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【Y-DNA】新日本古代氏族とハプログループPart21

1 :日本@名無史さん:2024/04/12(金) 06:09:40.73 .net


https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1711303319/

177 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:45:10.62 .net
>D1a2b(Y34637)はアンダマン諸島南部(オンゲ族、ジャラワ族)

写真見たらわかる

同じ緯度で海岸線沿いに東進したんだよ
D1a2aはスンダランド経由、南回りだ

178 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:45:35.05 .net
各地における頻度
日本各地で高い頻度を誇るが、特に東日本や南九州及び沖縄に多い。

青森:38.5%
静岡:32.8%
徳島:25.7%
九州:26.4%
沖縄:55.6%(25/45)(Hammer et al. 2006[18])
アイヌ:87.5%(Tajima et al. 2004[20])

また、国外では韓国、ミクロネシア、ティモール島、中国などで低頻度にみられる。
ミクロネシア: 5.9%(1/17; Hammer et al. 2006[18])
韓国: 4.0% (3/75; Hammer et al. 2006[18])、1.58%(8/506[21])
西ティモール: 0.2%(1/497; Tumonggor et al. 2014[22])
中国: 0.02%[23]、北京漢族1.96%(1/51)[21]

179 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:47:56.66 .net
東日本縄文人やアイヌはD1a2a2

本土日本人はD1a2a1

1万5千年前に分岐してるから、文化集団としては別物だな。
(D1a2a1は西日本縄文人か?)

180 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:51:20.02 .net
以上を要約すると、
3000年前に、長江流域から浙南石棚墓人がごく少人数漂着渡来して、縄文集落に救助された。

イネb系統
水田
ニホンヤモリ
支石墓
甕棺墓
四眠蚕養蚕
などなどをもたらして、

縄文人と結婚して、縄文住居で暮らして、縄文土器で生活して、
養蚕の普及に生涯をかけて尽力して、
最後は生前に準備しておいた支石墓に縄文屈葬で縄文土器と一緒に葬られましたとさ。

181 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:56:05.06 .net
原始和弓の起源 2015年『日本考古学』
https://fieldnote.info/page-1424/page-1557/


原始和弓が属する丸木弓系単一素材弓は,太平洋・インド洋沿岸の湿潤な樹林帯に多い。
とくに,太平洋周辺の長大な弓の分布は,オーストロネシア語族の拡散域と
非常によく重なるので,その拡散には彼らが強く関与していたとみられる。

源郷とされる中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡からは,初期のイネやブタ,
丸木舟とともに,世界最古の漆塗りの丸木弓が出土しており,
原始和弓も含めた太平洋型長大弓の共通の祖形ではないかと考えられる。

東シナ海、杭州湾を臨む浙江省跨湖橋遺跡から,新石器時代(紀元前5000〜6000年頃)
のI類漆塗り丸木弓が出土している(図4–26・浙江省文物考古研究所2004)。
一般的な弓のプロポーションから復元すると180cm前後の長大な弓であった可能性がある。
跨湖橋遺跡は稲作開始期の集落で,家畜化初期段階のブタ,丸木舟などが共伴している。

182 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:57:01.94 .net
 さらにこの地域の先住民例を見ると,台湾のアミ族やタイヤル族,海南島のリ族が,
140〜150cm台の比較的長い丸木ないし竹製のI類弓を使用している。

フィリピン〜南太平洋島嶼群のI類弓
 さらに南下すると,フィリピンからタヒチまで,
太平洋の島嶼伝いにはるか東へとのびる,I類弓の広大な分布域を認めることができる。

 この地域では,180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達するような,
長大なI類弓が主体である。フィリピンのネグリート族は,原始和弓と同じ弓幹に
樋と巻を施した長弓と,三叉族を付した長大な矢で,漁労に使用する(Krieger1926)。

183 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 15:59:07.55 .net
 インド洋沿岸のI類弓
フィリピンから東へ向かっては,分布の希薄なインドシナ半島を跨ぐようにして,
インド洋東岸へI類弓の分布が広がる。

 インドネシアのメンタワイ族,スリランカのヴェッダ族などの弓が代表的なものである。
南太平洋の島嶼群と同様,180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達する
長大なI類弓が主体である。

 なお,アンダマン諸島のグレート・アンダマン族は,彼らの身長をはるかに越える,
180cm以上の長大な木製の弓を用いることで知られる(Brown1906)。

184 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:01:42.03 .net
 後藤守一は、弓幹の長さと形態によって弓を分類した(後藤 1928)。

弓のうち「長さ2m 位のもの」を長弓、「長さ1m 内外のもの」を短弓と称し、

弦をはずした時に弓幹がほぼまっすぐで、弦を張るとほぼ同じ曲率で曲がるものを直弓、
弓幹の中央が弦に向かって逆に反った弓字形になるものを彎弓と称した。

そして、多くの場合に長弓は直弓、彎弓は短弓であるとの見方を示している。

朝鮮半島南部では紀元前1世紀に,跨湖橋遺跡の弓に類似した漆塗り長大弓が出現する。

 朝鮮半島南端部では,日本の弥生時代に相当する原三国時代に,
原始和弓に匹敵する長大なI類弓が確認されている。

紀元前1世紀中頃の慶尚南道昌原市茶戸里1号木棺墓(国立中央博物館2012),
2世紀前半頃の金海良洞里21号木槨墓(図4–25・国立金海博物館2012)出土例である。

185 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:03:26.31 .net
 縄文時代の弓に長弓と短弓があることは、近年の発掘で明らかになってきた。

長弓の例として、莉内遺跡・寿能遺跡などの例があり、短弓の例として、
埼玉県伊奈氏屋敷跡遺跡例などがある。

 さらに小型弓と呼んでいる、発火弓、穿孔弓と考えられる木製品を確認されているが、
これは、仕掛け弓としても用いられたのかもしれない。
弓の全体形は上長下短で、握りの部分は弓幹の下よりにくるものが多い。

 縄文時代の丸木弓は、長弓が多い。
しかし、北海道忍路土場遺跡では、 1m 以下の短弓が大量に残っており、
縄文の弓は時期や地域毎に異なった姿があったらしい。

186 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:07:08.76 .net
>東南アジア周辺にすむ海の遊牧民で水深20mの海中を歩きながら漁をする。
それに脾臓が肥大化し10分近く潜水できると言うから驚く、一般人は2分ほど。

ミャンマーのモーケン族、
フィリピン、マレーシア、インドネシアの島々に暮らす先住民「バジャウ(Bajau)族」

そして沖縄の海人(うみんちゅ) 沖縄の方言で、本来はアマと読みます。
海に潜って貝類や海藻を採集したり追い込み漁を職業人という意味です。

187 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:09:45.63 .net
>このサイトの写真に有る弓の握りが倭人伝にある「上長下短の木弓」の位置で、

銅鐸の弓絵と同じ弥生人の握り。 現在も和弓では、この握り位置で射る。
4万年前からの縄文人祖先たちと同じ漁をするため海洋民の文化なんだろう。

ジャラワ人(ジャラワ族)とアンダマン人〜
Y染色体ハプログループD1a2bとオンガン語族〜
https://oreranitsuite.com/2023/09/16/jarawa/

第二次大戦時に英軍を追い出し日本軍に占領されたのも、何かの因縁だろな。

188 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:11:12.63 .net
>これらは東南アジア・スンダランドから主食の魚貝類が取れる波打ち際を北上し
東シナ海平原から九州島に上陸した。波打ち際は今では海中で遺跡が残らないので残念。

途中途中に丸木舟の刳り抜きよう丸ノミ形石斧の、原形を工夫し完成形へと磨かれた。
東南アジア諸島には丸木舟を作る丸ノミ形に似た円筒型石斧が使われてる。

そして沖縄方面に丸ノミ形石斧を持参し鹿児島から逆南下して行き、
台湾周辺からの北上グループと合流したんだろう3万年前ころに、
縄文人の航海能力には驚かされる。

189 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:13:58.10 .net
刃部磨製石斧・局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)とは、

石器全面ではなく刃部(刃先部分)のみに磨き(研磨)をかけた磨製石斧の1種である。
日本列島では約4〜3万年前の後期旧石器時代初頭に登場した。

>この石斧が日本全国から出土して世界最古と云われてる物がオーストラリアからも、
 ベトナムハノイ周辺では1.2万年前ころから出現するが全体的に新しく不思議。

中国、朝鮮では新石器時代(1万年前)からしか全面磨製石器が出て来ない。

190 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:16:16.52 .net
旧石器時代から局部磨製石斧とか
東アジアでは日本と時代は少し下るがベトナム周辺から発見さるから

ベトナムから香港がある珠江の上流、柳江がベトナム国境付近で
この一帯は百越人の活動範囲で縄文土器に似た紋様の土器などがある
前々からこの地域と縄文人、倭人たちと関係があるんではと思ってた地域で納得。

地元にある柳江人や越人像が今の日本人そっくりでビックリする
越人像
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
柳江人
https://k.sina.cn/article_6419461847_17ea136d70010020ys.html


それに比べて日本の教科書にある弥生人モデルの朝鮮顔なのにはガッカリするけどな。

191 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:17:22.69 .net
越人ってこう言う風貌してたんだろな。まんま正座した日本人だけど。

越人像
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A

柳江人
https://k.sina.cn/article_6419461847_17ea136d70010020ys.html

192 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:22:18.93 .net
>この母系 ハプログループM7a (mtDNA) は

(約2万-1万年前)には沖縄(23%)で発見されており北海道アイヌ(16%)の
主体であるD系縄文人祖先と共に移動した家族と思われ、日本固有のDNAと云われてる。

起源
約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループである「インドM」型から
分岐したM7よりのグループで、約2万5000年前に「スンダランド」で誕生し沿岸部を、
北上して東シナ海平原より日本列島(九州・沖縄2方面)に到達した系統にあたるとする。

なお母系 M7aの姉妹グループは何れも東南アジア方面で
「M7b」は中国南部内陸へ移動し分布を広げ、
「M7c」はフィリピン、インドネシアなど島嶼部に分布を広げた。

193 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:24:42.03 .net
「ホアビン文化」
東南アジアの中石器または新石器時代初期の文化。
1920年代にフランスの考古学者 M.コラニが
ベトナム北部のホアビン地方の洞窟遺跡で発見した石器類によって命名。
インドシナ,タイ,マレー,スマトラなどに分布する。礫器,握斧,スクレーパー,
短石斧などがあり,片面加工のものが多い。のちになると(局部磨製)の石斧が増し,
バクソンとの関係が考えられる土器はない。

「バクソン文化」
ベトナム北部,ハノイ北東約100kmに位置するバクソンBac Son山地の,
多数の石灰岩洞窟遺跡から発見された遺物を指標とする文化。
1920年代にH.マンシュイやM.コラニらによって調査され,中石器時代または
新石器時代初期の文化とされる。打製の礫器などはホアビン文化と類似するが,
(局部磨製石斧)や両面加工のものが,ホアビンに比して多いのが特徴である。
ほかに骨角器や,それを砥いだと思われる溝石などがある。

194 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:29:19.18 .net
>どうも東南アジアの中石器時代遺跡には、
局部磨製石斧・刃部磨製石器石器の刃部を研ぐ溝石、不定形の剥片石器など、

日本と共通する丸ノミ形石斧と類似の円筒石斧が特に海岸沿いの遺跡から発見される。
恐らく丸木舟つくりの刳り抜き道具なんだろう。 丸木舟は波打ち際でしか作れない。


栫ノ原型丸ノミ形石斧は、
後の時代のものではあるが、フィリピンやグアムなど東南アジアから、
太平洋の島々に分布する円筒石斧と呼ばれる丸木舟製作の石製工具にも酷似する。

195 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:31:12.56 .net
 東南アジアから太平洋の島々に分布する島嶼には円筒石斧というのが見つかる。
「ボルネオ島の磨製石斧−円筒石斧から方角石斧への一考察−」

ブルネイの周辺、ニア洞窟同6000年から4000年円筒形石斧が見つかった
そしてパプア系は円筒石斧、後来のオーストロネシア系は方角石斧や

つまり、円筒石斧とパプア諸語、有肩石斧とオーストロアジア語族、
方角石斧とオーストロネシア語族という具合である。

196 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:34:24.69 .net
栫ノ原型丸ノミ石斧、玦状耳飾、栓型耳飾、赤漆髪飾くし、管玉、など

沖縄、奄美、種子島、鹿児島、の縄文遺跡から出土してるので
丸木舟での行き来交易は比較的簡単だったんだろ。


「丸ノミ型石斧」
12000年前(縄文時代草創期)の世界最古の「丸ノミ形石斧」で、
南さつま市加世田栫ノ原(かこいのはら)遺跡から発掘された。
そのほか沖縄本島北部、奄美大島、種子島、鹿児島、他九州島内、でも発掘されている。

197 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:39:47.27 .net
>倭人伝に魏の使節が見た!!

倭人の風貌は直感的に海南島に住む民族と似てると感じた。

兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
「兵は、矛、盾、木弓を用ひる。木弓は下を短かく、上を長くす。

竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳珠崖と同じくす。」

「儋耳珠崖」とは黎族・リー族が住む海南島、チベット語系、チワン・トン語派
前漢が南越国を滅ぼし紀元前110年(元封元年)、海南島に珠轟Sと儋耳郡が置かれた。


>中国漢代の史書論衡にあり、周の成王の時代(紀元前1000年頃)に
「越裳(ベトナムあたり)からは白いキジを献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を献じた」
 と記されています。鬯草とは神事に使う香草です。

198 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:41:41.94 .net
>>180
南支那からイネと水田を伝えたなら自動的に中粒種のイネと石スキと陶鼎が伝わるし、
養蚕を伝えたなら自動的に袴(ズボン)のある漢服や布靴が伝わるだろが
中卒南支那ブタセロウ(嘲笑

199 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:50:06.65 .net
木鍬ですけど

みんな木材製🪵

200 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:50:43.48 .net
木刃

201 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:56:07.43 .net
「 彼らはラピタ土器文化を持っていたから入植があれば日本にもラピタ土器が伝わってる
 ラピタ土器は台湾あたりの南支那の印文陶と酷似し、彼らのルーツを物語る 」


>ラピタ土器ではないが、中国南部、百越の土器や縄文土器、押形文土器に似た、
>エクアドルのバルディビア土器そっくりな、土器が宮崎県から発見されてる。

太平洋岸に面した宮崎市で、南米エクアドルのバルディビア土器とそっくりの
文様を持つ縄文土器群が発見されていた。
http://www.gondo.com/cnn/news/031005-1.htm

宮崎市跡江貝塚遺跡は、公式には1万2000年前から7000年前の物とされているが、
発見者の日高氏によるとアカホヤ層(喜界島噴火による火山灰層)の直下まで、
土器が埋まっている事から、約6300年前の喜界島大噴火まで続いた土器文明であると言う。
この遺跡からは、なんと24種類もの文様の土器が発見されており、
文様の豊富さでは、九州随一だと言う。

202 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 16:57:50.76 .net
>>114
プラントオパール
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/300/files/kenkyuhokoku_187_04.pdf
あと人の遺伝的な共通項からも可能性が濃厚であるとして裏付けられる

203 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:09:08.54 .net
>一般的に弥生時代になってからと云われる壺形土器が
 縄文時代早期の時代に南九州で、既に弥生土器のような趣がある不思議な土器。

 上野原台地の南東側に位置する区域の最も高い場所からは,
対で発見された壺形土器をはじめ11基の土器埋納遺構が見つかっています。
この場所で,マツリが行われたと考えられています。
https://www.jomon-no-mori.jp/bunkazai-center/south/twins/

 一般的に弥生時代になってから使われるようになる壺形土器が,
5,000年以上もさかのぼる約7,500年前にすでにつくられていたことも明らかになりました。

 現在,上野原遺跡の成果から,同じ時期の壺形土器の出土例が増えつつあります。
約7,400年前の遺跡である城ケ尾遺跡(霧島市)からは,
埋納された壺形土器が,ほぼ完全な形で3個体出土していますが,
上野原遺跡のような「双子壺」(2つの壺形土器が並んで出土)の出土例を示す遺跡は,
まだありません。

204 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:18:43.12 .net
>>180
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

205 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:19:26.30 .net
>>180
ほれ、越と燕の遺構から出土した 平皿 や三本足の生えた不思議な炊飯器(嘲笑








越の遺構から出土した土器(浙江省)


https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/6/b/340h/img_6b1b6d2d9509792e3206996e6b83d4453254553.jpg

https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/c/5/-/img_c57c3fd880b83154569f4658709923253243747.jpg


燕の遺構から出土した土器(河北省博物館)


https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/20/xuzhoumeso/4c/e2/j/o0500037415315589804.jpg








.

206 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:20:08.90 .net
>>180
ほれ、山東省の漢代の遺構から出土した三本足の生えたユニークすぎる炊飯器(嘲笑














http://j.people.com.cn/NMediaFile/2021/0415/FOREIGN202104151415000595907897828.jpg













.

207 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:21:35.54 .net
>>180
ほれ、おまえらチンコロ工作員のクッサイ顔面wwww






アー ハノイデスネー ミナミシナジンwwww






http://jump.5ch.net/?pbs.twimg.com/media/CmtABgjUkAAgEK6?format=jpg&name=small




http://i.imgur.com/Y5Odn61.jpg




http://i.imgur.com/XCjIGbb.jpg





.

208 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 17:58:44.52 .net
アイヌはプーチンに日本を攻撃しアイヌを助けてください
と手紙を送りそのせいで、2022年ロシア艦隊が津軽海峡に現れ
砲撃し、海に砲弾が落ちて、この時点でアイヌは外患誘致罪なわけで
アイヌ民族は死刑です 日本国民にこの事実を教えないで
人類歴史学をやってる場合じゃないんですよ
今日は尖閣諸島に中国海軍2502隻の艦艇隊が尖閣諸島に現れて
沖縄 九州はピンチです
ションベンで中国人をヘイトしてる場合じゃないしね

209 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:25:33.18 .net
>>206
「少人数漂着渡来」に対する反論になってませんよ?
むしろ強化するデータの提供ありがとう。

以上を要約すると、
3000年前に、長江流域から浙南石棚墓人がごく少人数漂着渡来して、縄文集落に救助された。

イネb系統
水田
ニホンヤモリ
支石墓
甕棺墓
四眠蚕養蚕
などなどをもたらして、

縄文人と結婚して、縄文住居で暮らして、縄文土器で生活して、
養蚕の普及に生涯をかけて尽力して、
最後は生前に準備しておいた支石墓に縄文屈葬で縄文土器と一緒に葬られましたとさ。

210 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 19:43:00.54 .net
>>209
南支那からイネと水田を伝えたなら自動的に中粒種のイネと石スキと陶鼎が伝わるし、
養蚕を伝えたなら自動的に袴(ズボン)のある漢服や布靴が伝わるだろが
中卒南支那ブタセロウ(嘲笑

211 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:47:27.93 .net
アンタの言ってることはそういう可能性もあるよってだけだろ?そうである必然性は全くないから。

212 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:49:20.63 .net
それはあまりにもピュアーなんじゃないか

213 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:50:22.87 .net
絶対に中流種のイネが伝わらないといけない必然性なんかあるのか?

214 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:55:23.14 .net
当時の長江流域には漢民族ではない多くの少数民族がいましたからね。鼎がないじゃないかと言うけどそもそも全ての少数民族が同じ風習風俗ではないんだし。

215 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:55:35.32 .net
>>213
あのな中卒

3000年前の中国のイネはな、中粒種と短粒種が半々て混交したものなんだよ

だから中国からイネを持ってくれば自動的に中粒種が伝わるんだよ

216 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 20:59:39.69 .net
3000年前の全ての中国で半々だった証拠はないだろ?

217 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:05:59.56 .net
専門家の前で言えるか?そうとは限りましぇぇんて
ここが便所の落書きといえばそうだが
素人なら丸め込めると思ってるんだろ?

218 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:08:18.76 .net
このスレのどこに専門家がいるの?

219 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:11:17.96 .net
長江下流域出土のイネの粒種の変化の年表データだから平均なものだぞ

220 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:12:40.14 .net
【概要】
ニホンヤモリは、日本民家の“隣人”で家の守り神(家守)として親しまれていますが、中国東部にも分布しており、実は在来種ではなく外来種ではという疑いがもたれてきました。しかし、渡来期も含めその来歴は不明でした。
東北大学大学院生命科学研究科博士課程学生の千葉稔氏と東北アジア研究センターの千葉聡教授らのグループは、その日本進出の過程を、ゲノムワイドの変異解析と古文書の調査から推定することに成功しました。
ニホンヤモリは、約 3000 年前に中国から九州に渡来し、平安時代末までに近畿へ、一部が東海道を東進して江戸後期〜明治初期に関東へ、また戦国時代に近畿から北陸に移った系統が江戸時代には、北前船の寄港地として栄えていた酒田へと移住したと推定されました。
遺伝子から推定された歴史は古文書の記録と整合的であり、日本社会の発展の歴史との間に見られる多くの共通点は、ニホンヤモリが人や物資の移動に伴って分布を広げたことを裏付けます。
本研究成果は、現在の生物の分布や多様性を理解する上で、近代以前の人と生物の関係が無視できない要因であることを示す重要な成果です。
本研究結果は、2022 年 11 月 30 日の米国科学誌 PNAS Nexus(オンライン速報版)に掲載されました。

<研究成果の内容>
本研究では、古文書の網羅的調査、ddRAD-seq というゲノムワイドの変異解析、人間社会の発展と絡めた考察という文理融合的なアプローチにより、ニホンヤモリが辿った歴史を推定しました。

地域集団の系統関係と分岐年代、上記の個体数増減のタイミング(図 2)から、ニホンヤモリの住分散のルートと歴史を推定することができます。
その結果、ニホンヤモリは約 3000 年前に中国から五島列島、さらに九州へ渡来したと推定できました。約2000 年前の弥生時代になると、九州から複数のルートで西進が始まり、遅くとも平安時代末までには近畿に定着していました。
その後、一部が東海道を東に進み、江戸時代後期〜明治初期に関東へ達しました。これは 17 世紀にはまだ「関東にはいなかった」という 1697 年の本朝食鑑の記述と整合します。
また、戦国時代には近畿から北陸へと移住し、江戸時代には北陸から北前船の寄港地として栄えていた酒田に移りました。

221 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:13:50.75 .net
“最初の日本人” その「親戚」がタイの密林にいた

現代の日本人とは姿も生活様式も全く異なるマニ族が、なぜ“最初の日本人”の「親戚」と言えるのか。

この両者を結びつけたのが「古代DNA解析」と呼ばれる、2022年のノーベル生理学・医学賞に選ばれた革新的な技術です。

長い間、土に埋まっていた骨からは、これまでDNAを読むことが出来ませんでしたが、この技術が確立されたことで、保存状態のいい骨に関しては数千年前の骨であってもDNAを読み取ることが出来るようになりました。

このため、従来では考えることもできなかった様々な事実がこの10年で次々と明らかになってきているのです。

その1つが2018年に東京大学の太田博樹教授らのチームが発表した研究結果です。

きっかけになったのは、ラオスにあるファファエン遺跡で見つかった8000年前の人骨のDNA解析に成功したことでした。

タイやラオス周辺には2万数千年前から4000年前にかけて「ホアビニアン」と呼ばれる狩猟採集民が広く暮らしており、DNA解析に成功したのはこの「ホアビニアン」の骨でした。

太田教授らは、ホアビニアンのDNAと、世界各地の古代人や現代人など計80集団以上のDNAを比較し、どのくらい似ているかを示す近縁性を調べました。

すると、東南アジアの古代人に混ざって、日本人にとって歴史の教科書でおなじみの「縄文人」が、ホアビニアンとのDNAの近縁性、どのくらい似ているかの指標で4位にランクインしたのです。

「縄文人」は今からおよそ1万6000年前から3000年前の「縄文時代」に日本列島に住んでいた人々で、いわば“最初の日本人”です。
です。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/feature/2023/12/04/36270.html

222 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:22:41.34 .net
>>217
それはアンタだろ?
教科書に載っている定説を自信満々に否定するくらいなんだから、こんな素人しかいないスレで差別語使って丸め込むよりも、本命晒して専門家の前で堂々と定説を覆せばいいじゃん。

223 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:24:56.93 .net
>>222
定説?チョーコーがか?

224 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:26:25.06 .net
>>222
教科書はどこのだ?俺は素人だが
馬鹿言ってんじゃないよと出版社に
一度くらい投書カチ込んでやってもいいぞ

225 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:29:07.52 .net
渡来人が稲作を伝えたという奴ね

226 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:30:34.35 .net
>>220
で、その遺伝子解釈が正しいという証拠は?(嘲笑



>>221
だからホアビニアン人骨から見ると縄文人骨は近縁性で4位だという事は
十二分に分かったっての



では縄文人骨から見るとホアビニアン人骨は近縁性で何位なの?何位なの?
何位なの?何位なの?



早く言えよ、ルート探査では考古学の力を借りなければデタラメな解釈を
頻発して全然使えないゴミインジケータに頼ってる中共国策工作員のおまえ

227 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:32:27.87 .net
>>225
山川だな。分かった
いつまで昭和の記述引き継いでんだと
一度くらい言ってやるわ

228 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:33:23.42 .net
シニガイ文化って現代まで残ってるのはあるの?
信仰していた神とか神話なんかで

229 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:38:42.51 .net
遺伝学の暴走を止めるという妙な使命感に駆られてるなら、こんな10人もいない過疎スレに張りついてるよりも、直接的に抗議した方が100倍早いよw

230 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:48:31.78 .net
山川は今はどうでもいいよ
言うてこのスレは日本史板第二の勢力だからな
あえて触れなかったが前スレではガチの外国人も居たし
まあまあ保守してて正解だと思うよ

231 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 21:55:29.57 .net
中共工作員の遺伝学によるルート探査のポンコツさを考古学の力で丸裸にして
みんなで冷笑するスレだろ(嘲笑

232 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:10:43.62 .net
http://i.imgur.com/3TCgKzC.png
http://i.imgur.com/tmrsKS4.jpeg
>嘘をつくな!



↑中卒ダマシの頻度詐欺を働く中共 五毛党 日本侵略部隊(嘲笑 

南支那から入植した考古痕跡も北上した考古痕跡も一切ない

例えばYのハプロDは起源地のアフリカではほぼ0%

一方、その地球の裏側の日本列島では3割強 

頻度は常に変化しているので、 頻度が高いからといって、そこが起源地だとは限らず、
存在しないからといって、そこが起源地ではないとは限らない

同じ遺伝子が存在すれば同じ祖先を100%共有している事が分かるのみで、
頻度が高いところから低いところに移動したとは限らないし、その遺伝子が
存在しなくても同じ祖先を共有していないとは限らない

遺伝子の頻度が起源地探査やルート探査には全く使えない事の証左

親株、子株もそうだ

起源地で親株が消滅して子株だけになり、遠方では親株しかなかった場合、
遠方の方が起源地に見えてしまう

親株、子株も起源地探査やルート探査には全く使えない事の証左

遺伝学で分かる事は、同じ遺伝子が存在すれば同じ祖先を100%共有している事が
分かるという事のみで、それ以上の事はほとんど何も分からないのである

233 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:14:03.69 .net
>>231
中国工作員と朝鮮工作員が日本人そっちのけで
論争してるだけっしょ。

沿海州って多民族混在だから、日本人の先祖としての遺伝子のソース
としては微妙な感じ。縄文人が遺伝子取り入れる先としては好条件では
あるけど。

考古学至上主義の奴も都合の良いところ切り貼り捏造して自説主張して
むしろ、考古学を踏みにじってる現状だが。

234 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:18:49.48 .net
新参なんだろうが主成分や論文で語らないヤツはそもそもモグリだぜ
勝手に工作員認定するのは構わんけど要らん思想とか極力混ぜないでくれ

235 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:23:49.83 .net
>>233
俺は朝鮮人じゃないし、考古学だけじゃなく遺伝学も形質人類学も全部見てるぞ
中共国策工作員のおまえ(嘲笑







それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。

日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋







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236 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:28:25.49 .net
>>233
俺は朝鮮人じゃないし、考古学だけじゃなく遺伝学も形質人類学も全部見てるぞ
中共国策工作員のおまえ(嘲笑







最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。

日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋





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237 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:34:18.60 .net
各地における頻度
日本各地で高い頻度を誇るが、特に東日本や南九州及び沖縄に多い。

青森:38.5%
静岡:32.8%
徳島:25.7%
九州:26.4%
沖縄:55.6%(25/45)(Hammer et al. 2006[18])
アイヌ:87.5%(Tajima et al. 2004[20])

また、国外では韓国、ミクロネシア、ティモール島、中国などで低頻度にみられる。
ミクロネシア: 5.9%(1/17; Hammer et al. 2006[18])
韓国: 4.0% (3/75; Hammer et al. 2006[18])、1.58%(8/506[21])
西ティモール: 0.2%(1/497; Tumonggor et al. 2014[22])
中国: 0.02%[23]、北京漢族1.96%(1/51)[21]

238 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:35:56.24 .net
原始和弓の起源 2015年『日本考古学』
https://fieldnote.info/page-1424/page-1557/


原始和弓が属する丸木弓系単一素材弓は,太平洋・インド洋沿岸の湿潤な樹林帯に多い。
とくに,太平洋周辺の長大(180cm)な弓の分布は,オーストロネシア語族の拡散域と
非常によく重なるので,その拡散には彼らが強く関与していたとみられる。

源郷とされる中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡からは,初期のイネやブタ,
丸木舟とともに,世界最古の漆塗りの丸木弓が出土しており,
原始和弓も含めた太平洋型長大弓の共通の祖形ではないかと考えられる。

東シナ海、杭州湾を臨む浙江省跨湖橋遺跡から,新石器時代(紀元前5000〜6000年頃)
のI類漆塗り丸木弓が出土している(図4–26・浙江省文物考古研究所2004)。
一般的な弓のプロポーションから復元すると180cm前後の長大な弓であった可能性がある。
跨湖橋遺跡は稲作開始期の集落で,家畜化初期段階のブタ,丸木舟などが共伴している。

239 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:37:10.44 .net
 さらにこの地域の先住民例を見ると,台湾のアミ族やタイヤル族,海南島のリ族が,
140〜150cm台の比較的長い丸木ないし竹製のI類弓を使用している。

フィリピン〜南太平洋島嶼群のI類弓
 さらに南下すると,フィリピンからタヒチまで,
太平洋の島嶼伝いにはるか東へとのびる,I類弓の広大な分布域を認めることができる。

 この地域では,180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達するような,
長大なI類弓が主体である。フィリピンのネグリート族は,原始和弓と同じ弓幹に
樋と巻を施した長弓と,三叉族を付した長大な矢で,漁労に使用する(Krieger1926)。

240 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:37:31.97 .net
 インド洋沿岸のI類弓
フィリピンから東へ向かっては,分布の希薄なインドシナ半島を跨ぐようにして,
インド洋東岸へI類弓の分布が広がる。

 インドネシアのメンタワイ族,スリランカのヴェッダ族などの弓が代表的なものである。
南太平洋の島嶼群と同様,180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達する
長大なI類弓が主体である。

 なお,アンダマン諸島のグレート・アンダマン族は,彼らの身長をはるかに越える,
180cm以上の長大な木製の弓を用いることで知られる(Brown1906)。

241 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:39:44.77 .net
 後藤守一は、弓幹の長さと形態によって弓を分類した(後藤 1928)。

弓のうち「長さ2m 位のもの」を長弓、「長さ1m 内外のもの」を短弓と称し、

弦をはずした時に弓幹がほぼまっすぐで、弦を張るとほぼ同じ曲率で曲がるものを直弓、
弓幹の中央が弦に向かって逆に反った弓字形になるものを彎弓と称した。

そして、多くの場合に長弓は直弓、彎弓は短弓であるとの見方を示している。

朝鮮半島南部では紀元前1世紀に,跨湖橋遺跡の弓に類似した漆塗り長大弓が出現する。

 朝鮮半島南端部では,日本の弥生時代に相当する原三国時代に,
原始和弓に匹敵する長大なI類弓が確認されている。

紀元前1世紀中頃の慶尚南道昌原市茶戸里1号木棺墓(国立中央博物館2012),
2世紀前半頃の金海良洞里21号木槨墓(図4–25・国立金海博物館2012)出土例である。

242 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:40:08.94 .net
 縄文時代の弓に長弓と短弓があることは、近年の発掘で明らかになってきた。

長弓の例として、莉内遺跡・寿能遺跡などの例があり、短弓の例として、
埼玉県伊奈氏屋敷跡遺跡例などがある。

 さらに小型弓と呼んでいる、発火弓、穿孔弓と考えられる木製品を確認されているが、
これは、仕掛け弓としても用いられたのかもしれない。
弓の全体形は上長下短で、握りの部分は弓幹の下よりにくるものが多い。

 縄文時代の丸木弓は、長弓が多い。
しかし、北海道忍路土場遺跡では、 1m 以下の短弓が大量に残っており、
縄文の弓は時期や地域毎に異なった姿があったらしい。

243 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:41:26.22 .net
>東南アジア周辺にすむ海の遊牧民で水深20mの海中を歩きながら漁をする。
それに脾臓が肥大化し10分近く潜水できると言うから驚く、一般人は2分ほど。

ミャンマーのモーケン族、
フィリピン、マレーシア、インドネシアの島々に暮らす先住民「バジャウ(Bajau)族」

そして沖縄の海人(うみんちゅ) 沖縄の方言で、本来はアマと読みます。
海に潜って貝類や海藻を採集したり追い込み漁を職業人という意味です。

244 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:41:51.06 .net
>このサイトの写真に有る弓の握りが倭人伝にある「上長下短の木弓」の位置で、

銅鐸の弓絵と同じ弥生人の握り。 現在も和弓では、この握り位置で射る。
4万年前からの縄文人祖先たちと同じ漁をするため海洋民の文化なんだろう。

ジャラワ人(ジャラワ族)とアンダマン人〜
Y染色体ハプログループD1a2bとオンガン語族〜
https://oreranitsuite.com/2023/09/16/jarawa/

第二次大戦時に英軍を追い出し日本軍に占領されたのも、何かの因縁だろな。

245 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:43:31.26 .net
>これらは東南アジア・スンダランドから主食の魚貝類が取れる波打ち際を北上し
東シナ海平原から九州島に上陸した。波打ち際は今では海中で遺跡が残らないので残念。

途中途中に丸木舟の刳り抜きよう丸ノミ形石斧の、原形を工夫し完成形へと磨かれた。
東南アジア諸島には丸木舟を作る丸ノミ形に似た円筒型石斧が使われてる。

そして沖縄方面に丸ノミ形石斧を持参し鹿児島から逆南下して行き、
台湾周辺からの北上グループと合流したんだろう3万年前ころに、
縄文人の航海能力には驚かされる。

246 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:43:54.47 .net
刃部磨製石斧・局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)とは、

石器全面ではなく刃部(刃先部分)のみに磨き(研磨)をかけた磨製石斧の1種である。
日本列島では約4〜3万年前の後期旧石器時代初頭に登場した。

>この石斧が日本全国から出土して世界最古と云われてる物がオーストラリアからも、
 ベトナムハノイ周辺では1.2万年前ころから出現するが全体的に新しく不思議。

中国、朝鮮では新石器時代(1万年前)からしか全面磨製石器が出て来ない。

247 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:45:42.88 .net
旧石器時代から局部磨製石斧とか
東アジアでは日本と時代は少し下るがベトナム周辺から発見さるから

ベトナムから香港がある珠江の上流、柳江がベトナム国境付近で
この一帯は百越人の活動範囲で縄文土器に似た紋様の土器などがある
前々からこの地域と縄文人、倭人たちと関係があるんではと思ってた地域で納得。

地元にある柳江人や越人像が今の日本人そっくりでビックリする
越人像
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
柳江人
https://k.sina.cn/article_6419461847_17ea136d70010020ys.html


それに比べて日本の教科書にある弥生人モデルの朝鮮顔なのにはガッカリするけどな。

248 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:46:07.52 .net
越人ってこう言う風貌してたんだろな。まんま正座した日本人だけど。

越人像
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A

柳江人
https://k.sina.cn/article_6419461847_17ea136d70010020ys.html

249 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:47:02.79 .net
>>238-244
16000年前の鏃が青森から出土しているから日本の弓は16000年前に
土器技術とともに樺太経由で入ってるので支那朝鮮なんか全然関係ないの

残念!中共国策工作員(嘲笑









旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡とみられる日本の大平山元遺跡から、
15,500-16,500年前のものとみられる旧石器時代の特徴を示す石鏃が出ているが、
これは今のところ世界で最も古い石鏃とみられている[2]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%8F%83








.

250 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:47:46.51 .net
>この母系 ハプログループM7a (mtDNA) は

(約2万-1万年前)には沖縄(23%)で発見されており北海道アイヌ(16%)の
主体であるD系縄文人祖先と共に移動した家族と思われ、日本固有のDNAと云われてる。

起源
約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループである「インドM」型から
分岐したM7よりのグループで、約2万5000年前に「スンダランド」で誕生し沿岸部を、
北上して東シナ海平原より日本列島(九州・沖縄2方面)に到達した系統にあたるとする。

なお母系 M7aの姉妹グループは何れも東南アジア方面で
「M7b」は中国南部内陸へ移動し分布を広げ、
「M7c」はフィリピン、インドネシアなど島嶼部に分布を広げた。

251 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:48:16.09 .net
「ホアビン文化」
東南アジアの中石器または新石器時代初期の文化。
1920年代にフランスの考古学者 M.コラニが
ベトナム北部のホアビン地方の洞窟遺跡で発見した石器類によって命名。
インドシナ,タイ,マレー,スマトラなどに分布する。礫器,握斧,スクレーパー,
短石斧などがあり,片面加工のものが多い。のちになると(局部磨製)の石斧が増し,
バクソンとの関係が考えられる土器はない。

「バクソン文化」
ベトナム北部,ハノイ北東約100kmに位置するバクソンBac Son山地の,
多数の石灰岩洞窟遺跡から発見された遺物を指標とする文化。
1920年代にH.マンシュイやM.コラニらによって調査され,中石器時代または
新石器時代初期の文化とされる。打製の礫器などはホアビン文化と類似するが,
(局部磨製石斧)や両面加工のものが,ホアビンに比して多いのが特徴である。
ほかに骨角器や,それを砥いだと思われる溝石などがある。

252 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:50:46.93 .net
>どうも東南アジアの中石器時代遺跡には、
局部磨製石斧・刃部磨製石器石器の刃部を研ぐ溝石、不定形の剥片石器など、

日本と共通する丸ノミ形石斧と類似の円筒石斧が特に海岸沿いの遺跡から発見される。
恐らく丸木舟つくりの刳り抜き道具なんだろう。 丸木舟は波打ち際でしか作れない。


栫ノ原型丸ノミ形石斧は、
後の時代のものではあるが、フィリピンやグアムなど東南アジアから、
太平洋の島々に分布する円筒石斧と呼ばれる丸木舟製作の石製工具にも酷似する。

253 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:51:14.47 .net
 東南アジアから太平洋の島々に分布する島嶼には円筒石斧というのが見つかる。
「ボルネオ島の磨製石斧−円筒石斧から方角石斧への一考察−」

ブルネイの周辺、ニア洞窟同6000年から4000年円筒形石斧が見つかった
そしてパプア系は円筒石斧、後来のオーストロネシア系は方角石斧や

つまり、円筒石斧とパプア諸語、有肩石斧とオーストロアジア語族、
方角石斧とオーストロネシア語族という具合である。

254 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:52:41.84 .net
>倭人伝に魏の使節が見た!!

倭人の風貌は直感的に海南島に住む民族と似てると感じた。

兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
「兵は、矛、盾、木弓を用ひる。木弓は下を短かく、上を長くす。

竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳珠崖と同じくす。」

「儋耳珠崖」とは黎族・リー族が住む海南島、チベット語系、チワン・トン語派
前漢が南越国を滅ぼし紀元前110年(元封元年)、海南島に珠?轟Sと儋耳郡が置かれた。


>中国漢代の史書論衡にあり、周の成王の時代(紀元前1000年頃)に
「越裳(ベトナムあたり)からは白いキジを献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を献じた」
 と記されています。鬯草とは神事に使う香草です。

255 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:53:01.80 .net
毎度毎度一言で打ち返されるのは高度なコントだな

256 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:53:07.60 .net
「 彼らはラピタ土器文化を持っていたから入植があれば日本にもラピタ土器が伝わってる
 ラピタ土器は台湾あたりの南支那の印文陶と酷似し、彼らのルーツを物語る 」


>ラピタ土器ではないが、中国南部、百越の土器や縄文土器、押形文土器に似た、
>エクアドルのバルディビア土器そっくりな、土器が宮崎県から発見されてる。

太平洋岸に面した宮崎市で、南米エクアドルのバルディビア土器とそっくりの
文様を持つ縄文土器群が発見されていた。
http://www.gondo.com/cnn/news/031005-1.htm

宮崎市跡江貝塚遺跡は、公式には1万2000年前から7000年前の物とされているが、
発見者の日高氏によるとアカホヤ層(喜界島噴火による火山灰層)の直下まで、
土器が埋まっている事から、約6300年前の喜界島大噴火まで続いた土器文明であると言う。
この遺跡からは、なんと24種類もの文様の土器が発見されており、
文様の豊富さでは、九州随一だと言う。

257 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:54:28.74 .net
>>249
イエス・キリストの墓も実は東北の青森県にあるんだもんね!

全然驚かないし、日本を創り出した北上青森県バンザーイ!

●イエスは日本で106歳まで生きた?青森に残る「キリストの墓」●
https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/48641/

258 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 22:58:07.69 .net
そりゃ鏃ヤジリくらいシベリアから来たかも知れんが
漆塗り丸木弓が樺太から出土してたら写真くらい見せてくれ、青森は日本だからな。

259 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:00:49.12 .net
鏃は何のためにあるのかよく考えような中共国策工作員(嘲笑

260 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:15:30.31 .net
弓はマンモスハンターのものが北から南に下りただけだろうから
言うほどアジア各地で個性があるものなのかね
モンゴル弓が短くなったのは馬に乗ってからでしょ
機動力はあるけど威力は下がったんじゃないの

261 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:16:51.81 .net
>坊や、日本にはね旧石器時代から尖頭器て槍にも使える鏃があるの。

日本の石鏃
石鏃と同じような石器に、旧石器時代の尖頭器がある。
木葉形尖頭器が突槍 (lance) で、有舌尖頭器が投げ槍 (dart) である。
前者の方は、長さ・重さの変化の幅が大きい。後者の方はその幅が小さい。

262 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:20:49.68 .net
石鏃.
:小型の尖頭器で、茎部は多様な形態を示す。弓矢の先などの狩猟具として使用する。

263 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:29:32.80 .net
>>261
石鏃と尖頭器の違いも分からん中卒チンク乙(嘲笑

264 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:41:03.25 .net
>>257
なんでキリストの墓なのに墓の前で日本の祝詞をあげて盆踊りを踊るの?

265 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:45:08.82 .net
>>263 坊や、これでも見て勉強しような。

石器の分類
https://www.regasu-shinjuku.or.jp › 2010/02PDF

石鏃. :小型の尖頭器で、茎部は多様な形態. を示す。弓矢の先などの狩猟具として. の ... 両面調整尖頭器:両面に細部調整加工の施された尖. 授器. 彫器. 石斧. 推定されます ...

266 :日本@名無史さん:2024/04/13(土) 23:52:32.84 .net
>はい、坊やにもわかる様に解説されてます。

Q 尖頭器と石鏃の違いはなんでしょうか?旧石器と縄文に分けているだけですか?
 同じもの?それとも材料が違うのですか?

A 尖頭器の小さいものと石鏃の大きいものを厳密に区別するのは実は難しいものもあります。
 それは、石鏃とされるものの中にも大きいものや基部が出っ張っているものがあるからです。

267 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 00:09:09.06 .net
それと坊や、三足土器がなけりゃ移住・移民した証拠にならんのなら

中国内陸では古代数千年の間に、何億人と人集団の移住が有ったはず
なら三足土器も何億個と拡散してるはずだが、そんなに多数あるか?
数百個くらいなら有るかもだが?

268 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 00:35:29.29 .net
 有舌尖頭器は石鏃によく似ている。小形にすれば有茎の石鏃と変らない。
次の新石器時代である繩文時代には石鏃が現われ、弓矢による狩猟が行なわれた。
有舌尖頭器が弓矢発明の引き金となり、有舌尖頭器の消滅は弓矢の普及を意味していよう。

つまり、弓矢の先に使えば矢じりで、
棒の先に付け槍として使えば尖頭器と名付けただけだろ。

269 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 00:47:27.11 .net
オマエの腹(結論)のためだけに作られていく論理だからなのか
言ってることは分かるんだがな笑
読んでて全然興奮しないんよ

270 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 00:47:32.32 .net
アイヌの弓矢文化が、短弓(1mほど)で毒矢をもつのに対し、
倭人の弓矢が、長弓(1.8mほど)で毒矢を用いないことなど、
弓矢、については、文化の系統が異なるようにみえる。

毒矢文化を、アイヌ祖先集団に伝えたのは挹婁(ゆうろう)族であろう。」
(『毒矢の文化』紀伊國屋書店、1962。『毒薬』毎日新聞社、1965年刊)

『後漢書』や『三国志』の挹婁伝(ゆうろうでん)には、つぎのように記されている。
「弓の長さ四尺(約96センチ)。」(『後漢書』『三国志』同文)
「矢には毒をほどこし、人にあたればみな死ぬ。」(この文は、『三国志』による。

『後漢書』は、「鏃(やじり)には、みな毒をほどこし、人にあたれば、即死する。」
挹婁(ゆうろう)は、「いにしえの粛慎(しゅくしん)」とされている民族で、
ツングース族の一種である。中国東北地方(旧満州)東部に住んでいた。

271 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 00:55:45.10 .net
>坊や、くだらん事で怒ってないで、この質問に答えなさい。


>三足土器がなけりゃ移住・移民した証拠にならんのなら

中国内陸では古代数千年の間に、何億人と人集団の移住が有ったはず
なら三足土器も何億個と拡散してるはずだが、そんなに多数あるか?
数百個くらいなら有るかもだが? 

272 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 06:47:17.01 .net
以上を要約すると、
3000年前に、長江流域から浙南石棚墓人がごく少人数漂着渡来して、縄文集落に救助された。

イネb系統
イネ中粒種
水田
ニホンヤモリ
支石墓
甕棺墓
四眠蚕養蚕
などなどをもたらして、

縄文人と結婚して、縄文住居で暮らして、縄文土器で生活して、
養蚕の普及に生涯をかけて尽力して、
最後は生前に準備しておいた支石墓に縄文屈葬で縄文土器と一緒に葬られましたとさ。

273 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 07:20:06.88 .net
そおだよ

中国では前漢書紀の人口が6000万人とか言われてるが三国志の時代には2000万人にまで減ったと言われてるもんよ
唐の時代にまた6000万人にまで増えたってな
元の人口に戻るのに800年かかってるわけよ

一度人口が激減してそこからまた増え出してるんだわ

274 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 08:44:45.49 .net
それで弥生人骨の北方系形質はどう説明するんや

275 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:46:48.43 .net
弥生人じゃないんだろ

276 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 09:51:38.89 .net


277 :日本@名無史さん:2024/04/14(日) 10:33:02.73 .net
>>271
おまえの言う通り、鼎が誕生して使われなくなるまでが何億脚も作られたんだろうな

鼎は8200年くらい前に登場して漢代頃まで6000年以上も使われたんだから

だが、すでに数万脚は出土してるだろ

ただ公開できる美品となると数千脚くらいかもな



>>272
素人のポンコツ渡来人考古考察乙(嘲笑

故郷の衣食住に関する人間生活に必要な炊飯器や衣類などの生活必需品や
生活住居がないものは渡来人の根拠にはならないね

そこにあるのは妄想か願望のいずれかだろう(嘲笑

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