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邪馬台国畿内説 Part1010

1 :1 ◆ondZSOlfxeS6 :2024/04/07(日) 09:19:30.56 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712200110/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

825 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:04:06.32 .net
>>819
形跡が無ければそんなことは無かったでいいんじゃないのかよ

826 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:10:13.46 .net
>>825
何言ってんだ?
だから形跡は何処にあるんだ?

827 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:11:11.97 .net
鬼道=祈祷だよ

7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。

残り1300里

1300里、2か月問題がある

短里説では、75mだから、75×1300=約100キロ

2か月で約100キロしか行かなかったは無理がある

長里説なら、435×1300=約570キロ

やはり、長里だろう

828 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:14:46.07 .net
>>808
>祇園山はともかく、吉備特殊器台の箸墓に殉葬はないことだけは確かだw

なんで確かなの?
根拠ないでしょ?

829 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:15:18.98 .net
>>827
なるほど、鬼道=祈祷か
その間違いが全く起きないわけじゃないが文字がないからな

830 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:17:14.66 .net
>>827
アホは進歩なし!   @阿波

831 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:18:14.50 .net
箸墓では殉葬が行われたと見るべきである

832 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:19:38.94 .net
魏の連中らが女王国と呼ぶんだから元は匈奴だろそいつら

833 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:21:59.99 .net
匈奴が消えた消えた〜って騒いでるけどちゃんと残ってたのやろ

834 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:24:07.39 .net
孝元天皇の墓は探しやすいと思うけどね
狭山池や茅渟池より古い池で真ん中に島のある池を探せばいいからね
軽の地に宮があったから軽の地の古い古い池を探せばいい

835 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:32:52.91 .net
女王国あれば男王国あり
伊都国王は性別未詳
よって女王、男王とは
卑弥呼と卑弥弓呼

836 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:34:48.26 .net
匈奴は騎馬民族
倭に馬はいない

837 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:48:58.38 .net
>>824
臺与の墓は西殿塚である

838 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:55:13.45 .net
邪馬台国の女王卑弥呼が倭人などと書かれた文献は存在しない

女王国の女王だ

839 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:56:19.43 .net
倭人伝に出てくる女王だから倭の女王だと思い込んでるだけだろ

邪馬台国の女王だ卑弥呼は

840 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:57:24.30 .net
>>838
邪馬台国の女王ではない
倭女王卑弥呼

841 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:57:27.98 .net
その国の王、女王と一致すると言うことは必ずしもありえない

842 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:58:01.19 .net
邪馬臺国に都してるけど倭国30国連合の女王だから貰った称号が親魏倭王なのよ

843 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 18:59:32.85 .net
親魏倭王と中国の皇帝からお墨付きを得て乗り込んできたのかもしれんだろ

証明できるのはその中国の皇帝とやらが与えた印鑑だけだ

倭の地に存在する邪馬台国の女王卑弥呼だ

844 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:00:15.16 .net
分からんなら理解しようとしていないだけだ

845 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:15:31.27 .net
>>827
各所に滞在するから時間かかるよ。
道も舗装されてないし、輿に乗って移動するし。
お土産も持っていってるし。
九州で間違いない。

846 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:18:13.99 .net
九州説の学者が高島忠平くらいしかいないので、論文もWikipediaも全て畿内説が前提となっている

847 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:23:06.56 .net
もういろいろ無理が来てるね〜

倭の五王と邪馬台国の女王卑弥呼は別モンだと思ってるんでねこちらも

848 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:25:04.99 .net
Wikipediaの築造年代を100年ずらしてもらわないと九州説は不成立
頑張ってWikipediaの築造年代を変更させましょう

849 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:26:05.12 .net
>>845
各所て投馬国ぐらいしか無いだろ

850 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:30:53.90 .net
九州説は学者が高島忠平しかいないので、土器編年や前方後円墳編年や銅鏡編年や三角縁神獣鏡編年が存在しない

例えば、椿井大塚山、吉備車塚、福岡県石塚山古墳の三角縁神獣鏡は、畿内説では第4段階とするが、九州説には三角縁神獣鏡の編年もない

851 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:30:57.46 .net
倭5王と卑弥呼は別もの。
卑弥呼を継承してるとか言い出す知恵遅れがいるからおかしな話になる。
卑弥呼よりも昔の神武東征時代(紀元前)に既にアマテラスの子孫が奈良盆地に入っているので
卑弥呼がアマテラスのモデルっていう説もとっくに崩壊してるし。

852 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:34:39.44 .net
>>845
では計1万2000里で、
韓国から北九州まで何年かけてきてるんだよ

853 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:36:11.34 .net
畿内政権と九州政権の時代のズレはこのくらいでいいよ
https://i.imgur.com/Js6MKNh.jpg

854 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:40:14.19 .net
編年を全部100年ずらして、歴史時代に全てが集まってしまう残念な九州説

855 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:44:04.57 .net
>>829
祈祷は中国風の音読み熟語だろうが馬鹿かよw

856 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:47:10.81 .net
>>829
なるほどじゃねーよw

●加持祈祷
読み(ひらがな)
かじ きとう

解説
この四字熟語は、真言密教の現世利益を目的に始まった言葉で、具体的な方法として、護摩という修法が考えられます。
仏教の歴史から見ますと、古代の仏教は国家の平安を達成するために行われていましたが、 僧侶の力が強くなると、さまざまな問題が起こり、国家が新しい仏教を求めるようになりました。
平安時代の空海は密教によって、それまでの仏教とは違う、現世利益を目的とした新しい仏教を取り入れ、 貴族の間で広まっていったようです。
この時に用いられた方法が、加持祈祷であり、これは、やがて一般庶民の 間まで広まっていったようです。
お釈迦さんの説いた初期の仏教では、加持祈祷という方法はなく、 これは古代インドのヴェーダのマントラ信仰に由来しているものと考えられています。
仏教の基本となる考え方は、四諦ですが、一般庶民にとっては、難しい仏教の教理より、神秘的なものに ひかれてしまう傾向が強いので、加持祈祷が一般に広まっていったのは、自然の成り行きだったのかもしれません。

857 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:48:29.52 .net
ここまで畿内説の有力な証拠まったくなし。

858 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:53:49.49 .net
>>727
景行天皇12年(82年)冬10月景行天皇が 碩田国(おおきたのくに、現大分県)の速見村に到着し、 この地の女王の速津媛(はやつひめ)から聞いたことは、
山に大きな石窟があり、それを鼠の石窟と呼び、土蜘蛛が2人住む。
名は白と青という。
また、直入郡禰疑野(ねぎの)には土蜘蛛が3人おり、名をそれぞれの打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ・国麻呂)といい、彼ら5人は強く仲間の衆も多く、天皇の命令に従わないとしている

859 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 19:58:09.46 .net
箸墓、桜井茶臼山、椿井大塚山、西殿塚、メスリ山などを100年ずらして、誉田御廟山古墳や大仙陵古墳とバッティングしてしまう残念な九州説

860 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:00:06.17 .net
日速度を検討する前に、倭人伝で示される 1 里の長さを規定しておく必要がある。
1 里の
長さは時代により変遷しており、倭人伝に記載された対馬〜壱岐 1000 余里等の距離と実際
の距離(50〜90km:出港地により異なる)とを比較すると、
1 里≒77m とする谷本茂の「短
里説」1)に基づくのが妥当と考えられる。
「短里」は中国古代で用いられた単位といわれ、
今日では誇張としか思えない熟語、「千里馬」、「千里眼」、「一望千里」などが現実的な数値
表現であると分かる。

861 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:03:30.10 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。
そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのである。

862 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:03:52.58 .net
九州説の場合、江田船山古墳や稲荷山古墳の年代も動かさないといけなくなる

863 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:04:45.89 .net
投馬国って日向薩摩でしょ。

864 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:05:49.52 .net
今日も畿内説が印象操作に必死だなwww

865 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:07:32.25 .net
>>863
免田式文化圏の南九州に投馬国を設定することは不可能
また、奴国の2.5倍の超大国である
そのような国は>>20の鉄器の出土を見ても存在しない
筑前奴国を上回る国は九州内に想定するべきでない

866 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:09:26.59 .net
九州は漢倭奴王で充分。倭奴wwwww

867 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:11:07.50 .net
奴国を上回る国は日本列島のどこにも存在しまへん!
あると言うなら、あげてみなはれ

868 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:13:11.01 .net
ホケノ山で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまり邪馬台国とヤマト王権は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後🌋狗奴国の卑弥🏹弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから(脆弱な権力基盤ゆえ)将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年【魏➡晋】の禅譲に倣い、本州ならびに四国の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

869 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:13:31.18 .net
漢の倭の奴国はないな。支那の世界観的に倭地なんだから倭王しか該当しない。倭奴だよwwwwww

870 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:14:46.85 .net
>>861
箸墓古墳は台与の墓説ですか?
おそらくそれはない。
箸墓の被葬者の名前は倭迹迹日百襲姫命であり、
台与でも卑弥呼のものでもない。

倭迹迹日百襲姫命の母親は淡路島出身の倭国香媛。
出自もしっかりわかっている。

871 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:16:21.52 .net
日田から出土した金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡の美しさをいみればは九州説。

872 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:18:22.18 .net
>>867
>>20の鉄器の出土やら、畿内の古墳を見れば一目瞭然
椿井大塚山、ホケノ山、桜井茶臼山、黒塚、メスリ山、西殿塚、行燈山、富雄丸山、吉備車塚、福岡県苅田町石塚山古墳、大仙陵古墳、誉田御廟山古墳など
全く畿内どころか、その他の地域にさえ劣後するのである

873 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:23:28.14 .net
九州は半島や大陸との玄関口
おそらく、豪華な副葬は許されなかったと見られる。
例えば、5世紀の京都・恵解山古墳では鉄器が700点以上も出てるが、九州にはそのような古墳は全くないどころか、副葬品は極めて貧弱である。

九州の人には悪いですが、九州は日本の捨て石的な地位であったと考えられる
それは沖縄戦のような位置付けである

874 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:23:40.60 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

875 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:25:15.91 .net
なんかもうずっと土器だか甕だかに囚われまくってる人いるね

876 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:26:17.07 .net
>>875
それしか話すものがないからな。   @阿波

877 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:26:48.81 .net
畿内説がどんなにデマを流しても、世間一般は圧倒的に九州説なのなんでだろう?w

878 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:26:52.21 .net
なんとかの一つ覚えだよ

879 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:28:26.11 .net
つまり畿内説は馬鹿の一つ覚え

880 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:28:52.00 .net
>>877
素人が九州説になるのは非常に理解できる
私もかつては九州説だった
全く不勉強だったので

881 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:29:22.98 .net
>>877
8割は無関心じゃね?

882 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:30:16.87 .net
>>880
勉強=学校の授業やNHK視聴だとそうなるよね
分かるわ

883 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:30:48.99 .net
江戸時代でも石高ショボかった九州に、古代に大国があった訳がない

884 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:31:27.38 .net
大衆はウソに敏感だからねw

885 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:39:13.70 .net
>>884
畿内説のねw

886 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:40:03.67 .net
>>758
それ、魏志倭人伝にかかれている里程は正確無比であるという仮定を出発点にしてるけど、その仮定は最初から崩れてて使い物にならないからな

887 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:40:36.87 .net
畿内説は普通すぎて面白みが無いからな
逆張り妄想ファンタジーに浸りたいバカが九州説

888 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:41:16.81 .net
>>877
公的機関から科学的調査結果が出ると理由もなく「デマ」と言い
自分は平然とデマを流す
それが九州説

(例)
>この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。

これがウソだと言う証拠を自分で掲載してる愚
https://yamataikokunokai.com/katudou/image/294-6.gif

年輪年代法登場の前とあとで庄内式の年代がほとんど変わっていない図を自分で公表

889 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:42:34.39 .net
畿内説のデマが続くなw

890 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:47:18.61 .net
>>880
俺も同様

古ー田氏(ス?)の説はおかしいことに気付かされて転向した

891 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:51:22.34 .net
最初は短里とか伊都国は糸島で奴国は那の津で博多でとかそれが当たり前だと思ってる
でも勉強するとそれが当たり前じゃ無くなって誰がそんなもん決めたの?って感じになる

892 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:58:32.32 .net
九州説では、土器・三角縁神獣鏡・前方後円墳・銅鏡・埴輪などの編年も全て100年ほどずらして考えるが、
そうすると、箸墓・行燈山・桜井茶臼山・西殿塚・黒塚・メスリ山なども100年ずらさないといけなくなる。
そうすると、大仙陵古墳や誉田御廟山古墳などのほぼ絶対年代が確定している古墳とバッティングしてしまう。

それは今で例えるならば、2024年の100年前は1924年であるから、スマホもテレビもプリウスも新幹線も旅客機も、1924年に存在したということと同義である。

九州説は幾何級数的にあり得ないのではないか?
あるいは、この編年を克服する証拠を提示しなければ、素人は騙せても、学者レベルでは全く九州説の採用は不可能であると考えなければならない。

893 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 20:58:44.39 .net
>>889
>畿内説のデマが続くなw

九州説は嘘がバレても弁明しない
ただ次の嘘をつく

このように

894 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:05:29.54 .net
九州説って、どうしてそんなにウソつくの?

895 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:12:42.14 .net
壱岐から糸島に直接船で行けば良いってのは誰でも思う疑問で
松浦に行って歩く理由なんてどう考えても無いんだけど
そう書いてあるからしようがねえじゃんで済ますんだよね

896 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:25:35.02 .net
九州の年代も畿内に年代に押されて前倒しされてる気がするな

897 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:28:17.13 .net
素人に毛が生えると畿内説になるのかw

898 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:40:44.24 .net
畿内説の嘘の歴史は千年以上だが

899 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:47:14.81 .net
>>885
それだけじゃなく
山門郡に邪馬台国がある説だと
どうしてUの字で行くのか
松浦の下にあるのに

900 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:47:22.55 .net
>>895
末盧国に魏の大型船が着岸できる天然の良港でもあったのかもしれん
倭人の手漕ぎの丸木舟なら直接伊都国や奴国に行くだろう

901 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:51:35.98 .net
>>897
>>898
反論がまったく出来ず、ただ悪口だけ言う敗者
それが九州説



w

902 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:51:51.47 .net
>>900
あまりにも不自然だよな
九州説にせよ、畿内説にせよ(畿内説ならなおさら九州に入る必要はなく出雲に行けばいい)
なぜあんなに九州の西の端に

903 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 21:57:15.32 .net
>>902
だから、「末盧国」は福津市(万津浦)辺り だと、何度言えばww   @阿波

904 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:04:34.14 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

905 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:08:05.53 .net
伊都国に一大率があることから分かるように、アクシデントがなければ壱岐から直接伊都国の港に入っただろう。
壱岐から松浦目指して南下、南東に向きを変えて500里ってところだろう。
前に行く人の背中が見えないなんてアクシデント感が満載。末盧国の官の記載ないことも末盧国に寄らなかったことの根拠になるんじゃない。

906 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:08:58.46 .net
>>903
そんなこと言ってる学者は一人もいない
伊都国、奴国は畿内説でも九州説でも争いなし

907 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:13:24.20 .net
ため池は弥生時代に始まりあちこちに作られたり作り直されたり江戸時代の新しいものと古いものが混在している
稲作の為に作られるのがため池
皿池タイプとダムタイプがあるが、凹地の一部を堰き止めるタイプの池が1番簡便
弥生時代末期の水田跡、地形をじっと睨んだらこいつは古い池だというのが自ずと見えてくる

908 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:15:33.32 .net
糸島に遣唐使船が出港したという唐泊(からどまり)という港がある
その頃の港の整備力とか分からんけど糸島にも大型船は留まれるんだなと思った
まあそこは伊都国ではなく斯馬国に当たると思うが
いずれにしても末盧国に行く合理性はないよね
台風が来たからとかそんな理由じゃないかい

909 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:18:02.80 .net
>>906
>そんなこと言ってる学者は一人もいない

ボンクラ学者だからな。   @阿波

910 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:38:19.02 .net
フルショウさんによると、シマとイトは、しと神社の辺りで繋がってただけだったらしい。

911 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:51:44.81 .net
龍神は海神
普通に博多辺りは海の勢力がまだ混在していて制海権を確立していなかっただけだろう
壱岐からは龍の絵画土器が見つかっている

伊都国は佐賀だと思うよ

912 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 22:58:30.31 .net
海に棲む龍もたまには雲を起こすのだという明治天皇の歌があるな
河内は奈良から降りてきた龍神が柏原の地で大和川の治水を行ったという伝承がある
奈良の奈良湖の龍の話の続きだな
奈良湖があったのは弥生時代中期まで
弥生時代後期橿原や唐古・鍵遺跡から壱岐と同じ龍の絵画土器が見つかっている
河内の龍神の伝承は弥生時代後期、柏原の大和川の辺りと現在の堤防の下から弥生時代後期の大規模な遺跡が見つかっている
河内と関係が深い博多は弥生時代後期龍神の影響下だろう
その後卑弥呼の時代に完全に龍の影響を排除できたわけではあるまい

913 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:11:10.12 .net
九州の勢力が大阪にやってきたのは弥生時代前期だな
弥生時代前期雁屋遺跡などから板付式土器が見つかっている
稲作が広がる時期やね
那津の人々がやってきたんだろう
雁屋遺跡も鳥形の地で、松江の西川津遺跡、鳥取の青谷上寺地遺跡、池上曽根遺跡と同じ形の鳥形の地やね

914 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:41:45.22 .net
>>903
おまえはずっとそれ言ってるな
確かに行程的には筋は通ってるが伊都国が内陸なんだよな?

915 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:46:03.50 .net
青谷上寺地遺跡、雁屋遺跡、亀井遺跡、登呂遺跡、etc
卜骨は興味深いよな
壱岐や青谷上寺地遺跡早くから卜骨があり弥生時代中期には大阪に広がり後期には登呂遺跡など東国にも広がっていく
雁屋、亀井、登呂遺跡などは鳥形とセットだな

吉備で卜骨を認めるようになるのは遅く弥生時代末期頃で倭国大乱の後辺り
逆に大阪平野は弥生時代中期頃まで
青谷上寺地遺跡は卜骨が盛んで弥生時代全期を通して行われていた

916 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:47:45.45 .net
>>911
東南500里は吉野ヶ里方面に向かったと考えると無理がない

917 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:49:15.82 .net
遠賀川には卜骨がないんだよな
稲作集団も複数のグループがいたのかもな
土地の取り合いになるわ

918 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:55:03.61 .net
鳥形の集団は卜骨の集団のいる集落に巣を作ることが多かったようだな

919 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:57:01.75 .net
鳥形は滋賀守山の下之郷遺跡からも出てる

920 :日本@名無史さん:2024/04/08(月) 23:59:27.36 .net
鳥形の集団の縄張りに稲作技術を持つ卜骨の集団を呼び込んだとも言える

921 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:04:23.81 .net
鉄の輸入ルートだけでなく、稲作技術と土地の奪い合いが倭国大乱の引き金かもな

女王国は文身の風習を持つ海人中心の国
稲作民を呼び込んで栄え始めていた狩猟採集民の縄張りに海の民が入っていこうとしたのが対立のそもそもの原因かもしれん

922 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:08:00.03 .net
何で突然天理大学の鳥形の分類の論文がネットで閲覧できなくなったのか?
鳥形という視点を足すとより鮮やかに色々時代の動きや人々の移動が見えてくるんだけどな

923 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:09:50.39 .net
>>915

吉備は後期前葉から

924 :日本@名無史さん:2024/04/09(火) 00:09:52.16 .net
あまだむは軽の枕詞
天飛ぶやは雁や軽の枕詞

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