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邪馬台国畿内説 Part1013
- 1 :1 :2024/04/15(月) 15:12:30.26 .net
- 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1712914992/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。
- 179 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:05:49.85 .net
- ボンクラ盆地奈良県が邪馬台国?w
笑わせてくれる
- 180 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:08:10.49 .net
- ヤマトとはヘブライ語で神の民を意味する
九州にある山門の意味でのヤマトとは違う、神都ヤマト(大和=奈良)である
- 181 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:11:09.96 .net
- ボンクラ邪馬台国が最強ヤマトの奈良県?w
纏向は邪馬台国と比較にならんほど圧倒的に強い政権の本拠地だろ
どこぞの土蜘蛛とは違う
- 182 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:12:10.24 .net
- >>175
>はあ?君に質問しているだが
教科書を読めばいいだけでは?
- 183 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:13:24.25 .net
- >>178
仮に瀬戸内海を通って行ったなら、その周辺の国の名前がもっと記載されたはず
伝聞なんだろな
- 184 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:15:03.49 .net
- >>178
なぜいかなかったの?
- 185 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:16:00.38 .net
- そういえば奈良盆地でも南大和に大和の起源があるのも興味深い
南大和から遅れた北へ北へと北の平地を開拓していった日本の歴史もあるし
- 186 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:18:06.14 .net
- >>183
女王国や足摺岬までの里数は表記されたから行っている
投馬とヤマトは日数なので聞いただけ
- 187 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:18:38.49 .net
- >>184
伊都国に各国高官が集結したから
- 188 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:18:54.98 .net
- >>176
集権国家じゃダメだろw
- 189 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:20:56.48 .net
- 匈奴の連中らがこのあと漢の後継を名乗り出しその連中らが新漢人と呼ばれるようになる
- 190 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:21:29.40 .net
- もともとの中国にいたのは南人と呼ばれるようになる
- 191 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:21:51.80 .net
- >>182
ああ、自分では何も説明できないんだね
自分の言葉で説明できるようになるまで九州説の批判はしないように
議論すら成立しない
- 192 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:22:32.53 .net
- >>187
つまり伊都国が事実上の首都であり、卑弥呼もそこに滞在し、大和は首都としての機能を果たせてないと、そういうこと?
- 193 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:23:21.39 .net
- .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである
https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
- 194 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:25:31.85 .net
- >>183
瀬戸内海航路が使われるようになったのは6世紀ごろ
- 195 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:25:36.99 .net
- >>192
伊都国=NY
邪馬台国=ワシントン
- 196 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:27:50.74 .net
- >>192
卑弥呼は高齢なので行っていないだろう
会った者は少ないという記述がある
>>194
半島から大和まで行くなら日本海側からでもおかしくない
しかし、大和から九州に行くのに日本海を使うはずがない
- 197 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:32:35.35 .net
- >>196
神功皇后の三韓征伐も日本海側からだ
瀬戸内海を舐めるな
- 198 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:37:29.52 .net
- 神功が掘削開通させるまで、関門海峡は通れなかった
- 199 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:45:41.49 .net
- 邪馬台国ってしょぼかったんだな
最近は纏向の強大さよりしょぼさを邪馬台国に結びつける言説も散見するが、しょぼい遺跡なんぞいくらでもあるのだから纏向説は根拠を失いそうだけどね
- 200 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:48:51.43 .net
- 橿原の瀬田遺跡は纏向より古いから、初代政権が橿原なのも嘘ではないな
- 201 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:51:01.91 .net
- 重要なのは倭国の範囲でしょう
九州島が倭国の一部であったのは確実、
そして倭国が九州島までだったのか、九州から畿内まで統一されていたのか、が問題なところ
- 202 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:53:09.69 .net
- あいかわらず九州説の人は、いっさい理由を言わずに我流の結論を断定してるな
- 203 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:56:29.10 .net
- >>191
>ああ、自分では何も説明できないんだね
説明したけど?
「古墳時代が始まっちゃってるので九州説ムリ」
反論ができないなら、引っ込んでれば?
- 204 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:58:28.41 .net
- 所詮島国日本列島は
本当は本州島だが本州と省略してるだけだが
で隔絶された本州島は様々な気候、風土、、気質、食生活に分かれているだけだし
- 205 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 22:59:07.53 .net
- 伊都国から日本海ルートで丹後あたりまで行ったと仮定して
何故に九州を陸行してしまうのか
https://i.imgur.com/pP7T0uO.jpg
- 206 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:01:32.97 .net
- >>202
何の、どんな理由が知りたいのですか?
- 207 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:09:19.94 .net
- 邪馬台国も投馬国も日本にはねえよ
- 208 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:11:43.64 .net
- >>205
魏略では対馬、壱岐、松浦、伊都、奴、不彌、狗奴国まで行っている
魏志では伊都に直接行っている(それ以外は行っていない)
- 209 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:15:15.66 .net
- >>201
倭人在帶方東南大海之中
- 210 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:16:08.43 .net
- 聖徳太子は豊聡耳
甲斐の足が白い黒馬に乗り富士山から河内の磯長に降臨した
甲斐の地は高句麗の人々が沢山住んでいた地である
伊豆辺りは聖徳太子の領地で山神を祀り古い狩猟の祭祀が残っていたと伊豆国風土記逸文にある
伊予国風土記逸文には聖徳太子と高麗の僧、葛城の臣が道後温泉を訪れたとある
596年の出来事で、この年は孝徳天皇が生まれた年でもある
- 211 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:19:26.46 .net
- >>203
それ君の意見じゃなくて他人の受け売りでしょ
自分の言葉で中身を一言も説明できる
いくら何でもレベルが低過ぎる
- 212 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:20:10.37 .net
- >>211
自分の言葉で中身を一言も説明出来ない、だ
- 213 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:20:11.47 .net
- >>209
それは、倭国+倭種の範囲
- 214 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:27:40.90 .net
- >>210
7世紀ころ下層の高句麗難民たちが
大和政権の温情で静岡山梨辺りに移住させられてるな
で恩知らずなことばかりしでかす下層渡来人に怒りまくってるw
- 215 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:29:03.50 .net
- 上層ってどんなやつら?
- 216 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:33:18.68 .net
- 『正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物』
魏使の梯儁ら一行は、倭王卑弥呼に面会している。親魏倭王の金印などを下賜している。女王之所都(狭義の女王国=邪馬台国)に自ら赴いている。
- 217 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:33:33.41 .net
- >>215
内乱で母国が滅ぼさられた極少数の百済の王子などで
大部分の渡来人と呼ばれるのは下層な渡来人難民
- 218 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:35:31.99 .net
- >>217
下層民は、船がないので日本列島に渡ってこれない
- 219 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:35:35.91 .net
- >>206
>何の、どんな理由が知りたいのですか?
あなたが理由を書かずに書いた結論の、その理由
- 220 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:38:43.75 .net
- >>211
>それ君の意見じゃなくて他人の受け売りでしょ
誰の意見かなんて関係ある?
事実かどうかが重要でしょ?
- 221 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:38:50.56 .net
- >>218
来てるよ人数まで記録されてる
詳しく忘れたけど計1万人ぐらい
やっぱり管理名簿みたいなものが
7世紀頃には出来上がってたみたい
- 222 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:40:41.67 .net
- >>219
よく分からないが、あんたは、レスにも理由を書いてからすべき
- 223 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:40:49.74 .net
- >>212
>自分の言葉で中身を一言も説明出来ない、だ
誰の言葉かなんて関係ないでしょ?
事実かどうか以外に何か意味でもあるの?
- 224 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:42:21.52 .net
- 安本美典との対談の中での石野博信の発言
「纏向を130回ぐらい発掘したが、鉄のかけらもない。石器もない。これだけから考えると、纏向に住んでいた人々が、石も鉄も使ってないということなのか。そうではない思う。なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない。」
纒向からは鉄が出ない、これは重要な事実だ
実際、纏向は農具(少ない)も土木具(古墳を作っていたので多い)も木製だ
北部九州では当たり前に鉄製農具で農業を行なっていた時代に、だ
この文化の差は大きい
- 225 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:43:11.91 .net
- >>222
>よく分からないが、あんたは、レスにも理由を書いてからすべき
分からないのは異常に頭が悪いからかな?
「理由が書いてないから」理由を言えよってレスには理由が書いてあるでしょ
- 226 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:46:03.05 .net
- >>224
>纒向からは鉄が出ない、これは重要な事実だ
石野に「なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない」って教えてもらったのに
絶対考えたくないと
そう言うことですか?
- 227 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:48:54.12 .net
- 女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
女王国の東端は最大限東に想定しても伊豆半島迄なのがわかる
- 228 :日本@名無史さん:2024/04/15(月) 23:50:07.62 .net
- >>226
畿内説が考えないといけないんだよ
何か特別な理由を合理的に説明出来ない限り、3世紀の畿内大和は北部九州に文化的には大きく劣後していたことが(畿内説の大好きな)「考古学的に」確定する
- 229 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:01:10.60 .net
- 北部九州は倭国で確定しているが
畿内が倭国だったかどうかは未確定。
- 230 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:05:21.69 .net
- >>228
>3世紀の畿内大和は北部九州に文化的には大きく劣後していたことが(畿内説の大好きな)「考古学的に」確定する
どうして?
理由は?
- 231 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:05:24.73 .net
- >>224
> この文化の差は大きい
3世紀の九州倭国(魏志)
食飲用籩豆 手食
食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる
7世紀の東の倭種(隋書)
俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之
その風俗では皿や板台はなく、カシワの葉を敷く。食物は手を使って食べる
- 232 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:08:09.13 .net
- >>230
鉄の普及の雲泥の差
- 233 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:10:18.95 .net
- 箸墓伝説がでっち上げのデマだったとはな……
- 234 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:12:00.47 .net
- モモソもまるごと創作なんじゃね
- 235 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:14:48.59 .net
- 文化程度が東や北方に行くほど確実に低かった古代日本列島で
邪馬台国発祥の九州倭人たちが大和周辺に初めは移住し
九州より広い平野を利用して生活文化を進化させてあげていったんだろうマジ
中国と海外交流させ自らの力で出来なかったであろう大和盆地の土着民じゃ文化を精錬できない
- 236 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:40:32.48 .net
- >>213
魏略は倭在
- 237 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:44:14.12 .net
- >>224
鉄も石も無いと建物建てられない
- 238 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:44:31.54 .net
- >>234
モモソヒメは崇神が見た夢の話
- 239 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:45:38.71 .net
- >>228
>>237
- 240 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:46:10.51 .net
- 箸墓=卑弥呼の墓は、福永伸哉の妄想
- 241 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:47:53.58 .net
- >>235
銅鐸作ってるから
- 242 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:49:01.12 .net
- まあいいや
- 243 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:49:24.73 .net
- >>236
「倭国」じゃない
- 244 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:50:19.32 .net
- >>230
石野にせっかく「なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない」って諭されたのに
絶対考えないままだから
九州説は畿内説に歯が立たないままなんだよ永遠に
- 245 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:53:11.35 .net
- 畿内説はじゃこの拠り所だもん
お話にならない
- 246 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 00:57:36.98 .net
- >>243
宋書 倭国在高驪東南大海中
隋書 俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
旧唐書 倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中
- 247 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:03:28.40 .net
- 倭王讃の祖父が東西121国を平らげた後ではな
- 248 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:03:31.20 .net
- >>246
宋書以降は時代が違う(畿内が首都)
>>236
ちなみに、魏略の該当部分は残っていない
それは翰苑所引の後漢書の部分でしょう
- 249 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:05:35.28 .net
- >>248
なんにしても間違いなく東南にあるんだよ
これはずっとぶれない
- 250 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:09:42.00 .net
- 畿内説の弱点は、日本書紀に卑弥呼にあたる人物や事績が記載されてないことだなぁ。
中国に冊封されていた事実を隠したいから、あえて載せなかったという人もいるけど、神功皇后に卑弥呼を当ててるから、こうとも言えないだろう。
やはり卑弥呼はヤマト王権とは系統が違う勢力の長だったと思うよ。
福岡の一部と佐賀の一部をまとめたオンナ酋長の物語なのだなぁ。
- 251 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:11:17.79 .net
- >>250
どっちなんだよ?
- 252 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:11:50.06 .net
- 漢書 分かれて100余国
後漢書 100余国
魏志 ふるくは100余国
隋書 クニは120人いる。中国でいう牧宰(国司)のようだ
※国造は140人ほど
- 253 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:19:33.97 .net
- >>250
なんで、そんなもんが弱点?
- 254 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:21:26.20 .net
- 漢書 樂浪海中有倭人
後漢書 倭在韓東南大海中
魏志 倭人在帶方東南大海之中
倭王讃の祖父が東に55国、西に66国平定する前は
「倭国」じゃなくて「倭人」とか「倭」なんだな
- 255 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:29:00.80 .net
- >>254
一応、倭國王帥升というのもいるけどなぁ。だだ、倭面土國王師升の間違いだろうとする学者も多いがね。
いずれにしても、倭王と倭国王ではゼンゼン意味が違うらしいなぁ。
- 256 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:30:51.32 .net
- >>254
>王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
>其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
>正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
書き込みをする前に原文を検索してみよう
- 257 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:30:51.37 .net
- 東に55の集落、西に66の集落か?
- 258 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:31:41.97 .net
- >>254
倭人伝に倭国の記載あり
- 259 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:32:18.47 .net
- 秦氏の名は西暦600年ころには現れるがそのあとはまったか名を聞かなくなったぞ
没落したんやろ
- 260 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:32:50.26 .net
- 卑弥呼の女王国は30国
- 261 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:33:59.27 .net
- 卑弥呼が畿内にいたとしたら、日本書紀にいろいろ載ってるはずと考えてもおかしくないだろう。
冊封されたことはかけなくても、共立されたことや、狗奴国との対立、もとより和せずとする卑彌弓呼についてや、難升米や都市ゴリにあたる人物、そういったエピソードが記紀に全くないのは、不思議だとは思わんかね?
- 262 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:34:03.41 .net
- つまり東南大海の中にあるのは倭とか倭人だったんだな
- 263 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:36:33.13 .net
- >>261
(冊封されたのは)神功天皇かなあ?って書かれてるから隠したかった説はどうだろうか
- 264 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:40:34.00 .net
- 記紀は藤原氏のファミリーストーリー
藤原不比等の孫やひ孫が天皇に即位した時と重なる。さて藤原氏と卑弥呼の関係とは?
- 265 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:44:39.22 .net
- >>261
倭の五王も記紀には書いてない
- 266 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:51:38.70 .net
- 認識の違いがあるのね
俺は属国の歴史なんかそら書けないだろうと思うけどな
- 267 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 01:57:49.06 .net
- 国体護持・・・言葉通りでこれが無いと国の体を成さない
- 268 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:03:29.18 .net
- https://www.lettuceclub.net/news/article/1138366/i11779611/
- 269 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:18:01.44 .net
- https://www.lettuceclub.net/news/article/1138356/p2/
これだな
- 270 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:22:23.22 .net
- >>261
第一回遣隋使も日本書紀に記録されてないけど
- 271 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 02:35:24.57 .net
- >>270
書けないような屈辱的な事があったんだろうな
それで2回目が「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」だもんな
- 272 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 05:52:26.70 .net
- >>230
石野にせっかく「なんか別の理由があるはずである。なぜかを考えなければならない」って諭されたのに絶対考えないままだから
畿内説は九州説に歯が立たないままなんだよ永遠にw
- 273 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:32:59.16 .net
- 庄内併合期ではまだ九州に劣後すると言う学者はいても、布留ゼロ以降に九州に劣後するという学者はいない
黒塚、桜井茶臼山、椿井大塚山、ホケノ山からも明らか
- 274 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:43:05.69 .net
- >>264
藤原氏の系譜を辿ると先祖の天種子命が枚岡神社に祀った中に比売神があるが、これが卑弥呼かもしれない。
- 275 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:48:34.61 .net
- >>140
倭国は倭人の国くらいの意味だから
邪馬台国の南の狗奴国も東の海を渡った先の倭人の国も倭国だろう
- 276 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:49:56.89 .net
- >>166
全然根拠になってない
- 277 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:55:00.81 .net
- >>270
つまり第一回遣唐使は日本書紀古事記を編纂した天皇家ではなく
大化の改新で滅ぼされた蘇我氏が中心となって行われたんだと思うわ
蘇我入鹿はチョー悪人なんで一族郎党滅ぼしたわ
というストーリーに
偉大なる第一回遣唐使は蘇我入鹿によって行われました
という前振り入れられないからなw
- 278 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 06:56:31.16 .net
- 庄内併合期、北部九州では銅鏡の多量副葬はなくなるが(平原王墓を最後に)、いまだ漢鏡6期までの銅鏡を北部九州は多量に出土するとアンチ畿内自生説の学者は言う
アンチ畿内自生説の学者は、卑弥呼の遣使以降は画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡に一気に変わり、かつ畿内が圧倒し始めると述べる
ここの理解が難しい
桜井茶臼山、黒塚、椿井大塚山の多量の銅鏡が、魏帝と交流を持ち始めた程度でそんなにアホみたいに銅鏡がもらえたり、あるいは日本で作られるようになるのかと
卑弥呼の遣使前に、すでに畿内はある程度多量の銅鏡を保有していたと見るのが自然なように思われる
- 279 :日本@名無史さん:2024/04/16(火) 07:01:08.66 .net
- ホケノ山古墳で明らかなように前方後円墳「有棺石槨」(木棺を石槨で保護)は、邪馬台国「有棺無槨」(棺を土に直接埋葬する甕棺墓や石棺墓)の象徴ではありません。
つまりヤマト王権と邪馬台国は別の王権ということになります。
3世紀初頭の日本列島には、筑紫邪馬台国と本州(女王国東渡海千里、複有国皆倭種)のヤマト王権〔大和唐古鍵を征服した吉備王権=直弧紋+吉備特殊器台+三角縁(銅鐸の外縁部鋸歯紋)神獣鏡〕が並立していたと考えられるのです。
247年、台与は肥後狗奴国の卑弥弓呼・狗古智卑狗(菊池彦)を制圧したお祝いに魏帝曹芳から曹操鉄鏡(台与=豊の国【日】田出土)を貰い、世襲ではなく共立で、しかも巫女だけに世継ぎのいないことから脆弱な権力基盤ゆえ、将来の王位継承戦争「倭国大乱」の再発を危惧して、266年(後ろ盾だった)曹魏が重臣の司馬晋に禅譲して消滅したことに倣い、本州の覇権を確立したヤマト(吉備)王権に倭王位を禅譲したわけです。
そして新旧の倭王権で揃って西晋に朝貢し、吉備ヤマト王権の初代大王が筑紫邪馬台国を吸収合併して、武帝司馬炎の冊封を受け、国号「邪馬台(背振【山】南麓の舌状【台】地)」→大和(山門⛰⛩⛰二上山)も継承したのです「複立男王 並受中国爵命」。
その結果「ヤマト王権=邪馬台国」の幻想が生まれ、今日の畿内(筑紫邪馬台国=ヤマト王権混同)説に至っているのです。
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