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邪馬台国畿内説 Part1010

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:19:30.56 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712200110/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

687 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:41:08.91 .net
>>683
そのことが畿内説を強固にしている
この三角縁神獣鏡という牙城を崩さないと、学者は畿内説を絶対にやめない

688 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:42:55.91 .net
距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説。(周髀算経・一寸千里法)

魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。

この短里という概念で計測すると、実際に、帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝の記載通り、七千餘里となる。

この短里を採用した場合、径百歩の卑弥呼の冢は直径約30m程になる。箸墓の規模はありえない。

689 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:44:17.42 .net
>>687
それがアタオカなんですよ。
明らかに国産鏡なんだし。卑弥呼が下賜されたもんじゃないです。

690 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:44:50.57 .net
畿内愛と三角への思い入れが深すぎて見てるこっちが恥ずかしくなるw

691 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:45:06.97 .net
>>687
どこが牙城?w
砂上の楼閣じゃないのw
崩れまくってるじゃんw

692 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:46:09.50 .net
>>685
纒向型前方後円墳の成立、定型化前方後円墳の成立という仮定を考えると、当時の邪馬台国は前方後円墳への副葬しか認めなかったと考える
後に4世紀に三角縁神獣鏡を作るのは不可能

693 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:46:48.23 .net
九州説は、山門説、朝倉説、吉野ヶ里説、宇佐説など、有力な説が多く、1つひとつが纏向説と対等です。近畿説が纏向説でまとまっていることと、纏向説の確からしさは関係ありません。

694 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:49:57.65 .net
>>689
卑弥呼が下賜されたのは三角縁神獣鏡以外に画文帯神獣鏡、斜縁鏡も考え得る。
そして、三角縁神獣鏡とは画文帯神獣鏡と斜縁鏡のハイブリッドのような鏡であるから、したがって畿内邪馬台国は、画文帯神獣鏡と斜縁鏡を合体させて三角縁神獣鏡を独自に作った可能性があり、
いずれにしても三角縁神獣鏡こそが通説畿内説の最大で最強の牙城である。

695 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:50:32.86 .net
>>682
漢字は無い

696 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:51:00.28 .net
>>693
冷静な宇佐市長のコラムをどうぞ

市長コラム「赤塚古墳と小部遺跡 その1」(令和2年8月号)
県立歴史博物館がある宇佐風土記の丘の中に、国史跡の川部・高森古墳群があります。3世紀末から6世紀にかけて造られた6基の前方後円墳を中心に、約120基の円墳や周溝墓が集中しています。
このうち赤塚古墳は推定墳長約58m、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳の一つです。大正10年、箱式の石棺から三角縁神獣鏡等5面や鉄刀などが出土しています。
三角縁神獣鏡はヤマト政権が各地の首長に与えたものと考えられており、椿井(つばい)大塚山古墳(京都府)や石塚山古墳(福岡県)と同じ鋳型で製作されています。
なお、三角縁神獣鏡は邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚の一部で、赤塚古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があります。
魅力的な話ですが、赤塚古墳の築造時期は卑弥呼が銅鏡をもらった239年より半世紀余り後であることなどから説得力にやや欠けるようです。
赤塚古墳などの被葬者は、古墳時代に宇佐地方を支配していた宇佐国造家(くにのみやつこけ)の一族と考えられています。
ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。

697 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:52:41.68 .net
景行天皇が西征した際、八女縣で八女津媛(台与またはそれに繋がる系譜の女王)に出会っており、
大倭と同音の邪馬台を認めずに邪馬を八女と読んだので、山門郡と隣接する八女も邪馬台国の領域だったことが分かります。
仲哀天皇の時代に伊都国の首長が服し、神功皇后が邪馬台国の女王の田油津媛を誅して滅ぼしています。
末盧(肥前国松浦郡)、伊都(筑前国怡土郡)、奴(筑前国那珂郡)などの国が、律令郡名に名を留めていることから、
邪馬台国も筑後国山門郡山門郷(福岡県みやま市瀬高町)に名を留めたのだということが分かります。

698 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:53:02.72 .net
>>644
もはや三角縁神獣鏡と邪馬臺国が無関係で草

699 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:53:55.08 .net
>>698
三角縁神獣鏡こそが邪馬台国大和説の最大で最強の牙城
ここを崩すべし

700 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:54:32.84 .net
紀年銘鏡こそが 魏からの下賜品
https://www.xhimiko.com/%E8%AB%B8%E8%AA%AC%E6%A4%9C%E8%A8%BC/%E7%95%BF%E5%86%85%E8%AA%AC/%E8%BF%91%E7%95%BF-8/

701 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:55:06.51 .net
「銅出徐州師出洛陽」
銅は徐州から出て、鏡師は洛陽から出る

三角縁神獣鏡こそが邪馬台国大和説の根幹

702 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:55:17.50 .net
寄せ集めたばらばらの鏡を下賜したとは考え難い

703 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:55:18.75 .net
>ヤマト政権の九州支配の最前線に位置した宇佐の地に前方後円墳を築造することで、九州の豪族たちにヤマト政権のパワーを見せつけたのです。

まぁ、大和王権はかなりあとになってようやく九州を飲み込んだからね。

つまり邪馬台国は九州だよね。

704 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:57:10.29 .net
???
三角縁神獣鏡は漢化の証だぞ?邪馬臺国は中国的な大和王朝になったのだ!

705 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:57:21.36 .net
魏の使いは当然、一里を魏の標準里435メートルで計測しているよ。あたりまえだけど。
そうすると帯方郡から女王国まで3000里に満たないことになる。
それだと大月氏国(16300里)より近くなってしまう。そこで郡から女王国までを12000里に設定、各区間もそれに応じて距離を水増しして割り振った。
結果として実際の距離は一里=90メートル?程度になった。
全ては司馬懿>曹真曹爽とするための操作だよ。

706 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 13:59:25.01 .net
魏志倭人伝によると、女王国連合の国は北九州にあったわけだし、それを服従させるのは景行天皇以後、ずっと後のお話。
前方後円墳を九州で築造できるほど勢力を伸ばすのは邪馬台国のずっとあとの話ってこと。
だから九州説は崩れない。強すぎ。

707 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:02:05.40 .net
>>705
仮に12000里がそうであったとしても行程は陳寿が勝手に考えたもんだよ

708 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:02:56.76 .net
畿内説論者の言ってることを聞くと、なおさら九州説に傾いてしまうから面白いね。

709 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:03:42.60 .net
>>706
短里は出鱈目だと何度も何度も何度も言ってるだろ

710 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:03:52.97 .net
>>703
筑前型庄内甕の段階で残念ながら九州は畿内の飛び地と化している

711 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:05:42.65 .net
偽作wwww
三角縁神獣鏡は大和王朝が邪馬臺国の継承国である証である。
バカすぎるwwwもっと周りの世界の継承国見ろよwww

712 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:05:47.38 .net
>>707
ならば邪馬台国も陳寿が勝手に考えた幻の国になる。

魏志倭人伝にある邪馬台国がどこかという議題で話をしているのに、
畿内説論者はその魏志倭人伝という歴史書そのものを否定するから畿内説はアタオカファンタジーと言われる。

713 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:05:58.95 .net
>>708
2023年12月に九州説をやめ、1月から畿内説になりました

714 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:07:14.40 .net
>>711
>三角縁神獣鏡は大和王朝が邪馬臺国の継承国である証である。

論拠もなくそういうこというから頭おかしい人って言われるんだよ。畿内説をまともに研究してる人にとっても失礼きわまりない奴だな、おまえw

715 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:07:15.85 .net
>>668
>もう上のほうで論破されてるでしょ。しつこいよ。精神のオビョーキ持ちさん。

その「上」とはどこの何なのかも言えない九州説
具体的なことを何も言わず、ただ罵倒で議論から逃げるのは
九州説が破綻している証拠だな

716 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:07:43.56 .net
>>710
牛馬のいない時代に纏向が奴国を支配下に置くのは無理でしょ

717 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:08:23.51 .net
>>713
2023年12月も九州説だし、1月からも九州説です

718 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:09:30.19 .net
>>715
まったくそう思わない。おまえの中だけにしといた方がいいよ。

719 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:09:42.89 .net
>>712
>畿内説論者はその魏志倭人伝という歴史書そのものを否定するから畿内説はアタオカファンタジーと言われる。

畿内説論者がそんなことしてるって証拠は?

720 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:10:04.66 .net
日本の皇族だの初めは呉人らから学問など習っていた方だよ

やがて遣唐使だのが出るようになって本格的な漢学みたいな学問も日本で始まる

伊勢には皇族のための学問所も設置されたって〜が

721 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:10:47.55 .net
>>706
九州説は強いよね。
では、九州のどこにあったのかって話だよね。
そこが楽しいのが邪馬台国論争。
畿内説なんてトンデモ説はどうでもいい。

722 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:12:12.26 .net
別に陳寿だけが言ってるんじゃないが

723 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:12:19.07 .net
三角縁神獣鏡も神功皇后も魏志倭人伝の為だけに偽作されたらしいwバカすぎwww

724 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:12:41.02 .net
>>716
牛馬のいない時代に三韓征伐も高句麗遠征もやってます

725 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:12:59.25 .net
>>719
>681を読んでそう思う次第。

726 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:13:02.28 .net
中国の方のやつらと取り引きを行うにおいて中国では漢音を使用したやり取りが主流だってことに気づいたわけな

それで失職したのもいたみたいだがよ

奨学院、淳和院とか聞いたことあるだろ

727 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:13:17.42 .net
>>706
北部九州を北九州などと言ってる時点でアホが滲み出てるな
景行天皇は九州には熊襲征伐に来た上、現地民は山鹿灯篭で歓迎してる

728 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:14:38.16 .net
>>712
>>722

729 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:15:23.29 .net
>>718
>まったくそう思わない。おまえの中だけにしといた方がいいよ。

そうやって主観しか無い九州説が学問の世界に居られなくなったのは当然だとよくわかる

730 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:15:26.02 .net
>>718
>まったくそう思わない。おまえの中だけにしといた方がいいよ。

そうやって主観しか無い九州説が学問の世界に居られなくなったのは当然だとよくわかる

731 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:15:51.16 .net
>>724
そうそう、三韓征伐の時代にようやくヤマト王権の勢力が九州に到達してるんだよね。
やっとこさ九州征伐も行ったりさ。
北九州の国には邪馬台国連合の国も含まれるので、あとから勢力下であるはずの九州を征伐するとかありえないから、畿内説はありえない。

732 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:16:43.43 .net
東の倭種が攻めてきたとき
九州の土蜘蛛たちは徹底抗戦して潰されるか
あるいは三種の神器を差し出して降伏した

そんな様子が東の倭種の物語に残されている

733 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:16:49.23 .net
>>729-730
必死すぎて連投しちゃったの?w
まぁ、どうあがいても九州説は崩せないからw

734 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:18:20.46 .net
>>731
というように考えない
筑前型庄内甕の成立時、北部九州型布留甕の成立時、あるいは遅くても前方後円墳築造段階(庄内3期・那珂八幡古墳)ではすでに筑前は畿内邪馬台国の支配下にあった

735 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:18:29.93 .net
>>727
熊襲と土蜘蛛は別ものなのになにいってんの?

736 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:19:05.50 .net
>>725

> >681を読んでそう思う次第。

九州説の馬鹿が変なこと言ったのを読んで
「畿内説論者はその魏志倭人伝という歴史書そのものを否定するから畿内説はアタオカファンタジー」
とかいう人はアタオカフンコロガシ

737 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:19:27.73 .net
>>733
YouTubeしか見ない素人の間では人気だね

738 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:19:40.30 .net
畿内勢が九州にやってきて九州にあった女王国が崩壊したのは
崇神の四道将軍の頃(266年頃)説
https://i.imgur.com/sTFZYJ1.jpg

739 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:20:27.47 .net
畿内のヤマト王権に奴隷を献上するような風習ないだろ。
鬼道を使う土蜘蛛族と一緒にするな。

740 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:20:46.43 .net
呉人、漢人と振り分けて書いてるがその人らの中国に対する認識がそ〜だったから分けてるわけな

呉人らは中国を呉の国と呼び漢人らは漢の国と呼んだ

741 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:21:06.46 .net
>>738
九州は女王国ではない
九州は一大率の管理下にある

742 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:21:07.50 .net
>>736
じゃあ、おまえはフンかもな。くさいし。

743 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:21:35.36 .net
九州が女王国。

744 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:21:52.43 .net
邪馬台国は九州で結論が出てる。

745 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:22:12.01 .net
呉人らの大半はそのあと渡来人に振り分けられることもなくそのまま日本人として組み込まれて名称自体も消えていったけどな

746 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:24:56.40 .net
旧唐書によると、

「日本の国は、倭国の別の種なり。 その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」そして続いて言い分が異なる二例を挙げ、
まず「或いは曰く、倭国は自ら其の名が雅でない事を悪(にく)み、改めて日本と為す」、しかし続いて「或いは云ふ、日本は旧小国。
倭国の地を併せる。其の人、入朝する者、多くは自ら矜大(傲慢)、実(真実)をもって対(こた)えず。
故に中国、焉(これ)を疑う。」 総括として前者の言い分には懐疑的であり、後者の見解により「日本の国は、倭国の別の種なり。
その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」の言葉となっている。
そして地勢が述べられ、「又云う、その国境は、東西南北各数千里、西と南の境界は大海に全て至り、東と北は大山が有る為限られている。山の外は即ち毛族の国である。」と記述されている。

当時の中国人もあやしんでいるとおり、畿内説はありえない。
わざわざあやしんでることまで記録されちゃうぐらい怪しいわけです。

747 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:25:14.65 .net
ほんと流されやすいな
短里なんて概念がなくいきなり実際の距離は3000里にも満たないから
1里は80mだとか言う奴が現れたらどう思うよ?

748 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:26:00.10 .net
ヤマト王権が九州の倭国を飲み込んだんだよね。で、なんやかんや理屈をこね、日本って呼んでくださいとうったえた。

749 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:27:36.65 .net
>>748
倭人在帶方東南大海之中

750 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:31:45.69 .net
米田俊幸や佐々木憲一が言う通り、「土器の移動は文化交流によって生じるものでその交流関係は対等である」と捉えるのが常識的かつ自然だろう
そもそも一部の畿内説論者が言うように土器受容が政治的支配を意味するのであれば、河内の庄内甕を受容した纒向ヤマト王権は河内の豪族から政治的支配を受けていたことになり、図らずも彼らが唱える纒向畿内説自体が理論的に破綻する

以下、佐々木憲一明大教授の論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究の一部」より引用

『その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。
布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたい。』

751 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:32:59.36 .net
724
呉の水軍をそのまま利用したのやろ

752 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:33:55.74 .net
呉の水軍から始まりやがて発展して瀬戸内水軍として再編成したのが平清盛だが

753 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:34:48.24 .net
安宅船🚢なんてのもあの作りの始まりは中国の方だからな

754 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:35:24.35 .net
>>750
この10年後に久住が出てきて、筑前型庄内甕と北部九州型布留甕の概念が生まれて九州説死亡

755 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:36:33.72 .net
久住猛雄のXのポストでは、古墳時代前期までの北部九州の実力を評価し、その自律性主体性を肯定する論(畿内自生説への反論)が展開されている

「>大陸の混乱で貿易に頼る北部九州勢力が弱体化
そんな根拠や状況は全くないと、2007年に『考古学研究』53-4の「「博多湾貿易」の成立と解体」で書いて(考古学研究会総会発表論文化)、お陰様で支持も多く(明確な反論もなく)、「自生説」的な方をも含んで多数引用していただいている状況なんですが」

「また、「離反」したとかいう中に北部九州勢力ど真ん中の伊都国を入れてるとか、適当ですね。むしろ平原の埋葬儀礼と前期初頭の古墳埋葬儀礼の継承(もちろん変化もありますが)見ると、新倭王権成立そのものに伊都国が深く関与したと考えざるを得ません」

「>そのための考古資料
そうなのですが、件の方は「都合よい」情報や旧説だけ引っ張って利用してます。畿内「自生」説に都合の良い情報のみ。また地域の自律性主体性を考古学は明らかにしてるのに記紀史観でそれは無視。」

「歴史の説明には過程の説明とその証拠が重要かつ必要なのに(文献記述が少ない時代で考古学資料に多く頼らないといけない場合はなおさら)、その説明求めても「人口」謎理論の繰り返しで、過程は不明、結果論的予定調和説明なのはいかがかと。いわゆる「畿内自生説」への批判学史を全く知らないみたい。」

「ごめんなさい「九州説」ではないです。ただし、古墳時代初頭前後と少なくとも古墳前期までの、北部九州(伊都国、奴国を中心とする地域)の実力と役割を重視する立場ではあります。」

756 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:39:25.05 .net
呉の水軍でも流れ着いて学問だの教えながら国内の戦争にでも生き延びやがて三韓征伐を行うまでに100年以上かかったってことだろ

三韓征伐の実際に行われたの西暦390年ころだってえからな

兵装も魏兵らに劣らなかったってえしそこから歴史が始まるわけだ

それが倭の五王の時代のわけな

757 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:41:01.38 .net
松木武彦の「古墳とはなにか」という本で、かなり興味深いことが書いてあったので一部引用する

彼は畿内説ではあるが、政治的・宗教的な中心が畿内大和、経済的な中心が九州の博多湾沿岸と考え、その緩やかな連合体を「邪馬台国連合」と想定する
畿内説であっても、最近は寺澤・北條・松木・久住のように、従来の考古学界のような偏向した近畿至上主義イデオロギーに毒されず、畿内と北部九州など各地域をきちんと等身大で位置づける客観的な考え方が急速に主流になってきている
彼らの書いたものは九州説の私にも非常に参考になるし、結論として私の持論である北部九州倭国と畿内ヤマト王権の並立説こそ様々な要素を最も矛盾なく説明できる考え方だとの思いを強くする

以下、同書より抜粋

「九州北部では、古墳時代に入っても、ほかの地域に見られるような巨大な前方後円墳はつくられない。長さが100メートルを超える前方後円墳は九州にもあるが、その多くは宮崎、鹿児島、熊本といった、九州北部からみて外縁にあたる南部に散在する。もちろん、北部にもわずかにみられるが、いずれも厚葬甕棺が栄えた福岡平野や糸島平野といった中枢部からは外れたところにある。」
(続く)

758 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:41:30.79 .net
>>629
違うよ
現実の距離を里数で割ることで
邪馬台国までの道里を報告した人間が一里を何メートルとして換算したか確認できるから。
もちろん狗邪韓国から対馬まで一里300メートル
対馬から壱岐島まで一里80メートル
みたいにてんでバラバラなら論外だが首尾一貫して75~85メートルだから
魏志倭人伝を書いた人間がキチンと道里を測っていたことが確認できる

759 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:41:33.91 .net
(続き)
「ただし、大きな墓をつくる長がいないからといって、九州北部の社会が低迷していたわけではない。あとで詳しくみるように、紀元後から古墳時代にかけても、九州北部の村々は、耕地を拡大し、たくさんの人口をかかえて順調に発展していることが、発掘資料から明らかだ。また、福岡平野の大集落では、紀元後1-2世紀には、銅矛・銅戈などの青銅製祭器を鋳造して周辺地域に配布し、3世紀になると、朝鮮半島から輸入した鉄素材の加工や鍛冶の高度な技術をもつ工房を擁して、西日本でも群を抜く鉄器の普及をなしとげている。」

「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」

760 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:42:36.66 .net
それが魏志倭人伝を書いたやつらが倭地と呼ばれた場所で起こった出来事なわけだろ

それを基本として日本史も編纂されたのだろ

761 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:42:53.12 .net
>>759
通説畿内説の方の畿内優越史観批判をしっかり受け止めます

762 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:43:09.67 .net
また松木武彦は「古墳とはなにか」の中で、前方後円墳に過度な政治的意味合いを持たせた従来型の畿内説(ほぼ畿内自生説と被る)をやんわりと批判する(白石太一郎など考古学界の重鎮への批判になるので筆致は遠慮がち)
関東の例も含め、古い畿内説の論理的弱点を的確に突いており、極めて妥当な考え方だ

「だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている」

「墳丘の形や規模を畿内との政治的関係の表示とみる方法論の原則を首尾一貫させるのであれば、六世紀末から七世紀にかけての関東の長たちは、畿内の長たちよりも政治的に上位にあったと解釈しなければならない。もし、文献史料がまったくなかったとしたら、七世紀には列島の政治的中心が畿内から関東へと移った、と考えられたにちがいない。もちろん、そんなことは実際にはなかった。おそらく、大きな前方後円墳を築くことの意味そのものが、畿内では早くから低くみられるようになっていたのに対し、関東では依然として重んじられていたと理解するのが妥当だろう」

要は、鉄器を副葬することの意味が鉄器先進地域の北部九州地域では後進畿内よりも早くから低下したのと同様に、巨大前方後円墳を作ることの意味が先進畿内では後進関東よりも早くから低下したということだ

763 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:43:24.89 .net
>>648
自分で考える能力だけじゃなくて
記憶力すら無いのかよwww


http://www.geog.or.jp/files/h27-autumn_01.pdf

上によると古代中国の天文測量法「一寸千里法」で測定すると
洛陽と宮崎市の南北成分距離は四千里相当で
グーグルマップで距離を測ると300km相当
300km=300000m÷4000里=75m

つまり当時の天文測量の精度があれなせいで
短里が生まれてしまい、
古代中国人はこのことに気付いてなかったらしい

764 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:45:22.78 .net
短里は存在しない

765 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:47:05.05 .net
纒向遺跡が建設される前の周辺の在地弥生勢力は極めて後進的かつ政治的に脆弱で、纒向遺跡を作った勢力との連続性がまるで見られない
また畿内には、纒向より前の倭国の王都にふさわしい先進的な遺跡が存在しない(どの遺跡も同時代の北部九州に比べて鉄器も銅鏡も圧倒的に乏しく文化的にも政治的にも明らかに劣後する)

このため最近の畿内説は、伊都国など北部九州から纒向への遷都などを想定する意見が急速に台頭している
(寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄など)

だがそこまでして畿内説を墨守する意味が果たしてどこまであるのか

魏志倭人伝から素直に読み取れる通り、邪馬台国を都とする倭国は北部九州にあったことを認め、記紀でも示唆されるようにその一部勢力が吉備を巻き込んで奈良盆地東南部を征服してヤマト王権を建てたと考える方が自然だろう

このときにそれを邪馬台国の東遷とする考え方もあろうが、皇室に卑弥呼や親魏倭王の伝承がないことや、伊都国と纒向との政治的・文化的共通性が複数の学者から様々指摘されていることから、伊都国勢力が東遷し、邪馬台国は北部九州に留まった(後に田油津媛の代で滅んだ)と考えるのが自然であろう

766 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:47:42.68 .net
>>741
女王国の北を一大率に監察させてるので畿内説死亡

767 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:49:28.67 .net
>>758
それなら12000里に合わせる必要がないし
仮にそうだとしたら最後の水行陸行で帳尻合わせをしたと考えるしかない

768 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:49:32.17 .net
>>765
全員通説畿内説だな

769 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:52:01.03 .net
となると〜九州から紀元前二世紀ころの戦闘跡が出るからそれが卑弥呼だのに関わってるってことになるわけか

紀元前100年代〜ヤマト朝廷による九州討伐が行われるまでの間、そこにはなんらかの王国があったみたいな話になるわけね

770 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:53:39.98 .net
>>765
あれだけ馬鹿にしてきた東遷説にすがってまで畿内説を主張する意味はあるのだろうか

771 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:53:41.68 .net
そ〜としかならないんだけどな

日本の記録と合わせても

772 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:55:17.74 .net
日本の記録と中華の記録を合わせると旧唐書に書かれた通りになる

773 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:55:56.05 .net
>>770
すがらずに馬鹿にしてますが、なにか?

774 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 14:59:07.90 .net
>>770
九州説の学者が絶滅したからって
畿内説の学者にすがる九州説信者は
馬鹿にされるんじゃないの?

775 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:00:12.30 .net
>>774
畿内説の学者が唱えてることを根拠にされたら反論できなくて哀しいなあ

776 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:01:05.73 .net
寺澤は吉備東遷説だからな

777 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:05:14.51 .net
中国北部朝廷が主流になるとヘルメットに羽飾り🪶を付けた兵装が主流になっていくからな

日本にはそのヘルメットの羽飾りはない

戦国武者なども👹だのなんか変な漢字を書いた位牌モチーフみたいな兜だからな

778 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:20:23.53 .net
>>775
>畿内説の学者が唱えてることを根拠にされたら反論できなくて哀しいなあ

九州説の妄想はぴしゃり論破するけど?

779 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:23:13.14 .net
>>766
>女王国の北を一大率に監察させてるので畿内説死亡

理由が不明

780 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:23:56.67 .net
そうだな
纏向の葬送儀礼は吉備由来
よって纏向は吉備支配下にあったとするほかない。

781 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:27:49.40 .net
そういえば吉備を経由して奈良に引越しした九州人のはなしあったな
畿内説が唱える纏向成立年代を鑑みるに
倭国大乱で敗走したどこぞの王族でもいたのだろうか

782 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:29:21.83 .net
半島は始皇帝の子孫の生き残りが逃れてきて南部の方にでも住み着いた❗ってことになるわけか?

でそれを魏の連中らがバックアップしていたとか

あ〜二つの異なる王権が日本国内にあったって方が辻褄合うね

783 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:31:57.01 .net
女王国だの呼ばれるならそれなりの理由があるだろ

日本はそもそも女王制なんてないのにあっただの言われて🤔❓❓❓ってなったもんな

784 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:37:45.88 .net
満州あたりにいるO1b系を満州系だの言うからまたこんがらがってきたしな

完顔氏だの言われてるのも元は中国の東夷地方から満州に移り住んだのが起源だろ

785 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:39:19.57 .net
俗を兄弟が、聖を姉妹が司るのは倭人の昔からの仕組みだろうけど、中国人には奇特に映ったんだね。

786 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:39:47.59 .net
>>705
魏の時代 1里≒432m

西晋の時代 1里≒75m ってこと。   @阿波

787 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 15:41:35.91 .net
>>705
>そうすると帯方郡から女王国まで3000里に満たないことになる。

いまだに、行程里数を足したり引いたりするのは、ここの低レベルのトンデモどもだけ。
古今東西、行程里数を足したり引いたりする歴史書などどこにも存在しない。   @阿波

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