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邪馬台国畿内説 Part1013

1 ::2024/04/15(月) 15:12:30.26 .net
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712914992/l50


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にあり得ない。

2 ::2024/04/15(月) 15:13:30.24 .net
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3 ::2024/04/15(月) 15:14:00.55 .net
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4 ::2024/04/15(月) 15:14:30.42 .net
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5 ::2024/04/15(月) 15:15:00.71 .net
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6 ::2024/04/15(月) 15:15:31.01 .net
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7 ::2024/04/15(月) 15:16:00.61 .net
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8 ::2024/04/15(月) 15:16:30.21 .net
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9 ::2024/04/15(月) 15:17:11.95 .net
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相~布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240~248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10 ::2024/04/15(月) 15:17:46.57 .net
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末~3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11 ::2024/04/15(月) 15:18:18.23 .net
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
 1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
 2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
 3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
 4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
 4世紀第4四半期〜5世紀中頃
 (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山

12 ::2024/04/15(月) 15:18:51.95 .net
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13 ::2024/04/15(月) 15:19:25.16 .net
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14 ::2024/04/15(月) 15:19:57.93 .net
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15 ::2024/04/15(月) 15:20:30.02 .net
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16 ::2024/04/15(月) 15:21:00.50 .net
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17 ::2024/04/15(月) 15:21:31.27 .net
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18 ::2024/04/15(月) 15:22:01.35 .net
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19 ::2024/04/15(月) 15:22:31.00 .net
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20 ::2024/04/15(月) 15:23:31.91 .net
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後~古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後~古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後~古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半~中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。

21 ::2024/04/15(月) 15:24:00.81 .net
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22 ::2024/04/15(月) 15:24:31.36 .net
◆FAQ 19
Q:釜山~対馬あるいは対馬~壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1~2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山~佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5~1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23 ::2024/04/15(月) 15:26:01.47 .net
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24 ::2024/04/15(月) 15:26:30.77 .net
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240~260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380~550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110~245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
https://i.imgur.com/VKIld2Q.png
 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。

25 ::2024/04/15(月) 15:27:01.19 .net
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26 ::2024/04/15(月) 15:27:31.00 .net
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27 ::2024/04/15(月) 15:28:00.31 .net
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。

28 ::2024/04/15(月) 15:28:31.27 .net
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29 ::2024/04/15(月) 15:29:00.96 .net
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30 ::2024/04/15(月) 15:29:31.16 .net
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31 ::2024/04/15(月) 15:30:00.94 .net
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

32 ::2024/04/15(月) 15:30:31.47 .net
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半~弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

33 ::2024/04/15(月) 15:31:01.08 .net
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

34 ::2024/04/15(月) 15:31:33.79 .net
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

35 ::2024/04/15(月) 15:32:06.79 .net
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

36 ::2024/04/15(月) 15:32:39.69 .net
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。https://i.imgur.com/nBgE648.png
 現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png

37 ::2024/04/15(月) 15:33:13.39 .net
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

38 ::2024/04/15(月) 15:33:42.33 .net
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬澈は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

39 ::2024/04/15(月) 15:34:16.89 .net
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末~3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
 加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末~239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

40 ::2024/04/15(月) 15:34:50.68 .net
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

41 ::2024/04/15(月) 15:35:24.89 .net
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

42 ::2024/04/15(月) 15:36:00.58 .net
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

43 ::2024/04/15(月) 15:36:31.47 .net
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

44 ::2024/04/15(月) 15:37:01.46 .net
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

45 ::2024/04/15(月) 15:37:30.99 .net
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

46 ::2024/04/15(月) 15:38:01.59 .net
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
 (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
 (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
 (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
 狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
 海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

47 ::2024/04/15(月) 15:38:31.30 .net
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有增損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

48 ::2024/04/15(月) 15:39:00.86 .net
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

49 ::2024/04/15(月) 15:39:30.81 .net
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

50 ::2024/04/15(月) 15:40:01.04 .net
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
 「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
 所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
 北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
 南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
 東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
 …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
 西與犂「革偏に于」・條支接。
 行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
 …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
 …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
 (漢書西域)

51 ::2024/04/15(月) 15:40:31.35 .net
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
 これは実測したとしか考えられない!
 誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52 ::2024/04/15(月) 15:41:01.39 .net
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53 ::2024/04/15(月) 15:41:31.22 .net
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54 ::2024/04/15(月) 15:42:02.10 .net
(承前)
◆FAQ 65-2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55 ::2024/04/15(月) 15:42:30.99 .net
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56 ::2024/04/15(月) 15:43:00.86 .net
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

57 ::2024/04/15(月) 15:44:00.80 .net
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大昕・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58 ::2024/04/15(月) 15:44:31.74 .net
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59 ::2024/04/15(月) 15:45:12.02 .net
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60 ::2024/04/15(月) 15:45:45.08 .net
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。

61 ::2024/04/15(月) 15:46:21.94 .net
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62 ::2024/04/15(月) 15:46:51.85 .net
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63 ::2024/04/15(月) 15:47:28.50 .net
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64 ::2024/04/15(月) 15:48:00.41 .net
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
https://i.imgur.com/XIb0RqF.png

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65 ::2024/04/15(月) 15:48:31.13 .net
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君冝高官」「保子冝孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君冝高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

66 ::2024/04/15(月) 15:49:02.44 .net
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67 ::2024/04/15(月) 15:49:32.11 .net
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
https://i.imgur.com/EyIx7C7.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68 ::2024/04/15(月) 15:50:00.95 .net
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png

69 ::2024/04/15(月) 15:50:30.91 .net
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70 ::2024/04/15(月) 15:51:01.49 .net
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71 ::2024/04/15(月) 15:51:31.36 .net
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
https://i.imgur.com/KTMQyfU.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72 ::2024/04/15(月) 15:52:01.97 .net
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73 ::2024/04/15(月) 15:52:32.72 .net
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
https://i.imgur.com/nHtnTXO.png


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有德。崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74 ::2024/04/15(月) 15:53:00.89 .net
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

 下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。

大型建物群配置図 https://i.imgur.com/4W4mle2.png
同空撮 https://i.imgur.com/A1eBwbR.png
建物B空撮 https://i.imgur.com/HytoKvD.png
Dより西を望む https://i.imgur.com/LB1oG3k.png

◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!

A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。

 正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(橫重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
 また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
 註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

75 ::2024/04/15(月) 15:53:32.52 .net
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 16:00:47.40 .net
>>1
お前の人生こんなんでええのんか?

77 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/15(月) 16:07:50.74 .net
淡路島に五斗長垣内という難読地名の遺跡がある
この遺跡は弥生後期の鍛冶の村で職人たちが大量の鉄器の生産を行っていた

そしてこの五斗長垣内遺跡の製鉄集団は邪馬台国の出現とほぼ同時期に淡路島から姿を消すのである

恐らくヤマト王権(邪馬台国)によって奈良盆地に移住させられたのだろう

ネトウヨは畿内に鉄はなかったというが、実は邪馬台国では鉄器の供給が豊富だったというのが分かるのである

なお淡路島といえば国生み神話が有名だ
定説では八世紀に淡路島の神話がヤマト王権に取り入れられたというのだが、オレは淡路島集団が奈良盆地に移住した古い時代に伝わったものだと思っている

何故ならば淡路島には前方後円墳が一つも存在しないという謎がある

これは箸墓以前には国生み神話がヤマト王権に伝わっていて、古墳時代の早い時期から国産みの島として神聖視されていたと考えれば説明できる

伊弉諾伊奘冉の話は邪馬台国による製鉄集団の確保によってもたらされたと考えたい

78 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 16:16:04.89 .net
@まず「女王国(九州)東渡海千里、複有国皆倭種(本州)、又有侏儒国(四国)在其南、去女王四千里」から九州が確定。
A次に「其南有狗奴国、不属女王。官 狗古智卑狗、男王 卑弥弓呼(熊本県・菊地平野)」から、【女王国=筑紫平野】であることは確実に読み取れます。
Bさらに「卑弥呼、事【鬼道】能惑衆、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食伝辞出入。居處宮室、樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞」は吉野ヶ里そのもので、【鬼道】を(鬼籍に入った)歴代倭王(死者)の霊を呼び出すイタコと解釈すれば、主祭殿3階(屋根裏部屋)の祖霊を祀る祈祷室(最高所)はまさに天(太陽)と鬼(死者=歴代倭王)のお告げの声を聴く卑弥呼(日見子=日巫女)にピッタリです!
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg&name=4096x4096

79 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 16:17:20.30 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。

残り700里(50q)となり、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!

ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png&name=900x900

80 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 16:47:31.80 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

81 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 17:48:15.95 .net
>>76-80は荒らし

82 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 17:49:06.83 .net
方位がズレた江戸時代の九州地図
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
九州の地名もこのズレた方位と一致
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

魏志倭人伝の方位、対馬↓壱岐↓末盧国(松浦郡)↘伊都国(怡土郡)↘奴国(博多)→不弥国(福間)とも一致
投馬国(山陰)邪馬台国(畿内)狗奴国(東海)は南じゃなく東南ぐらいになるが、ほぼ一致

83 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 17:56:43.97 .net
>>80
ホケノ山古墳には槨は無い

84 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 17:57:56.24 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

85 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:03:19.69 .net
ホケノ山=大物主の墓
箸墓=ニギハヤヒの墓
西殿塚=神武の墓

これでどうだ!w

86 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:10:06.54 .net
箸墓は大物主のモニュメント

87 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:11:50.95 .net
そういう当てはめゴッコになんの意味があんの?

88 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:15:22.46 .net
卑弥呼の墓なんかじゃ無いから誰のってなるよね

89 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:17:46.68 .net
吉野ケ里一帯のクニの人口・約5400人
九州説によると、卑弥呼の時代までに一気に50倍ぐらいに増えたんだな

90 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:18:23.93 .net
久住猛雄の最新ポスト
公孫氏単里採用説(かつ魏志倭人伝行程記事公孫氏帯方郡使記録説)の私には追い風

「地方短里は可能性としてはある。
しかしながら「1/10」はさすがに無い。
何言ってんだあー?」

91 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:18:40.44 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれんw

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」=崇神)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだw

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流し、壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

92 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:19:47.36 .net
>>90
✕公孫氏単里採用説
◯公孫氏短里採用説

93 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:22:44.43 .net
クズの方が何言ってだって話だよw

94 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:27:24.27 .net
>魏志倭人伝のどこに邪馬台国は倭人の国々で最も大きな国だと書かれてる?

可七万余戸

それに日本国最大だなんて意味はないな

95 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:28:17.47 .net
魏志韓伝と倭人伝の一里が100m未満の短里であることは誰でも自分で確認できる客観的事実

その短里が公孫氏政権の採用した度量衡であるというのが私の説

久住も短里が(公孫氏とは言ってないが)地方の度量衡である可能性は認める

96 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:29:10.87 .net
魏使が畿内に行ったとする証拠は何?

97 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:30:29.37 .net
>>90
珍しい
短里を認める研究者ってのもいるもんだね

98 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:30:57.34 .net
>>97
客観的事実は認めないとね

99 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:36:09.71 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。

残り700里(50q)となり、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!

100 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:39:33.93 .net
1里432メートルでは倭人伝と整合しない

101 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:40:46.24 .net
>>99
方位も水陸も日数も戸数も滅茶苦茶です

102 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:41:35.30 .net
>>96
拝暇倭王

103 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:45:48.54 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭国(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

104 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:47:40.90 .net
>>103
Bが正解なら、不弥国と投馬国は何処か答えなさい。

105 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:48:45.47 .net
>>104
Aが正解なら狗奴国はどこか答えなさいw

箸墓の築造を手伝っていた東海地方か?w

106 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:52:40.60 .net
>>105
九州にはクナ・クヌ系の地名は無いの?東海にはいっぱいあるけど

久野村 (栃木県) - 栃木県足利郡久野村(現:足利市)。
久野村 (神奈川県) - 神奈川県足柄下郡久野村(現:小田原市)。
久野町(愛知県) - 愛知県江南市村久野町。
久野町(茨城県) - 茨城県牛久市久野町。
久野郷 - 遠江国周智郡久野郷。
上夜久野村 - 京都府天田郡上夜久野村
久能村 - かつて静岡県有渡郡(後に安久能 (古河市) - 茨城県古河市の地名(くのう)。
久能 (富里市) - 千葉県富里市の地名(くのう)。
久能 (袋井市) - 静岡県袋井市の地名(くの)。倍郡)にあった村。現在は静岡市駿河区の一部。

107 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:53:00.48 .net
>>105
東海地方が箸墓の築造を手伝っていたという根拠なし

108 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:53:12.09 .net
途中で単位変わるのはおかしいわな
ずっと何里何里で記述して
最後だけ水行何日陸行何日
これ、写本作る時に書き換えたんじゃないか?

109 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:54:19.16 .net
⇩里数表記+日数表記の真相
>>79

110 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:54:24.55 .net
>>105
九州にはミミ系の人物は居ないの?

地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。

111 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:57:43.63 .net
>>110
英彦山

112 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 18:59:15.25 .net
日向投馬(都萬)国には耳川が流れている

113 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:01:22.87 .net
今日の久住Xのバトル見たけど、

考古学で倭国王の所在が判明する、って言ってるのがイタイ
しょせん、考古学では当時の列島内で大規模の都風の場所がある、としか言えないのに

邪馬台国は九州の女酋レベルで問題なく存在し得る

114 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:04:18.78 .net
>>113
あなたABO FANですよね?

115 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:07:52.41 .net
短里がどうこうとかについては久住は専門外だから参考程度に読むべきだろうな

116 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:10:14.66 .net
耳垂

117 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:13:01.59 .net
>>108
陳寿が資料をかき集めてきて繋ぎ合わせたんだと思う

後漢書には大倭王は邪馬臺国にいると書いてあるのに
梯儁も張政も伊都国まで(+奴国、不弥国)しか報告書出してないとなると
邪馬臺国までの道程が不明で魏志倭人伝が中途半端になってしまう

東夷伝序文には(暗に司馬懿のお陰と仄めかしつつ)詳細がわかったと書いてあるのに、大倭王の都(邪馬臺国)までのルートすらわからないとか納得行かなかったのかもしれん

118 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:17:57.68 .net
※范嘩後漢書ではなくその元ネタになった方の後漢書

119 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:19:13.90 .net
翰苑の作者(注釈者)は、女王国までの行程を示すのに、なぜ魏志を参照しないで
後漢書+魏略+廣志みたいな書きぶりになったんでしょうね

120 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:21:11.41 .net
>>119
隋使の訪日で、魏志の日程行程がおかしいと分かったから

121 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:33:35.67 .net
九州説を崩す証拠が出せない畿内説

122 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:35:38.77 .net
里数行程で邪馬台国まであればそれを書いてるはずで無いから
邪馬台国まで書いてある資料を付け足したんだよ

123 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:36:54.79 .net
九州説はすでに相手にされてない

124 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:37:02.79 .net
>>121
桃の種だからなw

125 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:37:18.40 .net
>>122
邪馬台国まで里数が書いてある資料なんてないでしょ

126 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:39:09.41 .net
>>110
なまってるだろうが、ミミは役職名のようなものでは?

127 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:39:40.06 .net
>>125
後漢書以降ほぼ全ての中国史書にて、女王国まで万二千里で統一されてる。

128 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:40:32.61 .net
>>125
無いから邪馬台国まで行程が書いてある資料を付け足したんだよ

129 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:44:43.43 .net
景行天皇の九州巡幸で田川のあたりに耳垂彦、中津のあたりに耳垂がいる
肥前風土記には大耳や垂耳が出てくる

130 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:48:42.53 .net
>>127
それ有り得ないよね?
知らないわけねえじゃん

131 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 19:53:58.98 .net
>>117
それだと帯方郡から邪馬台国まで1万2千里とは書けない

132 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:01:10.00 .net
>>128
それなら魏志でいいでしょ

133 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:02:21.44 .net
>>131
万二千里は女王国までですけど

134 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:05:10.51 .net
>>131
その距離はかき集めて来たどっかの資料にあったんじゃない?
邪馬臺国まで万二千里(概念的な距離)って

ていうか里数、戸数、日数は大月氏に比肩しうるように
大幅に盛られて報告書が上がってたかもね

135 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:06:38.76 .net
>>133
ああほんとだ
自郡至女王國 萬二千餘里
これはどこか別の資料からコピペしてきた可能性あるな

136 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:09:27.61 .net
九州説って毎日同じことを書いて、全く考古学を学ばずに何年も何十年も進歩しなくて、それでも楽しいんですか?
九州説のハルキーさんも言ってるでしょ
「考古学を勉強したらもっと邪馬台国論争は楽しくなる。考古学を勉強しないのはもったいない」と

137 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:15:43.33 .net
>>133
女王が都する場所が邪馬台国だよ

138 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:21:12.95 .net
隋志では、

「倭國,在百濟、新羅東南,水陸三千里。・・・古云 去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」

と訂正してるわけで

139 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:21:45.84 .net
隋書だった

140 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:23:30.84 .net
>>137
女王国=倭国でしょ

141 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:25:20.95 .net
「都」の意味に、多くのものを一つに集めて統率する、があります。
「邪馬台国」は連合国のことではないですか?

142 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:26:48.50 .net
とはいえ、ハルキー氏は「九州説の可能性も排除できない」とか「九州説もワンチャンある」という感じで、動画見ると畿内説の方が圧倒的に可能性が高いということを理解しているはず

143 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:27:34.55 .net
>>137
つまり邪馬台国は一万二千里で着いている。

144 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:29:31.79 .net
>>136
考古学の知識で九州説を否定してみなさいよ
やれるものなら

145 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:31:26.81 .net
>>142
全然理解してないじゃん
彼は邪馬台国の位置論より年代論の方を重視しており、年代論の結果畿内説ではなく九州説を採っている

146 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:31:53.52 .net
>>82
これが答えだな

147 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:50:05.94 .net
>>140
つまり九州一択
本州は東渡海千里複有国皆倭種

148 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:53:52.35 .net
>>138

隋書 倭国まで三千里、百済は東西四百五十里

魏志 女王国まで萬二千里、韓は方四千里可

大体、魏志距離は隋書距離の4倍になってると

149 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:57:38.77 .net
秦氏(ハプロO2)の方が実際には始皇帝の子孫臭くてその後、日本で辿った足跡は日本史に描かれておる通りですよ😳

150 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:58:14.37 .net
>>144
九州説は完全に否定されてるよ
素人は理解できないだけで

151 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 20:59:59.22 .net
東漢氏の方はハプロO1bだからな

東夷、准夷と呼ばれた地域から日本にやって来たってことなら日本から出土する遺物とも合うわ

152 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:01:29.86 .net
>>145
畿内説の年代が合ってるなら「畿内説で決着」と言ってる
しかも、纒向の桃核12個を示し、「纒向は4世紀の可能性もある」=「纒向は4世紀の可能性も排除できないのでは?」と言っている
あれは完全に畿内説の蓋然性が高いことを理解している動画

153 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:02:09.67 .net
台湾の方でも自立戦争🪖みたいのやろうとして漢の討伐軍が出とるがそちらの名称が

閔越?とかってんだよ

ベトナムだのそっちの方に繋がる名称、越

154 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:03:10.58 .net
北部の方が夷と呼ばれ南部の方が越と呼ばれたのかもな

155 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:04:07.25 .net
台湾にもともといた先住民はほとんどO1aだからな

156 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:04:48.68 .net
>>152
> 畿内説の年代が合ってるなら「畿内説で決着」と言ってる
畿内の年代が合ってるなら完全に東の倭種と一致する

157 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:07:06.73 .net
そおなってくると秦氏の方の集団に異民族なんかも混ざっておったってことになるのよな

158 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:07:29.06 .net
結局、久住は考古学の人、倭人伝はほぼ無視、

つじつま合わせの伊都国東遷説というだけか

159 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:13:12.99 .net
>>158
久住は伊都国東遷説じゃない
単に、アンチ畿内自生説なだけ

160 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:20:20.81 .net
>>159

ん、3世紀のチクシと三韓と倭国(2017)で書いてるけど

「伊都国ではTA期に平原があるが、その後卓越した首長墓が一時断絶する。ここで伊都国出身 の卑弥呼の王家一族が「東遷」したのではないか?」

161 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:24:47.89 .net
漢化が全て。邪馬台国は大和。
日中韓の歴史が始まったのは漢が消滅した3世紀。

162 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:30:43.90 .net
>>160
伊都国含む他の国が東遷して作ったのが纒向というのが久住

163 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:36:23.84 .net
>>145
>彼は邪馬台国の位置論より年代論の方を重視しており、年代論の結果畿内説ではなく九州説を採っている

年代論で九州説って、あり得なくね?

164 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:37:29.70 .net
>>150
その根拠とロジックを言ってごらん

165 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:38:57.73 .net
>>160
>「伊都国ではTA期に平原があるが、その後卓越した首長墓が一時断絶する。

平原は1号のあと2号、3,4号と続いてるんだから、それっておかしいだろ

166 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:40:32.97 .net
>>164
>その根拠とロジックを言ってごらん

古墳時代が始まっちゃってるので九州説ムリ

167 ::2024/04/15(月) 21:41:16.15 .net
おげんきさまです

↓秦氏、独自考察

969 日本@名無史さん sage 2023/11/06(月) 18:28:02.46
海→わた→彌(わた)る

不彌国→彌(わた(ら))ず国→ワタツミの国

音義 海→わた→ぱた→秦

簡単な答えですw

>参考
不合→あえず→ウガヤフキアエズ
不彌→わたず
不呼→よべず→ようべ(ゆうべ・夕べ)ず→昨夜ず→コノハナの子じゃない
呼邑→景行天皇九州巡行時の子湯→現・宮崎県の児湯

168 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:45:08.52 .net
あほ?

169 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:46:35.68 .net
>>160
つまり倭国大乱暦年無主の前(70-80年男王の時代)までは伊都国が王都だったのに
倭国大乱後は王都が南の端にある邪馬臺国に移ってしまったのかも知らんな

170 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:49:55.21 .net
>>152
その一つの動画で判断してるのか

彼は箸墓の築造年代をどう考えているのか
その根拠として、日本の布留0土器と朝鮮半島土器の相対的な年代をどう捉えているか、C14年代法をどう考えているか、三角縁神獣鏡を他の銅鏡との比較を含めてどう考えているか

君の薄っぺらい投稿を見ると何も理解してないだろう

171 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:53:44.06 .net
>>166
何その薄っぺらすぎる意見は

古墳時代がどのような理由でいつ始まったか
その時期の北部九州と畿内の古墳や土器や鉄器の状況や相互の交易関係はどうなっているか

それらを考古学と文献をクロスオーバーして整理した上で、なぜ九州説が成り立たず畿内説が成り立つのか君の意見を述べよ

172 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:57:07.13 .net
崇神崩御は350年以降

魏志倭人伝によれば邪馬台国に馬が居なかったが、箸墓からは馬具が発見されているのも年代が異なっている

一部の出土品の年代測定では西暦250年前後だが、その他の物証では350年以降でないと存在しない物が出土している

173 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 21:57:45.79 .net
>>163
彼はそういう意見だ

私は九州説だが彼より箸墓築造年代は少し前に考えている

174 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:00:02.82 .net
>>171
悪口しか言えないの?

175 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:00:50.87 .net
>>174
はあ?君に質問しているだが

176 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:03:07.40 .net
邪馬台国は大和国以外ないw永嘉の乱で漢人系が東夷に。東夷は徐々に漢化し高句麗や大和は部族制から集権王朝化。
九州は部族制のまま。

177 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:04:01.62 .net
「考古学を知ると畿内説になる」という空虚なお題目だけを盲信しているド素人が散見される
そういう奴に限ってろくに論文も読んでない

178 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:05:28.85 .net
邪馬台国は魏略にも出てこない
魏志にも1回出てきただけ
何度も出てくる「女王国」は九州だけの事を言っている
九州しか行っていない
邪馬台国(大和国)は一月かかる所と聞いたので行っていない

179 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:05:49.85 .net
ボンクラ盆地奈良県が邪馬台国?w
笑わせてくれる

180 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:08:10.49 .net
ヤマトとはヘブライ語で神の民を意味する

九州にある山門の意味でのヤマトとは違う、神都ヤマト(大和=奈良)である

181 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:11:09.96 .net
ボンクラ邪馬台国が最強ヤマトの奈良県?w
纏向は邪馬台国と比較にならんほど圧倒的に強い政権の本拠地だろ
どこぞの土蜘蛛とは違う

182 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:12:10.24 .net
>>175
>はあ?君に質問しているだが

教科書を読めばいいだけでは?

183 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:13:24.25 .net
>>178
仮に瀬戸内海を通って行ったなら、その周辺の国の名前がもっと記載されたはず
伝聞なんだろな

184 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:15:03.49 .net
>>178
なぜいかなかったの?

185 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:16:00.38 .net
そういえば奈良盆地でも南大和に大和の起源があるのも興味深い
南大和から遅れた北へ北へと北の平地を開拓していった日本の歴史もあるし

186 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:18:06.14 .net
>>183
女王国や足摺岬までの里数は表記されたから行っている
投馬とヤマトは日数なので聞いただけ

187 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:18:38.49 .net
>>184
伊都国に各国高官が集結したから

188 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:18:54.98 .net
>>176
集権国家じゃダメだろw

189 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:20:56.48 .net
匈奴の連中らがこのあと漢の後継を名乗り出しその連中らが新漢人と呼ばれるようになる

190 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:21:29.40 .net
もともとの中国にいたのは南人と呼ばれるようになる

191 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:21:51.80 .net
>>182
ああ、自分では何も説明できないんだね
自分の言葉で説明できるようになるまで九州説の批判はしないように
議論すら成立しない

192 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:22:32.53 .net
>>187
つまり伊都国が事実上の首都であり、卑弥呼もそこに滞在し、大和は首都としての機能を果たせてないと、そういうこと?

193 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:23:21.39 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

194 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:25:31.85 .net
>>183
瀬戸内海航路が使われるようになったのは6世紀ごろ

195 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:25:36.99 .net
>>192
伊都国=NY
邪馬台国=ワシントン

196 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:27:50.74 .net
>>192
卑弥呼は高齢なので行っていないだろう
会った者は少ないという記述がある

>>194
半島から大和まで行くなら日本海側からでもおかしくない
しかし、大和から九州に行くのに日本海を使うはずがない

197 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:32:35.35 .net
>>196
神功皇后の三韓征伐も日本海側からだ
瀬戸内海を舐めるな

198 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:37:29.52 .net
神功が掘削開通させるまで、関門海峡は通れなかった

199 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:45:41.49 .net
邪馬台国ってしょぼかったんだな
最近は纏向の強大さよりしょぼさを邪馬台国に結びつける言説も散見するが、しょぼい遺跡なんぞいくらでもあるのだから纏向説は根拠を失いそうだけどね

200 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:48:51.43 .net
橿原の瀬田遺跡は纏向より古いから、初代政権が橿原なのも嘘ではないな

201 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:51:01.91 .net
重要なのは倭国の範囲でしょう

九州島が倭国の一部であったのは確実、
そして倭国が九州島までだったのか、九州から畿内まで統一されていたのか、が問題なところ

202 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:53:09.69 .net
あいかわらず九州説の人は、いっさい理由を言わずに我流の結論を断定してるな

203 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:56:29.10 .net
>>191
>ああ、自分では何も説明できないんだね

説明したけど?
「古墳時代が始まっちゃってるので九州説ムリ」

反論ができないなら、引っ込んでれば?

204 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:58:28.41 .net
所詮島国日本列島は
本当は本州島だが本州と省略してるだけだが
で隔絶された本州島は様々な気候、風土、、気質、食生活に分かれているだけだし

205 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:59:07.53 .net
伊都国から日本海ルートで丹後あたりまで行ったと仮定して
何故に九州を陸行してしまうのか
https://i.imgur.com/pP7T0uO.jpg

206 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:01:32.97 .net
>>202
何の、どんな理由が知りたいのですか?

207 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:09:19.94 .net
邪馬台国も投馬国も日本にはねえよ

208 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:11:43.64 .net
>>205
魏略では対馬、壱岐、松浦、伊都、奴、不彌、狗奴国まで行っている

魏志では伊都に直接行っている(それ以外は行っていない)

209 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:15:15.66 .net
>>201
倭人在帶方東南大海之中

210 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:16:08.43 .net
聖徳太子は豊聡耳
甲斐の足が白い黒馬に乗り富士山から河内の磯長に降臨した
甲斐の地は高句麗の人々が沢山住んでいた地である
伊豆辺りは聖徳太子の領地で山神を祀り古い狩猟の祭祀が残っていたと伊豆国風土記逸文にある

伊予国風土記逸文には聖徳太子と高麗の僧、葛城の臣が道後温泉を訪れたとある
596年の出来事で、この年は孝徳天皇が生まれた年でもある

211 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:19:26.46 .net
>>203
それ君の意見じゃなくて他人の受け売りでしょ
自分の言葉で中身を一言も説明できる
いくら何でもレベルが低過ぎる

212 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:20:10.37 .net
>>211
自分の言葉で中身を一言も説明出来ない、だ

213 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:20:11.47 .net
>>209
それは、倭国+倭種の範囲

214 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:27:40.90 .net
>>210
7世紀ころ下層の高句麗難民たちが
大和政権の温情で静岡山梨辺りに移住させられてるな
で恩知らずなことばかりしでかす下層渡来人に怒りまくってるw

215 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:29:03.50 .net
上層ってどんなやつら?

216 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:33:18.68 .net
『正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物』
魏使の梯儁ら一行は、倭王卑弥呼に面会している。親魏倭王の金印などを下賜している。女王之所都(狭義の女王国=邪馬台国)に自ら赴いている。

217 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:33:33.41 .net
>>215
内乱で母国が滅ぼさられた極少数の百済の王子などで
大部分の渡来人と呼ばれるのは下層な渡来人難民

218 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:35:31.99 .net
>>217
下層民は、船がないので日本列島に渡ってこれない

219 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:35:35.91 .net
>>206
>何の、どんな理由が知りたいのですか?

あなたが理由を書かずに書いた結論の、その理由

220 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:38:43.75 .net
>>211
>それ君の意見じゃなくて他人の受け売りでしょ

誰の意見かなんて関係ある?
事実かどうかが重要でしょ?

221 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:38:50.56 .net
>>218
来てるよ人数まで記録されてる
詳しく忘れたけど計1万人ぐらい
やっぱり管理名簿みたいなものが
7世紀頃には出来上がってたみたい

222 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:40:41.67 .net
>>219
よく分からないが、あんたは、レスにも理由を書いてからすべき

223 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:40:49.74 .net
>>212
>自分の言葉で中身を一言も説明出来ない、だ

誰の言葉かなんて関係ないでしょ?
事実かどうか以外に何か意味でもあるの?

224 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:42:21.52 .net
安本美典との対談の中での石野博信の発言
「纏向を130回ぐらい発掘したが、鉄のかけらもない。石器もない。これだけから考えると、纏向に住んでいた人々が、石も鉄も使ってないということなのか。そうではない思う。なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない。」

纒向からは鉄が出ない、これは重要な事実だ

実際、纏向は農具(少ない)も土木具(古墳を作っていたので多い)も木製だ
北部九州では当たり前に鉄製農具で農業を行なっていた時代に、だ

この文化の差は大きい

225 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:43:11.91 .net
>>222
>よく分からないが、あんたは、レスにも理由を書いてからすべき

分からないのは異常に頭が悪いからかな?
「理由が書いてないから」理由を言えよってレスには理由が書いてあるでしょ

226 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:46:03.05 .net
>>224
>纒向からは鉄が出ない、これは重要な事実だ

石野に「なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない」って教えてもらったのに
絶対考えたくないと
そう言うことですか?

227 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:48:54.12 .net
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
女王国の東端は最大限東に想定しても伊豆半島迄なのがわかる

228 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:50:07.62 .net
>>226
畿内説が考えないといけないんだよ
何か特別な理由を合理的に説明出来ない限り、3世紀の畿内大和は北部九州に文化的には大きく劣後していたことが(畿内説の大好きな)「考古学的に」確定する

229 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:01:10.60 .net
北部九州は倭国で確定しているが

畿内が倭国だったかどうかは未確定。

230 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:05:21.69 .net
>>228
>3世紀の畿内大和は北部九州に文化的には大きく劣後していたことが(畿内説の大好きな)「考古学的に」確定する

どうして?
理由は?

231 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:05:24.73 .net
>>224
> この文化の差は大きい

3世紀の九州倭国(魏志)
食飲用籩豆 手食
食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる

7世紀の東の倭種(隋書)
俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之
その風俗では皿や板台はなく、カシワの葉を敷く。食物は手を使って食べる

232 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:08:09.13 .net
>>230
鉄の普及の雲泥の差

233 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:10:18.95 .net
箸墓伝説がでっち上げのデマだったとはな……

234 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:12:00.47 .net
モモソもまるごと創作なんじゃね

235 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:14:48.59 .net
文化程度が東や北方に行くほど確実に低かった古代日本列島で

邪馬台国発祥の九州倭人たちが大和周辺に初めは移住し

九州より広い平野を利用して生活文化を進化させてあげていったんだろうマジ

中国と海外交流させ自らの力で出来なかったであろう大和盆地の土着民じゃ文化を精錬できない

236 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:40:32.48 .net
>>213
魏略は倭在

237 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:44:14.12 .net
>>224
鉄も石も無いと建物建てられない

238 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:44:31.54 .net
>>234
モモソヒメは崇神が見た夢の話

239 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:45:38.71 .net
>>228
>>237

240 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:46:10.51 .net
箸墓=卑弥呼の墓は、福永伸哉の妄想

241 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:47:53.58 .net
>>235
銅鐸作ってるから

242 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:49:01.12 .net
まあいいや

243 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:49:24.73 .net
>>236
「倭国」じゃない

244 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:50:19.32 .net
>>230
石野にせっかく「なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない」って諭されたのに
絶対考えないままだから
九州説は畿内説に歯が立たないままなんだよ永遠に

245 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:53:11.35 .net
畿内説はじゃこの拠り所だもん
お話にならない

246 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:57:36.98 .net
>>243
宋書   倭国在高驪東南大海中
隋書   俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
旧唐書  倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中

247 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:03:28.40 .net
倭王讃の祖父が東西121国を平らげた後ではな

248 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:03:31.20 .net
>>246
宋書以降は時代が違う(畿内が首都)

>>236
ちなみに、魏略の該当部分は残っていない
それは翰苑所引の後漢書の部分でしょう

249 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:05:35.28 .net
>>248
なんにしても間違いなく東南にあるんだよ
これはずっとぶれない

250 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:09:42.00 .net
畿内説の弱点は、日本書紀に卑弥呼にあたる人物や事績が記載されてないことだなぁ。
中国に冊封されていた事実を隠したいから、あえて載せなかったという人もいるけど、神功皇后に卑弥呼を当ててるから、こうとも言えないだろう。
やはり卑弥呼はヤマト王権とは系統が違う勢力の長だったと思うよ。
福岡の一部と佐賀の一部をまとめたオンナ酋長の物語なのだなぁ。

251 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:11:17.79 .net
>>250
どっちなんだよ?

252 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:11:50.06 .net
漢書 分かれて100余国
後漢書 100余国
魏志 ふるくは100余国
隋書 クニは120人いる。中国でいう牧宰(国司)のようだ

※国造は140人ほど

253 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:19:33.97 .net
>>250
なんで、そんなもんが弱点?

254 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:21:26.20 .net
漢書 樂浪海中有倭人
後漢書 倭在韓東南大海中
魏志 倭人在帶方東南大海之中

倭王讃の祖父が東に55国、西に66国平定する前は
「倭国」じゃなくて「倭人」とか「倭」なんだな

255 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:29:00.80 .net
>>254
一応、倭國王帥升というのもいるけどなぁ。だだ、倭面土國王師升の間違いだろうとする学者も多いがね。
いずれにしても、倭王と倭国王ではゼンゼン意味が違うらしいなぁ。

256 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:30:51.32 .net
>>254
>王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
>其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
>正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
書き込みをする前に原文を検索してみよう

257 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:30:51.37 .net
東に55の集落、西に66の集落か?

258 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:31:41.97 .net
>>254
倭人伝に倭国の記載あり

259 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:32:18.47 .net
秦氏の名は西暦600年ころには現れるがそのあとはまったか名を聞かなくなったぞ

没落したんやろ

260 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:32:50.26 .net
卑弥呼の女王国は30国

261 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:33:59.27 .net
卑弥呼が畿内にいたとしたら、日本書紀にいろいろ載ってるはずと考えてもおかしくないだろう。
冊封されたことはかけなくても、共立されたことや、狗奴国との対立、もとより和せずとする卑彌弓呼についてや、難升米や都市ゴリにあたる人物、そういったエピソードが記紀に全くないのは、不思議だとは思わんかね?

262 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:34:03.41 .net
つまり東南大海の中にあるのは倭とか倭人だったんだな

263 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:36:33.13 .net
>>261
(冊封されたのは)神功天皇かなあ?って書かれてるから隠したかった説はどうだろうか

264 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:40:34.00 .net
記紀は藤原氏のファミリーストーリー
藤原不比等の孫やひ孫が天皇に即位した時と重なる。さて藤原氏と卑弥呼の関係とは?

265 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:44:39.22 .net
>>261
倭の五王も記紀には書いてない

266 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:51:38.70 .net
認識の違いがあるのね
俺は属国の歴史なんかそら書けないだろうと思うけどな

267 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:57:49.06 .net
国体護持・・・言葉通りでこれが無いと国の体を成さない

268 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:03:29.18 .net
https://www.lettuceclub.net/news/article/1138366/i11779611/

269 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:18:01.44 .net
https://www.lettuceclub.net/news/article/1138356/p2/
これだな

270 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:22:23.22 .net
>>261
第一回遣隋使も日本書紀に記録されてないけど

271 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:35:24.57 .net
>>270
書けないような屈辱的な事があったんだろうな
それで2回目が「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」だもんな

272 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 05:52:26.70 .net
>>230
石野にせっかく「なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない」って諭されたのに絶対考えないままだから
畿内説は九州説に歯が立たないままなんだよ永遠にw

273 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:32:59.16 .net
庄内併合期ではまだ九州に劣後すると言う学者はいても、布留ゼロ以降に九州に劣後するという学者はいない
黒塚、桜井茶臼山、椿井大塚山、ホケノ山からも明らか

274 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:43:05.69 .net
>>264
藤原氏の系譜を辿ると先祖の天種子命が枚岡神社に祀った中に比売神があるが、これが卑弥呼かもしれない。

275 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:48:34.61 .net
>>140
倭国は倭人の国くらいの意味だから
邪馬台国の南の狗奴国も東の海を渡った先の倭人の国も倭国だろう

276 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:49:56.89 .net
>>166
全然根拠になってない

277 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:55:00.81 .net
>>270
つまり第一回遣唐使は日本書紀古事記を編纂した天皇家ではなく
大化の改新で滅ぼされた蘇我氏が中心となって行われたんだと思うわ
蘇我入鹿はチョー悪人なんで一族郎党滅ぼしたわ
というストーリーに
偉大なる第一回遣唐使は蘇我入鹿によって行われました
という前振り入れられないからなw

278 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:56:31.16 .net
庄内併合期、北部九州では銅鏡の多量副葬はなくなるが(平原王墓を最後に)、いまだ漢鏡6期までの銅鏡を北部九州は多量に出土するとアンチ畿内自生説の学者は言う
アンチ畿内自生説の学者は、卑弥呼の遣使以降は画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡に一気に変わり、かつ畿内が圧倒し始めると述べる

ここの理解が難しい
桜井茶臼山、黒塚、椿井大塚山の多量の銅鏡が、魏帝と交流を持ち始めた程度でそんなにアホみたいに銅鏡がもらえたり、あるいは日本で作られるようになるのかと

卑弥呼の遣使前に、すでに畿内はある程度多量の銅鏡を保有していたと見るのが自然なように思われる

279 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:01:08.66 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

280 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:03:31.92 .net
畿内説の鏡の編年はデタラメだから信用できない
炭素年代測定もアレだけどなw
土器の内側と外側で50年ズレてるのに何故かピンポイントで卑弥呼の時代の土器だと比定したりするし

281 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:03:59.76 .net
有棺無槨は一般人の墓
魏志倭人伝の記述からも分かる

282 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:04:59.75 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天霹靂の出来事だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのだろう。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流し、672年の壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

283 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:05:36.20 .net
>>282
全部妄想だね

284 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:07:01.45 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

285 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:09:28.69 .net
公孫氏が滅ぼされたタイミングで大勢の楽浪帯方難民が渡来して畿内に逃れたのかもしれん

286 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:13:31.12 .net
>>280
他にどうしろと?

287 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:13:53.29 .net
>>284
投馬国が邪馬台国どころか狗奴国より南になってるやん

288 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:14:01.50 .net
アンチ畿内自生説では、卑弥呼が魏に遣使をはじめてから、銅鏡もいきなり画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡に変わり、
かつ、畿内がいきなり銅鏡の枚数でも北部九州を上回るようになり、墓もいきなり馬鹿デカくなるという

そんなことがあり得るのかと思うが、「魏と交流を持ったから」というだけの理由で説明がついてるようだ

卑弥呼共立前、あるいはその直後から畿内はちゃくちゃくと力を蓄えていたと見る方が自然なように思われるのだが

289 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:14:19.12 .net
>>188
漢化は中国王朝の中央集権が完成なんだな。
日本が律令国家へ進化する歴史は3世紀から始まっていたのだよ。

290 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:15:16.15 .net
>>78
>>79
魏志倭人伝の記述に過不足なく完全に一致している九州説に印象操作は一切必要ないからねw

全く一致してないヤマト(畿内説)の諸君は24時間365日、永遠に年代繰り上げと印象操作(洗脳工作)が欠かせないわけだ(吉備特殊器台の箸墓に殉葬者なし)。

まさに「ヤマトよ永遠に」w

「ヤマト(畿内説)の諸君。まぁせいぜい頑張ってくれたまえ」デスラー総統w

291 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:18:02.94 .net
   ↑
九州説の印象操作


 

292 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:18:30.64 .net
>>288
纏向は倭国大乱前にできたそうだから
卑弥呼とは無縁の集落だったのだろう

293 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:20:28.82 .net
>>287
筑紫邪馬台国と日向投馬国で肥後狗奴国を挟み討とうとしたため、「窮鼠猫を噛む」で卑弥弓呼は乾坤一擲、卑弥呼に襲い掛かったわけ

正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
...................↖投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)

294 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:20:52.73 .net
>>292
何故?

295 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:23:09.19 .net
>>286
分からないことは分からないと言うのが誠実な学者の態度だろう

296 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:24:13.93 .net
>>294
大乱を裏付ける出土品が畿内には無いからではないか?

297 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:24:57.80 .net
247年に卑弥呼と戦争中の東海狗奴国が、箸墓の築造を手伝ってる畿内説の不思議w

298 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:25:26.72 .net
>>295
鏡も土器も科学的な年代測定でも決められないなら全ての遺跡の年代がわからない

299 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:25:58.41 .net
>>296
何処にもそんなのないし

300 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:27:22.42 .net
つまり畿内説は福永伸哉の年代繰り上げゴッドハンド→オレオレ詐欺

301 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:27:39.56 .net
>>297
東海狗奴国が箸墓の築造を手伝ってる
という説の根拠は?

302 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:28:02.16 .net
>>293
投馬国は出雲&山陰ですよ

地域的首長としてのミミおよびミ
『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記している。

『古事記』および『日本書紀』では和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、摂津地方に三嶋溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。 『出雲国風土記』には波多都美命(ハタツミ)や伎自麻都美(キジマツミ)など「ミ」の付く人物が記されており、いずれも地域的首長である[3]。

また『古事記』の出雲神話に出てくる須賀之八耳(スガノヤツミミ)、布帝耳(フテミミ)、鳥耳(トリミミ)、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミ)、天日腹大科度美(アメノヒバラオオシナドミ)も地域的首長と考えられる[4]。

303 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:28:52.42 .net
>>292
>纏向は倭国大乱前にできたそうだから

誰の説?

304 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:29:58.68 .net
>>302
宮崎平野には耳川が流れているyo!
https://i.imgur.com/boCZvL8.png

305 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:31:15.47 .net
>>280
>土器の内側と外側で50年ズレてるのに何故かピンポイントで卑弥呼の時代の土器だと比定したりするし

という証拠は?

306 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:31:38.71 .net
>>301
纏向で出土した外来土器

307 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:33:11.84 .net
痕跡が無いんだから倭国大乱は無かったと考えた方が良い
青谷上寺地遺跡がそうであっても局地的なもの

308 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:34:20.51 .net
>>304
狗古智卑狗=菊地彦のコジツケもそうだが、官職名と地名は関係無いだろ
奴国や伊都国にヒナモリとか地名があるんか?

309 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:34:43.25 .net
畿内説=印象操作+洗脳工作 がなければ成立しえないオレオレ詐欺ということがよく判るスレだw

310 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:36:42.87 .net
>>308
似ても似つかない発音の河内(大阪)彦にコジツケるよりマシだろw
おまえ、本当に日本人か?w

311 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:37:21.95 .net
>>306
>纏向で出土した外来土器

それがなんで
東海狗奴国が箸墓の築造を手伝ってる
という説の根拠は?

312 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:37:23.44 .net
それに熊襲って球磨阿蘇じゃないからね

熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(別称 建日別・熊曾国)に本拠地を構え、大和王権に抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。

313 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:38:35.24 .net
九州説は根拠のないインチキ情報で通説を否定しようとするが
無駄なことだ

314 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:38:50.18 .net
つまり畿内説は韓国起源のウリナラ(私たちの国=奈良)詐欺

315 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:39:55.53 .net
廃人バカウヨ死ねよ

316 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:40:11.80 .net
中1地理歴史の1学期末試験問題:
魏志倭人伝の記述から、倭国(昔の日本)女王「卑弥呼」(西暦170年ごろ?〜西暦247年)が君臨した邪馬台国はどこにあったか、選択肢A〜Cから選んで答えなさい。

伊都国(一大率=女王国以北の国邑を監視)=福岡県糸島市
 ↑
女王国(邪馬台国)→複有国皆倭種(本州)東渡海千里
 ↓.......................又有侏儒国在其南(四国)去女王四千里
狗奴国・官 狗古智卑狗(熊本県菊池市)

A.奈良県(大和盆地) B.福岡県(筑紫平野) C.徳島県(阿波国)

317 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:40:32.32 .net
>>275
倭人伝上では、「倭国」は卑弥呼を共立した諸国のことでしょう

318 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:42:51.01 .net
違うよ
倭人居住地全てを指してる

319 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:43:07.39 .net
>>284
熊襲(球磨阿蘇)って地名だったのか!

320 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:47:49.95 .net
30国を統べる大倭王がいたのが「倭国」
そこから東に海を渡るとまた倭種の国がある

321 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:49:02.03 .net
熊襲は球磨+阿蘇ではなく球磨+曽於(筑前国風土記、豊後国風土記など)だ

322 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:49:05.91 .net
倭国と倭種の国は別物

323 :琪瑛教大祭酒:2024/04/16(火) 07:49:46.00 .net
そのとおり無駄なことだ
卑弥呼以前には銅鐸と甕棺の二種がおり神仙思想第三種が現れているのだよ
やがて八角アサガオ四種が支配し現在に至る流れは覆しようがない現実だ

324 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:51:06.70 .net
>>320
東南大海の中だから
でも実は中国側は半島の倭人も含んでるけど

325 :琪瑛教大祭酒:2024/04/16(火) 07:51:46.73 .net
これは理念の変化の流れでもあるのだ。
無駄だ

326 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:53:10.63 .net
>>321
サンクス!
熊襲(球磨阿蘇)or(球磨曽於)か、いずれにしも地名だったとゎ...
勉強になる

327 : 警備員[Lv.5(前25)][苗]:2024/04/16(火) 07:54:41.43 .net
キクチヒコ? コウチヒコ? 誰ですか、それ?w

槁根津日子 ← コウコンツヒコとも読めるねw

人物比定も明確にまるっと考察済み!

>天津サイド
初代卑弥呼 アマテラス
曹魏    タカミムスビ
・黄憧   オモイカネ
・黄幢   ヨロズハタヒメ
載斯烏越  祭主サイシュフツ(ヌシ)

VS

>国津サイド
卑弥弓呼  ヒミコト(日命。ニギハヤヒ)
狗古智(拘右智)卑狗 ウヅヒコ(槁根津日子。東征中の神武に従属)

完璧でーーーすw

328 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:55:23.30 .net
半島で鉄鉱石掘ってる倭人が日本からの出張なら精製出来ないから

329 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:00:49.22 .net
>>321
曽於(おそ・薩摩)は隼人地域のど真ん中だから、発音から言っても「熊襲=球磨+阿蘇」が自然だろう

330 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:03:16.22 .net
阿毎多利思=アマテラス  

331 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:03:47.71 .net
>>329
曽於は「おそ」ではなく「そお」だ

自然も何も史料に球磨曽於(字体は古いが)と書いてある

332 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:05:13.17 .net
>>331
ソースよろ

333 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:06:10.24 .net
>>332
古代史好きの常識だからググればいくらでも出てくる

334 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:06:42.55 .net
>>331
発音全然違うじゃん

335 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:07:07.68 .net
>>334
君の感想は知らん

336 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:07:34.74 .net
だったらエミシは?

337 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:08:33.11 .net
>>331
薩摩は隼人だな

338 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:12:09.31 .net
アソ  アイヌ語で「火を吐く山」

339 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:20:05.82 .net
>>298
50年の誤差を認めろよ
なんで誤差50年あるのにピンポイントで卑弥呼の時期に比定すんだよ
という話

340 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:21:16.81 .net
>>299
お客さん、邪馬台国論争初めて?

https://pds.exblog.jp/pds/1/201707/23/45/a0237545_12273741.jpg

341 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:22:11.38 .net
>>340
何処の事言ってるの?

342 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:24:07.18 .net
>>339
全ての遺跡を50年くらい幅持たせろって事か?
俺は元々それ程正確だとは思ってないけど

343 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:25:01.03 .net
はい

344 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:29:44.32 .net
丁度倭国大乱の時期にあたるのは青谷上寺地遺跡の人骨くらいじゃないの?

345 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:33:22.33 .net
畿内には皆無

346 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:35:33.34 .net
畿内には農奴がいただけだから九州を巻き込んでの大乱なんかできんわ

347 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:38:58.78 .net
卑弥呼が死んだ後に立った男王に国中が従わず、それが原因で1000人もの死者を出す大乱闘を繰り広げていた筑紫邪馬台国w
そんな血なまぐさい戦乱とは無縁だったからこそ大和では巨大古墳が築けたんだろうね

348 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:39:49.69 .net
>>347
痕跡は?

349 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:40:26.41 .net
畿内には皆無

350 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:41:52.32 .net
集落が焼き払われてもよさそうなもんなのにそんな遺跡ないよね?

351 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:42:47.73 .net
つまり畿内説はオレオレ歴史詐欺

352 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:43:16.44 .net
>>349
畿内にないと九州にあるって事にはならないから

353 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:44:25.01 .net
阿波なわけないから北部九州(筑紫平野)に決定!

354 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:48:30.31 .net
倭国大乱なんて無かったって事でいいと思うけどな

355 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:48:50.65 .net
邪馬台国なんてなかったのさ

356 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:49:03.91 .net
>>353
>阿波なわけないから

でも、超先進文化を謳歌していたのは、「阿波」だから。   @阿波

357 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:49:09.35 .net
卑弥呼なんていなかったのさ

358 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:49:58.13 .net
邪馬台国も卑弥呼もいなかったってことにしよう
纏向に痕跡がないから

359 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:51:38.41 .net
>>355
邪馬台国は何度も歴史書に出て来るからあっただろうが卑弥呼はどうだろうな?
在位期間60年は疑わしい

360 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:51:46.28 .net
>>358
痕跡があるのは、「阿波」だけ。   @阿波

361 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:54:01.50 .net
大和には戦乱とは無縁の立派な古墳文化があるのに、なぜ不安定で血なまぐさい筑紫邪馬台国にすり寄って来るのか不思議w

362 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:56:14.23 .net
>>361
筑紫邪馬台国って、碌に鉄器さえも作れない侘しい寒村のことか?   @阿波

363 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 08:56:26.26 .net
つまり畿内説は「なりすまし」オレオレ歴史詐欺

364 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:02:20.64 .net
安定的な世襲のヤマト王権には戦乱とは全く無縁の立派な古墳文化があるのに、なぜ世襲ではなく共立「女」王という不安定で血なまぐさい筑紫邪馬台国になりすまそうとするのか魔訶不思議w

「正始八(247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀」
「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人」

365 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:06:04.00 .net
NHKが邪馬台国卑弥呼がヤマト政権の始祖と放送したからな
この事実は影響が大きい
真偽を徹底的に調べないと
青は卑弥呼の時代から聖徳太子まであるいはその後も関係してくる
青が何か明らかになれば卑弥呼の時代がより分かってくるはず
兎、竹、葛、青、出ず
黒と白の間が青、先ずはそこからだな

366 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:14:42.96 .net
倭国大乱が無ければ女王を共立する理由が無くなる

367 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:15:55.90 .net
邪馬台国なりすましの歴史詐欺(畿内説)で思い出すのが、古畑任三郎「古畑、風邪をひく」松村達雄の村ぐるみで村長の殺人事件を隠蔽する回。

地酒「雛乃誉(ひなのほまれ)」を日下部薫子(あめくみちこ)という村越デパートの仕入れ責任者(実は使い込みがバレた経理事務員)に騙されたと勘違いして斬殺しちゃうんだけど、村長の腹心(岡八郎)が薫子の偽者を用意する話w
https://tvdrome.com/furuhata30/

368 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:16:04.71 .net
方位がズレた江戸時代の九州地図
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
九州の地名もこのズレた方位と一致
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

魏志倭人伝の方位、対馬↓壱岐↓末盧国(松浦郡)↘伊都国(怡土郡)↘奴国(博多)→不弥国(福間)とも一致
投馬国(山陰)邪馬台国(畿内)狗奴国(東海)は南じゃなく東南ぐらいになるが、ほぼ一致

369 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:18:09.31 .net
吉備特殊器台の箸墓に殉葬なし!
纏向大型建物に楼観なし厳設城柵なし!

370 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:21:21.56 .net
>>369
倭国大乱が無かったことになる世界線なんだから
殉葬とか楼観とか厳設城柵とか無くてもへーきへーき

371 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:24:26.89 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましの歴史詐欺

372 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:27:07.79 .net
>>124
桃の種から邪馬台国を畿内に結びつける橿考の連中の妄想力にびっくりしますわ。

373 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:28:46.43 .net
旧唐書、新唐書に書いてあるとおり、当時の中国側も日本の使者の言ってることがかなり怪しいと感じてたぐらいだから。

374 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:29:49.26 .net
つまり畿内説は(阿波爺と本質的に全く同じ)邪馬台国なりすましのオレオレ歴史詐欺

375 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:36:18.84 .net
>>366
元々共立なんでしょ
王位継承権を持ってる人の中から選ぶ

376 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:40:52.37 .net
痕跡が無いなら無いと判断するしかねえじゃん

377 :ネトウヨ撲滅隊!:2024/04/16(火) 09:41:13.11 .net
所謂欠史八代だが、オレは半実在説を主張したい
時代的には二世紀前期前半から三世紀後期後半とみる
何故ならば崇神の前の王はいたはずであるし、欠史八代の和風諡号の中には実名と思しきワードが入っているからだ

おおよそ古墳時代の王族というのは私的な領地を持っていて、そこに邸宅を作って居住していた
欠史八代の宮は黒田宮だの秋津島宮だのと纏向から見て辺地にあるのだが、これは彼らの私的邸宅の場所を言っているのだと思われる

王族や貴族の居住地というのは、後世に朝廷が成立してからは宮廷のそばに置かれることになるが、それ以前はそれぞれが自分の封地にいてバラバラなのであった

欠史八代は親子ではなく、後世でいう「氏の上」の地位を受け継いだ者たちだろう
つまり大王家の「氏の上」を継いだものたちが欠史八代と考えれば多くの矛盾が解決する

葛城王朝などという説を唱えた者がいて、オレはこれを滑稽な話だと思っているが、一つの問題提起にはなっていると考える
葛城系は恐らく大王家の傍系で玉手山古墳群に葬られた一族では無かろうかと推測する

磯城津彦玉手看などという名が怪しいし、玉手山古墳群を大王家の葛城系の傍系の墓地と考えると時代がピッタリと合うのである

378 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:43:00.58 .net
日巫女(日見子)が帥升の孫娘なのか、怪僧道鏡的な専属の鬼道(占い)師なのか不明

379 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:43:51.89 .net
殉葬なんてみんな無いと思ってるでしょ?
痕跡が無いから
それで良いんだよ

380 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:43:59.75 .net
>>376
なりすましの典型的な手口w

381 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:46:24.58 .net
>>373
倭國者,古倭奴國也
去京師一萬四千里,在新羅東南大海中
依山島而居,東西五月行,南北三月行

日本國者,倭國之別種也
其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉
又云:其國界東西南北各數千里

そりゃ「わてらの国はでっかいんやで〜」とか法螺吹きなことするから……

382 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:46:34.19 .net
>>380
なんのなりすましなんだ?

383 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:47:14.10 .net
富雄丸山古墳(4世紀後半)では、造り出しから蛇行剣(5世紀)が出土した
墳丘築造後の50回忌で製作追葬されたと見られることから、
祇園山の葺石や三角縁神獣鏡も、後世の追加・追葬とすれば、卑弥呼の冢で問題ない

384 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/16(火) 09:48:44.78 .net
>>377
二世期前期前半はタイポである
三世紀前期前半と訂正したい

385 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:48:54.50 .net
>>379
つまり殉葬ではないものを殉葬であると勘違いした可能性があるな

386 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:50:40.42 .net
>>383
祇園山には同時代(甕棺墓)の殉葬者が66体(うち2体は刺し違え)確認されている
卑弥呼の冢かどうかは別にしてw

387 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:51:46.81 .net
>>381
我が国は神武天皇以来紀元前660年から続く独立国家だし辻褄合わせなきゃ

388 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:52:23.50 .net
>>385
それを考えれば良いのよ

389 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:54:02.44 .net
吉備特殊器台(埴輪の先祖)は殉葬の代用品
当初から殉葬があるわけなかろうw

390 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/16(火) 09:54:39.19 .net
卑弥呼は高貴な家系だろう
ジャップランドには部落差別などという不合理な悪習があったし、血筋によって人間の価値が決まるという根強い感覚が抜け切っていない

日本の漫画やアニメなどをみてみると主人公は実は王族だったとかその手のキャラ設定が多い
これは昔から続く日本人の価値観のあらわれとみて間違いなかろう

391 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:55:18.94 .net
>>388
殉葬だと勘違いしそうな遺跡を探そう

392 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:55:40.51 .net
>>390
おまえ、日本人じゃないだろw

393 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:57:18.82 .net
>>386
女王の墓だと説明受けて卑弥呼の墓だと勘違いした可能性

394 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:57:39.94 .net
239年の明帝勅使も、247年の張政も、一月も「陸行」してる時点で里数表記になってるはずw
つまり魏人は纏向まで行ってないってことよw

395 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:59:24.94 .net
>>386
祇園山の甕棺墓は3世紀末から4世紀初頭

396 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 09:59:57.63 .net
というデマを流すなりすましw

397 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:00:50.13 .net
>>395
根拠は「俺がそう決めた」から?

398 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:01:29.42 .net
>>391
俺は使者は葬儀に参列したわけじゃないだろうしどうでも良いと思ってるけど

399 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:02:34.49 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすまし(オレオレ歴史詐欺)

400 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:04:53.66 .net
>>394
里数だと測量しなきゃいけないしめんどくさい

401 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:07:35.27 .net
語るに落ちた邪馬台国なりすましの畿内説

402 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:08:19.16 .net
>>401
何になりすましてるのよ?

403 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:09:13.81 .net
字が読めない畿内説w

404 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:14:40.71 .net
>>374
筑紫邪馬台国って、碌に鉄器さえも作れない侘しい寒村のことか?   @阿波

405 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:30:40.81 .net
阿波の国宝って何?

406 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:43:56.94 .net
>>394
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王

魏使は倭王に直接会っている。邪馬台国に自ら赴いていることがわかる。
魏使は伊都国に留まり、倭王が出向いてきたと解釈するのは無理である。
また、皇帝からあずかった金印をはじめとする下賜品を伊都国あたりの倭国の役人に託したということももちろんあり得ない。

407 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:46:43.95 .net
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表、答謝詔恩。

正始元年、太守弓遵、建中校射梯儁等を遣わし、証書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、並びに詔を齎し、金・帛・錦・罽・刀・鏡・彩物を賜う。倭王は使に因って上表し、詔恩に答謝す。

408 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 10:55:13.67 .net
纏向まで行っていないのに
「名曰卑彌呼 事鬼道能惑衆 年巳長大 無夫婿 有男弟佐治國」「宮室楼観城柵厳設 常有人持兵守衛」「径百歩(短里で25m)」「殉葬百人」とゎこれ如何に?w

409 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:04:45.74 .net
仮に箸墓を見たのだとしたら
全長ではなく短い方の辺が百歩だと記録する意味よ
https://i.imgur.com/ahWxN2v.jpg

410 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:05:10.87 .net
日本人や日本列島は政権が変わろうとも今も昔も存在するからね。
九州の邪馬台国から畿内の大和政権に政権が刷り替わったとしても日本人や日本列島はなくならない。
でもね、政権が変わったことを、なりすましで嘘ついちゃいけないよ。
さすがに当時の中国も怪しむのはあたりまえよ。

411 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:09:25.55 .net
>>409
心理学や人間真理からしたらあの巨大な前方後円墳を目の前にして短辺だけを見て記録するとかありえない。
万里の長城の幅が6.5mだから、6.5mと記録するようなもんだし、そんなことするわけない。

412 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:10:24.44 .net
箸墓を見ていたら全長を記録するだろう

よって畿内説は邪馬台国なりすまし歴史詐欺決定!

413 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:26:51.39 .net
>>411
目の前にしたかどうかも問題だな

414 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:30:45.36 .net
畿内説によるゴッドハンド炭素年代測定

http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/rekihaku.html

415 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:33:29.42 .net
近畿説ではあるけど箸墓にはあまり関心が無いから拘る気にもならない
卑弥呼の墓だともうちょいはっきりすれば違って来るけど

416 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:37:27.03 .net
>>415
そもそも時代が違うから箸墓にこだわるのは畿内説にとってデメリットがでかい

417 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:41:35.66 .net
>>416
それもわかんない
発表されてる物を否定する気も無い
正解が何年とも言えないし他も全部狂って来るから

418 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:43:18.67 .net
>>417
そもそも、倭人(阿波勢力)のお墓をどうのこうの言っている時点で終わっている。   @阿波

419 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 11:56:32.38 .net
つまり纏向まで行ってもいないし見てもいないということだね…あれ?w

420 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:01:50.80 .net
>>225
理由を言ってからにしろ

421 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:05:43.08 .net
>>413
そうだね。倭人からの伝聞の可能性がある。
とすると倭人は短辺でいうわけがない。
腕をめいっぱいひろげてこんなに大きい墓だっていうだろう。

422 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:19:03.40 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

423 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:27:09.81 .net
>>296
青谷上寺地の殺傷人骨があるから、倭国大乱は九州外だな

424 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:27:25.83 .net
>>296
青谷上寺地の殺傷人骨があるから、倭国大乱は九州外だな

425 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:40:08.06 .net
倭国乱る
と言っても、牛馬のない時代のことだ
兵の移動も、兵糧の運搬も全て人力
たかが知れてる
日帰りで帰って来れる敵対する村を襲ってくる、そこ程度だろう

426 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:42:47.30 .net
>>417
畿内に邪馬台国はあってもいいけど
箸墓は卑弥呼じゃないわ
馬具があとから紛れたって不自然だもの

427 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:45:02.53 .net
>>425
そう
整備されてない道なき道を徒歩で移動して、丸木舟で水行していた時代に遠征は無理だろう

428 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:48:18.75 .net
>>421
そう、形状の説明はおそらくしない
そんなんだから記述内容が重要とは思わないけど俺が関心が無いから言えるのかもな

429 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:50:31.78 .net
>>426
コンタミは全て新しい年代にするかと言えばそうではないでしょ?
何故そんなもんが紛れるか俺にはわからん

430 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:55:33.47 .net
何を言われようと科学的な検証を否定する気は無い

431 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 12:59:57.70 .net
コロナワクチンも科学的()だったな

432 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:02:33.74 .net
「科学」で重要なのは「再現性」
つまり、誰が同じ手法で検証しても同一の結果が得られてはじめて、それが正しかったと示される

纏向さんの「科学」には驚かされるわw

433 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:04:34.59 .net
九州説は近畿の遺跡なんて無関係としてどうでも良いんだろうな
でもこっちはバラバラになるのよ
年代が逆転する事例があってもどうでも良いんでしょ?

434 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:07:06.95 .net
犯人逮捕の間違いなんて許されないよ
でも遺跡の年代なんて後から訂正すれば良いだけだと俺は思ってる

435 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:15:40.47 .net
コロナワクチンは科学的だしC14年代測定法も(本来)科学的だが、較正曲線に照らして4世紀にも山が出来る箸墓周濠出土土器付着炭化物・小枝等の測定結果から箸墓を240~260年築造とピンポイントで断定した歴博発表は科学的ではない

436 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:16:35.42 .net
あとから訂正されるような年代測定なのに
「邪馬台国時代の遺跡だから邪馬台国だ」と決めるのか
グダグダだな

437 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:19:11.47 .net
>>433
九州説にとっては
畿内からどんだけすごい遺跡が出てきても「倭種」でしかないし
畿内に圧倒的に強い政権ができたから邪馬台国は「土蜘蛛」として滅んだ
ってことなんだろう

438 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:19:19.13 .net
>>435
較正曲線の山ってのは他の遺跡では一つしかないの?

439 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:20:35.75 .net
>>436
実際訂正してんじゃん

440 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:23:13.47 .net
>>437
九州北部の海岸沿いの国々は土蜘蛛として滅ぼされたんじゃなくて
台与が失脚したから畿内に鞍替えしたような気がする

441 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:23:31.40 .net
藤原のボケは平安時代ですでに没落してんだろがよ

鎌倉北条に土下座🙇‍♂して天皇を抑えるために摂関家ってのが正式に作られた

442 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:25:05.70 .net
基準になる年代があるでしょ?
それはどの遺跡もそれに当てはめるわけで箸墓だけ違うとはならないでしょ?

443 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:28:41.20 .net
測定方法自体が不完全かもしれない
でもそれを否定する気にはならない
完全になるまで出すなと言うより次頑張ってって気持ちかな

444 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:29:37.64 .net
>>438
較正曲線の関係で3世紀半ば~4世紀半ばくらいのあたりは他の遺跡でも絞り込みにくい

445 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:31:10.76 .net
>>444
何故そこだけ?
他は?

446 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:34:53.56 .net
畿内説は箸墓=卑弥呼と言う筋書きありき

447 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:40:38.67 .net
畿内説って時代が違うのに女とみるや、みんな卑弥呼にしたがるよね。
箸墓の被葬者もそうだし、アマテラスもそうだし、神功皇后もそうだし。
ほんと時代を無視しいぇ節操ないなって思う。

448 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:41:32.33 .net
絞りにくい、不確かなものなのに
卑弥呼時代に絞ってここが邪馬台国だと断言してんのがおかしいってことよ
教科書みたいに「可能性のある場所」くらいにボカしとけ

449 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:42:34.37 .net
畿内説は何を欲しがっているのだろうか

450 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:42:47.94 .net
>>440
鞍替えしたのと滅ぼされたのと両方いそう

451 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:45:02.50 .net
>>441
摂関家っつうのはギンギンの藤原氏嫡流ご本尊なわけだが

452 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:45:04.42 .net
>>450
海沿いは大昔から交易やってるから東の倭種とは親しい間柄だが
山の中にいたようなのは立て籠りやすくて反抗するも実力行使されてそう

453 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:45:13.55 .net
北岸の1部は半島から来た人が多かったんでは?

454 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:45:24.41 .net
>>449
最も説得力のない自生説が最も多いというところにヒントがありそうだね

455 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:46:40.35 .net
>>423
んなこといったらば、青谷上寺地でしか大乱は発生しなかったってことになるぞ。
つか、そもそも九州の吉野ヶ里遺跡をはじめ複数の弥生遺跡からは矢じりが刺さったままの人骨や
首から上がない人骨の入った甕棺が発掘されてるのでいい加減なこといわんように。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の「居所は宮室・楼観・城柵厳かに設け、常に人有りて兵を持して守衛す」と記されているとおり、
吉野ヶ里など、九州の遺跡がそれとまったくおなじ様式。
九州はは大乱の激戦区。

456 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:47:57.76 .net
>>448
それだと全部ダメだから

457 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:48:00.61 .net
>>445
intcal20較正曲線を自分で確認しなさい

458 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:50:08.57 .net
>>455
昔からってのはダメなのよ
倭国大乱の時期じゃないと
少数なら近畿にもあるよ

459 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:51:02.24 .net
>>457
そんなの見たって俺に原因がわかる訳ねえじゃん

460 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:51:44.59 .net
>>457
そんなの見たって俺に原因がわかる訳ねえじゃん

461 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:52:46.78 .net
五斗長垣内遺跡が100年以上稼働してたようだから長期間争ってたのだろう

462 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:53:23.42 .net
>>460
議論にならん

463 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:54:25.75 .net
>>462
だから科学的に検証されたものは信用してるんだって

464 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:56:17.71 .net
箸墓古墳の年代は墓荒しするまで不明

465 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:57:49.73 .net
>>456
もしかして纏向が邪馬台国じゃないと困るの?

466 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:59:31.96 .net
箸墓を他と比較して特におかしいってのを出さないとわかんないよ
基準がないし箸墓のグラフだけ見てもそれがおかしいかどうかもわからん

467 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 13:59:56.48 .net
>>463
自分が信じたいものを科学的だと盲信するだけでしょ
そういう態度は科学的ではない

468 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:00:43.35 .net
>>465
おまえがそうすれば良いんじゃないの?
全ての遺跡を特定できない

469 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:02:09.38 .net
>>467
実際しらんし発表されたものを信じるしかない

470 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:07:56.02 .net
検証だって基準と比較してるのに箸墓のグラフだけ見たってわかるわけねえじゃん

471 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:08:21.05 .net
箸墓は江戸時代に修陵されてるだろうから、外側を調べても不正確と思うが

472 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:17:23.43 .net
>>468
できないままのほうがいいよ
纏向が邪馬台国かもって夢を見続けられる

473 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:19:40.69 .net
>>471
俺自身は箸墓に関心が無いのよ
だからそういう事もあるのかも知れんがどうでも良い
間違いなくこれはおかしいってのを出して俺が理解できれば納得はする

474 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:20:32.86 .net
要するに九州説の人は科学が解ってないってこと

475 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:22:50.97 .net
コンタミって珍しくないらしいし何故それを無視できるか俺にはわからん
だから発表を信用するしかないのよ

476 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:23:15.84 .net
コンタミって珍しくないらしいし何故それを無視できるか俺にはわからん
だから発表を信用するしかないのよ

477 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:43:39.79 .net
>>446
いや、邪馬台国=瀬田遺跡

478 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:54:44.28 .net
瀬田遺跡の円形周溝墓は壊されているので大和の敵方ではないのか? 

479 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:54:57.50 .net
>>359
201年、ヒミオ即位
269年、トヨ退位

2人で68年だろ

480 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:57:08.26 .net
>>474
君は科学的だよね。😊
纏向で倭人伝記述と合致する遺物を列記してくださいよ。

481 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 14:59:58.31 .net
>>478
崇神で王朝交代

482 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 15:02:33.35 .net
卑彌呼
https://i.imgur.com/uUvolTe.jpg

483 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 15:10:01.48 .net
卑彌呼徐王様バージョン
https://i.imgur.com/IheAXCT.jpg

484 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 15:12:04.43 .net
>>435
>較正曲線に照らして4世紀にも山が出来る箸墓周濠出土土器付着炭化物・小枝等の測定結果から箸墓を240〜260年築造とピンポイントで断定した歴博発表は科学的ではない

あなたが較正曲線読めないだけでしょ

485 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 15:19:13.14 .net
>>484
較正曲線に照らせば箸墓出土物は基本的に4世紀にも山が出来るよ
較正曲線がその時代は3次曲線のグラフのように曲がってるからね

短里が見えないように君の目は畿内説に都合の悪い事実は見えないの?

486 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 15:21:37.85 .net
化粧した卑彌呼
https://i.imgur.com/en2IdEr.jpg

487 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 15:28:17.86 .net
本物の女王卑弥呼
https://i.imgur.com/qEVRZ2z.jpg

488 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 15:33:02.59 .net
男の卑弥呼
https://i.imgur.com/xcjnHLf.jpg

489 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 15:49:33.10 .net
当時の巫女は、幼少期から顔に紐だか布だかをグルグル巻きにして、大人になる。
だからトラウマレベルの顔貌をしていたという。
朝鮮半島の影響ともいう。

490 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 15:57:08.21 .net
>>485
それは箸墓出土物だけに出る特徴的なものなのか?

491 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:00:57.84 .net
>>485
九州説信者は無学だから較正曲線の読み方を知らないだけ

492 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:06:35.33 .net
>>491
4世紀にも山は出来るよ
畿内説信者は短里と同じで事実が見えないだけ

493 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:09:50.07 .net
>>491
君は頭がよさそうだ

纏向で倭人伝記述と合致する遺物を列記してくださいな

494 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:13:23.73 .net
歴博のC14測定による240~260年推定が本当に科学的であれば学界の同意を得られるはずだが、以下のWikipeda(箸墓古墳)のコピペのようにその推定をストレートに信じている人は少ない

「研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。広瀬和雄はその時期を3世紀中期ないし後期としている[22]。白石太一郎は3世紀中葉過ぎとし[23]、「3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、その後継者である台与の時代である。」とも主張している[24]。寺沢薫は260~280年頃[16]、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとする[25]。

日本最古の前方後円墳などと紹介されるが、前方後円墳としてホケノ山古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、神門古墳群(神門5号墳・神門4号墳)、辻畑古墳など多数ある。これらの纒向型前方後円墳といわれる墳形とは異なり箸墓古墳は方形墳丘の部分が拡大した定型的な前方後円墳となっており、築造時期は3世紀後半以降と考えるのが一般的である。」

495 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:15:15.34 .net
>>491
あんたさ、別に3世紀の炭化物が見つかったとしてさ、
何イキッてんの????
3世紀全国各地で煮炊きしてたんだから、別に箸墓近辺で煮炊きしてた証拠ぐらいにしかなんじゃん。
これを科学的と言うのだよ。
誰も箸墓近辺に人は居ないといってないじゃん。

496 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:22:19.26 .net
畿内説の馬鹿「ワーーーイ 炭素年代で3世紀だと出たぞ。纏向は3世紀、箸墓は3世紀だ、、邪馬台国は畿内だ」

常識人「馬鹿じゃないの、3世紀に纏向近辺に人がいただけのことでしょ。全国各地に人は居たんだからさ。何を花火打ち上げてんの???」

497 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:45:33.97 .net
>>494
較正曲線の山は4世紀なのにみんな3世紀ってどういう事よ?

498 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:47:17.51 .net
九州にも3世紀のものって山盛り出土してるわけでしょう?畿内説って頭悪いよね。

499 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:52:23.35 .net
>>497
3世紀にも4世紀にも山はあるからな
しかもサンプルによる年代のブレも大きい
要は短い期間に絞るのは本来困難なのを歴博がバーンとやっちゃったから学界で波紋を呼んだし批判も多かった

500 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:55:06.96 .net
>>499
つまり何処を示してるかより測定方法に問題があるって事なのか?

501 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:58:42.38 .net
>>499
短い期間に絞るのは本来困難てのは他の測定法でもそうでしょう?
だから俺は発表されたものを信じるし誤差は気にしないと言っている

502 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:58:42.95 .net
>>500
測定結果をもっと幅を持たせれば良かったのだろうが、都合のいい時代に決め打ちしたから、もともと箸墓=卑弥呼の墓説の北條芳隆からもプロセスに問題があると強く批判された

503 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 16:58:45.19 .net
吉野ヶ里の前方後円墳を見るに、大和王権の勢力が到達してきて、墓制に変化が起き、後に築かれたものであることが築造時期からわかる。

504 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 17:06:05.76 .net
>>502
俺は伊勢遺跡説で炭素年代測定やってるよ
1世紀後半から2世紀後半だとされてるが年代に幅があると言われても
じゃあどのくらいだと考えれば良いのか?

505 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 17:13:09.87 .net
理化学的年代測定法では、箸墓も纒向も3世紀で確定している
纒向は2世紀の可能性もあるが

506 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 17:15:02.15 .net
伊勢遺跡が3世紀と書かれたサイトもあるのよ
でも俺はそれを信じちゃいない
公式発表されたものを信じてるしそれを前提に話をしている

507 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/16(火) 17:15:53.12 .net
コンタミは大いにありうるだろう
日本書紀に雄略陵の祭祀が足りないとして死んだ当人からお告げを受ける話がある

これは世界的に言える事なのだが、死者の弔いは墓が出来てからも何十年と続くものだ
イスラム世界などでも日本の回帰法要のように死者のために祈る習慣がある
ローマカトリック世界では死者の日というのがあって墓参りをして死者の冥福を祈る
ちなみに日系ブラジル人などは死者の日をお盆とよんでいるそうだ

箸墓から時代の合わないものが出ても変でも何でもない

508 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 17:18:06.35 .net
>>505
俺は炭素年代測定の2世紀を信じてる

509 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 17:20:31.82 .net
>>499
>3世紀にも4世紀にも山はあるからな

較正曲線の見方を知らないから素人が誤解してるだけだよ

510 :ネトウヨ撲滅タイ!:2024/04/16(火) 17:21:54.22 .net
ネトウヨ九州説論者が逃げる魔法の言葉

「酸素同位体比年輪測定法」

511 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 17:48:23.73 .net
「報告では、布留0式の資料で測定されたのは、周濠の土器1点だけで、大部分(8点)は墳丘造営時の土取穴の出土で、墳丘の造営が終わり、さらに周濠が営まれた後のものと考えることは困難。常識的には古墳造営の初期の段階のものと捉えるべきであり250年頃に墳丘ばかりか周濠までがすでに完成していたとみいることは、論理的にもきわめて困難。」

512 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 17:52:55.80 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

513 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 17:52:58.56 .net
まーだやってらっしゃるのか





卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)



卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)






ハイ終了

解散!

514 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 18:05:16.42 .net
>>511
それ、誰が言ってること?
信用できると思う根拠は?

515 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 18:08:08.14 .net
>>514

白石太一郎「炭素年代法による古墳出現期年代をめぐって」

http://www.jssscp.org/files/backnumbers/AS61_6.pdf

516 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 18:09:56.37 .net
>>501
短里が存在しないと主張するご都合主義畿内説信者の戯言
3世紀の山と4世紀の山は確実にある

517 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 18:20:03.00 .net
当時短里なんていう単位があったのならなんで「当時の記録」の中でも「三国志」の「魏志」の「東夷伝」の「極一部」でしか使われてないんだ?

518 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 18:28:44.91 .net
なんで東夷だけなんだろうな?
しかも公孫氏が台頭したせいで朝貢してくる蛮族を皆インターセプトしてしまい
東夷の消息が分からなくなってしまったという

519 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 18:29:40.29 .net
高句麗、三韓、倭、あたりは里数が大幅に盛られてるな

520 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 18:29:53.74 .net
東夷伝だけ作者が違う

521 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 18:32:45.87 .net
作者が違っても里数は共通だろ
作者によって里数の長さがバラバラだったら記録の意味がないだろ

522 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 18:49:09.83 .net
>>516
>短里が存在しないと主張するご都合主義畿内説信者の戯言

理由が言えないでただ罵ってるのは
あなた議論に負けたってことだよね

523 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:03:45.39 .net
周里については、東夷伝序文の冒頭にもある
周礼、九服の制と言うのが有って
洛陽を中心に方1000里が王畿、500里ごとに一服。

実はこの周里500里が収税の基準だったりで
一定しないので松本清張も匙を投げた。
漢時の開拓で、西域は都が長安とかでも
東の大きさの都合で短里では2倍になる。

東夷伝里は実測である訳も無く、
九服の一服付図での、500里が基準になっているので
図の正確性は無く。渡海1000里、伊都500里、
見える島や伊都からの隣国でも100里単位なのである。

一月行はこの図の域外の単位で
漢書地理志には、図が無いと方角が判らない
月行表記の東南アジアの紹介が有る。

524 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:05:08.27 .net
九州説主張の通り、庄内1を100年新しくしましょう
庄内1が300年、布留ゼロが350年
箸墓古墳、桜井茶臼山古墳、黒塚古墳、椿井大塚山古墳、西殿塚古墳などの大王墓レベルがわずか50年の間に作られ、
次に誉田御廟山古墳ができ、この誉田御廟山やその次の大仙陵古墳が、渋谷向山古墳や津堂城山古墳とバッティング

到底考えられない

525 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:10:09.51 .net
そもそも東夷伝に序文があること自体、独立本の体裁じゃね

526 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:18:55.46 .net
一里は435メートル程度である。
陳寿または彼のネタ元を書いた人は、晋の実質的な始祖司馬懿の功績を顕彰するため、曹真が朝貢させた大月氏より遠方に邪馬台国を置かなければならなかった。
親魏大月氏国は洛陽から16370里。これを超えるため、洛陽から郡までは5000里(観念的数字)として、残り12000里が必要になった。そこで、まず郡から女王国まで12000里とぶち上げたのである。その後、各国間に理数を割り振って行った。その結果、後世の人間が実際の地理と照らし合わせると一里が70〜100メートルになってしまった。
勿論、三国志が想定する読者は当時の中国の知識層だから、実際の地理など知るよしもない。モウマンタイである。

527 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
お前らまだバカな争いしてんの?
公孫氏時代を象徴する遼東系塼室墓と併行の楽浪墳墓から画文帯神獣鏡が出てるんだから卑弥呼の時代の鏡は画文帯神獣鏡で確定じゃん
このスレの畿内論者も馬鹿だなぁ
これだけ言い続けてりゃ完全論破出来んのに

528 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:24:23.19 .net
卑弥呼の鏡は三角だよ
これは絶対なの

529 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:24:57.21 .net
>>527
銅鏡100枚に斜縁神獣鏡は含まれないと考えますか?

530 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
某先生の著書読み返してるけど、なんで銘帯神獣鏡と画文帯神獣鏡をごっちゃにしてるの?
九州説ってこの程度なん?

531 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:27:47.68 .net
東夷伝序文
書稱 東漸 於 海 西被 於 流沙 其 九服之制 可得 而言 也
然 荒域之外 重譯 而 至 非足跡 車軌 所及未 有知 其 國俗殊 方者也
自 虞 及 周 西戎 有 白環之獻 東夷 有 肅慎之貢 皆 曠世 而至 其 遐遠 也 如
此及 漢氏 遣 張騫 使 西域 窮 河源 経歴 諸國 遂 置 都護 以 總領之
然 後 西域之事 具存 故 史官 得詳 載焉
魏 興 西域 雖 不能 盡 至 其 大國
亀茲 于眞 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師 之属
無歳 不奉 朝貢 略如 漢氏 故事

而 公孫淵 乃 父祖三世 有遼東
天子為 其絶域 委 以 海外之事 遂隔断 東夷 不得通 於 諸夏
景初中 大興 師旅 誅 淵 又 潜軍 浮海 収 楽浪 帯方 之 郡
而後 海表 謐然 東夷 屈服
其後 高句麗 背反 又 遣 偏師 致討 窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 践 肅慎之庭
東臨 大海 長老説 有異面之人 近 日之所出
遂 周觀 諸國 采 其 法俗 小大區別 各有 名號 可得 詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存 中國 失 禮 求之 四夷 猶信
故 撰次 其 國列 其 同異 以 接前史 之 所未備 焉

陳寿は
魏時2回の遣使によって
倭の習俗や30国の名前その大小等
倭人伝が中國史上で初めて、詳記出来たけど
>接前史 之 所未備 焉 と言っている。

評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

532 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
九州説「画文帯神獣鏡は呉の鏡!殆ど呉で出土してる!ほらこれ見ろ!」

ぼく「え...それ全部銘文帯神獣鏡じゃないですか...」

533 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:31:04.62 .net
>>532
トナカイ君は現在橿考研が調査中の華北東部系鏡についても詳しいの?

534 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:44:43.90 .net
また何か勝手な思い込みを一人で喚いて帰るトナカイが来た
黒塚のU字鉄パイプは黃幢だー!と一人で騒いでたが冠帽のU字型の部分の形を保持する器具だったな

535 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 19:46:03.64 .net
>>515
>白石太一郎「炭素年代法による古墳出現期年代をめぐって」

つまりまだ資料リスト発表前の2007年段階の知識で書いた文章だから
ダメってことだよね

536 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:00:30.42 .net
>>527
つまり戦争難民の楽浪帯方郡民が鏡持って畿内まで逃げてきたってことか

537 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:00:55.23 .net
>>527
九州説はたったそれだけの材料で、「畿内説で間違いない」と言えるほど勉強してないだろ

538 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:01:48.65 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

539 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:05:22.76 .net
トナカイと畿内自生説の議論をしたいのだが
トナカイって、畿内自生説?

540 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:07:50.00 .net
>>532
国内産の三角よりましじゃね
三角は無い、年号まであるようだしね。年号もバラバラだし無い年号の三角を送っるか?

541 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:09:39.28 .net
短里説を言い出したのは九州説の古田武彦だった
目的地ありきで、都合よく逆算したのはあきらかだ

542 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:11:18.93 .net
銘文帯て初めて聞いた

543 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:13:01.37 .net
景初4年は、三角縁神獣鏡の仲間の盤龍鏡だけじゃね?
三角縁も景初4年ってあったっけ?

544 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:21:07.40 .net
広峰15号の景初4年斜縁盤龍鏡を、景初4年三角縁神獣鏡と表記しているネット記事が多数見られるな

545 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:28:57.94 .net
>>531
陳寿は233年生まれ
台与は235年生まれなので台与よりも2歳年上だった
儒学と史学を修め蜀漢に仕えた 蜀漢滅亡後推挙され西晋に仕えた

蜀漢の滅亡は263年 陳寿31歳のとき
このとき台与は倭国王になってから16年程が経過している
三国志の成立は280年以降とされている
陳寿は297年に65歳で没した
三国志は私撰だったが陳寿の死後に筆写するように勅命が下った

546 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:30:15.06 ?2BP(1000).net
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>>540
というか国産であろうと三角縁神獣鏡の特徴、つまり長方形鈕孔や外周突線が魏鏡の系譜を引いていることは明らかだから畿内説的には痛くも痒くも無いんだよね
何を勘違いしてるのかわからんのだけど

547 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:34:16.24 .net
我々素人は、「平縁」と「斜縁」と「三角」の区別さえついてない

548 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:43:05.25 .net
つまり畿内説は居直り詐欺でしたと

549 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:45:42.14 ?2BP(1000).net
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>>537
まあ俺も昔は九州説だったからなぁ
ある程度知識が付いたらみんなも畿内説のステージまで来れるよ

550 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:51:19.16 .net
>>540
>無い年号の三角を送っるか?

無いって証拠は?

551 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:51:33.62 ?2BP(1000).net
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>>534
そう考えるとこういう人もかわいく見えてくるな
まだ「這い這い」での移動しか出来ない嬰児みたいなもんか。早く成長して俺を追い抜いてきれくれよ~

552 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 20:54:00.99 ?2BP(1000).net
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失礼
嬰児だから寝ることしか出来ないか
まあ寝る子は育つというからね~

553 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 21:00:19.19 .net
儒教を学んだ陳寿が言う鬼道とは亡くなった方の霊を祭る先祖崇拝を指していると思う
今私たちは仏教的な価値観で鬼をとらえるが、陳寿の時代にそのような価値観はなかった
鬼は霊魂のこと、善悪の価値観とは無関係
祖先の霊や万物の中にある霊を分け隔てなく尊重するようなものだったと想像する

554 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 21:01:26.49 .net
出雲のシンポジウム的な動画を見たけど、このシンポジウムの島根大学の学者は、
「卑弥呼がもらった銅鏡100枚はどれだと思いますか?」という質問に、「三角縁神獣鏡。ただ、画文帯神獣鏡も含まれるかもしれない」と言ってたな
三角縁神獣鏡説もまだ根強いのだなーと思った

555 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 21:05:23.84 .net
>>551
はいはい、一人思い込みの痛い坊や

556 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 21:10:42.36 .net
>>555
このように
勝てない相手には
ただ罵るのが
九州説

557 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
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>>556
まあ大目に見てやってくれや
自分で気づくのが大事だからね

558 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 21:57:41.30 .net
アンチ畿内自生説の学者はこう言います。

・卑弥呼共立時、あるいはその直後は未だ北部九州が畿内より上である。
・桜井茶臼山の銅鏡103面やら黒塚やら椿井大塚山やらは、魏に遣使してから、いきなり畿内が銅鏡をもらえるようになった。
・畿内は魏に遣使し始めてから、いきなり古墳が巨大化し始めた。
・卑弥呼が魏に遣使する前にも、200年〜239年頃までは北部九州の方が銅鏡をたくさん中国からもらえたが、畿内はもらえなかった。

全く納得できない。

559 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:00:34.56 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

560 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:05:54.17 .net
>>554
>三角縁神獣鏡説もまだ根強いのだなーと思った

根強い?
主流では?

561 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:31:46.72 ?2BP(1000).net
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>>558
納得出来ないなら九州説になればいいじゃん

562 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:32:32.79 ?2BP(1000).net
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弥生時代後期の畿内って方形周溝墓しかないぞ?そもそも王がおらんのよ
自生しようがねえんだって

563 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:38:06.71 ?2BP(1000).net
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奈良盆地東南部がもとから比較的高い生産力と人口を有していたのは諸環濠集落の面積から窺知されるわけだが、共同体を強力に指揮するリーダー(王)が居なかった。

つまり出雲や吉備がいち早く墳丘上祭祀(地域社会が墳丘墓を舞台とする共通の葬送儀礼をおこなうことで一体感の維持につながる。【リーダーのために】行う葬送儀礼が構成員の仲間意識を高める)に移行していたのに対して、奈良盆地東南はいつまでも銅鐸で遊んでた地域で王がいるわけねーのよ

564 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:40:51.98 .net
ほう、東遷・東征はあり得ない!白石太一郎最高!などと恥ずかしいことを言っていたトナカイが畿内自生説は理論的に成り立たないことにようやく気づいたか
数ヶ月経って少しは成長したかな

565 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:43:08.14 .net
酸素同位体比年輪年代法で箸墓の年代は決まった!などと言っていたのは今はどう感じてるかね?
やっぱ恥ずかしいかね?

成長途上のトナカイ君

566 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:45:34.19 .net
トナカイが黄幢だ!黃幢だ!と騒いでいた黒塚のU字型鉄パイプは冠帽の形を保持する器具だったな

567 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:49:20.75 ?2BP(1000).net
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>>566
そういう説もあるってだけだろ?
いずれにせよあの精巧さからして魏晋からの下賜品であることは間違いないし

568 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:53:14.44 ?2BP(1000).net
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近畿からは魏晋製の小札革綴冑がバンバン出土してるんだけど九州ってあったけ?

あっあったわ!【箸墓古墳相似形】の豊前石塚山古墳に一つだけあったわ

569 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:56:22.44 .net
>>567
間違いないは言い過ぎ
もっと謙虚に

570 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 22:57:06.12 ?2BP(1000).net
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>>569
いずれにせよあの精巧さからして魏晋製であることは間違いないし

571 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:00:55.86 ?2BP(1000).net
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まあ九州説は論外だとして、問題は狗奴国だよな。「魏からの軍事支援」を象徴する曹操高陵からも出土する小札革綴冑は近畿に集中出土してるのよ。

仮に狗奴国が熊本だったとしたら北部九州にもうちょっと「魏からの軍事支援」を象徴する小札革綴冑が出ててもいい気がするんだけどね

572 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:09:04.74 .net
>>571
魏からの軍事支援とは?
倭人伝にそんな記述ありましたっけ?

573 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:15:53.76 ?2BP(1000).net
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やっぱ九州に狗奴国は難しそうだな
魏が支援している様子が見えない

574 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:16:19.48 ?2BP(1000).net
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>>572
黄幢って軍事指揮官の旗だぞ

575 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:22:38.05 .net
7万戸筑紫・邪馬台国と5万戸宮崎・投馬国が挟み撃ちしてもビクともしない
巨大帝国・クマ国の菊池彦と球磨阿蘇(笑)

576 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:27:01.96 .net
狗奴国は元々は滋賀あたりから関東一帯までの巨大な領土を誇る大国だったんだが、
倭国大乱で邪馬台国に侵略されたらしく卑弥呼の時代には天竜川以東からになっていた

そんな経緯で狗奴国の人々は邪馬台国に凄まじい敵意を持っており、卑弥呼に
銅鐸禁止銅鏡崇拝令を言い渡されても激しく拒否して、やがて両国は戦争に
向かっていったのである

狗奴国の都=沼津の足高尾上遺跡群

卑弥弓呼の陵墓はその側の高尾山古墳

577 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:30:07.35 .net
黄幢は卑弥呼が倭王だと知らしめるためのものだよ
それで効力があるんだよ

578 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:37:18.21 .net
頭が根本的に悪いのになまじ3流専門知識を持つヤツが
得意げにスレに入り込むと白けるんだけど

579 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:42:25.78 ?2BP(1000).net
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>>577
倭人は何人か率善中郎将・校尉に任命されてるんだから武装と防具くらい渡されるだろ
中郎将の格理解してないのか?

580 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:43:07.36 .net
>>578
勝手に物語を作るからど素人にも矛盾を突っ込まれるんだよ

581 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:43:17.06 .net
>>578
コイツ>の事ね☛>>571

前スレから、このスレの前半は
目から鱗の連続で色んな勉強になった

582 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:45:02.15 ?2BP(1000).net
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>>171
テンプレ読めよ文盲

583 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:46:44.89 .net
>>579
中国の役職でしょ?
冊封体制に入ってるからそれで効力があるんだよ

584 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:47:52.85 ?2BP(1000).net
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>>583
いや冊封体制って威信財や武器も下賜するものなんで。

585 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:48:20.17 ?2BP(1000).net
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もう一回書くか


お前らまだバカな争いしてんの?
公孫氏時代を象徴する遼東系塼室墓と併行の楽浪墳墓から画文帯神獣鏡が出てるんだから卑弥呼の時代の鏡は画文帯神獣鏡で確定じゃん

586 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:49:24.71 ?2BP(1000).net
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ほらいつものギャグやってよ


画文帯神獣鏡は呉の鏡!ってやつ
位至三公鏡出るから庄内式は西晋代!ってやつw

587 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:51:49.38 .net
九州邪馬台国の女王卑弥呼が
なんで畿内の奈良盆地にいるんだよ(笑)

中国の正史書に記録された魏志倭人伝を読み直せ

588 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:51:56.54 ?2BP(1000).net
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もしかして九州論者って、楽浪土城から出土しないタイプの楽浪系土器が伊都国から出てるってことしらんのかな
まあどう考えても帯方系土器で年代観ほぼ確なんだけど。無知ってこわいね~

589 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:53:37.88 ?2BP(1000).net
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九州論者が邪馬台国だと思い込んでる弥生時代後期に帯方系土器って出てなくね?
逆になんで帯方郡の時代に楽浪土城の土器が出ると思っちゃうの?

590 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:56:42.15 .net
>>589
専門知識で誤魔化して無駄ってもんだよ

バレバレだからw

寄生虫内説さん!だいぶ追い詰められてるようだけど(笑)

591 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:58:09.97 ?2BP(1000).net
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>寄生虫内説

「寄生虫内説」ってなんだ?
テンプレ違反犯して畿内説スレなのに九州説喧伝してる寄生虫集団のこと?

592 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 23:58:43.38 ?2BP(1000).net
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そもそもこれ専門知識じゃなくて「常識」じゃね?
知らないやついるの?九州説なのに九州の考古資料のこと全然知らないってヤバくね

593 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
九州説スレ勢い「11.1」かよ。それでいて畿内説スレでぼやき続ける、寄生虫じゃんw


【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参拾
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1711663898/

594 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
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>>75
なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。


これ読めないのかな
いやまあ読める人間なら九州説のフェーズを脱却できてるか

595 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 00:05:02.71 .net
はいはい考古学考古学
教科書をも塗り替えた捏造ゴッドハンド事件で
日本における考古学の出鱈目さが露見したのは記憶に新しい
学術部門の中でもレベルが非常に低い日本考古学会(笑)

596 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
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>>536
>つまり戦争難民の楽浪帯方郡民が鏡持って畿内まで逃げてきたってことか

まあでも楽浪帯方滅亡に注目する着眼点はいいと思う。畿内説到達まであと一歩かな

597 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 00:21:17.71 .net
お待たせしました 邪馬台国は安房!

598 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 00:41:22.59 .net
葛城を遡るとフツや猪心に辿り着くな
布都主はカグツチの血がかかった磐
ワカフツ主が出雲国風土記にあり、牛飼神らしい

香坂王は赤い猪に殺された話もある

結局は東北の伝承に行き着くのかもな
龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る戦い
アマテルを手に入れた赤神は岩隠れし、黒神は北に追いやられた

赤神と黒神に翻弄される鹿と磐

奈良の伝承でも鯰と龍が争いとばっちりで奈良湖にいた亀が死んだ話もある
因幡国風土記逸文には竹内宿禰は亀金で行方不明になったとある

事代主は船を傾けて青柴垣に変えその中に隠れてしまった話もあったな
かなり複雑な構図の権力闘争だが、鹿使いの赤神と龍の黒神の対立と見るとわかりやすいかもな
葛城の磐のヒメは黒い髪の歌が残っている
髪長姫は道の後という歌や赤れる孃子の歌があり一応赤という設定か

599 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 00:43:12.90 .net
>>558
これ九州の卑弥呼が鏡貰って自慢しまくってるのが
交易ルートを通じて東の倭種まで噂が広まって
東の倭種の大酋長が対抗意識で自前の鏡を大量に作ってばら撒き始めたんだろう

記紀などには畿内に三種の神器を差し出すような描写があるが
数十年後(3世紀後半)九州が畿内の傘下に入るとき
三種の神器などのオタカラはごっそり畿内に差し出したもんだから
そのタイミングで手元にあったオタカラは九州から消え失せた

600 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 00:51:08.83 .net
鳥取は古代史でかなり重要な場所なんじゃないかなと
妻木晩田遺跡、青谷上寺地遺跡

牛飼いとアカルヒメと新羅の因縁もあちこちに影響してそうだ

卑弥呼は新羅と何らかの繋がりがあるように思えて仕方がない
アチメは韓国語で朝や朝日の意味らしい

601 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
まあ繋がりはあるだろうな
新羅の首都は「金」城というくらいで、金属(鉄)生産豊富だから鉄輸入を通じて繋がりはあっただろうよ

602 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>598
東北は飛びすぎ
葛城を遡るのは重要だと思うけど考古学的にやってほしい。興味深いけど

603 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 02:05:59.14 .net
>>558
>アンチ畿内自生説の学者はこう言います。

そもそも、畿内自生説ってなに?

604 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 03:21:01.84 .net
トナカイよ 
奧山と同じ程度の頭じゃダメだよ
あんた答えろよ
纏向で倭人伝記述と合致する遺物を数多く列記しなさいよ
蛙、桃、大きな建物、土器、ベニバナ、水路???倭人伝に出てこないもんばっかじゃん。

605 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 03:25:28.49 .net
トナカイよ
奧山と同じ程度の頭じゃダメだよ
あんた答えろよ

難波から纏向まで約40キロを陸行1月もかかるのか?
理由を言えよ。
裴世清は船だから水行だし、滞在に入れてるし、、
メチャクチャテンプレで説明できてないし、、、

606 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 03:28:37.21 .net
邪馬台国卑弥呼はヤマト政権の始祖ではなく蝦夷の始祖だろう

邪馬台国卑弥呼がヤマト政権の始祖と主張するなら、
卑弥呼以前に存在した倭国や倭国王帥升はヤマト政権とは別の存在であること
卑弥呼以前に存在した倭国や倭国王帥升と、女王国や卑弥呼は隔絶した存在であること
この2点を証明しつつ論じないといけない

607 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 04:30:51.30 .net
>>605
難航路の瀬戸内海が開通したのは6世紀ごろです
本格的に使われるようになったのは、平清盛が整備してからです

608 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 04:44:41.14 .net
瀬戸、鳴門、灘、難波、浪速とか全部難航路の地名

609 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 05:06:54.51 .net
>>605
>メチャクチャテンプレで説明できてないし、、、

明快に説明されてるだろ
元資料を文章にするときの解釈ミスだって
陸路で一と月もかかる場所とか無いんだから合理的な解釈だろう

610 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 05:53:59.86 .net
>>605
>難波から纏向まで約40キロを陸行1月もかかるのか?

それは九州説も同じだろう
九州説は短里説だから、同じ問題が発生する

総距離、12000里
7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。

残り1300里

1300里、2か月問題がある (水行20日+10日+陸行1月(30日)=2か月)

短里説では、72mだから、72m×1300里=約93km

約93kmを2か月で、九州説はどこをどう行ったんだ?

611 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:14:03.49 .net
連続句読点は日本語が読めないので有名

612 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:21:10.97 .net
>>610
方可は2倍しないとダメでしょ。馬鹿のふりしないといけない病気か何かか?

613 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:24:08.72 .net
総距離、12000里
7000里+1000里+400×2里+1000里+300×2里+1000里+500里+100里+=12000里。

わざわざ細かく記述されてるのに総計が示せないとおかしいだろ。
総計が綺麗に示せるこの計算が正解。

細かく記述されてる北部九州が目的地で全てが整合します。

614 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:28:24.68 .net
>>612
>方可は2倍しないとダメでしょ。

する理由ないですけど

615 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:32:47.43 .net
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?

616 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:34:24.93 .net
万葉集に葛城の真弓の話がある

ワカフツ主は牛飼神で農耕神だが狩猟神の特徴もある

強力な弓は亀井遺跡から見つかっているな
亀だな

まだまだ謎が多いわ

617 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:39:00.85 .net
河内の聖徳太子廟は増えたり減ったりする無数の結界石に守られている

618 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:42:54.29 .net
葛城の産屋に飛び込んだのはミソサザイ
ミソサザイは岩と岩の隙間に巣を作る鳥
ミソサザイの服を着ていたのはスクナヒコナ
酒と薬と呪いの神さまだ
その後葛城とスクナヒコナは何らかの縁を持つのか?

619 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:45:51.60 .net
香島の天の大神と香取の大神

620 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 06:50:07.86 .net
>>615
日本は元々兄弟相続や母系相続が真実なのだからしょうがない。万世一系や長子相続は儒教、朱子学由来の外来文化から定着したもの。

621 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:00:30.72 .net
卑弥弓呼が香島の天の大神、卑弥呼の次の男王が香取の大神じゃないのか?
どちらも奈良ではなく大阪側に宮があったんだろう
台与は摂津の稲倉山にいたトヨウケ
どの人物も纏向の平定の為に選ばれた人物じゃないのか?

邪馬台国卑弥呼は帥升の時代には既に始まっていた朝廷の存在を揺らがしたイレギュラーな存在

また孝安天皇以降の欠史の宮は大阪側にあったんじゃないか?

622 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:08:04.80 .net
>>621
訂正安寧天皇以降の

623 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:15:11.23 .net
崇神天皇の宮も奈良かどうか不明だ
纏向遺跡の先の三輪山にオオタタネコが赴きそこから纏向遺跡に大きな変化が起きたんじゃないだろうか?

624 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:19:29.70 .net
>>614
          船のルート
     / \  ↘
    / 対馬 \   ↘(ここで400里)
    \    /  ↙
     \ /  ↙
          (ここで更に400里)

一支の場合も同じ

625 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:45:12.13 .net
>>610
>>613
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。

残り700里(50q)となり、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!

ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GImPNooaMAAX5Dw?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国⇒邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
............................↓※蛇足「南水行十日陸行一月(虚構)」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島)
https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

626 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:47:29.00 .net
少なくとも纒向と九州は関係無い

627 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:52:51.80 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。
https://pbs.twimg.com/media/GHs4h5HacAA3Xij?format=jpg

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓※蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

628 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:53:52.78 .net
九州勢力の飛び地として纏向があるんだよ

629 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:55:21.17 .net
いかなる時も根拠を言えない九州説

630 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 07:56:04.48 .net
つまり纏向は「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)」

631 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:00:52.30 .net
不彌国(宇美)生まれの応神天皇が東征した
この人物が天皇家の始祖である

狗奴国の河内彦は熊本・河内町の有力豪族である
この子孫が大阪で応神を担ぎ河内王朝を開いた

632 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:01:48.49 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

633 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:04:30.82 .net
纏向遺跡で宮殿跡を発見!


良心的歴史学者「お、記紀に書かれる崇神天皇の纏向宮の実在が確認されたってことか、時代も3~4世紀でちょうど合致してるな」

邪馬台国キチガイ「(崇神天皇は完全に無視して)卑弥呼の宮殿!邪馬台国!畿内説バンザイ!!」

634 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:04:39.88 .net
>>631
>狗奴国の河内彦は

狗古智卑狗(菊池彦)ですけど?w

635 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:08:50.48 .net
ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

636 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:11:03.42 .net
つまり畿内説は韓流オレオレ詐欺でしたと

637 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:13:27.78 .net
266年に、後ろ盾だった曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことは、「親魏倭王」台与にとってまさに寝耳に水、自らの権力基盤が根底から崩される青天の霹靂だったろう。
もともと巫女だけに国際政治のことはよく判らず、ためしに占ってみたところ、名誉職(足利将軍家の親戚・高家筆頭吉良上野介みたいな、朝廷=西晋武帝司馬炎とのパイプ役)として出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲した方が身のためと出たのかもしれん。

そして筑紫邪馬台国台与から倭王権を禅譲されたヤマト王権初代大王(「複立男王 並受中国爵命」)は箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したわけだ。

さらに5世紀になると倭の五王(讃珍済興武)が九州に再び西遷し(河内に留守番家老=応神朝を残し巨大古墳を造営させる)、宇佐八幡宮に都して別府温泉で負傷兵を治療回復させつつ、半島派兵を繰り返して広開土王碑に記録され、筑紫君磐井の乱の後、倭王権を獲得した継体朝(阿蘇ピンク石棺。万葉集の鯨漁「淡海」は琵琶湖でなく有明海)→「日出処の天子」天垂彦(首都「邪靡堆」で阿蘇山を祈祷)も九州に留まり続け、天智の代で阿蘇山が大噴火して、首都・阿蘇外輪山「邪靡堆」が壊滅的な被害を受けたため、太宰府を築いて北遷。

663年白村江の戦い完敗で再び東遷し(近江大津宮へ)、大和の飛鳥にいた分家(留守番家老)である天武と合流し、壬申の乱で倭王権を奪取した天武が古代史のすべてを大和の留守番家老の歴史として描いたのが記紀なのだ。

638 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:14:33.70 .net
邪馬台国を知らない畿内の倭種の後世が、意図的ではなく成り行きでオレオレ詐欺をやっていた可能性はある
その証拠が邪馬台国や卑弥呼の話に一切触れていない記紀だな

639 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:15:16.05 .net
崇神天皇の纏向宮の実在が確認されたって割と重要な発見(大発見と言ってもいい)なのに

畿内説キチガイが邪馬台国うんぬんで騒ぐからせっかくの発見の意義がかき消されちゃってるんだよな

640 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:16:27.20 .net
3世紀初頭の日本における半島鉄の輸入ルートで古代史を整理してみたyo!

<北部九州>
筑紫邪馬台国…曹魏の帯方郡(半島西岸)ルートを確保(239年親魏倭王)→肥後狗奴国(熊襲=球磨阿蘇)との戦争に備える(日向投馬国との同盟締結)

<本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)>
出雲…辰韓(半島東岸)ルートを開拓→吉備楯築王(×帥升∵後漢鏡副葬なし)を征服→さらに大和唐古鍵王を征服し、ヤマト王権を樹立(「有棺石槨」ホケノ山)

247年、卑弥呼の跡を継いだ13歳の台与は、卑弥呼が生前帯方郡に要請していた張政ら魏の援軍の力を借りて、肥後狗奴国卑弥弓呼を倒し、張政を洛陽まで送り届けたお礼と、天下統一のお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(日田出土)を下賜された。
266年、筑紫邪馬台国の後ろ盾だった曹魏が元重臣の司馬晋に禅譲して消滅したとの帯方郡使の報告に激しく動揺した32歳の倭女王・台与は、巫女だけに国際政治をよく知らず、共立のため世継ぎもいないことから、帥升死後の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を確信して占ってみたところ、本州の覇権を握っていた出雲吉備連合(ヤマト)王権に禅譲するのが吉と出て、西晋武帝司馬炎にその報告を兼ねて(新旧の倭王権で揃って)朝貢し、「複立男王 並受中国爵命」と記録されたのだ。

そして、ヤマト王権初代大王(複立男王)は筑紫邪馬台国を併合して、吉備特殊器台で壮麗に飾り立てた箸墓を築き、倭国統一を高らかに宣言したのだ。

641 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:16:45.39 .net
崇神天皇の宮発見!という大きな発見、古代史上の前進を
畿内説キチガイが邪馬台国と絡めて騒ぐせいでかき消されちゃってる

642 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:17:23.87 .net
ホケノ山に「槨」は無いよ



 

643 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:19:23.66 .net
ホケノ山古墳
http://sakuwa.com/p13.html
「木槨と石槨からなる内外二重構造の槨に木棺を納めたものであった。 槨:棺を収納し、保護保護するための埋葬用施設のことをいう」

644 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:22:57.39 .net
槨にこだわってるやつも頭悪い

王族の墓制と庶民の墓制が違うのは当たり前だろ

645 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:23:20.25 .net
槨の有無はなんの証拠にもならんわ

646 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:24:41.25 .net
魏志は女王国の事しか書いていない
邪馬台国は1回しか出てこない
邪馬台国は相当離れた場所にあったという事
魏が認識してるのは魏略で訪れた熊本までだ

647 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:24:57.27 .net
>>643
ありがとうございます!訂正いたします↓

ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を木槨+石槨の二重槨で厳重に保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。

3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。

247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。

そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。

その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。

648 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:26:36.77 .net
箸墓古墳は横穴式で石室があるとムッちゃんが言ってたな
ところで調査結果まだ?

箸墓古墳を素粒子「ミューオン」で調査(2020/1/9)
https://www.sankei.com/article/20200109-TTULALNZJBJXTMQXN35Z46OUTE/

649 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:46:31.06 .net
>>647
筑紫の東は四国をカスって太平洋ですね

650 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:53:39.84 .net
大和の東には海がないですねw

651 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 08:56:12.40 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。

残り700里(50q)となり、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!

652 :琪瑛教大祭酒:2024/04/17(水) 09:00:42.07 .net
無駄だよ
何故そんなに行く行くは半島人国家が誕生したのに卑弥呼の時代の五斗米中華の巫女を否定したがるのかね?
中華に制圧され続けた半島人の血かね?
不思議だわ。
八角アサガオは慶州羅井が聖地。
これは覆しようがない

653 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:03:13.78 .net
朝顔のー穂

654 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:03:45.85 .net
>>647
>ありがとうございます!訂正いたします↓

あたまおかしいのか
ホケノ山に槨なんか無いんだよ

655 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:04:53.71 .net
女王国東の海が伊勢湾?陸行した方が楽だし近いだろw

656 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:06:34.17 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましのオレオレ歴史詐欺

657 :琪瑛教大祭酒:2024/04/17(水) 09:11:25.67 .net
故に古朝鮮からの争いが今に繋がる
北朝鮮、韓国、日本が仲良く成ることはありえない

658 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:11:35.86 .net
ホケノ山に槨なんかないんだ槨なんかないんだ槨なんかないんだ槨なんかないんだ、って碇シンジかwww

659 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:12:14.97 .net
>>651
水行も投馬国も無視してるのでアウトです

660 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:13:30.14 .net
つまり畿内説は韓国起源のウリナラ(私たちの国=奈良)歴史詐欺

661 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:15:24.67 .net
>>655
これが古代の正しい地理観
https://www.lib.fukuoka-u.ac.jp/e-library/tenji/kyusyu/kyo/22/22-7x.jpg
九州の地名もこの地理観と一致
https://stat.ameba.jp/user_images/20191003/09/akamamakai/22/4f/j/o0618050614605450530.jpg

662 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:16:08.34 .net
つまり東海狗奴国が箸墓に築造を熱心に手伝っている畿内説はウソ

正始八(西暦247)年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

663 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:18:18.14 .net
>>662
どこに手伝ったって書いてあるの

664 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:19:34.83 .net
たしかに東海系の外来土器が一番たくさん出てるねw

665 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:19:45.34 .net
>>658
ホケノ山に槨なんかないんだ
だから九州説は学問になれない

666 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:21:18.27 .net
そんなことを平気な顔して言ってるから、畿内説は信頼を無くしちゃうんだねw

667 :琪瑛教大祭酒:2024/04/17(水) 09:22:43.19 .net
歴史詐欺の説明不足で意味がわからん
三韓の書物もそう書いてある
神武より前23代は月支。
神武詔勅八紘一宇。
この理念は卑弥呼の物とは違う。
道とは学ぶ物なんだよ、いきなり自分の娘が斎宮なんかにならないの
ここで壊されている
アマテラスは卑弥呼ではない。朴さんの光

668 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:25:06.29 .net
なりすましウリナラ畿内説はイラネ

669 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:36:50.91 .net
東海系の土器が出る纏向と東海系の銅鐸が出る滋賀
東西の結節点で市をやってただけ

670 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:37:55.44 .net
日本人になりすます某国人
邪馬台国なりすまし畿内説

行動パターンがピタリと一致!

671 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:43:00.31 .net
滋賀から奈良に移転すると北陸だけが不便になる
でもヒスイの需要が無くなったし北陸なんか要らない

672 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/17(水) 09:44:56.18 .net
邪馬台国=ヤマト王権な

ネトウヨはアイヌ非先住民説と同じく確信犯で邪馬台国九州説をごり押ししている
理屈は適当で良いからと詭弁を垂れ流して、ヤマトが中国に朝貢した歴史を消すのに必死なわけだ

ネトウヨは学問の敵としかいえない

673 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
滋賀から奈良に移転してないから問題ない纒向に滋賀の影響ほぼ無し。手焙形土器くらい

674 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/17(水) 09:49:56.89 .net
アイヌ非先住民説はアイヌは中世にシベリアからやってきたという悪質なデマ
これを主張している輩は自分達が詭弁を使って珍説を流している事を知っていてやっている
ネトウヨは確信犯で嘘を流している。

ネット上の邪馬台国九州説支持の書き込みも、半分以上は嘘と分かっていてやっているネトウヨの確信犯的デマである

675 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:53:21.24 .net
日本人になりすました在日どもがワラワラ沸いてきやがったなw

676 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:55:20.44 .net
>>666
棺とは何か、槨とは何か
まったく考えない九州説は学問であり得ない

677 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 09:56:43.51 .net
>>676
この書き込みで畿内説が白を黒と言いくるめる新興宗教統●教会だと判ったw

678 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:00:43.06 .net
棺とか槨とかどうせ聞いた話だしね
使者は実際見てるわけがない

679 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:04:03.23 .net
>>676
日本の古墳を中国の規格で解釈するのは曲解に値する
中国が見たのは甕棺墓の事だろう

「棺を埋め土を盛って冢と成す」

前方後円墳とは全く異なる文化だ

680 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:08:36.92 .net
>>679
前方後円墳であっても聞いた話だよ
歩いて大きさ測ったとも思えないし

681 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:09:01.56 .net
魏使「この土盛はなんだ?」
倭人「(平原)女王の墓です」
魏使「女王とな!?メモしなきゃ!ひみこのおはかっと」

682 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:09:32.96 .net
九州説は韓国の起源説まるパクリだけどね

683 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:11:51.55 .net
つまり畿内説は先天性ウリナラ起源説という事よ

半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png

史書には邪馬台国時代の倭人は中国の呉越の末裔と記されている

■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%

都道府県別
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png

684 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:25:25.19 .net
まあ畿内邪馬台国はまず狗奴国に駆逐されて、さらに狗奴国は半島から来た扶余系騎馬民族に駆逐されたんだけどね

685 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:33:20.29 .net
纏向も箸墓も
なんで倭人伝を無視するのかな?
倭人伝に記述されてない遺物示されてもなーーー

686 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:36:42.66 .net
倭人来たりて法螺を吹く

687 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:39:47.42 .net
>>672
そっちの方がよほどネトウヨだしそもそも学問ですらない
邪馬壹国が大和王権というのは証明されたファクトではなく単なる推論、仮説
ぶっちゃけ妄想でしかない
もちろん邪馬壹国が大和王権であった可能性はあるが
それを事実であるという前提でのみ歴史を語るのは学問ではなく宗教

688 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:44:19.96 .net
日本国が公式に設置した機関により、たった今、またしても、邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が、全く無い、という真実が、発表されてしまった。

689 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:48:06.21 .net
ロサンゼルスレイカーズは、逃げ切ることが、できるのだろうか。

690 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:48:14.01 .net
>>687
そうではあるけど最大の根拠が邪馬台=ヤマトだな
隋書にも邪靡堆として出て来るし当時もこの呼び名があったって事だしね

691 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:49:18.17 .net
ヤマトは無いけどヤミェツアイはあったのだな

692 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:56:24.59 .net
607年に裴世清が日本に来てその上で邪靡堆があると言ってる訳で

693 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:56:47.40 .net
邪馬台国なりすましの畿内説=日本人なりすましの某隣国人

694 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:57:00.76 .net
ザイオン・ウィリアムソン氏は、どうしたのだろうか。

695 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:59:08.05 .net
出たーーーー

畿内説のバカ

語呂合わせ

ヤマトがなんだって???

696 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:59:08.18 .net
出たーーーー

畿内説のバカ

語呂合わせ

ヤマトがなんだって???

697 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 10:59:47.89 .net
言語学的には邪馬台国は畿内で確定です

698 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:00:53.93 .net
>>692
そりゃ裴世清当時の訪問国は邪靡堆だもの
ただし文字のない蛮族の何百年も昔の話をどうやって確認したのか謎

699 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:02:42.93 .net
魏志倭人伝にある邪馬壹国が畿内に無いのは確定してる。

700 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:02:47.25 .net
言語学的には後漢時代の発音でヤマダなのに
数世紀あとの外国語ではヤマトだから大和なんだーって言い張るのが畿内説
しかも記録されてるのはヤマトじゃなくてヤミェツァイというオチまでついてる

701 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:04:11.93 .net
畿内説ボロボロやんけ

702 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:04:12.99 .net
隋の時代に邪靡堆と言う都がある
こんなもんどう考えてもヤマトでしょ

703 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:04:41.27 .net
九州説、学問的には終わってる

704 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:04:56.96 .net
ヤマトの語源すら調べようとしない畿内説馬鹿

705 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:06:00.26 .net
>>702
「房総半島にアワがあるけどこれどう考えても阿波だよな」
だいたいこれとおなじこと言ってる

706 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:06:51.83 .net
山のふもとでヤマトと誰かが言ってた

707 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:07:49.99 .net
>>706
ヤマモトになってそう

708 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:07:54.60 .net
>>702
ヤマトと名乗ったのなら邪馬臺を邪馬都と訂正しただろう
しかし邪馬堆ヤマタイとハッキリ語尾がタイである事が記されている
こな時代にはまだヤマトなんて存在しなかったと考えるのが普通

709 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:09:07.25 .net
>>705
裴世清が来てその上で都は邪靡堆だったと言ってるわけで
その場所に来てるんだぞ

710 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:09:44.50 .net
中国が邪馬台国と通交した当時、奈良県ヤマトに列島の広域政権が誕生していたことは、もう定説なんだけど

711 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:10:01.83 .net
>>679
前例的には割竹型木棺だと思う。

712 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:10:26.22 .net
>>709
だからヤミェツァイだろ?
その当時畿内にはヤミェツァイがあったということでいいよね
ただし文字のない蛮族の何百年も昔の話はわかるはずもない

713 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:11:52.14 .net
>>708
日本人も奈良県大和をヤマタイに近く発音してました

714 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:11:57.91 .net
>>712
記紀編纂時は日本はヤマトだよな

715 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:12:28.53 .net
なんで畿内説のアホどもは外国語で発音しようとするんだろうな?

716 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:13:08.19 .net
しかも何百年も時代が違うものを平気で持ち出してくる狂いっぷり

717 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:13:42.47 .net
>>712
わざと変な発音する外国人

718 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:14:02.09 .net
>>715
してないから邪靡堆と書いてるんだよ
日本人が邪靡堆と言ってた場所が都だったんだよ

719 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:14:45.37 .net
>>690
隋書は600年代邪馬壹国の時代から300年経ってる
日本側の意見も取り入れた上で書かれているからそうなった可能性あるよ
我こそは魏志倭人伝で書かれたあの邪馬壹国の後継者ですよ
とね
箔つけにもなる

あと発音問題

45 ウィズコロナの名無しさん 2023/09/18(月) 11:25:03.28 ID:uHbStqA80
>>42
当時使われていた中国上古語音で卑弥呼はピミフかプミフ、またはビミフと読む
呼をコと読むのは日本独特の読み方
日巫女が転じて卑弥呼になったというのは、現代日本人にしか通用しない謎理論

55 ウィズコロナの名無しさん 2023/09/18(月) 11:52:05.99 ID:uHbStqA80
>>50
邪の上古音はまた未解明だよ
?馬臺は、?マタイまたは、?マダイ
マがマーと伸ばす長音だった説もある

720 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:15:53.26 .net
>>715
邪馬台国と書いたのは外国人だから

721 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:17:03.84 .net
>>710
でもそれが邪馬台国じゃないことは確定なんだけどw

722 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:17:27.70 .net
な?畿内説アホだろ?

723 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:18:21.57 .net
>>719
理解力が無いな
日本人が邪靡堆と言ってた場所が都で
日本人が邪馬臺と言ってた場所に倭王が居た

724 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:18:41.80 .net
>>713
母音を続けて発音しなかったようだから"ヤミェツァイ"の方が近いだろと思う

725 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:19:26.89 .net
日本人がヤミェツァイと言ってた場所が都で
日本人がヤマダと言ってた場所に倭王が居た

726 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:22:39.69 .net
>>725
当時の発音なんか知らないよ
裴世清は日本人が邪靡堆と言ってる場所に来てそこが都だと言っている

727 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:22:49.49 .net
「帯方郡から12000里(900q)で女王国に至る」の内訳

狗邪韓国まで7000里
+渡海1000里+対馬400里
+渡海1000里+壱岐300里
+渡海1000里+末盧500里+伊都100里=奴国(博多)まで
合計11300里(850q)。

残り700里(50q)で、伊都国(糸島)→奴国(博多)の北は玄海灘、東は百里で不弥国なので、南の筑紫平野に陸行するしかなく、奴国(博多)→吉野ヶ里まで50qでピッタリです!

⇩明帝勅(魏)使が見た女王之所都
https://pbs.twimg.com/media/GHs4jghaAAAKN2l?format=jpg

728 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:24:32.17 .net
畿内説のアホさ加減は止まるところを知らんな

729 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:25:39.25 .net
必要条件と十分条件

2~3世紀の大規模集落の存在は邪馬台国として比定する必要条件ではあるけど
それだけでは十分ではない
何故なら魏志倭人伝には他にも邪馬台国を特定するための情報がいくつもあるから

例えば絹
例えば鉄の矢じりを使う
卑弥呼が擁立される前には倭国大乱があったとされるから
それを裏付けるような形跡
中国鏡
帯方郡からの道里も書いてあるからそれとの整合性
女王国連合に名を連ねる奴国が漢委奴国王印を貰った奴国のことなら
紀元前から大陸との交流があったことになるからそれを示す遺物が無ければならない

それらが揃ってはじめて十分条件を満たしたと言えるのではないだろうか?

730 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:26:33.43 .net
6世紀頃の国名ヤミェツァイでした。

731 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:29:12.03 .net
当時の発音なんかわかんないよ
ただ日本人が邪靡堆と言っててそこが都なんだよ

732 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:29:27.78 .net
ヤマトと呼ばれたのはヤミェツァイ国が滅んだ後ではないかと思う

733 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:32:05.12 .net
>>727
バルコニーの卑弥呼様はもしかして吉永小百合?(まぼろしの邪馬台国)

734 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:32:38.24 .net
>>732
隋の時代で7世紀初頭の都が邪靡堆で
記紀編纂時8世紀初頭の奈良時代の都がヤマトだぞ

735 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:33:56.85 .net
つまり畿内説は妄想を根拠に強引にこじつけた作文でしたと

736 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:35:55.56 .net
>>734
万葉集のヤマトではカモメが飛んでたんだが?

737 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:36:25.82 .net
わかりもしないのに何故勝手に発音付けて違うと言ってんの?

738 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:38:35.47 .net
>>734
俺の持論では中国はずっと勘違いしてるのよ
日本人のヤマトの意味は国家を意味してるけど
中國人は王の居る場所だと思ってる

739 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:39:49.21 .net
わかりもしないしないのになんで何百年も時代の違う外国語の発音持ち出してきて同じと言ってんだろう?

740 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:39:56.22 .net
そもそも隋書の邪靡堆の一文は筆者が推測を記載してるだけ

たぶん魏志の邪馬臺ってのがココだろうと

しかし行程が全く違う

倭人は里を知らん

741 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:40:02.30 .net
弥生時代に中国と交流するのに畿内は遠すぎるのよ

742 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:41:09.65 .net
何故中国人が勘違いするかと言うと中国にとって日本は倭であってヤマトではない

743 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:41:57.05 .net
ちなみに、投馬国からの「南水行十日陸行一月」は呉の背後、つまり「会稽東冶の東(沖縄那覇)にあり」とするための方便(虚構)だとすると辻褄が合いますよ。

おそらく曹魏洛陽から見た倭国島は呉の背後にあって孫権を牽制してくれる存在という認識だったのでしょう。

※魏志倭人伝の蛇足:投馬国→邪馬台国「南水行十日陸行一月」(呉の背後で孫呉を牽制)

末盧国↘伊都国↘奴国→不弥国(九州北岸-福岡平野-直方平野)
...↑▲▲脊振山地▲▲.....↓【関門海峡&周防灘】
女王国(筑紫-日田-宇佐)↓〜複有国皆倭種(本州畿内説)東渡海千里
...↓...........【豊後水道】↓〜〜〜↓
狗奴国(菊池+熊本)......↓〜又有「侏儒国」在其南(四国阿波説)去女王四千里
......................投馬国(宮崎平野)
..................................↓蛇足「南水行十日」
会稽東冶〜〜〜架空の邪馬台国島(種子島〜奄美大島〜沖縄本島=「陸行一月」)

https://pbs.twimg.com/media/GHs4gahaIAAsYBe?format=png

744 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:44:01.30 .net
>>740
裴世清が来て天皇と謁見してるのに何言ってんの?

745 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:44:04.30 .net
>>734
ならば、7世紀初頭~8世紀初頭の間
に、ヤミェツァイは無くなった

746 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:45:19.27 .net
ヤミェツァイを広めようと孤軍奮闘しているバカ…気に入ったwww

747 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:48:45.78 .net
>>744
筆者が来たわけではないのが分かってないのか?
魏志倭人伝もそうだが中国史書は後世の文書屋が当時の記録をコピペしながら合間に自分の推測を添えて編纂しているわけ

748 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:50:34.23 .net
途中で里からいきなり単位を変えるのは後から書き換えられたんだと思う
本来は不弥国から投馬国まで何里投馬国から邪馬台国まで何里と書いてあって
後年、写本を作るときに
え?日本の首都は(写本書いてる時点では)奈良だよね?
不弥国からこの距離では奈良まで届かないじゃん?
と写本を書いた時点での知識との整合性を合わせるために書き換えた
ただ不弥国から奈良まで何里か分からないし帯方郡から邪馬台国まで12000里という記述と矛盾した里数を書くのも憚られるから
水行何日陸行何日と書いた
それなら多少日数が間違っていても天候のせい、風向きのせいで言い訳できるし

749 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:50:37.27 .net
なぜ奈良の都は「ヤマト京」ではなく「平城京」だったのか?
奈良=ヤマトなんてのは曲解だ

750 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:52:00.49 .net
>>747
その可能性もあるにはあるが隋代となると無理があるな
編纂時から正式な歴史書でしょ?

751 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:54:37.52 .net
>>749
このように
九州説には常に理由がない

752 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:55:28.52 .net
>>743
「魏にとっての」倭がどういう位置づけだったのかが倭人伝の核心

呉の背後にあって孫権を牽制してくれる「魏にとって」貴重な存在だと認識していたからこそ「親魏倭王」として鉄を売った訳だ

753 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:56:39.32 .net
邪靡堆は何処にあったのですか?
奈良、滋賀、大阪、阿波、その他、

754 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 11:59:19.20 .net
>>752
魏にとって貴重な存在、逆に敵に回すと孫権に味方して厄介になる存在ということ

755 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:02:44.14 .net
>>753
中国人の言う邪靡堆はあの行程だと当然奈良でしょう
日本人のヤマトはそれら全部含んだ地域だけど

756 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:05:14.37 .net
中国語を日本語で読もうとすることがもう大間違いだと気づけよ
そんなだからピーミーフーを日の巫女とか言っちゃうんだぞ

757 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:05:26.46 .net
>>753
「倭大国魂神大国敷神社 二座」が鎮座する「阿波」

超先進文化を謳歌する「阿波」   @阿波

758 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:07:10.41 .net
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種 → 至狗奴国 = 久努国(くののくに)





久 努 国 ( く の の く に )





久 努 国 ( く の の く に )





馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

759 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:17:12.24 .net
>>756
>そんなだからピーミーフーを日の巫女とか言っちゃうんだぞ

日の昔の発音はピーだって知らんのか九州説は

760 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:17:17.93 .net
>>753
邪靡堆は阿蘇外輪山のこと
https://pbs.twimg.com/media/GLVgNpgagAAApKj?format=jpg

裴世清は途中に立ち寄った卑弥呼時代の筑紫邪馬台国(脊振「山)南麓の舌状「台」地)と混同してしまったのだ

761 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:23:35.03 .net
少なくとも邪靡堆の時代に纒向は無い

762 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:26:50.18 .net
>>761
でも邪馬臺はあってそこに倭王が居た

763 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:29:02.10 .net
>>762
そんな記述は無い

764 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:33:14.75 .net
つまり畿内説は記録文献と全く整合しない作り話でしたと

【後漢書】
後漢書によれば邪馬台国連合は後漢時代ですでに代々王を継ぐ30国からなる事が記されている
それが衰退してきたため卑弥呼女王を共立し再建を図ったのでしょう

【魏志韓伝】
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、濊、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』

よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の経済共同体であったと見なせます。

卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png

765 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:34:30.43 .net
論理大飛躍



 

766 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:34:41.06 .net
また日出処の天子「天垂彦(阿毎多利思比孤)」はその統治を兄弟に喩えているが、兄王朝が九州倭国、弟王朝が大和日本国(推古朝)だったわけだ
https://pbs.twimg.com/media/GLVkHasbYAAIZNA?format=png&name=900x900

767 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:35:49.52 .net
>>764
弥生人が朝鮮半島南部に出かけていったんじゃなく
現地の倭人が鉄鉱石を掘ってたんでしょう
弥生人が鉄鉱石を掘っても鉄に精製出来ない

768 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:37:31.10 .net
>>766
阿毎多利思はアマテラスだと思うがなあ
ヒコは尊称だから要らない

769 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:38:47.87 .net
姫彦制って本当にあったのだろうか?

770 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:41:11.31 .net
>>1

おまえ馬鹿じゃないの
方位も距離も日数も無視するのが畿内説なんだろ
戦果はぞ倍報告とか、瀬戸内航路だとか、裴世清なんか出して説明しようとするからバカなんだよ
お前みたいなやつが、畿内説を支離滅裂にしちゃうんだよ

771 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:43:26.57 .net
濊と貊 は

虎と熊が濊族と貊族によって崇拝されていたトーテムであった可能性があることを示唆しています
貊は高句麗のことで、高句麗人はダウール人です 
韓国人は将軍漂という石や木のトーテムポールを持ちますがこれは朝鮮人がつくったものです


デマが大量に拡散されてます 内モンゴルの中華人民共和国のエベンキ族は
ロシアのマトリョーシカにも似てるアジア系であり、馬やラクダに乗る民族です
奇妙なトーテムポールはモンゴル草原にはありません

心あたりのブロガーは削除してください

772 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:50:10.69 .net
記紀は、隋の天子・煬帝に無礼をはたらいた阿毎多利思比孤を厩戸王子との合成人格「聖徳太子」で抹消することw

773 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:51:08.18 .net
>>770
あんたも論破された腹いせマンか

774 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:52:22.00 .net
隋に対して倭はあまり誠実な態度に見えないけどな
この頃から倭国の地理歴史についてシナを欺こうとしてたんじゃないかね

775 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 12:53:57.93 .net
「和」を以て貴しとなすは、倭➡和 への表記変更のこと

776 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:04:09.58 .net
畿内説信者というのは創価学会信者みたいなもんだろ

777 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:05:43.47 .net
>>776
言い得て妙

778 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:06:07.61 .net
遣唐使「我々とは関係ない別の国の奴らですよ」

779 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:12:06.82 .net
>>774
魏志倭人伝に出てくる倭人については誠実だと書いてあるのにな
旧唐書に出てくる日本の使者は態度がデカく不誠実とか書かれてるよな

前者が生粋の倭人で後者が倭種(半島系)って事だ

780 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:14:11.34 .net
>>778
小野妹子を隋に派遣したのは、推古厩戸じゃなく、阿毎多利思比孤だったのかもな

万葉集の鯨漁の淡海も琵琶湖(淡水)ではなく有明海(海水)じゃないとおかしいし...

781 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:15:32.77 .net
>>779
倭人は文字通り見すぼらしく、従順で卑屈じゃないとな

782 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:19:02.17 .net
ハイ!

783 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:25:13.78 .net
倭人は日之所出という魏志のフレーズが気に入ったんだよ
国名になったくらいだからよっぽどだ
ただ日出る国というためには、東に別の国があっちゃまずいだろ
だから昔から東にあったことにしたの

784 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:33:33.79 .net
>>780
びわ湖にゎ鯨もイルカも棲めないよ

785 :ネトウヨボクメツタイ!:2024/04/17(水) 13:33:33.84 .net
中国の皇帝に対してジャップが不遜だったのは確かな話のようだ
一番ひどいのは明王朝に朝貢した日本国王良懐こと懐良親王だな

明の皇帝に対して博打で勝負決めようとか、そもそも国書を持ってこないとか、非礼過ぎてぶっ飛んでいるレベルだな

786 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:34:25.85 .net
>>785
火病った在日韓国人登場!w

787 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:36:17.40 .net
>>773
俺関係ないけど、悔しそうだな(笑)

788 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 13:42:21.82 .net
ねぇ、倭王阿毎多利思比孤(天垂彦)が小野妹子を隋に派遣していたなら、色々と歴史が塗り変わっちゃいそうだねw

789 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:03:59.55 .net
九州説の行き着く先は月刊ムー

790 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:07:07.29 .net
卑弥呼さまは比弥(ひめ)、弥己等(みこと)

791 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:09:11.58 .net
つまり畿内説は邪馬台国なりすましオレオレ歴史詐欺

792 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:14:44.22 .net
>>788
そう、アマテラスで日本の歴史書はここから始まった

793 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:23:05.22 .net
つまり月刊ムーの編集長は畿内説ですよと

794 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:24:39.22 .net
90度地殻変動とかオーパーツとか畿内説とムーは親和性たかい

795 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:25:49.84 .net
>>727
>>743
ここまで正確だと、魏志倭人伝が継ぎ接ぎだらけだという畿内説は説得力を失うな

796 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:32:29.89 .net
寺澤はムーの愛読者だろ

797 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:38:36.17 .net
去年の夏の時点でムーの編集長は
ウクライナとロシアの戦争は中東に飛び火する
と予言してた
んで実際に10月にハマスのテロからガザ侵攻となって
編集長凄いですね、と年末の特番で言われて
来年は中東の戦争にイランが引き摺り込まれて
核兵器が使われる
それを見たロシアもウクライナに核兵器を使い、チャンスと見た中国が台湾に侵攻すると
予言してる

尚編集長本人は
これは予言なんかじゃないんだよ、ただの計画、そういう話を聞いただけ
と言っている

798 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 14:56:54.21 .net
ロシアは核兵器を使うのではなく、欧州最大のザポロージェ原発を爆発させてウクライナを住めない状態にして占領するのではないか?

799 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 15:19:05.04 .net
>>788
在任那倭人の代表が倭国本国に先んじて隋に使者を派遣しただけだぞ

アマタリシヒコはタリの王だろ?
任那に上タリ、下タリという地名があって継体が百済に割譲してるだろ

800 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 15:21:48.39 .net
畿内説が邪馬台国なりすましのオレオレ歴史詐欺と決まった以上、これ以上何もやることはないなw

原発は冷却水の循環ポンプを止めればあっという間に炉心溶解(メルトダウン)しちゃうから簡単
鬼畜ロシア人ならやるだろうと漏れは見ている
英米とイスラエルと同じように、露中とイランと北朝鮮は核でつながっているから心配だ

801 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 15:25:16.86 .net
これやね

https://i.imgur.com/qoRjMLu.jpg

802 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 15:32:55.42 .net
山田って古田の子分だったな

803 :琪瑛教大祭酒:2024/04/17(水) 16:22:05.95 .net
無駄だな
平原の祭祀を魏が観ていれば鬼道とは言わない、韓と同じという
九州はいつまでも誤魔化していてはダメだよ
平原は柱鬼神、出雲と同じ韓神を祀る部族。
それを否定できたら説明しそれから畿内説に文句をつけろ
北九州は古辰国分裂の一派に属する

804 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 16:25:10.83 .net
>>803
平原の鬼道がどんなものであったかは証明されてない

805 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 16:27:21.94 .net
>>795
通説畿内説ではいくら魏志倭人伝をいじっても、もはや九州説を採り得ないことをまずは理解した方が良い

806 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 16:31:54.07 .net
教科書にアマテラスが載っていなくて卑弥呼が載っているとか
神話がスルーされてるのに邪馬台国について触れられているとか
そういうのは大いに問題なので
邪馬台国論争には決着がついて欲しい
そもそも日本書紀で神武=紀元前660年などと噓をついたのが致命的だった
その縛りでまともに天皇年代論を言えなくなって、その反動で邪馬台国論争に火がついたという側面がある

807 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 16:36:18.78 .net
>>688
やはり、今年度も、
『邪馬台国近畿説には、具体的な証拠が全く無いのだ。』
という真実が、発表されましたね。

808 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 16:46:20.21 .net
>>806
そんなん憶えてるわけねえじゃん
卑弥呼の時代が記紀編纂の500年前

809 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 16:51:55.96 .net
>>808
ならその頃の日本書紀の描写もデタラメかもなw

810 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 16:54:42.74 .net
>>808
子供たちにもっと古事記に触れて欲しい
古代天皇に積極的な興味を持ってほしいという意味
今や、中学生世代においても邪馬台国が日本の古代史の最大・唯一のテーマになっている
それはいかがなものか? というレスでした 

811 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 16:54:46.63 .net
>>809
だから俺は阿毎多利思(AC600年)がアマテラスだと思ってるよ

812 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 16:59:28.47 .net
AC600年くらいが伊勢神宮の歴史とも合致して丁度いいんじゃないか?

813 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:01:04.74 .net
卑弥呼=アマテラス説もスキャンダラスなのに
さらに上手がいたとはw

814 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:04:54.47 .net
勿論大仙陵古墳も箸墓古墳もそれ以前だし何かが居たよ

815 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:08:39.95 .net
アマテラス神話が先にあって、阿毎多利思はパクリかもしれんし

816 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:10:27.65 .net
>>801
それが投馬国だろ
その南つまり北部九州が邪馬台国だ

817 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:11:24.51 .net
>>815
そんなものは無い
誰がそんな根も葉もない話を受け継ぐんだ?

818 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:13:09.28 .net
投馬国を朝鮮半島にしたり、水行十日陸行一月は嘘でした〜で済ますのが九州説

819 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:21:50.12 .net
>>818
陳寿は倭国のワの字も知らない文書屋だ
渡された記録の切れっぱしを切り貼りしてただけ
邪馬台国の松浦に上陸し伊都国に滞在し、女王への連絡→都からの迎え→同行して都入りまで一月かかるという意味かもしれんからな
実際後世の日本も外国からの使者を太宰府に何ヶ月も待てせてたんだから

820 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:23:47.83 .net
>>818
必要条件と十分条件の違いが分からないのが畿内説信者

必要条件と十分条件

2~3世紀の大規模集落の存在は邪馬台国として比定する必要条件ではあるけど
それだけでは十分ではない
何故なら魏志倭人伝には他にも邪馬台国を特定するための情報がいくつもあるから

例えば絹
例えば鉄の矢じりを使う
卑弥呼が擁立される前には倭国大乱があったとされるから
それを裏付けるような形跡
中国鏡
帯方郡からの道里も書いてあるからそれとの整合性
女王国連合に名を連ねる奴国が漢委奴国王印を貰った奴国のことなら
紀元前から大陸との交流があったことになるからそれを示す遺物が無ければならない

それらが揃ってはじめて十分条件を満たしたと言えるのではないだろうか?

821 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:24:56.33 .net
絹や鉄の矢じりが邪馬台国の文化ってどこに書いてあるんだ?知恵遅れなのかこいつ

822 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:26:00.54 .net
>>819
こんなことをマジで言い出すのが九州説

823 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:26:39.50 .net
そもそも海だったり知らない土地だったり距離なんかなんの目安になるんだ?
東南方向に水行ひと月陸行ひと月の方が為になる

824 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:30:10.56 .net
>>822
ごく当たり前の論理的推測だろ低能w
事例もあるんだから

825 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:30:35.23 .net
つまり高地性集落が少ない北部九州は倭国大乱の現場ではない

826 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:30:36.64 .net
>>821
これが畿内説の人のレベルなのか?

種禾稻紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲

「稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹わたを生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。」


兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

「兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。
竹の矢は鉄や骨の鏃を付ける。
持っている物、いない物は儋耳、朱崖(の人々)と同じである。」

827 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:31:29.33 .net
つまり畿内説は行き当たりばったりの妄想作文でしたと

828 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:32:03.68 .net
>>826
>出真珠青玉 其山有丹

九州って青玉(翡翠)も出ないし丹(水銀朱)の物証もないじゃん、アホか?

829 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:32:49.82 .net
>>824
学会で発表しろよ知障

830 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:33:02.66 .net
>>824
年代をはっきりさせろ
いい加減すぎ
鏡って漢王朝の鏡をパクってそれを贈り物にしたのか?

831 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:33:57.23 .net
水銀朱が発見されてない九州は論外ってことか
じゃあ阿波説と畿内説の一騎打ちだな

832 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:34:34.23 .net
学会に投馬国は朝鮮半島とか言ってるやつ居るのか?

833 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:35:57.16 .net
>>828
はい嘘

新潟県糸魚川市と周辺地域で採れることで有名です。

国の天然記念物に指定されている、小滝川ヒスイ峡と青海川ヒスイ峡での翡翠採取は禁止されていますが、富山県と新潟県の県境周辺の海岸沿いや糸魚川、青海川などの河口付近に打ちあがったものを拾うことはできるそうです。

糸魚川市にあるフォッサマグナミュージアムでは、採取した石を持っていくと本物の翡翠かどうかを鑑定してくれるサービスを行っているそうですよ。

この他にも、鳥取県、兵庫県、長崎県、岡山県などで翡翠が見つかることもあるそうです。

834 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:37:04.08 .net
>>833
宝石になるレベルのは糸魚川だけだぞ

835 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:37:27.99 .net
>>831
確かに
九州説は出て行ってもらうか

836 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:38:11.09 .net
.






投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125






.

837 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:38:29.90 .net
>>833
もちろん、蛇紋岩の採れる「阿波」でもな。   @阿波

838 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:38:51.94 .net
阿波説vs畿内説でよさそうだな
九州で当時水銀朱採ってた根拠ゼロだし

839 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:39:24.11 .net
丹が出る山がないのに邪馬台国だと言い張るお笑い九州説

840 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:40:37.57 .net
>>838
>阿波説vs畿内説でよさそうだな

碌に鉄器さえも作れない畿内がか?   @阿波

841 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:44:05.94 .net
>>829
池沼学会で発表しろってか?w
池沼は一生池沼を晒しながら生きてりゃいいんだよw
未来の笑いのネタになるから

842 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:44:48.26 .net
>>833
有名になったのは最近で糸魚川にヒスイがある事なんてすっかり忘れてた
そんな奴らが日本の歴史なんか憶えてるわけねえだろ

843 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:45:41.00 .net
>>828
水銀朱も九州にあったとあるぞ
九州の古墳に使われてる水銀朱は中国からの輸入ものものが多いみたいだが
水銀朱の流通ネットワークがあったんじゃないかってさ
邪馬台国が水銀朱の流通拠点の一角だったのかもな

https://www.zero-position.com/entry/2019/12/03/210000

844 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:47:29.27 .net
>>843
山に丹ありだから、当時の九州の山から水銀朱が採掘された証拠が出せなきゃ意味ないぞ

845 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:47:31.26 .net
銅鐸もヒスイも僅かな期間ですっかり忘れてるんだよ
伝承なんか絶対出鱈目だ

846 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:48:35.04 .net
古墳時代の話を持ち出していいなら奈良にも絹あんじゃん
九州説ってガチもんの頭の病気の人たちだったんだね

847 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:49:48.60 .net
九州説は「其山に丹有り」で終了だな

848 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:50:59.74 .net
>>846
都合に合わせて時空を行ったり来たりしてる畿内説こそが病気なんだがw
半島式思考回路ってやつなw

849 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:51:22.24 .net
九州説いらなくね?
これからは阿波vs畿内か

850 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:52:16.22 .net
>>849
何その現実逃避コンビw

851 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:52:42.89 .net
九州説は「其山に丹有り」で終了だな

852 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:52:51.20 .net
>>846
九州は弥生時代の古墳にもふんだんに水銀朱使われていたから
魏の使者が勘違いしたのかもな
或いは徳島から交易で手に入れたものを邪馬台国産と思い込んだか
畿内は絹自体が弥生時代に見つかっていないじゃん

853 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:54:15.55 .net
>>849
>阿波説vs畿内説でよさそうだな

碌に鉄器さえも作れない畿内がか?   @阿波

854 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:54:22.42 .net
吉野ヶ里の石棺にも水銀朱塗られていたし
魏の使者が勘違いするのも仕方がない

855 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:54:22.79 .net
東に海がない畿内説
丹の際立った産出がない九州説

そのはざまで今、自分の中で四国説がじわじわと侵食してきた

856 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:55:02.11 .net
九州説は「其山に丹有り」で終了だな

857 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:55:24.55 .net
>>843

北海道〜山陰(京田遺跡)までの流通ネットワークだろ

858 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:57:47.23 .net
九州説閉幕

~水銀朱産出せず~

859 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:58:27.74 .net
>>855
>そのはざまで今、自分の中で四国説がじわじわと侵食してきた

水銀朱や鉄器など、超先進文化を謳歌していたのが「阿波」。   @阿波

860 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:58:52.88 .net
>>855
東に海がない土地なんて日本にはないぞ

861 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 17:59:27.77 .net
http://sakuwa.com/yx176.html

862 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:00:05.69 .net
>>858
絹存在せず
畿内説閉幕

863 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:00:34.90 .net
~さらば九州説~

水銀朱産出せず

864 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:00:57.99 .net
九州の絹は首狩り甕棺墓時代のだろ

865 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:01:00.19 .net
水銀朱産出はしてなくても
弥生時代の九州に水銀朱がふんだんにあったことは証明されてる

866 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:02:01.51 .net
一方、弥生時代の畿内には絹は見付かっていない

867 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:02:33.27 .net
松浦といえば水銀が落ちてる地域だからな

868 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:03:12.66 .net
「其山有丹」だから日本産じゃないとだめだろ

869 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:03:58.89 .net
水銀は落ちてないだろw

870 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:04:11.71 .net
~さらば九州説~

水銀朱産出せず

871 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:05:20.20 .net
https://www3.nhk.or.jp/lnews/otsu/20230628/2060013581.html

872 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:06:49.24 .net
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45198860T20C19A5CR8000/

873 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:11:06.51 .net
>>801
「タリ」の地が百済南西部(ちょうど前方後円墳がある場所)にあるだろ?

アマ「タリ」シヒコだよ

874 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:13:38.57 .net
大陸から地図を見ると、フィリピンのあたりからカムチャッカまで途切れ途切れに連なる島々が弧を描いて横たわっている
魏志倭人伝の記述も島から島への移動というコンセプトに基づいて見ると、3つの島の物語に集約することが出来る
本州や四国などと言っている現代人にびっくりしているのは墓の下の陳寿だろう

875 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:17:33.18 .net
アマノ-タリシ-ヒコ
だから「天より下りしヒコ」だろ

876 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:25:45.07 .net
>>855
九州の東はそのまま太平洋で、倭人が住む陸が無い

877 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:28:13.06 .net
>>869
知らんのか?

878 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:28:25.99 .net
>>826
で、それが倭国の中でも特に邪馬台国に見られる文化だなんてどこに書いてるんだ?

879 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:28:29.87 .net
>>603
畿内が自らの力で邪馬台国を作り上げたという説
久住氏、寺澤氏などはアンチ畿内自生説

880 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:31:13.60 .net
南を東と読み替えるまでは良心が許しても
さすがに、奈良の東西南北に海があるなどという記述は狂人にしかできない
丹の前に自らの欺瞞を解決してほしい

881 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:32:34.01 .net
アメノヒボコという渡来人の子孫に息長タラシ姫というのが居るそうで

882 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:33:12.88 .net
>>880
筑紫平野の東は海ですか

883 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:33:49.68 .net
邪馬台国が倭王なら交易や徴税で
水銀朱が買えれば、倭に水銀朱は有る。
九州は日本海ルート諸国との交易でも
銅鏡や真珠、鉄器と交換できる。
阿波の口車に乗るのは馬鹿?

884 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:36:01.20 .net
>>882

女王国=邪馬台国は大分まで含む北部九州一帯だが何言ってんだ?

885 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:36:42.20 .net
橿考研所長青柳氏「3世紀末の奈良盆地には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在した」

橿考研アドバイザー岡林氏「他の追随を許さない圧倒的な王権が存在したことが分かり、初期ヤマト王権弱体論の見直しを迫られる」

畿内自生説の反撃が始まったと見るべきで、これについてトナカイと意見交換をしたい。

886 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:38:49.03 .net
>>880
海から行けるなら何故ひと月もかけて陸行するんだ?

887 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:40:51.00 .net
邪馬台国論争は自分の中では終わってるので面白くない
畿内自生説か反畿内自生説か、それを考えたい

888 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:41:22.85 .net
>>884
女王国=邪馬台国は近畿一帯+αだが何言ってんだ?

889 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:42:54.53 .net
富雄丸山古墳=ヤマト王権だとすべての新聞が書いていたが
あれは妥当なのか?
もう定説ということでいいのか?

890 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:44:30.66 .net
>>878
それだけ邪馬台国で水銀朱が流通していたんだろう?

891 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:46:50.26 .net
>>884
筑紫と大分って文化圏全然違うからな
方言も全然違うし

892 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:46:57.65 .net
播磨風土記に景行天皇が船頭の息長に大中という姓と出雲の姫を与えたとある

893 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:47:05.71 .net
アンチ畿内自生説では、庄内併行期でもいまだ北部九州が銅鏡の数で上回っており、畿内が北部九州を上回るのは魏に遣使をした後の布留ゼロであるという
北部九州は魏と交流を持たずとも、鏡を大陸からゲットすることができたということが前提となっている
それならば、内行花文鏡のような鏡ではなく、画文帯神獣鏡や斜縁神獣鏡などの鏡を北部九州は出すべきではないか?
この点でも、アンチ畿内自生説をいまだ受け入れることができない

894 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:47:46.26 .net
その「ヤマト王権」が「阿波」を指すのであれば、妥当だ。   @阿波

895 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:47:57.74 .net
~さらば九州説~

九州の山から水銀朱産出せず

896 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:48:37.07 .net
>>888
前方後円墳大王を滅ぼした円墳大王じゃないのか

897 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:49:30.91 .net
安価間違えた888じゃなくて>>889

898 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:49:36.46 .net
>>889
銅鏡3面が三角縁神獣鏡なら確定
それ以外ならヤマト王権でない可能性もワンチャンあるかもしれないが、4世紀末ということを考えると、ヤマト王権以外に考えられない

899 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:52:35.75 .net
>>898
碌に鉄器さえも作れない寒村奈良盆地がか?   @阿波

900 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:56:19.25 .net
>>884
瀬戸内海航路の中心が
行橋〜宇佐か別府なのは間違いない。
関門海峡通過は潮待ちが難しい。

これは大潮〜止潮の日と風を選ぶだけの
当たり前の航海術だが
瀬戸内海は島が多くて
今、どこなのか? 迷路だろ?

倭人伝が対馬と壱岐の説明なら、
瀬戸内海って、どんだけ?
淡路島は右?左?

901 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:56:37.47 .net
三角縁神獣鏡ってもしかして
単に出張鏡職人たちの間で流行していた模様なだけだったりしてな

902 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:57:42.28 .net
>>901
それは絶対にあり得ない

903 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 18:59:06.76 .net
>>902
じゃあ誰が模様をデザインしたんだ?

904 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:01:13.57 .net
>>877

水俣みたいになっちまってるのか?

905 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:02:33.26 .net
>>903
徐州系の中国人

906 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:03:08.93 .net
>>891
畿内はもっと違うが?
鉄もないし

907 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:03:51.21 .net
>>903
銅出徐州師出洛陽

908 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:04:13.37 .net
>>904
お前水銀朱がどんなもんか知らんのか?w

909 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:07:35.27 .net
>>905,907
中国で出ない鏡にいつまで幻想抱いてるんだ?
そういう妄想は考古学的に良くない

910 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:08:27.71 .net
「タリ」の地が百済南西部(ちょうど前方後円墳がある場所)にある

アマ「タリ」シヒコだよ

https://i.imgur.com/qoRjMLu.jpg

911 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:08:44.39 .net
>>908

水銀朱ではなくて、
>>867は、
>松浦といえば水銀が落ちてる地域だからな
と書いてるから、
>>869
>水銀は落ちてないだろw
と俺が書いたんだ
お前わかってるのか

912 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:09:08.41 .net
もし邪馬台国が畿内にあるのなら、なぜ魏の使者はわざわざ九州を散策したのか?
対馬海流の危険度を考えれば、直接山陰に行く方がはるかに簡単で安全なのだ。
積み荷の量も相当なものだっただろう。
また、対馬海流という観点を重視すれば、いきなり博多湾方面に舵を取る方が理に適っているのだ。
なぜ、松浦に最初に行くのか?
それらの視点がない理論は滑稽でしかない

913 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:09:50.47 .net
>>875
タラシではなくタリシと書かれてるんだからそのまままずは解釈しようよ

914 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:09:51.84 .net
中国出身の鏡職人が渡来してきて古墳造営キャンプをあちこち渡り歩いて出吹きしてたんだろう

915 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:10:17.15 .net
>>910

「シヒコ」ってなんだ?

916 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:12:10.88 .net
蛇行剣って失敗作だろ?

あのサイズの鋳型を作ることができなかったから地面に溝掘ってそこに鉄流し込んだだけだよ

まっすぐ作りたかったけど地面の溝に鉄流し込んだだけじゃ当然まっすぐにならなくてあの形になっただけ

蛇行した形に意味を見出そうとするのは間違い

917 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:15:34.74 .net
>>915
シは助詞または名詞を形容詞化するための接尾詞だろ
ヒコは日子で倭人の王族の意味

任那割譲後も半島南西部は倭人が住んでて前方後円墳を作ってただろ?

前方後円墳作るんだからそりゃ倭王族がいたってことだろう

918 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:16:04.44 .net
>>896
>>898
どうもありがとう

919 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:19:11.45 .net
>>917

百済南西部の地名「タリ」は(固有)名詞じゃないのか?

920 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:22:57.25 .net
>>919

ちょっと違ったなw
百済南西部の地名「タリ」を形容詞化すると
どういう意味になるんだ?
百済南西部のタリのようなヒコか?

921 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:29:22.91 .net
〜シヒコ(〜のようなヒコ)なんて人名がアメタリシヒコ以外に一人でもいるのか?

922 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:30:36.33 .net
当時の任那地図はこっちの方がいいかも

https://i.imgur.com/aW92bnb.jpg

923 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:31:18.98 .net
>>901
古墳に埋めるためとして作られたらしい
各古墳毎に作られてるのが仕上げで分かった
生前に使われたりあちこちから集めてきたなら
同じ仕上げにはならないから

924 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:33:37.89 .net
>>923
纏向政権から配布された鏡とか根拠レスの幻想すぎたな

925 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:33:40.82 .net
~さらば九州説~

九州の山から水銀朱産出せず

926 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:36:04.59 .net
いかなる時も理由を言わないのが九州説

927 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:37:04.71 .net
>>916
素人考えである
盾型銅鏡も考慮すると超国宝級

928 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:37:31.94 .net
>>912
おそらく魏の使者ではない

929 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:40:01.92 .net
プロレベルに聞きたいんだが、三角縁神獣鏡って4世紀末でもまだ流行ってる?
ほとんどの大王墓レベルはそもそも未調査なんだが、一部盗掘を受けたり、調査した古墳からは三角縁神獣鏡が出てきてないように見えるんだが?

930 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:40:25.67 .net
>>916
鉄器王国「阿波」とはいえ、当時の技術はそんなものだったんだろう。   @阿波

931 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:40:33.72 .net
ほれ、呉の太伯が使っていた呉のあった長江下流域から出土した三本足の
生えた不思議すぎる炊飯器(嘲笑













長江下流域で出土した土器(南京博物館)

http://ak-d.tripcdn.com/images/1mi6e2234a3vvhy5c133F_W_400_0_R5_Q90.jpg?proc=source/trip












.

932 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:41:37.57 .net
どんぐりとかやる前に、まず行間空けコピペ野郎をま規制しろよ

933 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:44:07.87 .net
>>923
>各古墳毎に作られてるのが仕上げで分かった
それほんと?
ソースは?

934 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:47:18.16 .net
桜井茶臼山が銅鏡多量副葬の最後のように思える
箸墓や西殿塚も銅鏡を多量副葬しているだろうが、4世紀古墳では銅鏡の多量副葬は多分終わってる

935 :琪瑛教大祭酒:2024/04/17(水) 19:48:27.77 .net
多利とか多々羅を北九州は意地でも認めないからムダだぞ
古辰国人の書物に洗脳され自己の観念の世界で生きとるだけ
九州説の責務は平原とは何かを説明出来てから畿内を語れ
それと自生、反自説も勘違いしていると思うね
まぁ何れにしろ、もう覆すことは出来ないし今は五王に進み始めている所でしょう。
ミマキ入り彦(入り婿)らしいからここら辺でも一系とかは無いわけよ
婿が入れば姫の親が死ねば大概奪われる(譲られる)のが人間社会では普通のことなんだよ

936 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:50:11.75 .net
古墳時代はまさにカオスと考えた方がいい
国際社会、移民社会で大和王権以外にも大きな勢力が畿内にも存在していた
この列島はアレクサンダー大王や始皇帝がいた国ではない
大陸の王権成立の歴史をそのままこの国に当てはめる愚から、そろそろ卒業して頂きたい

937 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:50:49.94 .net
>>924
奈良県の纒向遺跡やオオヤマト古墳集団の近くには
田原本町に『鏡作郷(かがみつくりのごう)』があり鏡作神社がある

938 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:53:00.16 .net
>>933
紫金山古墳から三角縁神獣鏡は10面出土したが
鏡の紐を通す孔が全て鋳放し(鋳たままで仕上げしていない)であって
中には孔が完全に塞がっているものもあった。
考古学者の森浩一によると
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。紫色の組み紐。紐は腐ってくるからよく鏡だけ発掘品に並べてあるけど
組み紐とセットで、ある意味では組み紐の方が重要だったわけですね。紫綬。
だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば
紫綬を通す所の、紐の孔は綺麗に作り上げて、そこには何色かの組み紐が付けてあってしかるべきなのです。」
橿原考古学研究所の所長だった菅谷文則氏は
画文帯神獣鏡等の中国の鏡は組み紐を通す孔が綺麗に仕上げされていて
紐を通して日常的な使用に耐えられるようになっているが
三角縁神獣鏡の7~8割は仕上げがされていなくてギザギザが残っており
紐を通しても紐がすぐ切れてしまい日常的な使用には耐えないだろうと述べ
三角縁神獣鏡はお墓に入れる為に日本独自に出来上がったジャンルなのではないかと述べている。

939 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:55:40.65 .net
>>936
考えられない
上石津ミサンザイ古墳、津堂城山古墳、仲ツ山古墳、五社神古墳、巣山古墳、佐紀石塚山古墳、築山古墳、摩湯山古墳、
そしてそれに続く、誉田御廟山古墳、大仙陵古墳の存在からヤマト王権に比肩する勢力は存在しない

940 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:55:45.15 .net
>>937
「阿波」から勧請された鏡作坐天照御魂神社な。   @阿波

941 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:57:42.77 .net
>>929
4世紀末は三角縁神獣鏡の終焉段階
分布の中心が畿内中央部を外れた周辺に移動し、過半数が円墳からの出土で前方後円墳ではない

942 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 19:59:57.82 .net
>>421
なるほど

943 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:03:45.68 .net
>>938
ありがとうございます。
組み紐を意識していないということは、
専門家から見て、魏皇帝からの下賜鏡でないことは明らかなのですね。
それに絹文化も浸透していなかった。

944 :琪瑛教大祭酒:2024/04/17(水) 20:04:49.38 .net
魏書には対海国(瀚海)であって対馬(対馬韓)にはまだなっていない。
北九州は古辰国タマゴ派
甕棺なんだからあきらか
いつまでも誤魔化し嘘をついていてはダメだね。

945 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:10:10.19 .net
>>944
面白いなそれ

946 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:12:20.95 .net
~さらば九州説~

九州の山から水銀朱産出せず

947 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:13:40.69 .net
>>939
墓が同じ形だから同じ勢力のはずだ!という理論は役に立たない

なぜ墓が同じなら同一勢力だと思うのか

ヨーロッパは古代から近代までほとんどキリスト教の国だが、単一の勢力だったと誰が言うのか

948 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:16:29.19 .net
そして墓の形は実は同じではない
前方後円型という「外形」が同じなだけであって
内部構造はまったくちがう

949 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:16:45.47 .net
墓制が違えば違うやつらだろ

950 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:18:02.99 .net
>>949
「墓制が違えば違う奴ら」

「墓制が同じなら同じ奴ら」
は意味が違う

初歩的な論理学の問題だぞ

951 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:20:11.82 .net
>>947
不勉強すぎる

952 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:25:22.75 .net
古墳時代は群雄割拠の戦国時代ではありません

953 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:30:42.51 .net
邪馬台国=織田家
投馬国=毛利家
奴国=龍造寺家
狗奴国=徳川家・北条家

954 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:32:40.17 .net
全国統一したら半島に侵攻
すなわち、ヤマト王権は4世紀には全国統一してる

955 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:47:35.28 .net
>>951
お前が

956 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:48:04.73 .net
>>954
統一と分裂を繰り返すのが歴史の常だろう

957 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:48:57.83 .net
架空の国、邪馬台国が何処にあったか、都邪靡堆のあった場所だろう、

958 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:51:07.40 .net
>>943
>専門家から見て、魏皇帝からの下賜鏡でないことは明らかなのですね。

森浩一は専門家じゃないけどな

>それに絹文化も浸透していなかった。

と思う理由は?

959 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:51:28.62 .net
>>952
古墳時代は法もルールもないんだから群雄割拠にしかならないだろ

これ何回も書いたことあるけど

大王が腹心の部下に地方統治を任せたとして
大王が死んで子供の代になったら元部下はどう考える?

「先代の大王にはお世話になったけど、なんで息子の言うことを聞かなきゃいけないんだ?知らんぞ」
と当然なるだろう

960 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:54:02.81 .net
邪靡堆にはめぼしいものは無いのか?

961 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>959
>大王が腹心の部下に地方統治を任せたとして

うわぁこれマジで言ってんの?
頭悪いなぁ

962 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:56:25.35 .net
>>959
それをルール化したのが持統天皇。   @阿波

963 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:57:13.91 .net
>>955
話にならない
どの教科書を見ても、ヤマト王権が4世紀には東北などを除き、全国統一していることを載せている

964 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
基礎知識が根本的に欠如してる感じ。
古代の社会構造を探ろうとする姿勢はいいんだけど、地方の統治を腹心に任せるとかいうあたり欽明天皇くらいの時代の話を持ってきてる馬鹿じゃん。
お前こそ大王中心史観だわ

965 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 20:59:32.17 .net
>>962
だろ?
結局「記紀」と「律令」の両方が揃って始めて統治が安定するんだろ?って

どっちもない時代なんか群雄割拠に決まってるだろ

966 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:00:08.95 .net
>>961
腹心じゃないなら王子でもなんでもいいよ
同じことだよ

967 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:01:44.36 .net
誉田御廟山とか大仙陵古墳とかの存在があっても、群雄割拠とか戦国時代などという馬鹿な九州説

968 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:02:15.77 .net
在地の豪族でもなんでもいいよ

在地の豪族だって「先代の大王の言うことは聞いたけど、その息子?なんで若造に従わなきゃならんのだ」って思うだろっての

969 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>966
あのさぁ、王子なら先代の王だけじゃなくて後代の王とも血縁関係があるよね

970 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:03:33.28 .net
>>967
>誉田御廟山とか大仙陵古墳とかの存在があっても

それ、なんのエビデンスのないから。   @阿波

971 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:03:56.40 .net
>>967
統一と分裂を繰り返してるからだろ
逆に言えば何度も地方遠征に行かなきゃいけなかったのは分裂を繰り返してる証拠だろ
じゃなきゃなんでタケミカヅチやフツヌシの拠点があるのに東国遠征に行く必要があるんだっちゅうの

972 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:04:57.05 .net
>>969
なおさら対立するだろバカか

自分の甥っ子が大王として「俺に従え」とか言ってきたら「甥っ子が何いってんだ?」ってなるだろ

普通の人間として考えろよ

973 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:05:44.05 .net
>>971
一地方が反乱することを群雄割拠とか戦国時代とは言わない

974 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>968
>先代の大王の言うことは聞いたけど、


もしかして大王個人の資質に依存した体制だとでも勘違いしてる?
古墳時代初頭なら奈良盆地東南、古墳時代前期後半なら奈良盆地北部、古墳時代中期なら河内が交易の中心地であり対外交易の代表者だったから、各地の首長は交易の恩恵に預かるため畿内の倭王に協力してただけだよ。

単に地域間の経済的な利害関係で結びついていただけ。決定的な利害の不一致でも起きない限り大王と敵対することはない。

975 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:08:25.74 .net
>>970
@阿波さん
岡山人ってそんなに酷い県民性なの? 四国に冷たい?
https://www.youtube.com/watch?v=rN1aUvTey3Q

976 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:09:11.93 .net
>>973
それは言葉遊びだよ
前方後円墳を作った勢力が単一の勢力だったかの話

一時的にでも分裂してるなら単一ではないってことだろ?

977 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:09:52.54 .net
>>976
分裂してない

978 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:10:15.59 .net
同じ前方後円墳を作ってるんだから同じ国なんだ!ってのは「仮説」にすぎない

無条件に信じてるやつはなんも考えてないアホだろう

979 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:10:44.63 .net
>>977
分裂してるから定期的に地方遠征に行かなきゃいけない

980 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:11:20.86 .net
>>978
同じヤマトという国である
小学生か中学生か高校生の教科書を読もうと

981 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>978
同じ前方後円墳だから、じゃなくて同じ築造規格で作られてるからだぞ

982 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>979
お前大王が地方遠征に行ったとか信じてんの?馬鹿じゃね?

983 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:12:15.79 .net
>>974
神話も律令もなければ個人のカリスマで統治するしかないだろう

逆になんだと思ってるの?

984 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:12:33.19 .net
>>979
反乱は分裂ではない
大規模で政権を脅かすようなものは分裂と言えるが、そのような大規模反乱は存在しない

985 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:12:46.28 .net
>>982
誰がそんなこと言った?w
いきなり話しそらしだしたな

986 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:13:10.86 .net
>>980
「仮説」だなそれは

987 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:13:25.73 .net
>>984
同じこと
言葉遊びするなっつの

988 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:13:26.05 .net
>>887
九州、出雲、吉備、元伊勢(丹後)、伊勢(近江)、東海から奈良に集まった

989 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:14:10.28 .net
>>987
全く反論できてないですね
あなた

990 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
纒向王権も佐紀王権も河内王権も全部前代の埴輪工房使ったり古墳形状を真似てるから、連続性があることは明らかなんだよな。

要は党内派閥みたいなもんよ
「ヤマト王権党」の纒向派・佐紀派・河内派

991 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:15:04.37 .net
古墳時代に群雄割拠や戦国時代の痕跡などない

992 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>983
お前マジでバカだなぁ
個人的資質だけで統治できるのは弥生時代までだよ。ヤマト王権がなぜ三角縁神獣鏡を複製しまくって配布しまくってたのか考えてみるといいよ。互恵的関係じゃないと首長は付いてこないよ

993 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:15:44.73 .net
>>990
勾玉は?
墓が同じだから同じ国!なんて暴論が成り立つなら
勾玉の形が同じだから同じ国!も成り立っちゃうぞ

994 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:16:31.73 .net
>>993
頭が悪すぎる

995 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>993
墳丘上祭祀が銅鐸・銅矛祭祀を駆逐した理由を考えれば墳丘規格形態の重要性はわかるもんだと思うんだけど
馬鹿すぎるなぁ

996 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:17:43.99 .net
勾玉の形が同じだから同じ国!

良かったな、東遷説が成立したな
漢倭奴国は邪馬台国でヤマト王権で縄文時代から続く単一国家ってことだな!

997 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:18:11.43 .net
>>994
いや墓が同じだから同じ国!だって同じレベルの暴論だぞ
よく考えろよ

998 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:18:54.35 .net
>>997
全く話にならない

999 :日本@名無史さん:NG NG ?2BP(1000).net
https://img.5ch.net/ico/tona1.gif
>>997
そもそも同じ国だなんて言ってないし

1000 :日本@名無史さん:2024/04/17(水) 21:19:31.67 .net
ゲノム解析によって「古墳人」の存在が徐々にではあるが明らかにされつつある
考古学者の間でも古墳時代に靄がかかっているのは誰も否定していない

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