることになるから、どうやっても言いつくろえない
そういうことなのか?
- 444 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 20:37:38.20 .net
- 台与の生家は伊都国王家。
- 445 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 20:39:40.16 .net
- >>443
神功は昔は天皇だった
近代になって改竄されたけど
- 446 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 20:45:54.83 .net
- >>445
神功皇后「3年前のセックスで懐妊した天皇の子供を福岡で産みました」
武内宿禰「応神天皇が生まれた福岡のカダの近くにわしが祀られております。わし、ずっと神功皇后と一緒で一緒に福岡を通りました」
????「旦那の天皇の名前は仲哀天皇とする」
明治の人「神功皇后を歴代天皇から外せ!はやく!」
大正の人「外しました」
- 447 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 20:49:19.65 .net
- 仲が哀しい天皇やったんか
- 448 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 21:03:40.47 .net
- 武内宿禰の先祖は孝元天皇
- 449 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 21:05:07.00 .net
- >>448
武内宿禰の伝承があるのは「阿波」だけ。 @阿波
- 450 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 21:42:14.57 .net
- 武内宿禰を祀っている黒男神社は宇佐神宮内にひっそりある
- 451 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 21:47:34.91 .net
- >>338
邪馬台国があった時代に畿内に絹があれば、それより古い時代に九州からしか出ないとしても何も問題ないって意味やろ
んで、九州からしか出なかった時代も他の年代と同じく、古い研究の頃より遡ってる
- 452 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 21:47:58.06 .net
- 大分出身の竹内力は子孫だな
- 453 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 21:50:34.81 .net
- 古代山鹿市に7万戸の邪馬台国、菊池市にそれを制圧する菊池彦率いる狗奴国軍は居たとは、熊本民の俺としては胸アツだな
そんな伝承は一切無いけど
- 454 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 21:54:16.54 .net
- >>414
他所で作り始めた初期には、量的に多いのは依然として九州だけだろうから、他のとこで出るとは限らない
他のところでも量的に多くなるには、拡散からしばらくの時差が必要
なので、独占が終わる時期については少なからず誤差があるだろうとは思う
- 455 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:09:47.59 .net
- 枯野伝説
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)
といふ。此これは志都しつ歌うたの歌返うたかへしぞ。(仁徳記)
由良の門は淡路島と沖ノ島の間の由良瀬戸か
なづの木とは何だろうか?
アシナヅチ、テナヅチはナヅがつくが関係あるのか?
紀淡海峡にある友ヶ島は旧石器時代はちょうど太平洋に注ぐ河口であった
海と陸の境であり水が豊富な場所で海と山の幸が集まる狩猟採集民にとって最高の場所である
昔は沖ノ島にキャンプ上があり夏になればよく行ったものである
沖ノ島のコウノ巣山展望台があり、昔は軍の拠点だった
虎島内には葛城修験道の行場があり断崖絶壁を登り降りして修行していたらしい
和泉山脈から金剛山地にかけては修験道の行場があちこちにある
- 456 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:15:29.16 .net
- 今から40年くらい前までは小学校の修学旅行で修行するのは定番で、奈良の大峰山で崖から吊されたりしたらしい
- 457 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:23:18.03 .net
- >>453
大宮神社がある
創建年代不明で熊襲討伐のために来た景行天皇の行宮が由来だという
伝承通りなら一時期でも倭王の宮処=みやこがあったわけだ
ここはあやしい、くらいしか言えんけど
- 458 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:23:39.75 .net
- >>456
訂正60年くらい前
- 459 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:31:34.88 .net
- 和泉山脈の南側は紀ノ川で弥生時代紀ノ川で石を採集し池上曽根遺跡で石包丁に加工していた
紀ノ川上流は記紀では賢木が生い茂るところだったとある
またミズハノメ神という水の神さまが祀られている
和泉山脈の北には行基に縁がある水間寺がある
川に囲まれた水が豊富な場所で境内には川が流れ立派な滝がある
このお寺は水子供養で有名
イザナギイザナミの長男ひるこは物部の文書では水蛭子とある
水の神さまと関係するかは知らないが
- 460 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:36:51.18 .net
- 加太の岬の高台には国民休暇村がありここの見晴らしは最高である
海と岬の上を海鳥が旋回し、キラキラした海面のすぐ先に淡路島が見えその先の四国まで見える
淡路島と四国と和歌山は近いのを実感できる場所だ
- 461 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:47:15.64 .net
- >>238
つまり九州説が正しいということ。
- 462 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:49:37.80 .net
- >>254
そうそうw
ほんと畿内説の学者連中って笑っちまうよね。
言ってることがトンチンカンだしw
で、畿内説信者連中が、素人がなんといおうとプロが言ってるんだから畿内説が正しいとかアホなことぬかすし、
カルト宗教としか思えないわけよwww
- 463 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:49:53.00 .net
- 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
- 464 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:51:33.19 .net
- 強力な弓が誕生したのは弥生時代だな
亀井遺跡から強力な弓が見つかっている
以降畿内で鏃が急増する
強力な道具を手に入れたんだろう
時代的には播磨から泉州にかけて蛸壺が見つかる時代である
一見無関係な弓と蛸壺は何らかの関係がある可能性がある
弥生時代中期、河内の地が飛躍的に軍事力を高めたのは間違いない
アチメ鎮魂歌、トヨヒルメを迎える様子が謳われているが、猟師サツヲの弓が現れるみたいな件があるね
時代は変わるが、奈良時代の志貴皇子が殺される覚悟で山のサツヲ猟師に会いに行くムササビ(モモンガのこと)の歌を読んでいる
- 465 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:52:26.07 .net
- >>345
スプリング8ネタを振ったら、畿内説信者が発狂しだしてわろたwwww
で、神獣鏡がなんだって???
スプリング8で邪馬台国のものですって結果が出たのか????
違うだろ?www
ほんとアホw
- 466 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:54:03.32 .net
- >>465
スプリング8の話は、桃の種がネズミにかじられていないから邪馬台国というのと一緒ですから。
畿内説は本当にあたまがおかしい。
- 467 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:57:10.44 .net
- >>224
>天皇家の関係者はみんな九州説を推してるでしょ。
>「邪馬台国?なんじゃその国?関係ない国を関係があるかのように言うのやめて!」っていうスタンスのようだし。
そのとおりでございます。
竹田恒泰さんも、長浜説を推してます。
- 468 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:57:15.64 .net
- 圧倒的にマンパワーで上回る女王国が狗奴国を落とせなかったのは弓の性能に段違いの差があった可能性もある
で邪馬台国は纏向遺跡のある奈良、卑弥弓呼の狗奴国は河内湖と大和川より南の地だな
関係ないと思うがアイヌ語で弓のことをクという
- 469 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:57:21.58 .net
- 纏向の葬送儀礼は吉備から来ている。
要するに卑弥呼は吉備にいた。
- 470 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 22:59:34.22 .net
- 神獣鏡の成分がどうのこうのっていうか、溶かして鋳直してリサイクルしてるからね。
九州説が正しい証拠にもなってる。
- 471 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:00:30.59 .net
- 卑弥弓呼はとてつもない知略と優れた武器を持つ存在だったのかもしれない
- 472 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:01:35.07 .net
- 機内以外の地域から金印か銀印が出てくるまでは決着つかんね。
畿内から金印銀印が出ても、権力とともに移動してる可能性があるから決着つかんね。
- 473 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:04:02.40 .net
- つーか倭人伝における戸と家の違いって何なんだ?
- 474 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:08:25.40 .net
- 卑弥呼と卑弥弓呼があるとおり、
つまり、卑弥呼というのは日御子などの役職名ではなく、固有名詞。
次に女王になったのは台与。これも固有名詞。
- 475 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:09:04.60 .net
- とんがり帽子のサカは戦闘と交易に長けた移動民
西アジアやギリシャでは傭兵もしていたという
インドでは仏教を信奉し国も持っていたらしい
サカの国のことをアサカと呼ぶ
堺の浅香にはいい香りがする木が埋まっているという伝承が残る
香木を持つ存在が当時の日本列島にいたならかなりチートな存在だっただろう
- 476 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:09:48.23 .net
- Twitterの言語学に詳しい人曰く卑弥弓呼の弓は当時の日本語にはない発音なのでほぼ100%誤字らしい
- 477 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:13:19.91 .net
- >>473
壱岐で間違いないだろうが3千の家は過大
何をどう間違えばそうなるんだろうな?
3千人にはならないな
- 478 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:17:12.97 .net
- 最初の島は済州島、次は五島列島の可能性はゼロではない
済州島は海人さんがいるらしいからな
壱岐は龍の絵画土器が見つかっていて竜宮への信奉があつい夫婦の伝承が見つかっている
まだまだ女王国が完全に支配下に置けていなかった可能性があるな
- 479 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:18:01.60 .net
- >>478
訂正見つかっている→残っている
- 480 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:22:08.67 .net
- >>467
竹田さんは九州説やん
- 481 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:24:58.02 .net
- 乍南乍東は単純に南に行って東に行くんだと思ってたけど
目まぐるしく南に行ったり東に行ったりする意味なのか?
どちらでもおかしくないが後者だと済州島でも構わない
- 482 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:25:04.44 .net
- >>465
>>466
みたいなのを普通世間じゃ発狂って言うんだけどね
突然悪口だけ連投で叫びだすって
w
- 483 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:27:04.84 .net
- >>482 ←畿内説のアタオカ馬鹿
- 484 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:31:28.65 .net
- 九州は乱立してたけど、神武が日向から東征して、神功皇后の時代まで九州には手を出せず。
九州説がただしい。
- 485 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:33:15.87 .net
- 畿内説って、よくいるage荒らしと性格が似てるしね。
論理破綻してることに気づいていないし。
とおもったら、やっぱりageてたかw
- 486 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:34:25.72 .net
- 仲良し3人組の話だろやっぱり
なにわの軽業師の寅吉、高橋の薬使い、高間寺の山伏
地獄の宗兵衛の絵本や落語の元ネタにもなった大阪の1番有名な民話
- 487 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:45:27.31 .net
- 大和川の治水を行った黒い龍神への感謝を忘れず、スサノオ、住吉さん、アメノホヒ、大物主への感謝を忘れない
そういうことが大切なんでしょ
明治以前は普通に皆共有していたそういう歴史を取り戻さないといけないんじゃないか
- 488 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:46:51.86 .net
- えべっさんがもたらしてくれる福に感謝する
大黒さんのえべっさん、事代主のえべっさん、ひるこのえべっさん
- 489 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:57:06.00 .net
- >>485
そんな悪口専門なのが本物の荒らしだね
「論理破綻」とか総論で貶すだけで具体的指摘を全くすることができないだろ?
そして自分自身は論理破綻まみれという実に九州説らしい恥辱のオウンゴールマン
- 490 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 23:58:49.61 .net
- 東征は4世紀半ばから後半だよ
九州の円墳の勢力がやってきた
5世紀にはいなくなるが雄略天皇の時代以降の6世紀頃再び宇陀に円墳が大量に現れる
- 491 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 00:02:43.05 .net
- >>481
ジグザグ
- 492 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 00:09:39.42 .net
- >>488
えべ◌◌◌の名称は個人的に嫌いなのでNGワードにした。よろしく
- 493 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 00:17:28.21 .net
- >>490
>九州の円墳の勢力がやってきた
九州の円墳ってどの円墳?
- 494 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 00:23:34.72 .net
- 前方後円墳体制の理屈が崩壊するから円墳の話はヤメロ
- 495 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 01:25:00.24 .net
- >>488
蘇我のエビス
- 496 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 03:03:00.85 .net
- >>224
そーなんだ?
隋唐書で、昔の倭は、
日本とは別の小国で既に併合した。
と、言った タリシホコ
いわゆる、聖徳太子も九州説だね。
まあ、
皇統に卑弥呼や神功皇后が
居るわけがないけどw
卑弥呼は三韓征伐しないしw
本当の事を言うと
聖徳太子は神功皇后も知らない。
実は本人が、誰だよ俺? 状態w
皇室に国記、天皇記残ってた、
とかなw
記紀前の系図で良いよね。
- 497 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 03:04:57.66 .net
- >>494
>前方後円墳体制の理屈が崩壊するから円墳の話はヤメロ
どうして崩壊するの?
九州説さん、また理由なしのゴリ押し?
- 498 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 03:13:13.17 .net
- >>221
張政が漢魏の里程で
概算なんだけど、記録したものを
陳寿が周里にしたくて6分の1にした。
というのは
端数的に現実味が無い
と言うのが、現実。
- 499 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 03:23:10.53 .net
- >>490
東征じゃなくて、逆に
245年に卑弥呼が一大率を受け入れた。
記紀で言うと 景行天皇に、
三種の神器を差し出して
九州に迎えた、が、正しい歴史。
卑弥呼は、
九州の女酋って
書いてある。
- 500 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 04:44:04.79 .net
- >>499
一大率は刺史のようのような存在
でも刺史は地方官で一人じゃないし特別なもんじゃない
- 501 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 06:19:27.03 .net
- >>489
桃の種とかベニバナを邪馬台国にこじつけるのは論理破綻と言われても仕方がない
- 502 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 06:25:28.09 .net
- >>108
>>109
魏志倭人伝の記述に完全合致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw
全く一致してない畿内説は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作洗脳作文が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。
まさに「ヤマトよ永遠に」w
「ヤマトの諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統)」w
- 503 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 06:55:07.84 .net
- 箸墓古墳
瀬戸内海の東端だから元「端墓」説
纏向は出雲族の瀬戸内海(九州からの交易航路)統治
- 504 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:12:22.96 .net
- 邪馬台国なんて日本史に出てこないんだから重要視する必要まったくねえわ
- 505 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:13:14.59 .net
- どこか近年で邪馬台(やまと)って読み出したやつでもいたのやろ
- 506 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:21:37.64 .net
- >>498
短里は存在しない
- 507 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:24:47.53 .net
- 富雄丸山の蛇行剣を見ても分かる通り、円墳ですらあのような強大な権力者が存在する
他方、九州では平原を最後に副葬品が極めて貧弱になっていく
- 508 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:39:20.45 .net
- 吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし!
- 509 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:41:57.37 .net
- >>507
>富雄丸山の蛇行剣を見ても分かる通り、円墳ですらあのような強大な権力者が存在する
その富雄丸山の巨大蛇行剣を制作できるのは、強大な権力者が存在する 鉄器王国「阿波」。 @阿波
- 510 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:42:06.49 .net
- >>506
1里400メートルだと計算が合わない
- 511 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:43:31.25 .net
- 長里だと箸墓は3/4里w
- 512 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:44:32.75 .net
- >>500
漢には刺史は十何人かいるわけだしね
そして、郡の太守や諸国王より管轄範囲は広いが権限が小さいのが最大の特徴
- 513 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:45:00.70 .net
- >>506
単里も長里も必要ない
A:帯方郡から狗邪韓国まで7000里
現実の帯方郡から狗邪韓国までの距離を7000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる
B:狗邪韓国から対馬まで1000里
現実の狗邪韓国から対馬までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる
C:対馬から壱岐島まで1000里
現実の対馬から壱岐島までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる
D:壱岐島から末盧国まで1000里
現実の壱岐島から松浦市までの距離を1000で割ると
一里何メートルとしていたか分かる
ABCDで概ね同じ単位が導き出せるならそれが一里の距離と考えて間違いがない
その一里の距離を使えば魏志倭人伝に書かれた国々の場所は概ね比定出来る
- 514 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:47:02.02 .net
- >>510
あちらさんが地理を間違えて把握してたから計算が合わないんだよ
邪馬台国はおおむね沖縄島のあたりにあったと思い込んでいた、
韓半島のサイズも実サイズより大きいと思ってたんだろうね
- 515 :琪瑛教大祭酒:2024/04/08(月) 07:48:33.96 .net
- 張魯はよく民を教え、卑弥呼はよく民を惑わす
魏も晋も公的には五斗米も左道として禁止している
晋は265年に詔が出ている
巻向が卑弥呼の墓。
すでに九州は終了している甕棺族が覆すことはない
無駄な作り話を垂れ流し続けるだけだ。
やがて八角朝鮮アサガオの時代に向かう
- 516 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:48:43.99 .net
- >>108
>>109
なるほど
- 517 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:50:27.40 .net
- >>510
1里は432m
- 518 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:50:33.34 .net
- >>514
>邪馬台国はおおむね沖縄島のあたりにあったと思い込んでいた、
アホか! 前漢時代から通交しているので、正確に「阿波」の位置を知っている。 @阿波
- 519 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:51:32.96 .net
- >>514
1里400メートルで帯方郡から1万2千里南下するとパプアニューギニアになります
- 520 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:52:12.03 .net
- >>517
あなたは邪馬台国パプアニューギニア説の方ですか?
- 521 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:52:35.98 .net
- >>519
そもそも魏志倭人伝では測ってないので無意味
- 522 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:53:18.21 .net
- >>520
パプアニューギニアには行かない
纒向に行く
- 523 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:57:17.00 .net
- >>522
纏向に行っても、なんにもないぞ! @阿波
- 524 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:57:46.79 .net
- >>514
沖縄ではなく、海南島だな
「倭国にある物、ない物は海南島と同じ」との記述から
- 525 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 07:57:51.16 .net
- ⇩魏志倭人伝の倭国観
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png&name=900x900
- 526 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:04:20.70 .net
- 場所が比定されてる帯方郡から末盧国までの1里は概ね75~85メートルの範囲に入ってる
つまり魏志倭人伝を書いた人間はテキトーな数字を並べたのではなく
誤差はあるにしてもキチンと測量した結果ということがわかる
- 527 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:10:00.82 .net
- 測量してるなら水行十日陸行一月とか書かず里数で書くだろ
- 528 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:12:47.73 .net
- >>525
南水行十日陸行一月は、中国大陸側の東治→東冶間580?(20?×30日)を倭地に転用したんだね!
- 529 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:13:04.63 .net
- >>526
>場所が比定されてる帯方郡から末盧国までの1里は概ね75~85メートルの範囲に入ってる
証拠は?
九州説信者は平気で嘘をつくので、証拠ひとつも出さない断定には信用力がない
- 530 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:13:53.56 .net
- >>525
うゎ、すげー!
- 531 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:20:20.44 .net
- 海南島に行くなら中国の沿岸沿いを航海しなきゃならねえだろ😳
- 532 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:20:40.10 .net
- コピペ自演廃人仕事しろよ
- 533 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:22:05.11 .net
- >>525
これは慧眼!
- 534 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:26:38.44 .net
- >>529
Google Mapで自分で測れるよ
- 535 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:29:08.23 .net
- >>529
ちなみにこういう話もある
数字が似ているのは偶然だろうか
http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf
上によると古代中国の天文測量法「一寸千里法」で測定すると
洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
グーグルマップで距離を測ると300km相当
300km=300000m÷4000里=75m
つまり当時の天文測量の精度があれなせいで
短里が生まれてしまい、
古代中国人はこのことに気付いてなかったらしい
- 536 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 08:51:16.38 .net
- >>507
250年以降の割竹木棺古墳は
九州系豪族安曇派生が怪しいと見る。
大伴も有るけど
- 537 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:03:31.06 .net
- つまり邪馬台国時代の畿内は東の倭種の国でしたと
- 538 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:04:26.06 .net
- >489
>そんな悪口専門なのが本物の荒らしだね
>「論理破綻」とか総論で貶すだけで具体的指摘を全くすることができないだろ?
>そして自分自身は論理破綻まみれという実に九州説らしい恥辱のオウンゴールマン
距離も、方角も、畿内説は明らかにおかしいわけだが、どうしてそこまで厚顔無恥なの?
- 539 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:13:24.46 .net
- 計、其道里、當在、会稽東治、之東
は本来、倭人は太伯の後という奏上
に、対する疑問、への考察で
計 其 道里 自 當在 至 会稽東治 之 東
太伯の治めた会稽から倭への道のり
その道里を計るならば
現在地、洛陽から会稽までの道里を
東に向けたほど遠絶している。
そんな話は、信じられない。
というモノだよ。
- 540 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:13:59.38 .net
- 九州は鎮西上人
狗奴国は河内湖と大和川以南の地域で卑弥弓呼は戻ってきたシキミの薬
邪馬台国は奈良でいいんだよ
飯塚の鎮西上人伝説
遠賀川の香月に生まれ、【7歳】で大日寺の小僧になり後に明星寺に住む
修行中【しきみ】の【薬】をとって来るようにいわれ、苦労の末成功する
シキミの別名はハナノキやマッコウや花榊と言われ、仏事に使われることが多く冥界と関係が深い植物
昔まっこう猿まっこうで済む話だ
- 541 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:19:05.80 .net
- >>499
東征は地質学的にも紀元前後ではないかな。
三韓征伐九州征伐は卑弥呼よりもずっと後。
神話の時代から三種の神器はあり、ニニギが持っていたものだろう。
- 542 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:23:04.85 .net
- >>489
魏志倭人伝の邪馬台国はどこかという話をしてるのに、魏志倭人伝の記述を無視する畿内説は正直ありえない。
卑弥呼の墓は円墳だが、前方後円墳の箸墓と言い張るのはおかしい。
邪馬台国は宮室、楼観、城柵を厳おごそかに設けとなっているので、纏向が邪馬台国と言い張るのもおかしい。
- 543 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:25:11.95 .net
- >>506
実際に1里75mで計算されてることが判明しちゃってるよ。
短里はある。
- 544 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:27:50.72 .net
- >>513
そうね。短里だとか長里だとかをまずは無視してもOKだよね。
実際の地図の距離を魏志倭人伝の里数で割れば、1里が何メートルなのかわかるわけでね。
つまり九州説が正しいってことだね。
- 545 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:28:53.00 .net
- >>515
畿内説、まったく何も説明してなくて鼻で笑ってしまったw
- 546 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:30:45.99 .net
- >>529
確たる証拠が出ているのに「証拠は?」と言い出すのが畿内説。手帳持ちの統合失調症なのかな?
- 547 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:36:20.67 .net
- https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=778x10000:format=jpg/path/se33f995a446537c6/image/i4231baf8e70a9011/version/1601289967/%E5%B9%B4%E5%8F%B7%EF%BC%93%EF%BC%90.jpg
魏の送った記年銘鏡 九州はゼロ
- 548 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:40:43.43 .net
- >>515
>実際に1里75mで計算されてることが判明しちゃってるよ。
>短里はある。
証拠は?
そうやって絶対に証拠を出さないのは
詐欺だって自白してるのと同じだよ
- 549 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 09:48:53.20 .net
- >>546
>確たる証拠が出ているのに「証拠は?」と言い出すのが畿内説。
どこに出てる?
また「出した出した」詐欺かな
- 550 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 10:03:14.12 .net
- 547
倭鏡の元になったのも他のやたらが持ち込んだものなんだろ
紙ってのも中国から伝わったんだが日本で独自に和紙生産始めたら中国のより質がよいわ😄ってんで逆に中国人らが和紙を欲しがり中国でも広まったのや和紙
中国人ら使えりゃいいや〜❗ってんでかなり粗悪なもん作ってたんだとさ
初めからやる気ねえのよ
- 551 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 10:06:29.08 .net
- 紙ってのが誕生したのは古代のウイグルあたり
中国では竹簡、竹簡で記載したものの方が高価だから安い紙に書くのは失礼だってんで紙の存在は知られていたがあまり広まっておらんかった
- 552 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 10:24:29.07 .net
- >>520
東夷なんてそのくらい遠くにいて欲しい
一万二千里と書いてるのは魏志だけじゃないからな
- 553 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 10:26:52.79 .net
- >>552
1万2000里
という結論があってそれに合わせて帯方郡から邪馬台国までの道理を割り振ったのなら
邪馬台国は九州にあることになる
不弥国から1300里しか残ってないから
- 554 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 10:37:15.34 .net
- >>553
だから1万2000里は実際の距離じゃないから
旧唐書でも長安から1万4千里とか無茶苦茶
おまえら何度も来てるだろ?
- 555 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 10:38:04.84 .net
- https://www.ruten.com.tw/item/show?22403647178598
たしかに見た目からして高価そおや
- 556 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 10:40:33.96 .net
- 和紙が中国に逆上陸してから製本なども本格的に中国で始まったってことなのよな
- 557 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 10:52:31.57 .net
- 隋書で3千里に訂正してるのに旧唐書で1万4千里だからな
こんなの実際の距離じゃない
- 558 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:01:04.34 .net
- >>548-549
証拠もなにも、計算してみな。そうなるから。
小学校高学年でもわかることがわからないってかなり重症だぞ、畿内説の人。
- 559 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:01:18.32 .net
- 卑弥呼は人名で無いし、壹與も人名で無いかも
- 560 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:02:43.54 .net
- >>526
壱岐末盧1000里
関門海峡1000里
どう考えても測量などしてない
- 561 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:02:47.03 .net
- >>557
4.6倍も開きがあるしね。
やっぱり九州説が正解。
- 562 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:04:34.97 .net
- >>558
通説畿内説では計算しない
短里は存在しないし、渡海4箇所全てが1000里なので、単に数字を当てはめたと考える
- 563 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:07:03.46 .net
- >>561
倭国者古倭奴国也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行
これが1万4千里だよ
九州じゃなく日本を指してる
- 564 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:08:28.43 .net
- 毎日同じことを書いて、物的証拠(間接証拠)を示さない九州説は絶滅危惧種になってしまった
佐賀県知事は「卑弥呼の墓だ」と言いながら、棺からは何も出ず、謎のエリアから出てきたのは青銅の鋳型だけだった
- 565 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:10:13.01 .net
- >>563
魏志倭人伝よりずいぶん後の話しだろ
- 566 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:11:52.10 .net
- >>562
それなりの理由はある。
- 567 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:12:45.53 .net
- 何も出てこない九州王朝はもうダメくさい
- 568 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:13:23.60 .net
- >>560
関門海峡のことを1000里なんて魏志倭人伝は言ってないぞ。
「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。」
豊後水道とか、瀬戸内海ルートを考えるのが妥当。
邪馬台国畿内説だと、畿内の東の海だとまったく整合性がとれなくなるから畿内説はまったくありえないけどな。
- 569 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:14:12.24 .net
- >>565
そう違うと分かってても1万2千里や1万4千里なんだから実際の距離じゃない
- 570 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:14:26.47 .net
- >>562
通説畿内説っていうのがそもそもおまえの妄想ってわけね。理解した。何が通説なのかよくわかんねーけどw
- 571 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:14:43.56 .net
- >>558
>証拠もなにも、計算してみな。そうなるから。
>小学校高学年でもわかることが
小学生でも証拠を絶対出さない人は詐欺師だとわかる
- 572 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:15:00.64 .net
- 曹操の時代だから女王国って呼ばれたのは匈奴系になるわけか🤔
- 573 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:16:09.97 .net
- なるほど😳
- 574 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:16:10.64 .net
- 掘っても掘っても邪馬台国の証拠が全く出てこない九州説は終わりました
- 575 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:17:31.36 .net
- >>565
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也
- 576 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:18:19.18 .net
- >>564
知恵遅れの子みたいに、毎日「証拠は?」と同じことを書いて、畿内説がまったく間接的証拠を示さないとんでもファンタジーになってしまっていることにも気づかない。
歴史書や科学的なアプローチとの整合性を無視する橿考の学者の言ってることを通説と信じているカルト教団の信者が畿内説。
- 577 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:18:50.68 .net
- >>575
だいぶ後にそう言ったんだろ
- 578 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:19:00.43 .net
- >>576
三角縁神獣鏡こそが絶対的な証拠
- 579 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:22:36.88 .net
- >>557
俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
訂正ていうか半島から三千里って書いてあるわけで
これは魏志倭人伝の狗邪韓国から末盧国までの島伝いの距離なのでは
- 580 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:22:56.29 .net
- >>571
75km(7500m) ÷ 1000里
計算してみてください。馬鹿の畿内説信者の愚か者の病気持ちさん。
きっと現実世界でも、コンビニの店員などはあなたの応対に疲れていることでしょうね。
「このおつりになる証拠をだせ、詐欺師!」とか言われちゃうわけでwww
- 581 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:23:46.94 .net
- >>578
根拠も示さず絶対とかいうやつって信用ならない。
畿内説はいつもそう。
- 582 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:24:14.41 .net
- >>580
だから計算しない
- 583 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:24:32.89 .net
- 畿内説信者がアタオカであることがどんどん白日の下にさらされていくスレだな・・・・
- 584 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:25:41.47 .net
- >>581
根拠はすでに多くの学者が示している
それを全く読まないのが九州説
- 585 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:25:53.30 .net
- アタオカ畿内説信者「このおつりになる証拠をだせ、詐欺師!」
コンビニ店員「計算したらこうなります」
アタオカ畿内説信者「だから計算しない」
コンビニ店員「・・・・・・」
- 586 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:27:00.05 .net
- >>582
つまり計算せずに、雰囲気だけで邪馬台国が畿内にあったと言ってるわけねwww
お話になんねーなw
- 587 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:27:01.95 .net
- >>543
>短里はある。
しかし、足し算引き算はない! @阿波
- 588 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:27:15.16 .net
- >>579
>>563
無理有り過ぎ
倭国在○○○東南の部分はその時々で変えてるけど出鱈目な距離だけは変えない
- 589 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:27:26.12 .net
- >>584
妄想と決めつけだらけなもんだからとうとう銅鐸文化圏は無くなってしまったな
- 590 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:28:05.97 .net
- >>553
しかし、足し算引き算はない! @阿波
- 591 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:28:43.84 .net
- >>584
畿内説の多くの学者「纒向遺跡から桃の種が出た。しかもネズミに齧られていない。邪馬台国は畿内にあったのでは?」
Q:なぜネズミに齧られてない桃の種が出ると邪馬台国になるの?
A:・・・・
- 592 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:28:45.62 .net
- >>588
デタラメというか里数はまんま魏志からの引用で
出発点と到着点が違うだけ
- 593 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:29:20.53 .net
- >>586
雰囲気ではない
まずテンプレを読みましょう
- 594 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:29:42.00 .net
- >>592
違うと分かってても変えない
- 595 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:30:39.40 .net
- >>578
それ、国産鏡じゃないの。絶対的に証拠にならない。
- 596 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:32:03.05 .net
- >>591
そういうつまんない捏造して、何が楽しいの?
- 597 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:32:44.82 .net
- 日本と半島間の間はものすごい沈没船の数なんだが日本に来るにも命賭けできたわけか
- 598 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:32:55.50 .net
- >>595
国産鏡か否かを理由にして畿内説を排除している学者がいない
- 599 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:34:31.42 .net
- >>596
畿内説の捏造に関してほんと俺もそう思う。
桃の種で邪馬台国って捏造はほんとひどいよね〜
- 600 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:34:46.20 .net
- 学者を取り調べれば分かるね
- 601 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:35:24.09 .net
- >>598
>国産鏡か否かを理由にして畿内説を排除している学者がいない
うん、つまりファンタジーってこと
- 602 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:36:16.08 .net
- >>580
>75km(7500m) ÷ 1000里
>計算してみてください。
いくら証拠を要求されても頑として出さないって
九州説が詐欺だって証拠そのものだろ
- 603 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:37:37.43 .net
- これを読んで畿内説誘導が異常だと思わない方がおかしい
モモの種で「邪馬台国論争」終止符か
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ca2600f6cadf773f665b5d0465cd368efa004b4e
- 604 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:38:12.91 .net
- >>602
馬鹿の畿内説信者の愚か者の病気持ちさん。
きっと現実世界でも、コンビニの店員などはあなたの応対に疲れていることでしょうね。
「このおつりになる証拠をだせ、詐欺師!」とか言われちゃうわけでwww
- 605 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:38:13.60 .net
- 599
上級連中らだけはお宝(鉄鍬だの)独占して開墾してるやつらは木鍬とかだもんな
鉄鍬が日本でも出回るの1000年後や
パターン化してるの〜
中国でも🐲の絵柄だの庶民が利用できるようになったの1000年後
だいたいどうなるか予想が付くわ
- 606 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:40:46.99 .net
- >>599
>畿内説の捏造に関してほんと俺もそう思う。
捏造って、なに?
漠然と中傷するだけ?
九州説それで恥ずかしくないの?
>桃の種で邪馬台国って捏造はほんとひどいよね〜
だから、何それ?
誰が何を言った?
ニオワセ中傷?
九州説どうしてそんな捏造ばかりするの?
- 607 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:41:02.47 .net
- 纏向から桃の種が出てこようと、九州邪馬台国と同時代にあった畿内の国ってだけの話だからね。
なんのつながりもない。
- 608 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:41:51.95 .net
- >>606
きっと現実世界でも、コンビニの店員などはあなたの応対に疲れていることでしょうね。
アタオカ畿内説信者「このおつりになる証拠をだせ、詐欺師!」とか言われちゃうわけでwww
- 609 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:42:27.37 .net
- >>606 ← 恥ずかしい畿内説の人
- 610 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:44:09.65 .net
- >>599
oxcalを使った14cの桃種12個の結果から分かったことは、纒向は2世紀末〜3世紀半ばまでの遺跡である蓋然性が極めて高いこと
- 611 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:45:55.95 .net
- 九州説の頑張りどころを教えよう
三角縁神獣鏡を潰すことである
学者は明確にこれでまとまっている
- 612 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:46:52.39 .net
- >>609
証拠出さず反論せず指摘せず、ただ罵るだけって
九州説、異常すぎでしょ
- 613 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:46:59.09 .net
- >>553
帯方郡から一万二千里のところにあるのは邪馬台国じゃなくて女王国
女王国は畿内から九州を含む巨大連合国家だから邪馬台国が畿内にあることと帯方郡から一万二千里のところが女王国のエリアであることは何も矛盾しない
- 614 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:49:01.34 .net
- >>553
残り1300里は約600キロ
畿内ですね
- 615 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:50:21.36 .net
- >>554
意味分かってないね
東京から大阪12000里という結論に合わせて割り振って
名古屋までで10700里と割り振ってしまったら
名古屋から大阪までの距離が予想できるだろ
- 616 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:52:52.02 .net
- >>615
短里なんて存在しないし結果から計算しても意味無いから
- 617 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 11:56:54.44 .net
- >>560
狗邪韓国(釜山)から対馬まで
対馬の北端で58キロ
58000メートル÷千里=58メートル
対馬の南端で115キロ
115000メートル÷千里=115メートル
平均値
58+115=173
173÷2=86.5メートル
- 618 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:01:57.38 .net
- >>560
対馬市から壱岐島まで63キロ
1000で割れば63メートル
対馬の北端から測れば103メートル
平均すれば80メートル前後だろ
畿内説の人間って自分の頭で考えないのか?
- 619 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:02:35.25 .net
- >>598
思考停止やな
- 620 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:03:09.12 .net
- >>619
思考した結果がこれ
- 621 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:03:22.91 .net
- >>610
つまり後漢書に書かれた大倭王のいた邪馬臺国ではないということ
- 622 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:04:08.80 .net
- >>603
>これを読んで畿内説誘導が異常だと思わない方がおかしい
誘導ってw
それ畿内説の人じゃないじゃねえか
- 623 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:04:14.37 .net
- >>614
1300掛ける80は104000
キロに直せば104キロ
- 624 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:04:45.73 .net
- まず1万2千里は観念的で出鱈目な数字
でも陳寿は実際の距離だと思ってそれに合わせようと数字を当てはめた
この時点でそんな数字は信用できないんだけど
その出鱈目な里数の行先が不弥国なんだよね
その後に続く日数行程は別だ
- 625 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:04:47.91 .net
- >>620
思考したらそのうち三角縁神獣鏡を持ち出す学者が居なくなる
銅鐸文化圏と同じように
- 626 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:05:10.55 .net
- >>616
単里の話なんてしてないゆ
そもそも一里400メートルなら畿内説だってあり得ないw
- 627 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:06:26.56 .net
- ちなみに不弥国とおぼしき場所から104キロは熊本平野が良い感じになる
- 628 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:07:14.36 .net
- >>624
>まず1万2千里は観念的で出鱈目な数字
出鱈目を記載する理由がない!
出鱈目なら、萬余里でよい。 2千里など不要のはず。 @阿波
- 629 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:07:17.49 .net
- >>626
だから日数行程だけが正しい
- 630 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:07:31.88 .net
- つまり畿内説は東の倭種の国に入植した半島系によるオレオレウリナラ起源説でしたと
- 631 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:07:34.27 .net
- https://i.imgur.com/FfTftkq.jpg
不弥国から南に水行なんてできないだろと思ってたのに
このスレ見てたら南に水行できそうな気になってきた
- 632 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:09:02.34 .net
- >>624
>まず1万2千里は観念的で出鱈目な数字
出鱈目を記載する理由がない!
出鱈目なら、萬余里でよい。 2千里など不要のはず。 @阿波
- 633 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:09:41.41 .net
- 魏志倭人伝には
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 … 次有奴國 此女王境界所盡
斯馬國からの国は旁國と書かれてるので、女王国は邪馬壹国の事と思われ
- 634 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:10:56.03 .net
- >>618
平均すべきでない
- 635 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:11:28.36 .net
- >>633
>女王国は邪馬壹国の事と思われ
うん、「邪馬臺国」の首都が女王国だな。 鮎喰川下流域だ。 @阿波
- 636 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:12:17.92 .net
- >>519
直線距離じゃなく、道のりの長さやから、道中の曲がりくねりの影響を受ける
- 637 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:13:05.24 .net
- >>621
後漢書が書かれる432年には、倭の五王が南朝宋に半島での権益を要求しに行っている
したがって、大倭王が大和にいることを当然知っている
- 638 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:13:22.95 .net
- >>635
そうですね。阿波に間違いない。
- 639 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:13:39.03 .net
- >>535
偶然の類似
- 640 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:14:00.61 .net
- >>627
熊本平野から何にも出ない
- 641 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:14:36.04 .net
- >>636
直線距離でなければ、記載する意味がない。 却下! @阿波
- 642 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:14:45.46 .net
- >>539
それは曲解やな
- 643 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:16:28.75 .net
- >>543
論者によって1里=50メートルだったり1里=100メートルだったり伸縮自在な短里を確たる存在などと強弁する短里信者の頭はマトモではない
- 644 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:16:56.67 .net
- >>625
思考をした結果、三角縁神獣鏡は国産でなくても畿内説は確定であるどころか、その一部は当然国産であるべきだと考えられるようになってきた
- 645 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:17:10.10 .net
- >>546
キミは「確たる」という言葉の意味を勘違いしているとしか思えないよ
- 646 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:17:49.79 .net
- >>627
弥生時代はほぼ海だよ 筑紫平野と同じ
- 647 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:20:04.33 .net
- >>643
>論者によって1里=50メートルだったり1里=100メートルだったり
それが古代の現実。 @阿波
- 648 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:20:27.30 .net
- >>618
>畿内説の人間って自分の頭で考えないのか?
どこからも短里は算出されていない
普通の脳がある人が考えれば短里なんて存在しないと理解できる
- 649 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:23:08.18 .net
- >>558
地理を間違って把握した数値に合うように無理矢理に計算した架空の単位なだけやからな
数字が合うように計算したから合うだけで、合致することに意味はない
単に、1+□=2 なら □=1 なだけ
全く別のところから算出したものと合うとかじゃないと意味はないのだが、それならと探してきたものがことごとくコジツケばかりだったしな
- 650 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:24:00.68 .net
- >>610
つまり、九州邪馬台国と同時代に並立した国が東国にもあったということになりますね。
九州勢力をのみ込んでいくまでがドラマチックな展開ですよね。
- 651 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:24:41.88 .net
- 最初に短里なんてもんを考えついた奴はほくそ笑んでるだろうよ
なんの根拠も無いのに信用してる奴が大勢居るんだから
- 652 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:25:49.85 .net
- >>612
罵られてるのは、精神病なのにここに来てダダコネ迷惑をかけてるおまえだけやぞ。
- 653 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:25:56.12 .net
- >>624
伊都国までの里数距離は魏略と同じだから、コピペしただけでしょ
- 654 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:28:01.65 .net
- >>649
架空じゃないでしょ。
だいたい平均80mくらいになってるんだから。
432mで計算すると何もかもがおかしくなる。しょっぱなからくじける感じ。
- 655 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:28:13.69 .net
- >>580
それには意味がないと何度言われても、意味がないとは理解できないから延々と同じことを言い続けてるのが短里信者
- 656 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:29:59.92 .net
- >>653
そういうことしたら帯方郡の役人は大変なことになるんじゃなかっけ?
畿内説のやつのいうことは本当に自分勝手だな。
- 657 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:30:02.09 .net
- 九州南部と東シナ海沿岸の中国とフィリピンを
丸くかこんだ一帯の海洋民族を倭人だという説が言われてます
- 658 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:31:15.99 .net
- >>655
アタオカ畿内説信者「このおつりになる証拠をだせ、詐欺師!」
コンビニ店員「計算したらこうなります」
アタオカ畿内説信者「だから計算しない。計算は意味がない」
コンビニ店員「・・・・・・」
- 659 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:31:53.24 .net
- >>615
その話をした人が名古屋までの距離を勘違いして大阪のすぐ近くだと誤認してたことが分かるだけで、名古屋と大阪の間の実距離までは分からんやろ
- 660 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:43:14.44 .net
- >>656
誰が大変な事になるんだよ?
陳寿は趣味で勝手に書いてるだけだぞ
- 661 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:55:04.08 .net
- 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)
久 努 国 ( く の の く に )
久 努 国 ( く の の く に )
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
- 662 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:55:21.61 .net
- >>653
間違いない
- 663 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:56:03.92 .net
- >>658
それ、短里が実在するという循環論法だから
九州説の人って論理に弱いね
- 664 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:59:03.79 .net
- >>654
>架空じゃないでしょ。
>だいたい平均80mくらいになってるんだから。
そうなる証拠は?
- 665 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:59:29.55 .net
- 紀元前2世紀(紀元前200年〜紀元前100年)ころと思われる九州の遺跡において大規模な戦闘の跡地なら見つかるけどな
そのころに弥生人が縄文人でも大量に殺したのかな?
卑弥呼の時代に当たる部分にそんなのねえぞ
- 666 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 12:59:43.74 .net
- >>663
アタオカ畿内説信者「このおつりになる証拠をだせ、詐欺師!」
コンビニ店員「計算したらこうなります」
アタオカ畿内説信者「だから計算しない。計算は意味がない」
コンビニ店員「・・・・・・」
- 667 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:00:02.47 .net
- 倭国大乱て?
その大乱の痕跡なんかねえぞ
- 668 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:02:25.26 .net
- >>664
もう上のほうで論破されてるでしょ。しつこいよ。精神のオビョーキ持ちさん。
- 669 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:13:09.96 .net
- 魏の時代 1里≒432m
西晋の時代 1里≒75m ってこと。 @阿波
- 670 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:15:16.10 .net
- >>668
大体平均80mにならない
壱岐末盧1000里
関門海峡渡海1000里
単に、「渡海は1000里で良い」と考えたにすぎないと考えられる
漢書西域伝では1里単位で数字を出しながら、魏志では100里単位でしか数字を出してない
かつ、不弥国からの残り1300里は短里が存在したならば記すべきである。
至投馬国800里、至邪馬台国500里のように。
しかし、ここから日数表記になり短里なるものが存在した場合、90キロでしかなく、早ければ1日、どれだけ遅くても3日で行ける距離に2ヶ月を要している。
すなわち、不弥国→投馬国→邪馬台国はむしろ魏里432mを採用したというべきである。
- 671 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:22:16.14 .net
- >>670
3日で行けるわけないだろ。
中国の歴史家も中国の歴史の観点から正直に言っているとおり、各所で歓迎されもてなされるんだから。
- 672 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:24:23.18 .net
- >>670
そもそも九州説は投馬国を比定できないし、邪馬台国まで90kmも幅を取れない
- 673 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:24:23.57 .net
- >>671
もてなされたのであるならば、なおのこと里数表記すべきである
- 674 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:24:44.13 .net
- 日数表記なのは倭人は距離を日数で数えるとあるとおり、伝聞であり、実際には行っていない可能性がある。
いずれにせよ九州説が鉄板並。
- 675 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:25:11.48 .net
- >>673
論理飛躍おつかれさまです。まったく話にならない。
- 676 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:26:30.48 .net
- 都合が悪いところは誇張だ!嘘だ!が九州説の常套句
- 677 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:27:06.18 .net
- >>674
もてなされた日数は当然日数としてカウントすべきでない
- 678 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:31:33.62 .net
- 何か国も回るのに3日で弾丸旅行はしたくないよ。現代人でもそう思う。
ましてや、いろいろなことを聞いて見て回らなければならないのにさ。
- 679 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:33:55.65 .net
- 帯方郡から女王國までの距離を直線距離ではなく行程だと考えれば12,000里のうち、
福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、
残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ない
- 680 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:35:14.80 .net
- 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、
畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの有力な阿岐国(安芸国)、
吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が完全に欠けている。
- 681 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:36:00.93 .net
- 「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられる。
またそれに伴って、3世紀の時点で畿内から北九州までを連合国家として治めていたのなら、6世紀に国造が設置されたという近年の研究にも疑問が生じる。
また同時代の朝鮮半島は小国並立状態であり、倭国が先行して北部九州から畿内までの広域連合政権を生み出したとは考え難い。
- 682 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:36:39.15 .net
- 陳寿は倭の30国名も
その漢字も知らなかった。
魏使の報告書2件を
手元に置いて引用している。
この引用には、
2人の筆致の違いも出ている。
だから、東夷伝序文、評曰で
魏時二回の使譯の報告書を評価した。
だから、陳寿の倭人伝は、
詳記を得ていて他の史書より詳しい。
- 683 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:37:16.89 .net
- 三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面を遥かに上回っている。
- 684 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:37:27.65 .net
- >>678
もてなされた日数は日数としてカウントすべきでない
特に、水行部分は一旦船から降りるのであるから、仮にもてなしを受けたならば、純粋に船に乗った時間が、水行二十日、水行十日と解すべきである。
- 685 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:39:45.85 .net
- 古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、
三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。
よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したもの。
- 686 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:40:10.97 .net
- >>681
3世紀の初めにはすでに奴国では筑前型庄内甕を成立させている。
さらに、北部九州型布留甕の成立、前方後円墳と三角縁神獣鏡と、生活様式から祭祀形態まで完全に畿内化されおり、その主張は全く受け入れられるものではない
- 687 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:41:08.91 .net
- >>683
そのことが畿内説を強固にしている
この三角縁神獣鏡という牙城を崩さないと、学者は畿内説を絶対にやめない
- 688 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:42:55.91 .net
- 距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説。(周髀算経・一寸千里法)
魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。
この短里という概念で計測すると、実際に、帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝の記載通り、七千餘里となる。
この短里を採用した場合、径百歩の卑弥呼の冢は直径約30m程になる。箸墓の規模はありえない。
- 689 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:44:17.42 .net
- >>687
それがアタオカなんですよ。
明らかに国産鏡なんだし。卑弥呼が下賜されたもんじゃないです。
- 690 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:44:50.57 .net
- 畿内愛と三角への思い入れが深すぎて見てるこっちが恥ずかしくなるw
- 691 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:45:06.97 .net
- >>687
どこが牙城?w
砂上の楼閣じゃないのw
崩れまくってるじゃんw
- 692 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:46:09.50 .net
- >>685
纒向型前方後円墳の成立、定型化前方後円墳の成立という仮定を考えると、当時の邪馬台国は前方後円墳への副葬しか認めなかったと考える
後に4世紀に三角縁神獣鏡を作るのは不可能
- 693 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:46:48.23 .net
- 九州説は、山門説、朝倉説、吉野ヶ里説、宇佐説など、有力な説が多く、1つひとつが纏向説と対等です。近畿説が纏向説でまとまっていることと、纏向説の確からしさは関係ありません。
- 694 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:49:57.65 .net
- >>689
卑弥呼が下賜されたのは三角縁神獣鏡以外に画文帯神獣鏡、斜縁鏡も考え得る。
そして、三角縁神獣鏡とは画文帯神獣鏡と斜縁鏡のハイブリッドのような鏡であるから、したがって畿内邪馬台国は、画文帯神獣鏡と斜縁鏡を合体させて三角縁神獣鏡を独自に作った可能性があり、
いずれにしても三角縁神獣鏡こそが通説畿内説の最大で最強の牙城である。
- 695 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:50:32.86 .net
- >>682
漢字は無い
- 696 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:51:00.28 .net
- >>693
冷静な宇佐市長のコラムをどうぞ
↓
市長コラム「赤塚古墳と小部遺跡 その1」(令和2年8月号)
県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘の中に、国史跡の川部・高森古墳群があります。3世紀末から6世紀にかけて造られた6基の前方後円墳を中心に、約120基の円墳や周溝墓が集中しています。
このうち赤塚古墳は推定墳長約58m、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳の一つです。大正10年、箱式の石棺から三角縁神獣鏡等5面や鉄刀などが出土しています。
三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府)や石塚山古墳(福岡県)と同じ鋳型で製作されています。
なお、三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚の一部で、赤塚古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があります。
魅力的な話ですが、赤塚古墳の築造時期は卑弥呼が銅鏡をもらった239年より半世紀余り後であることなどから説得力にやや欠けるようです。
赤塚古墳などの被葬者は、古墳時代に宇佐地方を支配していた宇佐国造家(くにのみやつこけ)の一族と考えられています。
ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。
- 697 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:52:41.68 .net
- 景行天皇が西征した際、八女縣で八女津媛(台与またはそれに繋がる系譜の女王)に出会っており、
大倭と同音の邪馬台を認めずに邪馬を八女と読んだので、山門郡と隣接する八女も邪馬台国の領域だったことが分かります。
仲哀天皇の時代に伊都国の首長が服し、神功皇后が邪馬台国の女王の田油津媛を誅して滅ぼしています。
末盧(肥前国松浦郡)、伊都(筑前国怡土郡)、奴(筑前国那珂郡)などの国が、律令郡名に名を留めていることから、
邪馬台国も筑後国山門郡山門郷(福岡県みやま市瀬高町)に名を留めたのだということが分かります。
- 698 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:53:02.72 .net
- >>644
もはや三角縁神獣鏡と邪馬臺国が無関係で草
- 699 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:53:55.08 .net
- >>698
三角縁神獣鏡こそが邪馬台国大和説の最大で最強の牙城
ここを崩すべし
- 700 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:54:32.84 .net
- 紀年銘鏡こそが 魏からの下賜品
https://www.xhimiko.com/%E8%AB%B8%E8%AA%AC%E6%A4%9C%E8%A8%BC/%E7%95%BF%E5%86%85%E8%AA%AC/%E8%BF%91%E7%95%BF-8/
- 701 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:55:06.51 .net
- 「銅出徐州師出洛陽」
銅は徐州から出て、鏡師は洛陽から出る
三角縁神獣鏡こそが邪馬台国大和説の根幹
- 702 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:55:17.50 .net
- 寄せ集めたばらばらの鏡を下賜したとは考え難い
- 703 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:55:18.75 .net
- >ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。
まぁ、大和王権はかなりあとになってようやく九州を飲み込んだからね。
つまり邪馬台国は九州だよね。
- 704 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:57:10.29 .net
- ???
三角縁神獣鏡は漢化の証だぞ?邪馬臺国は中国的な大和王朝になったのだ!
- 705 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:57:21.36 .net
- 魏の使いは当然、一里を魏の標準里435メートルで計測しているよ。あたりまえだけど。
そうすると帯方郡から女王国まで3000里に満たないことになる。
それだと大月氏国(16300里)より近くなってしまう。そこで郡から女王国までを12000里に設定、各区間もそれに応じて距離を水増しして割り振った。
結果として実際の距離は一里=90メートル?程度になった。
全ては司馬懿>曹真曹爽とするための操作だよ。
- 706 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:59:25.01 .net
- 魏志倭人伝によると、女王国連合の国は北九州にあったわけだし、それを服従させるのは景行天皇以後、ずっと後のお話。
前方後円墳を九州で築造できるほど勢力を伸ばすのは邪馬台国のずっとあとの話ってこと。
だから九州説は崩れない。強すぎ。
- 707 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:02:05.40 .net
- >>705
仮に12000里がそうであったとしても行程は陳寿が勝手に考えたもんだよ
- 708 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:02:56.76 .net
- 畿内説論者の言ってることを聞くと、なおさら九州説に傾いてしまうから面白いね。
- 709 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:03:42.60 .net
- >>706
短里は出鱈目だと何度も何度も何度も言ってるだろ
- 710 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:03:52.97 .net
- >>703
筑前型庄内甕の段階で残念ながら九州は畿内の飛び地と化している
- 711 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:05:42.65 .net
- 偽作wwww
三角縁神獣鏡は大和王朝が邪馬臺国の継承国である証である。
バカすぎるwwwもっと周りの世界の継承国見ろよwww
- 712 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:05:47.38 .net
- >>707
ならば邪馬台国も陳寿が勝手に考えた幻の国になる。
魏志倭人伝にある邪馬台国がどこかという議題で話をしているのに、
畿内説論者はその魏志倭人伝という歴史書そのものを否定するから畿内説はアタオカファンタジーと言われる。
- 713 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:05:58.95 .net
- >>708
2023年12月に九州説をやめ、1月から畿内説になりました
- 714 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:07:14.40 .net
- >>711
>三角縁神獣鏡は大和王朝が邪馬臺国の継承国である証である。
論拠もなくそういうこというから頭おかしい人って言われるんだよ。畿内説をまともに研究してる人にとっても失礼きわまりない奴だな、おまえw
- 715 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:07:15.85 .net
- >>668
>もう上のほうで論破されてるでしょ。しつこいよ。精神のオビョーキ持ちさん。
その「上」とはどこの何なのかも言えない九州説
具体的なことを何も言わず、ただ罵倒で議論から逃げるのは
九州説が破綻している証拠だな
- 716 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:07:43.56 .net
- >>710
牛馬のいない時代に纏向が奴国を支配下に置くのは無理でしょ
- 717 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:08:23.51 .net
- >>713
2023年12月も九州説だし、1月からも九州説です
- 718 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:09:30.19 .net
- >>715
まったくそう思わない。おまえの中だけにしといた方がいいよ。
- 719 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:09:42.89 .net
- >>712
>畿内説論者はその魏志倭人伝という歴史書そのものを否定するから畿内説はアタオカファンタジーと言われる。
畿内説論者がそんなことしてるって証拠は?
- 720 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:10:04.66 .net
- 日本の皇族だの初めは呉人らから学問など習っていた方だよ
やがて遣唐使だのが出るようになって本格的な漢学みたいな学問も日本で始まる
伊勢には皇族のための学問所も設置されたって〜が
- 721 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:10:47.55 .net
- >>706
九州説は強いよね。
では、九州のどこにあったのかって話だよね。
そこが楽しいのが邪馬台国論争。
畿内説なんてトンデモ説はどうでもいい。
- 722 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:12:12.26 .net
- 別に陳寿だけが言ってるんじゃないが
- 723 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:12:19.07 .net
- 三角縁神獣鏡も神功皇后も魏志倭人伝の為だけに偽作されたらしいwバカすぎwww
- 724 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:12:41.02 .net
- >>716
牛馬のいない時代に三韓征伐も高句麗遠征もやってます
- 725 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:12:59.25 .net
- >>719
>681を読んでそう思う次第。
- 726 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:13:02.28 .net
- 中国の方のやつらと取り引きを行うにおいて中国では漢音を使用したやり取りが主流だってことに気づいたわけな
それで失職したのもいたみたいだがよ
奨学院、淳和院とか聞いたことあるだろ
- 727 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:13:17.42 .net
- >>706
北部九州を北九州などと言ってる時点でアホが滲み出てるな
景行天皇は九州には熊襲征伐に来た上、現地民は山鹿灯篭で歓迎してる
- 728 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:14:38.16 .net
- >>712
>>722
- 729 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:15:23.29 .net
- >>718
>まったくそう思わない。おまえの中だけにしといた方がいいよ。
そうやって主観しか無い九州説が学問の世界に居られなくなったのは当然だとよくわかる
- 730 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:15:26.02 .net
- >>718
>まったくそう思わない。おまえの中だけにしといた方がいいよ。
そうやって主観しか無い九州説が学問の世界に居られなくなったのは当然だとよくわかる
- 731 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:15:51.16 .net
- >>724
そうそう、三韓征伐の時代にようやくヤマト王権の勢力が九州に到達してるんだよね。
やっとこさ九州征伐も行ったりさ。
北九州の国には邪馬台国連合の国も含まれるので、あとから勢力下であるはずの九州を征伐するとかありえないから、畿内説はありえない。
- 732 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:16:43.43 .net
- 東の倭種が攻めてきたとき
九州の土蜘蛛たちは徹底抗戦して潰されるか
あるいは三種の神器を差し出して降伏した
そんな様子が東の倭種の物語に残されている
- 733 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:16:49.23 .net
- >>729-730
必死すぎて連投しちゃったの?w
まぁ、どうあがいても九州説は崩せないからw
- 734 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:18:20.46 .net
- >>731
というように考えない
筑前型庄内甕の成立時、北部九州型布留甕の成立時、あるいは遅くても前方後円墳築造段階(庄内3期・那珂八幡古墳)ではすでに筑前は畿内邪馬台国の支配下にあった
- 735 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:18:29.93 .net
- >>727
熊襲と土蜘蛛は別ものなのになにいってんの?
- 736 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:19:05.50 .net
- >>725
> >681を読んでそう思う次第。
九州説の馬鹿が変なこと言ったのを読んで
「畿内説論者はその魏志倭人伝という歴史書そのものを否定するから畿内説はアタオカファンタジー」
とかいう人はアタオカフンコロガシ
- 737 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:19:27.73 .net
- >>733
YouTubeしか見ない素人の間では人気だね
- 738 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:19:40.30 .net
- 畿内勢が九州にやってきて九州にあった女王国が崩壊したのは
崇神の四道将軍の頃(266年頃)説
https://i.imgur.com/sTFZYJ1.jpg
- 739 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:20:27.47 .net
- 畿内のヤマト王権に奴隷を献上するような風習ないだろ。
鬼道を使う土蜘蛛族と一緒にするな。
- 740 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:20:46.43 .net
- 呉人、漢人と振り分けて書いてるがその人らの中国に対する認識がそ〜だったから分けてるわけな
呉人らは中国を呉の国と呼び漢人らは漢の国と呼んだ
- 741 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:21:06.46 .net
- >>738
九州は女王国ではない
九州は一大率の管理下にある
- 742 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:21:07.50 .net
- >>736
じゃあ、おまえはフンかもな。くさいし。
- 743 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:21:35.36 .net
- 九州が女王国。
- 744 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:21:52.43 .net
- 邪馬台国は九州で結論が出てる。
- 745 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:22:12.01 .net
- 呉人らの大半はそのあと渡来人に振り分けられることもなくそのまま日本人として組み込まれて名称自体も消えていったけどな
- 746 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:24:56.40 .net
- 旧唐書によると、
「日本の国は、倭国の別の種なり。 その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」そして続いて言い分が異なる二例を挙げ、
まず「或いは曰く、倭国は自ら其の名が雅でない事を悪(にく)み、改めて日本と為す」、しかし続いて「或いは云ふ、日本は旧小国。
倭国の地を併せる。其の人、入朝する者、多くは自ら矜大(傲慢)、実(真実)をもって対(こた)えず。
故に中国、焉(これ)を疑う。」 総括として前者の言い分には懐疑的であり、後者の見解により「日本の国は、倭国の別の種なり。
その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」の言葉となっている。
そして地勢が述べられ、「又云う、その国境は、東西南北各数千里、西と南の境界は大海に全て至り、東と北は大山が有る為限られている。山の外は即ち毛族の国である。」と記述されている。
当時の中国人もあやしんでいるとおり、畿内説はありえない。
わざわざあやしんでることまで記録されちゃうぐらい怪しいわけです。
- 747 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:25:14.65 .net
- ほんと流されやすいな
短里なんて概念がなくいきなり実際の距離は3000里にも満たないから
1里は80mだとか言う奴が現れたらどう思うよ?
- 748 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:26:00.10 .net
- ヤマト王権が九州の倭国を飲み込んだんだよね。で、なんやかんや理屈をこね、日本って呼んでくださいとうったえた。
- 749 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:27:36.65 .net
- >>748
倭人在帶方東南大海之中
- 750 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:31:45.69 .net
- 米田俊幸や佐々木憲一が言う通り、「土器の移動は文化交流によって生じるものでその交流関係は対等である」と捉えるのが常識的かつ自然だろう
そもそも一部の畿内説論者が言うように土器受容が政治的支配を意味するのであれば、河内の庄内甕を受容した纒向ヤマト王権は河内の豪族から政治的支配を受けていたことになり、図らずも彼らが唱える纒向畿内説自体が理論的に破綻する
以下、佐々木憲一明大教授の論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究の一部」より引用
『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。
布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』
- 751 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:32:59.36 .net
- 724
呉の水軍をそのまま利用したのやろ
- 752 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:33:55.74 .net
- 呉の水軍から始まりやがて発展して瀬戸内水軍として再編成したのが平清盛だが
- 753 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:34:48.24 .net
- 安宅船🚢なんてのもあの作りの始まりは中国の方だからな
- 754 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:35:24.35 .net
- >>750
この10年後に久住が出てきて、筑前型庄内甕と北部九州型布留甕の概念が生まれて九州説死亡
- 755 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:36:33.72 .net
- 久住猛雄のXのポストでは、古墳時代前期までの北部九州の実力を評価し、その自律性主体性を肯定する論(畿内自生説への反論)が展開されている
「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」
「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」
「>そのための考古資料
そうなのですが、件の方は「都合よい」情報や旧説だけ引っ張って利用してます。畿内「自生」説に都合の良い情報のみ。また地域の自律性主体性を考古学は明らかにしてるのに記紀史観でそれは無視。」
「歴史の説明には過程の説明とその証拠が重要かつ必要なのに(文献記述が少ない時代で考古学資料に多く頼らないといけない場合はなおさら)、その説明求めても「人口」謎理論の繰り返しで、過程は不明、結果論的予定調和説明なのはいかがかと。いわゆる「畿内自生説」への批判学史を全く知らないみたい。」
「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」
- 756 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:39:25.05 .net
- 呉の水軍でも流れ着いて学問だの教えながら国内の戦争にでも生き延びやがて三韓征伐を行うまでに100年以上かかったってことだろ
三韓征伐の実際に行われたの西暦390年ころだってえからな
兵装も魏兵らに劣らなかったってえしそこから歴史が始まるわけだ
それが倭の五王の時代のわけな
- 757 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:41:01.38 .net
- 松木武彦の「古墳とはなにか」という本で、かなり興味深いことが書いてあったので一部引用する
彼は畿内説ではあるが、政治的・宗教的な中心が畿内大和、経済的な中心が九州の博多湾沿岸と考え、その緩やかな連合体を「邪馬台国連合」と想定する
畿内説であっても、最近は寺澤・北條・松木・久住のように、従来の考古学界のような偏向した近畿至上主義イデオロギーに毒されず、畿内と北部九州など各地域をきちんと等身大で位置づける客観的な考え方が急速に主流になってきている
彼らの書いたものは九州説の私にも非常に参考になるし、結論として私の持論である北部九州倭国と畿内ヤマト王権の並立説こそ様々な要素を最も矛盾なく説明できる考え方だとの思いを強くする
以下、同書より抜粋
「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
(続く)
- 758 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:41:30.79 .net
- >>629
違うよ
現実の距離を里数で割ることで
邪馬台国までの道里を報告した人間が一里を何メートルとして換算したか確認できるから。
もちろん狗邪韓国から対馬まで一里300メートル
対馬から壱岐島まで一里80メートル
みたいにてんでバラバラなら論外だが首尾一貫して75~85メートルだから
魏志倭人伝を書いた人間がキチンと道里を測っていたことが確認できる
- 759 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:41:33.91 .net
- (続き)
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
- 760 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:42:36.66 .net
- それが魏志倭人伝を書いたやつらが倭地と呼ばれた場所で起こった出来事なわけだろ
それを基本として日本史も編纂されたのだろ
- 761 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:42:53.12 .net
- >>759
通説畿内説の方の畿内優越史観批判をしっかり受け止めます
- 762 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:43:09.67 .net
- また松木武彦は「古墳とはなにか」の中で、前方後円墳に過度な政治的意味合いを持たせた従来型の畿内説(ほぼ畿内自生説と被る)をやんわりと批判する(白石太一郎など考古学界の重鎮への批判になるので筆致は遠慮がち)
関東の例も含め、古い畿内説の論理的弱点を的確に突いており、極めて妥当な考え方だ
「だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている」
「墳丘の形や規模を畿内との政治的関係の表示とみる方法論の原則を首尾一貫させるのであれば、六世紀末から七世紀にかけての関東の長たちは、畿内の長たちよりも政治的に上位にあったと解釈しなければならない。もし、文献史料がまったくなかったとしたら、七世紀には列島の政治的中心が畿内から関東へと移った、と考えられたにちがいない。もちろん、そんなことは実際にはなかった。おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう」
要は、鉄器を副葬することの意味が鉄器先進地域の北部九州地域では後進畿内よりも早くから低下したのと同様に、巨大前方後円墳を作ることの意味が先進畿内では後進関東よりも早くから低下したということだ
- 763 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:43:24.89 .net
- >>648
自分で考える能力だけじゃなくて
記憶力すら無いのかよwww
http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf
上によると古代中国の天文測量法「一寸千里法」で測定すると
洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
グーグルマップで距離を測ると300km相当
300km=300000m÷4000里=75m
つまり当時の天文測量の精度があれなせいで
短里が生まれてしまい、
古代中国人はこのことに気付いてなかったらしい
- 764 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:45:22.78 .net
- 短里は存在しない
- 765 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:47:05.05 .net
- 纒向遺跡が建設される前の周辺の在地弥生勢力は極めて後進的かつ政治的に脆弱で、纒向遺跡を作った勢力との連続性がまるで見られない
また畿内には、纒向より前の倭国の王都にふさわしい先進的な遺跡が存在しない(どの遺跡も同時代の北部九州に比べて鉄器も銅鏡も圧倒的に乏しく文化的にも政治的にも明らかに劣後する)
このため最近の畿内説は、伊都国など北部九州から纒向への遷都などを想定する意見が急速に台頭している
(寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄など)
だがそこまでして畿内説を墨守する意味が果たしてどこまであるのか
魏志倭人伝から素直に読み取れる通り、邪馬台国を都とする倭国は北部九州にあったことを認め、記紀でも示唆されるようにその一部勢力が吉備を巻き込んで奈良盆地東南部を征服してヤマト王権を建てたと考える方が自然だろう
このときにそれを邪馬台国の東遷とする考え方もあろうが、皇室に卑弥呼や親魏倭王の伝承がないことや、伊都国と纒向との政治的・文化的共通性が複数の学者から様々指摘されていることから、伊都国勢力が東遷し、邪馬台国は北部九州に留まった(後に田油津媛の代で滅んだ)と考えるのが自然であろう
- 766 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:47:42.68 .net
- >>741
女王国の北を一大率に監察させてるので畿内説死亡
- 767 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:49:28.67 .net
- >>758
それなら12000里に合わせる必要がないし
仮にそうだとしたら最後の水行陸行で帳尻合わせをしたと考えるしかない
- 768 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:49:32.17 .net
- >>765
全員通説畿内説だな
- 769 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:52:01.03 .net
- となると〜九州から紀元前二世紀ころの戦闘跡が出るからそれが卑弥呼だのに関わってるってことになるわけか
紀元前100年代〜ヤマト朝廷による九州討伐が行われるまでの間、そこにはなんらかの王国があったみたいな話になるわけね
- 770 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:53:39.98 .net
- >>765
あれだけ馬鹿にしてきた東遷説にすがってまで畿内説を主張する意味はあるのだろうか
- 771 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:53:41.68 .net
- そ〜としかならないんだけどな
日本の記録と合わせても
- 772 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:55:17.74 .net
- 日本の記録と中華の記録を合わせると旧唐書に書かれた通りになる
- 773 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:55:56.05 .net
- >>770
すがらずに馬鹿にしてますが、なにか?
- 774 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:59:07.90 .net
- >>770
九州説の学者が絶滅したからって
畿内説の学者にすがる九州説信者は
馬鹿にされるんじゃないの?
- 775 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:00:12.30 .net
- >>774
畿内説の学者が唱えてることを根拠にされたら反論できなくて哀しいなあ
- 776 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:01:05.73 .net
- 寺澤は吉備東遷説だからな
- 777 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:05:14.51 .net
- 中国北部朝廷が主流になるとヘルメットに羽飾り🪶を付けた兵装が主流になっていくからな
日本にはそのヘルメットの羽飾りはない
戦国武者なども👹だのなんか変な漢字を書いた位牌モチーフみたいな兜だからな
- 778 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:20:23.53 .net
- >>775
>畿内説の学者が唱えてることを根拠にされたら反論できなくて哀しいなあ
九州説の妄想はぴしゃり論破するけど?
- 779 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:23:13.14 .net
- >>766
>女王国の北を一大率に監察させてるので畿内説死亡
理由が不明
- 780 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:23:56.67 .net
- そうだな
纏向の葬送儀礼は吉備由来
よって纏向は吉備支配下にあったとするほかない。
- 781 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:27:49.40 .net
- そういえば吉備を経由して奈良に引越しした九州人のはなしあったな
畿内説が唱える纏向成立年代を鑑みるに
倭国大乱で敗走したどこぞの王族でもいたのだろうか
- 782 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:29:21.83 .net
- 半島は始皇帝の子孫の生き残りが逃れてきて南部の方にでも住み着いた❗ってことになるわけか?
でそれを魏の連中らがバックアップしていたとか
あ〜二つの異なる王権が日本国内にあったって方が辻褄合うね
- 783 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:31:57.01 .net
- 女王国だの呼ばれるならそれなりの理由があるだろ
日本はそもそも女王制なんてないのにあっただの言われて🤔❓❓❓ってなったもんな
- 784 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:37:45.88 .net
- 満州あたりにいるO1b系を満州系だの言うからまたこんがらがってきたしな
完顔氏だの言われてるのも元は中国の東夷地方から満州に移り住んだのが起源だろ
- 785 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:39:19.57 .net
- 俗を兄弟が、聖を姉妹が司るのは倭人の昔からの仕組みだろうけど、中国人には奇特に映ったんだね。
- 786 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:39:47.59 .net
- >>705
魏の時代 1里≒432m
西晋の時代 1里≒75m ってこと。 @阿波
- 787 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:41:35.91 .net
- >>705
>そうすると帯方郡から女王国まで3000里に満たないことになる。
いまだに、行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。 @阿波
- 788 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:42:26.63 .net
- >>781
>倭国大乱で敗走したどこぞの王族でもいたのだろうか
九州に戦乱の痕跡はほとんど無い
- 789 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:43:43.77 .net
- そういえば金印を土の中に埋めたやついたなw
- 790 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:44:04.88 .net
- >>780
>纏向の葬送儀礼は吉備由来
だという根拠は?
- 791 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 16:04:53.87 .net
- >>766
北は当時の言葉で西のこと
畿内の女王国が西の九州を一大率に監察させてるってこと
- 792 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 16:14:01.03 .net
- >>791
北が「ニシ」なら南は「ペー」
西は「イリ」だし東は「アガリ」だ
西は日の入り、東は日の出の方角ってことだよ
- 793 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 16:41:44.22 .net
- つまり畿内説は4世紀からずっと邪馬台国オレオレ詐欺を続けてきた半島系倭種ですよと
- 794 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 16:48:21.17 .net
- 九州説は人種差別が好き
- 795 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 16:54:37.59 .net
- 倭人は入れ墨してる南方沖縄系
4世紀に半島系騎馬民族が乗っ取ってネトウヨの先祖になった
- 796 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:00:36.46 .net
- .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
- 797 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:02:14.04 .net
- 今のところ、殉葬が確認された古墳は見つかっていない。
祇園山も殉葬は否定されている。
箸墓も殉葬がないので卑弥呼の塚とは認められない。
- 798 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:12:09.75 .net
- >>797
殉葬が確認された古墳より先に、女王国に見合う集落遺跡を見つけたらどうだ? @阿波
- 799 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:17:58.01 .net
- 殉葬という習慣が無かったぽいのに殉葬という概念だけは輸入してんだよな
そんで記紀でもまるで殉葬があったかのように創作してるし
- 800 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:18:19.47 .net
- >>797
認められないって理由は?
墳丘に殉葬するとか倭人伝にひとことも書いてないぞ
- 801 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:19:41.27 .net
- >>797
無いものは無いと考えれば良いんだよ
倭国大乱だって痕跡が無いんだから
- 802 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:23:33.64 .net
- 倭国大乱が無ければ卑弥呼共立も起きない
- 803 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:23:48.37 .net
- だから司馬が来てるって言ってるだろ
そいつらが🐴を持ち込んで日本でも増えたのだろ
- 804 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:25:04.60 .net
- >>802
元々豪族の合議制で王を選んでるだけかも知れんだろ?
- 805 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:26:40.90 .net
- 司馬ってのは元魏の宰相だったやつの子孫だろ
騎馬民族だの言うわりには昔から日本は海戦が多いんだけどね
- 806 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:28:11.52 .net
- だいたい日本と中国間を普通に船で行き来するだけで沈没だのして死人が昔から出てるんだぞ
- 807 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:28:29.01 .net
- 卑弥呼を共立出来るって事は王を失脚させる事も出来る
そのくらい豪族は力を持ってると見るべき
- 808 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:29:10.60 .net
- 卑弥呼の墓は未発掘でイイんジャマイカ?
祇園山はともかく、吉備特殊器台の箸墓に殉葬はないことだけは確かだw
- 809 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:29:28.90 .net
- 初めてのやつらが海に出たらそのまま遭難して死ぬのが普通やろ
先導船でもないとな
- 810 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:30:40.04 .net
- 確かだ❗っても他の豪族の墓だの卑弥呼の墓だの言って荒らすくらいのもんだろ
- 811 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:31:13.94 .net
- >>808
殉葬の痕跡が他にも無いのに信じる方がおかしい
- 812 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:38:33.30 .net
- >>811
箸墓に殉葬なし。それだけが事実、あとは推測にすぎんw
- 813 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:40:14.30 .net
- 「有棺石槨木槨」ホケノ山にも殉葬なしw
- 814 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:42:49.14 .net
- つまり畿内説はオレオレ詐欺
- 815 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:43:19.47 .net
- 邪馬台国は割と生口として奴隷を差し出したり、顔や体中に入れ墨したり、殉葬したり、畿内とは文化が違いすぎる。
- 816 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:44:22.01 .net
- >>804
畿内にそんな形跡はないな
- 817 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:46:11.76 .net
- >>812
推測ってどういう事よ?
他も無いでしょ?
- 818 :琪瑛教大祭酒:2024/04/08(月) 17:46:41.10 .net
- 殉葬は殉教だと言っておるだろう、孫恩にその信仰の影響力が感じられる
1000人の奴婢達が自ら動いていた世界なのだよ
卑弥呼を慕っていたのだ
他の大王とは格が違うのだよ。
箸墓が鬼道五斗米道の巫女の墓
纏向が宗教道観、神仙思想発祥の地、臺でいいのだよ
倭人伝中華皇帝からの賛辞
記紀の嫌がらせ全て辻褄が合うのだよ
無駄だな。八角昭和までもう答えは出ている
- 819 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:47:53.72 .net
- >>816
その形跡は何処に残ってるんだよ?
- 820 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:47:53.97 .net
- 殉葬が間違いは正しい。
張政は倭人から聞いた
どんな葬儀の説明を
殉葬だと考えたのか?
まあ、卑弥呼は鬼道師だけどな。
そんな女酋長は大和朝廷には無い。
- 821 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:50:04.03 .net
- >>820
鬼道師だから何なんだ?
骨焼いてたんでしょ?
- 822 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 17:58:52.48 .net
- 箸墓では殉葬が行われたと見るべき
- 823 :琪瑛教大祭酒:2024/04/08(月) 17:59:27.94 .net
- 無駄だよ、ほぼ100%
昭和天皇は東向にお休みになられている
九州甕棺、柱と鏡、井戸
出雲、宇佐、藤原南山墓
、八角墓、朝鮮神宮、菊花紋章、神武詔勅、神武より前23代月支、天照、
共通する人物はひとり
無駄だよ。
- 824 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:02:39.85 .net
- 箸墓は台与でいいんじゃないの
なんで卑弥呼にしたいんだ?
- 825 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:04:06.32 .net
- >>819
形跡が無ければそんなことは無かったでいいんじゃないのかよ
- 826 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:10:13.46 .net
- >>825
何言ってんだ?
だから形跡は何処にあるんだ?
- 827 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:11:11.97 .net
- 鬼道=祈祷だよ
7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。
残り1300里
1300里、2か月問題がある
短里説では、75mだから、75×1300=約100キロ
2か月で約100キロしか行かなかったは無理がある
長里説なら、435×1300=約570キロ
やはり、長里だろう
- 828 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:14:46.07 .net
- >>808
>祇園山はともかく、吉備特殊器台の箸墓に殉葬はないことだけは確かだw
なんで確かなの?
根拠ないでしょ?
- 829 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:15:18.98 .net
- >>827
なるほど、鬼道=祈祷か
その間違いが全く起きないわけじゃないが文字がないからな
- 830 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:17:14.66 .net
- >>827
アホは進歩なし! @阿波
- 831 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:18:14.50 .net
- 箸墓では殉葬が行われたと見るべきである
- 832 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:19:38.94 .net
- 魏の連中らが女王国と呼ぶんだから元は匈奴だろそいつら
- 833 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:21:59.99 .net
- 匈奴が消えた消えた〜って騒いでるけどちゃんと残ってたのやろ
- 834 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:24:07.39 .net
- 孝元天皇の墓は探しやすいと思うけどね
狭山池や茅渟池より古い池で真ん中に島のある池を探せばいいからね
軽の地に宮があったから軽の地の古い古い池を探せばいい
- 835 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:32:52.91 .net
- 女王国あれば男王国あり
伊都国王は性別未詳
よって女王、男王とは
卑弥呼と卑弥弓呼
- 836 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:34:48.26 .net
- 匈奴は騎馬民族
倭に馬はいない
- 837 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:48:58.38 .net
- >>824
臺与の墓は西殿塚である
- 838 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:55:13.45 .net
- 邪馬台国の女王卑弥呼が倭人などと書かれた文献は存在しない
女王国の女王だ
- 839 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:56:19.43 .net
- 倭人伝に出てくる女王だから倭の女王だと思い込んでるだけだろ
邪馬台国の女王だ卑弥呼は
- 840 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:57:24.30 .net
- >>838
邪馬台国の女王ではない
倭女王卑弥呼
- 841 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:57:27.98 .net
- その国の王、女王と一致すると言うことは必ずしもありえない
- 842 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:58:01.19 .net
- 邪馬臺国に都してるけど倭国30国連合の女王だから貰った称号が親魏倭王なのよ
- 843 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:59:32.85 .net
- 親魏倭王と中国の皇帝からお墨付きを得て乗り込んできたのかもしれんだろ
証明できるのはその中国の皇帝とやらが与えた印鑑だけだ
倭の地に存在する邪馬台国の女王卑弥呼だ
- 844 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:00:15.16 .net
- 分からんなら理解しようとしていないだけだ
- 845 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:15:31.27 .net
- >>827
各所に滞在するから時間かかるよ。
道も舗装されてないし、輿に乗って移動するし。
お土産も持っていってるし。
九州で間違いない。
- 846 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:18:13.99 .net
- 九州説の学者が高島忠平くらいしかいないので、論文もWikipediaも全て畿内説が前提となっている
- 847 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:23:06.56 .net
- もういろいろ無理が来てるね〜
倭の五王と邪馬台国の女王卑弥呼は別モンだと思ってるんでねこちらも
- 848 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:25:04.99 .net
- Wikipediaの築造年代を100年ずらしてもらわないと九州説は不成立
頑張ってWikipediaの築造年代を変更させましょう
- 849 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:26:05.12 .net
- >>845
各所て投馬国ぐらいしか無いだろ
- 850 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:30:53.90 .net
- 九州説は学者が高島忠平しかいないので、土器編年や前方後円墳編年や銅鏡編年や三角縁神獣鏡編年が存在しない
例えば、椿井大塚山、吉備車塚、福岡県石塚山古墳の三角縁神獣鏡は、畿内説では第4段階とするが、九州説には三角縁神獣鏡の編年もない
- 851 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:30:57.46 .net
- 倭5王と卑弥呼は別もの。
卑弥呼を継承してるとか言い出す知恵遅れがいるからおかしな話になる。
卑弥呼よりも昔の神武東征時代(紀元前)に既にアマテラスの子孫が奈良盆地に入っているので
卑弥呼がアマテラスのモデルっていう説もとっくに崩壊してるし。
- 852 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:34:39.44 .net
- >>845
では計1万2000里で、
韓国から北九州まで何年かけてきてるんだよ
- 853 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:36:11.34 .net
- 畿内政権と九州政権の時代のズレはこのくらいでいいよ
https://i.imgur.com/Js6MKNh.jpg
- 854 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:40:14.19 .net
- 編年を全部100年ずらして、歴史時代に全てが集まってしまう残念な九州説
- 855 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:44:04.57 .net
- >>829
祈祷は中国風の音読み熟語だろうが馬鹿かよw
- 856 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:47:10.81 .net
- >>829
なるほどじゃねーよw
●加持祈祷
読み(ひらがな)
かじ きとう
解説
この四字熟語は、真言密教の現世利益を目的に始まった言葉で、具体的な方法として、護摩という修法が考えられます。
仏教の歴史から見ますと、古代の仏教は国家の平安を達成するために行われていましたが、 僧侶の力が強くなると、さまざまな問題が起こり、国家が新しい仏教を求めるようになりました。
平安時代の空海は密教によって、それまでの仏教とは違う、現世利益を目的とした新しい仏教を取り入れ、 貴族の間で広まっていったようです。
この時に用いられた方法が、加持祈祷であり、これは、やがて一般庶民の 間まで広まっていったようです。
お釈迦さんの説いた初期の仏教では、加持祈祷という方法はなく、 これは古代インドのヴェーダのマントラ信仰に由来しているものと考えられています。
仏教の基本となる考え方は、四諦ですが、一般庶民にとっては、難しい仏教の教理より、神秘的なものに ひかれてしまう傾向が強いので、加持祈祷が一般に広まっていったのは、自然の成り行きだったのかもしれません。
- 857 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:48:29.52 .net
- ここまで畿内説の有力な証拠まったくなし。
- 858 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:53:49.49 .net
- >>727
景行天皇12年(82年)冬10月景行天皇が 碩田国(おおきたのくに、現大分県)の速見村に到着し、 この地の女王の速津媛(はやつひめ)から聞いたことは、
山に大きな石窟があり、それを鼠の石窟と呼び、土蜘蛛が2人住む。
名は白と青という。
また、直入郡禰疑野(ねぎの)には土蜘蛛が3人おり、名をそれぞれの打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ・国麻呂)といい、彼ら5人は強く仲間の衆も多く、天皇の命令に従わないとしている
- 859 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:58:09.46 .net
- 箸墓、桜井茶臼山、椿井大塚山、西殿塚、メスリ山などを100年ずらして、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳とバッティングしてしまう残念な九州説
- 860 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:00:06.17 .net
- 日速度を検討する前に、倭人伝で示される 1 里の長さを規定しておく必要がある。
1 里の
長さは時代により変遷しており、倭人伝に記載された対馬〜壱岐 1000 余里等の距離と実際
の距離(50〜90km:出港地により異なる)とを比較すると、
1 里≒77m とする谷本茂の「短
里説」1)に基づくのが妥当と考えられる。
「短里」は中国古代で用いられた単位といわれ、
今日では誇張としか思えない熟語、「千里馬」、「千里眼」、「一望千里」などが現実的な数値
表現であると分かる。
- 861 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:03:30.10 .net
- 3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!
<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)
<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)
247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである。
- 862 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:03:52.58 .net
- 九州説の場合、江田船山古墳や稲荷山古墳の年代も動かさないといけなくなる
- 863 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:04:45.89 .net
- 投馬国って日向薩摩でしょ。
- 864 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:05:49.52 .net
- 今日も畿内説が印象操作に必死だなwww
- 865 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:07:32.25 .net
- >>863
免田式文化圏の南九州に投馬国を設定することは不可能
また、奴国の2.5倍の超大国である
そのような国は>>20の鉄器の出土を見ても存在しない
筑前奴国を上回る国は九州内に想定するべきでない
- 866 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:09:26.59 .net
- 九州は漢倭奴王で充分。倭奴wwwww
- 867 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:11:07.50 .net
- 奴国を上回る国は日本列島のどこにも存在しまへん!
あると言うなら、あげてみなはれ
- 868 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:13:11.01 .net
- ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
- 869 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:13:31.18 .net
- 漢の倭の奴国はないな。支那の世界観的に倭地なんだから倭王しか該当しない。倭奴だよwwwwww
- 870 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:14:46.85 .net
- >>861
箸墓古墳は台与の墓説ですか?
おそらくそれはない。
箸墓の被葬者の名前は倭迹迹日百襲姫命であり、
台与でも卑弥呼のものでもない。
倭迹迹日百襲姫命の母親は淡路島出身の倭国香媛。
出自もしっかりわかっている。
- 871 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:16:21.52 .net
- 日田から出土した金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡の美しさをいみればは九州説。
- 872 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:18:22.18 .net
- >>867
>>20の鉄器の出土やら、畿内の古墳を見れば一目瞭然
椿井大塚山、ホケノ山、桜井茶臼山、黒塚、メスリ山、西殿塚、行燈山、富雄丸山、吉備車塚、福岡県苅田町石塚山古墳、大仙陵古墳、誉田御廟山古墳など
全く畿内どころか、その他の地域にさえ劣後するのである
- 873 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:23:28.14 .net
- 九州は半島や大陸との玄関口
おそらく、豪華な副葬は許されなかったと見られる。
例えば、5世紀の京都・恵解山古墳では鉄器が700点以上も出てるが、九州にはそのような古墳は全くないどころか、副葬品は極めて貧弱である。
九州の人には悪いですが、九州は日本の捨て石的な地位であったと考えられる
それは沖縄戦のような位置付けである
- 874 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:23:40.60 .net
- ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑
長江下流域で出土した土器(南京博物館)
http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip
.
- 875 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:25:15.91 .net
- なんかもうずっと土器だか甕だかに囚われまくってる人いるね
- 876 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:26:17.07 .net
- >>875
それしか話すものがないからな。 @阿波
- 877 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:26:48.81 .net
- 畿内説がどんなにデマを流しても、世間一般は圧倒的に九州説なのなんでだろう?w
- 878 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:26:52.21 .net
- なんとかの一つ覚えだよ
- 879 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:28:26.11 .net
- つまり畿内説は馬鹿の一つ覚え
- 880 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:28:52.00 .net
- >>877
素人が九州説になるのは非常に理解できる
私もかつては九州説だった
全く不勉強だったので
- 881 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:29:22.98 .net
- >>877
8割は無関心じゃね?
- 882 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:30:16.87 .net
- >>880
勉強=学校の授業やNHK視聴だとそうなるよね
分かるわ
- 883 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:30:48.99 .net
- 江戸時代でも石高ショボかった九州に、古代に大国があった訳がない
- 884 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:31:27.38 .net
- 大衆はウソに敏感だからねw
- 885 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:39:13.70 .net
- >>884
畿内説のねw
- 886 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:40:03.67 .net
- >>758
それ、魏志倭人伝にかかれている里程は正確無比であるという仮定を出発点にしてるけど、その仮定は最初から崩れてて使い物にならないからな
- 887 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:40:36.87 .net
- 畿内説は普通すぎて面白みが無いからな
逆張り妄想ファンタジーに浸りたいバカが九州説
- 888 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:41:16.81 .net
- >>877
公的機関から科学的調査結果が出ると理由もなく「デマ」と言い
自分は平然とデマを流す
それが九州説
(例)
>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。
これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif
年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代がほとんど変わっていない図を自分で公表
- 889 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:42:34.39 .net
- 畿内説のデマが続くなw
- 890 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:47:18.61 .net
- >>880
俺も同様
古ー田氏(ス?)の説はおかしいことに気付かされて転向した
- 891 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:51:22.34 .net
- 最初は短里とか伊都国は糸島で奴国は那の津で博多でとかそれが当たり前だと思ってる
でも勉強するとそれが当たり前じゃ無くなって誰がそんなもん決めたの?って感じになる
- 892 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:58:32.32 .net
- 九州説では、土器・三角縁神獣鏡・前方後円墳・銅鏡・埴輪などの編年も全て100年ほどずらして考えるが、
そうすると、箸墓・行燈山・桜井茶臼山・西殿塚・黒塚・メスリ山なども100年ずらさないといけなくなる。
そうすると、大仙陵古墳や誉田御廟山古墳などのほぼ絶対年代が確定している古墳とバッティングしてしまう。
それは今で例えるならば、2024年の100年前は1924年であるから、スマホもテレビもプリウスも新幹線も旅客機も、1924年に存在したということと同義である。
九州説は幾何級数的にあり得ないのではないか?
あるいは、この編年を克服する証拠を提示しなければ、素人は騙せても、学者レベルでは全く九州説の採用は不可能であると考えなければならない。
- 893 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:58:44.39 .net
- >>889
>畿内説のデマが続くなw
九州説は嘘がバレても弁明しない
ただ次の嘘をつく
このように
- 894 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:05:29.54 .net
- 九州説って、どうしてそんなにウソつくの?
- 895 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:12:42.14 .net
- 壱岐から糸島に直接船で行けば良いってのは誰でも思う疑問で
松浦に行って歩く理由なんてどう考えても無いんだけど
そう書いてあるからしようがねえじゃんで済ますんだよね
- 896 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:25:35.02 .net
- 九州の年代も畿内に年代に押されて前倒しされてる気がするな
- 897 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:28:17.13 .net
- 素人に毛が生えると畿内説になるのかw
- 898 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:40:44.24 .net
- 畿内説の嘘の歴史は千年以上だが
- 899 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:47:14.81 .net
- >>885
それだけじゃなく
山門郡に邪馬台国がある説だと
どうしてUの字で行くのか
松浦の下にあるのに
- 900 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:47:22.55 .net
- >>895
末盧国に魏の大型船が着岸できる天然の良港でもあったのかもしれん
倭人の手漕ぎの丸木舟なら直接伊都国や奴国に行くだろう
- 901 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:51:35.98 .net
- >>897
>>898
反論がまったく出来ず、ただ悪口だけ言う敗者
それが九州説
w
- 902 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:51:51.47 .net
- >>900
あまりにも不自然だよな
九州説にせよ、畿内説にせよ(畿内説ならなおさら九州に入る必要はなく出雲に行けばいい)
なぜあんなに九州の西の端に
- 903 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:57:15.32 .net
- >>902
だから、「末盧国」は福津市(万津浦)辺り だと、何度言えばww @阿波
- 904 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:04:34.14 .net
- まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
- 905 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:08:05.53 .net
- 伊都国に一大率があることから分かるように、アクシデントがなければ壱岐から直接伊都国の港に入っただろう。
壱岐から松浦目指して南下、南東に向きを変えて500里ってところだろう。
前に行く人の背中が見えないなんてアクシデント感が満載。末盧国の官の記載ないことも末盧国に寄らなかったことの根拠になるんじゃない。
- 906 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:08:58.46 .net
- >>903
そんなこと言ってる学者は一人もいない
伊都国、奴国は畿内説でも九州説でも争いなし
- 907 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:13:24.20 .net
- ため池は弥生時代に始まりあちこちに作られたり作り直されたり江戸時代の新しいものと古いものが混在している
稲作の為に作られるのがため池
皿池タイプとダムタイプがあるが、凹地の一部を堰き止めるタイプの池が1番簡便
弥生時代末期の水田跡、地形をじっと睨んだらこいつは古い池だというのが自ずと見えてくる
- 908 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:15:33.32 .net
- 糸島に遣唐使船が出港したという唐泊(からどまり)という港がある
その頃の港の整備力とか分からんけど糸島にも大型船は留まれるんだなと思った
まあそこは伊都国ではなく斯馬国に当たると思うが
いずれにしても末盧国に行く合理性はないよね
台風が来たからとかそんな理由じゃないかい
- 909 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:18:02.80 .net
- >>906
>そんなこと言ってる学者は一人もいない
ボンクラ学者だからな。 @阿波
- 910 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:38:19.02 .net
- フルショウさんによると、シマとイトは、しと神社の辺りで繋がってただけだったらしい。
- 911 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:51:44.81 .net
- 龍神は海神
普通に博多辺りは海の勢力がまだ混在していて制海権を確立していなかっただけだろう
壱岐からは龍の絵画土器が見つかっている
伊都国は佐賀だと思うよ
- 912 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:58:30.31 .net
- 海に棲む龍もたまには雲を起こすのだという明治天皇の歌があるな
河内は奈良から降りてきた龍神が柏原の地で大和川の治水を行ったという伝承がある
奈良の奈良湖の龍の話の続きだな
奈良湖があったのは弥生時代中期まで
弥生時代後期橿原や唐古・鍵遺跡から壱岐と同じ龍の絵画土器が見つかっている
河内の龍神の伝承は弥生時代後期、柏原の大和川の辺りと現在の堤防の下から弥生時代後期の大規模な遺跡が見つかっている
河内と関係が深い博多は弥生時代後期龍神の影響下だろう
その後卑弥呼の時代に完全に龍の影響を排除できたわけではあるまい
- 913 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:11:10.12 .net
- 九州の勢力が大阪にやってきたのは弥生時代前期だな
弥生時代前期雁屋遺跡などから板付式土器が見つかっている
稲作が広がる時期やね
那津の人々がやってきたんだろう
雁屋遺跡も鳥形の地で、松江の西川津遺跡、鳥取の青谷上寺地遺跡、池上曽根遺跡と同じ形の鳥形の地やね
- 914 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:41:45.22 .net
- >>903
おまえはずっとそれ言ってるな
確かに行程的には筋は通ってるが伊都国が内陸なんだよな?
- 915 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:46:03.50 .net
- 青谷上寺地遺跡、雁屋遺跡、亀井遺跡、登呂遺跡、etc
卜骨は興味深いよな
壱岐や青谷上寺地遺跡早くから卜骨があり弥生時代中期には大阪に広がり後期には登呂遺跡など東国にも広がっていく
雁屋、亀井、登呂遺跡などは鳥形とセットだな
吉備で卜骨を認めるようになるのは遅く弥生時代末期頃で倭国大乱の後辺り
逆に大阪平野は弥生時代中期頃まで
青谷上寺地遺跡は卜骨が盛んで弥生時代全期を通して行われていた
- 916 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:47:45.45 .net
- >>911
東南500里は吉野ヶ里方面に向かったと考えると無理がない
- 917 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:49:15.82 .net
- 遠賀川には卜骨がないんだよな
稲作集団も複数のグループがいたのかもな
土地の取り合いになるわ
- 918 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:55:03.61 .net
- 鳥形の集団は卜骨の集団のいる集落に巣を作ることが多かったようだな
- 919 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:57:01.75 .net
- 鳥形は滋賀守山の下之郷遺跡からも出てる
- 920 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:59:27.36 .net
- 鳥形の集団の縄張りに稲作技術を持つ卜骨の集団を呼び込んだとも言える
- 921 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:04:23.81 .net
- 鉄の輸入ルートだけでなく、稲作技術と土地の奪い合いが倭国大乱の引き金かもな
女王国は文身の風習を持つ海人中心の国
稲作民を呼び込んで栄え始めていた狩猟採集民の縄張りに海の民が入っていこうとしたのが対立のそもそもの原因かもしれん
- 922 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:08:00.03 .net
- 何で突然天理大学の鳥形の分類の論文がネットで閲覧できなくなったのか?
鳥形という視点を足すとより鮮やかに色々時代の動きや人々の移動が見えてくるんだけどな
- 923 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:09:50.39 .net
- >>915
吉備は後期前葉から
- 924 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:09:52.16 .net
- あまだむは軽の枕詞
天飛ぶやは雁や軽の枕詞
- 925 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:18:13.61 .net
- 弥生時代の食事は遺物からわかっていて、大阪辺りでは弥生時代後期になると食糧が豊富になり食べる対象が限定されるようになる
主食は米、魚は鯛、果物は山桃が好んで食べられていた
清水風遺跡では米と魚介類の雑炊が食べられていた
- 926 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:32:04.71 .net
- 各地に残る羽衣伝説みたいなことが実際に倭国大乱で起きたのかもな
松や岩にかけてあった羽衣
- 927 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 01:20:27.47 .net
- 3世紀の瀬戸内の荒れた海、海賊の危険がある海を貴重品を積んで航海するなど、まったく馬鹿げた話だ
- 928 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 02:05:30.69 .net
- >>927
海賊っつうのは、たいていのは、通行料を払えば通してくれるどころか、ほかの海賊に襲われないように守ってくれるものやぞ
私掠船型の海賊とか、梁山泊の山賊みたいな海賊とかは特殊型
- 929 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 02:14:32.06 .net
- 世世伝統の王=世襲王の有る国
これを女王国とは言わない。
女王に属する21国の王が
共立した女王の国である。
死後も争乱になる不安定政権で
大和朝廷にはならない。
- 930 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 02:24:10.63 .net
- >>929
権力を持ってると倒されるよ
中国のように、幕府のように
- 931 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 06:58:06.37 .net
- >>914
>確かに行程的には筋は通ってるが伊都国が内陸なんだよな?
なぜ内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれたのか。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国在留管理庁」。
理由は、大陸からの「行き」と「帰り」のルートは異なるから。
伊都国(直方)は、大陸との往路と復路の分岐点に位置する。
だから、大陸からの「行き」と「帰り」の両方を監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
ちなみにその朝鮮半島・大陸への出航地は、平戸市周辺。 @阿波
- 932 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:20:38.80 .net
- >>767
12000里に合わせる為に一里80メートルに設定したのかもよ
帯方郡から邪馬台国までの距離÷12000里が一里80メートル前後
- 933 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:23:33.83 .net
- >>932
つまり、直線距離。 @阿波
- 934 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:23:38.56 .net
- >>788
なんで畿内説の人は嘘をつくんだろう?
或いは無知なのか?馬鹿なのか?
無知で馬鹿だから畿内説なのか?
https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg
- 935 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:27:21.03 .net
- >>886
>>617-618
- 936 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:27:55.05 .net
- >>892
ずらしてるのは畿内説だろw
- 937 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:28:48.50 .net
- >>929
中国語の動詞には過去形とかがないので、王がいると書かれたのか王が続いてきた(が、現在ではいない)のかは分からんよ
文脈から見ると、過去形で解釈すべきではないか
- 938 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:39:48.35 .net
- >>935
つまり短里なんてものは逆算で出なかったって事だね
- 939 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:43:54.89 .net
- 漢と交流のあったのは三十国ほどである
国はみな王を称し、代々受け継いでいる
その大倭王は邪馬台国に居る
各国の王たちがいてさらに大倭王がいたと考えるのが自然かなー
だからこそ男王が立っても従わないし台与の時も共立に動く
各国に王がいればこそだ
- 940 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 07:45:05.00 .net
- >>937
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
これは魏代にも続いてる
- 941 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:06:51.02 .net
- >>936
>ずらしてるのは畿内説だろw
証拠でもあるの?
それはウソで九州説がズラしてるって証拠はあるんだけど
>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。
これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif
年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代はほとんど変わっていない
- 942 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:20:44.68 .net
- つまり3世紀突然現れたとする邪馬台国畿内説は脳死学者によるオレオレ詐欺でしたと
- 943 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:27:05.47 .net
- 四世紀以降は漢化の時代。邪馬臺国は桓武天皇様の御代で漢化がピークに達するのだ。
- 944 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:32:48.87 .net
- 邪馬臺国が漢化した姿が大和王朝。
国名が雅になり王が男化した文字通りの漢化。
- 945 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:42:35.30 .net
- >>941
180新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2023/06/07(水) 23:52:10.72ID:D6BEFyx20⋮
>>150
詳しいことはこちら
畿内説は位至三公鏡の年代を中国側の記録より100年くらい前倒ししている
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
> 「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年~316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
> この表のものに、さきにのべた「洛陽晋墓」出土の八面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる十二面の「位至三公鏡」のすべてが、
> 西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。
略
> ここで、さきに、「わが国出土の『位至三公鏡』」をまとめた前の表を、今一度ご覧いただきたい。
> この前の表(わが国出土「位至三公鏡」)には、「漢鏡」の欄がある。そこに、「6期」とか「7期」とか、記されている。これは、右の岡村氏の規準により、
> 七期の区分の、どれにあたるかを示したものである。
> これによれば、わが国出土の「位至三公鏡」の年代は岡村氏の区分によるとき、つぎのようになっている。
> 「漢鏡6期」に属するもの………………………11例
> 「漢鏡7期」に属するもの…………………………7例
> (うち、「7期」とのみあるもの3例。「7-1期」とあるもの4例)
>
> これは、岡村氏のさきの区分の年代では、「後漢中期」から「後漢後期」までのものとなる。実年代で、「二世紀前半~三世紀はじめ」のものとなる。
> つまり、「卑弥呼遣使前」の年代となる。
> ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の「位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。
> 「西晋」代は、すでにのべたように、「西暦265~316年」であって、「卑弥呼没後」の年代であるからである。
- 946 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:43:02.62 .net
- >>941
181新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで2023/06/07(水) 23:52:42.29ID:D6BEFyx20⋮
>>180続き
> なぜ、そんなことになるのか。
> それは、岡村秀典氏が「景初四年鏡」をふくめ、「三角縁神獣鏡」の年代を、卑弥呼の時代のものと、きめてかかるからである。
> わが国において、(位至三公鏡)の年代は、その出土遺跡や、その遺跡から出土する土器の形式からみて、(岡村氏の鏡の編年によっても、)
> 「三角縁神獣鏡」の年代よりも、古く位置づけなければならない。
> 「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時代のものと設定すれば、「位至三公鏡」を、それ以前の「後漢中期」から「後漢後期」のものと設定せざるをえないのである。
> しかし、「事実」は、「位至三公鏡」は、おもに、西晋時代(265~316)のものである。「三角縁神獣鏡」は、そのあとの、主として、四世紀の、前方後円墳時代、
> 布留式土器の時代のものなのである。
>
> 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。
> 監訳本のほうは、中国に原文がある。岡村氏も、大幅に内容を変更することができないのである。そのために、矛盾が生じている。
- 947 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:44:47.10 .net
- >>938
単里とか長里は現代人が便宜上使ってる言葉
- 948 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:45:34.61 .net
- お稲荷さんのある森ノ宮も卜骨が見つかっているな
それより興味深いのは亀井遺跡だな
亀井遺跡の主人は相当好奇心が旺盛だったようだ
松江の西川津遺跡と同じ形の鳥形、卜骨、強力な弓、弥生時代前期の分銅の製作。弥生時代でも石棒祭祀が脈々と続いていた遺跡でもある
河内湖の縁で元々は豊かな狩場だったんだろう
亀さんのコロニーだったとしたら興味深い
- 949 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 08:58:47.05 .net
- >>946
>> 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。
というのもウソ
岡村編年は鏡の制作時期
写真集の解説の訳は遺跡の年代
まったく矛盾しない
まぁ、たとえ本人の書いた論文と他人の書いた解説の翻訳で言ってることが違ったって
それを矛盾だと思うのは知能たりない人なんだけどね
- 950 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:01:31.84 .net
- >>949
じゃあ今は訂正して三角縁神獣鏡は4世紀の鏡に分類してるんだよね?
ソースは?
- 951 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:02:13.22 .net
- 畿内説ってこんなんばっか
- 952 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:03:57.66 .net
- 役に立つもの、興味深いものはどんどん取り込む
明治も昭和も弥生時代も日本人の特徴はあまり変わってないのかもな
様々な福を持ってきてくれるえべっさん。事代主のえべっさん、大黒さんのえべっさん、ひるこのえべっさんの世界観やな
- 953 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:04:22.37 .net
- もはや宗教
畿内説が正しい
という教義が大前提で
畿内説を肯定する意見は盲目的に信じて
畿内説を否定する意見は些末な部分の揚げ足とって否定したつもりになる
- 954 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:07:18.90 .net
- じゃなくて九州説の嘘を暴いてるだけ
- 955 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:08:32.34 .net
- https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/recommended-relics/ippin346/
- 956 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:08:37.34 .net
- >>950
>じゃあ今は訂正して三角縁神獣鏡は4世紀の鏡に分類してるんだよね?
誰が?
なんでそんな変な訂正をする理由があるの?
もしかしてあなた気が狂った?
- 957 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:15:35.88 .net
- つまり畿内説は事実を嘘と呼び、妄想を推定と呼び、南を東と読む宗教でしたと
- 958 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:18:46.14 .net
- >>944
おまえマジか?
邪馬臺は日本の言葉に中国人が文字をあてあてたんだぞ
- 959 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:22:58.58 .net
- >>956
頭悪すぎだよ
3世紀末から4世紀初めに作られた位至三公鏡は2世紀や3世紀中頃までの卑弥呼の時代の古墳に埋葬することはできません
それが何故なのか君には理解できないみたいなので教えてあげます
2世紀や3世紀中頃の古墳を作る人にとって
位至三公鏡は未来に作られる鏡だからです。
あなたも100年後に作られる鏡を今墓に入れることは出来ませんよね?
そして三角縁神獣鏡は使われている銅は魏ではなく呉の銅
デザインも魏ではなく呉の鏡
邪馬台国畿内説に立っている考古学者、石野博信氏ですら
「(三角縁神獣鏡は)ヤマト政権が弥生以来の祭式を廃止し、中国鏡をモデルとして四世紀にヤマトで創作した鏡である」
と述べている。
- 960 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:24:49.07 .net
- 位至三公鏡が3世紀末から4世紀の鏡と認めるなら
それより新しい三角縁神獣鏡は4世紀以降の鏡になる
それが理解できないのが畿内説信者
- 961 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:28:36.77 .net
- グーグルマップで九州地図を見てみた。
平野部に人がいたことが想像できる。
末羅国なんかは唐津市にあったんだろうとわかる。
伊都国は糸島市。
奴国は福岡市。
対蘇は鳥栖。躬臣國は豊後国玖珠郡。
全部九州北。
- 962 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:29:31.88 .net
- >>959
>3世紀末から4世紀初めに作られた位至三公鏡は2世紀や3世紀中頃までの卑弥呼の時代の古墳に埋葬することはできません
位至三公鏡が3世紀末から4世紀初めに作られたなんて説はないでしょ?
- 963 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:38:19.29 .net
- >>962
Σ( ゚Д゚)
おまえ全然人の書き込み読まないんだな
>>945
「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年~316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
- 964 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 09:41:18.10 .net
- >>928
阿波の海賊は餌食にするらしいぞ
- 965 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 10:02:56.35 .net
- 位至三公なるものを親魏倭王に渡すわけないだろ
馬鹿馬鹿しい
どっか市場で集めたもんであろう。
神仙思想には関係無い鏡
九州に渡すにはまぁ相応しい類い
- 966 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:05:49.13 .net
- >>963
位至三公鏡、後漢で検索すると出て来るが?
- 967 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:07:40.62 .net
- 日本の言葉ヤマト国と中国の文字倭国が融合して大和国
女王は漢化(オトコ化)して男系継承化
- 968 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:12:14.55 .net
- >>966
それが畿内説の捏造なんだよ
畿内説の為には三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であることを証明したい
だから位至三公鏡を漢の鏡に分類した
畿内説のゴッドハンド捏造分類
それが>>945-946の指摘
- 969 :1 :2024/04/09(火) 10:13:40.29 .net
- 新スレ立てました。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712622664/l50
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
- 970 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:14:04.45 .net
- >>968
中国ではこの鏡こそ卑弥呼に渡した鏡だろうと言われてると書いてあった
- 971 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:14:39.60 .net
- >>965
「三国志の英雄」として知られる曹操(155~220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、
大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
佐賀新聞社の取材に応じた。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で
「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、
公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、
鏡の総称として用いたのだろう。
そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。
「魏の側からすれば、最高の品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工業技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520#goog_rewarded
- 972 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:15:34.26 .net
- てか中国で出てる鏡なんだからこれは誤魔化しようがないだろ?
- 973 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:20:05.74 .net
- 100枚全部国宝級の鉄鏡な分けないから
ほとんどは銅鏡だったんだろうな
親魏倭王用には国宝級の鉄鏡
- 974 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:21:55.77 .net
- >>963
>おまえ全然人の書き込み読まないんだな
だから
位至三公鏡が3世紀末から4世紀初めに作られたなんて、一体誰の説?
- 975 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:24:28.34 .net
- >>971
>金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
曹操の墓からも同形式の鉄鏡が出土しているし、中国の専門家ですらそれを認めているもんね。
冊封の褒美としてふさわしいほどの細工、美しさ、造形。
この一枚を作り上げるのにどれだけの工数、手間、時間がかかったのかというぐらい素晴らしい。
明らかに贈答用の品とわかる一品。
神獣鏡は所詮は国産の量産鏡だから、出土しても特に邪馬台国との関連はまったくないわけだし、
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と比較するとあまりにもみすぼらしい出来栄え。
- 976 :琪瑛教大祭酒:2024/04/09(火) 10:24:58.21 .net
- 墓を荒らした仲間だわ
- 977 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:24:58.79 .net
- 九州説て投馬国、邪馬台国、狗奴国の比定バラバラだよね
全然結論出てない
- 978 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:28:02.10 .net
- 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡には当時非常に貴重だったトルコ石まで使われてる。
現代においても産地は限られているもの。
- 979 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:30:23.32 .net
- >>977
畿内説もバラバラだよ
- 980 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:30:43.24 .net
- >>974
だから読めよww
>昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には
『洛陽銅華』「監訳」「日本語版」
この単語があれば中国側の資料と分かる
洛陽銅華でググればAmazonで買えるよ
中国語の奴がね
- 981 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:42:52.72 .net
- >>980
持ってるよ
位至三公鏡が3世紀末から4世紀初めに作られたなんて、そんな説は書いてない
- 982 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:48:20.85 .net
- 日田の鉄鏡は五世紀の古墳だろ。漢魏じゃなくて北魏だなwww
曹操の墓も北魏の墓と混同して七十二偽塚伝説が生まれたw
唐太宗曰く後世の人はまんまと曹操に嵌められたということ。
- 983 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:53:11.51 .net
- 九州説の反学問は末期症状
- 984 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 10:55:33.29 .net
- 漢式鏡の化学的研究 (4)
一後漢中期以降の漢三国晋鏡の原材料産地-
馬淵久夫
http://www.jssscp.org/files/backnumbers/KandSvol66_1.pdf
- 985 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:01:03.12 .net
- >>981
いや持ってないねw
- 986 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:05:04.32 .net
- 同じ人間が
一方の翻訳本では位至三公鏡は西晋の鏡と書いていて
一方の論文では卑弥呼の時代の前の鏡と分類してる
だからゴッドハンド捏造と言われてるんだよ
普通に考えたらそんな恥知らずなことする分けないとみんな考える
だから騙されるしだから現代の旧石器捏造事件と言われてる
- 987 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:07:57.36 .net
- 鏡は同じ大きさでまっさらで一枚づつ仕切りがある箱詰めを想像するけどな
- 988 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:10:05.34 .net
- >>986
そいつがアホなだけだろ
- 989 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:17:00.83 .net
- 検索すればいろいろ出て来るのにたった一人の言ってる事だけ信じるのはなんで?
- 990 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:28:00.58 .net
- いくら属国への下賜品でも手垢の付いてるようなもん贈らないだろうし
欠けたり割れたりしたら大変だし梱包もしっかりやってるでしょう
- 991 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:28:57.96 .net
- >>986
>一方の翻訳本では位至三公鏡は西晋の鏡と書いていて
>一方の論文では卑弥呼の時代の前の鏡と分類してる
>だからゴッドハンド捏造と言われてるんだよ
だからあんたの知能が低いのがわかっちゃうんだよ
論文は自分の意見
翻訳は他人の意見だろ
しかも翻訳元にだって「位至三公鏡は西晋の鏡」だなんて書いてない
九州説は捏造専門だな
- 992 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:42:17.99 .net
- >>991
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」
- 993 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:50:14.90 .net
- >>992
北條芳隆は「箸墓=卑弥呼の墓」説
- 994 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:52:57.90 .net
- >>992
証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされており
考古学者の立場では不満でもこれは仕方ない事だと思うがな
勿論考古学が最重要ではあるけど
- 995 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:56:27.58 .net
- >>994
前提が否定されたらその前提を元にして立てた推論全てが間違いということになる
- 996 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:58:38.59 .net
- 3世紀の古墳という前提で作られた推論は
その古墳から4世紀の遺物が出土したら全てが間違いということ
- 997 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 11:59:24.29 .net
- これをしないから学問性が危機に陥っていると言われてる
- 998 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:00:19.27 .net
- >>995
当然その通り
はっきり言えば年代だよね
でもこれは考古学者の責任だよ
- 999 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:00:42.06 .net
- 鏡には中央に組み紐が付けられていて、その紐の色が地位を表していたらしい。
これは中国の話で倭人には鏡の方が重要だったかもしれない。
卑彌呼が他国に配り魏の権威や関係を示すためなら、大切であり価値ある鏡だろう。
大量に作って価値を下げる様な事はしない、するとすれば卑彌呼から鏡を貰ったほうだろう。
- 1000 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 12:01:43.77 .net
- さけ
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