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邪馬台国畿内説 Part1010

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:19:30.56 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712200110/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

62 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:55:31.26 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:56:00.64 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:56:30.96 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:57:00.71 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。

66 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:57:30.96 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:58:00.63 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:58:31.94 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:59:01.20 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:59:30.66 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:00:31.81 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:01:01.27 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:01:31.44 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:02:32.28 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

75 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 10:03:02.61 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:23:06.05 .net
方保田東原遺跡とかいう纒向の10分の1の遺跡を邪馬台国にするま残念な九州説

77 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:27:05.08 .net
邪馬台国の卑弥呼の都は日本最大の遺跡でなければならないという根拠をまず示すべきだろうね

78 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:32:37.02 .net
>>77
そもそも、単一遺跡で「卑弥呼」の都を言うこと自体、間違っている。   @阿波

79 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:33:32.02 .net
>>77
倭王だから
集落の長にそんな称号くれない

80 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:34:45.21 .net
>>77
と考えている、九州説も
纒向は100年ずれていると九州説のセミプロは主張しているだけ

81 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:35:50.29 .net
>>79
倭王なら所在する集落の大小は関係ないだろ

82 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:36:35.45 .net
>>79
親魏倭王の称号もらえたのは二つ理由があると思う
ひとつは漢委奴国王の後継者たる大倭王と認められたから
もうひとつは司馬懿が公孫氏を倒したタイミングで帯方郡に使節が勾留されてたから

83 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:39:14.79 .net
>>81
其大倭王居邪馬臺國
王を束ねる倭王の住むところがなんでショボいのよ?
中国の使節を恥ずかしくて呼べない

84 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:41:18.85 .net
九州説で纒向と邪馬台国が並立して存在しているのは素人中の素人だけ
セミプロハルキーは、纒向が3世紀なら九州説不成立と知っている

85 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:43:21.63 .net
纏向には人は住んでないらしいがそれでもあの規模だからな
客人を招待できる

86 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:43:27.28 .net
>>83
事実呼んでない
呼んだら詳細を記されているだろう

87 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:44:41.76 .net
>>77
誇大妄想ばかりするくせに、
単一遺跡で「卑弥呼」の都を言うこと自体、間違っている。   @阿波

88 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:45:37.64 .net
>>86
一応詳細は書いてあるんだが

89 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:50:49.81 .net
自為王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
以婢千人自侍は養えないから疑わしいけど

90 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:52:22.08 .net
銅鏡100面もらったはずなのに、銅鏡の出ない方保田東原遺跡を邪馬台国にしてしまう残念な九州説

91 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:53:31.37 .net
>>89
300ヘクタールの纒向だけが千人を養うことが可能

92 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:54:51.24 .net
>>91
卑弥呼の世話役千人も居たらそいつら何も生産しないじゃん

93 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 10:59:28.58 .net
>>92
ということは?

94 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:02:30.84 .net
>>93
そんなに居ないって事でしょう
中国の使節が来た時は厳重にするだろうし格式もあるし

95 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:04:15.52 .net
>>94
つまり倭人が嘘をついたか、中国人の記録者が嘘をついたのか

96 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:05:09.61 .net
国の威厳に関わるし人揃えていろいろやるよ

97 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:06:41.87 .net
>>95
嘘じゃなくて使節が行ったときにはいろいろやるよ
鼓笛隊の演奏とか

98 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:12:28.29 .net
王宮だって中国の使節を竪穴式住居に呼べるか?

99 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:19:13.16 .net
数値はいい加減とよく言われてる

100 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:19:19.80 .net
大いに冢を作る → 全長ではなく短い方の辺の長さを記述
ほんとに見たの?

101 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:20:42.63 .net
>>100
墓参りに行ったかどうかは知らんけどさ

102 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:27:48.77 .net
周髀算経の短里で計算してるから畿内説はありえない。
距離まで短里で一致してしまったので100%の裏付けが取れてしまっている。
つまり当時も短里が用いられた。
証拠を出さない限り、崩れないが100%計算で短里であることが出てしまっている。
畿内説の方々残念でしたね。

103 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:29:58.73 .net
https://i.imgur.com/GcB81XN.jpg
大いに冢を作る、なんと径100歩!
全長?知らないですねえ……

104 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:44:00.61 .net
本当のことを書いちゃおう。

倭の六王

讃 仁徳
隋 履中
珍 反正
済 允恭
興 安康
武 雄略

105 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:44:15.94 .net
筑前奴国では、庄内併行期に楽浪土器が激減し、布留0の段階では絶滅する

106 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:48:00.82 .net
>>104
中国の史書には5人書かれてるが、もっと多いのかもしれん

107 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:49:15.06 .net
倭の10王とか

108 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 11:58:36.01 .net
?まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
?次に「帯方郡から女王(邪馬台)国に至るまで12,000里(900?)」(1里=75m)
狗邪韓国まで7,000里+渡海1,000里+【対馬400里】+渡海1,000里+【壱岐300里】+渡海1,000里+末盧(松浦)国500里+伊都(糸島)国100里=11,300里(850?)で奴国(博多)に至る。
つまり、博多から残り半径700里(50?)の範囲にあるということになり、糸島➡博多の北は玄海灘🌊、東は不弥国ですので、残る南(筑紫平野)に陸行するしかなく、博多から吉野ヶ里遺跡(邪馬台=脊振【山】南麓に突き出した舌状【台】地)「宮室楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」が50?でピッタリです!
?そして「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。

さらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

109 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:01:01.18 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)

110 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:08:36.21 .net
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

辻褄が合ってないので嘘だろう

111 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:09:54.82 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






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112 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:14:10.71 .net
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

113 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:16:02.29 .net
前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

114 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:18:04.55 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである。

115 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:21:00.09 .net
>>104
つまり畿内説ではなくなりそうね。
その説の人、九州説だし。

116 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:21:56.97 .net
邪馬台国とヤマト王権の並立は不可能であり、そのようなことを主張しているのは九州説でも素人だけである

117 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:25:22.41 .net
>>108
>>109
魏志倭人伝の記述に完全合致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してない畿内説は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作洗脳作文が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「古代。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ(デスラー総統)」w

118 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:27:27.51 .net
漢書地理志  楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云 
毎年来てた 

119 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:28:17.12 .net
魏志倭人伝と一致しない九州

120 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:33:10.32 .net
>>112
>北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

まあ交易してるんだから文化交流はあるよね

>糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。

ほうほうなるほど

>従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

唐突に出てきたな
従って〜がなんの理由も解説もなく決めつけだけで判断しようがない

> この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

ただの希望妄想の類い

121 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:43:29.61 .net
漢書地理紙では、倭人は楽浪郡に定期的に貢物を持ってくると書かれている
後に、三雲南や平原の王により倭国はまとまるかに見えたが、倭国乱
そこで纒向に卑弥呼を共立
筑前では生活様式の畿内化、祭祀形態の畿内化、そして楽浪土器の完全排除により、畿内の飛地と化す

こうして倭国は一応の統一を果たすが、狗奴国や卑弥呼の死後の乱で短期的には不安定化するも、臺与の即位で再び安定化
そして、南九州や東海、関東も支配下に置き、4世紀には半島への侵攻を開始する

122 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:44:48.26 .net
九州最大の外港都市博多と畿内が葬制を共有する政治連合だから
一人一説やけのやんぱち雑多九州小説としては、
博多を見られないように
西側のアクセントど崩壊ベルト地帯を通って
なるべく遠くに魏使を連れ去らないといけない

123 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:47:02.23 .net
>>89
延べ千人だろうね

124 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:47:05.61 .net
>>121
そこで纏向〜になんの脈絡もない
無理矢理話をつなげてるだけだな

125 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:12.75 .net
畿内ヤマト王権が邪馬台国を滅ぼしてるからね

126 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:28.14 .net
旧石器時代、石器の特徴からいくつかの文化圏に分けられる

佐賀の腰岳を含む九州
大分の姫島、隠岐の黒曜石、五色台や二上山のサヌカイトを使っていたグループ、福岡大分の東岸、四国、中国、近畿
茂呂型ナイフ石器のグループ、三重から東北の太平洋側
諏訪の近くの和田峠の黒曜石を使っていたグループ、石川から青森の日本海側

38000年前に朝鮮半島を経由して本州にやってきた集団
35000年〜30000年前に沖縄ルートでやってきた集団
25000年前に北海道ルートでやってきた集団がいるらしい

当時の瀬戸内海は今の大分沖辺りまで陸地で纏向遺跡と関係が深い岡山辺りは1番奥まった場所だった
瀬戸内海の海底からは瀬戸大橋建設時に数万点のサヌカイトの石器が見つかっている
和歌山辺りも紀淡海峡辺りがちょうど河口で淡路島はまだ四国と陸続きだった
大阪平野はまだ河内湖もなく起伏に富んだ古大阪平野が広がりその先にサヌカイトの採集地二上山があった

127 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:43.26 .net
そもそも魏志倭人伝と畿内説が一致しないから

128 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:49.13 .net
小説「邪馬台国畿内説」

129 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:50:54.24 .net
>>125
ヤマト王権と邪馬台国の並立を可能だと考えている学者が存在しない

130 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:51:55.88 .net
九州から近畿に移転とか無いって
最初から近畿だ
中国の史書は邪馬台国という王宮の場所を指してるんだから

131 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:52:22.83 .net
>>116
並立を許さないから邪馬台国が滅ぼされるという結果になったわけね。九州説を固めてくれてありがとう。

132 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:55:11.56 .net
>>129
並立ってなに?倭国にはたくさんの国があって並立どころの騒ぎではなかったわけだが。
魏志倭人伝に書いてあるとおり、女王国の東にも倭人の国があると言っている。
半島でもいろいろな国が複数存在していた時代あり。
中国本土もいろいろな国が複数存在していた時代あり。

133 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:55:17.55 .net
>>131
そうではなく、九州説のほとんどは邪馬台国は北部九州であり、纒向ヤマト王権は4世紀にスタートしたと考えている

134 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:55:58.04 .net
>>132
そんな単細胞的な主張じゃない

135 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 12:58:49.97 .net
魏略逸文では渡海とは書いてあっても東とは書いてない

136 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:00.31 .net
九州説を成立させる唯一の方法は時代を100年ほどずらすことである
この領域にすら達していない人は、素人中の素人であることを理解しなければならない

137 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:03.68 .net
>>133
伊勢遺跡は?

138 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:44.17 .net
>>133

>九州説のほとんどは邪馬台国は北部九州であり

んなこたぁない
南九州の人は南九州説

139 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:00:50.19 .net
>>136
100年ずらしてるのは畿内説だろ

140 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:02:27.77 .net
>>138
南九州説などというものを唱えている学者は存在しない

141 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:02:44.66 .net
三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?1

中国で西晋時代(西暦265年~316年)に作られた位至三公鏡は日本では福岡佐賀を中心とする北部九州から出土している。
奈良からは確実な出土例がない

位至三公鏡より形式的に古い時代の鏡
(雲雷文「長宣子孫」銘内行花文鏡などその中に魏の時代の鏡が含まれていると思われる)
も北部九州を中心に出土している。

北部九州出土の位至三公鏡は弥生時代の遺跡からも見つかるが九州以外の位至三公鏡は古墳時代の遺跡から出土している。

これらは時系列から北部九州から位至三公鏡が本土に渡り
先祖から受け継いだ鏡として埋葬されたことを示す

これらのことから魏の後を継いだ西晋の時代3世紀末~4世紀初頭まで鏡の分布は北部九州が中心であったと考えられる

142 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:03:26.66 .net
三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?2

位至三公鏡は中国でも多数出土しているが
特に西晋の首都洛陽で多く見付かっている
しかし三角縁神獣鏡は魏や西晋のあったエリアどころか中国全土で
"確実な発掘によって"出土した例は存在しない
しかし日本では確実な発掘によって400面以上存在している
位至三公鏡が中国と日本どちらでも見付かっている点と比べて
三角縁神獣鏡が中国で作られたものならこの出土数の差は異常である。

また三角縁神獣鏡に使われている銅は位至三公鏡等の西晋時代の鏡と同じ長江流域産の銅が使われている。
また材料だけではなくデザインも長江流域系の画文帯神獣鏡、三角縁画像鏡に近い
中国の考古学者、王仲殊は
日本の三角縁神獣鏡は中国の平縁神獣鏡と三角縁画像鏡を参照して作られたと考えられ
そのどちらも呉の鏡であることから三角縁神獣鏡は魏ではなく呉で作られた鏡であると思われる。

143 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:03:30.98 .net
伊勢遺跡に卑弥呼と台与が居てそのあと纏向遺跡でも良いけどさ
それが正しいと本気で思ってます?

144 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:03:31.50 .net
昔、奥野正男が言ってたね
三角縁神獣鏡が否定されたから畿内説は年代を遡上させる動きを始めるだろうと
その通りになった

145 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:01.89 .net
三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?3

紫金山古墳から三角縁神獣鏡は10面出土したが
鏡の紐を通す孔が全て鋳放し(鋳たままで仕上げしていない)であって
中には孔が完全に塞がっているものもあった。
考古学者の森浩一によると
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。紫色の組み紐。紐は腐ってくるからよく鏡だけ発掘品に並べてあるけど
組み紐とセットで、ある意味では組み紐の方が重要だったわけですね。紫綬。
だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば
紫綬を通す所の、紐の孔は綺麗に作り上げて、そこには何色かの組み紐が付けてあってしかるべきなのです。」
橿原考古学研究所の所長だった菅谷文則氏は
画文帯神獣鏡等の中国の鏡は組み紐を通す孔が綺麗に仕上げされていて
紐を通して日常的な使用に耐えられるようになっているが
三角縁神獣鏡の7~8割は仕上げがされていなくてギザギザが残っており
紐を通しても紐がすぐ切れてしまい日常的な使用には耐えないだろうと述べ
三角縁神獣鏡はお墓に入れる為に日本独自に出来上がったジャンルなのではないかと述べている。

146 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:15.27 .net
>>134
畿内説は無理を通すために支離滅裂になってるもんな

147 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:41.23 .net
三角縁神獣鏡は何故四世紀なのか?4

邪馬台国畿内説に立っている考古学者、石野博信氏ですら
「(三角縁神獣鏡は)ヤマト政権が弥生以来の祭式を廃止し、中国鏡をモデルとして四世紀にヤマトで創作した鏡である」
と述べている。

結論
三角縁神獣鏡は四世紀の鏡
三角縁神獣鏡が
出土した古墳は全て四世紀以降に作られた古墳である

148 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:43.81 .net
>>141
位至三公鏡は絶対数が少なすぎる上に、大阪からも福岡と同数の数が出る
したがって、位至三公鏡が何世紀の鏡であろうとも、畿内説は揺るがない

149 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:04:49.80 .net
>>146
>>143

150 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:06:18.51 .net
>>140

一人一説やけのやんぱち雑多北部九州小説も同じ

151 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:07:24.58 .net
>>147
三角縁神獣鏡が4世紀だとしても揺らぐことがない通説畿内説

152 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:08:37.11 .net
瀬戸内海が陸地だった旧石器時代、瀬戸内海が誕生した縄文時代以降、どちらかの時代においても、黒曜石のある姫島と二上山のある畿内を結ぶルートとして、中央構造線が大事だと思うんだよな
旧石器時代からの生活や移動のスタイル、文化的繋がりが、弥生時代古墳時代にも影響してくると思うんだよね

瀬戸内海西部の姫島→松山→中央構造線→徳島→淡路島→加太→紀ノ川、和泉

加太の地は泉州方面、紀ノ川から奈良、和歌山南部、淡路島から四国方面に分かれる交通の要衝
加太目線で色々見てみるのも面白いかもしれない

153 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:08:37.28 .net
>>148
古い鏡を新しい古墳に埋めることは可能だぞw

154 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:09:17.48 .net
>>142
華北東部系鏡なるものが登場し始めてから、三角縁神獣鏡呉鏡説は絶滅危惧種となっている

155 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:09:38.70 .net
>>151
古墳の編年が変わるんだよ
畿内説は邪馬台国を畿内にあったことにしたいから
三角縁神獣鏡が見付かった古墳を三世紀に比定しようとしてる

156 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:10:20.89 .net
>>153
位至三公鏡は邪馬台国畿内説に全く影響を与えないので議論する意味がない

157 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:11:27.15 .net
>>152
https://i.imgur.com/pqkFE9g.jpg
ごく大雑把にこんな感じで地理的条件に左右されてはいそう

158 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:11:37.51 .net
>>155
他の遺跡も含めて全体が変わるよね?
それが正しいと本気で思ってるのか?

159 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:11:52.97 .net
>>155
だから、4世紀にしたとしても畿内説という立場が変わってないだろ
三角縁神獣鏡4世紀鏡説は少数説だがな

160 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:12:19.38 .net
三角縁神獣鏡を卑弥呼が貰った鏡ということにしたいから
三角縁神獣鏡は三世紀の鏡と比定し、それより古い位至三公鏡は1~2世紀の鏡に分類する
位至三公鏡は265~316年頃の鏡なのにw
これが畿内説を主張する学者がやる現代のゴッドハンド
歴史捏造事件

161 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:13:05.55 .net
>>160
位至三公鏡は漢代にも作られていることは事実である

162 :日本@名無史さん:2024/04/07(日) 13:13:12.22 .net
>>142

位至三公鏡は下級役人用の鏡

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